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個人のテーマをどこに絞るべきか B291『世界を壊す金融資本主義』(ジャン・ペイルルヴァッド)

ジャン ペイルルヴァッド (著), 山田 雅俊 (監修), 林 昌宏 (翻訳)
NTT出版 (2007/3/1)

現在のテーマに沿って図書館で借りてきたもの。

資本主義とは何か?をテーマに設定してから間もないが、早くもこのテーマ事態に限界を感じつつある。
私たちはこの資本主義に対しては無力すぎるのではないか。テーマが大きすぎるのではないか。
仮にそうだとするならば、それでも自分たちにはどんなスタンスをとりうるのか、というところにテーマを絞らざるを得ないのではないか。

今回は、自分が資本主義に対して無知であり、かつ無力である、というところから率直に感じたことを書いてみたい。
(そんなことはない、もっと可能性があるのだ、という意見があれば取り入れたい)

資本主義は民主主義的なフェアなゲームか

アメリカでは、まず小口投資家神話が経済民主主義のヒーローとして登場した。半世紀も前の1950年代、ニューヨーク証券取引所の理事長であったG・キース・ファンストンは、資本主義神話の中核となる理論を打ち立てたのである。(p.31)

すなわち、株主による投資は選挙による投票のようなものであり、これらの権利を行使することで公平性が保たれ世界は良い方向へ進んでいく、というものだ。
おそらく、多くの人はこの魅力的な理論を未だ信仰しているものと思われるが、それは本当にそうであろうか。

これが、ある程度のスケールの中での話であれば可能性のある話であるかもしれないが、経済が地球規模化し、全てに浸透した”トータル・キャピタリズム”の世界では、競争は激烈なものになり、成長のプレッシャーのみが力を持つようになっていないだろうか。

その地球規模の競争の中では、国は移動の容易な資本には規制をかけることができず、移動の困難な市民や労働者に規制や負担をかけるしか打つ手を持たなくなっている。
その結果歯止めがなくなり、結局は、ごく一部の資産家の金を増やすため、もしくは、一部の富裕層の老後の資金を確保するために多くを犠牲にしつつ世界にプレッシャーが与えられ続けている状態になってしまっているのではないか。
コーポレート・ガバナンスといえば崇高な理念に聞こえるけれども、要するに労働者や企業を植民地化するための体の良い言葉なのではないか。
言ってみれば、一部の年寄りによる集団的搾取の合理化、その浅ましさが形となったのが現状ではないか。

「資本主義はすべての人に同等に機会が与えられているフェアなゲームであり、参加し成果を出さない人が悪い」と言われるかもしれないが、なぜ、年々いびつになっていくその唯一のゲームへの参加が前提になっているのか。なぜ、そんなゲームは嫌だ、というのが許されないのか。もう少しマシなものに変えようとならないのか。
そもそも、本当にフェアなのか。生まれた国、環境、元々の資産に埋めがたい差があっても、個人の意志さえあれば同じような確立でゲームに勝てると本当に思うのか。不遇な状況を詐欺まがいの借金で押さえつけてきているのではないか。

資本主義の正当性を打ち立てる

グローバル化は国家を否定する一方で、政治がその拡大に寄与する場合に限り、グローバル化は政治的手法を受け入れる。グローバル化の共犯者と思われる国家は、現在においてもトータル・キャピタリズムに対抗する、社会の新たなる牽引力としての卓越性を担うことが可能であろうか。この戦いは、挑んでみる価値がある。まずはヨーロッパ、次にアメリカにおいて、株主の合法的に設けたいという欲望を、将来や社会的公正をしっかり見据えた社会の発展と整合させていくのである。(中略)戦いの目的は市場の解体ではなく、政治の領域に市場を再び含有させることであり、市民権の領域に市場を組み入れることである。(p.156)

いや、慰めにはならないとしても可能性がゼロではないだけ資本主義はマシなのかもしれない。
たぶん、本当にそうなのだ。その中で多くの人はよりマシな社会を目指して努力している。

そうだとしても、今の資本主義はいびつになりすぎていて、システムの暴走は人の手に追えなくなりつつある。
もし、「資本主義は世界を良い方向へ導く」「フェアなゲームである」と言いたいならば、人類はそれを制御し、本当にそうなれるための論理を打ち立てる必要がある。そして、それは、もし皆がそれを望みさえすれば割りと単純な話なのかもしれない、とも思う。
そうでなければ、「資本主義は”私にとっての”世界を良い方向へ導く”私にとっては”フェアなゲームである。それが何か?」と言い換えたほうがよいのではないか。

やるべききことははっきりしている。 国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣))

おそらく、人類としての結論としては、ここに行き着く他ないような気がする。

そうなると、個人のテーマをどこに絞るべきか。それが問題だ。
個人がそのまま世界規模のルールを決めることはできないだろう。その上で自分はどう振る舞うべきか、の足場を固めること。

これがある程度見えてくれば目的達成かな。
あまりシリアスになっても面白くないので違うテンションのあり方を探そう。




資本主義を使いこなすことは可能か B290『資本主義の中心で、資本主義を変える』(清水 大吾)

清水 大吾 (著)
NewsPicksパブリッシング (2023/9/6)

資本主義を知るためには、資本主義の中心にいる人の考えも知る必要があると思い、本屋でタイトル買いしたもの。

著者は外資系証券会社であるゴールドマン・サックスで16年間勤め、その内部で資本主義を変えることに奔走した方で、資本主義の現在地を知るためにはうってつけの著書かもしれない。

結論を先に書くと、ある部分での解像度は上がったと思うが、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」「資本主義を使いこなすことは可能か」という問いに関してはもやもやとしたものが残ってしまった。

私個人としては「資本主義を使いこなすことは可能か」という可能性の問題の前に、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」という原理の方にまず関心がある。というのも、まず前提の根拠が分からないことには成長ありきの前提のもとで考えるか、現実に目を塞いたまま前提を否定するかの選択になり、どちらにしても霧がかかった視界不良の中を進むことになる気がするからだ。

資本主義と投資家

まず、著者は資本主義の根本原理を
資本主義=所有の自由×自由経済(競争の増幅装置)
として定義し、「成長の目的化」「会社の神聖化」「時間軸の短期化」といった問題はラーメンのトッピングのように副次的に発生したものにすぎないとする。

この中で、特に根本的な問題であると思われるのは、「時間軸の短期化」のように思われる。
企業の活動にはそれにふさわしい「固有の時間軸」があるが、1年または4半期の情報開示や短期目線の投機家の活動により、その固有の時間軸よりも短期の成長のみが優先化される傾向がある。

これがひいては「成長の目的化」「(バーター取引を含む)会社の神聖化」につながるため、企業はその企業文化と企業の固有の時間軸を理解した、長期目線の有能な投資家とつながることが重要である。

その上でESG(Environment:環境 Society:社会 Governance:企業統治)またはROE(Return on Equity:資本利益率)に加えて、著者の提案するROE(Return on Earth:地球資源利益率)などを投資の基準・価値観として浸透させていくことで、資本主義を使いこなし「資本主義を世界の持続可能性に貢献するものに変える」。これが、本書の主旨、著者の願いであろう。

資本主義を使いこなすことは可能か

著者の活動は資本主義を改善していくための尊い活動であることに異論はない。

その上で、私個人としてはまだモヤモヤとしたものが残っている。
これは私の勉強不足もあって幼稚なものかもしれないとも思うが、今後の課題としてそのモヤモヤを書いておきたい。

・「成長至上主義」的な手段の目的化は免れたとしても、資本主義の原理は依然、競争と成長にあるのではないか。本書の中でもその前提は確たるものとして存在しているように思う。仮に、地球資源の使用の絶対量を増加させない、もしくは減少させるような成長が可能だったとしても、指数関数的に必要となる成長に反比例して資源利用の絶対量を抑えるような技術革新を続けることは不可能ではないのか。
・投資が慈善事業ではないとすれば、成長を強要するプレッシャーは避けられないのではないか。それとも、成長を抑えた上での共存の可能性があるのか。
・投資家が、資本主義において企業にガソリンを提供するような重要な役割を担うことは分かったが、地球上の大部分の富を専有する数%の投資家が地球の将来を決定するような構造に無理はないのか。彼らの選択が最善を目指すということを担保するようなものは何か存在しているのか(そうであるなら南北格差はとうに是正されていてもおかしくないと思うが・・・)。対抗する現実的手段はあるのか。(投資家とは誰か、ということの解像度も高めたい)
・企業活動による利益は基本的に投資家(株主)のものである、という原理は分かるが、そこにゲームとしての不平等はないのか。多くの人ががそれに納得して前提として疑っていないようにみえるが、なぜなのか。その前提の絶対性はどこからきているのか。
・投資家と比べて投機家と呼ばれる人たちの社会的役割は何か。メリットとデメリット、それらの重みはどの程度か。
・本書内で環境原理主義と斬り捨てるように”見える”場面があったが、それは著者の目指す世界に向けてのプロセスとして正しかったのか。その後の「絶対的な正義はない」という話や独自のストーリーの話は共感できたが、声に出すことそのものを当たり前にすることの重要性を考えるならば少し違った書き方があったのではないか。(ここは難しいところで自分の課題でもある)

要するに、
・資本主義の原理と基本的なルールを変更せずとも持続可能な社会とすることは可能か。変更が必要であるとするならばどのような可能性があるか。また、その上で著者の活動はどのように位置づけられるか。
ということはまだ良く分からなかった。

繰り返すが、著者の思いや活動は尊いものだと思うし異論はない。
しかし、だからこそその意味をもう少し理解できるようになりたいし、もし続編が出たら読んでみたい。




システムから選択肢を考える B289『地球のなおし方』(デニス・メドウズ ,ドネラ・H.メドウズ ,枝廣 淳子)

デニス・メドウズ (著), ドネラ・H.メドウズ (著), 枝廣 淳子 (著)
ダイヤモンド社 (2005/7/15)

少し前にテンダーさんにお借りした本です。

地球環境に対してどのような選択をするべきか、システム思考をベースに易しく語りかけてくるような本。

システム思考

システム思考とは何か。
それをこの本を読んだだけで理解できたと言えないけれども、目の前の認識可能な事象だけではなく、全体をシステムと捉えた上でシステムの挙動を考えながら判断するべきで、その挙動に効率的に働きかけられるような行動をとるべき、という感じだろうか。

上の図で言えば、多くの人は出来事やそこに見える行動パターンをもとに判断をすることが多いが、その裏に潜む構造・システムやさらにその裏にある無意識や前提のようなものこそが変革には重要となる。

本書にある、その変革に向けたアプローチのツールは「ビジョンを描くこと」「ネットワークをつくること」「真実を語ること」「学ぶこと」「慈しむこと」の5つで一見地味な言葉ばかりだが、一番奥にあるものを変えない限りは変革は起こり得ないことを考えると、これらのことが一番力を持つのかもしれない。

前回見た市民革命などを考えても、ビジョンさえ浸透すれば希望はある、と思わせてくれる本だった。

どのような選択をするべきか

『資本主義の次に来る世界』などでもたくさん紹介されていたけれども、本書でもコンピューター・モデルを用いたシミュレーションによるシナリオが紹介されている。
本書が20年前のものであるという点も含めて参考になったので、比較しやすいようにシナリオごとに並べた上でいくつかをピックアップしてみた。
また、2005年(出版当時)、2023年(現在)、2050年(例えば2010年に生まれた子どもが40歳の年)、2080年(その子ども(孫)が40歳の年)を参考に追記している。

例えば、汚染除去や農業関連の技術が導入されるが、省資源化や人口抑制、工業生産抑制を行わなかった場合のシナリオ5では、孫が大人になる頃には環境は崩壊をはじめてしまう。
これは、1950年頃の状況に強制的に戻らざるを得ない、というだけでは済まないだろう。資源は底をつきはじめているし、それまでの経済成長を前提とした社会が急激に変化する中で、失業や食糧不足、社会不安やそれに伴う紛争など想像もできないような不安定な社会が待ち受けているかもしれない。
自分の子どもや孫がそれに直面するかもしれない、というイメージはまだ多くの人には共有されていないかもしれないが、その可能性をまず受け入れる必要がある。

このシミュレーションは、シナリオ5を回避し、シナリオ9の持続可能な社会とするためには、省資源化に加え、人口抑制と工業生産抑制の必要があることを示しているが、それは成長主義的な資本主義のシステムを変革することが必須であるということだ。

そういう選択を我々はすることができるだろうか。

このシミュレーションが20年前のものであり、シナリオの前提となる技術の進歩が不確定であり、さらに南北格差の問題や社会的変革の難しさを考えると、乗り越えるべきものは多いし、消費財やサービスが本当にこれほど必要か、という議論もあるだろう。
現在でも多くの人は「経済成長より持続可能な社会を望む」という風に考えている、というような調査結果もあるようだけれども、それを実行に移すには社会・システムに対する新しい知恵を身につけることは必須である。
とするならば、システム思考はそのヒントになるだろうか。

環境の変化を想定しておく

建築の立場として、一人の人間の立場としてできることは何があるだろうか。

一つは、望ましいシナリオへと舵を切るべく、できることを考え実行するしかない。

しかし、程度の差は別にして最善のシナリオを進まなかった、という可能性も考えておかざるを得ないだろう。
(それほど遠くない)将来、今当たり前に考えている生活が急激に崩れていくことはこれらのシナリオからも十分に想定されるが、その時になって対応しようとしてもかなり厳しいように思う。
今のうちから、環境の変化に対応可能な生活へと少しづつスタイルを変化させていく、ということも必要ではないだろうか。(その事自体がシステムの改善にもつながるだろう。また、著者の枝廣氏はその後、レジリエンスや地域経済に関する本を書いているようだけども、それが著者の一つの答えなのかは興味がある。)

建築は何十年も残るものであることを考えると、将来的な変化への想像力を持って仕事に取り組むことは職業倫理として必要に思うし、建築という仕事そのものが経済状況に大きく影響されるものであるため、ビジネスのあり方も考えないといけないかもしれない。(二拠点居住や来年からやってみようと思っている稲作(自己消費用)はそのための想像力を少しでも引き寄せるための経験だと思っている。)

課題

学ぶべき課題は何か。
今回頭に浮かんだのは、
・システム思考とは何かをもう少し詳しく。
・資本主義経済の本質は何か。成長せねばならないという前提がどこから来ているか。
・レジリエンスを高めるにはどうすればいいか。(個人経済や地域経済のスケールで考える?)
・建築そのものとビジネスをどう変化させる必要があるか。
などである。
うーん、田舎生活も分からないことばかりだし、やることが増えていくばっかりだ・・・




我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣)

竹田 青嗣 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/5/25)

この本は昨年の5月にいろいろな哲学者に関する本を読もうと思いたち、まとめて購入した本の一冊であるが、まだヘーゲル自体に関しての興味が湧いていなかったため積読になっていたものである。

しばらくは手を付けることはないだろうと思っていたけれども、急遽、資本主義をテーマにすることにしたため手に取ってみた。その結果、本書はまさしく今読むべきものだったと思う。

我々は希望の物語を描くことができるか

われわれはいまや、現在ある資本主義を、”持続可能かつ正当化されうる”資本主義にかえられるか、それともそれを放置するほかないのか、という選択肢の前に立たされているのだ。
そして、この課題に応えるためには、現代のさまざまな批判的思想ではなく、まず近代哲学に立ち戻らねばならないとわたしは考える。なぜか。近代哲学が「近代社会」の理念的本質を形成したからであり、さらに、現代の批判的思想がその本質を捉えそこねているからである。資本主義は近代社会の本質から現れたものであり、資本主義を捉えるには、まず近代社会の本質を把握しなくてはならないのだ。(p.11)

著者の本は明晰で分かりやすいことに定評があるようだ。
読んでみると、まさにその通りで、哲学者の言説の中から重要な原理を取り出しあるストーリーのもとに並べて見せる手腕は見事であり、哲学とはこういうものかと唸らされた。
それがあまりに明晰であるため、逆に捨てるものが多すぎるのではないかと危険性さえ感じながら読んだのだが、それでもなお(だからこそ)一読すべき本だと思う。

はじめに断っておくが、本書は近代社会の権力や資本主義の存在を否定するものではない。それどころか、権力や資本主義を廃絶することの「不可能性」を示すことを使命として書かれたものである。

こう書くと、資本主義を肯定するための言い訳のようなものだと思われるかも知れないが、資本主義の暴力性を肯定するものでもない。そうではなく、近代社会と資本主義が必要とされる原理を哲学的に描き切ることで、その廃絶の不可能性を示しつつ、それでもなお希望の物語を描くことが可能か、そのための原理はどこにあるかを明確にしようとするものである。

私は、ここ数年での環境に対する考察などを通じて、資本主義の持つ限界性は否定されようがないと感じていた。
だからこそ、近代社会や資本主義の暴力性と限界性が明確になりつつある現代においてそれでもなお資本主義を続けざるを得ない理由は何なのか、ということが知りたかったし、資本主義をテーマにしようとした動機の大部分はここにある。

それに対して、本書は多くの視点を与えてくれた。
途中、いくつかの疑問も浮かびながら読み続けていたけれども、著者が同じ問題意識のうちにあることが理解できたし、ここで描かれた一本の筋を一度飲み込んでみることは意義があると思えた。

まずは、備忘録的な意味で自分なりにまとめた上で、感じたことを書いておきたい。
(ただ、最初に書いたように、本書自体がかなり凝縮された内容なので要約の劣化版要約のようなものになると思う。まとめ部分はあくまで備忘録として捉えて欲しい。内容に関しては大変読みやすい本なので一読を強くお勧めする。)

哲学と原理

しかし一方で、むしろこの深い絶望が新しい可能性をもたらしたのだ。カントの「原理」は人々に「真の信仰」を見出そうとする欲望を断念させ、そのことが、「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道を初めて押し開くことになったからである。(p.31)

問題の中にある「原理」を重視すること。これが本書における著者のスタンスであり、これが明快な一本の筋を生み出している。
この徹底に対して他の哲学者からの批判があることが想像できるが、本書を読む上で重要な部分である。

多数の人が参加する「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」があるとする。
宗教のテーブルは何らかの「真理」を探し求める言語ゲームであり、哲学は「普遍性」「原理」を探し求める言語ゲームである。
ここで、「真理」と「原理」の違いは何か。
「真理」は絶対的な(とされる)ものであるが、これが確かなものだと証明することのできない「答えのない問い」である。それ故に異なる「真理」の間の争いを調停するすべを持たない。
一方、「原理」は真理が答えのない問いであることを認めた上で探し求められた、誰もが認めざるを得ない共通了解である。(共通了解であるから後で変化する可能性は消しされない)

「真理」が答えのない問いであるという「原理」を明確にしたのがカントであるが、先の引用文のように、このことが人々を”「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道”を切り開いた。つまり、真理の探求としての宗教的テーブルに座ることしかできず、一定の自由の範囲から抜け出せなかった社会から開放される可能性が開かれた。
(本書ではこのことを、人類の長年の夢であった錬金術の可能性を、元素に関する「原理」が終焉させ、そのことが科学的な新しい可能性へと向かわせたことと重ねて例えている。これは後で書くように本書の意義とも重ねられている。)

つまり、「社会」の問題を個人の内面の問題から、複数の人間の構造の問題として現実的に扱えるものへと変えたのが「原理」と言えるし、このことの探求が近代社会の出現を可能とした
自然科学が原理の探求を通じて自然を解明してきたように、社会構造を解明するための原理を探求することが哲学の一つの役割・方法である、というところから出発するのが本書の特徴であるだろう。

近代社会の原理

しかし、私の考えでは、「財の蓄積」は、人類にとってむしろ決定的な不幸と悲劇の開始点となった。まさしくここから人間同士の普遍闘争状態がはじまったからである。(p.40)

人類の歴史を振り返ってみると、そのほとんどが闘争の歴史で塗りつぶされている。
私はそれが昔から不思議でならなかった。人間の本性はそれほど変わるはずがないだろうに、過去の人達は本当にそれほど愚かだったのだろうか。
戦後の一応平和な日本に暮らしている自分としては、それを人間の内面の愚かさに求めるようなイメージしか持てなかったが、本当の原因はどこにあるのか。

これに対して前もって書くと、人類の歴史上、近代社会と資本主義こそが社会から暴力を排除し、かつ人々に自由を与える可能性を持つ唯一の原理によるものであり、財の蓄積が可能になってから近代社会の実現までは自由の獲得と暴力の排除を同時に満たせる原理を人類は持っていなかった、というのが本書の主張である。(近代社会の実現以降も戦争の歴史ではないか、という指摘もあるが、それは”一旦”置いておく)

その近代社会を成立させる原理を確立したとして本書が取り上げるのがホッブス、ルソー、ヘーゲルである。

・ホッブス 普遍闘争原理
「財の蓄積」以降、人間社会は、強力な統治権力を欠けば必ず普遍的な暴力状態に陥るというのが最初の原理である(『リヴァイアサン』「万人の万人に対する戦争」)。これを著者は「普遍闘争原理」と呼ぶ。
まず、人あるいは共同体は、自分の生命と財産を維持するために暴力を使って身を守る権利がある(自然権)。
動物は体力などの自然の決めた差異によって自然と秩序が生まれるが、人間共同体はその知恵によって絶えずその差異をひっくり返す可能性をもつため、相互不信を増大させ、必ず弱肉強食の戦争状態に置かれざるを得ない(自然状態)。生命の危険のない状態が確定していれば別かもしれないが、生命の危機にあるような貧しさの中では、生き延びる道が略奪や侵略以外になくなる。そこで、そのような事態が何度か起こると、その可能性に対しあらゆる共同体が強力な戦争共同体を目指さざるを得なくなり、潜在的な戦争状態に突入する(不信の構造)。
そのような中、戦争状態を抑止する原理は、各人が自然権を放棄し、全員が従うべき強力な超越権力を作り出してそこに委ねる以外には存在しない(自然法)、と説いたのがホッブスである。

しかし、実際には相互不信がある状態ではどの勢力も自ら自然権を放棄することができないため、結局のところ、より強い勢力が弱い勢力を制圧していく以外には普遍闘争を抑制する原理がなかった覇権の原理)。歴史の天下統一のストーリーは、彼らが野蛮だったからではなく、人類がそれ以外に戦争状態を終わらせる原理を持たなかったという構造的な理由によるものだと言える。

ここから言えるのは、「国家」の第一の機能は支配ではなく「暴力の縮減」だということであり、それが国家の存在理由である。

では、人類は覇権の原理、つまり強者が弱者を制圧していく以外に普遍闘争状態を終わらせることはできないのだろうか。
これに対して、ホッブスは人々がある合議体に自発的に服従することに同意するという「設立された」統治権力の可能性を示唆しているが、これをより哲学的に展開したのがルソーである

・ルソー 一般意志契約
ひとまずは「覇権の原理」によって普遍闘争状態を終わらせられたとしても、その先には決定的な問題が残る。つまり、その結果として”専制支配体制”に行き着き、そこでは支配者以外の人間の「自由」は存在しない、という問題である。(ここから先は「自由」が重要なキーワードになる。)

それに対してルソーが示した「原理」は下記のようなものである。

普遍的闘争状態を制御し、しかもその上で各人の「自由」を確保する「原理」が、一つだけある。戦いが「覇権王」を作り出す前に、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上でその権限を集めて「人民主権」に基づく統治権力を創出すること、これである(わたしはこれを「一般意志契約」と呼びたい)。これ以外には、普遍暴力を制御しつつ各人の「自由」を確保する原理は、一つもない。(p.51)

しかし、ここで頭に浮かぶのは先の「不信の構造」である。これがあるために覇権の原理に進まざるを得なかったのであるが、この不信を乗り越える原理とはどのようなものだろうか(歴史的には専制支配体制が先にあったのだろうが、原理を更新するための疑問として)。それに対する明確な記述は本書にはなさそうだが、思うに、不信に対する心理と、「自由」の確保可能性に対する心理の天秤のようなものだろうか。専制支配体制の不自由さを目にしながら、自由の可能性が目の前にあるとすれば、不信を乗り越えそこに賭ける原動力になったのは分かる気がする。また、その原理の根が信頼にあるところに「一般意志」の重要性があるだろうし、「自由」に対する信頼が揺らげばこのような社会に批判的になるのも当然であろう。

ここで、本書にある重要な指摘は、「社会契約説」の捉え方に含まれる理想と原理の違いである。
つまり、ルソーが示したのは、近代社会は誰もが自由で対等であるべきという理想ではなく、誰もが自由であるために必要な原理である、ということである。これは本書を貫通する主張であるが、この捉え方の違いが転倒したルソー批判の原因であるという指摘は頭に入れておく必要がある。

ところで、「一般意志」とは何だろうか。これは「自らの自由を獲得するために、自然権を統治権力に委ね、代わりに、成員すべての「自由」を認め合うことに同意するという意志」と捉えると理解しやすいように思う。この意志が尊重されなければ市民社会の存続もできないだろう。また、そうである以上、政府は必ず「一般意志」を代表するものであらねばならないし、この限りにおいて政府は正しいと言える。(一般意志に関しては東浩紀の『訂正可能性の哲学』を通じて後日改めて考えてみたい)

ここで、社会には政府が一般意志を代表するのを阻害する大きな要因があるという。それは、統治権力の下部にも諸団体が存在し、それぞれの団体の一般意志が社会全体の中での「特殊意志」となって対立することである。ここでもそれぞれの特殊意志は上位の一般意志に従う、すなわち団体間の相互自由を認め合う必要がある。これが数による覇権ゲームに陥らず一般意志契約の原理を維持するにはどうすればよいだろうか。

・ヘーゲル 自由の相互承認
ヘーゲルはホッブスとルソーの社会原理を包括しながら展開させたが、その核心は次のようなものだ。

①伝統社会から近代社会へという歴史の推移は、民衆の「自由」への欲望という根本原因によって展開してゆく。
②それは、「自由」の相互承認の社会的表現である「法・権利」の展開として進み、ついに自覚的な「自由の相互承認」を基礎とする「市民社会」にまでいたる。
③しかし、市民社会は、必然的に、放埒な自由の欲望競争ゲーム(「放埒な欲求の体系」)となる。市民社会は、この矛盾を克服する原理をそれ自体としてはもたず、もし放置するならあらゆる社会生活の基盤である社会的倫理の分裂と崩壊にゆきつく。
④ここに市民社会の本質的矛盾がある。しかし、自由な欲望ゲームを廃棄し、もとの自然な社会にもどることでこの矛盾を克服することはできない。それは「自由」そのものを不可能にするからである。この問題の解決は市民社会の欲望のゲームをつねに「人倫」の原理によって調停する以外にない。そしてこの役割を果たすのが「人倫国家」である(世俗的市民社会ではなく、理性国家)。(p.119)

ここで、ルソーとヘーゲルの違いは何だろうか。
本書によるとルソーの市民国家の自由は絶対自由の一般承認に過ぎず、「一挙になされる契約(=革命)によってしか成し遂げられないものである」という。そこには放埒な自由の欲望競争ゲームを克服する原理はまだない
それに対して、ヘーゲルは「人倫」の原理もしくは互酬的原理によってつねに調停し続けるという”時間的成熟”の契機を導入したという。つまり、近代社会を維持するには、絶えず一般意志の内容をすり合わせ「法・権利」をアップデートしつづけるような仕組みが必要だと言うことだろう。ここに、「自由」の本質が社会的に発現していくプロセスがあるが、「自由」の本質とは何だろうか。

私の理解では、「自由」の本質そのものを絶えず探求するような「自由」が確保されていることそのものが、「自由」の本質であり、それは近代社会によって初めて可能となるものであるということだ。(これに関しては一つの章が与えられているので本書を参照して欲しい)

以上、簡単にまとめたが、このようにホッブス、ルソー、ヘーゲルのリレーによって近代社会成立のための原理が整えられていった。

近代社会と資本主義

ところで、近代社会と資本主義の関係はどのようなものだろうか。
近代の政治システムの基本構想は哲学者によって与えられたが、資本主義は近代社会との関係の中で自然発生的に現れたもので、それは社会的な財の生産を持続的に増大させるはじめての経済システムであったという。

資本主義の成立は「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」の3つが揃った事による。
それまでは、普遍闘争の原理から、どんな国家も収益の殆どを国の強化に当てざるを得ないため、人民は自らの労働を再生産できる最低限を残して収奪されなければならないという構造を持っていた。

そんな中、分業による効率化だけが、爆発的な生産性の増加を可能とし、人民の生活を向上させる可能性を持つものであった
著者の憶測的仮説によると、海洋交通の発展が交易ネットワークを拡大させ、「普遍交換」のシステムを形成させた。そこで生まれた需要は生産性を高めることを促し「普遍分業」を進展させた。さらに、生産性の向上は近代国家の成立を支えるとともに、近代国家によって人々が開放されたことによって「普遍消費」の局面が開かれ、交換と分業の相互促進を支え、持続的な拡大的循環を可能とした。

このようにして、資本主義システムが財の希少性を解消し、人民の「自由」の開放の前提条件となるとともに、人民の「自由」の開放が資本主義の維持のための前提となっていく。人々の自由への欲望が根本動機となって、近代社会と資本主義とが互いを必要としながら成立していったのである。

近代社会の本質

ここで、近代社会の本質的特質として「ルール社会原則」「一般福祉」「普遍資産」の3つが挙げられている。簡単に触れておくと、

・ルール社会原則
基礎原則は「ルールの基の権限の対等」「ルール決定と変更についての権限の完全な対等」「ルール遵守が成員資格の原則であること」であるが、この原則により、その政府が「一般意志」をより表現する方向に進んでいるか否かが、市民国家としての「正当性」をもつかどうかの指標となる。

・一般福祉
近代国家においては「諸個人の幸福」と「普遍的なもの」が調和的に統一される必要がある。
個別的な「自由」の追求が、社会の総体としての「善」の実現につながるような状態の実現こそが「近代国家」の最終目標である。

・普遍資産
社会全体の生産の増大を、成員全員による成果として考える。このために、その妥当な配分の原理を見出す必要がある。

というもので、「一般意志」を代表する統治権力が、「自由の相互承認」に基づく成員のフェアなゲームを担保することが求められる。つまり、ゲームそのものが「一般意志」とカップリングしている状態を維持することが近代国家の本質であると言えるだろう。

また、例えば大きな格差などに理不尽さを感じる感覚は、我々がこれらの特質に対する感度を獲得し当たり前と感じていることを示しているのかもしれない。

矛盾と批判

ここまで、近代社会と資本主義の原理と本質をまとめてきたが、これらは承知の通り理想的な道筋を進んだわけではなく、新しい大きな矛盾を生み出すことになった
そして、それに対する多くの批判を生むことになる。

近代国家は、表象として高度な階層支配システムであるかのようにして現れたがその大きな理由は、
近代国家の間に相互承認が存在せず、より厳しい普遍闘争状態がはじまったこと
資本主義システム事態が富の配分の偏在を生む「格差原理」を持っていたこと
である。

それに対し、マルクス主義やポストモダン思想等の批判が生まれたが、その多くは、事態の本質と属性を取り違えているために、現状に対する批判や理想の相対化としての意義はあっても、それだけでは決して本質的な克服のための原理を取り出すことができない、というのが著者の主張である。(著者はマルクスの”現状”の本質を見抜く力は高く評価している。)

そのため、国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成(資本主義システムは自然発生的であったため、政治システムほどの原理を獲得できていない)、といった課題を克服するためには「反国家、反資本主義、反ヨーロッパ、反近代といった表象を捨てねばならない」と言う。

これは、著者の決意表明のようなものかもしれない。

哲学を「形而上学」だと考え、国家と権力と資本主義を諸悪の根源と考えてきたような世代にとっては、このような主張は、まったく異国の言語のように聞こえるかもしれない。その感度をわたしはかなりよく理解できる。わたしもまたこの世代の感度を共有していたからだ。(p.287)

それでもこのような結論に至らせたのは、おそらく現代が大きな分岐点にあるからだろう。

希望の原理はあるか

ともあれ、わたしが示そうとしたのは、現代社会が進むべき道についての一つの根本仮説である。「自由」が人間的欲望の本質契機として存在するかぎり、人間社会は、長いスパンで見て、「自由の相互承認」を原則とする普遍的な「市民社会」の形成へと進んでいくほかない。(p.254)

ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」に基づく普遍ルール社会へと成熟させる道を取る以外には、人間的「自由」の本質を養護する道は存在しないこと。(p.287)

南北格差の拡大、過大な大量消費と大量廃棄のサイクル、市場原理主義・金融資本主義による世界のマネーゲーム化と資本による労働の奴隷化・・・世界は、「自由の相互承認」の原則を外れて、格差を拡大しながら地球環境の時間的限界へ向けて突き進んでいる。正当性を欠いたシステムは、自制を失い覇権の原理に従うのみで、やがて新たな希少性と闘争の時代に行き着くほかなくなるだろう。

しかし、選択の余地のないような危機的状況にあるということは、人類はこの危機をむしろ好機と捉えて変革へと進むほかない、ということでもある。

やるべききことははっきりしている。
国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。

ポストモダン思想は大きな物語を終わらせた。
しかし、人類はもう一度大きな物語を描かなくてはならない場面に立っている。
それは、ポストモダンが批判したような「理想理念」・イデオロギーとしての物語ではなく、人々を「人類」という連帯の輪に結びつける物語、合意による新たな「正当性」確立の物語である。

新たな物語を描くために何が可能か

しかし、わたしはこの著作を書いて、自分のうちに新しい可能性が現れかけていると感じる。なぜなら、権力や資本主義の廃絶をめがけた思想と、それを批判するわたしの考えの中心点は、本来、けっして対立的なものではないからだ。(p.294)

ここまで、簡単に本書の内容をまとめてきた。

その結果浮かんできたものは、前回読んだものとかなりの部分で共通する。(前回の本で挙げられている処方箋や事例のようなものは、今回の本で指し示された道の上に乗るもののように思える。)

また、本書を読んでも、いやむしろ読んだからこそ、二元論的な思想を転換することの重要性は高まったように思うし、資本主義の「正当性」に対しては、今なお成長が必要かという視点と人為的希少性の問題を考慮する必要がある、と思う。

さて、ここで、自分の問題として考えた時に、自分に何が可能か、というのが問題となる。

近代社会の原則にならえば、まずは、多くの人に明確な自覚と同意が必要であるから、これを促す行動をとること阻害要因(本書によると「既得権と実力のある勢力の抵抗」「可能性の原理を認めない反動思想」を解除する合理的な「原理」も必要)に安易に加担しないこと、などがさしあたり可能なことだろう。
例えば、前者に対しては、最近考えてきたように建築環境に対してどういうスタンスをとるか、というのが一つの行動の指標になるかもしれない。

とはいえ、「可能性の原理を認めない反動思想」とは何か、は現時点では私には確定できないし、まだこの問題に対する自分の言葉は少なすぎる。しばらくはこのテーマを追ってみたい。




アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル)

ジェイソン・ヒッケル (著), 野中 香方子 (翻訳)
東洋経済新報社 (2023/4/21)

帯にある「「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き」という文が気になり読んでみた。

全体的な論調としては『人新世の「資本論」』と重なるが、成長を運命づけられた資本主義がどのように世界を支配するようになったのか、という経緯と、脱成長に対する反論に対する反論としてどのような成果があるか、という点で収穫があった。
また、問題の根本には帯にあるような「アニミズム対二元論」といった存在論(オントロジー)の問題が横たわっている、というのが本書の主張である。

デカルト的二元論とアニミズム

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。

アニミズムを漢字で書くと精霊信仰となり、現在では遅れた未開文明の思想というイメージで捉えられるかもしれない。しかし、人間は生物コミュニティの一員であり、その循環の中で生きている、というのは「あたりまえ」のことであるし、人類の長い歴史の中で培われてきた持続可能な社会を維持するための最大の知恵であったと言ってよい。

その、知恵を放棄し資本主義に適合するように根本から書き換えたのがデカルトであるが、その経緯は全く自然なものではなく、権力と結びつく形で略奪と強制により導入されたものである。

これは、現在多くの人がそう信じているデカルト的心身二元論(例えば身体と脳を分け、感覚器官から受け取った刺激を脳が再構成、処理して身体に司令を送る、というような機械論)から脱却することによって新しい視点を提供するものである。(はじめに|オノケン(太田則宏))

デカルト的心身二元論に関しては、アフォーダンスの文脈で根本的な問題に関わるものでなじみがあったが、実のところその問題の大きさにピンと来ていなかった。
しかし、本書によって私にとってのデカルトのイメージが大きく更新されたように思う。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。
デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。

その変化は、資本や権力に都合の良いように人類を洗脳するという類のもので、囲い込みによる略奪/人為的希少化により資本家以外を植民地化する、というプロジェクトを成功に導いた。

哲学者は聖人であり、最善の思想を考えた人である、というイメージはいささかピュアに過ぎるのかもしれない。最善を目指したかもしれないが、それはその時代においてのものであり、その都度見直されるべきものであるはずだ。しかし、この時生まれた植民地化的資本主義の構造と思想は時代を超え今も人々の意識に強固に根付いている。(二元論がたまたま利用されたのか、資本家の権利を守る意図が含まれていたのかは分からない。デカルトが本質として何を残したのかはもう少し調べてみる必要がありそうだ。)

誰のための成長か

大企業が収益を維持するためには世界のGDPは毎年2~3%ずつ成長し続けなければならないという。2~3%というのはわずかに思えるかも知れないが、3%の成長とは23年ごとにGDPを2倍にしなければならないということで、GDPとエネルギー・資源の消費量と連動していることを考えるとこの成長を無限に続けることが夢物語に過ぎないことは明らかだろう。
(テクノロジーの進歩によってそれを乗り越えるというのも無理がある。実際のところ、増えた分を補うことすらできていない。また、未来の世代が解決してくれるだろう、という思考そのものが搾取的だ)

さらに、無謀な経済成長を続けても多くの人が豊かになることすらない。

社会的目標を達成するためにこれ以上の成長が必要でないのは、多くの証拠から明らかだ。それにもかかわらず、成長主義のシナリオは驚異的なまでに力を保ち続けている。なぜだろうか。それは、成長がわたしたちの社会の最富裕層と最大派閥に利益をもたらしているからだ。アメリカを例にとってみよう。アメリカの国民1人当たりの実質GDPは1970年代の2倍になった。そのような驚異的成長は、人々の生活に明白な向上をもたらしそうなものだが、実際はその逆だ。40年前に比べて、貧困率は高くなり、実質賃金は低くなった。半世紀の間、成長し続けたにもかかわらず、[豊かな生活に関する]これらの重要な指数に関してアメリカは退行しており、その一方で、事実上、利益のすべてが富裕層に流れている。世界の上位1%の富裕層の年収は、この期間で3倍以上になり、一人あたり平均140万ドルに急増した。
これらのデータを見れば、成長主義がイデオロギーに過ぎないのは明らかだ。それも、社会全体の未来を犠牲にして、少数に利益をもたらすイデオロギーだ。わたしたちは皆、成長のアクセルを踏むことを強要され、その先には地球という生命体にとって致命的な結果が待ち受けている。すべては裕福なエリートをさらに金持ちにするためなのだ。(中略)しかし、エコロジーの観点から見れば、状況はいっそうに深刻で、まるで狂気の沙汰だ。(p.192)


この搾取の構造はアメリカでさえそうなのであるから、グローバルノースとサウスの間の同様な構造を考えるとサウスの状況がどれほど悲劇的かは想像に難くない。
一部の人間のために、多くの人は意味のない希少性と貧しさを押し付けられ、労働力を安価で提供し続けるしかない状況で環境を破壊しながら破滅へと突き進む。まさに狂気の沙汰だが、なぜこれを止められないのだろうか。

一つは、多くの人が現状を維持するしかないように大胆かつ巧妙に人質を取られているからだろうし、一つは人間の思考の奥深く、存在論の部分で意識を握られていることもあるだろう。
環境に対して、なぜ止められないのかという問題意識を欠いた単なる「省エネ」では成長の穴を部分的に埋めることしかならないし、環境工学を目的化する思考は、地球規模の問題を地球工学によるテクノロジーで解決しようとすることと同じく、二元論による自然制御というロジックを温存する。
そういう意味で、環境問題は存在論と想像力の問題であるというのは間違いではなかった気がする。
また、どうすれば人質を開放できるか、というのも大きな問題である。住宅ローンも人質の一つであることを考えると私もその構造に加担している1人に違いないし、3人の父親としては教育というのも大きな人質だと感じている。

資本主義とは何なのか

詳細な議論は是非本書を読んでいただきたいが、成長主義をやめるだけでも、環境問題を含めた多くの問題は解決の難易度が大きく下がるという。

そう言われても簡単にはことが進まないのは、人間がそれほどかしこくない、ということもあるだろうし、多くの人が資本主義というものが何なのかよく分からないまま参加しているということもあるだろう。

資本主義と言っても経済活動そのものに問題がある訳では無いように思う。問題は成長主義であり、その根本に潜むデカルト的二元論である、というのが本書の主張であるが、本当に一部の富裕層のためだけに盲目的に成長を崇拝するほど人間は愚かなのだろうか。
もしくは、成長を崇拝せざるを得ないシステムが富裕層を含めた人々の意志を超えたところで暴走しているだけなのだろうか。(おそらく、富裕層を悪人として斬り捨てるだけでは問題の解決に向かわないだろう。)
資本主義にとって成長は本質的なものなのだろうか。

私も本当のところ、資本主義とは何なのかがほとんど分かっていない。

”環境”の次のテーマを探していたのだけど、考えていけば資本主義というテーマは避けられそうにない。
うーん、厄介な問題に手を付けることになりそうだ・・・




脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




office chavelo,SPROUT 写真アップ

office chaveloとSPROUT 写真アップしました。
実績のページを御覧ください。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 環境実験型オフィス office chavelo

オノケン│太田則宏建築事務所 » SPROUT




循環のイメージを高めたい B281『活かして究める 雨の建築道』(日本建築学会編)

日本建築学会 (編集)
技報堂出版 (2011/7/6)

エクセルギーハウスをつくろう』の著者がHPで紹介していたので購入。

この前にシリーズとして『雨の建築学(2000年)』『雨の建築術(2005年)』があるが、とりあえず新しいものを選んでみた。

感想としては、総覧的な意味合いが強く少し詰め込み過ぎている感じがした。多数の執筆陣による共著によるせいかもしれないが焦点が定まらない印象を受けた。(個人的に買った本では共著はあまり響かない本であることが多い気がする。)
もっと具体的な内容を知るには『雨水活用建築ガイドライン―日本建築学会環境基準』を買うべきかも知れないが迷うところである。

ここ数冊の読書から、月並みではあるけれども循環のイメージが環境を考える上でも、建築にはたらきの要素を加える意味でも重要な気がしている。

しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

その中で、水の循環は地球の、もしくは生命の循環を考える上で特別な意味を持っている。
あわよくば、その水の循環のイメージをより洗練させられればと思ったのだけれども、間違いなく本書の中心問題でありつつ若干物足りなく感じた。(もしかしたら『雨の建築学』もしくは『雨の建築術』の方が目的には適っていたのかもしれない。)

水の循環に関しては、『エクセルギーと環境の理論』『エクセルギーハウスをつくろう』『「大地の再生」実践マニュアル』『よくわかる土中環境』で多少はイメージが掴めてきた。

環境を考える際、都市部におけるとっかかりは地方に比べてかなり限定的になってしまうと思うのだけど、その際、水の循環と小さな生態系を考えることが重要なとっかかりになりそうな気がしている。

外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。 そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン))

雨水だけをみていては大切なものを取りこぼしてしまうのかもしれないな。




水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳)

矢野 智徳 (著), 大内 正伸 (著), 大地の再生技術研究所 (編集)
農山漁村文化協会 (2023/1/18)

『よくわかる土中環境 イラスト&写真でやさしく解説』と合わせて読了。

高田宏臣 (著)
PARCO出版 (2022/8/1)

確か、小学校の中学年くらいの頃だったと思う。
屋久島に移住する前は奈良の田んぼが広がる田舎に住んでいて、山や川、田んぼや空き地が主な遊び場だったのだけど、ある時、ザリガニやいろんな生き物が住んでいた石積みの用水路があっという間にU字溝に置き換えられた。
当然、そこにいた生き物の姿はなくなり、遊び場の一つが失われ、その時そういう決断を下した大人たちをたいそう恨んだことを鮮明に覚えている。

またちょうど一年前、二拠点生活と称して日置市の山間で仕事を始めた。
職場であれば町内会には入らなくても良いと言われたけれども、ここの風景が気に入って入ってきたのでフリーライドはしたくなかったのと、何よりこの地での経験をすることが二拠点居住の目的だったので町内会に入ることにした。
定期的に道際や川の草刈りなど手入れがあるけれども、昔であれば、「どうせまた生えてくるのに草刈りに何の意味があるのだろう。むしろ自然のままに任せるという考えもあるのでは。」と思ったかもしれない。今は、そこに経験的に培われてきた知恵があるはずだと考えている。

そこでこの2冊を読んでみたのだけれども、いままでまるで見えていなかったものが見えてくる、風景の意味ががらっと変わってしまうような体験だった。

どちらも、同じような問題意識のもと書かれていて共通点はかなり多い。
あえて違いを書くと、大地の再生の方は、より実践的な内容で、自然環境が水と空気の循環によって保たれていることに加え、風の流れ(それが土中の水と空気の流れともつながっている)に重きを置いている。
土中環境は、実践より理屈を分かりやすく伝えることに重きを置いているようで、菌糸の働きへの言及も多い。

読後に日置の集落の風景を見てみると、ここでさえ、昔の知恵を置き去りにしてしまったことがたくさんありそうだし、集落の奉仕作業からも忘れられてしまった理屈がいくつもあるだろう。このままでは、人が減るに連れ知恵や技術の喪失がさらに加速度的に進むのは避けられそうにないし、都市部においては言うまでもない。
(と言っても、何度も書くように初心者の私には集落の先輩たちは先生である。)

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう)

この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。

「土中環境」では特に自然災害に対する現在の土木技術の矛盾が浮き彫りになっているが、アカデミズムの世界ではどう扱われているのだろう。
ここで書かれているような原理が大学などで研究され、技術の置き換えが起こるような大きな流れが生まれて然るべきだと思うけれども、現状はどうなのだろうか。

それは当然建築においても言えるが、田舎はさておき都市部で何ができるのか、というイメージを育てるにはもう少し経験と実感が必要だ。

今朝、雨が降る前に、少しだけ庭の手入れをしてみた。
風の流れや空気感が少し変わった。
自分がほんの少し、この地に馴染めた気がして、気持ちが良い。




弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B279『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登)

荒谷 登 (著)
彰国社 (2013/8/1)

地球環境時代を迎えるいま、経済力、技術力、エネルギーに頼った力づくの問題解決ではなく、それぞれの地域が持っている特質をより顕著なものにする、奪い合うことのない成長のあり方を、本書を通して考えてみていただけたらと思います。(p.3)

著者は温熱環境の専門家で、北海道の高断熱高気密住宅のパイオニアでもあり、『民家の自然エネルギー技術』の著者の一人でもある。

北海道住宅の専門家の本が九州南部での建築を考えるのに参考になるだろうか、と若干不安があったものの、もっと広い視野で書かれているのでは、という予感があったため購入した。
それが、期待以上の良書であった。

本書は、北海道建築指導センターが発行している『寒地系住宅の熱環境計画シリーズ』の5巻をまとめたもので、それがそのまま本書の章立てになっている。
その構成は、

  • 『1 採暖と暖房』(1976)
  • 『2 気密化住宅の換気』(2003)
  • 『3 省エネルギーから生エネルギーへ』(2003)
  • 『4 断熱建物の夏対応』(2007)
  • 『5 断熱から生まれる自然エネルギー利用』(2010)

というもので、24年もの歳月をまたぐのだが、それぞれ当時の普及技術の潮流を感じさせはするものの、内容は全く古さを感じさせない。

それが、著者の熱環境への深い知識によるだけでなく、その根本に確たる哲学があることによるからだ、ということが読み進めるにつれ分かってくるのだが、私が今、建築の温熱環境に対するスタンスで迷っていることに対して多くのヒントと与えてくれた。

今の建築の温熱環境に対して、何か煮えきらないものを感じていたのだが、それに対してどういうヒントが得られたか、ということをここ2年ほど環境について考えてきたことを振り返りながら書き残しておきたい。

良さ発見型の技術・弱さ・目

一貫していたのは近代技術が得意とする欠点対応ではなく、無償の富である自然や自然エネルギーに中によさを見出してそれを生かす、良さ発見型の対応でした。(p.220)

技術には、欠点対応型と良さ発見型の2つがあるという。

欠点対応型は環境の中から欠点を見出し、それを克服するために電力のような独力での問題解決能力を持つ強い力を用いるもので、近代的な分断の思考をベースとして画一化へと向かうもの。
一方、良さ発見型の技術は環境の中から無償の自然エネルギーのような弱い力を見出し、それらを組み合わせ引き出すことで問題を解決しようとし、多様性をもたらす。

後者は、例えば天空光や反射光、そよ風や熱対流、気温の日変動や年変動、乾燥や湿潤、蓄熱や放熱、新鮮な空気や水、微妙な風圧や気圧の変動など、それだけでは問題を解決できない弱い力であり、地域性や変動性が大きいといった性質を持つ。

元来、建築はそのような弱い力の特性を引き出し活用するための器であったが、近代化とともに強い力に依存することになってしまい、風土との対話を忘れてしまった。

私が現在の潮流に対して抱いている違和感の根本には、この強い力への依存への無反省を感じてしまうことがあると思うのだが、それは仕方のないことなのだろうか。

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(p.173)(森田真生))

ここで、この文が頭に浮かんだのだが、強い力への依存は自己を強い主体と勘違いさせてしまうし、おそらくその強さが様々な問題の根っこにある。弱さの受容、あるいは、モートン的な距離に対してとどまる姿勢、言い換えると強さに依存せずに弱さにとどまることなしには、持続可能な世界に近づくことはできない、というのが今のところの結論であるが、本書はその弱さにとどまるための技術論とも読める。

ここでの弱い力は、地域性や変動性を持ち、強い力への依存のように思考停止を許してくれる(もしくは思考を奪う)ものではない。
それ故に、これまで歴史的に積み重ねられてきた知恵に意味が生まれるし、自らがその弱い力を見出す力を持つ必要がある。

欠点が客観的に捉えやすいのに対して、環境や相手の良さを知るには何が良さであるかをはかる独自の価値判断が必要で、しばしば自分自身の価値判断が問われます。(p.211)

このことは逆に言うと、自分自身の価値判断、哲学を持つことができれば、新しい良さを発見できる可能性がある、ということである。
そのことに設計者としては面白みを感じるし、そこで生まれた個性は建築に生命的な躍動感を与えるとともに、そこでの生活にリアリティを与えることにもなるだろう、という予感がある。

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。
二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

弱い力を見出すための目を養うことが重要であるのは間違いないが、そのためにも強い技術に頼ることを一旦忘れてみることが、建築と風土との対話を思い出させるために必要な気がしている。

三つ巴の温熱環境論

これらの弱い力は先に書いたように、独力では問題を解決するほどの力になれない。(問題解決という物言いそのものが近代的発想を感じさせるがここでは横に置いておく)
そのために必要なのが断熱(+気密化)と熱容量である。

断熱、熱容量、自然エネルギーのいずれも独力での問題解決能力のない弱さがありますが、それがともに働くとき、力では得られない穏やかな環境が生まれます。(p.149)

著者は断熱や熱容量を弱い自然エネルギーを生かすためのものとして捉えており、それは私にとって新しい視点であった。
技術的な詳細は本書に譲るが、大雑把に言いうと、断熱が熱の出入りを小さくすることで、弱い力の個性を尊重しつつ、役割や出番を与え、さらに熱容量の助けを得ることで、変動を緩和しピークをずらし弱い力を補う。

大きな熱の出入りと強い力に依存している際には無視されていたような弱い力を、主役とするために断熱を施す。そのように考えるとかなりスッキリした。
それでも、これでもかという断熱には強引さ・強さの印象を消しされないのだが、昔の日本の夏の民家がこのような工夫の見本であったことを考えると、その印象は使う素材のイメージによるかも知れないし、「そこまでする必要がないのでは」という考え方は欠点対処型の思考が根強く残っているからかも知れない。
(断熱をどこまで施すか、というのが問題だが、弱い力を生かすためのピークシフト能力・時間を一つの目安にするのが良さそうな気がしている。それは三つ巴の構造全体をみながら考えるべきだろうし、答えは一つではないだろう。)

この辺りは若干気持ちの整理がついていない部分ではあるし、課題の一つでもあると思うが、以前よりはかなり納得感を得られたのは大きな収穫であった。

資本主義的な物語とエコロジー思想

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。 そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

建築の温熱環境をどう考えるかは、つまるところ、資本主義の物語に対してどうふるまうか(オルタナティブの問題)、もしくはエコロジカルであるとはどういうことか、という思想によって決まるように思う。

それについて、著者の視点が表れている部分をいくつか抜き出してみる。

流通経済の発展は、私たちがすでに持っているものよりも持っていないもの、地域の良さよりも欠点に目を向けさせ、支出を減らす自給経済よりも、所得を増やす経済へと私たちを駆り立ててきました。(p.113)

暖房や冷房とは、家の中に閉じこもるためのものではなく、この大きな変化を敵視する感情を取り除き、それに親しむ生活を作り出すためのものです。(p.162)

あまりにも身近にあるためにその存在や素晴らしさに気づかず、忘れられ、利用しているという意識も、感謝の思いも、それを傷つけているという自覚さえ失っているもの、その典型が自然エネルギーです。(p.167)

不思議なことですが、自然エネルギーの最大の難しさはそれが無償の富であることで、それを活用する知恵や情報がほとんど伝わってきません。
命にかかわるほどに大事なものであっても、無償である限り、経済でその価値を表現することはできませんし、多くの自然エネルギーはエネルギーの仲間としてさえも認められていません。
多くの人が関心を寄せるエネルギーとは、思い通りになる人工エネルギーとともに経済力で、経済の活性化につながらない問題の解決手法やエネルギーの活用法を伝える情報や知恵が失われ、伝わらなくなっています。(p.177)

潤沢に存在する自然エネルギーは、資本主義による希少化と商品化の物語には乗りにくいが、著者はそこに損得勘定ではなく、オルタナティブとしての物語を見ている。そこが信用に足ると感じる部分でもある。(この本では光熱費がいくら得になる、といった話は出てこない。)

環境破壊への反省あるいは欠点対応としての省エネルギーを”地球にやさしい生活”と呼ぶ人がいますが、果たして地球への暴力を少し控えめにしましょうという程度の省エネルギーが環境にやさしい生活と呼べるのかどうか疑問です。
それよりも、無償の富としての自然の素晴らしさを知り、それに親しみ、慈しみを持って接する生活にこそ本当の優しさがあるのではないでしょうか。
もし、環境保全の視点を”自然に親しむ生活”に移すなら、それは良さ発見型の発想であり、自然と自然エネルギーの活用と生業としている第1時産業こそがその鍵を握っているといえます。(p.214)

”地球にやさしい生活”とは何か、と問われた時にどう答えることができるだろうか。

例えば、同じ様に断熱を強化するとしても、独力での強いエネルギー利用を前提とした省エネの思考と、自然の無償エネルギーを活用し自然に親しむための基盤を得ようとする思考とでは、ベクトルが全く異なるように思う。前者は未だ近代的分断の思考にとどまるが、後者の思考であれば、断熱化を近代的分断の思想から逃れるためのエコロジーの基盤とできそうに思える。

(同じ視点で、私はオフグリッドまでいかない太陽光発電をどう捉えてよいか迷っているとことがあったが、それは省エネの文脈で考えるべきことのような気がした。効果や必要性は認められるし重要な技術には違いないけれども、それはエコロジーの視点からは2次的なものであろう。)

成長するとは自分の回りを変えることではなく、自分自身を変えることです。
創造の課題もまた新しいものをつくることよりも新しい自分を発見することです。
自然エネルギーの特徴は、思い通りになる強さよりも助けを必要とする弱さにあり、地域によって異なる多様性こそが魅力であり、奪い合うことのない無償の富として、私たち一人一人に与えられていることです。
自然と自然エネルギーの素晴らしさをしることは欠点の克服以上に、新しい自分自身を発見する成長への鍵であり、省エネルギーや温暖化防止に勝る、持続可能な成長への課題です。(p.216)

自分を変え、新しい自分を発見することが良さを発見するための基盤となる。生きていく上でも、設計する上でも変わり続けるということは永遠の課題である。

また、本書の終盤では一次産業のあり方にまで言及されるが、それも著者の思想の延長上にある。
建築の温熱環境といってもそれだけに閉じている問題ではない。先に書いたように資本主義やエコロジーをどう捉えるか、生き方全般に関わる問題であるが、それだけに根が深く、個人的にも残された課題が多い問題である。
(ここで、例えば甑島のケンタさんが離島を飛び回ってされていることと、生きていくこと・生活すること、建築を作ることが繋がった。それらが別のものとしか捉えられないところに近代的分断の問題がある。)

次世代へと引き継ぐべき技術

ここでまたもやテンダーさんの言葉である。
先日話しをしていた時に、「資源が不足することが確定している未来にどういう技術を残すのか」というような話をされてハッとした。

今回の強い力、弱い力の問題は、どういう技術を残すべきか、という問題でもある。

特に日本では、伝統をその意味や目的を明確にして継承するのではなく、むしろそれが濃縮され、洗練された形、あるいは様式、構法、慣習として受け継がれる傾向が強いために、それを引き継いできた棟梁や達人がいなくなり、材料や構法が変わると、その形や様式とともにその背後にある精神や意味をも見失ってしまう可能性があります。(p.133)

身の回りが装置化され、ブラックボックス化し、自動制御されると、この生活の知恵が怪しくなってきますが、無償の富である自然と自然エネルギーの素晴らしさを知り、その活用に参加する中で、生活の知恵を積み重ね、研ぎ澄まし、新しい伝統技術として引き渡していくことが大切です。(p.212)

日本では、強いエネルギーによる独力での解決方法と北欧型の断熱技術が進んだ結果、昔ながらの知恵は大部分が建築からのみならず生活全般において失われつつある。それは、引き継ぐ必要のない技術であっただろうか。そこでは技術だけはなくそれに伴う人のふるまいや思想も同時に失われる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。 しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

上記のことはここでも当てはまるように思う。技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。
現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。

これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。
そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。

技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。

そこで重要なのははたらきと循環の思想である。

注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。 その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。 それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

個別のエネルギーのふるまいはエクセルギーという言葉を使わずとも捉えることができるかもしれないが、エクセルギーという概念が与えてくれるのはこのはたらきと循環の流れのイメージである、というのが私の今の理解である。

地球は外断熱された星であり、その中には太陽エネルギーをもとにした様々なはたらきと循環が生まれている。そのイメージを建築に重ねることができれば、さまざまなものが見えてくるのではないか。

うまくいけば思うような建築ができるかもしれない。と期待しよう。

まとめ

断熱をどの程度強化するべきか、に対して思想的根拠を持てていないためモヤモヤしていたのだが、それに対してある程度の考えを持つことができたし、これまで考えてきたことととの接点を掴むこともできた。

昔ながらの日本の民家は、夏に関しては様々な工夫がなされ洗練されたものであったが、冬に関しては寒さの中で暖をとる採暖を余儀なくされてきたため課題が残っていた。
また、北欧や北海道から広がってきた寒地型の断熱手法は、エネルギー利用によるコントロールを前提として夏の工夫を忘れ去るものが多かった。

この、夏と冬の間の矛盾をどう解消するかが大きな課題であることは変わらないけれども、それに対する考え方のベースを得られたことは大きい。

だからといって、一つの確たる正解が得られた訳では無いし、正解があるわけでもないだろう。

都市部と地方では環境は大きく変わるし、活用できる自然も異なる。案件により、立地による環境も、法的縛りも、予算も、住む人の生活スタイルも全てが異なる中で、その都度楽しみながら考えられればと思うが、その時に頼りになり安心感を与えてくれるのは、一つの答えではなく、自分の中の基準である。

2年前から環境をテーマにもやもやしながら考えてきたけれども、ようやく次の一歩が踏み出せそうな気がする。


最後に、終章から、「自然エネルギーの良さを発見する器としての建築」について書かれた部分の小見出しを列記しておきたい。

  • 自然に親しむための器
  • むらのない環境をつくる器
  • 自然エネルギーの個性を尊重するための器
  • 変動から生まれる自然エネルギーを生かす器
  • 自然エネルギーを環境調整の主役にする器
  • 昼の光を活かす器としての建築
  • 夜の光の演出
  • 湿度調整の器としての建築
  • 新鮮な外気を生かす器
  • 無償の富を生かす器としての建築
  • 自然エネルギーを後世に引き継ぐ器としての建築



風を考える上での2つの言葉 B278『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三)

南 雄三 (著)
建築技術 (2014/1/16)

通風に関する本を探していて本屋で見つけたもの。

その前に『図解 風の力で住まいを快適にする仕組み』
野中 俊宏 (著), 森上 伸也 (著), 四阿 克彦 (著), 並木 秀浩 (著)
エクスナレッジ (2021/9/4)

も購入していて、具体的な事例が多数紹介されていたのだけれども、『通風トレーニング~』の方が理論的な背景を掴むのに面白かったため、こちらをブログのタイトルに選んだ。

気まぐれな風

両書を読んでまず感じたのは、風はなかなか手ごわいということ。
日射や気温はある程度状態を想定して考えることができるけれども、風は何しろ気まぐれで思うようにはいかなさそうだし、確立された設計手法というものもあまりなく、発展途上という印象を受けた。
とはいえ、理論的な蓄積や、これまでの歴史の中で積み重ねられてきた工夫というものは確かにある。

その中で、本書は理論的背景を解説しつつ、FlowDesignerによって様々なケースをシミュレーションしながら進められる。
QandA方式で風の振る舞い想像しながらシミュレーション結果と答え合わせすることで徐々に感覚を掴んでいくというトレーニングとしての構成は面白く、気まぐれな風に対して有効なアプローチだと感じた。

著者は、未確立の風の扱いに対して、まずは夜間の通風による「外気冷房」によって就寝可能な環境を作る、というのを(ある意味妥協点として)設定しているのも潔くてよい。
(私は何を隠そう、夏の夜は家族の中で一人だけダイニングに布団を移動して未空調の空間で窓を開けて寝たり、夏休みに数家族でバンガローに泊まりに行ってもエアコンを回避して外にテントを張って一人寝る、というくらいに(特に夜間の)冷房環境が苦手なものだからなおさら共感した。)

話は変わって、今年の夏、最近このブログでもおなじみになりつつあるテンダーさんと「屋根散水と輻射熱研究会」と称していろいろと実験したりしてたんだけど、その結果報告として、テンダーさん作のヤギ用ドームを拝見した時に、テンダーさんがふと口にした言葉が心に残った。

一つは、「皮膚で感じる環境は<答え>であって<式>ではないし、<快適な温度>というのは測れない」というもので、もう一つは「壁が熱を作る」というもの。
これは、この夏の集大成とも言える言葉でなかなかの名言だと思う。

<快適な温度>は測れない

前回の『建築環境工学』を読みながら、もろもろの実験や考察をまとめると下の図の内容にたどり着く。

人が感じる快適性は、人体を通しての熱収支による。
ざっくりいうと、人体の体温を一定に保ち、体内に蓄熱しないとすると、M(代謝量)=E(蒸散・潜熱)±R(放射・顕熱)±C(対流放散・顕熱)が成り立たなくてはならない。このうち人体が調整可能なのはMの代謝量とEの蒸散(発汗)である。

未調整の状態を考えると、M(代謝量)は活動状態で決まり、E(蒸散・潜熱)とC(対流放散・顕熱)は周囲の気温と人体の表面温度の差及び風速で決まり、R(放射・顕熱)は周壁温度と人体の表面温度の差で決まる。

人体の表面温度を33℃に保つとした場合、基本的な代謝量と環境による熱の出入りがバランスしていて無理がないのが快適な環境である。逆に熱収支が合わない時は震えによって代謝による熱量を上げたり、発汗による蒸散で熱を逃がす必要がある。そこで身体にかかる負荷が大きいと寒く感じたり暑く感じるということだろう。

これは、いわゆる温熱環境の6要素(着衣量、活動量、気温、湿度、放射(周壁温)、気流)に置き換えられる。

馴染みの深い気温と湿度だけではなく、様々な要素が複雑に絡み合った熱収支の<結果>を人は感じているのだ。つまり<快適な温度>というのは一つの幻想であり簡単には測れない。(ちなみに複雑な要素による快適性を馴染みの気温に便宜的に置き換えるのがSET*(新標準有効温度 Standard new Effective Temperature)である)

熱環境の考察において気温だけをみていると、様々な可能性を見落とすことになるし、外皮性能一辺倒の思考停止に陥りがちな風潮を助長する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。

そんな中、快適性における風の役割についてはもう少し意識的であっても良いとおもう。(反省をこめて)

壁が熱を作る

もう一つの「壁が熱を作る」。
これはすごい。

例えば日射を考えてみると、太陽からの放射を壁や屋根が受け止めることで、電磁波が初めて物体の持つ振動・熱に変換される。そして、その熱が伝導・対流や再放射によって室内環境に影響を与える。(それは正または負の資源性を持つ)

確かに、日射そのものが熱エネルギーを持つには違いないけれども、緑の中の涼し気な環境を思い起こすと、あまりにも無防備に受け止めたり閉じ込めたりして「壁が熱を作る」ことを当たり前なことと考えすぎているのではないだろうか。その無意識を一突きにする言葉である。

ここでは詳しく説明しないけれども、先のヤギ小屋は体感としてとても涼しく感じた。そこでは日射を真面目に受け取らず、周囲の放射熱をいなす工夫がなされていた。

今回の2冊では通風はあくまで人体との関係の中でしか考察されていなかったけれども、この日射を含めた周囲の放射熱をいなす、ということに対して風の役割は大きい。

つまり、風を人体と建物、双方との関係性の中で考えることが重要であろう。

今回の主題である風を考える上で「<快適な温度>は測れない」「壁が熱を作る」はなかなか示唆に富む名言なのである。

あっ、ちなみにテンダーさんの1Vドーム製作キットは下記で購入可能です♪
1Vドーム製作キット(45mm幅角材用) | ダイラボ通販

うーん、Vectorworksにbutterfly(Rhino+grasshopperでCFDシミュレーションを可能とするプラグイン)を移殖する計画、躓いたまま止まっているんだけどなんとかしたいなー・・・




手を添えるテクノロジー B276『民家の自然エネルギー技術』(木村 建一 他)

木村 建一, 荒谷 登,石原 修,浦野 良美,伊藤 直明,小玉 祐一郎,渡辺 俊行,吉野 博,宿谷 昌則,田辺 新一,岩下 剛,谷本 潤 (著)
彰国社 (1999/3/1)

昔からの民家を工学的に捉えたものは論文などではいろいろと見つかるけれども、まとまった書籍として出てないだろうかと探して見つけたもの。(本書でも宿谷氏が一部執筆されている。)

本書は当時の文部省による科学研究費補助総合研究『伝統的民家における自然エネルギー利用技術の現代的適用に関する研究(1994-1996)』の成果を抜粋・再構成したもので、その内容は多岐にわたる。

通風形式による民家の分類

その中で代表的な民家の特徴を3つに分類すると、周辺環境を調整した上で水平方向に開放する「通風型」(農家)、地盤の冷却力と冷えた空気が下に滞留する性質を利用して上方へ開放する「熱対流型」(町家)、それに加えて、開口部を絞り込み遮熱性と熱容量を高めた「閉鎖型」(蔵)に分けられるように思う。(「閉鎖型」は筆者による)

現代の断熱性能に特化する傾向の強い住宅は「閉鎖型」が近いだろうか。
これらのうち、「通風型」と「熱対流型」について書いておきたい。

「通風型」の民家

通風型の民家は、一番イメージしやすいであろう茅葺屋根の農家である。

まず、高い断熱性能と保水性を持つ茅葺屋根、深い庇によって、夏の日射を遮る。
開口部は比較的大きく開放的で風通しが良いが、深い庇と軒の低さ、格子や簾の遮蔽材、奥行きの深さと高い天井高などによって中は総じて暗い。
また、土壁や土間が蓄熱体として存在している。
その民家を周囲の水や緑を通過した涼しい風が通り抜け、風向きは安定している。

つまり、日射遮蔽の徹底通風利用夜間蓄冷熱利用自然冷熱源の利用によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「通風型」の民家といえる。

ここで、茅葺屋根の熱伝導率は『茅葺き屋根の居住性を評価するための屋根の熱移動係数』によると0.041W/mKである。
もし、茅葺屋根の暑さが60cmとすると熱抵抗値は0.6/0.041≒14.6㎡K/Wとなり、現代においても超がつく高断熱といえる。
茅葺屋根が昼の日射を十分に遮ることで昼間の室内気温と表面温度の変化を和らげるとともに、保水性の高さによって、雨天後の蒸散による冷却をも可能とし、夏の涼しさを生む。
(これだけ熱抵抗値があると蒸散による室内への冷却効果はほとんど現れなさそうに思うが、実測研究では雨天後の気温上昇を抑えられたようだ。同研究による屋根内の結露センサー抵抗値の実測では降雨により深さ20cmの地点の抵抗値が上がっているので、茅葺屋根の持つ保水性・浸透性が関係しているのかもしれない。)

一方、土壁の熱伝導率は0.7W/mK程度だそうなので、厚さ30cmだとすると熱抵抗値0.3/0.7≒0.43㎡K/Wとなり、こちらはあまり高くない。(グラスウール16K 10cmで2.2㎡K/Wほどなのでその1/5程度)
しかし、比熱は1100kJ/m3Kと高く、厚さ30cmの土壁の面積あたりの熱容量は330kJ/㎡Kとなり、厚さ15cmのコンクリートと同等である。
このことが、深い庇が壁への日射を遮ることと合わさり、夜間に放射冷却された土間と土壁による昼の涼しさを生むことにつながる。

「熱対流型」の民家

熱対流型の民家は複数の中庭を持つ都市型の町家である。
通風型民家と比較した場合に一番の環境の違いは、通風型民家では自然冷熱源であった周辺環境が、ここでは高温輻射熱の発生源であることだろう。

通りに対しては比較的閉鎖的で日射及び高温輻射熱を遮蔽し、隣戸との戸境壁の断熱性能も高める。
2階に使用頻度の低い部屋をまとめて、1階の生活空間への緩衝地帯とする。
その上で、中庭、坪庭などの屋外や、通り庭・吹き抜けなどの垂直に抜ける空間を確保し、それと連動するように居住空間を配置する。

中庭には直接日射が当たらないため、1階は比較的涼しく、夜間の冷熱を保持するプールともなり、生活排熱は上昇気流によって上空から排出される。

また、庭の一部に屋根を設けたところ風が吹かなくなった、という報告があるように、複数の庭があることが重要なようだ。
上空の気流や、庭の状況、散水などによって、複数の庭の間に圧力差が生まれ、その間の居住空間に風向は安定しないが微風が生じる。
これが、土間や床下の冷気を運びさわやかな冷感を生む。
(屋根形状によって効果を上げることは考えられそう)

この様に、外部遮蔽内部開放型の空間構成複数の井戸型上方開放空間地盤側の巨大な熱容量それらによる冷熱プールと微風の発生によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「熱対流型」の民家といえる。

まとめ

これらは、環境に適応するかたちで長い時間をかけて培われてきた知恵だと思うが、開放型と熱対流型の2つのケースを横に並べられたのが本書を読んでの一番の収穫かもしれない。

それを現代においてどう活かせるか。

ここであげた、民家の工夫は吉田兼好の「家のつくりようは夏をもって旨とすべし」の通り、夏に対して効果を発揮するものが多い。
夏と冬とでは求める機能が違い、相反する要素も多い中、その矛盾をどう解消するのか、というのが第一の課題だろう。

また、当時と比べて周辺環境や温度環境も厳しくなっているだろうし、人々の要求水準も高くなっている。
そんな中、断熱強化とエネルギー投入による力技にテクノロジーを使うだけでは、人々の根本的な意識や姿勢は変わり難いように思うし、ベクトルとして何か楽しさや生命感を感じる方向にも向き難い気がする。
そうではなく、自然の原理を利用する昔の知恵をもっと発展させたり、加速させるために、テクノロジーが手を添える。そんなことが考えられるといいなと思う。(そのヒントは通風と蓄熱にありそう)

何より、こういうことを考えやってみるのは楽しいことだ、というのが最近の実感だ。

単純に性能値を上げるのが考えることも少なく簡単だし、気密断熱の効果の大きさも実感している。そこをどうずらし整合させるか、というのが一番の課題かもしれない。

そのためには思想と理論と実感、どれも必要な気がするし、どこかでこれでいいじゃん、というポイントが見えてくる気がする。
今のところはそのポイントがクリアに見えているわけではなく、見えてくる確証があるわけでもないんだけど、経験と実感による勘では必ずあるはず。
(だって、中途半端とはいえ、それなりに断熱性能を上げた馬屋2階の事務所より、無断熱の平屋母屋の方が過ごしやすいんだもん。冬は母屋は寒すぎるけど。)

何か、今まで培われてきたちょっとした常識がブラインドになっている気がするな。




道理と装置 B275『エクセルギーハウスをつくろう: エネルギーを使わない暮らし方』(黒岩 哲彦)

黒岩 哲彦 (著)
コモンズ (2014/5/3)

前回読んだ本と関連して購入。『エクセルギーと環境の理論』でも著者の実践例が紹介されていた。

著者は、1198年に『エクセルギーと環境の理論』の著者の宿谷氏の研究室を訪ね、その後宿谷氏や当時大学院生だった高橋氏と協力しながら本書で紹介されている建築の構成を開発するようになったようだ。
(宿谷氏と高橋氏を含むメンバーは、2000年頃に『スレート葺き屋根の二重化と散水が日射遮蔽効果に与える影響に関するエクセルギー解析』という論文を発表している。)

エクセルギーハウスの二重屋根採冷システム

主要なシステムの概要としては、タンクに貯めた雨水の持つエクセルギーを太陽熱温水器なども活用しながら夏冬ともに活用するとともに、夏は二重屋根の間での散水による蒸発冷却によって天井の温度を下げるというもの。(その他にもいろいろ工夫があり、各地で実践もされていて面白いのだけど、ここでは二重屋根についてのみ触れたいと思う。)

二重屋根に関しては、二重屋根彩冷システムと言うよりは、小屋裏彩冷システムと言った方がしっくりくる。

まず、ある程度の断熱性能を備えた屋根により日射を遮蔽する。
その上で、天井の小屋裏側に貼ったガラスクロスの保水層に散水することで、持続的に蒸発冷却が行われるようにする。
また、天井材を熱抵抗・熱容積の小さいガルバリウム鋼板とすることで蒸発による影響をストレートに伝え温度変化を大きくする。
この小屋裏空間には風量調整の可能な窓(蓋)が設けられており、夏季に十分に換気が可能となっている。

実測研究の結果を見ると、室内温度は最高35℃程度まで上がったようだが、天井温度は24.5~28℃の間で推移し、室温より最大で8℃近く下がったという。(『雨水の蒸発を利用した二重屋根採冷システムの室内熱環境に関する実測と解析(2003 黒岩哲彦 高橋達)』)

人は室内気温より周囲の物体の温度が低い方が快適性を感じやすいそうだ。室内気温は一般的な常識で考えるとそれなりに高温だが、上の論文では入居者は概ね涼しさ・快適さを感じているようだった。

道理と装置

実際に屋根散水をやってみて(そして失敗に終わって)痛感したことだが、何かを工夫をするとしても、その理屈にそぐわないことをしても当然結果は出ない。
そういう意味では、研究者と協力しながら開発したこのシステムはやはり理に適っている。(どう理にかなっているかだいぶ分かるようになったのは、失敗してその原因を考えられたおかげだ)

しかし、理に適い過ぎているような気もする。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。 そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。 しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

これは、全く個人的な感覚だし、図や写真のみを見て「気がする」という程度のごく僅かな引っ掛かりに過ぎないのだが、その引っかかりの原因はなんだろうか。

一つは、大きな天井面が一つの機能と一対一で対応しているという、機能の現れ方とスケール感によるものだろうか。何か天井が人に対して背を向けているような感じをほんの少し感じ取ってしまう。

また、もう一つは、ガルバリウム鋼板という素材の持つ工業性と平坦さ、厚みのなさによるものだろうか。例えば、上からキメ・質感のある材料を塗ることで緩和することは可能だろうか。

あるいは、自動化されたシステムが目に見えないところに隠れていることによるものだろうか。何らかの方法でシステムを見えるようにしたり、関わる余地を取り入れることで引っかかりが楽しさに変わることはあるだろうか。

ぼんやりしているけれども、これらが何か装置ということばを頭に浮かび上がらせ、家との間に距離を感じさせるのかもしれない。

システムとしてよく考えられていて、とても参考になるし、批判するような意図は全く無いのだが、ごくごく個人的に何か重要なことがこの引っ掛かりに隠れている気がする。




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




カッティングプロッタ(Graphtech FC3100-120)が新事務所にやってきた。

カッティングプロッターをいただけることになった

吹上町与倉の新事務所の近くに(集落的には)若い人が引っ越してきて住んでいる、という話を聞いていて、話から面白そうな人そうなので、密かにお会いするのを楽しみにしていました。

その方が、先日訪ねてこられてダイナミックラボのテンダーさんだと判明(お会いするのは初めてで、別のところに住んでると思いこんでいたので最初気づきませんでした)。
1階に飾っている折り紙や建築模型を見ながらいろいろと話をしているうちに、なんとカッティングプロッターを譲っていただけることに!

ダイナミックラボって? | ダイナミックラボ〜廃校を利用した環境問題特化型の市民工房(ファブラボ)

もう、楽しみすぎて新しい折り紙の本なんかをかって、さっそくイメトレと試作をば。

オノケン│太田則宏建築事務所 » grasshopperのプラグイン”crane”で曲面折り紙をシミュレーションしてみる

そうこうしているうちに、ついにプロッターがうちにやってきました!

プロッターとPCを接続する

3月いっぱいは仕事が切羽詰まっていたので、4月になるまで我慢していたのですが、早速接続にチャレンジ。

テンダーさんの記事を参考に、アプリを入れて、テストを送信してみるも、ポート送信エラーが出て送れない様子。

FC3100-120

たぶん、時間が経ってサイトからアクセスできなくなったと思うのですが、記事にある、シリアル-USB変換アダプタの型番「20210」にジャストのドライバがどうしても見つからず、windowsの自動インストールされたドライバで試したのですが、相性が悪いよう。(ネット上でいくつか似てそうなドライバを見つけましたがうまくインストールできず)

パラレルのポートを試すか、シリアルポート付きの中古PC買うしかないかな、と思いながら電気量販店にいくと、変換アダプタが自分を待っていたかのように、不自然な感じでポツンとおいてあるのを発見。
少々値段がしましたが、ダメ元で買って繋いでみたら、無事に送信できました!

マニュアルを翻訳

マニュアルはネット上で発見。
GRAPHTEC FC3100-120 USER MANUAL Pdf Download | ManualsLib

英語なので日本語に翻訳をかけようとしたのですが、OCRでテキスト化しようとしたところ、PDFに埋め込んであるサイトへのリンクテキストのみが抽出されうまくいかず。

どうしたもんかと考えながら、結局、PDFから画像抽出ツール(リンクテキストを除外するため)→画像からテキスト抽出(グーグルドキュメントでOCR)→抽出テキストをワードで開いて日本語翻訳→そのままでは改行が多すぎて読みづらいので、改行を「  ▼」に置換、という流れで、その辺にあるツールをいくつも使ってなんとか読めるものに変換。便利になったもんです。

もとのマニュアルと見合わせながら読むとだいたい理解できました。

稼働!

テンダーさんからいくつか注意点を聞いていたので、それとマニュアルを合わせて設定を調整し、早速稼働。

あっという間に一つできました。

当然、精度も手で作るよりも高いです。
早速、カッティングシートも貼ってみることに。

模型やら折り紙やら、いろいろやれることが拡がりそうです。
細かい精度がどのくらい出るか分かりませんが、寺田模型店みたいな添景パーツも作ってみよう。

何かが動き出し始めた

テンダーさんは、私が吹上に来ていろいろと考えてみたいと思っていたことの、ずっと先を歩いている人で、そういう人が近くに住んでいたというのは、全くもって幸運です。

スツールとベンチをお願いしていた、roamの松田さんと話をしていた時も感じたのですが、実際に動ける場所ができたことで、何かがゆっくりと動き出し始めたかもしれません。

ここに移ったことでどういう変化が起きるかは未知だったのですが、これまで、ぼんやりとリアリティを伴わないまま考えてきたことが、新しい回路ができて少しづつ身体と頭がリンクしていきそう。

思っていたより早く動き出しそうですが、焦らずじっくり楽しんでいきたいと思います。




それでも建築をつくるために B266『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』(塩崎太伸)

塩崎太伸 (著)
NTT出版 (2022/9/28)

ツイッターで見かけて面白そうだと思い購入。建築・都市レビュー叢書は意外にも初めて。(他のも面白そうなので読んでみよう)

それでも建築をつくるために

本書の序盤では、例えば、差異から類推へ、外在性から内在性へ、要素論から構成論へ、というようなキーワードが出てくる。
それは、近代的な分断の思考から距離をとるための態度だと思うけれども、一旦距離を取ったその先で、それでもなお建築であることは可能か、というのは自分にとって重要なテーマである。

分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。
ぼんやりとしたイメージやアプローチするきっかけはあるものの、具体的に設計を進める上での拠り所が何か欠けている。
そんな風に感じている。

それに対し、著者はそれでもなお建築であるための可能性を、名づけという独特の言葉を使って探っていく。
著者は私と同年代でもあり、ある程度問題意識は重なっていると思うが、本書はその「それでもなお建築をつくる」ための探究の書と言ってよいかと思う。

以下、本書を読んで考えたことを書いておきたい。

所有から保有 名付けによって所有の概念に隙間を与える

名づけは3者間の重なりがあるところに生まれるが、他者が介在せず、所有と使用が一致する時には名づけは必要とされない。

これまで何度か書いてきたけれども、例えば土地や建物が所有の概念に縛られ、それが表出している街並みには何か息苦しさを感じる。
そんな中、(流行りの面もあると思うけれども)それまで所有(property)されていたところに、名づけをすることで他者が保有(possesion)できるような状況が生まれつつある。

所有権を放棄するわけではないが、他者と保有しあえるような名づけをすることで、所有の概念に隙間を与え、息苦しさを緩和しているようにも感じる。

まずは、名づけは、所有の概念から離れ、他者と何かを共有するための作法と言えるかもしれない。

名づけとは何なのか

いや、そもそも名づけとは何なのか。そのあたりが若干掴みにくけれども、具体的な名づけという行為そのもの、というよりは、名づけという行いの周りで起こる概念や関係性の変化のようなものをふわっとひっくるめて名づけと呼び扱おうとしているように感じた。
それは、おそらく名づけなくてもいいし、他の何かでも良いのだろう。とりあえず、そんな感じのものを名づけと呼んでいる、ということにしたい。

名付けには3者が必要である。例えば、私とあなたがいて、何かを共有しようとした際に名づけが生じる。
それは、以前書いた、間合いに少し似ている。

また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

間合いにおける2者の間にも3つ目の何かがある。それは、剣であったり、役であったり、空間であったり、リズムであったり。

とすると、名づけにも固定化しない距離の作法としてのリズムのようなものがあるかもしれない。

名づけてしまうことは距離の仮固定とも言えそうであるが、距離が定まってしまえば名づけの必要はなくなってしまうだろう。
もしかしたら、名づけが名づけであるためには距離を固定化しない名づけであることが必要なのではないだろうか。もし、名づけによって新たな一極が生まれてしまうのであれば、単なるイス取りゲームになってしまうだけである。

また、名づけは重なりに生まれる。
空間と言葉、建築と設計者、都市と社会、私とあなた、Aと非A――そして、未来の記憶との重なり。

切断された何かと何かの一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考。
それは、今年の目標である、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、越境者として遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということとも重なりそうである。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。
そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる)

名づけはおそらく遊びのようなものになるのだろう。

みつめ方のリフレーミング 未来の記憶へ

さて、前置きが長くなったけれども、分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。そのヒントを考えてみたい。

本書では、建築に関わる既存のフレーミング、空間・かたち・尺度について、モダニズム的な建築教育で身についてしまった思考から自由になるような、名づけを通した見つめ方を検討している。

・空間の名づけ 空間と場所を重ねる
建築家のよく使う言葉として、空間というものがあり、対する言葉として場所という言葉がある。
場所に対して空間はより建築的であると感じるが、リノベーションブームを通じて場所の持つある種の豊かさが注目されたりもした。
空間は建築、場所は建物である、と言ってもよい。
建物が建築になる瞬間に立ち会いたいと思いつつ、場所の持つ豊かさも見逃せないと思う。

この2つの言葉に対し、著者は、空間を「ところ」と「ところ」の関係性、場所を「ところ」と「非ところ」の関係性と整理し、「ところ」と「ところ」の関係性がおおい「ところ」は「空間み」が大きく、「ところ」と「非ところ」の関係性が少ないところは「空間み」が小さいとする。(スペーシングというみつめ方)

たしかに、純粋に「ところ」同士の関係性でつくられ混じりっけのないものは、強く空間を感じより建築的だと感じやすいし、既存の雑多な関係性を引き継いだリノベーションのように「ところ」以外のものとの関係性が豊かなものは、場所性を感じ、建築というよりは建物というように感じる。

空間か場所か、建築か建物か、という2項対立的な思考を、空間みという程度の問題、重なりの思考にスライドさせることである種の呪縛から少し自由になれる。

・かたちの名付け 思考を示す言葉と形態を示す言葉を重ねる
形態が恣意的であるかどうか、というのもこびりついてしまったトピックで、建築が自律性を確保するために、恣意性を排除しなくてはならない、というのも呪縛の一つであろう。
恣意性を排除するために、何かかたちを決定する理由が必要を求め、いわば他律的に形態を決定するが、ここには自律性の確保のために他律的であろうとし、逆に建築の形態を建築の形態そのものとして扱うことは恣意的にみえる、という混乱がある。

それに対し、著者は、恣意的であると感じるのは「かたち」が「かたち」との関係で位置づくときであり、「かたち」が「非かたち」との関係で位置づくときに恣意的と感じにくいと整理し、恣意性を「かたち」が何との関係で位置づいているか、という程度の問題、重なりの思考にスライドさせ、恣意性とはその程度に対する一つの名づけでしかないとする。(シェイピングというみつめ方)

・尺度の名づけ 対象のスケール(サイズ)と関係のスケール(プロポーション)を重ねる
尺度・スケールに関しては、2項対立的なイメージがあまりないのでそれほどしっくりきていないけれども、とりあえずメモしておく。

スケールに対しては、「対象」と「慣習」との関係によるものを「対象」のスケール(サイズ)、「対象」と「対象」との関係によるものを「関係」のスケール(プロポーション)と整理し、これも「おおきさ」の度合いとして重ね合わせる。(スケーリングというみつめ方)

空間・かたち・尺度について、それぞれのみつめ方、名づけが検討されるが、そこにあるのは様々な関係性である。
著者は、関係性に名づけを行うには、それをものとして扱う必要があり、我々はそういう扱いの訓練をしてきていないという。
著者が実際の設計の場面でどのような名づけを行っているかわからないが、関係性を言葉としてどのように発見するか。そういう訓練が必要なのかもしれない。

コンセプトから形式へ 類推論的転換

コンセプトとは何なのか。実のところよく分かっていない。

設計主旨と呼ばれるものは、整理した要件に対する応答でしかなく特別なものではないように思うし、個人の「やりたいこと」はコンセプトと呼ぶに値するものとは思えない。
コンセプトを書け、というような教育を受けてきたような気もするし、(少なくとも私のいた大学では)それすら求められてなかったような気もする。
それでも、何かしらコンセプトというようなものを主体的に設定し、それを形に投影せねばならない、というような空気は確かに存在したような気がする。

著者はコンセプトの投影により、条件から形を導く流れに対し、形式の類推・引用によって、形から条件を導くような流れを推奨する。

この、「ちがう」と思われているものが「おなじ」であるような世界の重なりを想像していくアナロジカルな転換は、帰納的思考、演繹的思考の対立、

ア. 部分から全体へ 連結 帰納(induction)
イ. 全体から部分へ 分割 演繹(deduction)

に続く第三の思考

ウ. 集まりから重なりへ 類推 仮説(abduction)

として捉えられている。

ここで、ある種の価値観や優劣を含んだ言葉を重ね合わせ、類推と仮説によって関係性に新たに名づけを行う効能とは何だろうか。

形から重なりの豊かさを見つけ出しながら、それを再び形へとフィードバックしていくようなサイクルをくりかえすことによって、いくつもの重なりを浮かび上がらせる。
それは、ある種の価値判断が染み込んでしまったものを解きほぐしながら、フラットに、そして自由にふるまうための作法のようにも思える。

そこでは名づけによって価値を与えるというよりは、名づけること自体に意味があるのだろう。
そう考えると、本書で挙げられている建築家による名付けの例も、著者が

いつか、「やりたいこと」よりも、物そのものを建築と呼べる瞬間に立ち会いたい。(p.291)

というように、そうい瞬間に立ち会うための言葉のように思える。
いつの時代の建築家も、最後は物そのものと向き合うためにこそ、言葉を紡いで来たのだと思うし、時代によってその表れ方が変わってきているだけのようにも感じる。

なので、もしコンセプトというものがあるのだとすれば「物そのものと向き合うこと」というようなものになるかもしれない。
そのために様々なアプローチ・手法が存在する。

また、これまでの議論にならえば、コンセプトから形式への話も、「条件」から「形」が導かれるものを「コンセプトの投影」、「形」から「条件」が導かれるものを「形式の類推・引用」と整理し、例えば「コンセプトみ」や拘束度のような程度の問題、重なりの思考にスライドさせることもできそうな気がした。(ガイディング?)

これまでの思考との重なり

さて、それはさておき、本書の内容に対し、これまで考えてきたこととの重なりがいくつか見えてきたのでメモしておきたい。

・オノマトペという名づけ

モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

隈研吾のオノマトペは名づけの一例ではないだろうか。ここでの「物質を経験的に扱う」という捉え方が名づけにおいても参考になるかもしれない。あるいは経験(関係)を物質的に扱う、となるだろうか。

・「複合」というコンセプト

以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここでは、生態学的な視点からコンセプトを「複合」あるいは「不変更」として、発見的、類推的に捉えている。

そうするとコンセプトから形式へ、というよりはコンセプト自体を投影的なものから類推的なものへのグラデーションと考えたほうが個人的にはしっくりくるかもしれない。

・名付けによるネットワーク

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro))

「複合」もしくは「不変更」あるいは「類推」による名づけは、ネットワーク内のある要素間を糸もしくは道路でつなぐようなことなのかもしれない。
その際の名づけ方・つなぎ方を「つなぎかえ」「近道」あるいは「成長」「優先的選択」として整理した上で目指す空間をイメージできるようになれば面白そうだ。

・寺田寅彦のアナロジー

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

このあたりにもヒントがありそうだ。
分かったことにしない「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持し、見る眼を形成する。
名づけはおそらく眼の問題なのだろう。

・レトリックという名づけ

レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。
設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明))

レトリックも名づけの一例として考えられそうである。
名づけが眼の問題とすれば、探索し発見する技術としてのレトリックは相性が良さそうに思う。

・ニューカラーとブレッソン

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

この頃、ブレッソン的/ニューカラー的という視点とその重なりを整理したいと思っていたけれども、本書はまさにその部分に切り込んでいる。

・内在化と逸脱

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

投影的手法と類推的手法は内在化と逸脱と重ね合わせて考えてみると面白いかもしれない。
4象限マトリクスで捉えることで手法的に展開することはできないだろうか。

他にも、「出会う建築」で考えたことと重なりそうなものはたくさんありそうだ。

「出会う建築」で目指す姿勢と建築の方向性についてはある程度考えることができたと思うけれども、では、それをどうやって建築にするか、という手法的な部分のピースはまだ欠けているように感じている。

本書はそのピースを埋めるための一つのヒントになりそうな気がする。

名づけは設計プロセスにおける設計者自身の「からまりしろ」のようなものではないか、という気がしているのだけど、とりあえず設計の際に名づけを行う練習をしてみよう。
形が現れた後に名づけを捨て去っても、そこに何か「未来の記憶」のようなものが残ったとしたらうまくいったと言えるかもしれない。

(著者自身の設計プロセスに対してはあまり触れられていなかったけれども、それが知れるものがあればみてみたい。)




2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる


2022年は環境という問題に対しての自分なりの指針を作ることが目標だったのですが、今年はじめに昨年、本を読み考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
2022matome.pdf
それを今年の指針としたいと思います。

遊ぶように生き、遊ぶようにつくる

人新世を『「それ以外の世界」と生活世界を分断する近代的世界観による時代』として捉えた時、2つの世界の間の矛盾を生き、脆さを受け入れるような態度が必要になってきます。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。

そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。

遊ぶように、ということ

遊ぶように、と言っても悠々自適に好きなことをやりたいようにやる、ということとは全く違うように考えています。
遊ぶとは、目の前の未知なる状態を受け入れ、それと向き合いながら、自己と環境を自在に変化させていくことであり、そのためには、自分の思考とルーティンを疑い変化させて行くことが必要です。
そのために生活に変化を与えようとしているのですが、この先どうなっていくかというのは明確には見えていません。むしろ先が見えていないことそのものに価値があるということが重要です。

まだ、これまでの生活に引きづられて自分の思考とルーティンを大きく変えるようなところまでは行けていませんが、今年は遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、を指針として変化を楽しんでいきたいと思います。




リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)

中谷礼仁 (著)
インスクリプト; 四六版 (2019/1/25)

本書は、今和次郎、篠原一男、ミース、白井晟一、ロース、上野千鶴子、フーコー、エンゲルス、ハワード、ハスクレー、ゲデス、カント、アーレント、アレグザンダー、ガタリ、レイン、民家、蔵、寓話、小説、シェーカー/オナイダ/ヒッピーコミュニティ(コミューン)、ベテルの家など、多様な人物、事物を縦横無尽に巡りながら、家=器と人間、社会との関連を浮かび上がらせていく。

未来のコミューンへ

例えば、上野千鶴子を引いて、家を「特定の人間たちとそれを容れるハコとの相補的な幻想関係」と再定義し、そこに住む人間を「不変の確固たる存在ではなく、社会的関係の中で不断に規定、変転する事物的存在」として捉える。それは人間を、社会や器との関係の中で「改造可能なかたち」として捉えることでもある。

また、人間的発露の発生を「生物としての人間個々のかたちと私たちが築き上げてきた世界=社会的コンテクストとの摩擦」の中に見ながら、家を「人間的病を一旦保持しつつ、人間が自らに対して要求されたコンテクストを、徐々に変更してゆくことのできる待避所」として捉えようとする。

幻想関係の中、人間と家・器とがお互いに変容させ合いながら、両者が平衡状態へと至るような境界を探り、再び集合して新しく空間を確保すること。ここに未知の「家」、未来のコミューンを見る。

かなり単純化しているが、本書でのキーワードをつなぐとこういう感じになるだろうか。(ここまでは内容を思い出す際のメモ的なものです)

忘却とリズム

さて、建築家とはそもそも人間と社会の関係性の中に新しい空間の可能性を見出そうとする人のことだとすると、その関係性にどこまで迫れるかによって建築の深度のようなものが変わってくるだろう。
その背景に迫る著者の思考の深さには凄みを感じるが、一方でこのような凄みそのものが軽んじられるようになりつつあるようにも感じる。

単純に言えば、建築を考える際のベクトルには、建築によって人間を規定しようとするベクトルと、そのような規定を避けようとするようなベクトルの2つがあるだろう。
現代は私も含め、後者のベクトルの傾向が強いように思うが、そこには背後にあるコンテクストを単純化・省略化して徐々に忘却していってしまうという危険性がある。

著者は、原罪的現実(「つがい」「生産」「恥じらい」)とそれらを克服する希望(あるいは妄想)の二重性として、近代家族を「語るべきこと」が必要であるが、この宿題は、ハコと人間たちとの機能論的な関係を見るだけでは回答できないという。

しかし、先程のベクトルによって忘却が進んでしまっては、この宿題に対する回答には辿り着けないのではないだろうか。(忘却こそが回答である、ということはあり得るだろうか?)

千葉雅也のツイートをフォローしていると、この忘却に対して踏みとどまろうとする倫理観のようなものを感じることがある。この姿勢はモートンを読んで感じた”距離においてとどまりリズムを立ち上げる”ということに近い。

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

そして、このリズムは『間合い: 生態学的現象学の探究』で浮かび上がったように、人間と社会・世界の間に関係を築き維持するために必要なリズムである。

忘却が∞の距離の固定化だとすると、空間の中にリズム=社会・世界との関係性を立ち上げ続けるには、忘却に対して踏みとどまり、著者のように深く思考を続ける姿勢が必要であるし、おそらくその先に人間的発露が生じる可能性がある。
そういう意味では、本書は著者自信がリズム=関係性を立ち上げ続けるための、忘却に対する抵抗の記録であるとも言えるし、人はそれぞれ忘却してはならないものを抱えているのではないだろうか。

では、自分にとっての忘却してはならないものとはなんだろうか。(すでに忘れてしまっていたり・・・)
 
 
(環境や自然は建築を考える上でのコンテクストとしての存在を年々強めているが、このコンテクストと建築・人間との関係性が歴史的にどのように変遷してきたのか。その変遷の忘却に対する抵抗の書を、本書のような深度で誰か書いてくれないだろうか。)




世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)

河野 哲也 (著)
東京大学出版会 (2022/3/14)

2013年に刊行された『知の生態学転回』三巻本の続編とも言える新しい九巻シリーズのうちの一つ。
一気に全巻は難しいと思い、まずはそのうちの一冊を買ってみた。
(前回のシリーズも購入前はきっと読むのに苦戦するだろう、と思っていたけれども読み始めると面白くてどんどん読み進められたので、今回のシリーズも期待している。)

間合いとリズム・流れ

間(ま・あいだ・あわい・はざま)とは、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、拮抗する力が動的に均衡している様子である。日本語における、ま・あいだ・あわい・はざまといった読みのそれぞれには異なるニュアンスがあり、間に対する感覚の豊かさが表れている。
また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。

では、どのように間合いを捉えるか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。

このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。

ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。
アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。

本書では、このような感じで、環境と自己との関係を気象学や潮流の海洋物理学といった分野からアプローチするようなイメージが提出される。(ここまでの記述では意味が分からないと思うので関心のある方は本書を読んでみてください。)

残念ながら、それぞれの学問分野によって具体的にどのように記述可能か、という肝心の部分はほとんど触れられていないが、まずは、このイメージの提出によって何かを拡張させることが目論まれているはずである。

それは、動物の視点からみた環境との関わり合いを個別瞬間的に捉え、記述するようなイメージが強いアフォーダンスに、流体のイメージを重ねることによって、空間的および時間的に俯瞰・継続しながらアフォーダンスを捉えるイメージを付加しようとするものではないかと思う。(といっても、アフォーダンスが個別瞬間的な範囲に限定された概念であった、と言うことではない)

あるいは、本書では特別言及されてはいないけれども、オートポイエーシスのようなシステム論的な思考への接続が目指されているように思う。
本書でも、カップリングや産出、構成素といったシステム論における用語が(特段の説明がないまま)使用されており、オートポイエーシス・システムのようなものが前提とされていると思われるが、それによって、アフォーダンスを空間的・時間的に拡張するイメージを組み立てることが可能になっているように感じた。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成))

このブログでアフォーダンスやオートポイエーシスに触れるたびに、両者の相補的な性質・相性の良さを感じながら、あまり交わったものをみないことを不思議に感じていたし、自分でも両者を交えた形で書くことを試してはいただけに、両者の接続は個人的には好ましい傾向であり今後の転回が楽しみでもある。

環境における無心としての主体

また、間合いやリズムを通じて、デカルト的な心身二元論ではない主体の概念を再提出することも、本書の狙いであろう。

アフォーダンスの概念を分かりづらく、誤解を招きやすいものにしているのは、動物の視点から環境を捉えることを徹底しながらデカルト的な見方を捨てることを要求する、この主体の概念である。
それを能や剣道の例をもとに描き出していく。

能においては地謡が語ることで場を用意し、ワキが二人称として存在することで初めてシテが主体(一人称)として現れる、というように、関係性の中に生まれる主体という世界観がある。
この、シテの演者が、無心になり、ワキや地謡、観客の視線といった環境の中で受動的に自分が運ばれる、というような境地に至ることで、こわばりや不自然さが克服される。
しかし、この状態はただ受け身であるのではなく、「離見の見」と呼ばれるようなメタ的な視点によって、自ら改変した環境の中ではじめて無心であれる、というような受け身である。
それは遊びの世界とも呼べる超越的な世界であるが、自分がつくりだした環境によって相手にトリガーを引かせ、そのトリガーによって自らが無心に運ばれるという、いわば高等技術である。

また、剣道における「後の先」という間合い(相手を攻撃するように仕向けて(トリガーを引かせて)無心に反撃する)というのも同様のありかたである。

そして、意図や行為を主体の心が生みだすものと捉えるのではなく、環境との関わりの中で形成されていくものと捉え、環境および環境との関わりを、渦・潮流とその整流と捉えるというのが本書の提出するイメージである。


ここまでは、私なりに捉えた本書の概要であるが、ここからは、建築を考える上でそれらはどのように展開が可能か、のとっかかりをメモ的に書いておきたい。

建築との間に間合いはあるか ~出会いの作法とつくること

最初に、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないもの、と書いたが、そうだとすると、意志を持たない建築との間に間合いというものはあり得るだろうか。

本書でも日本庭園を例に出した上、そこに表現されているものを間合いと呼びたくなる、と書かれており、その理由は、日本庭園が移動し、身体で経験するものであり、差異化が常に待機状態であるから、とされている。しかし、それだけでは間合いがある、とは言い難い。
また、最終的には「しかし、それよりも根源的な音楽性、すなわち「新しさの希求」は、このような対人的・二人称的なやり取りの中でしか経験できない(p191)」と結論付けられている。

では、やはり建築との間に間合いというものはあり得ないのだろうか。

それに対しては確信はないけれども、2つの可能性を書いておきたい。

その可能性の一つは、技術・出会いの作法として以前書いたものである。
さまざまな渦の間に間合いが生まれるとすれば、対する渦が多様な現れをし、こちらの間に応じて異なる間を返してくれることが必要だろう。

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-八 技術―出会いの方法)

上記引用元では、重ね合わせ・保留・ずらしの3つを挙げたが、日本庭園のように間の変化を前提とし、変化の契機を内在した、出会いの作法とも呼べる技術には間合いが生まれる可能性が残されていないだろうか。

可能性のもう一つは、つくること、である。

先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか。 それには、3つのアプローチがあるように思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ))

つくることを届けるということは、つくる人を届けると言い換えても良いだろう。
上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。

これらが、間合いに応じて異なる表情を出してくれるとすれば、そこに生命や創造性が内在したリズムが生まれはしないだろうか。
それが実現されたとすれば、それはおそらく建築の奥行きと呼べるものであり、案外皆が追い求めているものなのかもしれない。

オノマトペ 小さな矢印の群れ ハイパーサイクル

また、世界を流体・渦として捉えるイメージを前にした時、3つの書物が頭に浮かんだ。

オノマトペ

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

下図は、この本を読んだときにオノマトペの印象から書いた人と物質との関係の漫画だけれども、世界を流体・渦と捉えるイメージと驚くほど重なる。(隈氏のイメージの元にアフォーダンスがあるので当然かもしれないが)
onomatope

小さな矢印の群れ

同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』)

この時も小さな矢印をその都度発見される自在さをもったものと捉えようとしているけれども、これも流体・渦の世界にかなり近い。
この矢印に量子力学的な、もしくはネットワーク理論的なイメージを重ねることで、より豊かな場をイメージすることが可能にならないだろうか。

ハイパーサイクル

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。 このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫))

複数のシステムのカップリングによる創発のようなものの記述は河本英夫氏の方に一日の長がある気がするが、これに空間的なレイアウトのイメージを重ねたのが流体・渦の世界観かもしれない。

新しさに開いておく ~モートンのリズム

最後に、本書においてキー概念であるリズム。
新しさを希求し続けることによって、生命や創造性が内在しているのがリズムであったが、これが、モートンを読んだときに曖昧だったイメージを補完してくれたように思う。

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは、ものごととのあいだに固定的な距離が生まれることを注意深く避けるために、独特のリズムを生きることを重要視しており、『自然なきエコロジー』は距離との格闘の書とも言える。

その際、固定化を避けるリズムを立ち上げ続けるような作法が重要だと理解しつつ、リズムに関しては曖昧なイメージしか掴めていなかったのだが、間合いとはまさに固定化しない距離の作法のことであろう。本書によってモートンのリズムが少しイメージできるようになった気がする。