想像力を再構成する B304『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』(マーリン・シェルドレイク)

マーリン・シェルドレイク (著), 鍛原多惠子 (翻訳)
河出書房新社 (2022/1/22)

前回の『マザーツリー』の関連で菌類の話。

菌類は私達の身近なところにあり、生活に深く関わっていながら多くの人は菌類のことをそれほど深くは知らない。
本書では、その生態や能力、可能性などがさまざまな角度から描かれていて、内容は驚くことばかりだ。

菌類は、私達が持つ生命についてのイメージを書き換えることを迫る。

進化生物学者のリチャード・レウォンティンは、隠喩を使わずに「科学の仕事」をすることは不可能であって、それは「現代科学全体が人間によって直接に経験することはできない減少を探求の対象にしているからだ」と指摘した。その結果、隠喩とアナロジーに人間が語る物語や価値観が織り交ぜられる。科学のアイデア ― このアイデアも含めて ― の議論は文化のバイアスから逃れられないのだ。(p.258)

「植物が隣の植物に反応するのを観察したからと言って」とジョンソンは私に言った。「それが何らかの利他的なネットワークが働いていることの証にはなりません」。樹木が互いに話をしていて、襲撃があると互いに警告し合うというアイデアは擬人化の幻想だ。「つい、そう考えたくなりますが」と彼は認めた。所詮は「無意味なのです」。(p.203)

キアーズが指摘したように、「私たちが語る物語を考え直す必要があるのです。私は言語の枠を超えて現象を理解したいと思います」。もう一度、この行動がそもそもなぜ進化したかを問うのがいいのかもしれない。誰が利益を被るのかが問題なのだ。(中略)またしても、利他主義の問題に突き当たるのだ。やはり、迷路を抜け出すいちばんの手っ取り早い方法は視点を変えることだ。寄生する複数の植物に警告をすることが菌類にとってなぜ有利なのか。(p.203)

つい先日、とある雑談で『マザーツリー』が話題に出て、「マザーツリーの著者は西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」という話があった(ニュアンスは多少違ったかもしれない)。
マザーツリーの著者シマードは、皆伐を主とした短絡的な森林政策を変えたいという強い動機があり、それに対する強い反発もあるため、西欧的なわかりやすいストーリーで伝える必要があっただろうし、シマード自身が西欧的なものの見方に対する違和感を書いており、自身がそこから抜け出すことの困難さを自覚もしている。
しかし、自然を利他的に擬人化して捉える傾向があることは確かだろう。

先程の問いかけ、「西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」は、直感的には自分自身に何か関係がありそうな気がするのだが、まだぼんやりとしていてうまく掴めない。
この直感はどこから来るのだろうか。

本書で取り上げられている地衣類は単独の生命ではなく、菌類と藻類が一体となって共生している不思議な生き物だ。地衣類は岩を土壌へと変え、植物が地上に進出することを可能にし、宇宙の過酷な被爆環境の中で生きられるほぼ唯一の生物だという。その生態は、それまでの生物の常識では捉えられないことばかりである。
地衣類の研究者は、その常識外の生態が投げかけるものを「地衣類の閃き効果」と呼び、地衣類のアイデンティティは、前もって分かっている答えではなく、問いだという。そして、地衣類を他の何物でもない地衣類として見ることを強調する。

また、シマードの論文をきっかけに生まれた「ウッド・ワイド・ウェブ(www)」という言葉は、私たちに馴染みの深い植物をノード、それらをつなぐ菌根菌をハイパーリンクに過ぎないと暗示し、植物中心の捉え方を助長するという。実際には菌根菌は菌根菌としての戦略のもと生きており、水や養分の流通の采配権を握ってさえいる。菌類の視点からみれば、ユクスキュル的な菌類の世界があり、彼らはそこで自らの利益を基準として生きているだけかもしれない。
もちろん、生物が自己の利益を求めて行動し、そのことが生き残る確率を高めるはずだ、というダーウィン的な捉え方も一つの視点にすぎないだろう。ネットワークは、インゴルドが言うように、植物が植物し、菌根菌が菌根菌する、はたらきのラインが複雑に絡まり合ったメッシュワークの一つの現われに過ぎないのかもしれないし、それをありのままに見ようとする姿勢が必要なのだろう。

私たちは、予測や想像のできることしか考えることができないし、隠喩なしには見えないものを想像できない。
設計においても、私自身の想像の範囲や世界観を超えたものが設計されることは、決してない。

私が求めているのは、世界を救う方法ではなく、どちらかというと、世界を確かなものとして捉え生きていくための方法と想像力なのである。

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンの主張を正確に読み取れている自信はないけれども、自然と対峙する際、自然を何かしらの枠に入れ込んで距離を固定してしまう(分かった気になってしまう)のではなく、距離においてとどまりリズムを立ち上げる、ということがおそらくは重要で、それがエコロジカルな態度なのだ。
それでもなお、色鮮やかな想像力を手に入れることは可能なのだろうか?もしくは、むしろ、それによってしか手に入れられないのだろうか?いずれにせよ、想像力を再構成してみる必要はありそうだ。

本書の邦題は『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』である。
またしても、という気がするが、現代は『Entangled Life: How Fungi Make Our Worlds, Change Our Minds & Shape Our Futures』でgoogleで直訳すると『絡み合った生命: 菌類がどのように私たちの世界を作り、私たちの心を変え、私たちの未来を形作るのか』である。
邦題のほうが本が売れるという判断なのだろうが、個人的には原題の方が興味がそそられるし、放題にはハズレ本の匂いを感じさえする。(そして、偶然にも本書と並行してい読んでいる本が『絡まり合う生命 Life entangled』だった!)

本書を読む限り、著者のメッセージは、「菌類はこんなにすごいぜ、世界を救うぜ!」ではなく、「こんなにも知らない世界があり、私たちの世界の捉え方を変えてくれる。そのためにも、あるがままに世界を捉えるにはどうすればいいのだろう?」ということにあるように思う。その点でも原題のほうが魅力的だ。まーよくある話だけれども。

それはともかく、本書を通じて、これまで固まりつつあったイメージに穴があいて少しモヤッとしてしまった。
ある意味後退したとも言えるけれども、新たなイメージが生まれるための余白が生まれたと捉えよう。
菌類に関しても、もう少し学び、少しだけ付き合ってみたいと思っている。

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