近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)

能作 文徳 (著)
トゥーヴァージンズ (2021/2/10)

現代建築家コンセプト・シリーズの一つであるが、いわゆる建築家然とした作品集とは異なり、エッセイ集のような体裁である。
ここでは断片的な写真とともに、著者の現時点での思想が表明されているが、それに対して自分との距離のとり方が分からないかもしれないという気がして手を出せずにいた。

それが最近、著者の問いかけに対して興味が持てそうな予感がしたので、おそらく今が読むタイミングだろうと手にとってみた。

事物を追うものとリアリティ

前回の『ブルーノ・ラトゥールの取説』は、ある意味これを読むための下準備でもあったのだが、ラトゥールの自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定する思想に触れた上で、建築家は「Form Giver」(形を与えるもの)であることに先んじて「things Follower」(事物を追う者)であるべきであるという。
そこで目指されるのは「すでに確定された「原型」の建築ではなく、ありあわせのものをその都度集めた「雑種」の建築」であり、それは「ただの集積ではなく、物質やエネルギーの摂理に沿った精緻なデザインであるべきである」という。

それは、おそらくあらゆる事物の存在を認めた上で事物そのものにフォーカスし、解像度を高めて取り扱う態度のことであろうが、その先で建築の形は「事物連関の中から湧き上がり、事後的に結晶化されるべきである」とされる。

近代を手放そうとした先で、何が建築を建築たらしめることができるのか、というのが私の大きな関心の一つであるが、この、事後的に、結晶化されるべきである、という言葉に、著者の建築を追い求めようとする意志を感じる。(ただし、結晶化のイメージは固定的で完結するようなイメージではなく、生成の原理の中にあるものだろう。)

「Form Giver」である前に「things Follower」であれ、ということに近いことを、佐々木正人がリアリティーのデザインに関するところで言っているのを思い出した。

デザイナーは、道具の要素である「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。( 『アフォーダンス-新しい認知の理論』(p.105))

著者の言う、「雑種」の建築は、近代化の過程で事物そのものから失われてしまったリアリティを再発見しようとするものかもしれないが、そのような感性は急速に存在感を増しつつあるように思う。

近代化の還元主義がそういった事物のリアイティを覆い隠してしまうことによって成立していたのだとすると、いよいよそこから目をそらし続けることはできない時代に突入しつつある。

それに対して独自の思想とスタンスを築きつつある著者の動向には今後も注目していきたい。

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