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物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾)

隈 研吾 (著)
エクスナレッジ (2015/9/19)

隈さんの本やアフォーダンスの本は時々読んでいる。
けれども、アフォーダンスで環境を読み込み設計を行うプロセスに関するものは何度か目にしているが、環境となる建築そのものの現れに関する具体的な事例はあまり見たことがないように思う。

足がかりとしてのオノマトペ

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。
そこにアフォーダンス的な知覚、身体、体験といったものの感覚を載せることでモノと人との関係を調整しているように思われるが、その感覚を載せられる(体験を共有・拡張できる)という点にこそオノマトペの利点があるように感じた。

出来上がった作品や手法を見ると一見モダニズム以降の定番のもののようにも思えるが、そういった視点で眺めるとオブジェクト・形態を設計するのではなく体験を設計しているという点で根本的な違いがあるように思えてくる。
いや、モダニズムでも体験は重要な要素であったかもしれない。では、違いはどこにあるのだろうか

物質を経験的に扱う

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。
モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。

人と物質との関係を表す圧力

本書では圧力という言葉が何度も出てきているが、オブジェクトとそれぞれのオノマトペから受ける印象を、人と物質との関係(圧力)という視点で漫画にするとこんな感じだろうか。

onomatope

翻って、自分がよく直面する予算の厳しい小さな住宅ではこれをどのように活かせるだろうか
ここにある多くの手法は予算的に難しいように思うが、反面、身体的なスケールに近いため注意深くオブジェクトになることを避けることで関係性を築きやすいような気もする。
そのためには自分なりのスケールに適合したオノマトペのようなものを見つける必要があるのかもしれない。

心地よさと恐怖感

また、写真を眺めていると、建築が自然のような環境としてではなく、ガイア的な生命をまとっているもののように見えてくる瞬間があった。そこでは何か、野生の生存競争に投げ込まれたような恐怖を感じた。
それは、写真を見ただけで実際に体験していないからかもしれないし、建築をオブジェクトとして捉えることが染み付いているからかもしれないし、アフォーダンス的な何かが生存に関わるなまった感覚を刺激したからかもしれない。(見る時で感じる時とそうでない時があるので体調にもよるかもしれない)
大きなスケールの場合、もっと環境そのものと同化するような工夫がいるような気もするし、なまった感覚の方に問題があるような気もする。この辺のことはよく分からなくなってしまったので一度体験して見る必要がありそうだ。




ケンペケ03「建築の領域」中田製作所

6/6に中田製作所のお二人を招いてのケンペケがあったので参加してきました。
今回はレクチャー1時間前から飲み始めてOKというプログラムで、なおかつ公式レビューは学生さんたちの担当だったので気楽な気持ちで飲みながら参加。
(体調不良もあったのですが、雰囲気が良くて飲み過ぎてしまい早々にダウン気味に。いろいろお聞きしたかったのにちょっともったいないことをした・・・)

公式レビューは近々学生さんたちからアップされると思います。なので、あまり被らないようにイベントの感想というよりは自分の興味の範囲で考えたことを簡単に書いておきたいと思います。(と書きながらめっちゃ長くなった・・・)

「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。そして、その視点から中田製作所、HandiHouse Projectの取り組みには以前から興味を持っていました。

このブログやフェイスブックで何度か書いているので重複する部分も多いですが再び整理してみようと思います。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が分断されている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものとして成立していて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている。また、その分断化には「所有すること」の意識が強くなったことも寄与していると思います。

先の引用のように、建てることと分断された住まうことは、住まうことの本質の一部しか生きられないのだとすれば、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるか、と言うのが命題になると思います。
ただ、私の場合はあくまでそこに住まう人にとっての本来的な「住まうこと」、言い換えればリアリティのようなものを取り戻したい、というのが根本にあります。ただ「建てること」を取り戻したい、のではなく「住まうこと」を取り戻したい。よって、そのために「建てること」を「住まうこと」の中に取り戻したい。という順序であるということには意識的である必要があると思っています。

では、どのようにすれば「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができるでしょうか。

これまで考えたり今回のイベントを通して考えた限りでは3つのアプローチが思い浮かびます。

1.直接的に「建てること(つくること)」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「建てること(つくること)」に巻き込むことによって「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す方法があるかと思います。中田製作所のアプローチはこれに近いかもしれません。
これはそのまんま建てることを経験するので効果は高いと思うし、その後の効果の持続も期待できるように思います。
原因となる分業化のタテの構造そのものを並列に転換するようなアプローチですが、建てることの中にいろいろな住む人と並列した存在が入り乱れるような状態が生まれ、それによって「所有すること」の意識も解きほぐれるような気もします。(たぶん、それによって違う展開が可能な気もしますがとりあえず置いておきます。)

2.「建てること(つくること)」の技術に光を当てる

住まう人が直接つくることに関わらない限り、この分断は乗り越えられないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば建てる(つくる)行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置する、という行為になってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこではまだつかうこととつくることの間の連続性は保たれていたのだと思いますし、その連続性の中に職人の存在する意義があった(つかう人に「つくること」を届けることが出来た)のだと思うのです。

ですが、工業化された商品を配置するという行為だけではつかう人のつくるという行為を職人が代弁することは困難ですし、それではつかうこととつくることの連続性における職人の存在意義は失われてしまいます。職人が職人でいられなくなると言ってもいいかもしれません。

ここで、1のセルフリノベのようなことが職人の居場所を奪わないか、また技術をどう継承するか、といった疑問が浮かんできますが、私は必ずしも相反するものではないと思っています。
セルフリノベ自体は「つかうこと」と「つくること」の連続性とそこで生まれる喜びを人々の中に取り戻すことができる一つの方法だと思います。
だとすれば、セルフリノベのようなことによって先ほど書いたような職人の存在意義が浮かび上がってくる可能性があるように思いますし、対立ではなく同じ方向を向くことでお互いの価値を高め合うことができる気がします。
セルフリノベによって浮いた予算を職人の技術にまわすような共存の仕方もあるかもしれない。

ここで、どのような技術がつかう人のつくるという行為を代弁しうるか、というのはなかなか捉えにくいように思いますが、その技術に内在する手の跡や思考の跡、技術そのものの歴史などがおそらくつかう人のつくるという行為を代弁するのではという気がします。
そういう代弁しうる技術があるのだとすれば、そういう「建てること(つくること)」の技術に光を当てることが、「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことにつながるように思います。

3.「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く

もう一つは設計という行為に関わることです。(この場合設計という行為は図面を書く、ということに限らない)
先ほど職人の存在意義のようなことを書きましたが、これはおそらく設計者の存在意義に関わることです。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。 (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

簡単に説明することは難しいので、引用元のページを読んで頂きたいのですが、例えば、『建築に内在する言葉(坂本一成)』で書いているような象徴に関わるような操作や、先の引用元の設計コンセプトなどによって「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く共通の概念のようなものを生み出すことによって、住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができる可能性があるように思います。

設計という行為の中にもそういう可能性があると信じられることが大切で、設計者はそれが実現する一瞬のために皆もがき続けているように思いますし、その探求の中にこそ設計者の存在意義があるのでは、という気がしています。

つくりかたを試行錯誤する

とりあえずは、上記の3つが思い浮かびます。これらは新築とかリノベとかの別はなく、おそらくプロジェクトに応じて適切なバランスのようなものがあるように思いますし、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っていると思うのでそのあたりのバランスには敏感でありたいと思っています。

自分自身は新築住宅の設計の仕事が多いのですが、お客さんと一緒につくるようなこともしますし、予算が許せば色気のある技術を使いたいと思います。当然設計そのものが持つ力も信じて取り組みたいと思っています。そうしながら、最初に挙げた生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるかというテーマに応えられるようなつくりかたを、さらに試行錯誤して考えていきたいと思っています。

途中「設計はなるべくクオリティを高めたい、施工はなるべく簡略化して利益を出したい、その相反することをどう乗り越えるのか」というような感じの質問が出ました。それに対して「相反するものではないような気がする」というような応答があったのですが、自分のこれからにも関連しそうなので少し考えてみます。

私も、予算を抑えることが主な理由で一部自分で日曜大工的につくったり、お客さんと一緒に塗装をしたりしています。
最初はその作業をボランティアのように位置づけていたので「設計料は貰っているけれども、無料でそれ以外の仕事をするのはプロとしては好ましいことではないのではないか。なにより本職のプロに失礼ではないか」と悩む時期がありました。しかし、ある時に「名目としては設計監理料だけれども、これは「建築を建てることでお客さんが最終的に満足する」ということをサポートする行為に対する対価として頂いている」と位置づけることでその悩みは解消することが出来ました。その目的のために手を動かすのはおかしいことではないし、その対価も含まれていると考えれば納得できる。

考えてみれば、設計も利益を出そうとすればクオリティなど言わずになるべく考える時間を減らし簡単に済ませたほうが効率的なはずです。しかし、なぜ設計者の多くがそうではなくクオリティのために自分の時間を捧げるようなことをするかというと、やはりお客さんに一番近い位置にいるからで、お客さんの満足度を高めることが最終的には一番自らの利益につながると考えるからだと思います。また、なぜ施工が簡略化して利益を出したいと思うかといえばお客さんからの距離が遠くなってしまっていて利益を出す構造がそこにしかないからだと思います。(多くの公共工事の設計はお客さんの顔が見えないので効率を求めるような思考が強い気がします。また、お客さんの満足度をしっかり考える施工者が多いのも知っているので、意識の問題というより構造の問題かと思います。)

そうだとすると、中田製作所のように設計も施工もお客さんと横並びの状態に変えられた段階で先に上げた相反する構造は解消されるような気がします。皆がお客さんに近い場所で同じ方向を向くことができる。

自分のことに置き換えると、最近、つくりかたを変えていこうとする場合に、「お客さんの満足度を高める」ということを見失わずに、なおかつ利益を出すようなつくりかたをどうすれば実現できるのか、と考えることが多くなってきました。
今は設計監理料(という名目)の枠組みの中でできることを模索している段階ですが、もう少し大胆な方法もあるのでは、という気がしています。

時々ちょっとやり過ぎて自分の首を絞めたり、周りに負担をかけてしまうことがあるので何とか探り当てないといけないと思うところです。




ケンペケ01「建築のすすめ」山口陽登

kenpeke

12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。

ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。

アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html

SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。

SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou

食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
フェイスブックのイベントページより>

「環境」を面白がる

山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると

・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。

と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。

「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。

建築の不自由さ?

また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。

これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。

onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。

この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。

ケンペケに期待すること

鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。

こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。

とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。

そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。

とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。

なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。

最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。

あっ、レクチャーの動画貼っておきます。




tweet 10/12-11/22

ここのところ夜にツイートしながら考える癖をつけようとしていて、たまにはそれをストックとしてピックアップしてまとめておこうかと。
基本的にその時その時考えた”つぶやき”なので考えは変わっていくと思われます。


 

個人事務所の方法論~ギブソン~DIY~モノかヒトか~家具化を考える

 

2014年10月12日(日) 本買った

台風週末に合わせて3冊購入し、ゆっくり読もうと思っていたけど、気圧変化センサーが反応。頭痛薬も余り聞かず。うぬぬ。

最近、毎日文字なり線なり何かを書きながら思考を積み重ねることを続けねばとの思いがつよくなり、ツイッター熱再燃させたくなってきた。

とりあえず、頭痛中でもなんとか読めそうな坂口さんの新書をペラペラと。

すぐに「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。」という言葉が頭に浮かぶ。

『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』 https://onoken-web.com/blog-3976 からだけど生態学的転回という言葉がぴったり嵌りそうな一冊。

あと2冊は藤村さんの新書。態度のようなものが多少なりとも参考にできればと思っている。いいかげん「オノケンノート」を何らかの実践に具体的に落とし込める道筋を作りたい。

考えて来たことをきちんと構造化して簡潔にまとめ、自分の行動指針のようなものにできればと思っている。その構造化の部分にしっかり時間をつぎ込みたい。

方法論を見つけ出すための方法論、のようなもので参考になるようなものがないだろうか。この場合粘り強く書き出しながら構造を見つけていく以外にないような気もしているけれど。

2014年10月14日(火) 坂口恭平と生態学的転回

坂口さんの新書。共感もしたし面白かったけれども概論的な感じが強かった。もっとなまなましく掴みとれないような感覚を味わいたい気もするので小説をあたってみるか。

生態学的転回という言葉に嵌りそうというのはまさにそうだったと思う。独自の言葉で感覚を現実との関係性の中で描いたのはすばらしいが、逆にもっと論としての鋭さを増したものも読んでみたい気がした。その部分では独立~の方が勢いがあった印象。

でもヒントもあったし、自分の問題としても感じられた。また、知覚や認識がいかに「現実」に規正されているか(バランスを崩しているか)、そこからどう抜け出すのかは時代的な問題でもあるのかもしれない。

ハンナアレント的な公共のイメージも出てきたように思うけれども、この辺は自分の感覚としてしっかり根付いたものにしておきたい気もする。いずれにせよもっと感度を高めたいな。

2014年10月20日(月) 批判的工学主義の建築を読んで

一冊目読了。自分のアプローチできる規模と課題の設定及び設計主体の体制に応じたカスタマイズが必要かと思われる。

現れに対する批判は手法に対する批判とは少し区別する必要があると思っていて、現れは課題設定や主体と設計で如何様にもなると思っている。課題や主体が異なれば当然現れもことなる。

ホンマタカシ的にニューカラー的な建築とブレッソン的な建築があるとすればニューカラー的な振る舞い(手法)はブレッソン的な現れも内包し得る。ブレッソン的な現れが必要であれば課題(変数)に組み込めば振る舞いによる多重性は維持しつつ期待する現れをそれこそ批判的に乗り越えられるのでは。

自らを振り返るといずれの現れも達成できているとは言い難い。ニュアンスによる片鱗のようなものがやっとでどっちつかずな中途半端な感じ。どうにか乗り越えたい。

再引用「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。

環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうる」

恐竜や哺乳類でなく昆虫(個人事務所)として生きるとした場合も異なる知覚形式による環境が立ち現れそれに見合った形態(組織形態)と振る舞い(方法論)が生まれるはずである。小型化を逆手にとる。昆虫って寿命短いかな・・・

小型化のメリットはあるはずでデメリットを埋めることもある程度考えられるはず。そういえば子供の頃は昆虫少年だった。

(せめて猿くらいのサイズになりたくないわけでもない。)

とりあえず自分は昆虫なのだ、という目で環境を知覚してみることからはじめて、変態を目指してみる。よりシンプルかつユニークなシステムのものになるのかいなか。

2014年11月01日(土) 風水

プラン上手く解けたと思ったけど風水で玄関の位置を変えて苦戦中。

狭小敷地なので無駄なスペースがほとんど取れず動線の位置変更は痛い。考え方をがらっと考えないといけないんだろうけどむずい。

2014年11月06日(木) あと2あがき

玄関の方位変更に伴うプランニング、何とかまとまってきた。

狭い中で動線のやりくりと狭さをカバーするための抜けの検討をしていくといつもに増して複雑な感じになってきた。

3Dを作りこみながら確認、修正を繰り返したので、このまま頭の中で考えていることと合わせてそのまま図面化出来そう。

何点か課題はあるもののほぼまとまった感じ(課題として見えてるので検討していくうちに解けると思われる)。いつもならこのまま進めてディテールをどこまで詰めるかという流れになる。

でも今回はあと二あがきくらいしたいところ。それなりに詰めたので何をどうあがくか今のところ見えていないけど、しばらく探索モードに集中してみよう。

どう探索するか。どういう視点がありうるか文字にしながら考えてみるべ。(こういう時に対話しながら考える相手がいたら楽なんだろうな・・・)

こういう時にいくつかの視点をカードか何かからランダムに選んで強制的にそれについて考えたら、とかをよく考える。あんまり良い手だとは思わないけど。

そんなことを考えてたらブログのフッターのcのところにランダムボタン仕込んでたの思い出した。現段階の案をこれで出てきた内容に関連させて文字にしながら考えて、その後できれば案に反映させる、ということを試してみようかな。

2014年11月16日(日) DIYのメリット

昨日から二日間、最近恒例になりつつあるお施主さんとの塗装DIY。今日ははじめてお子さんの参加があった。

お施主さんの思い出とか愛着づくりといった意味もあるけれども、その他にもいくつかの効果があると思っている。一つは単純にコスト削減。VEの段階で安易にクロスに逃げたくないときに提案している。

もう一つはお施主さんに建築が単なる商品の寄せ集めではなくて一つ一つ人が作っているものだということを体験的に理解してもらうこと。

住宅なんかは緊張感ばかりではなくある程度の緩さを許容するようなものであっていいと思っているのだけれども、そこにクライアントの理解がなければクレームになりかねないし、その微妙なラインを完全に読み取るのは難しい。

しかし、体験的に理解してもらえればお施主さんの許容の幅を広げることができるしクレームのリスクを低減できる。また、クライアント、職人双方の心理的距離が縮まり、現場に一体感ができる気がする。

ただし、あまりにも素人臭くならないギリギリのラインは守りたいところ。あまりに素人っぽければ、丁寧に仕事をされてる職人さんのやる気をそぎかねないし、いろいろな面で逆効果になりかねない。

今まで使ったのはDIY用でローラー塗りができる珪藻土のホワイト。施工が比較的簡単だし、ムラを無くすように丁寧に作業すればフラットな印象の白い壁や天井になる。左官のようないかにもな手跡ものこらない。

それでいて素人塗りなのでちょっとした液ダレのような凹凸ができるのだけど嫌味でない範囲で緩さが出ることになるし、(自分でやったんだし)これはこれでいいと思えるギリギリのライン。養生の精度によるはみ出しなんかのケアは課題かな。

あと、自分でメンテナンスできるというメリットも。ただし、誰にも提案できるというものではないのでここで見誤ると危険。まー、提案して面白いのでやりましょう、という方は今のところ大丈夫だし、現場の雰囲気も良くなることが多い。

デメリットといえば、忙しい時に重なると自分の首を締めることになるということか・・・・。それでも今のところメリットのほうが勝るかな。

あと、リアルに首が痛くなる・・・

養生テープを剥がした後にはみ出てた部分をいつ削りに行くか。一応、VEで手間代をカットしてもらった以上こちらからやってよというのは筋が通らないので。今度から、あとのケアは金額に入れててもらうかな。

2014年11月18日(火) モノかヒトか 距離感と自律性

モノの側から、と人の側からの話は僕も気になる。おそらく相反する事ではない気がするんだけどうまく言葉にならない。

今計画中の狭小住宅も狭さゆえただの箱では成立せず、ふるまいのようなものを想像しながら密度を上げていきたいと思っている。

そうすると自然と人との距離が近づくことになるけれども、それが人(の欲望)から産まれたものではなくてモノの方から歩み寄った、又は人、モノ双方から歩み寄ったと言うような存在の仕方でないと失敗するように思う。

人との距離は近づけたい、しかし自律性のようなものは維持したい。たぶん、そこで作られ方の見え方のようなものが大事になってくるんじゃないだろうか。

完成形としてブラックボックス的、商品的にものが立ち現れるのではなく、モノからの歩み寄りのプロセスが可視化されてる、というか。それが今回のディテールを考える上でのテーマになるのではというのが今の段階。

それで自律性のようなものがどこまで確保できるかはまだ分からない。

前に書いた自主工事も距離感や関係性をコントロールするための一つの手段と捉えている。(そうでなければやらない)

例えば島田陽さんの家具等の扱いにも同様の意味合いがあるのではと思っているけどそこはまだ研究不足。作品集とか読みたい。

2014年11月20日(木) 五木村のふるまいの表れと魅力

昨日は午後から五木村の集落をまわった。自給自足に近い生活の住まいにはふるまいのようなものであふれていて、ちょっとした無力感を感じるなど。どうすればこういったものを現代の生活の中に取り込むことができるんだろう。

時間もなく貨幣による交換によってこういったものを分断していくことで成立している生活。同じ生活に戻すことは出来ないとしても、現代の生活の中から何を発見していくか。押し付けではうまくいかないしね。

「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」。道具までその場でつくってしまうようなところにやっぱり力を感じるんだけど、道具-家具-建築、このあたりにヒントはないかな。

道具はモノの側なのか、ヒトの側なのか。みたいな。どちらでもあるんだろうけど。ちゃんと読み込めてなかったけど『知の生態学的転回2』の終盤でギブソンの道具論を扱ってた。自律性についてもやもやした感じが残ってるけどそれに対するヒントがありそう。明日新幹線で読み返してみよう。

2014年11月21日(金) 家具化-固有名-社会性

新幹線で道具論関係のところを読み返してみたけれども、まー、あまり良く分からなかった。

無理やり引き寄せると、ギブソンの対象の分類によれば建築は地球から見て付着対象(attached object)で道具は人から見て付着対象(使用時)と遊離対象(detached object/非使用時)を行き来するもの、となる。

家具は地球から見た遊離対象であるとすれば、建築的でありながら道具の側に少し寄った存在と言えるかもしれない。対象としての位相が若干変わる。それで?の域からでまだ出られないけど。

自律性のような流れで言うと、「社会性とは内面化されない他者(固有名を持った存在)との対話の間で生まれるもの( https://onoken-web.com/blog-3006 )」だとすれば、建築を対話の対象となる固有名を持った存在にどうすればできるか、というのが課題に設定できそう。

建築を家具化することの意味を考えた時、建築の一部を固有名を与えうる対象として家具(detached object)的に切り離すことは建築に社会性を付与する一つの方法と言えないだろうか。(社会性という言葉の使い方がまだなじまないけど)

ピノコがブラックジャックに切り離されることによって姉の体の奇形としての一部から固有名を持った存在になったように。(?)

おそらく、物理的に切り離して可動にすることが必ずしも必要ではなく、あり方としてそういう風に取り出す、ということが重要なのだろう。それは前に書いた作り方の表れによっても成せるかもしれない。

残された建築はより地形的・自律的なふるまいができるのでは。その地形的建築は家具的なふるまいの拠り所を提供することによって関係を取り結ぶ。みたいな。違ったあり方も当然あるだろうけど一つの指針にはなりそう。

2014年11月22日(土) 方法を見つけたい

毎日ツイートすることで少しずつでも考えを進められそう。ストックとしてたまにブログにまとめてみるべ。

試してみたシートはクライアントとのプロセス共有にはある程度役立った気がするけれども、仕事を進めるためのTODOチェックツール以上にはなっていないかも。

一人で考えるのであれば、図面と3Dを同時に進めて画面上で中を歩き回りながら探索と発見、フィードバックをリアルタイムにがんがん繰り返した方が有効かもしれないし、探索の精度をあげることに注力したほうがいいかも。

その中で必要に応じて方法のようなものが生まれればいいのだけど。(それだと何も前進してないのでは、という罠。だけど、進め方のイメージは前よりもクリアになったかも)




個人設計事務所の課題と対応する設計プロセスを考える B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』

藤村 龍至 (著)エヌティティ出版 (2014/9/24)

早速『プロトタイピング-模型とつぶやき』と合わせて読んでみた。
これまでの取り組みをまとまった形で読んでみたいとずっと思っていたので待望の単著である。

氏の理論、手法、そして建築を取り巻く環境に対する態度のようなものをどうにかして自分の中の生きたものとして消化してみたいと思っていたし、このブログ(オノケンノート)で考えてきたことを実践に役立つよう具体的に落としこむための道筋を作らねばともずっと思っていた。
なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。

大きな問いとカスタマイズの前提

自分の中の大きな問題意識の一つは、自明性の喪失自体が自明となったポストモダンをどう生き抜くか、ということにある。
藤村氏流に言い換えると、全てが別様で有りうるポストモダンを、単純に受け入れ何でもありをよしとするのでもなく、単純に否定し意味や実存の世界に逃げこむのでもなく、それを原理として受け入れ、分析的・戦略的に再構成する第三の道としてどう提示するか、となるだろうか。

ポストモダンを受け入れた上でどうすればこれを乗り越えられるか。

それは批判的工学主義の持つ問題意識とも重なると思うし、新しい権力・アーキテクチャのもと茫漠とした郊外的風景をどう変えうるかという点で、私自身の問題意識の原点ともぴったり重なる。

超線形設計プロセスは私自身にとって大いに参考になると思われるのだが、ここで私自身の状況に応じたカスタマイズを試みたい。
具体的には小規模な建築物に対して個人事務所として設計にあたるという今直面しているケースを想定して考えてみることとする。

ここで最も影響が大きいのは組織形態が単独の個人事務所である、ということである。
「批判的工学主義の建築」では「その主体はアトリエ化した組織か、組織化したアトリエ」のような組織像とあるが、そのどちらにも該当しなさそうだ。
当然、組織化を目指すという選択肢もあるがそれは可能性としておいておき、あくまで個人事務所として先に上げたケースでの場合を考えてみる。

個人事務所のメリットとデメリット、その課題

まずは、カスタマイズに先立って個人事務所のメリットとデメリットを上げてみる。

メリット1:組織の維持コストが抑えられるので、それをクライアントに還元することができる。建築事務所があまり認知されておらず、低予算の案件の割合が大きい地方においては、うまくすれば生き抜くための一つの形態と成りうると考えられる。
メリット2:プロジェクト全体に目を行き届かせることができるし、組織内のコミュニケーションコストを抑えられる。

デメリット1:分業が出来ず、一度に掛けられるマンパワーが限られる。
デメリット2:複数の視点を得ることが難しく、視点の固定化・マンネリ化の危険性が高い。

個人による超線形設計プロセスの利用を考えた場合、経験的に言うとマンパワーと保管場所の点でプロセスごとに模型を作成し保管することは設計のリズムを維持する上でも負担が大きく難しい。

もし、手法の肝と思われるプロセスごとの模型の作成と保管を放棄すると考えた際、デメリットとして

1:コミュニケーションツールが失われるため、プロセスの共有が難しくなる。
2:立体的・視覚的に見ることによる課題自体を探索する機能が失われ、進化の精度・スピードが低下する。

の2点が考えられる。

1については組織内のコミュニケーションの必要性が小さいという本ケースのメリットによってある程度は緩和されると思われるが、少なくともクライアントとのコミュニケーションは必要である。
2については図面や3DCADによるパースやウォークスルー、また必要に応じて模型を作成することで、常に模型を制作せずともある程度は補えると思われる。

以上から、個人事務所がさらなる効率化のために超線形設計プロセスのプロセスごとの模型作成を省略し、これの利用を試みた場合に考えられる課題は

課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)

また、それらに加えて

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。

の4点が考えられる。

プロセスプランニングシート案

ここで模型のかわりとしてプロセスプランニングシートのようなものが利用できないか考えてみる。

A3用紙の左側に縮小図面やスケッチ・パース等を進捗に合わせてレイアウトし、右側にプロセスに関わるパラメータを記述する。
その際、右側のパラメーターは例えば、横軸にクライアント、環境、意匠・メタ、構造、設備を、縦軸に解決済み、検討中、新規、消失などとした表の中にプロットしていく(できればパラメータ間の構造も表現)。

これによって、左側は例えばディテールやインテリアなども表現でき総体としての比較精度は落ちるがプロセスをより詳細に記述できるようになり、右側はパラメーターの変遷もプロセスごとに一望・比較しやすくなる。

このシートをプロセスごとに作成しながら設計を進めていく。

また、設計作業を探索過程と応答過程に区分し、実際の作業も明確に分けて行う。

探索過程では、シートの内容を現在の環境として捉え、そこから新たなパラメーターを発見したりパラメーターの構造化などを行う。
『知の生態学的転回2 』における関博紀氏の考察を使わせていただくと、パラメーターの出現・消失・復帰・分岐、連結・複合などの操作を行うことになる。

応答過程では、シートの内容をもとにパラメーターと図面の不整合を取り除くべく設計作業を進めていく。

これらは『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』によるところの知覚・技術・環境に当てはめることができるだろう。

このように対応させることにより、生態学的な(知覚-技術-環境)の構造による循環に載せることが出来そうだ。

課題の整理

これは、先に上げた課題に対して

課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
→ プレゼン・打ち合わせ時等にクライアントとともにプロセスプランニングシートを順になぞることで、かなりのプロセスを共有できる。これによってプレゼンの精度を高められるとともに資料作成の手間を省略し効率性も高められる。また、思考プロセスを共有していないことによる無駄な手戻りも防ぐ効果も生まれる。

課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
→ 多くの事務所ではおおまかにはボスが探索過程を担当し、スタッフが応答過程を担当するといった形がとられているように思うが、それを視覚化しつつ一連の流れの中に意識的に配置することで単独でも効率的にこのサイクルを回せるようになり、探索機能を個別に確保できるようになる。また、協力事務所等に作業を依頼する際にもスムーズな連携がとれる。

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
→ このプロセスの生態学的な循環によって、建築を含めた環境は常に構造的変化を伴い固有性が高められると考えられる。

というように一定の効果があると思われる。

残る課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
であるが、これは課題A-2,3,4に対しても影響が大きいと思われる。

これまでブログで考えてきたことや経験してきたことはデーターベースの強化に役立てられると思うのだが、これを成果につなげるべくプロセスに組み込むにはどうすればいいだろうか。
また、どうのようにすれば探索過程によって発見したパラメーター間の構造を視覚化し、効率性と固有性を高められるだろうか。

ここで残された課題を、先の知覚・技術・環境に当てはめてみると

課題B-1:知覚・・・探索過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-2:技術・・・応答過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-3:環境・・・上記2つで見出された環境をどうすれば構造的に視覚化でき、循環の精度を高めることができるか。

の3つに整理できるように思う。

データベースの強化

個人的なメモのように位置づけているブログ(オノケンノート)は属人的課題のようなものを何とか言葉にしようとしてきたものである。
それを成果につなげるためには、これまで考えてきたことや経験してきたことを社会的課題や個別的課題を含めて探索過程と応答過程に分類し整理することが必要と思われる。

ブログでは「何を」考えなければいけないか、つまり探索過程を重点的に考えてきて、「どう」建築につなげるか、つまり応答過程については今後の課題として余り考えられていないと思う。

なので、まずはブログで考えてきたこと探索過程のデータベースとして整理し、次にこれまで経験したことをもとに応答過程のデータベースとして整理することを考えてみたい。

ここで整理する際に枠組みとして例えば以前考えた「地形のような建築」が利用できそうな気がする。

ここでは地形のような建築の特質として自立的関係性とプロセス的重層性の2つを挙げているのだが、

自立的関係性:これを高めるためには青木淳氏の決定のルールのようなものが有用かと思われる。こういった性質を持ったパラメータをデータベースとして整理する。

プロセス的重層性:プロセスを織り込むことは手法自体に組み込まれているので、ここでは重層化することができるパラメーターを並列的にデータベースとして整理する。

といったように整理する枠組みとして利用できないだろうか。これによって応答過程においてもパラメーターを成果に結びつけやすくなりそうな気がする。

ただ、プロセスを共有するためには相手になぜこの枠組を用いたのかを説明し理解して貰う必要が出てくるかもしれない。なるべく簡潔に説明できるようにしておく必要があるだろう。

これは一つの例で他にも統合してみたいモデルがいくつかあるので、枠組み自体は今後変化していくものと思われる。

終わりに

ということで、まずはシートのフォーマットを作成し実践に組み込むことから始め、平行してB-1,2,3の課題解決に向けて手を動かしてみようと思う。
また、この過程を通じてシステム自体の汎用性と固有性のバランスを調整し、徐々に固有のシステムへと変化させていければと思っているし、それには実践を通じて自分の環境自体にも同様の循環を重ねて発見とフィードバックを重ねる必要がある。まだまだ先は長い。

藤村氏の論の構造と流れについてはある程度は理解できたような気もするが、氏がデータベースの構築と運用をどのように行っているのか?多くは氏の頭の中にのみ存在するのか、それとも何らかの方法で共有がはかられているのか?興味のあるところである。




アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉える B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』

後藤 武 (著), 佐々木 正人 (著), 深澤 直人 (著)
東京書籍 (2004/04)

ちょうど10年前の本ですが、これまでの流れから興味があったので読んでみました。

アートとリアリティと建築

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。

つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)

これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」をの最後の一文、

この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。(Now – JParchitects)

が重なって妙に印象に残りました。(輪郭についての考察もたまたま見た俵屋宗達の番組と重なってアフォーダンス的だなー、と思ったのですがそれはとりあえず置いときます。)

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。

アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体がえる情報と脳が蓄える知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスはわれわれ自信に内在していた「リアリティ」を突きつけた。(p.142 深澤)

坂本一成さんが

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

と書いているけれども、「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」とかなり一致するものがあるのではないか。

むしろ建築はアートであってはいけない、に近いくらいの感覚を持っていたけれども、そういう意味ではむしろ建築にこそアート的な何かしらが必要なんじゃないか。という気がしてきました。
先のアートに関する定義は深澤氏の言葉を借りて繋ぎあわせただけですが、少なくともこの言葉ではじめて建築の立場からアートという言葉に出会えた気がしていますし、これまでなかなか掴まえられなかった何かを見つけた感じがしています。(遅すぎるといえば遅すぎる出会いですが)

体験者と建築

この本で、深澤氏は環境の捉え方から話をはじめていて、自己と環境を分けるのではなく自己も他人も含めた入れ子状のものを環境として捉えられるようになってから、デザインの源泉を客観的な視点で見つけられるようになった、というようなことを書いています。また、会田誠氏が別のところで次のようなことも書いています。

「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない――表現すべきものは自分を含む“我々”、あるいは“他者”であるべきだ」(会田誠 色ざんげが書けなくて(その八)- 幻冬舎plus)

では、主観的なものも含めたうえでどうすればそういう視点を維持しつつ建築のデザインを行うことができるのか。
ここにアフォーダンスの捉え方が生きてくる気がしています。

一般的に知覚とは脳が刺激を受け処理する、というように受動的なものと捉えられているかもしれませんが、アフォーダンスの考え方では知覚とは体験者が能動的に環境を探索することによってピックアップする行為です。

建築が設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係の中でアフォーダンス的に知覚されるものだとすれば、建築にアート的なものを持ち込むとしても決して設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係のあり方として持ち込みたいと思っています。
建築そのものにアフォードさせることが肝要で、いうなれば建築は環境そのものとなるべきかと思います。

そして、そこで生まれた体験者の能動的・探索的な態度こそがアフォーダンス的(身体的)リアリティなのではという気がしていますし、そこでは、体験者と建築が渾然一体となった生きられた場が生まれるのではないでしょうか。
これは、僕が「棲み家」という言葉に感じていた能動性とリアリティにもつながる気がします。

また、そうした場をつくりたい、というのは多くの人に共有された意識ではないか、とも思うのですが、それはそういった場が失われていっていることの裏返しのような気がします。

では「どうつくるのか」

では「どうつくるのか」という問いが当然出てきます。

今日ふらっと立ち寄った本屋でたまたま目に入った『小さな風景からの学び』という本を買ったのですが、今回書いたことにかなり近いものを感じました。(冒頭で出てきたサービスというキーワードもアフォードを擬人化したものと近い言葉に感じました。)
小さな風景がなぜ人を惹きつけるのか、という問いに対してたくさんの事例を集めたものですが、安易に「どうつくるか」で終わらせないように慎重に”辛抱”しています。

生きられた場所が誰かのための密実で調和のとれたコスモスだとするならば、その中から「どうつくるか」を学ぶというよりは、そもそも「何をつくるのか」「なぜつくるのか」と言った根源的な問い、つまり、人はどういう「場所」を求めているのかを見つめなおすきっかけを求めるべきかもしれないと感じるようになったのだ。(『小さな風景からの学び』)

「何をつくるのか」「なぜつくるのか」という問いに対しては、今回の流れで言えば「既知の中の未知を顕在化しアフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出せるもの」「建築が人間に活気をもたらす場とするために」とできるかもしれませんが、「どうつくるのか」のためにはおそらく観察が必要で、このような成果は有益だと思います。
しかし、深澤・乾両氏がそれぞれ似たことを書いているように、観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。
ですので、「どうつくるか」という部分には”辛抱”も必要だと思いますし、こういった作り方にはかなりの粘り強さが必要になるんだろうな、という予感がします。(それを克服するために方法論のようなものも求められるんだろうとも。)

こういった問題に対し、アートの分野では様々な蓄積があると思いますので、(今回の文脈上の)アートについてもいろいろと知りたくなってきました。




その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』

小嶋 一浩 (著)
TOTO出版 (2013/11/20)

onokennote:隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。
例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。
隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。
四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。
実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。
また、これらの場がどのような居心地と関連しているか。例えば住宅などですべての場所で常に探索モードが活性化しているのはどうなのか。
国分の家では内部は活性化レベルをある程度抑え、外に向かっての探索モードをどうやってコントロールするかを考えていた気がする。
今やってる住宅も同じようなテーマが合いそうなので、探索モードの場、レイアウトのようなものをちょっと意識してみよう。風水の気の流れとみたいなのも似たようなことなのかなー。 [10/20]


他の本を読んでいて考えたことと、『小さな矢印の群れ』というタイトルがリンクしたので興味が出て買ったもの。

アフォーダンス的な事は前回のようなプロセスに関わるレベルと、今回考えたように知覚のあり方そのものに関わるレベルとでイメージを育てるのに有用だと思います。

著者が書いているように建築の最小目標をモノ(物質)の方に置くのではなく『<小さな矢印>が、自在に流れる場』の獲得、もしくはどのような「空気」の変化を生み出すか、に置いた場合、ツイートしたような「探索モードの場」のようなものも「小さな矢印の群れ」の一種足りえるのではないでしょうか。

僕が学生の頃に著者の<黒の空間>と<白の空間>という考え方に出会った気がしますが、この本の終盤で黒と白にはっきりと分けられない部分を<グレー>ではなく<白の濃淡>という呼び方をしています。それは、「空気」が流動性をもった活き活きとしたアクティビティを内包したものであってほしいという気持ちの現れなのかもしれません。
同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。 それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』)

ここに来て、学生の頃から悶々と考えている<収束>と<発散>の問題に何らかの道筋が与えられそうな気がしています。




そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』

ホンマ タカシ (著)
平凡社 (2009/05)

図書館で借りてパラパラと読んでいた『時間のデザイン: 16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化』にホンマタカシ氏が出ていたのですが、似た内容が別の視点から掘り下げられている本を読んだことがあったのを思い出しました。

●ホンマタカシ(写真家) カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。 建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

それで原典にあたろうと思い買ったもの。

写真についてはド素人なのですが、ホンマ氏の視点から氏の言葉で簡潔に書かれた写真史がとても分かりやすく、大まかなイメージを掴むのにとても良い本でした。
(時代背景などもっと掘っていけばイメージがクリアになっていろいろな関係性も見えてくるのでしょうが)

アフォーダンスという生態心理学的視覚論の概念に触れてから、ボクには「決定的瞬間」と「ニューカラー」という、写真をめぐる2つの大きな山が見えてきました。(あとがき)

とあるようにブレッソンとニューカラーが写真史の山として描かれているのですが、先に引用したように『建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。』のではないかということをもう少し詰めてみたくなってきました。

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。

設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。

ここで書くブレッソン的、ニューカラー的というのは『包まれる人』で紹介された事例に通底する下記のような印象・可能性を代表させて使っているものです。

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。 水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。 それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。 自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

また、別の場で議論に出た、
某氏『「ブレッソン的な建築はニューカラー的な建築を導き出すことはできないが、ニューカラー的な建築はブレッソン的な建築を必要性に応じて表出させることができる(理論的には)」と言えると思います。逆に「依頼者の要望に対して、誠実に”ブレッソン的な”ふるまいを見せる建築を提供することによって”ニューカラー的”な効能(?)を持った建築に変換されて行く可能性がある」みたいなこともイメージしました。ただ後者は”ニューカラー的”な建築をイメージできる人しか取り扱えないんじゃないかと思います。』『ニューカラー的な建築はオブジェクト指向のプログラミングと構造がよく似ている。ニューカラー的建築家が”設計”するメインフレームに対して、対象や環境がすでに固有で持っているファンクションやビヘイビアなどのブレッソン的な要素に成りうる素材をメインフレームに接続する感じ。』
というのもヒントになりそうな気がしています。

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)

例えば「ニュカラー的な空間を現出させたい」のだとすると、そのための手法としてニューカラー的な方法論が適しているのかそうでないのか。
もしくは、今の社会において「ニューカラー的な方法論が適している」のだとして、その結果ニューカラー的な建築が生まれるのかそうでないのか。
といった事を整理する必要があるのかもしれません。(もしくは統合できるのか)

このブレッソン的/ニューカラー的という見方はこのブログでも出てくる、ふるまい・オートポイエーシス・ポストモダン・身体・関係性というキーワードやドゥルーズ・リノベーション的・社会性・アノニマス・超線形設計プロセス論・・・(あとなんだろう)といったことと接続できそうな気がしますし、そのあたりに自分の関心があることがだいぶ分かってきたので、一度自分の言葉として整理して、具体的な設計に活かせるものとしてまとめたいと思っています。(いや、これずっと前から言ってるのですが・・・)

この本と同時に『 リアル・アノニマスデザイン』と『 知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』の2冊を買ったのですが、前者は先に書いたことの補完として、後者はガッツリ理論書として具体的に整理をするために役に立つのでは、と期待しているのですがいかに。

(『知の生態学的転回』はかなり面白そう。でも3部作なんだよなー。1と3はいつ買える/読めるだろうか・・・)




リノベーションと棲み家

このごろ、家の近くの住宅が数件立て続けに解体されました。
そのうちひとつはRCの集合住宅として工事が始まっています。
写真の家は内部の壁と天井及び瓦がきれいに撤去され、窓から覗くがらんどうがとても心地よさそうに見えたので、もしかしたらどこか設計事務所が入ってリノベーションされるのかな、と思っていたらあえなく解体されてしまいました。単なる解体の分別だったようです。

リノベーションスクール以降、リノベーションについていろいろと考えたり勉強したりしています。(サイドバーにリノベの項目を増やしたり。)
空き家を見ると、ここにどうやって棲み着こうかと考えたり、どんな人が入ればぴったり来るだろうかと考えたり、明らかに見え方が変わりました。
それは、動物が環境を読み取って巣にしようというのに似ているし、いろんな昆虫がさまざまな環境に棲み着いているのを観察することにも似ています。

ずっと、棲み家という言葉を一つのテーマにしているのですが、そういう点ではリノベーションという方法は「棲み家度」をかなり高く出来る可能性を秘めていて、「地形」的要素をある程度担保されているように思います。
これは既存部分の持っている懐の深さや、既存部分と新規部分の関係の築き方にもよりそうですが、

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。 そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

この【自立的関係性】と【プロセス性】という(地形)の特質を新旧それぞれのレイヤーを意識しながらどこまで高められるか、という所にポイントがありそうです。

そんなことを考えながら、せっかく顕になった(地形)が重機によって壊されていくのを見るのは、自分たちの棲み家を重機で破壊されていくのを指を加えて眺めるしかない動物のようだなー、と思ったり、僕らにはそれを止める知恵、技術と論理を持つことができる、と思ったり。

虹はどちらにかかってるんだろう。




『これからの「暮らし方」を建築家と思い描く』

3/20に計画地近くのやまさき道さんで雑木林と8つの家に関するイベントがあったので参加してきました。(今回は見るほうじゃなくてしゃべる方で)

タイトルは『これからの「暮らし方」を建築家と思い描く』。
主催者側の説明のあと、前半は3人の建築家がサクラ島大学の久保さんから頂いたお題にそって順に話し、後半は食事を頂きながらそれぞれの建築家とグループに分かれて自由に話をするという流れ。

僕は久保さんから一番手で、と言われていたので自分なりに役割を考えて真面目すぎるくらい真面目に話しました。(本当はそういうやり方しかできないだけですが。)
結果的に、僕がクソ真面目に話し、蒲牟田さんがフランクに建築家のリアルな思考を浮かび上がらせて、最後川畠さんが不動産の経験も交えて分かりやすくまとめる、というような感じで3者それぞれの個性が出てそれなりに幅のある話になったんじゃないかなー、と思います。(久保さんの思惑にはめられた感じ(笑)

おそらく、普通の人の常識的な想像の範囲を超えた、盛りだくさんの思いと可能性がつまっている今回のプロジェクト。
その盛りだくさんさゆえに、「ステキだと思うけれどもなぜだか距離を感じてしまう」というようなケースももしかしたらあるのかな。という気も少ししました。
だって、川畠さんも書かれているようにこんな思いのこもった分譲地、僕も見たことがないですもん。

その盛りだくさんなところをシンプルに伝える必要があるのかなと思ったのですが、僕なりに言えることは

・同じ予算(例えば土地込みで3000万円)と同じ条件(姶良のような場所)で考えた場合、これだけ思いと工夫の中でこれだけの環境の家を建てられる機会は他にない。

ということです。予算には含まれない計り知れないくらいの多くの人の暮らしに対する思いがあって(一般的な分譲地の多くはこの部分がゼロに近いように思います。)、土地の中に雑木林や石積み、共有の広場や通路が含まれていることを考えると、姶良土地開発さんは事業としてほんとに成り立ってるのかな、と言うような気さえします。

もし、「ステキだと思うけれどもなぜだか距離を感じてしまう」という方がいらっしゃいましたら、コンセプトブックを片手に、もう一度そこで自分が暮らしている風景、またはその暮らしの中で子供たちが成長していく様子をゆーーっくりと想像してみて下さい。
その暮らしの中風景の中に入っていければ、きっと感じた距離はなくなって自分の景色になっていくんじゃないかと思います。

そして、その風景を実現できる機会はなかなかあるものではないです。
僕もその風景の実現のために何かの力になれればいいな。

あと、イベント用に作成したスライドもあげておきます。(説明がないと分かりにくいとは思いますが・・・)




雑木林と8つの家


姶良土地開発さんのプロジェクト『雑木林と8つの家*まちなか森暮らし*』に声を掛けていただき、モデルプランを作成しました。

姶良土地開発さんは不動産という立場から姶良という土地にしっかりと根を張り、住環境・暮らしのあり方に強い思いを持ってやって来られた方です。
その思いを一つの形にするべく立ち上がった今回のプロジェクト。
その思いに強く共感し、参加させていただくことになりました。

プロジェクトのコンセプト、詳細につきましては下記ページをご覧下さい。
トップページ|雑木林と8つの家 -まちなか森暮らし-|有限会社 姶良土地開発

モデルプランは8つの敷地のうちの一つを仮定して計画を行ったものです。
実際にはクライアントの要望を元に計画を進めていくことになりますが、ここでは与えられた条件の中で、ひとと建物と雑木林がさまざまに編みこまれ、多様な関係を結ぶことで豊かな暮らしの場が生まれるように、と考えながら計画を行いました。

参加する4人の建築家の提案は下記ページにてご覧になれます。
3000万円の未来計画|雑木林と8つの家 -まちなか森暮らし-|有限会社 姶良土地開発









KBGN 外壁板張り


ようやく外壁の板張りが始まりました。
板を止めてる真鍮釘がどれくらい色褪せてくれるか。足場を外す前に見てみて合わないようだとマジックでタッチアップに行くかな。

外構関係は調整段階で殆どはずしてしまいましたが、スケール感を出すためにも外壁近くに植栽が欲しくなりそうです。


内部は板材が運び込まれて狭くなっていました。恵まれた敷地環境と内部の関係が空間としてどういう感じで立ち上がるか。楽しみです。




YNGHについて

吉野の家も検査済証が降り今週末にオープンハウスを開催できることになったので、この機会に設計しながら考えたこと、またはできてみて感じたことを書いてみようかと思います。
後で短くまとめるつもりでまずは思いつくままに書いてみます。

構成について

全体が90cm程度の段差で床をぐるぐると登っていく、螺旋状のスキップフロアーになっています。
一番最初の案はもう少しオーソドックスな2階建ての案だったのですが、打ち合わせを進めていくうちにスキップフロアーによる床のズレを利用した方がお客様の要望、動線や部屋と部屋の関係性の問題を上手く解決できることが分かってきて途中で大きく案を変更しました。

これによって様々な方向に視線がつながり、奥へ奥へと空間が緩やかに連続して行く、家全体があるひとつのまとまりをもつような場所が生まれたように思います。(通常の総2階建てでは部屋のつながりは横と横、又は吹き抜けを介して上下までしか取れないことが多く、関係性も単調なものになりがちですが、スキップフロアーだと横斜め上、横斜め下というように倍のつながりを生むことが可能)

また、中央に物見台と物干しを兼ねたトップライトスペースを設けることで、各部屋へとガラスを通して光が降り注ぐように考えています。
小屋組(屋根を支えるための骨組み)レベルでは極力壁を設けずにガラス張りとすることで、部屋と部屋との境を超えて屋根を見通せるようになり、これが「家全体があるひとつのまとまりをもつ」ことを強めています。

部屋を部屋として閉じた場所にしてしまうと、広がりとしてはその部屋の実質容積分しか感じられないことが多いですが、それではもったいないと常々感じています。(よく考えられた茶室のように、抽象化された小ささが逆に広がりを生むような場合もあります)
それに対して、つながりの中で「家全体があるひとつのまとまりをもつ」ことが、たとえ小さな家であっても、「視線が抜ける心地良い広がり」と「家というまとまりに包まれている安心感」を生む一つの解決策になると思います。

このあたりの、抜けと包まれ方のバランスのイメージはその家族によって違ってくるのですが、今回のお客様は3人の親子が小さな宝物のような家に優しく包まれているのがいいな、というのがスキップフロアー案ができた頃からイメージとして固まって来ました。

スケール感について

その「小さな宝物のような家に優しく包まれている」感じを出すために、空間のスケール感と素材が大きなテーマになりました。

空間のスケール感というのは、心地良いと感じる調度良い部屋の大きさというようなことです。
広すぎると気持ちがいいけど何か落ち着かない。狭すぎると、落ち着くけど何か圧迫感がある。その空間をどのように感じてもらいたいかで、どのような寸法を採用するかが決まってきます。

今回は幅1.5間(2730mm)を基準とした部屋がぐるっと廻るように構成されていますが、1.5間というとそれほど広いと言える寸法ではないです。
また、個室部分は2m程度の高さから屋根・天井がかかっていて、これも小屋裏部屋ではないですが、それほど高いと言える寸法ではないです。

そんな、ちょっと狭いかなというギリギリの寸法の中に視線の抜けや空間のつながりを持ち込むことで、家に手が届きそうな等身大の関係性の中で心地よさと安心感を感じられる場所になればと思いました。
これが、もう少し大きな寸法だと人と家との距離はほんのちょっと遠く感じるかも知れません。
(寸法を絞るというのはコストを絞るという意味もあるわけですが。)

また、その人と家の距離感を考える上でも素材の選択が大切だと思います。

素材について

床は桧の無垢材に蜜蝋ワックス(一部ウレタンクリアー)、壁・天井は桧構造用合板をそのまま使っています。
コスト的な問題と下地材(通常は仕上げとして表にでない材料)を仕上げに使う事の見え方の心配から、壁・天井をビニールクロスにしてしまおうかと結構悩んだのですが、結局最後は構造用合板にしました。(設計時は違う木質系の材料だったのですが震災の影響か粗雑なものしか手に入らなかったので現場で変更しました)

ものにはその素材の持つ奥行きのようなものがあると思うのですが、この家の人と家との距離感や広がり感を考えるとどうしてもビニールクロスは避けたかったのです。
ある程度の広さの空間であればビニールクロスでもいいこともあると思うのでうが、今回のように人と家の距離が近い場合には、ビニールクロスのような奥行きのない材料だと、家が他人行儀な感じになったり空間を限定して広がりを損なってしまうような気がします。
ビニールクロスのような工業製品は「もの」そのもの以上の奥行きを持たせることが不可能ではないにせよ難しいと思うのですが、今回壁に使ったような材料は節があったりとムラのあるものですが、それゆえに「もの」を超えた奥行きを持っているように思うのです。
また、ムラのある材料をどのように貼るかというのも大きくは大工さん個人の裁量によるので全てをコントロールできません。ですが、そのコントロールしきれない感じがまた奥行きを強くするように思います。

ぎりぎり僕の世代くらいまでは、普通にそういう奥行きを持ったものに囲まれた環境で育つことができたので、そういう世代の人に対してはどういう材料を使いなさい、とは思わないのですが、現代の生活環境の殆どは奥行きのないコントロールされきったもので囲まれていて、多くの子供達はその中でオトナになっていきます。
そんな中、せめてそこで育つ子供たちには、もっと奥行きのある材料に触れる機会を残してあげるのが大人の(もしくは僕の)一つの責任というか、役割のような気がしています。
床をウレタン等の塗装で塗り固めてしまった方がクレームも少なく簡単なのですが、ワックス程度でとめて木が本来持っている奥行き感を消さないようにしたのもそういう理由からです。

スケール感や素材感は人によって感じ方が違うし図面の段階で100%把握することは不可能なので、出来上がるまではどきどきしっぱなしでしたが、できてみれば上手くいったように思います。

設計の途中からテーマにあげていた、「手のひらにのる宝物に包まれたような家」というようにお客様が感じてくれたら嬉しいです。

ここまで読んでくれる人がどれくらいいるか分かりませんが、文字では分かりにくいと思いますのでオープンハウスに足を運んで頂けたら。
(近日中に内観写真をアップする予定です)




B170 『建築に内在する言葉』


坂本一成 (著), 長島明夫 (編集)
TOTO出版; 1版 (2011/1/20)

マルヤのジュンク堂に寄った時にお目当てがなくて、ふと目に入って買った本。
たまにはがっつりした建築論を読みたいと思ってたのと、坂本さんの文章をもっと読んでみたいと思っていたので買ってみました。

全体を通して、例えば形式のようなものを定着させると同時にそこからの『違反』を試みることによって『人間に活気をもたらす象徴を成立させる』というようなことが書かれていて、とても参考になりました。
これに似たことがいろいろな言葉で置き換えながら何度も出てきます。

定着と違反は反転可能なもの、もしくは並列的なものかもしれませんが、本書を振り返りながらざーっと挙げてみると

定着・・・現実との連続、コンセプト(概念的なこと・理念的なこと・テーマ的なこと)、非日常、概念の形式、構成、統合、都市的スケール、固有性(根源的とも言える建築のトポス、客観的形式、集団としての記憶を形成するエクリチュール)、記憶の家、永遠性、アイデンティティ、対象としての建築、全体的な統合に依拠した配列・・・

違反・・・現実との対立、現実の日常的なもののあり方、構成・形式自体を変形・ずらす・相対化・弱める、曖昧なスケール、曖昧さや両面性による素材の使用、構成要素の配列の組み換え、バランスの変更、統合への違反、建築のスケール、反固有性(あくまで固有性を前提としその結果も固有性を保有しうる固有性の格調の範囲にある違反)、今日を刻む家、現在性、活性化、環境としての建築、他律的な要因による並列、併存的な構成・・・

作用・・・ニュートラルな自由な空間、場所的空間、押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせるもの、付帯していた意味を中性化し宙吊りにする、生き生きしたもう一つの日常を復活、矛盾・曖昧・二重性・宙吊り・対立・意味の消去・表現の消去、自由度の高い建築の空間、現実の中で汎用化し紋切型化した構成形式の変容を促す、類型的意味を曖昧にする、象徴作用、建築が<建築>として象徴力を持ちうる、<生きて住まうこと>の感動と安堵に対する喜びと活気、建築をより大きな広い世界へとつなぐ・・・

これらのもとにあるのは

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。

という思いであり、さらに、そのもとには戦後橋の下に住んでいたある家族の家という個人的な情景があるように感じました。
こういう情景と比較した一種の喪失感のようなものは時代的に多くの人と共有できるように思いますし、そのための方法を多くの人が探っているんだと思います。

ここでいう象徴力という言葉は前回書いた固有名と社会性の関係に繋がるように思いますが、そのへんをもう少し自分の中ではっきりとした言葉にすると同時に具体的に方法論として積み重ねていかないといけないと感じています。

具体的なヒントとなる良著でしたが、それだけにしっかりと自分のものに置き換えないとですね。

また、読みながらふと、パタン・ランゲージやアルゴリズムと言ったものにも違反のシステムが組み込まれているべきだと思ったのですが、もしかしたら複数のレイヤーやパラメーターを重ね合わせることで、関係性の中からそれぞれに一種の違反が生まれることがすでに組み込まれているのかも知れないと思いなおしました。

『違反』の部分はおそらく個性と言うか個人の持っている情景・イメージや問題意識に左右されざるを得ない、又はそうあるべきものだと(現時点では)思うのですが、その前に違反するとすればその違反を誰がどのように起こすのかということをイメージしておく必要がありそうです。

簡単に書きましたがこの本は近年でも1,2を争うヒットで何度もじっくり読みたいと思っています。




ARCH(K)INDY vol.8 他メモ


4/23-24と福岡で開催されるイベントに行ってきました。
vol.8 (長谷川豪) – ARCH(K)INDY/アーキンディ

幼稚園というの親密なスケールの場で、飲み食いしながらのレクチャーとその後の朝までコース?な議論が特徴です。

「建築について考えていること」という題のレクチャーで、「建築言語の生命力」ということを軸に建築や都市との関わり方が語られました。

メモを基にいろいろと書こうと思っていたのですが、どうもメモしたノートをどこか(車?)に忘れてしまったようなので、記憶の範囲でメモ的に書き残す程度にしておきます。
以後メモ(※言い回し等正確でないところもあると思います。ノートを見てから後で勝手に追加・修正するかも知れません)

メモ都市と身体性・視点・人と何との間に・厳しさの維持

・一番印象に残ったのは、都市の問題が身体性という言葉を絡めて語られたこと。とかく、都市の問題というと実感を伴わないことが多く、無力感を多少なりとも感じてしまうことが多かったのだけど、身体性と言う言葉で、おそらく人の視点から語られたことに、何か実感を持ったとっかかりを得られたような気がした。

・「個人によって生きられる時間と人類学的時間」・・・これらを同時に担保するために「建築言語の生命力」を導入するとした場合、建築の持つ強度のようなものが大きく現れるのかな、というようにぼんやり思うけれども、その後の話やできたものとの印象と合わせると、そうでもないよな、ともやっとしたものが残る。
・それに関して途中、全く要領を得ない質問をして困らせた&困ってしまったのだけれど、長谷川さんに返していただいた言葉を思いながら考えてみると、身体性、そして、人の視点から、さらに何に対してかというのがすごく大切なのかなと思った。
・たとえば、「個人によって生きられる時間」の集積のようなものからぼんやりと建築の輪郭のようなものが生まれて欲しい、そして、願わくばその建築が人格のようなものを持った関係性を築ける確かな存在でもあって欲しい、と思っていたのだけど、それについてもなんとなくもやっとしたものが残って大きな声では言い切れない感じがしていた。そこで考えてたことの一つは「人と建築の関係性」のようなものだけど、人との間に関係性が生まれるべきものは果たして「建築」なのか?というのは今後考えるテーマになりうる気がした。というかかなり根本的な問題です。
・長谷川さんが言われたのが「建築の生命力」ではなくて「建築言語の生命力」だと言う点に多分ヒントがあるんだと思う。人からの視点から身体性と言う言葉を手がかりに考えたときに建築あるいは空間がいかなる存在なのか。言語のような存在?

・翌日イノウエサトルさんのはからいで某住宅を見学させていただいた。そこで、トリップと言う言葉を聞き、いろいろと考える。例えば長谷川さんの話を都市へのトリップ、身体性の拡張のようなものと捉えると、この週末の経験が一つにつながる気がした。それぞれの場所や人に応じた身体性の拡張の方法と、建築ができることをどこに定めるかということ。
・この辺の話は建築を考える上で当たり前といえば当たり前の話だけど、それを実現させるためには、そのための方法論とある種の覚悟のようなものがいるのかも知れない。僕もブログを始めた頃
に学生の時に書いたメモを起こして
オノケン【太田則宏建築事務所】 » 私と空間と想像力

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。 例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

というようなことを書いていて、自分の中では一つの大きなテーマでもあったし、それには奈良や屋久島で遊んだ子供の頃の経験が大きく影響してる気がする。思えば、昔の仮想事務所名が「A-release building workshop」で、建築・空間を通して人間の想像力・身体性を開放したいというものだったり。

・鹿児島、もっと言えば特定の敷地において、これらのことから何を考えられるか。都市と言う言葉をどうとらえられるか。例えば周りが整然と区画された土地にハウスメーカーの家が載ってるだけの、全国的にどこにでもありそうな場所の場合、どういうアプローチが可能か。それは東京などでのアプローチと多少異なるかも知れない。

・最近、特に震災以降建築の言葉から遠ざかっていたような気がするけれども、常に触れるようにしておかないと失語症になってしまうなとあらためて実感・反省。同時に自分の中に建築に対する厳しさをどう住み続けさせるかは、鹿児島での環境という点も含めて大きな課題だと感じさせられた。

(・イノウエさんにWEBでの印象とだいぶ違った、年上だと思っていた、と言われ軽くショックを受ける。まー、大学の時におじいちゃんと呼ばれてたぐらいなので仕方ないか・・・)




B164 『建築家の読書術』

平田晃久 , 藤本壮介, 中村拓志, 吉村靖孝, 中山英之, 倉方俊輔 (著) )
TOTO出版 (2010/10/25)

本当に久しぶりの読書記録です。気持ちを新たに、ということでこのタイトルから。

この本は5人の建築家がそれぞれ20冊を紹介しながらレクチャーを行った記録なのですが、それぞれの建築への取り組み方と紹介された本が密接に関係していて面白く読めました。
紹介されている本はこちら(※PDF)にまとめられています。

僕もこのブログはもともと読書記録からスタートしていて、

気がついたらなんとなく過ごす日々が多くなっていた。
本棚の本も読み流したままで自分の言葉にする作業を怠っていた。
脳みそも錆付きかけている。
そんな日常から抜け出すために溜まった本を読み返し、そこから自分の言葉を見つける作業を始めよう。
そうして、見つけた言葉の断片を寄せ集めて、もう一度自分の地図を描こう。(『読書記録』カテゴリー冒頭文)

と書いているように自分なりの地図、もっと言えば建築に向き合う際の羅針盤となるようなものをつくりたいという思いから始めたもので、読書記録を文字に起こすのはこれで164冊目になります。

建築に関して自分がどこに関心があって、どういう事を大切にしたいか、というのはこれまででぼんやりと浮かび上がってきているので、これからは実践を通してそれを建築に落としこむ方法をつくっていこうと思っています。

さて、この本に関してですが、登場する建築家が同年代ということもあり感覚的な部分で共感できるものが多かったのですが、その中でも中村拓志さんの「微視的設計」のところが参考になりました。(佐々木正人さんの本が紹介されてたり、自分と重なる部分も多かったように思います。)

こういう視点はいろいろな方がいろいろなところで語られていると思いますが、最近ネットをいじってることが多いこともあって、例えば下記のように直接建築とは関係の無いところから現在の身体感覚のようなものを感じました。

こうした、身体の行動、挙動に着目した、微視的なアプローチというのは、ネットの空間でも行われていると思うんですね。たとえばツイターのように、誰かがちょっとつぶやいたものがみんなに広がって、それがリアクションになって積み重なっていく。SNSでもアクセスが足跡履歴となって、反応が残る。足跡とかつぶやきというのはまさに小さなふるまいですね。そういうものが積み重なり、共振することで、公共的なるものがなんとなく現れる、というのがいまの社会だと思います。
それは、マスコミュニケーションの時代、マスメディアの時代とは全然違うと思うんです。マスメディアというのはやっぱり巨視なんですよ。(p139)

ツイッターがそのまま建築の形になるということではないわけですが、アプローチの仕方を変えることで建築の持つ質は変えうると思いますし、自分なりのアプローチを見つけなければ設計をしていてもどこかで行き詰ってしまいます。

この視点は藤村さんの超線形設計プロセスやdot architectsのアプローチにもつながる気がするのですが、小さなスタディを数が全体の輪郭をぼんやり出現させるところまで繰り返し、それによって生まれる豊かな関係性の可能性というのは確かにあるんだろうなという気がします。

また、手数がそのままコストに反映してしまうとするならば、施工の方法にアプローチしたり、思考・スタディの繰り返しによる密度・手数を、生まれた豊かさを損なわなずに再度シンプルなものに還元するような方法がテーマとしてありうるかも知れません。(その一つが寸法に還元するということでしょうか)

そういう事を考えながら、本を読むということは僕にとって自分のペースを維持するのに必要なんだなと感じました。
どんなに忙しくても、読書の時間ぐらいは確保できるように環境を整えていかなければ。




太田則宏建築事務所について (i)


〒891-0114 鹿児島県鹿児島市小松原1-64-12-102

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    大切にしたいいくつかのこと。

    棲み家という言葉

    「棲み家」という言葉に何か魅力のようなものを感じます。
    「住宅」や「家」ではなく「棲み家」。
    学生の頃からその魅力の正体をずっと探し続けているような気がします。

    この言葉には単なる「商品」としての住宅にはない「意志」のようなものを感じます。
    そこに棲みつくという意志、そこで生活をしていくという意志。

    僕はその意志の中からこそ「生活の豊かさ」や「生きる実感」といったものが生まれてくるように思います。
    そしてそれらは人が生きていく上でとても大切なものだと思っています。
    設計をしていく上で、その大切なものをどうやったら大切に扱えるか。
    どうやったら楽しく扱えるか。
    そんなことをずっと考えながらこの仕事を続けています。

    『棲み家』関連のブログ記事をよむ

    空間


    単なる間取りではなく空間を扱うこと。

    それによって、例え小さくても拡がりのある開放的な空間、気持ちよく流れる豊かな時間を得ることができます。

    そのための工夫は日本人が得意としてきたこと。
    だけど、それは日本人が忘れてしまっていることでもあります。

    豊かな生活の営まれる心地良い空間。
    そのためにどんな工夫ができるでしょうか。

    『空間』関連のブログ記事をよむ

    素材


    身の周りの素材を見渡してみてください。

    それはあなたの気持ちを受け止めてくれる素材ですか。
    時間の流れを受け止めてくれる素材ですか。

    人間の感覚は自分達が思っている以上に素材のありかたを敏感に感じ取っています。

    素材の持つ力を見直し、それをどうやって引き出すか。
    そんなことから考え始めてもいいかも知れません。

    『素材』関連のブログ記事をよむ

    リアリティ


    生活の中からリアリティを感じる機会が失われつつあると感じることがあります。

    そんな中、リアリティを見つけるには自ら環境に関わっていくという小さな意志が必要です。

    受身ではなくで自発的に環境と関わることからリアリティは生まれます。

    その関わり合いの余地をほんの少し残しておくことは、建物にとって、とても大切なことだと思います。

    『リアリティ』関連のブログ記事をよむ

    関係性


    ヒトとヒトとの関係性。ヒトとモノとの関係性。ヒトと自然との関係性。・・・・・
    ウチとソトとの関係性。建物とマチとの関係性。・・・・・

    さまざまな関係性が豊かさを生み出します。
    素材のあり方はヒトとモノとの関係性を生み出し、豊かな関係を築くことはリアリティにつながります。

    家が父親のようであったり、母親のようであったり、また友達のようであったりと、住まうヒトとの様々な関係を築けることも良い家の条件の一つ。

    20世紀は関係性を断つことによって、便利さ・快適さを追い求めてきました。
    しかし、これからは関係性をつむぐことで豊かさを生み出していく時代だと思うのです。

    『関係性』関連のブログ記事をよむ

    自然のかけら


    ヒトのDNAの中には自然にあるものを”美しい・心地よい”と感じるかけらが埋まっています。

    それを私たちは「自然のかけら」と名づけました。
    「自然のかけら」が共鳴し、ちりんとなった時に美しさや心地よさを感じるのです。

    建築が、そんな「自然のかけら」を響かせる楽器のようなものになれれば良いなと思いますし、そのための術を磨いていきたいです。

    『自然のかけら』関連のブログ記事をよむ

    新しい生活のカタチを見つけませんか?


    空間・素材・リアリティ・関係性・自然のかけら・・・・

    いろんなことを考えながらつくった建築が、そこに住む人の新しい生活を自然とかたちづくっていけたら幸せだなと思います。

    建築がそこでの生活を豊かにする助けになるとすれば、それほど嬉しいことはありません。

    私たちとともに、新しい生活のカタチ見つけませんか?

    『生活』関連のブログ記事をよむ




    太田則宏建築事務所について

    オタ リヒロ ケンチクジムショ

    太田則宏建築事務所、略してオノケンです。
    主に建物の設計などを行っています。

    小松原事務所(都市型最小限SOHO office copain)


     
    所在地:鹿児島県鹿児島市小松原2-20-12

    建物の脇と事務所裏側の通りに1台づつ駐車スペースがあります。
    満車の場合はお近くのコインパーキングをご利用下さい。
    事務所裏の駐車場は2番になります。

    吹上事務所(環境実験型オフィス office chavelo)

    都市型生活と地方型生活の両者を比較体験しつつ建築のあり方を思考するための環境実験型オフィスです。
    (現在、日中はこちらで仕事していることが多いです。)


    手前の駐車場のうち、道路から見て左半分の範囲にお停めください。

    所在地:鹿児島県日置市吹上町与倉2294

    略歴


     Norihiro Ota
     太田則宏
     1975年 奈良県五條市に生まれる
     1989年 屋久島へ移住
     1998年 大阪市立大学工学部建築学科卒業
     1999年 東京設計学校卒業
     1999~2001年 MAGIC BUS BUILDINGWORKSHOP(東京)勤務
             一級建築士取得
     2002年 鹿児島国分市に妹夫婦の住宅建設のため大工見習いに。
     2002年9月~ 末吉建築事務所(鹿児島)勤務
     2010年10月 太田則宏建築事務所開設
     2013年9月 小松原事務所(都市型最小限SOHO office copain)開設
     2022年10月 吹上事務所事務所(環境実験型オフィス office chavelo)開設


    奈良や屋久島では雄大な自然の中で、心地よさや世界と自己に対する基本的な感覚をみつけられました。
    大学では建築と出会い、そのすばらしさに魅了されました。
    東京のアトリエでは建築・デザインに対する基本的な姿勢や方法を学びました。
    妹宅では実際に大工さんに弟子入りすることで現場を深く知ることが出来ました。
    鹿児島の地元有力事務所では幅広い多くの仕事を経験することが出来ました。

    これらの経験はどれも欠かせないものになっています。




    なぜ「棲み家」なのか (展覧会タイトルについて)

    なぜ「棲み家」なのか

    「住宅」や「家」ではなく「棲み家」。この言葉からどんな事をイメージしますか?
    学生の頃にこの言葉に何か魅力のようなものを感じてからその正体をずっと探しています。

    この言葉には「意志」のようなものを感じます。
    それは「そこに住む」ということに対する意志であり、「環境と関わっていこう」という能動的な意志です。
    それは、もしかしたら子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるものかもしれません。
    このワクワクを少し大げさに「生きる実感」と呼んでみます。
    そういった「実感」はおそらく受身では得られないもので、能動的に環境(自分の身の周りのすべてを指しています)と関わっていく姿勢の中から生まれてくるものだと思います。
    また、日常的に環境と関わっていくことが「生活」なのだろうと思います。

    「住宅」や「家」はあくまで住人の意識の中で完結してしまっている感じがしますが、「棲み家」という言葉には「隙間」を感じます。
    それは、意志の入り込む隙間であり、「環境と関っていける余地」です。
    20世紀は合理的・機能的にその隙間・余地を埋めることに躍起になってきましたが、意志や関わりあいの余地のないものは息苦しく「実感」や「生活」を伴いにくいように思います。
    僕は建築がそこにいる人と関わりあえる余地を持った独立した存在であって欲しいと思っていますが、「棲み家」という言葉のなかにはそういった可能性、「意志」や「生きる実感」、「生活」の入り込む余地を感じるのです。

    今回の展示はそんな風に「棲み家」ってなんだろうと考えながらつくった28点の住宅模型たちです。
    実際に手にとったり、模型の中を覗き込んだりしながら、あなたならではの「棲み家」について考えてみて下さい。




    B162 『オートポイエーシス論入門 』

    山下 和也 (著)
    ミネルヴァ書房 (2009/12)

    今考えてることと直接的に関係があると思い、オートポイエーシス論をちゃんと理解しようと思い読み始めました。
    『使えるオートポイエーシス論』を目指しているだけあって難解なオートポイエーシス論がみごとに整理されています。これで10年前に買って何度も挫折している河本氏の『オートポイエーシス―第三世代システム』がすっと読めそうです。
    ただし、整理されていると言っても感覚的なコツをつかまないとなかなか理解が難しいのでオートポイエーシスを掴みたい方は先に 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』を読まれることをおすすめします。

    ぽこぽこシステム論

    ちょうどこの本を読み始めたときにマルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談があり、どういう見方でイベントに臨むかを考えているときに「ぽこぽこシステム論」というのを思いつきました。

    オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
    もう少し読み進めていくと、オートポイエーシスの社会システム論で言うところの構成素はコミュ二ーケーションである、というのを置き換えたに過ぎないと分かったのですが、考えた結果がオートポイエーシス論と重なったのは嬉しかったです。(その後@rectuwarkyさんが面白い論を展開して下さっています。)

    オノケンノートとリノベ研

    リノベシンポ鹿児島の後、なんの確信もないままかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)というサイトを立ち上げたのですが、ここに来てようやくサイトの立ち位置のようなものが見えてきたように思います。

    オノケンノートとリノベ研、2つのサイトの立ち位置の違いを書いてみると、オノケンノートはあくまで僕個人の建築に対する考え方などを書いているサイトですが、リノベ研は建築分野の内外を問わず、いろいろな方の”産出物”、作品であったりテキストであったり姿勢であったり、が織り成す場、個々の活動をメタで見て考える場になればと思っています。(この論で言うところの1階言及システムもしくはn階言及システムにあたると思います)

    リノベと関係ないようですが、今思えばリノベシンポ鹿児島で感じたもやもやは、具体的なリノベに関してではなくおそらく、個々の活動の繋がりの場や仕組みについてだったのだと思えるので方向性としては間違っていないように思います。(そもそも個人でリノベを考えるならサイトを立ち上げる必要はなかったはず)

    なので、オノケンノートには自分が建築と向き合うときにどう考えるかという、どちらかというと自分に向けて書きます。
    対して、リノベ研に書くことは当然自分の思考の整理と言う意味合いもありますが、どちらかというと個々の活動のメタな部分、例えば”リノベ研というシステム”に対して”ぽこぽこ”を期待して投げるような気持ちで書きます。社会外部へと言っても良いかも知れません。
    (※社会と行った途端に対象がぼやけてしまいますのでとりあえずは外部へとしときます)

    どちらも内部・外部両方に向けて書いてる部分はありますがウェイトとしてはそんな感じです。

    オノケンノート的オートポイエーシス論

    オートポイエーシス論はリノベ研的には社会システムとしての動きを記述・理解するのに助けになりそうに思うのですが、オノケンノート的にはどういう意味があるでしょうか。
    もともとオートポイエーシスは個人的に(オノケンノート的に)追っていたものですが、

    onokennote: オートポイエーシスにもう一つ期待しているのは設計プロセスについて。理論化まではしないと思うけどなんとなくのイメージはある。 [07/06 13:39[org]]


    onokennote: 超線形のような感じでパラメーターを扱うけれど、設計プロセスのなかでパラメーター自体が生まれたり消えたり変化しながら全体の構造自体が動的に推移していくことで複雑性を得るようなイメージ。ただし超線形のような共有可能性は失われる。 Dot のやり方に近いかも。 [07/06 13:39[org]]


    onokennote: と言っても設計論のようなものを実際の設計に活かす機会は今までつくれてない。それが出来るかできないか、必要か必要でないかも今後の課題ではある。 [07/06 13:42[org]]


    というように書いているように設計プロセスについてヒントがありそうな気がします。
    設計行為は施主や敷地や社会や経済や図面や模型や・・・、諸々とのコミュニケーションであり、継続的なコミュニケーションの中で例えば図面や実際の建物や関係者の満足感などを産出する一連の流れと考えられると思います。それは小さな社会システムとしてオートポイエーシス的に十分記述・分析できる可能性があると思うのです。
    これは、個人の中でも言えると思いますし、dot architectsのような超並列?的な設計作業にも言えそうです。

    それに、どんなものづくりであっても、さまざまなレベルで言えることだと思うので、リノベ研で考えたことがこちらにフィードバックもできるんじゃないかと思います。

    またオートポイエーシスの環境、相互浸透、撹乱、コード、構造的ドリフト、構造的カップリング、言及システム、共鳴と言った概念を自分の目の前のことに置き換えることでその構造が見えてきて計画・対処できる可能性があるかもしれません。

    そうでなくても、産出物のメタの部分でシステムが作動しているイメージを描けることは見方を拡げてくれそうです。