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設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

Guido Caldarelli,Michele Catanzaro著,増田 直紀 (監修, 翻訳), 高口 太朗 (翻訳)
丸善出版 (2014/4/25)

ネットワーク的設計プロセス論試論?

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

この思いつきを少し先に進めるため、ネットワーク理論についてのイメージを補強しようと思いざっと読んでみた。

この本はネットワークの普遍性とネットワークの多重性を示すことに重点が置かれていて、多様な分野の多様な例が挙げられていた。
読んでいく中で、現れと過程、2つの側面から、建築設計のイメージを膨らませることができそうに思った。まだ論とは呼べるものではなく、ぼやっとしたイメージの域を出ないけれども、思いつきのストックとして書いておきたい。

収束と発散の重ね合わせのイメージ

「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

ひとつは、収束の空間と発散の空間の重ね合わせのイメージ

ある種のネットワークはスモールワールド性とスケールフリー性の2つの性質を併せ持つ。というより、どの2頂点間の距離も非常に小さいというスモールワールド性を持つネットワークのうち、均一性をを失ったものがスケールフリー性を持つ。と言った方が正しいように思う。
このスケールフリー性を備えたスモールワールドの近さが、視点の持ち方(均一性を感じる範囲に目線を限定し、スケールフリーなハブの存在に盲目的になるかどうか)によって、国民国家的にも帝国的にも見えるのではないか。

例えば、スピーカーから出る音は一つなのに、いくつもの音が聞こえるのはなぜだろう、と疑問に思ったことはないだろうか。音楽が、いくつもの音が重なり合成された一つの波形として記録される。再生時はそれが一つの波形としてスピーカーから出力されるはずだが、人間の耳はもとの複数の音に分解して認識できるという。
同じように、人間の国民国家的ふるまいや、帝国的ふるまいが重なり合ったかたちとして、世界・社会が不均一なスモールワールドのかたちをとる。同じひとつのかたちだけれども、人に感じ取られる際に2つの性質として分解され、視点によって国民国家的にも帝国的にも現れうる、とは言えないだろうか。

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。

ネットワークを自己組織化するようなプロセスのイメージ

これらすべての場合において、ネットワーク全体の秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである。多くのネットワークは、全体の設計図がないにもかかわらず不均一性のような秩序だった驚くべき特徴を見せる。自己組織化の過程を用いることで、その理由を説明できるかも知れない。(p.106)

不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序はトップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。

設計はつまるところモノの配置と寸法の決定の集積である。一方ネットワークは頂点と枝という単純な要素の集積である。どちらも、単純なものの集積が秩序を持った複雑なかたちを生みうる。
そこで、設計行為とネットワーク化のプロセスを重ね合わせるイメージが浮かぶが、それについて考えてみたいと思う。これは特に、自己組織化的な過程を重視するような設計手法との相性が良いように思われる。

そこで、(いつものように)藤村氏の超線形設計プロセス論を引き合いに出してみる。

▲藤村龍至『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』より(p.079)

上の図は有名なBILDING Kのプロセスを示す表で、横軸が模型の世代、縦軸が発見されたルールである。
模型・案の中に時間軸に沿って次々と様々な条件が編み込まれていくのが分かるが、これを、設計に関わる様々な条件(ルール)の間にネットワークを築くプロセスだとイメージしてみる。そのネットワークのかたちが建築として出力される。

このネットワークの頂点と仮定する設計に関わる要素は物理的な要素でも概念的な要素でも、なんであっても構わない。施主の要望、法的規制、間取り、構造、規模、設備、周辺環境、予算、使われる素材、床や壁といった構成要素、施工性や技術、歴史や文化、その他いろいろ考えられる。
これらの要素はそれぞれがグループをなし、そのグループ内での頂点の接続はたやすく距離も小さい。それぞれのグループについて検討している間に、お互いに関連する部分が生じ、そこにつながりが生まれる場合もあるが、あえて距離の遠いものとの間につながりを生むように意識もする。これは「つなぎかえ」と「近道」に相当するイメージである。それほど近道の頻度を高めずともいくつかの枝によってスモールワールド性を獲得できるが、スモールワールド性のもう一つの要件、大きいクラスター係数(三角形をなす頂点と枝の多寡)、つまり近い場所でのネットワークの密度も意識されるべきである。

▲本書より(p.83)

また、こうして検討していくうちにネットワークは複雑なものとなり、中には例えば、先のBILDING Kの表における●を縦に串刺すような、他の頂点との枝の多い(次数の高い)頂点、ハブが生まれる。これも自然に生まれる場合もあろうが、プロセスの中でハブとなるような要素を探すことと、その要素への接続とが並行して意識的に試みられる。これは「成長」と「優先的選択」に相当するイメージである。これによってネットワークが不均一なものとなり、スケールフリー性を獲得できる

▲本書より(p.99)

また、先のハブの存在は設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものとも考えられる。(下に引用した記事は考え方が近いかも知れない)
ここではハブは一つでなくてもよく、スケールフリーな存在として、様々なスケールにおいていくつもあっても良い。むしろそちらのほうが好ましいと思われる。

また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここで、設計において、これらの性質の獲得を阻害するものは何か、少しだけ考えてみる。

例えば、前者に関しては、天井懐が考えられる。天井懐は構造や設備などの要件をクリアするために、余裕を持って設定されることが多い。ふところに余裕があれば、構造や設備その他諸々の要素間の干渉をそれほど厳密に考えずとも良くなり、要素間のネットワーク生成プロセスがスキップされる。その内部はブラックボックスとなってしまうため、ネットワークの表現にもあまり貢献しない。冗長性を取り除いていくことによるデメリットもあるが、冗長である、ということはネットワークの生成を阻害する可能性があるとも言えそうである。もしかしたら、RCラーメン構造や在来軸組工法のような、一般化された冗長性の高い工法も同様の阻害要因となりそうな気もする(実感としてネットワーク生成プロセスをスキップしている様な感触を拭えない)が、それに関してはもう少し慎重に考えてみたい。

また、後者に関しては、行き当たりばったりの設計態度が考えられる。次々と現れる条件に成り行きで対応していっても、何らかのネットワーク状のかたちを生むかも知れないが、それはランダム・グラフのような均一なもの(フリースケール性を持たない)である可能性が高く、そこに不均一なネットワークが持つような複雑な秩序は生まれがたい。ハブを生成するプロセスが欠かせないのだ。

以上のように、設計プロセスをネットワークの生成過程に重ね合わせてイメージすることはできそうな気がするし、人の耳が音の重なりを認識できるように、それから生まれた形・建築から、そのネットワークの性質をさまざまに感じ取る、ということも起こりうるのでは、というように思う。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。
また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。

さらにはこれまでブログで収集してきたこと、(出会う建築に書いたことや、例えばレトリックの応用など)を、このイメージに重ね合わせることによって、より具体的な方法論とすることができそうな予感がある。が、それはまたこれから。




建築ならざるものからはじめてみよう B213『人の集まり方をデザインする』(千葉 学)

千葉 学 (著)
王国社 (2015/8/1)

基本的にはこれまでの論考を集めたもの。本のタイトルは書き下ろしのタイトルと同じ『人の集まり方をデザインする』となっている。

最後のピース

タイトルから抽象的な内容が多いのでは、と思っていたけど、具体的な作品をベースとした論考(もしくは解説文)が中心で、建築的思考の王道を見てるようで安心して読めた。

最近は、雑誌の作品解説文を読んでも、抽象的な問題設定からいきなり具体的なものに跳んでしまっている印象を受けることが多いけれども、それらをつなぐ、ちょうどその間が丁寧に語られている

安心して読めることが良いことだとは限らないけれども、抽象的な問題設定と具体的なものの間を埋めることがおそらく建築なのである
そして、自分は最後、ものへと結びつけるような思考が弱いと感じている。
問題設定からものの近くまでは寄れるけれども、最後、ものへとつながるピースがなかなか埋まっていかない。

そういう点で久しぶりに建築を強く感じた本だったけれども、結局の所は、最後のピースはその時その時に必死に藻掻き、試しながら探し続けるしかない、というのを再確認することになったように思う。

人の集まり方 他者性 開かれた自由

間が語られていると言っても、まず共有もしくは考えるべきは、この本のより上流のメッセージのはずなので、それについて、少し考えてみたい。

だから建築が、そこに期待されるコミュニティや社会にとって最も相応しい人の集まり方のデザインとして構想されていくことは、建築の普遍的なテーマであると思うのである。(p.12)

だからこそ、この「他者性」を計画する、という難問を克服するしか方法はないのではないかと思うのだ。極めて動物的な臭覚を頼りにした上で見えてくる人の集まり方に対する観察を深め、それを「他者性」を前提に計画する建築との相関の中に見出していく。そうすれば、単に丸いとか四角いとか、幾何学的とか有機的であると言った短絡的な類型を超えた新しい建築のあり方が、流動化する世界に便乗することのない新しい建築の形式として見えてくるのではないかと思うのだ。そうすればきっと、この動かしがたい建築が、まるでテーブルと椅子を自由に並べ替えるかのように、本当の意味で開かれた自由を獲得することになるのだろうと思っている。(p.22)

出てくるキーワードをつなげると、人の集まり方の自由が、本当の意味で開かれた自由へとつながる。そして、それは他者性を前提として見出されていくもの。となるだろうか。

人の集まり方を主要なテーマとすることによって自由と向き合う道筋をつくる、という点が自分にとっては新鮮で少し目の前が開けた感じがする。建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。

建築は人の集まり方を含めた様々な自由に対して、それらをどうしても規定してしまうものだが、それを避けるにはできる限り他者であろうとすることが重要である。
それは、建築の自立性や地形性として『deliciousness おいしい知覚』の「おいしい距離感~建築の自立性と自律性」「おいしい地形~原っぱから洞窟へ」のところで考えてきたことでもある。(詳細はリンク先を)

ゲームのような建築について 近代からの脱出

この時参照した、青木淳氏の「原っぱと遊園地」に関して、建築討論に浅子佳英氏の『「ゲームのような建築」序説 ─── 青木淳論』という興味深い記事がアップされた。
まだ序論のβ版なので、論の続きがあると理解した上で、自分自身がうまく消化できていないので少し考えてみたい。

onokennote: 個人的には青木淳はゲームとしての建築をつくろうとしてるんじゃなくて、ゲームをするように建築をつくろうとしてるんじゃないか。ゲームは目的ではなく手段。という気がしている。 [2019/03/09]


onokennote: プレイヤーは青木淳であって、利用者はそのゲームからも自由になれることが目指されているんじゃないか(そこで遊ぶかどうかは勝手)。ルールは作り手の側に要請されるものであって、本来利用者にはその存在を意識されるべきものではないのではないか。 [2019/03/09]


onokennote: と、今は感じているけれども、もしかしたら僕の主体像の更新が遅れているだけで、利用者もゲームもしくは遊びからは逃れられないのかもしれない。 [2019/03/09]


onokennote: ただ別様でもありえた、という状況を生み出すために、(別様でもあり得る)ルールが要請されると思うのだけども、その別様でもあり得るというところにゲーム性を見るのであれば、利用者はそれを「理解した上で、なおその世界に没頭して遊ぶ」ことがポストモダンの作法なんだろうな。 [2019/03/09]


onokennote: あっ、ちょっとつながってきたかも。主体像の更新というのはそういうことか。な。[2019/03/09]


少し前にツイートしたように、ざっと読んだだけでは青木淳氏とゲームのような建築の結びつきをうまく消化できなかったのだけど、この論が青木淳氏の建築論とともに主体像の更新を図るものである、と考えると自分の中で少しつながった気がした。

それでも、まだ少しすっきりしないものが残る。
単純にこれまでのゲームを素材とした議論にあまり触れてきていないせい、ということもあると思うけれども、それはおいおい追ってみるとして、今考えられる範囲で何がすっきりしないかをもう少し考えておきたい。

ゲームのような建築は他者足りうるか。それは建築が主体の側に主体としての在り方・作法の更新を強いることになりはしないか。
また、果たしてそのような作法を持ちうるか、もしくはそのような主体としての振る舞いを導くような建築というものがありうるか。
それは時代を超えた普遍性をもちうるか、もしくはそういう普遍性は必要ない、ないしは普遍性の概念を更新すべきなのか。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。

前回読んだ本、

モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。 エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B212 『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』)

(理解に乏しいのでおそらくだけど)モートンは「モダニティからの脱出」は可能といい、リアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当てる。そこではあらゆるものがフラットに捉えられる。

先の疑問には、外部に主体に働きかける環境があり、その環境を改変すれば主体の側を変えることができる。そこには何らかの構造が存在し、概念のフレームを用いて解き明かすことができる。そんな思考の枠組みがあるのではないか。人間中心主義ならぬ建築中心主義とでも言えるような枠組みに囚われているのではないか

つい、物事を構造的に捉えて建築の側からみてしまう、という枠組みから逃れるよう、(モートンの「人間ならざる存在」「自然なきエコロジー」になぞらえて)「建築ならざる存在」「建築なき建築論」とでも言えるような所からはじめて見てもよいのかも知れない

そうすると、先に「建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。」と書いたように「人の集まり方をデザインする」に戻ってくる。

建築そのものよりも、まずは主体の在り方をフラットな視点で捉えることが先決なのだ。

そう思いながら、自分の子供達の現況や未来を考えると、原っぱはますます希少になっていき、遊園地ばかりの状況を生きていくことは容易に想像できるし、かなりの部分はすでに遊園地である。
そうであるなら、原っぱを経験することも大切だけども、遊園地ばかりの状況を楽しくサーフィン(古い?)するような作法を身につける必要がある。というよりは、もはや遊園地なんて僕らにとっての原っぱくらいの存在へと脱色していきながら、そこでそこそこ楽しく過ごしていく作法を当たり前に身につけていくのかも知れない。

消化してみたいといろいろ考えてみたけれども、結局、浅子氏の主張は

自身の常識を疑い、学び続けること。 個人としても集団としても複数の世界を生きること。そしてそれを楽しみながらできる状態をつくること。(「ゲームのような建築」序説 ── 青木淳論 – 建築討論 – Medium)

この文と文の並びに凝縮されているように思う。

最後のピースがなかなか見つからないのは、まだ建築に意識が向きすぎているからかもしれないな。

 
(余談だけど、「人の集まり方をデザインする」が「モダニティからの脱出」に(たぶん)つながったように、現代の建築について真剣に交わされる議論のほとんどは、ポストモダンな今に真摯に向き合って生まれたものだ、というのは割と信用しています。)

メモ

以下忘備録的メモ

つまり常に特異点でしかあり得ない建築の個別性を考えながら、同時にその建築がどこにあっても成立しそうな形式性を備えていること。あるいはどんなプログラムに対しても柔軟に対応できそうな冗長性を備えているという事象を強引に結びつけることに、これからの建築の可能性を見ようとしたのである。(p.69)

つまり建築に置いても、4つ目のsite determinedはあり得ると思ったし、それは、僕が「そこにしかない形式」という言葉に託して伝えようとしていたこととほぼイコールだと了解したのである。(p.72)

常に新しいツールを発見しながら、都市や自然に対する解像度を高め、そこから得られる情報を身体化するという基本的な「技術」の研鑽が、今あらためて必要なのではないかと思うのだ。(p.146)

このような都市への構え、つまり自らのプライベートな居場所を守りつつ、その場所に住んでいるという実感を獲得するという相矛盾した欲望を両立するような住宅は、実は僕にとっての理想的な住宅のあり方に近いのではないかと思っている。(p.155)

人間の身体を尺度に地形のような建築をつくる。このようなスタンスは、実は居住環境に限った話ではなく、近代合理主義的建築、ビルディングタイプ的思考に縛られた建築を脱する新たな方法にもなるのではないかと思っている。(p.162)




2才児にとっての”じりつ”とは何か

2才児にとっての”じりつ”とは何か。
そんなお題を頂いたので、ちょっと考えてみたいと思います。

じりつには自立と自律があります。
分析記述言語では自立とは構造に帰属され、自律とはシステムに帰属されるそうです。
では、乳児から幼児へと大きく変化する間にいる2才児にとって、獲得すべき自立・自律とはどういうことを言うのでしょうか。

自立について

自立とは構造に帰属される、すなわち何らかの状態のことを指します。
脳性麻痺を抱え車椅子生活を送る熊谷晋一郎氏は、自立とは何にも依存していない状態ではなく、依存先を分散し無自覚に依存できている状態のことだと言います。

他者から切り離されているのでは単なる孤立ですが、そうではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような関係性の中にこそ自立があるのです。
自立とは、他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言って良いように思います。

自律について

一方、自律とはシステムに帰属される、すなわち、どのようなはたらきの中にいるか、そのあるはたらきのことを指します。
外から与えられた要因を受動的に処理するような機械的なはたらきは他律であり、自律とは環境に能動的にはたらきかけることで動き続けるような生態学的なはたらきのことだと言えます。
受動ではなく能動性の中にこそ自律があるのです。

遊びと自立・自律

このように、自立し自律できるとは、環境に能動的にはたらきかけることで他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言えるように思います。

これは保育における「子ども観」「保育観」と大きく関わります。
『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成』では子ども観、保育観の変化を、子どもは環境から刺激を与えられて知識を吸収する受動的な存在ではなく、自ら環境を探索し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在であり、遊びは子ども自身がつくりだすもの。また、保育者は子どもに教えるのではなく、子ども自身が環境に働きかけ、自ら遊びをつくりだせるような環境を構成しなければならない、としています。
このことは国の指針「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」にも明確に位置づけられています。

これはまさしく、子どもが自立及び自律できることを援助することが保育に求められる、ということを指しているように思います。
そして、未就学児においてそれは日々の生活、特に遊びを通して獲得されるものであり、遊びと自立・自律は切り離すことができません。

自立と自律を保障する園の条件

では、そのためには何が必要でしょうか。
著者は同書で紹介された保育環境の共通項として、

 ・子どもが安心できる環境
 ・多様性を尊重できる環境
 ・子どもの活動が継続的に考えられていること
 ・試行錯誤ができること
 ・創造的でオープンエンドな活動

の5つを挙げ、さらに保育者の共通項として「子どもの力を信じていること」を挙げています。
園の設計において、これらの支えとなるような環境づくりを念頭に置く必要があり、それによって子どもの自立と自律が保障されるべきなのだと思います。

逆に言うと、これらが担保されていない状態や、子どもを受動的な存在と捉える子ども観や保育観が子どもの自立と自律の障害となるのかもしれません。

2才児にとって自立・自律とは何か

0~2才児は、仰向けから寝返り、ズリバイから4つばい、つかまり立ちから歩行へと移動能力を身につけ、環境との関わり合いの可能性が爆発的に増える時期です。
そんな可能性のかたまりのような時期を過ごす子どもたちに必要なのは、自ら能動的に遊んでいいんだという安心感・肯定感と、その先に達成と喜びを見つけた、という多くの経験ではないでしょうか。

そして、その安心感・肯定感と経験とが、3~5才の就学前の多感な時期を存分に遊び学ぶための礎になるように思います。




あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)




脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
出版社: 人文書院 (2007/8/1)

だいぶ前に『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』で紹介されていた本から数冊購入したのですが、これはそのうちの一冊。

本書で考えてみたいのは、共通世界としての公共空間とは何かということであり、また同時に、これがなくなりつつあるのではないか、そうであるならどうしたら良いのかということである。(p.4)

帯には「公共空間の成立条件とは何か?」「アーレント、ルフェーブルの思想をたどり、公共性への問いを「空間」から捉え返す、現代都市論・社会理論の刺激的試み。」とあります。

公共空間が失われつつあるのではないか、という問いかけ自体は目新しいものではないと思いますが、「空間」から捉え返すとはどういうことか、アーレントからどう展開されるか、また、古びた問いをどう展開するのか、にも興味がありました。

一度目は細切れでしか読めず、ぼんやりとしか掴めなかったので、二度目を読みながら並行して、自分なりにまとめていきたいと思います。

序章

まずは序章から。
 
 
 
序章では、公共空間を考えるためのいくつかの視点・問いが提示されます。

公共空間とは何か。

公共空間とは何か。

ここではアーレントの公共空間に関する議論とジンメルの空間の捉え方を参照しているのですが、公共空間とは、空虚でしかなかった空間が、隣人との相互行為によって「あいだ」が満たされることで意味ある何かとして現れた空間のことである、と言えそうです。

この相互行為によって「あいだ」満たされた状態をどうしたら維持できるのか、を考えることが公共空間を問うこと、すなわちこの本の中心的な問いかけだと思います。

公共空間と私的空間の境界

また、公共空間は私的空間との関係でも語られ、その2つの関係が適切に維持されるような境界のあり方が問われます。

この境界の区別する働きが強くなると、私的空間は分断され、相互行為によってみたされる「あいだ」、すなわち公共空間が失われます。この状態の私的空間をアーレントは「真に人間的な生活にとって本質的な事柄が奪われる事を意味する。」と言います。

逆に、連結する働きが優勢になり、公共空間と私的空間との差異が消え去ると、資産化された私的空間が、いまだ資産化されていない空間を公私問わず併合しながら膨張し、やがて公共空間を食いつぶすことになります。

公共空間と私的空間の境界の区別する働きと連結する働きのバランスが、どちらに崩れても公共空間は維持できなくなるので、この境界をどうバランスよく維持できるか、が問われることになります。

疎遠化と一体化、開けた閉域へ

アーレントの問いかけをもとに論が進むわけですが、アーレントの時代と現在(2007年)とでは公共空間は異なる問題に直面していると言います。

平等の名のもと、管理行政機構によって画一化が進められた時代では、それによって自然発生的な相互行為が排除されることが問題とされ、画一化に抵抗するのが公共空間維持への実践とみなされました。
そこでは平等から自由への価値の転換が求められ、多様性・差異・民主主義と言ったことが唱われることになります。
しかし、この民主主義を求めた「自由」は、やがて資本主義的・経済的な「自由」を求めるネオリベラリズムへと横滑りし、公的なもの、すなわち国家や民主主義的な公共空間の解体を求めるようになります。

公共空間を取り戻すために平等からの転換を目指した自由が、いつしか公共空間を脅かす自由へ変容し、こうして、公共空間は新たな危機に直面することになったのです。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。
そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。

また、テレビやインターネットなどのメディアは、公共空間が存在するならばそれを補完する武器になりえます。しかし、公共空間を欠いた状態では、気分や感情といった水準の公共的情動とも呼べるものによって、疎遠化と一体化を増幅するように作用します。
そこでの一体化は、単なる閉域においてではなく、メディアによって生まれた開けた閉域とでも呼べる領域において進行するのです。

こうして、資本主義が要請する自由が、政治的な討議を行なう公共空間を奪い、人々は代りに出来た閉域へと引きこもるのです。

現代のポピュリズム(極右的な排外主義、スポーツ選手やテレビタレントへの熱狂)、ないしは偏狭なナショナリズムの勃興は、この公共的情動を土台とする。その限りでは、全盛期の総動員型全体主義の土台となった世論の規格化=思想統制と区別しておく必要がある。拘束の内部において画一化し、逸脱を許さないのが全体主義だが、現代の情動の一致状態は、むしろ、画一性とは対極の、差異性、多様性が、どういうわけか不和のない均質的な一なるものへと収斂していく過程にあるものと考えられるのではないか。そしてこの一体化にともなって公共空間が解体していくのではないか。
疎遠化と一体化。公共空間の解体を論じる際には、相反する二つの過程の同時進行を問題化せねばならない。(p.34-35)

序章を読んで

以上、自分なりに序章の概要をまとめてみましたが、そこで頭に浮かんだことも記しておきます。

相互行為に満たされた空間をイメージ出来るかどうかが一つの肝になるように思いますが、この「あいだ」を満たすものはリアリティや密度感・充足感というようなイメージでしょうか。

これは、私が建築・空間に求めるイメージとも近い気がします。
建築に対しては、相互行為の相手は人でもモノでもよく、文化や歴史といった無形のものも含めて考えています。その相互行為のことを出会うという言葉に変えてまとめたのが出会う建築です。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ギブソンの生態学に相互行為を適用することで人間を取り巻く特殊な環境まで拡張したのがリードの生態心理学だと理解しているのですが、ここでの公共空間の議論と生態心理学とは重なる部分が多いかも知れません。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』
そう考えると、相互行為に満たされるというのは、生態学的な知覚の欲求、生きていくための欲求が満たされることで、リアリティや密度感・充足感と結びつくのは自然なことのように思われます。

また、境界のバランスの問題も建築の自立性(建築がそれを体験する人と一体化せずに関係を結べること)との重なりを感じました。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 建築の自立について

こういう重なりは、この本での議論が一般的な「何かが失われつつあるのではないか」という関心とは別に、建築に対する視点も拡げてくれるのではないか、という期待を抱かせてくれます。

また、公共的情動に関しては炎上や社会的リンチ、新国立競技場のザハ外し事件や豊洲市場の茶番等々、思い当たるものはいくらでも挙げられそうですが、この本が書かれたのが2007年8月、twitterの日本語版スタートが2008年4月なので、この本が書かれた後にメディア、特にSNSによって公共空間のあり方がさらに変容している可能性は考えておいた方が良いかも知れません。

個人的な感覚としては、twitterでは個人が複数のクラスタ・分人的に振る舞えた時期があり、公共空間として相互行為に満たされた瞬間があったように感じますが、Facebookでは分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働き、公共空間としての機能は弱まっているように思います。なので、どうすればFacebookの公共空間的機能を強められるか、と言った問いの立て方はあり得るかと思います。

さて、まだ序章。問いかけがあっただけなので、これからどう展開されるのか。


第一章 境界と分離

序章では「公共空間とは何か。」「公共空間と私的空間の境界」「疎遠化と一体化、開けた閉域へ」という視点の投げかけがありました。

そこから第一章では「境界と分離」について。

ジンメルからセネット、個人から共同体へ

ジンメルは都市における分離の問題に対し、個が個を保ちながら孤立に陥ることなく生活するには、個人と群衆との間に距離を設けること(もしくは投げやり)が必要とした。
一方、セネットは都市の問題を、構成要素である共同体の問題とし、共同体の間に交渉のための場が必要とした。

セネットにおいて、都市の問題が、個人の距離の問題ではなく、共同体の空間の問題だと捉えられるが、それらの境界が、共同体が純化(境界からの撤退。疎遠化と一体化。拒絶と否定)に向かう傾向に対抗するような公共空間となるには、どの様な条件があるか、が問われる。

アレグザンダーとルフェーブル、分断と隙間

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、アレグザンダーとルフェーブルが比較される。

アレグザンダーはあいだを有限な集合の中の部分の分断として捉える(静態的)。そこで、あいだが部分相互の交渉のために空間となるには、重合(オーバーラップ)、共通項を重ね合わせることが有効とする。

それに対し、ルフェーブルは、分離した集合の間には、交流欠如の問題だけではなく、政治的な問題があるとする。集団がそもそも他の集団と分離することによって成立しているとすれば重合の有効性は限られる。
分離は政治経済的な作用の帰結であり、心的なものというより資本主義体制下での生活空間に特有の客観的性質である。
資本主義のもと、空間の商品化(工業化された空間論理、交換の論理、商品世界の論理)が進み、等価交換の領域に包括されることによる特殊性・地域性の消去すなわち「場所の均等化」の作用と、空間を剰余価値の源泉とみなし富や階級、民族や宗教の違いに応じた序列を生み出す「階層序列化=不均等化」の作用という、相反する二つの作用によって分離が生み出されるのである。(例えば、郊外は、同質性を求めて集まるところというよりは、集まりと出会いの空間から引き離し、参加の機会を奪っておくために作り出された隔離のための居住地と言える。)
さらには、分断は交流を不平等なものにし、参加者を限定していく

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

境界は、重なり合いのための余白ではなく、それ自体で集め、出会わせていく作用を備えた空間が生成していくための隙間である。分離は現に支配的な形態でもあるかもしれないが、これに対抗していくためには、隙間としての境界的な空間が、中心性としての空間へと生成していくことを要するだろう。それもただ一つだけでなく、無数の隙間が。(p.79)

この生成の過程は支配的な秩序に対し劣勢であるが、ルフェーブルは分離とは別の空間の出現拠点はここ以外ないと確信する。その確信がどこから来るのかは次章以降で。

第一章を読んで

ようやく第一章。(一度読んだにもかかわらず、全く先が読めない(笑)
ここまで読んで、前回書いた「分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働」いている状況が再度頭に浮かびました
SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。
それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか

実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。


第二章 政治空間論ー均質化と差異化

前章の内容と重なりながら、ルフェーブルの政治空間論について掘り下げられます。

均質空間と差異空間 中心性と運動性

ルフェーブルは政治について、権力などの外在的なものではなく、空間そのものがどのように政治的であるか、を問う。

空間は、差異的なもの及びそのための隙間が除去されて均質的になることによって政治的になるが、それらの空間は固定的な枠ではなく、流動的で運動性を有するものとして捉えられる。

この均質化に対する実践は現実の空間が分離され、均質化されていく過程に即しながら、その中の隙間を捉えることで可能となる。その実践は新たな差異空間の生産へと繋がりうるものである。

差異空間と均質空間の間の運動と同じく、中心性の概念も変容する。中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していくが、またその空間の中から集まりと出会いの作用へと中心性を変容するような隙間が見出される、というように揺れ動く。

この中心性のあり方こそが空間の質を決定する。ゆえに、均質化に対抗するには中心性の全体化作用に対抗する必要があるが、それらは現実の空間の変容過程に即してみいだされるものである。(ルフェーブルはその実践のアイデアとして脱中心化と転用を挙げている。)(逆に空間の質が中心性のあり方に関与するというような相互関係でもあるように思う。)

空間の均質化が中心性が全体化へと変容した結果だとすると、均質化に対する実践はその変容にあらがい、差異空間を現させるような集まりと出会いの中心性へと導くことで可能となる

第二章を読んで

めちゃめちゃざっくりまとめましたが、前回

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

と書いたように、ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。

「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。
それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。

僕自身は、まだこの本における「政治」とは何を指すのか、をうまくイメージできていないように思います。自分なりのまとめを最後まで書いて繰り返し読み返すことでイメージできるようになればいいけど。


第三章 公共空間の政治

公共空間は脆弱な空間であるから、その喪失の過程に即した現状認識と実践が必要である。

公共空間の境界

アーレントの帝国主義時代と現代のグローバリゼーションの時代は異なるが、多くの示唆を与えてくれる。

 ・現れの空間…人々がともに集まるところには潜在的に存在し、相互行為によって形成され、それが途絶えると消えてしまうもの。
 ・境界の開放と制限
 ・共通世界…相互行為の土台となる具体的な場所。
 ・世界疎外…手の届く身近なところへの関与、および気遣いのすべてから離れたところへ退避すること。
公共空間が過度に拡張すれば、共通世界を失い、世界疎外がもたらされる。

「全体主義の起源」…国民国家が資本主義経済システムの要請に応じて外部と関わる際に、帝国主義的な膨張政策を採用した。
その膨張の暴力はやがて本国の政治体をも解体し境界を消去していく。アーレントはこの暴力の拡張を制御し、破壊から公共空間を守るために、公共空間に境界を要請した
また、国民国家は膨張の暴力に無力で不完全な排除の政治体であるが、同時に行為者に相互行為の条件・人権を与える。
例えば、難民や亡命者のように属する政治的共同体を喪失した者には、抽象的な人権ではなく具体的な政治体を必要とする

公共空間はあらゆる人間に、政治的行為を営む余地を与えるために開かれていなければならない。が、同時に、相互行為のための共通世界を確保するための制限、また、膨張の暴力から公共空間を守るための境界を必要とする。

境界の消去と排除壁

公共空間は観念ではなく、実質的な帰属を許容し、行為を意味あるものにする空間的な領域である。
それを暴力から守るのに必要なのが囲いとしての境界であるが、帝国主義は<帝国>へと変容し(Hardt&Negri)、内外の区別及び境界は消去されていく
境界の消去の過程にあることを一旦受け入れた上でそれでもなお、公共空間の存立する余地は考えられるか、が問われる。

<帝国>体制下では二項対立が終焉に向かい、支配のやり方が変化し、公的なものの領域を、私有化していくと同時に、政府による監視とコントロールへと開いていく。
さらに、公共空間を確保する境界が消去された後、私有化された空間を保護するための排除壁としての境界が新たに構築されていく。

危険の排除と未来の放棄

ゲーテッドコミュニティなどの私有化された空間は、異物を除去したいという動機のもとで排除壁としての境界を具現化していくように見えるが、実のところは逆に、境界によって外から切り離されることによって恐怖と排除の動機が生み出されていく
その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する
ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。)

この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。

脆弱性(ヴァルネラビリティ)の政治

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。
脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。
相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。

バトラー「全ての他の人間への配慮と引き換えに自分自身を安全にしようとすることは、我々が自分たちの位置を定め、道をみいだしていくための重要な財産を抹消することである。

現れの不可視化と隙間

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされているそこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

第三章を読んで

ここでもいくつかのことが頭に浮かびました。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』)

見てみるとだいぶ前の本ですが、『公共空間の政治理論』の2年前でしたね。捉えどころのない時代をどう生きるか。時代による共通の問題意識が合ったのかもしれません。(今はもっと露骨な形に姿を変えているように思いますが。)

予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

熊谷氏の予測誤差を遊びの文脈で捉えることで可能性に変えていこうという姿勢は、本書での「この不可避的な力に対して、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す」姿勢に重なります。

そのようにして現実の中から何かをみいだしていこうというのが、本書の結論でもあったように思います。
個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません

(著者の最近のものも一度読んでみよう。)


結論

最後にメモ的に終章から。

公共空間の存立条件

・必要なのは公共空間の存立条件が何であるかを示すこと、それも現実の只中において示すこと。
・現実には主要な実践とは異なる潜在している対抗実践との抗争状態であること。
・支配的な実践は人間にとって不可欠の条件を拒否して存続しようとしているが、その条件は抹消できないものであること。
・それゆえ、目的に無理があり永続は困難である。公共空間を実在のものとしていく実践はあながち無理ではない

公共空間はどのようなものか

・ネオリベラリズムの均質空間と抗争的な関係にあるもの。
・耐え難いものの現れとしての行為とそれが隙間に創出するやりとりの空間をどれだけささいで脆弱的なものであっても支えていこうとすることが必要。来るべき公共空間の創出の試みはこれらのささいな空間の根底にある共有のものをみいだそうとするところからはじまる。




安西先生・・・・・園舎の設計が

ネタ古すぎですんません。

 園舎の設計がしたいです。

これまで、「お客様と未来の子供たちのために」をポリシーとして仕事をしてきました。

建築をつくるということは、子どもが育つ環境をつくることでもあります。

40代に突入し、子どもの環境をつくるということに対し、プロフェッショナルとしてより深く関わりたい、という思いが強くなってきました。

そういう思いでいろいろと考えているうちに、これまでこのブログで考えてきたことや、住宅等の仕事を通して培ってきたことが、学校施設のような管理のための園舎ではない、大きな家のような子どもの体験に寄り添う園舎、子どもたちが毎日の自分の成長にわくわくできるような園舎へと、そのままつながっていることに確信を持つようになってきました。
 
園長先生、きっと素敵な園舎を一緒につくりあげていけると思います。
一度、私に提案の機会を下さい。

なにとぞ、なにとぞよろしくお願い申し上げますっ m(_ _)m

園舎の設計に関わる記事をタグでまとめていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい↓↓↓
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:保育園・幼稚園・認定こども園・設計
(随時更新中)
 
 
 あっ、折り紙も折れますよー(^o^)
 園への折り紙巡回展なども受け付けております。

 ■オリケン│太田則宏折紙研究所

保育環境と出会う建築

ここからは余談です。

園舎とは関係なく、子どもの育つ環境と建築について考えていくうちに、大人の役割は子どもが人や物、歴史や文化等々、いろいろなものに多様に出会える豊かな環境(encounters)を用意することだと、考えるようになりました。

その考えを自分なりにまとめたものが、『Deliciousness / Encounters おいしい知覚 – 出会う建築』になります。

保育について学ぶうちに、この考え方が、最近の保育の分野での考え方とかなりの部分で重なっていることに、気づきました。

例えばこの論のベースとなった考えにアフォーダンスやオートポイエーシスがありますが、それは保育の環境構成の考え方に直結しています。

もしかしたら園舎の設計をするためにこれまでがあったのかも、なんて思います。

興味のある方はこちらもどうぞ。
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:アフォーダンス
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:オートポイエーシス
 
 
 
(この記事は先頭に固定表示しています。)




大空間のスケール/子どものスケール B206『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』(建築資料研究社)

建築設計資料
建築資料研究社 (2012/9/1)

接合金物を使ったKES工法による木造園舎21例(保育所15例、認定こども園3例、幼稚園2例、その他1例)を集めた資料集です。
保育所の例が多いのは、燃え代設計等による準耐火構造とすることによって木造の良さを活かしやすいからでしょう。(発行当時はまだ、認定こども園の実例が少なかったのかな)

大空間のスケール 子どものスケール

21例のプランをトレースしてみると、個人的に良いと思う事例とそうでない事例とは結構分かれる気がしました。

良いと思ったものは、プランや断面、構成要素の分節が上手く、大断面集成材による大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケール、と多様なスケールを感じられるものが多かったです。

KES構法は大空間や大開口がつくりやすい構法だと思いますが、それに引っ張られ、ただ大部屋を並べたような単純なプランであったり、スケール感が単調なものはあまり良いように感じませんでした。(小さな子どもが巨大な手掛かりの少ない空間に放り出されても、安心して遊びを展開し続けることは難しいでしょうし、逆に小さな空間だけでは活発な子どもの活動要求を満足させることは難しいでしょう。)

『11の子どもの家』では、久保健太氏が子供の育ちには自由に行き来できる濃淡のある空間が大切だと説いていますし、高山静子氏は『環境構成の理論と実践』で、環境には両義性(個と集団、静と動、緊張と弛緩、秩序と混沌、構造化と自由度、等々)があり、保育者は状況に応じたバランスを常に探す必要がある、と言っています。

そのために、スケール・場の多様性を、安全や使い勝手等を満たしながらどのように用意するか、というのは園舎設計の大きなテーマになるようにと思いますが、多様なスケールを展開するには木造は向いています。また、KES構法はそのスケールを木造としては比較的大きなものにまで拡げられる構法と言えるでしょう。それは園舎にとても向いている特質のように思います。

大人は大空間におおっ!となるかも知れませんし、一時的な利用であればそれで良いのかも知れません。しかし、園舎は子どもが日常的に過ごす場所です。子どもの日々の気持ちを受け止め、安心して遊び、挑戦できるような場であって欲しいと思いますが、そのために必要な事が少し見えてきたように思います。




子どもも保育者も自在であれるように B204『子どもと親が行きたくなる園 (あんしん子育てすこやか保育ライブラリー 3)』(寺田 信太郎 他)

寺田信太郎 (著),‎ 深野静子 (著),‎ 塩川寿平 (著),‎ 塩川寿一 (著),‎ 落合秀子 (著),‎ 山口学世 (著),‎ 佐々木正美 (監修)
すばる舎 (2010/10/14)

川和保育園、さくらんぼ保育園、大中里保育園/野中保育園、東大駒場地区保育所、大津保育園、それぞれの園長先生のお話。

子どもと親が行きたくなる園=子どもと親が育っていける園

園長先生の話の中で、共通しているように感じたのは、

・子どもの自発性、自ら遊び学ぶ力を信じ尊重していること。
・子どもの発達段階にあった保育、(特に自然の中での自由な)遊びを中心とした保育を大切にし、早期教育のような考え方には概ね否定的であること。
・信念を持ってそのための環境づくりを行っていること。
・保護者との関係を大切にし、子どもだけでなく、親と一緒に園も育っていくような関係を築いていること。

などです。
青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本がありますが、子どもが行きたくなる園、というのは、遊園地のようにいたれりつくせりで子どもの気を惹くような園ではなく、原っぱのように、自発的に関わることができ、そこで自由に遊びながら自ら学ぶ楽しさを実感できる園なのかもしれません。

長男と次男がお世話になり、こんどの4月から三男もお世話になる保育園(今は認定こども園)は、「見守る保育」を実践していますが、「教えてもらう」ことを期待している保護者の理解を得ることの難しさと大切さは、一保護者として強く感じました。

保護者は園・保育者の支援を受けるだけでなく、園の理念を出来る限り理解し、保育者を支援する側に立とうとすることが大切で、そのことが子どもが質の良い保育を受け成長することに繋がるはずだ、と考えているのですが、いろいろな考え方の人がいますからなかなか難しい面もあると思います。そこを乗り越えて良い関係を築きながら、保護者も子どもの育ちについて学び共に育っていけるような園が、親が行きたくなる園なのかもしれません。

父親の役割

余談ですが、子どもがお世話になった園では年に一日父親保育の日がありました。父親たちはチームを組んで、その日に向けて準備をし、本格的なお化け屋敷や音楽ライブ、その他さまざまな形で、遊びの場を作りながら一日子どもたちを預かるのですが、むしろ父親自身が本気で遊ぶ感じです。
日常の主体的な遊びによる学びとは少し異なるかも知れませんが、非日常として父親が本気で遊ぶ姿を見るのも良い経験だと思いますし、父親が園と関わる良い機会になったと思います。
母親と父親の関わる割合が同程度になれば、園と保護者との関わり方もだいぶ変わってくるように思いますし、父親として関わることの意味や役割もあるように思いました。

出会いに意識的であることと自在であること

川和保育園の園長先生が20数年前に出会った文章を引用し、それについて書いていたことが印象的でした。

―ともすると、私達は、大切な意味と価値を内包する出来事に気付かず、あるいは気付いても深く考えないで放っていることが多くあります。現実の保育の場には、こうした偶然のもたらす予測しがたい出来事がいくらでも生じます。その時、教師が自分の(考えや保育案の)絶対性や権威性を思わず、自分の善意への信念などに固執せず、高い価値を内包すると思われる偶然に鋭く気付いて、その意味を測り、保育過程の中に「必然」として取り入れるという、敏感でしなやかな感性の持ち主であったなら、この幼い年齢においても、人生の、あるいは、人間性の本質的なものに触れるような深い教育さえ可能と思います。―(『幼児の教育』日本幼稚園協会)

この文章が素晴らしいのは、たまたま出会ったものを「偶然」としてそのままにするのではなく、その素晴らしさに気づき、その意味を考えて「必然」とするところまで突き詰めていくことの大切さを問いているからです。
保育者は出会うものに無自覚であってはならない。出会いの意味を考えて、自分たちの保育にどう活かしていくかということについて、常に考える事の大切さを、僕はこの文章から学びました。(川和保育園園長 寺田信太郎)

保育者は出会いを捕らえ、その意味と価値に意識的でなければならない。ここには、私が建築において出会いを重要視していることとの共通点が見えます。
また、元の引用文では常に経験を開き、自在であることの大切さも読み取れます。これはオートポイエーシスの第一人者である河本英夫が常々言っていることで、私も設計者として自在でありたいと思っています。
ここにも、保育と設計の共通点が見えますが、それは、両者がともに、人間が生きる環境の原点に迫ることを求めるからかもしれません。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。(佐々木正人)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』)

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。(河本英夫)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』)




空間と生活の中で学ぶことの大切さ B200『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』(象設計集団)

象設計集団 (編集)
新評論 (2016/12/22)

僕は象設計集団の建物がわりと、いや、かなりスキです。

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。 前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。 やっぱり豊かである。 これが建築なんだなぁとつくづく思う。(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』)

その人間臭さというか言葉にならないほどの豊かさにくらくらします

そう言えば、笠原小学校では「まちの保育園」と同じことを35年ほども前に建築として成立させています。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。 宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』)

 
 
そんな象のこんな本が出てるなんて知らなかったので、とっても楽しみにしていました。

さて、象の保育施設に対する思いとこの本の構成は「はじめに」の以下の文章によく表れているように思います。

なかでも保育園・幼稚園・こども園は、就学前の子どもたちが毎日、昼間の大半の時間をすごす場所であって、保育のあり方と同じくらい、建物と庭のあり方、街とのつながり方が子どもに及ぼす影響ははかりしれません
子どもが大人になって思い返す時に、この場所の思い出が、なつかしい心温まる風景になっていってほしいものです。
本書は、私たちが保育者とともにどんな思いで設計に取り組んでいるのか、そして出来上がった「家」の中で、子どもたちはどういう暮らしをしているのかを紹介しています。
さらに、保育の実践と研究にたずさわる専門家から、空間が保育に果たす大切さについて語って頂いています。(p.002-003)

11の子どもの家

象は保育施設のことをおおきな「家」と呼んでいるのですが、この本ではそんな「11のこどもの家」が紹介されています。

設計事例は内容を理解しプランを頭に入れるため、また、後でざっと見返すことができるように、一つの事例を一枚のノートにまとめるようにしています。

そうしていくと、北は北海道から、南は屋久島まで、気候や敷地条件、園の思い等、さまざまな条件に対しそれぞれの形で応えていることがよく分かります。
特に、庭との関係性を親密なものにしたり、園舎をまちや村のように捉えるところに象の特徴があるように思います。
また、木造建築のスケール感を取り入れるために、保育室を全て1階に配置し木造としているものが多かったですが、敷地が限られていて耐火構造にする必要がある場合、園庭との関係性とともに、木造の親密さをどう取り入れるかは、敷地他条件に合わせてその都度考える必要がありそうです。

(って、屋久島にもあったんですね。身近なところにありながら知らなかった・・・。機会を見てちょっと見てみたいです。)

この本の終盤では4人の専門家が「保育と空間」について語っているのですが、どれも密度が濃く興味深いものでした。

それぞれ印象に残った部分をまとめてみます。

「小さな学校」から「大きな家族」へ

宮城学院女子大学教育学科教授の磯部裕子氏は、保育施設の歴史的背景を辿りながら、日常生活(暮らし)から学ぶ保育空間の大切さについて語ります。

明治初期、家族はいわゆる大家族で、そうした家族と地域コミュニテイによる暮らしの中に子どもたちも生きていました。その暮らしの中には、緩やかで無意識な「教育」があり、子どもたちはそこで生きることの知恵を身につけていきました。
そんな中、幼稚園は、日常的な生活では学べない抽象的な知識を学ぶ場、「小さな学校」として誕生し、機能しました
そして保育施設は、計画的かつ合理的な教育実践の場としてつくられた学校空間―無機質で四角く、管理しやすい空間―と同様の保育空間が良しとされ、定着されることになります。

一方、現在、家族は大家族から核家族となり地域コミュニティの中で孤立化しています。地域の中の日常で当たり前に行われていた、ゆるやかで無意識な教育は失われてしまい、その機能を保育施設が担うことを期待されるようになってきました。しかし、依然として保育施設は「小さな学校」としての合理的空間のまま提供され続けています
そこで著者は

学校の「乳幼児版」を提供し続けることを見直し、子供時代に本当に「相応しい生活」を取り戻していくことが必要なのではないかと思います。そのヒントとなるのが、かつて日本のどこにでもあった地域コミュニティや大家族が為しえていた「教育」です。決して、時間を巻き戻してかつての生活に戻るべきだというのではありません。むしろ、そのような社会に立ち戻ることは、もはやありえない時代であるからこそ、生きること、暮らすこと、遊ぶことにこだわった子どもが育つ場―それは、学校の乳幼児版としての「小さな学校」ではなく、かつての地域と大家族の機能を内包した「大きな家族」―を”意図的に”構成する必要があるのではないかと思います。

彼らの日常から分断された教授空間としての「保育施設」ではなく、生活そのものの子どもの「居場所」へ、子ども自身が本当の意味で「生きる力」を学ぶ場としての居場所づくりを急ぐ必要があります。
無機質で管理的な空間としての「小さな学校」から、心地よい暮らしの場としての「大きな家族」へ、そこで本物の「知」を得るための豊かな学びの場としての保育の環境への転換が求められているのです。

と提言します。

何もしないで過ごすことを選べることの大切さ

和光保育園園長の鈴木まひろ氏は子どもが自主的であれる場について語ります。

子どもが目を輝かせるのは、保育者主導の活動ではなく、自分で仲間を選び、場所を選んで、自分がやりたいことで遊んでいる時間です。さらに、遊びの間の何もしていない時間が貴重であって、子どもが姿を隠せる場所、籠れる場所も必要です。
著者は

いつでも元気ではなくて、子どもだって、何もしたくない日もあるんです。子どもの状況を読みとって対応していくことが保育者には求められています。そういうことを考えると、建物がいかに重要か、建てる前に考えておかなくてはならないことがたくさんあります。

生活しながら学ぶことはたくさんあります。便利なものよりもひと手間あることのほうが学びも豊かになり、身に付きます。生活者の一人として、子どもの出番が生まれるような手仕事のローテク文化を、いかに生活の場に残せるかです。

というように述べます。

自由な遊びと挑戦の場としての園庭

川和保育園園長の寺田信太郎氏は、生きる力を育てる園庭について語ります。

園庭では多少の怪我も含めて、こどもたちの自由な遊びと挑戦を尊重し、見守る保育を実践しています。そこで子どもたちは人として生きる力、社会で生きていくための力を学びます。
(川和保育園に関しては『ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」』で改めて取り上げたいと思います。)

子どもの育ちを支える濃淡のある空間

関東学院大学子ども発達学科専任講師の久保健太氏は育ちの場と濃淡のある空間について語ります。

著者が訪れた美空野保育園では、子どもたちが自由に遊んでいながら、ゆったりとした時間が流れ、保育者に強要された落ち着きのフリをした押さえ込みではない、確かな落ち着きがあった。そして、その秘密は空間が持つ「濃淡」にあるのでは、と語ります。

濃淡のある空間と均質な空間で考えたとき、学校の教室のような均質な空間では、どこで遊びこめばいいのか、どこでくつろげばいいのか、それがよく分かりません。
一方、濃淡のある空間では、いろいろなスペースがあり、一人になることも出来るし、ダイナミックに遊ぶことも出来ます。そこでは、場所と機能が一対一で対応するのではなく、場所と気分が一対一で対応しています。そのような空間では、営みとともに移ろう気分にしたがって、濃淡を行き来しながら自由に過ごすことができ、そこに学びが潜んでいると言います。
また、そうして気分に応じて濃淡を行き来することは、他人の自由を尊重し合うということの学びにつながります。
そして、空間を自ら意味づけできることの大切さについて語ります。

自分で意味づけるからこそ、その場所の意味が、自分にとっても重要な意味を持ちます。肝心なのは、こうした意味付けを一人ではなく共同で行うという点です。つまり、自分で意味づけるのではなく、”自分たちで”意味づけるのです。

濃淡のある空間は、自分たちで空間を意味づけていくことを可能にします。だからこそ、落ち着いた暮らしをもたらすだけでなく、自由を尊重し合い、学びを尊重し合うことができるわけです。こうして濃淡のある空間は、人の育ちを支えています。

ここでの空間の濃淡という言葉は塚本由晴氏が言った「空間の勾配」というものとも関係づけられるように思います。以前読んだときにはあまり理解できていなかったですが、今なら人と空間をより関係づけて理解できそうな気がします。

屋久島で受けたカルチャーショック

4人の専門家は共通して、子どもが日々の暮らしの中で、自由に遊ぶことによって得られる学びについて語られていたように思います。

こんな時、屋久島に移住した時のカルチャーショックのようなものを思い出します。
僕は、中学一年の秋まで奈良県の五條市というところで過ごし、その後屋久島に移住したのですが、屋久島の子どもたちは、学校の掃除や遊び一つをとっても、自発的というか当たり前にというか、自分で考え行動しているように見え、それが妙に大人びて見えました。一方自分は、大人と子供を分け、半ば反発的に自分を子どもの側に位置づけていたのが、まさに子供っぽく感じて、そこに思春期特有の劣等感に近いものを感じたことを思い出すのです。

奈良にいた時もそれなりに田舎で、自然の中で育ったように思うのですが、島の子どもたちは、自分で鰻を獲ってさばいたり自然の中で遊び、家や地域の中で仕事を手伝ったりする機会も多く、自然と「大人」と同じように育ったのだと思いますが、それまでの自分はやはり「子ども」として育ったのだと思います。(僕も、その後父の始めた農業を手伝ったりすることで、さまざまな事が学べたように思いますし、今まで、その経験に何度も助けられたように思います。)

こんな経験もあって「生活の中で学ぶこと、それが失われつつあること」に特に関心をもったり、象の建築が好きだったりするのかも知れません。

[ 追伸 ]
読書記録200冊目達成しました!




発達はエキサイティングで面白い B197-198『発達がわかれば子どもが見える―0歳から就学までの目からウロコの保育実践』(乳幼児保育研究会)『0歳~6歳子どもの発達と保育の本 』(河原紀子)

乳幼児保育研究会 (著)
ぎょうせい (2009/3/7)

河原紀子 (監修)
学研プラス (2011/3/15)

保育期間の子どもは目まぐるしく成長していき、その発達段階に合わせて、必要な支援や環境に要求されるものが変わってきます。
保育園、幼稚園、認定こども園などの保育環境を設計する際にはそれに対する配慮と想像力が必要だと思い、読みやすいものをまずはざっくり読んでみることに。

上の本は、発達段階の区分が細かくテキスト量が多かったり、観察ポイントの開設やコラムが充実していたりするので、発達の理解や疑問の解消に向いていそうです。
下の本は、イラストが多くて読みやすかったり、発達表がついているので、ざっと理解したり、設計の際近くに置いてイメージを膨らませるのに向いていそうです。

また、実際に自分の子どもの発達と照らし合わせながら遊ぶヒントにもなりそうです。

発達保障理論と新たなアフォーダンス形式の獲得

ところで、「発達」という言葉に初めて意識的に出会ったのがいつかと言うと、バリアフリーと福祉施設について調べていた時に見つけた「発達保障理論」という言葉が最初だったように思います。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』)

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

引用元のページで、いくつか引用として抜き出しているのですが、発想が建築的で面白いのです。(この方の書いた本がないか、と思い探していますが見つかっていません。)

この発達保障理論は、言い換えると、何かを与えられるだけでなく、いつでも主体的に何かと出会い、関係を切り結べる(それによって発達できる)ことを保障しよう、ということなんじゃないかと思います。
これは、障害者福祉施設の現場の視点によるものだったと思いますが、同様のことを保育の現場でも「子どもが自ら出会い、育つことを保障しよう」というように言えるのではないでしょうか。

また、アフォーダンスの視点はリードによって発達という視点にまで拡張されています。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)
人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

ここでは、アフォーダンスが発見される相互行為が、
・[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的・対面的フレームの中での二項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・<認識>の共有
 ↓
・[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>
 ↓
・[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>
と発達していく過程が描かれています。

これも、どんどんと出会いの窓が拡張されていく過程として保育の現場に重ね合わせることが出来るでしょうし、保育園を「促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場」として捉えているところも面白いですね。

さらに、次の本の目次を一部抜き出すと、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B184 『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』

第I部 発達と身体システム
第1章 発達――身体と環境の動的交差として 丸山 慎(駒沢女子大学)
第2章 運動発達と生態幾何学 山コア寛恵(立教大学)
第3章 ゴットリーブ――発達システム論 青山 慶(東京大学)

と、あるように、生態学的(アフォーダンス的)視点で発達を捉えています。もしかしたら生態幾何学的な視点で発達段階に合わせた設計をする、ということも考えられるのかもしれません。
また、要因と結果を中心に捉えられがちな「発達」をアフォーダンスの視点は動的で能動的な行為そのものへと引き戻してくれます。子どもの発達は、今目の前の行為の中にあるのです。

今回は分かりやすい2冊を選んで読んだけれども、事程左様に発達はエキサイティングで面白いものなんじゃないかという気がするのです。

(よく知らないまま季刊「発達」を数冊買ってみたので、どんな感じかちょっと楽しみ。)




子どもを中心とした2つの矢印 B196『まちの保育園を知っていますか』(松本 理寿輝)

松本 理寿輝 (著)
小学館 (2017/3/23)

子どもたちに多様な出会いの機会を

僕の大学の卒論は『コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察』というもので、コミュニティというものを現代社会の中での有効性という視点から考えてみたい、という思いで書いたものでした。
下のリンク先にその卒論の冒頭部分を抜き出しているのですが、次の文がその時の思いを端的に表しています。

「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 人と人との関係)

この時の思いは一貫して自分の中にあり続けていて、コミュニケーションの必要性を人を含めた環境全てにまで拡げて考えてきたのが『出会う建築』でした。
その「出会い」が「子どもの育ち」に必要不可欠なものだとすれば、子どもたちの多様な出会いの機会を担保してあげることが大人の役割だと思うのです。

また、社会学者の宮台真司は次のような事を言っています。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要 ■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。 ■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B045 『「脱社会化」と少年犯罪』)

現代社会を生き抜くためにも、コミュニケーションの試行錯誤・多元的モデルとの接触によってタフな「自己信頼」を醸成する、ということが必要であり、ここでもやはり「子どもたちの多様な出会いの機会を担保する」ということが大きなテーマです。

まちの保育園

さて、本著ですが、前半は著者がどのようにしてまちの保育にたどり着いたか、その経緯が語られます。
著者はただでさえ若い女性と過ごす時間が大半となっている保育環境にふれ、『人格形成機である0~6歳にどのような出会いを持つかが大切であるということを考えれば、もう少し多様な出会いを持てるといいな』と思うようになります。

また、レッジョ・エミリア市の文化(大人たちが皆当たり前のこととして『子どもたちが力を発揮できるために、今ベストといえる環境を自分たちで考え続け、つくり続けていく』文化)に触れ感銘を受けます。

そこから『子どもを中心にして、「子どもが育つ理想の環境」「大人も含めた理想的な社会や市民のありかた」を対話し続けていくことで、日本で拓いていくオリジナルな「まちの保育」をつくっていこう』と考えた著者は、その理念を実現すべくまちの保育園を開設しました。

「まちの保育」は『子どもの育ち・学びにまちの「資源」を活かす→まちが保育園になる』『保育園がまちづくりの拠点として、地域が豊かにつながり合う→保育園がまちの頼れる存在になる』という子どもを中心とした2つの矢印がお互いに向き合っているような関係で成り立っているようです。

レッジョ・エミリアでは、まち→こどもの矢印が強く見えるのですが、その前に日本ではまず一度閉じかけたコミュニティを拓くことが必要で、そこに子どもの持つ「存在感」「社会的役割」の意義が生まれます子どもを中心に置くことで「まちが子どもを育てる」と同時に「子どもがまちを育てる」ような好循環が生まれるのです。さらに「子どもの環境を/まちを・社会を」どうやって良くしていくかという「問い」が中心にあることで、まちが動き続けることが重要だと言います(結果主義ではなくプロセス主義)。

こんな風に「まちの保育園」は子どもとまちを絶えず動かし続ける「はたらきそのもの」のような存在であり、それが働き続けることで、子どもだけではなくまちも(「育てられる」のではなく)「育つ」のかもしれません。
そこに「はたらき」の存在を見出すことが著者の言う「プロセス主義」なのだと思いますし、そこではオートポイエーシスに関連して河本英夫が言うように経験を拓いていくような態度が重要なのだと思います。

まずは対話のテーブルにつこう

「大人たちが楽しそうに生活し、自分たちの信じられることをやっている社会」、それこそが、子どもにとっての理想的な環境なのではないかと思います。
(中略)
「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくりと同じこと」なのです。

この本はこんなふうに締められるのですが、ここで騎射場のきさき市を主催する須部さんが”のきさき市のその先に子どもたちを見ている”というようなことをラジオでチラッと言ったのが思い浮かびました。あー、そこまで見ているんだな―。

これまでは「良い設計の仕事をしていたら、それが認められてやがて良い仕事が来る」ということで良かったのかも知れませんが、保育園一つをとっても、ただ建築物だけをみているだけではいろいろなことが捉えられなくなっている。そういう時代なんだと思います。まちがうごく、というような「はたらき」に身を置くことでしか見えないことや達成できないことがあり、建築もそれとは無縁ではいられないのかも知れません。

著者は「問い」や「対話」に教育や社会の本質を見出し、「まずは対話のテーブルにつこう」と言います。

僕も独立前後はいろいろなところに顔を出し、いろいろなことを考えるようにしていましたが、仕事が安定し忙しくなるにつれて「クライアントの期待に応えることを最優先しなければならない」と言い訳をしながらどこかに顔を出すことを制限するようになってきていたように思います。
しかし、一歩引いて大きな目線で見るならば、「対話」と「はたらき」に身を置くことはどこかで仕事(を通じて貢献したいこと)につながるような可能性を持っているのかも知れません。須部さんのラジオでの一言がきっかけでそんなことを考えるようになりました。

「まずは対話のテーブルにつこう」
もう一度そこから初めてみるのも良いのかもしれません
。(とは言ってもチビが保育園に入るまではなかなか厳しいわけなのですが。)

(追記)
今、保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設について集中的に学ぼうとしているのですが、「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくり」というのは「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な建築づくり」とも言い換えられると思います。
子どもの事を考えた建築は大人にも良いだろうし、大人がそれぞれ真剣に楽しんで向かい合った建築が積み重なることで子どもが育つに相応しい風景が生まれるのではないでしょうか。

ここで学んだことは住宅やその他の建築にもきっと活かせるはずです。




「子どもが育つ」状況に満たされた場 B195『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』(加藤 積一)

加藤 積一 (著)
小学館 (2016/7/22)

コラボレーションの理想形

ふじようちえんは、佐藤可士和と手塚建築研究所がコラボレーションし、日本建築学会賞を受賞した建築として有名です。

この本は、そんなコラボレーションのもう一人の主役、園長の加藤積一さんから見た「ふじようちえんのひみつ」のお話。

その園長先生がこのコラボレーションについて次のように語っています。

可士和さんはその話を聞いて、「園長先生。僕はその子どもの育つ状況をデザインしましょう」と言いました。
状況をデザインする。
なんていい言葉でしょう。その状況を手塚さんが建物として形にしていきます。真ん中に「子どもの育ち」があって、「学びをデザインしたい」が「状況をデザインしよう」になり、「建物としてのデザイン」となっていったのです。そしてこの三極のスパイラルがいまでも動き続けているのです。

それは、三者が自分の役割を果たしながらコミュニケーションを重ね合い、同じ目標である「子どもの育ち」のデザインへと向かっていくという、理想的なコラボレーションの形のように思います。

どんな建築も例えば施主と設計者、施工者といった関係者によるコラボレーションです。
それがこんな風に理想的な形で建築に着地できたら最高ですね。

「子どもが育つ」状況に満たされた場

下の画像は内容を掴むためにノートにまとめたものですが、上は本書の「子どもが育つ状況説明図」を写したもの、下は園で実践されているアイデアを箇条書きで抜き出したものです。

上の図には「◯◯で育つ」という状況が建物内に限らず敷地いっぱいにみっちりと書き込まれていますし、下に抜き出したアイデアも60に達しました。

内容は、「一日中歩き廻れ、互いの様子が見え、屋根の上をぐるぐる走り回れる楕円形のプラン」や「力を入れないと最後まで閉まらない引戸」と言ったハード面から、「畑作り」や「ふじようちえん検定」といったソフト面まで幅広く、それらのアイデアは全て「子どもが育つ」状況をつくる、という一点へとつながるように考えられたものです。

こんな風に、ふじようちえんは「子どもが育つ」状況に満たされているのですが、その根底には子どもの観察と科学的な分析によってつくられたモンテッソーリ教育があるようです。

モンテッソーリとアフォーダンス、出会う建築

それでは、モンテッソーリ教育とはなんでしょう。
保護者などに聞かれたとき、まず私はごくかいつまんで、「それぞれの子どもの中にある、自ら育とうとする力を十分に発揮させてあげる教育です。」と答えています。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」
これが、マリア・モンテッソーリの得た結論でした。

モンテッソーリはこの教育を行う上で「環境」が重要な鍵になると考えます。子どもは大人が教えるから育つのではなく、環境と交流することによって育つのです。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」ことを前提に、「大人(親や先生)」は、その要求を汲み取り、自由を保障し、子どもたちの自発的な活動を援助する存在に徹しなければならない。

これらのモンテッソーリ教育に関する言葉は、僕がこれまで建築について考えてきたことに驚くほど似ています

僕は「何が建築にとって大切か」をずっと考え続けてきました。それを、アフォーダンスやオートポイエーシスと言った理論をベースに『おいしい知覚 – 出会う建築』としてまとめた事があります。

簡単に言うと、人を含めた動物は環境を探索することによって、環境との新しい関係を切り結ぶ可能性(アフォーダンス)を見つけ出し、それによって成長・発達していく存在であるし、そこに喜びもある。また、環境としての建築は多様な可能性(アフォーダンス)と出会えるものであり、そこで可能となる出会いの多様さや深さが建築の意味と価値と言える。というようなことです。
要は、その建築にどんな出会いの可能性が含まれているかが大切だ、ということです。
(かなり読み難いかもしれませんが、興味のある方は『おいしい知覚 – 出会う建築』を読んでみて下さい。)

人間が育ち、生活していくためには、そういう出会いの可能性を豊かに持つ環境が大切だと思うのですが、それは「子どもが育つ」状況に満たされることが大切、ということと重なります。

また、アフォーダンスの理論では、人は何かの刺激に対して反応して生きているのではなく、能動的に環境を探索することによって、そこから意味や価値を発見・抽出し、それを利用することによって生きている、というように機械論的受動性から生態学的能動性へと転換を図るのですが、それは先生に教えられるのではなく、子どもが自らを成長させる、というモンテッソーリの基本的な考えとよく似ています。

そういう視点で見ると、ふじようちえんは敷地も含めて「子どもが育つ」ために必要な出会いの可能性に満ちた建築、まさに「出会う建築」だと言えるのではないでしょうか。

これまでずっと『おいしい知覚 – 出会う建築』について考え続けてたのですが、保育園や幼稚園、認定こども園といった子どものための建築ほど「出会う建築」が求められている建物はないように思います。
これから、いくつかの読書録を通じて、子どものための場が、どのように「子どもが育つ」ために必要な出会いを生み出してきたか、またはどのようにして生み出せばよいか、を研究していきたいと思います。




新しい制度と希望 B194『図解入門業界研究 最新保育サービス業界の動向とカラクリがよ~くわかる本[第3版] 』(大嶽広展)

大嶽広展 (著)
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独立前の事務所では、幼稚園等の提案をしたりする機会もあったのでそれなりに勉強していましたが、制度の移り変わりが早い業界、もう一度いろいろ勉強し直してみようということで、保育園・幼稚園・認定こども園などに関連する本を30冊近く購入してみました。

その中で、まずは全体の動向を見てみようということでベタな一冊から。
特に2015年にスタートした「子供・子育て支援新制度」を起点とした変化について、全体をざっくりと掴むには良書だったと思います。

保育園や幼稚園が認定こども園へと移行していく様子や、多様な形態の保育サービスで保育環境を底上げしていこうという主旨がよく分かりました。

身近なところでは、ずっと気になっている保育園があるのですが、その保育園は企業主導型保育事業制度を利用していて、その仕組みと可能性がようやく分かったように思います。(この園、保育園のあり方としても、子どもの環境としても夢に溢れていてすごく素敵です。)

話は少しそれますが、昨日、「鹿児島市子どもの貧困対策講演会」があり、託児可ということもあって行ってみました。
統計的な資料を使いながら貧困世帯の子どもたちの現状が語られたのですが、子どもの権利をどう社会として守っていくかという問題は、私たちが普段感じている以上に大きな問題だと感じました。
そこには、私たちの意識の問題が一番根っこにあることは間違いないですし、その結果でもある制度の問題がやはり大きいのかもしれません。

先の保育園のように、新しい制度が生まれ、それが素晴らしいかたちで活かされているのを見ると、大きな希望を感じるとともにいろいろなことの動向を知ること、変えていくことも大切だと改めて思わされました。




スケトレメモ おいしい自然

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モデュロールと自在さ

スケッチ載せるのやめとけば良かったと若干後悔しつつ、スケトレなのでこのまま続けます。続けてるうちにうまくなるかもしれないし。

「おいしい自然」は自然に含まれる意味をどう知覚させるか、と自然の中にある情報・不変項をどう抽出し再構成するか、ということが課題となる。

担当したクセナキスが波動ガラス面と名付けたラ・トゥーレットの回廊のガラス面は、モデュロールを利用したものだが、モデュロールも自然の中の不変項を抽出したものと言えるように思う。

コルビュジェは基準線(レギュラトゥール)による構成から、寸法(モデュロール)による関係性の構築へと移行したことにより、より自由に振る舞えるようになったが、そこにはより自然に近い秩序が生まれており、そこにより大きな知覚の悦びが発生しているように思う。

実績より

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ここでは建物の最上部にトップライトと東向きの窓を設けるとともに、間仕切り上部をガラスで構成することによって、太陽の進行に沿って室内に光が回り込むことを考えた。

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これは、雑木林に囲まれた生活、というコンセプトの敷地に対して、シンプルにいろいろな方向に緑が見えるようにすることで応えた住宅である。(撮影時はまだ植栽が完了していなかったので緑はあまり見えていないが)

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ここでは限られた予算の中で、宿泊施設にどのような象徴性を与えるかを考えた。モッチョム岳を背後に控える宿泊棟は垂直性をベースにした構成に、海側の母屋は軒を抑えた控えめな表現とした。
屋久島という自然のなかの構成に何かしら反応するものにしたかった。

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ここでは、途中壁を白にしたいという要望もあったが、海に向かった時に建物は背後に退くようなものにしないとその場所の特性を活かせないと考え、海に向かう時に目に入る壁面を黒に、反対側を白にし、屋根と床が水平に外へと伸びていくような構成とした。

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これまでは、自然をどう知覚させるか、ということが主題であったが、自然の不変項をどう取り込めるかを考えるための実験として、CADのスクリプトでランダムと擬似1/fゆらぎによるものの比較をしてみた。

ランダムなものは当然規則性はなく、それぞれの要素に重みや固有性は生まれないが、それにゆらぎを与えることでそれぞれの重みに変化が生まれ、固有性もしくは意味の萌芽のようなものが見られる気がする。
自然界のものは、全くランダムというものは考えにくく、その環境の違いによるゆらぎはどこかに現れているはずだ。

コストや手間を考えると、住宅などでどこまで出来るかは分からないけれども、寸法の扱いの中にそういうゆらぎやリズムを与えることはできるはずで、そういったことにもっと意識的に設計を行ってみたい。




Deliciousness / Encounters

おいしい知覚 – 出会う建築

 
 
この論の目的は、これまで学んできたことを生態学の知見のもとに相対化し、設計に関わる環境の中に知覚される対象として再配置(re-layout)することにあります。

また、生態論を主として記述した「deliciousness おいしい知覚」とは別に、専門的な言葉遣いをできるだけ避けた「encounters 出会う建築」も用意しています。

「deliciousness おいしい知覚」はnoteに、「encounters 出会う建築」はこのサイトにまとめています。

Deliciousuness おいしい知覚|オノケン(太田則宏)|note

オノケン│太田則宏建築事務所 » 出会う建築

PDF版もあります。
最新版PDF :deliciousness おいしい知覚
      encounters 出会う建築
 
  (A5見開き出力用にレイアウトしています。また、随時手を入れながらヴァージョンアップしていきたいと思います。)

音声ファイル : MP3ファイル Zip圧縮 81.5MB 02:14:14
  (音声ファイルはパートごとにmp3ファイルで作成し直す予定)

[update]
2017.08.22 ver 1.3 [おいしい知覚]と[出会う建築]を別ファイルとして作成。
2016.07.04 ver 1.26 誤字等を修正 MP3音声ファイルアップ
2016.06.08 ver 1.25 誤字等を修正
2016.03.12 ver 1.24 おいしい流れ加筆
2016.02.22 ver 1.23 誤字等を修正
2016.02.17 ver 1.22 改行を調整 一部追記
2016.02.15 ver 1.21 誤字等を修正 一部追記
2016.02.13 ver 1.20 補足を追記
2016.02.11 ver 1.11[概要版] 出会いの建築図追加 他
2016.02.10 ver 1.10 出会いの建築(未完)追加 タイトル変更
2016.02.08 ver 1.02 最後にまとめ図を追加
2016.02.07 ver 1.01
2016.02.06 ver 1.00




経験には喜びや希望、生きることのリアリティが内在している B188『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2010/3/31)

前回と同じ著者で、生態心理学の流れで倫理的な視点に対して信頼を持てるようになることを期待して手にとったもの。

原題は『The Necessity of Experience(情報の必要性)』だが、最終章のタイトルよりとった『経験のための戦い』が邦題である。
最初に感想を述べると、哲学的な枠組みからか、教育や労働環境等とその背景となる哲学や心理学に対する批判が8割以上を占めている感じで少し読むのが辛かった。
主旨から考えると、『経験のための戦い』として批判にページを割くのではなく、『経験の悦び』や『経験の希望』というような内容に力を入れて欲しかった、というのが率直な感想である。

哲学的枠組みに乗って現在あるものを否定することで正当性を求めるのは、本書で批判している枠組みそのものをなぞり、経験的な意味を損なうことになると思うし、その枠組では結局のところどういう立場からものをいうかの観念的問題でしかなくなるような気がする。それよりは経験に内在するという悦びや希望、可能性を丹念に描き出すことに力を注いで欲しかった。(そういう意味では前回の本は面白く読めた。)

とは言え、その批判的な部分は現在のものづくりにもそのまま当てはまるし、デューイの哲学はこれまで見てきた生態学的な倫理の基盤とも言えるものであった。

確かに現在のものづくりは不確実性に対する恐怖が支配的で機械的になものになっているし、一時的経験が剥奪されたものの集合体である都市は技術や経験の蓄積としての集合的記憶を見失いつつある

それに対し設計に関わることでできることは、不確実性に対する恐怖に贖い生きられた経験を取り戻すべく努力することと、設計を新たな集合的記憶への道を示すような”技術”として捉え直し風景へと埋め込むような可能性を模索することだろう。

では、知覚・経験がもつ根源的な意味については何が言えるだろうか。

確信を得るためのものが見つかったとは言えないが関連しそうな部分を抜き出しておきたい。(強調は引用者による)

(行動の動機となるような)行動に付随しておこる積極的あるいは消極的な感じは、孤立した内的状態ではなく世界を経験することの一部なのである。

日常経験にかかわるエロスつまり生きられた経験の喜びは、端的にいって生活への愛、[事物や他者との]出会いや効用の快感である。エロスは対象や情況とのわれわれの出会いに内在している

ごく普通に何かをすること-料理、庭いじり、裁縫、建築、音楽、スポーツ(中略)これらの活動は(フロイトによる)妨げられた性交などではなくて、環境と触れ合うありふれた方法であり、そのままで楽しみなのである。

彼(モリス)がゴシック様式を愛好したのは、石工その他肉体労働者が建物を設計したという事実に拠っていた。かれらは建築家の設計図をただ実行に移しただけではなかったのだ。(中略)モリスにとって有用な仕事は、とりわけ誇りと希望を人に植え付ける仕事だった。ここで、誇りとは自己と生産物に対する誇りであり、希望とは自己改善と十分な「休息」に対する希望である。

すべての人間の経験には、ごく単純なそぞろ歩きから複雑極まりない技術的熟練に至るまで、限りない可能性がある。したがって経験のもっとも重要な面である希望は、主観的感情ではなく、世界とわれわれの出会いの客観的特性なのだ。

希望は主観的でも私的でもない。希望は公共的な経験と行動の一面なのである。希望に必要なのは、個人が行為の主体として自らの成功と能力の両方を知覚することであり、目標への進路が「開かれている」(すなわち、自分のエージェンシーにとって実現可能である)ことである。

われわれの生活の意味は、自分でそれを捜す努力を払うときにのみ見いだされるだろう。

この本でも経験が喜びや希望とつながる、と言えるような確実な根拠はなかったように思う。(それを求めるのも不確実性に対する恐怖に囚われているのかもしれないが。)
それでも、経験(知覚と行為)が意味と価値を内包し、生物が生きていく上で不可欠なものであるのであれば、そこに喜びや希望、生きることのリアリティが内在しているとしても不思議ではないし、特に子供の頃を思い返せば実感としては納得できる気がする。

いや、もしかしたら、そこに確実性を求めるのではなく、リアリティとつながる体験とは何か、を考える実践的努力とそれを信じる勇気こそが必要なのかもしれない。
これまで見てきた佐々木正人他さまざまな人たちがそれを体現してくれているように思う。

(”少年のモード”と”つくることとつかうこと”がそのヒントになるだろうか。)




ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2000/11)

これまで読んだ本でも何度も引用されており、生態学を社会性のようなもとつなげられそうな予感がして読んでみた。

世界/環境との切り結び

進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/環境との切り結び>という考えが中心ににありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった

まず、重要と思われるいくつかの用語を挙げながら”自分なりに”まとめておきたい。

<環境との切り結び>・・・環境の情報/アフォーダンスをピックアップし利用したり改変したりすること。生態学のベースとなる考えで能動的に行われる。受動的に刺激を受け取り反応するといった考えとは反する。この能動性がおそらく決定的で、「環境から」入力があるのではなく「環境を」探索する。入力されたものを組織化するために脳があるのではなく、切り結びを協調させるための一つの機能として脳が進化したと考えられる。司令主義的原理ではなく選択主義的原理

<情報>・・・個体をその環境と一体に結びつけることを助けるもの。外部特定的な情報自己特定的な情報がある。アフォーダンスとほぼ同義であると思われる。それは行為の調整を通じて環境から価値を得るための<資源>となり、また行動や進化の選択圧ともなる。このような選択圧は行動の時間のスケールから、個体発生の時間スケール、系統発生の時間のスケールまであらゆるスケールで生じ、一つの行動の選択から進化にまで関わる。

<行動/行為>・・・アフォーダンスを利用するために環境と特定の関係を結ぶこと。行動は能動的で<調整>するものであって機械的・受動的に<構成>されるのではない。また、遂行的活動探索的活動がある。<行動>は自己と周囲との関係を変える動物個体の能力と定義されている。

<行為システム群>・・・多種多様な環境があるためそれを利用する多様な行為システム群が分化するような選択圧がかかる。大きくは「基礎定位システム」「知覚システム(探索的)」「行為システム(遂行的・非動物的環境)」「相互行為システム(遂行的・動物的環境)」に分けることができる。その中にさらに「移動システム」「欲求システム」「操作システム」「有性生殖システム」「養育・グルーミングシステム」「表出システム」「意味システム」「遊びシステム」などが挙げられている。

<意識>・・・生態学的な<知覚>とほぼ同義。動物は自己の周囲のアフォーダンス群をその場で利用するかしないかにかかわらず意識する。情報のピックアップ・探索的活動そのものが能動的な行動であり、意識はその成果であると言えるかもしれない。それは自覚的であったり信念を持つといった機械論的神経機構による反応のことではない。

<心理学/動機づけ>・・・<心理学>は心身二元論における刺激-反応過程の心を探る研究ではなく、<運動するもの>の研究、すなわち動物がいかに周囲と切り結び、その切り結びをいかに調整するかについての研究だと定義される。そこには行為と意識の両方が分離されずに含まれる。同様に<動機付け>は正の心的状態を求める快楽主義ではなく、動物がその生息環境のアフォーダンス群とそれぞれ独自の道において関係するように進化してきた選択圧への調整の過程だと考えられる。感情との結合が仮に生じたとしても副次的なことでしかない。

<意味/価値>・・・<意味><価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。

ここで書いたことは全て<個体と世界/環境との切り結び>の考え方と整合する。すなわち、この視点から総合的な心理学を研究する道を切り開いたと言えるが、建築を考える上でこれらはどういう意味を持つだろうか。
建築が環境の一部であることを考えると、この事によって建築が生態学的に<生きること>に対して大きく関連していることに対する信頼を得られる、という点で意味があるように思う。言い換えると、建築を考える際に<個体と世界/環境との切り結び>の視点、すなわち建築がどのような知覚と行為の可能性を担保できるかという視点を持つことによって様々なことにアプローチする可能性が開かれたと言っても良いかもしれない。
当然この考え方が100%正しいという保証はどこにもなく、将来には全く違った視点に書き換えられるかもしれない。しかし、生態学的な視点が建築に対しても新たな視点を提供しており、それは私がそれとは知らずこれまで考え・感じてきたことにかなりの部分で重なっていることは確かである。(だからこそ興味を持ったわけだが。)今の時代を生き、建築に関わっている一人としては信頼してみる価値はあるように思う。

人間への拡張

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)

人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的な対面的フレームの中での二項的な相互行為。単純な反応や真似など。(これは声や行為を挟んだ三項的な相互行為とも考えられそう)。自己と他者を理解し始める。表現や簡単なゲームもできるようなる。

[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為。同じ物を挟んでの相互行為で環境のアフォーダンスを共有できるようになる。物を交互に動かしあったり他者と遊びや活動を共有できるようになる。文化のなかに入り始める。

[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。すなわち<認識>を共有できるようになる。<認識>は人-物-人の三項関係の物の部分に認識を当てはめた相互行為とも考えられる。生きたプロセスであり、自己と周囲との接触を維持する(持続性を獲得する)能力でもある。また、その課題に含まれるアフォーダンス群のまとまりをまとまりとして知覚できるようになる。さらに、その技能を時刻や場所と関連づけた日常のルーチンとしても認識できる。また、人間は<満たされざる意味>、意味への予感のようなものを動機として先立って行為に携わる傾向性があるという。分からないけれどもやってみるというのが認識の発達をリードする。

[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>は人-物-人の三項関係の物の部分に言語を当てはめた相互行為とも考えられる。言事は、観念あるいは表象の手段ではなく、情報を他者に利用可能にするための手段であり、それによって自身および集団の活動調整に寄与するものである。また、言語がこれほど強力な調整者である理由の一つは、人々に現在の環境状態だけでなく、過去や未来の環境状態を意識させるからであり、これは変容され集団化された一種の予期的制御である。このことはひょっとするとヒトのもっとも根本的な変化であるかもしれない。また、言語はあるものを共有するために選択する「指し言葉」から、指し示すだけでなくコメントする「語り言葉」へと発達する。

[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>は上記の人-言語-人の三項関係の相手の部分に自分を当てはめた相互行為とも考えられる。すなわち自分が生成(行為)した言語を環境として受け取り自分で知覚し、さらに生成(行為)するサイクルが思考なのではないだろうか。実際の場面では三項関係の相手は自分・相手・書物などと入れ替わったり、環境から知覚の一種として言語を抽出するような行為もあるかもしれない。本書では思考は、世界の諸側面を自分自身に向けて表象する自律的能力と定義している。思考はより複雑な予期的制御を可能とするだろう。

三項関係への当てはめは個人的な解釈によるところもあるので誤解が含まれているかもしれないが、これらも全て<個体と世界/環境との切り結び>が基本にある。それは逆に、人間が世界/環境とよりうまく切り結ぶことを動機として進化してきたこととともに、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことで発達可能性を担保し続けてきた文化的・歴史的存在であることを示している。

これは建築が長期間に渡って切り結びを担保できる存在、すなわち文化的メディア(媒体)であることの可能性と責任をつきつけるものではないだろうか。そして、その可能性は<個体と世界/環境との切り結び>に対する信頼の先に開かれているように思う。

また、<思考>の三項関係の[言語]の部分に設計(案)を配置することでそのまま設計論になる。さらに、この設計プロセスや、意識-行為システム、思考システム、文化的発達保障システムなどはオートポイエーシスシステムとそのカップリングのイメージを重ねることでより働きとしてのダイナミズムと強度を持てるようになるように思う。
(アフォーダンスについて一番の疑問はなぜオートポイエーシスと融合したような理論が見当たらないか、である。私の知る限りではいくつかの対談で見ただけで融合はしなかった。何かそれを困難にする理論的壁が存在するのだろうか・・・)

400ページほどの文章を自分の関心に従って簡単にまとめたので、これを読んだだけでは良く分からないかも知れないが、個人的な記録としてはそれなりにまとめられたと思う。あと一冊同じリードの本を読んだ後、知覚をベースに建築に対する考えをまとめてみたいと思っているがうまくいくだろうか・・・。




建築の倫理とアフォーダンスの肯定的世界観 B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

河野 哲也 (編集)
東京大学出版会 (2013/8/26)

シリーズ最終巻のタイトルは倫理。
生態学と倫理がどう結びつくのだろうか。巻頭の「はじめに」にはこうある。

本巻の寄稿者たちは、それぞれの分野において、社会や文化の領域にエコロジカル・アプローチを適用することに関心を持ってきた。そこでは次のような問題意識が共有されている。すなわち、人間の相互行為を、アフォーダンスに満ちた環境を共同で形成してゆく行為として理解し、人同士、人と人工的システムとの相互作用の生成・発達過程を明らかにすること。コミュニケーションを、状況に埋め込まれた身体的な循環過程としてとらえ、規約的なコミュニケーション活動を、身体的相互作用から延長された新しいアフォーダンスの生成、あるいは、身体的アフォーダンスの再配置として理解しようとすること。本巻は、これまで萌芽的・散発的にとどまっていた社会的アフォーダンスに関する研究を総合し、生態学的アプローチに立った人間関係論、コミュニケーション論、記号論、社会学、文化論を構築しようとするものである

ここで前回の記事で使った社会的アフォーダンスという言葉が出てくる。この言葉にどこまで社会性を埋め込むことができるだろうか、というのが今の関心だが、まずは生態学的に捉えた倫理とはどういうものかまとめながら考えてみたい。

可能性としての倫理

序章で河野哲也氏は倫理学に基づく道徳的実践を他者に対しレジリエンス(回復力)を与える活動だとする。

河野氏はまず、世界を変転し続ける「ウェザー・ワールド」だと捉える。そのような世界では固定化した規範は人間を一般生の秩序の中に閉じ込めてしまい、うまく対応できなくなる。

次に、ケイパビリティという概念を持ちだす。ケイパビリティはある人にとって選択可能な「機能」の集合、言い換えると機能を可能にする潜在性であり、生き方の幅を意味する。(ここで言う機能とはその人が「どのようなことができるのか』「どのような人になれるのか」を意味する。)
ウェザー・ワールドにおいての道徳的行為とは、ケイパビリティを増大させるために、人を動的にして、創造的運動を促す実践である、とされる。

次に、レジリエンスという概念が持ちだされる。レジリエンスとは「錯乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続けるシステムの能力」すなわち「回復力」を意味する。

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。

ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。

要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

社会的アフォーダンスと倫理

これは2巻でダイナミックに描かれた熊谷晋一郎氏の「依存先の分散としての自立」に通ずるものがある。
熊谷氏は主に個人の技術としての視点から可能性を描いており、河野氏は社会の道徳・倫理としての視点から可能性を描いているように思うが、両者の間にはアフォーダンスのダイナミズムが介在しており、それらは共にアフォーダンスの配置に関連している。(第2章では知覚を探索的活動(環境中の情報の抽出)と遂行的行為(環境の改変)に分けているが、これは後者のウェイトが大きい。)

つまり社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置というものがあるということだろう。
社会的アフォーダンスはパースやリードの言う三項関係を成立させ、(場合によっては世代を超えた)ある集団と社会的なコミュニケーションを媒介し、倫理的アフォーダンスは自己維持のためのケイパビリティを開発し、生きていくいくつもの道をつくる。そして、両者を満たすことが道徳的実践となる。
(河野氏は社会的アフォーダンスとして①対人(動物)関係的アフォーダンス②社会制度アフォーダンス③社会環境アフォーダンスの三種類に分けており、それぞれについてアプローチが可能である。)

また、社会的アフォーダンスの前提には「知覚の公共性」がある。

生態心理学に基づくコミュニケーション理論の骨格をなす概念として、「知覚の公共性」がある。これは、知覚対象を特定する情報(不変項)は環境の中に実在するものであり、個別の知覚者の頭の中にあるものではないため、任意の知覚者がこの情報を探索・検知できるということである。(中略)そこでは複数の知覚車の間で知覚経験の共有が成立する条件として、「知覚者が自身の状態に関して他の知覚者と有意な差が差がないと信じることができる」ということそを想定している。(本多啓)第3章 言語とアフォーダンス

巻末の対談でバリアフリーやユニバーサルデザインについて「知覚者の状態の差」が問題になったが、それに対しては多様な可能性を確保することで対応するしかないように思うが、場合によってはそれが状態の異なる知覚車の間の媒介となる可能性もあるだろう。

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。
それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。

実践の鍵

これらは実践にどう活かすことができるだろうか。
一つは前回書いたように、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などの中に存在する社会的アフォーダンスを抽出・再構成し、共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができると思うし、より直接的に様々な人のケイパビリティを保証するような建築をテーマにすることもできると思う。
その鍵は建築をアフォーダンスを埋め込むことのできる器、メディアとして捉えることにあるのかもしれない。

もう一つは、まちづくりのようなものに”可能性としての倫理”にようなものが適用できる気がする。
一般的にまちづくりのようなものが要請されるのは、硬直化した(ウェザー・ワールドに対応できない)場所であると思うが、その中に新たに規範や常識を持ち込むよりも、”可能性としての倫理”のようなダイナミズムを持つものを導入した方がうまくいくケースもあるのではないだろうか。
社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置は所謂コミュニティの形成や個々のリアリティ(生きがい)獲得に繋がるかもしれない。(そのためには相互にケイパビリティを開発しあうのが良いとうような倫理観が形成され自走的しだすことが目標になるような気がする。)
それは大きな物語に乗るまちづくりではなく、主体的・創造的・動的な身の丈サイズのまちづくりになるのではないだろうか。
その鍵として何がメディアとなりうるかはいろいろな可能性がありそうだし、いろいろな課題や反論も考えられるが、まちづくりに関してはここまでとする。

快楽としての知覚とリアリティ、および建築の自立性

次に快楽としての知覚について書いておきたい。

ジェームズ・ギブソンが創始した生態心理学が、その理論的正当性を超えて多くの人に歓待されたことは、人や物質が自らの傾向性を現実化する様を見る快楽と無関係ではないと考えている。(柳沢田実)終章 可能性を尽くす楽しみ、可能性が広がる喜び

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

ここに、科学者ではない私が生態心理学に興味をもつ理由がある気がする。私にとってはあくまでより良き建築を考えることが重要であり、ギブソンの理論はそれに応えてくれる予感があったのだ。

そして、何度か書いているように快楽としての知覚は生きることのリアリティと言い換えても良いもののように思う。

筆者が提示する「行為の可能性の増大」はリードが言う意味での経験=学習となる。リードに従い「生きること」そのものを学習のプロセスとみなすならば、「行為可能性の拡大」を望ましいとする規範性は、まさに「生きる」ということそのものに内在しているといえるだろう。(柳沢)終章

柳沢氏は最後を「生活への愛」という言葉で締めているが、以前書いたように「生活」という言葉には何か意識を超えた豊かさにつながるイメージがある。生活とはまさに可能性と向き合い味わうことであろう。

さらに、建築を知覚の対象として考えるならば、建築の自立性というものが重要になるだろう。

彼(リード)が現代社会における間接経験の過剰を嘆いたのは、他社によって制限された情報をただ受け取る受動的な間接経験に慣らされることで、人は、能動的に情報を探索する習慣や能力を容易く失ってしまうからだ。以上の議論を、先ほどの倫理的行為の分析に応用するならば、単なる共感に終わる人と、実際に身体が動く人の差異は、行動への能動的な構えの有無による事になる。(柳沢)終章

私は不便であることは大変重要だと思います。一般に人間が巧みに行っていることについて、そこにはアフォーダンスの適切な発見ということが論じられていることが多いですが、実は不便であることや、うまくできないことのほうにこそ、いろいろな重要なモメントがあります。(池上高志)(中略)便利だということは、うまく道具や環境を使いこなし、極端に言えば、それらを自分の身体の延長のように取り込み、自分とモノとの境界線がなくなってしまうことです。不便さには、どこかで抵抗する外界があって、自分が抵抗を受けている感じがしていて、そこで自己の境界が生まれています。(河野)(座談会)エコロジカルターンへの/からの

知覚を導くために能動性が重要だとすると、知覚者と一定の距離を確保することが有効であり、その鍵は建築の自立性にある気がしている。(不便という言葉はデリケートな言葉だと思うが、中村隆司氏の発達保障理論が建設的で好感が持てる。)

そうであるならば、建築が自立性を持つことやある種の不便さは生きることのリアリティを支えるような倫理的価値を持つと言えるだろう。この考えは建築を考える上での支えとなるし勇気をもらえる気がする。

最後に座談会終盤での染谷昌義の言葉を引用して終わりとしたい。

倫理については、「知覚と倫理」というテーマでかつて考えたことがあります。その時にイメージした倫理は、世界の中を動き周り探索することで知覚と行為が洗練され成長し、ギブソンの言葉を借りれば「あらゆるところに同時にいる」ように、今いる場所から行きたい場所に自由に行くことができ、そうした自在感を獲得して巧みに生きられるようになるという意味での成長の倫理でした。これは、何か原理に則して物事の正しさや善さを判定していくやり方ではなく、いかにうまく生きていけるようになるか、よく生きる技術をいかに身につけるかというところに焦点を当てる倫理です。もちろん、これだけで倫理的な問題や政治的問題が解決できるとは思っていません。けれども少なくとも倫理の根幹には、個体がそれぞれ自分の生の可能性を発揮できるように周囲を探索して生活し幸福を目指す営みがあるという点は、変わらないポイントかなと思っています。(染谷)座談会




社会的なものも含めたリアリティの密度への手がかり B185『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』(J.J.ギブソン)

J.J.ギブソン (著)
サイエンス社 (1986/03)

この本の原文は1979年、私が4歳の頃に出版されたものである。
このブログでもアフォーダンスについてはいろいろと書いてきているが、そのベースとなる本書は専門的すぎて難解なのでは、という思い込みをあってこれまで読んでいなかった。

しかし、そろそろきちんと自分の中に落とし込まなければと思い読むことにしたのであるが、想像よりずっと読みやすかったのでもっと早く読むべきだったと思う。

生態学転回と建築及び概念的なものとの関係

ギブソンはまず、動物における知覚と人間の観念・概念的なものを明確に分ける

これまでは哲学や物理学の影響から、物理学的空間観をベースに私と環境が二分された世界観の上に知覚が考えられていた。
しかし、ギブソンはプラグティズムの流れから、動物や人が生きていくための視線より徹底して環境を描き出していく。
そこから、導き出される環境は知覚するものと相互依存的な関係で互いに切り離せないもので、物理学的空間とは大きく異るものであった。

その根本的変化をある本では生態学転回と呼んでいる

そこで頭に浮かぶ問いは、

(1)そこから導かれる建築像はどのようなもので、それは望ましいものであるか。
(2)ギブソンの理論において概念的なものは一旦棄却されるが、それは建築においてどのように考えればよいか。
(3)設計の方法はどう変わるか。

の3つである。
(1)についてはこれまでに考えたことをもとに前回まとめてみたが、今回ギブソンを読んだことをもとに新たに考えてみたい。
また、(2)についてもいくつかヒントをつかめた気がするので考えをまとめてみたいと思う。
(3)に関してはこれまで何度か触れている。設計に対する態度のようなものの転回は多くの可能性を秘めていると思うし具体的に実践していく上で重要だと思うが、主眼を(1)(2)に置くために今回は省略する。

生態学的情報とリアリティ

先日、実家である屋久島に帰り、この本を読みながら時間を見てはあたりを歩きまわって知覚について考えていた。
そこでは都市部の風景に比べ明らかに環境の情報が多様で複層的であり、それはミクロなスケールからマクロなスケールに渡って密実なものであった。

情報量が多いということは一見煩わしいことに思える。
しかし屋久島で受けた印象ではそれは煩わしいどころかとても心地よく感じるものであった。
それはおそらく情報の質によるものだろう。

ギブソンは眼が刺激として受け取った入力情報が脳に送られ処理されることで知覚が生じるという一般的なイメージを明確に否定し、環境にある情報を直接的に抽出し知覚するという。
都市部における情報の多くは概念的産物であったり認識の必要な記号的なものが多く、知覚の情報のもととなるものは画一的で単純、貧しいものであるが、屋久島での散策時の情報はその殆どが直接知覚できる、いわば生態学的情報と言えるものであった。

情報の質が生きることのリアリティの質に何かしら関わっていることは間違いないと思う。

これは私の感覚的な推測でしかないが、屋久島で感じたような直接的に知覚できる情報が生きることのリアリティのある領域での密度を高め、逆に概念的情報はそれを阻害するノイズになると仮定できないだろうか
そうだとすると、直接的に知覚できる情報の質、この本で言われるところの不変項もしくはアフォーダンスの質は、私が建築に求めるものとしてこれまでイメージしてきたものの源泉の一つと言えるかも知れない。

不変更の表現者としての建築家

本書の終盤で絵画や映画と視覚的経験に関することが論じられているが、その中で、画家は目の前の景色だけでなくそれまでの自身の経験の中で抽出した不変更を用いて表現することができる、といったことが述べられていた。
同様に設計者が自らの経験の中で捉えた不変項(アフォーダンス)を再構成するというようなことが可能かもしれない。

建築は環境の多くの部分を占め(リアリティの質を担うと考えられる)直接的に知覚できる情報の多くを負っている。
しかし、現代の環境を見渡してみるとその多くは概念的なものに囚われ、便利さや安全性を満たしてはいても情報の質としては貧しい物がほとんどのように思う

ここで建築家の役割の一つを「その場所や状況から抽出したり、建築家自身の経験の中で捉えた不変更を用いることによって、生きることのリアリティの密度を高めるように環境を再構成すること」と定義できないだろうか
そうすることで、ギブソン的知覚論を建築に結びつけることが可能になると思うし、それは(少なくとも私の経験では)望ましいことのように思える。
また、再構成によってその質を「既知の中の未知との出会い」のように新鮮で豊穣さを持ったものに高めることができるかもしれない。

概念的なものの相対化

先ほど、概念的なものをノイズと表現したが、それは直接的知覚に限って考えた場合である。
しかし、人間は社会的な存在であり、例えば社会性や歴史、文化と言ったものも生きていく上で重要なものであると思う。(なので先程は「生きることのリアリティのある領域」という書き方をした。)

それは知覚の理論とは別の位相の問題だと考えられるが両者の間に接点はないのだろうか。

この本では「定位」「公共的認識」といった言葉が出てきた。その感覚もとい知覚は基本的には知覚者のものであるが、社会的に共有可能なものと言えないだろうか。
そうだとすると、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などにおいてそれらの中に存在する不変項もしくはアフォーダンスを抽出・再構成することによって、それらを共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができる気がする。

それは例えばフィールドワークによってなされるかもしれないし、「素材の流動」によってなされるかもしれない。
そこでは概念的な思考の手続きを踏むかもしれない。しかし、もしそのことが可能だとすると、直接的知覚経験から導かれた建築に、さらに建築的な遠投力のようなものを重ねることができるかもしれないし、「都市と接続する」といったことが可能になるかもしれない。

その際、純粋な知覚的アフォーダンスに、社会的アフォーダンスとでも呼べるものを加えて相対化することによって、それらを同列・同時に扱いながら建築を考えることができるようになると思う

それが出来た時、建築はおそらくさまざまな複層的なリアリティを同時にかつ”直接的に”知覚できるものになるように思う。
それはおそらく建築であるからこその可能性であろうし、建築の責任でもあると思う。




レビュー04「建築の素材」 403architecture [dajiba]辻琢磨

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先日403architectureの辻さんを招いてのケンペケがあったので参加してきました。

自分なりに何か得るものがあったのでメモとして書いておきます。

メタとベタ、意識と行為

予習で意識していた二つの問い、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ04 予習

この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。

話の流れからこれらに関して直接的な答えが得られたわけではないのですが、この機会を通して強く感じたのは
(a)明確にそしてまっすぐに(旧来からある)概念的な建築やその歴史に対して向き合っている。
(b)辻さん自体が”働き”である。
の2点です。
この2つに対するバランス感覚と両者の濃密な関係性が辻さんのオリジナリティだと感じました。
これらは強引にメタとベタと位置づけられそうな気がしますが、明確に建築を志向していながら、そこから演繹的に計画を行うだけではなく、そこにある状況に対して応答するようなあり方が維持されているのが新鮮で、河本氏的に言えば抽象的で自由な意識と現実的で自在な行為およびそれらの応答関係のようなものが浮かび上がってきたように思います。

レクチャー形式の第一部ではメタ的な説明は最小限に抑えられながら、辻さんの活動が次々と紹介されたのですが、なかなか核心に触れられないと感じつつ、かえってそれによって働きとしての辻さんのあり方が浮かび上がってきたように感じました。
セッション形式の第二部では限られた時間ではあったものの、メタ的な視点に触れられながらメタとベタの関係性が多少なりとも浮かび上がったように思います。

メタとベタをどう関連付けるか

はじめは「建築をどのように捉えているのか」「流動的なネットワークに何をみているのか」といったメタの部分の考え方を知りたい、という気持ちが強かったのですが、途中から関心は「建築としての思考と働きとしてのあり方」をどうつなげているのか」という方向に関心が変わってきました。
自分の問題に引き寄せた時に、例えば働きとしてのあり方を進めようとした際、言い換えるとベタな行為に自分を埋め込んでいった時に、メタな思考というのはどう位置づけられて、どう設計に関わらせることができるだろう、というのがずっとモヤモヤとした疑問としてありました。埋没させればさせるほど密度は上がるかもしれないけれども、建築的な思考からは遠ざかるのではないか、ということを感じながらそれに対する明確なイメージを持てずにいました。(これは、予習での「「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。」という問いとも重なる気がします。)

第二部の終盤に出た「現場での瞬発力と議論はどういう関係か」というような質問とそれに対する応答が印象的だったのですが、403では「議論の積み上げ」と「現場等での応答」の2つが意識的に使い分けられているようです。
403の三人で可能性を排除していきながら、抽象のレベルで建築の強度を担保できるようなものが見つかるまで徹底的に議論を重ね、それを共有してから現場に出ることではじめて瞬発力がうまれる、というようなことが語られていました。
予習時に読んだ際には実感を伴って理解できなかった下記のテキスト

ちなみに、質疑でも答えさせていただいたが、私が考える建築のクオリティは、抽象的で計画的で演繹的な質と、具体的で現場主義的で帰納的な質との関係性によって決まる。その両者を関係付けさせる設計環境を用意することが何より重要である。それはほとんどそのまま、上記した言語と実体験の関係性と同義である。その環境を作る為の方法の一つが、言語や計画を生み出す場所(=設計事務所)と反応するべき現場(=プロジェクトサイト)を物理的に近づけるということであり、さらにその仕事のレイヤーに自らの生活のレイヤーを重ねることで一層両者の関係性は影響し合うだろうと私は考えている。しかしともかく私が彼らに伝えたかったのは、生活と設計と街と現場が一体となったような生き方についてである。(ARCH(K)INDY/博多/佐賀のこと : deline)

が、ようやく腑に落ちた感じがします。
メタとベタの話で言えば、あくまでもベタに振る舞いながら、そこで扱う素材の一つとしてメタを再配置することでメタをベタな働きの中に取りこんでいる、というように言えそうな気がします。そのように捉えることで、建築としての思考と働きとしてのあり方を連続したものにできないでしょうか。

僅かでもいいので新しい視点が発見できれば、と思いながら書いてみましたが、結局は引用したdelineの文章に全て含まれていた気がします。
しかし、自分にとってはそこが腑に落ちたのは結構大きいですし、それだけで今回のイベントに参加した意義がありました。

今の自分の課題は、
・メタ的な思考の精度を高めること
・働き的なあり方の密度をあげること
・両者を関係づける設計環境を用意すること
の3つかな。
いや、それ全部やん。