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新しい景色がみたい B264 『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』(川島 範久)

川島 範久
彰国社 (2022/5/24)

一定期間ごと何かしらテーマを決めて自分を少しづつアップデートするように心がけているのですが、昨年末ぐらいからのテーマは「環境」でした。
近年、環境の問題と向き合うことは必須になったと思うのですが、自分の中でぼんやりとしている分野でもあったためまず前半は思想的な部分を重点的に取り組むことに。(ここで書いた読書記録では下記あたりが該当するかと思います。)

  • リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
  • 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)
  • 里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)
  • 近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)
  • ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)
  • 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
  • 2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)
  • 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
  • 自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)
  • 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)
  • 本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)
  • 宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)
  • 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)
  • 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)
  • システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)
  • 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)
  • 後半は実践的な問題として環境とどう向き合うか、というテーマで本をいくつも買い漁ってたのですが、奇しくも今年の春頃に環境シミュレーションに関する本が立て続けに出版されました。
    本書は、その中の一冊になります。

    環境シミュレーションというターニングポイント

    このブログでは実務的な書籍をとりあげることは殆どなかったのですが、この本は私にとっての一つのターニングポイントになりそうなので書いてみることに。

    本書は、建築の設計に環境シミュレーションを取り入れるためのガイドブックとして、実際の住宅事例をもとに、どのようなタイミングで、どのソフトでどのようなシミュレーションを行ったか、そのプロセスや結果の解釈、その理論的背景に至るまで、コンパクトかつ丁寧にまとめられています。


    上記は建築情報学会Meet Upの環境の回ですが、著者がどのような視点で本書をまとめられたのかが語られていますので是非見てみてください。

    いざ、環境に対して実践的に取り組もうとした時に、いろいろなアプローチが可能だと思いますが、自分にとっては環境シミュレーションというアプローチは合っていたように思います。
    例えば断熱仕様であったり、建物の形状であったり、設備の仕様であったり、これまでは、これまでの経験や、その場所の環境や予算、いろいろな資料などをもとに、ある程度の当たりをつけて、最後はいってしまえば「何となく」で、このあたりが落としどころだろうと決めていました。
    もちろん、できるだけ勉強して考えはするものの、今回のプロジェクトにとって最適な選択だったか、という最後のところはどうにもすっきりしない感じがしていました。

    昔からこの「何となく」「感覚で」という判断がものすごく苦手で、環境に対しても苦手意識があったのですが、環境シミュレーションを取り入れることで、その苦手意識はだいぶ薄れてくれそうな気がします。
    (もちろん、シミュレーションを行ってもモデル化の方法や条件設定によって結果が異なるため、現実とぴったり一致するということはないのですが、いくつかの可能性を比較することで、こうすればこれに比べてこの程度の効果がある、という相対的な判断ができるようになります。)

    実際にやってみることの重要性

    とは言え、この本を読んだからといって、環境シミュレーションのことが分かるようになるかというと、それだけでは難しいように思います。

    私も、ざっとは読んではみたものの、こんなことができるのか、という何となくのイメージを掴めただけで、実際に環境シミュレーションを実践に取り入れるのは知識と技術と環境を備えた人に限られるのでは、という印象でした。いずれチャレンジはしたいものの、そう簡単にはいかないだろうな、と。
    (実際、よく取り上げられているCFD解析ソフトの価格を問い合わせたところ、個人事務所では手が出しづらい金額でした。)

    そんな時、古巣の事務所からとあるプロポーザルに参加しないか、とお誘いがあり、要項を見てみると、環境をテーマとするのがよさそうでした。
    提出まで1ヶ月程度しか時間がなく、忙しい時期とも重なっていたため、かなり迷ったのですが、次にプロポーザルに出すとすれば、環境シミュレーションを取り入れることが必須だと思っていたこともあり、勝てるかどうかは分からないけれども、やれるだけやってみようと参加することにしました。

    その時にいろいろ調べたところ、Rhino+grasshopperのプラグインとして公開されているLadybugシリーズを使えば、ある程度のことが(rhinoの購入費用を除けば)無料でできそうだと言うことが分かり、rhinoはもともと興味があったこともあって導入することに。

    (そのあたりのことはnoteにまとめているところですのでこちらを見てください。)

    Vectorworksでモデリングを行い、簡単にrhinoにデータを渡して解析できるようにする、というのが目標だったのですが、ある程度のところまではできるようになりました。
    子供のころからプログラムになじんでいたり、ここ数年、自分に合わせたVectorworksのツールをつくるためにマリオネットやpythonを勉強していたのも幸運だったと思います。

    grasshopperと本書の間を何度も行き来しながらgrasshopperのコンポーネントを組んでいったのですが、本書がなければおそらくここまではできなかったと思います。
    また、完成されたソフトを使うのではなく、コンポーネントを組んでいく必要があったため、入力するデータとコンポーネントが行う処理をある程度理解する必要があったおかげで本書の理解がかなり進んだと思います。

    最初はできるかどうか自信がなかったのですが、必要に迫られ実際に手を動かしてみると、分からなかったことの意味が一つ一つ理解できるようになり、とにかくやってみることの重要性をこの年になって再確認した次第です。

    設計が変わるのか

    環境シミュレーションを取り入れることによって、果たして設計は変わるのか、という問いに関しては、確実に変わるように思います。
    建築の形態や仕様によって、光や風や熱がどのように変わるのかが視覚化できるようになったことで当然プロセスが変わりますし、曖昧なまま決めていたストレスも解消されます。というか楽しいです。

    数年前にBIMを取り入れてみて、もう以前のような作業には戻れないと感じているのですが、おそらく、環境シミュレーションも同じように取り入れる前には戻れなくなる気がします。

    もしかしたら手法が変わることによって取りこぼすような要素、見えづらくなるような要素もあるかもしれませんが、それはどういう変化に対してもあることで、その要素を意識的に取り上げるような方法を工夫するしていけば良いと思います。

    高断熱・高気密といった具体策だけを盲目的にみてしまうと、かえって環境と断絶させてしまうのでは、という不安を持っていましたが、シミュレーションという手駒を手に入れたことで、著者のいう「自然とつながる建築」に近づけそうな予感がします。

    最近、ようやくぷち二拠点生活を始めることができました。まだ、バタバタとしていて何もできていませんが、生活に変化を与えたことと、新たな手駒を手に入れたことで、新しい景色が見えてくるのではと、ワクワクしています。(ニッポンガンバレ)




    ぷち2拠点生活始めます


    今年に入ってから、生活に変化を、と思い山間の土地を探していたのですが、昨日、日置市吹上町の与倉の土地・建物の売買契約をしてきました。
    右の赤い建物(馬屋)の裏に母屋がついています。
    この馬屋が気に入ったのですが、左の小屋と小さな畑の土地もおまけでつけてもらいました。

    居住は今の小松原の自宅兼事務所のままで、事務所機能をこちらに移して通う予定です。
    まだ、どういう形で活用するか考え中ですが、とりあえずは通いながらゆっくり考えたいと思います。


    この山にやんわりと囲われながら少し開けた感じに一目惚れしたのですが、もしかしたら子供の頃、奈良や屋久島で過ごした風景と何か通じるものがあったのかもしれません。
    近くに川や神社があることもポイントが高く、春にはホタルが舞うようです。

    小松原から20分ほどで通える範囲で、鹿児島市の同程度の土地建物に比べたら十分の一程度の価格で新しい生活が可能です。
    そういうライフスタイルの一例になれたらと思っています。(あわよくば仕事にもつながれば)

    まだ、残置物の処分や決済等が残っていますので、移転は来年になってからだと思いますが、住宅もついていて宿泊も可能ですので、よろしければ遊びに来てください。

    楽しみだなー




    リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)

    中谷礼仁 (著)
    インスクリプト; 四六版 (2019/1/25)

    本書は、今和次郎、篠原一男、ミース、白井晟一、ロース、上野千鶴子、フーコー、エンゲルス、ハワード、ハスクレー、ゲデス、カント、アーレント、アレグザンダー、ガタリ、レイン、民家、蔵、寓話、小説、シェーカー/オナイダ/ヒッピーコミュニティ(コミューン)、ベテルの家など、多様な人物、事物を縦横無尽に巡りながら、家=器と人間、社会との関連を浮かび上がらせていく。

    未来のコミューンへ

    例えば、上野千鶴子を引いて、家を「特定の人間たちとそれを容れるハコとの相補的な幻想関係」と再定義し、そこに住む人間を「不変の確固たる存在ではなく、社会的関係の中で不断に規定、変転する事物的存在」として捉える。それは人間を、社会や器との関係の中で「改造可能なかたち」として捉えることでもある。

    また、人間的発露の発生を「生物としての人間個々のかたちと私たちが築き上げてきた世界=社会的コンテクストとの摩擦」の中に見ながら、家を「人間的病を一旦保持しつつ、人間が自らに対して要求されたコンテクストを、徐々に変更してゆくことのできる待避所」として捉えようとする。

    幻想関係の中、人間と家・器とがお互いに変容させ合いながら、両者が平衡状態へと至るような境界を探り、再び集合して新しく空間を確保すること。ここに未知の「家」、未来のコミューンを見る。

    かなり単純化しているが、本書でのキーワードをつなぐとこういう感じになるだろうか。(ここまでは内容を思い出す際のメモ的なものです)

    忘却とリズム

    さて、建築家とはそもそも人間と社会の関係性の中に新しい空間の可能性を見出そうとする人のことだとすると、その関係性にどこまで迫れるかによって建築の深度のようなものが変わってくるだろう。
    その背景に迫る著者の思考の深さには凄みを感じるが、一方でこのような凄みそのものが軽んじられるようになりつつあるようにも感じる。

    単純に言えば、建築を考える際のベクトルには、建築によって人間を規定しようとするベクトルと、そのような規定を避けようとするようなベクトルの2つがあるだろう。
    現代は私も含め、後者のベクトルの傾向が強いように思うが、そこには背後にあるコンテクストを単純化・省略化して徐々に忘却していってしまうという危険性がある。

    著者は、原罪的現実(「つがい」「生産」「恥じらい」)とそれらを克服する希望(あるいは妄想)の二重性として、近代家族を「語るべきこと」が必要であるが、この宿題は、ハコと人間たちとの機能論的な関係を見るだけでは回答できないという。

    しかし、先程のベクトルによって忘却が進んでしまっては、この宿題に対する回答には辿り着けないのではないだろうか。(忘却こそが回答である、ということはあり得るだろうか?)

    千葉雅也のツイートをフォローしていると、この忘却に対して踏みとどまろうとする倫理観のようなものを感じることがある。この姿勢はモートンを読んで感じた”距離においてとどまりリズムを立ち上げる”ということに近い。

    前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
    自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    そして、このリズムは『間合い: 生態学的現象学の探究』で浮かび上がったように、人間と社会・世界の間に関係を築き維持するために必要なリズムである。

    忘却が∞の距離の固定化だとすると、空間の中にリズム=社会・世界との関係性を立ち上げ続けるには、忘却に対して踏みとどまり、著者のように深く思考を続ける姿勢が必要であるし、おそらくその先に人間的発露が生じる可能性がある。
    そういう意味では、本書は著者自信がリズム=関係性を立ち上げ続けるための、忘却に対する抵抗の記録であるとも言えるし、人はそれぞれ忘却してはならないものを抱えているのではないだろうか。

    では、自分にとっての忘却してはならないものとはなんだろうか。(すでに忘れてしまっていたり・・・)
     
     
    (環境や自然は建築を考える上でのコンテクストとしての存在を年々強めているが、このコンテクストと建築・人間との関係性が歴史的にどのように変遷してきたのか。その変遷の忘却に対する抵抗の書を、本書のような深度で誰か書いてくれないだろうか。)




    世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)

    河野 哲也 (著)
    東京大学出版会 (2022/3/14)

    2013年に刊行された『知の生態学転回』三巻本の続編とも言える新しい九巻シリーズのうちの一つ。
    一気に全巻は難しいと思い、まずはそのうちの一冊を買ってみた。
    (前回のシリーズも購入前はきっと読むのに苦戦するだろう、と思っていたけれども読み始めると面白くてどんどん読み進められたので、今回のシリーズも期待している。)

    間合いとリズム・流れ

    間(ま・あいだ・あわい・はざま)とは、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、拮抗する力が動的に均衡している様子である。日本語における、ま・あいだ・あわい・はざまといった読みのそれぞれには異なるニュアンスがあり、間に対する感覚の豊かさが表れている。
    また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。

    では、どのように間合いを捉えるか。

    間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。

    このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。

    ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。
    アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。

    本書では、このような感じで、環境と自己との関係を気象学や潮流の海洋物理学といった分野からアプローチするようなイメージが提出される。(ここまでの記述では意味が分からないと思うので関心のある方は本書を読んでみてください。)

    残念ながら、それぞれの学問分野によって具体的にどのように記述可能か、という肝心の部分はほとんど触れられていないが、まずは、このイメージの提出によって何かを拡張させることが目論まれているはずである。

    それは、動物の視点からみた環境との関わり合いを個別瞬間的に捉え、記述するようなイメージが強いアフォーダンスに、流体のイメージを重ねることによって、空間的および時間的に俯瞰・継続しながらアフォーダンスを捉えるイメージを付加しようとするものではないかと思う。(といっても、アフォーダンスが個別瞬間的な範囲に限定された概念であった、と言うことではない)

    あるいは、本書では特別言及されてはいないけれども、オートポイエーシスのようなシステム論的な思考への接続が目指されているように思う。
    本書でも、カップリングや産出、構成素といったシステム論における用語が(特段の説明がないまま)使用されており、オートポイエーシス・システムのようなものが前提とされていると思われるが、それによって、アフォーダンスを空間的・時間的に拡張するイメージを組み立てることが可能になっているように感じた。

    昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
    同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成))

    このブログでアフォーダンスやオートポイエーシスに触れるたびに、両者の相補的な性質・相性の良さを感じながら、あまり交わったものをみないことを不思議に感じていたし、自分でも両者を交えた形で書くことを試してはいただけに、両者の接続は個人的には好ましい傾向であり今後の転回が楽しみでもある。

    環境における無心としての主体

    また、間合いやリズムを通じて、デカルト的な心身二元論ではない主体の概念を再提出することも、本書の狙いであろう。

    アフォーダンスの概念を分かりづらく、誤解を招きやすいものにしているのは、動物の視点から環境を捉えることを徹底しながらデカルト的な見方を捨てることを要求する、この主体の概念である。
    それを能や剣道の例をもとに描き出していく。

    能においては地謡が語ることで場を用意し、ワキが二人称として存在することで初めてシテが主体(一人称)として現れる、というように、関係性の中に生まれる主体という世界観がある。
    この、シテの演者が、無心になり、ワキや地謡、観客の視線といった環境の中で受動的に自分が運ばれる、というような境地に至ることで、こわばりや不自然さが克服される。
    しかし、この状態はただ受け身であるのではなく、「離見の見」と呼ばれるようなメタ的な視点によって、自ら改変した環境の中ではじめて無心であれる、というような受け身である。
    それは遊びの世界とも呼べる超越的な世界であるが、自分がつくりだした環境によって相手にトリガーを引かせ、そのトリガーによって自らが無心に運ばれるという、いわば高等技術である。

    また、剣道における「後の先」という間合い(相手を攻撃するように仕向けて(トリガーを引かせて)無心に反撃する)というのも同様のありかたである。

    そして、意図や行為を主体の心が生みだすものと捉えるのではなく、環境との関わりの中で形成されていくものと捉え、環境および環境との関わりを、渦・潮流とその整流と捉えるというのが本書の提出するイメージである。


    ここまでは、私なりに捉えた本書の概要であるが、ここからは、建築を考える上でそれらはどのように展開が可能か、のとっかかりをメモ的に書いておきたい。

    建築との間に間合いはあるか ~出会いの作法とつくること

    最初に、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないもの、と書いたが、そうだとすると、意志を持たない建築との間に間合いというものはあり得るだろうか。

    本書でも日本庭園を例に出した上、そこに表現されているものを間合いと呼びたくなる、と書かれており、その理由は、日本庭園が移動し、身体で経験するものであり、差異化が常に待機状態であるから、とされている。しかし、それだけでは間合いがある、とは言い難い。
    また、最終的には「しかし、それよりも根源的な音楽性、すなわち「新しさの希求」は、このような対人的・二人称的なやり取りの中でしか経験できない(p191)」と結論付けられている。

    では、やはり建築との間に間合いというものはあり得ないのだろうか。

    それに対しては確信はないけれども、2つの可能性を書いておきたい。

    その可能性の一つは、技術・出会いの作法として以前書いたものである。
    さまざまな渦の間に間合いが生まれるとすれば、対する渦が多様な現れをし、こちらの間に応じて異なる間を返してくれることが必要だろう。

    技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-八 技術―出会いの方法)

    上記引用元では、重ね合わせ・保留・ずらしの3つを挙げたが、日本庭園のように間の変化を前提とし、変化の契機を内在した、出会いの作法とも呼べる技術には間合いが生まれる可能性が残されていないだろうか。

    可能性のもう一つは、つくること、である。

    先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか。 それには、3つのアプローチがあるように思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ))

    つくることを届けるということは、つくる人を届けると言い換えても良いだろう。
    上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。

    これらが、間合いに応じて異なる表情を出してくれるとすれば、そこに生命や創造性が内在したリズムが生まれはしないだろうか。
    それが実現されたとすれば、それはおそらく建築の奥行きと呼べるものであり、案外皆が追い求めているものなのかもしれない。

    オノマトペ 小さな矢印の群れ ハイパーサイクル

    また、世界を流体・渦として捉えるイメージを前にした時、3つの書物が頭に浮かんだ。

    オノマトペ

    うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

    下図は、この本を読んだときにオノマトペの印象から書いた人と物質との関係の漫画だけれども、世界を流体・渦と捉えるイメージと驚くほど重なる。(隈氏のイメージの元にアフォーダンスがあるので当然かもしれないが)
    onomatope

    小さな矢印の群れ

    同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』)

    この時も小さな矢印をその都度発見される自在さをもったものと捉えようとしているけれども、これも流体・渦の世界にかなり近い。
    この矢印に量子力学的な、もしくはネットワーク理論的なイメージを重ねることで、より豊かな場をイメージすることが可能にならないだろうか。

    ハイパーサイクル

    つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。 このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫))

    複数のシステムのカップリングによる創発のようなものの記述は河本英夫氏の方に一日の長がある気がするが、これに空間的なレイアウトのイメージを重ねたのが流体・渦の世界観かもしれない。

    新しさに開いておく ~モートンのリズム

    最後に、本書においてキー概念であるリズム。
    新しさを希求し続けることによって、生命や創造性が内在しているのがリズムであったが、これが、モートンを読んだときに曖昧だったイメージを補完してくれたように思う。

    モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

    に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    モートンは、ものごととのあいだに固定的な距離が生まれることを注意深く避けるために、独特のリズムを生きることを重要視しており、『自然なきエコロジー』は距離との格闘の書とも言える。

    その際、固定化を避けるリズムを立ち上げ続けるような作法が重要だと理解しつつ、リズムに関しては曖昧なイメージしか掴めていなかったのだが、間合いとはまさに固定化しない距離の作法のことであろう。本書によってモートンのリズムが少しイメージできるようになった気がする。




    USUKIYA 写真アップ


    USUKIYAの写真をアップしました。
    USUKIYA

    泉町にて営業を行っていたワイン食堂USUKIYAが、建物の解体に伴い霧島市牧園町に移転することになり、改装のお手伝いをさせていただきました。

    限られた予算の中、内外の塗装の大部分をオーナー自ら行うなど、施主・施工・設計チーム一丸となってなんとか完成にこぎつけられました。

    グランドオープンは8月3日になります。




    里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

    鷲谷 いづみ (著)
    岩波書店 (2011/6/22)

    結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
    勉誠出版 (2017/6/30)

    今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
    そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

    生態学的な里山

    最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
    単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

    本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
    河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
    同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

    しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
    本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

    人文学的な里山

    次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
    『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

    本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

    里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

    もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
    その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
    (その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
    このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

    その時、例えば、

    ・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
    ・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
    ・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

    などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

    里山なき生態系

    ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

    そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
    そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

    さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
    周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
    また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
    しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

    都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。




    近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)

    能作 文徳 (著)
    トゥーヴァージンズ (2021/2/10)

    現代建築家コンセプト・シリーズの一つであるが、いわゆる建築家然とした作品集とは異なり、エッセイ集のような体裁である。
    ここでは断片的な写真とともに、著者の現時点での思想が表明されているが、それに対して自分との距離のとり方が分からないかもしれないという気がして手を出せずにいた。

    それが最近、著者の問いかけに対して興味が持てそうな予感がしたので、おそらく今が読むタイミングだろうと手にとってみた。

    事物を追うものとリアリティ

    前回の『ブルーノ・ラトゥールの取説』は、ある意味これを読むための下準備でもあったのだが、ラトゥールの自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定する思想に触れた上で、建築家は「Form Giver」(形を与えるもの)であることに先んじて「things Follower」(事物を追う者)であるべきであるという。
    そこで目指されるのは「すでに確定された「原型」の建築ではなく、ありあわせのものをその都度集めた「雑種」の建築」であり、それは「ただの集積ではなく、物質やエネルギーの摂理に沿った精緻なデザインであるべきである」という。

    それは、おそらくあらゆる事物の存在を認めた上で事物そのものにフォーカスし、解像度を高めて取り扱う態度のことであろうが、その先で建築の形は「事物連関の中から湧き上がり、事後的に結晶化されるべきである」とされる。

    近代を手放そうとした先で、何が建築を建築たらしめることができるのか、というのが私の大きな関心の一つであるが、この、事後的に、結晶化されるべきである、という言葉に、著者の建築を追い求めようとする意志を感じる。(ただし、結晶化のイメージは固定的で完結するようなイメージではなく、生成の原理の中にあるものだろう。)

    「Form Giver」である前に「things Follower」であれ、ということに近いことを、佐々木正人がリアリティーのデザインに関するところで言っているのを思い出した。

    デザイナーは、道具の要素である「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。( 『アフォーダンス-新しい認知の理論』(p.105))

    著者の言う、「雑種」の建築は、近代化の過程で事物そのものから失われてしまったリアリティを再発見しようとするものかもしれないが、そのような感性は急速に存在感を増しつつあるように思う。

    近代化の還元主義がそういった事物のリアイティを覆い隠してしまうことによって成立していたのだとすると、いよいよそこから目をそらし続けることはできない時代に突入しつつある。

    それに対して独自の思想とスタンスを築きつつある著者の動向には今後も注目していきたい。




    ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)

    久保明教 (著)
    月曜社 (2019/8/9)

    ラトゥールは1947年生まれのフランスの哲学者・人類学者で、アクターネットワーク理論(Actor-Network-Theory ANT)で知られる。
    本書は著者が「極めて難解ではないが、極めて誤解しやすい」というラトゥールの思想を、「入門書や解説書ではなく、その言語運用を広範に活用できる道筋を精査する「取り扱い説明書」として」まとめたもの。

    では、ラトゥールの思想においてどのような道筋を見出すことが可能だろうか。少し考えてみたい。

    5つの問いに対して

    その道筋は「テクノロジーとは何か」、「科学とは何か」、「社会とは何か」、「近代とは何か」、「私たちとは何か」という五つの問いを通じて描かれるが、まずは、重要な概念及びそれらの問いに対する部分を抜き出しておきたい。

    アクターネットワーク論

    アクター(行為者)は人間に限定されない。差異を生みだす事によって他の事象の状態に変化を与えうるものはすべてアクターであり、それらは相互に独立したものでもない。各アクターの形態や性質は他のアクターとの関係の効果として生みだされる。アクターの働きによって異種混交的なネットワークが生みだされ、アクターはネットワークの働きによって定義され変化させられる。(p.49)

    「知る」こと

    より良く「知る」ことが問われる場は、世界と表象の対応ではなく、世界の内側にある諸要素の関係性に移ることになる。「知る」とは様々な要素を関係づけることであり、その良し悪しもまた関係づけの只中において生じる。(p.18)

    翻訳

    「翻訳」とは、あるアクターを起点にして種々のアクターが結び付けられ共に変化していく過程である。(p.49)

    非還元の原理

    いかなるものも、それ自体において、なにか他のものに還元可能であることも、還元不可能であることもない。(p.56)

    仲介と媒介

    それらは、入力に対して一義的に出力を返す仲介項(Intermediary)として把握されている。(p.61)

    二つのエージェントが互いに互いの行為を変容される媒介項(Mediation)として働くとき、それぞれがもともと持っていた目的が変化する(p.62)

    技術決定論と社会構成主義は、諸要素間の関係を主に仲介として捉えることで「(自然の事実に基づく)技術」や「社会」への還元を行う。ANTはそれらの関係を主に媒介として捉えることで還元主義を回避する。(p.63)

    こうした「ブラックボックス化」(Black Boxing)と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される。(p.65)

    構築

    ラトゥールの議論における科学的事実の「構築」とは、諸アクターが関係し合いながら、「循環する指示」を形成することである。「構築する」のは人間や社会ではなく、人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関である。翻訳を通じて隊列が整えられ多数の媒介項が少数の仲介項に変換されると、対象を観察し解釈する「主体」としての人間を、観察され解釈される「客体」としての物質に対置することが暫定的に可能になる。(p.140)

    「テクノロジーとは何か」

    「テクノロジー」と呼ばれる実態や独立した領域など存在しない。むしろテクノロジーとは、自然と社会、非人間と人間、科学と文化といった領域間の近代的区別が表面上のものに過ぎないことを常に突き付けてくる初関係の動態である。(p.73)

    「科学とは何か」

    科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。だが、外在は内在の効果にすぎない。(p.123)

    「社会とは何か」

    社会とは、近代的な人間たちの関係性に還元されるものではなく、人間と人間以外の存在者を含む異種混交的な関係性が絶えず新たに生みだされるプロセスである。社会を研究する者もまた、そうした関係性に内在するアクターに他ならない。(中略)「連関の社会学」の最終的な目的は、諸アクターと共に社会=集合体を組み直すことに置かれる。(p.159)

    「近代とはなにか」

    近代とは私たちが内在する異種混交的なアソシエーションを「自然」と「社会」に還元する純化の実践を表向きは固辞しながら、両者に仕分けされるはずの諸要素を暗黙裡に結びつける翻訳のプロセスを爆発的に拡張してきた機制である。近代を非近代と峻別する根拠とされてきた純化の水面下に膨大な翻訳と媒介の働きがあることを認めれば、額面通りの近代的世界は一度たりとも実現されなかったというノンモダニズムの視座が得られる。(p.219)

    「私たちとは何か」

    近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするものであり、分析するものとしての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける道筋を探るべきものである。(p.254)

    これらはもちろん、著者がラトゥールの思想を取説化する上でまとめたものの一部を抜き出したものに過ぎないので、詳細は本書もしくはラトゥールの著書を読んで頂きたいが、大まかな主旨はこれらの中に含まれているように思う。

    ノンモダニズム アクター及びネットワークとして捉えること

    ラトゥールはあらゆるものを自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定し、近代という前提を放棄して世界を捉える「ノンモダニズム」を提唱する。

    私たちが普段常識的に考えている近代的な思考形式、OSを否定することがラトゥールの言説を取り扱い注意なものとしているのかもしれないが、これまでこのブログにおいては、近代的な枠組みからいかにして自由になるか、というのが一つの大きなテーマであったため、それほどとっつきにくい印象は受けなかったし、これまで考えてきたことと重ねられる部分も多かった。(それこそが誤解である可能性は多分にある)

    人間ならざるものも含めたあらゆるものをアクターとして捉え、その関係性を近代的なフィルターを通さずに見ようとする姿勢はモートンに通ずるし、「前もって完全に理解することも制御することもできない」関係性の動態をこそ扱おうとする姿勢はオートポイエーシスに通ずるように思う。

    ノンモダニズムの作法 汎デザイン主義から内在的な汎構築主義へ

    これまで、このブログでは、すべてが別様でありうるポストモダニズムの作法として、「すべてはデザインである」という姿勢を肯定してきた。
    本書ではこの主張を、外在的な汎構築主義→「汎デザイン主義」と呼び、すべてが構築されたものであり、再構築可能であるとするラトゥールの議論がある意味この発想を基礎づけるという。

    しかし、ここでは、デザインするのは世界に外在する主体であるという、近代的な枠組みからは逃れられていない。

    では、ラトゥールの議論の先にある、内在的な汎構築主義にはどのような可能性があるだろうか。言い換えると、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、ノンモダニズムにおいてどのような作法にアップデートできるだろうか。

    それに対し、これまで考えてきたことを振り返りながら、とっかかりになりそうなこととして、「遊びの文脈」「ハイパーサイクル」「ネットワーク理論」「全体に従ってきたもの」の4つを挙げてみたい。

    遊びの文脈
    人間という主体を一旦放棄し、関係性の中に身を置くことは、自己の不確実性や受動性が増大していくことになる。
    それを「どのように引き受けながら初関係を組み直していけるのか」というのが一つテーマとなる。

    それに対しては、熊谷晋一郎が否応なしに生じる予測誤差を「痛み」ではなく「遊び」の文脈に置くことで、環境を制御するのではなく、環境(アクター)との相互作用の中でお互いに変化してく(翻訳)契機としていく姿勢が参考になるだろう。

    B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』
    二-十一 遊び―出会いの作法

    ハイパーサイクル
    近代的な「自然」や「社会」への還元を否定した上で、世界を変えようとすれば、自らアクターとなり、関係性の中に入り込むことで、異種混交的なネットワークを組み直すことを目指すことになる。ラトゥールは研究、分析、社会といったものへのアプローチを異種混交的なネットワークの組み直しと捉えるが、自らは無数にあるアクターの中の一つに過ぎず、前記のような不確実性や受動性と向き合わざるをえない。
    その時、どのように世界と関わりうるか。

    それに対しては、予測も制御もできないとされるオートポイエーシス・システムにおける関係性の扱い方がヒントになるように思う。
    河本英夫は臨床の現場での介入の仕方を例に、どのように他のシステムに関与可能か、もしくは創発や再編がどのように起こりうるかを考察している。
    ラトゥールのアクターネットワークを、河本の複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)として捉えると、世界との関わり方のヒントが見えてくるかもしれない。

    子育てをしていると、まったくままならないことばかりであるが、ままならないものを引き受けつつ、どう関わることが可能か、という問いと日々向き合わざるをえない。

    実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

    以上2つは、建築においては設計に対する姿勢のようなものとして現れると思われる。
    設計する場面では無数のアクターとの関係を整えていく必要に迫られるが、還元可能な概念にアクターを押し込めるのではなく、それらを引き受けつつどうやって創発や再編へとつなげていけるか、というのは重要なテーマである。
    また、建築を構成する各要素をアクターとして捉えた際に、そこを利用する人(アクター)とどのような関係性を結ぶことになるのか、という視線もまた重要である。

    ネットワーク理論
    ラトゥールはANTの発想を拡張することで、ネットワークでのアクターの関係の仕方を捉える存在様態論を探究しているようで、非常に興味深いのだが(検索した感じでは)残念ながら『存在様態探究』はまだ邦訳は出ていないようである。

    世界をアクターのネットワークと捉えた場合、ネットワークそのものの性質を探究するネットワーク理論にもヒントが含まれているように思われる。
    アクターの関係性や立ち位置に注目し、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった操作を意識して配置することで、ある種の空間の質が実現できるのではという気がしている。
    それは還元や構成に頼らない、ノンモダニズムな空間の質の探究につながりはしないだろうか。

    設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

    全体に従ってきたもの
    ラトゥールは近代的な枠組みからこぼれ落ちてあいまいなままであるものを「プラズマ」と呼ぶが、ANTの捉え方においては、それらも一つのアクターとして捉えられる。つまり、内在的な構築主義の中では取り扱いの対象となりうる。

    近代的な建築の考え方では、各要素や部分は、全体の理論に従うものとして取り扱うべきものであった。
    しかし、ラトゥールやモートンはそれらを、近代的な色眼鏡を外して、それそのものとして扱うことを推奨する。
    それによって、全体に奉仕すべき部分に過ぎなかったものを、一つのアクターとしていわば直接的に扱う道筋が見出される。

    増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』p.212)

    こうした全体に従ってきたものを開放する視線に、ノンモダニズムの建築の可能性があるかもしれない。
    同様に、塚本由晴のものや人間のふるまいに対する捉え方にも、全体に従ってきたものを開放する視線を感じる。
    また、自然を人間と自然とを切り分ける近代的な枠組みを外して、フラットに解像度高く捉える視線も同様である。

    あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)
    実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』
    生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)
    距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
    都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

    すべてはアクター

    さて、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、非還元主義のノンモダニズムにおいては「すべてはアクターである」と置き換えられる。
    そこでは、不確実性や受動性を引き受け、アクターとして世界に内在したままサイクルをまわし、アクターに新たな光を与える関係性を探りながら新しい空間の質を追い求める、そんな建築家像がイメージされる。

    (「すべてはアクターである」はさすがにそのまま過ぎるが他に思い浮かばない・・・関係性や構築も良さそうだけど分かりにくいし。いいのが思いついたら書き換えます。)




    都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

    メノ スヒルトハウゼン (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)
    草思社 (2020/8/18)

    『建築雑誌 2205 野生の都市 City is Already Wild』で紹介されていて関心をもったので読んでみたけれども、とても興味深く、各トピックがどれも魅力的に描かれていて読み物としても大変面白かった。

    生態系工学技術生物

    例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。 アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他))

    以前、アルコンゴマシジミとのエウメルスヒメバチの生態に関して書いたことがあったけれども、アリの生態を利用する個性豊かな「好蟻性生物」は約1万種存在すると推定されている。

    アリのような自分たちの生息域を改変・創造することで生態系を自ら創り出す生き物を「生態系工学技術生物」というそうだが、例えばビーバーもダムを造り水を堰き止めることで環境を大きく変え生態系を改変する。
    はるか以前、ビーバーがダムで渓流を堰き止めた事によって生態系が大きく変わった島があったが、それがマンハッタンである。
    そのマンハッタンの400年前、ヨーロッパ人が足を踏み入れる前の状態を再現した地図と現在の地図とを比較できるサイトが本書で紹介されていて、その2つを並べたのが下の画像である。


    The Welikia Project » Welikia Mapより
    ネタバレになってしまうので未読の方には申し訳ないが、このサイトの紹介に続くのが下記の文章。

    この文章が向かう先について、すでに読者はうすうす感づいているかもしれない。マナハッタ・プロジェクトの操作可能なマップのボタンをクリックすることで、私たちは2種類の生態系工学技術生物の間を繰り返し行き来しているのだ。(p.36)

    そう、左がビーバーによって改変された生態系であり、右が著者が「自然の究極的生態系工学技術生物」と呼ぶ、ホモ・サピエンスによって改変された生態系なのである。このホモ・サピエンスは「現代のマンハッタンという、彼らが自らのために工学的技術を駆使して創り出した生態系の中を、まるで巣の中のアリのように、走り回っている」。
    衛星写真の視点からそう言われると、人間がアリと同じようにただせわしなく働いている生き物の種の一つに過ぎないように見えてくるし、そこを棲家とする別の生き物の姿も頭に浮かんできそうである。

    本書で著者が示したいこと多くがこの部分に現れているように思う。
    それは、人間をアリやビーバーと同じように生態系を自ら創り出す生き物の一つとして、自然から切り離さずに捉える、という視点と、その人間が改変した環境にたくましく適応しながら「好人性生物」ともいえそうな生き物が暮らしていて、生態系を築いている、という視点である。
    そして、その生態系が築かれつつある今も、生き物たちは進化の只中にいる。

    都市環境に適応する生物と多様性

    進化とは人間の一生を遥かに超える長い年月の果てに達成されるものである。
    今までは、進化をそのように考えていたけれども、本書で示されるのは、それよりも遥かに早く環境に適応していく生物の姿である。

    その適応の仕方には、遺伝子によらないもの、柔らかい選択(前もって存在する遺伝子の変異体による進化)、硬い選択(突然変異による進化)、エピジェネティクス(塩基配列の変化なしの染色体の変化)など多様であるが、本書で紹介される多くがこれまで進化と呼んできたことと変わらないか、もしくはそのプロセスといえるものである。

    中でも、エピジェネティクスという言葉は初めて聞いた。
    実は、染色体のDNAは梱包材のようなもので包まれていて、これが剥がされ、DNAが露わになったときにはじめてDNAが機能するという。この梱包材の形状によってDNAの持つ機能が細かくチューニングされ、その形状が子に引き継がれることもあるそうなのだ。それが可能であれば、環境への適応はかなり柔軟性の高いものになりそうだ。

    本書では、数十年あるいは数年で生物が都市での新たな環境に高速で適応する姿が紹介されているが、その対応の速さに驚かされる。しかし、それは同時に、都市での変化が生物に強力な選択圧をかけていることも意味するだろう。

    また、都市の生態における種の多様性については相反する2つの見方ができる。

    ある面では都市での生態系は多様化しているといえる。
    ある調査では、この130年間で都市の植物の種類は478種から773種に増大し、逆に周辺の田園では1112種から745種に減少したという。
    田園での減少の大きな要因は農業の集約化・効率化であるが、都市においての増大の要因は街区や人工物などにより、生態系が断片化し小さな多様なニッチが存在することになったのことと、多国籍なバラエティ豊かな動植物が流入したことなどである。(この断片化された小さなニッチは時には都市での進化を保護することもある。)

    また、ある面では都市での生態系は均質化しているともいえる。
    世界中の生物が人間の営みによって、あらゆる場所に進出する機会を持っているし、都市がネットワーク化していることで、都市に生息する生物の環境を形作る新しい技術やそれによる変化は都市から都市へと拡散し世界中に広まっていき、似たような環境を形づくり、生態系は世界規模で均質化していく(遠隔連携(テレカップリング))。

    これらはどういうことを示しているだろうか。
    都市化が生物に過酷な試練とチャンスを課しているのは間違いない。
    人間を生態系工学技術生物の一種に過ぎないと見たときに、人間と他の生態系工学技術生物と違う点は、一つは、人間がその技術を行使する規模を際限なく拡大し続けていることであり、もう一つはその技術の使い方を自ら改変しうるということである。
    結果を見る限りどこまで好ましく改変できるかは少し怪しいけれども、後者の可能性については考えてみる余地がある。

    「ヒトという種はこの惑星の遺伝子構成を変化させています。他の生き物たちと共進化する責任とチャンスの双方とも、わたしたち人間の手の内にあるのです。人間がこの難題に責任をもって挑戦するかどうか、わたしにはわかりませんが」。アルベルティが指摘する挑戦には、わたしたちがこれから都市環境をいかに設計し、管理していくかという課題への大きな暗示が含まれている。(p.298)

    その設計し、管理できるという近代的意識そのものが、人新生といわれるほどまで環境破壊を推し進めてきた要因であるのは間違いない。そこに楽観的に乗っかることには危険性も感じるが、都市化の進展を避けられないものとして(半ば諦めとともに)受け入れたときに、わたしたちにはどのような態度が可能だろうか。

    著者の思い

    都市の中での自然を理解してもらおうとしたとき、著者は開発者の自然破壊を正当化している、といった非難を受けることが多いという。
    しかし、著者は野生の土地を保全する努力の価値を低く見ているのではなく、「世界の膨大な生物種の保全を都市に委ねることはできない」ことは百も承知である。

    少年時代に甲虫の採集とバードウォッチングに明け暮れていた著者は、そのフィールドが都市に呑み込まれていく時、

    初めてブルドーザーがわたしの活動の場を均し始めるのを、わたしは、両の手を怒りで握り締め、無力さに悔し涙を流しつつ眺め、永遠に失われてしまった自然の仇をとることを誓った。(p.20)

    と書いている。
    そして本書の最後で、長年、訪問を避けてきたというかつてのフィールドを再び訪れたときは「文字通り胸がえぐられるような思いだった」という。
    著者が、都市で繰り広げられる生態系の豊かさに偏りがあることを自覚しつつ、それでも、そこに関わり続けながら本書を記したのは、一生ジャングルに足を踏み入れることのない多くの人が目にする自然は都市の隙間やその近辺であるからこそ、そこにある生態系の面白さに気づいて欲しいからであり、そういった都市の中で新しい生態系が育っていくことを許容する社会を望むからである。(著者は「雑草」や「害獣(虫)」と罵って外来種を根こそぎにするような従来の保全活動を批判している)

    私も子供の頃は虫好きで、原っぱや山のバッタや蝶、カブトやクワガタ、田んぼの水棲昆虫、用水路のザリガニを捕まえて来ては家で飼っていたのだけれども、石積みの用水路がコンクリートのU字溝に置き換えられて生き物の姿が消えたときは大人を憎んだものだった。

    その後、大人になり、実家である屋久島の農業を継ぐという選択肢をなくし、(鹿児島なので近くに自然は残っているけれども)都市部で生活をするようになってからは、子供の頃の「大人を憎んだ」気持ちはある意味では見ないようにしてきたかもしれない。
    本書はそんな自分に、今ここでの身近なところにいる生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれたように思う。

    解像度を高め余白を設計する

    最後に建築に関するところを書いておきたい。

    先に書いたように、著者は都市の中で新しい生態系が育っていくような社会が、例えば都市計画・建築設計などによって達成されることを願っている。

    そのために(詳細には触れないけれども)例えば「ダーウイン式都市づくりのためのガイドライン」として、4つの原則、「成長するにまかせよ」「必ずしも在来種でなくても良い」「元の自然を拠点として守る」「栄光のある孤立」を提示している。
    ここには、全てを設計・管理「しない」というような姿勢が見て取れるし、著者の、人間や都市を自然と切り離さないで捉えようとする姿勢の中にはモートン的な思想も垣間見えるように思う。

    それでは、例えば都市部で設計をすることを考えた時に何が変えられるだろうか。

    先程「生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれた」と書いたけれども、一つは、都市の中での生き物に対する解像度を高める、ということだろう。
    前回のモートンや本書を読んで、生き物やものに対する見方がなんとなくフラットになってきたように感じるし、見方が変わることで設計も少しずつ変えられそうな予感がある。

    もう一つは、全てを設計・管理しないような、設計の手法を考えることだろう。
    それは、例えば『小さな風景からの学び』のところで書いたような、新しい状況が生まれるような余白を設計するようなことかもしれないし、そこで新しく生まれるかもしれない状況に対する想像力を逞しくするためにも解像度を高めておくことは重要である。

    外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。
    そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。

    ただし、管理できないものは良くないものとして消し去ろうとする近代的な意識が根強い中で、お客さんにどう理解してもらうかが課題かもしれない。
    また、外構や植栽も予算の関係で削られることが多い中で、実現にはコストが一つのハードルになりそうだ。
    (著者は「成長するにまかせよ」の原則として「必要なのは何も植えないこと。おそらくは土壌すら加えないこと(p.306)」であると書いているが、それができればコストも抑えられる?)



    理解されないかもしれないけれども、うちの事務所兼住宅のわずか2㎡ほどの芝生を貼った場所に、勝手に生えてくる雑草が好きだ。このタンポポも勝手に飛んできて、年に何度も花と綿毛を付けてくれる。また、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』で紹介されていた協生農法も同じ意味で興味を持ちはじめたところ。




    2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)

    飛田 雅則 (著)
    日本経済新聞出版 (2021/5/26)

    『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』と一緒に買った本。

    前回のはレアメタルに特化した本であったが、こちらは資源全般について世界的な傾向をコンパクトにまとめたもの。
    とは言え、時勢柄、やはりレアメタル、そして中国が大きな存在感を示している。

    中国、中東、ロシア、アフリカ、日本と各地の事情が描かれるが、ウクライナ侵攻前のロシアの比較的近年(2021/5出版)のエネルギー事情も描かれており、概要を掴むためには一読の価値があるかと思う。

    「はじめに」で2020年に2羽のスワンが現れたという。
    一羽はコロナを契機に起こった金融市場でのリスクである「ブラックスワン」、もう一羽は、脱炭素化時代の気候変動リスクの「グリーンスワン」。
    (ちなみに、「ブラック・スワンという名前は、オーストラリアで黒い白鳥が発見されたことで、白鳥は白いものという、それまで長い間信じられてきた常識が覆された話に由来する。(『不確実性の高まる世界において。デジタル化がオフィス市場にもたらす影響の考察 |ニッセイ基礎研究所』より)」そう。)

    どちらも、今後の世界のあり方に大きな影響を与えることは間違いない。

    あいかわらず、中国の勢いは凄まじく、「一帯一路」構想として資源国に投資して関係を深めていく様子が描かれるが、「借金の返済の代わりに資源権益やインフラを手渡すことになる「債務のワナ」に陥る」リスクがくすぶっている。
    世界的に資源の調達リスクは高まるばかりだが、2010年のレアアース・ショック以降、日本がレアアースの中国依存度を9割から6割に下げていたり、コンゴなどの人権問題や紛争地と関連のある鉱物を管理・除外する制度をデジタル技術も取り入れながら整えつつあったり、と、改善の流れも生まれつつある。

    とは言え、

    今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
    進むも退くも、どちらも茨の道だ。
    矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。 しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
    エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン))

    という、技術と意識の2つの革命が必要であるということには変わりない。
    さらには、資源の問題と平和の問題のあいだにも深いつながりがあり、課題は山積みである。

    脱炭素の号令がなった今、世界はダイナミックに動いています。本書では、その激動の一端をお伝えしましたが、まだ序章に過ぎません。鉱物資源を軸に形成される世界の新たな秩序を目撃するのは、読者の皆さんなのです。(p.264)

    序章に過ぎない。これが、本書を読んだ一番の印象かもしれない。




    距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)

    ティモシー・モートン (著), 篠原 雅武 (翻訳)
    ‎ 以文社 (2018/11/20)

    エコロジーという言葉の使われ方に漠然とした違和感を感じる機会が増えてきている気がする。
    そんななか、エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か。
    もはや避けがたいこの疑問に対し、これはモートンを一度は読んでみないといけない、と手にとってみた。

    何度も読んでみたけれども、実際のところ、どれだけ理解できたかは自信がない。
    自信はないのだが、現時点で感じたことを残すために、キーワードをもとに書いておきたい。
    (内容の解釈に対しては、ある程度断定的に書くけれども、おそらく誤解が含まれていると思う。その際はご指摘いただけるとありがたい。)

    美的なものと距離の問題

    美的なものは距離の産物でもある(p.48)

    本書で頻出する「美的なもの」とは何か。それを正確に掴むためにはアドルノを読む必要がありそうだけども、とりあえずは「美的なものとは距離の問題である」ということが重要なポイントのようだ。
    いや、むしろ本書は一貫して距離の問題を取り扱っていると言ってもよい。

    例えば「これは美的である」と言った時、その対象と主体とのあいだに一定の距離が出現する。自分は「ここ」にいて、美的であるものを自分とは少し離れた「あそこ」に置くことで対象化する。
    その際、この距離が固定されてしまうこと、ものや概念や思想が、ある位置で凝り固まってしまって身動きができない状態にあることによって、多くのものを覆い隠してしまうことが問題となる。
    この距離というものは曲者で、距離を取り払ったかと思うと、まさにその事によって新たに距離が再出現してしまう。
    それに対して何ができるか。本書ではその距離との格闘が描かれる。

    著者は、仮想現実と同様にエコロジカルな緊急事態は、これまでこの立場を保持したことがない、という。そこでは距離はまるであてにはならないが、安全網としての距離が仮定され、そのことが美的なものを、固着したイデオロギーを産出する。
    このような事態のなか、どのようにその距離と付き合うことができるか、が課題となる。

    自然なきエコロジー

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)

    著者は自然の観念に対し、「文化や哲学や政治や芸術が厳密にエコロジカルな形態にふさわしくなるのを妨げ」、「地球との適切な関係」だけでなく「諸々の生命形態との適切な関係」をも妨げるという。
    そして「いかにして自然が超越論的な原則となってしまったか」を示し、自然の概念を「本当にやめてしまえ」という。

    「自然」という概念は、距離を設定し、美的なものとなり、特定のイデオロギーを固着しようとする「中心点」である。この固定化してしまう性質、概念化して「終えてしまう」ことが本当にエコロジカルとなることを阻害する。この固着を作動しないようにするのが、本書の目論見である。

    本書ではその固定化する性質を「美しき魂症候群」と呼んでいるが、著者が本書でもっとも重要な観念の一つという「美しき魂」に関しては、ヘーゲルの議論を引く必要がありそうなので、それについては後述したい。

    消費主義

    オーガニックな食材を買うことが本当に惑星を救うのか。ロマン主義の消費主義は、選択についての考え方を、広げると同時に狭めた。私たちには『選択肢」があるという気分は、ユートピア的な欲望を高めていくが、可能性だけではなく社会的な隘路の徴候でもある。(p.226)

    消費主義についてはあまり理解できているとは言えないが、例えば、SDGsという言葉が安易に消費されていく現状が頭に浮かぶ。

    消費そのものではなく消費主義。人は、(実際に消費をせずとも拒否という形で)特定の種類の消費者として現れ、消費主義者となる。
    消費主義者は再帰的に消費することを消費する。自然という概念を消費する。
    ロマン主義時代以来の資本主義が、逆説的に自由に選択された自己愛を売りつける。
    そこでは、距離が、美的なものが産出される。

    そして、ロマン主義の消費主義が生産した主観的状態は、美しき魂となる。

    良心、美しき魂、悪とその赦免

    「美しき魂」とは、自分の良心の正しさを確信し、他をみることをしない状態のことで、極度に固定化されたものと言って良いかもしれない。
    (主には、ディープエコロジーなどの環境主義に対して使っていると思われる。)
    この「美しき魂」はヘーゲルの『精神現象学』から引いているけれども、私はよく分かっていなかったので、大学の講義録(音声付き)を見つけ、それを何度か視聴した。
    高村是懿哲学講座 ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ/12講

    ヘーゲルはカントの道徳論に含まれる多くの矛盾を乗り越えるために、一旦自己に帰り、自己の信念・良心をベースとした道徳を考える。それは、自己の内に確信を持ち、外部を消し去った純粋な姿の「美しい魂」であるが、主観と客観の相互作用である「意識」からすると最も貧しい形態であるとされる。
    そこに欠けているのは外化の力であるが、それは純粋な姿が崩れるのをおそれて現実との触れ合いから逃れ内面にとどまる、行動する力を持たない良心である。
    しかし、良心は行動してこそであるから、行動を起こそうとする、
    その際、一般的意識として考えられる善に対して、自己の良心は特殊な個別的意識としての悪であることを突き付けられる。
    そこで、自己が悪であること、さらには相手(現実では一般的意識も多数の個別的意識として現れる)が悪であることを認め、赦すことができた時、初めて相互承認が生まれ自己を一般者とすることができる。
    そして、それによって自己疎外的精神から回復することができる。

    というのがその概要である。

    以上を前提として、それに対して著者はどのような態度が可能だと考えているかをみてみたい。

    美しき魂は、その「美しき自然」についての説話とともに、集団に向けて説教する。(中略)だがそれをどうやって乗り越えるのか。私たちは慎重に、非暴力的に動かねばならない。この章の最初のあたりの節は、自然についての数多くの考えが、機械と資本主義の時代につくりだされた無力なイデオロギー的な構築物であると結論した。それから私たちは、エコロジカルな主体の位置はいかにして消費主義と同一になるかを見てきた。そして、それから、この外皮を引き裂こうとするいかなる試みも現存の条件を再生産することにしかならないことを見てきた。「鏡の国のアリス」でのように、とりわけ脱出しようとするとき私たちは途方にくれている。途方にくれた状態で、より賢くなることができるのかどうか考えてみよう。(p.268)

    美しき魂の説教を、距離の問題を、非暴力的なかたちでどのように乗り越えることができるだろうか。

    美しき魂をはげしく非難したところで、うまくはいかない。じつのところ、美しき魂は、同じコインの両面でしかない選択肢のところで頑張っている。「そこでただ座るだけでなく、なんかしよう」という呼びかけは、「ただ何かするだけでなく、そこに座ろう」という呼び掛けをひっくり返したものでしかない。美しき魂を虜にしているまさにそのこの(暴力、非暴力、行動、瞑想)についてさらに徹底的に探究することの準備はできている。(p.266)

    アンビエンスとリズム

    アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚を意味している。それは、なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく-こう考えるのは、アインシュタインのあとには奇妙なものと思われるはずがない-、物質的であり物理的でもある。(p.66)

    著者は、世界の感触のようなものをアンビエンス、とりまくものと呼び、自然もとりまくものの一つとして捉えようとする。
    「アンビエンスの言葉を選ぶのは、一つには、環境の観念をよくわからないものにするためである(p.67)」というように、この言葉によって、環境や自然が美的なものとなることを回避しようと試みる。

    第2章では、ロマン主義が環境を扱うものとして、世界、国家、システム、場、身体、有機体と全体論といった観念を分析するが、これらは美的なものの観念に巻き込まれてるため、「いずれもが、十分ではない」と結論する。

    訳者は別の書で、

    モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

    というが、美的なものとなることを注意深く回避しながら、このリズムを感じ取れる感性を開いておくための観念がアンビエンス、とりまくものなのかもしれない。

    アンビエント詩学 距離を揺さぶる振動と減速

    これが、私たちが雰囲気もしくは環境としての媒質-背景もしくは「場」-と物質的な事物としての媒質-前景にあるなにものか-とのあいだに私たちが設ける通常の区別を掘り崩す。一般的にいうと、アンビエント詩学は、背景と全景のあいだの通常の区別を掘り崩す。(p.75)

    アンビエント詩学は、内と外の差異を実際のところ解体しない。たとえ全力でそうしているという幻想を生じさせようとしたところで、そうなのである。再-刻印は、その区別を完全になくすか、もしくはその区別をつくりだす。(p.100)

    第1章では、エコロジカルな詩などを分析するための理論としてアンビエント詩学の概要が示される。それは、とりまくものと距離を扱うものである。
    その主要な要素として演出、中間、音質、風音、トーン、再-刻印が取り上げられる。詳細は本書に譲るとして、それらについての簡単なメモを書いておく。

    ・演出・・・【結果】感触を伝える直接性。美学的な警戒心を一時的休止するように促し、その距離を砕く。
    ・中間的なもの・・・【効果】交話的。知覚され、コミュニケーションが起こる次元。美的な目的である知覚の過程を長引かせる。
    ・音質・・・【効果】記号ではなく物として発せられている音。極めて中間的・環境的で、媒質を前景化する。
    ・風音・・・【効果】はっきりとした源がなく、主体無しで続く過程の感覚を定着させる。共感覚的。気散じへと導く。不安を喚起。
    ・トーン・・・【装飾】緊張と緩和、振動の質感。「雰囲気」を物のようなものとして説明する。量・振れ幅、崇高と静止。
    ・再-刻印・・・【装置】背景と前景、空間と場所を分離する裂け目を産出する。量子力学的な一回限りの賭け。

    アンビエント詩学は主に、美的なものの距離を砕こうとするが、同時に再-刻印によってそれを生み出しもする。
    背景と前景とのあいだの関係を揺さぶり続けるもの、固着を逃れ続ける振動・リズムのようなものかもしれない。

    私たちは演出の観念に戻ってきたが、それがなにかをいっそう理解している。演出は美的な次元を解体するように思われるが、なぜならそれは再-刻印とのかならずや有限である戯れに基づくからだ。(p.99)

    アンビエントの修辞が素晴らしいのは、連れ去る一瞬のあいだ、何かがあいだにあるかのように見せるからである。(p.97)

    おそらく、美的なものを完全に砕くことはできない。距離を消し去ることができないときに取れる戦略の一つが振動であり、もう一つが減速である。

    事物の一覧をひとくくりにしてそれを「自然」と呼称するのではなく、減速しそして一覧をバラバラにして、一覧を作成するという考え方そのものを疑問に付すのが目標である。『自然なきエコロジー』は、本当に理論的な反省が可能になるのは思考が遅くなる時だけであるという考えを真面目に受け取る。(p.24)

    それゆえに、アンビエント詩学にある、不気味で前未来的で事後的な-さらに憂鬱な-質感は、皮肉にも的確である。それは、事物が生起するやり方にある、必然的な遅延を迫っていく。(p.150)

    振動し続けること、もしくは遅くなること。この、固着を逃れようとする姿勢は、(私の理解力の問題でなければ)本書全体にも通底する。
    アンビエンス、アンビエント詩学、エコミメーシス、エコクリティシズム、ロマン主義、アイロニー…さまざまな言葉がなんども現れるが、結局のところ、著者がこれらを肯定しているのか否定しているのか、はっきりしたことがなかなか見えてこない。
    一気に距離を詰めることを避け、ゆっくりと観察・分析し、考えるのみである。
    このことが本書を掴みづらいものにしているが、同時にその姿勢を示してもいる。

    ダークエコロジー 赦し 溝を認める

    美しき魂症候群を抜け出ることについては、思考の豊かな水脈がある。「赦し」が手がかりになる。(中略)それは、観念と記号のあいだの溝を、さらには異なる自己のあいだの溝を認めることにかかわるし、美しき魂と「美しき自然」の溝を認めることにかかわる。エコロジーは二元論から一元論へと行きたいのだが、早まらなくていい。何らかの虚偽の一なるものを探し求めるよりはむしろ、溝を認めるほうが、逆説的にも諸々のものにいっそう忠実になることができるようになる。私たちは後者を、ダークエコロジーの名目のもとで探究することになるだろう。
    ありのままの実践かもしくは純粋な観念の観点で考えることは、美しき魂の牢獄の中に留まることである。(p.274)

    第3章では、ヘーゲルにならい、「ダークエコロジー」の名のもと赦しにおいて美しき魂を抜け出そうとしていく。

    アンビエンス、とりまくものには開放的な潜在力があるが、一方で内部と外部というような区分に関する思考に取り込まれやすくもある。もし、「アンビエンスが定まった場所になり、美的な次元の改良版になるのだとしたら、それは開放の潜在能力を捨て去ってしまう(p.275)」ことになる。
    このアンビエンスの問題を解決する方法にはどのようなものがあるか。
    それについても簡単にまとめておきたい。

    並列 内容と枠

    再-刻印は量子的な出来事である。背景と前景のあいだにはなにもない。そして枠と内容のあいだにもなにもない。徹底的な並置が枠と内容にかかわるのは、二元論(それらの絶対的な差異)と一元論(それらの絶対的な同一性)の両方に挑むようにしてである。(p.280)

    内容と枠とを、書くこととイデオロギーの格子とを、全景的な展望と特定化された展望とを並置する。それらの溝は保たれたままだが、問いに付されることで、「全体論的でないエコロジカルな旅へと連れて行く」。

    内容を枠の内に入れずに並置することで、美的な次元を開いたままにしておく。特殊と一般との並置は、特殊な個別的意識としての悪を赦すことで一般者となり疎外から回復する、とするヘーゲルの議論にも似ている。
    特殊と一般を差異と同一性の宙吊りな状態を保つことで、固着化を免れる。

    また、並置は、複雑なリズムを立ち上げ、振動としての雰囲気を導き出す。このリズムによって人間性の条件を保つ。

    キッチュ(低俗なもの) とぬるぬるしたもの

    馬鹿げたものは古臭い美的商品を「アイロニカル」に(距離をおいて)領有したものを意味するのに対し、低俗的なものは「高尚な」意味では普通に美的と考えられていない対象を心の底から楽しむことを意味している。(p.293)

    美的なものは、低俗なものをただ否認し、事物を距離を隔てたところに置いておくにすぎない。逆に言えば、低俗なものは美的なものに絡め取られ難い、エコロジカルなものと言えるかもしれない。
    著者は「低俗なものを徹底的に掘り下げさらにはそこに同一化するという、逆説的な方法」を試してみるべきという。

    船乗りは「生きているものはなんであろうと一緒に生きているものとして関わることを受け入れる」。「なんであろうと」というのが重要である。自然なきエコロジーはこの「なんであろうと」にある開放性を必要とするが、それはおそらくは、カリフォルニアの高校生にある、気を散らしているがアイロニカルな気安さにおいて明瞭になっている。(p.306)

    エコロジカルな芸術は、ぬるぬるしたものを、視野の内にとどめておくことを義務としている。このことは、自然のかわいらしい像、もしくは崇高な像を描きだそうとするのではなく、むしろ、エコミメーシスの裏面を、つまりはアンビエント詩学の振動的で推移する特質を呼び覚ますことを意味している。徹底的に低俗的なものは、二元論をなくしてしまうのではなく、「私」と「ぬるぬるしたもの」のあいだの差異を活用する。(中略)ニュー・エイジやディープエコロジーの考えでは自然は不可思議な調和であるのに対し、低俗なもののエコロジーは実存にかかわる生活の実質を確立している。(p.309)

    このあたりをどう解釈してよいかあまり分かっていないが、ここでも、キッチュであり、ぬるぬるとしたもの(おぞましいもの)を受け入れることが、リズムの雰囲気を立ち上げ、人間性を保持することの条件となるのではないだろうか。

    ダークエコロジーはもしそれが実践されていたとしたら、レプリカントを潜在的に完全な主体としてではなくレプリカントとして愛するよう私たちに命ずることになっただろう。私たちのうちにおいてもっとも客体化されているものとしての「無数のどろどろした事物」の価値を正しく認める、ということである。これが本当にエコロジカルな倫理的行為である。(p.378)

    ダークエコロジーは、他者を自己へと転じることによってではなく、倒錯的にも、事物がそれがあるがままに放置することで、美しき魂のジレンマを乗り越える。そのものであるために、赦しにおいては、カエルにキスするやいなやそれが王子に転じることなどとは期待されない。かくして赦すことは、根本的にエコロジカルな好意である。それは、エコロジカルなものにかんして確立された概念の全てを超えたところでエコロジーを再定義する行為であり、他者と徹底的に一緒にいようとする行為である。(p.378)

    「フランケンシュタイン」の怪物を愛することもまた、「エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定(p.377)」させられることを受け入れ、リズムを立ち上げるために保持すべきものである。
    ここでいう赦しとは、その存在を許すことではなく、そのものであることを受け入れ、固着的な美的な判断を棄て去ることである。

    気散じ アウラの開放と振動

    気散じは、対象との距離を解除し、かくしてそれの美学化を解除する。つまり、美学化と自然支配の双方が立脚する、主体と客体の二元論を崩壊させる。(p.315)

    したがって、アウラを解消することは、エコミメーシスが生じさせてくる雰囲気を徹底的に問うことである。(p.324)

    著者は美学と雰囲気に関連するものとして、ベンヤミンからアウラと気散じの2つの概念を取り出す。

    アウラはそれが浸る崇高と価値の雰囲気であり、遠さが一回的に現れているものである。アウラを解消することはそのものから美的な距離を取り除くことになるが、著者は、アウラをあまりにも早急に取り除くのではなく、ゆくっり近づくことを考える。
    ゆっくりと近づくことができれば、そこに枠と内容の並置によるリズムと雰囲気が残る。また、それによって「私」としての主体性が揺さぶられ、「一度揺さぶられた「私」がみずからの限界と有限性を把握し、他なるもののを思考することの決定的な可能性(p.326)」を開くという。またそこでは同時に「私」の脆さが現れる。

    気散じは無造作な身体的没入の共感覚的な混合であるが、美学的な距離を崩壊させることで、美しき魂を開放する。
    「気散じは、現代の資本主義的な生産と技術の様式であるが」、自然を「あちら側」ではなく「まさにここ」に没入的に感覚させる点において、著者は可能性をみる。そこにはロマン主義的な視点にとらわれずに現在の姿を受け入れようとする著者の姿勢が透けて見える気がする。

    とどまることの環境哲学

    私は徹底的に環境に優しくなろうとする考えに反対して書いてきたのではない。皮肉にも、徹底的に環境にやさしい思想について徹底的に考えることは、自然の概念を手放すことである。すなわち、私たちと彼ら、私たちとそれ、私たちと「彼方にあるもの」のあいだの美的な距離を維持するものとしての自然の観念を手放すことである。(中略)私たちは距離そのものの観念を問題にしなくてはならない。もしも、人間ならざるものと一緒になろうとあせるあまり距離を早急に棄て去ろうとするならば、距離についての私たちの偏見、観念に、つまりは「彼ら」についての観念にとらわれて終わることになるだろう。おそらくは、距離においてとどまるのは、人間ならざるものへとかかわるもっともたしかなやり方である。
    虹の切れる端に二元論的でない宝物を設定するのではなく、二元論的であると感じられるものにおいてとどまることができる。ここに留まるのは、いっそう二元論的でない方法である。(中略)到来することになる、絶対的に未知のことへと心をひらいておくこと、これが究極の合理性である。(p.396)

    前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
    自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。

    おわりに

    著者の思想には、環境との関わり方という点でアフォーダンスとの共通点や、道元の「山是山(山は山ではない、山である)といった言葉に通じるものを感じた。

    リズム、アンビエント詩学、並列、キッチュ、気散じといったものは、建築-距離という問題に取り組む建築-の指針とすることも可能だろう。
    それによって可能となる建築があるはずであるが、以前感じた

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    という感覚はおそらくそれほど外れていない気がする。

    また、最近、生活の何かを変えないといけないと感じていて、プチ・二拠点居住をすべく山間の土地を探している。
    それは、「自然」というものを賛美するため、というよりは、自然をよりフラットな状態で感じるためであり、もしかしたら、そのために二拠点であることが重要になってくるかもしれない。
    そこから何が見えてくるかは今は分からないけれども、越境者であることに近づくことで見えてくるものがあるのではないだろうか。

    その先に「エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か」という最初の問いへの答えがあるような気がしている。




    新たにシステムを始動させる B254 『メタアーキテクト──次世代のための建築』(秋吉浩気)

    秋吉浩気 (著)
    スペルプラーツ (2022/2/28)

    『建築家の解体 Reinventing Architects』を読んで興味を持ったので購入。

    『建築家の解体』は著者が肥やしとしたであろう先駆者へのインタビューであったが、本書はその肥やしをもとに、著者が日本において展開してきたことの理論と実践の記録である。

    理論からビジョンと実践へ

    それぞれの理論は、それをとことん深掘りすることよりは、広範な興味を関連付け、一つのビジョンへと取りまとめたことに価値があるように感じた。
    そのビジョンを具体的な実践へと結びつけていくことで、それら関係性を絶えず磨き、変化させていっていること、現在進行系のはたらきの中においていることに、著者の起業家としての本領が発揮されている。

    それぞれの論については多くの人が感じていたり議論されていることがベースとなっており、ここ最近このブログで取り上げた問題意識と重なる部分も多い。
    それが、かたち・意匠の問題だけでなく、実践の問題としてひとつの流れに位置づけられていることに本書の意義があると思うけれども、ここでは本書でも言及されているオートポイエーシスという視点から考えてみたい。

    3つのオートポイエーシスシステム

    オートポイエーシスは、組織(かたち)ではなく、システム(はたらき)に関する論である。

    ”この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)”
    物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。
    ”簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)”(オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

    視点によっていくつも抜き出すことは可能かとおもうけれども、本書の中から3つのオートポイエーシス的なシステムを取り上げてみる。

    1.建築物に組み込まれたオートポイエーシスシステム
    この本の最後で、「自己増殖する、オートポイエーシスとしての建築(p.185)」が紹介されているが、(藤村氏がツイッターで軽く触れていたけれども)そういう構想自体は著者でなくてもできるもので真新しい思想ではない。
    しかし、これまでの自己増殖的な建築のイメージにはあまりなかった、自らを増殖させる生産システムが建築に組み込まれているところや、生産とともにデータベース化されることで生産システムの発展に追随して建築も発展できるかもしれないところに可能性を感じる。

    建築という装飾的な物語を物理的に構築することで、それを体験した次の世代に意思が託され、プロジェクトが継続していく。次の世代の人間は、そこまでに蓄積されたシステムを継承し、次なる反復(イテレーション)を起こし、そのまた次の世代にバトンは渡される。建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館であり、建築とはそれを次世代に受け渡すためのアーキテクチャ(システム)なのだ。(p.188)

    この建築を通じて意思が世代を超えて引き渡されるということ、「建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館」である、ということは、建築が時代を超えて共有可能なメディアであり、さまざまな出会いを支える特性を持つということと重なる。

    建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 一 出会いについて)

    建築がものとしてそこにあることと、それを取り巻くはたらきが生き続けること、建築が生き続けるにはこのどちらもが必要だけれども、ビルドデザインの思想はこれを支えるものになるかもしれない。

    2.分散化した生産ネットワークとしてのオートポイエーシスシステム
    まれびとの家は半径10kn圏内で、木材の伐採から製材・加工、組立までが完結しているという。

    工業化時代におけるプレファブリケーションは、物の移動が地球規模で行われる中央集権型の工業化を背景にしていた。一方、情報化を背景とする分散型のデジタルファブリケーションでは物質の輸送が不要となり、データの輸送だけで生産が完結する。つまり、デジタルヴァナキュラーの時代においては、グローバルに展開したデータを活用しつつ、身近で調達できる地域固有の素材を用いて建築をつくるようになる。(p.80)

    日本の森林は険しい立地が多く、山主の多くが小規模に分散している状況であり、大規模化によるスケールメリットを追いすぎないフットワークの軽い事業形態や、伐採から利用・商品化へのコンパクトな流れをつくることも必要だろう。分散化した小さな圏域で完結し、自走するような生産ネットワークシステムを駆動するために、デジタルファブリケーションは大きな可能性を秘めているのかもしれない。

    3.ビルドデザインシステムとしてのオートポイエーシスシステム
    本書におけるオートポイエーシスシステムのはたらきを考えた時、おそらくこれが本命だと思う。

    建築あるいは設計という行為は、建築(建築単体ではなく、建築という分野そのもの)というオートポイエーシス・システムのはたらきを駆動させるための一つの構成素であると言えるかもしれない。建築というシステムを駆動することで、それ以外の施主や社会といったものとカップリングによる相互影響関係をもつことができる。そこでは、建築はあくまで自律的システムであり、閉じたものである。

    その建築システム自体は、価値あるもので停止すべきではないと思うけれども、そこに著者も感じているような閉鎖性があるのも確かであろうし、そこに何かしら無力感のようなものを感じる人も多いのではないだろうか。(といっても建築システムに意味がないとは思わない。建築をオートポイエーシス、一つの生命のように考えると、オートポイエーシスである以上、入力も出力もない閉じた自律的システムであり、それ以外のシステムはあくまで環境でしかないといえる。しかし、その他の(動植物に限らず学問や美術・文化なども含めた)あらゆるシステムと同様に存在そのもの、もしくはそれによって多様性が担保されることに意味があるように思う。)

    それに対し、著者はアーキテクトとアントレプレナーシップを掛け合わせることで、日本においてビルドデザインの新しいシステムを始動させ、それによって、著者が民主化というような、建築家以外の人に創作の可能性を開き、システムの構成素となる、つまり、この新しいシステムを駆動させ前進させる主体となる道を開いた。

    メタアーキテクトとして(建築物ではなく)新たなるシステムを始動させ、それが、様々な人の手によって駆動され続けることで、社会・産業・経済・流通などと新しいカップリングの関係を生み出す、つまり、既存のシステムでは起こり得なかったかたちで相互に影響を与え合うような関係が生まれ、新しい可能性が開かれる。それができるとすれば、それはエキサイティングなことに違いない。

    藤本さんは原初的な建築(Building)を提示していたが、僕がこの本で提示したかったのは原初的な建設(Build)の方だ。建てるという古代の行為に回帰することで、建築の新たな可能性を見出し、建築と社会の再接続を行いたい。このビジョンを動かしているのは、社会を変えるのは作品ではなく行動であるという、確固たる信念だ。(p.190)

    オートポイエーシスシステムであることの真髄は、建築ではなく建設、作品ではなく行動である、という、この部分にあるように思うし、それを実践によって示していることに本書の意義があるように思う。

    自分は何ができるか

    さて、ここで自分のことに引き寄せてみたい。

    前著でも書いたけれども、自分にはそんなにだいそれたことはできないように思う。そんな中、自分は何ができるだろうか。
    言い換えると、自分には何か新しいシステムを始動させることができるだろうか。

    これまでこのブログで考えてきたのは、どんな建築物をつくるか、というよりはどうつくるか、もしくはどういうシステムを駆動させれば良いものができるか、ということだった。
    そういう意味では、ひどくこじんまりとしたものであるけれども、何か新しいシステムを始動させたいと考えつづけてきたと言えなくもないし、それなりに掴めてきている部分もある。そこは可能性を信じて進んでいきたい。

    著者が「おわりに」で、社会や業界を変えたいと思う理由は、自分が「生きる」ためだと書いている。
    同様に、自分には自分にしかできないやりかたで「生きる」道があるはずである。

    ただ、なんとなくではあるけれども、自分が新しいシステムの始動させるために今必要としているのは、建築とは直接関係ないところでのちょっとした生活の変化じゃないだろうか、と感じているところである。

    そのためには、やはり何かしらの行動は必要になってくるのかもしれない。




    新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にするかもしれない B253『大栗先生の超弦理論入門』(大栗 博司)

    大栗 博司 (著)
    講談社 (2013/8/21)

    『点・線・面(隈 研吾)』で量子力学や超弦理論が引き合いに出されていたので、おおまかなイメージだけでも掴めたらと思い読んでみた。
    (図書館で関連図書を探して借りたけれども、10年ほど前の著書なので、理論としてはもっと進んでるかもしれない。)

    理論物理学と数学のダイナミックな関係

    本書の表紙は、書名がブルーバックス創刊50年にして初めての「縦書き」になっています。原稿の完成後、「超弦理論のような物理学の最先端でも、日本語の力で、ここまで深く解説できるということを象徴したい」という編集部の意向でこうなりました。(p.276)

    読み始めるまでは、理解力や前提知識の問題で、まったく意味が分からないまま読み終わることも想定していた。
    だけど、具体的な中身はさっぱり理解できないとしても、どういうふうに理論が生まれ改善されてきたか、という流れがダイナミックに描かれていて、読み物としてとてもおもしろく読めたし、伝えたいという著者の意気込みを強く感じた。

    いくつもの先行理論、実験結果などから、理論的な弱点が見つかると、やがて、それを補う仮説が考え出され、それにともなって様々な可能性が発見される。
    そういうことの積み重ねで新しい領域と可能性が開かれていくと同時に、それまでバラバラだった理論が一つの理論につながっていく流れはとてもエキサイティングである。そして、それを強力に押し進めるのは数学の力のようである。
    いったい、この人たちの想像力はいったいどうなってるんだろう、と思えるような世界が数学的に記述される。そのことには驚かされるし、哲学と同様、私たちが普段見ている世界が、どれだけ認識のフレームに規定されているか、ということを強く感じさせられる。

    空間は幻想である?

    ある次元が、異なる次元に変化する現象があったり、ある次元で起きていることが、見方によって異なる次元で起きているように見えたりするのでは、空間という概念がはたして本質的なものなのかどうか、疑わしくなってきます。温度が分子の運動から現れるものにすぎないように、空間というものも何かより根源的なものから現れる二次的な概念、つまりは幻想に過ぎないのではないか。超弦理論はそういっているのです。(p.7)

    超弦理論は様々な物理理論(重力や量子力学)を統一的に結びつける、現在唯一の理論であるが、検証によって自然法則として確立しているわけではないそうだ。その超弦理論によると、空間というものは幻想にすぎないようだ。

    統一化が進んだ理論では、例えば、重力を含む9次元空間の超弦理論と、重力を含まない3次元空間の場の量子論とが、同じ計算結果を導き出すそうだし、9次元が10次元になったり、32次元が矛盾を解決する鍵になったり、ある次元が小さな次元にコンパクト化されたりする。

    どうやら、次元というものはより根源的な「何か」の現れ方にすぎないらしい。3次元空間という絶対的なものがある、というよりは、根源的な「何か」が3次元的に現れているものを私たちが認識している、もしくは私たちは3次元的にしか認識することができない、ということなのだろうか。

    アインシュタインの相対性理論も理解できていないけれども、高校物理の範囲の知識でなんとなくイメージしたのは、

    ある移動している点があるとする。その点の位置を時間で微分すると速度というものが現れる。さらに微分するとそこに加速度、つまり力が現れる。
    逆に移動する点は積分すると線になり、さらに積分すると、面、立体、、、となる。
    立体、面、線、点、位置、速度、加速度・力などは、同じ世界の現れ方の違いにすぎず、同じものでも、速度までの現れしかない次元に住んでいる住民は、私たちとは全く違う世界を認識しているだろうし、同様に、5次元の現れの世界の住人も全く違う世界を認識するに違いない。

    みたいなイメージだ。(そういえば、昔『2次元より平らな世界 ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』というのを読んだのを思い出した。)

    「時間も幻想か」「なぜ時間に向きがあるのか」という話もでてきたけれども、もしかしたら、時間も次元の一つとして考えた時、切り取り方によっては、時間の向きは何か力や場のようなものとして現れるのかもしれない。と思ったりもした。

    建築の見方がどう変わるか

    分かったような分からないような読後感だけども、とりあえずは上出来なのかもしれない。というかほとんど理解できないだろうと思っていたので期待以上だった。

    さて、ではそれによって建築の見方がどう変わるか、というのが一番の関心事である。

    今見ている世界が、ある面で切り取られた一つの現われにすぎないとするならば、もとの「根源的な何か」はもっと多様で豊かなものを含んでいるに違いない。
    時間軸も含めたその多様さ・豊かさを、何らかの形で少しでも感じられるように建築に表現できたとするならば、ニュートン的な絶対空間・絶対時間の認識から生まれるものとは異なるイメージを描けるようになるかもしれない。
    そう考えると、隈研吾が点・線・面という言葉から考えようとしていることが少し理解できそうな気がするし、ヴォリュームであっても、絶対空間・絶対時間的なものから生まれるものとは少し違って見える。

    例えば、よく整理された幾何学的なヴォリュームあったとする。それは、3次元的に見ると、単に整理されたものにすぎないが、もっと複雑な3次元を超えた根本的な何かから、3次元で微分的に切り出された現れとしてのヴォリュームだと考えると、それはもっと何か奇跡的な秩序のように思えてくる。(それが、力強い幾何学的な建築に感じる魅力の源泉だ、というのはありえない話だろうか。)

    その秘密はやはり、その点が、線でもあり面でもありうる、という可能性の中に生きていることの方にあるのではないか。
    その背後にある重層的な世界の危うさ・不安定さが豊かさの源泉としてあるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 重層的な世界観が描く豊かさ B250 『点・線・面』(隈 研吾))

    とはいえ、こんなことを考えることに実際なんの意味があるのか。単に理屈をこねくり回しているだけで、現実にはろくな影響はないんじゃないか。

    そういう疑問が浮かぶかもしれない。

    もしかしたらそのとおりかもしれない。
    だけど、新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にする、ということを信じて積み重ねた先に、自由な建築のようなものがひょこっと顔を出すことを私は期待したいのである。(そして、なかなか顔を出してはくれないんだけども・・・)




    全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

    千葉 雅也 (著)
    講談社 (2022/3/16)

    デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

    そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

    これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
    しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
    また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

    薄く重ね塗りするように

    哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

    私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
    だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
    「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

    秩序と逸脱と解像度

    おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

    二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
    (特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

    「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

    建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

    内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
    何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

    何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
    この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

    というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
    個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

    また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

    今後の目標

    現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

    今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

    『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

    『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
    『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
    『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

    と、前から関心のあった、

    『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
    『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
    『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
    『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

    あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

    また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
    『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

    さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

    そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

    今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




    自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)

    緒方正人 (著), 辻信一 (著, 編集)
    素敬 SOKEIパブリッシング (2020/3/31)

    あるきっかけで水俣の仕事に関わったのと、以前読んだ本で著者に興味をもったので読んでみた。

    生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

    父親を水俣病で亡くし、その後チッソや行政に対する補償運動にも関わってきた緒方正人の語りを、辻信一がまとめたもの。
    一度1996年に出版されたが、2020年に増補、熟成版として再刊行された。

    緒方氏はやがて『チッソは私であった』と運動から身を引き、制度に組み込まれた解決を拒む。
    漁師であった父親の話から、運動から身を引くようになるまでの話と、その後考え続けてきたこと。様々なことが語られるが、その中心には父親の残した言葉や行動の記憶があり、漁師として自然とともに生き、体感してきたことがある。
    環境やサスティナブルという言葉ではこぼれ落ちてしまうような、自然とともに生きることの力強さと覚悟、知恵があり、それらを私たちが失いつつあることを突き付けられる。

    それを最も強く感じたのは、

    俺は最近思うんですが、水俣病事件には三つの特徴がある。この三つを指摘するだけで十分。他にはもう何も言う必要はないんじゃないか、という気がしています。
    ひとつは、いわゆる「奇病騒ぎ」が起き、世間にパニックが起きてイヲが売れんようになっても、我々漁民たちはイヲを食い続けた、ということ。ふたつめに、最初の子や二番目の子が胎児性水俣病であっても、三番目、四番目を産み続け、育て続けたこと。授かるいのちはすべて受け続けたということ。そして三つ目に、毒を食わされ、傷つけられ、殺され続けたけれども、こちらからは誰ひとり殺さなかった、ということ。水俣病事件について俺が自信を持って、誇りをもって言えることはこの三つだけです。
    この三つはすべて、いのちに関わることです。猫が次々と死に、鳥が死に、人が死んでいき、その原因として魚が疑われても、漁村の人々は魚を食べることをやめなかった。(中略)俺は思うんですよ。人間以外の生きものを疑う気持ちが漁師にはなかったんじゃないか。いのちというものを疑うということがなかったち思う。だからこそ、そのいのちをいただくことへの感謝もまたゆるぎなくあった。エビスさんに、海の神さんにもらったという感謝の気持ち。(p.225)

    という部分。
    今なら、自己責任として逆に批判を浴びかねない(実際そう感じる人も多いだろう)ことを「誇り」をもって語っている。
    その背後にある壮絶な苦悩は想像もできないけれども、自然とともに生きることの覚悟、人間以外の生きものを、社会の問題・損得勘定の問題と切り分けて考えてしまうことへの怖れ、というものが自分含めてほとんど失われてしまっているのだと突き付けられる。

    そういうものは、今まで自然とともに生きてきた人間たちが、持続可能という言葉を使わずとも築いてきた知恵だと思うけれども、そういうものは僅かな時間で資本と科学の物語に塗り替えられてしまっている。

    個人的には、資本と科学の物語に乗らないものが力を持つことが難しくなっているので、こういうことばかりを言ってても、とは思う。(間違っても緒方さんが、という意味ではない。)
    しかし、環境問題を突き詰めると、根本的な思想や世界の認識の問題に突き当たることは間違いない。

    その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

    そろそろモートンもちゃんと読んでみよう。

    ▲エコパークみなまたの埋立地の先端には、恋路島に向かって緒方さんたちが彫った野仏が無言の祈りを捧げている




    道の駅みなまた再整備 写真アップ


    道の駅みなまた再整備 の写真をアップしました。

    道の駅みなまた再整備

    グランドオープンは4/23の予定です。
    道の駅みなまた

    是非お越しください。




    重層的な世界観が描く豊かさ B250 『点・線・面』(隈 研吾)

    隈 研吾 (著)
    岩波書店 (2020/2/9)

    著者による2015年の著作『隈研吾 オノマトペ 建築』の理論的背景をもう少し丁寧に解説したような内容。

    重層的な世界観が描く豊かさ

    最初の章「方法序説」でのキーワードを挙げると、ヴォリュームの解体、構成から肌理へ、運動から物質へ、引き算から足し算へ、量子力学的相対性・重層性、超弦理論などであるが、以降の「点」「線」「面」の章では事例をもとに、それらが響き合う様子が描かれる。

    本書では、点・線・面というカテゴリーに分けて、弦の振動を記述した。点・線・面と分類することが本書の目的なのではなく、むしろ全く逆に、それらがすべて振動であり、その現れであり、それゆえに決して点・線・面と切り分けることができないことを、明らかにしたいのである。(p.49)

    おそらく、量子力学が、視点によって次元の現れ方が変わってくることを明らかにした(らしい)ように、同じモノでも視点によって点・線・面の現れる特性が変わってくる、もしくは、同時に点でもあり線でもあり面でもある、というところが肝である。

    本書でも、点として捉えていた要素が線としての現れを獲得したり、面が点や線として現れることで、新たな可能性が切り開かれる場面が何度となく描かれている。と、同時にそれぞれは、点として、もしくは線、面として、生き生きとして振る舞っているように見える。

    なぜ、点が点としてありながら、生き生きとして見える瞬間があるのか。
    その秘密はやはり、その点が、線でもあり面でもありうる、という可能性の中に生きていることの方にあるのではないか。
    その背後にある重層的な世界の危うさ・不安定さが豊かさの源泉としてあるのではないだろうか。

    フラクタルが特異な次元を持つこと、ネットワーク理論が異なる特性を内包すること、流れが様々なスケールでスケールに応じたかたちをとること、もっと身近には音楽がいくつもの音を併せ持つこと、などにも重層的な世界観が描く豊かさが見え隠れする。

    そういう生き生きとした豊かさを生み出せるようになりたい。




    建築が築く新しい関係性の芽 B249 『建築家の解体 Reinventing Architects』(秋吉浩気)

    秋吉浩気(著)
    VUILD BOOKS(2022/02/16)

    興味はあったのだけど、twitterで予約受付開始のアナウンスがあってから、あっという間に限定1000部が完売となった。
    購入を逃したと思っていたところ、たまたまtwitterを開いた時に1件キャンセルが出たとの情報を受け、慌てて購入した。
    なので、おそらく滑り込みでの1000人目の購入者になったんじゃないだろうか。(残念ながら巻末のナンバリングは1000ではなかった。)

    建築が築く新しい関係性の芽

    たとえば、初期のデジタル建築家たちは、最終的なゴールとして、連続した複雑な形状にこだわっていました。(中略)そこにはなぜ曲面や複雑な形状を必要としているのか、その理由がなかったのです。私たちは、デジタル技術をつかって何ができるのか、これまでと何が異なるのかを問いたかった。(Giils Restin p.27)

    何年か前までは、人びとはまだ、美しいファサードや建物の空間体験にしか注目してきませんでした。しかしいま、そうした建築の表現と本質的な部分との間に、より意味のある関係が築かれています。(Philip Yuan p.221)

    コンピューターデザイン/デジタル建築と聞くと、うねうねとした複雑な形状のものをイメージしていたけれども、デジタルが生産とアントレプレナーシップとつながることで、新たな状況が生まれている。

    この本は、そういう新しい状況を切り開いている30代若手建築家にインタビューしたものであるが、そこでは例えば、民主化、エコロジー、労働、ポスト資本主義、ローカリティと文化、技術、美学、経営など、さまざまなテーマとの接点、建築と社会との新しい関係性が築かれつつあることが分かる。

    著者が、「おわりに」で

    ぼくが影響を受けた人たちを紹介することで、さらに彼ら/彼女らに影響を受ける人が増えると、日本の建築業界も変わるのではないか-こうした最先端の文脈がどう共有できるかを考えたかった。(p.226)

    と書いているが、まずは著者自身がここで紹介されている人たちのやろうとしていることを、日本で率先して実践していることに敬意を払いたい。

    建築家の解体

    磯崎新の『建築の解体』になぞらえて『建築家の解体』というタイトルであるが、建築家が解体されることによって私たちは何から開放されるだろうか。
    個人的には建築家の解体というよりは、建築家の拡張というイメージを持ったけれども、解体という言葉で著者は何を伝えようとしているのだろうか。

    建築の解体以降、建築家という主体による表現としての建築を解体し、表現を主体から開放することが試みられたように思うが、それはあくまで表現のレベルの話であり、建築家が設計を行い、施工者がそれを実現するという形式は崩れていない。
    しかし、デジタルが生産の分野にも喰い込んでいくことによって、その形式が崩れつつあるというのが大きな流れかと思う。

    設計という行為を民主化する、というのが一つの流れであり、著者の目指している方向のように感じたけれども、その一方で、建築家が解体された後に、どのように建築が可能か、という問いが生まれる。

    しかし重要なのは、建築そのものをあきらめないことです。建築を考えずに技術や製品を開発することには危険が伴います。技術を開発しながらも、展覧会をおこない、自分の作品について書き、スペキュレートする-つまりは、建築家でありつづけることが大切なのです。(Giils Restin p.56)

    例えば、レツィンは建築家でありつづけることが大切であるといい、ディスクリート(離散的)建築の美学のようなものの可能性をみているけれども、おそらく、各々の実践と並行して解体された建築家像を新たに組み直す必要があるのだろうし、例えばシステムが一般の人々を建築家とするような、建築家なしの建築家、とでも言えるというような方向性も進んでいくように思う。
    そういう新しい建築家像を切り開いていけるという意味では、とてもエキサイティングな時代だ。

    私自身は、今から起業して、デジタルと生産を結びつけるようなアクションをとれるか、と言われれば、正直そういう熱量を持つことは難しいように思う。

    ただ、デジタルが、建築の解体以降続けられてきた建築家という主体から建築を開放する試みをより促進させるものだとすると、その可能性を享受できるようなアンテナは張っておきたいし、一プレイヤーとしてそういう流れを後押ししながら活用することは模索していきたい。

    日和った結論ではあるけれども、著者や若い人にはその道をどんどん切り開いていってくれることを期待したい。

    実践編と呼べそうな『メタアーキテクト』も読んでみよう。

    (建築情報学会も入会しながらほとんど追えていないので、今年度はもう少し時間的余裕を確保したいです・・・)




    木曽おもちゃ美術館+木工振興拠点 写真アップ

    木曽おもちゃ美術館+木工振興拠点の写真をアップしました。
    木曽おもちゃ美術館
    木工振興拠点施設
    何度も現場に通い、なんとか担当の建築工事まで完了できました。
    ここからは、オープンに向けて什器等の製作・設置に向けて進んでいきますので、完成が楽しみです。




    父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

    森田真生 (著)
    集英社 (2021/9/24)

    前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

    パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

    エコロジーについて

    エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

    強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

    エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

    一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

    もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

    (タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

    これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

    「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
    それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

    エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
    その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

    この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

    生活と言葉と思考

    それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

    だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

    「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
    (中略)
    モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
    『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

    自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

    著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
    そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
    数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

    そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

    言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

    転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

    自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
    そんな気がしてきた。
    それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

    父から子に贈るエコロジー

    彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

    大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
    僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

    未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

    この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

    自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

    自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

    自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

    『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
    僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
    できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

    本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。