弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B279『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登)

荒谷 登 (著)
彰国社 (2013/8/1)

地球環境時代を迎えるいま、経済力、技術力、エネルギーに頼った力づくの問題解決ではなく、それぞれの地域が持っている特質をより顕著なものにする、奪い合うことのない成長のあり方を、本書を通して考えてみていただけたらと思います。(p.3)

著者は温熱環境の専門家で、北海道の高断熱高気密住宅のパイオニアでもあり、『民家の自然エネルギー技術』の著者の一人でもある。

北海道住宅の専門家の本が九州南部での建築を考えるのに参考になるだろうか、と若干不安があったものの、もっと広い視野で書かれているのでは、という予感があったため購入した。
それが、期待以上の良書であった。

本書は、北海道建築指導センターが発行している『寒地系住宅の熱環境計画シリーズ』の5巻をまとめたもので、それがそのまま本書の章立てになっている。
その構成は、

  • 『1 採暖と暖房』(1976)
  • 『2 気密化住宅の換気』(2003)
  • 『3 省エネルギーから生エネルギーへ』(2003)
  • 『4 断熱建物の夏対応』(2007)
  • 『5 断熱から生まれる自然エネルギー利用』(2010)

というもので、24年もの歳月をまたぐのだが、それぞれ当時の普及技術の潮流を感じさせはするものの、内容は全く古さを感じさせない。

それが、著者の熱環境への深い知識によるだけでなく、その根本に確たる哲学があることによるからだ、ということが読み進めるにつれ分かってくるのだが、私が今、建築の温熱環境に対するスタンスで迷っていることに対して多くのヒントと与えてくれた。

今の建築の温熱環境に対して、何か煮えきらないものを感じていたのだが、それに対してどういうヒントが得られたか、ということをここ2年ほど環境について考えてきたことを振り返りながら書き残しておきたい。

良さ発見型の技術・弱さ・目

一貫していたのは近代技術が得意とする欠点対応ではなく、無償の富である自然や自然エネルギーに中によさを見出してそれを生かす、良さ発見型の対応でした。(p.220)

技術には、欠点対応型と良さ発見型の2つがあるという。

欠点対応型は環境の中から欠点を見出し、それを克服するために電力のような独力での問題解決能力を持つ強い力を用いるもので、近代的な分断の思考をベースとして画一化へと向かうもの。
一方、良さ発見型の技術は環境の中から無償の自然エネルギーのような弱い力を見出し、それらを組み合わせ引き出すことで問題を解決しようとし、多様性をもたらす。

後者は、例えば天空光や反射光、そよ風や熱対流、気温の日変動や年変動、乾燥や湿潤、蓄熱や放熱、新鮮な空気や水、微妙な風圧や気圧の変動など、それだけでは問題を解決できない弱い力であり、地域性や変動性が大きいといった性質を持つ。

元来、建築はそのような弱い力の特性を引き出し活用するための器であったが、近代化とともに強い力に依存することになってしまい、風土との対話を忘れてしまった。

私が現在の潮流に対して抱いている違和感の根本には、この強い力への依存への無反省を感じてしまうことがあると思うのだが、それは仕方のないことなのだろうか。

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(p.173)(森田真生))

ここで、この文が頭に浮かんだのだが、強い力への依存は自己を強い主体と勘違いさせてしまうし、おそらくその強さが様々な問題の根っこにある。弱さの受容、あるいは、モートン的な距離に対してとどまる姿勢、言い換えると強さに依存せずに弱さにとどまることなしには、持続可能な世界に近づくことはできない、というのが今のところの結論であるが、本書はその弱さにとどまるための技術論とも読める。

ここでの弱い力は、地域性や変動性を持ち、強い力への依存のように思考停止を許してくれる(もしくは思考を奪う)ものではない。
それ故に、これまで歴史的に積み重ねられてきた知恵に意味が生まれるし、自らがその弱い力を見出す力を持つ必要がある。

欠点が客観的に捉えやすいのに対して、環境や相手の良さを知るには何が良さであるかをはかる独自の価値判断が必要で、しばしば自分自身の価値判断が問われます。(p.211)

このことは逆に言うと、自分自身の価値判断、哲学を持つことができれば、新しい良さを発見できる可能性がある、ということである。
そのことに設計者としては面白みを感じるし、そこで生まれた個性は建築に生命的な躍動感を与えるとともに、そこでの生活にリアリティを与えることにもなるだろう、という予感がある。

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。
二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

弱い力を見出すための目を養うことが重要であるのは間違いないが、そのためにも強い技術に頼ることを一旦忘れてみることが、建築と風土との対話を思い出させるために必要な気がしている。

三つ巴の温熱環境論

これらの弱い力は先に書いたように、独力では問題を解決するほどの力になれない。(問題解決という物言いそのものが近代的発想を感じさせるがここでは横に置いておく)
そのために必要なのが断熱(+気密化)と熱容量である。

断熱、熱容量、自然エネルギーのいずれも独力での問題解決能力のない弱さがありますが、それがともに働くとき、力では得られない穏やかな環境が生まれます。(p.149)

著者は断熱や熱容量を弱い自然エネルギーを生かすためのものとして捉えており、それは私にとって新しい視点であった。
技術的な詳細は本書に譲るが、大雑把に言いうと、断熱が熱の出入りを小さくすることで、弱い力の個性を尊重しつつ、役割や出番を与え、さらに熱容量の助けを得ることで、変動を緩和しピークをずらし弱い力を補う。

大きな熱の出入りと強い力に依存している際には無視されていたような弱い力を、主役とするために断熱を施す。そのように考えるとかなりスッキリした。
それでも、これでもかという断熱には強引さ・強さの印象を消しされないのだが、昔の日本の夏の民家がこのような工夫の見本であったことを考えると、その印象は使う素材のイメージによるかも知れないし、「そこまでする必要がないのでは」という考え方は欠点対処型の思考が根強く残っているからかも知れない。
(断熱をどこまで施すか、というのが問題だが、弱い力を生かすためのピークシフト能力・時間を一つの目安にするのが良さそうな気がしている。それは三つ巴の構造全体をみながら考えるべきだろうし、答えは一つではないだろう。)

この辺りは若干気持ちの整理がついていない部分ではあるし、課題の一つでもあると思うが、以前よりはかなり納得感を得られたのは大きな収穫であった。

資本主義的な物語とエコロジー思想

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。 そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

建築の温熱環境をどう考えるかは、つまるところ、資本主義の物語に対してどうふるまうか(オルタナティブの問題)、もしくはエコロジカルであるとはどういうことか、という思想によって決まるように思う。

それについて、著者の視点が表れている部分をいくつか抜き出してみる。

流通経済の発展は、私たちがすでに持っているものよりも持っていないもの、地域の良さよりも欠点に目を向けさせ、支出を減らす自給経済よりも、所得を増やす経済へと私たちを駆り立ててきました。(p.113)

暖房や冷房とは、家の中に閉じこもるためのものではなく、この大きな変化を敵視する感情を取り除き、それに親しむ生活を作り出すためのものです。(p.162)

あまりにも身近にあるためにその存在や素晴らしさに気づかず、忘れられ、利用しているという意識も、感謝の思いも、それを傷つけているという自覚さえ失っているもの、その典型が自然エネルギーです。(p.167)

不思議なことですが、自然エネルギーの最大の難しさはそれが無償の富であることで、それを活用する知恵や情報がほとんど伝わってきません。
命にかかわるほどに大事なものであっても、無償である限り、経済でその価値を表現することはできませんし、多くの自然エネルギーはエネルギーの仲間としてさえも認められていません。
多くの人が関心を寄せるエネルギーとは、思い通りになる人工エネルギーとともに経済力で、経済の活性化につながらない問題の解決手法やエネルギーの活用法を伝える情報や知恵が失われ、伝わらなくなっています。(p.177)

潤沢に存在する自然エネルギーは、資本主義による希少化と商品化の物語には乗りにくいが、著者はそこに損得勘定ではなく、オルタナティブとしての物語を見ている。そこが信用に足ると感じる部分でもある。(この本では光熱費がいくら得になる、といった話は出てこない。)

環境破壊への反省あるいは欠点対応としての省エネルギーを”地球にやさしい生活”と呼ぶ人がいますが、果たして地球への暴力を少し控えめにしましょうという程度の省エネルギーが環境にやさしい生活と呼べるのかどうか疑問です。
それよりも、無償の富としての自然の素晴らしさを知り、それに親しみ、慈しみを持って接する生活にこそ本当の優しさがあるのではないでしょうか。
もし、環境保全の視点を”自然に親しむ生活”に移すなら、それは良さ発見型の発想であり、自然と自然エネルギーの活用と生業としている第1時産業こそがその鍵を握っているといえます。(p.214)

”地球にやさしい生活”とは何か、と問われた時にどう答えることができるだろうか。

例えば、同じ様に断熱を強化するとしても、独力での強いエネルギー利用を前提とした省エネの思考と、自然の無償エネルギーを活用し自然に親しむための基盤を得ようとする思考とでは、ベクトルが全く異なるように思う。前者は未だ近代的分断の思考にとどまるが、後者の思考であれば、断熱化を近代的分断の思想から逃れるためのエコロジーの基盤とできそうに思える。

(同じ視点で、私はオフグリッドまでいかない太陽光発電をどう捉えてよいか迷っているとことがあったが、それは省エネの文脈で考えるべきことのような気がした。効果や必要性は認められるし重要な技術には違いないけれども、それはエコロジーの視点からは2次的なものであろう。)

成長するとは自分の回りを変えることではなく、自分自身を変えることです。
創造の課題もまた新しいものをつくることよりも新しい自分を発見することです。
自然エネルギーの特徴は、思い通りになる強さよりも助けを必要とする弱さにあり、地域によって異なる多様性こそが魅力であり、奪い合うことのない無償の富として、私たち一人一人に与えられていることです。
自然と自然エネルギーの素晴らしさをしることは欠点の克服以上に、新しい自分自身を発見する成長への鍵であり、省エネルギーや温暖化防止に勝る、持続可能な成長への課題です。(p.216)

自分を変え、新しい自分を発見することが良さを発見するための基盤となる。生きていく上でも、設計する上でも変わり続けるということは永遠の課題である。

また、本書の終盤では一次産業のあり方にまで言及されるが、それも著者の思想の延長上にある。
建築の温熱環境といってもそれだけに閉じている問題ではない。先に書いたように資本主義やエコロジーをどう捉えるか、生き方全般に関わる問題であるが、それだけに根が深く、個人的にも残された課題が多い問題である。
(ここで、例えば甑島のケンタさんが離島を飛び回ってされていることと、生きていくこと・生活すること、建築を作ることが繋がった。それらが別のものとしか捉えられないところに近代的分断の問題がある。)

次世代へと引き継ぐべき技術

ここでまたもやテンダーさんの言葉である。
先日話しをしていた時に、「資源が不足することが確定している未来にどういう技術を残すのか」というような話をされてハッとした。

今回の強い力、弱い力の問題は、どういう技術を残すべきか、という問題でもある。

特に日本では、伝統をその意味や目的を明確にして継承するのではなく、むしろそれが濃縮され、洗練された形、あるいは様式、構法、慣習として受け継がれる傾向が強いために、それを引き継いできた棟梁や達人がいなくなり、材料や構法が変わると、その形や様式とともにその背後にある精神や意味をも見失ってしまう可能性があります。(p.133)

身の回りが装置化され、ブラックボックス化し、自動制御されると、この生活の知恵が怪しくなってきますが、無償の富である自然と自然エネルギーの素晴らしさを知り、その活用に参加する中で、生活の知恵を積み重ね、研ぎ澄まし、新しい伝統技術として引き渡していくことが大切です。(p.212)

日本では、強いエネルギーによる独力での解決方法と北欧型の断熱技術が進んだ結果、昔ながらの知恵は大部分が建築からのみならず生活全般において失われつつある。それは、引き継ぐ必要のない技術であっただろうか。そこでは技術だけはなくそれに伴う人のふるまいや思想も同時に失われる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。 しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

上記のことはここでも当てはまるように思う。技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。
現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。

これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。
そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。

技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。

そこで重要なのははたらきと循環の思想である。

注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。 その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。 それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

個別のエネルギーのふるまいはエクセルギーという言葉を使わずとも捉えることができるかもしれないが、エクセルギーという概念が与えてくれるのはこのはたらきと循環の流れのイメージである、というのが私の今の理解である。

地球は外断熱された星であり、その中には太陽エネルギーをもとにした様々なはたらきと循環が生まれている。そのイメージを建築に重ねることができれば、さまざまなものが見えてくるのではないか。

うまくいけば思うような建築ができるかもしれない。と期待しよう。

まとめ

断熱をどの程度強化するべきか、に対して思想的根拠を持てていないためモヤモヤしていたのだが、それに対してある程度の考えを持つことができたし、これまで考えてきたことととの接点を掴むこともできた。

昔ながらの日本の民家は、夏に関しては様々な工夫がなされ洗練されたものであったが、冬に関しては寒さの中で暖をとる採暖を余儀なくされてきたため課題が残っていた。
また、北欧や北海道から広がってきた寒地型の断熱手法は、エネルギー利用によるコントロールを前提として夏の工夫を忘れ去るものが多かった。

この、夏と冬の間の矛盾をどう解消するかが大きな課題であることは変わらないけれども、それに対する考え方のベースを得られたことは大きい。

だからといって、一つの確たる正解が得られた訳では無いし、正解があるわけでもないだろう。

都市部と地方では環境は大きく変わるし、活用できる自然も異なる。案件により、立地による環境も、法的縛りも、予算も、住む人の生活スタイルも全てが異なる中で、その都度楽しみながら考えられればと思うが、その時に頼りになり安心感を与えてくれるのは、一つの答えではなく、自分の中の基準である。

2年前から環境をテーマにもやもやしながら考えてきたけれども、ようやく次の一歩が踏み出せそうな気がする。


最後に、終章から、「自然エネルギーの良さを発見する器としての建築」について書かれた部分の小見出しを列記しておきたい。

  • 自然に親しむための器
  • むらのない環境をつくる器
  • 自然エネルギーの個性を尊重するための器
  • 変動から生まれる自然エネルギーを生かす器
  • 自然エネルギーを環境調整の主役にする器
  • 昼の光を活かす器としての建築
  • 夜の光の演出
  • 湿度調整の器としての建築
  • 新鮮な外気を生かす器
  • 無償の富を生かす器としての建築
  • 自然エネルギーを後世に引き継ぐ器としての建築
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