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ロゴスとピュシス B309『ナチュラリスト:生命を愛でる人』(福岡 伸一)

福岡 伸一 (著)
新潮社 文庫版 (2021/9/29)

ナチュラリストとは

ナチュラリストをネットで検索すると

1 自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人。また、自然の動植物を観察・研究する人。
2 自然主義者。→ナチュラリズム  (goo辞書より)

とある。

本書でのナチュラリストは1の後者「自然の動植物を観察・研究する人」の意味合いが強い。
「はじめに」によると、「生命とは何か」という問いをずっと心に持ち続けている人、ということになりそうだけれども、本書はナチュラリストとはどういう人か、また、子どもが大人と関わることでどんなふうにナチュラリストになるきっかけを得るのか、が自身の経験を踏まえた軽快な文章で綴られる。

最初はナチュラリストが「自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人」という意味かも知れないと、少し距離を取りつつ読み始めたけれども、すぐに惹き込まれた。
ナチュラリストの最初の条件は「都会的なセンスを持った人」だという。そして、小さい頃に自然に対し感じた「センス・オブ・ワンダー」を持ち続けている人であり、観察する「目」を持つ人である。

ナチュラリストを「自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人」と捉えると、田舎にどっぷり浸かって生活し、それ以外の生活から距離をとっている人というイメージが浮かぶ。
しかし、著者の捉えるナチュラリストは、都会的なセンスを持ち、自身の「センス・オブ・ワンダー」に従い、行動する人である。そこには、モートンが警戒するような、自然を自然としてある距離のもと固定化する意識、が入り込む隙間はない。ただただ、根っからのナチュラリストなのだ。(個人的にはナチュラリストとは異なる言葉が良さそうな気がするけど、どういうのがいいのか思いつかない。)

ロゴスとピュシス

また、ナチュラリストはロゴスとピュシスの間を行き来する人でもある。

生きもののことをもっと知りたい、言葉に置き換えて自分のものにしたい、というロゴス的な欲求、都会的なセンスと、とらえどころのない、みずみずしい自然の不思議さや美しさに心を奪われて、もっともっと見たいというピュシス的な欲求、センス・オブ・ワンダーの2つを、対立させずに、自身の中に両立させているのがナチュラリストなのである。

私が二拠点生活をしているのは、都市と田舎の間の越境者になりたい、という意識があるからだけれども、これはロゴスとピュシスを同時に持つこと、と言い換えられるかもしれない。
都会的な価値観が多くを占める中、田舎的な価値観をその対極として位置づけるような二元論的なイメージは、行き着く先が制限されてしまうように思う。

これを、分断せずに軽々とまたいでしまうような姿勢が重要なのでは、という直感が確かにあるけれども、まだ、自分の中でうまく言葉には出来ていない。
それに対するヒントが本書にあるように思う。

メンター

著者は有名な生物学者であり、生物学的なさまざまな発見もしているが、その過程で、ロゴスの世界に偏りすぎたそうだ。
本書の最後では、自らの研究室を閉じ、本来のナチュラリストに戻ろう、という宣言をする。
おそらく、それまでのロゴスの世界を後悔しているわけではないと思うけれども、子どもの頃にみずみずしく感じていたピュシスの世界に、もっと素直に従いたくなったのだろう。

二十歳前後の誕生日に、古い友人から「後ろから蹴飛ばしてくる子どもがいて、振り返ってみたら小さころの自分だった」というような詩を貰ったことがある。(正確には覚えてないけど、家の床下の中を探せば見つかるはず。)

福岡氏も子どもの頃の自分に蹴飛ばされたように感じたのかもしれない。
いや、それよりも、自分が歳をとっていることに気付き、自分が子どもの頃に出会ったメンターのように自分もなりたい、と思ったのかもしれない。

本書は、メンターとの出会いの本でもある。
それは、大人の言動であったり、一冊の本や、その中の登場人物であったりする。
メンターと出会うことが、その人の人生を豊かにし、センス・オブ・ワンダーが時代を超えて引き継がれていく。

自分に取ってのメンターは、建築では最初に努めた事務所の先生、ということになると思うけれども、折り紙や工作、昆虫では、昼間から家にいて家の中がモビールなどの工作だらけだった、毎週、少年ジャンプを貸してくれたおじさん、「折り紙生物スケッチ」の笠原邦彦氏、「紙工作ペーパークラフト入門」の松田博司氏、「写真昆虫記」の海野和彦氏、ということになる。(これらはどれも、当時のまま今も手元に置いている。)

私もそれなりの歳になってきた。

誰かのメンターとなれるような建築を一つでもつくりたいと思うし、子どもにむけての何かを書きたい気もしている。

著者による新訳の『ドリトル先生』や、森田真生氏の新訳『センス・オブ・ワンダー』も読んでみたくなったな。




サービスからツールへ B308『 How is Life? ――地球と生きるためのデザイン』(塚本由晴,千葉 学,セン・クアン)

塚本由晴,千葉 学,セン・クアン,田根剛(監修)
TOTO出版 (2023/11/24)

ギャラリー・間の開設35周年を記念して行われたテーマ展(2022/10/21~2023/3/19開催)をまとめたもの。

企画時がコロナの真っ只中だったこともあり、これまでの社会のあり方・常識に対して転換を促すようなテーマが選ばれ、建築らしい建築はあまり出てこない。

が、道具に対する言及はいたるところにある。

道具を外部化し、専門化することで暮らしを産業社会的連関に移行させてきたのが20世紀後半のビルディングタイプなら、道具を取り戻し、暮らしを民族誌的連関につなぎ直す21世紀のビルディングタイプは、ツール・シェッド(道具庫)を原型に持つものになるだろう。身の回りの環境に細工を加え、整え、季節の恵みや、エネルギー資源を獲得するために、道具を持ち替え、向き合う対象からの反作用として己の体を知る過程で、スキルが発生する。(p.137)

地方に軸足を移すと、道具類がどんどん増えていく。そして、どんどん欲しくなる。

道具とそれを扱うスキルによって、地方における自分の存在・自分の見えない領域が増えたり減ったりする気がする。

それは、テリトリーというようにお互い奪い合うような領域というよりは、お互いに支え合うクッションのようなもので、それが増えれば増えるほど、より周りに貢献することができる。しかし、支えてもらってばかりでも恐縮してしまうので、堂々と過ごすには、やはり何かしら道具とスキルがあったほうが楽だ。

道具がずらっと並んでいるのを見るのは至福だし、自分が道具とスキルを手に入れることには、なんとも言えない充実感がある。

この充実感は、分かる人には分かるというもので、なかなか言葉では伝えられない。
よく言われるような、道具による身体の拡張、というだけでは何かが伝わらないことがある気がする。
では、何が伝わりにくいのだろうか。

先程の引用のような、サービスとツールは、ベクトルが異なる。サービスは外から内のベクトルで受動的、ツールは内から外のベクトルで能動的と言えそうだ。これは、ベクトルを再び反転しよう、という話なんだと思う。

しかし、道具による充実感のキモは、向きではなく、能動性と双方向性にある。生物の知覚と行為の基本は本来、能動的で双方向なものなのだ。
その双方向性を規格化/工業化を邪魔する、煩わしい余計なものとして捨て去り、一方通行にしたものがサービスなのだから、充実感が不足するのもやむを得ないし、そのままの視点で、道具を身体の一方的な拡張としかイメージできなければ、その充実感は想像できない。
道具は単に身体を拡張するだけでなく、世界を取り込み絡み合わせる。

そこらにある道具は、時代遅れの代物だと思われがちだけど、そうではないだろう。
ベクトルが逆だった20世紀後半、ツールに求められるのは双方向的な調整機能ではなく、一方通行な正確さである。単に、手道具はそれにマッチしなかっただけで、再びベクトルを逆転すると、それまで、時間の試練をくぐり抜けてきた道具たちの機能性と美しさに気付くことになる。それらは時代遅れではなく、時代外れだっただけなのだ。

ユクスキュルの環世界は、種や個体の持つ知覚やスキルが、それらの住む世界の現れやあり方を変え、個別なものにすること示しているが、道具やそれに伴うスキルは、扱うものの環世界を、生態心理学的に言うと、環境に含まれる意味や価値を変えてしまう。
道具によってそれまで見向きもしなかった、煩わしいだけだったのものが、意味や価値に変わり、生活を豊かにする資源に変わる。
さまざまな道具を持ち替えることは、さまざまな色眼鏡を装着するように世界の見え方を次々に変えてしまう。これが面白くないわけがない。

逆に言うと、サービスに埋め尽くされた社会での環世界は、一部では大きく開かれているかもしれないが、偏った狭いスコープしか持たないものだと言える。千葉学が書いたように「道具を介して地球と向かい合う機会が稀な社会では、環境への理解など、深まるはずもない(p.176)」。

このことが、最近になって少しづつ分かってきた。

どんな道具を持ち、どんなスキルを身につけるかは、環境に対する姿勢そのものを示すと言える。

そういう意味では自分もまだまだだ。

できることなら、道具をつくったり直したりするような道具やスキルを身につけたいものだ。




イメージの更新 B307『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史)

藤原辰史 (著)
青土社 (2019/6/25)

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。 しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

エントロピーの排出が循環の決め手であったのと同じく、分解は循環になくてはならないものである。
本書は、そのことを、科学的に位置づけたり、効用をとりあげるだけでなく、哲学的な考察を加えながら吟味していく。

分解という作用

生態学では、生物を「生産者」「消費者」「分解者」に分けるのだが、実際には、植物も呼吸をして消費をしているし、動物が食べることは消費であると同時に分解の一部でもある。微生物も分解も消費の一部だ。
この、生産や消費という言葉は経済との関連を想起させるし、分解者には循環に貢献する「機能」を期待させ、人間本位の意味合いを強く持たせてしまう。

近代的な世界観にどっぷり浸かった人間は、つい、生産や消費を、分解よりも上位において考えてしまい人間主体の思考から抜け出すことが難しい。これをどう振り払うことができるだろうか。

前回読んだ『人類堆肥化計画』が顕にしたように、分解者はただ、自らの生存のための営みを継続しているだけであり、そこには生と死にまみれた世界がただ存在しているだけだ。

これまで私は、ハインリッチの「生きものの葬儀」という視点を手掛かりに、糞虫という甲虫の生態を学びながら、生態学の「分解者」から「分解」を、うつろう「作用」として腑分けしてきた。機能ではなく作用としたのは意味がある。機能は、ある特定の受益者を想定しているような意味、政治的にはナチスの中央集権主義的な意味を持つのに対し、作用は、ある特定の受益者に対して比較的ニュートラルな意味を持つからである。まさに、分解は、生産者にも消費者にも、そしてもちろん分解者にも宿っては去っていく作用としてみてきた。(p.270)

生物を「生産者」「消費者」「分解者」といった存在として分け、機能をあてがうのではなく、ただ作用としてみること。
このニュートラルな視点こそがおそらく重要であろう。

これらの作用を、インゴルド的なはたらきの線としてイメージしてみる。それらの線が複雑に絡まり合っているのが生態系・この世界であると捉えたとき、生み出すことも、それを利用することも、解きほぐすことも一つの作用・線であり、これらが絡み合ったメッシュワークが全体としてメビウスの輪のように環をなし、持続可能な生態系の循環を成立させている、ということがイメージできるだろう。

さらに、生み出すこと、利用すること、解きほぐすこと、このどれかの作用が途切れたとしたら、この環が崩れ去るのも容易に想像できるのではないだろうか。

そして、現代の社会が生産と消費に邁進し、分解を疎かにしすぎていることも。

環境の問題から、生命、循環、土壌、菌類ときて分解にたどり着いたわけなのだが、おそらく、環境の問題は人間本位の副次的な問題に過ぎない。
本当は、ただ、ニュートラルに、それぞれが生き、それに応じた作用がそこにあり、それを生態系が包み込む、それだけでいいのだろうと思う。

建築における分解

とはいえ、現実に社会は偏っており、分解は意識の外へはじき出されている。
建築に携わるものとしては、どこまでできるかは別にしても何かしら自分の中にイメージを持っておくべきだろう。

では、建築において分解の作用はどのようにイメージ可能だろうか。

一つは、設計というプロセスに分解のようなイメージを組み込むことだろう。
計画という言葉に象徴されるように、設計は何か一つの完成形に向かって直線的に突き進まなければならないと思い込まされてきた。
しかし、作られたものを解きほぐし再構成させる道を開く分解者のように、設計プロセスもしくは作られたものを、より柔軟に、より自由にするような作用を組み込んだっていいのではないか、という気がする。
(といっても、まだ曖昧なイメージにすぎないけれども)

もう一つは、資源循環やサーキュラーエコノミーと言われるように、建築の素材を循環の中に位置づけることだろう。
現在の建築の多くはメンテナンスフリーを究極の理想として、分解されないもの・循環できないものをつくることが目指される。
建築はその巨大さや高コストのせいで、分解、すなわち手を入れることで再生成するのではなく、耐久性を高めることが合理的と信じられている。

しかし、その合理とは本当のものなのだろうか。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
(中略)
ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。
エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない。 (このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)
しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一))

私は、この耐久性こそが合理であるという常識は、単に、近代的な思考の枠組みがイメージできることの限界をつくっているだけのような気がしている。
現に私も、資源循環やサーキュラーエコノミーという言葉は単なる(人間主体の)お題目のように感じていて、ピンと来ていなかったのだけれども、本書や最近の読書・実践を通じて、これまでの合理性が導くイメージとは違うイメージが芽生えつつあるように感じている。

それはまだ曖昧で、現実と結びついたものではないかもしれないけれども、それまでの常識・合理性は、ちょっとしたきっかけでひっくり返るような案外脆いものだったのではないか、という疑いは日に日に強くなっている。
そして、新たなイメージは、思ってたよりもずっと当たり前で魅力的なものなのでは、とも。

ここでもやはり、環境問題だ、持続可能性だと大上段に構えることよりも、よりニュートラルな視点からものごとやそこにある作用を見る目の方が大切な気がするし、その目を持つことでようやく別のイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

先程も書いたように、今はまだ、明確な像を結ぶようなイメージではないけれども、1年前に比べると遥かに視界はクリアになってきているのは確かだ。
ゆっくりでもいいので、もう少し進んでみたい。




可能性の表現 B306『人類堆肥化計画』(東 千茅)

東 千茅 (著)
創元社 (2020/10/27)

別の本で紹介されていて、気になったので読んでみた。

里山における腐敗とその先の堆肥化。

堆肥はもちろん比喩であるが、そうでないとも言える。
嫌われ者の小動物や微生物が、動物や植物の死体を腐敗させ、堆肥化することで新たな生へと繋いでいく。
堆肥とは生と死が入り乱れる場所だ。

著者は山尾三省が、里山の生活を寡欲・清貧な「小さな幸福」と表現することを糾弾する。
(35年ほど前、私の家族が屋久島へ移住した頃、何度も山尾三省の名前を聞いた。父は氏と多少の交流があったようだ)
著者によると里山は寡欲・清貧などではなく、欲と悪徳、生と死にまみれ、それだからこそ大きな悦び・大きな幸福があるという。
それを偽悪的な表現で暴き出す。

以前書いたかもしれないが、数年前、環境について学んでみようと考えたとき、環境を学ぶということは結果的に、それまで建築について考えてきたことに蓋をし、寡欲・清貧な道に切り替える決断を迫られることになるかもしれない、と思っていた。
しかし、実際に学び、多少の実践を交えながら考えていった結果は全く逆で、環境について考えるということは、それまで考えてきたことの延長線上にあることが分かった。それは、それまで考えてもなかなか埋めることの出来なかったパーツであり、建築を大きな悦びにつなげる可能性を持つものだったのだ。

その意味で、著者の欠いていることは細部も含め、おおいに共感し、参考にもなった。
おそらく、表現すべきは悦びの方なのだ。

ここで、この見えている可能性をどう表現するかはとても大きな問題だと思う。
寡欲・清貧な小さな幸せを求める、というのも良い。
しかし、実際にそのような生活をしてきた人たちは、おそらくそんなことは考えずに当たり前に生活しているだけだろう。そこには、豊かで優しいだけでない暴力的な自然もあるし、それらも含めて当たり前である。

ここの表現を誤れば、多くの人との間に壁を立て距離を生むことになるか、現実と乖離した幻想を植え付けることになりかねない。(この辺の違和感については、「いいわねー」に対する違和感として、以前少しだけ書いた。)

著者の偽悪的な表現は魅力的で、感染力がある。どちらかというと、ひねくれた方である自分としても、清貧なものいいは好きになれない。おそらく著者も、悦びを最大限表現するためには、それに応じた悪徳を表現しなければむず痒くてやってられないのだろう。
しかし、自分は著者のような表現を嫌味なくできそうにないし、著者ほど若さや勢いを持ち合わせてはいない。
それに、これまでの経験上、こういった感染力は、瞬発力はあるが、感染した人がすぐに忘れてしまう割合も高いように思う。(それでも、いくばくかの人の実になればそれでいいのだろうけれども。)

個人的には、当たり前のこととして、淡々と、自ら悦びを享受しつつ表現できるようになれればいいな、と思っているし、最終的にはそれを建築で表現することが必要だろう。

とはいえ、当たり前に淡々としていては、伝わるのに時間がかかり誰にも気づかれないまま終わってしまうのでは、という不安や葛藤もある。(当然そうなれば建築を仕事として続けることが困難になる。)

そうならないように、できることを考えやっていかなければ。さてさて。




想像力を再構成する B304『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』(マーリン・シェルドレイク)

マーリン・シェルドレイク (著), 鍛原多惠子 (翻訳)
河出書房新社 (2022/1/22)

前回の『マザーツリー』の関連で菌類の話。

菌類は私達の身近なところにあり、生活に深く関わっていながら多くの人は菌類のことをそれほど深くは知らない。
本書では、その生態や能力、可能性などがさまざまな角度から描かれていて、内容は驚くことばかりだ。

菌類は、私達が持つ生命についてのイメージを書き換えることを迫る。

進化生物学者のリチャード・レウォンティンは、隠喩を使わずに「科学の仕事」をすることは不可能であって、それは「現代科学全体が人間によって直接に経験することはできない減少を探求の対象にしているからだ」と指摘した。その結果、隠喩とアナロジーに人間が語る物語や価値観が織り交ぜられる。科学のアイデア ― このアイデアも含めて ― の議論は文化のバイアスから逃れられないのだ。(p.258)

「植物が隣の植物に反応するのを観察したからと言って」とジョンソンは私に言った。「それが何らかの利他的なネットワークが働いていることの証にはなりません」。樹木が互いに話をしていて、襲撃があると互いに警告し合うというアイデアは擬人化の幻想だ。「つい、そう考えたくなりますが」と彼は認めた。所詮は「無意味なのです」。(p.203)

キアーズが指摘したように、「私たちが語る物語を考え直す必要があるのです。私は言語の枠を超えて現象を理解したいと思います」。もう一度、この行動がそもそもなぜ進化したかを問うのがいいのかもしれない。誰が利益を被るのかが問題なのだ。(中略)またしても、利他主義の問題に突き当たるのだ。やはり、迷路を抜け出すいちばんの手っ取り早い方法は視点を変えることだ。寄生する複数の植物に警告をすることが菌類にとってなぜ有利なのか。(p.203)

つい先日、とある雑談で『マザーツリー』が話題に出て、「マザーツリーの著者は西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」という話があった(ニュアンスは多少違ったかもしれない)。
マザーツリーの著者シマードは、皆伐を主とした短絡的な森林政策を変えたいという強い動機があり、それに対する強い反発もあるため、西欧的なわかりやすいストーリーで伝える必要があっただろうし、シマード自身が西欧的なものの見方に対する違和感を書いており、自身がそこから抜け出すことの困難さを自覚もしている。
しかし、自然を利他的に擬人化して捉える傾向があることは確かだろう。

先程の問いかけ、「西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」は、直感的には自分自身に何か関係がありそうな気がするのだが、まだぼんやりとしていてうまく掴めない。
この直感はどこから来るのだろうか。

本書で取り上げられている地衣類は単独の生命ではなく、菌類と藻類が一体となって共生している不思議な生き物だ。地衣類は岩を土壌へと変え、植物が地上に進出することを可能にし、宇宙の過酷な被爆環境の中で生きられるほぼ唯一の生物だという。その生態は、それまでの生物の常識では捉えられないことばかりである。
地衣類の研究者は、その常識外の生態が投げかけるものを「地衣類の閃き効果」と呼び、地衣類のアイデンティティは、前もって分かっている答えではなく、問いだという。そして、地衣類を他の何物でもない地衣類として見ることを強調する。

また、シマードの論文をきっかけに生まれた「ウッド・ワイド・ウェブ(www)」という言葉は、私たちに馴染みの深い植物をノード、それらをつなぐ菌根菌をハイパーリンクに過ぎないと暗示し、植物中心の捉え方を助長するという。実際には菌根菌は菌根菌としての戦略のもと生きており、水や養分の流通の采配権を握ってさえいる。菌類の視点からみれば、ユクスキュル的な菌類の世界があり、彼らはそこで自らの利益を基準として生きているだけかもしれない。
もちろん、生物が自己の利益を求めて行動し、そのことが生き残る確率を高めるはずだ、というダーウィン的な捉え方も一つの視点にすぎないだろう。ネットワークは、インゴルドが言うように、植物が植物し、菌根菌が菌根菌する、はたらきのラインが複雑に絡まり合ったメッシュワークの一つの現われに過ぎないのかもしれないし、それをありのままに見ようとする姿勢が必要なのだろう。

私たちは、予測や想像のできることしか考えることができないし、隠喩なしには見えないものを想像できない。
設計においても、私自身の想像の範囲や世界観を超えたものが設計されることは、決してない。

私が求めているのは、世界を救う方法ではなく、どちらかというと、世界を確かなものとして捉え生きていくための方法と想像力なのである。

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンの主張を正確に読み取れている自信はないけれども、自然と対峙する際、自然を何かしらの枠に入れ込んで距離を固定してしまう(分かった気になってしまう)のではなく、距離においてとどまりリズムを立ち上げる、ということがおそらくは重要で、それがエコロジカルな態度なのだ。
それでもなお、色鮮やかな想像力を手に入れることは可能なのだろうか?もしくは、むしろ、それによってしか手に入れられないのだろうか?いずれにせよ、想像力を再構成してみる必要はありそうだ。

本書の邦題は『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』である。
またしても、という気がするが、現代は『Entangled Life: How Fungi Make Our Worlds, Change Our Minds & Shape Our Futures』でgoogleで直訳すると『絡み合った生命: 菌類がどのように私たちの世界を作り、私たちの心を変え、私たちの未来を形作るのか』である。
邦題のほうが本が売れるという判断なのだろうが、個人的には原題の方が興味がそそられるし、放題にはハズレ本の匂いを感じさえする。(そして、偶然にも本書と並行してい読んでいる本が『絡まり合う生命 Life entangled』だった!)

本書を読む限り、著者のメッセージは、「菌類はこんなにすごいぜ、世界を救うぜ!」ではなく、「こんなにも知らない世界があり、私たちの世界の捉え方を変えてくれる。そのためにも、あるがままに世界を捉えるにはどうすればいいのだろう?」ということにあるように思う。その点でも原題のほうが魅力的だ。まーよくある話だけれども。

それはともかく、本書を通じて、これまで固まりつつあったイメージに穴があいて少しモヤッとしてしまった。
ある意味後退したとも言えるけれども、新たなイメージが生まれるための余白が生まれたと捉えよう。
菌類に関しても、もう少し学び、少しだけ付き合ってみたいと思っている。




開かれているということ B301『生きていること』(ティム インゴルド)

ティム インゴルド (著), 柳澤 田実 柴田 崇, 野中 哲士, 佐古 仁志, 原島 大輔, 青山 慶 (翻訳)
左右社 (2021/11/5)

コーヒーイノベートでのbooks selvaさんとのコラボ企画にて購入したもの。

インゴルドはこの時はまだ読んだことがなく、ちょうど読みたいと思っていたところだった。
パラパラとめくってみたところ、インゴルドがギブソンの生態学をベースとしているのがすぐに分かった。
この時は、自分がこれまで読んでこなかった分野のものを買おうと思っていたので、少し自分の関心に近すぎるかもしれないと迷いながらの、一種の賭けとしての購入だった。

結果的には、本書はまさにこの時探していたもので、賭けに勝ったと言って良いかもしれない。

この時の関心は、デカルト的二元論に対比する形でのアニミズムを、ぼんやりとしたスピリチュアル的な言葉ではなく、存在論や認識論として説明できるような言葉を探していたのだ。

ここからは、本書を読んで私なりに掴めたであろうことを書いておきたい。(スケッチは本書の押絵を参考に、自分の解釈も交えて書いたもの。)

ネットワークからメッシュワークへ

本書を読んだ印象では、インゴルドは線の思想家である。

この線は本書のタイトルである「生きていること」のメタファーであるが、これまで私が考えてきたことの中では、オートポイエーシス的な”はたらき”、という考え方が近い。

A. 生命はオートポイエーシスな視点から「ぐるぐるとサイクルをまわしながらはたらき続け、そのはたらきによって自分と自分以外の境界を作り出すシステム」と捉えられると思う。左の図では、円環をなすはたらきによって、生物の境界が生まれている。

B. しかし、Aでは境界が明確なため、内と外という構造的な印象が強すぎるかもしれない。それよりは、はたらきの周りに要素が絡み合って、一時的にはたらきがまとまりを生み出しているというイメージの方が適切だろう。オートポイエーシスはシステムであって、構造ではないし、内側を他者が通り抜けながらその時時に構造が生成し続けるイメージはトポロジー的にも良さそうだ。

私は有機体(動物や人間)を、環境に取り囲まれる境界づけられた存在者としてではなく、流動空間における境界のない線の絡み合いであると結論付けたい。(p.163)

C. ここで、線の思想家であるインゴルドは、この円環を”開く”。開かれた線は、オートポイエーシス的なはたらきがより鮮明になり、そこにはもはや、明確な境界はなく、生命は世界の中に泳ぎだしている。しかし、その遊泳は決して孤独な旅ではない。それどころか、他の線と密接に絡み合いながら、躍動感に満ちた世界をなす存在となる

D. このいくつもの線が絡みあった世界がメッシュワークである。ここでは、生命は、境界に囲われた”対象”ではなく、はたらきとしての線そのものである。

E. 一方、メッシュワーク的な世界観と比較されている、ネットワーク的な世界観では、線は点と点を結ぶもの、すなわち関係性・構造を示すものであり、はたらきを示すものではない。ここでは、結ばれる点はそれぞれ独立した”対象”、境界に囲われた存在として描かれる。本書には、アリ(ANT:Actor-Network-Theory を想起させる)とスパイダー(網:インゴルド自身を想起させる)の寓話が載っているけれども、アクターネットワーク理論オブジェクト指向存在論に感じた、静止した印象はアクターやオブジェクトが境界づけられた”対象”として捉えられていることによるものなのかもしれない。(といっても、この印象には誤解が含まれているであろうことも承知している)

メッシュワークとアニミズム

このメッシュワークの世界観においては、”開かれている”ことが決定的に重要である。

先程、円環のイメージが開かれて流れる線になったように、”開かれている”ということは、対象化されていない、すなわち境界によって世界から分離されていない、ということだ。

一般的に、動物は意識を持たず、本能によって生きているとされる。一方、人間はデカルトが身体と精神を分けたように、意識をもち、世界を捉えることができるようになったとされる。
これは、人間が世界および自らを対象化することで世界から分離したといえる。このことによって、人間は世界をはたらきのメッシュワークとしてではなく、構造としてのネットワークとして捉えることになった。
人間は世界を対象化し、眺めることで”開いた”ようにみえて、逆に境界に閉じこもるようになってしまったが、動物は世界から分離されていない、すなわち”開かれた”まま、世界を生きている

ここでなにも、人間が動物に劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、ネットワーク的な世界観(この世界観を持っている期間は、人類の長い歴史の中では一瞬のことである。)では見落としてしまうこと、感じられないことがたくさんあり、そのような静止した世界観に生きるのは単純にもったいないような気がするのだ。

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

ここで、本書を購入する当初の関心であったアニミズムについて考えてみよう。

アニミズム的な世界観では、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物がまるで生きているように語られることがある。私たちは、このことを未開文明の無理解だと切り捨てがちであるし、このイメージが私自身、アニミズムという言葉を使うことをためらわせもする。
しかし、本当にただの無理解だと切り捨てて良いものだろうか。もしくは、私たちには理解できないものなのだろうか。

インゴルドはアニミズムに対する捉え方は二つの誤解を招いているという。

第一に、私たちがアニミズムという考え方で扱っているのは世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件である。(p.168)

つまり、アニミズムとは世界の構造を理解する方法ではなく、世界に生きるための方法である
ここに、根本的な食い違いがある。デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。しかし、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。むしろ、ここには世界の構造について知ることだけに腐心し、世界のなかで生きる方法を置き忘れてしまった私たちにとって大切な何かがある。(と、書くとスピリチュアルな印象を持たれるかもしれないと、ためらってしまうけれども、おそらくこれは、客観的なファクトである。)

第二の要点は、むしろアニマシーとは、人のようなものであれ物のようなものであれ、あらゆる種類の存在が連続的かつ相互的に違いを存在せしめる関係の全体からなる、ダイナミックで変化する力のある潜在性であるというものである。要するに、生活世界のアニマシーは魂をサブスタンスに注入した結果でも、エージェンシーを物質性(materiality)に注入した結果でもなく、むしろ存在論的にそれらの差異化に先立つものである。(p.168)

ここで再び先程の、D.メッシュワークのイメージを見ていただきたい。
この中の1本の線が私が生きているというはたらきである。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中をそれらに応答しながら通り過ぎることである。世界をなすそれらの線は、時には自己という境界の中と思っている領域を影響し合いながら通り抜けさえする。

この時、これらの線は生命であるとは限らないし、その必要もない。むしろ、アニミストがそうするように、すべてを生きているように捉えた方がイメージしやすいかもしれない。

本書では、〇〇している、というような表現が何度も現れる。
風が風している。雷が雷している。石が石している、大地が大地しているなど、その存在そのものとはたらきに注目し、名刺を自動詞のように捉えることで、これまでの存在論的な捉え方を反転させる。(よくよく考えると、これはアニミストのやり方とあまり変わらない。)

このように、生物、無生物を問わず、それらさまざまなはたらきが、線として複雑に絡み合いながら、世界(メッシュ)をなしているのがメッシュワークであり、それらは私の線の流れと不可分な存在として相互浸透している。
(これについては後で少しだけ触れるけれども、さらに、知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる。)

このイメージを頭に描けた時、これまで学んできた生態学やシステム論、その他もろもろと、事務所移転してからここ一年での経験が、一挙に結びついて確信のようなものに変わった気がする。
もはやアニミズムという言葉を使わなくても良さそうだけれど、アニミズムは、現代人にとって、分断の思想をつながりの思想へ、知るための方法を生きるための方法へ、静を動へと反転するヒントなのだ。(もちろん、アニミストの解像度や知恵には遠く及ばないだろうが。)

また、この確信のようなものは、建築のイメージにもを何らかの確信を与えてくれそうな気がしている。

土と風 ~陸を海する

建築そのものが、境界もしくは対象としてではなく、一本の線としてメッシュワークの中を生きる。そんな、生きていることとつながっているような建築のイメージが湧く。
それは、建築を、本書の意味で”開いていく”ことにならないだろか。つまり、建築を世界の中のはたらきに溶け込ませていくのである。

それをうまく実現できるかどうかは置いておいて、そのイメージにはこれまでにはなかったような手応えを感じるけれども、この手応えはおそらく、机上の蓄積からだけでは決して得られなかったように思う。
ここ1年、生活に変化を与えてみた実感として(それこそ、世界のなかで生きる方法として)、直接的に感じたものが支えになっているのは間違いない。

その中でも、最近少しだけ触れることができた、大地の再生のアプローチの影響は大きいかもしれない。

大地の再生や、建築でも最近話題になっている土中環境。どちらも、地上、上空、地下、それらの領域をまたいで、そこに本来備わっていた、水や空気、生物などによる循環を再生しようとする実践である。
この実践に触れて感じられたのは、さまざまなものが相互に影響を与えあいながら生きている(成立している、と言っても良いけれども、ここはアニミズム的な意味で生きている、と言ってみる)という、自然の壮大かつ緻密で不可思議なシステムである。
それは、私がこれまで感じとれていなかったものだけれども、いざ触れてみると、想像を遥かに超えたつながりがあることが少しづつ見えてきた。

ここ最近、単体の生命のイメージは少し掴めてきたところだ。次は、それらの壮大なつながりを大局的なイメージとして手繰り寄せるような概念がないだろうか、と生命科学や物理学などの分野で探していたのだけど、たまたま読んだインゴルドのメッシュワークのイメージは求めていたものにかなり近かった。

といっても、大地の再生や土中環境がみている風と土の関係が、最初からしっくり来ていたわけではない。
そもそも、風にしても土にしても、それを見るための目を持ち合わせていなかったし、風は地上の話で、土は地下の話と切り分けて考えることから抜け出せず、それらの間の関係にはどちらかというと半信半疑だったのだ。

ここで、本書に戻る。

本書では、大地と天空についての考察にかなりのページが割かれている。
それは、私がそうであるように、それらに対する見る目を多くの人が失っているからかもしれない。

F. 多くの人にとって、大地は自分たちを支える、固まった台のようなもの、単なる固形物で、天空は私たちの上部を覆う空虚なもの、というイメージだろう。そこでは、人は大地や天空と切り分けられた存在であり、大地や天空は、その”対象”としての存在を支える背景でしかない。

ここでインゴルドは”陸を海する”ことを提案する。
陸上で生活する私たちは、例えば陸から海を見た時に、陸の視点から海を理解しようとする(海を陸する)。
では、逆に海の視点から陸を理解しようとする(陸を海する)と何が起こるだろうか。

G. この視点によって、大地は単なる個体としての台ではなく、そこにはたくさんの生命があり、水や空気が循環し、不断の運動と変化の中にある、たくさんの線として世界を形づくっていることが見えてくる。同様に、天空は単なる空虚ではなく、風が吹き、鳥が飛び、さまざまな音が満ちている世界の一部であるとともに、大地と天空とはたくさんの線によって結びついている。(ここで空気や水、土などは、メッシュワークの線の流れを保証する、地の部分、メディウムでもある。)

このようなイメージのもとに世界を眺める時、今まで静止していた世界がとたんに動き出すように感じるけれども、大地の再生などで感じるのはまさしくこの感覚なのだ。

これまで、大地の再生や土中環境といった時に、なぜそれをやるのか、ということに明確に答えられる言葉を持っていなかった。
土中環境とかって、流行っているからやっているのだろ、と言われると返答に困っていたかもしれない。

では、今ならなんと答えられるだろうか。
これらの実践は、風が風するため、土が土するためであり、静止していた世界を再び動き出させるために行うのだ
それは、世界(メッシュ)を形づくっているいくつもの線を感じ取れるものに変え、私たちの生を再び動き出させることでもある

建築することが、ささやかであってもそれらの再始動に関わることができたとしたら、そこに住む人の住まうことがより満たされたものになると思うのである。

物語と技術

最後に余談というかメモとして。

先に、「知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる」と書いたけれども、これはどういうことだろうか。

インゴルドは知識や技術、物語といったものは、複製物として人から人に伝達されるようなものではないという。
人は、世界の中に線として編み込まれた知識や技術、物語に出会うことで、それらを実践的なプロセスを通じてその都度、再産出するのである。
(これは、ギブソンの理論を人間を取り巻く社会的な環境へと拡張したリードの理論に近いし、私が以前書いた『出会う建築』の考え方にも近い。)

このことは、技術の伝承の問題や教育の問題とも関わりがありそうだ。

技術が失われることは、複製物としての知識や道具が失われるというよりも、それを獲得するための一回性の形成の機会が失われる、ということだろう。それどころか、形成の体験そのものの機会が失われているともいえる。
『出会う建築』に関連付けて言えば、その出会いと形成そのものに喜びがあり、その機会を生み出すことも一つのテーマとなりうると思うのだ。




探索者であること B300『トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題』(ローズ ジョージ)

ローズ ジョージ (著), 大沢 章子 (翻訳)
NHK出版 (2009/9/26)

環境を意識しだしてから、なかなか読む勇気が持てなかった最後の砦、トイレ問題。
いつかは目を向けなければいけないと、重い腰を上げて読んでみた。

本書は装丁からは想像もしなかったほどのボリュームでヘビーな問題がぎっしりと、そして軽快な文章で詰め込まれている。

世界65億人が抱える大問題

まず、トイレ、つまり排泄物の問題について自分は何も知らなかったことが分かる。

そこから病気にかかる率はおそろしく高い。1グラムの便は、1千万個のウイルス、百万個のバクテリア、千の寄生虫、そして百の寄生虫の卵を含有している。(中略)ある衛星の専門化が試算したところ、不適切な衛生環境に住む人は、毎日10グラムの便を摂取していることになるという。不十分な下水設備、衛生状態の悪さ、そして糞便の粒子が混入した危険な水が、世界の疾病原因の10分の1を占めている。(p.15)

世界の人々の4人に1人はトイレを持たず、野原や道端で排泄し、それが様々な感染症などの原因になっている
途上国では下痢が原因で15秒に一人の子どもが死亡していて、その9割は糞便によって汚染された飲食物によって引き起こされている

また、人間は平均で1年に35kgの便と500Lの尿を排出し、それに水洗トイレの水が加わると総量は1万5140Lにもなると言われているが、都市でひしめき合って住んでいる人たちの排泄物の処理は様々な問題を残したままだ。

トイレがこれほど奥が深いとは思いもしなかった。
「社会が人の排泄物をどう処理するかは、その社会が人をどう扱っているかを示すバロメーター(p.22)」「トイレを見れば、あなたがどんな人間かわかります(p.128)」
トイレは、衛生、経済、人口、政治、文化・慣習、さまざまな問題と根深くつながっているけれども、それらの問題はタブー視されて表に出てくることはほとんどない

下水設備が整った日本において、建築を考える際にトイレについて考えることと言えば、そこでの振る舞いや、音や匂い、設備や快適性など、その閉じられた狭い空間についてがせいぜいで、その先のことは「なかったこと」になっている。下水が最終的にどう処理されているのか、そこではどんな人がどんな仕事をしていて、どれくらいの費用がかかり、果たしてそれが一番の解決策といえるのか、について想像を巡らすことはまずない。

本書でも、さまざまな問題に対するさまざまなアプローチが紹介されているけれども、トイレ問題があまりにさまざまな要因とつながっているため、そのアプローチも多様で、完全な正解というものはなさそうだ。
それぞれの地域、それぞれの環境、それぞれの生活、の中で、あるべきトイレについてまずは目をそらさずに考えてみる。本書はこの最初の第一歩の重要性を鋭く突きつけてくる。

今の日本で、自分が何を考えるべきなのか。それすらもぼんやりとしか見えていないけれども、まずはこれに関わる技術のこと(例えば下水処理や浄化槽、または排泄物の分解や活用に関する科学的な根拠など)をゆっくりとでも学んでみたいと思う。

トイレ問題と闘う人たち

トイレは人間の寿命を伸ばす唯一最大の可能性である(p.16)

本書は、とても重要であるが、人々が目をそらしている(そして、とても刃が立たなさそうな)巨大な問題に立ち向かう人々のドラマでもある。

例えば、インドの人口4000万人を超えるある州では、彫り込み式のトイレを持っているのは4%に過ぎない。
ほとんどの人が屋外のそこら辺で排便し、さまざまな感染症が蔓延し多くの人が死んでいる。
あなたは、そのことに心を痛め、彫り込み式のトイレを普及させることで少しでも改善しようと行動を起こしたとしよう。
しかし、彫り込み式の便所を設置したことろで、適切な維持はされずすぐに廃れ、人々はこれまで通り屋外で排泄したほうがマシだと行動を変えず病気は蔓延したままだ。
たとえうまくいったとしても、ほんの僅かな人数がやっとで、全体が改善される日など想像もできない。

こんな状況で奮闘し続けることはできるだろうか。

そんな中、住民に自ら考える機会を与えることで、外部からの押しつけでない「地域主導型プロジェクト」というものを進めている人たちがいる。

彼らが変わる唯一の道は、彼ら自身が自分を変えることだ、とカーは考えた。とはいえ、とカーはガイドラインに書いている。「開発援助のプロたちの、凝り固まった習慣を打ち破るのは難しく、全知の外部者として村に入り、教えと無料の彫り込み便所を広めたいという思いに打ち勝つのは困難だ。しかしここが重要なのだ。住民たちのどのような気づきも、教えられた結果ではなく、天啓でなくてはならない。内から出たものであるべきで、上から押し付けられたものであってはならない」(p.286)

カーは、このトイレを住民たちが維持し、改善していくことを信じている。なぜなら、自立的な動機づけこそが、なににもまして持続可能性を秘めているからだ。(p.291)

地域主導型プロジェクトは、人の感情を操作することによって成り立っている。まず嫌悪感。つぎに恥の意識と誇りである。(p.293)

最初から答えを与えるのではなく、動機そのものにアプローチする。

本書に挙げられている例は、成功ばかりではなく、どちらかというと困難や挫折に直面しているものが多い。しかし、だからこそ困難に立ち向かおうとする人にとっても有意義な本になっている。

経済学者のウィリアム・イースタリーは、『白人の責任』(邦題『傲慢な援助』)という本の中で、援助の世界を計画者調査者の二つに分けたそうだ。
計画者はトップダウン式にものごとを与えようとする人たちで、調査者は本書で取り上げられている人たちのように、実態に光を当て、人々の声を聞き、需要を探し出して、うまくいくやり方を見つけ出す。そんな人たちのことだ。

計画者と調査者、私なら、計画者探索者と言い換えるが、現代においてこの二つの姿勢の違いは決定的に重要だと思われる。

これまでたくさん書いてきたので深くは立ち入らないけれども、計画という姿勢、つまり、ある前提条件及びそれに付随する答えをあらかじめ持った上での判断、だけでは見落としてしまうことがある。この見落としによるマイナス面があまりに大きくなっていないだろうか。

事務所を移転し生活を営む中で、探索者であること、もしくは遊ぶ人であることの重要性は日に日に大きくなっているように感じる。




流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一)

福岡 伸一 (著)
講談社 (2007/5/18)

てっきり読んだものと思い込んでいたけれども、未読だった。(読んだ内容を忘れてるのかとも考えたけれど、前回のシュレーディンガーについても本書に詳しく書かれていたのでやはり読んでいなかったようだ。)

そして、さすがに面白かった。

生命とは何か?

本書は、著者が大学の時に出会った問いに対する著者なりの返答なのだろう。

そんなとき、私はふと大学に入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?(p.3)

著者は、いくつもエピソードを交えながら、生命とは何かを描いていく。

生命とは自己複製するもの」とよく言われる。
遺伝子の複製によって、ミクロにもマクロにも、生物は自己複製を繰り返していく。そのことが生命を生命たらしめている。

それはそうに違いない。しかし、例えばウイルスは細胞に寄生することで自己複製を繰り返すが、その形態は無機質で、栄養を摂取することもなければ呼吸をすることもない。生命と呼ぶには何かが足りていない。

自己複製が生命を定義づける鍵概念であることは確かであるが、私たちの生命感には別の支えがある。鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである。(p.165)

シェーンハイマーは私たちの身体の構成要素が絶えず入れ替わっていることを見つけ出した。
それぞれの構成要素がエントロピー増大の法則によって特質の維持が困難になる前に、先回りして分解し再構築を行う。
さらに、身体要素は「柔らかな相補性」と呼ぶような動きを伴った柔軟な結合によって構成されている。
この耐えざる分解と再構築という流れを伴いながら生命を維持している柔らかな状態を著者は動的平衡と呼ぶ

エントロピー増大の法則に抗う方法には、システムの耐久性と強度を強化する方法と、システムそのものを流れの中に置き絶えず更新し続けることの2つがある。

私たちの感覚で工学的に考えた場合、前者の方が耐久性が高く、維持コストも低いように思われる。
だが、生命は後者の道をえらんだ。
つまり、生命は流れとして動き続けなければならないという宿命を引き受けたのだ。しかし、それと引き換えに、生命は環境に適応する柔軟性と、結果的により高い持続可能性を獲得することに成功する

この宿命を引き受けた、という事実こそが、私たちの生命感を支えているのかもしれない。

建築について

しつこいようだが、ここで建築についてである。

設計の場面ではよく、メンテナンスフリーが求められる。
しかし、エントロピー増大の法則に反して、真にメンテナンスフリーなどというものがあるはずもない。
一定の耐久性を期待して選択したピカピカの材料が、時を減るに連れてこの法則に破れていく様を顕にする。それが関の山だ。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
それはそれで仕方のないことなのだろう。エントロピーの法則に破れていく様も見方によっては、時間の流れを感じさせる味である。

ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。

エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない
(このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)

しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる
それが可能な条件が出揃えば、「建築に生命の躍動感を与える」ことはうまくいくだろうし、願ったり叶ったりである。

そうでなければ、それぞれの条件で可能な範囲、かつ楽しめる範囲で引き受けることができるのはどこまでか、その効果を高めるにはどのような方法があるか、を見極める必要があるのだろう。

希望があるとすれば、そのような宿命を楽しめる人、というよりむしろ餓えている人が増えているように思えることかもしれない。




建築において遺伝子に相当するものは何か B298『生命とは何か: 物理的にみた生細胞』(シュレーディンガー)

シュレーディンガー (著), 岡 小天 (翻訳), 鎮目 恭夫 (翻訳)
岩波書店 (2008/5/16)

本書は1943年にダブリンの高級学術研究で行われた講演をもとに出版されたもの。日本語の翻訳版は1951年、1975年、2008年と三度出版されている。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

上記の本で、エントロピーと生命の関係を知れたことは大きな前進だったのだが、本書を読んだのは、その発端となったシュレーディンガーの「生物体は「負エントロピー」を食べて生きている」という記述を追っておきたい、という軽い気持ちからであった。しかし、本書はそれにとどまらない。

他領域をまたぐ入門書的名著

物理学者であるシュレーディンガーが、専門外である生物学の分野をまたぎながら「生命とは何か」を丁寧に説明する本書は、熱力学、量子力学、遺伝学などを理解する上でもとても良い本だった。

といっても、80年前の話なので、その後の学問的な進展は当然反映されていない。
ワトソンとクリックにより遺伝子の二重螺旋モデルが提出されたのは1953年、講演から10年後である。シュレーディンガーのこの講演が分子生物学の扉を開いたわけだが、本書にはこれこそ学問的想像力だ、と感じさせる面白さがあった。

また、この講演と現在の最新の知見との間のギャップを私は理解していない。(これから、少し学んでみるつもり)
しかし、それでも、というかだからこそ、本書の丁寧な説明はとても今の自分には有益だったように思う。

生命の秩序と物理法則、エントロピー

私の誤解や、現代の知見との相違があるかもしれないけれども、備忘録として大まかな内容をまとめておきたい。
(断定的に書くけれども理解のおかしいところがあるかもしれないので、そのつもりで読んでいただければ)

本書における議論は「生きている生物体の空間的境界の内部でおこる時間空間的な現象は、物理学と化学によってどのように説明されるか?(p.12)」という疑問から始まる。

・なぜ生物は原子に比べてそれほど大きいか

次に投げかけられる疑問は「われわれの身体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないか(p.21)」である。
これには「統計物理学」の考えが関連する。

私たちは、さまざまな物理的・科学的現象を古典的な物理学で理解することができるわけだが、それは、対象としている物質が十分に大きいからである。
ミクロで見たそれぞれの分子は、ブラウン運動のように、全くランダムな動きをしており、それらの性質を一意的に捉えることはできない。
(この、ミクロなランダム性がエントロピー増大の法則のもとになるように思われるが、それは一旦置いておく)

それらの運動をマクロに見て統計的に平均したものが物質の性質として現れ、物理学や化学の法則として扱うことを可能にするが、そこでは対象となる分子の数nに対し√nの確率誤差が生まれるという(√n法則。率として√n/n=1/√nの誤差がある)。
つまり、分子数nが小さい場合は、分子のランダム性の影響が大きすぎてはなはだ不安定なものとなり、ごく僅かな分子の揺らぎから多大な影響を受けることになる。これが「われわれの身体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないか」という疑問に対する答えを導く。生物が安定的な存在であるには大きくなければならないのだ。

・なぜ遺伝子は極めて規則的な法則性と奇跡的な耐久性を持てるのか

しかし、遺伝における突然変異をX線の照射によって調べると、それが起こるのは原子間距離の約10倍の立方体の範囲において、つまり原子数が多くても10の3乗=1000個程度の範囲であるという。
ここから、遺伝子の構造はかなり少数の原子からなることが分かるわけだが、先程の√n法則を考えた時に3%以上の誤差があることになってしまう。これでは遺伝子の法則性と、生命の歴史をこえるような耐久性を古典物理学では説明できなくなる
なぜ、遺伝子はこれほどまで小さくあれるのか。

この疑問に突破口を与えたのが量子力学のうち1920年代にハイトラーとロンドンによって明らかにした化学結合の量子理論である。
かなり小さい体系、マクロな領域では、エネルギーや運動特性は連続的に変化するのではなく、不連続な飛び飛びの値を取るという。さらに、ある粒子の配列状態は、より大きなエネルギーを持つ別の配列状態に遷移する(量子飛躍)にはそのエネルギー差に応ずるエネルギーが加える必要がある。
この遷移が起こる期待時間はt=τe^(W/kT) [τ,k:定数 W:必要なエネルギー差 T:絶対温度]で表せるが、遺伝子を分子構造と仮定すると、かなり長い期待時間と、極稀に起こる突然変異が説明できる。
つまり、生物の遺伝情報といった複雑な暗号のようなものが一つの分子として成立していると考えられる。そう考えると、量子力学によってミクロな遺伝子が耐久性を持つことを説明できるのである。

・生物体は「負エントロピー」を食べて生きている

生物体は「負エントロピー」を食べて生きている、といった時、生命が光合成や糖によりエクセルギーを取得し、増大したエントロピーを廃棄しながら動き続けている、ということを指すのだろうと思っていた。
実際、そのことが書かれているのだが、本書の主題として多くのページが割かれているのは、遺伝情報の保持の仕方であった。

ものごとは、物理学の統計的なふるまいにより放っておけば無秩序な状態へと変わっていく、という傾向(エントロピー増大の法則)に対し、「量子論の魔法の杖」によって持久性と小ささ、複雑さを合わせ持つことを可能とした遺伝子。ここにもエントロピー増大の法則に抗う生命の謎があったのだ。

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

後者については、この時あまりピンときていなかったのだけれども、少しイメージがクリアになったかもしれない。

建築において遺伝子に相当するものは何か、に関する仮説

見方によっては、建築は「常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする生命のようなもの」と言えるかもしれない。
また、建築に生命のような躍動感を与えるにはただ不均一な状態を生み出すだけでなく、「太陽を発端とする循環の中で奇跡的に成立している」生物のあり方を手本にする必要があるのではないか。

最近、そんな風なことを考えているのだが、では、本書で得た知見は建築においてどのようなイメージにつながるだろうか。
言い換えると、建築において遺伝子に相当するものは何と考えるとイメージを広げられるだろうか

これに対する答えはまだ持てていないし、じっくり考えてみても良いと思うのだが、例えば、それを人間のふるまい、もしくはそれを成立させている生活文化としてみてはどうだろうか。

建築はつくって終わりではないし、ただエネルギーを投入し続けて維持すれば良いというものでもないだろう。
そこに、生活文化(例えば循環の中で住み続けるための技術)を持った人間が関わり続けることで、建築のはたらきが続いていく。
そして、その文化は世代を超えて変化しつつも遺伝子のように引き継がれていく。
そして、これによってはじめて建築に生命の躍動感を与えることが可能になりはしないだろうか。

このイメージ、なかなか良いきがするけどどうだろうか。




農的暮らしという未来 B296『地球再生型生活記 ー土を作り、いのちを巡らす、パーマカルチャーライフデザイン』(四井真治)

四井真治 (著)
アノニマ・スタジオ (2023/10/6)

前回の本で著者のことが紹介されていて、以前から興味もあったので購入してみた。

気持ちとしては技術書のようなものを期待していたけれども、どちらかというと思想に関わるものだった。しかし、いろいろと得るものがあったように思う。

エコロジーの原理

著者はパーマカルチャーに触れつつも、その原理が何か分からず長い期間をかけて考えたようだ。
実践の期間は比べ物にならないけれども、原理的なことを理解したいという意識には共感する。

私は幼い子どもたちに、エコロジーという言葉の意味を「地球に優しく暮らすこと」と教えたくはありませんでした。(中略)人の暮らしが環境を壊すのではなく、生物多様性を増やしより豊かにできることに気付き、子どもたちと一緒に実現することができました。その気付き以来、「エコロジーやパーマカルチャーとは、地球における人間の存在意義を生むための学問や方法論である」と考えるようになったのです。(p.26)

これは、言葉は違えど、ここ数年で私が辿り着いた感覚に近い。
いや、私が、その存在意義をマイナスからせめてゼロに向けて変えるべきでは、と考えていたのに対し、著者の考えはより前向きかもしれない。

エコロジーやパーマカルチャーと聞くと何か特別なものと感じて身構えてしまう人もいるかもしれないし、私がそうであるように、ハウツーだけではその特別感はなかなか払拭できないこともあるだろう。

しかし、自分の中でそこに含まれている原理を一度掴みさえすれば、それは特別なものではなくなるし、信頼とともに共感も得やすくなるように思う。(ただ、見え方に注意を払わなければ、それは他の人にとっては特別な身構える対象のままになってしまうだろう。これは自分にとっても課題である。)

いのちは集め、蓄えるもの

「いのちとは何か?」
この問いに対しても、私が辿り着いたものに近かった。

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

この、「常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営み」を著者は「いのちは集め、蓄えるもの」と表現する。

著者はその表現へと至る過程で、エントロピーやプリゴジンの散逸構造、福岡伸一の動的平衡などを経るわけだが、その結果、「生物多様性は単位空間あたりの生物量を最大にし、それにより集め蓄えられる物質やエネルギーなどの資源は最大となり、持続可能性がより安定する」という理論に至る。

生命の「集め蓄える」はたらきを集合的に捉えることで、そこで生まれるダイナミックな関係性が、生命のつながりと持続性とをより高めることが見えてくる。そして、著者はさらに、人間をその集合的なはたらきを高められる存在だと捉えようとする。

この前向きな姿勢は、私にはなかったものなのだが、今は、なるほどと理解できる気がする。
(この生命のはたらきをより大きな視点でみることは、少し突っ込んで勉強してみたい)

地球再生型のくらし

ここから、タイトルの「地球再生型生活記」へとつながっていくわけだが、地球再生と聞くと少し大げさな物言いのように感じるかもしれない。

しかし、著者の提唱するものは、そんなに大げさなものではなさそうだ。

環境問題、もしくは、私たちの暮らしが生命の連鎖から外れ持続可能性を失いつつあることに対し、著者は農業人口の増加ではなく「農的暮らし」を営む人の数を増やすことを提唱する。

軸となる仕事を持ちつつ、生活の中に食糧生産を組み込むことで、身の回りの小さな範囲の「生命の集め蓄えるはたらき」を高めること。
これによって、耕作放棄地が活用され、生きるための技術が習得でき、人間の営みを環境から奪うことから、環境をより豊かにするものへと変えることができる。

数年前なら、イメージは湧くけれども実践はそれほど簡単ではないと感じたかもしれない。
しかし、実践へと片足を突っ込んでみた今なら、やってみれば別に難しいことではない、と言える。

鹿児島であれば、農的暮らしの可能な土地は都市部からそれほど離れていないところにいくらでも見つかるし、農的暮らしと言っても、簡単な自給であれば、隙間時間で十分に事足りる。

少しの意識と、時間さえ確保できれば、あとはえいやとやってみれば誰でもできることだし、それで得られることは驚くほど多いのだ。
興味があればやってみればいいのに、と思う。

吹上で小さな畑をやっていて、今年からは田んぼもする予定だ。
だけど、その意味は「やってみなければ分からない」と未だによく掴めていなかった。

それが、最近の生命とエントロピーの話、そして、今回の著者の話でかなり明確にイメージできるようになってきた。
そして、それと建築との関係も分かり始めてきた気がするし、田舎に限らず都市部でできることもあるのでは、と思えてきた。

それを、どう建築のイメージへと高めていけるか。

面白くなってきたかもしれない。




遠回りも無駄ではなかった B295『線(せん)と管(かん)をつながない 好文×全作の小屋づくり』(中村 好文,吉田 全作)

中村 好文 (著), 吉田 全作 (著)
PHP研究所 (2022/6/20)

この本は発売してすぐに購入していたけれども、まだ読むタイミングではない気がして、ずっとそのままにしていたもの。

そろそろ、読んでも良いタイミングかと思い手に取ってみた。

タイトル通り、線つまり電気と、管つまり公共的な給水管と排水管とをつながない、いわゆるオフグリッドな小屋についてお二方が交互に語るような内容。
線と管をつながないとは、すなわちエネルギーや水、栄養素などの循環について自ら考えるということである。

この中で、パーマカルチャーデザイナーの四井真司氏の言葉を引いた部分がある。

四井さんは、「多くの人は環境問題と言えば≪省エネルギー≫≪省資源≫という言葉をお題目のように言うけれども、本当に大切なことはそれだけではなく、資源を得る仕組みについて考え、それを生み出すことに知恵を絞り工夫を凝らすことだ」と言います。「一般的には、人が暮らすことによって自然環境は悪化し、資源は消費されて目減りし、地球環境に負荷を与えることになると考えられているけれど、そうしたマイナス面ばかりではなく、人が暮らすことで、資源を生み出し、その場所の自然環境を豊かにすることだってできる・・・」というのが四井さんが実践を通じて会得したことです。(p.82)

これは、これまで私が環境について考えてきた中で辿り着いた考えとかなり近いけれども、おそらくここに辿り着く前に本書を読んでいたら、何となくわかった気になって終わっていたかもしれない。
そういう意味でも、遠回りしたことに意味があったし、本書を読むタイミングもやはり今だったのだろう。

本書では、どのような工夫をしているか、どのような技術や製品を使っているか、コストも含めて具体的に挙げられていてとても参考になった。
とはいえ、これらがすべてではなく、状況に応じたさまざまな選択肢があるはずだし、それに対する自分なりの指針も必要だろう。

環境に対する思想という点ではだいぶ自分の言葉を持てるようになってきたように思う。
これからは、より具体的な手法や技術について実践も含めて学んでいきたい。

また、環境という言葉に対する価値観や距離感は人それぞれでかなりの幅がある。
これに対して、オノケンとは別にアプローチするための枠組みを今準備しているところなので、準備が整い次第公開したい。




生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹)

佐藤 直樹 (著)
裳華房 (2012/5/20)

循環をエントロピーの視点から捉えたかったのと、生物の循環に対するシステムに大きなヒントがあるはずと考えていたため、本屋で関連がありそうな本を探して見つけたもの。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。 しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう) この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳))

循環のイメージをよりクリアにしたい、とのことで本書を読み始めたけれども、前半はエントロピーという言葉はほとんど出てこず、生物学的な基本的な構造の説明が主だったため、門外漢の私にはなかなか入り込めなかった。
これは買う本を間違えたかな、と少し思いつつも読み進めると、後半、前半で読んだことが一気につながって、最後には大きなヒントが得られたように思う。もしかしたら、これまで生命をオートポイエーシスシステムとして捉えていた中で、足りていなかったもう一つの重要なパーツを埋めることができたかもしれない。

めぐり、めぐむ わきあがる生命とオートポイエーシス

本書のサブタイトルは「めぐり、めぐむ わきあがる生命」である。
「めぐる」とは、さまざまなものが循環するサイクルを、「めぐむ」とはそれらの多様なサイクルが互いに関係しあい、何かを渡しあっていること(共役)を、そして「わきあがる」とはそれらのめぐりめぐむ多数のサイクルが、全体としてもう一つ上の階層のサイクルとしてめぐりはじめることを示している。

本書では、分子レベルから、細胞や生物個体、生態系や地球環境など、さまざまなスケールのサイクルを示す図が多数取り上げられている。

例えば

▲光合成を行う植物と、呼吸を行う動物の間の循環がイメージできる図。
植物の光合成では、太陽からエネルギーを得ることで二酸化炭素を糖(炭水化物)に変える。そのための還元剤は水が酸化し酸素を生じさせるもう一つのサイクルによって機能する。
一方、動物の呼吸では、糖が酸化し、二酸化炭素へと変わる。そのための還元剤は酸素が水へと還元されるもう一つのサイクルによって機能し、その際にATPにエネルギーが蓄えられ、動物の様々な活動に使われる。
二酸化炭素と糖、水と酸素の2つの循環が、太陽からのエネルギーを形を変えて受け渡す。



▲炭素と窒素なども循環している。窒素固定を行える生物は根粒菌やシアノバクテリアなどに限られ、窒素固定のシステムは地球の生命の歴史の中でただ一度しか発生しなかったのではと言われているそう。


▲太陽から始まる地球のエネルギー収支はおなじみ。

本書はこれらの、めぐり、めぐむ、わきあがるサイクルから生命とは何かに迫ろうとするのだが、これらは、はたらきが駆動しつづけることで境界をつくりだすオートポイエーシス・システムと、それらのカップリングにより、より上の階層のオートポイエーシス・システムが駆動すること、と考えられるな、と思いながら読んでいた。(本書ではオートポイエーシスについては触れられていない)

しかし、本題はここからで、そのイメージに足りていなかったパーツが埋められることになる。

不均一性と生命

生命をオートポイエーシス・システム、もしくははたらきと捉えることで、生命の独自性をイメージすることができるようになる。
自走するはたらきを内にもつことそのものが生命を生命たらしめているのである。

しかし、それがなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということは、欠けたパーツとしてイメージを持てておらず、そういうものだと思うしかなかった。

そこで不均一性、エントロピーが登場する。

不均一性とは、エントロピー差のことで、秩序だっていることである。
秩序は一見、均一性を持ちそうなイメージがあるけれどもそうではない。世界は必ず、不均一な状態から均一な状態へと移行しようとするが、それに抗って、不均一な状態を維持すること、いわば不自然な状態を維持することが秩序である。
そして、秩序は不均一な状態から均一な状態へと移行する能力を持っている。エントロピーが小さく、エクセルギーを持つ、とも言い換えることができる。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。
(本書では、情報そのものが不均一性である、と書いているが、そこは明確には理解できなかった。おそらくここが重要なポイントだと思うので今後の課題にしたい)

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)

さらに、生命の進化もこの不均一性を生み出す営みの中で説明される
秩序を持った遺伝情報は、秩序を失い、多数の変異多様性へと向かう。その大量の多様性の中から選択されたものが新たな種へと固定する際に、情報のエントロピーは減少する(秩序が生まれる・不均一性が増す)。
進化とは、一見多様性が増し、エントロピーが拡大するように思えるが、全体を見ると、生命が不均一な状態を生み出そうとする営みの一つとすることができる

また、著者が、エントロピー差もしくはエクセルギーのことを「不均一性」と呼ぶことには意図があるように思われる。
エントロピーもしくはエクセルギーと言った場合、何かしら機械論的・直線的に全てが決まる印象があるけれども、(これも物理的には説明ができると思うが)世界には確率論的な揺らぎがあり、階層的なシステムは複雑系としての単純化できない何かがある。その何か不思議さのようなものに対するニュアンスを、生命に対する敬意も含めて「不均一性」という言葉に込めているのではないだろうか。

いずれにせよ、生命がなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということに新たなイメージを得られたことは大きな収穫だった。結局のところ、地球というシステムはすべて太陽からの恵みを循環させることによって成り立っていて、それに対する敬意はやはり失くしてはならないのだろう。そして、そのイメージをクリアにするためにエントロピーという概念は有効に違いない。

余談 資本主義について

本書では、生命の原理に迫ることにとどまらず、最後は、そこから「不均一性の哲学」と呼べるものを描き出そうとしている。(それはまだ体系的なところまでは行っていないが、それを素描することが本書の本当の目的だろう)

その中で、一部、経済格差についても触れられている。

本来、放っておけば、お金はみんなに均等に分配されそうなものだが、こうしたエントロピー的な均一化する力に対して、経済を活性化しようとする力は富を不均一化し、大きな富をもつ者を少数生み出す。これは「温度」が高いことに相当する。これでわかるのは、経済が活発で好景気のときには、全員が豊かになるのではなく、貧富の格差が拡大するのである。(p.194)

こうしてみると、格差を拡大しようとする資本主義は、エントロピー増大の法則に抗い不均一性を維持しようとする生命の本性に従うものなのかもしれない。

資本主義が、どこかで循環を可能とする持続可能性を獲得するものなのか、それともがん細胞のように循環の原理を無視した一種のバグだったとなるのかは分からないが、生命とエントロピーの視点の中に位置づけられたことは一つ視点を上げられたかも知れない。自分がどう向き合うかは別にして、繁栄も破滅もおそらく地球の営みの中の一つに過ぎないのだろう。

著者の言う「不均一性の哲学」とも呼べる視点を獲得することには大きな可能性を感じるので、引き続き関心を持っていたいと思う。(エントロピー経済学に関するものも一度は読んでみよう)


一生のうちに一度は、こういうものを結晶化させたものをつくりたいけれども、そればかりは機会を待つしかないな・・・




あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人)

藤田 祐幸 (著), 槌田 敦 (著), 村上 寛人 (イラスト)
現代書館 (1985/2/1)

こちらも少し前にテンダーさんにお借りしたもの。

若い頃に読んだ同シリーズの本がうまく読めなかったことと、なんとなくエントロピーという概念の射程距離を掴みそこねていたこと(エクセルギーの本を読んで分かっていたはずなのに!)もあって、しばらく手をつけていなかったのだけど、読んでみたらまぎれもない名著だった。

昨日、大きめの本屋に行って、エントロピー関連の本を一通り開いてみたけれども、これを超える本は見当たらなかった(それでも2冊ほど購入)。
ある部分において理解の深まる本だったり、全体を俯瞰できるものはそこら中に溢れているけれども、それらの多くはボンヤリした印象を受けるにとどまり、何かしらの像を結んで心に響くところまではなかなかいかない。
これほど、思想とユーモア、過去と未来が高密度でバランスよく構成されている本には稀にしかお目にかかれないように思う。
前回まとめたようなここ数年かけてようやく見えてきた景色のほとんどが、この一冊の中に凝縮されていること、それもこの本が40年ほど前に書かれたことに驚くが、もしこの本に5年前に出会っていたとしても、ボンヤリした印象で終わっていた可能性が高いので、これも今、出会うべくして出会う本だったのかもしれない。(テンダーさんありがとうございます!)

デカルトからの卒業する時

本書の第3章で、科学の歴史的背景に少し触れられるが、これは人類のターニングポイントであり重要な部分だろう。

あまり詳しくは書けないが、デカルトは、世界を機械として捉え、物事を要素に分解して考えることでそこにある法則を見出し、還元的に世界を捉えようとしたが、この還元主義が近代科学と現代へと続く人類の発展の礎となった。

また、デカルトの二元論は資本主義の発展の基盤でもある。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。 デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

デカルトの還元主義と二元論、これが、近代科学と資本主義の発展を支え、今の私たちが豊かさと自由を享受することを可能とした、ということは間違いない。
しかし、そのことが人類を盲目的にし、現代の様々な問題を引き起こしていることもまた、事実である。

科学をある種盲目的なものに押し込めたことは、デカルトの真意ではなかったかもしれない(そうしなければ宗教的弾圧によって処刑されていたかもしれない)し、私がその恩恵に預かってきたことには違いないので、デカルトを悪者扱いしても仕方がない。
しかし、さまざまな問題が明らかになった今、人類はデカルトを卒業する時に来ている。
それは、機械論と生気論、還元論と全体論といった二項対立的な思考を統合するような視線であり、一度切り捨てた生命とその循環へと敬意を払うことであろう。

これは、怪しげな神秘主義に立ち返り、現代とは異なる盲目性に退避せよ、ということではない。そうではなく、神秘主義的あるいはアニミズム的な、理解できないもの、分解できないものにも敬意を払いつつ、全体をみつめる大きな視線を獲得し、それを人類の叡智をもって乗り越えるという明るい態度が必要だということであって、おそらくそれなくしては、地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界という今の難局を人類は乗り越えられない。

エントロピー あらゆる循環を司るもの

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。 例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。 これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

エクセルギーとエントロピーはいわば表裏一体の概念であるが、エクセルギーはどの程度拡散できるか、という資源性のことで、エントロピーはその資源性を利用した際に出されるゴミである。

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。

先程の地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界といった限界性の問題はエントロピーと循環の問題であり、この全体・循環への視線を欠いているところがデカルト的近代社会の限界なのである。

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

以前、テンダーさんがエントロピー学会の会員だということを聞いたときには正直ピンと来なかったのだけど、本書を読んでエクセルギーとエントロピーはアフォーダンスとオートポイエーシスに続く、個人的重要概念になると思えた。
(アフォーダンスとオートポイエーシスも生命と循環に深く関わる概念であり、エクセルギー・エントロピーは同じ系譜として自分の中でリンクする確信がある。)

まだぜんぜん到達できてはいないけれども、これらの概念が建築に明るさをもたせるはずだという確信は少しづつ深まりつつある。




2023年まとめと2024年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくるを実践する


少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

昨年に引き続き、昨年1年間で考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
昨年の2022年振り返り記事
2023matome,pdf

2023年振り返り

昨年の行動指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」でした。
また、考えることとして
・環境という言葉に対し、足場となるような自分の言葉を見つけ、思想、理論、技術、直感のサイクルをまわすこと。
・これまで考えてきたことと、環境に対する考え方の接点を見出し、統合すること。
の2つをテーマとしていました。

行動指針に関しては、「遊ぶように生きる」という点ではテンダーさんがご近所だったという幸運も重なって思ってもいなかったことができたように思いますが、「遊ぶようにつくる」という点では実践する機会が少なかったため、今年は力を蓄える1年になったと思います。
具体的には、
・日置のオフィスを改装し、畑や環境に関する実験を始めた。
・別のCADにしか対応していなかったオープンソースの環境シミュレーションのプラグインを、いつも使っているVectorworksで動くように改造・移植した。(プログラミングのスキルも上がった)
・arduinoというマイコンボードを使って、センサリングによるデータ収集や、リアルタイムデータを反映した機器の制御ができるようになった。
・頂いたカッティングプロッタを使っていろいろなものが切り出せるようになった。
などで、これまで机上で考えていただけのことがリアルな世界と接続できるようになってきましたし、どんな変化があるか分からなかった事務所移転にどんな意味が生まれるかも少しづつ見えてきました。

また、考えることのテーマに関しては、昨年は28冊の読書記録を書いて、何とか、これまでと最近考えたことの接点を見つけることができたかと思います。

▲昨年の読書記録
これらを1枚にまとめたのが冒頭の画像・PDFになります。

2024年の指針

昨年まとめたもののキーワードは、遊び、想像力、はたらき・運動性などですが、これらはこれまで建築について考えてきた際のキーワードと重なります。(重なるものを探してきた、ということでもあると思いますが)

その上で、来年の指針を考えようと思ったのですが、来年も引き続き「エコロジカルな言葉と思想をもとに、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」を指針としつつ、その実践に重心を置いて具体的に動いていこうかと考えています。

本年もどうぞよろしくお願いします。




資本主義を使いこなすことは可能か B290『資本主義の中心で、資本主義を変える』(清水 大吾)

清水 大吾 (著)
NewsPicksパブリッシング (2023/9/6)

資本主義を知るためには、資本主義の中心にいる人の考えも知る必要があると思い、本屋でタイトル買いしたもの。

著者は外資系証券会社であるゴールドマン・サックスで16年間勤め、その内部で資本主義を変えることに奔走した方で、資本主義の現在地を知るためにはうってつけの著書かもしれない。

結論を先に書くと、ある部分での解像度は上がったと思うが、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」「資本主義を使いこなすことは可能か」という問いに関してはもやもやとしたものが残ってしまった。

私個人としては「資本主義を使いこなすことは可能か」という可能性の問題の前に、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」という原理の方にまず関心がある。というのも、まず前提の根拠が分からないことには成長ありきの前提のもとで考えるか、現実に目を塞いたまま前提を否定するかの選択になり、どちらにしても霧がかかった視界不良の中を進むことになる気がするからだ。

資本主義と投資家

まず、著者は資本主義の根本原理を
資本主義=所有の自由×自由経済(競争の増幅装置)
として定義し、「成長の目的化」「会社の神聖化」「時間軸の短期化」といった問題はラーメンのトッピングのように副次的に発生したものにすぎないとする。

この中で、特に根本的な問題であると思われるのは、「時間軸の短期化」のように思われる。
企業の活動にはそれにふさわしい「固有の時間軸」があるが、1年または4半期の情報開示や短期目線の投機家の活動により、その固有の時間軸よりも短期の成長のみが優先化される傾向がある。

これがひいては「成長の目的化」「(バーター取引を含む)会社の神聖化」につながるため、企業はその企業文化と企業の固有の時間軸を理解した、長期目線の有能な投資家とつながることが重要である。

その上でESG(Environment:環境 Society:社会 Governance:企業統治)またはROE(Return on Equity:資本利益率)に加えて、著者の提案するROE(Return on Earth:地球資源利益率)などを投資の基準・価値観として浸透させていくことで、資本主義を使いこなし「資本主義を世界の持続可能性に貢献するものに変える」。これが、本書の主旨、著者の願いであろう。

資本主義を使いこなすことは可能か

著者の活動は資本主義を改善していくための尊い活動であることに異論はない。

その上で、私個人としてはまだモヤモヤとしたものが残っている。
これは私の勉強不足もあって幼稚なものかもしれないとも思うが、今後の課題としてそのモヤモヤを書いておきたい。

・「成長至上主義」的な手段の目的化は免れたとしても、資本主義の原理は依然、競争と成長にあるのではないか。本書の中でもその前提は確たるものとして存在しているように思う。仮に、地球資源の使用の絶対量を増加させない、もしくは減少させるような成長が可能だったとしても、指数関数的に必要となる成長に反比例して資源利用の絶対量を抑えるような技術革新を続けることは不可能ではないのか。
・投資が慈善事業ではないとすれば、成長を強要するプレッシャーは避けられないのではないか。それとも、成長を抑えた上での共存の可能性があるのか。
・投資家が、資本主義において企業にガソリンを提供するような重要な役割を担うことは分かったが、地球上の大部分の富を専有する数%の投資家が地球の将来を決定するような構造に無理はないのか。彼らの選択が最善を目指すということを担保するようなものは何か存在しているのか(そうであるなら南北格差はとうに是正されていてもおかしくないと思うが・・・)。対抗する現実的手段はあるのか。(投資家とは誰か、ということの解像度も高めたい)
・企業活動による利益は基本的に投資家(株主)のものである、という原理は分かるが、そこにゲームとしての不平等はないのか。多くの人ががそれに納得して前提として疑っていないようにみえるが、なぜなのか。その前提の絶対性はどこからきているのか。
・投資家と比べて投機家と呼ばれる人たちの社会的役割は何か。メリットとデメリット、それらの重みはどの程度か。
・本書内で環境原理主義と斬り捨てるように”見える”場面があったが、それは著者の目指す世界に向けてのプロセスとして正しかったのか。その後の「絶対的な正義はない」という話や独自のストーリーの話は共感できたが、声に出すことそのものを当たり前にすることの重要性を考えるならば少し違った書き方があったのではないか。(ここは難しいところで自分の課題でもある)

要するに、
・資本主義の原理と基本的なルールを変更せずとも持続可能な社会とすることは可能か。変更が必要であるとするならばどのような可能性があるか。また、その上で著者の活動はどのように位置づけられるか。
ということはまだ良く分からなかった。

繰り返すが、著者の思いや活動は尊いものだと思うし異論はない。
しかし、だからこそその意味をもう少し理解できるようになりたいし、もし続編が出たら読んでみたい。




システムから選択肢を考える B289『地球のなおし方』(デニス・メドウズ ,ドネラ・H.メドウズ ,枝廣 淳子)

デニス・メドウズ (著), ドネラ・H.メドウズ (著), 枝廣 淳子 (著)
ダイヤモンド社 (2005/7/15)

少し前にテンダーさんにお借りした本です。

地球環境に対してどのような選択をするべきか、システム思考をベースに易しく語りかけてくるような本。

システム思考

システム思考とは何か。
それをこの本を読んだだけで理解できたと言えないけれども、目の前の認識可能な事象だけではなく、全体をシステムと捉えた上でシステムの挙動を考えながら判断するべきで、その挙動に効率的に働きかけられるような行動をとるべき、という感じだろうか。

上の図で言えば、多くの人は出来事やそこに見える行動パターンをもとに判断をすることが多いが、その裏に潜む構造・システムやさらにその裏にある無意識や前提のようなものこそが変革には重要となる。

本書にある、その変革に向けたアプローチのツールは「ビジョンを描くこと」「ネットワークをつくること」「真実を語ること」「学ぶこと」「慈しむこと」の5つで一見地味な言葉ばかりだが、一番奥にあるものを変えない限りは変革は起こり得ないことを考えると、これらのことが一番力を持つのかもしれない。

前回見た市民革命などを考えても、ビジョンさえ浸透すれば希望はある、と思わせてくれる本だった。

どのような選択をするべきか

『資本主義の次に来る世界』などでもたくさん紹介されていたけれども、本書でもコンピューター・モデルを用いたシミュレーションによるシナリオが紹介されている。
本書が20年前のものであるという点も含めて参考になったので、比較しやすいようにシナリオごとに並べた上でいくつかをピックアップしてみた。
また、2005年(出版当時)、2023年(現在)、2050年(例えば2010年に生まれた子どもが40歳の年)、2080年(その子ども(孫)が40歳の年)を参考に追記している。

例えば、汚染除去や農業関連の技術が導入されるが、省資源化や人口抑制、工業生産抑制を行わなかった場合のシナリオ5では、孫が大人になる頃には環境は崩壊をはじめてしまう。
これは、1950年頃の状況に強制的に戻らざるを得ない、というだけでは済まないだろう。資源は底をつきはじめているし、それまでの経済成長を前提とした社会が急激に変化する中で、失業や食糧不足、社会不安やそれに伴う紛争など想像もできないような不安定な社会が待ち受けているかもしれない。
自分の子どもや孫がそれに直面するかもしれない、というイメージはまだ多くの人には共有されていないかもしれないが、その可能性をまず受け入れる必要がある。

このシミュレーションは、シナリオ5を回避し、シナリオ9の持続可能な社会とするためには、省資源化に加え、人口抑制と工業生産抑制の必要があることを示しているが、それは成長主義的な資本主義のシステムを変革することが必須であるということだ。

そういう選択を我々はすることができるだろうか。

このシミュレーションが20年前のものであり、シナリオの前提となる技術の進歩が不確定であり、さらに南北格差の問題や社会的変革の難しさを考えると、乗り越えるべきものは多いし、消費財やサービスが本当にこれほど必要か、という議論もあるだろう。
現在でも多くの人は「経済成長より持続可能な社会を望む」という風に考えている、というような調査結果もあるようだけれども、それを実行に移すには社会・システムに対する新しい知恵を身につけることは必須である。
とするならば、システム思考はそのヒントになるだろうか。

環境の変化を想定しておく

建築の立場として、一人の人間の立場としてできることは何があるだろうか。

一つは、望ましいシナリオへと舵を切るべく、できることを考え実行するしかない。

しかし、程度の差は別にして最善のシナリオを進まなかった、という可能性も考えておかざるを得ないだろう。
(それほど遠くない)将来、今当たり前に考えている生活が急激に崩れていくことはこれらのシナリオからも十分に想定されるが、その時になって対応しようとしてもかなり厳しいように思う。
今のうちから、環境の変化に対応可能な生活へと少しづつスタイルを変化させていく、ということも必要ではないだろうか。(その事自体がシステムの改善にもつながるだろう。また、著者の枝廣氏はその後、レジリエンスや地域経済に関する本を書いているようだけども、それが著者の一つの答えなのかは興味がある。)

建築は何十年も残るものであることを考えると、将来的な変化への想像力を持って仕事に取り組むことは職業倫理として必要に思うし、建築という仕事そのものが経済状況に大きく影響されるものであるため、ビジネスのあり方も考えないといけないかもしれない。(二拠点居住や来年からやってみようと思っている稲作(自己消費用)はそのための想像力を少しでも引き寄せるための経験だと思っている。)

課題

学ぶべき課題は何か。
今回頭に浮かんだのは、
・システム思考とは何かをもう少し詳しく。
・資本主義経済の本質は何か。成長せねばならないという前提がどこから来ているか。
・レジリエンスを高めるにはどうすればいいか。(個人経済や地域経済のスケールで考える?)
・建築そのものとビジネスをどう変化させる必要があるか。
などである。
うーん、田舎生活も分からないことばかりだし、やることが増えていくばっかりだ・・・




我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣)

竹田 青嗣 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/5/25)

この本は昨年の5月にいろいろな哲学者に関する本を読もうと思いたち、まとめて購入した本の一冊であるが、まだヘーゲル自体に関しての興味が湧いていなかったため積読になっていたものである。

しばらくは手を付けることはないだろうと思っていたけれども、急遽、資本主義をテーマにすることにしたため手に取ってみた。その結果、本書はまさしく今読むべきものだったと思う。

我々は希望の物語を描くことができるか

われわれはいまや、現在ある資本主義を、”持続可能かつ正当化されうる”資本主義にかえられるか、それともそれを放置するほかないのか、という選択肢の前に立たされているのだ。
そして、この課題に応えるためには、現代のさまざまな批判的思想ではなく、まず近代哲学に立ち戻らねばならないとわたしは考える。なぜか。近代哲学が「近代社会」の理念的本質を形成したからであり、さらに、現代の批判的思想がその本質を捉えそこねているからである。資本主義は近代社会の本質から現れたものであり、資本主義を捉えるには、まず近代社会の本質を把握しなくてはならないのだ。(p.11)

著者の本は明晰で分かりやすいことに定評があるようだ。
読んでみると、まさにその通りで、哲学者の言説の中から重要な原理を取り出しあるストーリーのもとに並べて見せる手腕は見事であり、哲学とはこういうものかと唸らされた。
それがあまりに明晰であるため、逆に捨てるものが多すぎるのではないかと危険性さえ感じながら読んだのだが、それでもなお(だからこそ)一読すべき本だと思う。

はじめに断っておくが、本書は近代社会の権力や資本主義の存在を否定するものではない。それどころか、権力や資本主義を廃絶することの「不可能性」を示すことを使命として書かれたものである。

こう書くと、資本主義を肯定するための言い訳のようなものだと思われるかも知れないが、資本主義の暴力性を肯定するものでもない。そうではなく、近代社会と資本主義が必要とされる原理を哲学的に描き切ることで、その廃絶の不可能性を示しつつ、それでもなお希望の物語を描くことが可能か、そのための原理はどこにあるかを明確にしようとするものである。

私は、ここ数年での環境に対する考察などを通じて、資本主義の持つ限界性は否定されようがないと感じていた。
だからこそ、近代社会や資本主義の暴力性と限界性が明確になりつつある現代においてそれでもなお資本主義を続けざるを得ない理由は何なのか、ということが知りたかったし、資本主義をテーマにしようとした動機の大部分はここにある。

それに対して、本書は多くの視点を与えてくれた。
途中、いくつかの疑問も浮かびながら読み続けていたけれども、著者が同じ問題意識のうちにあることが理解できたし、ここで描かれた一本の筋を一度飲み込んでみることは意義があると思えた。

まずは、備忘録的な意味で自分なりにまとめた上で、感じたことを書いておきたい。
(ただ、最初に書いたように、本書自体がかなり凝縮された内容なので要約の劣化版要約のようなものになると思う。まとめ部分はあくまで備忘録として捉えて欲しい。内容に関しては大変読みやすい本なので一読を強くお勧めする。)

哲学と原理

しかし一方で、むしろこの深い絶望が新しい可能性をもたらしたのだ。カントの「原理」は人々に「真の信仰」を見出そうとする欲望を断念させ、そのことが、「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道を初めて押し開くことになったからである。(p.31)

問題の中にある「原理」を重視すること。これが本書における著者のスタンスであり、これが明快な一本の筋を生み出している。
この徹底に対して他の哲学者からの批判があることが想像できるが、本書を読む上で重要な部分である。

多数の人が参加する「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」があるとする。
宗教のテーブルは何らかの「真理」を探し求める言語ゲームであり、哲学は「普遍性」「原理」を探し求める言語ゲームである。
ここで、「真理」と「原理」の違いは何か。
「真理」は絶対的な(とされる)ものであるが、これが確かなものだと証明することのできない「答えのない問い」である。それ故に異なる「真理」の間の争いを調停するすべを持たない。
一方、「原理」は真理が答えのない問いであることを認めた上で探し求められた、誰もが認めざるを得ない共通了解である。(共通了解であるから後で変化する可能性は消しされない)

「真理」が答えのない問いであるという「原理」を明確にしたのがカントであるが、先の引用文のように、このことが人々を”「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道”を切り開いた。つまり、真理の探求としての宗教的テーブルに座ることしかできず、一定の自由の範囲から抜け出せなかった社会から開放される可能性が開かれた。
(本書ではこのことを、人類の長年の夢であった錬金術の可能性を、元素に関する「原理」が終焉させ、そのことが科学的な新しい可能性へと向かわせたことと重ねて例えている。これは後で書くように本書の意義とも重ねられている。)

つまり、「社会」の問題を個人の内面の問題から、複数の人間の構造の問題として現実的に扱えるものへと変えたのが「原理」と言えるし、このことの探求が近代社会の出現を可能とした
自然科学が原理の探求を通じて自然を解明してきたように、社会構造を解明するための原理を探求することが哲学の一つの役割・方法である、というところから出発するのが本書の特徴であるだろう。

近代社会の原理

しかし、私の考えでは、「財の蓄積」は、人類にとってむしろ決定的な不幸と悲劇の開始点となった。まさしくここから人間同士の普遍闘争状態がはじまったからである。(p.40)

人類の歴史を振り返ってみると、そのほとんどが闘争の歴史で塗りつぶされている。
私はそれが昔から不思議でならなかった。人間の本性はそれほど変わるはずがないだろうに、過去の人達は本当にそれほど愚かだったのだろうか。
戦後の一応平和な日本に暮らしている自分としては、それを人間の内面の愚かさに求めるようなイメージしか持てなかったが、本当の原因はどこにあるのか。

これに対して前もって書くと、人類の歴史上、近代社会と資本主義こそが社会から暴力を排除し、かつ人々に自由を与える可能性を持つ唯一の原理によるものであり、財の蓄積が可能になってから近代社会の実現までは自由の獲得と暴力の排除を同時に満たせる原理を人類は持っていなかった、というのが本書の主張である。(近代社会の実現以降も戦争の歴史ではないか、という指摘もあるが、それは”一旦”置いておく)

その近代社会を成立させる原理を確立したとして本書が取り上げるのがホッブス、ルソー、ヘーゲルである。

・ホッブス 普遍闘争原理
「財の蓄積」以降、人間社会は、強力な統治権力を欠けば必ず普遍的な暴力状態に陥るというのが最初の原理である(『リヴァイアサン』「万人の万人に対する戦争」)。これを著者は「普遍闘争原理」と呼ぶ。
まず、人あるいは共同体は、自分の生命と財産を維持するために暴力を使って身を守る権利がある(自然権)。
動物は体力などの自然の決めた差異によって自然と秩序が生まれるが、人間共同体はその知恵によって絶えずその差異をひっくり返す可能性をもつため、相互不信を増大させ、必ず弱肉強食の戦争状態に置かれざるを得ない(自然状態)。生命の危険のない状態が確定していれば別かもしれないが、生命の危機にあるような貧しさの中では、生き延びる道が略奪や侵略以外になくなる。そこで、そのような事態が何度か起こると、その可能性に対しあらゆる共同体が強力な戦争共同体を目指さざるを得なくなり、潜在的な戦争状態に突入する(不信の構造)。
そのような中、戦争状態を抑止する原理は、各人が自然権を放棄し、全員が従うべき強力な超越権力を作り出してそこに委ねる以外には存在しない(自然法)、と説いたのがホッブスである。

しかし、実際には相互不信がある状態ではどの勢力も自ら自然権を放棄することができないため、結局のところ、より強い勢力が弱い勢力を制圧していく以外には普遍闘争を抑制する原理がなかった覇権の原理)。歴史の天下統一のストーリーは、彼らが野蛮だったからではなく、人類がそれ以外に戦争状態を終わらせる原理を持たなかったという構造的な理由によるものだと言える。

ここから言えるのは、「国家」の第一の機能は支配ではなく「暴力の縮減」だということであり、それが国家の存在理由である。

では、人類は覇権の原理、つまり強者が弱者を制圧していく以外に普遍闘争状態を終わらせることはできないのだろうか。
これに対して、ホッブスは人々がある合議体に自発的に服従することに同意するという「設立された」統治権力の可能性を示唆しているが、これをより哲学的に展開したのがルソーである

・ルソー 一般意志契約
ひとまずは「覇権の原理」によって普遍闘争状態を終わらせられたとしても、その先には決定的な問題が残る。つまり、その結果として”専制支配体制”に行き着き、そこでは支配者以外の人間の「自由」は存在しない、という問題である。(ここから先は「自由」が重要なキーワードになる。)

それに対してルソーが示した「原理」は下記のようなものである。

普遍的闘争状態を制御し、しかもその上で各人の「自由」を確保する「原理」が、一つだけある。戦いが「覇権王」を作り出す前に、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上でその権限を集めて「人民主権」に基づく統治権力を創出すること、これである(わたしはこれを「一般意志契約」と呼びたい)。これ以外には、普遍暴力を制御しつつ各人の「自由」を確保する原理は、一つもない。(p.51)

しかし、ここで頭に浮かぶのは先の「不信の構造」である。これがあるために覇権の原理に進まざるを得なかったのであるが、この不信を乗り越える原理とはどのようなものだろうか(歴史的には専制支配体制が先にあったのだろうが、原理を更新するための疑問として)。それに対する明確な記述は本書にはなさそうだが、思うに、不信に対する心理と、「自由」の確保可能性に対する心理の天秤のようなものだろうか。専制支配体制の不自由さを目にしながら、自由の可能性が目の前にあるとすれば、不信を乗り越えそこに賭ける原動力になったのは分かる気がする。また、その原理の根が信頼にあるところに「一般意志」の重要性があるだろうし、「自由」に対する信頼が揺らげばこのような社会に批判的になるのも当然であろう。

ここで、本書にある重要な指摘は、「社会契約説」の捉え方に含まれる理想と原理の違いである。
つまり、ルソーが示したのは、近代社会は誰もが自由で対等であるべきという理想ではなく、誰もが自由であるために必要な原理である、ということである。これは本書を貫通する主張であるが、この捉え方の違いが転倒したルソー批判の原因であるという指摘は頭に入れておく必要がある。

ところで、「一般意志」とは何だろうか。これは「自らの自由を獲得するために、自然権を統治権力に委ね、代わりに、成員すべての「自由」を認め合うことに同意するという意志」と捉えると理解しやすいように思う。この意志が尊重されなければ市民社会の存続もできないだろう。また、そうである以上、政府は必ず「一般意志」を代表するものであらねばならないし、この限りにおいて政府は正しいと言える。(一般意志に関しては東浩紀の『訂正可能性の哲学』を通じて後日改めて考えてみたい)

ここで、社会には政府が一般意志を代表するのを阻害する大きな要因があるという。それは、統治権力の下部にも諸団体が存在し、それぞれの団体の一般意志が社会全体の中での「特殊意志」となって対立することである。ここでもそれぞれの特殊意志は上位の一般意志に従う、すなわち団体間の相互自由を認め合う必要がある。これが数による覇権ゲームに陥らず一般意志契約の原理を維持するにはどうすればよいだろうか。

・ヘーゲル 自由の相互承認
ヘーゲルはホッブスとルソーの社会原理を包括しながら展開させたが、その核心は次のようなものだ。

①伝統社会から近代社会へという歴史の推移は、民衆の「自由」への欲望という根本原因によって展開してゆく。
②それは、「自由」の相互承認の社会的表現である「法・権利」の展開として進み、ついに自覚的な「自由の相互承認」を基礎とする「市民社会」にまでいたる。
③しかし、市民社会は、必然的に、放埒な自由の欲望競争ゲーム(「放埒な欲求の体系」)となる。市民社会は、この矛盾を克服する原理をそれ自体としてはもたず、もし放置するならあらゆる社会生活の基盤である社会的倫理の分裂と崩壊にゆきつく。
④ここに市民社会の本質的矛盾がある。しかし、自由な欲望ゲームを廃棄し、もとの自然な社会にもどることでこの矛盾を克服することはできない。それは「自由」そのものを不可能にするからである。この問題の解決は市民社会の欲望のゲームをつねに「人倫」の原理によって調停する以外にない。そしてこの役割を果たすのが「人倫国家」である(世俗的市民社会ではなく、理性国家)。(p.119)

ここで、ルソーとヘーゲルの違いは何だろうか。
本書によるとルソーの市民国家の自由は絶対自由の一般承認に過ぎず、「一挙になされる契約(=革命)によってしか成し遂げられないものである」という。そこには放埒な自由の欲望競争ゲームを克服する原理はまだない
それに対して、ヘーゲルは「人倫」の原理もしくは互酬的原理によってつねに調停し続けるという”時間的成熟”の契機を導入したという。つまり、近代社会を維持するには、絶えず一般意志の内容をすり合わせ「法・権利」をアップデートしつづけるような仕組みが必要だと言うことだろう。ここに、「自由」の本質が社会的に発現していくプロセスがあるが、「自由」の本質とは何だろうか。

私の理解では、「自由」の本質そのものを絶えず探求するような「自由」が確保されていることそのものが、「自由」の本質であり、それは近代社会によって初めて可能となるものであるということだ。(これに関しては一つの章が与えられているので本書を参照して欲しい)

以上、簡単にまとめたが、このようにホッブス、ルソー、ヘーゲルのリレーによって近代社会成立のための原理が整えられていった。

近代社会と資本主義

ところで、近代社会と資本主義の関係はどのようなものだろうか。
近代の政治システムの基本構想は哲学者によって与えられたが、資本主義は近代社会との関係の中で自然発生的に現れたもので、それは社会的な財の生産を持続的に増大させるはじめての経済システムであったという。

資本主義の成立は「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」の3つが揃った事による。
それまでは、普遍闘争の原理から、どんな国家も収益の殆どを国の強化に当てざるを得ないため、人民は自らの労働を再生産できる最低限を残して収奪されなければならないという構造を持っていた。

そんな中、分業による効率化だけが、爆発的な生産性の増加を可能とし、人民の生活を向上させる可能性を持つものであった
著者の憶測的仮説によると、海洋交通の発展が交易ネットワークを拡大させ、「普遍交換」のシステムを形成させた。そこで生まれた需要は生産性を高めることを促し「普遍分業」を進展させた。さらに、生産性の向上は近代国家の成立を支えるとともに、近代国家によって人々が開放されたことによって「普遍消費」の局面が開かれ、交換と分業の相互促進を支え、持続的な拡大的循環を可能とした。

このようにして、資本主義システムが財の希少性を解消し、人民の「自由」の開放の前提条件となるとともに、人民の「自由」の開放が資本主義の維持のための前提となっていく。人々の自由への欲望が根本動機となって、近代社会と資本主義とが互いを必要としながら成立していったのである。

近代社会の本質

ここで、近代社会の本質的特質として「ルール社会原則」「一般福祉」「普遍資産」の3つが挙げられている。簡単に触れておくと、

・ルール社会原則
基礎原則は「ルールの基の権限の対等」「ルール決定と変更についての権限の完全な対等」「ルール遵守が成員資格の原則であること」であるが、この原則により、その政府が「一般意志」をより表現する方向に進んでいるか否かが、市民国家としての「正当性」をもつかどうかの指標となる。

・一般福祉
近代国家においては「諸個人の幸福」と「普遍的なもの」が調和的に統一される必要がある。
個別的な「自由」の追求が、社会の総体としての「善」の実現につながるような状態の実現こそが「近代国家」の最終目標である。

・普遍資産
社会全体の生産の増大を、成員全員による成果として考える。このために、その妥当な配分の原理を見出す必要がある。

というもので、「一般意志」を代表する統治権力が、「自由の相互承認」に基づく成員のフェアなゲームを担保することが求められる。つまり、ゲームそのものが「一般意志」とカップリングしている状態を維持することが近代国家の本質であると言えるだろう。

また、例えば大きな格差などに理不尽さを感じる感覚は、我々がこれらの特質に対する感度を獲得し当たり前と感じていることを示しているのかもしれない。

矛盾と批判

ここまで、近代社会と資本主義の原理と本質をまとめてきたが、これらは承知の通り理想的な道筋を進んだわけではなく、新しい大きな矛盾を生み出すことになった
そして、それに対する多くの批判を生むことになる。

近代国家は、表象として高度な階層支配システムであるかのようにして現れたがその大きな理由は、
近代国家の間に相互承認が存在せず、より厳しい普遍闘争状態がはじまったこと
資本主義システム事態が富の配分の偏在を生む「格差原理」を持っていたこと
である。

それに対し、マルクス主義やポストモダン思想等の批判が生まれたが、その多くは、事態の本質と属性を取り違えているために、現状に対する批判や理想の相対化としての意義はあっても、それだけでは決して本質的な克服のための原理を取り出すことができない、というのが著者の主張である。(著者はマルクスの”現状”の本質を見抜く力は高く評価している。)

そのため、国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成(資本主義システムは自然発生的であったため、政治システムほどの原理を獲得できていない)、といった課題を克服するためには「反国家、反資本主義、反ヨーロッパ、反近代といった表象を捨てねばならない」と言う。

これは、著者の決意表明のようなものかもしれない。

哲学を「形而上学」だと考え、国家と権力と資本主義を諸悪の根源と考えてきたような世代にとっては、このような主張は、まったく異国の言語のように聞こえるかもしれない。その感度をわたしはかなりよく理解できる。わたしもまたこの世代の感度を共有していたからだ。(p.287)

それでもこのような結論に至らせたのは、おそらく現代が大きな分岐点にあるからだろう。

希望の原理はあるか

ともあれ、わたしが示そうとしたのは、現代社会が進むべき道についての一つの根本仮説である。「自由」が人間的欲望の本質契機として存在するかぎり、人間社会は、長いスパンで見て、「自由の相互承認」を原則とする普遍的な「市民社会」の形成へと進んでいくほかない。(p.254)

ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」に基づく普遍ルール社会へと成熟させる道を取る以外には、人間的「自由」の本質を養護する道は存在しないこと。(p.287)

南北格差の拡大、過大な大量消費と大量廃棄のサイクル、市場原理主義・金融資本主義による世界のマネーゲーム化と資本による労働の奴隷化・・・世界は、「自由の相互承認」の原則を外れて、格差を拡大しながら地球環境の時間的限界へ向けて突き進んでいる。正当性を欠いたシステムは、自制を失い覇権の原理に従うのみで、やがて新たな希少性と闘争の時代に行き着くほかなくなるだろう。

しかし、選択の余地のないような危機的状況にあるということは、人類はこの危機をむしろ好機と捉えて変革へと進むほかない、ということでもある。

やるべききことははっきりしている。
国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。

ポストモダン思想は大きな物語を終わらせた。
しかし、人類はもう一度大きな物語を描かなくてはならない場面に立っている。
それは、ポストモダンが批判したような「理想理念」・イデオロギーとしての物語ではなく、人々を「人類」という連帯の輪に結びつける物語、合意による新たな「正当性」確立の物語である。

新たな物語を描くために何が可能か

しかし、わたしはこの著作を書いて、自分のうちに新しい可能性が現れかけていると感じる。なぜなら、権力や資本主義の廃絶をめがけた思想と、それを批判するわたしの考えの中心点は、本来、けっして対立的なものではないからだ。(p.294)

ここまで、簡単に本書の内容をまとめてきた。

その結果浮かんできたものは、前回読んだものとかなりの部分で共通する。(前回の本で挙げられている処方箋や事例のようなものは、今回の本で指し示された道の上に乗るもののように思える。)

また、本書を読んでも、いやむしろ読んだからこそ、二元論的な思想を転換することの重要性は高まったように思うし、資本主義の「正当性」に対しては、今なお成長が必要かという視点と人為的希少性の問題を考慮する必要がある、と思う。

さて、ここで、自分の問題として考えた時に、自分に何が可能か、というのが問題となる。

近代社会の原則にならえば、まずは、多くの人に明確な自覚と同意が必要であるから、これを促す行動をとること阻害要因(本書によると「既得権と実力のある勢力の抵抗」「可能性の原理を認めない反動思想」を解除する合理的な「原理」も必要)に安易に加担しないこと、などがさしあたり可能なことだろう。
例えば、前者に対しては、最近考えてきたように建築環境に対してどういうスタンスをとるか、というのが一つの行動の指標になるかもしれない。

とはいえ、「可能性の原理を認めない反動思想」とは何か、は現時点では私には確定できないし、まだこの問題に対する自分の言葉は少なすぎる。しばらくはこのテーマを追ってみたい。




アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル)

ジェイソン・ヒッケル (著), 野中 香方子 (翻訳)
東洋経済新報社 (2023/4/21)

帯にある「「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き」という文が気になり読んでみた。

全体的な論調としては『人新世の「資本論」』と重なるが、成長を運命づけられた資本主義がどのように世界を支配するようになったのか、という経緯と、脱成長に対する反論に対する反論としてどのような成果があるか、という点で収穫があった。
また、問題の根本には帯にあるような「アニミズム対二元論」といった存在論(オントロジー)の問題が横たわっている、というのが本書の主張である。

デカルト的二元論とアニミズム

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。

アニミズムを漢字で書くと精霊信仰となり、現在では遅れた未開文明の思想というイメージで捉えられるかもしれない。しかし、人間は生物コミュニティの一員であり、その循環の中で生きている、というのは「あたりまえ」のことであるし、人類の長い歴史の中で培われてきた持続可能な社会を維持するための最大の知恵であったと言ってよい。

その、知恵を放棄し資本主義に適合するように根本から書き換えたのがデカルトであるが、その経緯は全く自然なものではなく、権力と結びつく形で略奪と強制により導入されたものである。

これは、現在多くの人がそう信じているデカルト的心身二元論(例えば身体と脳を分け、感覚器官から受け取った刺激を脳が再構成、処理して身体に司令を送る、というような機械論)から脱却することによって新しい視点を提供するものである。(はじめに|オノケン(太田則宏))

デカルト的心身二元論に関しては、アフォーダンスの文脈で根本的な問題に関わるものでなじみがあったが、実のところその問題の大きさにピンと来ていなかった。
しかし、本書によって私にとってのデカルトのイメージが大きく更新されたように思う。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。
デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。

その変化は、資本や権力に都合の良いように人類を洗脳するという類のもので、囲い込みによる略奪/人為的希少化により資本家以外を植民地化する、というプロジェクトを成功に導いた。

哲学者は聖人であり、最善の思想を考えた人である、というイメージはいささかピュアに過ぎるのかもしれない。最善を目指したかもしれないが、それはその時代においてのものであり、その都度見直されるべきものであるはずだ。しかし、この時生まれた植民地化的資本主義の構造と思想は時代を超え今も人々の意識に強固に根付いている。(二元論がたまたま利用されたのか、資本家の権利を守る意図が含まれていたのかは分からない。デカルトが本質として何を残したのかはもう少し調べてみる必要がありそうだ。)

誰のための成長か

大企業が収益を維持するためには世界のGDPは毎年2~3%ずつ成長し続けなければならないという。2~3%というのはわずかに思えるかも知れないが、3%の成長とは23年ごとにGDPを2倍にしなければならないということで、GDPとエネルギー・資源の消費量と連動していることを考えるとこの成長を無限に続けることが夢物語に過ぎないことは明らかだろう。
(テクノロジーの進歩によってそれを乗り越えるというのも無理がある。実際のところ、増えた分を補うことすらできていない。また、未来の世代が解決してくれるだろう、という思考そのものが搾取的だ)

さらに、無謀な経済成長を続けても多くの人が豊かになることすらない。

社会的目標を達成するためにこれ以上の成長が必要でないのは、多くの証拠から明らかだ。それにもかかわらず、成長主義のシナリオは驚異的なまでに力を保ち続けている。なぜだろうか。それは、成長がわたしたちの社会の最富裕層と最大派閥に利益をもたらしているからだ。アメリカを例にとってみよう。アメリカの国民1人当たりの実質GDPは1970年代の2倍になった。そのような驚異的成長は、人々の生活に明白な向上をもたらしそうなものだが、実際はその逆だ。40年前に比べて、貧困率は高くなり、実質賃金は低くなった。半世紀の間、成長し続けたにもかかわらず、[豊かな生活に関する]これらの重要な指数に関してアメリカは退行しており、その一方で、事実上、利益のすべてが富裕層に流れている。世界の上位1%の富裕層の年収は、この期間で3倍以上になり、一人あたり平均140万ドルに急増した。
これらのデータを見れば、成長主義がイデオロギーに過ぎないのは明らかだ。それも、社会全体の未来を犠牲にして、少数に利益をもたらすイデオロギーだ。わたしたちは皆、成長のアクセルを踏むことを強要され、その先には地球という生命体にとって致命的な結果が待ち受けている。すべては裕福なエリートをさらに金持ちにするためなのだ。(中略)しかし、エコロジーの観点から見れば、状況はいっそうに深刻で、まるで狂気の沙汰だ。(p.192)


この搾取の構造はアメリカでさえそうなのであるから、グローバルノースとサウスの間の同様な構造を考えるとサウスの状況がどれほど悲劇的かは想像に難くない。
一部の人間のために、多くの人は意味のない希少性と貧しさを押し付けられ、労働力を安価で提供し続けるしかない状況で環境を破壊しながら破滅へと突き進む。まさに狂気の沙汰だが、なぜこれを止められないのだろうか。

一つは、多くの人が現状を維持するしかないように大胆かつ巧妙に人質を取られているからだろうし、一つは人間の思考の奥深く、存在論の部分で意識を握られていることもあるだろう。
環境に対して、なぜ止められないのかという問題意識を欠いた単なる「省エネ」では成長の穴を部分的に埋めることしかならないし、環境工学を目的化する思考は、地球規模の問題を地球工学によるテクノロジーで解決しようとすることと同じく、二元論による自然制御というロジックを温存する。
そういう意味で、環境問題は存在論と想像力の問題であるというのは間違いではなかった気がする。
また、どうすれば人質を開放できるか、というのも大きな問題である。住宅ローンも人質の一つであることを考えると私もその構造に加担している1人に違いないし、3人の父親としては教育というのも大きな人質だと感じている。

資本主義とは何なのか

詳細な議論は是非本書を読んでいただきたいが、成長主義をやめるだけでも、環境問題を含めた多くの問題は解決の難易度が大きく下がるという。

そう言われても簡単にはことが進まないのは、人間がそれほどかしこくない、ということもあるだろうし、多くの人が資本主義というものが何なのかよく分からないまま参加しているということもあるだろう。

資本主義と言っても経済活動そのものに問題がある訳では無いように思う。問題は成長主義であり、その根本に潜むデカルト的二元論である、というのが本書の主張であるが、本当に一部の富裕層のためだけに盲目的に成長を崇拝するほど人間は愚かなのだろうか。
もしくは、成長を崇拝せざるを得ないシステムが富裕層を含めた人々の意志を超えたところで暴走しているだけなのだろうか。(おそらく、富裕層を悪人として斬り捨てるだけでは問題の解決に向かわないだろう。)
資本主義にとって成長は本質的なものなのだろうか。

私も本当のところ、資本主義とは何なのかがほとんど分かっていない。

”環境”の次のテーマを探していたのだけど、考えていけば資本主義というテーマは避けられそうにない。
うーん、厄介な問題に手を付けることになりそうだ・・・




社会的構造が絶望と希望を生む B287『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』(山岸 俊男)

山岸 俊男 (著)
PHP研究所 (2000/6/21)

以前から社会の空気のようなものがどのように生まれ、どのように影響を与えるかに興味があり、その関連で著者の本を読んでみようと思い買ったもの。
比較的新しいもので、自分の関心に近そうなものを探したところ本書に行き着いたのだけども、それでも2000年の発行なので20年以上も前のものである。
(最近の本で良いものがあれば紹介して欲しい)

社会的ジレンマとは

社会的ジレンマとは次のような構造を持つ問題のことである。

①一人一人の人間が、協力行動か非協力行動のどちらかを取ります。
②そして、一人一人の人間にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得ることができます。
③しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動をとった場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまいます。逆に言えば、全員が自分個人にとっては不利な協力行動を取れば、全員が協力行動を取っている場合よりも、誰にとっても望ましい結果が生まれます。(p.17)

要するに、こうすれば皆が良い結果を得られると分かっていても、自分だけがその行動をとっただけでは自分が損をみるのでやれない、という問題で、現在の環境問題が典型的な例だろう。

本書での一番の結論は、

しかし、次のことだけはわかっています。それは、私たちは私たちが作り出している社会をコントロールするために十分なかしこさを、まだ持ち合わせていないということです。(p.10)

という言葉に集約されるかも知れない。

わかっちゃいるけどやめられない。それは個人の意志だけの問題ではなく、社会的な構造によるものであり、それをコントロールできるほど人間はかしこくない。
まずは、その認識を持つことが必要なのかもしれない。

何が可能か

それでは、自分たちには何が可能だろうか。人類がかしこさを持ち合わせていないことを嘆くしかないのだろうか。

例えば、政府などによる、アメとムチの監視と統制は、一定の効果が出る可能性はあるが、二次的ジレンマの発生や内発的動機づけの破壊など、さまざまな問題も多いし、それに期待するだけではいけないことも実感として感じている。

そんな中で、各個人が「個人としてできること」のイメージを持つことは可能なのだろうか。
もし、そのイメージが持てないならば、そのことが諦めを生み、人々に非協力行動をとらせてしまうだろう。
社会的ジレンマの構造を考えると、「個人としてできること」のイメージの発明はとても重要なことのように思える。

このことについて少し考えてみる。

このイメージを考える上でのヒントは社会的ジレンマが社会的な構造をもっていることそのものの中にありはしないだろうか。

例えば本書では、限界質量という概念が紹介されている。
ある集団の中には、様々な度合いで協力的な人、非協力的な人が分布している。
ある人は、10%の人が協力しているなら自分も協力するという人で、ある人は90%の人が協力していないと自分も協力しない。そういう度合いの分布があるとすると、これらの人の行動が積分のように連鎖してある割合に収束すると考えられる。
この考えの面白いところは、同じ分布の集団が、初期値によってことなる地点に収束する場合がある、ということだ。
あるケースでは、行動の連鎖の結果、協力者の割合の初期値がある値(例えば40%の人が協力している状態。ここを限界質量と呼ぶそう)より少ない場合は10%に収束し、多い場合は87%で収束するという。
(▲本書p.199 例えば50%の協力者からスタートすると、協力者は58%に増え、と連鎖し87%に収束する)
この社会的な構造を人々の行動が連鎖する複雑系のような関数としてイメージしてみる。
ある関数では、初期値によって結果が大きく変わる。あるいは、個々の人々の特性(関数の勾配のようなものをイメージしてみる)がほんの僅かに変わるだけで、結果が大きく変わることもある。
それは、僅かな人の行動が変わるだけで結果を大きく変える可能性があること、あるいは、ほんの僅か他の人々の特性に影響を与えることができれば局面が大きく変わる可能性があることを示しているといえる。

多くの人が持っている、自分だけが変わっても何も変わらない、というのはおそらくこの関数を足し算のようにイメージしている。
しかし、この関数を複雑系のようにある小さな値の変化が結果を大きく変える可能性のあるものと捉えられれば、自分の変化が結果に揺らぎを与えるかもしれない、というイメージに少しだけ寄せられるかもしれない。

むろん、一人がイメージを変えたところであまり結果は変わらないかもしれないが、多くの人がこのイメージを持つことができれば、つまり、社会的関数の入れ子のように(例えばある環境問題の関数の中の勾配を決める関数として、この「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと考える人の割合」の関数として考える)捉えて、関数間の連鎖が起きることを考えれば結果が変わることがあるかもしれない。(ちょっと何を書いているか分からなくなってきた)

要するに、ある社会的ジレンマを持つ問題の全体を個人が0から1に変えることは難しいけれども、入れ子のような関数を考えて、より小さな関数を少しだけ変えるということはできるのではないか、ということだ。
社会的ジレンマを持つ問題に対して、自分の不利になる行動をいきなり変えることは難しいかもしれないけれども、まずは「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと捉えてみる」だけならそれほど不利益を被ることもなく変化の敷居は低くなる。
自分の行動が人の行動をいきなり変えることはないかもしれないけれども、その人の行動の指針をほんの少し狂わすことはできるかもしれない。そういうイメージを持つことができれば、自分の行動を正当化できる人も増えるのではないだろうか。(そして、これは入れ子状にさらに小さな関数へと微分していくことができるだろう)

うーん、何が言いたいかますます混乱してきたけれども、大きな変化をいきなり見ずに、小さな変化を可能性としてみることができれば、堂々とやりたいことをやれるのではないだろうか。明るく堂々としているだけでも小さな変化へのきっかけにはなる。

これは、自分への言い訳探しでもあり、重い問題に明るさを見つけるための試論でもある。

この小さな変化を可能性としてみる、というのは次の読書記録への導入として続きは後日考えたい。




環境とは何かを問い続ける B286『環境建築私論 近代建築の先へ』(小泉雅生)

小泉雅生 (著)
建築技術 (2021/4/16)

以前読んだ本の中で気になる言葉に著者のものが多かったので読んでみた。

内部構造から外部環境へ

著者は、現代主流になりつつある環境建築の多くが、建築という箱をどうつくるかという外部と分断した内部の論理・近代的思考に囚われたままであること、また、実証のための理論であった環境工学が目的にすり替わってしまっていることに警笛を鳴らしつつ、〇〇から〇〇へというように発想の転換をはかるような思考を試みている。

それは、本書の目次によく表れている。

01 プロローグ
02 内部構造から外部環境へ
03 精密機械からルーズソックスへ―機能主義とフィット感
04 ハイエネルギーからローエネルギーへ―均質空間とローカリティ
05 シャープエッジから滲んだ境界へ―サステナビリティと耐久性
06 メガからコンパクトへ
07 パッシブからレスポンシブへ
08 隔離・断絶からオーバーレイへ
09 細分化からインテグレーションへ
10 ウイルスからワクチンへ
11 エピローグ

これらは、エピローグで「矛盾に満ちた、建築家の私論として、理解いただければと思う。」と書いているように、建築家に内在する矛盾に対する抵抗の記録と読める。

この抵抗は、私がここ2年ほど考えようとしてきたことの動機とも重なりおおいに共感するところではあるが、その矛盾とは何だったのだろうか。

環境とは何か

それは、環境とは何か、という問いに集約されるように思う。

環境あるいは環境工学について、『最新建築環境工学』の最初にこうある。

環境とは、人間または生物個体を取り巻き、相互作用を及ぼしあう、すべての外界を意味するもので、大きく自然環境と社会環境に分けられる。われわれがここで取り扱うのは、主として前者の自然環境と人間の関係である。(p.13)

この快適な室内環境を最小のエネルギー利用で達成するのが、環境工学の重要な使命である。ただ、それは建築全体からみれば、あくまでも結果であって目的ではないことを忘れてはならない。(p.18)

ここではっきりと書かれているように、環境工学の扱う分野は建築の部分に過ぎない。
しかし、それが目的化・矮小化されてしまっているところが建築家の内に矛盾を生んでしまっている。
建築家もしくは設計者には、環境という言葉を狭い意味から開放し、総合化-インテグレートする役割があるはずだが、ややもすると「建築家はすぐに言い訳をして、環境問題から目を逸らし続けている」と言われかねないし、この矛盾の解消は簡単ではなくなってきている。

だからこそ、建築家は自らの信念を見つめ、環境に対する新しいイメージと可能性、実現のための技術を磨きながら、環境とは何かを問い続けなければいけないのだろう。
その点で、本書はやはり一人の建築家による抵抗の記録である。

私もようやく、その抵抗の糸口が掴めてきたような気がするが、実践に関してはこれからだ。楽しんでやっていけたらと思う。