1

水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳)

矢野 智徳 (著), 大内 正伸 (著), 大地の再生技術研究所 (編集)
農山漁村文化協会 (2023/1/18)

『よくわかる土中環境 イラスト&写真でやさしく解説』と合わせて読了。

高田宏臣 (著)
PARCO出版 (2022/8/1)

確か、小学校の中学年くらいの頃だったと思う。
屋久島に移住する前は奈良の田んぼが広がる田舎に住んでいて、山や川、田んぼや空き地が主な遊び場だったのだけど、ある時、ザリガニやいろんな生き物が住んでいた石積みの用水路があっという間にU字溝に置き換えられた。
当然、そこにいた生き物の姿はなくなり、遊び場の一つが失われ、その時そういう決断を下した大人たちをたいそう恨んだことを鮮明に覚えている。

またちょうど一年前、二拠点生活と称して日置市の山間で仕事を始めた。
職場であれば町内会には入らなくても良いと言われたけれども、ここの風景が気に入って入ってきたのでフリーライドはしたくなかったのと、何よりこの地での経験をすることが二拠点居住の目的だったので町内会に入ることにした。
定期的に道際や川の草刈りなど手入れがあるけれども、昔であれば、「どうせまた生えてくるのに草刈りに何の意味があるのだろう。むしろ自然のままに任せるという考えもあるのでは。」と思ったかもしれない。今は、そこに経験的に培われてきた知恵があるはずだと考えている。

そこでこの2冊を読んでみたのだけれども、いままでまるで見えていなかったものが見えてくる、風景の意味ががらっと変わってしまうような体験だった。

どちらも、同じような問題意識のもと書かれていて共通点はかなり多い。
あえて違いを書くと、大地の再生の方は、より実践的な内容で、自然環境が水と空気の循環によって保たれていることに加え、風の流れ(それが土中の水と空気の流れともつながっている)に重きを置いている。
土中環境は、実践より理屈を分かりやすく伝えることに重きを置いているようで、菌糸の働きへの言及も多い。

読後に日置の集落の風景を見てみると、ここでさえ、昔の知恵を置き去りにしてしまったことがたくさんありそうだし、集落の奉仕作業からも忘れられてしまった理屈がいくつもあるだろう。このままでは、人が減るに連れ知恵や技術の喪失がさらに加速度的に進むのは避けられそうにないし、都市部においては言うまでもない。
(と言っても、何度も書くように初心者の私には集落の先輩たちは先生である。)

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう)

この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。

「土中環境」では特に自然災害に対する現在の土木技術の矛盾が浮き彫りになっているが、アカデミズムの世界ではどう扱われているのだろう。
ここで書かれているような原理が大学などで研究され、技術の置き換えが起こるような大きな流れが生まれて然るべきだと思うけれども、現状はどうなのだろうか。

それは当然建築においても言えるが、田舎はさておき都市部で何ができるのか、というイメージを育てるにはもう少し経験と実感が必要だ。

今朝、雨が降る前に、少しだけ庭の手入れをしてみた。
風の流れや空気感が少し変わった。
自分がほんの少し、この地に馴染めた気がして、気持ちが良い。




弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B279『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登)

荒谷 登 (著)
彰国社 (2013/8/1)

地球環境時代を迎えるいま、経済力、技術力、エネルギーに頼った力づくの問題解決ではなく、それぞれの地域が持っている特質をより顕著なものにする、奪い合うことのない成長のあり方を、本書を通して考えてみていただけたらと思います。(p.3)

著者は温熱環境の専門家で、北海道の高断熱高気密住宅のパイオニアでもあり、『民家の自然エネルギー技術』の著者の一人でもある。

北海道住宅の専門家の本が九州南部での建築を考えるのに参考になるだろうか、と若干不安があったものの、もっと広い視野で書かれているのでは、という予感があったため購入した。
それが、期待以上の良書であった。

本書は、北海道建築指導センターが発行している『寒地系住宅の熱環境計画シリーズ』の5巻をまとめたもので、それがそのまま本書の章立てになっている。
その構成は、

  • 『1 採暖と暖房』(1976)
  • 『2 気密化住宅の換気』(2003)
  • 『3 省エネルギーから生エネルギーへ』(2003)
  • 『4 断熱建物の夏対応』(2007)
  • 『5 断熱から生まれる自然エネルギー利用』(2010)

というもので、24年もの歳月をまたぐのだが、それぞれ当時の普及技術の潮流を感じさせはするものの、内容は全く古さを感じさせない。

それが、著者の熱環境への深い知識によるだけでなく、その根本に確たる哲学があることによるからだ、ということが読み進めるにつれ分かってくるのだが、私が今、建築の温熱環境に対するスタンスで迷っていることに対して多くのヒントと与えてくれた。

今の建築の温熱環境に対して、何か煮えきらないものを感じていたのだが、それに対してどういうヒントが得られたか、ということをここ2年ほど環境について考えてきたことを振り返りながら書き残しておきたい。

良さ発見型の技術・弱さ・目

一貫していたのは近代技術が得意とする欠点対応ではなく、無償の富である自然や自然エネルギーに中によさを見出してそれを生かす、良さ発見型の対応でした。(p.220)

技術には、欠点対応型と良さ発見型の2つがあるという。

欠点対応型は環境の中から欠点を見出し、それを克服するために電力のような独力での問題解決能力を持つ強い力を用いるもので、近代的な分断の思考をベースとして画一化へと向かうもの。
一方、良さ発見型の技術は環境の中から無償の自然エネルギーのような弱い力を見出し、それらを組み合わせ引き出すことで問題を解決しようとし、多様性をもたらす。

後者は、例えば天空光や反射光、そよ風や熱対流、気温の日変動や年変動、乾燥や湿潤、蓄熱や放熱、新鮮な空気や水、微妙な風圧や気圧の変動など、それだけでは問題を解決できない弱い力であり、地域性や変動性が大きいといった性質を持つ。

元来、建築はそのような弱い力の特性を引き出し活用するための器であったが、近代化とともに強い力に依存することになってしまい、風土との対話を忘れてしまった。

私が現在の潮流に対して抱いている違和感の根本には、この強い力への依存への無反省を感じてしまうことがあると思うのだが、それは仕方のないことなのだろうか。

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(p.173)(森田真生))

ここで、この文が頭に浮かんだのだが、強い力への依存は自己を強い主体と勘違いさせてしまうし、おそらくその強さが様々な問題の根っこにある。弱さの受容、あるいは、モートン的な距離に対してとどまる姿勢、言い換えると強さに依存せずに弱さにとどまることなしには、持続可能な世界に近づくことはできない、というのが今のところの結論であるが、本書はその弱さにとどまるための技術論とも読める。

ここでの弱い力は、地域性や変動性を持ち、強い力への依存のように思考停止を許してくれる(もしくは思考を奪う)ものではない。
それ故に、これまで歴史的に積み重ねられてきた知恵に意味が生まれるし、自らがその弱い力を見出す力を持つ必要がある。

欠点が客観的に捉えやすいのに対して、環境や相手の良さを知るには何が良さであるかをはかる独自の価値判断が必要で、しばしば自分自身の価値判断が問われます。(p.211)

このことは逆に言うと、自分自身の価値判断、哲学を持つことができれば、新しい良さを発見できる可能性がある、ということである。
そのことに設計者としては面白みを感じるし、そこで生まれた個性は建築に生命的な躍動感を与えるとともに、そこでの生活にリアリティを与えることにもなるだろう、という予感がある。

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。
二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

弱い力を見出すための目を養うことが重要であるのは間違いないが、そのためにも強い技術に頼ることを一旦忘れてみることが、建築と風土との対話を思い出させるために必要な気がしている。

三つ巴の温熱環境論

これらの弱い力は先に書いたように、独力では問題を解決するほどの力になれない。(問題解決という物言いそのものが近代的発想を感じさせるがここでは横に置いておく)
そのために必要なのが断熱(+気密化)と熱容量である。

断熱、熱容量、自然エネルギーのいずれも独力での問題解決能力のない弱さがありますが、それがともに働くとき、力では得られない穏やかな環境が生まれます。(p.149)

著者は断熱や熱容量を弱い自然エネルギーを生かすためのものとして捉えており、それは私にとって新しい視点であった。
技術的な詳細は本書に譲るが、大雑把に言いうと、断熱が熱の出入りを小さくすることで、弱い力の個性を尊重しつつ、役割や出番を与え、さらに熱容量の助けを得ることで、変動を緩和しピークをずらし弱い力を補う。

大きな熱の出入りと強い力に依存している際には無視されていたような弱い力を、主役とするために断熱を施す。そのように考えるとかなりスッキリした。
それでも、これでもかという断熱には強引さ・強さの印象を消しされないのだが、昔の日本の夏の民家がこのような工夫の見本であったことを考えると、その印象は使う素材のイメージによるかも知れないし、「そこまでする必要がないのでは」という考え方は欠点対処型の思考が根強く残っているからかも知れない。
(断熱をどこまで施すか、というのが問題だが、弱い力を生かすためのピークシフト能力・時間を一つの目安にするのが良さそうな気がしている。それは三つ巴の構造全体をみながら考えるべきだろうし、答えは一つではないだろう。)

この辺りは若干気持ちの整理がついていない部分ではあるし、課題の一つでもあると思うが、以前よりはかなり納得感を得られたのは大きな収穫であった。

資本主義的な物語とエコロジー思想

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。 そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

建築の温熱環境をどう考えるかは、つまるところ、資本主義の物語に対してどうふるまうか(オルタナティブの問題)、もしくはエコロジカルであるとはどういうことか、という思想によって決まるように思う。

それについて、著者の視点が表れている部分をいくつか抜き出してみる。

流通経済の発展は、私たちがすでに持っているものよりも持っていないもの、地域の良さよりも欠点に目を向けさせ、支出を減らす自給経済よりも、所得を増やす経済へと私たちを駆り立ててきました。(p.113)

暖房や冷房とは、家の中に閉じこもるためのものではなく、この大きな変化を敵視する感情を取り除き、それに親しむ生活を作り出すためのものです。(p.162)

あまりにも身近にあるためにその存在や素晴らしさに気づかず、忘れられ、利用しているという意識も、感謝の思いも、それを傷つけているという自覚さえ失っているもの、その典型が自然エネルギーです。(p.167)

不思議なことですが、自然エネルギーの最大の難しさはそれが無償の富であることで、それを活用する知恵や情報がほとんど伝わってきません。
命にかかわるほどに大事なものであっても、無償である限り、経済でその価値を表現することはできませんし、多くの自然エネルギーはエネルギーの仲間としてさえも認められていません。
多くの人が関心を寄せるエネルギーとは、思い通りになる人工エネルギーとともに経済力で、経済の活性化につながらない問題の解決手法やエネルギーの活用法を伝える情報や知恵が失われ、伝わらなくなっています。(p.177)

潤沢に存在する自然エネルギーは、資本主義による希少化と商品化の物語には乗りにくいが、著者はそこに損得勘定ではなく、オルタナティブとしての物語を見ている。そこが信用に足ると感じる部分でもある。(この本では光熱費がいくら得になる、といった話は出てこない。)

環境破壊への反省あるいは欠点対応としての省エネルギーを”地球にやさしい生活”と呼ぶ人がいますが、果たして地球への暴力を少し控えめにしましょうという程度の省エネルギーが環境にやさしい生活と呼べるのかどうか疑問です。
それよりも、無償の富としての自然の素晴らしさを知り、それに親しみ、慈しみを持って接する生活にこそ本当の優しさがあるのではないでしょうか。
もし、環境保全の視点を”自然に親しむ生活”に移すなら、それは良さ発見型の発想であり、自然と自然エネルギーの活用と生業としている第1時産業こそがその鍵を握っているといえます。(p.214)

”地球にやさしい生活”とは何か、と問われた時にどう答えることができるだろうか。

例えば、同じ様に断熱を強化するとしても、独力での強いエネルギー利用を前提とした省エネの思考と、自然の無償エネルギーを活用し自然に親しむための基盤を得ようとする思考とでは、ベクトルが全く異なるように思う。前者は未だ近代的分断の思考にとどまるが、後者の思考であれば、断熱化を近代的分断の思想から逃れるためのエコロジーの基盤とできそうに思える。

(同じ視点で、私はオフグリッドまでいかない太陽光発電をどう捉えてよいか迷っているとことがあったが、それは省エネの文脈で考えるべきことのような気がした。効果や必要性は認められるし重要な技術には違いないけれども、それはエコロジーの視点からは2次的なものであろう。)

成長するとは自分の回りを変えることではなく、自分自身を変えることです。
創造の課題もまた新しいものをつくることよりも新しい自分を発見することです。
自然エネルギーの特徴は、思い通りになる強さよりも助けを必要とする弱さにあり、地域によって異なる多様性こそが魅力であり、奪い合うことのない無償の富として、私たち一人一人に与えられていることです。
自然と自然エネルギーの素晴らしさをしることは欠点の克服以上に、新しい自分自身を発見する成長への鍵であり、省エネルギーや温暖化防止に勝る、持続可能な成長への課題です。(p.216)

自分を変え、新しい自分を発見することが良さを発見するための基盤となる。生きていく上でも、設計する上でも変わり続けるということは永遠の課題である。

また、本書の終盤では一次産業のあり方にまで言及されるが、それも著者の思想の延長上にある。
建築の温熱環境といってもそれだけに閉じている問題ではない。先に書いたように資本主義やエコロジーをどう捉えるか、生き方全般に関わる問題であるが、それだけに根が深く、個人的にも残された課題が多い問題である。
(ここで、例えば甑島のケンタさんが離島を飛び回ってされていることと、生きていくこと・生活すること、建築を作ることが繋がった。それらが別のものとしか捉えられないところに近代的分断の問題がある。)

次世代へと引き継ぐべき技術

ここでまたもやテンダーさんの言葉である。
先日話しをしていた時に、「資源が不足することが確定している未来にどういう技術を残すのか」というような話をされてハッとした。

今回の強い力、弱い力の問題は、どういう技術を残すべきか、という問題でもある。

特に日本では、伝統をその意味や目的を明確にして継承するのではなく、むしろそれが濃縮され、洗練された形、あるいは様式、構法、慣習として受け継がれる傾向が強いために、それを引き継いできた棟梁や達人がいなくなり、材料や構法が変わると、その形や様式とともにその背後にある精神や意味をも見失ってしまう可能性があります。(p.133)

身の回りが装置化され、ブラックボックス化し、自動制御されると、この生活の知恵が怪しくなってきますが、無償の富である自然と自然エネルギーの素晴らしさを知り、その活用に参加する中で、生活の知恵を積み重ね、研ぎ澄まし、新しい伝統技術として引き渡していくことが大切です。(p.212)

日本では、強いエネルギーによる独力での解決方法と北欧型の断熱技術が進んだ結果、昔ながらの知恵は大部分が建築からのみならず生活全般において失われつつある。それは、引き継ぐ必要のない技術であっただろうか。そこでは技術だけはなくそれに伴う人のふるまいや思想も同時に失われる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。 しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

上記のことはここでも当てはまるように思う。技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。
現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。

これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。
そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。

技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。

そこで重要なのははたらきと循環の思想である。

注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。 その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。 それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

個別のエネルギーのふるまいはエクセルギーという言葉を使わずとも捉えることができるかもしれないが、エクセルギーという概念が与えてくれるのはこのはたらきと循環の流れのイメージである、というのが私の今の理解である。

地球は外断熱された星であり、その中には太陽エネルギーをもとにした様々なはたらきと循環が生まれている。そのイメージを建築に重ねることができれば、さまざまなものが見えてくるのではないか。

うまくいけば思うような建築ができるかもしれない。と期待しよう。

まとめ

断熱をどの程度強化するべきか、に対して思想的根拠を持てていないためモヤモヤしていたのだが、それに対してある程度の考えを持つことができたし、これまで考えてきたことととの接点を掴むこともできた。

昔ながらの日本の民家は、夏に関しては様々な工夫がなされ洗練されたものであったが、冬に関しては寒さの中で暖をとる採暖を余儀なくされてきたため課題が残っていた。
また、北欧や北海道から広がってきた寒地型の断熱手法は、エネルギー利用によるコントロールを前提として夏の工夫を忘れ去るものが多かった。

この、夏と冬の間の矛盾をどう解消するかが大きな課題であることは変わらないけれども、それに対する考え方のベースを得られたことは大きい。

だからといって、一つの確たる正解が得られた訳では無いし、正解があるわけでもないだろう。

都市部と地方では環境は大きく変わるし、活用できる自然も異なる。案件により、立地による環境も、法的縛りも、予算も、住む人の生活スタイルも全てが異なる中で、その都度楽しみながら考えられればと思うが、その時に頼りになり安心感を与えてくれるのは、一つの答えではなく、自分の中の基準である。

2年前から環境をテーマにもやもやしながら考えてきたけれども、ようやく次の一歩が踏み出せそうな気がする。


最後に、終章から、「自然エネルギーの良さを発見する器としての建築」について書かれた部分の小見出しを列記しておきたい。

  • 自然に親しむための器
  • むらのない環境をつくる器
  • 自然エネルギーの個性を尊重するための器
  • 変動から生まれる自然エネルギーを生かす器
  • 自然エネルギーを環境調整の主役にする器
  • 昼の光を活かす器としての建築
  • 夜の光の演出
  • 湿度調整の器としての建築
  • 新鮮な外気を生かす器
  • 無償の富を生かす器としての建築
  • 自然エネルギーを後世に引き継ぐ器としての建築



風を考える上での2つの言葉 B278『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三)

南 雄三 (著)
建築技術 (2014/1/16)

通風に関する本を探していて本屋で見つけたもの。

その前に『図解 風の力で住まいを快適にする仕組み』
野中 俊宏 (著), 森上 伸也 (著), 四阿 克彦 (著), 並木 秀浩 (著)
エクスナレッジ (2021/9/4)

も購入していて、具体的な事例が多数紹介されていたのだけれども、『通風トレーニング~』の方が理論的な背景を掴むのに面白かったため、こちらをブログのタイトルに選んだ。

気まぐれな風

両書を読んでまず感じたのは、風はなかなか手ごわいということ。
日射や気温はある程度状態を想定して考えることができるけれども、風は何しろ気まぐれで思うようにはいかなさそうだし、確立された設計手法というものもあまりなく、発展途上という印象を受けた。
とはいえ、理論的な蓄積や、これまでの歴史の中で積み重ねられてきた工夫というものは確かにある。

その中で、本書は理論的背景を解説しつつ、FlowDesignerによって様々なケースをシミュレーションしながら進められる。
QandA方式で風の振る舞い想像しながらシミュレーション結果と答え合わせすることで徐々に感覚を掴んでいくというトレーニングとしての構成は面白く、気まぐれな風に対して有効なアプローチだと感じた。

著者は、未確立の風の扱いに対して、まずは夜間の通風による「外気冷房」によって就寝可能な環境を作る、というのを(ある意味妥協点として)設定しているのも潔くてよい。
(私は何を隠そう、夏の夜は家族の中で一人だけダイニングに布団を移動して未空調の空間で窓を開けて寝たり、夏休みに数家族でバンガローに泊まりに行ってもエアコンを回避して外にテントを張って一人寝る、というくらいに(特に夜間の)冷房環境が苦手なものだからなおさら共感した。)

話は変わって、今年の夏、最近このブログでもおなじみになりつつあるテンダーさんと「屋根散水と輻射熱研究会」と称していろいろと実験したりしてたんだけど、その結果報告として、テンダーさん作のヤギ用ドームを拝見した時に、テンダーさんがふと口にした言葉が心に残った。

一つは、「皮膚で感じる環境は<答え>であって<式>ではないし、<快適な温度>というのは測れない」というもので、もう一つは「壁が熱を作る」というもの。
これは、この夏の集大成とも言える言葉でなかなかの名言だと思う。

<快適な温度>は測れない

前回の『建築環境工学』を読みながら、もろもろの実験や考察をまとめると下の図の内容にたどり着く。

人が感じる快適性は、人体を通しての熱収支による。
ざっくりいうと、人体の体温を一定に保ち、体内に蓄熱しないとすると、M(代謝量)=E(蒸散・潜熱)±R(放射・顕熱)±C(対流放散・顕熱)が成り立たなくてはならない。このうち人体が調整可能なのはMの代謝量とEの蒸散(発汗)である。

未調整の状態を考えると、M(代謝量)は活動状態で決まり、E(蒸散・潜熱)とC(対流放散・顕熱)は周囲の気温と人体の表面温度の差及び風速で決まり、R(放射・顕熱)は周壁温度と人体の表面温度の差で決まる。

人体の表面温度を33℃に保つとした場合、基本的な代謝量と環境による熱の出入りがバランスしていて無理がないのが快適な環境である。逆に熱収支が合わない時は震えによって代謝による熱量を上げたり、発汗による蒸散で熱を逃がす必要がある。そこで身体にかかる負荷が大きいと寒く感じたり暑く感じるということだろう。

これは、いわゆる温熱環境の6要素(着衣量、活動量、気温、湿度、放射(周壁温)、気流)に置き換えられる。

馴染みの深い気温と湿度だけではなく、様々な要素が複雑に絡み合った熱収支の<結果>を人は感じているのだ。つまり<快適な温度>というのは一つの幻想であり簡単には測れない。(ちなみに複雑な要素による快適性を馴染みの気温に便宜的に置き換えるのがSET*(新標準有効温度 Standard new Effective Temperature)である)

熱環境の考察において気温だけをみていると、様々な可能性を見落とすことになるし、外皮性能一辺倒の思考停止に陥りがちな風潮を助長する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。

そんな中、快適性における風の役割についてはもう少し意識的であっても良いとおもう。(反省をこめて)

壁が熱を作る

もう一つの「壁が熱を作る」。
これはすごい。

例えば日射を考えてみると、太陽からの放射を壁や屋根が受け止めることで、電磁波が初めて物体の持つ振動・熱に変換される。そして、その熱が伝導・対流や再放射によって室内環境に影響を与える。(それは正または負の資源性を持つ)

確かに、日射そのものが熱エネルギーを持つには違いないけれども、緑の中の涼し気な環境を思い起こすと、あまりにも無防備に受け止めたり閉じ込めたりして「壁が熱を作る」ことを当たり前なことと考えすぎているのではないだろうか。その無意識を一突きにする言葉である。

ここでは詳しく説明しないけれども、先のヤギ小屋は体感としてとても涼しく感じた。そこでは日射を真面目に受け取らず、周囲の放射熱をいなす工夫がなされていた。

今回の2冊では通風はあくまで人体との関係の中でしか考察されていなかったけれども、この日射を含めた周囲の放射熱をいなす、ということに対して風の役割は大きい。

つまり、風を人体と建物、双方との関係性の中で考えることが重要であろう。

今回の主題である風を考える上で「<快適な温度>は測れない」「壁が熱を作る」はなかなか示唆に富む名言なのである。

あっ、ちなみにテンダーさんの1Vドーム製作キットは下記で購入可能です♪
1Vドーム製作キット(45mm幅角材用) | ダイラボ通販

うーん、Vectorworksにbutterfly(Rhino+grasshopperでCFDシミュレーションを可能とするプラグイン)を移殖する計画、躓いたまま止まっているんだけどなんとかしたいなー・・・




工学的な知識を何に対してどう使うのか B277『最新建築環境工学 改訂4版』(田中 俊六他)

田中 俊六 (著), 岩田 利枝 (著), 土屋 喬雄 (著), 秋元 孝之 (著), 寺尾 道仁 (著), 武田 仁 (著)
井上書院; 改訂4版 (2014/2/18)

教科書としての名著

環境工学の教科書である。

最近、基本的なことを学び直す必要性を感じて本屋で探したところ、教科書系には珍しく似たような本が7,8種類は置いてあった。

30分以上迷いに迷った挙げ句、一番教科書っぽくて基本的な数式の載っているものにした。以前なら図解の多いわかりやすいものを選んでいたかもしれない。

(後日、もしやと思い以前見たことのある動画を確認したところ、名著として紹介されているものだった。学生の頃に手に取っていた可能性があるけれども、環境工学に関しては教科書も授業内容もまったく記憶にない・・・)

雰囲気で仕様を決めるのが嫌で、シミュレーションをして定量的な判断ができるようにと環境を構築してみたものの、根本的なところの理解がないと、結局雰囲気で決めることに変わりはないな、と最近の実験等で痛感した。
そういうこともあって本書を購入してざっと一通り読んでみたのだけど、教科書だけあって、知りたかった情報にかなり出会うことができたし、理解も進んだ。

もちろん、一読するだけで内容を自在に使いこなせるようにはならないので、今後必要に応じて実践的な視点から再読する必要がある。
また、現時点ではいろいろな情報が入りすぎて少々混乱してしまっているところもある。

工学的な知識を何に対してどう使うのか

混乱しているのは知識だけではない。
工学的な知識を何に対してどう使うのか、というのも知れば知るほど混乱しつつあるため今は保留にしている。

工学的な知識から、一つのあるべき最適解が導きだせるかというと、そんなことはない。
環境工学的な視点のみから何を満たすべきかという基準がはっきりしていれば、あるいは最適な解というものが存在しうるのかもしれないが、建築は、例えば環境工学的な正しさのみのために存在するのではないし、複雑に絡み合ったそれ以外の大量の要素を無視してはそもそも実現不可能である。

建築が何のために存在するのか、もしくは建築とは何なのか。それによって正しさはいかようにも揺らぐ。
だからといって、今さら<建築>のためにエネルギーを垂れ流すのはいた仕方ない、と言い訳を探したい訳でもない。
それでいて、環境工学的な正しさのために<建築>なんて不要だ、という気もない。
環境工学的な正しさは<建築>の一要素に過ぎない。

今、自分に必要なのは、工学的な知識を何に対してどう使うのか、という自分なりの基準である。

「何に対して」は、これまで大切にしてきたことがある。
それと、「どう使うのか」をつなぐための哲学と言葉、そして知識と技術を探し出す必要がある。

後少しの間は我慢してインプットを進めるつもりだけど、年内には何とかつなぐためのシンプルな言葉だけでも探し出したいと思っている。




手を添えるテクノロジー B276『民家の自然エネルギー技術』(木村 建一 他)

木村 建一, 荒谷 登,石原 修,浦野 良美,伊藤 直明,小玉 祐一郎,渡辺 俊行,吉野 博,宿谷 昌則,田辺 新一,岩下 剛,谷本 潤 (著)
彰国社 (1999/3/1)

昔からの民家を工学的に捉えたものは論文などではいろいろと見つかるけれども、まとまった書籍として出てないだろうかと探して見つけたもの。(本書でも宿谷氏が一部執筆されている。)

本書は当時の文部省による科学研究費補助総合研究『伝統的民家における自然エネルギー利用技術の現代的適用に関する研究(1994-1996)』の成果を抜粋・再構成したもので、その内容は多岐にわたる。

通風形式による民家の分類

その中で代表的な民家の特徴を3つに分類すると、周辺環境を調整した上で水平方向に開放する「通風型」(農家)、地盤の冷却力と冷えた空気が下に滞留する性質を利用して上方へ開放する「熱対流型」(町家)、それに加えて、開口部を絞り込み遮熱性と熱容量を高めた「閉鎖型」(蔵)に分けられるように思う。(「閉鎖型」は筆者による)

現代の断熱性能に特化する傾向の強い住宅は「閉鎖型」が近いだろうか。
これらのうち、「通風型」と「熱対流型」について書いておきたい。

「通風型」の民家

通風型の民家は、一番イメージしやすいであろう茅葺屋根の農家である。

まず、高い断熱性能と保水性を持つ茅葺屋根、深い庇によって、夏の日射を遮る。
開口部は比較的大きく開放的で風通しが良いが、深い庇と軒の低さ、格子や簾の遮蔽材、奥行きの深さと高い天井高などによって中は総じて暗い。
また、土壁や土間が蓄熱体として存在している。
その民家を周囲の水や緑を通過した涼しい風が通り抜け、風向きは安定している。

つまり、日射遮蔽の徹底通風利用夜間蓄冷熱利用自然冷熱源の利用によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「通風型」の民家といえる。

ここで、茅葺屋根の熱伝導率は『茅葺き屋根の居住性を評価するための屋根の熱移動係数』によると0.041W/mKである。
もし、茅葺屋根の暑さが60cmとすると熱抵抗値は0.6/0.041≒14.6㎡K/Wとなり、現代においても超がつく高断熱といえる。
茅葺屋根が昼の日射を十分に遮ることで昼間の室内気温と表面温度の変化を和らげるとともに、保水性の高さによって、雨天後の蒸散による冷却をも可能とし、夏の涼しさを生む。
(これだけ熱抵抗値があると蒸散による室内への冷却効果はほとんど現れなさそうに思うが、実測研究では雨天後の気温上昇を抑えられたようだ。同研究による屋根内の結露センサー抵抗値の実測では降雨により深さ20cmの地点の抵抗値が上がっているので、茅葺屋根の持つ保水性・浸透性が関係しているのかもしれない。)

一方、土壁の熱伝導率は0.7W/mK程度だそうなので、厚さ30cmだとすると熱抵抗値0.3/0.7≒0.43㎡K/Wとなり、こちらはあまり高くない。(グラスウール16K 10cmで2.2㎡K/Wほどなのでその1/5程度)
しかし、比熱は1100kJ/m3Kと高く、厚さ30cmの土壁の面積あたりの熱容量は330kJ/㎡Kとなり、厚さ15cmのコンクリートと同等である。
このことが、深い庇が壁への日射を遮ることと合わさり、夜間に放射冷却された土間と土壁による昼の涼しさを生むことにつながる。

「熱対流型」の民家

熱対流型の民家は複数の中庭を持つ都市型の町家である。
通風型民家と比較した場合に一番の環境の違いは、通風型民家では自然冷熱源であった周辺環境が、ここでは高温輻射熱の発生源であることだろう。

通りに対しては比較的閉鎖的で日射及び高温輻射熱を遮蔽し、隣戸との戸境壁の断熱性能も高める。
2階に使用頻度の低い部屋をまとめて、1階の生活空間への緩衝地帯とする。
その上で、中庭、坪庭などの屋外や、通り庭・吹き抜けなどの垂直に抜ける空間を確保し、それと連動するように居住空間を配置する。

中庭には直接日射が当たらないため、1階は比較的涼しく、夜間の冷熱を保持するプールともなり、生活排熱は上昇気流によって上空から排出される。

また、庭の一部に屋根を設けたところ風が吹かなくなった、という報告があるように、複数の庭があることが重要なようだ。
上空の気流や、庭の状況、散水などによって、複数の庭の間に圧力差が生まれ、その間の居住空間に風向は安定しないが微風が生じる。
これが、土間や床下の冷気を運びさわやかな冷感を生む。
(屋根形状によって効果を上げることは考えられそう)

この様に、外部遮蔽内部開放型の空間構成複数の井戸型上方開放空間地盤側の巨大な熱容量それらによる冷熱プールと微風の発生によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「熱対流型」の民家といえる。

まとめ

これらは、環境に適応するかたちで長い時間をかけて培われてきた知恵だと思うが、開放型と熱対流型の2つのケースを横に並べられたのが本書を読んでの一番の収穫かもしれない。

それを現代においてどう活かせるか。

ここであげた、民家の工夫は吉田兼好の「家のつくりようは夏をもって旨とすべし」の通り、夏に対して効果を発揮するものが多い。
夏と冬とでは求める機能が違い、相反する要素も多い中、その矛盾をどう解消するのか、というのが第一の課題だろう。

また、当時と比べて周辺環境や温度環境も厳しくなっているだろうし、人々の要求水準も高くなっている。
そんな中、断熱強化とエネルギー投入による力技にテクノロジーを使うだけでは、人々の根本的な意識や姿勢は変わり難いように思うし、ベクトルとして何か楽しさや生命感を感じる方向にも向き難い気がする。
そうではなく、自然の原理を利用する昔の知恵をもっと発展させたり、加速させるために、テクノロジーが手を添える。そんなことが考えられるといいなと思う。(そのヒントは通風と蓄熱にありそう)

何より、こういうことを考えやってみるのは楽しいことだ、というのが最近の実感だ。

単純に性能値を上げるのが考えることも少なく簡単だし、気密断熱の効果の大きさも実感している。そこをどうずらし整合させるか、というのが一番の課題かもしれない。

そのためには思想と理論と実感、どれも必要な気がするし、どこかでこれでいいじゃん、というポイントが見えてくる気がする。
今のところはそのポイントがクリアに見えているわけではなく、見えてくる確証があるわけでもないんだけど、経験と実感による勘では必ずあるはず。
(だって、中途半端とはいえ、それなりに断熱性能を上げた馬屋2階の事務所より、無断熱の平屋母屋の方が過ごしやすいんだもん。冬は母屋は寒すぎるけど。)

何か、今まで培われてきたちょっとした常識がブラインドになっている気がするな。




道理と装置 B275『エクセルギーハウスをつくろう: エネルギーを使わない暮らし方』(黒岩 哲彦)

黒岩 哲彦 (著)
コモンズ (2014/5/3)

前回読んだ本と関連して購入。『エクセルギーと環境の理論』でも著者の実践例が紹介されていた。

著者は、1198年に『エクセルギーと環境の理論』の著者の宿谷氏の研究室を訪ね、その後宿谷氏や当時大学院生だった高橋氏と協力しながら本書で紹介されている建築の構成を開発するようになったようだ。
(宿谷氏と高橋氏を含むメンバーは、2000年頃に『スレート葺き屋根の二重化と散水が日射遮蔽効果に与える影響に関するエクセルギー解析』という論文を発表している。)

エクセルギーハウスの二重屋根採冷システム

主要なシステムの概要としては、タンクに貯めた雨水の持つエクセルギーを太陽熱温水器なども活用しながら夏冬ともに活用するとともに、夏は二重屋根の間での散水による蒸発冷却によって天井の温度を下げるというもの。(その他にもいろいろ工夫があり、各地で実践もされていて面白いのだけど、ここでは二重屋根についてのみ触れたいと思う。)

二重屋根に関しては、二重屋根彩冷システムと言うよりは、小屋裏彩冷システムと言った方がしっくりくる。

まず、ある程度の断熱性能を備えた屋根により日射を遮蔽する。
その上で、天井の小屋裏側に貼ったガラスクロスの保水層に散水することで、持続的に蒸発冷却が行われるようにする。
また、天井材を熱抵抗・熱容積の小さいガルバリウム鋼板とすることで蒸発による影響をストレートに伝え温度変化を大きくする。
この小屋裏空間には風量調整の可能な窓(蓋)が設けられており、夏季に十分に換気が可能となっている。

実測研究の結果を見ると、室内温度は最高35℃程度まで上がったようだが、天井温度は24.5~28℃の間で推移し、室温より最大で8℃近く下がったという。(『雨水の蒸発を利用した二重屋根採冷システムの室内熱環境に関する実測と解析(2003 黒岩哲彦 高橋達)』)

人は室内気温より周囲の物体の温度が低い方が快適性を感じやすいそうだ。室内気温は一般的な常識で考えるとそれなりに高温だが、上の論文では入居者は概ね涼しさ・快適さを感じているようだった。

道理と装置

実際に屋根散水をやってみて(そして失敗に終わって)痛感したことだが、何かを工夫をするとしても、その理屈にそぐわないことをしても当然結果は出ない。
そういう意味では、研究者と協力しながら開発したこのシステムはやはり理に適っている。(どう理にかなっているかだいぶ分かるようになったのは、失敗してその原因を考えられたおかげだ)

しかし、理に適い過ぎているような気もする。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。 そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。 しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

これは、全く個人的な感覚だし、図や写真のみを見て「気がする」という程度のごく僅かな引っ掛かりに過ぎないのだが、その引っかかりの原因はなんだろうか。

一つは、大きな天井面が一つの機能と一対一で対応しているという、機能の現れ方とスケール感によるものだろうか。何か天井が人に対して背を向けているような感じをほんの少し感じ取ってしまう。

また、もう一つは、ガルバリウム鋼板という素材の持つ工業性と平坦さ、厚みのなさによるものだろうか。例えば、上からキメ・質感のある材料を塗ることで緩和することは可能だろうか。

あるいは、自動化されたシステムが目に見えないところに隠れていることによるものだろうか。何らかの方法でシステムを見えるようにしたり、関わる余地を取り入れることで引っかかりが楽しさに変わることはあるだろうか。

ぼんやりしているけれども、これらが何か装置ということばを頭に浮かび上がらせ、家との間に距離を感じさせるのかもしれない。

システムとしてよく考えられていて、とても参考になるし、批判するような意図は全く無いのだが、ごくごく個人的に何か重要なことがこの引っ掛かりに隠れている気がする。




電子工作で屋上散水を自動制御した結末の話

断熱はそれなりの施したので夏を乗り切れると思ってたけれども、今年の夏はなかなか厳しい。

少し前にテンダーさんのラボにお邪魔した時に、屋上散水を試してみようかと思っている、という話を聞いていた。
あわせて、手頃な価格でarduinoというマイコンがあって、プログラムが扱えるならいろいろ制御できるかも、という情報も頂いていた。

これは屋上散水、いっちょやってみるか。

と、いろいろと勉強しながらも行き当たりばったりでやってみたので、その結末を含めて書き残してみる。

つくってみたシステム概要

つくってみたシステムは下図の感じ。(画像はクリックで拡大)

簡単にいうと、井水を電磁弁で制御し、屋根及び東面の大窓の前に垂らした簾に散水する。

電子回路を組んで作成した制御システムでは、屋内の室温と天井温度、屋外の照度と気圧、温度をセンサリングする。
それをarduinoにデータを取り込み、その数値に応じて散水間隔を変化させてリレースイッチで電磁弁のオン・オフを切り替えた。

合わせて、取得したデータはSDカードに記録して、PCで管理、CADソフトでデータ処理して可視化する。
可視化したデータを分析して、プログラムを修正するというサイクルを回して、最適化を目論んだ。

簾への散水ははじめは計画していなかったんだけど、もともとあった井戸ポンプの性能上、屋根上までの水圧がかかっているとポンプが稼働しないことが判明したためとりいれた。(中間の加圧ポンプを導入する前)
これが、簾への散水と、電磁弁が閉の時に水圧を下げるための水抜き機能を兼ねる。(散水はどちらもホースにカッターで適宜穴あけ)

それで、ある程度は稼働したけれども、最初設置していた屋根上スプリンクラーの圧が足りず、途中で加圧ポンプを追加した。
それでもまんべんなく散水が出来なかったので、屋根上のスプリンクラーを穴あきホースに切り替えた。

外から見たらこんな感じ。

簾への散水。効果の程は分からないけど見ているだけで涼しげ。

そして、屋根散水。穴開きホースの穴を調整してある程度はカバーできるようになった。

回路を組む

なにしろ初めての事だらけで、配管も電子回路の組み立て、プログラムも失敗しながら試行錯誤を繰り返した。回路のハンダ付けなんて小学生以来。

最終的に制御システムの回路図は下記の感じ。


気圧温度センサーがなぜ2つあるかというと、センサーにペットボトルをカットしたものを被せて雨がかかりにくいようにして、外からはしごで設置したんだけど、カバーのせいか外気温が過大な数字になる傾向があったため。
もう一度はしごで取り外して修正するのは怖くて嫌だったので、温度センサーとしての目的で同じものを室内に穴から外に棒で突き出して追加することにした。(品番HW-611をarduinoのフォーラムで検索して、SDOに電源をつなぐとI2Cのアドレスを0x77から0x76に変えられることが分かった。これで0x77と0x76の2つを制御できます。)

arduinoのコードは投稿の最後に付けておきます。

結果は・・・

届いた順にセンサーを追加しながらログはうまく取れるようにできた。

天候やエアコンのオンオフが反映されてます。(無料のBルートサービス申し込んだので、電気使用量も今から反映させる予定)
可視化はVectorworksのマリオネットでCSVを取り込んだものを図形として書き出しています。以前やったLadybug toolの移植で格闘した経験をフル発揮。

サーモカメラで瓦屋根の表面温度をしらべてみる。

表面温度は30度近く下がっている。
これは、かなり期待できそうだ。

晴れた日に散水せずにとったデータと重ね合わせてみると、
▼8/26 散水あり。青が外気温、緑が室内気温、赤が天井の表面温度。薄いのは事前にとった散水なしのデータ。

うん、夜は冷気をとりいれるため窓を開けるように切り替えたので比較のグラフより温度下がっているけれども、昼間は完全一致。

完全一致!?
うーん、散水量が足りないかな。

▼8/28 散水あり。スプリンクラーから穴開きホースに切り替えまんべんなく散水。加圧ポンプも追加。こんどこそ、

うん、完全一致!

▼8/29 散水あり。いやいやいや、気を取り直して

ほら、完全一致・・・
あきらめて冷房入れたよ。まったく。

うーん、うまくいけば自宅や今後の計画に活かそうと思ってたんだけど、ほとんど違いが見えない。
東側の窓は少し涼しく感じるようになったけど、これでは屋根散水の意味ないんでね。

なんでかなーー。
センサリングの問題か、ほんとに効果がないか、わかんないな―

検証

テンダーさんのラボも屋根散水してみたところ、屋根の表面温度は下がるけどほとんど効果が実感できないとのこと。
条件はかなり異なるけれども、これは何かあるはずだ。

なんとか納得できるものを得ようと、建築学会で屋根散水やエクセルギーに関する論文を検索して、概要を片っ端から読んでみる。

そのうちに、こんな論文を発見。

論文の内容を簡単に書くと、「無断熱の屋根散水の効果を実証する論文は結構あるけど、断熱されたものは検証されてないので実測してみたらほとんど効果なかったよ」というもの。

先の論文は、その原因を工学的に分析するところまで行ってなくて、ほんとそうなの?ともやっとする。

うーん、結論としてはスッキリしない。

いろいろ考えた挙げ句、前回のエクセルギー本に日射によるエネルギー・エクセルギーの収支を計算する例が載っていたので、それを参考に、気化熱を反映した計算にトライしてみた。

各種条件から気化熱による値を計算するのはかなり難しそうだったので、気化熱で奪われる熱量を変数として指定する方針で検討。ある程度独立した数字として扱えそうだったのでやってみた。

ついでに、いろいろなパラメーターから日射が室内にどう影響するかをこちらもマリオネットでグラフ化。
そうやって出来たのがこれ。(クリックでPDFが開きます。なかなかの資料だと思う。間違ってるかもだけど。)
→日射エクセルギー
これからかなりのことが読み取れるけれども、断熱性能(熱抵抗値)と蒸散で奪われる熱量との関係を図化した部分がこれ。

気化熱の扱いはもしかしたら間違ってるかもしれないけれども、あってるとすれば、
蒸散によって奪われる熱量と内部に向かうエネルギー、屋根の表面温度の増減は比例するっぽい。
屋根の表面温度は断熱性能とそれほど大きくは相関しない(熱抵抗値が上がると内に向かう熱量が減る分、むしろ表面温度は上がる)。
しかし、内に向かう熱エネルギーとエクセルギーは断熱性能が上がるほど目に見えて減少し、熱抵抗値4.0だと絶対値として気化熱の影響はほとんどうけなくなった。

断熱性能が上がると、内へ向かう熱量ももちろん減るが、伝熱のスピードもかなり減速し、昼夜のリズムの中では他の要因によってほとんどかき消されるものと思われる。

うちの事務所の屋根は熱抵抗値4.3以上あるはずなので、それは効果が実感できないはずだ。暑くなるのは他の要因が大きいのだろう。

ちなみに、テンダーさんのラボは屋根の断熱性能はほとんどなさそうだけど、天井があり、ほとんど換気されない小屋裏空間がかなりの容積で存在する。
その小屋裏空間の熱容量はかなりのもので、そこが熱溜まりとなって屋根散水の効果の多くをかき消していると想像される。

結論(仮)

結論としては、高い断熱性能の屋根では屋根散水はほとんど効果がないため、他の部分で対策を考えたほうが良い。
また、小屋裏空間を設けて、夏はそこを十分に換気するというのも大きな意味がありそう。
断熱性能が低く屋根裏が剥き出しのような建物の場合は、屋根散水の効果がある程度は見込めそうだし、費用対効果は高いと思う。(水道代は未検証。雨水とポンプで考えれば割りと安くできるはず)

ここで学んだのは、例えば蒸散によって冷エクセルギーを得ようとした場合、どこでそれを得るかの考えが重要、ということだ。

私はエアコンが苦手なので、エアコン無しで夏の大部分を乗り切ろうとした場合、どこでどうやって冷エクセルギーを得るか、夜間に蓄冷をどうするか、ということが重要かもしれない。その際、植物の振る舞いはとても参考になりそうな気がしている。

窓の向きや大きさは大きな要素だけど、断熱性能だけに頼って、窓をとにかく小さくするようなのも、何か楽しくない。

夏冬の相反する条件をうまく対処して、それが楽しさへとつながるような家ができないものだろうか。

こんなに効果ありました―!というブログを書くつもりが、こんな結果になりました。
おかげで、かなり突っ込んで考えられて感覚も掴めてきたので結果オーライということで。

arduinoコード

ボタンスイッチとシリアルモニタからある程度制御できるようにしてます。内容はコード内のコメント見てください。
(メモリの96%を使用。このタイプのarduinoではあまり複雑なプログラムはできなさそう。)
→onoken1.txt
いろいろ購入したもののリストは気が向いたら作成します。(失敗もあり)
主だった購入リストをamazonの欲しい物リストにまとめました。

Amazon 欲しい物リスト

・arduinoは互換品だったけど、今のところ問題なさそう。
・気圧温度センサーは、湿度測れるって書いてたのでこれにしたけど、測れないっぽい。3.3Vではなく5Vのものにしたほうが良かった。湿度測るなら、BMP280ではなくすこ少し高いけどBME280にするべきかと。
・原因は分からないけど、このSDカードリーダーはaruduinoの電源をアダプタから取ったときにうまく作動しなかった。次買うとすれば、もっと定評のあるものにするか、原因を突き止めるか。(追記)アダプタを9V2Aのものから12V1.25Aのものに変えるとちゃんと作動しました。
・接触式のリレーはカチカチなるので、気になる場合は非接触式がいいかも。耐久性も高いそう。
・ポンプなんかはもっと適したものがありそう。井水使わないなら、雨水溜めて、もう少し性能の高いものにしたかな。

あと、買ったものはほとんどが、説明書等が全く無くてものだけだったので、説明書なりメモがついてるものか、ネット上に情報が載ってるものを使ったほうが良いと思った。例えば、LCDやSDカードリーダーも接続等迷って動かすのにそれなりに試行錯誤が必要だった。I2CとSPI通信はだいたい分かったかな。




はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則)

宿谷 昌則 (著)
井上書院; 改訂版 (2010/9/25)

別のエコハウス関連の書籍で本書に掲載されている表が載っていたので気になって購入。

エクセルギーとは

エクセルギーは聞き慣れない言葉である。

例えば、「エネルギー消費」「省エネ」「創エネ」などと言ったりするが、厳密にはエネルギーは増えたり減ったり、創ったり、消費したりしない。ありかたを変えるのみである。これは熱力学第一法則「エネルギー保存の法則」であり、この世界の大原則だ。
では、先程の言い回しがどうなるかと言うと、実は消費されたり、生成されるのはエネルギーではなく、エクセルギーである。

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。
例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。
これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。

エクセルギーは資源性をあらわし、エントロピーは廃棄されるべきゴミである。

また、20℃の物体は、30℃の空気中では空気を冷やす能力を持つ(冷エクセルギー)が、同じ物体が、0℃の空気中では空気を温める能力を持つ。(温エクセルギー)、というようにエクセルギーは環境によってその能力が変わる。

エネルギーの全体量は変わらずとも、そこに偏りがあれば、資源性を持つ。それがエクセルギーである。

エクセルギーは今までのイメージを塗り替える

そのエクセルギーには実際どんな意味があるか。

まず、エクセルギー・エントロピーの概念を導入すれば、例えば何℃のお湯が冷めるまでどれくらいの時間をかけてどういう経過を経るか、というような、さまざまな現象を数値として扱い計算によって導き、その資源性を数字として把握したり比較することが可能となる。また、様々な形態をとる資源としてのエネルギーがどう循環しているか、というのを並列に捉えることが容易くなる。

例えば、「体感温度≒(室温+周壁の表面温度)÷2」みたいなことが言われたりするけれども、もっと厳密に、室温と周壁の表面温度その他の条件によって、人体が消費するエクセルギー、言い換えると人体に対する負荷/心地よさがどう変化するか、といったことを根拠をもって理解することができる。
▲p.79 この図を他の本で見かけて本書を購入した。
それは、熱力学の成果であるが、ある現象に対する今までのイメージをひっくり返したり、新たなイメージを得る、というような経験を与えてくれる。
これは今、環境について考えようとした場合に必須の経験かもしれない。

▲p.25
例えばこの図。20℃ 20Lの水を40度に温めたものと、20℃ 5Lの水を100度に温めたものでは資源性が異なる、と言われてピンと来るだろうか。
私は、同じエネルギー量なのに、そんなわけはない、と思ったが、実際にエクセルギーを計算するとこうなるし、平衡状態へ至るのに要する時間が大きく異なる。

エネルギーの持つ資源性を考えるには、そこにエクセルギーという概念のイメージを新たに付け加える必要がある。

地球という閉鎖環境と流れ・循環

本書の内容はヘビーな大学の講義2コマ分はゆうにありそうなので、すべてを説明はできないが、本書では、日照から、光、温度、人体、植物、有機物、熱機関といった多岐にわたる物事の流れと循環がエクセルギーという概念で説明されている。

そこには著者の通底する思想がある。

地球は、太陽から受け取った日射エクセルギーによって、上記のようなざまざまなシステムの流れと循環が生み出され、そこで生成されたエントロピーを宇宙へと排出することによって平衡を保っている、という「エクセルギー・エントロピー過程」を含んだ閉鎖系である。

▲p.50

その閉鎖環境の中で、これまで営まれてきた流れ・循環を、強引な操作によって乱れさせているのが環境問題であるとするなば、その流れ・循環を整え直すための理論を提示することが著者の思いかもしれない。

例えば、照明計画に関しては、

昼光照明とは、日射エクセルギーが消費され尽くすまでの道筋(過程)を照明という目的に合うように「流れ」を変えることだといえよう。昼光照明は「流れのデザイン」の一つなのである。(p.74)

と〆られている。
注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。
その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。
それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。

はたらきのデザイン

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。

「流れ」と「循環」は、ものやものの集まりではなく、それらの働きである。働きとは機能である。機能に対置する熟語は構造だ。もののかたちづくる構造の振る舞いが機能だからである。構造は<かたち>、機能は<かた>と言ってもよい。構造は写真に撮れる。機能は写真に撮れない。だから、構造は見て取れるが、機能は読み取らなくてはならない。(中略)「デザイン」といえば<かたち>――そう連想するのが常識だろう。<かたち>がデザインの一側面であることは間違いないが、「デザイン」にはもう一つの側面<かた>があることを見落とし(読み落とし)てはならないと思う、本書の副題を「流れ・循環のデザインとは何か」とした所以である。(p.339)

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。
しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。

その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。
そんなことに今、可能性を感じつつある。

メモ

・太陽の日射エネルギーの約半分が地表に吸収されるが、そのうち半分ほど(47%)は水の蒸発によって運び去られる。残りは対流によってが14%、放射が39%で、この収支が成り立つことで地表の平均温度が保たれる。水の循環による役割は大きい。と考えると気化熱を利用するのは自然の仕組みにかなっていそうな気がする。
・日射に対してエネルギー、エントロピー、エクセルギーがどのように割り振られるかの計算をエクセルで再現したところ、コントロール可能なパラメーターは入射角・吸収率・断熱性が考えられる。断熱性能を上げても、伝熱にかかる時間が長くなるだけで、トータルの室内に入るエネルギーは変わらないイメージだったけど、比較してみると外に逃げたり消費されたりする割合が変わり、断熱性を高めると室内へ向かうエネルギー及びエクセルギーもそれなりに減少する。また、吸収率の影響はかなり大きい。
・物体が電磁波によって放出するエネルギーは物体の絶対温度の4乗に比例。
・地球には日射を動力源、水を冷媒とした巨大なヒートポンプと呼べる循環がある。また、地球は植物の光合成を起点とした養分循環による熱化学機関とも言える。
・これからはパッシブシステムをよりよく働かせるようなアクティブシステム・アクティブ型技術・それに伴う哲学や思想、科学が必要。
・空間に放たれた光は最終的にはすべて熱に形態変化する。
・人体の温冷感覚は、人体を貫いてエネルギーや物質がどのように拡散していくか、身体エクセルギーの消費の仕方や大きさで決まる。
・冷房病は人体エクセルギーが過度に消費され続けて「だるさ」を感じさせることかもしれない。
・ある条件で、人体エクセルギー消費量が最も小さくなるのは、冬で室内空気温18℃・周壁平均温25℃の場合(2.5W/m2)、夏で室内空気温30℃・周壁平均温28℃・気流速0.2m/s程度の場合(2.0W/m2)となる。人体が快適と感じる状態を生み出すためには、室内空気温そのものよりも、室内空気温に対して周壁平均温を冬は上げ、夏は下げる方が効果が高いケースがある。
・湿度にも同様に資源性がある。
・冷暖房時には外皮から出入りするわずかな熱エネルギーの差が重要。何かの目的を達成するために発電所に投入されるエクセルギーはその20倍以上となることが多い。
・暖房において建築外皮の断熱性・気密性向上は、ボイラー効率の向上よりも、エクセルギー消費を減らすのにはるかに効果がある。
・冷房時には日射に起因する室内での発熱量を屋外日除け等によって減らし、照明等の発熱を抑えることが重要。
・夏季に、蒸発冷却や夜間放射冷却を利用し、対流によって涼しさを得るのを「彩涼」、放射によるものを「彩冷」という。その際躯体蓄冷が有効。
・植物は光合成によってグルコースを生産し酸素を廃棄するとともに、蒸散によって冷エクセルギーを生み出す。それが最も大きくなるのは日射量50W/m2,風速0.5-2.0m/s程度のときであり、蒸散による冷エクセルギーの生成には程よい日射遮蔽が必要。
・建物の長寿命化とは、生産過程の大量なエクセルギー消費と引き換えに、建材中に固定したエクセルギーを、工夫によってできるだけゆっくり消費が進むようにすること。
・エクセルギー消費量は当然住まい手の行動意識に大きく左右される。パッシブ型の冷暖房が十分に機能し「快」の知覚が得られるようにすることで、住まい手の行動を変えていくことも重要。
・実行(冷)放射エクセルギー(放射冷却)は、外気相対湿度が低いほど、外気温が低いほど大きくなる。外気温0℃湿度40%のとき5.5W/m2、外気温32℃湿度60%のとき1W/m2となり、夏に比べて冬のほうがかなり大きい。
・夏の1W/m2も人が涼しさを得るには必ずしも小さくはないが、地物の温度が高いと温エクセルギーになることもある。
・蓄熱は(外気側)断熱によってエクセルギーの蓄積量・定常状態までの時間がかなり大きくなる。
・物質は濃度の高い方から低い方へ拡散するため、ひしめきあって存在する液体水は、大気が水蒸気で飽和していなければ、温度の高低にかかわらず水蒸気になろうとする。
・いわゆる冷房病は人体が対流によって冷エクセルギーを受け取るような場合に起きる。
・大きな温エクセルギーを人体に与えることが暖房ではなく、大きな冷エクセルギーを人体に与えることが冷房でもない。冷暖房は、人体から周囲空間へのエントロピー排出がうまく行えるように、人体からほどよい温エクセルギーが出力されるようにすることである。




永遠のオルタナティブ B273『方丈記 現代語訳付き』(鴨長明 )

鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)

前回読んだ本で何度か出てきたので、たまには趣を変えてみようと思い、100分で名著と合わせて読んでみた。
小林 一彦 (著)
NHK出版 (2013/6/21)

方丈記が文学的にどれほど素晴らしいかは私には分からない。ただ、和歌に励んでいた長明が文学的な様々な手法を凝らして書いたもので噛めば噛むほど味がでるのだろうな、とは感じた。
また、長明がどのような思いで書いたのかも本当のところは分からない。ただ、そこから滲み出る人間味が人を惹きつけるであろうことも感じた。

驚くべきは、本書が800年ほど前に書かれたもので、今も読み継がれているということである。私もすっと読めたし、最後の終わり方に心を動かされもした。

本書はなぜ時代を超えて読み続けられているのだろうか。

それは、本書が本流の側になく、いつの時代もオルタナティブであり続けられたからではないだろうか。いわば、永遠のオルタナティブ。
本書に記された具体的な内容そのものよりも、オルタナティブとして今も残り続けているその事実自体が最大のメッセージとなっているように思う。

—————————————————-
ということをさらっと書いて終わりにするつもりだったけど、もう少しだけ。

最近、事務所のご近所さんになったテンダーさんと時々話をする機会があるのだけど、その中でオルタナティブという言葉が何度か出てきて気になっている。

そこで、国際文化フォーラムがテンダーさんの講座を開き、レポートを上げてくれていたの思い出した。

そして僕たちは、「主流こそ正しい」と考えがちな脳を持っている。これは群れで生きてきた人間が、群れで生き残るために獲得した本能といえる部分なのだけど、現代では広告やメディア、教育の力を合わせることで主流を誰かの意向に沿うものに変えることができてしまうので、もはやリスクを伴う本能となってしまった。
だから意識的に、オルタナティブに触れる / オルタナティブで在る必要があると僕は思う。(テンダーさんの「その辺のもので生きる」オンライン講座、はじまるよ! | お知らせ | 公益財団法人国際文化フォーラム)

この講座全体を通して、もしくはテンダーさんの生き方そのものを通してオルタナティブとは何かを考え続けることが示されていると感じるけれども、自分にとってのオルタナティブとはなんだろうか。
最近、そういうことを考えることが多くなってきた。
それは、事務所を移転した動機そのものだと思うけれども、その動機を含めて自分ではまだ分かっていないことだらけだし、本流であることは考えることを免除される、もしくは奪われることなので、少しでも逸れようとすると知りたいこと、考えたいこと、やりたいことが爆発的に増えていく。

一番は労働と時間(これも本流であることによって奪われているものだろう)の考え方がネックになると思うけれども、急がず、焦らず、しかしできるだけ早く、じっくりと気長に向き合っていきたいと思う。

(講座のレポートがすごく丁寧なので、プリントして綴じていつでも読めるようにしてみた。
 ただ、システム思考と交渉の回は一度読んでみたものの、手を動かすワーク系の回は、先に全部読むのは貴重な機会を捨てることになりそうなので、一旦読むのをやめた。実際に手を動かしながら、必要に応じて読んでみようと思う。まずは、火を起こせるようにやってみよう。)




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




世界にとどまる境界線に再び向き合う B271『体の知性を取り戻す』(尹 雄大)

尹 雄大 (著)
講談社 (2014/9/18)

サクッと読めたのでサクッと。

著者は柔道・空手・キックボクシングなどを経験した後、何かの違和感をもとに甲野善紀に師事し、韓氏意拳に入門した。その経験をもとに身体の知性とは何かを語る。

だが、ふと思うと、幼子は大人がおののく世界で無邪気に遊ぶ。遊ぶとは、この世界と全身で戯れつつ関係を結ぶということだ。(p.169)

幼い頃は誰もが好奇心のまま、身体の赴くままに世界と戯れる。それが、小学校に上がる頃から大人になるに連れ、頭で考え、他人の視線を気にするようになり、ルールから逸脱しない正しいことをせよ、と刷り込まれる。そして、自らの身体を通して世界と会話する方法を忘れていく。
大きく言うと、このことがいろいろな問題の根っこにあるのでは、というのが最近のテーマである。
いや、大きく言わずとも、ごく個人の問題としてもう少し自分の感性を取り戻したい、というのがある。

冒頭で、子供の頃に「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」に対して違和感を感じたことが語られるが、ちょうどこの部分をパラパラと読んだ次の日にとあるワークショップがあった。

私は関心があって参加させて頂いただけの立場にすぎないけれども、このワークショップを「子どもたちが身体を使って世界との関係を切り結ぶ技術を学ぶきっかけ」と(個人的に)解釈していた。
そのワークショップの冒頭で、付き添いの大人たちが子どもたちを学年順に整列させたのが少し気になったのだけど、これは本書によると、「命令するものに注目せよ」というメッセージであり、身体に緊張を与え、受け身の姿勢を強要したことになる。それはこのワークショップの主旨に対して全く反対の効果を与えたことになる。

とは言っても、相手に対し失礼のないようにしよう、と言うのも分かるし、私も同じようなことをした可能性はおおいにある。
この時考えないといけないのは、この「相手に対し失礼のないようにしよう」というのも結局は「よく考えてからものを言いなさい」と同じメンタリティであって、子どもたちの体験そのものよりも、相手の視線、もしくは自分の体裁を気にしただけではないか、ということであって、子どもたち以前に自分たちの問題であるということだ。

また、このワークショップ中でも、あの子にはもっと身体を自由に試行錯誤させるような話しかけ方をすればよかったな、というような反省点が無数にあったのだが、比較的うまく道具を扱えている子はどの子もリラックスして自分なりの身体の使い方を模索できてるように感じた。

この本を読んで、また、この体験を通じて感じたのは、自分も「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」の呪縛から全く逃れられていない、ということであり、間違ってもいいので、肩の力を抜いて、もっと身体と世界の声に耳を傾けないといけないな、ということであった。(染み付いてしまっているので、簡単ではないけれども)

オノケン│太田則宏建築事務所 » B011 『自分の頭と身体で考える』

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。 それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。

若い頃には少しこだわっていたこの境界線、歳をとり家族が増えるにつれ、それを言い訳に見ないふりをしてきたこの境界線に、再び向き合ってみようと思う。他の誰にでもなく自分の身体に聞きながら。




近代と遊びとエコロジー ~解像度についてのメモ

・近代は分断によってブラックボックス化とアウトソーシング化を進めることで、さまざまなものごとに対する解像度が低いままでも生きていける状態を必死で作り上げてきたと言える。あらゆるものごとが便利になった。

・遊びとは、ある特定のものごとに対する解像度を高めていくことだと定義してみる。そうすると、近代はあらゆる場所から遊ぶ機会を排除してきたと言えそうだ。

・エコロジーは近代によって不要とされてきた解像度を再び高めていくことからスタートする。まずは目・感度を養うことが重要。

・そうすると、エコロジーと遊ぶことはかなり近いところにありそう。

・昔から便利さにある種の危うさを感じていたこととも関係があるだろう。

・住まうこと(使うこと)の半分は建てること(つくること)の中にあり、そこに人間であることの本質がある、というようなことも、解像度を高めることと関連して考えられそうだ。

・エコロジカルに遊ぶことが人間にとって本質的なものだとすると、このままそれらが置き去りにされたままで果たしてよいのだろうか。

・自分たちは別に良いとしても、子供たちに渡すべきものを半分置き去りにしてしまっているとしたらどうだろうか。

・今年掲げた「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」ということが少しだけ見えてきた気がする。




2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる


2022年は環境という問題に対しての自分なりの指針を作ることが目標だったのですが、今年はじめに昨年、本を読み考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
2022matome.pdf
それを今年の指針としたいと思います。

遊ぶように生き、遊ぶようにつくる

人新世を『「それ以外の世界」と生活世界を分断する近代的世界観による時代』として捉えた時、2つの世界の間の矛盾を生き、脆さを受け入れるような態度が必要になってきます。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。

そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。

遊ぶように、ということ

遊ぶように、と言っても悠々自適に好きなことをやりたいようにやる、ということとは全く違うように考えています。
遊ぶとは、目の前の未知なる状態を受け入れ、それと向き合いながら、自己と環境を自在に変化させていくことであり、そのためには、自分の思考とルーティンを疑い変化させて行くことが必要です。
そのために生活に変化を与えようとしているのですが、この先どうなっていくかというのは明確には見えていません。むしろ先が見えていないことそのものに価値があるということが重要です。

まだ、これまでの生活に引きづられて自分の思考とルーティンを大きく変えるようなところまでは行けていませんが、今年は遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、を指針として変化を楽しんでいきたいと思います。




新しい景色がみたい B264 『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』(川島 範久)

川島 範久
彰国社 (2022/5/24)

一定期間ごと何かしらテーマを決めて自分を少しづつアップデートするように心がけているのですが、昨年末ぐらいからのテーマは「環境」でした。
近年、環境の問題と向き合うことは必須になったと思うのですが、自分の中でぼんやりとしている分野でもあったためまず前半は思想的な部分を重点的に取り組むことに。(ここで書いた読書記録では下記あたりが該当するかと思います。)

  • リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
  • 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)
  • 里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)
  • 近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)
  • ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)
  • 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
  • 2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)
  • 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
  • 自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)
  • 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)
  • 本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)
  • 宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)
  • 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)
  • 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)
  • システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)
  • 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)
  • 後半は実践的な問題として環境とどう向き合うか、というテーマで本をいくつも買い漁ってたのですが、奇しくも今年の春頃に環境シミュレーションに関する本が立て続けに出版されました。
    本書は、その中の一冊になります。

    環境シミュレーションというターニングポイント

    このブログでは実務的な書籍をとりあげることは殆どなかったのですが、この本は私にとっての一つのターニングポイントになりそうなので書いてみることに。

    本書は、建築の設計に環境シミュレーションを取り入れるためのガイドブックとして、実際の住宅事例をもとに、どのようなタイミングで、どのソフトでどのようなシミュレーションを行ったか、そのプロセスや結果の解釈、その理論的背景に至るまで、コンパクトかつ丁寧にまとめられています。


    上記は建築情報学会Meet Upの環境の回ですが、著者がどのような視点で本書をまとめられたのかが語られていますので是非見てみてください。

    いざ、環境に対して実践的に取り組もうとした時に、いろいろなアプローチが可能だと思いますが、自分にとっては環境シミュレーションというアプローチは合っていたように思います。
    例えば断熱仕様であったり、建物の形状であったり、設備の仕様であったり、これまでは、これまでの経験や、その場所の環境や予算、いろいろな資料などをもとに、ある程度の当たりをつけて、最後はいってしまえば「何となく」で、このあたりが落としどころだろうと決めていました。
    もちろん、できるだけ勉強して考えはするものの、今回のプロジェクトにとって最適な選択だったか、という最後のところはどうにもすっきりしない感じがしていました。

    昔からこの「何となく」「感覚で」という判断がものすごく苦手で、環境に対しても苦手意識があったのですが、環境シミュレーションを取り入れることで、その苦手意識はだいぶ薄れてくれそうな気がします。
    (もちろん、シミュレーションを行ってもモデル化の方法や条件設定によって結果が異なるため、現実とぴったり一致するということはないのですが、いくつかの可能性を比較することで、こうすればこれに比べてこの程度の効果がある、という相対的な判断ができるようになります。)

    実際にやってみることの重要性

    とは言え、この本を読んだからといって、環境シミュレーションのことが分かるようになるかというと、それだけでは難しいように思います。

    私も、ざっとは読んではみたものの、こんなことができるのか、という何となくのイメージを掴めただけで、実際に環境シミュレーションを実践に取り入れるのは知識と技術と環境を備えた人に限られるのでは、という印象でした。いずれチャレンジはしたいものの、そう簡単にはいかないだろうな、と。
    (実際、よく取り上げられているCFD解析ソフトの価格を問い合わせたところ、個人事務所では手が出しづらい金額でした。)

    そんな時、古巣の事務所からとあるプロポーザルに参加しないか、とお誘いがあり、要項を見てみると、環境をテーマとするのがよさそうでした。
    提出まで1ヶ月程度しか時間がなく、忙しい時期とも重なっていたため、かなり迷ったのですが、次にプロポーザルに出すとすれば、環境シミュレーションを取り入れることが必須だと思っていたこともあり、勝てるかどうかは分からないけれども、やれるだけやってみようと参加することにしました。

    その時にいろいろ調べたところ、Rhino+grasshopperのプラグインとして公開されているLadybugシリーズを使えば、ある程度のことが(rhinoの購入費用を除けば)無料でできそうだと言うことが分かり、rhinoはもともと興味があったこともあって導入することに。

    (そのあたりのことはnoteにまとめているところですのでこちらを見てください。)

    Vectorworksでモデリングを行い、簡単にrhinoにデータを渡して解析できるようにする、というのが目標だったのですが、ある程度のところまではできるようになりました。
    子供のころからプログラムになじんでいたり、ここ数年、自分に合わせたVectorworksのツールをつくるためにマリオネットやpythonを勉強していたのも幸運だったと思います。

    grasshopperと本書の間を何度も行き来しながらgrasshopperのコンポーネントを組んでいったのですが、本書がなければおそらくここまではできなかったと思います。
    また、完成されたソフトを使うのではなく、コンポーネントを組んでいく必要があったため、入力するデータとコンポーネントが行う処理をある程度理解する必要があったおかげで本書の理解がかなり進んだと思います。

    最初はできるかどうか自信がなかったのですが、必要に迫られ実際に手を動かしてみると、分からなかったことの意味が一つ一つ理解できるようになり、とにかくやってみることの重要性をこの年になって再確認した次第です。

    設計が変わるのか

    環境シミュレーションを取り入れることによって、果たして設計は変わるのか、という問いに関しては、確実に変わるように思います。
    建築の形態や仕様によって、光や風や熱がどのように変わるのかが視覚化できるようになったことで当然プロセスが変わりますし、曖昧なまま決めていたストレスも解消されます。というか楽しいです。

    数年前にBIMを取り入れてみて、もう以前のような作業には戻れないと感じているのですが、おそらく、環境シミュレーションも同じように取り入れる前には戻れなくなる気がします。

    もしかしたら手法が変わることによって取りこぼすような要素、見えづらくなるような要素もあるかもしれませんが、それはどういう変化に対してもあることで、その要素を意識的に取り上げるような方法を工夫するしていけば良いと思います。

    高断熱・高気密といった具体策だけを盲目的にみてしまうと、かえって環境と断絶させてしまうのでは、という不安を持っていましたが、シミュレーションという手駒を手に入れたことで、著者のいう「自然とつながる建築」に近づけそうな予感がします。

    最近、ようやくぷち二拠点生活を始めることができました。まだ、バタバタとしていて何もできていませんが、生活に変化を与えたことと、新たな手駒を手に入れたことで、新しい景色が見えてくるのではと、ワクワクしています。(ニッポンガンバレ)




    ぷち2拠点生活始めます


    今年に入ってから、生活に変化を、と思い山間の土地を探していたのですが、昨日、日置市吹上町の与倉の土地・建物の売買契約をしてきました。
    右の赤い建物(馬屋)の裏に母屋がついています。
    この馬屋が気に入ったのですが、左の小屋と小さな畑の土地もおまけでつけてもらいました。

    居住は今の小松原の自宅兼事務所のままで、事務所機能をこちらに移して通う予定です。
    まだ、どういう形で活用するか考え中ですが、とりあえずは通いながらゆっくり考えたいと思います。


    この山にやんわりと囲われながら少し開けた感じに一目惚れしたのですが、もしかしたら子供の頃、奈良や屋久島で過ごした風景と何か通じるものがあったのかもしれません。
    近くに川や神社があることもポイントが高く、春にはホタルが舞うようです。

    小松原から20分ほどで通える範囲で、鹿児島市の同程度の土地建物に比べたら十分の一程度の価格で新しい生活が可能です。
    そういうライフスタイルの一例になれたらと思っています。(あわよくば仕事にもつながれば)

    まだ、残置物の処分や決済等が残っていますので、移転は来年になってからだと思いますが、住宅もついていて宿泊も可能ですので、よろしければ遊びに来てください。

    楽しみだなー




    里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

    鷲谷 いづみ (著)
    岩波書店 (2011/6/22)

    結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
    勉誠出版 (2017/6/30)

    今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
    そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

    生態学的な里山

    最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
    単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

    本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
    河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
    同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

    しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
    本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

    人文学的な里山

    次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
    『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

    本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

    里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

    もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
    その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
    (その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
    このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

    その時、例えば、

    ・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
    ・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
    ・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

    などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

    里山なき生態系

    ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

    そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
    そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

    さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
    周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
    また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
    しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

    都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。




    近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)

    能作 文徳 (著)
    トゥーヴァージンズ (2021/2/10)

    現代建築家コンセプト・シリーズの一つであるが、いわゆる建築家然とした作品集とは異なり、エッセイ集のような体裁である。
    ここでは断片的な写真とともに、著者の現時点での思想が表明されているが、それに対して自分との距離のとり方が分からないかもしれないという気がして手を出せずにいた。

    それが最近、著者の問いかけに対して興味が持てそうな予感がしたので、おそらく今が読むタイミングだろうと手にとってみた。

    事物を追うものとリアリティ

    前回の『ブルーノ・ラトゥールの取説』は、ある意味これを読むための下準備でもあったのだが、ラトゥールの自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定する思想に触れた上で、建築家は「Form Giver」(形を与えるもの)であることに先んじて「things Follower」(事物を追う者)であるべきであるという。
    そこで目指されるのは「すでに確定された「原型」の建築ではなく、ありあわせのものをその都度集めた「雑種」の建築」であり、それは「ただの集積ではなく、物質やエネルギーの摂理に沿った精緻なデザインであるべきである」という。

    それは、おそらくあらゆる事物の存在を認めた上で事物そのものにフォーカスし、解像度を高めて取り扱う態度のことであろうが、その先で建築の形は「事物連関の中から湧き上がり、事後的に結晶化されるべきである」とされる。

    近代を手放そうとした先で、何が建築を建築たらしめることができるのか、というのが私の大きな関心の一つであるが、この、事後的に、結晶化されるべきである、という言葉に、著者の建築を追い求めようとする意志を感じる。(ただし、結晶化のイメージは固定的で完結するようなイメージではなく、生成の原理の中にあるものだろう。)

    「Form Giver」である前に「things Follower」であれ、ということに近いことを、佐々木正人がリアリティーのデザインに関するところで言っているのを思い出した。

    デザイナーは、道具の要素である「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。( 『アフォーダンス-新しい認知の理論』(p.105))

    著者の言う、「雑種」の建築は、近代化の過程で事物そのものから失われてしまったリアリティを再発見しようとするものかもしれないが、そのような感性は急速に存在感を増しつつあるように思う。

    近代化の還元主義がそういった事物のリアイティを覆い隠してしまうことによって成立していたのだとすると、いよいよそこから目をそらし続けることはできない時代に突入しつつある。

    それに対して独自の思想とスタンスを築きつつある著者の動向には今後も注目していきたい。




    都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

    メノ スヒルトハウゼン (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)
    草思社 (2020/8/18)

    『建築雑誌 2205 野生の都市 City is Already Wild』で紹介されていて関心をもったので読んでみたけれども、とても興味深く、各トピックがどれも魅力的に描かれていて読み物としても大変面白かった。

    生態系工学技術生物

    例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。 アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他))

    以前、アルコンゴマシジミとのエウメルスヒメバチの生態に関して書いたことがあったけれども、アリの生態を利用する個性豊かな「好蟻性生物」は約1万種存在すると推定されている。

    アリのような自分たちの生息域を改変・創造することで生態系を自ら創り出す生き物を「生態系工学技術生物」というそうだが、例えばビーバーもダムを造り水を堰き止めることで環境を大きく変え生態系を改変する。
    はるか以前、ビーバーがダムで渓流を堰き止めた事によって生態系が大きく変わった島があったが、それがマンハッタンである。
    そのマンハッタンの400年前、ヨーロッパ人が足を踏み入れる前の状態を再現した地図と現在の地図とを比較できるサイトが本書で紹介されていて、その2つを並べたのが下の画像である。


    The Welikia Project » Welikia Mapより
    ネタバレになってしまうので未読の方には申し訳ないが、このサイトの紹介に続くのが下記の文章。

    この文章が向かう先について、すでに読者はうすうす感づいているかもしれない。マナハッタ・プロジェクトの操作可能なマップのボタンをクリックすることで、私たちは2種類の生態系工学技術生物の間を繰り返し行き来しているのだ。(p.36)

    そう、左がビーバーによって改変された生態系であり、右が著者が「自然の究極的生態系工学技術生物」と呼ぶ、ホモ・サピエンスによって改変された生態系なのである。このホモ・サピエンスは「現代のマンハッタンという、彼らが自らのために工学的技術を駆使して創り出した生態系の中を、まるで巣の中のアリのように、走り回っている」。
    衛星写真の視点からそう言われると、人間がアリと同じようにただせわしなく働いている生き物の種の一つに過ぎないように見えてくるし、そこを棲家とする別の生き物の姿も頭に浮かんできそうである。

    本書で著者が示したいこと多くがこの部分に現れているように思う。
    それは、人間をアリやビーバーと同じように生態系を自ら創り出す生き物の一つとして、自然から切り離さずに捉える、という視点と、その人間が改変した環境にたくましく適応しながら「好人性生物」ともいえそうな生き物が暮らしていて、生態系を築いている、という視点である。
    そして、その生態系が築かれつつある今も、生き物たちは進化の只中にいる。

    都市環境に適応する生物と多様性

    進化とは人間の一生を遥かに超える長い年月の果てに達成されるものである。
    今までは、進化をそのように考えていたけれども、本書で示されるのは、それよりも遥かに早く環境に適応していく生物の姿である。

    その適応の仕方には、遺伝子によらないもの、柔らかい選択(前もって存在する遺伝子の変異体による進化)、硬い選択(突然変異による進化)、エピジェネティクス(塩基配列の変化なしの染色体の変化)など多様であるが、本書で紹介される多くがこれまで進化と呼んできたことと変わらないか、もしくはそのプロセスといえるものである。

    中でも、エピジェネティクスという言葉は初めて聞いた。
    実は、染色体のDNAは梱包材のようなもので包まれていて、これが剥がされ、DNAが露わになったときにはじめてDNAが機能するという。この梱包材の形状によってDNAの持つ機能が細かくチューニングされ、その形状が子に引き継がれることもあるそうなのだ。それが可能であれば、環境への適応はかなり柔軟性の高いものになりそうだ。

    本書では、数十年あるいは数年で生物が都市での新たな環境に高速で適応する姿が紹介されているが、その対応の速さに驚かされる。しかし、それは同時に、都市での変化が生物に強力な選択圧をかけていることも意味するだろう。

    また、都市の生態における種の多様性については相反する2つの見方ができる。

    ある面では都市での生態系は多様化しているといえる。
    ある調査では、この130年間で都市の植物の種類は478種から773種に増大し、逆に周辺の田園では1112種から745種に減少したという。
    田園での減少の大きな要因は農業の集約化・効率化であるが、都市においての増大の要因は街区や人工物などにより、生態系が断片化し小さな多様なニッチが存在することになったのことと、多国籍なバラエティ豊かな動植物が流入したことなどである。(この断片化された小さなニッチは時には都市での進化を保護することもある。)

    また、ある面では都市での生態系は均質化しているともいえる。
    世界中の生物が人間の営みによって、あらゆる場所に進出する機会を持っているし、都市がネットワーク化していることで、都市に生息する生物の環境を形作る新しい技術やそれによる変化は都市から都市へと拡散し世界中に広まっていき、似たような環境を形づくり、生態系は世界規模で均質化していく(遠隔連携(テレカップリング))。

    これらはどういうことを示しているだろうか。
    都市化が生物に過酷な試練とチャンスを課しているのは間違いない。
    人間を生態系工学技術生物の一種に過ぎないと見たときに、人間と他の生態系工学技術生物と違う点は、一つは、人間がその技術を行使する規模を際限なく拡大し続けていることであり、もう一つはその技術の使い方を自ら改変しうるということである。
    結果を見る限りどこまで好ましく改変できるかは少し怪しいけれども、後者の可能性については考えてみる余地がある。

    「ヒトという種はこの惑星の遺伝子構成を変化させています。他の生き物たちと共進化する責任とチャンスの双方とも、わたしたち人間の手の内にあるのです。人間がこの難題に責任をもって挑戦するかどうか、わたしにはわかりませんが」。アルベルティが指摘する挑戦には、わたしたちがこれから都市環境をいかに設計し、管理していくかという課題への大きな暗示が含まれている。(p.298)

    その設計し、管理できるという近代的意識そのものが、人新生といわれるほどまで環境破壊を推し進めてきた要因であるのは間違いない。そこに楽観的に乗っかることには危険性も感じるが、都市化の進展を避けられないものとして(半ば諦めとともに)受け入れたときに、わたしたちにはどのような態度が可能だろうか。

    著者の思い

    都市の中での自然を理解してもらおうとしたとき、著者は開発者の自然破壊を正当化している、といった非難を受けることが多いという。
    しかし、著者は野生の土地を保全する努力の価値を低く見ているのではなく、「世界の膨大な生物種の保全を都市に委ねることはできない」ことは百も承知である。

    少年時代に甲虫の採集とバードウォッチングに明け暮れていた著者は、そのフィールドが都市に呑み込まれていく時、

    初めてブルドーザーがわたしの活動の場を均し始めるのを、わたしは、両の手を怒りで握り締め、無力さに悔し涙を流しつつ眺め、永遠に失われてしまった自然の仇をとることを誓った。(p.20)

    と書いている。
    そして本書の最後で、長年、訪問を避けてきたというかつてのフィールドを再び訪れたときは「文字通り胸がえぐられるような思いだった」という。
    著者が、都市で繰り広げられる生態系の豊かさに偏りがあることを自覚しつつ、それでも、そこに関わり続けながら本書を記したのは、一生ジャングルに足を踏み入れることのない多くの人が目にする自然は都市の隙間やその近辺であるからこそ、そこにある生態系の面白さに気づいて欲しいからであり、そういった都市の中で新しい生態系が育っていくことを許容する社会を望むからである。(著者は「雑草」や「害獣(虫)」と罵って外来種を根こそぎにするような従来の保全活動を批判している)

    私も子供の頃は虫好きで、原っぱや山のバッタや蝶、カブトやクワガタ、田んぼの水棲昆虫、用水路のザリガニを捕まえて来ては家で飼っていたのだけれども、石積みの用水路がコンクリートのU字溝に置き換えられて生き物の姿が消えたときは大人を憎んだものだった。

    その後、大人になり、実家である屋久島の農業を継ぐという選択肢をなくし、(鹿児島なので近くに自然は残っているけれども)都市部で生活をするようになってからは、子供の頃の「大人を憎んだ」気持ちはある意味では見ないようにしてきたかもしれない。
    本書はそんな自分に、今ここでの身近なところにいる生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれたように思う。

    解像度を高め余白を設計する

    最後に建築に関するところを書いておきたい。

    先に書いたように、著者は都市の中で新しい生態系が育っていくような社会が、例えば都市計画・建築設計などによって達成されることを願っている。

    そのために(詳細には触れないけれども)例えば「ダーウイン式都市づくりのためのガイドライン」として、4つの原則、「成長するにまかせよ」「必ずしも在来種でなくても良い」「元の自然を拠点として守る」「栄光のある孤立」を提示している。
    ここには、全てを設計・管理「しない」というような姿勢が見て取れるし、著者の、人間や都市を自然と切り離さないで捉えようとする姿勢の中にはモートン的な思想も垣間見えるように思う。

    それでは、例えば都市部で設計をすることを考えた時に何が変えられるだろうか。

    先程「生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれた」と書いたけれども、一つは、都市の中での生き物に対する解像度を高める、ということだろう。
    前回のモートンや本書を読んで、生き物やものに対する見方がなんとなくフラットになってきたように感じるし、見方が変わることで設計も少しずつ変えられそうな予感がある。

    もう一つは、全てを設計・管理しないような、設計の手法を考えることだろう。
    それは、例えば『小さな風景からの学び』のところで書いたような、新しい状況が生まれるような余白を設計するようなことかもしれないし、そこで新しく生まれるかもしれない状況に対する想像力を逞しくするためにも解像度を高めておくことは重要である。

    外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。
    そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。

    ただし、管理できないものは良くないものとして消し去ろうとする近代的な意識が根強い中で、お客さんにどう理解してもらうかが課題かもしれない。
    また、外構や植栽も予算の関係で削られることが多い中で、実現にはコストが一つのハードルになりそうだ。
    (著者は「成長するにまかせよ」の原則として「必要なのは何も植えないこと。おそらくは土壌すら加えないこと(p.306)」であると書いているが、それができればコストも抑えられる?)



    理解されないかもしれないけれども、うちの事務所兼住宅のわずか2㎡ほどの芝生を貼った場所に、勝手に生えてくる雑草が好きだ。このタンポポも勝手に飛んできて、年に何度も花と綿毛を付けてくれる。また、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』で紹介されていた協生農法も同じ意味で興味を持ちはじめたところ。




    2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)

    飛田 雅則 (著)
    日本経済新聞出版 (2021/5/26)

    『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』と一緒に買った本。

    前回のはレアメタルに特化した本であったが、こちらは資源全般について世界的な傾向をコンパクトにまとめたもの。
    とは言え、時勢柄、やはりレアメタル、そして中国が大きな存在感を示している。

    中国、中東、ロシア、アフリカ、日本と各地の事情が描かれるが、ウクライナ侵攻前のロシアの比較的近年(2021/5出版)のエネルギー事情も描かれており、概要を掴むためには一読の価値があるかと思う。

    「はじめに」で2020年に2羽のスワンが現れたという。
    一羽はコロナを契機に起こった金融市場でのリスクである「ブラックスワン」、もう一羽は、脱炭素化時代の気候変動リスクの「グリーンスワン」。
    (ちなみに、「ブラック・スワンという名前は、オーストラリアで黒い白鳥が発見されたことで、白鳥は白いものという、それまで長い間信じられてきた常識が覆された話に由来する。(『不確実性の高まる世界において。デジタル化がオフィス市場にもたらす影響の考察 |ニッセイ基礎研究所』より)」そう。)

    どちらも、今後の世界のあり方に大きな影響を与えることは間違いない。

    あいかわらず、中国の勢いは凄まじく、「一帯一路」構想として資源国に投資して関係を深めていく様子が描かれるが、「借金の返済の代わりに資源権益やインフラを手渡すことになる「債務のワナ」に陥る」リスクがくすぶっている。
    世界的に資源の調達リスクは高まるばかりだが、2010年のレアアース・ショック以降、日本がレアアースの中国依存度を9割から6割に下げていたり、コンゴなどの人権問題や紛争地と関連のある鉱物を管理・除外する制度をデジタル技術も取り入れながら整えつつあったり、と、改善の流れも生まれつつある。

    とは言え、

    今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
    進むも退くも、どちらも茨の道だ。
    矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。 しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
    エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン))

    という、技術と意識の2つの革命が必要であるということには変わりない。
    さらには、資源の問題と平和の問題のあいだにも深いつながりがあり、課題は山積みである。

    脱炭素の号令がなった今、世界はダイナミックに動いています。本書では、その激動の一端をお伝えしましたが、まだ序章に過ぎません。鉱物資源を軸に形成される世界の新たな秩序を目撃するのは、読者の皆さんなのです。(p.264)

    序章に過ぎない。これが、本書を読んだ一番の印象かもしれない。




    距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)

    ティモシー・モートン (著), 篠原 雅武 (翻訳)
    ‎ 以文社 (2018/11/20)

    エコロジーという言葉の使われ方に漠然とした違和感を感じる機会が増えてきている気がする。
    そんななか、エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か。
    もはや避けがたいこの疑問に対し、これはモートンを一度は読んでみないといけない、と手にとってみた。

    何度も読んでみたけれども、実際のところ、どれだけ理解できたかは自信がない。
    自信はないのだが、現時点で感じたことを残すために、キーワードをもとに書いておきたい。
    (内容の解釈に対しては、ある程度断定的に書くけれども、おそらく誤解が含まれていると思う。その際はご指摘いただけるとありがたい。)

    美的なものと距離の問題

    美的なものは距離の産物でもある(p.48)

    本書で頻出する「美的なもの」とは何か。それを正確に掴むためにはアドルノを読む必要がありそうだけども、とりあえずは「美的なものとは距離の問題である」ということが重要なポイントのようだ。
    いや、むしろ本書は一貫して距離の問題を取り扱っていると言ってもよい。

    例えば「これは美的である」と言った時、その対象と主体とのあいだに一定の距離が出現する。自分は「ここ」にいて、美的であるものを自分とは少し離れた「あそこ」に置くことで対象化する。
    その際、この距離が固定されてしまうこと、ものや概念や思想が、ある位置で凝り固まってしまって身動きができない状態にあることによって、多くのものを覆い隠してしまうことが問題となる。
    この距離というものは曲者で、距離を取り払ったかと思うと、まさにその事によって新たに距離が再出現してしまう。
    それに対して何ができるか。本書ではその距離との格闘が描かれる。

    著者は、仮想現実と同様にエコロジカルな緊急事態は、これまでこの立場を保持したことがない、という。そこでは距離はまるであてにはならないが、安全網としての距離が仮定され、そのことが美的なものを、固着したイデオロギーを産出する。
    このような事態のなか、どのようにその距離と付き合うことができるか、が課題となる。

    自然なきエコロジー

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)

    著者は自然の観念に対し、「文化や哲学や政治や芸術が厳密にエコロジカルな形態にふさわしくなるのを妨げ」、「地球との適切な関係」だけでなく「諸々の生命形態との適切な関係」をも妨げるという。
    そして「いかにして自然が超越論的な原則となってしまったか」を示し、自然の概念を「本当にやめてしまえ」という。

    「自然」という概念は、距離を設定し、美的なものとなり、特定のイデオロギーを固着しようとする「中心点」である。この固定化してしまう性質、概念化して「終えてしまう」ことが本当にエコロジカルとなることを阻害する。この固着を作動しないようにするのが、本書の目論見である。

    本書ではその固定化する性質を「美しき魂症候群」と呼んでいるが、著者が本書でもっとも重要な観念の一つという「美しき魂」に関しては、ヘーゲルの議論を引く必要がありそうなので、それについては後述したい。

    消費主義

    オーガニックな食材を買うことが本当に惑星を救うのか。ロマン主義の消費主義は、選択についての考え方を、広げると同時に狭めた。私たちには『選択肢」があるという気分は、ユートピア的な欲望を高めていくが、可能性だけではなく社会的な隘路の徴候でもある。(p.226)

    消費主義についてはあまり理解できているとは言えないが、例えば、SDGsという言葉が安易に消費されていく現状が頭に浮かぶ。

    消費そのものではなく消費主義。人は、(実際に消費をせずとも拒否という形で)特定の種類の消費者として現れ、消費主義者となる。
    消費主義者は再帰的に消費することを消費する。自然という概念を消費する。
    ロマン主義時代以来の資本主義が、逆説的に自由に選択された自己愛を売りつける。
    そこでは、距離が、美的なものが産出される。

    そして、ロマン主義の消費主義が生産した主観的状態は、美しき魂となる。

    良心、美しき魂、悪とその赦免

    「美しき魂」とは、自分の良心の正しさを確信し、他をみることをしない状態のことで、極度に固定化されたものと言って良いかもしれない。
    (主には、ディープエコロジーなどの環境主義に対して使っていると思われる。)
    この「美しき魂」はヘーゲルの『精神現象学』から引いているけれども、私はよく分かっていなかったので、大学の講義録(音声付き)を見つけ、それを何度か視聴した。
    高村是懿哲学講座 ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ/12講

    ヘーゲルはカントの道徳論に含まれる多くの矛盾を乗り越えるために、一旦自己に帰り、自己の信念・良心をベースとした道徳を考える。それは、自己の内に確信を持ち、外部を消し去った純粋な姿の「美しい魂」であるが、主観と客観の相互作用である「意識」からすると最も貧しい形態であるとされる。
    そこに欠けているのは外化の力であるが、それは純粋な姿が崩れるのをおそれて現実との触れ合いから逃れ内面にとどまる、行動する力を持たない良心である。
    しかし、良心は行動してこそであるから、行動を起こそうとする、
    その際、一般的意識として考えられる善に対して、自己の良心は特殊な個別的意識としての悪であることを突き付けられる。
    そこで、自己が悪であること、さらには相手(現実では一般的意識も多数の個別的意識として現れる)が悪であることを認め、赦すことができた時、初めて相互承認が生まれ自己を一般者とすることができる。
    そして、それによって自己疎外的精神から回復することができる。

    というのがその概要である。

    以上を前提として、それに対して著者はどのような態度が可能だと考えているかをみてみたい。

    美しき魂は、その「美しき自然」についての説話とともに、集団に向けて説教する。(中略)だがそれをどうやって乗り越えるのか。私たちは慎重に、非暴力的に動かねばならない。この章の最初のあたりの節は、自然についての数多くの考えが、機械と資本主義の時代につくりだされた無力なイデオロギー的な構築物であると結論した。それから私たちは、エコロジカルな主体の位置はいかにして消費主義と同一になるかを見てきた。そして、それから、この外皮を引き裂こうとするいかなる試みも現存の条件を再生産することにしかならないことを見てきた。「鏡の国のアリス」でのように、とりわけ脱出しようとするとき私たちは途方にくれている。途方にくれた状態で、より賢くなることができるのかどうか考えてみよう。(p.268)

    美しき魂の説教を、距離の問題を、非暴力的なかたちでどのように乗り越えることができるだろうか。

    美しき魂をはげしく非難したところで、うまくはいかない。じつのところ、美しき魂は、同じコインの両面でしかない選択肢のところで頑張っている。「そこでただ座るだけでなく、なんかしよう」という呼びかけは、「ただ何かするだけでなく、そこに座ろう」という呼び掛けをひっくり返したものでしかない。美しき魂を虜にしているまさにそのこの(暴力、非暴力、行動、瞑想)についてさらに徹底的に探究することの準備はできている。(p.266)

    アンビエンスとリズム

    アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚を意味している。それは、なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく-こう考えるのは、アインシュタインのあとには奇妙なものと思われるはずがない-、物質的であり物理的でもある。(p.66)

    著者は、世界の感触のようなものをアンビエンス、とりまくものと呼び、自然もとりまくものの一つとして捉えようとする。
    「アンビエンスの言葉を選ぶのは、一つには、環境の観念をよくわからないものにするためである(p.67)」というように、この言葉によって、環境や自然が美的なものとなることを回避しようと試みる。

    第2章では、ロマン主義が環境を扱うものとして、世界、国家、システム、場、身体、有機体と全体論といった観念を分析するが、これらは美的なものの観念に巻き込まれてるため、「いずれもが、十分ではない」と結論する。

    訳者は別の書で、

    モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

    というが、美的なものとなることを注意深く回避しながら、このリズムを感じ取れる感性を開いておくための観念がアンビエンス、とりまくものなのかもしれない。

    アンビエント詩学 距離を揺さぶる振動と減速

    これが、私たちが雰囲気もしくは環境としての媒質-背景もしくは「場」-と物質的な事物としての媒質-前景にあるなにものか-とのあいだに私たちが設ける通常の区別を掘り崩す。一般的にいうと、アンビエント詩学は、背景と全景のあいだの通常の区別を掘り崩す。(p.75)

    アンビエント詩学は、内と外の差異を実際のところ解体しない。たとえ全力でそうしているという幻想を生じさせようとしたところで、そうなのである。再-刻印は、その区別を完全になくすか、もしくはその区別をつくりだす。(p.100)

    第1章では、エコロジカルな詩などを分析するための理論としてアンビエント詩学の概要が示される。それは、とりまくものと距離を扱うものである。
    その主要な要素として演出、中間、音質、風音、トーン、再-刻印が取り上げられる。詳細は本書に譲るとして、それらについての簡単なメモを書いておく。

    ・演出・・・【結果】感触を伝える直接性。美学的な警戒心を一時的休止するように促し、その距離を砕く。
    ・中間的なもの・・・【効果】交話的。知覚され、コミュニケーションが起こる次元。美的な目的である知覚の過程を長引かせる。
    ・音質・・・【効果】記号ではなく物として発せられている音。極めて中間的・環境的で、媒質を前景化する。
    ・風音・・・【効果】はっきりとした源がなく、主体無しで続く過程の感覚を定着させる。共感覚的。気散じへと導く。不安を喚起。
    ・トーン・・・【装飾】緊張と緩和、振動の質感。「雰囲気」を物のようなものとして説明する。量・振れ幅、崇高と静止。
    ・再-刻印・・・【装置】背景と前景、空間と場所を分離する裂け目を産出する。量子力学的な一回限りの賭け。

    アンビエント詩学は主に、美的なものの距離を砕こうとするが、同時に再-刻印によってそれを生み出しもする。
    背景と前景とのあいだの関係を揺さぶり続けるもの、固着を逃れ続ける振動・リズムのようなものかもしれない。

    私たちは演出の観念に戻ってきたが、それがなにかをいっそう理解している。演出は美的な次元を解体するように思われるが、なぜならそれは再-刻印とのかならずや有限である戯れに基づくからだ。(p.99)

    アンビエントの修辞が素晴らしいのは、連れ去る一瞬のあいだ、何かがあいだにあるかのように見せるからである。(p.97)

    おそらく、美的なものを完全に砕くことはできない。距離を消し去ることができないときに取れる戦略の一つが振動であり、もう一つが減速である。

    事物の一覧をひとくくりにしてそれを「自然」と呼称するのではなく、減速しそして一覧をバラバラにして、一覧を作成するという考え方そのものを疑問に付すのが目標である。『自然なきエコロジー』は、本当に理論的な反省が可能になるのは思考が遅くなる時だけであるという考えを真面目に受け取る。(p.24)

    それゆえに、アンビエント詩学にある、不気味で前未来的で事後的な-さらに憂鬱な-質感は、皮肉にも的確である。それは、事物が生起するやり方にある、必然的な遅延を迫っていく。(p.150)

    振動し続けること、もしくは遅くなること。この、固着を逃れようとする姿勢は、(私の理解力の問題でなければ)本書全体にも通底する。
    アンビエンス、アンビエント詩学、エコミメーシス、エコクリティシズム、ロマン主義、アイロニー…さまざまな言葉がなんども現れるが、結局のところ、著者がこれらを肯定しているのか否定しているのか、はっきりしたことがなかなか見えてこない。
    一気に距離を詰めることを避け、ゆっくりと観察・分析し、考えるのみである。
    このことが本書を掴みづらいものにしているが、同時にその姿勢を示してもいる。

    ダークエコロジー 赦し 溝を認める

    美しき魂症候群を抜け出ることについては、思考の豊かな水脈がある。「赦し」が手がかりになる。(中略)それは、観念と記号のあいだの溝を、さらには異なる自己のあいだの溝を認めることにかかわるし、美しき魂と「美しき自然」の溝を認めることにかかわる。エコロジーは二元論から一元論へと行きたいのだが、早まらなくていい。何らかの虚偽の一なるものを探し求めるよりはむしろ、溝を認めるほうが、逆説的にも諸々のものにいっそう忠実になることができるようになる。私たちは後者を、ダークエコロジーの名目のもとで探究することになるだろう。
    ありのままの実践かもしくは純粋な観念の観点で考えることは、美しき魂の牢獄の中に留まることである。(p.274)

    第3章では、ヘーゲルにならい、「ダークエコロジー」の名のもと赦しにおいて美しき魂を抜け出そうとしていく。

    アンビエンス、とりまくものには開放的な潜在力があるが、一方で内部と外部というような区分に関する思考に取り込まれやすくもある。もし、「アンビエンスが定まった場所になり、美的な次元の改良版になるのだとしたら、それは開放の潜在能力を捨て去ってしまう(p.275)」ことになる。
    このアンビエンスの問題を解決する方法にはどのようなものがあるか。
    それについても簡単にまとめておきたい。

    並列 内容と枠

    再-刻印は量子的な出来事である。背景と前景のあいだにはなにもない。そして枠と内容のあいだにもなにもない。徹底的な並置が枠と内容にかかわるのは、二元論(それらの絶対的な差異)と一元論(それらの絶対的な同一性)の両方に挑むようにしてである。(p.280)

    内容と枠とを、書くこととイデオロギーの格子とを、全景的な展望と特定化された展望とを並置する。それらの溝は保たれたままだが、問いに付されることで、「全体論的でないエコロジカルな旅へと連れて行く」。

    内容を枠の内に入れずに並置することで、美的な次元を開いたままにしておく。特殊と一般との並置は、特殊な個別的意識としての悪を赦すことで一般者となり疎外から回復する、とするヘーゲルの議論にも似ている。
    特殊と一般を差異と同一性の宙吊りな状態を保つことで、固着化を免れる。

    また、並置は、複雑なリズムを立ち上げ、振動としての雰囲気を導き出す。このリズムによって人間性の条件を保つ。

    キッチュ(低俗なもの) とぬるぬるしたもの

    馬鹿げたものは古臭い美的商品を「アイロニカル」に(距離をおいて)領有したものを意味するのに対し、低俗的なものは「高尚な」意味では普通に美的と考えられていない対象を心の底から楽しむことを意味している。(p.293)

    美的なものは、低俗なものをただ否認し、事物を距離を隔てたところに置いておくにすぎない。逆に言えば、低俗なものは美的なものに絡め取られ難い、エコロジカルなものと言えるかもしれない。
    著者は「低俗なものを徹底的に掘り下げさらにはそこに同一化するという、逆説的な方法」を試してみるべきという。

    船乗りは「生きているものはなんであろうと一緒に生きているものとして関わることを受け入れる」。「なんであろうと」というのが重要である。自然なきエコロジーはこの「なんであろうと」にある開放性を必要とするが、それはおそらくは、カリフォルニアの高校生にある、気を散らしているがアイロニカルな気安さにおいて明瞭になっている。(p.306)

    エコロジカルな芸術は、ぬるぬるしたものを、視野の内にとどめておくことを義務としている。このことは、自然のかわいらしい像、もしくは崇高な像を描きだそうとするのではなく、むしろ、エコミメーシスの裏面を、つまりはアンビエント詩学の振動的で推移する特質を呼び覚ますことを意味している。徹底的に低俗的なものは、二元論をなくしてしまうのではなく、「私」と「ぬるぬるしたもの」のあいだの差異を活用する。(中略)ニュー・エイジやディープエコロジーの考えでは自然は不可思議な調和であるのに対し、低俗なもののエコロジーは実存にかかわる生活の実質を確立している。(p.309)

    このあたりをどう解釈してよいかあまり分かっていないが、ここでも、キッチュであり、ぬるぬるとしたもの(おぞましいもの)を受け入れることが、リズムの雰囲気を立ち上げ、人間性を保持することの条件となるのではないだろうか。

    ダークエコロジーはもしそれが実践されていたとしたら、レプリカントを潜在的に完全な主体としてではなくレプリカントとして愛するよう私たちに命ずることになっただろう。私たちのうちにおいてもっとも客体化されているものとしての「無数のどろどろした事物」の価値を正しく認める、ということである。これが本当にエコロジカルな倫理的行為である。(p.378)

    ダークエコロジーは、他者を自己へと転じることによってではなく、倒錯的にも、事物がそれがあるがままに放置することで、美しき魂のジレンマを乗り越える。そのものであるために、赦しにおいては、カエルにキスするやいなやそれが王子に転じることなどとは期待されない。かくして赦すことは、根本的にエコロジカルな好意である。それは、エコロジカルなものにかんして確立された概念の全てを超えたところでエコロジーを再定義する行為であり、他者と徹底的に一緒にいようとする行為である。(p.378)

    「フランケンシュタイン」の怪物を愛することもまた、「エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定(p.377)」させられることを受け入れ、リズムを立ち上げるために保持すべきものである。
    ここでいう赦しとは、その存在を許すことではなく、そのものであることを受け入れ、固着的な美的な判断を棄て去ることである。

    気散じ アウラの開放と振動

    気散じは、対象との距離を解除し、かくしてそれの美学化を解除する。つまり、美学化と自然支配の双方が立脚する、主体と客体の二元論を崩壊させる。(p.315)

    したがって、アウラを解消することは、エコミメーシスが生じさせてくる雰囲気を徹底的に問うことである。(p.324)

    著者は美学と雰囲気に関連するものとして、ベンヤミンからアウラと気散じの2つの概念を取り出す。

    アウラはそれが浸る崇高と価値の雰囲気であり、遠さが一回的に現れているものである。アウラを解消することはそのものから美的な距離を取り除くことになるが、著者は、アウラをあまりにも早急に取り除くのではなく、ゆくっり近づくことを考える。
    ゆっくりと近づくことができれば、そこに枠と内容の並置によるリズムと雰囲気が残る。また、それによって「私」としての主体性が揺さぶられ、「一度揺さぶられた「私」がみずからの限界と有限性を把握し、他なるもののを思考することの決定的な可能性(p.326)」を開くという。またそこでは同時に「私」の脆さが現れる。

    気散じは無造作な身体的没入の共感覚的な混合であるが、美学的な距離を崩壊させることで、美しき魂を開放する。
    「気散じは、現代の資本主義的な生産と技術の様式であるが」、自然を「あちら側」ではなく「まさにここ」に没入的に感覚させる点において、著者は可能性をみる。そこにはロマン主義的な視点にとらわれずに現在の姿を受け入れようとする著者の姿勢が透けて見える気がする。

    とどまることの環境哲学

    私は徹底的に環境に優しくなろうとする考えに反対して書いてきたのではない。皮肉にも、徹底的に環境にやさしい思想について徹底的に考えることは、自然の概念を手放すことである。すなわち、私たちと彼ら、私たちとそれ、私たちと「彼方にあるもの」のあいだの美的な距離を維持するものとしての自然の観念を手放すことである。(中略)私たちは距離そのものの観念を問題にしなくてはならない。もしも、人間ならざるものと一緒になろうとあせるあまり距離を早急に棄て去ろうとするならば、距離についての私たちの偏見、観念に、つまりは「彼ら」についての観念にとらわれて終わることになるだろう。おそらくは、距離においてとどまるのは、人間ならざるものへとかかわるもっともたしかなやり方である。
    虹の切れる端に二元論的でない宝物を設定するのではなく、二元論的であると感じられるものにおいてとどまることができる。ここに留まるのは、いっそう二元論的でない方法である。(中略)到来することになる、絶対的に未知のことへと心をひらいておくこと、これが究極の合理性である。(p.396)

    前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
    自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。

    おわりに

    著者の思想には、環境との関わり方という点でアフォーダンスとの共通点や、道元の「山是山(山は山ではない、山である)といった言葉に通じるものを感じた。

    リズム、アンビエント詩学、並列、キッチュ、気散じといったものは、建築-距離という問題に取り組む建築-の指針とすることも可能だろう。
    それによって可能となる建築があるはずであるが、以前感じた

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    という感覚はおそらくそれほど外れていない気がする。

    また、最近、生活の何かを変えないといけないと感じていて、プチ・二拠点居住をすべく山間の土地を探している。
    それは、「自然」というものを賛美するため、というよりは、自然をよりフラットな状態で感じるためであり、もしかしたら、そのために二拠点であることが重要になってくるかもしれない。
    そこから何が見えてくるかは今は分からないけれども、越境者であることに近づくことで見えてくるものがあるのではないだろうか。

    その先に「エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か」という最初の問いへの答えがあるような気がしている。