B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

佐々木 正人 (編さん)

岩波書店 (2007/02)

日本におけるアフォーダンスの第1人者、佐々木正人に関連する書評はこれで4冊目であるがぐっとイメージの広がる著作であった。(ゲストは作業療法士の野村寿子、心理言語学者の古山宣洋、生態心理学者の三嶋博之、哲学者の染谷昌義、齊藤暢人、写真家のホンマタカシ、映画監督の青山真治、小説家の保坂和志)

佐々木正人を初め様々な分野の先端を走る人達が『環境』をテーマに語るのだが、そこには共通のある認識が見て取れる。それは、偶然というよりも時代の流れを感じるものである。

以下、備忘録がわりにいくつかメモってみる。

メモ

●野村寿子(作業療法士)
脳性麻痺の方などのリハビリ用の椅子を作っている方。
これまでは姿勢を矯正するようなつくりであったが、矯正するのではなくサポートをするような作り方で、その処方は全く逆の方向に向くことも。
人間が環境と関わりあえることを信頼しているような作り方。
なるほどの連続。患者さんは環境と関わるサポートを受けることで生き生きと環境との関わりを生み出していく。

● 染谷昌義、齊藤暢人(哲学者)
哲学のことはあまり理解できたとは思えないが、少しだけイメージはつかめた気がする。(イメージだけで言葉が正確ではないと思いますが)
デカルトの認識論(二元論)によって物質と精神の2つに区別され、それが今の世界の認識の仕方の主流になっている。
環境と自己が区別された上でそれらが別個に考察されている。
そこには俯瞰された世界があり(例えば宇宙)その中のある座標に物質としての身体があり、それとは別に自己の意識が存在している。
という見方。
そうではなくてそういう俯瞰する視点を取っ払って、自己と環境の、というとまた二元論になってしまうけれど、自己を含む環境から考察をスタートするやり方があるのでは。

スミスとヴァルツィの環境形而上学(有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論)はまさに空間としての環境を扱っている。

●ホンマタカシ(写真家)
カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比

何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。

おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。

建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。

建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。

● 青山真治(映画監督)
《像》ではなく《身振り》に。

同じように 《像》として、または物語としてはっきりと焦点を結ぶことを嫌う。自己と物語の分裂のもと、俯瞰的な視点を持つのではなく、『対象の 《像》への結晶化を 《環境》とともに回避』させる。

『結晶化』によって環境との微妙で豊かな関係性が分断され、物語に回収されてしまうことを恐れるのでは。

おそらくゴダールだけが、人間を信じていない、心理を信じていない

という言葉が印象的。

● 保坂和志(小説家)
同じような対比としてダンテの『神曲』とカフカを挙げている。
カフカも具体的なイメージが焦点を結んだり全体像が掴まれることを回避している。
不思議な部分の積み重ねによって全体像が現れることなく、何かしらのものが(著者は『カフカの現実』と言っている)が立ち現れている。
こういうカフカの表現は空間の一つのあり方。奥行きの表現の仕方を示しているようにも思う。

「一瞬の中に永遠がある」「一にして多なるもの」「朝露の一滴が世界を映す」これらの言葉を私は「わかった」とはいえないけれど、「シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるか」という問いのように難解だとも思っていない。それどころか、世界の真理とは結局のところこのような言葉でしか語らえないとも感じている。

著者は宗教者の言葉に興味を抱いているが、そう言われると禅問答のようだし、禅問答は言葉を拡張して世界の真理を掴もうとする一つの手段とも思える。

関係性によって全体を獲得する?

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。
水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。
それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。
自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。
その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。
そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。ぼんやりとしたイメージでうまく表現できたか分からないし、本著はもっと奥行きがあると思います。気になった方は御一読を。

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