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青少年のための科学の祭典 日置市大会(1/20)に出展します。

来週の土曜日(1月20日)に青少年のための科学の祭典 日置市大会に出展します。
「青少年のための科学の祭典」について | 青少年のための科学の祭典 HP
青少年のための科学の祭典 | 日置市「広報ひおき」デジタル版
開催日時 : 1月20日(土曜日)午前9時30分~午後3時30分
会場   : 日置市中央公民館 (日置市伊集院町郡1丁目100番地)

テンダーさんにお誘いいただいての共同出展で、テンダーさんは「ドームと幾何学」、私は「折り紙と幾何学」をテーマにして準備中。

全力投球しすぎた気もしますが、折り紙や数学に興味を持って、それを生きる力にしてくれる子が一人でもいてくれたらいいな。

お子さんと一緒に是非いらしてください。




あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人)

藤田 祐幸 (著), 槌田 敦 (著), 村上 寛人 (イラスト)
現代書館 (1985/2/1)

こちらも少し前にテンダーさんにお借りしたもの。

若い頃に読んだ同シリーズの本がうまく読めなかったことと、なんとなくエントロピーという概念の射程距離を掴みそこねていたこと(エクセルギーの本を読んで分かっていたはずなのに!)もあって、しばらく手をつけていなかったのだけど、読んでみたらまぎれもない名著だった。

昨日、大きめの本屋に行って、エントロピー関連の本を一通り開いてみたけれども、これを超える本は見当たらなかった(それでも2冊ほど購入)。
ある部分において理解の深まる本だったり、全体を俯瞰できるものはそこら中に溢れているけれども、それらの多くはボンヤリした印象を受けるにとどまり、何かしらの像を結んで心に響くところまではなかなかいかない。
これほど、思想とユーモア、過去と未来が高密度でバランスよく構成されている本には稀にしかお目にかかれないように思う。
前回まとめたようなここ数年かけてようやく見えてきた景色のほとんどが、この一冊の中に凝縮されていること、それもこの本が40年ほど前に書かれたことに驚くが、もしこの本に5年前に出会っていたとしても、ボンヤリした印象で終わっていた可能性が高いので、これも今、出会うべくして出会う本だったのかもしれない。(テンダーさんありがとうございます!)

デカルトからの卒業する時

本書の第3章で、科学の歴史的背景に少し触れられるが、これは人類のターニングポイントであり重要な部分だろう。

あまり詳しくは書けないが、デカルトは、世界を機械として捉え、物事を要素に分解して考えることでそこにある法則を見出し、還元的に世界を捉えようとしたが、この還元主義が近代科学と現代へと続く人類の発展の礎となった。

また、デカルトの二元論は資本主義の発展の基盤でもある。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。 デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

デカルトの還元主義と二元論、これが、近代科学と資本主義の発展を支え、今の私たちが豊かさと自由を享受することを可能とした、ということは間違いない。
しかし、そのことが人類を盲目的にし、現代の様々な問題を引き起こしていることもまた、事実である。

科学をある種盲目的なものに押し込めたことは、デカルトの真意ではなかったかもしれない(そうしなければ宗教的弾圧によって処刑されていたかもしれない)し、私がその恩恵に預かってきたことには違いないので、デカルトを悪者扱いしても仕方がない。
しかし、さまざまな問題が明らかになった今、人類はデカルトを卒業する時に来ている。
それは、機械論と生気論、還元論と全体論といった二項対立的な思考を統合するような視線であり、一度切り捨てた生命とその循環へと敬意を払うことであろう。

これは、怪しげな神秘主義に立ち返り、現代とは異なる盲目性に退避せよ、ということではない。そうではなく、神秘主義的あるいはアニミズム的な、理解できないもの、分解できないものにも敬意を払いつつ、全体をみつめる大きな視線を獲得し、それを人類の叡智をもって乗り越えるという明るい態度が必要だということであって、おそらくそれなくしては、地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界という今の難局を人類は乗り越えられない。

エントロピー あらゆる循環を司るもの

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。 例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。 これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

エクセルギーとエントロピーはいわば表裏一体の概念であるが、エクセルギーはどの程度拡散できるか、という資源性のことで、エントロピーはその資源性を利用した際に出されるゴミである。

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。

先程の地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界といった限界性の問題はエントロピーと循環の問題であり、この全体・循環への視線を欠いているところがデカルト的近代社会の限界なのである。

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

以前、テンダーさんがエントロピー学会の会員だということを聞いたときには正直ピンと来なかったのだけど、本書を読んでエクセルギーとエントロピーはアフォーダンスとオートポイエーシスに続く、個人的重要概念になると思えた。
(アフォーダンスとオートポイエーシスも生命と循環に深く関わる概念であり、エクセルギー・エントロピーは同じ系譜として自分の中でリンクする確信がある。)

まだぜんぜん到達できてはいないけれども、これらの概念が建築に明るさをもたせるはずだという確信は少しづつ深まりつつある。




2023年まとめと2024年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくるを実践する


少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

昨年に引き続き、昨年1年間で考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
昨年の2022年振り返り記事
2023matome,pdf

2023年振り返り

昨年の行動指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」でした。
また、考えることとして
・環境という言葉に対し、足場となるような自分の言葉を見つけ、思想、理論、技術、直感のサイクルをまわすこと。
・これまで考えてきたことと、環境に対する考え方の接点を見出し、統合すること。
の2つをテーマとしていました。

行動指針に関しては、「遊ぶように生きる」という点ではテンダーさんがご近所だったという幸運も重なって思ってもいなかったことができたように思いますが、「遊ぶようにつくる」という点では実践する機会が少なかったため、今年は力を蓄える1年になったと思います。
具体的には、
・日置のオフィスを改装し、畑や環境に関する実験を始めた。
・別のCADにしか対応していなかったオープンソースの環境シミュレーションのプラグインを、いつも使っているVectorworksで動くように改造・移植した。(プログラミングのスキルも上がった)
・arduinoというマイコンボードを使って、センサリングによるデータ収集や、リアルタイムデータを反映した機器の制御ができるようになった。
・頂いたカッティングプロッタを使っていろいろなものが切り出せるようになった。
などで、これまで机上で考えていただけのことがリアルな世界と接続できるようになってきましたし、どんな変化があるか分からなかった事務所移転にどんな意味が生まれるかも少しづつ見えてきました。

また、考えることのテーマに関しては、昨年は28冊の読書記録を書いて、何とか、これまでと最近考えたことの接点を見つけることができたかと思います。

▲昨年の読書記録
これらを1枚にまとめたのが冒頭の画像・PDFになります。

2024年の指針

昨年まとめたもののキーワードは、遊び、想像力、はたらき・運動性などですが、これらはこれまで建築について考えてきた際のキーワードと重なります。(重なるものを探してきた、ということでもあると思いますが)

その上で、来年の指針を考えようと思ったのですが、来年も引き続き「エコロジカルな言葉と思想をもとに、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」を指針としつつ、その実践に重心を置いて具体的に動いていこうかと考えています。

本年もどうぞよろしくお願いします。




個人のテーマをどこに絞るべきか B291『世界を壊す金融資本主義』(ジャン・ペイルルヴァッド)

ジャン ペイルルヴァッド (著), 山田 雅俊 (監修), 林 昌宏 (翻訳)
NTT出版 (2007/3/1)

現在のテーマに沿って図書館で借りてきたもの。

資本主義とは何か?をテーマに設定してから間もないが、早くもこのテーマ事態に限界を感じつつある。
私たちはこの資本主義に対しては無力すぎるのではないか。テーマが大きすぎるのではないか。
仮にそうだとするならば、それでも自分たちにはどんなスタンスをとりうるのか、というところにテーマを絞らざるを得ないのではないか。

今回は、自分が資本主義に対して無知であり、かつ無力である、というところから率直に感じたことを書いてみたい。
(そんなことはない、もっと可能性があるのだ、という意見があれば取り入れたい)

資本主義は民主主義的なフェアなゲームか

アメリカでは、まず小口投資家神話が経済民主主義のヒーローとして登場した。半世紀も前の1950年代、ニューヨーク証券取引所の理事長であったG・キース・ファンストンは、資本主義神話の中核となる理論を打ち立てたのである。(p.31)

すなわち、株主による投資は選挙による投票のようなものであり、これらの権利を行使することで公平性が保たれ世界は良い方向へ進んでいく、というものだ。
おそらく、多くの人はこの魅力的な理論を未だ信仰しているものと思われるが、それは本当にそうであろうか。

これが、ある程度のスケールの中での話であれば可能性のある話であるかもしれないが、経済が地球規模化し、全てに浸透した”トータル・キャピタリズム”の世界では、競争は激烈なものになり、成長のプレッシャーのみが力を持つようになっていないだろうか。

その地球規模の競争の中では、国は移動の容易な資本には規制をかけることができず、移動の困難な市民や労働者に規制や負担をかけるしか打つ手を持たなくなっている。
その結果歯止めがなくなり、結局は、ごく一部の資産家の金を増やすため、もしくは、一部の富裕層の老後の資金を確保するために多くを犠牲にしつつ世界にプレッシャーが与えられ続けている状態になってしまっているのではないか。
コーポレート・ガバナンスといえば崇高な理念に聞こえるけれども、要するに労働者や企業を植民地化するための体の良い言葉なのではないか。
言ってみれば、一部の年寄りによる集団的搾取の合理化、その浅ましさが形となったのが現状ではないか。

「資本主義はすべての人に同等に機会が与えられているフェアなゲームであり、参加し成果を出さない人が悪い」と言われるかもしれないが、なぜ、年々いびつになっていくその唯一のゲームへの参加が前提になっているのか。なぜ、そんなゲームは嫌だ、というのが許されないのか。もう少しマシなものに変えようとならないのか。
そもそも、本当にフェアなのか。生まれた国、環境、元々の資産に埋めがたい差があっても、個人の意志さえあれば同じような確立でゲームに勝てると本当に思うのか。不遇な状況を詐欺まがいの借金で押さえつけてきているのではないか。

資本主義の正当性を打ち立てる

グローバル化は国家を否定する一方で、政治がその拡大に寄与する場合に限り、グローバル化は政治的手法を受け入れる。グローバル化の共犯者と思われる国家は、現在においてもトータル・キャピタリズムに対抗する、社会の新たなる牽引力としての卓越性を担うことが可能であろうか。この戦いは、挑んでみる価値がある。まずはヨーロッパ、次にアメリカにおいて、株主の合法的に設けたいという欲望を、将来や社会的公正をしっかり見据えた社会の発展と整合させていくのである。(中略)戦いの目的は市場の解体ではなく、政治の領域に市場を再び含有させることであり、市民権の領域に市場を組み入れることである。(p.156)

いや、慰めにはならないとしても可能性がゼロではないだけ資本主義はマシなのかもしれない。
たぶん、本当にそうなのだ。その中で多くの人はよりマシな社会を目指して努力している。

そうだとしても、今の資本主義はいびつになりすぎていて、システムの暴走は人の手に追えなくなりつつある。
もし、「資本主義は世界を良い方向へ導く」「フェアなゲームである」と言いたいならば、人類はそれを制御し、本当にそうなれるための論理を打ち立てる必要がある。そして、それは、もし皆がそれを望みさえすれば割りと単純な話なのかもしれない、とも思う。
そうでなければ、「資本主義は”私にとっての”世界を良い方向へ導く”私にとっては”フェアなゲームである。それが何か?」と言い換えたほうがよいのではないか。

やるべききことははっきりしている。 国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣))

おそらく、人類としての結論としては、ここに行き着く他ないような気がする。

そうなると、個人のテーマをどこに絞るべきか。それが問題だ。
個人がそのまま世界規模のルールを決めることはできないだろう。その上で自分はどう振る舞うべきか、の足場を固めること。

これがある程度見えてくれば目的達成かな。
あまりシリアスになっても面白くないので違うテンションのあり方を探そう。




資本主義を使いこなすことは可能か B290『資本主義の中心で、資本主義を変える』(清水 大吾)

清水 大吾 (著)
NewsPicksパブリッシング (2023/9/6)

資本主義を知るためには、資本主義の中心にいる人の考えも知る必要があると思い、本屋でタイトル買いしたもの。

著者は外資系証券会社であるゴールドマン・サックスで16年間勤め、その内部で資本主義を変えることに奔走した方で、資本主義の現在地を知るためにはうってつけの著書かもしれない。

結論を先に書くと、ある部分での解像度は上がったと思うが、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」「資本主義を使いこなすことは可能か」という問いに関してはもやもやとしたものが残ってしまった。

私個人としては「資本主義を使いこなすことは可能か」という可能性の問題の前に、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」という原理の方にまず関心がある。というのも、まず前提の根拠が分からないことには成長ありきの前提のもとで考えるか、現実に目を塞いたまま前提を否定するかの選択になり、どちらにしても霧がかかった視界不良の中を進むことになる気がするからだ。

資本主義と投資家

まず、著者は資本主義の根本原理を
資本主義=所有の自由×自由経済(競争の増幅装置)
として定義し、「成長の目的化」「会社の神聖化」「時間軸の短期化」といった問題はラーメンのトッピングのように副次的に発生したものにすぎないとする。

この中で、特に根本的な問題であると思われるのは、「時間軸の短期化」のように思われる。
企業の活動にはそれにふさわしい「固有の時間軸」があるが、1年または4半期の情報開示や短期目線の投機家の活動により、その固有の時間軸よりも短期の成長のみが優先化される傾向がある。

これがひいては「成長の目的化」「(バーター取引を含む)会社の神聖化」につながるため、企業はその企業文化と企業の固有の時間軸を理解した、長期目線の有能な投資家とつながることが重要である。

その上でESG(Environment:環境 Society:社会 Governance:企業統治)またはROE(Return on Equity:資本利益率)に加えて、著者の提案するROE(Return on Earth:地球資源利益率)などを投資の基準・価値観として浸透させていくことで、資本主義を使いこなし「資本主義を世界の持続可能性に貢献するものに変える」。これが、本書の主旨、著者の願いであろう。

資本主義を使いこなすことは可能か

著者の活動は資本主義を改善していくための尊い活動であることに異論はない。

その上で、私個人としてはまだモヤモヤとしたものが残っている。
これは私の勉強不足もあって幼稚なものかもしれないとも思うが、今後の課題としてそのモヤモヤを書いておきたい。

・「成長至上主義」的な手段の目的化は免れたとしても、資本主義の原理は依然、競争と成長にあるのではないか。本書の中でもその前提は確たるものとして存在しているように思う。仮に、地球資源の使用の絶対量を増加させない、もしくは減少させるような成長が可能だったとしても、指数関数的に必要となる成長に反比例して資源利用の絶対量を抑えるような技術革新を続けることは不可能ではないのか。
・投資が慈善事業ではないとすれば、成長を強要するプレッシャーは避けられないのではないか。それとも、成長を抑えた上での共存の可能性があるのか。
・投資家が、資本主義において企業にガソリンを提供するような重要な役割を担うことは分かったが、地球上の大部分の富を専有する数%の投資家が地球の将来を決定するような構造に無理はないのか。彼らの選択が最善を目指すということを担保するようなものは何か存在しているのか(そうであるなら南北格差はとうに是正されていてもおかしくないと思うが・・・)。対抗する現実的手段はあるのか。(投資家とは誰か、ということの解像度も高めたい)
・企業活動による利益は基本的に投資家(株主)のものである、という原理は分かるが、そこにゲームとしての不平等はないのか。多くの人ががそれに納得して前提として疑っていないようにみえるが、なぜなのか。その前提の絶対性はどこからきているのか。
・投資家と比べて投機家と呼ばれる人たちの社会的役割は何か。メリットとデメリット、それらの重みはどの程度か。
・本書内で環境原理主義と斬り捨てるように”見える”場面があったが、それは著者の目指す世界に向けてのプロセスとして正しかったのか。その後の「絶対的な正義はない」という話や独自のストーリーの話は共感できたが、声に出すことそのものを当たり前にすることの重要性を考えるならば少し違った書き方があったのではないか。(ここは難しいところで自分の課題でもある)

要するに、
・資本主義の原理と基本的なルールを変更せずとも持続可能な社会とすることは可能か。変更が必要であるとするならばどのような可能性があるか。また、その上で著者の活動はどのように位置づけられるか。
ということはまだ良く分からなかった。

繰り返すが、著者の思いや活動は尊いものだと思うし異論はない。
しかし、だからこそその意味をもう少し理解できるようになりたいし、もし続編が出たら読んでみたい。




システムから選択肢を考える B289『地球のなおし方』(デニス・メドウズ ,ドネラ・H.メドウズ ,枝廣 淳子)

デニス・メドウズ (著), ドネラ・H.メドウズ (著), 枝廣 淳子 (著)
ダイヤモンド社 (2005/7/15)

少し前にテンダーさんにお借りした本です。

地球環境に対してどのような選択をするべきか、システム思考をベースに易しく語りかけてくるような本。

システム思考

システム思考とは何か。
それをこの本を読んだだけで理解できたと言えないけれども、目の前の認識可能な事象だけではなく、全体をシステムと捉えた上でシステムの挙動を考えながら判断するべきで、その挙動に効率的に働きかけられるような行動をとるべき、という感じだろうか。

上の図で言えば、多くの人は出来事やそこに見える行動パターンをもとに判断をすることが多いが、その裏に潜む構造・システムやさらにその裏にある無意識や前提のようなものこそが変革には重要となる。

本書にある、その変革に向けたアプローチのツールは「ビジョンを描くこと」「ネットワークをつくること」「真実を語ること」「学ぶこと」「慈しむこと」の5つで一見地味な言葉ばかりだが、一番奥にあるものを変えない限りは変革は起こり得ないことを考えると、これらのことが一番力を持つのかもしれない。

前回見た市民革命などを考えても、ビジョンさえ浸透すれば希望はある、と思わせてくれる本だった。

どのような選択をするべきか

『資本主義の次に来る世界』などでもたくさん紹介されていたけれども、本書でもコンピューター・モデルを用いたシミュレーションによるシナリオが紹介されている。
本書が20年前のものであるという点も含めて参考になったので、比較しやすいようにシナリオごとに並べた上でいくつかをピックアップしてみた。
また、2005年(出版当時)、2023年(現在)、2050年(例えば2010年に生まれた子どもが40歳の年)、2080年(その子ども(孫)が40歳の年)を参考に追記している。

例えば、汚染除去や農業関連の技術が導入されるが、省資源化や人口抑制、工業生産抑制を行わなかった場合のシナリオ5では、孫が大人になる頃には環境は崩壊をはじめてしまう。
これは、1950年頃の状況に強制的に戻らざるを得ない、というだけでは済まないだろう。資源は底をつきはじめているし、それまでの経済成長を前提とした社会が急激に変化する中で、失業や食糧不足、社会不安やそれに伴う紛争など想像もできないような不安定な社会が待ち受けているかもしれない。
自分の子どもや孫がそれに直面するかもしれない、というイメージはまだ多くの人には共有されていないかもしれないが、その可能性をまず受け入れる必要がある。

このシミュレーションは、シナリオ5を回避し、シナリオ9の持続可能な社会とするためには、省資源化に加え、人口抑制と工業生産抑制の必要があることを示しているが、それは成長主義的な資本主義のシステムを変革することが必須であるということだ。

そういう選択を我々はすることができるだろうか。

このシミュレーションが20年前のものであり、シナリオの前提となる技術の進歩が不確定であり、さらに南北格差の問題や社会的変革の難しさを考えると、乗り越えるべきものは多いし、消費財やサービスが本当にこれほど必要か、という議論もあるだろう。
現在でも多くの人は「経済成長より持続可能な社会を望む」という風に考えている、というような調査結果もあるようだけれども、それを実行に移すには社会・システムに対する新しい知恵を身につけることは必須である。
とするならば、システム思考はそのヒントになるだろうか。

環境の変化を想定しておく

建築の立場として、一人の人間の立場としてできることは何があるだろうか。

一つは、望ましいシナリオへと舵を切るべく、できることを考え実行するしかない。

しかし、程度の差は別にして最善のシナリオを進まなかった、という可能性も考えておかざるを得ないだろう。
(それほど遠くない)将来、今当たり前に考えている生活が急激に崩れていくことはこれらのシナリオからも十分に想定されるが、その時になって対応しようとしてもかなり厳しいように思う。
今のうちから、環境の変化に対応可能な生活へと少しづつスタイルを変化させていく、ということも必要ではないだろうか。(その事自体がシステムの改善にもつながるだろう。また、著者の枝廣氏はその後、レジリエンスや地域経済に関する本を書いているようだけども、それが著者の一つの答えなのかは興味がある。)

建築は何十年も残るものであることを考えると、将来的な変化への想像力を持って仕事に取り組むことは職業倫理として必要に思うし、建築という仕事そのものが経済状況に大きく影響されるものであるため、ビジネスのあり方も考えないといけないかもしれない。(二拠点居住や来年からやってみようと思っている稲作(自己消費用)はそのための想像力を少しでも引き寄せるための経験だと思っている。)

課題

学ぶべき課題は何か。
今回頭に浮かんだのは、
・システム思考とは何かをもう少し詳しく。
・資本主義経済の本質は何か。成長せねばならないという前提がどこから来ているか。
・レジリエンスを高めるにはどうすればいいか。(個人経済や地域経済のスケールで考える?)
・建築そのものとビジネスをどう変化させる必要があるか。
などである。
うーん、田舎生活も分からないことばかりだし、やることが増えていくばっかりだ・・・




我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣)

竹田 青嗣 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/5/25)

この本は昨年の5月にいろいろな哲学者に関する本を読もうと思いたち、まとめて購入した本の一冊であるが、まだヘーゲル自体に関しての興味が湧いていなかったため積読になっていたものである。

しばらくは手を付けることはないだろうと思っていたけれども、急遽、資本主義をテーマにすることにしたため手に取ってみた。その結果、本書はまさしく今読むべきものだったと思う。

我々は希望の物語を描くことができるか

われわれはいまや、現在ある資本主義を、”持続可能かつ正当化されうる”資本主義にかえられるか、それともそれを放置するほかないのか、という選択肢の前に立たされているのだ。
そして、この課題に応えるためには、現代のさまざまな批判的思想ではなく、まず近代哲学に立ち戻らねばならないとわたしは考える。なぜか。近代哲学が「近代社会」の理念的本質を形成したからであり、さらに、現代の批判的思想がその本質を捉えそこねているからである。資本主義は近代社会の本質から現れたものであり、資本主義を捉えるには、まず近代社会の本質を把握しなくてはならないのだ。(p.11)

著者の本は明晰で分かりやすいことに定評があるようだ。
読んでみると、まさにその通りで、哲学者の言説の中から重要な原理を取り出しあるストーリーのもとに並べて見せる手腕は見事であり、哲学とはこういうものかと唸らされた。
それがあまりに明晰であるため、逆に捨てるものが多すぎるのではないかと危険性さえ感じながら読んだのだが、それでもなお(だからこそ)一読すべき本だと思う。

はじめに断っておくが、本書は近代社会の権力や資本主義の存在を否定するものではない。それどころか、権力や資本主義を廃絶することの「不可能性」を示すことを使命として書かれたものである。

こう書くと、資本主義を肯定するための言い訳のようなものだと思われるかも知れないが、資本主義の暴力性を肯定するものでもない。そうではなく、近代社会と資本主義が必要とされる原理を哲学的に描き切ることで、その廃絶の不可能性を示しつつ、それでもなお希望の物語を描くことが可能か、そのための原理はどこにあるかを明確にしようとするものである。

私は、ここ数年での環境に対する考察などを通じて、資本主義の持つ限界性は否定されようがないと感じていた。
だからこそ、近代社会や資本主義の暴力性と限界性が明確になりつつある現代においてそれでもなお資本主義を続けざるを得ない理由は何なのか、ということが知りたかったし、資本主義をテーマにしようとした動機の大部分はここにある。

それに対して、本書は多くの視点を与えてくれた。
途中、いくつかの疑問も浮かびながら読み続けていたけれども、著者が同じ問題意識のうちにあることが理解できたし、ここで描かれた一本の筋を一度飲み込んでみることは意義があると思えた。

まずは、備忘録的な意味で自分なりにまとめた上で、感じたことを書いておきたい。
(ただ、最初に書いたように、本書自体がかなり凝縮された内容なので要約の劣化版要約のようなものになると思う。まとめ部分はあくまで備忘録として捉えて欲しい。内容に関しては大変読みやすい本なので一読を強くお勧めする。)

哲学と原理

しかし一方で、むしろこの深い絶望が新しい可能性をもたらしたのだ。カントの「原理」は人々に「真の信仰」を見出そうとする欲望を断念させ、そのことが、「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道を初めて押し開くことになったからである。(p.31)

問題の中にある「原理」を重視すること。これが本書における著者のスタンスであり、これが明快な一本の筋を生み出している。
この徹底に対して他の哲学者からの批判があることが想像できるが、本書を読む上で重要な部分である。

多数の人が参加する「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」があるとする。
宗教のテーブルは何らかの「真理」を探し求める言語ゲームであり、哲学は「普遍性」「原理」を探し求める言語ゲームである。
ここで、「真理」と「原理」の違いは何か。
「真理」は絶対的な(とされる)ものであるが、これが確かなものだと証明することのできない「答えのない問い」である。それ故に異なる「真理」の間の争いを調停するすべを持たない。
一方、「原理」は真理が答えのない問いであることを認めた上で探し求められた、誰もが認めざるを得ない共通了解である。(共通了解であるから後で変化する可能性は消しされない)

「真理」が答えのない問いであるという「原理」を明確にしたのがカントであるが、先の引用文のように、このことが人々を”「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道”を切り開いた。つまり、真理の探求としての宗教的テーブルに座ることしかできず、一定の自由の範囲から抜け出せなかった社会から開放される可能性が開かれた。
(本書ではこのことを、人類の長年の夢であった錬金術の可能性を、元素に関する「原理」が終焉させ、そのことが科学的な新しい可能性へと向かわせたことと重ねて例えている。これは後で書くように本書の意義とも重ねられている。)

つまり、「社会」の問題を個人の内面の問題から、複数の人間の構造の問題として現実的に扱えるものへと変えたのが「原理」と言えるし、このことの探求が近代社会の出現を可能とした
自然科学が原理の探求を通じて自然を解明してきたように、社会構造を解明するための原理を探求することが哲学の一つの役割・方法である、というところから出発するのが本書の特徴であるだろう。

近代社会の原理

しかし、私の考えでは、「財の蓄積」は、人類にとってむしろ決定的な不幸と悲劇の開始点となった。まさしくここから人間同士の普遍闘争状態がはじまったからである。(p.40)

人類の歴史を振り返ってみると、そのほとんどが闘争の歴史で塗りつぶされている。
私はそれが昔から不思議でならなかった。人間の本性はそれほど変わるはずがないだろうに、過去の人達は本当にそれほど愚かだったのだろうか。
戦後の一応平和な日本に暮らしている自分としては、それを人間の内面の愚かさに求めるようなイメージしか持てなかったが、本当の原因はどこにあるのか。

これに対して前もって書くと、人類の歴史上、近代社会と資本主義こそが社会から暴力を排除し、かつ人々に自由を与える可能性を持つ唯一の原理によるものであり、財の蓄積が可能になってから近代社会の実現までは自由の獲得と暴力の排除を同時に満たせる原理を人類は持っていなかった、というのが本書の主張である。(近代社会の実現以降も戦争の歴史ではないか、という指摘もあるが、それは”一旦”置いておく)

その近代社会を成立させる原理を確立したとして本書が取り上げるのがホッブス、ルソー、ヘーゲルである。

・ホッブス 普遍闘争原理
「財の蓄積」以降、人間社会は、強力な統治権力を欠けば必ず普遍的な暴力状態に陥るというのが最初の原理である(『リヴァイアサン』「万人の万人に対する戦争」)。これを著者は「普遍闘争原理」と呼ぶ。
まず、人あるいは共同体は、自分の生命と財産を維持するために暴力を使って身を守る権利がある(自然権)。
動物は体力などの自然の決めた差異によって自然と秩序が生まれるが、人間共同体はその知恵によって絶えずその差異をひっくり返す可能性をもつため、相互不信を増大させ、必ず弱肉強食の戦争状態に置かれざるを得ない(自然状態)。生命の危険のない状態が確定していれば別かもしれないが、生命の危機にあるような貧しさの中では、生き延びる道が略奪や侵略以外になくなる。そこで、そのような事態が何度か起こると、その可能性に対しあらゆる共同体が強力な戦争共同体を目指さざるを得なくなり、潜在的な戦争状態に突入する(不信の構造)。
そのような中、戦争状態を抑止する原理は、各人が自然権を放棄し、全員が従うべき強力な超越権力を作り出してそこに委ねる以外には存在しない(自然法)、と説いたのがホッブスである。

しかし、実際には相互不信がある状態ではどの勢力も自ら自然権を放棄することができないため、結局のところ、より強い勢力が弱い勢力を制圧していく以外には普遍闘争を抑制する原理がなかった覇権の原理)。歴史の天下統一のストーリーは、彼らが野蛮だったからではなく、人類がそれ以外に戦争状態を終わらせる原理を持たなかったという構造的な理由によるものだと言える。

ここから言えるのは、「国家」の第一の機能は支配ではなく「暴力の縮減」だということであり、それが国家の存在理由である。

では、人類は覇権の原理、つまり強者が弱者を制圧していく以外に普遍闘争状態を終わらせることはできないのだろうか。
これに対して、ホッブスは人々がある合議体に自発的に服従することに同意するという「設立された」統治権力の可能性を示唆しているが、これをより哲学的に展開したのがルソーである

・ルソー 一般意志契約
ひとまずは「覇権の原理」によって普遍闘争状態を終わらせられたとしても、その先には決定的な問題が残る。つまり、その結果として”専制支配体制”に行き着き、そこでは支配者以外の人間の「自由」は存在しない、という問題である。(ここから先は「自由」が重要なキーワードになる。)

それに対してルソーが示した「原理」は下記のようなものである。

普遍的闘争状態を制御し、しかもその上で各人の「自由」を確保する「原理」が、一つだけある。戦いが「覇権王」を作り出す前に、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上でその権限を集めて「人民主権」に基づく統治権力を創出すること、これである(わたしはこれを「一般意志契約」と呼びたい)。これ以外には、普遍暴力を制御しつつ各人の「自由」を確保する原理は、一つもない。(p.51)

しかし、ここで頭に浮かぶのは先の「不信の構造」である。これがあるために覇権の原理に進まざるを得なかったのであるが、この不信を乗り越える原理とはどのようなものだろうか(歴史的には専制支配体制が先にあったのだろうが、原理を更新するための疑問として)。それに対する明確な記述は本書にはなさそうだが、思うに、不信に対する心理と、「自由」の確保可能性に対する心理の天秤のようなものだろうか。専制支配体制の不自由さを目にしながら、自由の可能性が目の前にあるとすれば、不信を乗り越えそこに賭ける原動力になったのは分かる気がする。また、その原理の根が信頼にあるところに「一般意志」の重要性があるだろうし、「自由」に対する信頼が揺らげばこのような社会に批判的になるのも当然であろう。

ここで、本書にある重要な指摘は、「社会契約説」の捉え方に含まれる理想と原理の違いである。
つまり、ルソーが示したのは、近代社会は誰もが自由で対等であるべきという理想ではなく、誰もが自由であるために必要な原理である、ということである。これは本書を貫通する主張であるが、この捉え方の違いが転倒したルソー批判の原因であるという指摘は頭に入れておく必要がある。

ところで、「一般意志」とは何だろうか。これは「自らの自由を獲得するために、自然権を統治権力に委ね、代わりに、成員すべての「自由」を認め合うことに同意するという意志」と捉えると理解しやすいように思う。この意志が尊重されなければ市民社会の存続もできないだろう。また、そうである以上、政府は必ず「一般意志」を代表するものであらねばならないし、この限りにおいて政府は正しいと言える。(一般意志に関しては東浩紀の『訂正可能性の哲学』を通じて後日改めて考えてみたい)

ここで、社会には政府が一般意志を代表するのを阻害する大きな要因があるという。それは、統治権力の下部にも諸団体が存在し、それぞれの団体の一般意志が社会全体の中での「特殊意志」となって対立することである。ここでもそれぞれの特殊意志は上位の一般意志に従う、すなわち団体間の相互自由を認め合う必要がある。これが数による覇権ゲームに陥らず一般意志契約の原理を維持するにはどうすればよいだろうか。

・ヘーゲル 自由の相互承認
ヘーゲルはホッブスとルソーの社会原理を包括しながら展開させたが、その核心は次のようなものだ。

①伝統社会から近代社会へという歴史の推移は、民衆の「自由」への欲望という根本原因によって展開してゆく。
②それは、「自由」の相互承認の社会的表現である「法・権利」の展開として進み、ついに自覚的な「自由の相互承認」を基礎とする「市民社会」にまでいたる。
③しかし、市民社会は、必然的に、放埒な自由の欲望競争ゲーム(「放埒な欲求の体系」)となる。市民社会は、この矛盾を克服する原理をそれ自体としてはもたず、もし放置するならあらゆる社会生活の基盤である社会的倫理の分裂と崩壊にゆきつく。
④ここに市民社会の本質的矛盾がある。しかし、自由な欲望ゲームを廃棄し、もとの自然な社会にもどることでこの矛盾を克服することはできない。それは「自由」そのものを不可能にするからである。この問題の解決は市民社会の欲望のゲームをつねに「人倫」の原理によって調停する以外にない。そしてこの役割を果たすのが「人倫国家」である(世俗的市民社会ではなく、理性国家)。(p.119)

ここで、ルソーとヘーゲルの違いは何だろうか。
本書によるとルソーの市民国家の自由は絶対自由の一般承認に過ぎず、「一挙になされる契約(=革命)によってしか成し遂げられないものである」という。そこには放埒な自由の欲望競争ゲームを克服する原理はまだない
それに対して、ヘーゲルは「人倫」の原理もしくは互酬的原理によってつねに調停し続けるという”時間的成熟”の契機を導入したという。つまり、近代社会を維持するには、絶えず一般意志の内容をすり合わせ「法・権利」をアップデートしつづけるような仕組みが必要だと言うことだろう。ここに、「自由」の本質が社会的に発現していくプロセスがあるが、「自由」の本質とは何だろうか。

私の理解では、「自由」の本質そのものを絶えず探求するような「自由」が確保されていることそのものが、「自由」の本質であり、それは近代社会によって初めて可能となるものであるということだ。(これに関しては一つの章が与えられているので本書を参照して欲しい)

以上、簡単にまとめたが、このようにホッブス、ルソー、ヘーゲルのリレーによって近代社会成立のための原理が整えられていった。

近代社会と資本主義

ところで、近代社会と資本主義の関係はどのようなものだろうか。
近代の政治システムの基本構想は哲学者によって与えられたが、資本主義は近代社会との関係の中で自然発生的に現れたもので、それは社会的な財の生産を持続的に増大させるはじめての経済システムであったという。

資本主義の成立は「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」の3つが揃った事による。
それまでは、普遍闘争の原理から、どんな国家も収益の殆どを国の強化に当てざるを得ないため、人民は自らの労働を再生産できる最低限を残して収奪されなければならないという構造を持っていた。

そんな中、分業による効率化だけが、爆発的な生産性の増加を可能とし、人民の生活を向上させる可能性を持つものであった
著者の憶測的仮説によると、海洋交通の発展が交易ネットワークを拡大させ、「普遍交換」のシステムを形成させた。そこで生まれた需要は生産性を高めることを促し「普遍分業」を進展させた。さらに、生産性の向上は近代国家の成立を支えるとともに、近代国家によって人々が開放されたことによって「普遍消費」の局面が開かれ、交換と分業の相互促進を支え、持続的な拡大的循環を可能とした。

このようにして、資本主義システムが財の希少性を解消し、人民の「自由」の開放の前提条件となるとともに、人民の「自由」の開放が資本主義の維持のための前提となっていく。人々の自由への欲望が根本動機となって、近代社会と資本主義とが互いを必要としながら成立していったのである。

近代社会の本質

ここで、近代社会の本質的特質として「ルール社会原則」「一般福祉」「普遍資産」の3つが挙げられている。簡単に触れておくと、

・ルール社会原則
基礎原則は「ルールの基の権限の対等」「ルール決定と変更についての権限の完全な対等」「ルール遵守が成員資格の原則であること」であるが、この原則により、その政府が「一般意志」をより表現する方向に進んでいるか否かが、市民国家としての「正当性」をもつかどうかの指標となる。

・一般福祉
近代国家においては「諸個人の幸福」と「普遍的なもの」が調和的に統一される必要がある。
個別的な「自由」の追求が、社会の総体としての「善」の実現につながるような状態の実現こそが「近代国家」の最終目標である。

・普遍資産
社会全体の生産の増大を、成員全員による成果として考える。このために、その妥当な配分の原理を見出す必要がある。

というもので、「一般意志」を代表する統治権力が、「自由の相互承認」に基づく成員のフェアなゲームを担保することが求められる。つまり、ゲームそのものが「一般意志」とカップリングしている状態を維持することが近代国家の本質であると言えるだろう。

また、例えば大きな格差などに理不尽さを感じる感覚は、我々がこれらの特質に対する感度を獲得し当たり前と感じていることを示しているのかもしれない。

矛盾と批判

ここまで、近代社会と資本主義の原理と本質をまとめてきたが、これらは承知の通り理想的な道筋を進んだわけではなく、新しい大きな矛盾を生み出すことになった
そして、それに対する多くの批判を生むことになる。

近代国家は、表象として高度な階層支配システムであるかのようにして現れたがその大きな理由は、
近代国家の間に相互承認が存在せず、より厳しい普遍闘争状態がはじまったこと
資本主義システム事態が富の配分の偏在を生む「格差原理」を持っていたこと
である。

それに対し、マルクス主義やポストモダン思想等の批判が生まれたが、その多くは、事態の本質と属性を取り違えているために、現状に対する批判や理想の相対化としての意義はあっても、それだけでは決して本質的な克服のための原理を取り出すことができない、というのが著者の主張である。(著者はマルクスの”現状”の本質を見抜く力は高く評価している。)

そのため、国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成(資本主義システムは自然発生的であったため、政治システムほどの原理を獲得できていない)、といった課題を克服するためには「反国家、反資本主義、反ヨーロッパ、反近代といった表象を捨てねばならない」と言う。

これは、著者の決意表明のようなものかもしれない。

哲学を「形而上学」だと考え、国家と権力と資本主義を諸悪の根源と考えてきたような世代にとっては、このような主張は、まったく異国の言語のように聞こえるかもしれない。その感度をわたしはかなりよく理解できる。わたしもまたこの世代の感度を共有していたからだ。(p.287)

それでもこのような結論に至らせたのは、おそらく現代が大きな分岐点にあるからだろう。

希望の原理はあるか

ともあれ、わたしが示そうとしたのは、現代社会が進むべき道についての一つの根本仮説である。「自由」が人間的欲望の本質契機として存在するかぎり、人間社会は、長いスパンで見て、「自由の相互承認」を原則とする普遍的な「市民社会」の形成へと進んでいくほかない。(p.254)

ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」に基づく普遍ルール社会へと成熟させる道を取る以外には、人間的「自由」の本質を養護する道は存在しないこと。(p.287)

南北格差の拡大、過大な大量消費と大量廃棄のサイクル、市場原理主義・金融資本主義による世界のマネーゲーム化と資本による労働の奴隷化・・・世界は、「自由の相互承認」の原則を外れて、格差を拡大しながら地球環境の時間的限界へ向けて突き進んでいる。正当性を欠いたシステムは、自制を失い覇権の原理に従うのみで、やがて新たな希少性と闘争の時代に行き着くほかなくなるだろう。

しかし、選択の余地のないような危機的状況にあるということは、人類はこの危機をむしろ好機と捉えて変革へと進むほかない、ということでもある。

やるべききことははっきりしている。
国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。

ポストモダン思想は大きな物語を終わらせた。
しかし、人類はもう一度大きな物語を描かなくてはならない場面に立っている。
それは、ポストモダンが批判したような「理想理念」・イデオロギーとしての物語ではなく、人々を「人類」という連帯の輪に結びつける物語、合意による新たな「正当性」確立の物語である。

新たな物語を描くために何が可能か

しかし、わたしはこの著作を書いて、自分のうちに新しい可能性が現れかけていると感じる。なぜなら、権力や資本主義の廃絶をめがけた思想と、それを批判するわたしの考えの中心点は、本来、けっして対立的なものではないからだ。(p.294)

ここまで、簡単に本書の内容をまとめてきた。

その結果浮かんできたものは、前回読んだものとかなりの部分で共通する。(前回の本で挙げられている処方箋や事例のようなものは、今回の本で指し示された道の上に乗るもののように思える。)

また、本書を読んでも、いやむしろ読んだからこそ、二元論的な思想を転換することの重要性は高まったように思うし、資本主義の「正当性」に対しては、今なお成長が必要かという視点と人為的希少性の問題を考慮する必要がある、と思う。

さて、ここで、自分の問題として考えた時に、自分に何が可能か、というのが問題となる。

近代社会の原則にならえば、まずは、多くの人に明確な自覚と同意が必要であるから、これを促す行動をとること阻害要因(本書によると「既得権と実力のある勢力の抵抗」「可能性の原理を認めない反動思想」を解除する合理的な「原理」も必要)に安易に加担しないこと、などがさしあたり可能なことだろう。
例えば、前者に対しては、最近考えてきたように建築環境に対してどういうスタンスをとるか、というのが一つの行動の指標になるかもしれない。

とはいえ、「可能性の原理を認めない反動思想」とは何か、は現時点では私には確定できないし、まだこの問題に対する自分の言葉は少なすぎる。しばらくはこのテーマを追ってみたい。




アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル)

ジェイソン・ヒッケル (著), 野中 香方子 (翻訳)
東洋経済新報社 (2023/4/21)

帯にある「「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き」という文が気になり読んでみた。

全体的な論調としては『人新世の「資本論」』と重なるが、成長を運命づけられた資本主義がどのように世界を支配するようになったのか、という経緯と、脱成長に対する反論に対する反論としてどのような成果があるか、という点で収穫があった。
また、問題の根本には帯にあるような「アニミズム対二元論」といった存在論(オントロジー)の問題が横たわっている、というのが本書の主張である。

デカルト的二元論とアニミズム

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。

アニミズムを漢字で書くと精霊信仰となり、現在では遅れた未開文明の思想というイメージで捉えられるかもしれない。しかし、人間は生物コミュニティの一員であり、その循環の中で生きている、というのは「あたりまえ」のことであるし、人類の長い歴史の中で培われてきた持続可能な社会を維持するための最大の知恵であったと言ってよい。

その、知恵を放棄し資本主義に適合するように根本から書き換えたのがデカルトであるが、その経緯は全く自然なものではなく、権力と結びつく形で略奪と強制により導入されたものである。

これは、現在多くの人がそう信じているデカルト的心身二元論(例えば身体と脳を分け、感覚器官から受け取った刺激を脳が再構成、処理して身体に司令を送る、というような機械論)から脱却することによって新しい視点を提供するものである。(はじめに|オノケン(太田則宏))

デカルト的心身二元論に関しては、アフォーダンスの文脈で根本的な問題に関わるものでなじみがあったが、実のところその問題の大きさにピンと来ていなかった。
しかし、本書によって私にとってのデカルトのイメージが大きく更新されたように思う。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。
デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。

その変化は、資本や権力に都合の良いように人類を洗脳するという類のもので、囲い込みによる略奪/人為的希少化により資本家以外を植民地化する、というプロジェクトを成功に導いた。

哲学者は聖人であり、最善の思想を考えた人である、というイメージはいささかピュアに過ぎるのかもしれない。最善を目指したかもしれないが、それはその時代においてのものであり、その都度見直されるべきものであるはずだ。しかし、この時生まれた植民地化的資本主義の構造と思想は時代を超え今も人々の意識に強固に根付いている。(二元論がたまたま利用されたのか、資本家の権利を守る意図が含まれていたのかは分からない。デカルトが本質として何を残したのかはもう少し調べてみる必要がありそうだ。)

誰のための成長か

大企業が収益を維持するためには世界のGDPは毎年2~3%ずつ成長し続けなければならないという。2~3%というのはわずかに思えるかも知れないが、3%の成長とは23年ごとにGDPを2倍にしなければならないということで、GDPとエネルギー・資源の消費量と連動していることを考えるとこの成長を無限に続けることが夢物語に過ぎないことは明らかだろう。
(テクノロジーの進歩によってそれを乗り越えるというのも無理がある。実際のところ、増えた分を補うことすらできていない。また、未来の世代が解決してくれるだろう、という思考そのものが搾取的だ)

さらに、無謀な経済成長を続けても多くの人が豊かになることすらない。

社会的目標を達成するためにこれ以上の成長が必要でないのは、多くの証拠から明らかだ。それにもかかわらず、成長主義のシナリオは驚異的なまでに力を保ち続けている。なぜだろうか。それは、成長がわたしたちの社会の最富裕層と最大派閥に利益をもたらしているからだ。アメリカを例にとってみよう。アメリカの国民1人当たりの実質GDPは1970年代の2倍になった。そのような驚異的成長は、人々の生活に明白な向上をもたらしそうなものだが、実際はその逆だ。40年前に比べて、貧困率は高くなり、実質賃金は低くなった。半世紀の間、成長し続けたにもかかわらず、[豊かな生活に関する]これらの重要な指数に関してアメリカは退行しており、その一方で、事実上、利益のすべてが富裕層に流れている。世界の上位1%の富裕層の年収は、この期間で3倍以上になり、一人あたり平均140万ドルに急増した。
これらのデータを見れば、成長主義がイデオロギーに過ぎないのは明らかだ。それも、社会全体の未来を犠牲にして、少数に利益をもたらすイデオロギーだ。わたしたちは皆、成長のアクセルを踏むことを強要され、その先には地球という生命体にとって致命的な結果が待ち受けている。すべては裕福なエリートをさらに金持ちにするためなのだ。(中略)しかし、エコロジーの観点から見れば、状況はいっそうに深刻で、まるで狂気の沙汰だ。(p.192)


この搾取の構造はアメリカでさえそうなのであるから、グローバルノースとサウスの間の同様な構造を考えるとサウスの状況がどれほど悲劇的かは想像に難くない。
一部の人間のために、多くの人は意味のない希少性と貧しさを押し付けられ、労働力を安価で提供し続けるしかない状況で環境を破壊しながら破滅へと突き進む。まさに狂気の沙汰だが、なぜこれを止められないのだろうか。

一つは、多くの人が現状を維持するしかないように大胆かつ巧妙に人質を取られているからだろうし、一つは人間の思考の奥深く、存在論の部分で意識を握られていることもあるだろう。
環境に対して、なぜ止められないのかという問題意識を欠いた単なる「省エネ」では成長の穴を部分的に埋めることしかならないし、環境工学を目的化する思考は、地球規模の問題を地球工学によるテクノロジーで解決しようとすることと同じく、二元論による自然制御というロジックを温存する。
そういう意味で、環境問題は存在論と想像力の問題であるというのは間違いではなかった気がする。
また、どうすれば人質を開放できるか、というのも大きな問題である。住宅ローンも人質の一つであることを考えると私もその構造に加担している1人に違いないし、3人の父親としては教育というのも大きな人質だと感じている。

資本主義とは何なのか

詳細な議論は是非本書を読んでいただきたいが、成長主義をやめるだけでも、環境問題を含めた多くの問題は解決の難易度が大きく下がるという。

そう言われても簡単にはことが進まないのは、人間がそれほどかしこくない、ということもあるだろうし、多くの人が資本主義というものが何なのかよく分からないまま参加しているということもあるだろう。

資本主義と言っても経済活動そのものに問題がある訳では無いように思う。問題は成長主義であり、その根本に潜むデカルト的二元論である、というのが本書の主張であるが、本当に一部の富裕層のためだけに盲目的に成長を崇拝するほど人間は愚かなのだろうか。
もしくは、成長を崇拝せざるを得ないシステムが富裕層を含めた人々の意志を超えたところで暴走しているだけなのだろうか。(おそらく、富裕層を悪人として斬り捨てるだけでは問題の解決に向かわないだろう。)
資本主義にとって成長は本質的なものなのだろうか。

私も本当のところ、資本主義とは何なのかがほとんど分かっていない。

”環境”の次のテーマを探していたのだけど、考えていけば資本主義というテーマは避けられそうにない。
うーん、厄介な問題に手を付けることになりそうだ・・・




社会的構造が絶望と希望を生む B287『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』(山岸 俊男)

山岸 俊男 (著)
PHP研究所 (2000/6/21)

以前から社会の空気のようなものがどのように生まれ、どのように影響を与えるかに興味があり、その関連で著者の本を読んでみようと思い買ったもの。
比較的新しいもので、自分の関心に近そうなものを探したところ本書に行き着いたのだけども、それでも2000年の発行なので20年以上も前のものである。
(最近の本で良いものがあれば紹介して欲しい)

社会的ジレンマとは

社会的ジレンマとは次のような構造を持つ問題のことである。

①一人一人の人間が、協力行動か非協力行動のどちらかを取ります。
②そして、一人一人の人間にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得ることができます。
③しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動をとった場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまいます。逆に言えば、全員が自分個人にとっては不利な協力行動を取れば、全員が協力行動を取っている場合よりも、誰にとっても望ましい結果が生まれます。(p.17)

要するに、こうすれば皆が良い結果を得られると分かっていても、自分だけがその行動をとっただけでは自分が損をみるのでやれない、という問題で、現在の環境問題が典型的な例だろう。

本書での一番の結論は、

しかし、次のことだけはわかっています。それは、私たちは私たちが作り出している社会をコントロールするために十分なかしこさを、まだ持ち合わせていないということです。(p.10)

という言葉に集約されるかも知れない。

わかっちゃいるけどやめられない。それは個人の意志だけの問題ではなく、社会的な構造によるものであり、それをコントロールできるほど人間はかしこくない。
まずは、その認識を持つことが必要なのかもしれない。

何が可能か

それでは、自分たちには何が可能だろうか。人類がかしこさを持ち合わせていないことを嘆くしかないのだろうか。

例えば、政府などによる、アメとムチの監視と統制は、一定の効果が出る可能性はあるが、二次的ジレンマの発生や内発的動機づけの破壊など、さまざまな問題も多いし、それに期待するだけではいけないことも実感として感じている。

そんな中で、各個人が「個人としてできること」のイメージを持つことは可能なのだろうか。
もし、そのイメージが持てないならば、そのことが諦めを生み、人々に非協力行動をとらせてしまうだろう。
社会的ジレンマの構造を考えると、「個人としてできること」のイメージの発明はとても重要なことのように思える。

このことについて少し考えてみる。

このイメージを考える上でのヒントは社会的ジレンマが社会的な構造をもっていることそのものの中にありはしないだろうか。

例えば本書では、限界質量という概念が紹介されている。
ある集団の中には、様々な度合いで協力的な人、非協力的な人が分布している。
ある人は、10%の人が協力しているなら自分も協力するという人で、ある人は90%の人が協力していないと自分も協力しない。そういう度合いの分布があるとすると、これらの人の行動が積分のように連鎖してある割合に収束すると考えられる。
この考えの面白いところは、同じ分布の集団が、初期値によってことなる地点に収束する場合がある、ということだ。
あるケースでは、行動の連鎖の結果、協力者の割合の初期値がある値(例えば40%の人が協力している状態。ここを限界質量と呼ぶそう)より少ない場合は10%に収束し、多い場合は87%で収束するという。
(▲本書p.199 例えば50%の協力者からスタートすると、協力者は58%に増え、と連鎖し87%に収束する)
この社会的な構造を人々の行動が連鎖する複雑系のような関数としてイメージしてみる。
ある関数では、初期値によって結果が大きく変わる。あるいは、個々の人々の特性(関数の勾配のようなものをイメージしてみる)がほんの僅かに変わるだけで、結果が大きく変わることもある。
それは、僅かな人の行動が変わるだけで結果を大きく変える可能性があること、あるいは、ほんの僅か他の人々の特性に影響を与えることができれば局面が大きく変わる可能性があることを示しているといえる。

多くの人が持っている、自分だけが変わっても何も変わらない、というのはおそらくこの関数を足し算のようにイメージしている。
しかし、この関数を複雑系のようにある小さな値の変化が結果を大きく変える可能性のあるものと捉えられれば、自分の変化が結果に揺らぎを与えるかもしれない、というイメージに少しだけ寄せられるかもしれない。

むろん、一人がイメージを変えたところであまり結果は変わらないかもしれないが、多くの人がこのイメージを持つことができれば、つまり、社会的関数の入れ子のように(例えばある環境問題の関数の中の勾配を決める関数として、この「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと考える人の割合」の関数として考える)捉えて、関数間の連鎖が起きることを考えれば結果が変わることがあるかもしれない。(ちょっと何を書いているか分からなくなってきた)

要するに、ある社会的ジレンマを持つ問題の全体を個人が0から1に変えることは難しいけれども、入れ子のような関数を考えて、より小さな関数を少しだけ変えるということはできるのではないか、ということだ。
社会的ジレンマを持つ問題に対して、自分の不利になる行動をいきなり変えることは難しいかもしれないけれども、まずは「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと捉えてみる」だけならそれほど不利益を被ることもなく変化の敷居は低くなる。
自分の行動が人の行動をいきなり変えることはないかもしれないけれども、その人の行動の指針をほんの少し狂わすことはできるかもしれない。そういうイメージを持つことができれば、自分の行動を正当化できる人も増えるのではないだろうか。(そして、これは入れ子状にさらに小さな関数へと微分していくことができるだろう)

うーん、何が言いたいかますます混乱してきたけれども、大きな変化をいきなり見ずに、小さな変化を可能性としてみることができれば、堂々とやりたいことをやれるのではないだろうか。明るく堂々としているだけでも小さな変化へのきっかけにはなる。

これは、自分への言い訳探しでもあり、重い問題に明るさを見つけるための試論でもある。

この小さな変化を可能性としてみる、というのは次の読書記録への導入として続きは後日考えたい。




環境とは何かを問い続ける B286『環境建築私論 近代建築の先へ』(小泉雅生)

小泉雅生 (著)
建築技術 (2021/4/16)

以前読んだ本の中で気になる言葉に著者のものが多かったので読んでみた。

内部構造から外部環境へ

著者は、現代主流になりつつある環境建築の多くが、建築という箱をどうつくるかという外部と分断した内部の論理・近代的思考に囚われたままであること、また、実証のための理論であった環境工学が目的にすり替わってしまっていることに警笛を鳴らしつつ、〇〇から〇〇へというように発想の転換をはかるような思考を試みている。

それは、本書の目次によく表れている。

01 プロローグ
02 内部構造から外部環境へ
03 精密機械からルーズソックスへ―機能主義とフィット感
04 ハイエネルギーからローエネルギーへ―均質空間とローカリティ
05 シャープエッジから滲んだ境界へ―サステナビリティと耐久性
06 メガからコンパクトへ
07 パッシブからレスポンシブへ
08 隔離・断絶からオーバーレイへ
09 細分化からインテグレーションへ
10 ウイルスからワクチンへ
11 エピローグ

これらは、エピローグで「矛盾に満ちた、建築家の私論として、理解いただければと思う。」と書いているように、建築家に内在する矛盾に対する抵抗の記録と読める。

この抵抗は、私がここ2年ほど考えようとしてきたことの動機とも重なりおおいに共感するところではあるが、その矛盾とは何だったのだろうか。

環境とは何か

それは、環境とは何か、という問いに集約されるように思う。

環境あるいは環境工学について、『最新建築環境工学』の最初にこうある。

環境とは、人間または生物個体を取り巻き、相互作用を及ぼしあう、すべての外界を意味するもので、大きく自然環境と社会環境に分けられる。われわれがここで取り扱うのは、主として前者の自然環境と人間の関係である。(p.13)

この快適な室内環境を最小のエネルギー利用で達成するのが、環境工学の重要な使命である。ただ、それは建築全体からみれば、あくまでも結果であって目的ではないことを忘れてはならない。(p.18)

ここではっきりと書かれているように、環境工学の扱う分野は建築の部分に過ぎない。
しかし、それが目的化・矮小化されてしまっているところが建築家の内に矛盾を生んでしまっている。
建築家もしくは設計者には、環境という言葉を狭い意味から開放し、総合化-インテグレートする役割があるはずだが、ややもすると「建築家はすぐに言い訳をして、環境問題から目を逸らし続けている」と言われかねないし、この矛盾の解消は簡単ではなくなってきている。

だからこそ、建築家は自らの信念を見つめ、環境に対する新しいイメージと可能性、実現のための技術を磨きながら、環境とは何かを問い続けなければいけないのだろう。
その点で、本書はやはり一人の建築家による抵抗の記録である。

私もようやく、その抵抗の糸口が掴めてきたような気がするが、実践に関してはこれからだ。楽しんでやっていけたらと思う。




ムシについて B285『昆虫の惑星 虫たちは今日も地球を回す』(アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン)

アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン (著)
辰巳出版 (2022/3/30)

初心に帰る旅のついでに。

何度か書いた気がするけど、子供の頃はいわゆるムシキチでいろいろ捕まえては家で飼っていて、その中でも特に水棲昆虫が好きだった。
田んぼでゲンゴロウやミズスマシ、マツオムシ、ミズカマキリやタイコウチなどを捕まえてきて水槽で飼うのだけれども、そこに一つの世界が現れているようでゾクゾクした。(この小さな世界を好む性格は今の仕事にも繋がっていると思う)
水槽に産卵用のレンガを据えて、そこからタイコウチの幼虫がわらわらと泳ぎだしたときの興奮は今でもよく覚えている。

それが、高校以来、蚊や蟻、蝶などのよく見かけるものを除けば昆虫の気配をほとんど感じることなく過ごすようになった。
大人になってからは子供を連れて水場などによく行っていたけれども、鹿児島でタイコウチやミズカマキリを見かけたことはない。

そして最近、ひょんなことから事務所の近くで田んぼをすることになった。
全く想像もつかない世界で分からないことだらけなのでやってみよう、というくらいで、特に理由はない。
あえていうなら、そこの風景が好きなので田んぼのある風景を引き継ぎたい、という気持ちがあったかもしれない。更に言えば、昆虫のいる田んぼを子供にも見せてあげたい、という気持ちもあっただろう。
とはいえ、隣接する田んぼのことを考えると農薬をどうするか、という葛藤もある。(昔、北の国からで農薬の利用問題が発端となって岩城滉一が死んだシーンが頭に残っている)
米作りに関しては右も左も分からず機械も持っていないため、近所の人に協力してもらいながら、まずは周りと同じやり方をやってみようと思う。そして、ある程度勝手が分かってきて近所の人の理解が得られそうであれば、昆虫を呼び戻せるようなこともやってみたい。(果たして戻ってきてくれるのかは分からないが・・・)

さて、本書は、22カ国以上で出版されているようだ。
予想よりたくさんのエピソードが載っていて、とてもおもしろく読めた。
当然のごとく、終盤は昆虫の置かれている状況が語られるが、昆虫に触れ合う機会の少ない人達にどのくらい届くだろうか。(今ではムシキチ(昆虫少年)も絶滅危惧種なのかもしれない。)

昆虫学の大家、エドワード・O・ウィルソンの有名な言葉がある。

「人間は無脊椎動物を必要とするが、向こうは人間を必要としない。人間がもし明日消滅したとしても、地球はほぼ変わりなく回りつづけるだろう……だが無脊椎動物がいなくなってしまったら、人間は数ヶ月生きのびるのが精いっぱいのはずだ」(p.236)

私自身このことに対する感性がかなり劣化している。


左の5冊は自分が子供の頃から持っているもので写真昆虫記がお気に入り。一番右は息子用に買ったもの。

『里山・雑木林の昆虫図鑑』は図鑑だけれども、写真に勢いが合って子供の頃の虫好きな感覚を刺激してくれる。

今井 初太郎 (著)
メイツ出版 (2018/4/20)

『ビジュアル 世界一の昆虫 コンパクト版』は興味本位で買ったものでこちらも勢いがある。(テキストは翻訳に工夫が欲しかった部分が若干あった。)

リチャード・ジョーンズ (著), 伊藤 研 (監修)
日経ナショナル ジオグラフィック (2020/4/9)

追伸)下記の記事を読み返したらほとんど同じこと書いてました・・・
オノケン│太田則宏建築事務所 » 戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)




脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




office chavelo,SPROUT 写真アップ

office chaveloとSPROUT 写真アップしました。
実績のページを御覧ください。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 環境実験型オフィス office chavelo

オノケン│太田則宏建築事務所 » SPROUT




スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他)

脇坂圭一 中川純 谷口景一朗 盧炫佑 小泉雅生 冨樫英介 重村珠穂 秋元孝之 川島範久 清野新(著)
建築技術; B5版 (2022/5/25)

前回同様、昨年春に出版された建築環境本の一つ。

「静岡建築茶会2018│建築環境デザインを科学する!」として開催されたシンポジウムの登壇者による講演内容と対談および作品を紹介したもので、環境シミュレーションにまつわる思想的な背景や具体例を知るのにバランスのとれた良書。

「快適」性に対するスタンスをどうするか

環境について考える際に、快適性をどのように捉えるか、というのは根本的な問題で、どういうものをつくるのかを大きく左右する。
冨樫氏は「快適」の2文字のうち、「適」は温熱環境が一定の範囲に収まっていることを言い、それに対して「快」は不適な状態から適な状態へ移行する際のギャップから生まれるものだという。いわば静と動である。
また、中川氏は「快適」とは「快」い状態に「適」する行動を伴った概念とし、微細な環境の差異から導かれた「動的な熱的快適性」を考える必要がある。という。

「快」は意匠分野が好む傾向があり、「適」は環境分野が好む傾向があるようだが、おそらくそれのどちらが正解という話ではないだろう。
基本性能としての「適」はもちろん重要だが、人間のふるまいや感情というファクターを考えると動的な「快」にも役割があるはずだ。(例えば自然の風の心地よさに1/fゆらぎが隠れているように、適と快の揺らぎがあるようなイメージ。それらの揺らぎを含めて快適となるのではないだろうか。)


上図は中川氏が紹介していた建築における美学と技術の2つを楕円の焦点にあてはめた楕円モデルであるが、楕円状の点Pである建築と2つの焦点との距離はどちらもゼロになることはない。そして、総合という視点において美学や技術に対する偏愛が必要だという。
このことは、先の「適」と「快」にも当てはまるように思うが、楕円のどこに建築を置くかというスタンスがその後の方向性を決めるし、「最適化」というものはこのスタンスの表明でしかないように思われる。

また、ここにおいて、シミュレーションの役割は絶対値の提供にあるわけではないだろう。
結果はどのようなモデルを設定しどのようなパラメーターを扱うかで大きく変わるし、モデル化そのものに先のスタンスや思想が表れる。
重要なのは、相対的な比較によって方向性を定めることだと思うし、そのためにはモデル化の手法、結果から読み取る目、そしてそれを活かすための反射神経が重要である。
自ら環境と関わる意志と経験値が必要だし、環境工学的な基礎を学ぶことによって見えてくるものも変わってくる。また、今はまだ理解していないがコミッショニングという分野も人と環境との関わりを考える上で様々な学びがありそうだ。

スケール横断的な想像力を獲得する

では、自分はどのようなスタンスをとるか。

それはこれまで考えてきた大きなテーマであるが、ここで川島氏の一文を引いてみたい。

このコミッショニングの目的はこれまで主に「省エネルギー」でしたが、「自然とのエコロジカルな関係性」をデザインすることにも活用できる。むしろ、そのような目的にこそ活用されるべき、と東日本大震災以降、特に考えるようになりました。(中略)だからこそ、地球との繋がりを実感できる建築が求められるのではないか。太陽をはじめとする自然の変化を美しく感じることができること。その歓びを通して、身の回りと惑星規模のスケールを横断する想像力を獲得し、自らの価値観やふるまいを見直しつづけていくことができるような建築が求められているのではないか。(p.68)

これまで何度か書いたように、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題なのだと思うし、シミュレーションはそれを補佐する役割があるといえる。
「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(もちろん、先の楕円モデルを前提として。)

『カタルタ』の開発者である福元氏は高校時代からの友人なのだが、彼によると、若い頃私はよく「地球上のあらゆる問題は想像力の問題だ」と言っていたらしい。

その発言はあまり覚えていないけれども、確かに、私は建築を想像力の問題として捉えることからスタートしている。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。 「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 私と空間と想像力)

「私のいる空間が私である」というのは好きな言葉の一つなのだが、この言葉は子供時代を過ごした奈良や屋久島での記憶へとつながっている。
その言葉と現代社会とのギャップから、建築を想像力の問題と考えるようになったように思うが、ここにきてまたこの言葉に戻ってきた。

環境やエコロジーという言葉に対していかなる思想や言葉を持つことが可能か。
ここ数年は、このテーマのもと読書を続けてきたけれども、ようやく抱いていた違和感を解消しつつ自分の言葉へと消化できそうな気がしてきた。

関係する読書は続けるとしても、集中的に読むのはここで一区切りとし、また次のテーマに取り組みたいと思う。




答えをあらかじめ用意しない B282『開放系の建築環境デザイン: 自然を受け入れる設計手法』(末光弘和+末光陽子/SUEP.)

末光弘和+末光陽子/SUEP. (著), 九州大学大学院末光研究室 (著)
学芸出版社 (2022/6/10)

昨年、春頃に『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』、『光・熱・気流環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』、そして本書及び『SUEP. 10 Stories of Architecture on Earth』と立て続けに環境系の本が出版されたのでまとめて購入していたもののうちの一つ。

開放系モデルの意義

現在の多くの建築環境は、高気密・高断熱と機械制御による空間が主流となっており、これは、建物を外界から遮断することで、室内環境を整え、発電所でつくられたエネルギーをいかに使わずに暮らすのかという思想に基づいている。これを仮に閉鎖系モデルと名付けてみる。地球温暖化防止のため、高い環境性能が求められる時代において、寒冷地を中心にこの閉鎖系モデルの有効性を疑う余地はないが、生活や住文化を重要視してきた建築家として、性能の追求が数値ゲームとなっていることに対する懸念や、何かが欠落している違和感を持っている人は少なくないだろう。そして、世界は広く、画一的な考え方でものを見ることのに対して疑問も浮かんでくる。(中略)ここで問題提起したいのは、果たしてこの閉鎖系モデルだけで本当に地球環境の問題は解決できるのだろうか、ということである。この問題に対して示唆的なのが、南日本や東南アジアの国々で古くから存在する通風や日射遮蔽を重視した建築である。それらは外部に開き、自然エネルギーを受け入れることで以下に豊かに暮らすかという思想に基づいている。これを開放系モデルと名付けてみる。(p.2)

これは、「はじめに」の一文であるが、大きく共感する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 風を考える上での2つの言葉 B279『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三))

何度も書くように、閉鎖系モデルの技術そのものを否定するものではない。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまうことで、結果的に思考停止に陥り、分断の思考形式を温存することになってしまうことには問題があるように思われる。

結果的に閉鎖系モデルに行き着くとしても、一旦はそういう思考形式を離れて開放の可能性を考えてみる。そうすると、最近の私がそうであったようにいやがおうにも自己と環境との関係性を考えざるを得なくなる。「良さ発見型の技術」はそのことをよく表している言葉であった。(そして、この言葉は北海道で生まれている)

答えをあらかじめ用意しない

本書各章のタイトルを列記すると以下の通り。

  • 01 半屋外をデザインする
  • 02 太陽エネルギーを取り込む
  • 03 地中のエネルギーを利用する
  • 04 風を受け入れる
  • 05 自然光を取り込む
  • 06 半地下をデザインする
  • 07 樹木と共存する
  • 08 生態系をネットワークする
  • 09 都市を冷やす
  • 10 水の循環と接続する
  • 11 森林資源循環をデザインする
  • 12 エネルギーをつくる

私とほぼ同世代でこれだけの質と量の実践をされていることに驚愕するが、何がこれほど幅広い実践を可能としているのだろうか。

これは推測に過ぎないけれども、その鍵は答えをあらかじめ用意しないことにあるのではないだろうか。

外部環境も規模や用途もクライアントの意向も異なる中で、模範的な答えをあらかじめ決めてしまわないことで多様な解が現れる。
それこそが建築設計の醍醐味でもある。
それは、ある意味では設計者の自己満足かもしれないが、それでも、多様な解が現れることそのものに、人間もしくは生物に必要なより広い意味での開放性が潜んでいるように思う。

本書の中の対談で

半屋外空間について、早稲田大学の研究があり、それは駅やアトリウムなどあまり空調されていない空間でなぜ人間はそこまで不満に思わないかという研究なのですが(中略)僕はそれを読んで、「自然の中に近い」という感覚を持つと、人間の許容度は大きくなるというふうに解釈しました。(小堀哲夫)(p.74)

というのがあった。(論文はこれとかこれあたりかと。テンダーさんも以前にたような推測をされてた。)

数値ゲームも重要だけども、それだけに囚われないことによってたどり着くことのできる解は無数に存在するはずであるし、そのための方法を追求してみたい。




循環のイメージを高めたい B281『活かして究める 雨の建築道』(日本建築学会編)

日本建築学会 (編集)
技報堂出版 (2011/7/6)

エクセルギーハウスをつくろう』の著者がHPで紹介していたので購入。

この前にシリーズとして『雨の建築学(2000年)』『雨の建築術(2005年)』があるが、とりあえず新しいものを選んでみた。

感想としては、総覧的な意味合いが強く少し詰め込み過ぎている感じがした。多数の執筆陣による共著によるせいかもしれないが焦点が定まらない印象を受けた。(個人的に買った本では共著はあまり響かない本であることが多い気がする。)
もっと具体的な内容を知るには『雨水活用建築ガイドライン―日本建築学会環境基準』を買うべきかも知れないが迷うところである。

ここ数冊の読書から、月並みではあるけれども循環のイメージが環境を考える上でも、建築にはたらきの要素を加える意味でも重要な気がしている。

しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

その中で、水の循環は地球の、もしくは生命の循環を考える上で特別な意味を持っている。
あわよくば、その水の循環のイメージをより洗練させられればと思ったのだけれども、間違いなく本書の中心問題でありつつ若干物足りなく感じた。(もしかしたら『雨の建築学』もしくは『雨の建築術』の方が目的には適っていたのかもしれない。)

水の循環に関しては、『エクセルギーと環境の理論』『エクセルギーハウスをつくろう』『「大地の再生」実践マニュアル』『よくわかる土中環境』で多少はイメージが掴めてきた。

環境を考える際、都市部におけるとっかかりは地方に比べてかなり限定的になってしまうと思うのだけど、その際、水の循環と小さな生態系を考えることが重要なとっかかりになりそうな気がしている。

外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。 そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン))

雨水だけをみていては大切なものを取りこぼしてしまうのかもしれないな。




水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳)

矢野 智徳 (著), 大内 正伸 (著), 大地の再生技術研究所 (編集)
農山漁村文化協会 (2023/1/18)

『よくわかる土中環境 イラスト&写真でやさしく解説』と合わせて読了。

高田宏臣 (著)
PARCO出版 (2022/8/1)

確か、小学校の中学年くらいの頃だったと思う。
屋久島に移住する前は奈良の田んぼが広がる田舎に住んでいて、山や川、田んぼや空き地が主な遊び場だったのだけど、ある時、ザリガニやいろんな生き物が住んでいた石積みの用水路があっという間にU字溝に置き換えられた。
当然、そこにいた生き物の姿はなくなり、遊び場の一つが失われ、その時そういう決断を下した大人たちをたいそう恨んだことを鮮明に覚えている。

またちょうど一年前、二拠点生活と称して日置市の山間で仕事を始めた。
職場であれば町内会には入らなくても良いと言われたけれども、ここの風景が気に入って入ってきたのでフリーライドはしたくなかったのと、何よりこの地での経験をすることが二拠点居住の目的だったので町内会に入ることにした。
定期的に道際や川の草刈りなど手入れがあるけれども、昔であれば、「どうせまた生えてくるのに草刈りに何の意味があるのだろう。むしろ自然のままに任せるという考えもあるのでは。」と思ったかもしれない。今は、そこに経験的に培われてきた知恵があるはずだと考えている。

そこでこの2冊を読んでみたのだけれども、いままでまるで見えていなかったものが見えてくる、風景の意味ががらっと変わってしまうような体験だった。

どちらも、同じような問題意識のもと書かれていて共通点はかなり多い。
あえて違いを書くと、大地の再生の方は、より実践的な内容で、自然環境が水と空気の循環によって保たれていることに加え、風の流れ(それが土中の水と空気の流れともつながっている)に重きを置いている。
土中環境は、実践より理屈を分かりやすく伝えることに重きを置いているようで、菌糸の働きへの言及も多い。

読後に日置の集落の風景を見てみると、ここでさえ、昔の知恵を置き去りにしてしまったことがたくさんありそうだし、集落の奉仕作業からも忘れられてしまった理屈がいくつもあるだろう。このままでは、人が減るに連れ知恵や技術の喪失がさらに加速度的に進むのは避けられそうにないし、都市部においては言うまでもない。
(と言っても、何度も書くように初心者の私には集落の先輩たちは先生である。)

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう)

この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。

「土中環境」では特に自然災害に対する現在の土木技術の矛盾が浮き彫りになっているが、アカデミズムの世界ではどう扱われているのだろう。
ここで書かれているような原理が大学などで研究され、技術の置き換えが起こるような大きな流れが生まれて然るべきだと思うけれども、現状はどうなのだろうか。

それは当然建築においても言えるが、田舎はさておき都市部で何ができるのか、というイメージを育てるにはもう少し経験と実感が必要だ。

今朝、雨が降る前に、少しだけ庭の手入れをしてみた。
風の流れや空気感が少し変わった。
自分がほんの少し、この地に馴染めた気がして、気持ちが良い。




弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B279『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登)

荒谷 登 (著)
彰国社 (2013/8/1)

地球環境時代を迎えるいま、経済力、技術力、エネルギーに頼った力づくの問題解決ではなく、それぞれの地域が持っている特質をより顕著なものにする、奪い合うことのない成長のあり方を、本書を通して考えてみていただけたらと思います。(p.3)

著者は温熱環境の専門家で、北海道の高断熱高気密住宅のパイオニアでもあり、『民家の自然エネルギー技術』の著者の一人でもある。

北海道住宅の専門家の本が九州南部での建築を考えるのに参考になるだろうか、と若干不安があったものの、もっと広い視野で書かれているのでは、という予感があったため購入した。
それが、期待以上の良書であった。

本書は、北海道建築指導センターが発行している『寒地系住宅の熱環境計画シリーズ』の5巻をまとめたもので、それがそのまま本書の章立てになっている。
その構成は、

  • 『1 採暖と暖房』(1976)
  • 『2 気密化住宅の換気』(2003)
  • 『3 省エネルギーから生エネルギーへ』(2003)
  • 『4 断熱建物の夏対応』(2007)
  • 『5 断熱から生まれる自然エネルギー利用』(2010)

というもので、24年もの歳月をまたぐのだが、それぞれ当時の普及技術の潮流を感じさせはするものの、内容は全く古さを感じさせない。

それが、著者の熱環境への深い知識によるだけでなく、その根本に確たる哲学があることによるからだ、ということが読み進めるにつれ分かってくるのだが、私が今、建築の温熱環境に対するスタンスで迷っていることに対して多くのヒントと与えてくれた。

今の建築の温熱環境に対して、何か煮えきらないものを感じていたのだが、それに対してどういうヒントが得られたか、ということをここ2年ほど環境について考えてきたことを振り返りながら書き残しておきたい。

良さ発見型の技術・弱さ・目

一貫していたのは近代技術が得意とする欠点対応ではなく、無償の富である自然や自然エネルギーに中によさを見出してそれを生かす、良さ発見型の対応でした。(p.220)

技術には、欠点対応型と良さ発見型の2つがあるという。

欠点対応型は環境の中から欠点を見出し、それを克服するために電力のような独力での問題解決能力を持つ強い力を用いるもので、近代的な分断の思考をベースとして画一化へと向かうもの。
一方、良さ発見型の技術は環境の中から無償の自然エネルギーのような弱い力を見出し、それらを組み合わせ引き出すことで問題を解決しようとし、多様性をもたらす。

後者は、例えば天空光や反射光、そよ風や熱対流、気温の日変動や年変動、乾燥や湿潤、蓄熱や放熱、新鮮な空気や水、微妙な風圧や気圧の変動など、それだけでは問題を解決できない弱い力であり、地域性や変動性が大きいといった性質を持つ。

元来、建築はそのような弱い力の特性を引き出し活用するための器であったが、近代化とともに強い力に依存することになってしまい、風土との対話を忘れてしまった。

私が現在の潮流に対して抱いている違和感の根本には、この強い力への依存への無反省を感じてしまうことがあると思うのだが、それは仕方のないことなのだろうか。

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(p.173)(森田真生))

ここで、この文が頭に浮かんだのだが、強い力への依存は自己を強い主体と勘違いさせてしまうし、おそらくその強さが様々な問題の根っこにある。弱さの受容、あるいは、モートン的な距離に対してとどまる姿勢、言い換えると強さに依存せずに弱さにとどまることなしには、持続可能な世界に近づくことはできない、というのが今のところの結論であるが、本書はその弱さにとどまるための技術論とも読める。

ここでの弱い力は、地域性や変動性を持ち、強い力への依存のように思考停止を許してくれる(もしくは思考を奪う)ものではない。
それ故に、これまで歴史的に積み重ねられてきた知恵に意味が生まれるし、自らがその弱い力を見出す力を持つ必要がある。

欠点が客観的に捉えやすいのに対して、環境や相手の良さを知るには何が良さであるかをはかる独自の価値判断が必要で、しばしば自分自身の価値判断が問われます。(p.211)

このことは逆に言うと、自分自身の価値判断、哲学を持つことができれば、新しい良さを発見できる可能性がある、ということである。
そのことに設計者としては面白みを感じるし、そこで生まれた個性は建築に生命的な躍動感を与えるとともに、そこでの生活にリアリティを与えることにもなるだろう、という予感がある。

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。
二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

弱い力を見出すための目を養うことが重要であるのは間違いないが、そのためにも強い技術に頼ることを一旦忘れてみることが、建築と風土との対話を思い出させるために必要な気がしている。

三つ巴の温熱環境論

これらの弱い力は先に書いたように、独力では問題を解決するほどの力になれない。(問題解決という物言いそのものが近代的発想を感じさせるがここでは横に置いておく)
そのために必要なのが断熱(+気密化)と熱容量である。

断熱、熱容量、自然エネルギーのいずれも独力での問題解決能力のない弱さがありますが、それがともに働くとき、力では得られない穏やかな環境が生まれます。(p.149)

著者は断熱や熱容量を弱い自然エネルギーを生かすためのものとして捉えており、それは私にとって新しい視点であった。
技術的な詳細は本書に譲るが、大雑把に言いうと、断熱が熱の出入りを小さくすることで、弱い力の個性を尊重しつつ、役割や出番を与え、さらに熱容量の助けを得ることで、変動を緩和しピークをずらし弱い力を補う。

大きな熱の出入りと強い力に依存している際には無視されていたような弱い力を、主役とするために断熱を施す。そのように考えるとかなりスッキリした。
それでも、これでもかという断熱には強引さ・強さの印象を消しされないのだが、昔の日本の夏の民家がこのような工夫の見本であったことを考えると、その印象は使う素材のイメージによるかも知れないし、「そこまでする必要がないのでは」という考え方は欠点対処型の思考が根強く残っているからかも知れない。
(断熱をどこまで施すか、というのが問題だが、弱い力を生かすためのピークシフト能力・時間を一つの目安にするのが良さそうな気がしている。それは三つ巴の構造全体をみながら考えるべきだろうし、答えは一つではないだろう。)

この辺りは若干気持ちの整理がついていない部分ではあるし、課題の一つでもあると思うが、以前よりはかなり納得感を得られたのは大きな収穫であった。

資本主義的な物語とエコロジー思想

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。 そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

建築の温熱環境をどう考えるかは、つまるところ、資本主義の物語に対してどうふるまうか(オルタナティブの問題)、もしくはエコロジカルであるとはどういうことか、という思想によって決まるように思う。

それについて、著者の視点が表れている部分をいくつか抜き出してみる。

流通経済の発展は、私たちがすでに持っているものよりも持っていないもの、地域の良さよりも欠点に目を向けさせ、支出を減らす自給経済よりも、所得を増やす経済へと私たちを駆り立ててきました。(p.113)

暖房や冷房とは、家の中に閉じこもるためのものではなく、この大きな変化を敵視する感情を取り除き、それに親しむ生活を作り出すためのものです。(p.162)

あまりにも身近にあるためにその存在や素晴らしさに気づかず、忘れられ、利用しているという意識も、感謝の思いも、それを傷つけているという自覚さえ失っているもの、その典型が自然エネルギーです。(p.167)

不思議なことですが、自然エネルギーの最大の難しさはそれが無償の富であることで、それを活用する知恵や情報がほとんど伝わってきません。
命にかかわるほどに大事なものであっても、無償である限り、経済でその価値を表現することはできませんし、多くの自然エネルギーはエネルギーの仲間としてさえも認められていません。
多くの人が関心を寄せるエネルギーとは、思い通りになる人工エネルギーとともに経済力で、経済の活性化につながらない問題の解決手法やエネルギーの活用法を伝える情報や知恵が失われ、伝わらなくなっています。(p.177)

潤沢に存在する自然エネルギーは、資本主義による希少化と商品化の物語には乗りにくいが、著者はそこに損得勘定ではなく、オルタナティブとしての物語を見ている。そこが信用に足ると感じる部分でもある。(この本では光熱費がいくら得になる、といった話は出てこない。)

環境破壊への反省あるいは欠点対応としての省エネルギーを”地球にやさしい生活”と呼ぶ人がいますが、果たして地球への暴力を少し控えめにしましょうという程度の省エネルギーが環境にやさしい生活と呼べるのかどうか疑問です。
それよりも、無償の富としての自然の素晴らしさを知り、それに親しみ、慈しみを持って接する生活にこそ本当の優しさがあるのではないでしょうか。
もし、環境保全の視点を”自然に親しむ生活”に移すなら、それは良さ発見型の発想であり、自然と自然エネルギーの活用と生業としている第1時産業こそがその鍵を握っているといえます。(p.214)

”地球にやさしい生活”とは何か、と問われた時にどう答えることができるだろうか。

例えば、同じ様に断熱を強化するとしても、独力での強いエネルギー利用を前提とした省エネの思考と、自然の無償エネルギーを活用し自然に親しむための基盤を得ようとする思考とでは、ベクトルが全く異なるように思う。前者は未だ近代的分断の思考にとどまるが、後者の思考であれば、断熱化を近代的分断の思想から逃れるためのエコロジーの基盤とできそうに思える。

(同じ視点で、私はオフグリッドまでいかない太陽光発電をどう捉えてよいか迷っているとことがあったが、それは省エネの文脈で考えるべきことのような気がした。効果や必要性は認められるし重要な技術には違いないけれども、それはエコロジーの視点からは2次的なものであろう。)

成長するとは自分の回りを変えることではなく、自分自身を変えることです。
創造の課題もまた新しいものをつくることよりも新しい自分を発見することです。
自然エネルギーの特徴は、思い通りになる強さよりも助けを必要とする弱さにあり、地域によって異なる多様性こそが魅力であり、奪い合うことのない無償の富として、私たち一人一人に与えられていることです。
自然と自然エネルギーの素晴らしさをしることは欠点の克服以上に、新しい自分自身を発見する成長への鍵であり、省エネルギーや温暖化防止に勝る、持続可能な成長への課題です。(p.216)

自分を変え、新しい自分を発見することが良さを発見するための基盤となる。生きていく上でも、設計する上でも変わり続けるということは永遠の課題である。

また、本書の終盤では一次産業のあり方にまで言及されるが、それも著者の思想の延長上にある。
建築の温熱環境といってもそれだけに閉じている問題ではない。先に書いたように資本主義やエコロジーをどう捉えるか、生き方全般に関わる問題であるが、それだけに根が深く、個人的にも残された課題が多い問題である。
(ここで、例えば甑島のケンタさんが離島を飛び回ってされていることと、生きていくこと・生活すること、建築を作ることが繋がった。それらが別のものとしか捉えられないところに近代的分断の問題がある。)

次世代へと引き継ぐべき技術

ここでまたもやテンダーさんの言葉である。
先日話しをしていた時に、「資源が不足することが確定している未来にどういう技術を残すのか」というような話をされてハッとした。

今回の強い力、弱い力の問題は、どういう技術を残すべきか、という問題でもある。

特に日本では、伝統をその意味や目的を明確にして継承するのではなく、むしろそれが濃縮され、洗練された形、あるいは様式、構法、慣習として受け継がれる傾向が強いために、それを引き継いできた棟梁や達人がいなくなり、材料や構法が変わると、その形や様式とともにその背後にある精神や意味をも見失ってしまう可能性があります。(p.133)

身の回りが装置化され、ブラックボックス化し、自動制御されると、この生活の知恵が怪しくなってきますが、無償の富である自然と自然エネルギーの素晴らしさを知り、その活用に参加する中で、生活の知恵を積み重ね、研ぎ澄まし、新しい伝統技術として引き渡していくことが大切です。(p.212)

日本では、強いエネルギーによる独力での解決方法と北欧型の断熱技術が進んだ結果、昔ながらの知恵は大部分が建築からのみならず生活全般において失われつつある。それは、引き継ぐ必要のない技術であっただろうか。そこでは技術だけはなくそれに伴う人のふるまいや思想も同時に失われる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。 しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

上記のことはここでも当てはまるように思う。技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。
現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。

これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。
そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。

技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。

そこで重要なのははたらきと循環の思想である。

注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。 その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。 それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

個別のエネルギーのふるまいはエクセルギーという言葉を使わずとも捉えることができるかもしれないが、エクセルギーという概念が与えてくれるのはこのはたらきと循環の流れのイメージである、というのが私の今の理解である。

地球は外断熱された星であり、その中には太陽エネルギーをもとにした様々なはたらきと循環が生まれている。そのイメージを建築に重ねることができれば、さまざまなものが見えてくるのではないか。

うまくいけば思うような建築ができるかもしれない。と期待しよう。

まとめ

断熱をどの程度強化するべきか、に対して思想的根拠を持てていないためモヤモヤしていたのだが、それに対してある程度の考えを持つことができたし、これまで考えてきたことととの接点を掴むこともできた。

昔ながらの日本の民家は、夏に関しては様々な工夫がなされ洗練されたものであったが、冬に関しては寒さの中で暖をとる採暖を余儀なくされてきたため課題が残っていた。
また、北欧や北海道から広がってきた寒地型の断熱手法は、エネルギー利用によるコントロールを前提として夏の工夫を忘れ去るものが多かった。

この、夏と冬の間の矛盾をどう解消するかが大きな課題であることは変わらないけれども、それに対する考え方のベースを得られたことは大きい。

だからといって、一つの確たる正解が得られた訳では無いし、正解があるわけでもないだろう。

都市部と地方では環境は大きく変わるし、活用できる自然も異なる。案件により、立地による環境も、法的縛りも、予算も、住む人の生活スタイルも全てが異なる中で、その都度楽しみながら考えられればと思うが、その時に頼りになり安心感を与えてくれるのは、一つの答えではなく、自分の中の基準である。

2年前から環境をテーマにもやもやしながら考えてきたけれども、ようやく次の一歩が踏み出せそうな気がする。


最後に、終章から、「自然エネルギーの良さを発見する器としての建築」について書かれた部分の小見出しを列記しておきたい。

  • 自然に親しむための器
  • むらのない環境をつくる器
  • 自然エネルギーの個性を尊重するための器
  • 変動から生まれる自然エネルギーを生かす器
  • 自然エネルギーを環境調整の主役にする器
  • 昼の光を活かす器としての建築
  • 夜の光の演出
  • 湿度調整の器としての建築
  • 新鮮な外気を生かす器
  • 無償の富を生かす器としての建築
  • 自然エネルギーを後世に引き継ぐ器としての建築



風を考える上での2つの言葉 B278『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三)

南 雄三 (著)
建築技術 (2014/1/16)

通風に関する本を探していて本屋で見つけたもの。

その前に『図解 風の力で住まいを快適にする仕組み』
野中 俊宏 (著), 森上 伸也 (著), 四阿 克彦 (著), 並木 秀浩 (著)
エクスナレッジ (2021/9/4)

も購入していて、具体的な事例が多数紹介されていたのだけれども、『通風トレーニング~』の方が理論的な背景を掴むのに面白かったため、こちらをブログのタイトルに選んだ。

気まぐれな風

両書を読んでまず感じたのは、風はなかなか手ごわいということ。
日射や気温はある程度状態を想定して考えることができるけれども、風は何しろ気まぐれで思うようにはいかなさそうだし、確立された設計手法というものもあまりなく、発展途上という印象を受けた。
とはいえ、理論的な蓄積や、これまでの歴史の中で積み重ねられてきた工夫というものは確かにある。

その中で、本書は理論的背景を解説しつつ、FlowDesignerによって様々なケースをシミュレーションしながら進められる。
QandA方式で風の振る舞い想像しながらシミュレーション結果と答え合わせすることで徐々に感覚を掴んでいくというトレーニングとしての構成は面白く、気まぐれな風に対して有効なアプローチだと感じた。

著者は、未確立の風の扱いに対して、まずは夜間の通風による「外気冷房」によって就寝可能な環境を作る、というのを(ある意味妥協点として)設定しているのも潔くてよい。
(私は何を隠そう、夏の夜は家族の中で一人だけダイニングに布団を移動して未空調の空間で窓を開けて寝たり、夏休みに数家族でバンガローに泊まりに行ってもエアコンを回避して外にテントを張って一人寝る、というくらいに(特に夜間の)冷房環境が苦手なものだからなおさら共感した。)

話は変わって、今年の夏、最近このブログでもおなじみになりつつあるテンダーさんと「屋根散水と輻射熱研究会」と称していろいろと実験したりしてたんだけど、その結果報告として、テンダーさん作のヤギ用ドームを拝見した時に、テンダーさんがふと口にした言葉が心に残った。

一つは、「皮膚で感じる環境は<答え>であって<式>ではないし、<快適な温度>というのは測れない」というもので、もう一つは「壁が熱を作る」というもの。
これは、この夏の集大成とも言える言葉でなかなかの名言だと思う。

<快適な温度>は測れない

前回の『建築環境工学』を読みながら、もろもろの実験や考察をまとめると下の図の内容にたどり着く。

人が感じる快適性は、人体を通しての熱収支による。
ざっくりいうと、人体の体温を一定に保ち、体内に蓄熱しないとすると、M(代謝量)=E(蒸散・潜熱)±R(放射・顕熱)±C(対流放散・顕熱)が成り立たなくてはならない。このうち人体が調整可能なのはMの代謝量とEの蒸散(発汗)である。

未調整の状態を考えると、M(代謝量)は活動状態で決まり、E(蒸散・潜熱)とC(対流放散・顕熱)は周囲の気温と人体の表面温度の差及び風速で決まり、R(放射・顕熱)は周壁温度と人体の表面温度の差で決まる。

人体の表面温度を33℃に保つとした場合、基本的な代謝量と環境による熱の出入りがバランスしていて無理がないのが快適な環境である。逆に熱収支が合わない時は震えによって代謝による熱量を上げたり、発汗による蒸散で熱を逃がす必要がある。そこで身体にかかる負荷が大きいと寒く感じたり暑く感じるということだろう。

これは、いわゆる温熱環境の6要素(着衣量、活動量、気温、湿度、放射(周壁温)、気流)に置き換えられる。

馴染みの深い気温と湿度だけではなく、様々な要素が複雑に絡み合った熱収支の<結果>を人は感じているのだ。つまり<快適な温度>というのは一つの幻想であり簡単には測れない。(ちなみに複雑な要素による快適性を馴染みの気温に便宜的に置き換えるのがSET*(新標準有効温度 Standard new Effective Temperature)である)

熱環境の考察において気温だけをみていると、様々な可能性を見落とすことになるし、外皮性能一辺倒の思考停止に陥りがちな風潮を助長する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。

そんな中、快適性における風の役割についてはもう少し意識的であっても良いとおもう。(反省をこめて)

壁が熱を作る

もう一つの「壁が熱を作る」。
これはすごい。

例えば日射を考えてみると、太陽からの放射を壁や屋根が受け止めることで、電磁波が初めて物体の持つ振動・熱に変換される。そして、その熱が伝導・対流や再放射によって室内環境に影響を与える。(それは正または負の資源性を持つ)

確かに、日射そのものが熱エネルギーを持つには違いないけれども、緑の中の涼し気な環境を思い起こすと、あまりにも無防備に受け止めたり閉じ込めたりして「壁が熱を作る」ことを当たり前なことと考えすぎているのではないだろうか。その無意識を一突きにする言葉である。

ここでは詳しく説明しないけれども、先のヤギ小屋は体感としてとても涼しく感じた。そこでは日射を真面目に受け取らず、周囲の放射熱をいなす工夫がなされていた。

今回の2冊では通風はあくまで人体との関係の中でしか考察されていなかったけれども、この日射を含めた周囲の放射熱をいなす、ということに対して風の役割は大きい。

つまり、風を人体と建物、双方との関係性の中で考えることが重要であろう。

今回の主題である風を考える上で「<快適な温度>は測れない」「壁が熱を作る」はなかなか示唆に富む名言なのである。

あっ、ちなみにテンダーさんの1Vドーム製作キットは下記で購入可能です♪
1Vドーム製作キット(45mm幅角材用) | ダイラボ通販

うーん、Vectorworksにbutterfly(Rhino+grasshopperでCFDシミュレーションを可能とするプラグイン)を移殖する計画、躓いたまま止まっているんだけどなんとかしたいなー・・・




工学的な知識を何に対してどう使うのか B277『最新建築環境工学 改訂4版』(田中 俊六他)

田中 俊六 (著), 岩田 利枝 (著), 土屋 喬雄 (著), 秋元 孝之 (著), 寺尾 道仁 (著), 武田 仁 (著)
井上書院; 改訂4版 (2014/2/18)

教科書としての名著

環境工学の教科書である。

最近、基本的なことを学び直す必要性を感じて本屋で探したところ、教科書系には珍しく似たような本が7,8種類は置いてあった。

30分以上迷いに迷った挙げ句、一番教科書っぽくて基本的な数式の載っているものにした。以前なら図解の多いわかりやすいものを選んでいたかもしれない。

(後日、もしやと思い以前見たことのある動画を確認したところ、名著として紹介されているものだった。学生の頃に手に取っていた可能性があるけれども、環境工学に関しては教科書も授業内容もまったく記憶にない・・・)

雰囲気で仕様を決めるのが嫌で、シミュレーションをして定量的な判断ができるようにと環境を構築してみたものの、根本的なところの理解がないと、結局雰囲気で決めることに変わりはないな、と最近の実験等で痛感した。
そういうこともあって本書を購入してざっと一通り読んでみたのだけど、教科書だけあって、知りたかった情報にかなり出会うことができたし、理解も進んだ。

もちろん、一読するだけで内容を自在に使いこなせるようにはならないので、今後必要に応じて実践的な視点から再読する必要がある。
また、現時点ではいろいろな情報が入りすぎて少々混乱してしまっているところもある。

工学的な知識を何に対してどう使うのか

混乱しているのは知識だけではない。
工学的な知識を何に対してどう使うのか、というのも知れば知るほど混乱しつつあるため今は保留にしている。

工学的な知識から、一つのあるべき最適解が導きだせるかというと、そんなことはない。
環境工学的な視点のみから何を満たすべきかという基準がはっきりしていれば、あるいは最適な解というものが存在しうるのかもしれないが、建築は、例えば環境工学的な正しさのみのために存在するのではないし、複雑に絡み合ったそれ以外の大量の要素を無視してはそもそも実現不可能である。

建築が何のために存在するのか、もしくは建築とは何なのか。それによって正しさはいかようにも揺らぐ。
だからといって、今さら<建築>のためにエネルギーを垂れ流すのはいた仕方ない、と言い訳を探したい訳でもない。
それでいて、環境工学的な正しさのために<建築>なんて不要だ、という気もない。
環境工学的な正しさは<建築>の一要素に過ぎない。

今、自分に必要なのは、工学的な知識を何に対してどう使うのか、という自分なりの基準である。

「何に対して」は、これまで大切にしてきたことがある。
それと、「どう使うのか」をつなぐための哲学と言葉、そして知識と技術を探し出す必要がある。

後少しの間は我慢してインプットを進めるつもりだけど、年内には何とかつなぐためのシンプルな言葉だけでも探し出したいと思っている。