B128 『カーニヴァル化する社会』

鈴木 謙介 (著)
講談社 (2005/5/19)


年の初めに長めのエントリ。。。

|  ポストモダンを生き抜くモデル

詳しくは本書を読んで頂きたいが、この本を読んで浮かび上がるのはポストモダンを生き抜く一つのモデル、”データベースとの往復運動から得られる情報、すなわちネタを燃料に、瞬発的でハイテンションな自己啓発、すなわち祭りを駆動力としながらなんとか前に進み続ける自己像”である。
噛み砕いて言えば、こんな先の見えない世の中じゃ、祭りをしながらテンション上げていかないと生きていけないよ。という感じになるのだろう。

そこで”バカな若者”と言って単純な”説教”をしてしまうとしたら、それは説教者の自己満足で終わる可能性が大きい気がする。
その若者はおそらくそういう説教者が出会ったことのないような種類の問題に直面しているのであり、問題を共有していないのであれば偶然でもない限り有効な処方箋が示せるわけがない。

前にも一度書いた気がするけれど、”子供は時代の鏡”というのは本当だと思う。先に挙げたモデルにしても、彼らがバカになったのではなく、彼らなりのやり方-理性というよりはおそらく本能に近い能力で-社会に適応した、というより防衛本能を駆使した結果なのだと思う。
頭の固い大人にはマネも理解もできないものだろうけど、そこには目を背けてはいけない何かがある。

|  何に対して防衛本能を駆使しているのか。

そこで思い出したのが、少し前に書いた”なぜ勉強しなくては」いけないか”という問い。

前のエントリでは『古典的な問題』と書いたけれども、そのニュアンスは時代によって微妙に変化しているのではないだろうか。問い自体は古典的でもその意味は極めて現代的なものではないだろうか、という気がしてきた。

多くの人は意識化してないにしてもこの問いの奥には

  • なぜ勉強しないといけないのか。

  • なぜ働かないといけないのか。

  • なぜ生きないといけないのか。

という問いがつながっているように思う。先のモデルの彼らは最後の問いを自らに問いかける事を回避するために、防衛本能を駆使してやり過ごすための方法を見出したのではないだろうか。

著者も

現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに。現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。

と言っているように、「いかにあるべきか」の答えを出すことは容易ではない。

しかし、だからこそと言って良いか、私たちは”なぜ生きないといけないのか。”という問いと共に”どうやってポストモダンの社会を生きていけばよいか。”という問いを考え続ける必要があるのではないだろうか。

でないと、「なぜ勉強しなくてはいけないの」という問いに対してさえきちんと向き合うことができないし、納得してもらうこともできない。少なくとも完全な答えは出ずとも共に考えるということが必要じゃないだろうか。(「大人も答えが出せないでいる」というのが一つの答えになるかもしれないし、答えを知ったかぶりすることで子供を幻滅させることになるかもしれない。)

これらの問いについてはゆっくり考えてみたいと思いますが、みなさんも良かったらどうぞ。

|  このモデルについて

補足的になりますが、本書で示されているモデルについて。
僕の理解では、このモデルは”今までは社会の慣習や宗教、常識などによってある程度枠組みがあったものが、ポストモダンの社会では全てが個人の選択にゆだねられるようになる。そこには依拠すべき理念や物語は存在しない。だけども、人間はそんなに孤独で際限のない自由の負荷に耐えられるほど強くはない。そこで、これまでの慣習などに代わってデータベースがさまざまな選択のためのネタを提供してくれる。”というもの。

かといってデータベースがよって立つことのできる”大きな物語”となれるものではない。ただ、もともと相手がアルゴリズムなど、物語を期待する余地のないものだからかえって割り切れはするが、これによって孤独感や無力感が拭い去れるわけではない。

こうしてみると、本著は東浩紀の『動物化するポストモダン』の焼き直しと言えなくもない。

大きな違いは駆動力が”欲求の充足”であるか”瞬発的な祭り”であるかという点。

|  やっぱりデザイン?

このモデルでひとつ希望があるとすれば、それは次の一文にある。

このようなシステム作動の帰結とはいかなるものになるか。わりあい容易に導き出される結論は、人の「知性」の側面がデータベースへと外部化されることにより、個人の内面における「感性」の水準が前面化するという事態が、監視社会化に伴って進行するということだろう。

「感性」のみは一種のアイデンティティとして残されるということだとすれば、そしてその他のものがもともと外部化できるものだったとすれば、これは割合使えるんでない?という気もする。

先日書いた「インプットとアウトプット のらせん状のループの可能性」というのはこのあたりのことで、特にネット上では「知性」の外部化を割り切り、他人の知性・感性を共に巻き込む形でこのループを繰り返して残される自らの「感性」を磨いていくような作法が流行っているように思う。

僕は今のところ、ポストモダンに対応できるのはデザインという姿勢かな、と思っているけれども、もしかしたらそこに接続できるんじゃないか、という気がしないでもないのだ。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」(『動物化する~』読書録の最後にも書いたけど再び『意味に餓える社会』から引用)

まだ、思いつきの段階で明確なイメージではないですが。

p.s 読み返してみると、本著と同じく全体像の見えにくい文ですね・・・。




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