B212 『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』

篠原 雅武 (著)
以文社 (2016/12/12)

『公共空間の政治理論』を読んでから気になっている著者が気になっているというティモシー・モートンの思想を紹介するような内容。たぶん、自分も何かしら感じるものがあるだろうと思い読んでみた。

あらゆるものが、ただそこにあってよい

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(p.212)

この本を読みながら、絶えず門脇邸のことが頭に浮かんでいた。
と言っても、門脇邸を実際に体験したわけでもなく、SNS等でいくつかの感想や写真を目にした程度である。
どうやら、様々なエレメントがそれぞれがそれぞれとして振る舞い、そこにいても良いと感じさせる何かを生じさせている。らしい。

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

あらゆるものが概念とは関係なくただただ、そこにある。そこにあってよい。

著者はそういう姿勢や空間に自分の居場所の感覚を重ね合わせているように感じたけれども、そこで生じた見逃しそうな小さな感覚を、しつこく、丁寧に言葉にしていこうという姿勢にはとても共感する。

また、建築という概念がフレームになるとすればそれ自体がブラインドになってしまうのだろう。そうならずに建築を追い求めるというのはどうすれば可能になるのだろう。
この問いは、エコロジーという概念とモートンが目指すエコロジーとの関係にも重なる気がする。

とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。




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