B215 『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』

東 浩紀 (著)
講談社 (2007/3/16)

読んだつもりになっていたけど未読だったので読んでみた。

その時与えられた課題は「ポストモダンの文学」だったが、当時の筆者には、その課題のもとではどうしても工程的な議論が立てられず、「ポストモダンでは文学は求められなくなる」としか考えられなかったのである。(中略)筒井氏より託された重い宿題をようやく終わらせることができたと感じている。本書は筒井氏に捧げたい。(p.333)

さすがに内容は面白かったのだけど、ポストモダンと向き合う著者の物語がそこにあることを知ってより面白く読めた。

物語とリアリティの行方

さて、自分としての関心はポストモダンのさなかにあるリアリティとは何か、また、そこで物語というものがあり得るとしたらそれはどのようなものか、という点にある。

yuwagaki: 平成振り返りモノの1つと思って読んだら、とんでもなく重みのある文章だった。最後の物語化の話は特に。 吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB[2019/03/15]


というツイートを見かけて読んだ記事、
吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB

それこそ、連続幼女誘拐殺害事件から障害者施設殺傷事件とか、今に至るまでの事件の加害者に聞いてみたらですね。日本、世界、人間がどんな愚かなことをしてきたか、戦争についてほとんど知らないですよ。びっくりするほど知らないです。

――平成の次の時代はどうなっていくでしょうか、またどうなってほしいでしょうか。

「妄想から物語へ」です。平成の時代の事件というのは、みんなそれぞれに加害者の側が頭の中でいろんなグロテスクなキャラクターを思い浮かべたりとか、自分の力を誇大に考えてみたりとか、妄想を起こすんですよね。それが現実化した時に事件が起きる。でもそれをどうやって物語にしていくか。物語っていうのは妄想ではなくてやはり起承転結がなくちゃいけないし、起承転結を追って、読者と他者が共有できる。自分の中にあるいろんな妄想を、きちんと他者に語れるような、他者と了解可能のようなそういう物語にしていく。それはとても大事なことだしちょっとした、それは芸術の世界に入ってくる。
我々の多くは、攻撃性が自分の中にあったとしてもすぐに事件を起こすようなことはしないんですけれども、事件を起こす加害者たちは犯行に及んでいる。それをなんとか物語にできるようにする。そのためには知識が必要ですし、他者に語る言葉が必要ですし、効果的に伝えるためには技術も必要ですし、そういう技能というものを身につけていく。そういうことが可能になれば、多分、次の時代というのは、嫌な事件がいっぱいあったこの時代を越えていけるかもしれないというふうに思っている。

ここで吉岡氏は「歴史の蒸発」と「妄想から物語へ」という2つのフレーズを提出しているが、ポストモダンな社会では歴史の蒸発は必然的帰結とも言えるし、物語の共有も困難になるはずである。

氏の言うように物語のための知識や技術、豊かな言葉を持とう、というのはよく分かるし、多くの人にとって有効な処方箋足りうるのだと思う。しかし、歴史や物語を享受する事が困難になった社会では、多くの人がイメージする歴史や物語に馴染めなかったり、そこにあるはずのレールから外れてしまう人、そういう状態で子供時代を過ごしてしまう人も多数生まれてしまう。また、そういう人の一部が加害者になってしまったとも言えるように思う。

だからこそ、氏の言う「妄想から物語へ」がより重要になってくると思うのだけれども、その間には大きな溝がある。その溝を埋めるためには、まず、そういう外れてしまった人が接続できるような物語やリアリティとはどのようなものか、その行方を示そうとする本書のような試みが必要になってくるのだと思う。

受動と能動 肯定と選択

 
今まで、歴史と物語は教育されるもの、そこにあるものを受け取るもの、であったのかも知れないが、それをそのまま受け取ることが難しくなっているのがポストモダンの世界である。
だとすれば、まずはそこの認識を変える必要があるのではないか。

彼らの作品は、このゲーム的でメタ物語的な想像力に満ちたポストモダンの世界において、特定の物語を選ぶことはどのような意味を持っているのか、という共通の問いへの回答を抱えている。(p.282)

そこで三人目は、選択の根拠づけを断念し、とりあえずは目の前の世界を肯定することを選ぶ。(中略)一人目や二人目と異なり、あるいは「ゲームのような小説」を否定した大塚と異なり、世界の多数性の認識がこの世界の肯定を妨げるとは考えない。(p.285)

私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている、そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そして他の物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読む限りでの、「九十九十九」の一つの結論である。(p.287)

この引用分もまた、ポストモダンにおける在り方の一つを暗示しているに過ぎないのだと思う。
だけれども、歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

そして、そういった態度を肯定するような建築の在り方というものもきっとあるはずだと思うのである。




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