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新しい景色がみたい B264 『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』(川島 範久)

川島 範久
彰国社 (2022/5/24)

一定期間ごと何かしらテーマを決めて自分を少しづつアップデートするように心がけているのですが、昨年末ぐらいからのテーマは「環境」でした。
近年、環境の問題と向き合うことは必須になったと思うのですが、自分の中でぼんやりとしている分野でもあったためまず前半は思想的な部分を重点的に取り組むことに。(ここで書いた読書記録では下記あたりが該当するかと思います。)

  • リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
  • 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)
  • 里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)
  • 近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)
  • ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)
  • 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
  • 2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)
  • 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
  • 自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)
  • 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)
  • 本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)
  • 宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)
  • 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)
  • 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)
  • システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)
  • 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)
  • 後半は実践的な問題として環境とどう向き合うか、というテーマで本をいくつも買い漁ってたのですが、奇しくも今年の春頃に環境シミュレーションに関する本が立て続けに出版されました。
    本書は、その中の一冊になります。

    環境シミュレーションというターニングポイント

    このブログでは実務的な書籍をとりあげることは殆どなかったのですが、この本は私にとっての一つのターニングポイントになりそうなので書いてみることに。

    本書は、建築の設計に環境シミュレーションを取り入れるためのガイドブックとして、実際の住宅事例をもとに、どのようなタイミングで、どのソフトでどのようなシミュレーションを行ったか、そのプロセスや結果の解釈、その理論的背景に至るまで、コンパクトかつ丁寧にまとめられています。


    上記は建築情報学会Meet Upの環境の回ですが、著者がどのような視点で本書をまとめられたのかが語られていますので是非見てみてください。

    いざ、環境に対して実践的に取り組もうとした時に、いろいろなアプローチが可能だと思いますが、自分にとっては環境シミュレーションというアプローチは合っていたように思います。
    例えば断熱仕様であったり、建物の形状であったり、設備の仕様であったり、これまでは、これまでの経験や、その場所の環境や予算、いろいろな資料などをもとに、ある程度の当たりをつけて、最後はいってしまえば「何となく」で、このあたりが落としどころだろうと決めていました。
    もちろん、できるだけ勉強して考えはするものの、今回のプロジェクトにとって最適な選択だったか、という最後のところはどうにもすっきりしない感じがしていました。

    昔からこの「何となく」「感覚で」という判断がものすごく苦手で、環境に対しても苦手意識があったのですが、環境シミュレーションを取り入れることで、その苦手意識はだいぶ薄れてくれそうな気がします。
    (もちろん、シミュレーションを行ってもモデル化の方法や条件設定によって結果が異なるため、現実とぴったり一致するということはないのですが、いくつかの可能性を比較することで、こうすればこれに比べてこの程度の効果がある、という相対的な判断ができるようになります。)

    実際にやってみることの重要性

    とは言え、この本を読んだからといって、環境シミュレーションのことが分かるようになるかというと、それだけでは難しいように思います。

    私も、ざっとは読んではみたものの、こんなことができるのか、という何となくのイメージを掴めただけで、実際に環境シミュレーションを実践に取り入れるのは知識と技術と環境を備えた人に限られるのでは、という印象でした。いずれチャレンジはしたいものの、そう簡単にはいかないだろうな、と。
    (実際、よく取り上げられているCFD解析ソフトの価格を問い合わせたところ、個人事務所では手が出しづらい金額でした。)

    そんな時、古巣の事務所からとあるプロポーザルに参加しないか、とお誘いがあり、要項を見てみると、環境をテーマとするのがよさそうでした。
    提出まで1ヶ月程度しか時間がなく、忙しい時期とも重なっていたため、かなり迷ったのですが、次にプロポーザルに出すとすれば、環境シミュレーションを取り入れることが必須だと思っていたこともあり、勝てるかどうかは分からないけれども、やれるだけやってみようと参加することにしました。

    その時にいろいろ調べたところ、Rhino+grasshopperのプラグインとして公開されているLadybugシリーズを使えば、ある程度のことが(rhinoの購入費用を除けば)無料でできそうだと言うことが分かり、rhinoはもともと興味があったこともあって導入することに。

    (そのあたりのことはnoteにまとめているところですのでこちらを見てください。)

    Vectorworksでモデリングを行い、簡単にrhinoにデータを渡して解析できるようにする、というのが目標だったのですが、ある程度のところまではできるようになりました。
    子供のころからプログラムになじんでいたり、ここ数年、自分に合わせたVectorworksのツールをつくるためにマリオネットやpythonを勉強していたのも幸運だったと思います。

    grasshopperと本書の間を何度も行き来しながらgrasshopperのコンポーネントを組んでいったのですが、本書がなければおそらくここまではできなかったと思います。
    また、完成されたソフトを使うのではなく、コンポーネントを組んでいく必要があったため、入力するデータとコンポーネントが行う処理をある程度理解する必要があったおかげで本書の理解がかなり進んだと思います。

    最初はできるかどうか自信がなかったのですが、必要に迫られ実際に手を動かしてみると、分からなかったことの意味が一つ一つ理解できるようになり、とにかくやってみることの重要性をこの年になって再確認した次第です。

    設計が変わるのか

    環境シミュレーションを取り入れることによって、果たして設計は変わるのか、という問いに関しては、確実に変わるように思います。
    建築の形態や仕様によって、光や風や熱がどのように変わるのかが視覚化できるようになったことで当然プロセスが変わりますし、曖昧なまま決めていたストレスも解消されます。というか楽しいです。

    数年前にBIMを取り入れてみて、もう以前のような作業には戻れないと感じているのですが、おそらく、環境シミュレーションも同じように取り入れる前には戻れなくなる気がします。

    もしかしたら手法が変わることによって取りこぼすような要素、見えづらくなるような要素もあるかもしれませんが、それはどういう変化に対してもあることで、その要素を意識的に取り上げるような方法を工夫するしていけば良いと思います。

    高断熱・高気密といった具体策だけを盲目的にみてしまうと、かえって環境と断絶させてしまうのでは、という不安を持っていましたが、シミュレーションという手駒を手に入れたことで、著者のいう「自然とつながる建築」に近づけそうな予感がします。

    最近、ようやくぷち二拠点生活を始めることができました。まだ、バタバタとしていて何もできていませんが、生活に変化を与えたことと、新たな手駒を手に入れたことで、新しい景色が見えてくるのではと、ワクワクしています。(ニッポンガンバレ)




    ぷち2拠点生活始めます


    今年に入ってから、生活に変化を、と思い山間の土地を探していたのですが、昨日、日置市吹上町の与倉の土地・建物の売買契約をしてきました。
    右の赤い建物(馬屋)の裏に母屋がついています。
    この馬屋が気に入ったのですが、左の小屋と小さな畑の土地もおまけでつけてもらいました。

    居住は今の小松原の自宅兼事務所のままで、事務所機能をこちらに移して通う予定です。
    まだ、どういう形で活用するか考え中ですが、とりあえずは通いながらゆっくり考えたいと思います。


    この山にやんわりと囲われながら少し開けた感じに一目惚れしたのですが、もしかしたら子供の頃、奈良や屋久島で過ごした風景と何か通じるものがあったのかもしれません。
    近くに川や神社があることもポイントが高く、春にはホタルが舞うようです。

    小松原から20分ほどで通える範囲で、鹿児島市の同程度の土地建物に比べたら十分の一程度の価格で新しい生活が可能です。
    そういうライフスタイルの一例になれたらと思っています。(あわよくば仕事にもつながれば)

    まだ、残置物の処分や決済等が残っていますので、移転は来年になってからだと思いますが、住宅もついていて宿泊も可能ですので、よろしければ遊びに来てください。

    楽しみだなー




    里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

    鷲谷 いづみ (著)
    岩波書店 (2011/6/22)

    結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
    勉誠出版 (2017/6/30)

    今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
    そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

    生態学的な里山

    最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
    単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

    本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
    河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
    同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

    しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
    本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

    人文学的な里山

    次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
    『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

    本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

    里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

    もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
    その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
    (その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
    このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

    その時、例えば、

    ・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
    ・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
    ・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

    などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

    里山なき生態系

    ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

    そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
    そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

    さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
    周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
    また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
    しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

    都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。




    近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)

    能作 文徳 (著)
    トゥーヴァージンズ (2021/2/10)

    現代建築家コンセプト・シリーズの一つであるが、いわゆる建築家然とした作品集とは異なり、エッセイ集のような体裁である。
    ここでは断片的な写真とともに、著者の現時点での思想が表明されているが、それに対して自分との距離のとり方が分からないかもしれないという気がして手を出せずにいた。

    それが最近、著者の問いかけに対して興味が持てそうな予感がしたので、おそらく今が読むタイミングだろうと手にとってみた。

    事物を追うものとリアリティ

    前回の『ブルーノ・ラトゥールの取説』は、ある意味これを読むための下準備でもあったのだが、ラトゥールの自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定する思想に触れた上で、建築家は「Form Giver」(形を与えるもの)であることに先んじて「things Follower」(事物を追う者)であるべきであるという。
    そこで目指されるのは「すでに確定された「原型」の建築ではなく、ありあわせのものをその都度集めた「雑種」の建築」であり、それは「ただの集積ではなく、物質やエネルギーの摂理に沿った精緻なデザインであるべきである」という。

    それは、おそらくあらゆる事物の存在を認めた上で事物そのものにフォーカスし、解像度を高めて取り扱う態度のことであろうが、その先で建築の形は「事物連関の中から湧き上がり、事後的に結晶化されるべきである」とされる。

    近代を手放そうとした先で、何が建築を建築たらしめることができるのか、というのが私の大きな関心の一つであるが、この、事後的に、結晶化されるべきである、という言葉に、著者の建築を追い求めようとする意志を感じる。(ただし、結晶化のイメージは固定的で完結するようなイメージではなく、生成の原理の中にあるものだろう。)

    「Form Giver」である前に「things Follower」であれ、ということに近いことを、佐々木正人がリアリティーのデザインに関するところで言っているのを思い出した。

    デザイナーは、道具の要素である「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。( 『アフォーダンス-新しい認知の理論』(p.105))

    著者の言う、「雑種」の建築は、近代化の過程で事物そのものから失われてしまったリアリティを再発見しようとするものかもしれないが、そのような感性は急速に存在感を増しつつあるように思う。

    近代化の還元主義がそういった事物のリアイティを覆い隠してしまうことによって成立していたのだとすると、いよいよそこから目をそらし続けることはできない時代に突入しつつある。

    それに対して独自の思想とスタンスを築きつつある著者の動向には今後も注目していきたい。




    都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

    メノ スヒルトハウゼン (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)
    草思社 (2020/8/18)

    『建築雑誌 2205 野生の都市 City is Already Wild』で紹介されていて関心をもったので読んでみたけれども、とても興味深く、各トピックがどれも魅力的に描かれていて読み物としても大変面白かった。

    生態系工学技術生物

    例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。 アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他))

    以前、アルコンゴマシジミとのエウメルスヒメバチの生態に関して書いたことがあったけれども、アリの生態を利用する個性豊かな「好蟻性生物」は約1万種存在すると推定されている。

    アリのような自分たちの生息域を改変・創造することで生態系を自ら創り出す生き物を「生態系工学技術生物」というそうだが、例えばビーバーもダムを造り水を堰き止めることで環境を大きく変え生態系を改変する。
    はるか以前、ビーバーがダムで渓流を堰き止めた事によって生態系が大きく変わった島があったが、それがマンハッタンである。
    そのマンハッタンの400年前、ヨーロッパ人が足を踏み入れる前の状態を再現した地図と現在の地図とを比較できるサイトが本書で紹介されていて、その2つを並べたのが下の画像である。


    The Welikia Project » Welikia Mapより
    ネタバレになってしまうので未読の方には申し訳ないが、このサイトの紹介に続くのが下記の文章。

    この文章が向かう先について、すでに読者はうすうす感づいているかもしれない。マナハッタ・プロジェクトの操作可能なマップのボタンをクリックすることで、私たちは2種類の生態系工学技術生物の間を繰り返し行き来しているのだ。(p.36)

    そう、左がビーバーによって改変された生態系であり、右が著者が「自然の究極的生態系工学技術生物」と呼ぶ、ホモ・サピエンスによって改変された生態系なのである。このホモ・サピエンスは「現代のマンハッタンという、彼らが自らのために工学的技術を駆使して創り出した生態系の中を、まるで巣の中のアリのように、走り回っている」。
    衛星写真の視点からそう言われると、人間がアリと同じようにただせわしなく働いている生き物の種の一つに過ぎないように見えてくるし、そこを棲家とする別の生き物の姿も頭に浮かんできそうである。

    本書で著者が示したいこと多くがこの部分に現れているように思う。
    それは、人間をアリやビーバーと同じように生態系を自ら創り出す生き物の一つとして、自然から切り離さずに捉える、という視点と、その人間が改変した環境にたくましく適応しながら「好人性生物」ともいえそうな生き物が暮らしていて、生態系を築いている、という視点である。
    そして、その生態系が築かれつつある今も、生き物たちは進化の只中にいる。

    都市環境に適応する生物と多様性

    進化とは人間の一生を遥かに超える長い年月の果てに達成されるものである。
    今までは、進化をそのように考えていたけれども、本書で示されるのは、それよりも遥かに早く環境に適応していく生物の姿である。

    その適応の仕方には、遺伝子によらないもの、柔らかい選択(前もって存在する遺伝子の変異体による進化)、硬い選択(突然変異による進化)、エピジェネティクス(塩基配列の変化なしの染色体の変化)など多様であるが、本書で紹介される多くがこれまで進化と呼んできたことと変わらないか、もしくはそのプロセスといえるものである。

    中でも、エピジェネティクスという言葉は初めて聞いた。
    実は、染色体のDNAは梱包材のようなもので包まれていて、これが剥がされ、DNAが露わになったときにはじめてDNAが機能するという。この梱包材の形状によってDNAの持つ機能が細かくチューニングされ、その形状が子に引き継がれることもあるそうなのだ。それが可能であれば、環境への適応はかなり柔軟性の高いものになりそうだ。

    本書では、数十年あるいは数年で生物が都市での新たな環境に高速で適応する姿が紹介されているが、その対応の速さに驚かされる。しかし、それは同時に、都市での変化が生物に強力な選択圧をかけていることも意味するだろう。

    また、都市の生態における種の多様性については相反する2つの見方ができる。

    ある面では都市での生態系は多様化しているといえる。
    ある調査では、この130年間で都市の植物の種類は478種から773種に増大し、逆に周辺の田園では1112種から745種に減少したという。
    田園での減少の大きな要因は農業の集約化・効率化であるが、都市においての増大の要因は街区や人工物などにより、生態系が断片化し小さな多様なニッチが存在することになったのことと、多国籍なバラエティ豊かな動植物が流入したことなどである。(この断片化された小さなニッチは時には都市での進化を保護することもある。)

    また、ある面では都市での生態系は均質化しているともいえる。
    世界中の生物が人間の営みによって、あらゆる場所に進出する機会を持っているし、都市がネットワーク化していることで、都市に生息する生物の環境を形作る新しい技術やそれによる変化は都市から都市へと拡散し世界中に広まっていき、似たような環境を形づくり、生態系は世界規模で均質化していく(遠隔連携(テレカップリング))。

    これらはどういうことを示しているだろうか。
    都市化が生物に過酷な試練とチャンスを課しているのは間違いない。
    人間を生態系工学技術生物の一種に過ぎないと見たときに、人間と他の生態系工学技術生物と違う点は、一つは、人間がその技術を行使する規模を際限なく拡大し続けていることであり、もう一つはその技術の使い方を自ら改変しうるということである。
    結果を見る限りどこまで好ましく改変できるかは少し怪しいけれども、後者の可能性については考えてみる余地がある。

    「ヒトという種はこの惑星の遺伝子構成を変化させています。他の生き物たちと共進化する責任とチャンスの双方とも、わたしたち人間の手の内にあるのです。人間がこの難題に責任をもって挑戦するかどうか、わたしにはわかりませんが」。アルベルティが指摘する挑戦には、わたしたちがこれから都市環境をいかに設計し、管理していくかという課題への大きな暗示が含まれている。(p.298)

    その設計し、管理できるという近代的意識そのものが、人新生といわれるほどまで環境破壊を推し進めてきた要因であるのは間違いない。そこに楽観的に乗っかることには危険性も感じるが、都市化の進展を避けられないものとして(半ば諦めとともに)受け入れたときに、わたしたちにはどのような態度が可能だろうか。

    著者の思い

    都市の中での自然を理解してもらおうとしたとき、著者は開発者の自然破壊を正当化している、といった非難を受けることが多いという。
    しかし、著者は野生の土地を保全する努力の価値を低く見ているのではなく、「世界の膨大な生物種の保全を都市に委ねることはできない」ことは百も承知である。

    少年時代に甲虫の採集とバードウォッチングに明け暮れていた著者は、そのフィールドが都市に呑み込まれていく時、

    初めてブルドーザーがわたしの活動の場を均し始めるのを、わたしは、両の手を怒りで握り締め、無力さに悔し涙を流しつつ眺め、永遠に失われてしまった自然の仇をとることを誓った。(p.20)

    と書いている。
    そして本書の最後で、長年、訪問を避けてきたというかつてのフィールドを再び訪れたときは「文字通り胸がえぐられるような思いだった」という。
    著者が、都市で繰り広げられる生態系の豊かさに偏りがあることを自覚しつつ、それでも、そこに関わり続けながら本書を記したのは、一生ジャングルに足を踏み入れることのない多くの人が目にする自然は都市の隙間やその近辺であるからこそ、そこにある生態系の面白さに気づいて欲しいからであり、そういった都市の中で新しい生態系が育っていくことを許容する社会を望むからである。(著者は「雑草」や「害獣(虫)」と罵って外来種を根こそぎにするような従来の保全活動を批判している)

    私も子供の頃は虫好きで、原っぱや山のバッタや蝶、カブトやクワガタ、田んぼの水棲昆虫、用水路のザリガニを捕まえて来ては家で飼っていたのだけれども、石積みの用水路がコンクリートのU字溝に置き換えられて生き物の姿が消えたときは大人を憎んだものだった。

    その後、大人になり、実家である屋久島の農業を継ぐという選択肢をなくし、(鹿児島なので近くに自然は残っているけれども)都市部で生活をするようになってからは、子供の頃の「大人を憎んだ」気持ちはある意味では見ないようにしてきたかもしれない。
    本書はそんな自分に、今ここでの身近なところにいる生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれたように思う。

    解像度を高め余白を設計する

    最後に建築に関するところを書いておきたい。

    先に書いたように、著者は都市の中で新しい生態系が育っていくような社会が、例えば都市計画・建築設計などによって達成されることを願っている。

    そのために(詳細には触れないけれども)例えば「ダーウイン式都市づくりのためのガイドライン」として、4つの原則、「成長するにまかせよ」「必ずしも在来種でなくても良い」「元の自然を拠点として守る」「栄光のある孤立」を提示している。
    ここには、全てを設計・管理「しない」というような姿勢が見て取れるし、著者の、人間や都市を自然と切り離さないで捉えようとする姿勢の中にはモートン的な思想も垣間見えるように思う。

    それでは、例えば都市部で設計をすることを考えた時に何が変えられるだろうか。

    先程「生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれた」と書いたけれども、一つは、都市の中での生き物に対する解像度を高める、ということだろう。
    前回のモートンや本書を読んで、生き物やものに対する見方がなんとなくフラットになってきたように感じるし、見方が変わることで設計も少しずつ変えられそうな予感がある。

    もう一つは、全てを設計・管理しないような、設計の手法を考えることだろう。
    それは、例えば『小さな風景からの学び』のところで書いたような、新しい状況が生まれるような余白を設計するようなことかもしれないし、そこで新しく生まれるかもしれない状況に対する想像力を逞しくするためにも解像度を高めておくことは重要である。

    外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。
    そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。

    ただし、管理できないものは良くないものとして消し去ろうとする近代的な意識が根強い中で、お客さんにどう理解してもらうかが課題かもしれない。
    また、外構や植栽も予算の関係で削られることが多い中で、実現にはコストが一つのハードルになりそうだ。
    (著者は「成長するにまかせよ」の原則として「必要なのは何も植えないこと。おそらくは土壌すら加えないこと(p.306)」であると書いているが、それができればコストも抑えられる?)



    理解されないかもしれないけれども、うちの事務所兼住宅のわずか2㎡ほどの芝生を貼った場所に、勝手に生えてくる雑草が好きだ。このタンポポも勝手に飛んできて、年に何度も花と綿毛を付けてくれる。また、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』で紹介されていた協生農法も同じ意味で興味を持ちはじめたところ。




    2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)

    飛田 雅則 (著)
    日本経済新聞出版 (2021/5/26)

    『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』と一緒に買った本。

    前回のはレアメタルに特化した本であったが、こちらは資源全般について世界的な傾向をコンパクトにまとめたもの。
    とは言え、時勢柄、やはりレアメタル、そして中国が大きな存在感を示している。

    中国、中東、ロシア、アフリカ、日本と各地の事情が描かれるが、ウクライナ侵攻前のロシアの比較的近年(2021/5出版)のエネルギー事情も描かれており、概要を掴むためには一読の価値があるかと思う。

    「はじめに」で2020年に2羽のスワンが現れたという。
    一羽はコロナを契機に起こった金融市場でのリスクである「ブラックスワン」、もう一羽は、脱炭素化時代の気候変動リスクの「グリーンスワン」。
    (ちなみに、「ブラック・スワンという名前は、オーストラリアで黒い白鳥が発見されたことで、白鳥は白いものという、それまで長い間信じられてきた常識が覆された話に由来する。(『不確実性の高まる世界において。デジタル化がオフィス市場にもたらす影響の考察 |ニッセイ基礎研究所』より)」そう。)

    どちらも、今後の世界のあり方に大きな影響を与えることは間違いない。

    あいかわらず、中国の勢いは凄まじく、「一帯一路」構想として資源国に投資して関係を深めていく様子が描かれるが、「借金の返済の代わりに資源権益やインフラを手渡すことになる「債務のワナ」に陥る」リスクがくすぶっている。
    世界的に資源の調達リスクは高まるばかりだが、2010年のレアアース・ショック以降、日本がレアアースの中国依存度を9割から6割に下げていたり、コンゴなどの人権問題や紛争地と関連のある鉱物を管理・除外する制度をデジタル技術も取り入れながら整えつつあったり、と、改善の流れも生まれつつある。

    とは言え、

    今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
    進むも退くも、どちらも茨の道だ。
    矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。 しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
    エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン))

    という、技術と意識の2つの革命が必要であるということには変わりない。
    さらには、資源の問題と平和の問題のあいだにも深いつながりがあり、課題は山積みである。

    脱炭素の号令がなった今、世界はダイナミックに動いています。本書では、その激動の一端をお伝えしましたが、まだ序章に過ぎません。鉱物資源を軸に形成される世界の新たな秩序を目撃するのは、読者の皆さんなのです。(p.264)

    序章に過ぎない。これが、本書を読んだ一番の印象かもしれない。




    距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)

    ティモシー・モートン (著), 篠原 雅武 (翻訳)
    ‎ 以文社 (2018/11/20)

    エコロジーという言葉の使われ方に漠然とした違和感を感じる機会が増えてきている気がする。
    そんななか、エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か。
    もはや避けがたいこの疑問に対し、これはモートンを一度は読んでみないといけない、と手にとってみた。

    何度も読んでみたけれども、実際のところ、どれだけ理解できたかは自信がない。
    自信はないのだが、現時点で感じたことを残すために、キーワードをもとに書いておきたい。
    (内容の解釈に対しては、ある程度断定的に書くけれども、おそらく誤解が含まれていると思う。その際はご指摘いただけるとありがたい。)

    美的なものと距離の問題

    美的なものは距離の産物でもある(p.48)

    本書で頻出する「美的なもの」とは何か。それを正確に掴むためにはアドルノを読む必要がありそうだけども、とりあえずは「美的なものとは距離の問題である」ということが重要なポイントのようだ。
    いや、むしろ本書は一貫して距離の問題を取り扱っていると言ってもよい。

    例えば「これは美的である」と言った時、その対象と主体とのあいだに一定の距離が出現する。自分は「ここ」にいて、美的であるものを自分とは少し離れた「あそこ」に置くことで対象化する。
    その際、この距離が固定されてしまうこと、ものや概念や思想が、ある位置で凝り固まってしまって身動きができない状態にあることによって、多くのものを覆い隠してしまうことが問題となる。
    この距離というものは曲者で、距離を取り払ったかと思うと、まさにその事によって新たに距離が再出現してしまう。
    それに対して何ができるか。本書ではその距離との格闘が描かれる。

    著者は、仮想現実と同様にエコロジカルな緊急事態は、これまでこの立場を保持したことがない、という。そこでは距離はまるであてにはならないが、安全網としての距離が仮定され、そのことが美的なものを、固着したイデオロギーを産出する。
    このような事態のなか、どのようにその距離と付き合うことができるか、が課題となる。

    自然なきエコロジー

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)

    著者は自然の観念に対し、「文化や哲学や政治や芸術が厳密にエコロジカルな形態にふさわしくなるのを妨げ」、「地球との適切な関係」だけでなく「諸々の生命形態との適切な関係」をも妨げるという。
    そして「いかにして自然が超越論的な原則となってしまったか」を示し、自然の概念を「本当にやめてしまえ」という。

    「自然」という概念は、距離を設定し、美的なものとなり、特定のイデオロギーを固着しようとする「中心点」である。この固定化してしまう性質、概念化して「終えてしまう」ことが本当にエコロジカルとなることを阻害する。この固着を作動しないようにするのが、本書の目論見である。

    本書ではその固定化する性質を「美しき魂症候群」と呼んでいるが、著者が本書でもっとも重要な観念の一つという「美しき魂」に関しては、ヘーゲルの議論を引く必要がありそうなので、それについては後述したい。

    消費主義

    オーガニックな食材を買うことが本当に惑星を救うのか。ロマン主義の消費主義は、選択についての考え方を、広げると同時に狭めた。私たちには『選択肢」があるという気分は、ユートピア的な欲望を高めていくが、可能性だけではなく社会的な隘路の徴候でもある。(p.226)

    消費主義についてはあまり理解できているとは言えないが、例えば、SDGsという言葉が安易に消費されていく現状が頭に浮かぶ。

    消費そのものではなく消費主義。人は、(実際に消費をせずとも拒否という形で)特定の種類の消費者として現れ、消費主義者となる。
    消費主義者は再帰的に消費することを消費する。自然という概念を消費する。
    ロマン主義時代以来の資本主義が、逆説的に自由に選択された自己愛を売りつける。
    そこでは、距離が、美的なものが産出される。

    そして、ロマン主義の消費主義が生産した主観的状態は、美しき魂となる。

    良心、美しき魂、悪とその赦免

    「美しき魂」とは、自分の良心の正しさを確信し、他をみることをしない状態のことで、極度に固定化されたものと言って良いかもしれない。
    (主には、ディープエコロジーなどの環境主義に対して使っていると思われる。)
    この「美しき魂」はヘーゲルの『精神現象学』から引いているけれども、私はよく分かっていなかったので、大学の講義録(音声付き)を見つけ、それを何度か視聴した。
    高村是懿哲学講座 ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ/12講

    ヘーゲルはカントの道徳論に含まれる多くの矛盾を乗り越えるために、一旦自己に帰り、自己の信念・良心をベースとした道徳を考える。それは、自己の内に確信を持ち、外部を消し去った純粋な姿の「美しい魂」であるが、主観と客観の相互作用である「意識」からすると最も貧しい形態であるとされる。
    そこに欠けているのは外化の力であるが、それは純粋な姿が崩れるのをおそれて現実との触れ合いから逃れ内面にとどまる、行動する力を持たない良心である。
    しかし、良心は行動してこそであるから、行動を起こそうとする、
    その際、一般的意識として考えられる善に対して、自己の良心は特殊な個別的意識としての悪であることを突き付けられる。
    そこで、自己が悪であること、さらには相手(現実では一般的意識も多数の個別的意識として現れる)が悪であることを認め、赦すことができた時、初めて相互承認が生まれ自己を一般者とすることができる。
    そして、それによって自己疎外的精神から回復することができる。

    というのがその概要である。

    以上を前提として、それに対して著者はどのような態度が可能だと考えているかをみてみたい。

    美しき魂は、その「美しき自然」についての説話とともに、集団に向けて説教する。(中略)だがそれをどうやって乗り越えるのか。私たちは慎重に、非暴力的に動かねばならない。この章の最初のあたりの節は、自然についての数多くの考えが、機械と資本主義の時代につくりだされた無力なイデオロギー的な構築物であると結論した。それから私たちは、エコロジカルな主体の位置はいかにして消費主義と同一になるかを見てきた。そして、それから、この外皮を引き裂こうとするいかなる試みも現存の条件を再生産することにしかならないことを見てきた。「鏡の国のアリス」でのように、とりわけ脱出しようとするとき私たちは途方にくれている。途方にくれた状態で、より賢くなることができるのかどうか考えてみよう。(p.268)

    美しき魂の説教を、距離の問題を、非暴力的なかたちでどのように乗り越えることができるだろうか。

    美しき魂をはげしく非難したところで、うまくはいかない。じつのところ、美しき魂は、同じコインの両面でしかない選択肢のところで頑張っている。「そこでただ座るだけでなく、なんかしよう」という呼びかけは、「ただ何かするだけでなく、そこに座ろう」という呼び掛けをひっくり返したものでしかない。美しき魂を虜にしているまさにそのこの(暴力、非暴力、行動、瞑想)についてさらに徹底的に探究することの準備はできている。(p.266)

    アンビエンスとリズム

    アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚を意味している。それは、なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく-こう考えるのは、アインシュタインのあとには奇妙なものと思われるはずがない-、物質的であり物理的でもある。(p.66)

    著者は、世界の感触のようなものをアンビエンス、とりまくものと呼び、自然もとりまくものの一つとして捉えようとする。
    「アンビエンスの言葉を選ぶのは、一つには、環境の観念をよくわからないものにするためである(p.67)」というように、この言葉によって、環境や自然が美的なものとなることを回避しようと試みる。

    第2章では、ロマン主義が環境を扱うものとして、世界、国家、システム、場、身体、有機体と全体論といった観念を分析するが、これらは美的なものの観念に巻き込まれてるため、「いずれもが、十分ではない」と結論する。

    訳者は別の書で、

    モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

    というが、美的なものとなることを注意深く回避しながら、このリズムを感じ取れる感性を開いておくための観念がアンビエンス、とりまくものなのかもしれない。

    アンビエント詩学 距離を揺さぶる振動と減速

    これが、私たちが雰囲気もしくは環境としての媒質-背景もしくは「場」-と物質的な事物としての媒質-前景にあるなにものか-とのあいだに私たちが設ける通常の区別を掘り崩す。一般的にいうと、アンビエント詩学は、背景と全景のあいだの通常の区別を掘り崩す。(p.75)

    アンビエント詩学は、内と外の差異を実際のところ解体しない。たとえ全力でそうしているという幻想を生じさせようとしたところで、そうなのである。再-刻印は、その区別を完全になくすか、もしくはその区別をつくりだす。(p.100)

    第1章では、エコロジカルな詩などを分析するための理論としてアンビエント詩学の概要が示される。それは、とりまくものと距離を扱うものである。
    その主要な要素として演出、中間、音質、風音、トーン、再-刻印が取り上げられる。詳細は本書に譲るとして、それらについての簡単なメモを書いておく。

    ・演出・・・【結果】感触を伝える直接性。美学的な警戒心を一時的休止するように促し、その距離を砕く。
    ・中間的なもの・・・【効果】交話的。知覚され、コミュニケーションが起こる次元。美的な目的である知覚の過程を長引かせる。
    ・音質・・・【効果】記号ではなく物として発せられている音。極めて中間的・環境的で、媒質を前景化する。
    ・風音・・・【効果】はっきりとした源がなく、主体無しで続く過程の感覚を定着させる。共感覚的。気散じへと導く。不安を喚起。
    ・トーン・・・【装飾】緊張と緩和、振動の質感。「雰囲気」を物のようなものとして説明する。量・振れ幅、崇高と静止。
    ・再-刻印・・・【装置】背景と前景、空間と場所を分離する裂け目を産出する。量子力学的な一回限りの賭け。

    アンビエント詩学は主に、美的なものの距離を砕こうとするが、同時に再-刻印によってそれを生み出しもする。
    背景と前景とのあいだの関係を揺さぶり続けるもの、固着を逃れ続ける振動・リズムのようなものかもしれない。

    私たちは演出の観念に戻ってきたが、それがなにかをいっそう理解している。演出は美的な次元を解体するように思われるが、なぜならそれは再-刻印とのかならずや有限である戯れに基づくからだ。(p.99)

    アンビエントの修辞が素晴らしいのは、連れ去る一瞬のあいだ、何かがあいだにあるかのように見せるからである。(p.97)

    おそらく、美的なものを完全に砕くことはできない。距離を消し去ることができないときに取れる戦略の一つが振動であり、もう一つが減速である。

    事物の一覧をひとくくりにしてそれを「自然」と呼称するのではなく、減速しそして一覧をバラバラにして、一覧を作成するという考え方そのものを疑問に付すのが目標である。『自然なきエコロジー』は、本当に理論的な反省が可能になるのは思考が遅くなる時だけであるという考えを真面目に受け取る。(p.24)

    それゆえに、アンビエント詩学にある、不気味で前未来的で事後的な-さらに憂鬱な-質感は、皮肉にも的確である。それは、事物が生起するやり方にある、必然的な遅延を迫っていく。(p.150)

    振動し続けること、もしくは遅くなること。この、固着を逃れようとする姿勢は、(私の理解力の問題でなければ)本書全体にも通底する。
    アンビエンス、アンビエント詩学、エコミメーシス、エコクリティシズム、ロマン主義、アイロニー…さまざまな言葉がなんども現れるが、結局のところ、著者がこれらを肯定しているのか否定しているのか、はっきりしたことがなかなか見えてこない。
    一気に距離を詰めることを避け、ゆっくりと観察・分析し、考えるのみである。
    このことが本書を掴みづらいものにしているが、同時にその姿勢を示してもいる。

    ダークエコロジー 赦し 溝を認める

    美しき魂症候群を抜け出ることについては、思考の豊かな水脈がある。「赦し」が手がかりになる。(中略)それは、観念と記号のあいだの溝を、さらには異なる自己のあいだの溝を認めることにかかわるし、美しき魂と「美しき自然」の溝を認めることにかかわる。エコロジーは二元論から一元論へと行きたいのだが、早まらなくていい。何らかの虚偽の一なるものを探し求めるよりはむしろ、溝を認めるほうが、逆説的にも諸々のものにいっそう忠実になることができるようになる。私たちは後者を、ダークエコロジーの名目のもとで探究することになるだろう。
    ありのままの実践かもしくは純粋な観念の観点で考えることは、美しき魂の牢獄の中に留まることである。(p.274)

    第3章では、ヘーゲルにならい、「ダークエコロジー」の名のもと赦しにおいて美しき魂を抜け出そうとしていく。

    アンビエンス、とりまくものには開放的な潜在力があるが、一方で内部と外部というような区分に関する思考に取り込まれやすくもある。もし、「アンビエンスが定まった場所になり、美的な次元の改良版になるのだとしたら、それは開放の潜在能力を捨て去ってしまう(p.275)」ことになる。
    このアンビエンスの問題を解決する方法にはどのようなものがあるか。
    それについても簡単にまとめておきたい。

    並列 内容と枠

    再-刻印は量子的な出来事である。背景と前景のあいだにはなにもない。そして枠と内容のあいだにもなにもない。徹底的な並置が枠と内容にかかわるのは、二元論(それらの絶対的な差異)と一元論(それらの絶対的な同一性)の両方に挑むようにしてである。(p.280)

    内容と枠とを、書くこととイデオロギーの格子とを、全景的な展望と特定化された展望とを並置する。それらの溝は保たれたままだが、問いに付されることで、「全体論的でないエコロジカルな旅へと連れて行く」。

    内容を枠の内に入れずに並置することで、美的な次元を開いたままにしておく。特殊と一般との並置は、特殊な個別的意識としての悪を赦すことで一般者となり疎外から回復する、とするヘーゲルの議論にも似ている。
    特殊と一般を差異と同一性の宙吊りな状態を保つことで、固着化を免れる。

    また、並置は、複雑なリズムを立ち上げ、振動としての雰囲気を導き出す。このリズムによって人間性の条件を保つ。

    キッチュ(低俗なもの) とぬるぬるしたもの

    馬鹿げたものは古臭い美的商品を「アイロニカル」に(距離をおいて)領有したものを意味するのに対し、低俗的なものは「高尚な」意味では普通に美的と考えられていない対象を心の底から楽しむことを意味している。(p.293)

    美的なものは、低俗なものをただ否認し、事物を距離を隔てたところに置いておくにすぎない。逆に言えば、低俗なものは美的なものに絡め取られ難い、エコロジカルなものと言えるかもしれない。
    著者は「低俗なものを徹底的に掘り下げさらにはそこに同一化するという、逆説的な方法」を試してみるべきという。

    船乗りは「生きているものはなんであろうと一緒に生きているものとして関わることを受け入れる」。「なんであろうと」というのが重要である。自然なきエコロジーはこの「なんであろうと」にある開放性を必要とするが、それはおそらくは、カリフォルニアの高校生にある、気を散らしているがアイロニカルな気安さにおいて明瞭になっている。(p.306)

    エコロジカルな芸術は、ぬるぬるしたものを、視野の内にとどめておくことを義務としている。このことは、自然のかわいらしい像、もしくは崇高な像を描きだそうとするのではなく、むしろ、エコミメーシスの裏面を、つまりはアンビエント詩学の振動的で推移する特質を呼び覚ますことを意味している。徹底的に低俗的なものは、二元論をなくしてしまうのではなく、「私」と「ぬるぬるしたもの」のあいだの差異を活用する。(中略)ニュー・エイジやディープエコロジーの考えでは自然は不可思議な調和であるのに対し、低俗なもののエコロジーは実存にかかわる生活の実質を確立している。(p.309)

    このあたりをどう解釈してよいかあまり分かっていないが、ここでも、キッチュであり、ぬるぬるとしたもの(おぞましいもの)を受け入れることが、リズムの雰囲気を立ち上げ、人間性を保持することの条件となるのではないだろうか。

    ダークエコロジーはもしそれが実践されていたとしたら、レプリカントを潜在的に完全な主体としてではなくレプリカントとして愛するよう私たちに命ずることになっただろう。私たちのうちにおいてもっとも客体化されているものとしての「無数のどろどろした事物」の価値を正しく認める、ということである。これが本当にエコロジカルな倫理的行為である。(p.378)

    ダークエコロジーは、他者を自己へと転じることによってではなく、倒錯的にも、事物がそれがあるがままに放置することで、美しき魂のジレンマを乗り越える。そのものであるために、赦しにおいては、カエルにキスするやいなやそれが王子に転じることなどとは期待されない。かくして赦すことは、根本的にエコロジカルな好意である。それは、エコロジカルなものにかんして確立された概念の全てを超えたところでエコロジーを再定義する行為であり、他者と徹底的に一緒にいようとする行為である。(p.378)

    「フランケンシュタイン」の怪物を愛することもまた、「エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定(p.377)」させられることを受け入れ、リズムを立ち上げるために保持すべきものである。
    ここでいう赦しとは、その存在を許すことではなく、そのものであることを受け入れ、固着的な美的な判断を棄て去ることである。

    気散じ アウラの開放と振動

    気散じは、対象との距離を解除し、かくしてそれの美学化を解除する。つまり、美学化と自然支配の双方が立脚する、主体と客体の二元論を崩壊させる。(p.315)

    したがって、アウラを解消することは、エコミメーシスが生じさせてくる雰囲気を徹底的に問うことである。(p.324)

    著者は美学と雰囲気に関連するものとして、ベンヤミンからアウラと気散じの2つの概念を取り出す。

    アウラはそれが浸る崇高と価値の雰囲気であり、遠さが一回的に現れているものである。アウラを解消することはそのものから美的な距離を取り除くことになるが、著者は、アウラをあまりにも早急に取り除くのではなく、ゆくっり近づくことを考える。
    ゆっくりと近づくことができれば、そこに枠と内容の並置によるリズムと雰囲気が残る。また、それによって「私」としての主体性が揺さぶられ、「一度揺さぶられた「私」がみずからの限界と有限性を把握し、他なるもののを思考することの決定的な可能性(p.326)」を開くという。またそこでは同時に「私」の脆さが現れる。

    気散じは無造作な身体的没入の共感覚的な混合であるが、美学的な距離を崩壊させることで、美しき魂を開放する。
    「気散じは、現代の資本主義的な生産と技術の様式であるが」、自然を「あちら側」ではなく「まさにここ」に没入的に感覚させる点において、著者は可能性をみる。そこにはロマン主義的な視点にとらわれずに現在の姿を受け入れようとする著者の姿勢が透けて見える気がする。

    とどまることの環境哲学

    私は徹底的に環境に優しくなろうとする考えに反対して書いてきたのではない。皮肉にも、徹底的に環境にやさしい思想について徹底的に考えることは、自然の概念を手放すことである。すなわち、私たちと彼ら、私たちとそれ、私たちと「彼方にあるもの」のあいだの美的な距離を維持するものとしての自然の観念を手放すことである。(中略)私たちは距離そのものの観念を問題にしなくてはならない。もしも、人間ならざるものと一緒になろうとあせるあまり距離を早急に棄て去ろうとするならば、距離についての私たちの偏見、観念に、つまりは「彼ら」についての観念にとらわれて終わることになるだろう。おそらくは、距離においてとどまるのは、人間ならざるものへとかかわるもっともたしかなやり方である。
    虹の切れる端に二元論的でない宝物を設定するのではなく、二元論的であると感じられるものにおいてとどまることができる。ここに留まるのは、いっそう二元論的でない方法である。(中略)到来することになる、絶対的に未知のことへと心をひらいておくこと、これが究極の合理性である。(p.396)

    前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
    自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。

    おわりに

    著者の思想には、環境との関わり方という点でアフォーダンスとの共通点や、道元の「山是山(山は山ではない、山である)といった言葉に通じるものを感じた。

    リズム、アンビエント詩学、並列、キッチュ、気散じといったものは、建築-距離という問題に取り組む建築-の指針とすることも可能だろう。
    それによって可能となる建築があるはずであるが、以前感じた

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    という感覚はおそらくそれほど外れていない気がする。

    また、最近、生活の何かを変えないといけないと感じていて、プチ・二拠点居住をすべく山間の土地を探している。
    それは、「自然」というものを賛美するため、というよりは、自然をよりフラットな状態で感じるためであり、もしかしたら、そのために二拠点であることが重要になってくるかもしれない。
    そこから何が見えてくるかは今は分からないけれども、越境者であることに近づくことで見えてくるものがあるのではないだろうか。

    その先に「エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か」という最初の問いへの答えがあるような気がしている。




    自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)

    緒方正人 (著), 辻信一 (著, 編集)
    素敬 SOKEIパブリッシング (2020/3/31)

    あるきっかけで水俣の仕事に関わったのと、以前読んだ本で著者に興味をもったので読んでみた。

    生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

    父親を水俣病で亡くし、その後チッソや行政に対する補償運動にも関わってきた緒方正人の語りを、辻信一がまとめたもの。
    一度1996年に出版されたが、2020年に増補、熟成版として再刊行された。

    緒方氏はやがて『チッソは私であった』と運動から身を引き、制度に組み込まれた解決を拒む。
    漁師であった父親の話から、運動から身を引くようになるまでの話と、その後考え続けてきたこと。様々なことが語られるが、その中心には父親の残した言葉や行動の記憶があり、漁師として自然とともに生き、体感してきたことがある。
    環境やサスティナブルという言葉ではこぼれ落ちてしまうような、自然とともに生きることの力強さと覚悟、知恵があり、それらを私たちが失いつつあることを突き付けられる。

    それを最も強く感じたのは、

    俺は最近思うんですが、水俣病事件には三つの特徴がある。この三つを指摘するだけで十分。他にはもう何も言う必要はないんじゃないか、という気がしています。
    ひとつは、いわゆる「奇病騒ぎ」が起き、世間にパニックが起きてイヲが売れんようになっても、我々漁民たちはイヲを食い続けた、ということ。ふたつめに、最初の子や二番目の子が胎児性水俣病であっても、三番目、四番目を産み続け、育て続けたこと。授かるいのちはすべて受け続けたということ。そして三つ目に、毒を食わされ、傷つけられ、殺され続けたけれども、こちらからは誰ひとり殺さなかった、ということ。水俣病事件について俺が自信を持って、誇りをもって言えることはこの三つだけです。
    この三つはすべて、いのちに関わることです。猫が次々と死に、鳥が死に、人が死んでいき、その原因として魚が疑われても、漁村の人々は魚を食べることをやめなかった。(中略)俺は思うんですよ。人間以外の生きものを疑う気持ちが漁師にはなかったんじゃないか。いのちというものを疑うということがなかったち思う。だからこそ、そのいのちをいただくことへの感謝もまたゆるぎなくあった。エビスさんに、海の神さんにもらったという感謝の気持ち。(p.225)

    という部分。
    今なら、自己責任として逆に批判を浴びかねない(実際そう感じる人も多いだろう)ことを「誇り」をもって語っている。
    その背後にある壮絶な苦悩は想像もできないけれども、自然とともに生きることの覚悟、人間以外の生きものを、社会の問題・損得勘定の問題と切り分けて考えてしまうことへの怖れ、というものが自分含めてほとんど失われてしまっているのだと突き付けられる。

    そういうものは、今まで自然とともに生きてきた人間たちが、持続可能という言葉を使わずとも築いてきた知恵だと思うけれども、そういうものは僅かな時間で資本と科学の物語に塗り替えられてしまっている。

    個人的には、資本と科学の物語に乗らないものが力を持つことが難しくなっているので、こういうことばかりを言ってても、とは思う。(間違っても緒方さんが、という意味ではない。)
    しかし、環境問題を突き詰めると、根本的な思想や世界の認識の問題に突き当たることは間違いない。

    その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

    そろそろモートンもちゃんと読んでみよう。

    ▲エコパークみなまたの埋立地の先端には、恋路島に向かって緒方さんたちが彫った野仏が無言の祈りを捧げている




    父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

    森田真生 (著)
    集英社 (2021/9/24)

    前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

    パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

    エコロジーについて

    エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

    強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

    エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

    一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

    もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

    (タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

    これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

    「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
    それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

    エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
    その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

    この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

    生活と言葉と思考

    それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

    だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

    「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
    (中略)
    モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
    『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

    自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

    著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
    そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
    数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

    そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

    言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

    転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

    自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
    そんな気がしてきた。
    それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

    父から子に贈るエコロジー

    彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

    大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
    僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

    未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

    この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

    自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

    自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

    自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

    『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
    僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
    できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

    本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。




    本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)

    田中 淳夫 (著)
    新泉社 (2019/8/6)

    日本の森林面積は日本の国土の67%、約3分の2が森林である。(H29年)
    林業の持つ可能性は計り知れないものがあるに違いない。と思うけれども、どうやら問題は山積みらしい。
    建築の業界にいながらも、林業のことはあまり分からない。ということで読んでみた。

    絶望の林業と希望の林業

    補助金漬けで進むべき道が見えない業界、危険な労働環境、持続可能な思想とシステムの不在、木を知らない山主と険しい地形、価格を下げ続ける木材利用。
    噛み合わない林業の状況を描いているが、『絶望の林業』というタイトルとは裏腹に最後の章は「希望の林業」で締められる。
    著者が描きたいのはおそらく希望の方なのだろうと思う。

    ここまで現代の日本林業が絶望的な状況にあることを記してきた。それは目の前の森が荒れているとか、人手が足りていないから作業が行えないとか・・・・・そういった次元ではない。もっと、根本的に・構造的に産業としての体制が整っておらず、自然の摂理にも従わず、政策が誤った方向に進んでいるのではないか、という危惧から感じた状況である(p.250)

    著者の描く「理想の林業」は現在の「絶望の林業」の裏返しである。目指すべきは「利益を生み、それが森に再投資されるような持続性をどう手に入れるか」につきると思うが、それのベースとなるビジョンや信念の不在こそが一番の問題だと感じた。それは、持続性そのものに対する感性を失ってきた結果であり、何かもっと本質的なところまで遡って再確認していく必要があるのではないだろうか。

    (ちなみに、『森林で日本は蘇る~林業の瓦解を食い止めよ』も合わせて読んでみたが、こちらは「日本は蘇る」というタイトルとは逆に、絶望成分がやや多めに感じた。
     どちらの本も林業に対する強い思いを感じたけれども、それゆえに無念さも感じる。)

    白井 裕子 (著)
    新潮社 (2021/6/17)

    身近に感じることの必要性

    といっても、林業のことがよく分かったかというと、ますます分からなくなった気がする。

    自然が相手であり、問題は、日常生活・日々の経済活動より長いスパンでの思考を必要とする根本的な世界観に関わるものである。
    経験に基づかない数冊の読書だけではやはり理解に限界がある。

    仕事の中でももっと関わる機会をつくる必要があるように思ったし、国レベルでの先行きを考えるよりはまず、自分が関われるような小さな持続性を考えることから始める必要があるように思った。

    国レベルで持続的なビジョンとそれに基づく政策を示すことは間違いなく重要だと思う。けれどもその前に、林業という枠から外れても、小さな変化の積み重ねの中から森(自然)の可能性を再発見しながら、本質的なところへ遡っていく感性を築いていくことが必要ではないだろうか。

    数学者が生活の変化を楽しむように




    宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)

    藻谷 浩介 (著), NHK広島取材班 (著)
    KADOKAWA/角川書店 (2013/7/10)

    10年近くも前の本であるが、これまでの流れからようやく手にとって読んでみた。
    あまりじっくり書く時間がないけど、先に進みたいので簡単にでも書いておきたい。

    スイッチを入れる

    里山資本主義に関する部分を引用すると、

    里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。(p.102)

    「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決定するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。(中略)森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。(p.121)

    とある。
    この、「マネー資本主義」に対するサブシステム的な距離感が共感を得やすかったのかもしれない。

    さまざまなアイデアで、地域の課題をつなぎ合わせて解決するような仕組みをつくる「熊原さん」を紹介する際、この仕組みを「装置」と表現した場所があったが、その時、頭の中で、ピタゴラスイッチのフィニッシュの時の音楽が流れた。
    この本で紹介される事例は、地域の中に眠っている人や自然などをつなぎ合わせる回路を発明することで、もともとあった価値を顕在化するようなものが多く、それはスイッチを入れるようなこと近いように感じた。
    停まっていた時間を、常識を少しずらしてつなぎ合わせることで再び動き出させる〇〇スイッチ。
    そんなイメージが頭に浮かんだけれども、まだぼんやりしたものなのでとりあえずメモ的に残しておこうと思う。

    見渡せば宝の山に見えてくるが

    もう一回生活を見直してみる、そういう時代なんじゃないかと思います。すごく今みんな不安に生きている。もっと恵まれた自然を活用というか、目を向けていけば、もっともっと資源がある、宝があるんじゃないかと思います。(p.53)

    この本で紹介されているオーストリアの林業や、岡山県の製材所の事例、前回の里山の暮らしを読んだあとに、鹿児島市から離れて山に囲まれた地域を移動すると、周りの景色が宝の山のように見えてくる。ここにどれだけの資源・可能性があるんだろうか。

    しかし、実際には自分にはそれを活かす知恵も技術もつながりも、見定める目も持ち合わせていないことにすぐに気づく。
    田舎で育ち、多少はそういうことに触れながら育ったとはいえ、今はそこから切り離されて手元に何も残していないような生活にどっぷり浸かっているし、ものをつくる仕事でありながら、モニターの前で過ごしている時間のほうが多い。

    これでは、宝の山に見える絵をただ眺めているようなもので、そこからリアルな宝を見つけ出す解像度は得られない。

    さてさて。続編も買っているので読んでみたいけれども、リアルさを手元に引き寄せることも考えないといけないのかもなぁ。
    そのためにはもう少し時間に余裕を持たなければ。




    物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

    高野 雅夫 (著)
    ヘウレーカ (2021/8/20)

    「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
    と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
    その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

    ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

    結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

    「自然(じねん)」について

    著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

    著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

    自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
    里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

    この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
    翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
    そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

    (ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

    「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

    私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

    生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

    先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

    私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
    引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

    父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
    思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

    子どもたちへ

    先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
    3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
    彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

    そう考えると少し心もとない。

    森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

    そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

    この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

    以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
    彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
    私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

    自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

    物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

    統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

    この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

    著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

    環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

    資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
    その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
    物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

    オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

    歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

    それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
    オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

    モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
    モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
    エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
    それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

    そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

    それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

    じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

    その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。




    進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)

    ギヨーム・ピトロン (著), 児玉 しおり (翻訳)
    原書房 (2020/2/29)

    前回の記事に関連してレアメタルについて興味を持ったので読んでみた。
    訳書は相性が悪いと読みづらく感じることも多いけれども、この本はテンポの良い文章でとても読みやすかった。

    著者はフランスの地質地政学を専門とするジャーナリストで、レアメタルを巡る世界の情勢(特に中国)と各国の置かれた立場(特にフランスとアメリカ)を様々なデータや証言をもとに描き出す。

    ある程度は知られてきている内容かもしれないけれども、私には新鮮な内容も多く(こう言ってよいか分からないけれども)とても面白かった。
    今後、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換が必須であるが、その負の側面や不安定さを認識する上でも必読の書だと思う。

    レアメタルに依存する世界と負の側面

    エネルギー転換とデジタル転換に必要な技術は、様々なレアメタルなしでは成り立たない。

    埋蔵量がレアというよりは、鉱石に含まれる量がほんの僅かで、精錬するのに大量の廃棄物を出す。(この本では丸型のパンから、パンを作るのに加えた塩ひとつまみを混じり合った状態から取り出すようなもの、というように比喩している。)
    前回書いたように、その生産には大量の水やエネルギーを必要とし、重金属を垂れ流し、労働者に劣悪な労働を強い、生態系を破壊する。
    さらに、今後、エネルギー転換とデジタル転換を果たしていくためには、30年間で、人間が7万年来採掘してきた量(過去2500世代分)以上の鉱物を採掘しなければならないという。(そんなことが可能なのだろうか)

    我々が欲しているクリーンなエネルギーは、思っているほどクリーンではないし、その生産のために見えないところでかなりのCO2を排出している。

    エネルギー転換とデジタル転換は単なる理想郷ではなく、犠牲を伴うものであり、多くの問題を転嫁し不可視化しているということは理解する必要がある。
    そこを見失えば、期待した成果は得られず、新たな危機に直面するだけ、ということになりかねない。

    中国が握る世界

    また、この資源が全人類に平等に配分されるとは限らない。

    レアメタルの多くは中国が押さえており、他の開発途上の資源保有諸国も中国に習い資源ナショナリズムが浸透しつつある。

    さらに、中国は資源だけではなく、それにまつわる技術や製品の製造まで押さえつつある。
    そのシナリオは、
    ・中国が環境規制の緩さや安い人件費などをもとに、レアメタルの価格を下げていく。
    ・各国が自国の資源ではなく、安い中国産の資源を買うようになると、先進国にもともとあった鉱山は採算が合わなくなり、閉山へと追い込まれ、自国で資源を確保できなくなる。ダーティなレアメタルが価格を下げ、(比較的)クリーンなレアメタルを駆逐する。
    ・中国は、安い資源の確保や人件費、広大な土地などを餌にして、採掘のできなくなった先進国の工場を誘致し、資源の採掘だけでなく、製品の生産まで行う技術を手に入れ、バリューチェーンのすべてを手中に入れる。
    ・先進国は、それによって資源の生産方法とそれにまつわる技術、そして多くの雇用機会を失う。
    というものだ。

    今や、中国は資源や部品だけでなく、多くの製品を製造できるようになっている。アメリカの軍隊でさえ、中国の部品に頼らざるを得なくなってしまっている。
    そして、中国は資源の流通量や価格をコントロールできる立場にある。(「フランス人はブドウは売らないが、ワインは売りますよね?中国人はレアアースをフランス人のブドウ畑のように思っているのではないでしょうか。」つまり、資源は売らずに高付加価値な製品を売りつける!?)

    2010年、尖閣諸島の問題で、中国から日本へのレアアースの輸出が滞った時のパニックを覚えている人も多いだろうし、まさに今、(中国に限らず多様な要因があるにせよ)建築分野でも、給湯器や便座、照明その他様々なものが入荷未定、もしくは生産中止の状態になっていることで、いとも簡単に足元が揺らぐ地盤の不安定さを実感している最中である。

    矛盾した世界を生きる

    今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
    進むも退くも、どちらも茨の道だ。

    矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。

    しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
    エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。

    一旦変革が始まり、常識が塗り替えられれば案外早い気もするけれども、そのために、何を捨てなければならないか。それを見極め決断・共有することは避けられないのではないか。
    いや、捨てるということを、前向きで嬉々として取り組めるようなものへと変換する、魔法のようなメッセージの発明が必要なのかもしれない。

    メモ

    第1章

    この「グリーンテクノロジー」は人類を第三のエネルギー革命・産業革命に導き、世界を変えようとしている。(中略)その資源は、21世紀の石油、「ザ・ネクスト・オイル(次の石油)」とすら呼ばれている。(p.10)

    エネルギー転換を進めれば、15年ごとにレアメタルの生産を倍にしなければならない。人間が7万年来採掘してきた量以上の鉱物を今後30年間で採掘しなければならない理由のひとつがそれだ。(p.18)

    化石燃料から開放されて、古い制度から新制度に転換することは、結局は以前より強い新たな依存を生み出しているのである。(中略)しかし、未来の世界を前代未聞の別の欠乏や対立や危機に置き換えようとしているだけなのだ。(p.19)

    1tのレアメタルを精錬するには少なくとも200立方メートルの水が必要な上、使用後の水には酸や重金属が多く含まれる。その水は川や土壌や地下水に放出される前に浄化施設を通るのだろうか?それはまれだ。(p.33)

    第2章

    1枚のソーラーパネルを製造するのに、とくに材料のケイ素(シリコン)のために、70キログラムの二酸化炭素を排出するという。将来、年間23%増加するソーラーパネルの数からすると、ソーラーパネルの生産能力は年間10メガワット増加する。つまり、その増加分だけでも27億トンの二酸化炭素が大気中に排出されることになり、それは60万台近い自動車が1年間に出す排ガスに相当する。(p.44)

    たとえば、2016年に公表されたフランス環境エネルギー管理庁(ADEME)の報告書では、「ライフサイクル全体を考慮すると、電気自動車のエネルギー消費はディーゼル車にほぼ近い。環境負荷については、電気自動車もディーゼル車も同等」と結論づけた。電気自動車が消費する電気の大部分が石炭火力発電所で生産されるならーオーストラリア、インド、台湾、南アフリカ、中国などー二酸化炭素の排出量はさらに多くなるだろう。(p.47)

    アメリカの研究によると、一般的には情報通信技術(ICT)分野は世界の電力消費の10%を占め、たとえば航空輸送よりも50パーセント多い温室効果ガスを排出する。(p.51)

    ともかく、どんなエネルギー転換、デジタル転換でも、地面にあけた穴から始まるのだ。土地に新たな犠牲を求めつつ、われわれは石油への依存を、レアメタルという別の依存にすり替えているだけだ。(中略)つまり、生態系への人間の活動の影響という問題を何も解決していない。(p.53)

    「クリーン」と言われるエネルギーは、採掘がまったく「クリーン」とは言えないレアメタルを必要とする。むしろ、環境保護面から言うと、重金属の排気、酸性雨、水汚染などと紙一重なのだ。(p.61)

    この観点からすると、エネルギー転換とデジタル転換は最も裕福な社会階層のためのものである。(p.62)

    第3章

    さらに有権者として、規則を強化するべきだと為政者に圧力を加えることもできるだろう。だが、多くの消費者はきれいな地球よりは「接続された世界」の方を好むため、そういうことはしなかった。(p.80)

    偽善的なのか、認識不足なのか?ともかく、トヨタ生産方式は産業界の「メタルリスク」に対する責任回避を助長することになったのだ。(p.84)

    供給網のグローバル化は消費財を与えてくれる代わりに、それらの出どころへの興味を私たちから奪った。(p.89)

    われわれはレアメタル生産をよそに移転することで、”21世紀の石油”の重みをグローバル化の苦力に任せただけでなく、独占的地位を潜在的なライバルー中国に委ねたのだ。(p.89)

    第5章

    欧米が盲目に陥る発端には、ある「魔法のような思想」の出現があった。西洋で長い間支配的な考えだった永遠なる科学の進歩という幻想だ。(p.114)

    「中国人は[1985年から2004年まで]タングステンの価格を下げ始めた。原料を安く買おうとする欧米諸国が欧米内で原料を買わなくなり、競合する鉱山が閉山するのを期待した」次の段階は想像できるだろう。タングステン生産の支配権を握った中国は、資源問題でドイツを脅し、彼らの製造業が資源の近くに来ざるを得ないようにする。そして、カット機械産業のドイツのリードを無に帰し、ミッテルシュタンドの柱である工作機械部門を獲得する・・・。(中略)しかし、それを予測したドイツ人たちは中国に競合するタングステン生産国(ロシア、オーストリア、ポルトガルなど)と合意を交わした。「ドイツ人は中国に依存しないよう、他国の鉱山を維持させるためにより高い価格を払う方を選んだ。)」(p.120)

    第6章

    「これらの企業はもちろん、中国の人件費の安さにつられたのだが、レアアースへのアクセスも工場移転の理由の一つだった。合計すると、何百万もの雇用が吸い取られたのだ。」(p.138)

    しかも、化石燃料に変わるレアメタル資源を中国が独占し、その資源に依存するクリーンテクノロジー産業を吸収する戦略は、欧米の経済、社会、政治の危機を増幅した。(p.)

    第8章

    エネルギー転換の実際の環境負荷を評価するには、資源ライフサイクルのより包括的なアプローチが必要だ。たとえば、工業が消費する膨大な量の水、エネルギーの使用、貯蔵及び運送によって排出される二酸化炭素、まだよく知られていないクリーンテクノロジーのリサイクルの影響、こうした活動全体から生じるエコシステムによる汚染などだ。生物多様性への悪影響もある。(p.)

    エネルギー転換を養護する人たちは、クリーンテクノロジーを機能させるための潮汐、風、太陽エネルギーなどのエネルギー源は無限にあるという。他方では、レアメタル業界の人たちはかなり多種類の資源がいつかは不足する可能性があると言う。(p.167)

    現時点でのデータから見ると、「グリーン革命」は期待されたより時間がかなりかかりそうだ。なぜなら、この革命は適切な供給戦略を有する数少ない国のひとつである中国に先導されるだろうからだ。中国政府は世界の需要を満たすためにレアメタルの生産を急激に増やすことはしないだろう。(中略)そのために、中国では自国で生産したものを自国のために保持しようとしている。中国は現在、自国で採掘したレアアースの4分の3を国内で消費しているがーレアアースを供給できるのは中国だけだーその消費の推移を考えると、2025~30年にはすべてを国内消費するようになるかもしれない。(p.169)

    このシナリオの蓋然性は次の3つの要因によってより強化される。
    ・まず、資源の希少さの否定。(中略)こうした警告から何十年経っても、現在の人々は変わらないばかりか、消費は増え続けるばかりだ。(中略)
    ・つぎに、鉱業インフラの不足がある。(中略)「将来の需要に答えられるだけの金属が十分に生産されていないというのが私の意見です。数字が合わないんですよ」とアフリカ人専門家は断言した。
    ・最後に、エネルギー収支比への挑戦。(中略)われわれの生産システムの限界は今日ではより明確になっている。つまり、(エネルギー生産のために)消費するエネルギーが生産するエネルギーを上回る日がやってくる。(p.170)

    市場を不安定にする中国がいるために、それ以外の国の工業部門は、長期的に採算のとれる経済モデルを構築することが非常に難しい。(中略)鉱山再建を金儲け主義で促進する考え方では、中国のやり方には抵抗できないだろう。レアアースは資本主義の活力の鍵のひとつであるのに、その開発は資本主義の論理への挑戦を必要とする。(p.178)

    第9章

    しかしながら、環境保護団体の論理には矛盾点がある。持続可能な世界を望みながら、それが引き起こす影響を批判しているからだ。エネルギー転換とデジタル転換は油田からレアメタル鉱山への転換を意味し、地球温暖化との闘いは鉱山を必要とする。当然、その責任は引き受けるべきだと認めないわけには行かないはずだ。(p.184)

    フランスでみんなが合意するのを待っていると、フランスの鉱山文化は消滅するだろう。(p.184)

    汚染を引き起こす鉱業を外国に移転することは二重の悪影響がある。ひとつは、われわれのライフスタイルの芯の環境負荷を知らずに、これまでの消費生活を維持することに貢献すること、もうひとつは、環境破壊のやましさがまったくない国に、欧米で生産するよりずっと劣悪な環境で採掘・精錬することを許してしまうことだ。
    反対に、フランスなど欧米に鉱山を戻すことは二つのポジティブな効果がある。まず、現代人の生活、「接続性」とエコロジーが高く付くことを、われわれに気づかせてくれることだ。(中略)別の言い方をすれば、汚染を食い止めることに熱心になれば、環境保護対策が進歩し、大量消費の生活様式が大幅に見直されるかもしれない。
    このシナリオが実現すれば、中国の鉱業活動は欧米の鉱業の競争力に苦しめられるかもしれない。(中略)こうして、欧米に強制されたエコロジーの競争に中国のエコロジーは勝てるようになるかもしれない(p.185)

    エピローグ

    われわれが一緒になって目指すこうしたテクノロジー発展の意味はなんだろうか?やり遂げる前に既に重金属でわれわれを蝕むエコロジー移行を推し進めるのはばかげているのではないだろうか?新たな健康被害や環境破壊が生じるとしたら、物質的幸福によって儒教的調和を称えることが本当にできるのだろうか?あるいは、その反対だろうか?(中略)産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。(p.199)

    最良のエネルギーとはわれわれが消費しないエネルギーだ。(p.200)




    システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

    斎藤 幸平 (著)
    集英社 (2020/9/17)

    売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

    SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

    序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
    Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

    本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

    まずは前半の現状課題について。

    3つの問題

    大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
    それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
    研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

    しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

    そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

    • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
    • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
    • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

    の3つになるように思う。

    これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

    環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

    このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

    グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
    資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

    それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
    その根拠をいくつかまとめると、

    • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
    • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
    • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
    • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

    というようなことが書かれている。

    世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

    世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

    私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
    日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

    部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

    (エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

    産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

    これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
    (数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

    ただ、

    事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

    こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

    構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

    環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

    前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

    本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
    技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

    例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

    建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

    仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

    また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
    倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

    労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

    もう一つが労働の問題。
    資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

    資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
    また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

    何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

    高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
    だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
    もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

    果たしてこのままでよいのか。

    労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
    社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

    現状課題に対する個人的なまとめ

    現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

    構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

    労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

    というところでしょうか。

    後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

    ラディカルな潤沢さについて

    資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
    そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

    それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

    人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
    資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

    それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

    技術と想像力について

    技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
    本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

    資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

    潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
    一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
    それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
    例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
    それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

    資本主義から退避する

    資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

    脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

    資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

    もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
    資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
    ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
    大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

    そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

    そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

    巻き簾理論

    ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
    話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

    人の行動は
    やらなければならない(義務的行動)
    やりたい(衝動的行動)
    これまでやってきた(慣習的行動)
    のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
    ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
    会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
    合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

    というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

    ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

    本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

    とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
    コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
    (巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

    結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

    あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。




    高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

    篠原 雅武 (著)
    講談社 (2020/8/11)

    「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
    今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

    人間以後の哲学

    著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

    私はそれを、

    • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
    • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

    である、というように受け取った。

    今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
    その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

    そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

    人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
    その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
    そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

    この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

    果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
    本書はそういう問題を提起しているように思う。

    高断熱化に対する違和感

    誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
    それはどこから来るのだろうか。

    消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
    環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

    おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

    だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

    今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
    しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

    快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

    先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

    もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

    往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
    快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

    暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
    快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

    しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
    大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

    「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
    「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
    その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

    そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

    人新世の世界を生きること

    SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

    省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
    そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
    もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

    人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
    そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

    そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

    屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

    これは勝手な意見、というか余談。

    僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

    もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

    屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
    人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

    メモ

    同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
    (失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
    それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

    ざっと気になったものをあげると

    • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
    • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
    • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
    • ノンヒューマンであること。
    • エコロジーと触覚に向かう言語
    • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
    • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

    というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
    SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




    あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

    篠原 雅武 (著)
    以文社 (2016/12/12)

    『公共空間の政治理論』を読んでから気になっている著者が気になっているというティモシー・モートンの思想を紹介するような内容。たぶん、自分も何かしら感じるものがあるだろうと思い読んでみた。

    あらゆるものが、ただそこにあってよい

    増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(p.212)

    この本を読みながら、最近SNSでよく見かける門脇邸のことが絶えず頭に浮かんでいた
    と言っても、門脇邸を実際に体験したわけでもなく、SNS等でいくつかの感想や写真を目にした程度である。
    どうやら、様々なエレメントがそれぞれがそれぞれとして振る舞い、そこにいても良いと感じさせる何かを生じさせている。らしい。

    モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
    モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
    エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

    それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある

    あらゆるものが概念とは関係なくただただ、そこにある。そこにあってよい。

    著者はそういう姿勢や空間に自分の居場所の感覚を重ね合わせているように感じたけれども、そこで生じた見逃しそうな小さな感覚を、しつこく、丁寧に言葉にしていこうという姿勢にはとても共感する。

    また、建築という概念がフレームになるとすればそれ自体がブラインドになってしまうのだろう。そうならずに建築を追い求めるというのはどうすれば可能になるのだろう
    この問いは、エコロジーという概念とモートンが目指すエコロジーとの関係にも重なる気がする。

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。