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B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

佐々木 正人 (編さん)

岩波書店 (2007/02)

日本におけるアフォーダンスの第1人者、佐々木正人に関連する書評はこれで4冊目であるがぐっとイメージの広がる著作であった。(ゲストは作業療法士の野村寿子、心理言語学者の古山宣洋、生態心理学者の三嶋博之、哲学者の染谷昌義、齊藤暢人、写真家のホンマタカシ、映画監督の青山真治、小説家の保坂和志)

佐々木正人を初め様々な分野の先端を走る人達が『環境』をテーマに語るのだが、そこには共通のある認識が見て取れる。それは、偶然というよりも時代の流れを感じるものである。

以下、備忘録がわりにいくつかメモってみる。

メモ

●野村寿子(作業療法士)
脳性麻痺の方などのリハビリ用の椅子を作っている方。
これまでは姿勢を矯正するようなつくりであったが、矯正するのではなくサポートをするような作り方で、その処方は全く逆の方向に向くことも。
人間が環境と関わりあえることを信頼しているような作り方。
なるほどの連続。患者さんは環境と関わるサポートを受けることで生き生きと環境との関わりを生み出していく。

● 染谷昌義、齊藤暢人(哲学者)
哲学のことはあまり理解できたとは思えないが、少しだけイメージはつかめた気がする。(イメージだけで言葉が正確ではないと思いますが)
デカルトの認識論(二元論)によって物質と精神の2つに区別され、それが今の世界の認識の仕方の主流になっている。
環境と自己が区別された上でそれらが別個に考察されている。
そこには俯瞰された世界があり(例えば宇宙)その中のある座標に物質としての身体があり、それとは別に自己の意識が存在している。
という見方。
そうではなくてそういう俯瞰する視点を取っ払って、自己と環境の、というとまた二元論になってしまうけれど、自己を含む環境から考察をスタートするやり方があるのでは。

スミスとヴァルツィの環境形而上学(有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論)はまさに空間としての環境を扱っている。

●ホンマタカシ(写真家)
カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比

何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。

おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。

建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。

建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。

● 青山真治(映画監督)
《像》ではなく《身振り》に。

同じように 《像》として、または物語としてはっきりと焦点を結ぶことを嫌う。自己と物語の分裂のもと、俯瞰的な視点を持つのではなく、『対象の 《像》への結晶化を 《環境》とともに回避』させる。

『結晶化』によって環境との微妙で豊かな関係性が分断され、物語に回収されてしまうことを恐れるのでは。

おそらくゴダールだけが、人間を信じていない、心理を信じていない

という言葉が印象的。

● 保坂和志(小説家)
同じような対比としてダンテの『神曲』とカフカを挙げている。
カフカも具体的なイメージが焦点を結んだり全体像が掴まれることを回避している。
不思議な部分の積み重ねによって全体像が現れることなく、何かしらのものが(著者は『カフカの現実』と言っている)が立ち現れている。
こういうカフカの表現は空間の一つのあり方。奥行きの表現の仕方を示しているようにも思う。

「一瞬の中に永遠がある」「一にして多なるもの」「朝露の一滴が世界を映す」これらの言葉を私は「わかった」とはいえないけれど、「シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるか」という問いのように難解だとも思っていない。それどころか、世界の真理とは結局のところこのような言葉でしか語らえないとも感じている。

著者は宗教者の言葉に興味を抱いているが、そう言われると禅問答のようだし、禅問答は言葉を拡張して世界の真理を掴もうとする一つの手段とも思える。

関係性によって全体を獲得する?

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。
水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。
それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。
自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。
その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。
そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。ぼんやりとしたイメージでうまく表現できたか分からないし、本著はもっと奥行きがあると思います。気になった方は御一読を。




B038 『建築を拓く -建築・都市・環境を学ぶ次世代オリエンテーリング』

日本建築学会
鹿島出版会(2004/10)

建築的思考を武器に新しい道を拓いている先駆者25人のインタビューが収録されている。
あまりなじみの無い人もいたのでメモの意味でもざっとあげてみると、

内藤廣大島俊明松村秀一野城智也原利明梅林克大島芳彦松島弘幸アパートメントゼロスタジオ坂村健深澤直人甲斐徹郎玉田俊夫吉岡徳仁西村佳哲福田知弘後藤太一中西泰人love the life勝山里美馬場正尊松井龍哉元永二朗新良太

建築を学ぶ学生を主な読者に想定しているが、”建築をどう拓いていくか”は現に建築に携わる人にも切実な問題である。

この本の中で学生へのメッセージの中で共通しているように感じたのは、
・社会に対して自分がどう関われるかを考える。
・自分の中で感じたものを大切にしそれを突き詰める。

と言うようなことの大切さである。

この本でもいくつものキーワードや方向が見えてくるが、それら全てを突き詰めることは不可能であるし、しょせんは借り物である。
自分でこれと感じたことを突き詰めた先に何かが拓ける。
実際ここに収録されている人もそうやって必要とされるポジションを築いてきたのだ。

僕の本当の興味や出来ることはどこにあるのか。そのための方法は・・・・・

建築という領域を新築することに限定する必要はない、もっと自由に捉えてよいと考えると少し幅が出る。
すぐには答えが出せないのだが、それらを突き抜けるためのきっかけのようなもの、隠し玉はある。(それは秘密。。それを使うかどうかは今後じっくり考えることにする。)

一度、明確なビジョン・ストリーを描いてみたい。

******メモ**********

■本当はみんながほしいと思っているものを掘り起こす能力、あるいはそれをかぎ分けて目に見える形にすることで、イメージを喚起する能力。・・・・製図台の上の真白い紙の上で描けるのが近代建築であるとするならば、出かけていって、見て考えて、そこにいる人と意見を交換しないと、問題すら発見できないと言うような環境体験型の方法論に移りつつあるのだろうと思います。(古谷誠章)
■デザイナーが手を加えることで価値を倍加させていくような手法(大野秀敏)
■「建築家」がどうするか。1.増改築、改修、維持管理を主体とする。2.活躍の場を日本以外に求める。3.建築の分野を拡大する。・・・・第三の道でまず目を向けるべきが「まちづくり」→タウンアーキテクト(布野修司)
■・時間の概念>クロノプランニング・直感が大切。工学と直感は無縁ではない。・「私」を超えること。(内藤)
■リニューアルとは建物をどうやって次の世代に引き継いでいくか(大島)
■・これからの展望が開ける部分というのは結局は生活者しかない。・みんな能力もあるし、繊細さもある。でも、「何かを切り拓いていくぞ」っていう感じは乏しい。(松村)
■人々のアクティビティを呼び込むことによって、広い意味でも経済的価値を生むことが重要。(野城)
■・社会レベルへレンジを広げてみると、まだまだ住宅には取り組むべき問題は山積している。・自分たちが持っている「強み」「リソース」をどのようにデザイン活動に結び付けてゆけるか。(梅林)
■・オーナーの資産を設計デザインという付加価値の観点からマネジメントしますというスタンス。・ただ綺麗にするのではなくて、違う価値基準に乗せ換えてしまいましょう。
■・自分たちの価値観を大切にすること。そしてその価値観やビジョンといったものをしっかりと周りに伝えていくこと。・イメージを育てるのがすごく大変だけれども、それをイメージで終わらせない。(滝口)
■・身体が記憶している、みんなが共鳴する何かがあるはず。・人間のセンサーに対して深い部分で何か感じるようなものを突き詰めてつくってみる、ということが大切。学問として学ぶのではなくて、身体として経験する。(深澤)
■・使い手の意向を読み取って関係性をつくることが本来のデザイン。繋がりとか連続性。・自分にとって価値のあること、心地よいと感じること、そういう感性が現れるのを待つことを大切にしてほしい。(甲斐)
■夢を見、イマジネーションの力を磨くこと(玉田)
■自分なりの生き方で生きていかないとデザイナーとしては成長できない。(吉岡)
■・みんな他人事の仕事はしていない。どんな請負の仕事でも「自分の仕事」にしてしまう。・感動しているとか、心が動いているとか、面白がっているとか、興味のあることがたくさんあるのは、動く大きなプールというか内側の資源(西村)
■デザインを進めていく方法論というか、コンセプトを見つけていくこと自体が大切なことになっていく。(松井)




サービスからツールへ B308『 How is Life? ――地球と生きるためのデザイン』(塚本由晴,千葉 学,セン・クアン)

塚本由晴,千葉 学,セン・クアン,田根剛(監修)
TOTO出版 (2023/11/24)

ギャラリー・間の開設35周年を記念して行われたテーマ展(2022/10/21~2023/3/19開催)をまとめたもの。

企画時がコロナの真っ只中だったこともあり、これまでの社会のあり方・常識に対して転換を促すようなテーマが選ばれ、建築らしい建築はあまり出てこない。

が、道具に対する言及はいたるところにある。

道具を外部化し、専門化することで暮らしを産業社会的連関に移行させてきたのが20世紀後半のビルディングタイプなら、道具を取り戻し、暮らしを民族誌的連関につなぎ直す21世紀のビルディングタイプは、ツール・シェッド(道具庫)を原型に持つものになるだろう。身の回りの環境に細工を加え、整え、季節の恵みや、エネルギー資源を獲得するために、道具を持ち替え、向き合う対象からの反作用として己の体を知る過程で、スキルが発生する。(p.137)

地方に軸足を移すと、道具類がどんどん増えていく。そして、どんどん欲しくなる。

道具とそれを扱うスキルによって、地方における自分の存在・自分の見えない領域が増えたり減ったりする気がする。

それは、テリトリーというようにお互い奪い合うような領域というよりは、お互いに支え合うクッションのようなもので、それが増えれば増えるほど、より周りに貢献することができる。しかし、支えてもらってばかりでも恐縮してしまうので、堂々と過ごすには、やはり何かしら道具とスキルがあったほうが楽だ。

道具がずらっと並んでいるのを見るのは至福だし、自分が道具とスキルを手に入れることには、なんとも言えない充実感がある。

この充実感は、分かる人には分かるというもので、なかなか言葉では伝えられない。
よく言われるような、道具による身体の拡張、というだけでは何かが伝わらないことがある気がする。
では、何が伝わりにくいのだろうか。

先程の引用のような、サービスとツールは、ベクトルが異なる。サービスは外から内のベクトルで受動的、ツールは内から外のベクトルで能動的と言えそうだ。これは、ベクトルを再び反転しよう、という話なんだと思う。

しかし、道具による充実感のキモは、向きではなく、能動性と双方向性にある。生物の知覚と行為の基本は本来、能動的で双方向なものなのだ。
その双方向性を規格化/工業化を邪魔する、煩わしい余計なものとして捨て去り、一方通行にしたものがサービスなのだから、充実感が不足するのもやむを得ないし、そのままの視点で、道具を身体の一方的な拡張としかイメージできなければ、その充実感は想像できない。
道具は単に身体を拡張するだけでなく、世界を取り込み絡み合わせる。

そこらにある道具は、時代遅れの代物だと思われがちだけど、そうではないだろう。
ベクトルが逆だった20世紀後半、ツールに求められるのは双方向的な調整機能ではなく、一方通行な正確さである。単に、手道具はそれにマッチしなかっただけで、再びベクトルを逆転すると、それまで、時間の試練をくぐり抜けてきた道具たちの機能性と美しさに気付くことになる。それらは時代遅れではなく、時代外れだっただけなのだ。

ユクスキュルの環世界は、種や個体の持つ知覚やスキルが、それらの住む世界の現れやあり方を変え、個別なものにすること示しているが、道具やそれに伴うスキルは、扱うものの環世界を、生態心理学的に言うと、環境に含まれる意味や価値を変えてしまう。
道具によってそれまで見向きもしなかった、煩わしいだけだったのものが、意味や価値に変わり、生活を豊かにする資源に変わる。
さまざまな道具を持ち替えることは、さまざまな色眼鏡を装着するように世界の見え方を次々に変えてしまう。これが面白くないわけがない。

逆に言うと、サービスに埋め尽くされた社会での環世界は、一部では大きく開かれているかもしれないが、偏った狭いスコープしか持たないものだと言える。千葉学が書いたように「道具を介して地球と向かい合う機会が稀な社会では、環境への理解など、深まるはずもない(p.176)」。

このことが、最近になって少しづつ分かってきた。

どんな道具を持ち、どんなスキルを身につけるかは、環境に対する姿勢そのものを示すと言える。

そういう意味では自分もまだまだだ。

できることなら、道具をつくったり直したりするような道具やスキルを身につけたいものだ。




イメージの更新 B307『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史)

藤原辰史 (著)
青土社 (2019/6/25)

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。 しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

エントロピーの排出が循環の決め手であったのと同じく、分解は循環になくてはならないものである。
本書は、そのことを、科学的に位置づけたり、効用をとりあげるだけでなく、哲学的な考察を加えながら吟味していく。

分解という作用

生態学では、生物を「生産者」「消費者」「分解者」に分けるのだが、実際には、植物も呼吸をして消費をしているし、動物が食べることは消費であると同時に分解の一部でもある。微生物も分解も消費の一部だ。
この、生産や消費という言葉は経済との関連を想起させるし、分解者には循環に貢献する「機能」を期待させ、人間本位の意味合いを強く持たせてしまう。

近代的な世界観にどっぷり浸かった人間は、つい、生産や消費を、分解よりも上位において考えてしまい人間主体の思考から抜け出すことが難しい。これをどう振り払うことができるだろうか。

前回読んだ『人類堆肥化計画』が顕にしたように、分解者はただ、自らの生存のための営みを継続しているだけであり、そこには生と死にまみれた世界がただ存在しているだけだ。

これまで私は、ハインリッチの「生きものの葬儀」という視点を手掛かりに、糞虫という甲虫の生態を学びながら、生態学の「分解者」から「分解」を、うつろう「作用」として腑分けしてきた。機能ではなく作用としたのは意味がある。機能は、ある特定の受益者を想定しているような意味、政治的にはナチスの中央集権主義的な意味を持つのに対し、作用は、ある特定の受益者に対して比較的ニュートラルな意味を持つからである。まさに、分解は、生産者にも消費者にも、そしてもちろん分解者にも宿っては去っていく作用としてみてきた。(p.270)

生物を「生産者」「消費者」「分解者」といった存在として分け、機能をあてがうのではなく、ただ作用としてみること。
このニュートラルな視点こそがおそらく重要であろう。

これらの作用を、インゴルド的なはたらきの線としてイメージしてみる。それらの線が複雑に絡まり合っているのが生態系・この世界であると捉えたとき、生み出すことも、それを利用することも、解きほぐすことも一つの作用・線であり、これらが絡み合ったメッシュワークが全体としてメビウスの輪のように環をなし、持続可能な生態系の循環を成立させている、ということがイメージできるだろう。

さらに、生み出すこと、利用すること、解きほぐすこと、このどれかの作用が途切れたとしたら、この環が崩れ去るのも容易に想像できるのではないだろうか。

そして、現代の社会が生産と消費に邁進し、分解を疎かにしすぎていることも。

環境の問題から、生命、循環、土壌、菌類ときて分解にたどり着いたわけなのだが、おそらく、環境の問題は人間本位の副次的な問題に過ぎない。
本当は、ただ、ニュートラルに、それぞれが生き、それに応じた作用がそこにあり、それを生態系が包み込む、それだけでいいのだろうと思う。

建築における分解

とはいえ、現実に社会は偏っており、分解は意識の外へはじき出されている。
建築に携わるものとしては、どこまでできるかは別にしても何かしら自分の中にイメージを持っておくべきだろう。

では、建築において分解の作用はどのようにイメージ可能だろうか。

一つは、設計というプロセスに分解のようなイメージを組み込むことだろう。
計画という言葉に象徴されるように、設計は何か一つの完成形に向かって直線的に突き進まなければならないと思い込まされてきた。
しかし、作られたものを解きほぐし再構成させる道を開く分解者のように、設計プロセスもしくは作られたものを、より柔軟に、より自由にするような作用を組み込んだっていいのではないか、という気がする。
(といっても、まだ曖昧なイメージにすぎないけれども)

もう一つは、資源循環やサーキュラーエコノミーと言われるように、建築の素材を循環の中に位置づけることだろう。
現在の建築の多くはメンテナンスフリーを究極の理想として、分解されないもの・循環できないものをつくることが目指される。
建築はその巨大さや高コストのせいで、分解、すなわち手を入れることで再生成するのではなく、耐久性を高めることが合理的と信じられている。

しかし、その合理とは本当のものなのだろうか。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
(中略)
ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。
エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない。 (このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)
しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一))

私は、この耐久性こそが合理であるという常識は、単に、近代的な思考の枠組みがイメージできることの限界をつくっているだけのような気がしている。
現に私も、資源循環やサーキュラーエコノミーという言葉は単なる(人間主体の)お題目のように感じていて、ピンと来ていなかったのだけれども、本書や最近の読書・実践を通じて、これまでの合理性が導くイメージとは違うイメージが芽生えつつあるように感じている。

それはまだ曖昧で、現実と結びついたものではないかもしれないけれども、それまでの常識・合理性は、ちょっとしたきっかけでひっくり返るような案外脆いものだったのではないか、という疑いは日に日に強くなっている。
そして、新たなイメージは、思ってたよりもずっと当たり前で魅力的なものなのでは、とも。

ここでもやはり、環境問題だ、持続可能性だと大上段に構えることよりも、よりニュートラルな視点からものごとやそこにある作用を見る目の方が大切な気がするし、その目を持つことでようやく別のイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

先程も書いたように、今はまだ、明確な像を結ぶようなイメージではないけれども、1年前に比べると遥かに視界はクリアになってきているのは確かだ。
ゆっくりでもいいので、もう少し進んでみたい。




可能性の表現 B306『人類堆肥化計画』(東 千茅)

東 千茅 (著)
創元社 (2020/10/27)

別の本で紹介されていて、気になったので読んでみた。

里山における腐敗とその先の堆肥化。

堆肥はもちろん比喩であるが、そうでないとも言える。
嫌われ者の小動物や微生物が、動物や植物の死体を腐敗させ、堆肥化することで新たな生へと繋いでいく。
堆肥とは生と死が入り乱れる場所だ。

著者は山尾三省が、里山の生活を寡欲・清貧な「小さな幸福」と表現することを糾弾する。
(35年ほど前、私の家族が屋久島へ移住した頃、何度も山尾三省の名前を聞いた。父は氏と多少の交流があったようだ)
著者によると里山は寡欲・清貧などではなく、欲と悪徳、生と死にまみれ、それだからこそ大きな悦び・大きな幸福があるという。
それを偽悪的な表現で暴き出す。

以前書いたかもしれないが、数年前、環境について学んでみようと考えたとき、環境を学ぶということは結果的に、それまで建築について考えてきたことに蓋をし、寡欲・清貧な道に切り替える決断を迫られることになるかもしれない、と思っていた。
しかし、実際に学び、多少の実践を交えながら考えていった結果は全く逆で、環境について考えるということは、それまで考えてきたことの延長線上にあることが分かった。それは、それまで考えてもなかなか埋めることの出来なかったパーツであり、建築を大きな悦びにつなげる可能性を持つものだったのだ。

その意味で、著者の欠いていることは細部も含め、おおいに共感し、参考にもなった。
おそらく、表現すべきは悦びの方なのだ。

ここで、この見えている可能性をどう表現するかはとても大きな問題だと思う。
寡欲・清貧な小さな幸せを求める、というのも良い。
しかし、実際にそのような生活をしてきた人たちは、おそらくそんなことは考えずに当たり前に生活しているだけだろう。そこには、豊かで優しいだけでない暴力的な自然もあるし、それらも含めて当たり前である。

ここの表現を誤れば、多くの人との間に壁を立て距離を生むことになるか、現実と乖離した幻想を植え付けることになりかねない。(この辺の違和感については、「いいわねー」に対する違和感として、以前少しだけ書いた。)

著者の偽悪的な表現は魅力的で、感染力がある。どちらかというと、ひねくれた方である自分としても、清貧なものいいは好きになれない。おそらく著者も、悦びを最大限表現するためには、それに応じた悪徳を表現しなければむず痒くてやってられないのだろう。
しかし、自分は著者のような表現を嫌味なくできそうにないし、著者ほど若さや勢いを持ち合わせてはいない。
それに、これまでの経験上、こういった感染力は、瞬発力はあるが、感染した人がすぐに忘れてしまう割合も高いように思う。(それでも、いくばくかの人の実になればそれでいいのだろうけれども。)

個人的には、当たり前のこととして、淡々と、自ら悦びを享受しつつ表現できるようになれればいいな、と思っているし、最終的にはそれを建築で表現することが必要だろう。

とはいえ、当たり前に淡々としていては、伝わるのに時間がかかり誰にも気づかれないまま終わってしまうのでは、という不安や葛藤もある。(当然そうなれば建築を仕事として続けることが困難になる。)

そうならないように、できることを考えやっていかなければ。さてさて。




生命との応答実践 B305『よくわかる イネの生理と栽培』(農山漁村文化協会)

農山漁村文化協会 編 (著)
農山漁村文化協会 (2018/6/20)

ひょんなことから田んぼをすることになったので、試しに買ってみた数冊のうちの一つ。

本書は1965年に発行された『イネの生理と栽培』(岡島秀夫)をもとに農文協があらたに構成したもの。

稲については全くの素人である私は、何をどう考えてどういう判断をすれば良いか全く分かっていなかったのだけれども、タイトルの通り、稲の生理を科学的に説明しながら栽培の原理につなげていく本書はまさに求めていたものだった。

青田六石米二石

本書で書かれていることは、昔の米づくりの名人が言ったという「青田六石米二石」という言葉に凝縮されていそうだ。

穂が出る前に、田んぼが六石(900kg)も採れそうなくらい青々とした立派な出来になっていたら、肝心の米の収量は二石(300kg)しか採れない、という皮肉で、「青田づくりの名人」と揶揄されることになるという。

素人目には、青々とした立派な田んぼを見れば、うまくいったと満足しそうなものだけれども、それだと肝心の穂を実らせるころには過繁茂な日陰を作る状態になってしまい、各部が光合成を含めたそれぞれの役割を果たせず、結局は実りが少なくなるそうなのである。
青田の状態では例えみすぼらしく見えても、穂を実らせる段で最大限の能力を発揮できる状態に持っていくことが、現代の米づくりの極意のようなのだ。

そのために、水や栄養素、稲の各組織やホルモンが、どの段階でどういう役割をになっているか、ということを理解することが重要で、そのことがコンパクトに纏められているのは、本当にありがたい。
(一度、自分でまとめてそれらの関係性を消化する必要があるけれども。)

生命との応答

このことは、これまで環境について考えてきたことと無関係ではなく、さまざまなところでつながっている。

もちろん、本書で解説されている稲作りは、一定の面積の中で収量を最大化することが目的として想定されており、自然本来のあり方からはずれるかもしれない。
しかし、自然そのものを理解しなければ、それはなし得ないし、そこで行われるのは、自然を完全にコントロールする、というよりは、自然と人の関わりを調整することにすぎない、という姿勢も重要なように思われる。
また、理解が進めば何を目指すかは、人それぞれに開かれている。

例え理屈を理解したとしても、私には状況を判断する目がまだないため、最初からうまくいくとは思っていない。しかし、だからこそ、自然と応答を繰り返しながら環境をつくりあげていくという実践もしくは練習としては意味があるような気がしている。
理屈と実践の両面で、植物が環境とどのような応答をしているのかを理解することも建築の設計につながっていくはずだ。

例えば、これまで考えてきたこととリンクしたことを二つあげてみると、一つは光合成を中心とした植物のはたらきである。

実際、植物は炭酸ガスを吸収して酸素をだすので、古くから空気の浄化剤と考えられていたのですが、その後の研究によって、炭酸ガスが固定されるとき出てくる酸素は、炭酸ガスからではなく、水の分解によって出てくることが分かりました。つまり、光合成の時の光の主要なはたらきは、光が炭酸ガスを分解することではなく、水を分解することだったわけです。(p.61)

これは、光合成における水の重要性を説明する部分だけれども、以前見た下の図を思い出さなければ理解は難しかったかもしれない。

▲『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹)より

太陽光から得たエネルギーによって水を酸素に分解する。その際の還元剤の作用を利用して、一方でCO2が糖に変換されるわけだけれども、このことは水がなければ光合成は進まないことも示していて、稲作りの大事なポイントにもなっている。さらには、エントロピーやエクセルギーの概念を用いればよりイメージはクリアになるだろう。(そして、そのイメージはどこかで建築に役立つはずである)

もう一つは、アピカルドミナンシー現象である。

これをむずかしい言葉でいうと「アピカルドミナンシー」という現象で、片方が優先しているときには、もう一方は制御物質を出しておさえてしまう関係をいいます。ですから、イネがぐんぐん伸びている時に、上の方の葉を切ってしまえば、分げつが盛んになってきます。少なくとも、親茎がぐんぐん伸びる条件は、一方で分げつを出さない条件を持っているということです。(p.108)

「青田六石米二石」を避け、穂を実らせる段で最大限の能力を発揮できる状態に持っていくために、葉の長さや分げつ数を調整するわけだけれども、これはその時に理解が必要な部分である。
これに限らず、稲作りはさまざまな相反する条件とどう関わっていくか、という臨機応変な姿勢が重要になってくることが、本書読めば分かってくる。(最初に肥料をドバッとあげておけば上手くいく、というものではないようなのだ)

これは、まさに相反する世界の矛盾を調停していかなければならない、人新世を生きる現代人に突きつけられた問題に重なるのだ、というのはさておき、この時に、ハッと頭に浮かんだのが、大地の再生の”風の草刈り”や木の剪定の手法だ。

アピカルドミナンシーについては、日本語の解説は少なそうだけれども、見つけた論文から抜粋してみる。

Apical dominance は日本語では頂芽優勢 (先) とされているが、植物のシュート (苗条、枝条) の上 (先) 端部分によって側芽の生長が抑制されていることを言う。このことは、生長 中のシュートの先端部分が取り除かれたり、その生 長が阻害されたりするとそれまで生長の抑えられていた側芽が生長を始めることから容易に理解される。このため頂芽優勢はときには側芽抑制とも呼ばれたりする。この頂芽優勢は植物生理学ではかなり以前からのテーマであり, したがって数多くの研究報告がありながら今だに最終的な解答の得られていない問題でもある。また頂芽優勢に関 する総説は1975年以降に限っても,主に草本植物を 対象とする, 異なる立場からのものがいくつも出されている
(『総説 木本植物における頂芽優勢,頂芽支配,梢端優先(勢)と基部優先(勢)一生長と樹形形成との係わり合い』(鈴木 健夫))

草刈りや剪定などにおいて、頂部を刈ることで植物のふるまいが変わることは聞いていたけれども、それに関する理論にどのようなものがあるかは知らなかった。Apical dominanceというワードを知れたということは、そのふるまいの原理をより知る可能性が開かれたということなのだけれども、そのことと稲作りが密接に関係していることも実践に意味を与える。(といっても、稲作りで葉の先端を一つ一つ刈り取るようなことはおそらくない。)

稲作りはまだ、それほど本腰を入れてやるつもりではないけれども、未知の領域だけに、これから先どんな発見があるか分からない。
不安もあるけれども、とても楽しみだ。




想像力を再構成する B304『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』(マーリン・シェルドレイク)

マーリン・シェルドレイク (著), 鍛原多惠子 (翻訳)
河出書房新社 (2022/1/22)

前回の『マザーツリー』の関連で菌類の話。

菌類は私達の身近なところにあり、生活に深く関わっていながら多くの人は菌類のことをそれほど深くは知らない。
本書では、その生態や能力、可能性などがさまざまな角度から描かれていて、内容は驚くことばかりだ。

菌類は、私達が持つ生命についてのイメージを書き換えることを迫る。

進化生物学者のリチャード・レウォンティンは、隠喩を使わずに「科学の仕事」をすることは不可能であって、それは「現代科学全体が人間によって直接に経験することはできない減少を探求の対象にしているからだ」と指摘した。その結果、隠喩とアナロジーに人間が語る物語や価値観が織り交ぜられる。科学のアイデア ― このアイデアも含めて ― の議論は文化のバイアスから逃れられないのだ。(p.258)

「植物が隣の植物に反応するのを観察したからと言って」とジョンソンは私に言った。「それが何らかの利他的なネットワークが働いていることの証にはなりません」。樹木が互いに話をしていて、襲撃があると互いに警告し合うというアイデアは擬人化の幻想だ。「つい、そう考えたくなりますが」と彼は認めた。所詮は「無意味なのです」。(p.203)

キアーズが指摘したように、「私たちが語る物語を考え直す必要があるのです。私は言語の枠を超えて現象を理解したいと思います」。もう一度、この行動がそもそもなぜ進化したかを問うのがいいのかもしれない。誰が利益を被るのかが問題なのだ。(中略)またしても、利他主義の問題に突き当たるのだ。やはり、迷路を抜け出すいちばんの手っ取り早い方法は視点を変えることだ。寄生する複数の植物に警告をすることが菌類にとってなぜ有利なのか。(p.203)

つい先日、とある雑談で『マザーツリー』が話題に出て、「マザーツリーの著者は西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」という話があった(ニュアンスは多少違ったかもしれない)。
マザーツリーの著者シマードは、皆伐を主とした短絡的な森林政策を変えたいという強い動機があり、それに対する強い反発もあるため、西欧的なわかりやすいストーリーで伝える必要があっただろうし、シマード自身が西欧的なものの見方に対する違和感を書いており、自身がそこから抜け出すことの困難さを自覚もしている。
しかし、自然を利他的に擬人化して捉える傾向があることは確かだろう。

先程の問いかけ、「西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」は、直感的には自分自身に何か関係がありそうな気がするのだが、まだぼんやりとしていてうまく掴めない。
この直感はどこから来るのだろうか。

本書で取り上げられている地衣類は単独の生命ではなく、菌類と藻類が一体となって共生している不思議な生き物だ。地衣類は岩を土壌へと変え、植物が地上に進出することを可能にし、宇宙の過酷な被爆環境の中で生きられるほぼ唯一の生物だという。その生態は、それまでの生物の常識では捉えられないことばかりである。
地衣類の研究者は、その常識外の生態が投げかけるものを「地衣類の閃き効果」と呼び、地衣類のアイデンティティは、前もって分かっている答えではなく、問いだという。そして、地衣類を他の何物でもない地衣類として見ることを強調する。

また、シマードの論文をきっかけに生まれた「ウッド・ワイド・ウェブ(www)」という言葉は、私たちに馴染みの深い植物をノード、それらをつなぐ菌根菌をハイパーリンクに過ぎないと暗示し、植物中心の捉え方を助長するという。実際には菌根菌は菌根菌としての戦略のもと生きており、水や養分の流通の采配権を握ってさえいる。菌類の視点からみれば、ユクスキュル的な菌類の世界があり、彼らはそこで自らの利益を基準として生きているだけかもしれない。
もちろん、生物が自己の利益を求めて行動し、そのことが生き残る確率を高めるはずだ、というダーウィン的な捉え方も一つの視点にすぎないだろう。ネットワークは、インゴルドが言うように、植物が植物し、菌根菌が菌根菌する、はたらきのラインが複雑に絡まり合ったメッシュワークの一つの現われに過ぎないのかもしれないし、それをありのままに見ようとする姿勢が必要なのだろう。

私たちは、予測や想像のできることしか考えることができないし、隠喩なしには見えないものを想像できない。
設計においても、私自身の想像の範囲や世界観を超えたものが設計されることは、決してない。

私が求めているのは、世界を救う方法ではなく、どちらかというと、世界を確かなものとして捉え生きていくための方法と想像力なのである。

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンの主張を正確に読み取れている自信はないけれども、自然と対峙する際、自然を何かしらの枠に入れ込んで距離を固定してしまう(分かった気になってしまう)のではなく、距離においてとどまりリズムを立ち上げる、ということがおそらくは重要で、それがエコロジカルな態度なのだ。
それでもなお、色鮮やかな想像力を手に入れることは可能なのだろうか?もしくは、むしろ、それによってしか手に入れられないのだろうか?いずれにせよ、想像力を再構成してみる必要はありそうだ。

本書の邦題は『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』である。
またしても、という気がするが、現代は『Entangled Life: How Fungi Make Our Worlds, Change Our Minds & Shape Our Futures』でgoogleで直訳すると『絡み合った生命: 菌類がどのように私たちの世界を作り、私たちの心を変え、私たちの未来を形作るのか』である。
邦題のほうが本が売れるという判断なのだろうが、個人的には原題の方が興味がそそられるし、放題にはハズレ本の匂いを感じさえする。(そして、偶然にも本書と並行してい読んでいる本が『絡まり合う生命 Life entangled』だった!)

本書を読む限り、著者のメッセージは、「菌類はこんなにすごいぜ、世界を救うぜ!」ではなく、「こんなにも知らない世界があり、私たちの世界の捉え方を変えてくれる。そのためにも、あるがままに世界を捉えるにはどうすればいいのだろう?」ということにあるように思う。その点でも原題のほうが魅力的だ。まーよくある話だけれども。

それはともかく、本書を通じて、これまで固まりつつあったイメージに穴があいて少しモヤッとしてしまった。
ある意味後退したとも言えるけれども、新たなイメージが生まれるための余白が生まれたと捉えよう。
菌類に関しても、もう少し学び、少しだけ付き合ってみたいと思っている。




色鮮やかな想像力 B303『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』(スザンヌ・シマード)

スザンヌ・シマード (著), 三木 直子 (翻訳)
ダイヤモンド社 (2023/1/11)

以前読んだ『よくわかる土中環境』でも、菌糸が土中にネットワークを作り、栄養や情報などのさまざまなやりとりをしている、という記述があった。
その時は、経験に基づく想像の話なのではないか、もしくは、ちょっとしたエビデンスがあったとしても、少々大げさなんじゃないだろうか、と半信半疑だった。もし、経験に基づく直感が正しかったとして、どうやってそれを証明するんだろうと。

本書を読むと、そういう疑問は一掃された。
著者が森に対して、どういうきっかけで疑問を抱き、どのような実験によって、どのような結論を得られたのか、本書にはつぶさに描かれていた。

確かに、土中には、菌根菌によるネットワークがあり、木々は水や栄養を状況に応じてやり取りしているようだ。そこに存在する多様な生き物がそれぞれ何かしらの役割を担い、受け取ったり与えたりといった相互扶助的な複雑な関係がネットワーク、いやメッシュワークをなすことで全体としての生態系が維持されている。その中でもマザーツリーと呼ばれる古木は、その大きさと経てきた時間によって特別な役割を担っている。

土が土する、菌が菌する、木々が木々するような、それらの営み。インゴルド的なライン・はたらきが土の中で躍動し、地上や川や海とも関係を築いている。
陸を単なる固形物ではなく、海のようなメディウムとしてイメージすること。本書は、土中の躍動に対する想像力をかなり引き上げてくれたように思う。

また、実験の内容が丁寧に描かれているため、科学的な理解も少し進んだ。

おそらく、現代において一番不足しているのが、経験に基づくこれらの想像力、関係を分割するのではなく、関係が編み合わされること対する想像力であり、科学はその想像力を補うことにこそ必要なのだろう。

ほとんどの建築においても、これらの想像力のほとんどは切り捨てられ、ないものとして扱われているのではないか。
これまでのほとんどの時間を空間を考えることに当ててきたわけだけれども、実のところ、空間があまりにも狭い範囲に限定された概念になっていないだろうか。

設計者として、空間を魅力的もしくは意義のあるものにするのは当たり前だとしても、これらの想像力を欠いた世界はもはや色褪せて見えてきそうな気がしているし、実はずっと昔から追い求めていたのは、今、色鮮やかな姿を現しつつある、その想像力の側にこそあったのではないか、という気がしている。




開かれているということ B301『生きていること』(ティム インゴルド)

ティム インゴルド (著), 柳澤 田実 柴田 崇, 野中 哲士, 佐古 仁志, 原島 大輔, 青山 慶 (翻訳)
左右社 (2021/11/5)

コーヒーイノベートでのbooks selvaさんとのコラボ企画にて購入したもの。

インゴルドはこの時はまだ読んだことがなく、ちょうど読みたいと思っていたところだった。
パラパラとめくってみたところ、インゴルドがギブソンの生態学をベースとしているのがすぐに分かった。
この時は、自分がこれまで読んでこなかった分野のものを買おうと思っていたので、少し自分の関心に近すぎるかもしれないと迷いながらの、一種の賭けとしての購入だった。

結果的には、本書はまさにこの時探していたもので、賭けに勝ったと言って良いかもしれない。

この時の関心は、デカルト的二元論に対比する形でのアニミズムを、ぼんやりとしたスピリチュアル的な言葉ではなく、存在論や認識論として説明できるような言葉を探していたのだ。

ここからは、本書を読んで私なりに掴めたであろうことを書いておきたい。(スケッチは本書の押絵を参考に、自分の解釈も交えて書いたもの。)

ネットワークからメッシュワークへ

本書を読んだ印象では、インゴルドは線の思想家である。

この線は本書のタイトルである「生きていること」のメタファーであるが、これまで私が考えてきたことの中では、オートポイエーシス的な”はたらき”、という考え方が近い。

A. 生命はオートポイエーシスな視点から「ぐるぐるとサイクルをまわしながらはたらき続け、そのはたらきによって自分と自分以外の境界を作り出すシステム」と捉えられると思う。左の図では、円環をなすはたらきによって、生物の境界が生まれている。

B. しかし、Aでは境界が明確なため、内と外という構造的な印象が強すぎるかもしれない。それよりは、はたらきの周りに要素が絡み合って、一時的にはたらきがまとまりを生み出しているというイメージの方が適切だろう。オートポイエーシスはシステムであって、構造ではないし、内側を他者が通り抜けながらその時時に構造が生成し続けるイメージはトポロジー的にも良さそうだ。

私は有機体(動物や人間)を、環境に取り囲まれる境界づけられた存在者としてではなく、流動空間における境界のない線の絡み合いであると結論付けたい。(p.163)

C. ここで、線の思想家であるインゴルドは、この円環を”開く”。開かれた線は、オートポイエーシス的なはたらきがより鮮明になり、そこにはもはや、明確な境界はなく、生命は世界の中に泳ぎだしている。しかし、その遊泳は決して孤独な旅ではない。それどころか、他の線と密接に絡み合いながら、躍動感に満ちた世界をなす存在となる

D. このいくつもの線が絡みあった世界がメッシュワークである。ここでは、生命は、境界に囲われた”対象”ではなく、はたらきとしての線そのものである。

E. 一方、メッシュワーク的な世界観と比較されている、ネットワーク的な世界観では、線は点と点を結ぶもの、すなわち関係性・構造を示すものであり、はたらきを示すものではない。ここでは、結ばれる点はそれぞれ独立した”対象”、境界に囲われた存在として描かれる。本書には、アリ(ANT:Actor-Network-Theory を想起させる)とスパイダー(網:インゴルド自身を想起させる)の寓話が載っているけれども、アクターネットワーク理論オブジェクト指向存在論に感じた、静止した印象はアクターやオブジェクトが境界づけられた”対象”として捉えられていることによるものなのかもしれない。(といっても、この印象には誤解が含まれているであろうことも承知している)

メッシュワークとアニミズム

このメッシュワークの世界観においては、”開かれている”ことが決定的に重要である。

先程、円環のイメージが開かれて流れる線になったように、”開かれている”ということは、対象化されていない、すなわち境界によって世界から分離されていない、ということだ。

一般的に、動物は意識を持たず、本能によって生きているとされる。一方、人間はデカルトが身体と精神を分けたように、意識をもち、世界を捉えることができるようになったとされる。
これは、人間が世界および自らを対象化することで世界から分離したといえる。このことによって、人間は世界をはたらきのメッシュワークとしてではなく、構造としてのネットワークとして捉えることになった。
人間は世界を対象化し、眺めることで”開いた”ようにみえて、逆に境界に閉じこもるようになってしまったが、動物は世界から分離されていない、すなわち”開かれた”まま、世界を生きている

ここでなにも、人間が動物に劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、ネットワーク的な世界観(この世界観を持っている期間は、人類の長い歴史の中では一瞬のことである。)では見落としてしまうこと、感じられないことがたくさんあり、そのような静止した世界観に生きるのは単純にもったいないような気がするのだ。

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

ここで、本書を購入する当初の関心であったアニミズムについて考えてみよう。

アニミズム的な世界観では、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物がまるで生きているように語られることがある。私たちは、このことを未開文明の無理解だと切り捨てがちであるし、このイメージが私自身、アニミズムという言葉を使うことをためらわせもする。
しかし、本当にただの無理解だと切り捨てて良いものだろうか。もしくは、私たちには理解できないものなのだろうか。

インゴルドはアニミズムに対する捉え方は二つの誤解を招いているという。

第一に、私たちがアニミズムという考え方で扱っているのは世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件である。(p.168)

つまり、アニミズムとは世界の構造を理解する方法ではなく、世界に生きるための方法である
ここに、根本的な食い違いがある。デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。しかし、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。むしろ、ここには世界の構造について知ることだけに腐心し、世界のなかで生きる方法を置き忘れてしまった私たちにとって大切な何かがある。(と、書くとスピリチュアルな印象を持たれるかもしれないと、ためらってしまうけれども、おそらくこれは、客観的なファクトである。)

第二の要点は、むしろアニマシーとは、人のようなものであれ物のようなものであれ、あらゆる種類の存在が連続的かつ相互的に違いを存在せしめる関係の全体からなる、ダイナミックで変化する力のある潜在性であるというものである。要するに、生活世界のアニマシーは魂をサブスタンスに注入した結果でも、エージェンシーを物質性(materiality)に注入した結果でもなく、むしろ存在論的にそれらの差異化に先立つものである。(p.168)

ここで再び先程の、D.メッシュワークのイメージを見ていただきたい。
この中の1本の線が私が生きているというはたらきである。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中をそれらに応答しながら通り過ぎることである。世界をなすそれらの線は、時には自己という境界の中と思っている領域を影響し合いながら通り抜けさえする。

この時、これらの線は生命であるとは限らないし、その必要もない。むしろ、アニミストがそうするように、すべてを生きているように捉えた方がイメージしやすいかもしれない。

本書では、〇〇している、というような表現が何度も現れる。
風が風している。雷が雷している。石が石している、大地が大地しているなど、その存在そのものとはたらきに注目し、名刺を自動詞のように捉えることで、これまでの存在論的な捉え方を反転させる。(よくよく考えると、これはアニミストのやり方とあまり変わらない。)

このように、生物、無生物を問わず、それらさまざまなはたらきが、線として複雑に絡み合いながら、世界(メッシュ)をなしているのがメッシュワークであり、それらは私の線の流れと不可分な存在として相互浸透している。
(これについては後で少しだけ触れるけれども、さらに、知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる。)

このイメージを頭に描けた時、これまで学んできた生態学やシステム論、その他もろもろと、事務所移転してからここ一年での経験が、一挙に結びついて確信のようなものに変わった気がする。
もはやアニミズムという言葉を使わなくても良さそうだけれど、アニミズムは、現代人にとって、分断の思想をつながりの思想へ、知るための方法を生きるための方法へ、静を動へと反転するヒントなのだ。(もちろん、アニミストの解像度や知恵には遠く及ばないだろうが。)

また、この確信のようなものは、建築のイメージにもを何らかの確信を与えてくれそうな気がしている。

土と風 ~陸を海する

建築そのものが、境界もしくは対象としてではなく、一本の線としてメッシュワークの中を生きる。そんな、生きていることとつながっているような建築のイメージが湧く。
それは、建築を、本書の意味で”開いていく”ことにならないだろか。つまり、建築を世界の中のはたらきに溶け込ませていくのである。

それをうまく実現できるかどうかは置いておいて、そのイメージにはこれまでにはなかったような手応えを感じるけれども、この手応えはおそらく、机上の蓄積からだけでは決して得られなかったように思う。
ここ1年、生活に変化を与えてみた実感として(それこそ、世界のなかで生きる方法として)、直接的に感じたものが支えになっているのは間違いない。

その中でも、最近少しだけ触れることができた、大地の再生のアプローチの影響は大きいかもしれない。

大地の再生や、建築でも最近話題になっている土中環境。どちらも、地上、上空、地下、それらの領域をまたいで、そこに本来備わっていた、水や空気、生物などによる循環を再生しようとする実践である。
この実践に触れて感じられたのは、さまざまなものが相互に影響を与えあいながら生きている(成立している、と言っても良いけれども、ここはアニミズム的な意味で生きている、と言ってみる)という、自然の壮大かつ緻密で不可思議なシステムである。
それは、私がこれまで感じとれていなかったものだけれども、いざ触れてみると、想像を遥かに超えたつながりがあることが少しづつ見えてきた。

ここ最近、単体の生命のイメージは少し掴めてきたところだ。次は、それらの壮大なつながりを大局的なイメージとして手繰り寄せるような概念がないだろうか、と生命科学や物理学などの分野で探していたのだけど、たまたま読んだインゴルドのメッシュワークのイメージは求めていたものにかなり近かった。

といっても、大地の再生や土中環境がみている風と土の関係が、最初からしっくり来ていたわけではない。
そもそも、風にしても土にしても、それを見るための目を持ち合わせていなかったし、風は地上の話で、土は地下の話と切り分けて考えることから抜け出せず、それらの間の関係にはどちらかというと半信半疑だったのだ。

ここで、本書に戻る。

本書では、大地と天空についての考察にかなりのページが割かれている。
それは、私がそうであるように、それらに対する見る目を多くの人が失っているからかもしれない。

F. 多くの人にとって、大地は自分たちを支える、固まった台のようなもの、単なる固形物で、天空は私たちの上部を覆う空虚なもの、というイメージだろう。そこでは、人は大地や天空と切り分けられた存在であり、大地や天空は、その”対象”としての存在を支える背景でしかない。

ここでインゴルドは”陸を海する”ことを提案する。
陸上で生活する私たちは、例えば陸から海を見た時に、陸の視点から海を理解しようとする(海を陸する)。
では、逆に海の視点から陸を理解しようとする(陸を海する)と何が起こるだろうか。

G. この視点によって、大地は単なる個体としての台ではなく、そこにはたくさんの生命があり、水や空気が循環し、不断の運動と変化の中にある、たくさんの線として世界を形づくっていることが見えてくる。同様に、天空は単なる空虚ではなく、風が吹き、鳥が飛び、さまざまな音が満ちている世界の一部であるとともに、大地と天空とはたくさんの線によって結びついている。(ここで空気や水、土などは、メッシュワークの線の流れを保証する、地の部分、メディウムでもある。)

このようなイメージのもとに世界を眺める時、今まで静止していた世界がとたんに動き出すように感じるけれども、大地の再生などで感じるのはまさしくこの感覚なのだ。

これまで、大地の再生や土中環境といった時に、なぜそれをやるのか、ということに明確に答えられる言葉を持っていなかった。
土中環境とかって、流行っているからやっているのだろ、と言われると返答に困っていたかもしれない。

では、今ならなんと答えられるだろうか。
これらの実践は、風が風するため、土が土するためであり、静止していた世界を再び動き出させるために行うのだ
それは、世界(メッシュ)を形づくっているいくつもの線を感じ取れるものに変え、私たちの生を再び動き出させることでもある

建築することが、ささやかであってもそれらの再始動に関わることができたとしたら、そこに住む人の住まうことがより満たされたものになると思うのである。

物語と技術

最後に余談というかメモとして。

先に、「知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる」と書いたけれども、これはどういうことだろうか。

インゴルドは知識や技術、物語といったものは、複製物として人から人に伝達されるようなものではないという。
人は、世界の中に線として編み込まれた知識や技術、物語に出会うことで、それらを実践的なプロセスを通じてその都度、再産出するのである。
(これは、ギブソンの理論を人間を取り巻く社会的な環境へと拡張したリードの理論に近いし、私が以前書いた『出会う建築』の考え方にも近い。)

このことは、技術の伝承の問題や教育の問題とも関わりがありそうだ。

技術が失われることは、複製物としての知識や道具が失われるというよりも、それを獲得するための一回性の形成の機会が失われる、ということだろう。それどころか、形成の体験そのものの機会が失われているともいえる。
『出会う建築』に関連付けて言えば、その出会いと形成そのものに喜びがあり、その機会を生み出すことも一つのテーマとなりうると思うのだ。




探索者であること B300『トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題』(ローズ ジョージ)

ローズ ジョージ (著), 大沢 章子 (翻訳)
NHK出版 (2009/9/26)

環境を意識しだしてから、なかなか読む勇気が持てなかった最後の砦、トイレ問題。
いつかは目を向けなければいけないと、重い腰を上げて読んでみた。

本書は装丁からは想像もしなかったほどのボリュームでヘビーな問題がぎっしりと、そして軽快な文章で詰め込まれている。

世界65億人が抱える大問題

まず、トイレ、つまり排泄物の問題について自分は何も知らなかったことが分かる。

そこから病気にかかる率はおそろしく高い。1グラムの便は、1千万個のウイルス、百万個のバクテリア、千の寄生虫、そして百の寄生虫の卵を含有している。(中略)ある衛星の専門化が試算したところ、不適切な衛生環境に住む人は、毎日10グラムの便を摂取していることになるという。不十分な下水設備、衛生状態の悪さ、そして糞便の粒子が混入した危険な水が、世界の疾病原因の10分の1を占めている。(p.15)

世界の人々の4人に1人はトイレを持たず、野原や道端で排泄し、それが様々な感染症などの原因になっている
途上国では下痢が原因で15秒に一人の子どもが死亡していて、その9割は糞便によって汚染された飲食物によって引き起こされている

また、人間は平均で1年に35kgの便と500Lの尿を排出し、それに水洗トイレの水が加わると総量は1万5140Lにもなると言われているが、都市でひしめき合って住んでいる人たちの排泄物の処理は様々な問題を残したままだ。

トイレがこれほど奥が深いとは思いもしなかった。
「社会が人の排泄物をどう処理するかは、その社会が人をどう扱っているかを示すバロメーター(p.22)」「トイレを見れば、あなたがどんな人間かわかります(p.128)」
トイレは、衛生、経済、人口、政治、文化・慣習、さまざまな問題と根深くつながっているけれども、それらの問題はタブー視されて表に出てくることはほとんどない

下水設備が整った日本において、建築を考える際にトイレについて考えることと言えば、そこでの振る舞いや、音や匂い、設備や快適性など、その閉じられた狭い空間についてがせいぜいで、その先のことは「なかったこと」になっている。下水が最終的にどう処理されているのか、そこではどんな人がどんな仕事をしていて、どれくらいの費用がかかり、果たしてそれが一番の解決策といえるのか、について想像を巡らすことはまずない。

本書でも、さまざまな問題に対するさまざまなアプローチが紹介されているけれども、トイレ問題があまりにさまざまな要因とつながっているため、そのアプローチも多様で、完全な正解というものはなさそうだ。
それぞれの地域、それぞれの環境、それぞれの生活、の中で、あるべきトイレについてまずは目をそらさずに考えてみる。本書はこの最初の第一歩の重要性を鋭く突きつけてくる。

今の日本で、自分が何を考えるべきなのか。それすらもぼんやりとしか見えていないけれども、まずはこれに関わる技術のこと(例えば下水処理や浄化槽、または排泄物の分解や活用に関する科学的な根拠など)をゆっくりとでも学んでみたいと思う。

トイレ問題と闘う人たち

トイレは人間の寿命を伸ばす唯一最大の可能性である(p.16)

本書は、とても重要であるが、人々が目をそらしている(そして、とても刃が立たなさそうな)巨大な問題に立ち向かう人々のドラマでもある。

例えば、インドの人口4000万人を超えるある州では、彫り込み式のトイレを持っているのは4%に過ぎない。
ほとんどの人が屋外のそこら辺で排便し、さまざまな感染症が蔓延し多くの人が死んでいる。
あなたは、そのことに心を痛め、彫り込み式のトイレを普及させることで少しでも改善しようと行動を起こしたとしよう。
しかし、彫り込み式の便所を設置したことろで、適切な維持はされずすぐに廃れ、人々はこれまで通り屋外で排泄したほうがマシだと行動を変えず病気は蔓延したままだ。
たとえうまくいったとしても、ほんの僅かな人数がやっとで、全体が改善される日など想像もできない。

こんな状況で奮闘し続けることはできるだろうか。

そんな中、住民に自ら考える機会を与えることで、外部からの押しつけでない「地域主導型プロジェクト」というものを進めている人たちがいる。

彼らが変わる唯一の道は、彼ら自身が自分を変えることだ、とカーは考えた。とはいえ、とカーはガイドラインに書いている。「開発援助のプロたちの、凝り固まった習慣を打ち破るのは難しく、全知の外部者として村に入り、教えと無料の彫り込み便所を広めたいという思いに打ち勝つのは困難だ。しかしここが重要なのだ。住民たちのどのような気づきも、教えられた結果ではなく、天啓でなくてはならない。内から出たものであるべきで、上から押し付けられたものであってはならない」(p.286)

カーは、このトイレを住民たちが維持し、改善していくことを信じている。なぜなら、自立的な動機づけこそが、なににもまして持続可能性を秘めているからだ。(p.291)

地域主導型プロジェクトは、人の感情を操作することによって成り立っている。まず嫌悪感。つぎに恥の意識と誇りである。(p.293)

最初から答えを与えるのではなく、動機そのものにアプローチする。

本書に挙げられている例は、成功ばかりではなく、どちらかというと困難や挫折に直面しているものが多い。しかし、だからこそ困難に立ち向かおうとする人にとっても有意義な本になっている。

経済学者のウィリアム・イースタリーは、『白人の責任』(邦題『傲慢な援助』)という本の中で、援助の世界を計画者調査者の二つに分けたそうだ。
計画者はトップダウン式にものごとを与えようとする人たちで、調査者は本書で取り上げられている人たちのように、実態に光を当て、人々の声を聞き、需要を探し出して、うまくいくやり方を見つけ出す。そんな人たちのことだ。

計画者と調査者、私なら、計画者探索者と言い換えるが、現代においてこの二つの姿勢の違いは決定的に重要だと思われる。

これまでたくさん書いてきたので深くは立ち入らないけれども、計画という姿勢、つまり、ある前提条件及びそれに付随する答えをあらかじめ持った上での判断、だけでは見落としてしまうことがある。この見落としによるマイナス面があまりに大きくなっていないだろうか。

事務所を移転し生活を営む中で、探索者であること、もしくは遊ぶ人であることの重要性は日に日に大きくなっているように感じる。




流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一)

福岡 伸一 (著)
講談社 (2007/5/18)

てっきり読んだものと思い込んでいたけれども、未読だった。(読んだ内容を忘れてるのかとも考えたけれど、前回のシュレーディンガーについても本書に詳しく書かれていたのでやはり読んでいなかったようだ。)

そして、さすがに面白かった。

生命とは何か?

本書は、著者が大学の時に出会った問いに対する著者なりの返答なのだろう。

そんなとき、私はふと大学に入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?(p.3)

著者は、いくつもエピソードを交えながら、生命とは何かを描いていく。

生命とは自己複製するもの」とよく言われる。
遺伝子の複製によって、ミクロにもマクロにも、生物は自己複製を繰り返していく。そのことが生命を生命たらしめている。

それはそうに違いない。しかし、例えばウイルスは細胞に寄生することで自己複製を繰り返すが、その形態は無機質で、栄養を摂取することもなければ呼吸をすることもない。生命と呼ぶには何かが足りていない。

自己複製が生命を定義づける鍵概念であることは確かであるが、私たちの生命感には別の支えがある。鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである。(p.165)

シェーンハイマーは私たちの身体の構成要素が絶えず入れ替わっていることを見つけ出した。
それぞれの構成要素がエントロピー増大の法則によって特質の維持が困難になる前に、先回りして分解し再構築を行う。
さらに、身体要素は「柔らかな相補性」と呼ぶような動きを伴った柔軟な結合によって構成されている。
この耐えざる分解と再構築という流れを伴いながら生命を維持している柔らかな状態を著者は動的平衡と呼ぶ

エントロピー増大の法則に抗う方法には、システムの耐久性と強度を強化する方法と、システムそのものを流れの中に置き絶えず更新し続けることの2つがある。

私たちの感覚で工学的に考えた場合、前者の方が耐久性が高く、維持コストも低いように思われる。
だが、生命は後者の道をえらんだ。
つまり、生命は流れとして動き続けなければならないという宿命を引き受けたのだ。しかし、それと引き換えに、生命は環境に適応する柔軟性と、結果的により高い持続可能性を獲得することに成功する

この宿命を引き受けた、という事実こそが、私たちの生命感を支えているのかもしれない。

建築について

しつこいようだが、ここで建築についてである。

設計の場面ではよく、メンテナンスフリーが求められる。
しかし、エントロピー増大の法則に反して、真にメンテナンスフリーなどというものがあるはずもない。
一定の耐久性を期待して選択したピカピカの材料が、時を減るに連れてこの法則に破れていく様を顕にする。それが関の山だ。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
それはそれで仕方のないことなのだろう。エントロピーの法則に破れていく様も見方によっては、時間の流れを感じさせる味である。

ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。

エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない
(このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)

しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる
それが可能な条件が出揃えば、「建築に生命の躍動感を与える」ことはうまくいくだろうし、願ったり叶ったりである。

そうでなければ、それぞれの条件で可能な範囲、かつ楽しめる範囲で引き受けることができるのはどこまでか、その効果を高めるにはどのような方法があるか、を見極める必要があるのだろう。

希望があるとすれば、そのような宿命を楽しめる人、というよりむしろ餓えている人が増えているように思えることかもしれない。




農的暮らしという未来 B296『地球再生型生活記 ー土を作り、いのちを巡らす、パーマカルチャーライフデザイン』(四井真治)

四井真治 (著)
アノニマ・スタジオ (2023/10/6)

前回の本で著者のことが紹介されていて、以前から興味もあったので購入してみた。

気持ちとしては技術書のようなものを期待していたけれども、どちらかというと思想に関わるものだった。しかし、いろいろと得るものがあったように思う。

エコロジーの原理

著者はパーマカルチャーに触れつつも、その原理が何か分からず長い期間をかけて考えたようだ。
実践の期間は比べ物にならないけれども、原理的なことを理解したいという意識には共感する。

私は幼い子どもたちに、エコロジーという言葉の意味を「地球に優しく暮らすこと」と教えたくはありませんでした。(中略)人の暮らしが環境を壊すのではなく、生物多様性を増やしより豊かにできることに気付き、子どもたちと一緒に実現することができました。その気付き以来、「エコロジーやパーマカルチャーとは、地球における人間の存在意義を生むための学問や方法論である」と考えるようになったのです。(p.26)

これは、言葉は違えど、ここ数年で私が辿り着いた感覚に近い。
いや、私が、その存在意義をマイナスからせめてゼロに向けて変えるべきでは、と考えていたのに対し、著者の考えはより前向きかもしれない。

エコロジーやパーマカルチャーと聞くと何か特別なものと感じて身構えてしまう人もいるかもしれないし、私がそうであるように、ハウツーだけではその特別感はなかなか払拭できないこともあるだろう。

しかし、自分の中でそこに含まれている原理を一度掴みさえすれば、それは特別なものではなくなるし、信頼とともに共感も得やすくなるように思う。(ただ、見え方に注意を払わなければ、それは他の人にとっては特別な身構える対象のままになってしまうだろう。これは自分にとっても課題である。)

いのちは集め、蓄えるもの

「いのちとは何か?」
この問いに対しても、私が辿り着いたものに近かった。

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

この、「常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営み」を著者は「いのちは集め、蓄えるもの」と表現する。

著者はその表現へと至る過程で、エントロピーやプリゴジンの散逸構造、福岡伸一の動的平衡などを経るわけだが、その結果、「生物多様性は単位空間あたりの生物量を最大にし、それにより集め蓄えられる物質やエネルギーなどの資源は最大となり、持続可能性がより安定する」という理論に至る。

生命の「集め蓄える」はたらきを集合的に捉えることで、そこで生まれるダイナミックな関係性が、生命のつながりと持続性とをより高めることが見えてくる。そして、著者はさらに、人間をその集合的なはたらきを高められる存在だと捉えようとする。

この前向きな姿勢は、私にはなかったものなのだが、今は、なるほどと理解できる気がする。
(この生命のはたらきをより大きな視点でみることは、少し突っ込んで勉強してみたい)

地球再生型のくらし

ここから、タイトルの「地球再生型生活記」へとつながっていくわけだが、地球再生と聞くと少し大げさな物言いのように感じるかもしれない。

しかし、著者の提唱するものは、そんなに大げさなものではなさそうだ。

環境問題、もしくは、私たちの暮らしが生命の連鎖から外れ持続可能性を失いつつあることに対し、著者は農業人口の増加ではなく「農的暮らし」を営む人の数を増やすことを提唱する。

軸となる仕事を持ちつつ、生活の中に食糧生産を組み込むことで、身の回りの小さな範囲の「生命の集め蓄えるはたらき」を高めること。
これによって、耕作放棄地が活用され、生きるための技術が習得でき、人間の営みを環境から奪うことから、環境をより豊かにするものへと変えることができる。

数年前なら、イメージは湧くけれども実践はそれほど簡単ではないと感じたかもしれない。
しかし、実践へと片足を突っ込んでみた今なら、やってみれば別に難しいことではない、と言える。

鹿児島であれば、農的暮らしの可能な土地は都市部からそれほど離れていないところにいくらでも見つかるし、農的暮らしと言っても、簡単な自給であれば、隙間時間で十分に事足りる。

少しの意識と、時間さえ確保できれば、あとはえいやとやってみれば誰でもできることだし、それで得られることは驚くほど多いのだ。
興味があればやってみればいいのに、と思う。

吹上で小さな畑をやっていて、今年からは田んぼもする予定だ。
だけど、その意味は「やってみなければ分からない」と未だによく掴めていなかった。

それが、最近の生命とエントロピーの話、そして、今回の著者の話でかなり明確にイメージできるようになってきた。
そして、それと建築との関係も分かり始めてきた気がするし、田舎に限らず都市部でできることもあるのでは、と思えてきた。

それを、どう建築のイメージへと高めていけるか。

面白くなってきたかもしれない。




大地の再生ワークショップに参加してきました

テンダーさんにお誘いいただき、

・2/12 大地の再生の映画「杜人」上映会 @日日nova
・2/17 大地の再生ワークショップ @テンダーさんちの裏山(日置市吹上町与倉)
・2/18 大地の再生ワークショップ @ 森のようちえんのフィールド(鹿児島市唐湊)

と立て続けに参加させていただきました。

思えば、2022年の12月、日置の事務所となる家を手に入れた時には、土中環境や大地の再生と言った環境再生技術に興味を持ちつつも、土や植物との関わりに対して実感を持つことができず、雑誌などもただパラパラと眺めるだけでした。

事務所を移転して生活に変化を加えることで少しでも実感が持てるようになればと思いながら、そうなった自分をあまり想像できなかったです。

あれから1年と3ヶ月ほど、今回参加の機会をいただき、また、これまでの生活を通して、それらの実感はだいぶ手繰り寄せられるようになったように思います。

ワークショップでは、大地の再生関西支部の西尾さんの「かわいい~」という言葉がとても印象的でした。
若かりし頃は、若い女子が使う「かわいい」が理解できず、「何でもかんでもかわいいって言ってんじゃねーよ」と思っていたものですが、この歳になって、「かわいい」の「論理的な言葉では言い表せなく、多くの人で共有するのが難しい曖昧な何かをやんわり理解し合える何か」に気づくとは思いませんでした。

というわけで、今回の教訓は「可愛いは正義」
今回体感したことを発展させるべく、身の回りと設計をかわいくしていきたいと思います。


▲上映会の様子


▲二日間のワークショップの様子を動画にまとめました。(動画編集はもう少し頑張らないと・・・)


▲ワークショップの様子




遠回りも無駄ではなかった B295『線(せん)と管(かん)をつながない 好文×全作の小屋づくり』(中村 好文,吉田 全作)

中村 好文 (著), 吉田 全作 (著)
PHP研究所 (2022/6/20)

この本は発売してすぐに購入していたけれども、まだ読むタイミングではない気がして、ずっとそのままにしていたもの。

そろそろ、読んでも良いタイミングかと思い手に取ってみた。

タイトル通り、線つまり電気と、管つまり公共的な給水管と排水管とをつながない、いわゆるオフグリッドな小屋についてお二方が交互に語るような内容。
線と管をつながないとは、すなわちエネルギーや水、栄養素などの循環について自ら考えるということである。

この中で、パーマカルチャーデザイナーの四井真司氏の言葉を引いた部分がある。

四井さんは、「多くの人は環境問題と言えば≪省エネルギー≫≪省資源≫という言葉をお題目のように言うけれども、本当に大切なことはそれだけではなく、資源を得る仕組みについて考え、それを生み出すことに知恵を絞り工夫を凝らすことだ」と言います。「一般的には、人が暮らすことによって自然環境は悪化し、資源は消費されて目減りし、地球環境に負荷を与えることになると考えられているけれど、そうしたマイナス面ばかりではなく、人が暮らすことで、資源を生み出し、その場所の自然環境を豊かにすることだってできる・・・」というのが四井さんが実践を通じて会得したことです。(p.82)

これは、これまで私が環境について考えてきた中で辿り着いた考えとかなり近いけれども、おそらくここに辿り着く前に本書を読んでいたら、何となくわかった気になって終わっていたかもしれない。
そういう意味でも、遠回りしたことに意味があったし、本書を読むタイミングもやはり今だったのだろう。

本書では、どのような工夫をしているか、どのような技術や製品を使っているか、コストも含めて具体的に挙げられていてとても参考になった。
とはいえ、これらがすべてではなく、状況に応じたさまざまな選択肢があるはずだし、それに対する自分なりの指針も必要だろう。

環境に対する思想という点ではだいぶ自分の言葉を持てるようになってきたように思う。
これからは、より具体的な手法や技術について実践も含めて学んでいきたい。

また、環境という言葉に対する価値観や距離感は人それぞれでかなりの幅がある。
これに対して、オノケンとは別にアプローチするための枠組みを今準備しているところなので、準備が整い次第公開したい。




生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹)

佐藤 直樹 (著)
裳華房 (2012/5/20)

循環をエントロピーの視点から捉えたかったのと、生物の循環に対するシステムに大きなヒントがあるはずと考えていたため、本屋で関連がありそうな本を探して見つけたもの。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。 しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう) この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳))

循環のイメージをよりクリアにしたい、とのことで本書を読み始めたけれども、前半はエントロピーという言葉はほとんど出てこず、生物学的な基本的な構造の説明が主だったため、門外漢の私にはなかなか入り込めなかった。
これは買う本を間違えたかな、と少し思いつつも読み進めると、後半、前半で読んだことが一気につながって、最後には大きなヒントが得られたように思う。もしかしたら、これまで生命をオートポイエーシスシステムとして捉えていた中で、足りていなかったもう一つの重要なパーツを埋めることができたかもしれない。

めぐり、めぐむ わきあがる生命とオートポイエーシス

本書のサブタイトルは「めぐり、めぐむ わきあがる生命」である。
「めぐる」とは、さまざまなものが循環するサイクルを、「めぐむ」とはそれらの多様なサイクルが互いに関係しあい、何かを渡しあっていること(共役)を、そして「わきあがる」とはそれらのめぐりめぐむ多数のサイクルが、全体としてもう一つ上の階層のサイクルとしてめぐりはじめることを示している。

本書では、分子レベルから、細胞や生物個体、生態系や地球環境など、さまざまなスケールのサイクルを示す図が多数取り上げられている。

例えば

▲光合成を行う植物と、呼吸を行う動物の間の循環がイメージできる図。
植物の光合成では、太陽からエネルギーを得ることで二酸化炭素を糖(炭水化物)に変える。そのための還元剤は水が酸化し酸素を生じさせるもう一つのサイクルによって機能する。
一方、動物の呼吸では、糖が酸化し、二酸化炭素へと変わる。そのための還元剤は酸素が水へと還元されるもう一つのサイクルによって機能し、その際にATPにエネルギーが蓄えられ、動物の様々な活動に使われる。
二酸化炭素と糖、水と酸素の2つの循環が、太陽からのエネルギーを形を変えて受け渡す。



▲炭素と窒素なども循環している。窒素固定を行える生物は根粒菌やシアノバクテリアなどに限られ、窒素固定のシステムは地球の生命の歴史の中でただ一度しか発生しなかったのではと言われているそう。


▲太陽から始まる地球のエネルギー収支はおなじみ。

本書はこれらの、めぐり、めぐむ、わきあがるサイクルから生命とは何かに迫ろうとするのだが、これらは、はたらきが駆動しつづけることで境界をつくりだすオートポイエーシス・システムと、それらのカップリングにより、より上の階層のオートポイエーシス・システムが駆動すること、と考えられるな、と思いながら読んでいた。(本書ではオートポイエーシスについては触れられていない)

しかし、本題はここからで、そのイメージに足りていなかったパーツが埋められることになる。

不均一性と生命

生命をオートポイエーシス・システム、もしくははたらきと捉えることで、生命の独自性をイメージすることができるようになる。
自走するはたらきを内にもつことそのものが生命を生命たらしめているのである。

しかし、それがなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということは、欠けたパーツとしてイメージを持てておらず、そういうものだと思うしかなかった。

そこで不均一性、エントロピーが登場する。

不均一性とは、エントロピー差のことで、秩序だっていることである。
秩序は一見、均一性を持ちそうなイメージがあるけれどもそうではない。世界は必ず、不均一な状態から均一な状態へと移行しようとするが、それに抗って、不均一な状態を維持すること、いわば不自然な状態を維持することが秩序である。
そして、秩序は不均一な状態から均一な状態へと移行する能力を持っている。エントロピーが小さく、エクセルギーを持つ、とも言い換えることができる。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。
(本書では、情報そのものが不均一性である、と書いているが、そこは明確には理解できなかった。おそらくここが重要なポイントだと思うので今後の課題にしたい)

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)

さらに、生命の進化もこの不均一性を生み出す営みの中で説明される
秩序を持った遺伝情報は、秩序を失い、多数の変異多様性へと向かう。その大量の多様性の中から選択されたものが新たな種へと固定する際に、情報のエントロピーは減少する(秩序が生まれる・不均一性が増す)。
進化とは、一見多様性が増し、エントロピーが拡大するように思えるが、全体を見ると、生命が不均一な状態を生み出そうとする営みの一つとすることができる

また、著者が、エントロピー差もしくはエクセルギーのことを「不均一性」と呼ぶことには意図があるように思われる。
エントロピーもしくはエクセルギーと言った場合、何かしら機械論的・直線的に全てが決まる印象があるけれども、(これも物理的には説明ができると思うが)世界には確率論的な揺らぎがあり、階層的なシステムは複雑系としての単純化できない何かがある。その何か不思議さのようなものに対するニュアンスを、生命に対する敬意も含めて「不均一性」という言葉に込めているのではないだろうか。

いずれにせよ、生命がなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということに新たなイメージを得られたことは大きな収穫だった。結局のところ、地球というシステムはすべて太陽からの恵みを循環させることによって成り立っていて、それに対する敬意はやはり失くしてはならないのだろう。そして、そのイメージをクリアにするためにエントロピーという概念は有効に違いない。

余談 資本主義について

本書では、生命の原理に迫ることにとどまらず、最後は、そこから「不均一性の哲学」と呼べるものを描き出そうとしている。(それはまだ体系的なところまでは行っていないが、それを素描することが本書の本当の目的だろう)

その中で、一部、経済格差についても触れられている。

本来、放っておけば、お金はみんなに均等に分配されそうなものだが、こうしたエントロピー的な均一化する力に対して、経済を活性化しようとする力は富を不均一化し、大きな富をもつ者を少数生み出す。これは「温度」が高いことに相当する。これでわかるのは、経済が活発で好景気のときには、全員が豊かになるのではなく、貧富の格差が拡大するのである。(p.194)

こうしてみると、格差を拡大しようとする資本主義は、エントロピー増大の法則に抗い不均一性を維持しようとする生命の本性に従うものなのかもしれない。

資本主義が、どこかで循環を可能とする持続可能性を獲得するものなのか、それともがん細胞のように循環の原理を無視した一種のバグだったとなるのかは分からないが、生命とエントロピーの視点の中に位置づけられたことは一つ視点を上げられたかも知れない。自分がどう向き合うかは別にして、繁栄も破滅もおそらく地球の営みの中の一つに過ぎないのだろう。

著者の言う「不均一性の哲学」とも呼べる視点を獲得することには大きな可能性を感じるので、引き続き関心を持っていたいと思う。(エントロピー経済学に関するものも一度は読んでみよう)


一生のうちに一度は、こういうものを結晶化させたものをつくりたいけれども、そればかりは機会を待つしかないな・・・




車輪の再発明とリアリティ B293『空想の補助線――幾何学、折り紙、ときどき宇宙』(前川淳)

前川淳 (著)
みすず書房 (2023/12/5)

珠玉の数理エッセイ集

著名な折紙作家であり、天文観測のエンジニアでもある著者によるエッセイ集。
折り紙と幾何学にまつわるすばらしいエッセイが詰まっていて、あと数篇未読のものがあるが読み終わるのがもったいない。

著者の引き出しは折り紙と天文学のみならず歴史や文学、絵画など幅広く好奇心に満ち、教養の深さを感じさせるが、それでいて謙虚で落ち着いた人柄を感じさせる文章。このような本を純粋に読み物として楽しむのは久しぶりかもしれない。

車輪の再発明とリアリティ

この本は昨年の12月に出版されたのだが、ちょうどそのころに「折り紙と幾何学」をテーマに日置市の「青少年のための科学の祭典」に出展することになったため、嬉々として購入した。

その科学の祭典は昨日無事出展完了し、その後出展メンバーで反省会をした時に、テンダーさんから「車輪の再発明」とリアリティというような話が出た。

「車輪の再発明」に関して、ちょうどこの本で読んだところだったので、その部分を抜き出してみる。

科学や技術に限らず、あらゆることが歴史の積み重ねの上にあるのは当たり前なのだが、時にそのことは忘れてしまう。ある意味では、忘れたほうがよいこともある。たとえば、ソフトウェアエンジニアリングの世界では、同じ機能を持つものはできる限り再利用することが効率的な開発の基本で、すでにあるものを一からつくりあげることは、「車輪の再発明」として揶揄される。既存のものは所与のものとして、第二の自然のように扱えばよいとされるのだ。しかし、すべての細部を一から理解する必要はないとしても、自分がどこに立っているのかを知ろうとすることは重要だ。(p.107)

今回、子どもたちとワークショップをしてみて、「自分がどこに立っているのかを知ろうとする」意識が薄く、ずっと答えを与えてくれるのを待っているような印象を受けることが何度かあった。
(それは、珍妙な格好をした大人を前にして縮こまっていただけかも知れず、私の力量による部分が多々あったかもしれない。今度このような機会があったら、ツカミのギャグ的なものを準備しておいた方がいいのかも。それはそれでハードルが高いけれども)

この辺の話をこれまで考えてきたアフォーダンスの文脈で考えてみる。

アフォーダンスは、「環境が動物に対して与える意味や価値である」と、環境が一方的に動物(人間)に情報を提供しているように誤解されがちだ。(特にデザイン的な文脈で)
しかし、実際には、アフォーダンスを獲得する前提として、まず、環境に対する働きかけとしての探索がある。また、環境の中から意味を見出すような嗅覚(技術)も必要だ。

<意味>と<価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化と技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード))

環境の中に何かしら「意味」の可能性を嗅ぎ分け、能動的に探索することで、何かの「価値」を得る。知覚はその運動性の中にあるのであり、静的で単独・受け身なものなのではない。
動物はそのサイクルを繰り返すことで命をつないでいくし、であるからこそ、その運動性の中に環境とつながっている、もしくは生きているというリアリティが宿る。(そこにある種の実感が宿るのは、生きていくために必要であるため生命の歴史の中で身につけたものだろう)

しかし、いつも「価値」あるいは答えだけを与えられ受動的にそれらを摂取するだけでは、そこにリアリティは宿り難い。何より、「意味」の可能性を嗅ぎ分けるための嗅覚も、探索するための目も、価値を得るための身体性も育たない。
そうなると、ますます受動的にならざるを得なくなる。知覚するには、もしくは世界とつながっているリアリティを得るには技術が必要なのだ。

子どもたちに、その「リアリティを掴みに行くぞ」という能動的な姿勢と技術の不足を強く感じたのだが、生きるために必要な基本的技術を持たせないまま大人にさせてしまってもよいものだろうか。

テンダーさんは、先程のソフトウェアエンジニアリングの文脈と同じような意味でライブラリーという言葉を使っていたけれども、あらゆるものがライブラリー化していく世界では「車輪の再発明」をしないでもよいエリア、すなわち探索の余地のないエリアが世界の多くを覆って生き、リアリティを得る機会が失われていく。

そのような世界では、あえて「車輪の再発明」のタブーを犯してでも世界をこじ開け、リアリティを掴み取るための技術を身につける機会を取り戻すことが必要なのではないか。私はテンダーさんの話をそのように解釈した。

それに対して、私は最近、「遊び」という言葉をキーワードにしている。
私は今のところ「遊び」を「ある特定の部分での解像度を高めて、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを高密度でまわすこと」と捉えているが、そのような遊びの機会と、その技術を身につけるための機会を大人が奪わないことに意識的であるべきではないだろうか。(その点で、今回の私のワークショップではお膳立てをしすぎた感が強く反省点が多い。)

おまけ

今回、「青少年のための科学の祭典」で本書から小ネタを拝借した部分を紹介する。(展示用にかなりデフォルメしているので、内容についての責は私にあります。)








折り紙とキカガク 資料

『青少年のための科学の祭典 日置市大会』での展示に関連する資料を紹介します。

展示資料 PDF



→『折り紙とキカガク.pdf』

展示した内容のPDFファイルです。会場で読めなかった方や、再度じっくり読みたい方はどうぞ。

ダイナミックラボ


→ダイナミックラボ | 「サプライズ面白い」ものづくりで問題解決!

「ドームとキカガク」をテーマに共同出展したテンダーさんのサイトです。

オリケン 太田則宏折紙研究所


→オリケン 太田則宏折紙研究所

あまり更新していませんが、私が折った折り紙をアップしているサイトです。
オリジナルのヤッセンボーの折図も掲載しています。

Jun Mitani


→Jun MITANI

曲線折り紙の三谷純氏のサイトです。
曲線折り紙の展開図も展示されています。

オススメの本

会場にも展示していた折り紙と幾何学に関するオススメの本を紹介します。
画像をクリックするとamazonのページが開きます。

折り紙図形パノラマ (小学館入門百科シリーズ 139)

笠原 邦彦 (著)
小学館 (1984/1/10)

私が小学生の頃に愛読していた本の中の一冊。『一枚折りの正四面体』はこちらから。
他にもいろいろな立体図形の折り方が紹介されていて、幾何学視点からも面白い作品が盛りだくさん。

曲線が美しい立体折り紙

三谷純 (著)
ブティック社 (2017/8/3)

曲線折り紙をはじめて折る人におすすめ。
折り方が分かりやすく説明されています。

立体折り紙アート

三谷 純 (著)
日本評論社 (2015/7/22)

曲線折り紙を理論的に理解したい、という人にオススメ。
私はこれを見ながら、展開図から3Dモデルを起こすプログラムを考えました。
三谷氏は他にも多数の本を出版されています。

空想の補助線――幾何学、折り紙、ときどき宇宙

前川淳 (著)
みすず書房 (2023/12/5)

著名な折紙作家であり、天文観測のエンジニアでもある著者によるエッセイ集。
折り紙と幾何学にまつわるすばらしいエッセイが詰まっていて、読み終わるのがもったいなく感じました。
いくつかのネタはここから使わせてもらいましたが、他にも教えてあげたくなるようなネタが沢山載っています。
今回の展示で全部を伝えられなくて、残念ですので、興味のある人は読んでみて。(大人向けですが)

折り紙の幾何学

伏見 康治 (著), 伏見 満枝 (著)
日本評論社; 増補新版 (1984/11/1)

こちらも私が子供の頃に出版されたもの。『空想の補助線』で紹介されていて、最近購入しました。
折り紙と数学を結びつけるきっかけとなった歴史的な著作です。

折紙設計のススメ


→設計のススメ(目黒俊幸)

これは本ではありませんが、折紙の設計に大変参考になる資料です。
HPの中ほどにある「折紙設計のススメ」のリンクをたどってください。
実は折紙の創作論に関する資料はあまりでまわっていなくて、私が探した中ではこれが一番分かりやすかったです。
折紙の創作では、「一枚の正方形から、どうやって角の数を増やして配置するか」が大きなテーマなのですが、円と三角形を用いた分子という考え方が面白いです。
(なかなか、理屈でつくるのは難しいのですが・・・)

吹上事務所(環境実験型オフィス office chavelo)


→オノケン│太田則宏建築事務所 » 太田則宏建築事務所について

吹上のオフィスにて常時折り紙を展示しています。
お子様の見学大歓迎ですので、見たい方はいつでもいらしてください。(週末も吹上事務所にいることが多いです。)




あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人)

藤田 祐幸 (著), 槌田 敦 (著), 村上 寛人 (イラスト)
現代書館 (1985/2/1)

こちらも少し前にテンダーさんにお借りしたもの。

若い頃に読んだ同シリーズの本がうまく読めなかったことと、なんとなくエントロピーという概念の射程距離を掴みそこねていたこと(エクセルギーの本を読んで分かっていたはずなのに!)もあって、しばらく手をつけていなかったのだけど、読んでみたらまぎれもない名著だった。

昨日、大きめの本屋に行って、エントロピー関連の本を一通り開いてみたけれども、これを超える本は見当たらなかった(それでも2冊ほど購入)。
ある部分において理解の深まる本だったり、全体を俯瞰できるものはそこら中に溢れているけれども、それらの多くはボンヤリした印象を受けるにとどまり、何かしらの像を結んで心に響くところまではなかなかいかない。
これほど、思想とユーモア、過去と未来が高密度でバランスよく構成されている本には稀にしかお目にかかれないように思う。
前回まとめたようなここ数年かけてようやく見えてきた景色のほとんどが、この一冊の中に凝縮されていること、それもこの本が40年ほど前に書かれたことに驚くが、もしこの本に5年前に出会っていたとしても、ボンヤリした印象で終わっていた可能性が高いので、これも今、出会うべくして出会う本だったのかもしれない。(テンダーさんありがとうございます!)

デカルトからの卒業する時

本書の第3章で、科学の歴史的背景に少し触れられるが、これは人類のターニングポイントであり重要な部分だろう。

あまり詳しくは書けないが、デカルトは、世界を機械として捉え、物事を要素に分解して考えることでそこにある法則を見出し、還元的に世界を捉えようとしたが、この還元主義が近代科学と現代へと続く人類の発展の礎となった。

また、デカルトの二元論は資本主義の発展の基盤でもある。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。 デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

デカルトの還元主義と二元論、これが、近代科学と資本主義の発展を支え、今の私たちが豊かさと自由を享受することを可能とした、ということは間違いない。
しかし、そのことが人類を盲目的にし、現代の様々な問題を引き起こしていることもまた、事実である。

科学をある種盲目的なものに押し込めたことは、デカルトの真意ではなかったかもしれない(そうしなければ宗教的弾圧によって処刑されていたかもしれない)し、私がその恩恵に預かってきたことには違いないので、デカルトを悪者扱いしても仕方がない。
しかし、さまざまな問題が明らかになった今、人類はデカルトを卒業する時に来ている。
それは、機械論と生気論、還元論と全体論といった二項対立的な思考を統合するような視線であり、一度切り捨てた生命とその循環へと敬意を払うことであろう。

これは、怪しげな神秘主義に立ち返り、現代とは異なる盲目性に退避せよ、ということではない。そうではなく、神秘主義的あるいはアニミズム的な、理解できないもの、分解できないものにも敬意を払いつつ、全体をみつめる大きな視線を獲得し、それを人類の叡智をもって乗り越えるという明るい態度が必要だということであって、おそらくそれなくしては、地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界という今の難局を人類は乗り越えられない。

エントロピー あらゆる循環を司るもの

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。 例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。 これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

エクセルギーとエントロピーはいわば表裏一体の概念であるが、エクセルギーはどの程度拡散できるか、という資源性のことで、エントロピーはその資源性を利用した際に出されるゴミである。

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。

先程の地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界といった限界性の問題はエントロピーと循環の問題であり、この全体・循環への視線を欠いているところがデカルト的近代社会の限界なのである。

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

以前、テンダーさんがエントロピー学会の会員だということを聞いたときには正直ピンと来なかったのだけど、本書を読んでエクセルギーとエントロピーはアフォーダンスとオートポイエーシスに続く、個人的重要概念になると思えた。
(アフォーダンスとオートポイエーシスも生命と循環に深く関わる概念であり、エクセルギー・エントロピーは同じ系譜として自分の中でリンクする確信がある。)

まだぜんぜん到達できてはいないけれども、これらの概念が建築に明るさをもたせるはずだという確信は少しづつ深まりつつある。




2023年まとめと2024年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくるを実践する


少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

昨年に引き続き、昨年1年間で考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
昨年の2022年振り返り記事
2023matome,pdf

2023年振り返り

昨年の行動指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」でした。
また、考えることとして
・環境という言葉に対し、足場となるような自分の言葉を見つけ、思想、理論、技術、直感のサイクルをまわすこと。
・これまで考えてきたことと、環境に対する考え方の接点を見出し、統合すること。
の2つをテーマとしていました。

行動指針に関しては、「遊ぶように生きる」という点ではテンダーさんがご近所だったという幸運も重なって思ってもいなかったことができたように思いますが、「遊ぶようにつくる」という点では実践する機会が少なかったため、今年は力を蓄える1年になったと思います。
具体的には、
・日置のオフィスを改装し、畑や環境に関する実験を始めた。
・別のCADにしか対応していなかったオープンソースの環境シミュレーションのプラグインを、いつも使っているVectorworksで動くように改造・移植した。(プログラミングのスキルも上がった)
・arduinoというマイコンボードを使って、センサリングによるデータ収集や、リアルタイムデータを反映した機器の制御ができるようになった。
・頂いたカッティングプロッタを使っていろいろなものが切り出せるようになった。
などで、これまで机上で考えていただけのことがリアルな世界と接続できるようになってきましたし、どんな変化があるか分からなかった事務所移転にどんな意味が生まれるかも少しづつ見えてきました。

また、考えることのテーマに関しては、昨年は28冊の読書記録を書いて、何とか、これまでと最近考えたことの接点を見つけることができたかと思います。

▲昨年の読書記録
これらを1枚にまとめたのが冒頭の画像・PDFになります。

2024年の指針

昨年まとめたもののキーワードは、遊び、想像力、はたらき・運動性などですが、これらはこれまで建築について考えてきた際のキーワードと重なります。(重なるものを探してきた、ということでもあると思いますが)

その上で、来年の指針を考えようと思ったのですが、来年も引き続き「エコロジカルな言葉と思想をもとに、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」を指針としつつ、その実践に重心を置いて具体的に動いていこうかと考えています。

本年もどうぞよろしくお願いします。




個人のテーマをどこに絞るべきか B291『世界を壊す金融資本主義』(ジャン・ペイルルヴァッド)

ジャン ペイルルヴァッド (著), 山田 雅俊 (監修), 林 昌宏 (翻訳)
NTT出版 (2007/3/1)

現在のテーマに沿って図書館で借りてきたもの。

資本主義とは何か?をテーマに設定してから間もないが、早くもこのテーマ事態に限界を感じつつある。
私たちはこの資本主義に対しては無力すぎるのではないか。テーマが大きすぎるのではないか。
仮にそうだとするならば、それでも自分たちにはどんなスタンスをとりうるのか、というところにテーマを絞らざるを得ないのではないか。

今回は、自分が資本主義に対して無知であり、かつ無力である、というところから率直に感じたことを書いてみたい。
(そんなことはない、もっと可能性があるのだ、という意見があれば取り入れたい)

資本主義は民主主義的なフェアなゲームか

アメリカでは、まず小口投資家神話が経済民主主義のヒーローとして登場した。半世紀も前の1950年代、ニューヨーク証券取引所の理事長であったG・キース・ファンストンは、資本主義神話の中核となる理論を打ち立てたのである。(p.31)

すなわち、株主による投資は選挙による投票のようなものであり、これらの権利を行使することで公平性が保たれ世界は良い方向へ進んでいく、というものだ。
おそらく、多くの人はこの魅力的な理論を未だ信仰しているものと思われるが、それは本当にそうであろうか。

これが、ある程度のスケールの中での話であれば可能性のある話であるかもしれないが、経済が地球規模化し、全てに浸透した”トータル・キャピタリズム”の世界では、競争は激烈なものになり、成長のプレッシャーのみが力を持つようになっていないだろうか。

その地球規模の競争の中では、国は移動の容易な資本には規制をかけることができず、移動の困難な市民や労働者に規制や負担をかけるしか打つ手を持たなくなっている。
その結果歯止めがなくなり、結局は、ごく一部の資産家の金を増やすため、もしくは、一部の富裕層の老後の資金を確保するために多くを犠牲にしつつ世界にプレッシャーが与えられ続けている状態になってしまっているのではないか。
コーポレート・ガバナンスといえば崇高な理念に聞こえるけれども、要するに労働者や企業を植民地化するための体の良い言葉なのではないか。
言ってみれば、一部の年寄りによる集団的搾取の合理化、その浅ましさが形となったのが現状ではないか。

「資本主義はすべての人に同等に機会が与えられているフェアなゲームであり、参加し成果を出さない人が悪い」と言われるかもしれないが、なぜ、年々いびつになっていくその唯一のゲームへの参加が前提になっているのか。なぜ、そんなゲームは嫌だ、というのが許されないのか。もう少しマシなものに変えようとならないのか。
そもそも、本当にフェアなのか。生まれた国、環境、元々の資産に埋めがたい差があっても、個人の意志さえあれば同じような確立でゲームに勝てると本当に思うのか。不遇な状況を詐欺まがいの借金で押さえつけてきているのではないか。

資本主義の正当性を打ち立てる

グローバル化は国家を否定する一方で、政治がその拡大に寄与する場合に限り、グローバル化は政治的手法を受け入れる。グローバル化の共犯者と思われる国家は、現在においてもトータル・キャピタリズムに対抗する、社会の新たなる牽引力としての卓越性を担うことが可能であろうか。この戦いは、挑んでみる価値がある。まずはヨーロッパ、次にアメリカにおいて、株主の合法的に設けたいという欲望を、将来や社会的公正をしっかり見据えた社会の発展と整合させていくのである。(中略)戦いの目的は市場の解体ではなく、政治の領域に市場を再び含有させることであり、市民権の領域に市場を組み入れることである。(p.156)

いや、慰めにはならないとしても可能性がゼロではないだけ資本主義はマシなのかもしれない。
たぶん、本当にそうなのだ。その中で多くの人はよりマシな社会を目指して努力している。

そうだとしても、今の資本主義はいびつになりすぎていて、システムの暴走は人の手に追えなくなりつつある。
もし、「資本主義は世界を良い方向へ導く」「フェアなゲームである」と言いたいならば、人類はそれを制御し、本当にそうなれるための論理を打ち立てる必要がある。そして、それは、もし皆がそれを望みさえすれば割りと単純な話なのかもしれない、とも思う。
そうでなければ、「資本主義は”私にとっての”世界を良い方向へ導く”私にとっては”フェアなゲームである。それが何か?」と言い換えたほうがよいのではないか。

やるべききことははっきりしている。 国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣))

おそらく、人類としての結論としては、ここに行き着く他ないような気がする。

そうなると、個人のテーマをどこに絞るべきか。それが問題だ。
個人がそのまま世界規模のルールを決めることはできないだろう。その上で自分はどう振る舞うべきか、の足場を固めること。

これがある程度見えてくれば目的達成かな。
あまりシリアスになっても面白くないので違うテンションのあり方を探そう。