生きることとリズム B311『センスの哲学』(千葉 雅也)

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千葉 雅也 (著)
文藝春秋 (2024/4/5)

あの人はセンスが良いとか悪いとか言う場合のセンスとは何か。

著者は、多くの人が囚われていたり、なんとなくしか捉えられていない引っかかりをすくい上げ、分かりやすく提示することで、何かからほんの少し自由にしてくれるように感じている。
今回は、センスという言葉を通じてそれをやってくれていると感じた。

センスと価値

センスとは、ものごとをリズムとして捉えることだという。

ではなぜ、うまくリズムを捉えられたり、リズムを生み出せることが、センスが良い、すなわち価値がある、とされるのだろうか。芸術におけるリズムはなぜこれほど価値を認められているのか。

それは、リズムが生きていることと、そのまま重なるからだろう。

著者は、リズム化することを、予測誤差を丸め込み、世界がどうなるかわからないという不確定性を手懐けるものだという。
生物は、安定状態を求め、ストレス・刺激があるとそこから戻ろうとするが、世界は刺激に溢れている。
そんな中で、自らの主体としての足場を確保し、生き続けるためには、刺激もしくは予測誤差に耐えられるようになることが必須であり、意識的であろうと、無意識であろうと、リズム化はそのための基本スキルだと言える。

人間もしくは生物が、世界を反復と差異のリズムとして捉え、つきあっていくことは、私が想像するよりはるかに重要なことであり、生きることと直結するような問題なのだろう。そして、それゆえに、そこに何かしら価値を感じてしまうのではないか。私はそんな風に理解した。

そのリズムはいわば世界そのものであり、一筋縄ではいかない。
安定していれば良い、というものではなく、そこからの逸脱がなければ不足を感じてしまうし、そのような反復と差異のリズムですら、人は自らの主体性を確立するために壊さざるを得ないことがある。
自分の中のどうしようもなさといった、自身に内在するリズムと世界のリズムとのすり合わせ・葛藤にも絶えずさらされている。
リズムが生成変化であるならば、生物がエントロピーの増大に抗うために流れ続けなければいけない宿命を引き受けたように、リズムは絶えず変化しなければいけない、という宿命を持つ、すなわち一筋縄ではいかないことこそがリズムの本質なのではないか。むしろ、この生命としての変化の宿命が、リズムを必要としたのかもしれない。

このリズム化のスキルや、そこに価値のようなものを感じてしまうというセンスは、もともとは生存戦略によるネガティブなものだったかもしれない。しかし、人間に内在化されたそれは、(それがネガティブなものの裏返しだとしても)いまや楽しさや価値として存在している。それならば、それとよりよく付き合っていける方が良いように思うし、そのための取っ掛かりを本書は与えてくれる。

建築とセンス

本書はセンス=リズムを感じる側と制作する側、双方に向けて書かれているけれども、当然建築の設計とも関係があるだろう。

形態を音楽的なリズムで捉えようとする理論はもちろん昔からあったし、反復と差異のようなこともテーマとしてある。

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

上記投稿では、内在化と逸脱を主題としたけれども、これは本書の反復と差異と重なる。
その根本に近づけた、という点で読んだ価値があった。

しかし、より頭に浮かんだのは、モートンの自然に対するスタンスとリズムについてである。

自然とリズム

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数性のエコロジー』p.44)

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは『自然なきエコロジー』ということで、自然を自然と呼ぶことで、自然に対する距離を固定化してしまう=自然との間の遠い/近いを平坦にし、リズムを消し去ってしまうことを警告している。

本書では、物質は、作用・反作用が物理法則に従い即時に起こるものであり、それに対して生物(特に人間)は動きに予測誤差と遅延があり、作用・反作用のカップリングがゆるんだもの、と捉えている。つまり、自然の中にはうねりとビートのリズムが豊富にある、ということだが、それゆえに、人間はそのリズムを消し去ろうとするようにも思える。
しかし、モートンが言うように人間性の条件がリズムにあるとするならば、また、本書が描いているようにリズムが生きていることと重なるものであるならば、自然のリズムをどう扱うかは重要なテーマとなりうるのではないだろうか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。 このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。 ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。 アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

この時見たように、自己と環境との関わり合いをリズムとして捉えようとする見方は、インゴルドのメッシュワークの中の一本の線としての自己のあり方としてもイメージできる。

さて、私は何が言いたいか。

実は私自身が、それを知りたいと思っているのだけれども、二拠点生活の中での思考や実践を通じて、環境との関わりのイメージをクリアにしていこうとする中で、リズムに対する実感を掴むことが必要なのでは、という予感がある。

またしても、予感である。

こればかりは、予感が実感に変わる瞬間を待つしかないようにも思うけれども、生命の躍動感を建築に与えるというテーマには外せない実感かもしれない。

建築におけるリズムはこれまで、多くは建築の形態のリズムが主役でしかなかったように思う。
しかし、それだけでは不十分で、自然のリズムと自らのリズム、さらには建築のリズムがうまく共鳴した時に、初めて建築のリズムがいきいきとしだすのではないだろうか。

またしても、そんな予感だけがある。

追記:
今、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読み始めたのだけど、本書との関連が深そうな気がする。
なぜ、人間はリズムを必要とするのか、ということに対して、暇と退屈という視点からより近づけるのではないか。
それに関しては次回。




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