個人のテーマをどこに絞るべきか B291『世界を壊す金融資本主義』(ジャン・ペイルルヴァッド)

ジャン ペイルルヴァッド (著), 山田 雅俊 (監修), 林 昌宏 (翻訳)
NTT出版 (2007/3/1)

現在のテーマに沿って図書館で借りてきたもの。

資本主義とは何か?をテーマに設定してから間もないが、早くもこのテーマ事態に限界を感じつつある。
私たちはこの資本主義に対しては無力すぎるのではないか。テーマが大きすぎるのではないか。
仮にそうだとするならば、それでも自分たちにはどんなスタンスをとりうるのか、というところにテーマを絞らざるを得ないのではないか。

今回は、自分が資本主義に対して無知であり、かつ無力である、というところから率直に感じたことを書いてみたい。
(そんなことはない、もっと可能性があるのだ、という意見があれば取り入れたい)

資本主義は民主主義的なフェアなゲームか

アメリカでは、まず小口投資家神話が経済民主主義のヒーローとして登場した。半世紀も前の1950年代、ニューヨーク証券取引所の理事長であったG・キース・ファンストンは、資本主義神話の中核となる理論を打ち立てたのである。(p.31)

すなわち、株主による投資は選挙による投票のようなものであり、これらの権利を行使することで公平性が保たれ世界は良い方向へ進んでいく、というものだ。
おそらく、多くの人はこの魅力的な理論を未だ信仰しているものと思われるが、それは本当にそうであろうか。

これが、ある程度のスケールの中での話であれば可能性のある話であるかもしれないが、経済が地球規模化し、全てに浸透した”トータル・キャピタリズム”の世界では、競争は激烈なものになり、成長のプレッシャーのみが力を持つようになっていないだろうか。

その地球規模の競争の中では、国は移動の容易な資本には規制をかけることができず、移動の困難な市民や労働者に規制や負担をかけるしか打つ手を持たなくなっている。
その結果歯止めがなくなり、結局は、ごく一部の資産家の金を増やすため、もしくは、一部の富裕層の老後の資金を確保するために多くを犠牲にしつつ世界にプレッシャーが与えられ続けている状態になってしまっているのではないか。
コーポレート・ガバナンスといえば崇高な理念に聞こえるけれども、要するに労働者や企業を植民地化するための体の良い言葉なのではないか。
言ってみれば、一部の年寄りによる集団的搾取の合理化、その浅ましさが形となったのが現状ではないか。

「資本主義はすべての人に同等に機会が与えられているフェアなゲームであり、参加し成果を出さない人が悪い」と言われるかもしれないが、なぜ、年々いびつになっていくその唯一のゲームへの参加が前提になっているのか。なぜ、そんなゲームは嫌だ、というのが許されないのか。もう少しマシなものに変えようとならないのか。
そもそも、本当にフェアなのか。生まれた国、環境、元々の資産に埋めがたい差があっても、個人の意志さえあれば同じような確立でゲームに勝てると本当に思うのか。不遇な状況を詐欺まがいの借金で押さえつけてきているのではないか。

資本主義の正当性を打ち立てる

グローバル化は国家を否定する一方で、政治がその拡大に寄与する場合に限り、グローバル化は政治的手法を受け入れる。グローバル化の共犯者と思われる国家は、現在においてもトータル・キャピタリズムに対抗する、社会の新たなる牽引力としての卓越性を担うことが可能であろうか。この戦いは、挑んでみる価値がある。まずはヨーロッパ、次にアメリカにおいて、株主の合法的に設けたいという欲望を、将来や社会的公正をしっかり見据えた社会の発展と整合させていくのである。(中略)戦いの目的は市場の解体ではなく、政治の領域に市場を再び含有させることであり、市民権の領域に市場を組み入れることである。(p.156)

いや、慰めにはならないとしても可能性がゼロではないだけ資本主義はマシなのかもしれない。
たぶん、本当にそうなのだ。その中で多くの人はよりマシな社会を目指して努力している。

そうだとしても、今の資本主義はいびつになりすぎていて、システムの暴走は人の手に追えなくなりつつある。
もし、「資本主義は世界を良い方向へ導く」「フェアなゲームである」と言いたいならば、人類はそれを制御し、本当にそうなれるための論理を打ち立てる必要がある。そして、それは、もし皆がそれを望みさえすれば割りと単純な話なのかもしれない、とも思う。
そうでなければ、「資本主義は”私にとっての”世界を良い方向へ導く”私にとっては”フェアなゲームである。それが何か?」と言い換えたほうがよいのではないか。

やるべききことははっきりしている。 国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣))

おそらく、人類としての結論としては、ここに行き着く他ないような気がする。

そうなると、個人のテーマをどこに絞るべきか。それが問題だ。
個人がそのまま世界規模のルールを決めることはできないだろう。その上で自分はどう振る舞うべきか、の足場を固めること。

これがある程度見えてくれば目的達成かな。
あまりシリアスになっても面白くないので違うテンションのあり方を探そう。

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