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三 出会いと設計

「何か?」から「どう?」へ

これまで、建築における出会いとは何か、何とどう出会うのか、ということを書いてきたけれども、それらは建築の専門家であるかどうかに関わらず、自らの体験として捉えることが可能なものだったのではないか思う。

しかし、設計者の立場としては、そのような建築がどのようにつくられるのか、どのようにすれば設計可能なのか、という点に興味がある。

そこで、ここからはどうやってつくるのか、について出会いとはたらきの点から考えてみたい。

はたらきとしての設計

出会う建築と言った場合、同様に出会う設計というものがあるように思う。
それは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、何かに出会うことによって調整する、というこのと循環による自律的なはたらきとしての設計である。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

概念のところで書いたように、思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。
同様に設計も、自己と環境との、出会いと行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルが動き続けるとというはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、建築がその形や境界を調整しながら形成されていく、といったような動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながり、ひいてはつくられた建築での出会いを豊かなものにするように思う。

遊びと分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬものに出会う。ここでいう予期せぬものは物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには、その時点の図面や模型、パースなどのように設計者によって投入される事柄も含む。

その予期せぬものは、主観的な設計意志に対する制約(痛み)ではなく、遊びの文脈に乗った探索可能な出会いの可能性であり、設計行為を出会いと行為のダイナミックなはたらきへと導くものである。

また、それらの予期せぬものは、多様であればあるほど出会いの可能性を高めるが、あまりに突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまうため、適度に分散されていることが望ましい。

そうやって、出会いを多様に分散することは、設計による調整行為にある種の自在さのようなものを与えるように思うし、その自在さが、出会いと行為のはたらきを持続可能なものにするように思う。

出会いの投入

ところで、建築の設計過程で、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他これまで考えて来たようなものとの出会いが発見されたとすると、それれは設計のはたらきにどのように関わりうるだろうか。

先の遊びと分散で書いたことを思い出すと、設計の過程で発見されたこれらの出会いは、設計の原理というように強いものではなく、可能性としての予期せぬものとして、再び設計環境に投入されることが好ましいように思われる。

そうすることで、設計のサイクルにおける出会いの可能性をより多様なものできるはずだ。

少年のモード

また、設計の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」というように置き換えられる。それはシステムの問題であるが、設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が必要である。

経験を閉じて、一定の範囲の価値基準や手法の中で設計を行うのでは、そこに出会いは生まれないしはたらきは維持できない。絶えず目の前の予期せぬものを、遊びの文脈で可能性としてキャッチするような態度こそが求められるように思う。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築とを前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、出会う設計とは、理論的手法から実践的態度への転回のことなのである。




 二-二十二 地形―関係性とプロセス

「地形」のような建築

ここで、「地形」のような建築ということを考えてみたい。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志があり、出会いと行為、意味と価値に溢れている。

「地形」の二つの特質

「地形」が、そういった意味と価値に溢れたものであるとすると、そこには二つの特質があるように思う。

一つは先に書いたように、人と建築それぞれが自立し、並列の関係性を保てているということ。

もう一つは、プロセスが重層的に織り込まれている、ということ。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれている。もし、それが平らに造成されてしまったとしたら、すくなくともあるスケールに於いては織り込まれたプロセスがリセットされてしまい、出会いの可能性は限られたものになってしまうように思う。そう考えると重層的なプロセスの存在が「地形」の出会いをより豊かにしていると言えそうだ。

必ずしも地形のような形態である必要はないが、このような二つの特質をもった建築が「地形」のような建築だとすると、そのような建築も、とても貴重なものだといえるだろう。

人は建築で、地形と出会う。




 二-二十一 距離感―自立と自律

出会うための距離感

建築を出会いの対象と考えた時、建築はあくまで環境であり他者である、というようなあり方が重要となる。

人が何かと出会うためには、人が能動的に関わる必要があるし、そのためには、建築がその人の内面に回収されてしまうようなものではなく、人と建築の間にある程度の距離感が必要である。それは、人と建築とが一方が一方に従うような縦の関係ではなく、並列の関係としてそれぞれ自立しているような状態である。これは、関係性を持たない、ということではなく、むしろ横の関係であることによってお互いの関係性を担保しあっているような状態である。

これは、社会性のところでも書いたけれども、商品化されたような建物は主従の関係性を軸にしてきたため、こういう距離感はなかなか保てないし、出会いは限られたものになってしまうように思う。そんな中、人との距離感を保ち、自立しているような建築は、商品化された建物と比較して「不便なもの」としてネガティブに捉えられやすい。しかし、その「不便なもの」と捉えられるものは、「出会いを可能とする隙間、可能性の海」としてポジティブなものに転回可能であることが多いように思うし、現代社会においては、むしろ出会いの機会として貴重なものかもしれない。

自立と距離感

また、建築が自立しているためには、私との距離感の他にも他者・耐久性・矛盾といった要件があるように思われる。

まず、他者から切り離されたものは出会いの環境とはなれない。それでは孤立である。建築が孤立ではなく自立するためには、他者と切り離されるのではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような相互関係の距離感を保つ必要がある。

また、建築が存続しなければそこで出会うことは出来ない。建築が自立し続けるためには当たり前のようだが、物理的・経済的・機能的な耐久性、さらには愛着といった心理的・社会的耐久性が不可欠である。それによってはじめて持続的に出会いの環境となれる。

さらに、建築が意味や価値を持つには自立しているだけでなく、矛盾のように、人との距離を固定化せず、出会いのはたらきの動力となるようなものが必要かもしれない。

自律と他律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。
分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。

では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。
何と出会うのか、と同様に、出会う建築はどうつくられるか、というつくり方・つくられ方の問題も重要であるだろう。これに関しては後で書いてみたいけれども、自律的につくられるか、他律的につくられるかで、そこに生まれる出会いにも違いが出てくるように思う。

人は建築で、ある距離感のもと出会う。




 二-一九 はたらき―出会いの連鎖

出会いの連鎖と「生きている」こと

私たちの生活は、出会いと行為の絶え間ない連鎖であり、そこにははたらきがある。

一人ひとりの中に出会いの連鎖のはたらきがあり、また、集団としての社会的・文化的・歴史的はたらきがある。そのはたらきのことを「生きている」と言ったりする。時々、生物が「生きている」と言うのと同じように、社会や都市が「生きている」と言うこともあるけれども、そこには出会いの連鎖のはたらきを見ているのである。

このはたらきそのものは、直接見ることができないが、はたらきとの出会いはどのようなものが考えられるだろうか。

例えば、技術の項で書いた「保留されたものとの出会い」がそうかもしれない。出会いが積み重ねられた一つの状態には、それまでのはたらきが現れているし、今が、静止した状態ではなく、はたらきの最中にあることを感じさせてくれる。

また、はたらきとの出会いを考えた時、、流動、更新、変転、生成といったようなはたらきが含まれている言葉との出会いを考えてみても良いと思う。私たちの環境が、静止したモノではなく、変わり続けるコトとして感じられた時、はたらきとの出会いが生まれるのかもしれない。

建築について考えてみると、このようなはたらきの存在を自然と感じさせてくれるような建築というものがあるように思うし、そのような建築はやはり貴重な存在だと言えるだろう。

人は建築で、はたらき、すなわち「生きている」ことと出会う。




 二-十一 遊び―出会いの作法

誤差と遊び

何かをするときには必ず予測とは異なることが起きる。

例えば、理想が先にあってそれに向けて何かがなされるときには、その誤差はネガティブな要素、痛みとなる。そこでは、誤差はあってはいけないものであり、なかったことにするために全力が尽くされる。

一方、その誤差を、環境から受け取った情報と捉えると、それはポジティブな要素、何かを想像するきっかけとなる。そこでは、誤差は自分とは異なることを楽しめるような遊びの対象になり、そこに出会いが生まれる。

つまり、遊びとは出会いの作法であるといえる。

例えば、建築の中に予測を裏切るような遊びの要素があるとする。その遊びの要素は人の出会いに対する感度を鋭敏にし、それまで気付けなかったことに着付くきっかけを与えるかもしれない。

また、例えば、建築の中に一般的に痛みの要素と捉えられがちなネガティブなものが、遊びの要素へと変換された痕跡を見つけた時、可能性が開かれたような爽快な気分になることがあるかもしれない。その、痛みから遊びへの転回の痕跡と出会うこと自体も一つの悦びである。

人は建築で、遊びと出会う。




 二-八 技術―出会いの方法

新鮮な出会い

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。

また、住宅など日常使いの建築の場合、常に新しい発見として出会うことは難しいかもしれない。しかし、一度生じた出会いの新鮮さは、「私である」と感じる領域の一つの要素としてある程度定着するように思う。であるから、出会いにはその瞬間のものだけではなく、経験として「私である」と感じる領域に定着したものも含まれる、と考えられるし、その出会いが新鮮であればあるほど「私である」と感じる領域は強くかたちづくられ、愛着や親しみと言った付随的な感情も増すように思う。

重ね合わせ・保留・ずらし

では、建築において新鮮さを伴うような出会いの方法にはどのようなものがあるだろうか。他にもたくさんあると思うが、3つほど列挙したい。

一つは出会いが重ね合わされたものである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。

あるいは保留されたもの。例えば、完全に計画されたものではなく計画を保留されたある状況の中で、何らかの出会いと行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな出会いを内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば自然に積み重ねられた技術と出会う悦びである。
全てを計画し切る建築というものはありえないだろうし、生活の中で不意に訪れる出会いは、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多いように思うのである。

もう一つはスケールでも書いたようなずらされたもの。ずれそのものが新鮮さを伴うものであるし、ずれは、出会いの感覚を継続的なものとして定着させるように思う。

人は建築で、新鮮に出会う。




 二-五 移動―私のいる空間が私である

私のいる空間が私である

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。

この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になるし、高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じるかもしれない。快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げるし、さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながってると感じられる。鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれる。

また、視線の先に階段があるとそれば、その階段を直接登れないとしてもも、階段は登ることを想像させその上の部分にまで私の領域を広げる。(これを場所のチラリズムと呼んでいた。)。

こんな風に、移動によって、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は大きく広がるが、そこにはその領域を広げるような出会いの積み重ねがある。

そして、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は社会的に共有できる。同じ景色を見ている、同じ場所に住んでいるというように、「私たちのいる空間が私たちである」と感じるような領域へと拡張できるだろう。この「私」から「私たち」への拡張は、その場所やへの愛着や他の「私たち」への親しみといった社会的な感情の礎になるように思う。

この「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域は、おそらく探索的な移動の中で何とどれだけ出会えるかと関連があるだろうし、その領域をかたちづくる出会いの多くは建築に関わるものだと思う。

人は建築で出会い、「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域をかたちづくっていく。




 二-一 素材―固有性と社会性

素材と固有性

まず、人は素材と出会う。
人は、その素材の特質・テクスチャから情報を抽出し、例えばどんな物質で構成されているのか、硬いのか柔らかいのか、曲げられるのか、壊れるのか、食べられるのか、といったさまざまな性質を特定する。それは生きていくために意味と価値を抽出していく過程と言える。

その先で、人は固有性と出会う。それがそれであること、いうなればものの固有性は、生きていくための環境を特定する上で不可欠なものである。逆に、固有の情報が読み取れないところに意味や価値を見い出すのは難しいだろう。固有性というのは、出会いにおいて意味や価値を見い出すための前提なのである。

一方、現在のものづくりの現場の多くはは大量生産による工業製品に覆われている。工業製品の理念は多くのものを同じ品質で生産することにあり、そこでは固有性のようなものは注意深く取り払われている。

これまで純粋な実感として、工業製品の多くは人々の気持ちを受け止める力が弱い、と感じていたのだが、この文脈で言えば、環境を特定する情報・固有性に乏しいため、意味や価値を見い出しにくくなっている、と言えそうである。例えば固有性に乏しい工業製品が年月を経て風化することで味が出たり愛着を感じることがある。風化と言えば否定的に聞こえるかもしれないけれども、徐々に固有性を獲得していった過程だと考えると肯定的に捉えられそうな気がしてくる。

ただし、工業製品の持つ役割や意味も理解できるし、大勢を占めている工業製品を全て悪、と決めつけるのも可能性を狭めてしまうように思う。また、固有性は素材だけから導かれるものでもない。素材そのものの固有性に頼らない場合でも、別のルートによって固有性を獲得し、意味や価値を発生させる建築というものがあるように思う。

また、固有性が出会いにとって重要だというのは、禅の思想にある、主客の分離を超え、あらゆるものを否定し尽くしてもなお残る「個」というものに近いように思う。

道元は「山是山(山は山ではない、山である)と言ったそうだ。

観念としての「山」ではなく目の前のそれがそれであるところの山を感じることが悟りの感覚である、というようなことだろうか。これは「山」という言葉によって、つい出会いが間接的なものになってしまいがち(「山」という言葉の示す観念としての「山」と出会ってしまいがち)なのを、目の前の山へと引き戻し、山そのものと直接向き合い出会えるように導く、ということではないだろうか。

固有性と社会性

また、固有性を持つことは社会性とも深く関係がある。

柄谷行人によれば、社会性とは異なる共同体との間に生まれるコミュニケーション、内面化されない他者との対話の間にうまれるものである。全てが内面化され、固有性を持たず、新たな出会いの生まれないところでは、対話は成立しないし、社会性も生まれない。

例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てを客の内面化可能な範囲にコントロールしようとする方向で構造化されてきたことを考えてみよう。

このような「商品」としての住宅は、誰でも設計・施工することができて、たいていの客の理解の範囲内にあり、クレームを最小限に抑える必要性を満たすことが求められる。そうでなければ、多くの人に受け入れられるように商品として展開することができない。

そのため、そこで用意されるものや価値観は多くの客が内面化できるもの(またはそう錯覚されるもの)となるように、厳選の上コントロールされている。そこで与えられる価値観もそこから外れないように予め準備されているものだ。固有性を装うことはあっても、実際には固有性は取り除かれ、「内面化されない他者」となることは注意深く避けられている。他者となることを嫌う。それが商品化住宅の宿命である。

そういった場は新たな出会いに乏しく、その場との対話は生まれにくい。固有性を持たないもの、すなわち社会性の契機のないものばかりに囲まれたまちがあるとすると、そこでの生活や子供の成長といったものはどんなものになるだろうか。無意識に不安が蓄積したりしないだろうか。よく、そんなことを考える。

「建築は社会性を持つべきだ」という話をたまに聞いたりする。しかし、その意味するところは良く分からないことが多い。

自立に関するところでも書きたいと思うが、建築はまず、固有性を持つ存在であるべきだと思う。そうでなければ建築との対話は成立しないし、社会性も生まれない。

「建築は社会性を持つべきだ」というとき、建築は、社会性を持つべき相手にとって、固有性を持った存在であることが、最初の前提だと思う。そうやってはじめて、そこで出会うことができる、すなわち意味と価値が生まれるのである。

「建築は社会性を持つべきだ」というのは、固有性が排除され出会いが失われてきたからこそ生まれた言葉なのかもしれないし、固有性を持った建築が貴重な存在であることを示しているのかもしれない。

人は建築で、固有性と出会う。そして、固有性は社会性の基盤でもある。




一 出会いについて

建築の意味と価値

「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」と言ったとき、その意味と価値とは何を差すのだろう。
建築の意味といってもなんだか良く分からない、という人が多いかもしれないけれども、とりあえず「建築の意味とは、その建築にどんな出会いがあるか、その可能性の集まりのこと」としておきたい。
意味が豊富な、つまり、出会いの可能性が豊富な建築は、それだけで豊かだと言えそうだし、意味の豊富さはその建築を知りたいというきっかけ、動機になる。

同じように、「建築の価値とは、その建築に含まれる出会いによって何が得られるか、その可能性の集まりのこと」としておく。
価値の大きな、すなわち出会いによって得られるものが大きかったり多様だったりする建築は、言葉の繰り返しになるけれども、価値ある建築だと言えるだろうし、価値の大きさは、その何かを得ようとする行動のきっかけ、動機になる。

例えば、「この建築は文化的に意味と価値がある」と言った場合には、その建築で文化的なものに出会うことができ、そこから、何かしら文化的なものを得ることができる。ということになる。また、その文化的なものに関心のある人はその建築をもっと知ろうとするだろうし、自分たちの集団にとってその建築から持続的に文化的価値を得続けることに意義がある、と認められれば保存や活用をしていこう、ということなるかもしれない。
もし、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということが一つのモノサシとして多くの人に共有されるようなことになれば、そこでの出会いと得られるものを整理しながら記述していくことで、その建築の意味と価値を共有したり、議論したりすることができるようになるんじゃないかと思ったりしている。

生きる基礎としての出会いと価値

では、建築における出会いとはどういうものを指すのだろうか?
ということを考えたいのだけれども、その前に、人にとっての出会いはどういうものか、を考えてみたい。
ちょっと回りくどく、分かりにくいかもしれないけれども、出会いが必要だ、と言うためには大切なことだ。

僕たちは、日々、さまざまなものと出いながら生活をしている。そして、意識するかどうかに関わらず、その出会いの中から意味を探り、自分にとって価値のあるものを選び取ることで生きながらえている。

出会うことは人が生きていくための基礎であって、出会うこと=生きること、と言っても良いくらいに大切なことだ。人は(人に限らず全ての動物は)出会い、選択することなしに、生きていけないのだから。
つまり、人にとって出会いそのものが価値だと言える。そうであるなら、人は無意識的であっても出会いを求めるだろうし、進化論的に言うと「環境の変化の中、適切に出会い、価値を得ようとする動機を持つものが選択的に生き残ってきた」とも言えるだろう。また、経験を通じて、適切な出会いと結びつくように学習・成長もするだろう。
もし、周りを見渡しても、何も出会いがなく、意味も価値も読み取れないとしたらどうだろう。または、同じようなものばかりで、多様性もなければ選択肢もないような状況に投げ込まれたとしたらどうだろう。たぶん、そんな環境は耐えられないんじゃないだろうか。逆に、雄大な自然に包まれた時のように、例え自分にとっての直接的な価値はなくても、その場所が多様な出会いに満ちていたとしたらどうだろう。そこになんとも言えない心地よさを感じたりしないだろうか。出会いを追い求めるのが生きていくための術だとしたら、出会いとある種の感情(例えば悦び)が結びついたとしても不思議はないように思う。

つまり、出会いは生きていくことの基礎であって、出会いそのものが価値であり、時に感情とも結びつく。
他のあらゆるもの(音楽や文学、芸術などに限らず、身近ななんでもなさそうなものであっても)と同様に、建築を通じてさまざまなものと出会うことができるし、何かを得ることもできる。それは、建築が生きていくことの基礎に根ざしているということであり、建築の存在そのものが価値や悦びに結びつくかもしれない、ということだ。

人は建築で、生きることの悦びと出会う。

直接的な出会いとリアリティ

出会いには直接的な出会いと間接的な出会いがある。
直接的な出会いは、直接向き合うことができる出会いであり、それをどこまでも細かく調べようとすることができる。
間接的な出会いは、他者によって何かしらのかたちで切り取られたものとの出会いであり、その切り取られた範囲以上に向き合い調べることはできない。 
例えば、「リンゴ」という文字やリンゴの写真は、文字や写真そのものとは直接的に出会うことはできるけれども、リンゴそのものとは間接的に、一定の範囲でしか出会うことができない。

では、動物の生存にとって、直接的な出会いと間接的な出会いのどちらが重要だろうか。単純に考えたら直接的な出会いだろうが(リンゴは食べられるけれど、リンゴの写真は食べられない)、人のような社会性を持つ動物にとっては間接的な出会いが可能性を押し拡げるかもしれない(リンゴの木のありかを示した地図は食べられないけれども、たくさんのリンゴを食べられるようになるかもしれない)。どちらが良いとは言う話ではなく、それぞれ役割が違うということかもしれない。

だけども、どちらにリアリティを感じるか、と言えば直接的な出会いの方だろう(リンゴの写真には写真としてのリアリティは感じるけれどもリンゴとしてのリアリティは感じない)。
この、どこまでも細かく調べようとすることができるという可能性の存在が、人との結びつきを強め、直接的な出会いにリアリティを与えるのかもしれない。また、そうだとしたら、どこまでも調べようとするような、能動的な姿勢がリアリティを引き出すとも言えそうだ。
(例えば、リンゴとリンゴの写真を全く同じ見え方になるように二つ並べて、それを、周りの環境変化がない部屋で、全く頭や眼球を動かすことなく眺めたとしたら、すなわち能動的な働きかけを禁じたとしたら、おそらくどちらが本物か判別ができないだろう)

このリアリティの感じ方の差は、今後、技術によってどんどん埋められていくのだと思うけれども、まだ直接的な出会いの持つリアリティの方に分があるだろう。建築にはさまざまな直接的な出会いが埋め込まれている。それゆえ建築は、これからも人々のリアリティを支えるような役割を担っていくのだと思う。(技術によって、間接的な出会いのリアリティが直接的な出会いのリアリティを凌ぐようなことがあれば、違う可能性が無限に広がりそうだ。そうなれば、建築の役割は何か、という問いをより強く突きつけられるんじゃないだろうか。)

建築で人は、リアリティと出会う。

メディアとしての出会いと超えていく力

また、出会いはメディアである。そこにある出会いは、他の人も出会うことが出来るのだ。
例えば、みる人に感動とインスピレーションを与えるような絵画が描かれたとする。それを見た他の誰かが、何かを受取り、新しい他の何かを生みだしたりするかもしれない。その誰かは、言葉の通じないような他の民族かもしれないし、ずっと後の時代の、全く別の場所の誰かかもしれない。
こんな風に、出会いは、時間、空間などさまざまなものを超えていくことのできるメディアであって、そこでコミュニケーションが発生したりする。
建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。

建築で人は、時間や空間、個人の殻や社会的な壁など、さまざまなものを超えて、さまざまに出会う。

共有物としての出会いと倫理

さらにもう一つ。出会いは共有物である。
人が他の動物から突出しているのは、人は集団として出会いを共有化し蓄積してきた、ということだ。
人は個人として何かと出会い、価値を得、学ぶだけではなく、それを、例えば知識や文化・技術として、文字や言葉、言い伝えや祭り、教育システムや師弟システム、その他さまざまなものに埋め込んでいく。そうして埋め込まれたものを蓄積し、更新していくことによって、人間の集団は文化的・歴史的に発展してきた。
そこで、人は個人として出会いを求めるだけでなく、集団としても出会いを求め、共有物としての出会いを蓄積しながら集団に還元していく。それは、メンバー各々の出会いの可能性を担保しようとすることでもある。変遷する多様な世界で、多様な人々が多様に生きていくには、多様な出会いの可能性が社会に存在している必要があるのだ。
そういう風に、集団が出会いを共有化・蓄積していくことは社会的倫理なのである。

そして、先に書いたメディアとしての建築の、長く存在し、さまざまなものを超えていく力は、この集団(社会)の共有物としての出会いを建築が担えること、建築が倫理的な存在であり得ることを示しているし、建築をつくり守ることによって、個人に「その社会的倫理の一端を担っている」という悦びを与えるものでもある。

人は建築で、可能性と社会の倫理と出会う。

出会いはなぜ重要なのか

出会いはなぜ重要か。
それは、出会いが生きる悦びやリアリティ、社会や文化といったものに、アプローチするための足がかりを与えてくれるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築の存在に対する肯定的意味や社会的役割のようなものを見いださせてくれるからである。
しかし、その重要性は建築の専門家だけのものでは決してなく、社会の一員である多くの人々にとっても重要な事だと思うのである。




〇 はじめに

目の前の建物を語る言葉

今、目の前にある、その建物。

その建物に、どんな意味や価値があるだろうか。また、それを語る言葉を持っているだろうか。

多くの建築家と呼ばれる人々は、建物を設計する際に、または、ある建物に意味や価値を見出した時に、あるいはその建物が意味や価値を持つことを期待して、その建物のことをわざわざ「建物」ではなく「建築」と呼んだりする。そして、その建築の意味や価値をどこまでも追い求める。

だけども、建築家たちが切磋琢磨して追い求める、その建築の意味や価値は、多くの人々に認められていると言えるだろうか。

『良いものをつくれば、それは必ず人々に伝わるはずだ。』

もしかしたら建築家はこう言うかもしれない。それはある面で正しいと思う。だけども、やっぱり多くの人々はその建物を語る言葉を持っていないし、その素晴らしさに気付くことなく通り過ぎてしまう。

まちの景観や、歴史的建物の保存・活用などが、限られた人たちだけの話題となってしまい、なかなか有益な議論や結果に結びつかない、ということの根底には、殆どの人の中には、建築という概念、または建築の意味や価値を語るための言葉が存在していない、ということがあると思う。

建築は、私達の生活する環境をかたちづくるものであって、生きていくうえで大切な要素だと思うのだけど、ほとんど人に語られてこなかった。まずは、誰でもが建築の意味や価値について考えられるような、言葉や状況を生み出す必要があるんじゃないだろうか。

そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。

唐突だけども、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」という説を、建築を考えるための一つのモノサシとして提案してみたい。
そして、そのモノサシが、、多くの人々が建築の意味と価値を考えたり、議論したり、つくったり、守ったりするための礎になることを夢想してみたい。

例えば、身の回りのの建築の中にどんな出会いが隠れているか探ってみたとする。

すると、たくさん見つけられる建物、ほとんど見つけられない建物、いろいろ出てくるだろう。好きなまちや建物にどんな出会いが含まれているかを思い浮かべて、目の前の建物と比べてみても良い。身の周りの環境に以外な魅力をみつけるかもしれないし、もしかしたら、そこに含まれる出会いの薄っぺらさに愕然とするかもしれない。
(その前に、出会いって何のこと?と思うかもしれない。それは順番に書いていくので、とりあえずは、その場所で自分の心や行動に何かしらの影響を与えるもの、くらいで捉えておいて欲しい。)

二十世紀は、出会いをなるべく抑制し、均一なものとすることによって、住環境の工業化や商品化を進めてきた。工業化や商品化は、均一であることを善とし、予期せぬ出会いはそれを乱すものとして悪者扱いされ慎重に排除される。その流れの中で、多くの出会いの機会が失われ、生活がのっぺりとしたものになってしまったように思う。

だけども、それが良いことなのか悪いことなのか、というのは簡単には言えないかもしれない。ある面で、人はそれを求めて来たのだし、風向きは変わりつつあっても多くの人は今もそれを求めている。どんなものにも得るものと失うものがあり、何かの価値があるのだと思うし、人に求められてきたものにはそれなりの理由があるはずだから。

建築の意味と価値を信じたい

善悪の判断は難しいけれども、それでもなお、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということ、建築には意味と価値があり、それを考え、語り、つくり、守ることが必要だ、と言ってみたい。

それは、建築というものの価値を肯定的に捉えて信じたい、という職業的な願望もあるけれども、いろいろ調べているうちに、そんな風に一度言い切ってしまうことによって、はじめて描ける世界観や倫理観があるんじゃないかと思えてきたのだ。

ここで書こうと思っていることは『Deliciousness おいしい知覚』の本文、及び引用元の文献が基にあるけれども、ここでは、そこで使われているような専門的な言葉や引用をできるだけ使わずに、なるべく簡単な言葉で書いてみたいと思う。

そして、それが誰かが建築の意味や価値について考え始めるきっかけになれば、と思う。




SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 に行ってきました。

SILASUによるイベントがしょうぶ学園であったので行ってきました。
FACEBOOK : SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 アール・ブリュットのお話と工房しょうぶを訪ねる

孤独ではなくハッピーを

工房の見学ツアー・トークライブ・ottoによるミニライブと内容盛りだくさんだったのですが、しょうぶ学園施設長の福森さんの話は前からお聞きしたいと思っていたので楽しみにしていました。

というのも、10年前、GOODNEIGHBORS JAMBOREEのotto&orabuのライブで衝撃を受けて、しょうぶ学園が気になりだしたのですが、以前、福森さんがアフォーダンスという言葉を使われているのを見て、これは一度お話を聞かなければ、と思っていたので。

今日、お話を聞きながら頭に浮かんだのが、保育における環境構成論(これも理論的背景にアフォーダンスがあります)と発達保障理論(話を聞きながら、これを書いたの、もしかして福森さんだったのでは、と確認したくらい)でした。

スタッフが利用者のやりたいことを引き出すように環境を整える役割を担う、というのは保育における環境構成論にそのまま重なるように思います。

ただ、保育の場合はそこに発達という目標が見いだせるけれども、しょうぶ学園のスタッフの方は、例えば関わるモチベーションとして何に向かっているのだろう、と思った時に、福森さんの話を聞いて浮かんだのが「発達保障理論」でした。
一般社会にあるような評価は軸の考え方次第で個性と捉えなおせるのだとしたら、その個性を伸ばそうと向き合うのも目標になりうるのかなと。

理屈としてはそんなことを考えたのですが、福森さんの話を聞いていると、健常者と障害者、サポートする人とされる人、というような関係は簡単に反転され無効化されますし、理屈よりもまず、実践されていることそのものの強さ・価値をまざまざと感じ取らされて、スタッフと利用者の関係性がとても羨ましく思えてきます。

工房で見た作品たちを見てため息がでるのも、そこに個性と、個性を個性のまま認めてくれる人の関係性を感じて、羨ましく思えてしまうからなのかもしれないですし、それを感じたくて、ここを訪れる人もたくさんいるんだろうな、と思いました。

また、福森さんは、今回のテーマであるアール・ブリュット(鑑賞されることを目的としない純粋で生の芸術)という言葉を使わない、という話も印象的でした。

アール・ブリュットが孤独感や危機感から逃れるためにつくられるとすれば、福祉の視点からは(例えそれに心を動かされたしても)それを絶賛することはできない。孤独や危機感を開放するのが福祉。環境として仕掛けていくことで作品が生まれることがあるけれども、それによって、孤独ではなくハッピーにならなければいけない。
というようなことを言われたのですが、otto&orabuや工房の作品に感動させられるのは、こういうことなんだな、と思わされました。やっぱり羨ましいなー。とも。


まだ、書いておきたいことはいろいろありましたが、アール・ブリュットのことや、建築をつくることとの関連は、会場で買った2冊の本を読んだ時に書けたらいいなと思います。(『アール・ブリュット』エミリー・シャンプノワ (著), 西尾 彰泰, 四元 朝子 (翻訳) と 『ありのままがあるところ』福森 伸 (著))
読むのが楽しみです。

 




外部空間に恋して ~KDP主催の講演会

KDP主催で、昨日、今日と建築家の酒井一徳さんと手塚貴晴さんの講演会があったのですが、県内の建築家の話を聞くのも、著名な建築家の話を聞くのも、どちらも貴重な機会だと思い参加してきました。

酒井さんの話は遠くの話のようで、身近な話でもあり、奄美大島という場所を拠点に奮闘を続けられている姿にたくさんの刺激を頂きました。
また、手塚さんの話はそこにいる人達が、そこにいることを心底楽しんでいる様子が伝わってきて、あらためて建築の可能性に触れられた気がしました。

外への憧れを思い出す

思い返してみると、方法は異なるかも知れませんが、酒井さんも、手塚さんも、どちらも外というものを信頼し、大切にされているように感じました。
酒井さんは、中庭やハイサイドライト、トップライトなどを用いることと、視線などをコントロールすることを併用しながら、外へとつながる豊かな場所を生み出すのが上手く、体験として外の感覚を持たれているんだろうな、と思いました。

手塚さんは、そもそも内だ外だと言ってるのがナンセンスに思えるくらい、そこにいる人(特に子どもたち)が内も外も変わらず楽しんで使っていて、人間本来の姿を見せられたように思いました。建築よりも先にそこにいる人達がいきいきとしていることに感動させられました。

そういえば、と、自分も、昔から屋上という場所が好きだったり、例えば20畳のLDKをつくるよりは10畳のLDK+10畳のテラスなどをつくる方が気持ちが良いんじゃないか、と思っていたり、外に対する強い憧れを持っていたことを思い出しました。

予算や敷地の関係などで、実務の中では思い切ったことがあまりできていないのですが、こういう外への憧れは時々自分の中に浮かんできます。
手塚さんのスライドに出てくる子どもたちをみると、やっぱり、建築の豊かさって外の豊かさによる部分もかなり大きいんじゃないか、という気がしてきます。
(内部の面積を一般的な予算で可能な面積の3分の2以下にしてもいいので、その分豊かな外をつくりたい、という奇特な方はいらっしゃいませんかー)

また、ニコ設計室の建物を見てすごく感じたのですが、よく言われるマチに開く、というのは、オープンさ・透明さというよりは、外をどう使い倒しているか、が重要なのではないか。建物の内部に籠もり切っていない、という姿勢の表れこそ重要なのではないか、という気がします。
酒井さんの一部の建物のように、たとえ一見、外部からの視線をシャットアウトしているような屋外空間だとしても、そこに、人に楽しく使われている外がある、というのが分かれば、僕はすごく親しみを感じてしまいますし、それも一つのマチへの開き方だと思います。

大断熱時代の外を考える

さて、今後日本も大断熱時代に突入していくと思いますし、それはとても重要なことだと思います。

一方で、手塚さんの人間は本来、雑多なもの(音・光・温度・細菌等々)に囲まれていることでバランスが保たれているという話は体感的に共感できましたし、個人的にも大切にしたいと思うことと重なります。
しかし、根本的な姿勢の部分で、手塚さんの言われたことと、建物の外皮を強化して内部を外の環境から切り離すこととは、少なからず相反する部分があるように思います。

これに関しては自分の中でも揺れ動く部分があって、「建築全体の豊かさが上がるのであれば断熱性能は多少犠牲になってもいい、という考えは言い訳なのではないか」とか「断熱を言い訳にして本来の豊かさを犠牲にすることは人間にとって(特にこどもたちにとって)本当に良いのか」と、いろいろ考えてしまします。

どちらも満たせるのが一番に違いないのですが、この大断熱時代において、豊かな建築のあり方とは何か、もしくは豊かな外のあり方とは何か、しっかり考えて答えを見つけていく必要があると改めて思わされました。

実は、これに関してもニコ設計室の建物がヒントになると思っていて、彼らの建物の多くは内部と同じように外部も人が使う大切な場として、マチと建物の間に挟み込まれるようにつくられていて、そういう建物は内部を高断熱な仕様としても、外があるおかげで息苦しく感じる建物にはならないように思います。また、うまくすれば外部が内部の温熱環境をコントロールするような役割を果たすことができそうです。
もしくは内部空間を温熱環境の異なる入れ子状の構成にすることで、外部との繋がり方をの度合いをコントロールすることもできるかもしれません。

まー、いずれにしても、一定の予算の中でどう実現するかというのが課題にはなってくるのですが・・・。

(もう一度。内部の面積を一般的な予算で可能な面積の半分以下にしてもいいので、その分豊かな外をつくりたい、という奇特な方はいらっしゃいませんかー)

※タイトルは象設計集団の『空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ』のもじりです。そういえば象設計集団の外部は大好きです。




家は特別。

このサイトの左下にあるコピーライト(©2002 onoken )の©の文字のところが、こっそりランダムボタンになっていて、どこかの過去記事に飛ぶようになっています。

よく自分でこのボタンを押して、このころはこんなこと書いてたんだな、と思い出したりするのですが、その時思ったことを時々ここに書いてみようかと思います。( デザインのたねの続きの感じで。)

今回はこれに飛びました。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B134『くうねるところにすむところ06,08,14,16,21』

このシリーズ、最後に書いてある「発刊のことば」がすごく好きなのです。

環境が人を育みます。家が人を成長させます。家は父でもあり、母でもありました。家は固有な地域文化とともに、人々の暮らしを支えてきました。かつて、家族の絆や暮らしの技術が家を通して形成され、家文化が確かなものとして水脈のように流れていました。
いま、家文化はすっかり枯れかかり、家自体の存在感も小さくなり、人々の家に対する信頼感も薄らぎ、急速に家は力を失いつつあります。家に守られる、家を守る、家とともに生きるという一体となった感覚が、極端に衰退しています。
(中略)家の確かさと豊かさと力強さを取り戻すため、建築家が家の再生に取り組む必要があります。
その第一歩として大切なことは、まず建築家が、子どもの目線で家について伝えることです。本書は、子どもたちが家に向き合うための建築家、そしてアーティスト、作家などによる家のシリーズです。(『発刊のことば』より)

 
 
建物にも、オフィスや商店、駅や学校など様々なものがありますが、家というのはその中でも特別なもので、これほど人の生活と直接寄り添いあえるものは、なかなかないと思います。

だからこそ家は確かで、豊かで、力強いものであって欲しい。(と同時に、時に不確かで、控えめで、弱々しい部分もあわせ持って欲しいとも思うのですが。)
 
 
いやいや、まちもみんなの家みたいなものだと考えたら、オフィスや商店、駅や学校だって、人の生活と直接寄り添いあえるようなものの方が良いに違いない、と思いますが、それでもそれはみんなのもの。

家はやっぱりその人にとっての特別なものだと思いますし、自分が関わった家がそうであってくれたらいいなと思います。




家づくりは生活の優先順位を決めていくこと(設計事務所に頼むと高くつくの?)

予算に合わせて考えるということ

「設計事務所に頼むと高くつくのでは。」という疑問を耳にすることがよくあります。
これに対しては、全く違うとも言えますし、その通り、とも言えます。

どういうことかと言うと、メーカーなどの商品住宅は、ある程度決まった仕様・グレードの中から予算にあったものを選ぶことになりますが、多くの設計事務所の場合では、特にこうしなければいけない、という縛りはありません。全てにおいて、限りないあらゆる選択肢の中から、予算に合わせた組み合わせを考えていく、という作業を積み重ねていくことになります。

ただ、初めて経験する家づくりで、無限とも思える組み合わせを決めていける方はほとんどいないと思います。
そこで、設計事務所がプロの視点と経験から先導しつつ、お客さんと一緒に組み合わせを考えていくことになります。(最近はお客さんも様々な情報を手軽に集めることができるようになったので、逆にそれまでなかった選択肢を教えていただくこともあります。)

とにかく安くすることだけを目的に組み合わせていけば、当然安く抑えることが出来ますし、逆に、どれもこれも高価なもので組み合わせていけば当然高くつきます。
設計事務所を訪ねてこられる方は何かしらこだわりのある方が多いので、結果として高くなる傾向があり、それが、「設計事務所に頼むと高くつく」というイメージに繋がっていることはあるかも知れませんが、基本的な姿勢としては、お客さんの予算に合わせて要望を叶えるための最適解を見つけていく、ということが設計という行為だと思っています。

家づくりは生活の優先順位を決めていくこと


いつもお客さんには、家づくりは、生活の中で自分が大切にしたいものは何か、を探しながらそれらの優先順位を見つけ決断していく作業だと説明しています。

限られた予算の中であらゆることを満たすことはできないので、必ずなにかしら優先順位を付けなければいけないのですが、それを楽しく、メリハリをつけてできれば家づくりの8割はうまくいったようなものです。

潤沢な予算があれば別ですが、ここで、優先順位を付けられず、全て同等に扱ってしまうと、予算内に抑えるためには結局はすべてにおいて求めている基準に満たない、といった魅力に乏しいものになってしまいます。

よく、動物園で人気の動物など自然界の形態を例に出すのですが、象やキリン、サイやカバ、どれも何か一つを突出させた特徴的な形をしています。それが多くの人に人気があるのは、そういう割り切りのようなものに生きていく力・躍動感のようなものを感じるからではないのかな、と思っているのですが、住宅も同様に、優先順位にメリハリを感じられるものは愛着の持てる魅力的なものになっているように思います。

割り切りが必須になりつつあること

職人不足や建築資材価格の上昇などにより建設費用はじわりとじわりと上がり続けています。また、決して悪いことではないですが、構造や断熱などもそれなりの性能にすることが普通になりつつあるので、基本性能を満たすための必要コストは以前にまして大きくなっています。
加えて消費税の増税などもあり、10年前にはできたことが今同じ価格ではなかなか実現しづらくなっています。

さらに、平均年収も下がりつつあることを考えると、10年前よりも、優先順位を明確につけてメリハリのある予算配分を考えることの必要性が大きくなってきていると思います。

事務所としては、比較的高年収のクライアントに絞り込めばそれほど問題にならないのかも知れませんが、やはり、いろいろな人に家づくりの楽しみを知ってもらいたいという気持ちを捨てることは難しいです。(ローコストばかりでは事務所の経営的には厳しくなるのですが・・・)

家づくりのコストには、構造や断熱などの基本性能、設備や仕上げ等のグレード、大きさや建物形状、その他様々な要素が絡んできます。その中で、例えば、断熱等の基本性能を満たすことを優先させるために、必要な部屋や面積、時には間取りの常識を問い直して、思いっきって小さな家にしてしまう、というような割り切りが必要になることは増えてくるように思います。
その時に、一見ネガティブな決断をその家の魅力へと転換するために、設計事務所の持ついろいろな引き出し・アイデアが必要になってくるのです。(と、同時に施主自信がそれを楽しむようなメンタリティも必要です。)

例:HTGH ~UA0182C027の家


実績ページ:HTGH ~UA0182C027の家
この家は当初、2階建てで計画していたのですが、ある日、お客さんから、高断熱・高気密の仕様(鹿児島ではなかなかないようなハイグレードな仕様)に変えたい、という連絡がありました。その際、今まで考えていた2階部分はそっくり取りやめにして1階部分の面積で構わない、と言われたのですが、とてもびっくりしました。

普通は、それまで見てきた計画案に未練が残り、何かを大きく減らす、という決断はなかなか出来ず、いろいろなところを少しづつ削っていくという選択になりがちです。
それはそれでやりようがあるかも知れませんが(現実的に無理なケースもありますが・・・)、このお客さんは、快適な熱環境を実現したい、ということの優先順位をはっきりと前に打ち出したため、それを実現できただけでなく他の部分に関しても無理のない予算を割くことが出来ました。

経験的には、コスト調整の過程でお客さんが様々な選択をしていくことになりますが、出来上がったものを見ると決して妥協の産物ではなく、はじめからその様に計画していたかのように思えることがほとんどです。コスト調整は、丁度よい塩梅を見えつけるための作業とも言えます。

土地と建物のバランスについて

また、土地から購入される場合、土地と建物の予算バランスも重要な要素になってきます。
土地と建物の総予算が3000万円で考えているのに、土地に2000万円かけてしまえば、建物にかけられる予算はかなり厳しいものになってしまいます。(実際、土地を購入後に相談に来られた方で、これに近いバランスのケースも少なくはないです。)

叶えたい生活によっても、土地と建物の予算バランスは変わってきますし、一見不利な条件の安い土地が建築的な工夫で魅力に変えられることもあるかも知れません。
可能であれば、土地を探している段階で相談に来られることをおすすめします。

例:MKGT ~南郡元の家


実績ページ:MKGT ~南郡元の家
この家のお客さんが相談に来られたとき、2つの敷地で迷われていました。
一つは14.3坪の土地で、もう一つは18坪の土地。後者の方の土地はいろいろな条件から前者の2倍以上の金額でした。(建ぺい率/容積率は60/200と60/160)
お客さんとしては前者のエリアのほうが馴染みがあるけれども、さすがに14.3坪は難しいだろうし、環境としては後者のほうが良いように思う、ということで悩まれていました。

総予算をお聞きして、試算してみたところ、後者では建物にかけられる金額がかなり厳しく、思い描くようなものを実現することは難しいように思われました。
そこで、なんとか建物の方を工夫すれば良いものにできると思うので、予算の上限を上げることが難しいのであれば、こちらを選んだ方が良いのでは、と小さい方の土地を推薦したところ、それを信じて頂いて、そちらで進めることになりました。

スキップフロアーを採用し、床下収納やロフトを組み合わせることで、妥協的ではないプランをまとめることができたのですが、結果的には、仕様的にもほとんど妥協せずに進めることが出来ました。お客さんにも満足して頂けたと思います。

そもそもの予算について

ところで、ここまで、家造りの総予算と言う言葉が何度もでてきていますが、そもそもの予算はどうやって決まっているのでしょうか。
今までは、総予算はお客さんの方で決めて頂いて、それをもとに計画をしてきましたが、本来であれば、将来のライフプランとファイナンスプランによる具体的な数字を算出し、それをもとに決定した方が、より適切な金額を採用できますし、何よりお客さん自信の不安が取り除かれより前向きに家づくりに取り組めるはずです。

その部分は、今までなかなかアプローチできなかった部分ですが、お金に関する諸々に対しても責任を持って提案・サポートできるような体制を近いうちに準備したいと思っています。




世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。




気持ちで考えることと考えないことの両義性 B223『堀部安嗣 建築を気持ちで考える』(堀部 安嗣)

堀部 安嗣 (著)
TOTO出版 (2017/1/19)

建築を気持ちで考える。
なぜ、今、このタイトルなのか。それを確かめたくて買って読んでみることに。
まだ、うまく整理がついてないですが、書きながら考えてみたいと思います。

建築を気持ちで考える

気持ちで考える。この仕事を続けていると、このことの難しさや大切さが、時に見失いながらも身にしみて分かってくるように思います。

建築は自分の個人的な”気持ち”だけでつくることは難しい。
当然クライアントの気持ちもあるし、法規や周辺環境、予算や工期と行った壁も立ちはだかります。
そんな中で、それを超えて気持ちを大切にしながらつくり続けるためには、その気持ちを十分に信じられるだけの強さが必要になる気がします。

私は建築をつくる一番の目的は、人間の原初的な身体感覚にシンプルに応えることだと思っています。(p.171)

なんのために記憶を継承できる建物をつくるのか。最終的には、人がその人らしくいられる建物にするためです。

私は建築が背負う重荷を少しずつ取り除いて、本来のシンプルな姿に戻してあげたいと思っています。

これらの言葉には著者の建築に対するシンプルな姿勢が現れていて、その気持ちの強さや普遍性のようなものを感じます。
”気持ち”が個人の思いを超えて、普遍性を獲得しようとしてるとも言えそうです。
しかし、普遍的でありながらその”気持ち”は著者の体験を軸にした著者自身のものでもあるように思います。

建築はそれを設計した人そのものだ、と信じて疑いません。(p.006)

その”気持ち”が個人的なものでありながら、なお普遍性を帯びているところに著者の建築の魅力があるのかもしれません。

建築を気持ちで考えない

しかし、一方でその”気持ち”というものに多少の重たいものを感じる自分がいることも確かです。

自分は、ある意味では大人の気持ち(欲望)がそのまま現れたようなまちに対して喪失感や危機感を感じたところから建築をスタートしています。
そのせいか、気持ちそのものから自由になれるような建築とはどのようなものだろうか、という問題意識が根底にあって、気持ちそのものをストレートに扱うことには若干の抵抗があります。(世代的な面もあるかもしれません。また、自分がたまたま出会えたような世界の豊かさに、たまたま出会えなかったような人に対する想像力も必要だと思うのですが、もしかしたら”気持ち”はそういう想像力を鈍らせるかもしれない、と怖れてる面もあります。)

建築理論についてのパラグラフ|takahiro ohmura|note

同時にこうした状況においては、重要な判断はしばしば設計者の感性的な価値基準によって下されてしまう(そしてその判断が決定的に使い手を束縛する、ということも少なくない)。われわれは“理論”を酷使することによって、こうした場から、消費の欲望も、政治的な抑圧も、感性も、すべて放逐せねばならない。

これは、本書を読んでいる時にたまたまtwitterで見かけたものです。あくまで建築の理論に対する論考なので同列に扱えるかどうか分かりませんが、ここでは感性的な価値基準も放逐されねばならない、とされています

これに対して共感する自分もいて、なぜ建築に関わるのかという部分においては気持ちは必要だけれども、建築を組み立てる過程においてはそれとは一旦離れなければならないようにも思っています。
建築を気持ちで考えない、ということも大切なことのように思うのです。

建築を気持ちで考えながら、気持ちで考えない?

さらに一方で、前回書いたように、ワクワクするような気持ちを大事にしたい、という思いや、その時々の判断の際に自分の気持ちの小さな揺れに気付くような感度がなければ設計はできない、という思いもあります。

建築を気持ちで考えたい、という思いと、気持ちで考えたくない、という思い、両方あるのです。

それはどちらかが間違っているかというと、そうでは無いように思います。

建築には相反するものを同時に包み込むような強さを持つものであり、そのことが建築の豊かさにつながっていると思うのです。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

それは学生の頃からの悩みのようなもので、このブログでもいろいろと考えてきました。例えば、ぼんやりとしたイメージですが、

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

もし、気持ちで考えたような建築も、気持ちで考えないような建築も、いろいろと混ざり合ってどこへでも行けるような建築ができるとすればそういうものをつくりたいと思いますし、そのためには気持ちで考えることも、気持ちで考えないこともどちらも必要な気がします。

そうした視点で見ると、おそらく堀部さんの建築も”気持ちで考えた”ような一枚板の建物ではなく、そのような”気持ち”から建築自体が自由になるようなところにまで届いているのだと思います。そうでなければ、これだけの共感を得られないように思いますし、そのことを目指しているようにも感じました。

 
 
気持ちで考える、ってどういうこと?と分からなくなって、書いてみましたが、何か今まで書いてきたことを再確認する感じになった気がします。
たぶん、これが自分の”気持ち”なんだろうな。

それにしても、やっぱり、自分の気持ちで考えて、それを建築にするのって難しい
まだまだそこまで届かないっす。




何が建築を規定しているかを知ることを足がかりに考え続ける B219『 建築の条件(「建築」なきあとの建築)』(坂牛卓)

坂牛卓 (著)
LIXIL出版 (2017/6/22)

自由になるための道具

だいぶ前に一度読んでいたのだけど、何かピンと来てなくてなかなか書き出せなかった本。

なぜピンと来なかったのか。まずはそこから考えてみたいと思う。

はじめに、『建築の条件』というタイトルを見て、建築であるための条件は何か、を期待して購入したのだけれども、そうではなく、書かれていたのは建築を規定しているものは何か、であった
どちらかと言うと、建築を規定しているものから少しでも自由になりたい、という思いが強かったので、建築を規定しているものそのものにはさほど惹きつけられなかった。

そんな感じで読んだので前に読んだときには書きだせなかった。しかし「作品の分析には使えても果たしてつくる側の論理になるのだろうか。」「無意識に規定してしまっているものを意識の俎上に載せることの意味は何だろうか。」そんなことを考えているうちにようやくこの本の意味に気づいた気がする、

おそらく「建築を規定しているものから少しでも自由になりたい」というのは間違いではない。むしろそこから自由になるためにこそ建築を規定しているものが何かを知るべきである。
この本は自分を無意識に規定しているものに気づき自己批判をするためのもの、いわば自由になるための道具なのだ。ここに直接的な答えが書いているわけではない

そう考えると終章の言葉がやっと頭に入ってきた。

しかし異なるのは、メタ建築が重奏する思考の上に成立し、「条件」を捨象するための戦いを通して生み出されていたのに対し、現在のスペクタクルはグローバリゼーションやネオリベラリズムの求めるものとして現れている点である。(p.297)

状況が要請する、あるいは与えるものを無批判に受け取るところに次へのステップはない。教科書通りの答えが明日をつくることはありえない。(p.298)

なるほど、もしかしたら購入前に期待していた「建築(であるため)の条件」の一つは「建築(を規定しているところ)の条件」に対する批判的眼差しの存在なのかも知れない。

「建築」なきあとの建築?

ただ、再度序章と終章をつまみ読みした今の時点で、まだ疑問に思うことが一つある。

そして失われた「建築」を再度つくり直すことが、われわれに求められている。(p.300)

求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか

それは以前感じた、まだ答えのない疑問でもある。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B213 『人の集まり方をデザインする』)

もしかしたら、その問いに対するヒントは本書の中に隠されているのかも知れないけれども、それは今分からない。

兎にも角にも、この本を自己批判のための道具として使うべく、ここに書かれている9つのテーマについて、再度読みすすめてみたい。

前置きが長くなったが、以後、各項目について、個人的に感じたことを思いつきも含めて簡単に書いていきたい。
 


 

・人間に内在する問題

1.男女性

この章では性が生物学的に、また社会学的に建築に影響を及ぼしてきた経緯が語られるが、自分自身は表現として性別を意識したことは殆どないと思う。
しかし、計画の際に与件として受け取ったり影響を受けていることは無数にある。
例えば、異性同士のお子さんがいるかどうかでプライバシーの配慮の程度が違うし、小さなお子さんの性別で耐久性などの程度も変わってくる場合がある。
キッチンに男性が立つかどうか、や皆で料理をすることがあるかどうかでキッチンのスペースも変わってくるし、共働きの場合は家事のリズムや必要なスペースも当然変わってくる。
そういった条件の変化にはジェンダーに対する考え方の変化などが大きく影響するが、もっと意識的にその先のイメージを考え、提案していってもよいのかもしれない。

性差については

『キレる女懲りない男―男と女の脳科学』
黒川 伊保子 (著)
筑摩書房 (2012/12/1)

を読んでつぶやいた時のツイートを思い出す。

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » tweet 11/23-05/16

最近プライベート的必要に駆られて男と女の脳科学な本を読んだ。生物学的な役割から脳の機能が異なるのは理解できるし、普段はこの手の本は毛嫌いしてるんだけど、まーわりと面白かった。

男性脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細くなってしまってるので理論化しないと感覚と言葉を結び付けられないし、目の前のことに疎い。でもその分、遠くが見える。

女性脳は脳梁が太く感覚と言葉が直結してて、ややこしいことは考えずにひたすらおしゃべりを繰り返して感覚をキーとしたデータベースを強化し続けてる。それは子育てという観察をベースとした瞬間的な判断を絶えず強いられるから。

もともと機能・特性が違うのでお互いになかなか理解できない。それを前提とすれば、理解できないお互いの言動も愛で合うことができるのでは。みたいな話。早速、実践してみるべ、と思ってもまー簡単じゃないよね。

で、身の周りでも女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なものがリアリティや動かす力を持ちだしてる気がするし、その脇で建築が変わってきた、むしろ建築みたいな概念邪魔じゃね。みたいな流れもある気がする。

そのベースに女性脳的な直感がある気がするんだけど、そこからは「僕(われわれ)のリアリティ(byM氏)」から遠くへはなかなか行けない。行けないというかそもそもそこを目指していない。(遠くへ行くヒントは満載かもしれないけど。)

でも、時間的・空間的・概念的に遠くへ行くことこそが建築という言葉に込められていたのだと思うし、建築の役割・可能性であったと思う。そうであるなら、そこへの意志のないものは建築ではなく建物でいいんじゃね。と思う。否定的な意味でなく。

『建築の条件』のこの章でも日本的かわいいについての言及があったが、そのコミュニケーション的側面、『女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なもの』のが強くなっているのはすごく感じる。
SNS的な共感の集め方や、共感のノリでものごとが進んだり、例えばインスタでの共感が計画イメージのもとになったりすることが身の回りでも多くなってきている。(共感されるものはポジティブなものとネガティブなものとが、ともに増えている感覚がある。)

そう考えると女性性優位の時代、もしくは建物の時代、のように思うけれども、それに対してバランスをとるためのカウンターとして、男性性・建築性がより重要になってくるのでは、と思うあたり、おそらく自分は男性側に寄ってしまっているんだろうなと思う。(自分にこそカウンターバランスが必要かもしれない)
もしくは、価値観共有的なノリの社会に享楽的こだわりを持って向かうような、千葉雅也的な戦略を持つべきかもしれない。

2.視覚性

ここでは、ゲシュタルトが瞬時に把握されるようなモダニズムの視覚性が、時間軸を持った視覚性へ、視覚への不信が空間の消去へ、形象から表面物質へ、といった変化が語られる。

自分を振り返るとコルビュジェの映画的な視覚性から、ヘルツォーク&ド・ムーロンの物質性を憧れとしては通過しているけれども、形象や物質そのものというよりは体験として、もしくは生態学的な探索行為の対象として捉えたいという気持ちが強いかも知れない。それは、探索行為の結果、豊かな空間の中に自らをポジショニングするようなイメージである。
形象を求めてエレベーションをひたすらスケッチしたり、素材・物質を全面に出すような粘り強い検討よりも、PC上に3Dを立ち上げて、変更を加えてはウォークスルーで見え方を動的に検討するということをひたすら繰り返すような検討のウェイトが大きいように思う。コルビュジェ的な視覚性を求めているとも言えるが、むしろ、様々なものが様々な座標に分散しつつバランスが取れているような(アアルト的?)視覚性により興味がある
それは形象も物質性もどちらもあるが、どれか一点に集中するのではなく、それらがネットワーク的な複雑さの中に配置されるようなイメージが強い。
と、同時にそのためには形象や物質性を扱う技量がより必要になってくると思うけれども、全然足りていない、と日々痛感するところである。

3.主体性

つまり主体はその力も地位も失い、挙句に退場したのではない。そうではなく、主体はむしろ他者を包含することでより豊かで可能性のある「幅のある主体」に変容した。(p.83)

ここでは作家的とも言える主体性がやがて勢力を弱めつつも、コンピューターも含めた他者性を招来していく変化が語られる。

自分は設計において他者性を呼び込むことはとても重要だと考えつつも、コルビュジェのような作家的主体性に、未だ人間臭さを伴う固有性を生みだす可能性を感じている

どういうことか。

主体と他者の関係を考えたときに、他者から与えられたものを主体が受け取るという受動的な関係もあるが、そうではなく、他者を意味や価値が見出される環境として捉え、主体はその環境(他者)を探索し、取り込むという能動的な関係が重要だと考えるが、そこには生態学的な態度と意味や価値との出会いがある。

建築に関して他者と出会う主体は、設計者と利用者の2つが考えられる。
主体としての設計者は様々な他者を探索し、意味と価値を取り出して設計を調整する、というサイクルを繰り返す。そこではどんな他者と出会うかによって設計の密度が変わってくるし、密度を上げるためにどういった他者をどうやって招来するか、というのが設計行為における重要な命題となる。コンピューターの例や集合知の試み、観察や出来事といったことはその命題に対する応答とも言える。

主体としての利用者は建築を通して様々な他者・意味と価値に出会う。ここで利用者が設計者の作家的な主体性に出会ったとすると、それは利用者にとっては他者との出会いの一つである。であるならば、設計者も自らの作家的主体性を設計行為における環境・他者の一つとして扱ってしまえば良いのではないだろうか。
そうすれば、作家的主体性か他者か、というような二項対立はなくなり、さまざまな他者からどれをどの程度設計に反映させるかという程度・配分の問題とすることができる

それを突き詰めていけば何でもあり(全てが他者・環境)、になってしまうようにも思うが、何でもありを一旦受け入れることが、ポストモダンでの常套手段である。それを受け入れてなお、かたちへ導く方法を模索しなければならない。

4.倫理性

ここでいう倫理性は設計の側に内在する規範性のようなもので時代や受けた教育などで変わってくることも多い。

そういう規範を解体することが次の世代の規範になったりするけれども、何か規範というものに踊らされている気がしないでもない。 従うにしろ、解体するにせよ、人は何かしら規範のようなガイドになるものを求めてしまうのかもしれない。(規範。|オノケン(太田則宏)|note)

先に書いたように『設計という行為は、つねにハビトゥスの見直しを自らに問いながら行う行為である。』というものもハビトゥスの一つであり、見直しを問うべき姿勢は必要なように思う。(このハビトゥスに縛られているがゆえに、いろいろなものが見捨てられていて建築として成立していないのでは、というのもよくある。それもハビトゥスの違いと言われればそうなので難しいところだけれども。)

ところで、自分は倫理をどのように捉えているだろうか。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。
これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。
ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。 要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

さらに、知覚の公共性は人と人や社会とのつながりを基礎とする自己感、自己のリアリティのようなものを醸成する基盤でもある。これに対し建築は継続的に存在しうるものであるため、知覚を媒介する大きな役割を担っているといえる。それは建築が倫理的でありうる存在であり、大きな責任を負っている事を示している。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » Deliciousness / Encounters)

なぜ、知覚なのか。それは、知覚の基礎性、直接性、公共性が、人間の悦びや生きることのリアリティ、社会や文化といったものに建築がアプローチするための足がかりを与えるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築することに対する肯定的意味が見出だせるからである。

『そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、がその建築の意味と価値である』とした時に、建築が多様な出会いの可能性を保証することが建築における倫理だと捉えている。これは新築に限らず既にそこにある建物にも言える。
これはその時代、その人によって変わってくる規範意識よりはもう少し大きな枠組みでの話かもしれない。例え、ハビトゥスを更新するような小さな行為に見えても、そこに新たな出会いの質が生まれず、むしろ出会いの可能性を破壊しているようであれば倫理的行為だとはみなせない。(そうであれば、ハビトゥスの更新も失敗に終わっているということかもしれない。)


 

・人間に外在する問題

5.消費性

大衆消費社会が建築に与えた影響は、商品化された大量生産住宅の増加、およびデザインの消費という二点に絞られ、後者は一品生産のオートクチュール建築に置いてもその影響を及ぼした。(p.160)

消費についてモノの消費とイメージの消費があるとすると、モノの消費に関してはそれほど意識しているわけではない。プロジェクトやクライアントごとの性格や予算によってある程度の方向性は決まってくるように思うし、その部分にアプローチをするとすれば設計の段階より源流にアプローチする必要があるだろう。固有性という点では大量生産大量消費では限界があると思っているが、与えられた条件の中でどのような可能性を見出していくか、というのは設計者に与えられた役割だと思っている。もちろん、設計者の役割を拡張して、消費性の源流にアプローチすることができれば好ましいし、そのような動きは随所で見られる。今はできる範囲で対応することしか出来ていないが、その先は今後の課題である。

より危機感を持っているのはイメージの消費の方である
正直、モノにしろイメージにしろ、消費そのものはネガティブなイメージだけではなく、サイクルをまわして活力を与えるようなポジティブなイメージも持つようになってきた。先のハビトゥスの更新なども、倫理を消費していると言えなくもないが、それが社会に活力を与えてきたとも言える。

なので、イメージの消費にポジティブなイメージがないわけではない。ただ、その消費のサイクルにただ巻き込まれるだけでは消耗するだけで、自分の存在価値が損なわれてしまうし、新たな出会いを生むことも難しい。そうならないためにはイメージの消費とどう距離をとるか、という戦略がおそらく必要になってくるように思う
そうやって、イメージの消費からある程度自立できて初めて、新たな出会いの可能性に向き合うことができると思うし、モノの消費の源流にアプローチすることにも連続性が生まれてくるように思う。

やはり、消費性から自由になるにはどうすれば良いか。具体的な戦略が必要だ。

6.階級性

格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会。

鹿児島市は平地が少なく、利便性の高いエリアは鹿児島市電が走る線状の地域に集中しているため、収入に対する土地の価格は高く、

(1)利便性の高いエリアにそれなりの土地を買って建物をかなりローコストにするか、
(2)利便性の高いエリアに小さな土地を買って狭小住宅を工夫して建てるか、
(3)利便性の高いエリアから離れ、安い土地を買ってそれなりの建物をたてるか、

というような選択を迫られることが多い。
(1)でローコストで建てるには限界があるため、予算が限られている場合は必然的に(2)か(3)という選択肢の可能性が高くなる。
そのような中、自邸兼事務所は(2)の可能性を提示するために計画したもので、約20坪の土地に約20坪(+ロフト+床下収納)の建物を建てた。土地・建物ともに1100万円前後であるので、立地を考えるとコストをかなり抑えたほうだと思う。(建物は自主施工あり)
その後、14坪弱の敷地での計画も経験したが、いわゆる富裕層ではないところでの建築の可能性を考えると、かなり思い切った優先順位の付け方をしないと成立が難しいし、その思い切りが良い家をつくるための条件のようにも思う。
建築費は年々上がっているため、なおさら思い切りが求められるようになってきているが、その中でなんとか成立するためのバランスを見極めることが我々の仕事とも言える。(その難易度も年々上がっている。)また、そのために奮闘することが生活の場から固有性、出会いの可能性を守ることに繋がると願いたいし、そのような場から建築がたちあがる可能性に対して誠実に向き合っていければと思う

達成型社会は個を孤立させ、よって社会も疲弊する。そこから抜け出る可能性の一つは、社会の無意識のなかで駆動する生産性を克服するために、何かをしない見ない能力を向上させることではないかとハンは主張する。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』)

屋外を含めあらゆる場所に機能が割り当てられた街は息が詰まる。
先日閉店していた店舗をマルヤガーデンズとして再建した玉川さんが亡くなった。そのマルヤガーデンズはまちなかの百貨店でありながら、一息付ける場所になっていることをある方は「無目的でも行ける場っていうのが良いんでしょうね。」とつぶやいていた。自分もそう思うし、天文館に行くとつい本屋によって屋上に行ってしまう。
そういう隙間をつくることに建築設計はアプローチできる可能性を持っている

例えば、長谷川豪が家の中に都市的もしくは非日常的なスケールを持ち込むことで、どこにも属さないような不思議な場を生み出しているように、空間的な操作で、機能を押し付けてきたり、達成を押し付けてくるような場から逃れてそれとはぜんぜん違うものと出会うことをサポートするような質を備えることができるのではと思う。

階級性(格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会)から自由になるにはどうすればいいか。
階級性が強要してくるような価値の軸自体を異なる価値の軸へと転換するようなずらしの作法が必要なのかもしれない。

7.グローバリゼーション

いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へと言う普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。(p.154)(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀は否定神学的マルチチュードの弱点(戦略性のなさ)を克服するものとして郵便的マルチチュード(としての観光客)を提出するが、それはグローバリズムとナショナリズムの中間というよりは、その両者を「ふまじめに」見物してまわるような存在(のよう)である。

グローバリゼーションから自由になるにはどうすればいいか
それはこの「ふまじめ」さの中にヒントがあるような気がしているけれども、まだうまく消化できていない。
学生の頃に表層の戯れとしか見れなかった、狭義の建築的ポストモダニズムとどう違うのか。おそらくパッチワーク的な引用のイメージではなく、オーバーラップによる共存のイメージの先に何かがありそうな気がしている
例えば、東浩紀が引き合いに出したネットーワーク理論の生成過程と設計プロセスを重ね合わせることによって、そのイメージに近づくことはできないだろうか。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。 また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』)

ここで、先にオーバーラップによる共存のイメージと書いたことに対して『公共空間の政治理論』での議論を思い出した。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B207 『公共空間の政治理論』

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

先のゲンロンの観光客を重ねるならば、観光客が分離されたものを重合(オーバーラップ)するとみるのではなく、取り残された余地に他なる空間を生じさせる動的な存在として捉えた方が良いのかもしれない。プロセス・はたらきこそが重要であるというのは先の設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える考え方と相性が良いように思う。プロセス・はたらきを形の問題へとどうつなげていくか。その先に新しい建築の可能性が開かれている。

8.アート

ここではアートと建築の関係、接近による功罪などが語られる。

自分ではアートをタイムリーに追いかけて建築との関係性を考える、という作業をあまりしてきていない(たまに気になることがあれば雑誌などを読む程度)けれども、同じように現代に向き合っている存在であると捉えれば、お互いに影響を与え合うということは当然ありそうである。
単純に並走しているというよりは、建築は具体的な目的や機能のためにつくられる分、アートの方が純粋に現代に向き合い問題を抽出しやすい反面、建築の方が具体的に人々と関わる機会が多く影響を与えやすい、というようなお互いに補い合うような関係と考えても良いのかもしれない。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

アートを既知の中の未知を顕在化すること、とするなら、アートの分野で顕在化されたものに目を向けることは悪いことではないと思うし、建築そのものにも作用としてのアートを備えさせるというように能動的にアートを取り入れることは、おそらく、アートから自由になるための一つの姿勢のように思う

9.ソーシャル

つまり、ソーシャルの概念が登場するのはだいたいにおいて資本主義が問題を起こす時であり、資本主義が社会の問題を解決できないときに求められる避難場所に思える。(p.263)

ソーシャルについて、資本主義に対するものとして語られる。

資本主義によって解決されることもたくさんあるので、資本主義が社会問題に対して向き合っていないということではない。むしろ解決するものとしての資本主義が本来の姿ではないだろうか。問題は問題の解決に対して、資本の力に頼るか、連帯のようなソーシャルな力に頼るかのウェイトの違いであり、適否はあるだろうが、これらは善悪の問題とは切り離した方が良いように思う
ただ、資本主義が暴走したり、行き詰まって問題の原因となっていることは否めない。それに対して、ソーシャルが避難場所になりつつある。というより、これらも対立すると言うよりは補い合うものなのだろう。これまでは、資本の力とソーシャルな力は適度なバランスで補い合っていたものが、資本で何でも解決できると誤解した結果、資本に傾きすぎてソーシャルな力が失われてしまっただけなのかもしれない。

おそらく、宮台真司の言うコモンズのようなものが日本的資本主義には欠けているのだろう。そこで、コモンズのような意識や作法をインストールするための有効な手段として、ソーシャルな活動が求められるようになってきたのだろう。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B110 『M2:ナショナリズムの作法』)

自分の今の仕事は基本的に資本の力に基づく契約をベースとしており、依頼に対する請負という形がほとんどである。中には地元公民館の改修のような契約の形はとってもほとんどソーシャルな仕事もあるけれども、多くの仕事はソーシャルな力にほとんど頼ってはいない。
それは、コモンズのインストールに対する寄与が小さい、ということを表しているのかもしれない。

仕事の中にソーシャルな側面、コモンズのインストールに対する寄与をどうやって取り込むか。それはプレイヤーによってバランスは変わっても良い(バランスの多様性があったほうが良い)と思うのだが、その自分なりのバランスを見つけられたとき、ようやくソーシャルから自由になれるのかもしれない。

「建築」なきあとの建築(再)

さて、ここまで、各章についてざっと思うことを書いてみた。

「求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか。

再びこれについて考えたいところだが、何か一つの『「建築」なきあとの建築』という正解がある、というのではないように思う。

乗り越えるというハビトゥスに対して、乗り越える以外に取りうる戦略はポストモダンの作法とでも言うべきものになるのではないか。”とりあえず”受け入れた何かを活かすことによって空間の密度、もしくは出会いの密度を高めていく。そうやって、これらの建築(を規定しているところ)の条件の上に足場をかけていきながらとりあえず考え続ける。
もしかしたら、その動的な営みの集合の中に『「建築」なきあとの建築』がぼんやり浮かびあがるだけなのかもしれない




設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

Guido Caldarelli,Michele Catanzaro著,増田 直紀 (監修, 翻訳), 高口 太朗 (翻訳)
丸善出版 (2014/4/25)

ネットワーク的設計プロセス論試論?

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

この思いつきを少し先に進めるため、ネットワーク理論についてのイメージを補強しようと思いざっと読んでみた。

この本はネットワークの普遍性とネットワークの多重性を示すことに重点が置かれていて、多様な分野の多様な例が挙げられていた。
読んでいく中で、現れと過程、2つの側面から、建築設計のイメージを膨らませることができそうに思った。まだ論とは呼べるものではなく、ぼやっとしたイメージの域を出ないけれども、思いつきのストックとして書いておきたい。

収束と発散の重ね合わせのイメージ

「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

ひとつは、収束の空間と発散の空間の重ね合わせのイメージ

ある種のネットワークはスモールワールド性とスケールフリー性の2つの性質を併せ持つ。というより、どの2頂点間の距離も非常に小さいというスモールワールド性を持つネットワークのうち、均一性をを失ったものがスケールフリー性を持つ。と言った方が正しいように思う。
このスケールフリー性を備えたスモールワールドの近さが、視点の持ち方(均一性を感じる範囲に目線を限定し、スケールフリーなハブの存在に盲目的になるかどうか)によって、国民国家的にも帝国的にも見えるのではないか。

例えば、スピーカーから出る音は一つなのに、いくつもの音が聞こえるのはなぜだろう、と疑問に思ったことはないだろうか。音楽が、いくつもの音が重なり合成された一つの波形として記録される。再生時はそれが一つの波形としてスピーカーから出力されるはずだが、人間の耳はもとの複数の音に分解して認識できるという。
同じように、人間の国民国家的ふるまいや、帝国的ふるまいが重なり合ったかたちとして、世界・社会が不均一なスモールワールドのかたちをとる。同じひとつのかたちだけれども、人に感じ取られる際に2つの性質として分解され、視点によって国民国家的にも帝国的にも現れうる、とは言えないだろうか。

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。

ネットワークを自己組織化するようなプロセスのイメージ

これらすべての場合において、ネットワーク全体の秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである。多くのネットワークは、全体の設計図がないにもかかわらず不均一性のような秩序だった驚くべき特徴を見せる。自己組織化の過程を用いることで、その理由を説明できるかも知れない。(p.106)

不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序はトップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。

設計はつまるところモノの配置と寸法の決定の集積である。一方ネットワークは頂点と枝という単純な要素の集積である。どちらも、単純なものの集積が秩序を持った複雑なかたちを生みうる。
そこで、設計行為とネットワーク化のプロセスを重ね合わせるイメージが浮かぶが、それについて考えてみたいと思う。これは特に、自己組織化的な過程を重視するような設計手法との相性が良いように思われる。

そこで、(いつものように)藤村氏の超線形設計プロセス論を引き合いに出してみる。

▲藤村龍至『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』より(p.079)

上の図は有名なBILDING Kのプロセスを示す表で、横軸が模型の世代、縦軸が発見されたルールである。
模型・案の中に時間軸に沿って次々と様々な条件が編み込まれていくのが分かるが、これを、設計に関わる様々な条件(ルール)の間にネットワークを築くプロセスだとイメージしてみる。そのネットワークのかたちが建築として出力される。

このネットワークの頂点と仮定する設計に関わる要素は物理的な要素でも概念的な要素でも、なんであっても構わない。施主の要望、法的規制、間取り、構造、規模、設備、周辺環境、予算、使われる素材、床や壁といった構成要素、施工性や技術、歴史や文化、その他いろいろ考えられる。
これらの要素はそれぞれがグループをなし、そのグループ内での頂点の接続はたやすく距離も小さい。それぞれのグループについて検討している間に、お互いに関連する部分が生じ、そこにつながりが生まれる場合もあるが、あえて距離の遠いものとの間につながりを生むように意識もする。これは「つなぎかえ」と「近道」に相当するイメージである。それほど近道の頻度を高めずともいくつかの枝によってスモールワールド性を獲得できるが、スモールワールド性のもう一つの要件、大きいクラスター係数(三角形をなす頂点と枝の多寡)、つまり近い場所でのネットワークの密度も意識されるべきである。

▲本書より(p.83)

また、こうして検討していくうちにネットワークは複雑なものとなり、中には例えば、先のBILDING Kの表における●を縦に串刺すような、他の頂点との枝の多い(次数の高い)頂点、ハブが生まれる。これも自然に生まれる場合もあろうが、プロセスの中でハブとなるような要素を探すことと、その要素への接続とが並行して意識的に試みられる。これは「成長」と「優先的選択」に相当するイメージである。これによってネットワークが不均一なものとなり、スケールフリー性を獲得できる

▲本書より(p.99)

また、先のハブの存在は設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものとも考えられる。(下に引用した記事は考え方が近いかも知れない)
ここではハブは一つでなくてもよく、スケールフリーな存在として、様々なスケールにおいていくつもあっても良い。むしろそちらのほうが好ましいと思われる。

また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここで、設計において、これらの性質の獲得を阻害するものは何か、少しだけ考えてみる。

例えば、前者に関しては、天井懐が考えられる。天井懐は構造や設備などの要件をクリアするために、余裕を持って設定されることが多い。ふところに余裕があれば、構造や設備その他諸々の要素間の干渉をそれほど厳密に考えずとも良くなり、要素間のネットワーク生成プロセスがスキップされる。その内部はブラックボックスとなってしまうため、ネットワークの表現にもあまり貢献しない。冗長性を取り除いていくことによるデメリットもあるが、冗長である、ということはネットワークの生成を阻害する可能性があるとも言えそうである。もしかしたら、RCラーメン構造や在来軸組工法のような、一般化された冗長性の高い工法も同様の阻害要因となりそうな気もする(実感としてネットワーク生成プロセスをスキップしている様な感触を拭えない)が、それに関してはもう少し慎重に考えてみたい。

また、後者に関しては、行き当たりばったりの設計態度が考えられる。次々と現れる条件に成り行きで対応していっても、何らかのネットワーク状のかたちを生むかも知れないが、それはランダム・グラフのような均一なもの(フリースケール性を持たない)である可能性が高く、そこに不均一なネットワークが持つような複雑な秩序は生まれがたい。ハブを生成するプロセスが欠かせないのだ。

以上のように、設計プロセスをネットワークの生成過程に重ね合わせてイメージすることはできそうな気がするし、人の耳が音の重なりを認識できるように、それから生まれた形・建築から、そのネットワークの性質をさまざまに感じ取る、ということも起こりうるのでは、というように思う。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。
また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。

さらにはこれまでブログで収集してきたこと、(出会う建築に書いたことや、例えばレトリックの応用など)を、このイメージに重ね合わせることによって、より具体的な方法論とすることができそうな予感がある。が、それはまたこれから。




建築ならざるものからはじめてみよう B213『人の集まり方をデザインする』(千葉 学)

千葉 学 (著)
王国社 (2015/8/1)

基本的にはこれまでの論考を集めたもの。本のタイトルは書き下ろしのタイトルと同じ『人の集まり方をデザインする』となっている。

最後のピース

タイトルから抽象的な内容が多いのでは、と思っていたけど、具体的な作品をベースとした論考(もしくは解説文)が中心で、建築的思考の王道を見てるようで安心して読めた。

最近は、雑誌の作品解説文を読んでも、抽象的な問題設定からいきなり具体的なものに跳んでしまっている印象を受けることが多いけれども、それらをつなぐ、ちょうどその間が丁寧に語られている

安心して読めることが良いことだとは限らないけれども、抽象的な問題設定と具体的なものの間を埋めることがおそらく建築なのである
そして、自分は最後、ものへと結びつけるような思考が弱いと感じている。
問題設定からものの近くまでは寄れるけれども、最後、ものへとつながるピースがなかなか埋まっていかない。

そういう点で久しぶりに建築を強く感じた本だったけれども、結局の所は、最後のピースはその時その時に必死に藻掻き、試しながら探し続けるしかない、というのを再確認することになったように思う。

人の集まり方 他者性 開かれた自由

間が語られていると言っても、まず共有もしくは考えるべきは、この本のより上流のメッセージのはずなので、それについて、少し考えてみたい。

だから建築が、そこに期待されるコミュニティや社会にとって最も相応しい人の集まり方のデザインとして構想されていくことは、建築の普遍的なテーマであると思うのである。(p.12)

だからこそ、この「他者性」を計画する、という難問を克服するしか方法はないのではないかと思うのだ。極めて動物的な臭覚を頼りにした上で見えてくる人の集まり方に対する観察を深め、それを「他者性」を前提に計画する建築との相関の中に見出していく。そうすれば、単に丸いとか四角いとか、幾何学的とか有機的であると言った短絡的な類型を超えた新しい建築のあり方が、流動化する世界に便乗することのない新しい建築の形式として見えてくるのではないかと思うのだ。そうすればきっと、この動かしがたい建築が、まるでテーブルと椅子を自由に並べ替えるかのように、本当の意味で開かれた自由を獲得することになるのだろうと思っている。(p.22)

出てくるキーワードをつなげると、人の集まり方の自由が、本当の意味で開かれた自由へとつながる。そして、それは他者性を前提として見出されていくもの。となるだろうか。

人の集まり方を主要なテーマとすることによって自由と向き合う道筋をつくる、という点が自分にとっては新鮮で少し目の前が開けた感じがする。建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。

建築は人の集まり方を含めた様々な自由に対して、それらをどうしても規定してしまうものだが、それを避けるにはできる限り他者であろうとすることが重要である。
それは、建築の自立性や地形性として『deliciousness おいしい知覚』の「おいしい距離感~建築の自立性と自律性」「おいしい地形~原っぱから洞窟へ」のところで考えてきたことでもある。(詳細はリンク先を)

ゲームのような建築について 近代からの脱出

この時参照した、青木淳氏の「原っぱと遊園地」に関して、建築討論に浅子佳英氏の『「ゲームのような建築」序説 ─── 青木淳論』という興味深い記事がアップされた。
まだ序論のβ版なので、論の続きがあると理解した上で、自分自身がうまく消化できていないので少し考えてみたい。

onokennote: 個人的には青木淳はゲームとしての建築をつくろうとしてるんじゃなくて、ゲームをするように建築をつくろうとしてるんじゃないか。ゲームは目的ではなく手段。という気がしている。 [2019/03/09]


onokennote: プレイヤーは青木淳であって、利用者はそのゲームからも自由になれることが目指されているんじゃないか(そこで遊ぶかどうかは勝手)。ルールは作り手の側に要請されるものであって、本来利用者にはその存在を意識されるべきものではないのではないか。 [2019/03/09]


onokennote: と、今は感じているけれども、もしかしたら僕の主体像の更新が遅れているだけで、利用者もゲームもしくは遊びからは逃れられないのかもしれない。 [2019/03/09]


onokennote: ただ別様でもありえた、という状況を生み出すために、(別様でもあり得る)ルールが要請されると思うのだけども、その別様でもあり得るというところにゲーム性を見るのであれば、利用者はそれを「理解した上で、なおその世界に没頭して遊ぶ」ことがポストモダンの作法なんだろうな。 [2019/03/09]


onokennote: あっ、ちょっとつながってきたかも。主体像の更新というのはそういうことか。な。[2019/03/09]


少し前にツイートしたように、ざっと読んだだけでは青木淳氏とゲームのような建築の結びつきをうまく消化できなかったのだけど、この論が青木淳氏の建築論とともに主体像の更新を図るものである、と考えると自分の中で少しつながった気がした。

それでも、まだ少しすっきりしないものが残る。
単純にこれまでのゲームを素材とした議論にあまり触れてきていないせい、ということもあると思うけれども、それはおいおい追ってみるとして、今考えられる範囲で何がすっきりしないかをもう少し考えておきたい。

ゲームのような建築は他者足りうるか。それは建築が主体の側に主体としての在り方・作法の更新を強いることになりはしないか。
また、果たしてそのような作法を持ちうるか、もしくはそのような主体としての振る舞いを導くような建築というものがありうるか。
それは時代を超えた普遍性をもちうるか、もしくはそういう普遍性は必要ない、ないしは普遍性の概念を更新すべきなのか。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。

前回読んだ本、

モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。 エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B212 『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』)

(理解に乏しいのでおそらくだけど)モートンは「モダニティからの脱出」は可能といい、リアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当てる。そこではあらゆるものがフラットに捉えられる。

先の疑問には、外部に主体に働きかける環境があり、その環境を改変すれば主体の側を変えることができる。そこには何らかの構造が存在し、概念のフレームを用いて解き明かすことができる。そんな思考の枠組みがあるのではないか。人間中心主義ならぬ建築中心主義とでも言えるような枠組みに囚われているのではないか

つい、物事を構造的に捉えて建築の側からみてしまう、という枠組みから逃れるよう、(モートンの「人間ならざる存在」「自然なきエコロジー」になぞらえて)「建築ならざる存在」「建築なき建築論」とでも言えるような所からはじめて見てもよいのかも知れない

そうすると、先に「建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。」と書いたように「人の集まり方をデザインする」に戻ってくる。

建築そのものよりも、まずは主体の在り方をフラットな視点で捉えることが先決なのだ。

そう思いながら、自分の子供達の現況や未来を考えると、原っぱはますます希少になっていき、遊園地ばかりの状況を生きていくことは容易に想像できるし、かなりの部分はすでに遊園地である。
そうであるなら、原っぱを経験することも大切だけども、遊園地ばかりの状況を楽しくサーフィン(古い?)するような作法を身につける必要がある。というよりは、もはや遊園地なんて僕らにとっての原っぱくらいの存在へと脱色していきながら、そこでそこそこ楽しく過ごしていく作法を当たり前に身につけていくのかも知れない。

消化してみたいといろいろ考えてみたけれども、結局、浅子氏の主張は

自身の常識を疑い、学び続けること。 個人としても集団としても複数の世界を生きること。そしてそれを楽しみながらできる状態をつくること。(「ゲームのような建築」序説 ── 青木淳論 – 建築討論 – Medium)

この文と文の並びに凝縮されているように思う。

最後のピースがなかなか見つからないのは、まだ建築に意識が向きすぎているからかもしれないな。

 
(余談だけど、「人の集まり方をデザインする」が「モダニティからの脱出」に(たぶん)つながったように、現代の建築について真剣に交わされる議論のほとんどは、ポストモダンな今に真摯に向き合って生まれたものだ、というのは割と信用しています。)

メモ

以下忘備録的メモ

つまり常に特異点でしかあり得ない建築の個別性を考えながら、同時にその建築がどこにあっても成立しそうな形式性を備えていること。あるいはどんなプログラムに対しても柔軟に対応できそうな冗長性を備えているという事象を強引に結びつけることに、これからの建築の可能性を見ようとしたのである。(p.69)

つまり建築に置いても、4つ目のsite determinedはあり得ると思ったし、それは、僕が「そこにしかない形式」という言葉に託して伝えようとしていたこととほぼイコールだと了解したのである。(p.72)

常に新しいツールを発見しながら、都市や自然に対する解像度を高め、そこから得られる情報を身体化するという基本的な「技術」の研鑽が、今あらためて必要なのではないかと思うのだ。(p.146)

このような都市への構え、つまり自らのプライベートな居場所を守りつつ、その場所に住んでいるという実感を獲得するという相矛盾した欲望を両立するような住宅は、実は僕にとっての理想的な住宅のあり方に近いのではないかと思っている。(p.155)

人間の身体を尺度に地形のような建築をつくる。このようなスタンスは、実は居住環境に限った話ではなく、近代合理主義的建築、ビルディングタイプ的思考に縛られた建築を脱する新たな方法にもなるのではないかと思っている。(p.162)