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ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)

久保明教 (著)
月曜社 (2019/8/9)

ラトゥールは1947年生まれのフランスの哲学者・人類学者で、アクターネットワーク理論(Actor-Network-Theory ANT)で知られる。
本書は著者が「極めて難解ではないが、極めて誤解しやすい」というラトゥールの思想を、「入門書や解説書ではなく、その言語運用を広範に活用できる道筋を精査する「取り扱い説明書」として」まとめたもの。

では、ラトゥールの思想においてどのような道筋を見出すことが可能だろうか。少し考えてみたい。

5つの問いに対して

その道筋は「テクノロジーとは何か」、「科学とは何か」、「社会とは何か」、「近代とは何か」、「私たちとは何か」という五つの問いを通じて描かれるが、まずは、重要な概念及びそれらの問いに対する部分を抜き出しておきたい。

アクターネットワーク論

アクター(行為者)は人間に限定されない。差異を生みだす事によって他の事象の状態に変化を与えうるものはすべてアクターであり、それらは相互に独立したものでもない。各アクターの形態や性質は他のアクターとの関係の効果として生みだされる。アクターの働きによって異種混交的なネットワークが生みだされ、アクターはネットワークの働きによって定義され変化させられる。(p.49)

「知る」こと

より良く「知る」ことが問われる場は、世界と表象の対応ではなく、世界の内側にある諸要素の関係性に移ることになる。「知る」とは様々な要素を関係づけることであり、その良し悪しもまた関係づけの只中において生じる。(p.18)

翻訳

「翻訳」とは、あるアクターを起点にして種々のアクターが結び付けられ共に変化していく過程である。(p.49)

非還元の原理

いかなるものも、それ自体において、なにか他のものに還元可能であることも、還元不可能であることもない。(p.56)

仲介と媒介

それらは、入力に対して一義的に出力を返す仲介項(Intermediary)として把握されている。(p.61)

二つのエージェントが互いに互いの行為を変容される媒介項(Mediation)として働くとき、それぞれがもともと持っていた目的が変化する(p.62)

技術決定論と社会構成主義は、諸要素間の関係を主に仲介として捉えることで「(自然の事実に基づく)技術」や「社会」への還元を行う。ANTはそれらの関係を主に媒介として捉えることで還元主義を回避する。(p.63)

こうした「ブラックボックス化」(Black Boxing)と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される。(p.65)

構築

ラトゥールの議論における科学的事実の「構築」とは、諸アクターが関係し合いながら、「循環する指示」を形成することである。「構築する」のは人間や社会ではなく、人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関である。翻訳を通じて隊列が整えられ多数の媒介項が少数の仲介項に変換されると、対象を観察し解釈する「主体」としての人間を、観察され解釈される「客体」としての物質に対置することが暫定的に可能になる。(p.140)

「テクノロジーとは何か」

「テクノロジー」と呼ばれる実態や独立した領域など存在しない。むしろテクノロジーとは、自然と社会、非人間と人間、科学と文化といった領域間の近代的区別が表面上のものに過ぎないことを常に突き付けてくる初関係の動態である。(p.73)

「科学とは何か」

科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。だが、外在は内在の効果にすぎない。(p.123)

「社会とは何か」

社会とは、近代的な人間たちの関係性に還元されるものではなく、人間と人間以外の存在者を含む異種混交的な関係性が絶えず新たに生みだされるプロセスである。社会を研究する者もまた、そうした関係性に内在するアクターに他ならない。(中略)「連関の社会学」の最終的な目的は、諸アクターと共に社会=集合体を組み直すことに置かれる。(p.159)

「近代とはなにか」

近代とは私たちが内在する異種混交的なアソシエーションを「自然」と「社会」に還元する純化の実践を表向きは固辞しながら、両者に仕分けされるはずの諸要素を暗黙裡に結びつける翻訳のプロセスを爆発的に拡張してきた機制である。近代を非近代と峻別する根拠とされてきた純化の水面下に膨大な翻訳と媒介の働きがあることを認めれば、額面通りの近代的世界は一度たりとも実現されなかったというノンモダニズムの視座が得られる。(p.219)

「私たちとは何か」

近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするものであり、分析するものとしての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける道筋を探るべきものである。(p.254)

これらはもちろん、著者がラトゥールの思想を取説化する上でまとめたものの一部を抜き出したものに過ぎないので、詳細は本書もしくはラトゥールの著書を読んで頂きたいが、大まかな主旨はこれらの中に含まれているように思う。

ノンモダニズム アクター及びネットワークとして捉えること

ラトゥールはあらゆるものを自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定し、近代という前提を放棄して世界を捉える「ノンモダニズム」を提唱する。

私たちが普段常識的に考えている近代的な思考形式、OSを否定することがラトゥールの言説を取り扱い注意なものとしているのかもしれないが、これまでこのブログにおいては、近代的な枠組みからいかにして自由になるか、というのが一つの大きなテーマであったため、それほどとっつきにくい印象は受けなかったし、これまで考えてきたことと重ねられる部分も多かった。(それこそが誤解である可能性は多分にある)

人間ならざるものも含めたあらゆるものをアクターとして捉え、その関係性を近代的なフィルターを通さずに見ようとする姿勢はモートンに通ずるし、「前もって完全に理解することも制御することもできない」関係性の動態をこそ扱おうとする姿勢はオートポイエーシスに通ずるように思う。

ノンモダニズムの作法 汎デザイン主義から内在的な汎構築主義へ

これまで、このブログでは、すべてが別様でありうるポストモダニズムの作法として、「すべてはデザインである」という姿勢を肯定してきた。
本書ではこの主張を、外在的な汎構築主義→「汎デザイン主義」と呼び、すべてが構築されたものであり、再構築可能であるとするラトゥールの議論がある意味この発想を基礎づけるという。

しかし、ここでは、デザインするのは世界に外在する主体であるという、近代的な枠組みからは逃れられていない。

では、ラトゥールの議論の先にある、内在的な汎構築主義にはどのような可能性があるだろうか。言い換えると、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、ノンモダニズムにおいてどのような作法にアップデートできるだろうか。

それに対し、これまで考えてきたことを振り返りながら、とっかかりになりそうなこととして、「遊びの文脈」「ハイパーサイクル」「ネットワーク理論」「全体に従ってきたもの」の4つを挙げてみたい。

遊びの文脈
人間という主体を一旦放棄し、関係性の中に身を置くことは、自己の不確実性や受動性が増大していくことになる。
それを「どのように引き受けながら初関係を組み直していけるのか」というのが一つテーマとなる。

それに対しては、熊谷晋一郎が否応なしに生じる予測誤差を「痛み」ではなく「遊び」の文脈に置くことで、環境を制御するのではなく、環境(アクター)との相互作用の中でお互いに変化してく(翻訳)契機としていく姿勢が参考になるだろう。

B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』
二-十一 遊び―出会いの作法

ハイパーサイクル
近代的な「自然」や「社会」への還元を否定した上で、世界を変えようとすれば、自らアクターとなり、関係性の中に入り込むことで、異種混交的なネットワークを組み直すことを目指すことになる。ラトゥールは研究、分析、社会といったものへのアプローチを異種混交的なネットワークの組み直しと捉えるが、自らは無数にあるアクターの中の一つに過ぎず、前記のような不確実性や受動性と向き合わざるをえない。
その時、どのように世界と関わりうるか。

それに対しては、予測も制御もできないとされるオートポイエーシス・システムにおける関係性の扱い方がヒントになるように思う。
河本英夫は臨床の現場での介入の仕方を例に、どのように他のシステムに関与可能か、もしくは創発や再編がどのように起こりうるかを考察している。
ラトゥールのアクターネットワークを、河本の複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)として捉えると、世界との関わり方のヒントが見えてくるかもしれない。

子育てをしていると、まったくままならないことばかりであるが、ままならないものを引き受けつつ、どう関わることが可能か、という問いと日々向き合わざるをえない。

実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

以上2つは、建築においては設計に対する姿勢のようなものとして現れると思われる。
設計する場面では無数のアクターとの関係を整えていく必要に迫られるが、還元可能な概念にアクターを押し込めるのではなく、それらを引き受けつつどうやって創発や再編へとつなげていけるか、というのは重要なテーマである。
また、建築を構成する各要素をアクターとして捉えた際に、そこを利用する人(アクター)とどのような関係性を結ぶことになるのか、という視線もまた重要である。

ネットワーク理論
ラトゥールはANTの発想を拡張することで、ネットワークでのアクターの関係の仕方を捉える存在様態論を探究しているようで、非常に興味深いのだが(検索した感じでは)残念ながら『存在様態探究』はまだ邦訳は出ていないようである。

世界をアクターのネットワークと捉えた場合、ネットワークそのものの性質を探究するネットワーク理論にもヒントが含まれているように思われる。
アクターの関係性や立ち位置に注目し、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった操作を意識して配置することで、ある種の空間の質が実現できるのではという気がしている。
それは還元や構成に頼らない、ノンモダニズムな空間の質の探究につながりはしないだろうか。

設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

全体に従ってきたもの
ラトゥールは近代的な枠組みからこぼれ落ちてあいまいなままであるものを「プラズマ」と呼ぶが、ANTの捉え方においては、それらも一つのアクターとして捉えられる。つまり、内在的な構築主義の中では取り扱いの対象となりうる。

近代的な建築の考え方では、各要素や部分は、全体の理論に従うものとして取り扱うべきものであった。
しかし、ラトゥールやモートンはそれらを、近代的な色眼鏡を外して、それそのものとして扱うことを推奨する。
それによって、全体に奉仕すべき部分に過ぎなかったものを、一つのアクターとしていわば直接的に扱う道筋が見出される。

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』p.212)

こうした全体に従ってきたものを開放する視線に、ノンモダニズムの建築の可能性があるかもしれない。
同様に、塚本由晴のものや人間のふるまいに対する捉え方にも、全体に従ってきたものを開放する視線を感じる。
また、自然を人間と自然とを切り分ける近代的な枠組みを外して、フラットに解像度高く捉える視線も同様である。

あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)
実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』
生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)
距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

すべてはアクター

さて、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、非還元主義のノンモダニズムにおいては「すべてはアクターである」と置き換えられる。
そこでは、不確実性や受動性を引き受け、アクターとして世界に内在したままサイクルをまわし、アクターに新たな光を与える関係性を探りながら新しい空間の質を追い求める、そんな建築家像がイメージされる。

(「すべてはアクターである」はさすがにそのまま過ぎるが他に思い浮かばない・・・関係性や構築も良さそうだけど分かりにくいし。いいのが思いついたら書き換えます。)




都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

メノ スヒルトハウゼン (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)
草思社 (2020/8/18)

『建築雑誌 2205 野生の都市 City is Already Wild』で紹介されていて関心をもったので読んでみたけれども、とても興味深く、各トピックがどれも魅力的に描かれていて読み物としても大変面白かった。

生態系工学技術生物

例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。 アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他))

以前、アルコンゴマシジミとのエウメルスヒメバチの生態に関して書いたことがあったけれども、アリの生態を利用する個性豊かな「好蟻性生物」は約1万種存在すると推定されている。

アリのような自分たちの生息域を改変・創造することで生態系を自ら創り出す生き物を「生態系工学技術生物」というそうだが、例えばビーバーもダムを造り水を堰き止めることで環境を大きく変え生態系を改変する。
はるか以前、ビーバーがダムで渓流を堰き止めた事によって生態系が大きく変わった島があったが、それがマンハッタンである。
そのマンハッタンの400年前、ヨーロッパ人が足を踏み入れる前の状態を再現した地図と現在の地図とを比較できるサイトが本書で紹介されていて、その2つを並べたのが下の画像である。


The Welikia Project » Welikia Mapより
ネタバレになってしまうので未読の方には申し訳ないが、このサイトの紹介に続くのが下記の文章。

この文章が向かう先について、すでに読者はうすうす感づいているかもしれない。マナハッタ・プロジェクトの操作可能なマップのボタンをクリックすることで、私たちは2種類の生態系工学技術生物の間を繰り返し行き来しているのだ。(p.36)

そう、左がビーバーによって改変された生態系であり、右が著者が「自然の究極的生態系工学技術生物」と呼ぶ、ホモ・サピエンスによって改変された生態系なのである。このホモ・サピエンスは「現代のマンハッタンという、彼らが自らのために工学的技術を駆使して創り出した生態系の中を、まるで巣の中のアリのように、走り回っている」。
衛星写真の視点からそう言われると、人間がアリと同じようにただせわしなく働いている生き物の種の一つに過ぎないように見えてくるし、そこを棲家とする別の生き物の姿も頭に浮かんできそうである。

本書で著者が示したいこと多くがこの部分に現れているように思う。
それは、人間をアリやビーバーと同じように生態系を自ら創り出す生き物の一つとして、自然から切り離さずに捉える、という視点と、その人間が改変した環境にたくましく適応しながら「好人性生物」ともいえそうな生き物が暮らしていて、生態系を築いている、という視点である。
そして、その生態系が築かれつつある今も、生き物たちは進化の只中にいる。

都市環境に適応する生物と多様性

進化とは人間の一生を遥かに超える長い年月の果てに達成されるものである。
今までは、進化をそのように考えていたけれども、本書で示されるのは、それよりも遥かに早く環境に適応していく生物の姿である。

その適応の仕方には、遺伝子によらないもの、柔らかい選択(前もって存在する遺伝子の変異体による進化)、硬い選択(突然変異による進化)、エピジェネティクス(塩基配列の変化なしの染色体の変化)など多様であるが、本書で紹介される多くがこれまで進化と呼んできたことと変わらないか、もしくはそのプロセスといえるものである。

中でも、エピジェネティクスという言葉は初めて聞いた。
実は、染色体のDNAは梱包材のようなもので包まれていて、これが剥がされ、DNAが露わになったときにはじめてDNAが機能するという。この梱包材の形状によってDNAの持つ機能が細かくチューニングされ、その形状が子に引き継がれることもあるそうなのだ。それが可能であれば、環境への適応はかなり柔軟性の高いものになりそうだ。

本書では、数十年あるいは数年で生物が都市での新たな環境に高速で適応する姿が紹介されているが、その対応の速さに驚かされる。しかし、それは同時に、都市での変化が生物に強力な選択圧をかけていることも意味するだろう。

また、都市の生態における種の多様性については相反する2つの見方ができる。

ある面では都市での生態系は多様化しているといえる。
ある調査では、この130年間で都市の植物の種類は478種から773種に増大し、逆に周辺の田園では1112種から745種に減少したという。
田園での減少の大きな要因は農業の集約化・効率化であるが、都市においての増大の要因は街区や人工物などにより、生態系が断片化し小さな多様なニッチが存在することになったのことと、多国籍なバラエティ豊かな動植物が流入したことなどである。(この断片化された小さなニッチは時には都市での進化を保護することもある。)

また、ある面では都市での生態系は均質化しているともいえる。
世界中の生物が人間の営みによって、あらゆる場所に進出する機会を持っているし、都市がネットワーク化していることで、都市に生息する生物の環境を形作る新しい技術やそれによる変化は都市から都市へと拡散し世界中に広まっていき、似たような環境を形づくり、生態系は世界規模で均質化していく(遠隔連携(テレカップリング))。

これらはどういうことを示しているだろうか。
都市化が生物に過酷な試練とチャンスを課しているのは間違いない。
人間を生態系工学技術生物の一種に過ぎないと見たときに、人間と他の生態系工学技術生物と違う点は、一つは、人間がその技術を行使する規模を際限なく拡大し続けていることであり、もう一つはその技術の使い方を自ら改変しうるということである。
結果を見る限りどこまで好ましく改変できるかは少し怪しいけれども、後者の可能性については考えてみる余地がある。

「ヒトという種はこの惑星の遺伝子構成を変化させています。他の生き物たちと共進化する責任とチャンスの双方とも、わたしたち人間の手の内にあるのです。人間がこの難題に責任をもって挑戦するかどうか、わたしにはわかりませんが」。アルベルティが指摘する挑戦には、わたしたちがこれから都市環境をいかに設計し、管理していくかという課題への大きな暗示が含まれている。(p.298)

その設計し、管理できるという近代的意識そのものが、人新生といわれるほどまで環境破壊を推し進めてきた要因であるのは間違いない。そこに楽観的に乗っかることには危険性も感じるが、都市化の進展を避けられないものとして(半ば諦めとともに)受け入れたときに、わたしたちにはどのような態度が可能だろうか。

著者の思い

都市の中での自然を理解してもらおうとしたとき、著者は開発者の自然破壊を正当化している、といった非難を受けることが多いという。
しかし、著者は野生の土地を保全する努力の価値を低く見ているのではなく、「世界の膨大な生物種の保全を都市に委ねることはできない」ことは百も承知である。

少年時代に甲虫の採集とバードウォッチングに明け暮れていた著者は、そのフィールドが都市に呑み込まれていく時、

初めてブルドーザーがわたしの活動の場を均し始めるのを、わたしは、両の手を怒りで握り締め、無力さに悔し涙を流しつつ眺め、永遠に失われてしまった自然の仇をとることを誓った。(p.20)

と書いている。
そして本書の最後で、長年、訪問を避けてきたというかつてのフィールドを再び訪れたときは「文字通り胸がえぐられるような思いだった」という。
著者が、都市で繰り広げられる生態系の豊かさに偏りがあることを自覚しつつ、それでも、そこに関わり続けながら本書を記したのは、一生ジャングルに足を踏み入れることのない多くの人が目にする自然は都市の隙間やその近辺であるからこそ、そこにある生態系の面白さに気づいて欲しいからであり、そういった都市の中で新しい生態系が育っていくことを許容する社会を望むからである。(著者は「雑草」や「害獣(虫)」と罵って外来種を根こそぎにするような従来の保全活動を批判している)

私も子供の頃は虫好きで、原っぱや山のバッタや蝶、カブトやクワガタ、田んぼの水棲昆虫、用水路のザリガニを捕まえて来ては家で飼っていたのだけれども、石積みの用水路がコンクリートのU字溝に置き換えられて生き物の姿が消えたときは大人を憎んだものだった。

その後、大人になり、実家である屋久島の農業を継ぐという選択肢をなくし、(鹿児島なので近くに自然は残っているけれども)都市部で生活をするようになってからは、子供の頃の「大人を憎んだ」気持ちはある意味では見ないようにしてきたかもしれない。
本書はそんな自分に、今ここでの身近なところにいる生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれたように思う。

解像度を高め余白を設計する

最後に建築に関するところを書いておきたい。

先に書いたように、著者は都市の中で新しい生態系が育っていくような社会が、例えば都市計画・建築設計などによって達成されることを願っている。

そのために(詳細には触れないけれども)例えば「ダーウイン式都市づくりのためのガイドライン」として、4つの原則、「成長するにまかせよ」「必ずしも在来種でなくても良い」「元の自然を拠点として守る」「栄光のある孤立」を提示している。
ここには、全てを設計・管理「しない」というような姿勢が見て取れるし、著者の、人間や都市を自然と切り離さないで捉えようとする姿勢の中にはモートン的な思想も垣間見えるように思う。

それでは、例えば都市部で設計をすることを考えた時に何が変えられるだろうか。

先程「生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれた」と書いたけれども、一つは、都市の中での生き物に対する解像度を高める、ということだろう。
前回のモートンや本書を読んで、生き物やものに対する見方がなんとなくフラットになってきたように感じるし、見方が変わることで設計も少しずつ変えられそうな予感がある。

もう一つは、全てを設計・管理しないような、設計の手法を考えることだろう。
それは、例えば『小さな風景からの学び』のところで書いたような、新しい状況が生まれるような余白を設計するようなことかもしれないし、そこで新しく生まれるかもしれない状況に対する想像力を逞しくするためにも解像度を高めておくことは重要である。

外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。
そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。

ただし、管理できないものは良くないものとして消し去ろうとする近代的な意識が根強い中で、お客さんにどう理解してもらうかが課題かもしれない。
また、外構や植栽も予算の関係で削られることが多い中で、実現にはコストが一つのハードルになりそうだ。
(著者は「成長するにまかせよ」の原則として「必要なのは何も植えないこと。おそらくは土壌すら加えないこと(p.306)」であると書いているが、それができればコストも抑えられる?)



理解されないかもしれないけれども、うちの事務所兼住宅のわずか2㎡ほどの芝生を貼った場所に、勝手に生えてくる雑草が好きだ。このタンポポも勝手に飛んできて、年に何度も花と綿毛を付けてくれる。また、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』で紹介されていた協生農法も同じ意味で興味を持ちはじめたところ。




新たにシステムを始動させる B254 『メタアーキテクト──次世代のための建築』(秋吉浩気)

秋吉浩気 (著)
スペルプラーツ (2022/2/28)

『建築家の解体 Reinventing Architects』を読んで興味を持ったので購入。

『建築家の解体』は著者が肥やしとしたであろう先駆者へのインタビューであったが、本書はその肥やしをもとに、著者が日本において展開してきたことの理論と実践の記録である。

理論からビジョンと実践へ

それぞれの理論は、それをとことん深掘りすることよりは、広範な興味を関連付け、一つのビジョンへと取りまとめたことに価値があるように感じた。
そのビジョンを具体的な実践へと結びつけていくことで、それら関係性を絶えず磨き、変化させていっていること、現在進行系のはたらきの中においていることに、著者の起業家としての本領が発揮されている。

それぞれの論については多くの人が感じていたり議論されていることがベースとなっており、ここ最近このブログで取り上げた問題意識と重なる部分も多い。
それが、かたち・意匠の問題だけでなく、実践の問題としてひとつの流れに位置づけられていることに本書の意義があると思うけれども、ここでは本書でも言及されているオートポイエーシスという視点から考えてみたい。

3つのオートポイエーシスシステム

オートポイエーシスは、組織(かたち)ではなく、システム(はたらき)に関する論である。

”この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)”
物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。
”簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)”(オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

視点によっていくつも抜き出すことは可能かとおもうけれども、本書の中から3つのオートポイエーシス的なシステムを取り上げてみる。

1.建築物に組み込まれたオートポイエーシスシステム
この本の最後で、「自己増殖する、オートポイエーシスとしての建築(p.185)」が紹介されているが、(藤村氏がツイッターで軽く触れていたけれども)そういう構想自体は著者でなくてもできるもので真新しい思想ではない。
しかし、これまでの自己増殖的な建築のイメージにはあまりなかった、自らを増殖させる生産システムが建築に組み込まれているところや、生産とともにデータベース化されることで生産システムの発展に追随して建築も発展できるかもしれないところに可能性を感じる。

建築という装飾的な物語を物理的に構築することで、それを体験した次の世代に意思が託され、プロジェクトが継続していく。次の世代の人間は、そこまでに蓄積されたシステムを継承し、次なる反復(イテレーション)を起こし、そのまた次の世代にバトンは渡される。建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館であり、建築とはそれを次世代に受け渡すためのアーキテクチャ(システム)なのだ。(p.188)

この建築を通じて意思が世代を超えて引き渡されるということ、「建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館」である、ということは、建築が時代を超えて共有可能なメディアであり、さまざまな出会いを支える特性を持つということと重なる。

建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 一 出会いについて)

建築がものとしてそこにあることと、それを取り巻くはたらきが生き続けること、建築が生き続けるにはこのどちらもが必要だけれども、ビルドデザインの思想はこれを支えるものになるかもしれない。

2.分散化した生産ネットワークとしてのオートポイエーシスシステム
まれびとの家は半径10kn圏内で、木材の伐採から製材・加工、組立までが完結しているという。

工業化時代におけるプレファブリケーションは、物の移動が地球規模で行われる中央集権型の工業化を背景にしていた。一方、情報化を背景とする分散型のデジタルファブリケーションでは物質の輸送が不要となり、データの輸送だけで生産が完結する。つまり、デジタルヴァナキュラーの時代においては、グローバルに展開したデータを活用しつつ、身近で調達できる地域固有の素材を用いて建築をつくるようになる。(p.80)

日本の森林は険しい立地が多く、山主の多くが小規模に分散している状況であり、大規模化によるスケールメリットを追いすぎないフットワークの軽い事業形態や、伐採から利用・商品化へのコンパクトな流れをつくることも必要だろう。分散化した小さな圏域で完結し、自走するような生産ネットワークシステムを駆動するために、デジタルファブリケーションは大きな可能性を秘めているのかもしれない。

3.ビルドデザインシステムとしてのオートポイエーシスシステム
本書におけるオートポイエーシスシステムのはたらきを考えた時、おそらくこれが本命だと思う。

建築あるいは設計という行為は、建築(建築単体ではなく、建築という分野そのもの)というオートポイエーシス・システムのはたらきを駆動させるための一つの構成素であると言えるかもしれない。建築というシステムを駆動することで、それ以外の施主や社会といったものとカップリングによる相互影響関係をもつことができる。そこでは、建築はあくまで自律的システムであり、閉じたものである。

その建築システム自体は、価値あるもので停止すべきではないと思うけれども、そこに著者も感じているような閉鎖性があるのも確かであろうし、そこに何かしら無力感のようなものを感じる人も多いのではないだろうか。(といっても建築システムに意味がないとは思わない。建築をオートポイエーシス、一つの生命のように考えると、オートポイエーシスである以上、入力も出力もない閉じた自律的システムであり、それ以外のシステムはあくまで環境でしかないといえる。しかし、その他の(動植物に限らず学問や美術・文化なども含めた)あらゆるシステムと同様に存在そのもの、もしくはそれによって多様性が担保されることに意味があるように思う。)

それに対し、著者はアーキテクトとアントレプレナーシップを掛け合わせることで、日本においてビルドデザインの新しいシステムを始動させ、それによって、著者が民主化というような、建築家以外の人に創作の可能性を開き、システムの構成素となる、つまり、この新しいシステムを駆動させ前進させる主体となる道を開いた。

メタアーキテクトとして(建築物ではなく)新たなるシステムを始動させ、それが、様々な人の手によって駆動され続けることで、社会・産業・経済・流通などと新しいカップリングの関係を生み出す、つまり、既存のシステムでは起こり得なかったかたちで相互に影響を与え合うような関係が生まれ、新しい可能性が開かれる。それができるとすれば、それはエキサイティングなことに違いない。

藤本さんは原初的な建築(Building)を提示していたが、僕がこの本で提示したかったのは原初的な建設(Build)の方だ。建てるという古代の行為に回帰することで、建築の新たな可能性を見出し、建築と社会の再接続を行いたい。このビジョンを動かしているのは、社会を変えるのは作品ではなく行動であるという、確固たる信念だ。(p.190)

オートポイエーシスシステムであることの真髄は、建築ではなく建設、作品ではなく行動である、という、この部分にあるように思うし、それを実践によって示していることに本書の意義があるように思う。

自分は何ができるか

さて、ここで自分のことに引き寄せてみたい。

前著でも書いたけれども、自分にはそんなにだいそれたことはできないように思う。そんな中、自分は何ができるだろうか。
言い換えると、自分には何か新しいシステムを始動させることができるだろうか。

これまでこのブログで考えてきたのは、どんな建築物をつくるか、というよりはどうつくるか、もしくはどういうシステムを駆動させれば良いものができるか、ということだった。
そういう意味では、ひどくこじんまりとしたものであるけれども、何か新しいシステムを始動させたいと考えつづけてきたと言えなくもないし、それなりに掴めてきている部分もある。そこは可能性を信じて進んでいきたい。

著者が「おわりに」で、社会や業界を変えたいと思う理由は、自分が「生きる」ためだと書いている。
同様に、自分には自分にしかできないやりかたで「生きる」道があるはずである。

ただ、なんとなくではあるけれども、自分が新しいシステムの始動させるために今必要としているのは、建築とは直接関係ないところでのちょっとした生活の変化じゃないだろうか、と感じているところである。

そのためには、やはり何かしらの行動は必要になってくるのかもしれない。




全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
講談社 (2022/3/16)

デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

薄く重ね塗りするように

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

秩序と逸脱と解像度

おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
(特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

今後の目標

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

と、前から関心のあった、

『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)

緒方正人 (著), 辻信一 (著, 編集)
素敬 SOKEIパブリッシング (2020/3/31)

あるきっかけで水俣の仕事に関わったのと、以前読んだ本で著者に興味をもったので読んでみた。

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

父親を水俣病で亡くし、その後チッソや行政に対する補償運動にも関わってきた緒方正人の語りを、辻信一がまとめたもの。
一度1996年に出版されたが、2020年に増補、熟成版として再刊行された。

緒方氏はやがて『チッソは私であった』と運動から身を引き、制度に組み込まれた解決を拒む。
漁師であった父親の話から、運動から身を引くようになるまでの話と、その後考え続けてきたこと。様々なことが語られるが、その中心には父親の残した言葉や行動の記憶があり、漁師として自然とともに生き、体感してきたことがある。
環境やサスティナブルという言葉ではこぼれ落ちてしまうような、自然とともに生きることの力強さと覚悟、知恵があり、それらを私たちが失いつつあることを突き付けられる。

それを最も強く感じたのは、

俺は最近思うんですが、水俣病事件には三つの特徴がある。この三つを指摘するだけで十分。他にはもう何も言う必要はないんじゃないか、という気がしています。
ひとつは、いわゆる「奇病騒ぎ」が起き、世間にパニックが起きてイヲが売れんようになっても、我々漁民たちはイヲを食い続けた、ということ。ふたつめに、最初の子や二番目の子が胎児性水俣病であっても、三番目、四番目を産み続け、育て続けたこと。授かるいのちはすべて受け続けたということ。そして三つ目に、毒を食わされ、傷つけられ、殺され続けたけれども、こちらからは誰ひとり殺さなかった、ということ。水俣病事件について俺が自信を持って、誇りをもって言えることはこの三つだけです。
この三つはすべて、いのちに関わることです。猫が次々と死に、鳥が死に、人が死んでいき、その原因として魚が疑われても、漁村の人々は魚を食べることをやめなかった。(中略)俺は思うんですよ。人間以外の生きものを疑う気持ちが漁師にはなかったんじゃないか。いのちというものを疑うということがなかったち思う。だからこそ、そのいのちをいただくことへの感謝もまたゆるぎなくあった。エビスさんに、海の神さんにもらったという感謝の気持ち。(p.225)

という部分。
今なら、自己責任として逆に批判を浴びかねない(実際そう感じる人も多いだろう)ことを「誇り」をもって語っている。
その背後にある壮絶な苦悩は想像もできないけれども、自然とともに生きることの覚悟、人間以外の生きものを、社会の問題・損得勘定の問題と切り分けて考えてしまうことへの怖れ、というものが自分含めてほとんど失われてしまっているのだと突き付けられる。

そういうものは、今まで自然とともに生きてきた人間たちが、持続可能という言葉を使わずとも築いてきた知恵だと思うけれども、そういうものは僅かな時間で資本と科学の物語に塗り替えられてしまっている。

個人的には、資本と科学の物語に乗らないものが力を持つことが難しくなっているので、こういうことばかりを言ってても、とは思う。(間違っても緒方さんが、という意味ではない。)
しかし、環境問題を突き詰めると、根本的な思想や世界の認識の問題に突き当たることは間違いない。

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

そろそろモートンもちゃんと読んでみよう。

▲エコパークみなまたの埋立地の先端には、恋路島に向かって緒方さんたちが彫った野仏が無言の祈りを捧げている




父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

森田真生 (著)
集英社 (2021/9/24)

前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

エコロジーについて

エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

(タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

生活と言葉と思考

それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
(中略)
モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
そんな気がしてきた。
それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

父から子に贈るエコロジー

彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。




知覚のよろこびと、場所への信頼 B247 『あらゆるところに同時にいる:アフォーダンスの幾何学』(佐々木正人)

佐々木 正人 (著)
学芸みらい社 (2020/3/24)

ここのところ、移動時間などに何冊も読みためていたのだけど、忙しすぎてなかなかこちらに書く余裕がなかった。
ようやく、少し落ち着いてきたので順番に書いていきたいと思う。

あらゆるところに同時にいる

久々に佐々木正人の著作を読んだ。

本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once,Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の後半に二度書いたフレーズである。
何を意味しているかわからなくて、気になり、この本を繰り返し読んだ。かなりして、この一文は、彼がたどり着いた思想を、いっきょに示していることが分かった。 (p.6)

著者はこのフレーズが示しているであろうことを、本書を通じてじっくりと浮かび上がらせようとする。

この「二度書いた」とはおそらく下記の2つのことであろう。(『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る(THE ECOLOGICAL APPROACH TO VISUAL PERCEPTION)』より)

十分に広がった経路群で十分に長い時間にわたって、移動する観察点で外界を見ることによって初めて、あらゆる場所に同時にいられるかのように、すべての観察点で外界を知覚していることになる。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.211)

個体は環境に定位する。それは、地形の鳥瞰図をもつというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということである。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.214)

この部分は私も気になり、以前、考えをまとめる際に引用している。

また、探索的移動によって動物は環境に定位できるという。それは、地形の鳥瞰図を意識の中に獲得するというよりは、環境内の不変項の抽出を通じて「あらゆる場所に同時にいる」ような知覚を得ることである。(その中で、現時点で見えるものは自己を特定する。)(おいしい移動 ~あらゆる場所に同時にいる|オノケン(太田則宏)|note)

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。 この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-五 移動―私のいる空間が私である)

「あらゆるところに同時にいる」

これは、ギブソンの思想を表すとともに、自分が建築を考える上での原点とも言えそうである。

自分が20代の頃に書いたメモのようなものを見ると、「私のいる空間が私である」「廻遊性」「敷地」「想像力」など、「あらゆるところに同時にいる」ような感覚に対する意識が強かったことが分かる。

知覚のよろこびと、場所への信頼

あらゆるところに同時にいること、言い換えると環境への定位には、知覚することのよろこびと、場所に対する信頼がある。

このことと、私がスキップフロアを多用することや、私自身が極度の方向音痴であることとはおそらく関係がある。

思えば私の建築への入口は、知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感から始まっている。

その違和感から抜け出そうとした先で、ギブソンの「あらゆるところに同時にいる」ことを示す理論に偶然出会ったのだ。

知覚はタイムレス

この本の中で一つ、ピンとこないところがあった。

視覚は、一つの種類の持続ではない。見ることは、見ることがある限り、見ているあいだ続いている。視覚には時間がない。タイムレスである。(p.34)

ここでいうタイムレスとはどういうことだろうか。

古典的な視覚論は、目で捉えた光の刺激を脳が一つの像として処理する、というもので、一瞬の像の連続と考える。そこには過去・現在・未来と流れる時間がある。

しかし、定位の感覚はこの一瞬の像のみによってその都度生まれるものではなく、移動を伴う絶え間ない探索と並走する形で生じる。
目の前に過去・現在・未来と流れる時間のうちから切り取られた一瞬の像があるというよりは、時間を超え、場所・空間そのものと結びついた感覚として環境への定位があるのではないだろうか。

そして、時間を超え、場所・空間そのものと結びついている、まさにそのことによって、場所に対する信頼と、それをベースとした知覚することのよろこびが生まれるのではないか。

そうだとすると、「知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感」から抜け出すためのヒントは、「あらゆるところに同時にいる」こと、すなわち環境への定位にある。

そして、そのために、環境の一つである建築を意味や価値との出会い、アフォーダンスに満ちた場にしよう、言い換えると定位するためのとっかかりとなる情報に満ちた場にしようというのは、私の建築への入口から考えると、たどり着くべくしてたどり着いたように思う。それは簡単に言うと、近代化・工業化を目指す社会がそういうとっかかりを、やっきになって消し去ろうとしてきたことへの反省もしくは抵抗なのである。




本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)

田中 淳夫 (著)
新泉社 (2019/8/6)

日本の森林面積は日本の国土の67%、約3分の2が森林である。(H29年)
林業の持つ可能性は計り知れないものがあるに違いない。と思うけれども、どうやら問題は山積みらしい。
建築の業界にいながらも、林業のことはあまり分からない。ということで読んでみた。

絶望の林業と希望の林業

補助金漬けで進むべき道が見えない業界、危険な労働環境、持続可能な思想とシステムの不在、木を知らない山主と険しい地形、価格を下げ続ける木材利用。
噛み合わない林業の状況を描いているが、『絶望の林業』というタイトルとは裏腹に最後の章は「希望の林業」で締められる。
著者が描きたいのはおそらく希望の方なのだろうと思う。

ここまで現代の日本林業が絶望的な状況にあることを記してきた。それは目の前の森が荒れているとか、人手が足りていないから作業が行えないとか・・・・・そういった次元ではない。もっと、根本的に・構造的に産業としての体制が整っておらず、自然の摂理にも従わず、政策が誤った方向に進んでいるのではないか、という危惧から感じた状況である(p.250)

著者の描く「理想の林業」は現在の「絶望の林業」の裏返しである。目指すべきは「利益を生み、それが森に再投資されるような持続性をどう手に入れるか」につきると思うが、それのベースとなるビジョンや信念の不在こそが一番の問題だと感じた。それは、持続性そのものに対する感性を失ってきた結果であり、何かもっと本質的なところまで遡って再確認していく必要があるのではないだろうか。

(ちなみに、『森林で日本は蘇る~林業の瓦解を食い止めよ』も合わせて読んでみたが、こちらは「日本は蘇る」というタイトルとは逆に、絶望成分がやや多めに感じた。
 どちらの本も林業に対する強い思いを感じたけれども、それゆえに無念さも感じる。)

白井 裕子 (著)
新潮社 (2021/6/17)

身近に感じることの必要性

といっても、林業のことがよく分かったかというと、ますます分からなくなった気がする。

自然が相手であり、問題は、日常生活・日々の経済活動より長いスパンでの思考を必要とする根本的な世界観に関わるものである。
経験に基づかない数冊の読書だけではやはり理解に限界がある。

仕事の中でももっと関わる機会をつくる必要があるように思ったし、国レベルでの先行きを考えるよりはまず、自分が関われるような小さな持続性を考えることから始める必要があるように思った。

国レベルで持続的なビジョンとそれに基づく政策を示すことは間違いなく重要だと思う。けれどもその前に、林業という枠から外れても、小さな変化の積み重ねの中から森(自然)の可能性を再発見しながら、本質的なところへ遡っていく感性を築いていくことが必要ではないだろうか。

数学者が生活の変化を楽しむように




物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

高野 雅夫 (著)
ヘウレーカ (2021/8/20)

「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

「自然(じねん)」について

著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

(ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

子どもたちへ

先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

そう考えると少し心もとない。

森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。




進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)

ギヨーム・ピトロン (著), 児玉 しおり (翻訳)
原書房 (2020/2/29)

前回の記事に関連してレアメタルについて興味を持ったので読んでみた。
訳書は相性が悪いと読みづらく感じることも多いけれども、この本はテンポの良い文章でとても読みやすかった。

著者はフランスの地質地政学を専門とするジャーナリストで、レアメタルを巡る世界の情勢(特に中国)と各国の置かれた立場(特にフランスとアメリカ)を様々なデータや証言をもとに描き出す。

ある程度は知られてきている内容かもしれないけれども、私には新鮮な内容も多く(こう言ってよいか分からないけれども)とても面白かった。
今後、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換が必須であるが、その負の側面や不安定さを認識する上でも必読の書だと思う。

レアメタルに依存する世界と負の側面

エネルギー転換とデジタル転換に必要な技術は、様々なレアメタルなしでは成り立たない。

埋蔵量がレアというよりは、鉱石に含まれる量がほんの僅かで、精錬するのに大量の廃棄物を出す。(この本では丸型のパンから、パンを作るのに加えた塩ひとつまみを混じり合った状態から取り出すようなもの、というように比喩している。)
前回書いたように、その生産には大量の水やエネルギーを必要とし、重金属を垂れ流し、労働者に劣悪な労働を強い、生態系を破壊する。
さらに、今後、エネルギー転換とデジタル転換を果たしていくためには、30年間で、人間が7万年来採掘してきた量(過去2500世代分)以上の鉱物を採掘しなければならないという。(そんなことが可能なのだろうか)

我々が欲しているクリーンなエネルギーは、思っているほどクリーンではないし、その生産のために見えないところでかなりのCO2を排出している。

エネルギー転換とデジタル転換は単なる理想郷ではなく、犠牲を伴うものであり、多くの問題を転嫁し不可視化しているということは理解する必要がある。
そこを見失えば、期待した成果は得られず、新たな危機に直面するだけ、ということになりかねない。

中国が握る世界

また、この資源が全人類に平等に配分されるとは限らない。

レアメタルの多くは中国が押さえており、他の開発途上の資源保有諸国も中国に習い資源ナショナリズムが浸透しつつある。

さらに、中国は資源だけではなく、それにまつわる技術や製品の製造まで押さえつつある。
そのシナリオは、
・中国が環境規制の緩さや安い人件費などをもとに、レアメタルの価格を下げていく。
・各国が自国の資源ではなく、安い中国産の資源を買うようになると、先進国にもともとあった鉱山は採算が合わなくなり、閉山へと追い込まれ、自国で資源を確保できなくなる。ダーティなレアメタルが価格を下げ、(比較的)クリーンなレアメタルを駆逐する。
・中国は、安い資源の確保や人件費、広大な土地などを餌にして、採掘のできなくなった先進国の工場を誘致し、資源の採掘だけでなく、製品の生産まで行う技術を手に入れ、バリューチェーンのすべてを手中に入れる。
・先進国は、それによって資源の生産方法とそれにまつわる技術、そして多くの雇用機会を失う。
というものだ。

今や、中国は資源や部品だけでなく、多くの製品を製造できるようになっている。アメリカの軍隊でさえ、中国の部品に頼らざるを得なくなってしまっている。
そして、中国は資源の流通量や価格をコントロールできる立場にある。(「フランス人はブドウは売らないが、ワインは売りますよね?中国人はレアアースをフランス人のブドウ畑のように思っているのではないでしょうか。」つまり、資源は売らずに高付加価値な製品を売りつける!?)

2010年、尖閣諸島の問題で、中国から日本へのレアアースの輸出が滞った時のパニックを覚えている人も多いだろうし、まさに今、(中国に限らず多様な要因があるにせよ)建築分野でも、給湯器や便座、照明その他様々なものが入荷未定、もしくは生産中止の状態になっていることで、いとも簡単に足元が揺らぐ地盤の不安定さを実感している最中である。

矛盾した世界を生きる

今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
進むも退くも、どちらも茨の道だ。

矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。

しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。

一旦変革が始まり、常識が塗り替えられれば案外早い気もするけれども、そのために、何を捨てなければならないか。それを見極め決断・共有することは避けられないのではないか。
いや、捨てるということを、前向きで嬉々として取り組めるようなものへと変換する、魔法のようなメッセージの発明が必要なのかもしれない。

メモ

第1章

この「グリーンテクノロジー」は人類を第三のエネルギー革命・産業革命に導き、世界を変えようとしている。(中略)その資源は、21世紀の石油、「ザ・ネクスト・オイル(次の石油)」とすら呼ばれている。(p.10)

エネルギー転換を進めれば、15年ごとにレアメタルの生産を倍にしなければならない。人間が7万年来採掘してきた量以上の鉱物を今後30年間で採掘しなければならない理由のひとつがそれだ。(p.18)

化石燃料から開放されて、古い制度から新制度に転換することは、結局は以前より強い新たな依存を生み出しているのである。(中略)しかし、未来の世界を前代未聞の別の欠乏や対立や危機に置き換えようとしているだけなのだ。(p.19)

1tのレアメタルを精錬するには少なくとも200立方メートルの水が必要な上、使用後の水には酸や重金属が多く含まれる。その水は川や土壌や地下水に放出される前に浄化施設を通るのだろうか?それはまれだ。(p.33)

第2章

1枚のソーラーパネルを製造するのに、とくに材料のケイ素(シリコン)のために、70キログラムの二酸化炭素を排出するという。将来、年間23%増加するソーラーパネルの数からすると、ソーラーパネルの生産能力は年間10メガワット増加する。つまり、その増加分だけでも27億トンの二酸化炭素が大気中に排出されることになり、それは60万台近い自動車が1年間に出す排ガスに相当する。(p.44)

たとえば、2016年に公表されたフランス環境エネルギー管理庁(ADEME)の報告書では、「ライフサイクル全体を考慮すると、電気自動車のエネルギー消費はディーゼル車にほぼ近い。環境負荷については、電気自動車もディーゼル車も同等」と結論づけた。電気自動車が消費する電気の大部分が石炭火力発電所で生産されるならーオーストラリア、インド、台湾、南アフリカ、中国などー二酸化炭素の排出量はさらに多くなるだろう。(p.47)

アメリカの研究によると、一般的には情報通信技術(ICT)分野は世界の電力消費の10%を占め、たとえば航空輸送よりも50パーセント多い温室効果ガスを排出する。(p.51)

ともかく、どんなエネルギー転換、デジタル転換でも、地面にあけた穴から始まるのだ。土地に新たな犠牲を求めつつ、われわれは石油への依存を、レアメタルという別の依存にすり替えているだけだ。(中略)つまり、生態系への人間の活動の影響という問題を何も解決していない。(p.53)

「クリーン」と言われるエネルギーは、採掘がまったく「クリーン」とは言えないレアメタルを必要とする。むしろ、環境保護面から言うと、重金属の排気、酸性雨、水汚染などと紙一重なのだ。(p.61)

この観点からすると、エネルギー転換とデジタル転換は最も裕福な社会階層のためのものである。(p.62)

第3章

さらに有権者として、規則を強化するべきだと為政者に圧力を加えることもできるだろう。だが、多くの消費者はきれいな地球よりは「接続された世界」の方を好むため、そういうことはしなかった。(p.80)

偽善的なのか、認識不足なのか?ともかく、トヨタ生産方式は産業界の「メタルリスク」に対する責任回避を助長することになったのだ。(p.84)

供給網のグローバル化は消費財を与えてくれる代わりに、それらの出どころへの興味を私たちから奪った。(p.89)

われわれはレアメタル生産をよそに移転することで、”21世紀の石油”の重みをグローバル化の苦力に任せただけでなく、独占的地位を潜在的なライバルー中国に委ねたのだ。(p.89)

第5章

欧米が盲目に陥る発端には、ある「魔法のような思想」の出現があった。西洋で長い間支配的な考えだった永遠なる科学の進歩という幻想だ。(p.114)

「中国人は[1985年から2004年まで]タングステンの価格を下げ始めた。原料を安く買おうとする欧米諸国が欧米内で原料を買わなくなり、競合する鉱山が閉山するのを期待した」次の段階は想像できるだろう。タングステン生産の支配権を握った中国は、資源問題でドイツを脅し、彼らの製造業が資源の近くに来ざるを得ないようにする。そして、カット機械産業のドイツのリードを無に帰し、ミッテルシュタンドの柱である工作機械部門を獲得する・・・。(中略)しかし、それを予測したドイツ人たちは中国に競合するタングステン生産国(ロシア、オーストリア、ポルトガルなど)と合意を交わした。「ドイツ人は中国に依存しないよう、他国の鉱山を維持させるためにより高い価格を払う方を選んだ。)」(p.120)

第6章

「これらの企業はもちろん、中国の人件費の安さにつられたのだが、レアアースへのアクセスも工場移転の理由の一つだった。合計すると、何百万もの雇用が吸い取られたのだ。」(p.138)

しかも、化石燃料に変わるレアメタル資源を中国が独占し、その資源に依存するクリーンテクノロジー産業を吸収する戦略は、欧米の経済、社会、政治の危機を増幅した。(p.)

第8章

エネルギー転換の実際の環境負荷を評価するには、資源ライフサイクルのより包括的なアプローチが必要だ。たとえば、工業が消費する膨大な量の水、エネルギーの使用、貯蔵及び運送によって排出される二酸化炭素、まだよく知られていないクリーンテクノロジーのリサイクルの影響、こうした活動全体から生じるエコシステムによる汚染などだ。生物多様性への悪影響もある。(p.)

エネルギー転換を養護する人たちは、クリーンテクノロジーを機能させるための潮汐、風、太陽エネルギーなどのエネルギー源は無限にあるという。他方では、レアメタル業界の人たちはかなり多種類の資源がいつかは不足する可能性があると言う。(p.167)

現時点でのデータから見ると、「グリーン革命」は期待されたより時間がかなりかかりそうだ。なぜなら、この革命は適切な供給戦略を有する数少ない国のひとつである中国に先導されるだろうからだ。中国政府は世界の需要を満たすためにレアメタルの生産を急激に増やすことはしないだろう。(中略)そのために、中国では自国で生産したものを自国のために保持しようとしている。中国は現在、自国で採掘したレアアースの4分の3を国内で消費しているがーレアアースを供給できるのは中国だけだーその消費の推移を考えると、2025~30年にはすべてを国内消費するようになるかもしれない。(p.169)

このシナリオの蓋然性は次の3つの要因によってより強化される。
・まず、資源の希少さの否定。(中略)こうした警告から何十年経っても、現在の人々は変わらないばかりか、消費は増え続けるばかりだ。(中略)
・つぎに、鉱業インフラの不足がある。(中略)「将来の需要に答えられるだけの金属が十分に生産されていないというのが私の意見です。数字が合わないんですよ」とアフリカ人専門家は断言した。
・最後に、エネルギー収支比への挑戦。(中略)われわれの生産システムの限界は今日ではより明確になっている。つまり、(エネルギー生産のために)消費するエネルギーが生産するエネルギーを上回る日がやってくる。(p.170)

市場を不安定にする中国がいるために、それ以外の国の工業部門は、長期的に採算のとれる経済モデルを構築することが非常に難しい。(中略)鉱山再建を金儲け主義で促進する考え方では、中国のやり方には抵抗できないだろう。レアアースは資本主義の活力の鍵のひとつであるのに、その開発は資本主義の論理への挑戦を必要とする。(p.178)

第9章

しかしながら、環境保護団体の論理には矛盾点がある。持続可能な世界を望みながら、それが引き起こす影響を批判しているからだ。エネルギー転換とデジタル転換は油田からレアメタル鉱山への転換を意味し、地球温暖化との闘いは鉱山を必要とする。当然、その責任は引き受けるべきだと認めないわけには行かないはずだ。(p.184)

フランスでみんなが合意するのを待っていると、フランスの鉱山文化は消滅するだろう。(p.184)

汚染を引き起こす鉱業を外国に移転することは二重の悪影響がある。ひとつは、われわれのライフスタイルの芯の環境負荷を知らずに、これまでの消費生活を維持することに貢献すること、もうひとつは、環境破壊のやましさがまったくない国に、欧米で生産するよりずっと劣悪な環境で採掘・精錬することを許してしまうことだ。
反対に、フランスなど欧米に鉱山を戻すことは二つのポジティブな効果がある。まず、現代人の生活、「接続性」とエコロジーが高く付くことを、われわれに気づかせてくれることだ。(中略)別の言い方をすれば、汚染を食い止めることに熱心になれば、環境保護対策が進歩し、大量消費の生活様式が大幅に見直されるかもしれない。
このシナリオが実現すれば、中国の鉱業活動は欧米の鉱業の競争力に苦しめられるかもしれない。(中略)こうして、欧米に強制されたエコロジーの競争に中国のエコロジーは勝てるようになるかもしれない(p.185)

エピローグ

われわれが一緒になって目指すこうしたテクノロジー発展の意味はなんだろうか?やり遂げる前に既に重金属でわれわれを蝕むエコロジー移行を推し進めるのはばかげているのではないだろうか?新たな健康被害や環境破壊が生じるとしたら、物質的幸福によって儒教的調和を称えることが本当にできるのだろうか?あるいは、その反対だろうか?(中略)産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。(p.199)

最良のエネルギーとはわれわれが消費しないエネルギーだ。(p.200)




システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。




高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
講談社 (2020/8/11)

「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

人間以後の哲学

著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

私はそれを、

  • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
  • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

である、というように受け取った。

今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
本書はそういう問題を提起しているように思う。

高断熱化に対する違和感

誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
それはどこから来るのだろうか。

消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

人新世の世界を生きること

SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

これは勝手な意見、というか余談。

僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

メモ

同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
(失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

ざっと気になったものをあげると

  • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
  • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
  • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
  • ノンヒューマンであること。
  • エコロジーと触覚に向かう言語
  • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
  • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




内外の行き来を支えるつながりの場 B239 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎)

綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎 (著)
NHK出版 (2010/12/8)

以前読んだ、著者のお二方の話がとても面白くて、だいぶ前に購入していたもの。気が向いたので読んでみた。

この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。 建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。 それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』)

人それぞれの困難さ

今、3人の息子の子育て中なのだけど、面白いくらい3人とも性格が違う。
彼らはそれぞれ彼らなりの壁にぶつかっている・ぶつかっていくのだろうけれども、その彼らなりの困難さを理解することの難しさを日々感じている。
「自分だったらこうするのに」「こうすればもっと楽に生きられるのに」と思ってしまうけれども、その「こうすれば」が彼らの困難さを和らげるものなのかどうかは自分には分からない。
自分とは違う人間だから、と、これまで生きていた自分の哲学(とまではいえないような自分なりのやり方)に反するような方法で手を差し伸べてみたら、かえって困難さを深めてしまった、というようなこともあった。

そんな中、どこで見たかは忘れてしまったけれども、ADHDの人が自分のことを描いたある漫画を見て、こういう視点もあるのか、と思ったのだけど、本書の内容はその時感じたことにとても近かった。

研究の論理

そしてこの「構成的体制と日常的実践の相互循環」の重要性を前提としたとき、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである。」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミュニティの中に持ち込むことの意義が見えてくる。(p.124)

先の漫画を見て感じたのはまさにこういうことだった。
ADHDというある種の困難を抱えた人が必要としているのは、(その困難さがゆえに)本人ができること、というよりは、治療や援助のように外部から手を差し伸べることのほうだろう。と漠然とイメージしていた。
だけど、その漫画の主人公(著者)は自分の特性を把握し、それをできるだけコントロールしようと試行錯誤しながら、その人なりのやりかたで、困難さを和らげようとしていて、そこの大きな可能性のようなものが見えた気がした。
もちろん、うまくいくこともいかないこともあるんだろうけれども、自分を知るということが大きな力になりうるんだな、と感じた。

それは、いろいろな試行錯誤を繰り返し、自分の外(自分のいる社会や環境がどういうところか)と自分の内(自分はどういうひとか)の輪郭と接点を描き出しながら、自分自身のマニュアルをつくっていくようなことかもしれない。
(自分も何となく自分自身のマニュアルをつくりながら生きてきた、という実感がある。)

適度なつながり

また、その試行錯誤を繰り返すには、差異を認め合いつつ何かを共有し会えるような適度なつながり、もしくは、つながれる場が必要なんだろう。(たぶん、それは直接的な人とのつながりに限らず、社会やモノとのつながりも含むと思う。)

適度なつながりの場がなくては自分の外に出たり、内に入ったりといったことは難しくなる。そして、外に投げ出されたままでも、内にこもったままでも、試行錯誤のサイクルは回らないし、自身のマニュアルはなかなか更新されない。

子どもたちのことを考えると「自分とは違う彼らの困難さを理解すること」はやはり難しい。それでも、自分ができることは何かを問うとき、残るのは「外に出たり、内に入ったり」を支えるつながりの場の一つになることくらいしかないのかもしれないな。

(「自分のマニュアルをつくってみるといいよ」と言ったら、「それ、あんたのマニュアルにのってんの?」って聞き返されそう。
 うーん、のってないな。マニュアルつくろうと思いながら生きてきた訳でもないからちょっと違うかもしれない。試行錯誤が楽しいものだといいけどね。)




情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




計算を繰り返す中から新しい意味を見出す B236『計算する生命』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2021/4/15)

計算は、規則通りに記号を操るだけの退屈な手続きではない。計算によって人はしばしば、新たな概念の形成へと導かれてきた。そうして、既知の意味の世界は、何度も更新されてきた。(p.195)

本書では、計算が新たに概念を生み出してきた歴史を辿りながら、計算と生命、それに言語の間の関係が語られる。

これを建築の設計に重ねることで何が見えてくるだろうか。

設計における論理や言語は何か

計算を論理的に組み立てられた記号・言語を手続きに従い操ることで、必然的に結果へと導く行為だとすると、建築の設計において、その論理や言語に該当するものはなんだろうか。

構造や環境など、高度に構造化された、計算との相性の良い分野もあるが、いわゆる計画を行う際に、「1+1=2」というように必然的に答えが導かれるようなものはあまり見当たらない。

情報工学的な手法によって、よりベターな解を探索するヒューリスティクス・デザインや、言語学をデザインに応用し独自の造形言語を探る倉田康夫のような態度はこれに近いかもしれないが、計画学全般に、数学における論理や言語に該当するものが歴史的に積み上げられていて、建築に関わる人が皆それを操っている、とはいえない状況に見える。

では、設計における論理や言語は存在するのか。それは何か。というのが大きな問いである。

「分かる」から「操る」へ

設計という行為は、指折り数える、筆算をする、方程式を解く、コンピューターでシミュレーションする、というような、記号を操り計算する行為に近い。

設計を多様で複雑に絡み合った要件を解きほぐして一つの解を与えることだとすると、それは、頭で考えるという行為のみで完結できるものではない。

スケッチを描く、図面を引く、3Dモデルを確認する、性能をシミュレーションする、というように、様々な手法によって、思考を一旦外部に記号として定着させながらそれを操る、ということを繰り返すことで、徐々にその解が定まっていく、というように、何かしら考える道具を使いながら計画を進めることが一般的だろう。

なので、どのような道具で、どのような記号をどう操り、何を引き出していくのか、というようにどのような手法をとるかが重要となってくるが、それは数学における計算することに近くはないだろうか。

仮に、ある手法でもって計画を前にすすめる行為を、設計における「計算」と位置づけてみる。

この記号を操り計算をするという行為には、考え「分かる」という行為が埋め込まれていて、考えることの一定の過程をスキップさせる機能がある。と同時にそれ故に、人の認知能力を超えた結果を導き出す可能性を持つ。(この点で、情報工学的な手法は、文字通り、強力な計算手法であり、可能性に満ちている。)

その予期せぬ結果には最初から意味があるわけではないが、人にはそこから意味を汲み取るという能力がある。結果は人間によって汲み出されることによって初めて意味を持つ。
設計とは、認識できるものを記号としていったんていちゃくさせ、それを操りながら新たな意味を見出し、再び記号へと定着させる、というプロセスを繰り返すことであり、そのプロセスの精度と回転数が設計の密度へとつながる。

これは大げさに言えば、数学が計算によって新たな概念を生み出してきた歴史をその都度辿るようなものではないだろうか。

方法論

ただし、毎回異なる要件のなかから新たな解を導かなければならないことは、設計の持つ運命のようなものだとしても、毎回、数学が辿ってきたような繰り返すことは不可能だろう。

数学における計算手法がある概念を内包しながら、それを歴史的に積み重ねてきたように、設計の方法論が、それまで積み重ねてきたものを内包し、「計算」のように操れるものであるとすれば、設計においても方法論を使うことで、歴史的な叡智・成果を利用することができるし、毎回、新しい手法を発明する必要はないだろう。

そして、そのような膨大な「計算」の総体の中で、既存の方法論の中から新しい概念のようなものを見つけ出し、新しい方法論として定着させることができた人が建築家と呼ばれ、建築の歴史を一歩前に進めるのかもしれない。

ただ、ほとんどの人は、何かしらの方法論のようなものを模倣し、それを操り「計算」することで一定の成果を得ている、というのが現状のような気がする。
その方法論の中に埋め込まれている概念の歴史を理解し、新たな概念への想像力を持つことで、ぐっと世界は深みを増すように思うけれども、それが体系的に整備され共有されておらず、個々の建築家に秘匿された部分が多い(ように見える)のが建築の難しさかもしれない。(多様な解・手法がありうる特殊性や、概念が重層的・個別的で難解になりがち、というのもあるだろう)

計算する生命

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。(p.219)

生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

ブルックス(ルンバの生みの親)はAI・ロボットを研究・開発する上で、世界をコンピューターの中で描写・再現し、計算する、という手法から、外界のモデルを構築することを破棄し、一旦手放した身体を取り戻すことで、環境と絶えず相互作用しながら行為を生成していく、という方向へ舵を切った。

建築の方法論を積み上げていく歴史的なサイクルも重要ではあるが、同様に、個々の設計行為におけるサイクルも重要で、環境と相互作用しながら計算を繰り返すことで小さな新しい意味を見出していくような態度、いわば「計算する生命になること」、が建築に命を吹き込むことにつながるのだろう。

ここで、個別のサイクルにおける方法論・スタディの方法で重要なのは、
・人間の認識の限界をどう拡張し、予期せぬ結果へと導けるか。
・結果から新たな意味をみいだせるようなきっかけが、どのように現れるか。
の2つのような気がする。自分はそのようなスタディを行っているだろうか。

このあたりのことは、ここで考えてきたことに大きく重なるし、一つ一つの計算(設計の方法論やスタディの方法)についてももっと意識的である必要がある、ということを強く感じさせられた。




分かることへの衝動にもっと素直に従うこと B235 『数学する身体』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2018/4/27)

前回読書記録を書いたのが昨年の10月ごろなので1年近くぶりの投稿になる。

追いつかない仕事を、後ろから走りながら追いかけ続けるような状況がずっと続いていて、読書も折り紙もほとんどできていなかった。
それでも積ん読は順調に進めていて、この本もその一つとして先日買ったもの。

数学と身体、一見無関係に思える言葉が結びついたタイトルが興味を引く。
間違いなく面白いに違いないと思いながら、読むにはそれなりの時間と集中力が必要だろうと、しばらく欲しい物リストに入れていたものを、先日ようやく積ん読に昇格させた。

それで、読む時間はないだろうけど、さわりだけでも読んでおこうと手にとったところ、意外にもスラスラ読める。自分の関心とぴったり重なっていたこともあって、一気に読み切ってしまった。

数学を建築し、そこに住まう

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(p.44)

著者は、数学を行為として捉えるとともに空間的に捉える。その数学という空間は自らの数学という行為を可能とする足場であると同時に「建築」する対象でもある。

そこには、数学という空間と、数学する人とが混然となった世界がある。

おそらくその世界には、自らの身体を通じてしかアクセスできない。その世界の住人となるためには一定の条件があるのだ。

数学といえば客観的・普遍的なもので自分とは直接関係がないように思ってしまうけれども、そうやって眺めている限りはそれは景色に過ぎない。
数学という景色が、経験を通じたその人独自の「風景」となって立ち現れた時に初めてその世界の扉が開くのではないだろか。
というより、人はみな、その人それそれの関わり合いの中でその人なりに扉を開いているのだろう。
(自分の扉が開いていたのは高校の数学くらいまでかな。大学の途中から、解き方は覚えられても、身体的に分かる感じが得られなくて、ここまでか、と感じたのを鮮明に覚えている。逆に言えば、身体的に分かる感じが得られれば数学はとても身近なものだった。)

その数学の空間に住まう人の中にチューリング、そして岡潔がいた。

「わかる」ということと身体

岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。(中略)自他の別も、時空の枠すらも超えて大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。(p.120)

「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同時に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(p.130)

「分かる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。(p.138)

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。(p.174)

岡潔の言葉を借りて数学を語ることに躊躇いもあった。岡の言葉は、彼自身が生み出した数学があってこそ響く。(p.179)

関心のある部分を抜き出してみたけれども、このブログで書いてきたことと重なる部分がかなりある。(読みながら河本英夫の著書が何度も頭に浮かんだ)

数学と身体の関わりについて直接考えたことはないけれども、「わかる」ということと身体との関わりは多少考えたことがある、というより感じていたことがないわけではない。(「脳内ポジショニングの技法」
いや、むしろ、「考える」ということを身体的に捉えるということは最近の主要な関心でもある。

それでも、数学と身体の関わりを探る本書のテーマは新鮮であった。と同時に、自分も少なからず身体的にわかる、ということの衝動のようなものに突き動かされてきたことを知った気がするし、認知科学的なアプローチで数学と合流したのは意外な出会いだった。

建築を建築する

さて、建築である。

概念としての建築を考えると、数学と同様に、建築という空間に住まい、その空間を建築し続けてきた数多の先人たちいて、彼らが積み上げてきた空間がある。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分もその建築という空間を足場としていて(足場としたいと望んでいて)少なからず恩恵を受けている。

思えば、このブログは建築という空間の住人になりたい一心で書き続けてきたもので、それは学生の頃に「まずは建築の住人にならないと何もはじまらない」と少しの焦りとともに感じた直感から始まっている。
その行為に対して不安になることは何度もあったけれども、この本は、その直感は間違っていなかったのでは、と少し明るい気持ちにさせてくれ、初心に還らせてくれるものだった。

ブログを書き続けることは、感じたことを身体化していくための作業だったのだけど、続けることで、何とかこの空間の村人くらいにはなれたように思うし、自分なりの「風景」も見えるようになってきたように思う。

地道ではあるけれども、方向としては間違っていない。むしろ、必要なのは、分かることへの衝動にもっと素直に従うことと、同時に感度をもっと高めることだろう。その先にしか到達できないものがきっとあるはずだ。

(同じ著者の『計算する生命』も買ってるけれども、岡潔も読みたくなってきた。)




現場の物語と施主自身の物語への想像力を保ち続ける B232『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』(稲垣諭)

稲垣諭(著)
青土社 (2018/7/23)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928-)&ヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。 氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也))

という経緯で買ってみたもの。
本書は哲学的視点を通して、臨床の現場の可能性を語るようなものであったが、内容や文体はかなり『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本英夫)に近いように感じた。(と、調べてみると、著者と河本英夫はいくつも共著を書いている。)

そういう点では新鮮さはなかったのだけど、『損傷したシステムは~』を補完しあうものと捉えると面白く読めた。(河本英夫やオートポイエーシスに馴染みのない方にとっては、新鮮に感じられるものだと思う。もしくは、意図することを掴みにくいか。)

本書では「哲学を臨床解剖する」として「働き」「個体」「体験」「意識」「身体」が、「臨床の経験を哲学する」として「操作」「ナラティブ」「プロセス」「技」「臨床空間」が章立てられている。

その中で、比較的新鮮に感じた「ナラティブ」の章について記しておきたい。

設計は臨床に似ている?

神経系を巻き込んだ人間の複雑な動作や認知機能の再形成には、解剖的、生理的、神経的要因だけではなく、年齢、性別、性格、職業、社会環境、家族構成と行った多くの変数のネットワークが介在してしまう。そのため、リハビリの臨床における治療の取り組みは自ずと、多数の仮設因子を考慮した上での「調整課題」もしくは「調整プロセス」とならざるをえないのである。調整課題とは、線形関数のような一意的対応で解が出るような問いではなく、多因子、あるいは他システムの連動関係を見極め、効果的なポイントに介入し、調整することで、そのつどの最適解を見出すような実践的、継続的アプローチである。(p.154)

建築士はときどき医者に例えられることがある。施主の思いや悩みを聞き、それに対してこうすれば良くなるというような回答を提出する。というように。

病気には何か明確な原因があり、科学的な因果関係を特定し、それを取り除くことで治療を行う、というのが医療行為の一般的なイメージだと思うけれども、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであると言う。なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方だ。

しかし、目の前の患者の個別的な状況に対応せざるを得ないようなリハビリの臨床のような現場では、EBMの確率が難しく、個別の問題にどう対応するかという課題がある。

ここで、医療のタイプに対応した建築士の3つのタイプを想定してみると、

(A)旧来の医療タイプ:明確な課題を設定し、それに対して分かりやすい解答を与えるような設計を行うタイプ。旧来の建築家像。
(B)EBMタイプ:データを用いて、統計的な判断により設計を行うタイプ。今後AIの進展により盛んになる?
(C)臨床タイプ:できるだけ多様な因子を取り込んだ上で調整的・継続的に設計をすすめるタイプ。このブログで考えてきた建築家像。

という感じだろうか。

明確にどれかに当てはまる人もいるかも知れないけれども、実際は状況に応じてこれらを組み合わせながら設計を行っているのが一般的かもしれない。
その中で、(C)のようなタイプの設計は臨床に似ている、と言えるように思うし、ここではその可能性を考えてきた。

それに関連して、『第7章「ナラティブ」-物語は経験をどう変容させるか?』について書いてみたい。

ここでは、物語を河本英夫が書いているような複合システムのサイクル(ハイパーサイクル)の間で駆動する媒介変数のように捉えているように思うが、2つの方向での遂行的物語について語られているようだ。

語りかけとしての遂行的物語

ここでの物語はその意味でも、単に教訓や寓話として読み聞かされるようなものではなく、経験と行為を再組織化するきっかけとしての「遂行的物語」とでも呼ぶべきものとなる。医療従事者として、「患者の経験に寄り添うこと」、「患者の経験を動かすこと」、「患者の経験に巻き込まれること」といった全てが、物語を媒介しつつ、治療プロセスに非線形的に関与する。そこには、表出される言動の背後で作動している、「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」といった多くの非意識的な変数が関連している。(p.160)

例えば、外科手術の前に、術後の痛みの状況や対応などについてのメッセージを伝えた人と、伝えなかった人とでは、前者のほうが術後に使用する鎮痛剤の量が半分に減ったそうだ。

これはいわゆるプラシーボ効果のようなものだと思うが、そこでは「生体システム」に加えて「心的システム」や「社会システム」といった複数のシステムが先のメッセージの物語をきっかけとして何らかのカップリングが起きたと想定される。

例えば、施主に満足してもらうことを一つのゴールだとした場合、施主の希望を叶えるために分かりやすい解答を与えるというのは、一つの方法であると思う。しかし、実際には、そういった対応をしたにも関わらず、最終的に満足してもらえない、ということもありうるのがこの仕事(どんな仕事も)の難しいところかもしれない。

引用分のようなコミュニケーションにおける「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」だけでなく、他の些細な希望の見逃しや誤解・説明不足、職人さんの挨拶や、現場の整理整頓・養生の方法、さまざまなことが一つの物語となって積み重なっていく。その結果、全く同じ建築をつくったとしても、喜んでもらえることもあれば、不満を与えてしまうといった両極端な状況のどちらもが起こりうる

なので、全てのことを完ぺきにこなすことは簡単ではないけれども、現場の方には、とにかく最後は施主の方を見て仕事をして欲しい、とお願いしている。

その時、その現場の空気をつくる物語(それは与えるだけではなく、ともに作り上げていくものとしての物語)がある、ということを強く意識してその物語を組立てていくというのは大切なことかもしれない。

自己語りとしての遂行的物語

システムの連動を貫くように体験される物語が、遂行的物語である。それは、当人が意識的、意図的であることとは関係なく、併存する複数のシステムへと新しい変数を提供し、間接影響を与えることが条件となる。それは同時に、その意味的文脈とは独立に当人の体験世界の変化につながるものである必要がある。病の経験を、遂行的物語として実行することは、それを体験するものが、みずからを別様な経験へと開いていくきっかけを手にすることを意味する。ナラティブ・アプローチにおける語りとその物語は、患者が語ることを他者が傾聴し、新たな物語として語り直すというプロセスを何度も潜り抜けさせる中で、当人の経験に新しい変数を出現させ、体験世界の再組織化へと届かせようとするものである。(p.163)

本書においての遂行的物語としては、こちらのナラティブ・アプローチが本筋かもしれない。

住宅系のイベントなどで、「私たちとともに 新しい生活のカタチを みつけませんか」というキャッチコピーを使うことがある。

例えば家を建てるとしても、ただ家を建てるという経験だけが残るのではなく、施主自身の新しい体験の扉が開いていくことへとつながるような仕事がしたいと思っている。
家を建てたという実感だけではなく、日々の気持ちの持ちようや張り合い、家族や社会との関係性や自然の感じ方など、さまざまなことが新しく感じられるようなものをつくることに、この仕事の意味があるように思う。

そのためには、こちらが語り、与えるだけではなく、施主自身が関わることによって、その語りや物語が変わってくるようなあり方を考え整えていくことが大切なのではないだろうか。

そういった2つの物語に対する想像力を日々保ち続けないといけないな。




腹落ちのための経営理論と36の指針 B230『世界標準の経営理論』(入山 章栄)

入山 章栄 (著)
ダイヤモンド社 (2019/12/12)

『建築と経営のあいだ』を読んだ後くらいに、知り合った人のフェイスブックで見かけたので即購入。

『建築と経営のあいだ』についての感想を書く前に、まずはこっちを読もうと思ったのですが、800ページ以上の大著。なかなか時間が取れずにちびちびと読んでいるうちに何ヶ月も経ってしまいました。

前編

腹落ちのための理論書

これほど、意図の明確な本もなかなかないと思うのですが、本書の目的は「世界の経営学の主要理論のほぼすべてを、複数の分野にまたがって体系的に解説すること」で、狙いは「本書で紹介した経営理論を「思考の軸」として活用してもらうこと」とあります。

30もの世界標準とされる経営理論に加え、理論とビジネス現象との関係性や経営理論の組み立て方・実証の仕方が、およそ800ページに渡り解説されているのですが、一冊を通して「理論を活用してもらう」という視点はブレることがありません。

また、ビジネス書でよく見るような、テンプレート化されたフレームワークはほとんど取り上げられていません。
フレームワークは理論の一部が形となったもの、と言えるかもしれませんが、それはwhyに応えてくれるものではないため、徹底的に理論が腹落ちすることにこだわる本書では意図的に取り上げなかったようです。

これまで、経営に関わるガイド的な本を手にとっても何かすんなり入り込めないものを感じていたのは、この腹落ちの部分が抜けていたからかもしれません。
そういう意味では今、出会うべくして出会った本のように思います。

答えはこの本の中にはない

網羅的に理論が解説されているからといって、この本の中に答えがあるわけではないです。

実際、ある理論と理論が矛盾し、相反するようなこともかなりあります。

それは、経営に関わる多様な人の営みを一つの理論として切り出すためには、何らかの前提を設けざるを得ないからですが、その前提・視点の違いは経済学、心理学、社会学といった理論の基盤となる分野の違いに根ざすものでもあるようです。

この本によって得られるものは、答えではなく、あくまで、経営を多様な視点から考えるための「思考の軸」なのであり、だからこそ変化の激しい現代社会において必要なものなのだと思います。

経営と建築

経営と建築は、
明確な答えが存在せず、絶えずいろいろな可能性に開かれているものであるが、その中で常に意思決定を積み重ねなければならない。
突き詰めると『人とは何か』という問いにいきつく。
という点で似たような性質をもった分野のような気がします。

経営者がみな経営学に精通しているわけではない。同様に設計者が例えば建築計画学に精通しているわけではない。
という点も重なる部分かもしれません。理論を知らずとも経験と勘である程度はカバーできますが、意思決定の精度を上げるためには「思考の軸」が大きな武器になる、ということは間違いないと思います。

しかし、最後に著者は「思考の軸に必要なのは、経営理論を信じないこと」と言います。
理論を信じそれを当てはめるだけでは考えたことになりません。
大切なのは、思考の軸となる理論を足がかりに、目の前の問題を自分の頭で考え、意思決定をし続けることなのだと思います。

(コロナによって様々な前提が無効になってしまった今、これまでに書かれた本がどこまで有効なのか疑わしくなってしまいましたが、だからこそ、理論を鵜呑みにせず、自分の頭で考え続けることを説く本書の意味はより大きくなっているかもしれません。)

理論を自分のものにする

とはいえ、まだ一通り目を通したに過ぎません。
しばらくは、理論を思考の軸とすべく、じっくり読み返してみようと思います。おそらく、それを自分の問題としていろいろと考えてみることでゆっくりと自分のものになっていくように思います。

また、ここで解説されている理論のそれぞれが『人とは何か』という問いに対するエッセンスだと思うので、それを建築に置き換えてみることで新たなイメージが湧くような気もします。

すぐに建築に置き換えることばかり考えることは悪い癖なのかもしれませんが、結局はどの分野も『人とは何か』という問いに遡ります
他の分野で生まれたぼんやりとしたイメージと別の分野で生まれたイメージが重なることはよくありますし、そういう発見が本を読む一つの醍醐味のようにも思います。

~(前編)は本書の全体的な印象について書きましたが、(後編)はもう一度読み直した後にもう少し内容に触れて書いてみたいと思います。

後編

36の指針

各章ごとにノートにまとめながら、それぞれの章から自分の思考や行動の指針となりそうなものを、ワンフレーズかツーフレーズで取り出すことを試みてみました。
慣れない分野で、かつ自分の関心が偏っていたり、自分の事業形態とは関係の薄いものがあったりしているため、内容に偏りや誤りがあるかもしれませんが、個人的なメモとして列記しておきたいと思います。

■人間は合理的な意思決定を行うと仮定する。

  • 完全競争の条件の逆を張れ。真似ができないように差別化を図り、価格をコントロールせよ。
  • リソースなしにアウトプットはつくれない。まずはリソースを押さえよ。
  • 企業の競争にはいくつかの型があり有効な理論が異なる。まずは型を見極めよ。
  • スクリーニングやシグナリング等で逆淘汰を解消し、情報の非対称性を味方につけよ。
  • 目的の不一致と情報の非対称性を乗り越え、モラルハザードを解消せよ。
  • 取引で発生するコストを最小化する形態・ガバナンスを発見せよ。
  • 互いに読みあった先に何が起きるかを分析し意思決定せよ。
  • 不確実性の高い状況では、将来のオプションをデザインすることで不確実性を解消し味方につけよ。

■組織・人間の認知には限界があると捉える。

  • うまくいっているときほど目線を高くしサーチせよ。
  • 知を活用させるために深化させるだけでなく、意識的に新しい知を探索し、両利きの経営を目指せ。
  • 知の保存と引き出しを仕組み化することで、組織の記憶力を高めよ。
  • SECIサイクルをまわすことで、形式知だけでなく暗黙知を活かして知を創造するループをつくれ。
  • ルーティンによって認知負担を減らしつつ、ルーティンを進化させよ。変化の時には新しく作り直すことも考えよ。
  • 変化し続けられるための実践の仕組み・シンプルなルールを設計せよ。

■個人の認知に焦点をあてる。

  • 状況に応じたリーダーシップの方法を考えよ。また、全員をビジョンを持ったリーダーとせよ。
  • 高いモチベーションを維持できるよう設計せよ。願わくばそれぞれがビジョンと他者視点を持てるようにせよ。
  • メンバーの多様性を高めて、個人の認知バイアスを組織で乗り越えよ。
  • 意思決定に絡むバイアスを意識せよ。しかし、時には理論より直感を重視せよ。
  • 認知をずらすことで状況に求められる感情をコントロールし、感情を隅々にまで伝播させムードをつくれ。
  • 行動からサイクルをまわして多義性を減らすことでセンスメイクし、ストーリーまで練り上げることで足並みを揃えよ。

■つながりと社会性のメカニズムに焦点をあてる。

  • 企業を超えて多様なネットワークを築け。
  • 強いつながりだけでなく、弱いつながりによってネットワークを変化させ、クリエイティビティにつなげよ。
  • 複数の縦軸を行き来することで、異なる領域のプレイヤー間の媒介となれ。
  • 弱いつながりと強いつながりのバランスをとることで、ネットワークの便益を得つつ、フリーライダーを押えた公共財の場を目指せ。
  • 自フィールド内のビジネスの常識を疑ってみよ。必要であれば塗り替えよ。
  • 依存度のアンバランスを脱却し、飛躍せよ。
  • 社会を大きな生態系と捉え超長期的な視点を持て。必要ならば新しい生態系に飛び込み、そこで社会の正当性を獲得せよ。
  • 組織内の淘汰・選択プロセスをデザインし、多様な人材・情報によって変化せよ。また、他の生態系の活力を取り入れ進化せよ。
  • 競争の中に身を置くことで共に進化せよ。ただし、環境の変化が大きい時にはライバルではなく自身のビジョンを競争相手とせよ。

■ビジネス現象と理論をつなぐ。(本書にはそれぞれのビジネス環境と経営環境の関係を示すマトリックスが載っています。)

  • 相反する理論を高次に組み合わせて、イノベーションを前提とした戦略を立てよ。
  • 環境の変化を捉えた上で理論を駆使してイノベーティブな人材を育てマネージメントせよ。
  • 多様な利害関係者を前提とした上で、理論を駆使して最適なガバナンスを考え抜け。
  • 国境に囚われ過ぎずに、理論を軸としてグローバルに考えよ。
  • 起業には何が必要でどこに進出すべきかを理論を軸に考えよ。
  • 企業の存在範囲・あり方を理論を軸に考え抜け。時には「永続を目指す」こと自体、資本主義すら疑え。
  • 理論はビジネスの全体を描けない。最後は、それぞれの理論を拡張し、組み合わせて、自らビジネスをデザインせよ。

まとめながら、いくつかの人(組織)の顔が何度も頭に浮かび、この人(組織)のここがこれにあてはまるな、と思いました。
必ずしも理論が先にあるわけではないと思いますが、活躍している人にはその理由があることが分かり、いろいろな点で腹落ちしました。
これからは、じっくり自分なりの応えで埋めていこうかと思います。

経営学とこれまで考えてきたこととの共通点

全体を通して読んでみると、古典的な経済学の「どうすれば安定した持続的な競争優位を獲得できるか」という論点が、「どうすれば変化する環境に合わせて企業自体が変化し続けられるか」へと移っていく流れがくっきりと浮かび上がってきます。

それは、環境をサーチ(探索)し、それに合わせて行動(変化)していくサイクルをどうやってうまくまわすか、ということだと思うのですが、これまでここで考えてきた、設計論、アフォーダンスやオートポイエーシスの考え方に驚くほど重なりました

オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

ここでイメージされるのは、次のようなサイクルである。
まずある場面で、何らかの行為を選択し「踏み出す」。ここで経験が起動するが、その踏み出しは経験の可動域を拡げるようなもの、また行為持続可能性の予期を感じさせるものが候補となる。
「踏み出す」ことによって、行為とともに何らかの「感触」が起こる。これは「踏み出す」ことによって初めて得られるものである。
この「感触」は連動する顕在システムや潜在システムとの媒介変数となり、複合システムの中を揺れ動く。そしてその中で次の行為の起動を調整するような「気づき」を得る。
その「気づき」は次の「踏み出し」の選択のための手がかりとなる。
つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。
このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。


この図は上の引用元のページで書いたものですが、同じような図で、例えば「知の探索・知の深化」「SECIモデル」「ダイナミックケイパビリティ」「センスメイキング」「VSRSメカニズム」などもまとめられるように思います。

ビジネスは「  」のために

著者は、経営理論は部分のwhyに応えるものであるから、ビジネスそのものを説明できない。また、ビジネスの目的は何か、という問いに対する世界共通のコンセンサスを持っていないと言います。

最後は理論を武器(軸)にして、自らビジネスをデザインしないといけないのだと思いますし、そこが面白いところなんだろうなと思います。

第5部『ビジネス現象と理論のマトリックス』の最後、著者はこう問いかけます。

さて皆さんなら、この下線部には何を入れるだろうか。
“Law is to jusutice,as medicine is to health,as business is to ___.”(p.737)
法は正義のために、医学は健康のために、そしてビジネスは「  」のために。(p.732)

自分は建築をやろうと決意した時からこう決めています。
 ビジネスは「未来の子どもたち」のために。

皆さんなら何と入れるでしょうか。




おおくちたからばこ保育園で考えたこと。

おおくちたからばこ保育園は、伊佐市にある既存倉庫の一角を企業主導型保育園として改装したものです。

この時に考えたことを、保育園等の計画で大切にしたいことと合わせてメモしておきます。

生まれて最初に多くの時間を過ごす場所

0~2才児の限られた期間を過ごす場所ですが、生まれて最初に多くの時間を過ごすこの場所が豊かな経験の場となることが望ましいと考え計画しました。

豊かな場であるべき保育園ですが、実際は単調なスケールで濃淡のない箱型のスペースが、まるで小さな学校のようにつくられることも多いように思います。この園では、それに対してどういうものをつくることができるか、を考えました。

多様なスケールを用意すること。

子どもたちが生まれてきたこの世界は、広大で多様な場所です。
その広大で多様な世界に、単に放り出されるでもなく、また、世界を小さく切り取って限定してしまうでもなく、徐々に関係性を築いていけるような場とするには、一つの単調なスケールのではなく、例えば、建築物としての大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケールと入れ子状に多様なスケールが用意され、段階的に拡がってくるようなものが望ましいように思います。
そういう意味では、鉄骨造の大きな建物の一角ととして保育園があることは良かったと思いますし、園内もできるだけ多様なスケールの空間が存在するように配慮しました。
→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B206 『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』

子どもの育ちを支える濃淡のある空間を作ること。

関東学院大学子ども発達学科専任講師の久保健太氏は育ちの場には濃淡のある空間が必要だと説いています。

学校の教室のような均質な空間では、どこで遊びこめばいいのか、どこでくつろげばいいのか、それがよく分からない場所になってしまいます。
一方、濃淡のある空間では、いろいろなスペースがあり、一人になることも出来るし、ダイナミックに遊ぶことも出来ます。そこでは、場所と気分が一対一で対応しており、移ろう気分にしたがって、濃淡を行き来しながら自由に過ごすことができます。そして、そこに学びが潜んでいると言います。

多様なスケールと重なりますが、この園でも気分によって様々に過ごせるような場を用意しました。それによって、子どもたちは強制されることなく自分たちのペースでゆったりとした気分で過ごすことができるのではと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』

「子どもが育つ」状況に満たされた場をつくること。

保育の場での子ども感は『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』へと変化しています。
子どもを育てるというよりは、子どもが自ら育つ環境を用意するというように変わってきており、それは保育所保育指針でも『育所は、その目的を達成するために、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携の下に、子どもの状況や発達過程を踏まえ、保育所における環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。』と明記されています。

そのような子どもが自ら育つ環境をどうすればつくることができるか。
具体的な環境づくりは保育士さんに求められる部分が多いかと思いますが、建築はそのきっかけとなるように多様であり、かつ行動を強制してしまわないようなおおらかな場所であるべきだと考え計画を行いました。
保育が始まってからも、例えばふじようちえんのように、どんどん「子どもが育つ」状況に満たされた場として進化していって欲しいと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B195 『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B202 『平成29年告示 幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領 原本』

「小さな学校」ではなく「大きな家族」として考えること。

歴史的に保育施設は、日常的な生活では学べない抽象的な知識を学ぶ場、「小さな学校」として誕生し、計画的かつ合理的な教育実践の場としてつくられた学校空間―無機質で四角く、管理しやすい空間―と同様の保育空間が良しとされ、定着してきました。

しかし、もともと、日常的な生活の場での育ちの場であった大きな家族としての地域コミュニティは縮小し、子どもたちは日常の育ちの場を失いつつあります
そんな中、保育園は、小さな学校(抽象的な知識を学ぶ場)ではなく、大きな家族(日常の生活の中での育ちの場)へと役割を転換することが求められます。

この園でも、日常的で家庭的なスケールと有機的な素材と空間の扱いに配慮をしました。(家庭でも有機的な素材と空間は失われつつあり、なおさらその意義は大きくなってきていると思います。)
また、オーナーであるクライアントの地域コミュニティへの姿勢から、子どもたちが大きな家族(地域の多様な人々)の中で育つことができるような環境も期待できるように思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』


以上のように、子どもたちの豊かな育ちの場であって欲しいと考え計画を行いました。

今回、クライアントの理解と場所の特性(もともと倉庫の搬出入用のため入り口が高い位置があったため、内部の構成に変化を与えることに合理性があった)のおかげもあり、豊かな場作りに貢献できたのではと思います。また、今後もより豊かな場へと育っていって欲しいと思います。




大切にしたいいくつかのこと

普段設計を行う上で大切にしたいと思っていることを書いてみます。

棲み家という言葉

「住宅」や「家」ではなく「棲み家」という言葉に何か魅力のようなものを感じます。
学生の頃からその魅力の正体をずっと探し続けています。

この言葉には単なる「商品」としての住宅にはない「意志」のようなものを感じます。
そこに棲みつくという意志、そこで生活をしていくという意志。

僕はその意志の中からこそ「生活の豊かさ」や「生きる実感」といったものが生まれてくると思います。
そしてそれらは人が生きていく上でとても大切なものだと思っています。
設計をしていく上で、その大切なものをどうやったら大切に扱えるか。
どうやったら楽しく扱えるか。
そんなことをずっと考えながらこの仕事を続けています。


 

空間

単なる間取りではなく空間を扱うこと。

それによって、例え小さくても拡がりのある開放的な空間、気持ちよく流れる豊かな時間を得ることができます。

そのための工夫は日本人が得意としてきたこと。
だけど、それは日本人が忘れてしまっていることでもあります。

 

素材

身の周りの素材を見渡してみてください。

それはあなたの気持ちを受け止めてくれる素材ですか。
時間の流れを受け止めてくれる素材ですか。

人間の感覚は自分達が思っている以上に素材のありかたを敏感に感じ取っています。

素材の持つ力を見直し、それをどうやって引き出すかが豊かな空間への第一歩だと思います

 

リアリティ

生活の中からリアリティを感じる機会が失われつつあると感じます。

そんな中、リアリティを見つけるには自ら環境に関わっていくという小さな意志が必要です。

受身ではなくで自発的に環境と関わることからリアリティは生まれます。

その関わり合いの余地をほんの少し残しておくことは、建物にとって、とても大切なことだと思います。

 

関係性

ヒトとヒト、ヒトとモノ、ヒトと自然。
ウチとソト、建物とマチとの関係性。

さまざまな関係性が豊かさを生み出します。

20世紀は関係性を断ちながら、便利さ・快適さを追い求めてきました。
しかし、これからは関係性をつむぎながら豊かさを生み出していく時代だと思います。

家は時に母親のように、時に父親や、友達のように、と、そこに住まう人といろんな関係を築ける存在であって欲しいです。

 

自然

ヒトのDNAの中には自然にあるものを”美しい・心地よい”と感じるかけらが埋まっています。

それを私たちは「自然のかけら」と呼びたいと思います。
「自然のかけら」が共鳴し、ちりんとなった時に美しさや心地よさを感じるのです。

建築は、そんな「自然のかけら」を響かせる楽器のようなものであって欲しい。
そのための術を磨いていきたいと思っています。

 

生活

空間・素材・リアリティ・関係性・自然のかけら・・・・

それらを取り入れるにはどうしたら良いでしょうか。

それには「生活とは何か」をもう一度ゆっくり考えて見ることが一番だと思います。

忙しくて忘れがちな「生活」を自分なりに見つめなおし、ふたたび生活へ戻ることが豊かさを生み出すのではないでしょうか。

建築がそのための助けになるとすれば、それほど嬉しいことはありません。

私たちとともに新しい生活のカタチを見つけませんか?


独立開業時に開催した「棲み家」をめぐる28の住宅模型展の最後にトークイベントを開催しましたが、ここでも大切にしたいことをお話させて頂きました。