システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。







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