ケンペケ03「建築の領域」中田製作所

6/6に中田製作所のお二人を招いてのケンペケがあったので参加してきました。
今回はレクチャー1時間前から飲み始めてOKというプログラムで、なおかつ公式レビューは学生さんたちの担当だったので気楽な気持ちで飲みながら参加。
(体調不良もあったのですが、雰囲気が良くて飲み過ぎてしまい早々にダウン気味に。いろいろお聞きしたかったのにちょっともったいないことをした・・・)

公式レビューは近々学生さんたちからアップされると思います。なので、あまり被らないようにイベントの感想というよりは自分の興味の範囲で考えたことを簡単に書いておきたいと思います。(と書きながらめっちゃ長くなった・・・)

|  「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。そして、その視点から中田製作所、HandiHouse Projectの取り組みには以前から興味を持っていました。

このブログやフェイスブックで何度か書いているので重複する部分も多いですが再び整理してみようと思います。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が分断されている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものとして成立していて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている。また、その分断化には「所有すること」の意識が強くなったことも寄与していると思います。

先の引用のように、建てることと分断された住まうことは、住まうことの本質の一部しか生きられないのだとすれば、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるか、と言うのが命題になると思います。
ただ、私の場合はあくまでそこに住まう人にとっての本来的な「住まうこと」、言い換えればリアリティのようなものを取り戻したい、というのが根本にあります。ただ「建てること」を取り戻したい、のではなく「住まうこと」を取り戻したい。よって、そのために「建てること」を「住まうこと」の中に取り戻したい。という順序であるということには意識的である必要があると思っています。

では、どのようにすれば「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができるでしょうか。

これまで考えたり今回のイベントを通して考えた限りでは3つのアプローチが思い浮かびます。

|  1.直接的に「建てること(つくること)」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「建てること(つくること)」に巻き込むことによって「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す方法があるかと思います。中田製作所のアプローチはこれに近いかもしれません。
これはそのまんま建てることを経験するので効果は高いと思うし、その後の効果の持続も期待できるように思います。
原因となる分業化のタテの構造そのものを並列に転換するようなアプローチですが、建てることの中にいろいろな住む人と並列した存在が入り乱れるような状態が生まれ、それによって「所有すること」の意識も解きほぐれるような気もします。(たぶん、それによって違う展開が可能な気もしますがとりあえず置いておきます。)

|  2.「建てること(つくること)」の技術に光を当てる

住まう人が直接つくることに関わらない限り、この分断は乗り越えられないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば建てる(つくる)行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置する、という行為になってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこではまだつかうこととつくることの間の連続性は保たれていたのだと思いますし、その連続性の中に職人の存在する意義があった(つかう人に「つくること」を届けることが出来た)のだと思うのです。

ですが、工業化された商品を配置するという行為だけではつかう人のつくるという行為を職人が代弁することは困難ですし、それではつかうこととつくることの連続性における職人の存在意義は失われてしまいます。職人が職人でいられなくなると言ってもいいかもしれません。

ここで、1のセルフリノベのようなことが職人の居場所を奪わないか、また技術をどう継承するか、といった疑問が浮かんできますが、私は必ずしも相反するものではないと思っています。
セルフリノベ自体は「つかうこと」と「つくること」の連続性とそこで生まれる喜びを人々の中に取り戻すことができる一つの方法だと思います。
だとすれば、セルフリノベのようなことによって先ほど書いたような職人の存在意義が浮かび上がってくる可能性があるように思いますし、対立ではなく同じ方向を向くことでお互いの価値を高め合うことができる気がします。
セルフリノベによって浮いた予算を職人の技術にまわすような共存の仕方もあるかもしれない。

ここで、どのような技術がつかう人のつくるという行為を代弁しうるか、というのはなかなか捉えにくいように思いますが、その技術に内在する手の跡や思考の跡、技術そのものの歴史などがおそらくつかう人のつくるという行為を代弁するのではという気がします。
そういう代弁しうる技術があるのだとすれば、そういう「建てること(つくること)」の技術に光を当てることが、「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことにつながるように思います。

|  3.「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く

もう一つは設計という行為に関わることです。(この場合設計という行為は図面を書く、ということに限らない)
先ほど職人の存在意義のようなことを書きましたが、これはおそらく設計者の存在意義に関わることです。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。 (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。

オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました

簡単に説明することは難しいので、引用元のページを読んで頂きたいのですが、例えば、『建築に内在する言葉(坂本一成)』で書いているような象徴に関わるような操作や、先の引用元の設計コンセプトなどによって「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く共通の概念のようなものを生み出すことによって、住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができる可能性があるように思います。

設計という行為の中にもそういう可能性があると信じられることが大切で、設計者はそれが実現する一瞬のために皆もがき続けているように思いますし、その探求の中にこそ設計者の存在意義があるのでは、という気がしています。

|  つくりかたを試行錯誤する

とりあえずは、上記の3つが思い浮かびます。これらは新築とかリノベとかの別はなく、おそらくプロジェクトに応じて適切なバランスのようなものがあるように思いますし、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っていると思うのでそのあたりのバランスには敏感でありたいと思っています。

自分自身は新築住宅の設計の仕事が多いのですが、お客さんと一緒につくるようなこともしますし、予算が許せば色気のある技術を使いたいと思います。当然設計そのものが持つ力も信じて取り組みたいと思っています。そうしながら、最初に挙げた生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるかというテーマに応えられるようなつくりかたを、さらに試行錯誤して考えていきたいと思っています。

途中「設計はなるべくクオリティを高めたい、施工はなるべく簡略化して利益を出したい、その相反することをどう乗り越えるのか」というような感じの質問が出ました。それに対して「相反するものではないような気がする」というような応答があったのですが、自分のこれからにも関連しそうなので少し考えてみます。

私も、予算を抑えることが主な理由で一部自分で日曜大工的につくったり、お客さんと一緒に塗装をしたりしています。
最初はその作業をボランティアのように位置づけていたので「設計料は貰っているけれども、無料でそれ以外の仕事をするのはプロとしては好ましいことではないのではないか。なにより本職のプロに失礼ではないか」と悩む時期がありました。しかし、ある時に「名目としては設計監理料だけれども、これは「建築を建てることでお客さんが最終的に満足する」ということをサポートする行為に対する対価として頂いている」と位置づけることでその悩みは解消することが出来ました。その目的のために手を動かすのはおかしいことではないし、その対価も含まれていると考えれば納得できる。

考えてみれば、設計も利益を出そうとすればクオリティなど言わずになるべく考える時間を減らし簡単に済ませたほうが効率的なはずです。しかし、なぜ設計者の多くがそうではなくクオリティのために自分の時間を捧げるようなことをするかというと、やはりお客さんに一番近い位置にいるからで、お客さんの満足度を高めることが最終的には一番自らの利益につながると考えるからだと思います。また、なぜ施工が簡略化して利益を出したいと思うかといえばお客さんからの距離が遠くなってしまっていて利益を出す構造がそこにしかないからだと思います。(多くの公共工事の設計はお客さんの顔が見えないので効率を求めるような思考が強い気がします。また、お客さんの満足度をしっかり考える施工者が多いのも知っているので、意識の問題というより構造の問題かと思います。)

そうだとすると、中田製作所のように設計も施工もお客さんと横並びの状態に変えられた段階で先に上げた相反する構造は解消されるような気がします。皆がお客さんに近い場所で同じ方向を向くことができる。

自分のことに置き換えると、最近、つくりかたを変えていこうとする場合に、「お客さんの満足度を高める」ということを見失わずに、なおかつ利益を出すようなつくりかたをどうすれば実現できるのか、と考えることが多くなってきました。
今は設計監理料(という名目)の枠組みの中でできることを模索している段階ですが、もう少し大胆な方法もあるのでは、という気がしています。

時々ちょっとやり過ぎて自分の首を絞めたり、周りに負担をかけてしまうことがあるので何とか探り当てないといけないと思うところです。




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