1

環境とは何かを問い続ける B286『環境建築私論 近代建築の先へ』(小泉雅生)

小泉雅生 (著)
建築技術 (2021/4/16)

以前読んだ本の中で気になる言葉に著者のものが多かったので読んでみた。

内部構造から外部環境へ

著者は、現代主流になりつつある環境建築の多くが、建築という箱をどうつくるかという外部と分断した内部の論理・近代的思考に囚われたままであること、また、実証のための理論であった環境工学が目的にすり替わってしまっていることに警笛を鳴らしつつ、〇〇から〇〇へというように発想の転換をはかるような思考を試みている。

それは、本書の目次によく表れている。

01 プロローグ
02 内部構造から外部環境へ
03 精密機械からルーズソックスへ―機能主義とフィット感
04 ハイエネルギーからローエネルギーへ―均質空間とローカリティ
05 シャープエッジから滲んだ境界へ―サステナビリティと耐久性
06 メガからコンパクトへ
07 パッシブからレスポンシブへ
08 隔離・断絶からオーバーレイへ
09 細分化からインテグレーションへ
10 ウイルスからワクチンへ
11 エピローグ

これらは、エピローグで「矛盾に満ちた、建築家の私論として、理解いただければと思う。」と書いているように、建築家に内在する矛盾に対する抵抗の記録と読める。

この抵抗は、私がここ2年ほど考えようとしてきたことの動機とも重なりおおいに共感するところではあるが、その矛盾とは何だったのだろうか。

環境とは何か

それは、環境とは何か、という問いに集約されるように思う。

環境あるいは環境工学について、『最新建築環境工学』の最初にこうある。

環境とは、人間または生物個体を取り巻き、相互作用を及ぼしあう、すべての外界を意味するもので、大きく自然環境と社会環境に分けられる。われわれがここで取り扱うのは、主として前者の自然環境と人間の関係である。(p.13)

この快適な室内環境を最小のエネルギー利用で達成するのが、環境工学の重要な使命である。ただ、それは建築全体からみれば、あくまでも結果であって目的ではないことを忘れてはならない。(p.18)

ここではっきりと書かれているように、環境工学の扱う分野は建築の部分に過ぎない。
しかし、それが目的化・矮小化されてしまっているところが建築家の内に矛盾を生んでしまっている。
建築家もしくは設計者には、環境という言葉を狭い意味から開放し、総合化-インテグレートする役割があるはずだが、ややもすると「建築家はすぐに言い訳をして、環境問題から目を逸らし続けている」と言われかねないし、この矛盾の解消は簡単ではなくなってきている。

だからこそ、建築家は自らの信念を見つめ、環境に対する新しいイメージと可能性、実現のための技術を磨きながら、環境とは何かを問い続けなければいけないのだろう。
その点で、本書はやはり一人の建築家による抵抗の記録である。

私もようやく、その抵抗の糸口が掴めてきたような気がするが、実践に関してはこれからだ。楽しんでやっていけたらと思う。




ムシについて B285『昆虫の惑星 虫たちは今日も地球を回す』(アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン)

アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン (著)
辰巳出版 (2022/3/30)

初心に帰る旅のついでに。

何度か書いた気がするけど、子供の頃はいわゆるムシキチでいろいろ捕まえては家で飼っていて、その中でも特に水棲昆虫が好きだった。
田んぼでゲンゴロウやミズスマシ、マツオムシ、ミズカマキリやタイコウチなどを捕まえてきて水槽で飼うのだけれども、そこに一つの世界が現れているようでゾクゾクした。(この小さな世界を好む性格は今の仕事にも繋がっていると思う)
水槽に産卵用のレンガを据えて、そこからタイコウチの幼虫がわらわらと泳ぎだしたときの興奮は今でもよく覚えている。

それが、高校以来、蚊や蟻、蝶などのよく見かけるものを除けば昆虫の気配をほとんど感じることなく過ごすようになった。
大人になってからは子供を連れて水場などによく行っていたけれども、鹿児島でタイコウチやミズカマキリを見かけたことはない。

そして最近、ひょんなことから事務所の近くで田んぼをすることになった。
全く想像もつかない世界で分からないことだらけなのでやってみよう、というくらいで、特に理由はない。
あえていうなら、そこの風景が好きなので田んぼのある風景を引き継ぎたい、という気持ちがあったかもしれない。更に言えば、昆虫のいる田んぼを子供にも見せてあげたい、という気持ちもあっただろう。
とはいえ、隣接する田んぼのことを考えると農薬をどうするか、という葛藤もある。(昔、北の国からで農薬の利用問題が発端となって岩城滉一が死んだシーンが頭に残っている)
米作りに関しては右も左も分からず機械も持っていないため、近所の人に協力してもらいながら、まずは周りと同じやり方をやってみようと思う。そして、ある程度勝手が分かってきて近所の人の理解が得られそうであれば、昆虫を呼び戻せるようなこともやってみたい。(果たして戻ってきてくれるのかは分からないが・・・)

さて、本書は、22カ国以上で出版されているようだ。
予想よりたくさんのエピソードが載っていて、とてもおもしろく読めた。
当然のごとく、終盤は昆虫の置かれている状況が語られるが、昆虫に触れ合う機会の少ない人達にどのくらい届くだろうか。(今ではムシキチ(昆虫少年)も絶滅危惧種なのかもしれない。)

昆虫学の大家、エドワード・O・ウィルソンの有名な言葉がある。

「人間は無脊椎動物を必要とするが、向こうは人間を必要としない。人間がもし明日消滅したとしても、地球はほぼ変わりなく回りつづけるだろう……だが無脊椎動物がいなくなってしまったら、人間は数ヶ月生きのびるのが精いっぱいのはずだ」(p.236)

私自身このことに対する感性がかなり劣化している。


左の5冊は自分が子供の頃から持っているもので写真昆虫記がお気に入り。一番右は息子用に買ったもの。

『里山・雑木林の昆虫図鑑』は図鑑だけれども、写真に勢いが合って子供の頃の虫好きな感覚を刺激してくれる。

今井 初太郎 (著)
メイツ出版 (2018/4/20)

『ビジュアル 世界一の昆虫 コンパクト版』は興味本位で買ったものでこちらも勢いがある。(テキストは翻訳に工夫が欲しかった部分が若干あった。)

リチャード・ジョーンズ (著), 伊藤 研 (監修)
日経ナショナル ジオグラフィック (2020/4/9)

追伸)下記の記事を読み返したらほとんど同じこと書いてました・・・
オノケン│太田則宏建築事務所 » 戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)




脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他)

脇坂圭一 中川純 谷口景一朗 盧炫佑 小泉雅生 冨樫英介 重村珠穂 秋元孝之 川島範久 清野新(著)
建築技術; B5版 (2022/5/25)

前回同様、昨年春に出版された建築環境本の一つ。

「静岡建築茶会2018│建築環境デザインを科学する!」として開催されたシンポジウムの登壇者による講演内容と対談および作品を紹介したもので、環境シミュレーションにまつわる思想的な背景や具体例を知るのにバランスのとれた良書。

「快適」性に対するスタンスをどうするか

環境について考える際に、快適性をどのように捉えるか、というのは根本的な問題で、どういうものをつくるのかを大きく左右する。
冨樫氏は「快適」の2文字のうち、「適」は温熱環境が一定の範囲に収まっていることを言い、それに対して「快」は不適な状態から適な状態へ移行する際のギャップから生まれるものだという。いわば静と動である。
また、中川氏は「快適」とは「快」い状態に「適」する行動を伴った概念とし、微細な環境の差異から導かれた「動的な熱的快適性」を考える必要がある。という。

「快」は意匠分野が好む傾向があり、「適」は環境分野が好む傾向があるようだが、おそらくそれのどちらが正解という話ではないだろう。
基本性能としての「適」はもちろん重要だが、人間のふるまいや感情というファクターを考えると動的な「快」にも役割があるはずだ。(例えば自然の風の心地よさに1/fゆらぎが隠れているように、適と快の揺らぎがあるようなイメージ。それらの揺らぎを含めて快適となるのではないだろうか。)


上図は中川氏が紹介していた建築における美学と技術の2つを楕円の焦点にあてはめた楕円モデルであるが、楕円状の点Pである建築と2つの焦点との距離はどちらもゼロになることはない。そして、総合という視点において美学や技術に対する偏愛が必要だという。
このことは、先の「適」と「快」にも当てはまるように思うが、楕円のどこに建築を置くかというスタンスがその後の方向性を決めるし、「最適化」というものはこのスタンスの表明でしかないように思われる。

また、ここにおいて、シミュレーションの役割は絶対値の提供にあるわけではないだろう。
結果はどのようなモデルを設定しどのようなパラメーターを扱うかで大きく変わるし、モデル化そのものに先のスタンスや思想が表れる。
重要なのは、相対的な比較によって方向性を定めることだと思うし、そのためにはモデル化の手法、結果から読み取る目、そしてそれを活かすための反射神経が重要である。
自ら環境と関わる意志と経験値が必要だし、環境工学的な基礎を学ぶことによって見えてくるものも変わってくる。また、今はまだ理解していないがコミッショニングという分野も人と環境との関わりを考える上で様々な学びがありそうだ。

スケール横断的な想像力を獲得する

では、自分はどのようなスタンスをとるか。

それはこれまで考えてきた大きなテーマであるが、ここで川島氏の一文を引いてみたい。

このコミッショニングの目的はこれまで主に「省エネルギー」でしたが、「自然とのエコロジカルな関係性」をデザインすることにも活用できる。むしろ、そのような目的にこそ活用されるべき、と東日本大震災以降、特に考えるようになりました。(中略)だからこそ、地球との繋がりを実感できる建築が求められるのではないか。太陽をはじめとする自然の変化を美しく感じることができること。その歓びを通して、身の回りと惑星規模のスケールを横断する想像力を獲得し、自らの価値観やふるまいを見直しつづけていくことができるような建築が求められているのではないか。(p.68)

これまで何度か書いたように、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題なのだと思うし、シミュレーションはそれを補佐する役割があるといえる。
「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(もちろん、先の楕円モデルを前提として。)

『カタルタ』の開発者である福元氏は高校時代からの友人なのだが、彼によると、若い頃私はよく「地球上のあらゆる問題は想像力の問題だ」と言っていたらしい。

その発言はあまり覚えていないけれども、確かに、私は建築を想像力の問題として捉えることからスタートしている。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。 「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 私と空間と想像力)

「私のいる空間が私である」というのは好きな言葉の一つなのだが、この言葉は子供時代を過ごした奈良や屋久島での記憶へとつながっている。
その言葉と現代社会とのギャップから、建築を想像力の問題と考えるようになったように思うが、ここにきてまたこの言葉に戻ってきた。

環境やエコロジーという言葉に対していかなる思想や言葉を持つことが可能か。
ここ数年は、このテーマのもと読書を続けてきたけれども、ようやく抱いていた違和感を解消しつつ自分の言葉へと消化できそうな気がしてきた。

関係する読書は続けるとしても、集中的に読むのはここで一区切りとし、また次のテーマに取り組みたいと思う。




答えをあらかじめ用意しない B282『開放系の建築環境デザイン: 自然を受け入れる設計手法』(末光弘和+末光陽子/SUEP.)

末光弘和+末光陽子/SUEP. (著), 九州大学大学院末光研究室 (著)
学芸出版社 (2022/6/10)

昨年、春頃に『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』、『光・熱・気流環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』、そして本書及び『SUEP. 10 Stories of Architecture on Earth』と立て続けに環境系の本が出版されたのでまとめて購入していたもののうちの一つ。

開放系モデルの意義

現在の多くの建築環境は、高気密・高断熱と機械制御による空間が主流となっており、これは、建物を外界から遮断することで、室内環境を整え、発電所でつくられたエネルギーをいかに使わずに暮らすのかという思想に基づいている。これを仮に閉鎖系モデルと名付けてみる。地球温暖化防止のため、高い環境性能が求められる時代において、寒冷地を中心にこの閉鎖系モデルの有効性を疑う余地はないが、生活や住文化を重要視してきた建築家として、性能の追求が数値ゲームとなっていることに対する懸念や、何かが欠落している違和感を持っている人は少なくないだろう。そして、世界は広く、画一的な考え方でものを見ることのに対して疑問も浮かんでくる。(中略)ここで問題提起したいのは、果たしてこの閉鎖系モデルだけで本当に地球環境の問題は解決できるのだろうか、ということである。この問題に対して示唆的なのが、南日本や東南アジアの国々で古くから存在する通風や日射遮蔽を重視した建築である。それらは外部に開き、自然エネルギーを受け入れることで以下に豊かに暮らすかという思想に基づいている。これを開放系モデルと名付けてみる。(p.2)

これは、「はじめに」の一文であるが、大きく共感する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 風を考える上での2つの言葉 B279『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三))

何度も書くように、閉鎖系モデルの技術そのものを否定するものではない。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまうことで、結果的に思考停止に陥り、分断の思考形式を温存することになってしまうことには問題があるように思われる。

結果的に閉鎖系モデルに行き着くとしても、一旦はそういう思考形式を離れて開放の可能性を考えてみる。そうすると、最近の私がそうであったようにいやがおうにも自己と環境との関係性を考えざるを得なくなる。「良さ発見型の技術」はそのことをよく表している言葉であった。(そして、この言葉は北海道で生まれている)

答えをあらかじめ用意しない

本書各章のタイトルを列記すると以下の通り。

  • 01 半屋外をデザインする
  • 02 太陽エネルギーを取り込む
  • 03 地中のエネルギーを利用する
  • 04 風を受け入れる
  • 05 自然光を取り込む
  • 06 半地下をデザインする
  • 07 樹木と共存する
  • 08 生態系をネットワークする
  • 09 都市を冷やす
  • 10 水の循環と接続する
  • 11 森林資源循環をデザインする
  • 12 エネルギーをつくる

私とほぼ同世代でこれだけの質と量の実践をされていることに驚愕するが、何がこれほど幅広い実践を可能としているのだろうか。

これは推測に過ぎないけれども、その鍵は答えをあらかじめ用意しないことにあるのではないだろうか。

外部環境も規模や用途もクライアントの意向も異なる中で、模範的な答えをあらかじめ決めてしまわないことで多様な解が現れる。
それこそが建築設計の醍醐味でもある。
それは、ある意味では設計者の自己満足かもしれないが、それでも、多様な解が現れることそのものに、人間もしくは生物に必要なより広い意味での開放性が潜んでいるように思う。

本書の中の対談で

半屋外空間について、早稲田大学の研究があり、それは駅やアトリウムなどあまり空調されていない空間でなぜ人間はそこまで不満に思わないかという研究なのですが(中略)僕はそれを読んで、「自然の中に近い」という感覚を持つと、人間の許容度は大きくなるというふうに解釈しました。(小堀哲夫)(p.74)

というのがあった。(論文はこれとかこれあたりかと。テンダーさんも以前にたような推測をされてた。)

数値ゲームも重要だけども、それだけに囚われないことによってたどり着くことのできる解は無数に存在するはずであるし、そのための方法を追求してみたい。




循環のイメージを高めたい B281『活かして究める 雨の建築道』(日本建築学会編)

日本建築学会 (編集)
技報堂出版 (2011/7/6)

エクセルギーハウスをつくろう』の著者がHPで紹介していたので購入。

この前にシリーズとして『雨の建築学(2000年)』『雨の建築術(2005年)』があるが、とりあえず新しいものを選んでみた。

感想としては、総覧的な意味合いが強く少し詰め込み過ぎている感じがした。多数の執筆陣による共著によるせいかもしれないが焦点が定まらない印象を受けた。(個人的に買った本では共著はあまり響かない本であることが多い気がする。)
もっと具体的な内容を知るには『雨水活用建築ガイドライン―日本建築学会環境基準』を買うべきかも知れないが迷うところである。

ここ数冊の読書から、月並みではあるけれども循環のイメージが環境を考える上でも、建築にはたらきの要素を加える意味でも重要な気がしている。

しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

その中で、水の循環は地球の、もしくは生命の循環を考える上で特別な意味を持っている。
あわよくば、その水の循環のイメージをより洗練させられればと思ったのだけれども、間違いなく本書の中心問題でありつつ若干物足りなく感じた。(もしかしたら『雨の建築学』もしくは『雨の建築術』の方が目的には適っていたのかもしれない。)

水の循環に関しては、『エクセルギーと環境の理論』『エクセルギーハウスをつくろう』『「大地の再生」実践マニュアル』『よくわかる土中環境』で多少はイメージが掴めてきた。

環境を考える際、都市部におけるとっかかりは地方に比べてかなり限定的になってしまうと思うのだけど、その際、水の循環と小さな生態系を考えることが重要なとっかかりになりそうな気がしている。

外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。 そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン))

雨水だけをみていては大切なものを取りこぼしてしまうのかもしれないな。




水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳)

矢野 智徳 (著), 大内 正伸 (著), 大地の再生技術研究所 (編集)
農山漁村文化協会 (2023/1/18)

『よくわかる土中環境 イラスト&写真でやさしく解説』と合わせて読了。

高田宏臣 (著)
PARCO出版 (2022/8/1)

確か、小学校の中学年くらいの頃だったと思う。
屋久島に移住する前は奈良の田んぼが広がる田舎に住んでいて、山や川、田んぼや空き地が主な遊び場だったのだけど、ある時、ザリガニやいろんな生き物が住んでいた石積みの用水路があっという間にU字溝に置き換えられた。
当然、そこにいた生き物の姿はなくなり、遊び場の一つが失われ、その時そういう決断を下した大人たちをたいそう恨んだことを鮮明に覚えている。

またちょうど一年前、二拠点生活と称して日置市の山間で仕事を始めた。
職場であれば町内会には入らなくても良いと言われたけれども、ここの風景が気に入って入ってきたのでフリーライドはしたくなかったのと、何よりこの地での経験をすることが二拠点居住の目的だったので町内会に入ることにした。
定期的に道際や川の草刈りなど手入れがあるけれども、昔であれば、「どうせまた生えてくるのに草刈りに何の意味があるのだろう。むしろ自然のままに任せるという考えもあるのでは。」と思ったかもしれない。今は、そこに経験的に培われてきた知恵があるはずだと考えている。

そこでこの2冊を読んでみたのだけれども、いままでまるで見えていなかったものが見えてくる、風景の意味ががらっと変わってしまうような体験だった。

どちらも、同じような問題意識のもと書かれていて共通点はかなり多い。
あえて違いを書くと、大地の再生の方は、より実践的な内容で、自然環境が水と空気の循環によって保たれていることに加え、風の流れ(それが土中の水と空気の流れともつながっている)に重きを置いている。
土中環境は、実践より理屈を分かりやすく伝えることに重きを置いているようで、菌糸の働きへの言及も多い。

読後に日置の集落の風景を見てみると、ここでさえ、昔の知恵を置き去りにしてしまったことがたくさんありそうだし、集落の奉仕作業からも忘れられてしまった理屈がいくつもあるだろう。このままでは、人が減るに連れ知恵や技術の喪失がさらに加速度的に進むのは避けられそうにないし、都市部においては言うまでもない。
(と言っても、何度も書くように初心者の私には集落の先輩たちは先生である。)

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう)

この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。

「土中環境」では特に自然災害に対する現在の土木技術の矛盾が浮き彫りになっているが、アカデミズムの世界ではどう扱われているのだろう。
ここで書かれているような原理が大学などで研究され、技術の置き換えが起こるような大きな流れが生まれて然るべきだと思うけれども、現状はどうなのだろうか。

それは当然建築においても言えるが、田舎はさておき都市部で何ができるのか、というイメージを育てるにはもう少し経験と実感が必要だ。

今朝、雨が降る前に、少しだけ庭の手入れをしてみた。
風の流れや空気感が少し変わった。
自分がほんの少し、この地に馴染めた気がして、気持ちが良い。




弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B279『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登)

荒谷 登 (著)
彰国社 (2013/8/1)

地球環境時代を迎えるいま、経済力、技術力、エネルギーに頼った力づくの問題解決ではなく、それぞれの地域が持っている特質をより顕著なものにする、奪い合うことのない成長のあり方を、本書を通して考えてみていただけたらと思います。(p.3)

著者は温熱環境の専門家で、北海道の高断熱高気密住宅のパイオニアでもあり、『民家の自然エネルギー技術』の著者の一人でもある。

北海道住宅の専門家の本が九州南部での建築を考えるのに参考になるだろうか、と若干不安があったものの、もっと広い視野で書かれているのでは、という予感があったため購入した。
それが、期待以上の良書であった。

本書は、北海道建築指導センターが発行している『寒地系住宅の熱環境計画シリーズ』の5巻をまとめたもので、それがそのまま本書の章立てになっている。
その構成は、

  • 『1 採暖と暖房』(1976)
  • 『2 気密化住宅の換気』(2003)
  • 『3 省エネルギーから生エネルギーへ』(2003)
  • 『4 断熱建物の夏対応』(2007)
  • 『5 断熱から生まれる自然エネルギー利用』(2010)

というもので、24年もの歳月をまたぐのだが、それぞれ当時の普及技術の潮流を感じさせはするものの、内容は全く古さを感じさせない。

それが、著者の熱環境への深い知識によるだけでなく、その根本に確たる哲学があることによるからだ、ということが読み進めるにつれ分かってくるのだが、私が今、建築の温熱環境に対するスタンスで迷っていることに対して多くのヒントと与えてくれた。

今の建築の温熱環境に対して、何か煮えきらないものを感じていたのだが、それに対してどういうヒントが得られたか、ということをここ2年ほど環境について考えてきたことを振り返りながら書き残しておきたい。

良さ発見型の技術・弱さ・目

一貫していたのは近代技術が得意とする欠点対応ではなく、無償の富である自然や自然エネルギーに中によさを見出してそれを生かす、良さ発見型の対応でした。(p.220)

技術には、欠点対応型と良さ発見型の2つがあるという。

欠点対応型は環境の中から欠点を見出し、それを克服するために電力のような独力での問題解決能力を持つ強い力を用いるもので、近代的な分断の思考をベースとして画一化へと向かうもの。
一方、良さ発見型の技術は環境の中から無償の自然エネルギーのような弱い力を見出し、それらを組み合わせ引き出すことで問題を解決しようとし、多様性をもたらす。

後者は、例えば天空光や反射光、そよ風や熱対流、気温の日変動や年変動、乾燥や湿潤、蓄熱や放熱、新鮮な空気や水、微妙な風圧や気圧の変動など、それだけでは問題を解決できない弱い力であり、地域性や変動性が大きいといった性質を持つ。

元来、建築はそのような弱い力の特性を引き出し活用するための器であったが、近代化とともに強い力に依存することになってしまい、風土との対話を忘れてしまった。

私が現在の潮流に対して抱いている違和感の根本には、この強い力への依存への無反省を感じてしまうことがあると思うのだが、それは仕方のないことなのだろうか。

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(p.173)(森田真生))

ここで、この文が頭に浮かんだのだが、強い力への依存は自己を強い主体と勘違いさせてしまうし、おそらくその強さが様々な問題の根っこにある。弱さの受容、あるいは、モートン的な距離に対してとどまる姿勢、言い換えると強さに依存せずに弱さにとどまることなしには、持続可能な世界に近づくことはできない、というのが今のところの結論であるが、本書はその弱さにとどまるための技術論とも読める。

ここでの弱い力は、地域性や変動性を持ち、強い力への依存のように思考停止を許してくれる(もしくは思考を奪う)ものではない。
それ故に、これまで歴史的に積み重ねられてきた知恵に意味が生まれるし、自らがその弱い力を見出す力を持つ必要がある。

欠点が客観的に捉えやすいのに対して、環境や相手の良さを知るには何が良さであるかをはかる独自の価値判断が必要で、しばしば自分自身の価値判断が問われます。(p.211)

このことは逆に言うと、自分自身の価値判断、哲学を持つことができれば、新しい良さを発見できる可能性がある、ということである。
そのことに設計者としては面白みを感じるし、そこで生まれた個性は建築に生命的な躍動感を与えるとともに、そこでの生活にリアリティを与えることにもなるだろう、という予感がある。

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。
二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

弱い力を見出すための目を養うことが重要であるのは間違いないが、そのためにも強い技術に頼ることを一旦忘れてみることが、建築と風土との対話を思い出させるために必要な気がしている。

三つ巴の温熱環境論

これらの弱い力は先に書いたように、独力では問題を解決するほどの力になれない。(問題解決という物言いそのものが近代的発想を感じさせるがここでは横に置いておく)
そのために必要なのが断熱(+気密化)と熱容量である。

断熱、熱容量、自然エネルギーのいずれも独力での問題解決能力のない弱さがありますが、それがともに働くとき、力では得られない穏やかな環境が生まれます。(p.149)

著者は断熱や熱容量を弱い自然エネルギーを生かすためのものとして捉えており、それは私にとって新しい視点であった。
技術的な詳細は本書に譲るが、大雑把に言いうと、断熱が熱の出入りを小さくすることで、弱い力の個性を尊重しつつ、役割や出番を与え、さらに熱容量の助けを得ることで、変動を緩和しピークをずらし弱い力を補う。

大きな熱の出入りと強い力に依存している際には無視されていたような弱い力を、主役とするために断熱を施す。そのように考えるとかなりスッキリした。
それでも、これでもかという断熱には強引さ・強さの印象を消しされないのだが、昔の日本の夏の民家がこのような工夫の見本であったことを考えると、その印象は使う素材のイメージによるかも知れないし、「そこまでする必要がないのでは」という考え方は欠点対処型の思考が根強く残っているからかも知れない。
(断熱をどこまで施すか、というのが問題だが、弱い力を生かすためのピークシフト能力・時間を一つの目安にするのが良さそうな気がしている。それは三つ巴の構造全体をみながら考えるべきだろうし、答えは一つではないだろう。)

この辺りは若干気持ちの整理がついていない部分ではあるし、課題の一つでもあると思うが、以前よりはかなり納得感を得られたのは大きな収穫であった。

資本主義的な物語とエコロジー思想

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。 そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

建築の温熱環境をどう考えるかは、つまるところ、資本主義の物語に対してどうふるまうか(オルタナティブの問題)、もしくはエコロジカルであるとはどういうことか、という思想によって決まるように思う。

それについて、著者の視点が表れている部分をいくつか抜き出してみる。

流通経済の発展は、私たちがすでに持っているものよりも持っていないもの、地域の良さよりも欠点に目を向けさせ、支出を減らす自給経済よりも、所得を増やす経済へと私たちを駆り立ててきました。(p.113)

暖房や冷房とは、家の中に閉じこもるためのものではなく、この大きな変化を敵視する感情を取り除き、それに親しむ生活を作り出すためのものです。(p.162)

あまりにも身近にあるためにその存在や素晴らしさに気づかず、忘れられ、利用しているという意識も、感謝の思いも、それを傷つけているという自覚さえ失っているもの、その典型が自然エネルギーです。(p.167)

不思議なことですが、自然エネルギーの最大の難しさはそれが無償の富であることで、それを活用する知恵や情報がほとんど伝わってきません。
命にかかわるほどに大事なものであっても、無償である限り、経済でその価値を表現することはできませんし、多くの自然エネルギーはエネルギーの仲間としてさえも認められていません。
多くの人が関心を寄せるエネルギーとは、思い通りになる人工エネルギーとともに経済力で、経済の活性化につながらない問題の解決手法やエネルギーの活用法を伝える情報や知恵が失われ、伝わらなくなっています。(p.177)

潤沢に存在する自然エネルギーは、資本主義による希少化と商品化の物語には乗りにくいが、著者はそこに損得勘定ではなく、オルタナティブとしての物語を見ている。そこが信用に足ると感じる部分でもある。(この本では光熱費がいくら得になる、といった話は出てこない。)

環境破壊への反省あるいは欠点対応としての省エネルギーを”地球にやさしい生活”と呼ぶ人がいますが、果たして地球への暴力を少し控えめにしましょうという程度の省エネルギーが環境にやさしい生活と呼べるのかどうか疑問です。
それよりも、無償の富としての自然の素晴らしさを知り、それに親しみ、慈しみを持って接する生活にこそ本当の優しさがあるのではないでしょうか。
もし、環境保全の視点を”自然に親しむ生活”に移すなら、それは良さ発見型の発想であり、自然と自然エネルギーの活用と生業としている第1時産業こそがその鍵を握っているといえます。(p.214)

”地球にやさしい生活”とは何か、と問われた時にどう答えることができるだろうか。

例えば、同じ様に断熱を強化するとしても、独力での強いエネルギー利用を前提とした省エネの思考と、自然の無償エネルギーを活用し自然に親しむための基盤を得ようとする思考とでは、ベクトルが全く異なるように思う。前者は未だ近代的分断の思考にとどまるが、後者の思考であれば、断熱化を近代的分断の思想から逃れるためのエコロジーの基盤とできそうに思える。

(同じ視点で、私はオフグリッドまでいかない太陽光発電をどう捉えてよいか迷っているとことがあったが、それは省エネの文脈で考えるべきことのような気がした。効果や必要性は認められるし重要な技術には違いないけれども、それはエコロジーの視点からは2次的なものであろう。)

成長するとは自分の回りを変えることではなく、自分自身を変えることです。
創造の課題もまた新しいものをつくることよりも新しい自分を発見することです。
自然エネルギーの特徴は、思い通りになる強さよりも助けを必要とする弱さにあり、地域によって異なる多様性こそが魅力であり、奪い合うことのない無償の富として、私たち一人一人に与えられていることです。
自然と自然エネルギーの素晴らしさをしることは欠点の克服以上に、新しい自分自身を発見する成長への鍵であり、省エネルギーや温暖化防止に勝る、持続可能な成長への課題です。(p.216)

自分を変え、新しい自分を発見することが良さを発見するための基盤となる。生きていく上でも、設計する上でも変わり続けるということは永遠の課題である。

また、本書の終盤では一次産業のあり方にまで言及されるが、それも著者の思想の延長上にある。
建築の温熱環境といってもそれだけに閉じている問題ではない。先に書いたように資本主義やエコロジーをどう捉えるか、生き方全般に関わる問題であるが、それだけに根が深く、個人的にも残された課題が多い問題である。
(ここで、例えば甑島のケンタさんが離島を飛び回ってされていることと、生きていくこと・生活すること、建築を作ることが繋がった。それらが別のものとしか捉えられないところに近代的分断の問題がある。)

次世代へと引き継ぐべき技術

ここでまたもやテンダーさんの言葉である。
先日話しをしていた時に、「資源が不足することが確定している未来にどういう技術を残すのか」というような話をされてハッとした。

今回の強い力、弱い力の問題は、どういう技術を残すべきか、という問題でもある。

特に日本では、伝統をその意味や目的を明確にして継承するのではなく、むしろそれが濃縮され、洗練された形、あるいは様式、構法、慣習として受け継がれる傾向が強いために、それを引き継いできた棟梁や達人がいなくなり、材料や構法が変わると、その形や様式とともにその背後にある精神や意味をも見失ってしまう可能性があります。(p.133)

身の回りが装置化され、ブラックボックス化し、自動制御されると、この生活の知恵が怪しくなってきますが、無償の富である自然と自然エネルギーの素晴らしさを知り、その活用に参加する中で、生活の知恵を積み重ね、研ぎ澄まし、新しい伝統技術として引き渡していくことが大切です。(p.212)

日本では、強いエネルギーによる独力での解決方法と北欧型の断熱技術が進んだ結果、昔ながらの知恵は大部分が建築からのみならず生活全般において失われつつある。それは、引き継ぐ必要のない技術であっただろうか。そこでは技術だけはなくそれに伴う人のふるまいや思想も同時に失われる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。 しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

上記のことはここでも当てはまるように思う。技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。
現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。

これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。
そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。

技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。

そこで重要なのははたらきと循環の思想である。

注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。 その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。 それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

個別のエネルギーのふるまいはエクセルギーという言葉を使わずとも捉えることができるかもしれないが、エクセルギーという概念が与えてくれるのはこのはたらきと循環の流れのイメージである、というのが私の今の理解である。

地球は外断熱された星であり、その中には太陽エネルギーをもとにした様々なはたらきと循環が生まれている。そのイメージを建築に重ねることができれば、さまざまなものが見えてくるのではないか。

うまくいけば思うような建築ができるかもしれない。と期待しよう。

まとめ

断熱をどの程度強化するべきか、に対して思想的根拠を持てていないためモヤモヤしていたのだが、それに対してある程度の考えを持つことができたし、これまで考えてきたことととの接点を掴むこともできた。

昔ながらの日本の民家は、夏に関しては様々な工夫がなされ洗練されたものであったが、冬に関しては寒さの中で暖をとる採暖を余儀なくされてきたため課題が残っていた。
また、北欧や北海道から広がってきた寒地型の断熱手法は、エネルギー利用によるコントロールを前提として夏の工夫を忘れ去るものが多かった。

この、夏と冬の間の矛盾をどう解消するかが大きな課題であることは変わらないけれども、それに対する考え方のベースを得られたことは大きい。

だからといって、一つの確たる正解が得られた訳では無いし、正解があるわけでもないだろう。

都市部と地方では環境は大きく変わるし、活用できる自然も異なる。案件により、立地による環境も、法的縛りも、予算も、住む人の生活スタイルも全てが異なる中で、その都度楽しみながら考えられればと思うが、その時に頼りになり安心感を与えてくれるのは、一つの答えではなく、自分の中の基準である。

2年前から環境をテーマにもやもやしながら考えてきたけれども、ようやく次の一歩が踏み出せそうな気がする。


最後に、終章から、「自然エネルギーの良さを発見する器としての建築」について書かれた部分の小見出しを列記しておきたい。

  • 自然に親しむための器
  • むらのない環境をつくる器
  • 自然エネルギーの個性を尊重するための器
  • 変動から生まれる自然エネルギーを生かす器
  • 自然エネルギーを環境調整の主役にする器
  • 昼の光を活かす器としての建築
  • 夜の光の演出
  • 湿度調整の器としての建築
  • 新鮮な外気を生かす器
  • 無償の富を生かす器としての建築
  • 自然エネルギーを後世に引き継ぐ器としての建築



風を考える上での2つの言葉 B278『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三)

南 雄三 (著)
建築技術 (2014/1/16)

通風に関する本を探していて本屋で見つけたもの。

その前に『図解 風の力で住まいを快適にする仕組み』
野中 俊宏 (著), 森上 伸也 (著), 四阿 克彦 (著), 並木 秀浩 (著)
エクスナレッジ (2021/9/4)

も購入していて、具体的な事例が多数紹介されていたのだけれども、『通風トレーニング~』の方が理論的な背景を掴むのに面白かったため、こちらをブログのタイトルに選んだ。

気まぐれな風

両書を読んでまず感じたのは、風はなかなか手ごわいということ。
日射や気温はある程度状態を想定して考えることができるけれども、風は何しろ気まぐれで思うようにはいかなさそうだし、確立された設計手法というものもあまりなく、発展途上という印象を受けた。
とはいえ、理論的な蓄積や、これまでの歴史の中で積み重ねられてきた工夫というものは確かにある。

その中で、本書は理論的背景を解説しつつ、FlowDesignerによって様々なケースをシミュレーションしながら進められる。
QandA方式で風の振る舞い想像しながらシミュレーション結果と答え合わせすることで徐々に感覚を掴んでいくというトレーニングとしての構成は面白く、気まぐれな風に対して有効なアプローチだと感じた。

著者は、未確立の風の扱いに対して、まずは夜間の通風による「外気冷房」によって就寝可能な環境を作る、というのを(ある意味妥協点として)設定しているのも潔くてよい。
(私は何を隠そう、夏の夜は家族の中で一人だけダイニングに布団を移動して未空調の空間で窓を開けて寝たり、夏休みに数家族でバンガローに泊まりに行ってもエアコンを回避して外にテントを張って一人寝る、というくらいに(特に夜間の)冷房環境が苦手なものだからなおさら共感した。)

話は変わって、今年の夏、最近このブログでもおなじみになりつつあるテンダーさんと「屋根散水と輻射熱研究会」と称していろいろと実験したりしてたんだけど、その結果報告として、テンダーさん作のヤギ用ドームを拝見した時に、テンダーさんがふと口にした言葉が心に残った。

一つは、「皮膚で感じる環境は<答え>であって<式>ではないし、<快適な温度>というのは測れない」というもので、もう一つは「壁が熱を作る」というもの。
これは、この夏の集大成とも言える言葉でなかなかの名言だと思う。

<快適な温度>は測れない

前回の『建築環境工学』を読みながら、もろもろの実験や考察をまとめると下の図の内容にたどり着く。

人が感じる快適性は、人体を通しての熱収支による。
ざっくりいうと、人体の体温を一定に保ち、体内に蓄熱しないとすると、M(代謝量)=E(蒸散・潜熱)±R(放射・顕熱)±C(対流放散・顕熱)が成り立たなくてはならない。このうち人体が調整可能なのはMの代謝量とEの蒸散(発汗)である。

未調整の状態を考えると、M(代謝量)は活動状態で決まり、E(蒸散・潜熱)とC(対流放散・顕熱)は周囲の気温と人体の表面温度の差及び風速で決まり、R(放射・顕熱)は周壁温度と人体の表面温度の差で決まる。

人体の表面温度を33℃に保つとした場合、基本的な代謝量と環境による熱の出入りがバランスしていて無理がないのが快適な環境である。逆に熱収支が合わない時は震えによって代謝による熱量を上げたり、発汗による蒸散で熱を逃がす必要がある。そこで身体にかかる負荷が大きいと寒く感じたり暑く感じるということだろう。

これは、いわゆる温熱環境の6要素(着衣量、活動量、気温、湿度、放射(周壁温)、気流)に置き換えられる。

馴染みの深い気温と湿度だけではなく、様々な要素が複雑に絡み合った熱収支の<結果>を人は感じているのだ。つまり<快適な温度>というのは一つの幻想であり簡単には測れない。(ちなみに複雑な要素による快適性を馴染みの気温に便宜的に置き換えるのがSET*(新標準有効温度 Standard new Effective Temperature)である)

熱環境の考察において気温だけをみていると、様々な可能性を見落とすことになるし、外皮性能一辺倒の思考停止に陥りがちな風潮を助長する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。

そんな中、快適性における風の役割についてはもう少し意識的であっても良いとおもう。(反省をこめて)

壁が熱を作る

もう一つの「壁が熱を作る」。
これはすごい。

例えば日射を考えてみると、太陽からの放射を壁や屋根が受け止めることで、電磁波が初めて物体の持つ振動・熱に変換される。そして、その熱が伝導・対流や再放射によって室内環境に影響を与える。(それは正または負の資源性を持つ)

確かに、日射そのものが熱エネルギーを持つには違いないけれども、緑の中の涼し気な環境を思い起こすと、あまりにも無防備に受け止めたり閉じ込めたりして「壁が熱を作る」ことを当たり前なことと考えすぎているのではないだろうか。その無意識を一突きにする言葉である。

ここでは詳しく説明しないけれども、先のヤギ小屋は体感としてとても涼しく感じた。そこでは日射を真面目に受け取らず、周囲の放射熱をいなす工夫がなされていた。

今回の2冊では通風はあくまで人体との関係の中でしか考察されていなかったけれども、この日射を含めた周囲の放射熱をいなす、ということに対して風の役割は大きい。

つまり、風を人体と建物、双方との関係性の中で考えることが重要であろう。

今回の主題である風を考える上で「<快適な温度>は測れない」「壁が熱を作る」はなかなか示唆に富む名言なのである。

あっ、ちなみにテンダーさんの1Vドーム製作キットは下記で購入可能です♪
1Vドーム製作キット(45mm幅角材用) | ダイラボ通販

うーん、Vectorworksにbutterfly(Rhino+grasshopperでCFDシミュレーションを可能とするプラグイン)を移殖する計画、躓いたまま止まっているんだけどなんとかしたいなー・・・




工学的な知識を何に対してどう使うのか B277『最新建築環境工学 改訂4版』(田中 俊六他)

田中 俊六 (著), 岩田 利枝 (著), 土屋 喬雄 (著), 秋元 孝之 (著), 寺尾 道仁 (著), 武田 仁 (著)
井上書院; 改訂4版 (2014/2/18)

教科書としての名著

環境工学の教科書である。

最近、基本的なことを学び直す必要性を感じて本屋で探したところ、教科書系には珍しく似たような本が7,8種類は置いてあった。

30分以上迷いに迷った挙げ句、一番教科書っぽくて基本的な数式の載っているものにした。以前なら図解の多いわかりやすいものを選んでいたかもしれない。

(後日、もしやと思い以前見たことのある動画を確認したところ、名著として紹介されているものだった。学生の頃に手に取っていた可能性があるけれども、環境工学に関しては教科書も授業内容もまったく記憶にない・・・)

雰囲気で仕様を決めるのが嫌で、シミュレーションをして定量的な判断ができるようにと環境を構築してみたものの、根本的なところの理解がないと、結局雰囲気で決めることに変わりはないな、と最近の実験等で痛感した。
そういうこともあって本書を購入してざっと一通り読んでみたのだけど、教科書だけあって、知りたかった情報にかなり出会うことができたし、理解も進んだ。

もちろん、一読するだけで内容を自在に使いこなせるようにはならないので、今後必要に応じて実践的な視点から再読する必要がある。
また、現時点ではいろいろな情報が入りすぎて少々混乱してしまっているところもある。

工学的な知識を何に対してどう使うのか

混乱しているのは知識だけではない。
工学的な知識を何に対してどう使うのか、というのも知れば知るほど混乱しつつあるため今は保留にしている。

工学的な知識から、一つのあるべき最適解が導きだせるかというと、そんなことはない。
環境工学的な視点のみから何を満たすべきかという基準がはっきりしていれば、あるいは最適な解というものが存在しうるのかもしれないが、建築は、例えば環境工学的な正しさのみのために存在するのではないし、複雑に絡み合ったそれ以外の大量の要素を無視してはそもそも実現不可能である。

建築が何のために存在するのか、もしくは建築とは何なのか。それによって正しさはいかようにも揺らぐ。
だからといって、今さら<建築>のためにエネルギーを垂れ流すのはいた仕方ない、と言い訳を探したい訳でもない。
それでいて、環境工学的な正しさのために<建築>なんて不要だ、という気もない。
環境工学的な正しさは<建築>の一要素に過ぎない。

今、自分に必要なのは、工学的な知識を何に対してどう使うのか、という自分なりの基準である。

「何に対して」は、これまで大切にしてきたことがある。
それと、「どう使うのか」をつなぐための哲学と言葉、そして知識と技術を探し出す必要がある。

後少しの間は我慢してインプットを進めるつもりだけど、年内には何とかつなぐためのシンプルな言葉だけでも探し出したいと思っている。




手を添えるテクノロジー B276『民家の自然エネルギー技術』(木村 建一 他)

木村 建一, 荒谷 登,石原 修,浦野 良美,伊藤 直明,小玉 祐一郎,渡辺 俊行,吉野 博,宿谷 昌則,田辺 新一,岩下 剛,谷本 潤 (著)
彰国社 (1999/3/1)

昔からの民家を工学的に捉えたものは論文などではいろいろと見つかるけれども、まとまった書籍として出てないだろうかと探して見つけたもの。(本書でも宿谷氏が一部執筆されている。)

本書は当時の文部省による科学研究費補助総合研究『伝統的民家における自然エネルギー利用技術の現代的適用に関する研究(1994-1996)』の成果を抜粋・再構成したもので、その内容は多岐にわたる。

通風形式による民家の分類

その中で代表的な民家の特徴を3つに分類すると、周辺環境を調整した上で水平方向に開放する「通風型」(農家)、地盤の冷却力と冷えた空気が下に滞留する性質を利用して上方へ開放する「熱対流型」(町家)、それに加えて、開口部を絞り込み遮熱性と熱容量を高めた「閉鎖型」(蔵)に分けられるように思う。(「閉鎖型」は筆者による)

現代の断熱性能に特化する傾向の強い住宅は「閉鎖型」が近いだろうか。
これらのうち、「通風型」と「熱対流型」について書いておきたい。

「通風型」の民家

通風型の民家は、一番イメージしやすいであろう茅葺屋根の農家である。

まず、高い断熱性能と保水性を持つ茅葺屋根、深い庇によって、夏の日射を遮る。
開口部は比較的大きく開放的で風通しが良いが、深い庇と軒の低さ、格子や簾の遮蔽材、奥行きの深さと高い天井高などによって中は総じて暗い。
また、土壁や土間が蓄熱体として存在している。
その民家を周囲の水や緑を通過した涼しい風が通り抜け、風向きは安定している。

つまり、日射遮蔽の徹底通風利用夜間蓄冷熱利用自然冷熱源の利用によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「通風型」の民家といえる。

ここで、茅葺屋根の熱伝導率は『茅葺き屋根の居住性を評価するための屋根の熱移動係数』によると0.041W/mKである。
もし、茅葺屋根の暑さが60cmとすると熱抵抗値は0.6/0.041≒14.6㎡K/Wとなり、現代においても超がつく高断熱といえる。
茅葺屋根が昼の日射を十分に遮ることで昼間の室内気温と表面温度の変化を和らげるとともに、保水性の高さによって、雨天後の蒸散による冷却をも可能とし、夏の涼しさを生む。
(これだけ熱抵抗値があると蒸散による室内への冷却効果はほとんど現れなさそうに思うが、実測研究では雨天後の気温上昇を抑えられたようだ。同研究による屋根内の結露センサー抵抗値の実測では降雨により深さ20cmの地点の抵抗値が上がっているので、茅葺屋根の持つ保水性・浸透性が関係しているのかもしれない。)

一方、土壁の熱伝導率は0.7W/mK程度だそうなので、厚さ30cmだとすると熱抵抗値0.3/0.7≒0.43㎡K/Wとなり、こちらはあまり高くない。(グラスウール16K 10cmで2.2㎡K/Wほどなのでその1/5程度)
しかし、比熱は1100kJ/m3Kと高く、厚さ30cmの土壁の面積あたりの熱容量は330kJ/㎡Kとなり、厚さ15cmのコンクリートと同等である。
このことが、深い庇が壁への日射を遮ることと合わさり、夜間に放射冷却された土間と土壁による昼の涼しさを生むことにつながる。

「熱対流型」の民家

熱対流型の民家は複数の中庭を持つ都市型の町家である。
通風型民家と比較した場合に一番の環境の違いは、通風型民家では自然冷熱源であった周辺環境が、ここでは高温輻射熱の発生源であることだろう。

通りに対しては比較的閉鎖的で日射及び高温輻射熱を遮蔽し、隣戸との戸境壁の断熱性能も高める。
2階に使用頻度の低い部屋をまとめて、1階の生活空間への緩衝地帯とする。
その上で、中庭、坪庭などの屋外や、通り庭・吹き抜けなどの垂直に抜ける空間を確保し、それと連動するように居住空間を配置する。

中庭には直接日射が当たらないため、1階は比較的涼しく、夜間の冷熱を保持するプールともなり、生活排熱は上昇気流によって上空から排出される。

また、庭の一部に屋根を設けたところ風が吹かなくなった、という報告があるように、複数の庭があることが重要なようだ。
上空の気流や、庭の状況、散水などによって、複数の庭の間に圧力差が生まれ、その間の居住空間に風向は安定しないが微風が生じる。
これが、土間や床下の冷気を運びさわやかな冷感を生む。
(屋根形状によって効果を上げることは考えられそう)

この様に、外部遮蔽内部開放型の空間構成複数の井戸型上方開放空間地盤側の巨大な熱容量それらによる冷熱プールと微風の発生によって、夏季の過ごしやすさを求めたのが「熱対流型」の民家といえる。

まとめ

これらは、環境に適応するかたちで長い時間をかけて培われてきた知恵だと思うが、開放型と熱対流型の2つのケースを横に並べられたのが本書を読んでの一番の収穫かもしれない。

それを現代においてどう活かせるか。

ここであげた、民家の工夫は吉田兼好の「家のつくりようは夏をもって旨とすべし」の通り、夏に対して効果を発揮するものが多い。
夏と冬とでは求める機能が違い、相反する要素も多い中、その矛盾をどう解消するのか、というのが第一の課題だろう。

また、当時と比べて周辺環境や温度環境も厳しくなっているだろうし、人々の要求水準も高くなっている。
そんな中、断熱強化とエネルギー投入による力技にテクノロジーを使うだけでは、人々の根本的な意識や姿勢は変わり難いように思うし、ベクトルとして何か楽しさや生命感を感じる方向にも向き難い気がする。
そうではなく、自然の原理を利用する昔の知恵をもっと発展させたり、加速させるために、テクノロジーが手を添える。そんなことが考えられるといいなと思う。(そのヒントは通風と蓄熱にありそう)

何より、こういうことを考えやってみるのは楽しいことだ、というのが最近の実感だ。

単純に性能値を上げるのが考えることも少なく簡単だし、気密断熱の効果の大きさも実感している。そこをどうずらし整合させるか、というのが一番の課題かもしれない。

そのためには思想と理論と実感、どれも必要な気がするし、どこかでこれでいいじゃん、というポイントが見えてくる気がする。
今のところはそのポイントがクリアに見えているわけではなく、見えてくる確証があるわけでもないんだけど、経験と実感による勘では必ずあるはず。
(だって、中途半端とはいえ、それなりに断熱性能を上げた馬屋2階の事務所より、無断熱の平屋母屋の方が過ごしやすいんだもん。冬は母屋は寒すぎるけど。)

何か、今まで培われてきたちょっとした常識がブラインドになっている気がするな。




道理と装置 B275『エクセルギーハウスをつくろう: エネルギーを使わない暮らし方』(黒岩 哲彦)

黒岩 哲彦 (著)
コモンズ (2014/5/3)

前回読んだ本と関連して購入。『エクセルギーと環境の理論』でも著者の実践例が紹介されていた。

著者は、1198年に『エクセルギーと環境の理論』の著者の宿谷氏の研究室を訪ね、その後宿谷氏や当時大学院生だった高橋氏と協力しながら本書で紹介されている建築の構成を開発するようになったようだ。
(宿谷氏と高橋氏を含むメンバーは、2000年頃に『スレート葺き屋根の二重化と散水が日射遮蔽効果に与える影響に関するエクセルギー解析』という論文を発表している。)

エクセルギーハウスの二重屋根採冷システム

主要なシステムの概要としては、タンクに貯めた雨水の持つエクセルギーを太陽熱温水器なども活用しながら夏冬ともに活用するとともに、夏は二重屋根の間での散水による蒸発冷却によって天井の温度を下げるというもの。(その他にもいろいろ工夫があり、各地で実践もされていて面白いのだけど、ここでは二重屋根についてのみ触れたいと思う。)

二重屋根に関しては、二重屋根彩冷システムと言うよりは、小屋裏彩冷システムと言った方がしっくりくる。

まず、ある程度の断熱性能を備えた屋根により日射を遮蔽する。
その上で、天井の小屋裏側に貼ったガラスクロスの保水層に散水することで、持続的に蒸発冷却が行われるようにする。
また、天井材を熱抵抗・熱容積の小さいガルバリウム鋼板とすることで蒸発による影響をストレートに伝え温度変化を大きくする。
この小屋裏空間には風量調整の可能な窓(蓋)が設けられており、夏季に十分に換気が可能となっている。

実測研究の結果を見ると、室内温度は最高35℃程度まで上がったようだが、天井温度は24.5~28℃の間で推移し、室温より最大で8℃近く下がったという。(『雨水の蒸発を利用した二重屋根採冷システムの室内熱環境に関する実測と解析(2003 黒岩哲彦 高橋達)』)

人は室内気温より周囲の物体の温度が低い方が快適性を感じやすいそうだ。室内気温は一般的な常識で考えるとそれなりに高温だが、上の論文では入居者は概ね涼しさ・快適さを感じているようだった。

道理と装置

実際に屋根散水をやってみて(そして失敗に終わって)痛感したことだが、何かを工夫をするとしても、その理屈にそぐわないことをしても当然結果は出ない。
そういう意味では、研究者と協力しながら開発したこのシステムはやはり理に適っている。(どう理にかなっているかだいぶ分かるようになったのは、失敗してその原因を考えられたおかげだ)

しかし、理に適い過ぎているような気もする。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。 そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。 しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

これは、全く個人的な感覚だし、図や写真のみを見て「気がする」という程度のごく僅かな引っ掛かりに過ぎないのだが、その引っかかりの原因はなんだろうか。

一つは、大きな天井面が一つの機能と一対一で対応しているという、機能の現れ方とスケール感によるものだろうか。何か天井が人に対して背を向けているような感じをほんの少し感じ取ってしまう。

また、もう一つは、ガルバリウム鋼板という素材の持つ工業性と平坦さ、厚みのなさによるものだろうか。例えば、上からキメ・質感のある材料を塗ることで緩和することは可能だろうか。

あるいは、自動化されたシステムが目に見えないところに隠れていることによるものだろうか。何らかの方法でシステムを見えるようにしたり、関わる余地を取り入れることで引っかかりが楽しさに変わることはあるだろうか。

ぼんやりしているけれども、これらが何か装置ということばを頭に浮かび上がらせ、家との間に距離を感じさせるのかもしれない。

システムとしてよく考えられていて、とても参考になるし、批判するような意図は全く無いのだが、ごくごく個人的に何か重要なことがこの引っ掛かりに隠れている気がする。




電子工作で屋上散水を自動制御した結末の話

断熱はそれなりの施したので夏を乗り切れると思ってたけれども、今年の夏はなかなか厳しい。

少し前にテンダーさんのラボにお邪魔した時に、屋上散水を試してみようかと思っている、という話を聞いていた。
あわせて、手頃な価格でarduinoというマイコンがあって、プログラムが扱えるならいろいろ制御できるかも、という情報も頂いていた。

これは屋上散水、いっちょやってみるか。

と、いろいろと勉強しながらも行き当たりばったりでやってみたので、その結末を含めて書き残してみる。

つくってみたシステム概要

つくってみたシステムは下図の感じ。(画像はクリックで拡大)

簡単にいうと、井水を電磁弁で制御し、屋根及び東面の大窓の前に垂らした簾に散水する。

電子回路を組んで作成した制御システムでは、屋内の室温と天井温度、屋外の照度と気圧、温度をセンサリングする。
それをarduinoにデータを取り込み、その数値に応じて散水間隔を変化させてリレースイッチで電磁弁のオン・オフを切り替えた。

合わせて、取得したデータはSDカードに記録して、PCで管理、CADソフトでデータ処理して可視化する。
可視化したデータを分析して、プログラムを修正するというサイクルを回して、最適化を目論んだ。

簾への散水ははじめは計画していなかったんだけど、もともとあった井戸ポンプの性能上、屋根上までの水圧がかかっているとポンプが稼働しないことが判明したためとりいれた。(中間の加圧ポンプを導入する前)
これが、簾への散水と、電磁弁が閉の時に水圧を下げるための水抜き機能を兼ねる。(散水はどちらもホースにカッターで適宜穴あけ)

それで、ある程度は稼働したけれども、最初設置していた屋根上スプリンクラーの圧が足りず、途中で加圧ポンプを追加した。
それでもまんべんなく散水が出来なかったので、屋根上のスプリンクラーを穴あきホースに切り替えた。

外から見たらこんな感じ。

簾への散水。効果の程は分からないけど見ているだけで涼しげ。

そして、屋根散水。穴開きホースの穴を調整してある程度はカバーできるようになった。

回路を組む

なにしろ初めての事だらけで、配管も電子回路の組み立て、プログラムも失敗しながら試行錯誤を繰り返した。回路のハンダ付けなんて小学生以来。

最終的に制御システムの回路図は下記の感じ。


気圧温度センサーがなぜ2つあるかというと、センサーにペットボトルをカットしたものを被せて雨がかかりにくいようにして、外からはしごで設置したんだけど、カバーのせいか外気温が過大な数字になる傾向があったため。
もう一度はしごで取り外して修正するのは怖くて嫌だったので、温度センサーとしての目的で同じものを室内に穴から外に棒で突き出して追加することにした。(品番HW-611をarduinoのフォーラムで検索して、SDOに電源をつなぐとI2Cのアドレスを0x77から0x76に変えられることが分かった。これで0x77と0x76の2つを制御できます。)

arduinoのコードは投稿の最後に付けておきます。

結果は・・・

届いた順にセンサーを追加しながらログはうまく取れるようにできた。

天候やエアコンのオンオフが反映されてます。(無料のBルートサービス申し込んだので、電気使用量も今から反映させる予定)
可視化はVectorworksのマリオネットでCSVを取り込んだものを図形として書き出しています。以前やったLadybug toolの移植で格闘した経験をフル発揮。

サーモカメラで瓦屋根の表面温度をしらべてみる。

表面温度は30度近く下がっている。
これは、かなり期待できそうだ。

晴れた日に散水せずにとったデータと重ね合わせてみると、
▼8/26 散水あり。青が外気温、緑が室内気温、赤が天井の表面温度。薄いのは事前にとった散水なしのデータ。

うん、夜は冷気をとりいれるため窓を開けるように切り替えたので比較のグラフより温度下がっているけれども、昼間は完全一致。

完全一致!?
うーん、散水量が足りないかな。

▼8/28 散水あり。スプリンクラーから穴開きホースに切り替えまんべんなく散水。加圧ポンプも追加。こんどこそ、

うん、完全一致!

▼8/29 散水あり。いやいやいや、気を取り直して

ほら、完全一致・・・
あきらめて冷房入れたよ。まったく。

うーん、うまくいけば自宅や今後の計画に活かそうと思ってたんだけど、ほとんど違いが見えない。
東側の窓は少し涼しく感じるようになったけど、これでは屋根散水の意味ないんでね。

なんでかなーー。
センサリングの問題か、ほんとに効果がないか、わかんないな―

検証

テンダーさんのラボも屋根散水してみたところ、屋根の表面温度は下がるけどほとんど効果が実感できないとのこと。
条件はかなり異なるけれども、これは何かあるはずだ。

なんとか納得できるものを得ようと、建築学会で屋根散水やエクセルギーに関する論文を検索して、概要を片っ端から読んでみる。

そのうちに、こんな論文を発見。

論文の内容を簡単に書くと、「無断熱の屋根散水の効果を実証する論文は結構あるけど、断熱されたものは検証されてないので実測してみたらほとんど効果なかったよ」というもの。

先の論文は、その原因を工学的に分析するところまで行ってなくて、ほんとそうなの?ともやっとする。

うーん、結論としてはスッキリしない。

いろいろ考えた挙げ句、前回のエクセルギー本に日射によるエネルギー・エクセルギーの収支を計算する例が載っていたので、それを参考に、気化熱を反映した計算にトライしてみた。

各種条件から気化熱による値を計算するのはかなり難しそうだったので、気化熱で奪われる熱量を変数として指定する方針で検討。ある程度独立した数字として扱えそうだったのでやってみた。

ついでに、いろいろなパラメーターから日射が室内にどう影響するかをこちらもマリオネットでグラフ化。
そうやって出来たのがこれ。(クリックでPDFが開きます。なかなかの資料だと思う。間違ってるかもだけど。)
→日射エクセルギー
これからかなりのことが読み取れるけれども、断熱性能(熱抵抗値)と蒸散で奪われる熱量との関係を図化した部分がこれ。

気化熱の扱いはもしかしたら間違ってるかもしれないけれども、あってるとすれば、
蒸散によって奪われる熱量と内部に向かうエネルギー、屋根の表面温度の増減は比例するっぽい。
屋根の表面温度は断熱性能とそれほど大きくは相関しない(熱抵抗値が上がると内に向かう熱量が減る分、むしろ表面温度は上がる)。
しかし、内に向かう熱エネルギーとエクセルギーは断熱性能が上がるほど目に見えて減少し、熱抵抗値4.0だと絶対値として気化熱の影響はほとんどうけなくなった。

断熱性能が上がると、内へ向かう熱量ももちろん減るが、伝熱のスピードもかなり減速し、昼夜のリズムの中では他の要因によってほとんどかき消されるものと思われる。

うちの事務所の屋根は熱抵抗値4.3以上あるはずなので、それは効果が実感できないはずだ。暑くなるのは他の要因が大きいのだろう。

ちなみに、テンダーさんのラボは屋根の断熱性能はほとんどなさそうだけど、天井があり、ほとんど換気されない小屋裏空間がかなりの容積で存在する。
その小屋裏空間の熱容量はかなりのもので、そこが熱溜まりとなって屋根散水の効果の多くをかき消していると想像される。

結論(仮)

結論としては、高い断熱性能の屋根では屋根散水はほとんど効果がないため、他の部分で対策を考えたほうが良い。
また、小屋裏空間を設けて、夏はそこを十分に換気するというのも大きな意味がありそう。
断熱性能が低く屋根裏が剥き出しのような建物の場合は、屋根散水の効果がある程度は見込めそうだし、費用対効果は高いと思う。(水道代は未検証。雨水とポンプで考えれば割りと安くできるはず)

ここで学んだのは、例えば蒸散によって冷エクセルギーを得ようとした場合、どこでそれを得るかの考えが重要、ということだ。

私はエアコンが苦手なので、エアコン無しで夏の大部分を乗り切ろうとした場合、どこでどうやって冷エクセルギーを得るか、夜間に蓄冷をどうするか、ということが重要かもしれない。その際、植物の振る舞いはとても参考になりそうな気がしている。

窓の向きや大きさは大きな要素だけど、断熱性能だけに頼って、窓をとにかく小さくするようなのも、何か楽しくない。

夏冬の相反する条件をうまく対処して、それが楽しさへとつながるような家ができないものだろうか。

こんなに効果ありました―!というブログを書くつもりが、こんな結果になりました。
おかげで、かなり突っ込んで考えられて感覚も掴めてきたので結果オーライということで。

arduinoコード

ボタンスイッチとシリアルモニタからある程度制御できるようにしてます。内容はコード内のコメント見てください。
(メモリの96%を使用。このタイプのarduinoではあまり複雑なプログラムはできなさそう。)
→onoken1.txt
いろいろ購入したもののリストは気が向いたら作成します。(失敗もあり)
主だった購入リストをamazonの欲しい物リストにまとめました。

Amazon 欲しい物リスト

・arduinoは互換品だったけど、今のところ問題なさそう。
・気圧温度センサーは、湿度測れるって書いてたのでこれにしたけど、測れないっぽい。3.3Vではなく5Vのものにしたほうが良かった。湿度測るなら、BMP280ではなくすこ少し高いけどBME280にするべきかと。
・原因は分からないけど、このSDカードリーダーはaruduinoの電源をアダプタから取ったときにうまく作動しなかった。次買うとすれば、もっと定評のあるものにするか、原因を突き止めるか。(追記)アダプタを9V2Aのものから12V1.25Aのものに変えるとちゃんと作動しました。
・接触式のリレーはカチカチなるので、気になる場合は非接触式がいいかも。耐久性も高いそう。
・ポンプなんかはもっと適したものがありそう。井水使わないなら、雨水溜めて、もう少し性能の高いものにしたかな。

あと、買ったものはほとんどが、説明書等が全く無くてものだけだったので、説明書なりメモがついてるものか、ネット上に情報が載ってるものを使ったほうが良いと思った。例えば、LCDやSDカードリーダーも接続等迷って動かすのにそれなりに試行錯誤が必要だった。I2CとSPI通信はだいたい分かったかな。




はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則)

宿谷 昌則 (著)
井上書院; 改訂版 (2010/9/25)

別のエコハウス関連の書籍で本書に掲載されている表が載っていたので気になって購入。

エクセルギーとは

エクセルギーは聞き慣れない言葉である。

例えば、「エネルギー消費」「省エネ」「創エネ」などと言ったりするが、厳密にはエネルギーは増えたり減ったり、創ったり、消費したりしない。ありかたを変えるのみである。これは熱力学第一法則「エネルギー保存の法則」であり、この世界の大原則だ。
では、先程の言い回しがどうなるかと言うと、実は消費されたり、生成されるのはエネルギーではなく、エクセルギーである。

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。
例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。
これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。

エクセルギーは資源性をあらわし、エントロピーは廃棄されるべきゴミである。

また、20℃の物体は、30℃の空気中では空気を冷やす能力を持つ(冷エクセルギー)が、同じ物体が、0℃の空気中では空気を温める能力を持つ。(温エクセルギー)、というようにエクセルギーは環境によってその能力が変わる。

エネルギーの全体量は変わらずとも、そこに偏りがあれば、資源性を持つ。それがエクセルギーである。

エクセルギーは今までのイメージを塗り替える

そのエクセルギーには実際どんな意味があるか。

まず、エクセルギー・エントロピーの概念を導入すれば、例えば何℃のお湯が冷めるまでどれくらいの時間をかけてどういう経過を経るか、というような、さまざまな現象を数値として扱い計算によって導き、その資源性を数字として把握したり比較することが可能となる。また、様々な形態をとる資源としてのエネルギーがどう循環しているか、というのを並列に捉えることが容易くなる。

例えば、「体感温度≒(室温+周壁の表面温度)÷2」みたいなことが言われたりするけれども、もっと厳密に、室温と周壁の表面温度その他の条件によって、人体が消費するエクセルギー、言い換えると人体に対する負荷/心地よさがどう変化するか、といったことを根拠をもって理解することができる。
▲p.79 この図を他の本で見かけて本書を購入した。
それは、熱力学の成果であるが、ある現象に対する今までのイメージをひっくり返したり、新たなイメージを得る、というような経験を与えてくれる。
これは今、環境について考えようとした場合に必須の経験かもしれない。

▲p.25
例えばこの図。20℃ 20Lの水を40度に温めたものと、20℃ 5Lの水を100度に温めたものでは資源性が異なる、と言われてピンと来るだろうか。
私は、同じエネルギー量なのに、そんなわけはない、と思ったが、実際にエクセルギーを計算するとこうなるし、平衡状態へ至るのに要する時間が大きく異なる。

エネルギーの持つ資源性を考えるには、そこにエクセルギーという概念のイメージを新たに付け加える必要がある。

地球という閉鎖環境と流れ・循環

本書の内容はヘビーな大学の講義2コマ分はゆうにありそうなので、すべてを説明はできないが、本書では、日照から、光、温度、人体、植物、有機物、熱機関といった多岐にわたる物事の流れと循環がエクセルギーという概念で説明されている。

そこには著者の通底する思想がある。

地球は、太陽から受け取った日射エクセルギーによって、上記のようなざまざまなシステムの流れと循環が生み出され、そこで生成されたエントロピーを宇宙へと排出することによって平衡を保っている、という「エクセルギー・エントロピー過程」を含んだ閉鎖系である。

▲p.50

その閉鎖環境の中で、これまで営まれてきた流れ・循環を、強引な操作によって乱れさせているのが環境問題であるとするなば、その流れ・循環を整え直すための理論を提示することが著者の思いかもしれない。

例えば、照明計画に関しては、

昼光照明とは、日射エクセルギーが消費され尽くすまでの道筋(過程)を照明という目的に合うように「流れ」を変えることだといえよう。昼光照明は「流れのデザイン」の一つなのである。(p.74)

と〆られている。
注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。
その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。
それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。

はたらきのデザイン

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。

「流れ」と「循環」は、ものやものの集まりではなく、それらの働きである。働きとは機能である。機能に対置する熟語は構造だ。もののかたちづくる構造の振る舞いが機能だからである。構造は<かたち>、機能は<かた>と言ってもよい。構造は写真に撮れる。機能は写真に撮れない。だから、構造は見て取れるが、機能は読み取らなくてはならない。(中略)「デザイン」といえば<かたち>――そう連想するのが常識だろう。<かたち>がデザインの一側面であることは間違いないが、「デザイン」にはもう一つの側面<かた>があることを見落とし(読み落とし)てはならないと思う、本書の副題を「流れ・循環のデザインとは何か」とした所以である。(p.339)

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。
しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。

その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。
そんなことに今、可能性を感じつつある。

メモ

・太陽の日射エネルギーの約半分が地表に吸収されるが、そのうち半分ほど(47%)は水の蒸発によって運び去られる。残りは対流によってが14%、放射が39%で、この収支が成り立つことで地表の平均温度が保たれる。水の循環による役割は大きい。と考えると気化熱を利用するのは自然の仕組みにかなっていそうな気がする。
・日射に対してエネルギー、エントロピー、エクセルギーがどのように割り振られるかの計算をエクセルで再現したところ、コントロール可能なパラメーターは入射角・吸収率・断熱性が考えられる。断熱性能を上げても、伝熱にかかる時間が長くなるだけで、トータルの室内に入るエネルギーは変わらないイメージだったけど、比較してみると外に逃げたり消費されたりする割合が変わり、断熱性を高めると室内へ向かうエネルギー及びエクセルギーもそれなりに減少する。また、吸収率の影響はかなり大きい。
・物体が電磁波によって放出するエネルギーは物体の絶対温度の4乗に比例。
・地球には日射を動力源、水を冷媒とした巨大なヒートポンプと呼べる循環がある。また、地球は植物の光合成を起点とした養分循環による熱化学機関とも言える。
・これからはパッシブシステムをよりよく働かせるようなアクティブシステム・アクティブ型技術・それに伴う哲学や思想、科学が必要。
・空間に放たれた光は最終的にはすべて熱に形態変化する。
・人体の温冷感覚は、人体を貫いてエネルギーや物質がどのように拡散していくか、身体エクセルギーの消費の仕方や大きさで決まる。
・冷房病は人体エクセルギーが過度に消費され続けて「だるさ」を感じさせることかもしれない。
・ある条件で、人体エクセルギー消費量が最も小さくなるのは、冬で室内空気温18℃・周壁平均温25℃の場合(2.5W/m2)、夏で室内空気温30℃・周壁平均温28℃・気流速0.2m/s程度の場合(2.0W/m2)となる。人体が快適と感じる状態を生み出すためには、室内空気温そのものよりも、室内空気温に対して周壁平均温を冬は上げ、夏は下げる方が効果が高いケースがある。
・湿度にも同様に資源性がある。
・冷暖房時には外皮から出入りするわずかな熱エネルギーの差が重要。何かの目的を達成するために発電所に投入されるエクセルギーはその20倍以上となることが多い。
・暖房において建築外皮の断熱性・気密性向上は、ボイラー効率の向上よりも、エクセルギー消費を減らすのにはるかに効果がある。
・冷房時には日射に起因する室内での発熱量を屋外日除け等によって減らし、照明等の発熱を抑えることが重要。
・夏季に、蒸発冷却や夜間放射冷却を利用し、対流によって涼しさを得るのを「彩涼」、放射によるものを「彩冷」という。その際躯体蓄冷が有効。
・植物は光合成によってグルコースを生産し酸素を廃棄するとともに、蒸散によって冷エクセルギーを生み出す。それが最も大きくなるのは日射量50W/m2,風速0.5-2.0m/s程度のときであり、蒸散による冷エクセルギーの生成には程よい日射遮蔽が必要。
・建物の長寿命化とは、生産過程の大量なエクセルギー消費と引き換えに、建材中に固定したエクセルギーを、工夫によってできるだけゆっくり消費が進むようにすること。
・エクセルギー消費量は当然住まい手の行動意識に大きく左右される。パッシブ型の冷暖房が十分に機能し「快」の知覚が得られるようにすることで、住まい手の行動を変えていくことも重要。
・実行(冷)放射エクセルギー(放射冷却)は、外気相対湿度が低いほど、外気温が低いほど大きくなる。外気温0℃湿度40%のとき5.5W/m2、外気温32℃湿度60%のとき1W/m2となり、夏に比べて冬のほうがかなり大きい。
・夏の1W/m2も人が涼しさを得るには必ずしも小さくはないが、地物の温度が高いと温エクセルギーになることもある。
・蓄熱は(外気側)断熱によってエクセルギーの蓄積量・定常状態までの時間がかなり大きくなる。
・物質は濃度の高い方から低い方へ拡散するため、ひしめきあって存在する液体水は、大気が水蒸気で飽和していなければ、温度の高低にかかわらず水蒸気になろうとする。
・いわゆる冷房病は人体が対流によって冷エクセルギーを受け取るような場合に起きる。
・大きな温エクセルギーを人体に与えることが暖房ではなく、大きな冷エクセルギーを人体に与えることが冷房でもない。冷暖房は、人体から周囲空間へのエントロピー排出がうまく行えるように、人体からほどよい温エクセルギーが出力されるようにすることである。




永遠のオルタナティブ B273『方丈記 現代語訳付き』(鴨長明 )

鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)

前回読んだ本で何度か出てきたので、たまには趣を変えてみようと思い、100分で名著と合わせて読んでみた。
小林 一彦 (著)
NHK出版 (2013/6/21)

方丈記が文学的にどれほど素晴らしいかは私には分からない。ただ、和歌に励んでいた長明が文学的な様々な手法を凝らして書いたもので噛めば噛むほど味がでるのだろうな、とは感じた。
また、長明がどのような思いで書いたのかも本当のところは分からない。ただ、そこから滲み出る人間味が人を惹きつけるであろうことも感じた。

驚くべきは、本書が800年ほど前に書かれたもので、今も読み継がれているということである。私もすっと読めたし、最後の終わり方に心を動かされもした。

本書はなぜ時代を超えて読み続けられているのだろうか。

それは、本書が本流の側になく、いつの時代もオルタナティブであり続けられたからではないだろうか。いわば、永遠のオルタナティブ。
本書に記された具体的な内容そのものよりも、オルタナティブとして今も残り続けているその事実自体が最大のメッセージとなっているように思う。

—————————————————-
ということをさらっと書いて終わりにするつもりだったけど、もう少しだけ。

最近、事務所のご近所さんになったテンダーさんと時々話をする機会があるのだけど、その中でオルタナティブという言葉が何度か出てきて気になっている。

そこで、国際文化フォーラムがテンダーさんの講座を開き、レポートを上げてくれていたの思い出した。

そして僕たちは、「主流こそ正しい」と考えがちな脳を持っている。これは群れで生きてきた人間が、群れで生き残るために獲得した本能といえる部分なのだけど、現代では広告やメディア、教育の力を合わせることで主流を誰かの意向に沿うものに変えることができてしまうので、もはやリスクを伴う本能となってしまった。
だから意識的に、オルタナティブに触れる / オルタナティブで在る必要があると僕は思う。(テンダーさんの「その辺のもので生きる」オンライン講座、はじまるよ! | お知らせ | 公益財団法人国際文化フォーラム)

この講座全体を通して、もしくはテンダーさんの生き方そのものを通してオルタナティブとは何かを考え続けることが示されていると感じるけれども、自分にとってのオルタナティブとはなんだろうか。
最近、そういうことを考えることが多くなってきた。
それは、事務所を移転した動機そのものだと思うけれども、その動機を含めて自分ではまだ分かっていないことだらけだし、本流であることは考えることを免除される、もしくは奪われることなので、少しでも逸れようとすると知りたいこと、考えたいこと、やりたいことが爆発的に増えていく。

一番は労働と時間(これも本流であることによって奪われているものだろう)の考え方がネックになると思うけれども、急がず、焦らず、しかしできるだけ早く、じっくりと気長に向き合っていきたいと思う。

(講座のレポートがすごく丁寧なので、プリントして綴じていつでも読めるようにしてみた。
 ただ、システム思考と交渉の回は一度読んでみたものの、手を動かすワーク系の回は、先に全部読むのは貴重な機会を捨てることになりそうなので、一旦読むのをやめた。実際に手を動かしながら、必要に応じて読んでみようと思う。まずは、火を起こせるようにやってみよう。)




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




世界にとどまる境界線に再び向き合う B271『体の知性を取り戻す』(尹 雄大)

尹 雄大 (著)
講談社 (2014/9/18)

サクッと読めたのでサクッと。

著者は柔道・空手・キックボクシングなどを経験した後、何かの違和感をもとに甲野善紀に師事し、韓氏意拳に入門した。その経験をもとに身体の知性とは何かを語る。

だが、ふと思うと、幼子は大人がおののく世界で無邪気に遊ぶ。遊ぶとは、この世界と全身で戯れつつ関係を結ぶということだ。(p.169)

幼い頃は誰もが好奇心のまま、身体の赴くままに世界と戯れる。それが、小学校に上がる頃から大人になるに連れ、頭で考え、他人の視線を気にするようになり、ルールから逸脱しない正しいことをせよ、と刷り込まれる。そして、自らの身体を通して世界と会話する方法を忘れていく。
大きく言うと、このことがいろいろな問題の根っこにあるのでは、というのが最近のテーマである。
いや、大きく言わずとも、ごく個人の問題としてもう少し自分の感性を取り戻したい、というのがある。

冒頭で、子供の頃に「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」に対して違和感を感じたことが語られるが、ちょうどこの部分をパラパラと読んだ次の日にとあるワークショップがあった。

私は関心があって参加させて頂いただけの立場にすぎないけれども、このワークショップを「子どもたちが身体を使って世界との関係を切り結ぶ技術を学ぶきっかけ」と(個人的に)解釈していた。
そのワークショップの冒頭で、付き添いの大人たちが子どもたちを学年順に整列させたのが少し気になったのだけど、これは本書によると、「命令するものに注目せよ」というメッセージであり、身体に緊張を与え、受け身の姿勢を強要したことになる。それはこのワークショップの主旨に対して全く反対の効果を与えたことになる。

とは言っても、相手に対し失礼のないようにしよう、と言うのも分かるし、私も同じようなことをした可能性はおおいにある。
この時考えないといけないのは、この「相手に対し失礼のないようにしよう」というのも結局は「よく考えてからものを言いなさい」と同じメンタリティであって、子どもたちの体験そのものよりも、相手の視線、もしくは自分の体裁を気にしただけではないか、ということであって、子どもたち以前に自分たちの問題であるということだ。

また、このワークショップ中でも、あの子にはもっと身体を自由に試行錯誤させるような話しかけ方をすればよかったな、というような反省点が無数にあったのだが、比較的うまく道具を扱えている子はどの子もリラックスして自分なりの身体の使い方を模索できてるように感じた。

この本を読んで、また、この体験を通じて感じたのは、自分も「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」の呪縛から全く逃れられていない、ということであり、間違ってもいいので、肩の力を抜いて、もっと身体と世界の声に耳を傾けないといけないな、ということであった。(染み付いてしまっているので、簡単ではないけれども)

オノケン│太田則宏建築事務所 » B011 『自分の頭と身体で考える』

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。 それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。

若い頃には少しこだわっていたこの境界線、歳をとり家族が増えるにつれ、それを言い訳に見ないふりをしてきたこの境界線に、再び向き合ってみようと思う。他の誰にでもなく自分の身体に聞きながら。




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




近代と遊びとエコロジー ~解像度についてのメモ

・近代は分断によってブラックボックス化とアウトソーシング化を進めることで、さまざまなものごとに対する解像度が低いままでも生きていける状態を必死で作り上げてきたと言える。あらゆるものごとが便利になった。

・遊びとは、ある特定のものごとに対する解像度を高めていくことだと定義してみる。そうすると、近代はあらゆる場所から遊ぶ機会を排除してきたと言えそうだ。

・エコロジーは近代によって不要とされてきた解像度を再び高めていくことからスタートする。まずは目・感度を養うことが重要。

・そうすると、エコロジーと遊ぶことはかなり近いところにありそう。

・昔から便利さにある種の危うさを感じていたこととも関係があるだろう。

・住まうこと(使うこと)の半分は建てること(つくること)の中にあり、そこに人間であることの本質がある、というようなことも、解像度を高めることと関連して考えられそうだ。

・エコロジカルに遊ぶことが人間にとって本質的なものだとすると、このままそれらが置き去りにされたままで果たしてよいのだろうか。

・自分たちは別に良いとしても、子供たちに渡すべきものを半分置き去りにしてしまっているとしたらどうだろうか。

・今年掲げた「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」ということが少しだけ見えてきた気がする。




2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる


2022年は環境という問題に対しての自分なりの指針を作ることが目標だったのですが、今年はじめに昨年、本を読み考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
2022matome.pdf
それを今年の指針としたいと思います。

遊ぶように生き、遊ぶようにつくる

人新世を『「それ以外の世界」と生活世界を分断する近代的世界観による時代』として捉えた時、2つの世界の間の矛盾を生き、脆さを受け入れるような態度が必要になってきます。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。

そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。

遊ぶように、ということ

遊ぶように、と言っても悠々自適に好きなことをやりたいようにやる、ということとは全く違うように考えています。
遊ぶとは、目の前の未知なる状態を受け入れ、それと向き合いながら、自己と環境を自在に変化させていくことであり、そのためには、自分の思考とルーティンを疑い変化させて行くことが必要です。
そのために生活に変化を与えようとしているのですが、この先どうなっていくかというのは明確には見えていません。むしろ先が見えていないことそのものに価値があるということが重要です。

まだ、これまでの生活に引きづられて自分の思考とルーティンを大きく変えるようなところまでは行けていませんが、今年は遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、を指針として変化を楽しんでいきたいと思います。