B185 『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』

J.J.ギブソン (著)
サイエンス社 (1986/03)

この本の原文は1979年、私が4歳の頃に出版されたものである。
このブログでもアフォーダンスについてはいろいろと書いてきているが、そのベースとなる本書は専門的すぎて難解なのでは、という思い込みをあってこれまで読んでいなかった。

しかし、そろそろきちんと自分の中に落とし込まなければと思い読むことにしたのであるが、想像よりずっと読みやすかったのでもっと早く読むべきだったと思う。

|  生態学転回と建築及び概念的なものとの関係

ギブソンはまず、動物における知覚と人間の観念・概念的なものを明確に分ける。
これまでは哲学や物理学の影響から、物理学的空間観をベースに私と環境が二分された世界観の上に知覚が考えられていた。
しかし、ギブソンはプラグティズムの流れから動物や人が生きていくための徹底した視線から環境を描き出していく。
そこから、導き出される環境は知覚するものと相互依存的な関係で互いに切り離せないもので、物理学的空間とは大きく異るものであった。

その根本的変化をある本では生態学転回と呼んでいる

そこで頭に浮かぶ問いは、

(1)そこから導かれる建築像はどのようなもので、それは望ましいものであるか。
(2)ギブソンの理論において概念的なものは一旦棄却されるが、それは建築においてどのように考えればよいか。
(3)設計の方法はどう変わるか。

の3つである。
(1)についてはこれまでに考えたことをもとに前回まとめてみたが、今回ギブソンを読んだことをもとに新たに考えてみたい。
また、(2)についてもいくつかヒントをつかめた気がするので考えをまとめてみたいと思う。
(3)に関してはこれまで何度か触れている。設計に対する態度のようなものの転回は多くの可能性を秘めていると思うし具体的に実践していく上で重要だと思うが、主眼を(1)(2)に置くために今回は省略する。

|  生態学的情報とリアリティ

先日、実家である屋久島に帰り、この本を読みながら時間を見てはあたりを歩きまわって知覚について考えていた。
そこでは都市部の風景に比べ明らかに環境の情報が多様で複層的であり、それはミクロなスケールからマクロなスケールに渡って密実なものであった。

情報量が多いということは一見煩わしいことに思える。
しかし屋久島で受けた印象ではそれは煩わしいどころかとても心地よく感じるものであった。
それはおそらく情報の質によるものだろう。

ギブソンは眼が刺激として受け取った入力情報が脳に送られ処理されることで知覚が生じるという一般的なイメージを明確に否定し、環境にある情報を直接的に抽出し知覚するという。
都市部における情報の多くは概念的産物であったり認識の必要な記号的なものが多く、知覚の情報のもととなるものは画一的で単純、貧しいものであるが、屋久島での散策時の情報はその殆どが直接知覚できる、いわば生態学的情報と言えるものであった。

情報の質が生きることのリアリティの質に何かしら関わっていることは間違いないと思う。
これは私の感覚的な推測でしかないが、屋久島で感じたような直接的に知覚できる情報が生きることのリアリティのある領域での密度を高め、逆に概念的情報はそれを阻害するノイズになると仮定できないだろうか。
そうだとすると、直接的に知覚できる情報の質、この本で言われるところの不変項もしくはアフォーダンスの質は、私が建築に求めるものとしてこれまでイメージしてきたものの源泉の一つと言えるかも知れない。

|  不変更の表現者としての建築家

本書の終盤で絵画や映画と視覚的経験に関することが論じられているが、その中で、画家は目の前の景色だけでなくそれまでの自身の経験の中で抽出した不変更を用いて表現することができる、といったことが述べられていた。
同様に設計者が自らの経験の中で捉えた不変項(アフォーダンス)を再構成するというようなことが可能かもしれない。

建築は環境の多くの部分を占め(リアリティの質を担うと考えられる)直接的に知覚できる情報の多くを負っている。
しかし、現代の環境を見渡してみるとその多くは概念的なものに囚われ、便利さや安全性を満たしてはいても情報の質としては貧しい物がほとんどのように思う。

ここで建築家の役割の一つを「その場所や状況から抽出したり、建築家自身の経験の中で捉えた不変更を用いることによって、生きることのリアリティの密度を高めるように環境を再構成すること」と定義できないだろうか。
そうすることで、ギブソン的知覚論を建築に結びつけることが可能になると思うし、それは(少なくとも私の経験では)望ましいことのように思える。
また、再構成によってその質を「既知の中の未知との出会い」のように新鮮で豊穣さを持ったものに高めることができるかもしれない。

|  概念的なものの相対化

先ほど、概念的なものをノイズと表現したが、それは直接的知覚に限って考えた場合である。
しかし、人間は社会的な存在であり、例えば社会性や歴史、文化と言ったものも生きていく上で重要なものであると思う。(なので先程は「生きることのリアリティのある領域」という書き方をした。)

それは知覚の理論とは別の位相の問題だと考えられるが両者の間に接点はないのだろうか。

この本では「定位」「公共的認識」といった言葉が出てきた。その感覚もとい知覚は基本的には知覚者のものであるが、社会的に共有可能なものと言えないだろうか。
そうだとすると、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などにおいてそれらの中に存在する不変項もしくはアフォーダンスを抽出・再構成することによって、それらを共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができる気がする。

それは例えばフィールドワークによってなされるかもしれないし、「素材の流動」によってなされるかもしれない。
そこでは概念的な思考の手続きを踏むかもしれない。しかし、もしそのことが可能だとすると、直接的知覚経験から導かれた建築に、さらに建築的な遠投力のようなものを重ねることができるかもしれないし、「都市と接続する」といったことが可能になるかもしれない。

その際、純粋な知覚的アフォーダンスに、社会的アフォーダンスとでも呼べるものを加えて相対化することによって、それらを同列・同時に扱いながら建築を考えることができるようになると思う。

それが出来た時、建築はおそらくさまざまな複層的なリアリティを同時にかつ”直接的に”知覚できるものになるように思う。
それはおそらく建築であるからこその可能性であろうし、建築の責任でもあると思う。




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