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2023年まとめと2024年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくるを実践する


少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

昨年に引き続き、昨年1年間で考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
昨年の2022年振り返り記事
2023matome,pdf

2023年振り返り

昨年の行動指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」でした。
また、考えることとして
・環境という言葉に対し、足場となるような自分の言葉を見つけ、思想、理論、技術、直感のサイクルをまわすこと。
・これまで考えてきたことと、環境に対する考え方の接点を見出し、統合すること。
の2つをテーマとしていました。

行動指針に関しては、「遊ぶように生きる」という点ではテンダーさんがご近所だったという幸運も重なって思ってもいなかったことができたように思いますが、「遊ぶようにつくる」という点では実践する機会が少なかったため、今年は力を蓄える1年になったと思います。
具体的には、
・日置のオフィスを改装し、畑や環境に関する実験を始めた。
・別のCADにしか対応していなかったオープンソースの環境シミュレーションのプラグインを、いつも使っているVectorworksで動くように改造・移植した。(プログラミングのスキルも上がった)
・arduinoというマイコンボードを使って、センサリングによるデータ収集や、リアルタイムデータを反映した機器の制御ができるようになった。
・頂いたカッティングプロッタを使っていろいろなものが切り出せるようになった。
などで、これまで机上で考えていただけのことがリアルな世界と接続できるようになってきましたし、どんな変化があるか分からなかった事務所移転にどんな意味が生まれるかも少しづつ見えてきました。

また、考えることのテーマに関しては、昨年は28冊の読書記録を書いて、何とか、これまでと最近考えたことの接点を見つけることができたかと思います。

▲昨年の読書記録
これらを1枚にまとめたのが冒頭の画像・PDFになります。

2024年の指針

昨年まとめたもののキーワードは、遊び、想像力、はたらき・運動性などですが、これらはこれまで建築について考えてきた際のキーワードと重なります。(重なるものを探してきた、ということでもあると思いますが)

その上で、来年の指針を考えようと思ったのですが、来年も引き続き「エコロジカルな言葉と思想をもとに、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」を指針としつつ、その実践に重心を置いて具体的に動いていこうかと考えています。

本年もどうぞよろしくお願いします。




脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




建築を遊ぶために B268『意味がない無意味』(千葉雅也)

千葉雅也 (著)
河出書房新社 (2018/10/26)

オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。 オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

前回読んだ『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』に関連して購入したものだけれども、読み始めてから読み終わるまでだいぶ時間が経ってしまった。
読みはじめの頃は何かを掴みかけていたけれども、それがぼんやりとしか思い出せないので、書きながら思い出していきたい。

まず、下記の部分は撤回が必要かもしれない。
オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。

『意味がない無意味』の「はじめに」で著者が書いているように、私にとっての著者の魅力は抽象的な概念と具体的なものの間を行き来することの大切さ・面白さを体現してくれているその姿勢にある。

世界をどのように捉えるかの存在論は抽象的な言葉遊びというよりは、どのような姿勢で世界に存在し、どのように思考し行為するか、という根本的なあり方そのものを問うていて、具体的なものとは切り離せないのではないか。というようなことを著者は感じさせてくれる。

そういう意味では、先の文章は抽象的な思考に対するイメージが先行しすぎていたかもしれない。

「意味がない無意味」に何を掴みかけていたか

さて、「意味がない無意味」は無限に多義的な「意味のある無意味」、ブラックホールのような穴に対して、穴を塞ぎ有限性を身にまとうための石である。(表現として的確ではない言葉があるかもしれないけれども、断定的には書いていきます。)
「意味がない無意味」、穴を塞ぐ石としての身体が、意味を有限化し行為を実現する。

その「意味がない無意味」に何を掴みかけていたのか。

今年の指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」とし、山間の中古住宅を購入し、馬屋を改装し、事務所を移転したが、そのことと関係がありそうだ、と感じたのは間違いない。

遊ぶということは、ある部分での解像度を高めつつ、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを回していくことである。
それは、目の前の有限的で具体的なものとまさに遊ぶように向き合うことで、解像度を高めつつ染み出してくる有限性もしくは偶然性そのものを楽しむことであり、そこにはある種の快楽がある。
そして、それは無限の穴にハマルことなく世界と向き合うことを可能としてくれる。

自分の子供たちもそうだが、今は、そういう風に世界と向き合うことの経験が圧倒的に足りていない、と感じる。
あらゆるものがお膳立てされ、低解像度のまま生きていくことのできる世界で生かされ、唐突に世界へと放り出されても、穴に落ちずに生きるすべを知らずに、場合によっては一つの解釈xにしがみつくしかなくなる。

そういった生き方もありかもしれないけれども、そこでは想像力はむしろ穴へと続くものになり、おそらく生きていく足かせとなるだろうし、具体的なものとの接点を持たない想像力はおそらく世界を好転させず、世界の豊かさにふれる機会も貧しくする。

「意味がない無意味」の権利を認めること。
それは、今を生きる人の一つの作法となりうるように思うし、そうでなければ酷くつまらない世界、もしくは空気になってしまいそうだ。
(著者は、そういう空気に対して敏感で、かつ向き合うすべを開拓しているように思う)

「意味がない無意味」と「決定する勇気」

建築について。

自分は、関係性を開き、多様で多義的であることを受け入れるような建築を目指そうとしていると思っていたが、少しぼんやりしていたかもしれない。

関係性や多様なものに開くと行っても、無限に多義的なブラックホールに向かうのではなく、むしろ、いかにそれらを切り取り、有限化していくか、ということが重要だろう。

もちろん、ファルス的な単一のオブジェクトを目指しているのではないし、無限に関係性に溶けていくようなものを目指しているのでもない。

ここで『吉阪隆正とル・コルビュジエ』を読んだときの感覚を思い出す。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。
『彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。』
『吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。』
多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。 彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。 吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。 多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。

自分がコルや吉阪に惹かれるのは、こういう遊びを決定へとつなげる勇気に対してだと思うが、それが簡単ではないことも分かる。

<必然>や<使命>に還元せずに、建築を建築足らしめるには、おそらく本気で遊び、解像度と密度を高めていくこと以外にないし、失敗すれば単なる趣味の世界のおままごとに終わる。

自分はまだ本気では遊べていないし、解像度も決して高くはない。

果たして自分にできるだろうか・・・ もっと学び遊ぶしかないな。




近代と遊びとエコロジー ~解像度についてのメモ

・近代は分断によってブラックボックス化とアウトソーシング化を進めることで、さまざまなものごとに対する解像度が低いままでも生きていける状態を必死で作り上げてきたと言える。あらゆるものごとが便利になった。

・遊びとは、ある特定のものごとに対する解像度を高めていくことだと定義してみる。そうすると、近代はあらゆる場所から遊ぶ機会を排除してきたと言えそうだ。

・エコロジーは近代によって不要とされてきた解像度を再び高めていくことからスタートする。まずは目・感度を養うことが重要。

・そうすると、エコロジーと遊ぶことはかなり近いところにありそう。

・昔から便利さにある種の危うさを感じていたこととも関係があるだろう。

・住まうこと(使うこと)の半分は建てること(つくること)の中にあり、そこに人間であることの本質がある、というようなことも、解像度を高めることと関連して考えられそうだ。

・エコロジカルに遊ぶことが人間にとって本質的なものだとすると、このままそれらが置き去りにされたままで果たしてよいのだろうか。

・自分たちは別に良いとしても、子供たちに渡すべきものを半分置き去りにしてしまっているとしたらどうだろうか。

・今年掲げた「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」ということが少しだけ見えてきた気がする。




それでも建築をつくるために B266『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』(塩崎太伸)

塩崎太伸 (著)
NTT出版 (2022/9/28)

ツイッターで見かけて面白そうだと思い購入。建築・都市レビュー叢書は意外にも初めて。(他のも面白そうなので読んでみよう)

それでも建築をつくるために

本書の序盤では、例えば、差異から類推へ、外在性から内在性へ、要素論から構成論へ、というようなキーワードが出てくる。
それは、近代的な分断の思考から距離をとるための態度だと思うけれども、一旦距離を取ったその先で、それでもなお建築であることは可能か、というのは自分にとって重要なテーマである。

分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。
ぼんやりとしたイメージやアプローチするきっかけはあるものの、具体的に設計を進める上での拠り所が何か欠けている。
そんな風に感じている。

それに対し、著者はそれでもなお建築であるための可能性を、名づけという独特の言葉を使って探っていく。
著者は私と同年代でもあり、ある程度問題意識は重なっていると思うが、本書はその「それでもなお建築をつくる」ための探究の書と言ってよいかと思う。

以下、本書を読んで考えたことを書いておきたい。

所有から保有 名付けによって所有の概念に隙間を与える

名づけは3者間の重なりがあるところに生まれるが、他者が介在せず、所有と使用が一致する時には名づけは必要とされない。

これまで何度か書いてきたけれども、例えば土地や建物が所有の概念に縛られ、それが表出している街並みには何か息苦しさを感じる。
そんな中、(流行りの面もあると思うけれども)それまで所有(property)されていたところに、名づけをすることで他者が保有(possesion)できるような状況が生まれつつある。

所有権を放棄するわけではないが、他者と保有しあえるような名づけをすることで、所有の概念に隙間を与え、息苦しさを緩和しているようにも感じる。

まずは、名づけは、所有の概念から離れ、他者と何かを共有するための作法と言えるかもしれない。

名づけとは何なのか

いや、そもそも名づけとは何なのか。そのあたりが若干掴みにくけれども、具体的な名づけという行為そのもの、というよりは、名づけという行いの周りで起こる概念や関係性の変化のようなものをふわっとひっくるめて名づけと呼び扱おうとしているように感じた。
それは、おそらく名づけなくてもいいし、他の何かでも良いのだろう。とりあえず、そんな感じのものを名づけと呼んでいる、ということにしたい。

名付けには3者が必要である。例えば、私とあなたがいて、何かを共有しようとした際に名づけが生じる。
それは、以前書いた、間合いに少し似ている。

また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

間合いにおける2者の間にも3つ目の何かがある。それは、剣であったり、役であったり、空間であったり、リズムであったり。

とすると、名づけにも固定化しない距離の作法としてのリズムのようなものがあるかもしれない。

名づけてしまうことは距離の仮固定とも言えそうであるが、距離が定まってしまえば名づけの必要はなくなってしまうだろう。
もしかしたら、名づけが名づけであるためには距離を固定化しない名づけであることが必要なのではないだろうか。もし、名づけによって新たな一極が生まれてしまうのであれば、単なるイス取りゲームになってしまうだけである。

また、名づけは重なりに生まれる。
空間と言葉、建築と設計者、都市と社会、私とあなた、Aと非A――そして、未来の記憶との重なり。

切断された何かと何かの一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考。
それは、今年の目標である、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、越境者として遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということとも重なりそうである。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。
そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる)

名づけはおそらく遊びのようなものになるのだろう。

みつめ方のリフレーミング 未来の記憶へ

さて、前置きが長くなったけれども、分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。そのヒントを考えてみたい。

本書では、建築に関わる既存のフレーミング、空間・かたち・尺度について、モダニズム的な建築教育で身についてしまった思考から自由になるような、名づけを通した見つめ方を検討している。

・空間の名づけ 空間と場所を重ねる
建築家のよく使う言葉として、空間というものがあり、対する言葉として場所という言葉がある。
場所に対して空間はより建築的であると感じるが、リノベーションブームを通じて場所の持つある種の豊かさが注目されたりもした。
空間は建築、場所は建物である、と言ってもよい。
建物が建築になる瞬間に立ち会いたいと思いつつ、場所の持つ豊かさも見逃せないと思う。

この2つの言葉に対し、著者は、空間を「ところ」と「ところ」の関係性、場所を「ところ」と「非ところ」の関係性と整理し、「ところ」と「ところ」の関係性がおおい「ところ」は「空間み」が大きく、「ところ」と「非ところ」の関係性が少ないところは「空間み」が小さいとする。(スペーシングというみつめ方)

たしかに、純粋に「ところ」同士の関係性でつくられ混じりっけのないものは、強く空間を感じより建築的だと感じやすいし、既存の雑多な関係性を引き継いだリノベーションのように「ところ」以外のものとの関係性が豊かなものは、場所性を感じ、建築というよりは建物というように感じる。

空間か場所か、建築か建物か、という2項対立的な思考を、空間みという程度の問題、重なりの思考にスライドさせることである種の呪縛から少し自由になれる。

・かたちの名付け 思考を示す言葉と形態を示す言葉を重ねる
形態が恣意的であるかどうか、というのもこびりついてしまったトピックで、建築が自律性を確保するために、恣意性を排除しなくてはならない、というのも呪縛の一つであろう。
恣意性を排除するために、何かかたちを決定する理由が必要を求め、いわば他律的に形態を決定するが、ここには自律性の確保のために他律的であろうとし、逆に建築の形態を建築の形態そのものとして扱うことは恣意的にみえる、という混乱がある。

それに対し、著者は、恣意的であると感じるのは「かたち」が「かたち」との関係で位置づくときであり、「かたち」が「非かたち」との関係で位置づくときに恣意的と感じにくいと整理し、恣意性を「かたち」が何との関係で位置づいているか、という程度の問題、重なりの思考にスライドさせ、恣意性とはその程度に対する一つの名づけでしかないとする。(シェイピングというみつめ方)

・尺度の名づけ 対象のスケール(サイズ)と関係のスケール(プロポーション)を重ねる
尺度・スケールに関しては、2項対立的なイメージがあまりないのでそれほどしっくりきていないけれども、とりあえずメモしておく。

スケールに対しては、「対象」と「慣習」との関係によるものを「対象」のスケール(サイズ)、「対象」と「対象」との関係によるものを「関係」のスケール(プロポーション)と整理し、これも「おおきさ」の度合いとして重ね合わせる。(スケーリングというみつめ方)

空間・かたち・尺度について、それぞれのみつめ方、名づけが検討されるが、そこにあるのは様々な関係性である。
著者は、関係性に名づけを行うには、それをものとして扱う必要があり、我々はそういう扱いの訓練をしてきていないという。
著者が実際の設計の場面でどのような名づけを行っているかわからないが、関係性を言葉としてどのように発見するか。そういう訓練が必要なのかもしれない。

コンセプトから形式へ 類推論的転換

コンセプトとは何なのか。実のところよく分かっていない。

設計主旨と呼ばれるものは、整理した要件に対する応答でしかなく特別なものではないように思うし、個人の「やりたいこと」はコンセプトと呼ぶに値するものとは思えない。
コンセプトを書け、というような教育を受けてきたような気もするし、(少なくとも私のいた大学では)それすら求められてなかったような気もする。
それでも、何かしらコンセプトというようなものを主体的に設定し、それを形に投影せねばならない、というような空気は確かに存在したような気がする。

著者はコンセプトの投影により、条件から形を導く流れに対し、形式の類推・引用によって、形から条件を導くような流れを推奨する。

この、「ちがう」と思われているものが「おなじ」であるような世界の重なりを想像していくアナロジカルな転換は、帰納的思考、演繹的思考の対立、

ア. 部分から全体へ 連結 帰納(induction)
イ. 全体から部分へ 分割 演繹(deduction)

に続く第三の思考

ウ. 集まりから重なりへ 類推 仮説(abduction)

として捉えられている。

ここで、ある種の価値観や優劣を含んだ言葉を重ね合わせ、類推と仮説によって関係性に新たに名づけを行う効能とは何だろうか。

形から重なりの豊かさを見つけ出しながら、それを再び形へとフィードバックしていくようなサイクルをくりかえすことによって、いくつもの重なりを浮かび上がらせる。
それは、ある種の価値判断が染み込んでしまったものを解きほぐしながら、フラットに、そして自由にふるまうための作法のようにも思える。

そこでは名づけによって価値を与えるというよりは、名づけること自体に意味があるのだろう。
そう考えると、本書で挙げられている建築家による名付けの例も、著者が

いつか、「やりたいこと」よりも、物そのものを建築と呼べる瞬間に立ち会いたい。(p.291)

というように、そうい瞬間に立ち会うための言葉のように思える。
いつの時代の建築家も、最後は物そのものと向き合うためにこそ、言葉を紡いで来たのだと思うし、時代によってその表れ方が変わってきているだけのようにも感じる。

なので、もしコンセプトというものがあるのだとすれば「物そのものと向き合うこと」というようなものになるかもしれない。
そのために様々なアプローチ・手法が存在する。

また、これまでの議論にならえば、コンセプトから形式への話も、「条件」から「形」が導かれるものを「コンセプトの投影」、「形」から「条件」が導かれるものを「形式の類推・引用」と整理し、例えば「コンセプトみ」や拘束度のような程度の問題、重なりの思考にスライドさせることもできそうな気がした。(ガイディング?)

これまでの思考との重なり

さて、それはさておき、本書の内容に対し、これまで考えてきたこととの重なりがいくつか見えてきたのでメモしておきたい。

・オノマトペという名づけ

モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

隈研吾のオノマトペは名づけの一例ではないだろうか。ここでの「物質を経験的に扱う」という捉え方が名づけにおいても参考になるかもしれない。あるいは経験(関係)を物質的に扱う、となるだろうか。

・「複合」というコンセプト

以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここでは、生態学的な視点からコンセプトを「複合」あるいは「不変更」として、発見的、類推的に捉えている。

そうするとコンセプトから形式へ、というよりはコンセプト自体を投影的なものから類推的なものへのグラデーションと考えたほうが個人的にはしっくりくるかもしれない。

・名付けによるネットワーク

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro))

「複合」もしくは「不変更」あるいは「類推」による名づけは、ネットワーク内のある要素間を糸もしくは道路でつなぐようなことなのかもしれない。
その際の名づけ方・つなぎ方を「つなぎかえ」「近道」あるいは「成長」「優先的選択」として整理した上で目指す空間をイメージできるようになれば面白そうだ。

・寺田寅彦のアナロジー

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

このあたりにもヒントがありそうだ。
分かったことにしない「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持し、見る眼を形成する。
名づけはおそらく眼の問題なのだろう。

・レトリックという名づけ

レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。
設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明))

レトリックも名づけの一例として考えられそうである。
名づけが眼の問題とすれば、探索し発見する技術としてのレトリックは相性が良さそうに思う。

・ニューカラーとブレッソン

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

この頃、ブレッソン的/ニューカラー的という視点とその重なりを整理したいと思っていたけれども、本書はまさにその部分に切り込んでいる。

・内在化と逸脱

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

投影的手法と類推的手法は内在化と逸脱と重ね合わせて考えてみると面白いかもしれない。
4象限マトリクスで捉えることで手法的に展開することはできないだろうか。

他にも、「出会う建築」で考えたことと重なりそうなものはたくさんありそうだ。

「出会う建築」で目指す姿勢と建築の方向性についてはある程度考えることができたと思うけれども、では、それをどうやって建築にするか、という手法的な部分のピースはまだ欠けているように感じている。

本書はそのピースを埋めるための一つのヒントになりそうな気がする。

名づけは設計プロセスにおける設計者自身の「からまりしろ」のようなものではないか、という気がしているのだけど、とりあえず設計の際に名づけを行う練習をしてみよう。
形が現れた後に名づけを捨て去っても、そこに何か「未来の記憶」のようなものが残ったとしたらうまくいったと言えるかもしれない。

(著者自身の設計プロセスに対してはあまり触れられていなかったけれども、それが知れるものがあればみてみたい。)




2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる


2022年は環境という問題に対しての自分なりの指針を作ることが目標だったのですが、今年はじめに昨年、本を読み考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
2022matome.pdf
それを今年の指針としたいと思います。

遊ぶように生き、遊ぶようにつくる

人新世を『「それ以外の世界」と生活世界を分断する近代的世界観による時代』として捉えた時、2つの世界の間の矛盾を生き、脆さを受け入れるような態度が必要になってきます。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。

そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。

遊ぶように、ということ

遊ぶように、と言っても悠々自適に好きなことをやりたいようにやる、ということとは全く違うように考えています。
遊ぶとは、目の前の未知なる状態を受け入れ、それと向き合いながら、自己と環境を自在に変化させていくことであり、そのためには、自分の思考とルーティンを疑い変化させて行くことが必要です。
そのために生活に変化を与えようとしているのですが、この先どうなっていくかというのは明確には見えていません。むしろ先が見えていないことそのものに価値があるということが重要です。

まだ、これまでの生活に引きづられて自分の思考とルーティンを大きく変えるようなところまでは行けていませんが、今年は遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、を指針として変化を楽しんでいきたいと思います。




ぷち2拠点生活始めます


今年に入ってから、生活に変化を、と思い山間の土地を探していたのですが、昨日、日置市吹上町の与倉の土地・建物の売買契約をしてきました。
右の赤い建物(馬屋)の裏に母屋がついています。
この馬屋が気に入ったのですが、左の小屋と小さな畑の土地もおまけでつけてもらいました。

居住は今の小松原の自宅兼事務所のままで、事務所機能をこちらに移して通う予定です。
まだ、どういう形で活用するか考え中ですが、とりあえずは通いながらゆっくり考えたいと思います。


この山にやんわりと囲われながら少し開けた感じに一目惚れしたのですが、もしかしたら子供の頃、奈良や屋久島で過ごした風景と何か通じるものがあったのかもしれません。
近くに川や神社があることもポイントが高く、春にはホタルが舞うようです。

小松原から20分ほどで通える範囲で、鹿児島市の同程度の土地建物に比べたら十分の一程度の価格で新しい生活が可能です。
そういうライフスタイルの一例になれたらと思っています。(あわよくば仕事にもつながれば)

まだ、残置物の処分や決済等が残っていますので、移転は来年になってからだと思いますが、住宅もついていて宿泊も可能ですので、よろしければ遊びに来てください。

楽しみだなー




世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)

河野 哲也 (著)
東京大学出版会 (2022/3/14)

2013年に刊行された『知の生態学転回』三巻本の続編とも言える新しい九巻シリーズのうちの一つ。
一気に全巻は難しいと思い、まずはそのうちの一冊を買ってみた。
(前回のシリーズも購入前はきっと読むのに苦戦するだろう、と思っていたけれども読み始めると面白くてどんどん読み進められたので、今回のシリーズも期待している。)

間合いとリズム・流れ

間(ま・あいだ・あわい・はざま)とは、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、拮抗する力が動的に均衡している様子である。日本語における、ま・あいだ・あわい・はざまといった読みのそれぞれには異なるニュアンスがあり、間に対する感覚の豊かさが表れている。
また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。

では、どのように間合いを捉えるか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。

このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。

ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。
アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。

本書では、このような感じで、環境と自己との関係を気象学や潮流の海洋物理学といった分野からアプローチするようなイメージが提出される。(ここまでの記述では意味が分からないと思うので関心のある方は本書を読んでみてください。)

残念ながら、それぞれの学問分野によって具体的にどのように記述可能か、という肝心の部分はほとんど触れられていないが、まずは、このイメージの提出によって何かを拡張させることが目論まれているはずである。

それは、動物の視点からみた環境との関わり合いを個別瞬間的に捉え、記述するようなイメージが強いアフォーダンスに、流体のイメージを重ねることによって、空間的および時間的に俯瞰・継続しながらアフォーダンスを捉えるイメージを付加しようとするものではないかと思う。(といっても、アフォーダンスが個別瞬間的な範囲に限定された概念であった、と言うことではない)

あるいは、本書では特別言及されてはいないけれども、オートポイエーシスのようなシステム論的な思考への接続が目指されているように思う。
本書でも、カップリングや産出、構成素といったシステム論における用語が(特段の説明がないまま)使用されており、オートポイエーシス・システムのようなものが前提とされていると思われるが、それによって、アフォーダンスを空間的・時間的に拡張するイメージを組み立てることが可能になっているように感じた。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成))

このブログでアフォーダンスやオートポイエーシスに触れるたびに、両者の相補的な性質・相性の良さを感じながら、あまり交わったものをみないことを不思議に感じていたし、自分でも両者を交えた形で書くことを試してはいただけに、両者の接続は個人的には好ましい傾向であり今後の転回が楽しみでもある。

環境における無心としての主体

また、間合いやリズムを通じて、デカルト的な心身二元論ではない主体の概念を再提出することも、本書の狙いであろう。

アフォーダンスの概念を分かりづらく、誤解を招きやすいものにしているのは、動物の視点から環境を捉えることを徹底しながらデカルト的な見方を捨てることを要求する、この主体の概念である。
それを能や剣道の例をもとに描き出していく。

能においては地謡が語ることで場を用意し、ワキが二人称として存在することで初めてシテが主体(一人称)として現れる、というように、関係性の中に生まれる主体という世界観がある。
この、シテの演者が、無心になり、ワキや地謡、観客の視線といった環境の中で受動的に自分が運ばれる、というような境地に至ることで、こわばりや不自然さが克服される。
しかし、この状態はただ受け身であるのではなく、「離見の見」と呼ばれるようなメタ的な視点によって、自ら改変した環境の中ではじめて無心であれる、というような受け身である。
それは遊びの世界とも呼べる超越的な世界であるが、自分がつくりだした環境によって相手にトリガーを引かせ、そのトリガーによって自らが無心に運ばれるという、いわば高等技術である。

また、剣道における「後の先」という間合い(相手を攻撃するように仕向けて(トリガーを引かせて)無心に反撃する)というのも同様のありかたである。

そして、意図や行為を主体の心が生みだすものと捉えるのではなく、環境との関わりの中で形成されていくものと捉え、環境および環境との関わりを、渦・潮流とその整流と捉えるというのが本書の提出するイメージである。


ここまでは、私なりに捉えた本書の概要であるが、ここからは、建築を考える上でそれらはどのように展開が可能か、のとっかかりをメモ的に書いておきたい。

建築との間に間合いはあるか ~出会いの作法とつくること

最初に、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないもの、と書いたが、そうだとすると、意志を持たない建築との間に間合いというものはあり得るだろうか。

本書でも日本庭園を例に出した上、そこに表現されているものを間合いと呼びたくなる、と書かれており、その理由は、日本庭園が移動し、身体で経験するものであり、差異化が常に待機状態であるから、とされている。しかし、それだけでは間合いがある、とは言い難い。
また、最終的には「しかし、それよりも根源的な音楽性、すなわち「新しさの希求」は、このような対人的・二人称的なやり取りの中でしか経験できない(p191)」と結論付けられている。

では、やはり建築との間に間合いというものはあり得ないのだろうか。

それに対しては確信はないけれども、2つの可能性を書いておきたい。

その可能性の一つは、技術・出会いの作法として以前書いたものである。
さまざまな渦の間に間合いが生まれるとすれば、対する渦が多様な現れをし、こちらの間に応じて異なる間を返してくれることが必要だろう。

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-八 技術―出会いの方法)

上記引用元では、重ね合わせ・保留・ずらしの3つを挙げたが、日本庭園のように間の変化を前提とし、変化の契機を内在した、出会いの作法とも呼べる技術には間合いが生まれる可能性が残されていないだろうか。

可能性のもう一つは、つくること、である。

先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか。 それには、3つのアプローチがあるように思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ))

つくることを届けるということは、つくる人を届けると言い換えても良いだろう。
上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。

これらが、間合いに応じて異なる表情を出してくれるとすれば、そこに生命や創造性が内在したリズムが生まれはしないだろうか。
それが実現されたとすれば、それはおそらく建築の奥行きと呼べるものであり、案外皆が追い求めているものなのかもしれない。

オノマトペ 小さな矢印の群れ ハイパーサイクル

また、世界を流体・渦として捉えるイメージを前にした時、3つの書物が頭に浮かんだ。

オノマトペ

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

下図は、この本を読んだときにオノマトペの印象から書いた人と物質との関係の漫画だけれども、世界を流体・渦と捉えるイメージと驚くほど重なる。(隈氏のイメージの元にアフォーダンスがあるので当然かもしれないが)
onomatope

小さな矢印の群れ

同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』)

この時も小さな矢印をその都度発見される自在さをもったものと捉えようとしているけれども、これも流体・渦の世界にかなり近い。
この矢印に量子力学的な、もしくはネットワーク理論的なイメージを重ねることで、より豊かな場をイメージすることが可能にならないだろうか。

ハイパーサイクル

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。 このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫))

複数のシステムのカップリングによる創発のようなものの記述は河本英夫氏の方に一日の長がある気がするが、これに空間的なレイアウトのイメージを重ねたのが流体・渦の世界観かもしれない。

新しさに開いておく ~モートンのリズム

最後に、本書においてキー概念であるリズム。
新しさを希求し続けることによって、生命や創造性が内在しているのがリズムであったが、これが、モートンを読んだときに曖昧だったイメージを補完してくれたように思う。

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは、ものごととのあいだに固定的な距離が生まれることを注意深く避けるために、独特のリズムを生きることを重要視しており、『自然なきエコロジー』は距離との格闘の書とも言える。

その際、固定化を避けるリズムを立ち上げ続けるような作法が重要だと理解しつつ、リズムに関しては曖昧なイメージしか掴めていなかったのだが、間合いとはまさに固定化しない距離の作法のことであろう。本書によってモートンのリズムが少しイメージできるようになった気がする。




父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

森田真生 (著)
集英社 (2021/9/24)

前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

エコロジーについて

エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

(タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

生活と言葉と思考

それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
(中略)
モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
そんな気がしてきた。
それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

父から子に贈るエコロジー

彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。




 二-十一 遊び―出会いの作法

誤差と遊び

何かをするときには必ず予測とは異なることが起きる。

例えば、理想が先にあってそれに向けて何かがなされるときには、その誤差はネガティブな要素、痛みとなる。そこでは、誤差はあってはいけないものであり、なかったことにするために全力が尽くされる。

一方、その誤差を、環境から受け取った情報と捉えると、それはポジティブな要素、何かを想像するきっかけとなる。そこでは、誤差は自分とは異なることを楽しめるような遊びの対象になり、そこに出会いが生まれる。

つまり、遊びとは出会いの作法であるといえる。

例えば、建築の中に予測を裏切るような遊びの要素があるとする。その遊びの要素は人の出会いに対する感度を鋭敏にし、それまで気付けなかったことに着付くきっかけを与えるかもしれない。

また、例えば、建築の中に一般的に痛みの要素と捉えられがちなネガティブなものが、遊びの要素へと変換された痕跡を見つけた時、可能性が開かれたような爽快な気分になることがあるかもしれない。その、痛みから遊びへの転回の痕跡と出会うこと自体も一つの悦びである。

人は建築で、遊びと出会う。




もっとおおらかに、もっとわくわくしながら B221『家づくりのつぼノート』(西久保 毅人)

西久保 毅人 (著), ニコ設計室 (著)
エクスナレッジ (2019/8/3)

建物探訪でぐっときたお二方

『渡辺篤史の建もの探訪』は気が向いた時に時々見るくらいなんだけど、見ながら「ぐっとくるなー。めっちゃ上手いなー。」と思って初めて興味を持った方が二人います。

一人はタトアーキテクツ(島田陽)で、もう一人がニコ設計室。

当時から有名だったのか、まだ無名の頃だったのかは分からないけど、その時初めて知って、すぐにファンになりました。
そのニコ設計室が本を出したと知って急いで買いました。

豊かさとおおらかさと自分の原点

一つひとつの言葉がすごく共感できて、自分の目指すところを言葉と形にして見せてくれたような感じがします。
例えば、学生の時に考えていた敷地の捉え方をはじめ、デザインのたねとして考えていたようなことが、具体性をもって表現されていて、とても豊かなものがそこにあるように感じましたし、『施主力8割』のところなんかそのまんま自分の言葉じゃないかと思えるくらい。

そのワクワクする、ため息が出るような豊かさ、人間臭さはどこか象設計集団に感じるものに似てると思ったら。略歴のところに象設計集団の文字が。
やっぱりなー。

さて、その豊かさの根っこにはある種のおおらかさが見て取れます
それは、プランにも如実に現れてるし、街とのつながりかたにも現れています。おおらかであることによって初めて獲得できるような、どこか懐かしい豊かさ

さらに、そのおおらかさのもとには子どもたちに対する愛情や責任が、もっといえば、著者自身が子どもの頃のわくわくする気持ちを保ち続けていることがあるように思いました。(それは決して簡単なことではないと思います。)

自分はどういうものをつくっていくべきか。それは設計者の永遠のテーマとも言えますが、その原点を思い出させてくれたように思います。

自分も初心に帰って、もっともっとおおらかに、もっともっとワクワクしながら設計を続けられたらなー
 
 

追記(twitterより)

言葉遊びではない、生活の延長としての街への開き方が豊かな印象を与えているように感じたけれども、案外東京の密集した地域だからこそ、というのはあるかもしれない

道路があまりにも車の交通としての色合いが強いとこういう開き方も難しい、というか開くというのが言葉だけになりがち。例えば裏路地のように道路自体がおおらかさを持っていることが大切なような気がする。

もともと道路自体がおおらかさをもっていればいいけど、そうでない時はどうするか。目の前の道路に新しいおおらかさを見出したり、生み出したりするような見立てる力、顕在化させる力が求められる気がする。

一つ前に書いたマイパブリックの話も、おおらかさを顕在化するための手法なのかもしれないなー。そこに懐かしさのようなものを感じてほっとするのかも。ほっとしたい。

後は、そのおおらかさを実現するためにはある程度予算的なおおらかさも求められる。予算の話はきりがないのでそれを与えられた条件の中でどうやってクリアするか




あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)




子どもも保育者も自在であれるように B204『子どもと親が行きたくなる園 (あんしん子育てすこやか保育ライブラリー 3)』(寺田 信太郎 他)

寺田信太郎 (著),‎ 深野静子 (著),‎ 塩川寿平 (著),‎ 塩川寿一 (著),‎ 落合秀子 (著),‎ 山口学世 (著),‎ 佐々木正美 (監修)
すばる舎 (2010/10/14)

川和保育園、さくらんぼ保育園、大中里保育園/野中保育園、東大駒場地区保育所、大津保育園、それぞれの園長先生のお話。

子どもと親が行きたくなる園=子どもと親が育っていける園

園長先生の話の中で、共通しているように感じたのは、

・子どもの自発性、自ら遊び学ぶ力を信じ尊重していること。
・子どもの発達段階にあった保育、(特に自然の中での自由な)遊びを中心とした保育を大切にし、早期教育のような考え方には概ね否定的であること。
・信念を持ってそのための環境づくりを行っていること。
・保護者との関係を大切にし、子どもだけでなく、親と一緒に園も育っていくような関係を築いていること。

などです。
青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本がありますが、子どもが行きたくなる園、というのは、遊園地のようにいたれりつくせりで子どもの気を惹くような園ではなく、原っぱのように、自発的に関わることができ、そこで自由に遊びながら自ら学ぶ楽しさを実感できる園なのかもしれません。

長男と次男がお世話になり、こんどの4月から三男もお世話になる保育園(今は認定こども園)は、「見守る保育」を実践していますが、「教えてもらう」ことを期待している保護者の理解を得ることの難しさと大切さは、一保護者として強く感じました。

保護者は園・保育者の支援を受けるだけでなく、園の理念を出来る限り理解し、保育者を支援する側に立とうとすることが大切で、そのことが子どもが質の良い保育を受け成長することに繋がるはずだ、と考えているのですが、いろいろな考え方の人がいますからなかなか難しい面もあると思います。そこを乗り越えて良い関係を築きながら、保護者も子どもの育ちについて学び共に育っていけるような園が、親が行きたくなる園なのかもしれません。

父親の役割

余談ですが、子どもがお世話になった園では年に一日父親保育の日がありました。父親たちはチームを組んで、その日に向けて準備をし、本格的なお化け屋敷や音楽ライブ、その他さまざまな形で、遊びの場を作りながら一日子どもたちを預かるのですが、むしろ父親自身が本気で遊ぶ感じです。
日常の主体的な遊びによる学びとは少し異なるかも知れませんが、非日常として父親が本気で遊ぶ姿を見るのも良い経験だと思いますし、父親が園と関わる良い機会になったと思います。
母親と父親の関わる割合が同程度になれば、園と保護者との関わり方もだいぶ変わってくるように思いますし、父親として関わることの意味や役割もあるように思いました。

出会いに意識的であることと自在であること

川和保育園の園長先生が20数年前に出会った文章を引用し、それについて書いていたことが印象的でした。

―ともすると、私達は、大切な意味と価値を内包する出来事に気付かず、あるいは気付いても深く考えないで放っていることが多くあります。現実の保育の場には、こうした偶然のもたらす予測しがたい出来事がいくらでも生じます。その時、教師が自分の(考えや保育案の)絶対性や権威性を思わず、自分の善意への信念などに固執せず、高い価値を内包すると思われる偶然に鋭く気付いて、その意味を測り、保育過程の中に「必然」として取り入れるという、敏感でしなやかな感性の持ち主であったなら、この幼い年齢においても、人生の、あるいは、人間性の本質的なものに触れるような深い教育さえ可能と思います。―(『幼児の教育』日本幼稚園協会)

この文章が素晴らしいのは、たまたま出会ったものを「偶然」としてそのままにするのではなく、その素晴らしさに気づき、その意味を考えて「必然」とするところまで突き詰めていくことの大切さを問いているからです。
保育者は出会うものに無自覚であってはならない。出会いの意味を考えて、自分たちの保育にどう活かしていくかということについて、常に考える事の大切さを、僕はこの文章から学びました。(川和保育園園長 寺田信太郎)

保育者は出会いを捕らえ、その意味と価値に意識的でなければならない。ここには、私が建築において出会いを重要視していることとの共通点が見えます。
また、元の引用文では常に経験を開き、自在であることの大切さも読み取れます。これはオートポイエーシスの第一人者である河本英夫が常々言っていることで、私も設計者として自在でありたいと思っています。
ここにも、保育と設計の共通点が見えますが、それは、両者がともに、人間が生きる環境の原点に迫ることを求めるからかもしれません。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。(佐々木正人)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』)

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。(河本英夫)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』)




保育環境を包み込む建築空間はどうあるべきか B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』(高山 静子)

高山 静子 (著)
小学館 (2017/5/17)

環境構成をよりわかりやすくまとめた一冊

『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』と同じ著者による環境構成の本です。

『環境構成の理論と実践』が環境構成の理論を体系的にまとめることを試みたものだとすると、本著はその理論を豊富な事例・写真をもとにビジュアル的にも整理して、より読みやすく多くの人に伝わりやすいように再編されたもの、と言えるかもしれません。
保育関係の本は一冊のノートに簡潔にまとめて、いつでも読み返せるようにしようと思っているのですが、ここまで密度が高いとそのまま机の脇に置いておいた方が良いかも知れません。付箋を付けるのも途中でやめて、使い勝手を良くするためにインデックスを貼ることに作業を切り替えました。

子どもを『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』と捉え直すことからスタートするのは、まさしくアフォーダンスの話です。
保育関係者には是非とも一読をお薦めしたい本ですが、もしかしたらアフォーダンスに興味がある方にとっても、その実践のイメージを掴むためには良書かも知れません。

保育環境を包み込む建築空間

さて、分野に限らず、本を読む時に常に頭にあるのは、”建築空間はどうあるべきか?”という問いです。

この本には保育環境の一つとして建築空間を構成するための直接的ヒントに溢れていますが、それは主に保育者の視点からのもので、あえて言えば(心地よさや美しさといったことも含めた)機能的要求としての要件として捉えられるものだと言えます。
ですが設計者としては、ただそれに応えるだけではまだ不十分で、さらに建築の設計者の視点から見た、子ども・保育者・保護者その他関係者やまちや社会にとって”建築空間はどうあるべきか?”に応える必要があるように思います。(とは言え、著者は例えば「秩序と混沌のバランス」「空間の構造化と自由度のバランス」といった、設計者が持つような視点にまで言及しています。)

環境構成の技術は、個々の子どもの遊び・学びを支えることを第一義として行われるものだと思いますが、建築はそれをより大きな視点から、子どもや保育者を包み込むような存在であるべきもののように思います。
そのような場であればこそ、環境構成の技術がより自在に発揮され、子どもや保育者が安心して活き活きと遊び学ぶことができると思うのです。
最後は言葉ではなく、その空間に包まれた時に単純に「あっ、ここで遊びたい。」と思えるような、そして、そこでさまざまなものに出会えるような、実際の建築物として応える必要があると思うのです。

例えるなら、園長先生が、保育の知識と環境構成の技術に優れているだけ、では園長先生足り得ず、やっぱりそこに何かしら人間としての魅力が見えて初めて、園長先生が園長先生となり、その園がその園となるようなものです。
建築空間も、保育の知識と環境構成の技術に応えているだけ、では建築足り得ず、そこが建築的・空間的魅力で溢れて初めて、その園がその園となるような建築足り得るのだと思うのです。

そのために、建築のプロとして、経験と知識、想像力と設計技術を総動員する必要があると思いますし、それらを日々磨き続ける必要があると思います。




保育の現場で「どうしてそうするのか」の原則を共有するために B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』(高山静子)

高山静子 (著)
エイデル研究所; B5版 (2014/5/30)

環境構成という専門技術

この本では、さまざまな園の異なる実践に共通した原則を説明することを試みました。原則は、実践の骨組みとなる理論です。原則ですから、理想の園や理想の環境を想定して、それに近づくことを求めるものではありません。人が太い背骨を持つことでより自由な動きができるように、それぞれの保育者が、環境構成の原則を持つことによって、より自由で柔軟な実践ができればと願っています。

保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設での保育に関する理論を何かしら知っておきたい、ということで手に取ったのですが、めちゃめちゃ参考になりました。

例えば、学童期以降の子どもは、机に座り教科書を使って抽象的な概念を学ぶ、ということができます。
しかし、乳幼児はまだそれができないので、自ら直接環境に働きかけ、体験を繰り返すことで、さまざまなものを学んでいきます
直接教えるのではなく「環境を通して」教育を行うのが原則で、保育者はそのために、子ども自らが学べる環境を構成していく、というのが幼児教育の一番の特徴・独自性のようで、とても腑に落ちました。

そのために、保育者には、高い専門性に基づいた広く深い知識と環境構成の技術が求められるのですが、それは「園と家庭や地域とのバランス、安全と挑戦などのさまざまな矛盾の中でのバランスを踏まえた上で、その時々の個々の子どもの状態に合わせた環境の構成・更新を繰り返す」という非常に高度なものです。

そのような実践のための理論を体系的にまとめたのが本書ですが、保育に求められることの専門性と理論の大枠がイメージできたというのは大きな収穫でした。
また、僕はこれまで、子どもが育つ上での建築をどうつくればいいか、というのを一番のテーマとして考え続けていて、「「おいしい知覚 – 出会う建築」」というところに辿り着きました。
そこで辿り着いた考え方と、保育の分野での考え方と重なる部分が多いように思ったのですが、それがあまりにもぴったり重なるのにびっくりしました。(もともとの問題意識の設定からすると当たり前といえば当たり前なのかも知れませんが、もう、保育施設を設計するためにこれまでがあったんじゃないか、くらいに感じます。)

理論の必要性と展開

では、そのような理論をなぜ知っておきたい、と思ったのか。

例えば、保育のための空間を設計するという場面を考えた時に、個人的な体験や好みで決められることも多いような印象があります。それがスタートでも良いと思うのですが、保育の現場では特に「どうしてそうするのか。そうしたのか。」が説明できた方が良いと思いますし、そのために「太い背骨」となるような理論があることは非常に有効だと思うのです。

「どうしてそうするのか。そうしたのか。」ということは、建物の設計や建設の段階では、多くの関係者が同じ方向を見て良いものをつくっていくために必要なものです。
また、建物ができた後の実際の保育の現場でも、保育者や保護者等の関係者が、同じ方向を見て良い保育を実践していくために必要なものだと思います。そして、それが子どもたちのよい体験へとつながります。

園の目指すもの・思想といった大きな枠・物語は園長先生等トップが描くことが多いと思いますが、保育者や設計者がそれをプロフェショナルとして実践のレベルでさまざまな要素に落とし込んでいくには、専門的な理論の枠組みを掴んでおくことは非常に大切です
その点でこの本に書かれているものは、まさに!という内容でした。

この本で学んだ背骨としての理論を実践として展開できるように、さまざまな事例や理論の研究を進められたらと思います。
同じ著者の実例よりの本も買っているのでとても楽しみです。)

建築に求められるもの

ところで、環境構成は状況に応じて臨機応変に行われるべきものです。そんな中、建築空間には何が求められるでしょうか。

園が子どもも興奮させ一時的に楽しませる場所であれば、できるだけにぎやかな飾り付けが良いでしょう。しかし園は、子どもの教育とケアの場です。そこでは、レジャーランドやショッピングセンターの遊び場とは一線を画した環境が求められます。子どもたちが、イメージを膨らませて遊んだり、何かの活動に集中するためには、むしろ派手な飾りがない落ち着いた環境が望ましいと考えられます。

著者は、基本的には子どもが個々の活動に集中できるように一歩引いた存在であるべきという前提です。
例えば、空間を構成する技術として「子どもの自己活動を充足させることが出来る空間」「安心しくつろいだ気持ちになれる空間」「子どもが主体的に生活できる空間」「個が確保される空間」「恒常的な空間」「変化のある空間」など挙げ、それらのバランスをとりながら空間を構成する、と書いています。

その他、さまざまな事が環境構成の技術・理論としてまとめられていますが、保育者のための理論という意味合いが大きいので、重点は個々の場面での環境構成という短いタイムスパンに区切ったものが多かったように思います。

それに対して、建築は、子どもにとっては建築は在園中の長い期間接するものですし、個々の場面だけではなく建築全体としても子どもの環境になりうるものです。また、それは街からみると、もっと大きなスパンで存在するものですし、風景としての要素も小さくはありません。

ですので、個々の発達段階の空間構成に寄与できる空間をつくるとともに、建築全体としても園の思想を表していること、まちの風景であること、子どもにとっての原風景となれるような建築体験ができるものであること、などが建築には求められるのではないでしょうか

特に子どもにとっては、住宅を除いて初めての長期的な建築体験の場になることが多いと思います。建築でしか出来ないような体験、出会いを作り出すことも設計者の大きな役割だと思いますし、そのための術を磨いていきたいですし、それは住宅も同じだと思います。




生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)

アトリエ・ワン (著)
LIXIL出版 (2014/4/25)

コモナリティの意図するところ

出版された当時はまだピンと来ずに購入を見合わせていたが、「おいしい知覚/出会いの建築」(以下[知覚])をまとめる過程で関心を持った知覚の公共性と関連があるように思ったので購入した。
序盤で本書の意図について書かれているが、これ以上要約のしようがないほど密度の高い文章なので、途中省略しながらそのまま引用したい。

20世紀後半の日本の奇跡的なGDPの伸びを駆り立てたものとして、さまざまな領域での産業化があった。だがこの過程によって思わぬ副産物が生まれた。それは、自分が生きる自然とどんな折り合いをつければよいか、自分の街にどんな家を建てたらよいか、パブリック・スペースを自分たちでどう実践したらよいか、といったことを知らない人々である。知らないと言うことは、連帯することができないということである。すると人々は「個」へとばらばらにされ、「公」やマーケットが認めるシステムに依存することになる。人々が自分で判断して自律的にふるまう余地と機会が、徐々に奪われてきたのである。[・・・]でも残念なことに、それでは個が個であることを越えることができない。そんな個は貧しい。この風景に欠けているのは、世代の違いを越えて受け継がれ、主体の違いを越えてその場所で共有される建築の形式や人々のふるまいであり、それが反復されることにより成立するいきいきとした街並みや卓越した都市空間である。そうしたものの成立のためには、私たちは優れた建築を設計する偉大な個人にだけでなく、時代や主体の違いを越えた偉大な人々にならなければならない。偉大な人々の一部であると感じることができれば、自信と誇りが湧いてくるだろう。それがないから「幸せかどうかわからない」のではないだろうか。[・・・]その仕組みは人びとというまとまりを、純粋な「個」と純粋な「公」に分離生成していく傾向をもっている。[・・・]「個」と「公」に重きを置きすぎた20世紀の建築が「共」を取りこぼしてきたのなら、「共」に軸足をシフトした建築実践の冒険を始めよう。
そして、そこに広がる「共」の領域を、建築のコモナリティと呼ぼうというのが本書の意図するところである。(強調引用者)

アトリエ・ワンはコモナリティを軸にし、個体の違いを越えて共通するタイポロジーや、「公」が求める「空っぽの身体」に対する「スキルをもった身体」といったことを手掛かりに、「住宅の系譜学」「窓のふるまい学」「マイクロパブリックスペース」「広場・公園の設計」の4つの領域でデザインを展開している。
本書ではそれらをベースに理論や観察、実践例等幅広い視点を横断しながら「コモナリティ」という言葉を描き出している。

コモナリティの生態学的解釈

塚本氏はおそらく生態学を理論のベースとしていると思われるが、本書では(おそらく意図的に)生態学には触れていない
ここで自分の言葉に引き寄せるために[知覚]で書いたこととの関連をまとめておきたい。
[知覚]では知覚の性質の一つとして知覚の公共性を挙げたが、コモナリティでは「公」と「共」を明確に分けており「共有性」という言葉を用いている。その違いはなんだろうか。
[知覚]で公共性という言葉を用いたのは、人間の集合的存在としてのあり方をより良く表していると判断したからであるが、個々の知覚・ふるまいの場面においては共有性という言葉の方がより直接的で相応しいようにも思う。これについては「公」「共」「個」とは何か、「公共性」とは何か、を含めて今後考えていきたい。

ここから、先の引用文を[知覚]の言葉で捉えなおしてみる。

ふるまい方を知らない人々は、「公」やマーケットが認めるシステムに依存して、生態学的な能動的態度を忘れてしまった人々であり、そこに内在する悦びを忘れた人々と言えるだろう。
ここで「公」とは制度として人々のふるまいの能動性を奪うもの(本書でいうところのフーコーの「生権力」)、[知覚]でいえば、囲い込むことで受動的態度に人々のふるまいをとどめるものである。ここでは「はたらき」は有効に作動せず、「予定的自己決定」から出ることはできない。そこには遊びの余地はなく、予測誤差は痛みとしてのみ現れる

知覚の公共性によって初めて、個人や時間、空間などを越える、言い換えると(私、今、ここ)を越えることが出来るようになるが、それが制限されることによって、同時に、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、といったいわば人間が人間であることを奪われるように思う。

本書でいう偉大な人々というのは、そういう人間の集団的存在としてのあり方に能動的に参加しうる人々と言えるだろう。
また、タイポロジーは集団的存在としての人間の文化・技術・歴史に内在する不変項であり、「スキルをもった身体」とは生態学的な能動的態度に優れており、個人として相互行為にか関わる技術(アフォーダンスの探索・利用スキル)を持った人々である。また、そういったスキルの発動可能性を多様に担保することが生態学的な倫理であり、それに対して建築は大きな責任を負っているように思う。
このようにコモナリティは知覚の公共性に重なる概念であるといえる。

これまで建築と都市や社会との関係性がいまひとつ捉えられないでいたが、ようやくぼんやりとではあるがイメージできるようになってきた。
この本でも多くの書籍が紹介されているが、それらも参考にしながら、そのイメージの解像度を上げ、建築の実践につなげられるようにしていきたいと思う。




ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2000/11)

これまで読んだ本でも何度も引用されており、生態学を社会性のようなもとつなげられそうな予感がして読んでみた。

世界/環境との切り結び

進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/環境との切り結び>という考えが中心ににありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった

まず、重要と思われるいくつかの用語を挙げながら”自分なりに”まとめておきたい。

<環境との切り結び>・・・環境の情報/アフォーダンスをピックアップし利用したり改変したりすること。生態学のベースとなる考えで能動的に行われる。受動的に刺激を受け取り反応するといった考えとは反する。この能動性がおそらく決定的で、「環境から」入力があるのではなく「環境を」探索する。入力されたものを組織化するために脳があるのではなく、切り結びを協調させるための一つの機能として脳が進化したと考えられる。司令主義的原理ではなく選択主義的原理

<情報>・・・個体をその環境と一体に結びつけることを助けるもの。外部特定的な情報自己特定的な情報がある。アフォーダンスとほぼ同義であると思われる。それは行為の調整を通じて環境から価値を得るための<資源>となり、また行動や進化の選択圧ともなる。このような選択圧は行動の時間のスケールから、個体発生の時間スケール、系統発生の時間のスケールまであらゆるスケールで生じ、一つの行動の選択から進化にまで関わる。

<行動/行為>・・・アフォーダンスを利用するために環境と特定の関係を結ぶこと。行動は能動的で<調整>するものであって機械的・受動的に<構成>されるのではない。また、遂行的活動探索的活動がある。<行動>は自己と周囲との関係を変える動物個体の能力と定義されている。

<行為システム群>・・・多種多様な環境があるためそれを利用する多様な行為システム群が分化するような選択圧がかかる。大きくは「基礎定位システム」「知覚システム(探索的)」「行為システム(遂行的・非動物的環境)」「相互行為システム(遂行的・動物的環境)」に分けることができる。その中にさらに「移動システム」「欲求システム」「操作システム」「有性生殖システム」「養育・グルーミングシステム」「表出システム」「意味システム」「遊びシステム」などが挙げられている。

<意識>・・・生態学的な<知覚>とほぼ同義。動物は自己の周囲のアフォーダンス群をその場で利用するかしないかにかかわらず意識する。情報のピックアップ・探索的活動そのものが能動的な行動であり、意識はその成果であると言えるかもしれない。それは自覚的であったり信念を持つといった機械論的神経機構による反応のことではない。

<心理学/動機づけ>・・・<心理学>は心身二元論における刺激-反応過程の心を探る研究ではなく、<運動するもの>の研究、すなわち動物がいかに周囲と切り結び、その切り結びをいかに調整するかについての研究だと定義される。そこには行為と意識の両方が分離されずに含まれる。同様に<動機付け>は正の心的状態を求める快楽主義ではなく、動物がその生息環境のアフォーダンス群とそれぞれ独自の道において関係するように進化してきた選択圧への調整の過程だと考えられる。感情との結合が仮に生じたとしても副次的なことでしかない。

<意味/価値>・・・<意味><価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。

ここで書いたことは全て<個体と世界/環境との切り結び>の考え方と整合する。すなわち、この視点から総合的な心理学を研究する道を切り開いたと言えるが、建築を考える上でこれらはどういう意味を持つだろうか。
建築が環境の一部であることを考えると、この事によって建築が生態学的に<生きること>に対して大きく関連していることに対する信頼を得られる、という点で意味があるように思う。言い換えると、建築を考える際に<個体と世界/環境との切り結び>の視点、すなわち建築がどのような知覚と行為の可能性を担保できるかという視点を持つことによって様々なことにアプローチする可能性が開かれたと言っても良いかもしれない。
当然この考え方が100%正しいという保証はどこにもなく、将来には全く違った視点に書き換えられるかもしれない。しかし、生態学的な視点が建築に対しても新たな視点を提供しており、それは私がそれとは知らずこれまで考え・感じてきたことにかなりの部分で重なっていることは確かである。(だからこそ興味を持ったわけだが。)今の時代を生き、建築に関わっている一人としては信頼してみる価値はあるように思う。

人間への拡張

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)

人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的な対面的フレームの中での二項的な相互行為。単純な反応や真似など。(これは声や行為を挟んだ三項的な相互行為とも考えられそう)。自己と他者を理解し始める。表現や簡単なゲームもできるようなる。

[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為。同じ物を挟んでの相互行為で環境のアフォーダンスを共有できるようになる。物を交互に動かしあったり他者と遊びや活動を共有できるようになる。文化のなかに入り始める。

[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。すなわち<認識>を共有できるようになる。<認識>は人-物-人の三項関係の物の部分に認識を当てはめた相互行為とも考えられる。生きたプロセスであり、自己と周囲との接触を維持する(持続性を獲得する)能力でもある。また、その課題に含まれるアフォーダンス群のまとまりをまとまりとして知覚できるようになる。さらに、その技能を時刻や場所と関連づけた日常のルーチンとしても認識できる。また、人間は<満たされざる意味>、意味への予感のようなものを動機として先立って行為に携わる傾向性があるという。分からないけれどもやってみるというのが認識の発達をリードする。

[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>は人-物-人の三項関係の物の部分に言語を当てはめた相互行為とも考えられる。言事は、観念あるいは表象の手段ではなく、情報を他者に利用可能にするための手段であり、それによって自身および集団の活動調整に寄与するものである。また、言語がこれほど強力な調整者である理由の一つは、人々に現在の環境状態だけでなく、過去や未来の環境状態を意識させるからであり、これは変容され集団化された一種の予期的制御である。このことはひょっとするとヒトのもっとも根本的な変化であるかもしれない。また、言語はあるものを共有するために選択する「指し言葉」から、指し示すだけでなくコメントする「語り言葉」へと発達する。

[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>は上記の人-言語-人の三項関係の相手の部分に自分を当てはめた相互行為とも考えられる。すなわち自分が生成(行為)した言語を環境として受け取り自分で知覚し、さらに生成(行為)するサイクルが思考なのではないだろうか。実際の場面では三項関係の相手は自分・相手・書物などと入れ替わったり、環境から知覚の一種として言語を抽出するような行為もあるかもしれない。本書では思考は、世界の諸側面を自分自身に向けて表象する自律的能力と定義している。思考はより複雑な予期的制御を可能とするだろう。

三項関係への当てはめは個人的な解釈によるところもあるので誤解が含まれているかもしれないが、これらも全て<個体と世界/環境との切り結び>が基本にある。それは逆に、人間が世界/環境とよりうまく切り結ぶことを動機として進化してきたこととともに、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことで発達可能性を担保し続けてきた文化的・歴史的存在であることを示している。

これは建築が長期間に渡って切り結びを担保できる存在、すなわち文化的メディア(媒体)であることの可能性と責任をつきつけるものではないだろうか。そして、その可能性は<個体と世界/環境との切り結び>に対する信頼の先に開かれているように思う。

また、<思考>の三項関係の[言語]の部分に設計(案)を配置することでそのまま設計論になる。さらに、この設計プロセスや、意識-行為システム、思考システム、文化的発達保障システムなどはオートポイエーシスシステムとそのカップリングのイメージを重ねることでより働きとしてのダイナミズムと強度を持てるようになるように思う。
(アフォーダンスについて一番の疑問はなぜオートポイエーシスと融合したような理論が見当たらないか、である。私の知る限りではいくつかの対談で見ただけで融合はしなかった。何かそれを困難にする理論的壁が存在するのだろうか・・・)

400ページほどの文章を自分の関心に従って簡単にまとめたので、これを読んだだけでは良く分からないかも知れないが、個人的な記録としてはそれなりにまとめられたと思う。あと一冊同じリードの本を読んだ後、知覚をベースに建築に対する考えをまとめてみたいと思っているがうまくいくだろうか・・・。




新しい経験を開くー意識の自由さよりも行為としての自在さを B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』

河本 英夫 (著)
東京書籍 (2002/7/1)

十年以上も前の本であるが気になったので読んでみた。
オートポイエーシスの第一人者である著者と様々な分野の第一人者との対談集であるが、まずは著者の知識の広さと深さに驚かされる。(対談中、著者が対談者にかわって他分野の詳細に対する解説や意見を長々とする場面が何度もある。)

一部前記事と重複するけど、とりあえず断片的なメモをもとに感じたことをいくつか書いておきたい。

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか
その不自由さの中からあえて自由さを突き抜けるという建築の可能性ももちろんあるだろう。
しかし、設計を行為だと捉え、そこでの自在さを獲得する自在な建築といったものの方にこそ可能性は開かれている気もする。

例えば僕がアフォーダンスやオートポイエーシスのようなものをなぜ読むのか。
何か方法論のようなものを身につけたいという気持ちがあったのは確かだが、それよりもむしろこのような(自由であるか自在であるか、世界をどのように捉えそれに応えるかと言った)態度のようなもののイメージを獲得する方が重要かもしれない、とだんだん思うようになってきた。

オートポイエーシスもさんざん道具・理論として扱われることが多かったが、著者はそれを否定する。

一般理論というのは、しょせんは一種の知的遊びに終わってしまう場合が多い。そうではなく、オートポイエーシスがある新しい認識の世界を開くのではないかということに私は期待しているんです。(中略)記述のための道具として使おうというのは、これを道具として使って、何かを主張したい場合です。主張することが問題なのではなく、経験を動かしていって何かを新たに作り出すことが問われている。だから第三世代システム論ではなく、第三世代システムと言い続けている。そのためのオートポイエーシスが何をやっているかというと、結局、ある種の経験の層をもう一度つかみあげてみようということです。そして、それが行為に関わっています。そこが論ではなく、行為なのです。

他にも「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てくるが、これができるようになるのはなかなか大変そうである。
藤村さんの方法論を自分なりに取り入れようとして、なかなかうまく設計に結びつかないのは、方法論に囚われすぎて、経験を開く、というようなことができていないからではないか。方法論を否定しているわけではなく、むしろ現状と方法論がマッチしていないため方法に入り込んで経験を開くというところまで行けてないからではないだろうか。
なんだか、怪しい話のようになりそうだけれども、もう少し経験を開くというような「状態」に意識を持って行って、そのために補助的に方法論を見つけていく、というような流れがいい気がする。

また、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたり

対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
もしかしたら経験を開く「状態」のイメージに時間軸・速度のようなものを加えたほうが良いかもしれない。

展覧会の関連企画での対談があり、その中での鋭い考察が印象に残った。

作品の経験においても同様のことが言えます。意味の方法的な分析の中に解消され得ない作品には、その経験の中に必ず「剰余」の部分が出てきます。その「剰余」というのは、作品に触れている時にずっと動いてしまっている身体や近くの記憶として残っていきます。つかりテクニカルな工夫・操作だけが表面に表れている場合には、既存の意味の枠を延長しているだけですので、そのプラスアルファの「剰余」がない。しかもこの剰余を意味の延長上に意味的な分からなさとして作り出すと、途端に見え透いてしまう。この剰余を作り出すには、身体の動きを活用するのが有効です。内化してしまっている身体の動きを同時に使うと、意味の延長からの想起とか逸脱とは全く違う、作品の経験に触れることができます。

この辺の領域をふんだんに活用したのがゴッホでした。かれは通常の人間の色彩感覚を超えた人です。ゴッホの黄は非常に収まりが悪い。ゴッホの絵を五分くらい見ていただくと分かりますが、どうもこの黄を見るために目の神経を形成しているところがあります。こういう絵によって形成運動が起こってしまうのです。すると、気づくと気づかないにかかわらず確実に強い記憶になります。(中略)つまり、作品に触れることがその経験を形成するところにかかわってしまっている。

大した経験が何一つないのに、テクニカルに人と違うものを作ろうとすれば、すべて意図は見え透きます。したがって、やはり経験が形成される回路を何とかして自分で踏み出してみるということが重要だろうと思います。そこの踏み込み方と、その継続の仕方を機構として表しているのがオートポイエーシスという構想です。この構想は前に進みながら、同時に自分自身を作り上げていくというところを機構化しているわけです。

佐々木正人氏がアート等を語るのも面白かったが、これらの言葉もすごい。前に書いた「既知の中の未知」とも重なりそうな気がする。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

おそらく新しい経験を開くというようなことと共に新しい空間が生まれるのであろう

あと、著者について調べていて下の動画を見つけた。
音源をスマホに入れて移動中に何度か聞いたけど、かなりぶっ飛んでいて面白い。意味は少ししか分からないけど。

1:57:40あたりから経験を開くというような話が出てきます。