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ロゴスとピュシス B309『ナチュラリスト:生命を愛でる人』(福岡 伸一)

福岡 伸一 (著)
新潮社 文庫版 (2021/9/29)

ナチュラリストとは

ナチュラリストをネットで検索すると

1 自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人。また、自然の動植物を観察・研究する人。
2 自然主義者。→ナチュラリズム  (goo辞書より)

とある。

本書でのナチュラリストは1の後者「自然の動植物を観察・研究する人」の意味合いが強い。
「はじめに」によると、「生命とは何か」という問いをずっと心に持ち続けている人、ということになりそうだけれども、本書はナチュラリストとはどういう人か、また、子どもが大人と関わることでどんなふうにナチュラリストになるきっかけを得るのか、が自身の経験を踏まえた軽快な文章で綴られる。

最初はナチュラリストが「自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人」という意味かも知れないと、少し距離を取りつつ読み始めたけれども、すぐに惹き込まれた。
ナチュラリストの最初の条件は「都会的なセンスを持った人」だという。そして、小さい頃に自然に対し感じた「センス・オブ・ワンダー」を持ち続けている人であり、観察する「目」を持つ人である。

ナチュラリストを「自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人」と捉えると、田舎にどっぷり浸かって生活し、それ以外の生活から距離をとっている人というイメージが浮かぶ。
しかし、著者の捉えるナチュラリストは、都会的なセンスを持ち、自身の「センス・オブ・ワンダー」に従い、行動する人である。そこには、モートンが警戒するような、自然を自然としてある距離のもと固定化する意識、が入り込む隙間はない。ただただ、根っからのナチュラリストなのだ。(個人的にはナチュラリストとは異なる言葉が良さそうな気がするけど、どういうのがいいのか思いつかない。)

ロゴスとピュシス

また、ナチュラリストはロゴスとピュシスの間を行き来する人でもある。

生きもののことをもっと知りたい、言葉に置き換えて自分のものにしたい、というロゴス的な欲求、都会的なセンスと、とらえどころのない、みずみずしい自然の不思議さや美しさに心を奪われて、もっともっと見たいというピュシス的な欲求、センス・オブ・ワンダーの2つを、対立させずに、自身の中に両立させているのがナチュラリストなのである。

私が二拠点生活をしているのは、都市と田舎の間の越境者になりたい、という意識があるからだけれども、これはロゴスとピュシスを同時に持つこと、と言い換えられるかもしれない。
都会的な価値観が多くを占める中、田舎的な価値観をその対極として位置づけるような二元論的なイメージは、行き着く先が制限されてしまうように思う。

これを、分断せずに軽々とまたいでしまうような姿勢が重要なのでは、という直感が確かにあるけれども、まだ、自分の中でうまく言葉には出来ていない。
それに対するヒントが本書にあるように思う。

メンター

著者は有名な生物学者であり、生物学的なさまざまな発見もしているが、その過程で、ロゴスの世界に偏りすぎたそうだ。
本書の最後では、自らの研究室を閉じ、本来のナチュラリストに戻ろう、という宣言をする。
おそらく、それまでのロゴスの世界を後悔しているわけではないと思うけれども、子どもの頃にみずみずしく感じていたピュシスの世界に、もっと素直に従いたくなったのだろう。

二十歳前後の誕生日に、古い友人から「後ろから蹴飛ばしてくる子どもがいて、振り返ってみたら小さころの自分だった」というような詩を貰ったことがある。(正確には覚えてないけど、家の床下の中を探せば見つかるはず。)

福岡氏も子どもの頃の自分に蹴飛ばされたように感じたのかもしれない。
いや、それよりも、自分が歳をとっていることに気付き、自分が子どもの頃に出会ったメンターのように自分もなりたい、と思ったのかもしれない。

本書は、メンターとの出会いの本でもある。
それは、大人の言動であったり、一冊の本や、その中の登場人物であったりする。
メンターと出会うことが、その人の人生を豊かにし、センス・オブ・ワンダーが時代を超えて引き継がれていく。

自分に取ってのメンターは、建築では最初に努めた事務所の先生、ということになると思うけれども、折り紙や工作、昆虫では、昼間から家にいて家の中がモビールなどの工作だらけだった、毎週、少年ジャンプを貸してくれたおじさん、「折り紙生物スケッチ」の笠原邦彦氏、「紙工作ペーパークラフト入門」の松田博司氏、「写真昆虫記」の海野和彦氏、ということになる。(これらはどれも、当時のまま今も手元に置いている。)

私もそれなりの歳になってきた。

誰かのメンターとなれるような建築を一つでもつくりたいと思うし、子どもにむけての何かを書きたい気もしている。

著者による新訳の『ドリトル先生』や、森田真生氏の新訳『センス・オブ・ワンダー』も読んでみたくなったな。




サービスからツールへ B308『 How is Life? ――地球と生きるためのデザイン』(塚本由晴,千葉 学,セン・クアン)

塚本由晴,千葉 学,セン・クアン,田根剛(監修)
TOTO出版 (2023/11/24)

ギャラリー・間の開設35周年を記念して行われたテーマ展(2022/10/21~2023/3/19開催)をまとめたもの。

企画時がコロナの真っ只中だったこともあり、これまでの社会のあり方・常識に対して転換を促すようなテーマが選ばれ、建築らしい建築はあまり出てこない。

が、道具に対する言及はいたるところにある。

道具を外部化し、専門化することで暮らしを産業社会的連関に移行させてきたのが20世紀後半のビルディングタイプなら、道具を取り戻し、暮らしを民族誌的連関につなぎ直す21世紀のビルディングタイプは、ツール・シェッド(道具庫)を原型に持つものになるだろう。身の回りの環境に細工を加え、整え、季節の恵みや、エネルギー資源を獲得するために、道具を持ち替え、向き合う対象からの反作用として己の体を知る過程で、スキルが発生する。(p.137)

地方に軸足を移すと、道具類がどんどん増えていく。そして、どんどん欲しくなる。

道具とそれを扱うスキルによって、地方における自分の存在・自分の見えない領域が増えたり減ったりする気がする。

それは、テリトリーというようにお互い奪い合うような領域というよりは、お互いに支え合うクッションのようなもので、それが増えれば増えるほど、より周りに貢献することができる。しかし、支えてもらってばかりでも恐縮してしまうので、堂々と過ごすには、やはり何かしら道具とスキルがあったほうが楽だ。

道具がずらっと並んでいるのを見るのは至福だし、自分が道具とスキルを手に入れることには、なんとも言えない充実感がある。

この充実感は、分かる人には分かるというもので、なかなか言葉では伝えられない。
よく言われるような、道具による身体の拡張、というだけでは何かが伝わらないことがある気がする。
では、何が伝わりにくいのだろうか。

先程の引用のような、サービスとツールは、ベクトルが異なる。サービスは外から内のベクトルで受動的、ツールは内から外のベクトルで能動的と言えそうだ。これは、ベクトルを再び反転しよう、という話なんだと思う。

しかし、道具による充実感のキモは、向きではなく、能動性と双方向性にある。生物の知覚と行為の基本は本来、能動的で双方向なものなのだ。
その双方向性を規格化/工業化を邪魔する、煩わしい余計なものとして捨て去り、一方通行にしたものがサービスなのだから、充実感が不足するのもやむを得ないし、そのままの視点で、道具を身体の一方的な拡張としかイメージできなければ、その充実感は想像できない。
道具は単に身体を拡張するだけでなく、世界を取り込み絡み合わせる。

そこらにある道具は、時代遅れの代物だと思われがちだけど、そうではないだろう。
ベクトルが逆だった20世紀後半、ツールに求められるのは双方向的な調整機能ではなく、一方通行な正確さである。単に、手道具はそれにマッチしなかっただけで、再びベクトルを逆転すると、それまで、時間の試練をくぐり抜けてきた道具たちの機能性と美しさに気付くことになる。それらは時代遅れではなく、時代外れだっただけなのだ。

ユクスキュルの環世界は、種や個体の持つ知覚やスキルが、それらの住む世界の現れやあり方を変え、個別なものにすること示しているが、道具やそれに伴うスキルは、扱うものの環世界を、生態心理学的に言うと、環境に含まれる意味や価値を変えてしまう。
道具によってそれまで見向きもしなかった、煩わしいだけだったのものが、意味や価値に変わり、生活を豊かにする資源に変わる。
さまざまな道具を持ち替えることは、さまざまな色眼鏡を装着するように世界の見え方を次々に変えてしまう。これが面白くないわけがない。

逆に言うと、サービスに埋め尽くされた社会での環世界は、一部では大きく開かれているかもしれないが、偏った狭いスコープしか持たないものだと言える。千葉学が書いたように「道具を介して地球と向かい合う機会が稀な社会では、環境への理解など、深まるはずもない(p.176)」。

このことが、最近になって少しづつ分かってきた。

どんな道具を持ち、どんなスキルを身につけるかは、環境に対する姿勢そのものを示すと言える。

そういう意味では自分もまだまだだ。

できることなら、道具をつくったり直したりするような道具やスキルを身につけたいものだ。




イメージの更新 B307『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史)

藤原辰史 (著)
青土社 (2019/6/25)

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。 しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

エントロピーの排出が循環の決め手であったのと同じく、分解は循環になくてはならないものである。
本書は、そのことを、科学的に位置づけたり、効用をとりあげるだけでなく、哲学的な考察を加えながら吟味していく。

分解という作用

生態学では、生物を「生産者」「消費者」「分解者」に分けるのだが、実際には、植物も呼吸をして消費をしているし、動物が食べることは消費であると同時に分解の一部でもある。微生物も分解も消費の一部だ。
この、生産や消費という言葉は経済との関連を想起させるし、分解者には循環に貢献する「機能」を期待させ、人間本位の意味合いを強く持たせてしまう。

近代的な世界観にどっぷり浸かった人間は、つい、生産や消費を、分解よりも上位において考えてしまい人間主体の思考から抜け出すことが難しい。これをどう振り払うことができるだろうか。

前回読んだ『人類堆肥化計画』が顕にしたように、分解者はただ、自らの生存のための営みを継続しているだけであり、そこには生と死にまみれた世界がただ存在しているだけだ。

これまで私は、ハインリッチの「生きものの葬儀」という視点を手掛かりに、糞虫という甲虫の生態を学びながら、生態学の「分解者」から「分解」を、うつろう「作用」として腑分けしてきた。機能ではなく作用としたのは意味がある。機能は、ある特定の受益者を想定しているような意味、政治的にはナチスの中央集権主義的な意味を持つのに対し、作用は、ある特定の受益者に対して比較的ニュートラルな意味を持つからである。まさに、分解は、生産者にも消費者にも、そしてもちろん分解者にも宿っては去っていく作用としてみてきた。(p.270)

生物を「生産者」「消費者」「分解者」といった存在として分け、機能をあてがうのではなく、ただ作用としてみること。
このニュートラルな視点こそがおそらく重要であろう。

これらの作用を、インゴルド的なはたらきの線としてイメージしてみる。それらの線が複雑に絡まり合っているのが生態系・この世界であると捉えたとき、生み出すことも、それを利用することも、解きほぐすことも一つの作用・線であり、これらが絡み合ったメッシュワークが全体としてメビウスの輪のように環をなし、持続可能な生態系の循環を成立させている、ということがイメージできるだろう。

さらに、生み出すこと、利用すること、解きほぐすこと、このどれかの作用が途切れたとしたら、この環が崩れ去るのも容易に想像できるのではないだろうか。

そして、現代の社会が生産と消費に邁進し、分解を疎かにしすぎていることも。

環境の問題から、生命、循環、土壌、菌類ときて分解にたどり着いたわけなのだが、おそらく、環境の問題は人間本位の副次的な問題に過ぎない。
本当は、ただ、ニュートラルに、それぞれが生き、それに応じた作用がそこにあり、それを生態系が包み込む、それだけでいいのだろうと思う。

建築における分解

とはいえ、現実に社会は偏っており、分解は意識の外へはじき出されている。
建築に携わるものとしては、どこまでできるかは別にしても何かしら自分の中にイメージを持っておくべきだろう。

では、建築において分解の作用はどのようにイメージ可能だろうか。

一つは、設計というプロセスに分解のようなイメージを組み込むことだろう。
計画という言葉に象徴されるように、設計は何か一つの完成形に向かって直線的に突き進まなければならないと思い込まされてきた。
しかし、作られたものを解きほぐし再構成させる道を開く分解者のように、設計プロセスもしくは作られたものを、より柔軟に、より自由にするような作用を組み込んだっていいのではないか、という気がする。
(といっても、まだ曖昧なイメージにすぎないけれども)

もう一つは、資源循環やサーキュラーエコノミーと言われるように、建築の素材を循環の中に位置づけることだろう。
現在の建築の多くはメンテナンスフリーを究極の理想として、分解されないもの・循環できないものをつくることが目指される。
建築はその巨大さや高コストのせいで、分解、すなわち手を入れることで再生成するのではなく、耐久性を高めることが合理的と信じられている。

しかし、その合理とは本当のものなのだろうか。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
(中略)
ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。
エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない。 (このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)
しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一))

私は、この耐久性こそが合理であるという常識は、単に、近代的な思考の枠組みがイメージできることの限界をつくっているだけのような気がしている。
現に私も、資源循環やサーキュラーエコノミーという言葉は単なる(人間主体の)お題目のように感じていて、ピンと来ていなかったのだけれども、本書や最近の読書・実践を通じて、これまでの合理性が導くイメージとは違うイメージが芽生えつつあるように感じている。

それはまだ曖昧で、現実と結びついたものではないかもしれないけれども、それまでの常識・合理性は、ちょっとしたきっかけでひっくり返るような案外脆いものだったのではないか、という疑いは日に日に強くなっている。
そして、新たなイメージは、思ってたよりもずっと当たり前で魅力的なものなのでは、とも。

ここでもやはり、環境問題だ、持続可能性だと大上段に構えることよりも、よりニュートラルな視点からものごとやそこにある作用を見る目の方が大切な気がするし、その目を持つことでようやく別のイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

先程も書いたように、今はまだ、明確な像を結ぶようなイメージではないけれども、1年前に比べると遥かに視界はクリアになってきているのは確かだ。
ゆっくりでもいいので、もう少し進んでみたい。




可能性の表現 B306『人類堆肥化計画』(東 千茅)

東 千茅 (著)
創元社 (2020/10/27)

別の本で紹介されていて、気になったので読んでみた。

里山における腐敗とその先の堆肥化。

堆肥はもちろん比喩であるが、そうでないとも言える。
嫌われ者の小動物や微生物が、動物や植物の死体を腐敗させ、堆肥化することで新たな生へと繋いでいく。
堆肥とは生と死が入り乱れる場所だ。

著者は山尾三省が、里山の生活を寡欲・清貧な「小さな幸福」と表現することを糾弾する。
(35年ほど前、私の家族が屋久島へ移住した頃、何度も山尾三省の名前を聞いた。父は氏と多少の交流があったようだ)
著者によると里山は寡欲・清貧などではなく、欲と悪徳、生と死にまみれ、それだからこそ大きな悦び・大きな幸福があるという。
それを偽悪的な表現で暴き出す。

以前書いたかもしれないが、数年前、環境について学んでみようと考えたとき、環境を学ぶということは結果的に、それまで建築について考えてきたことに蓋をし、寡欲・清貧な道に切り替える決断を迫られることになるかもしれない、と思っていた。
しかし、実際に学び、多少の実践を交えながら考えていった結果は全く逆で、環境について考えるということは、それまで考えてきたことの延長線上にあることが分かった。それは、それまで考えてもなかなか埋めることの出来なかったパーツであり、建築を大きな悦びにつなげる可能性を持つものだったのだ。

その意味で、著者の欠いていることは細部も含め、おおいに共感し、参考にもなった。
おそらく、表現すべきは悦びの方なのだ。

ここで、この見えている可能性をどう表現するかはとても大きな問題だと思う。
寡欲・清貧な小さな幸せを求める、というのも良い。
しかし、実際にそのような生活をしてきた人たちは、おそらくそんなことは考えずに当たり前に生活しているだけだろう。そこには、豊かで優しいだけでない暴力的な自然もあるし、それらも含めて当たり前である。

ここの表現を誤れば、多くの人との間に壁を立て距離を生むことになるか、現実と乖離した幻想を植え付けることになりかねない。(この辺の違和感については、「いいわねー」に対する違和感として、以前少しだけ書いた。)

著者の偽悪的な表現は魅力的で、感染力がある。どちらかというと、ひねくれた方である自分としても、清貧なものいいは好きになれない。おそらく著者も、悦びを最大限表現するためには、それに応じた悪徳を表現しなければむず痒くてやってられないのだろう。
しかし、自分は著者のような表現を嫌味なくできそうにないし、著者ほど若さや勢いを持ち合わせてはいない。
それに、これまでの経験上、こういった感染力は、瞬発力はあるが、感染した人がすぐに忘れてしまう割合も高いように思う。(それでも、いくばくかの人の実になればそれでいいのだろうけれども。)

個人的には、当たり前のこととして、淡々と、自ら悦びを享受しつつ表現できるようになれればいいな、と思っているし、最終的にはそれを建築で表現することが必要だろう。

とはいえ、当たり前に淡々としていては、伝わるのに時間がかかり誰にも気づかれないまま終わってしまうのでは、という不安や葛藤もある。(当然そうなれば建築を仕事として続けることが困難になる。)

そうならないように、できることを考えやっていかなければ。さてさて。




想像力を再構成する B304『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』(マーリン・シェルドレイク)

マーリン・シェルドレイク (著), 鍛原多惠子 (翻訳)
河出書房新社 (2022/1/22)

前回の『マザーツリー』の関連で菌類の話。

菌類は私達の身近なところにあり、生活に深く関わっていながら多くの人は菌類のことをそれほど深くは知らない。
本書では、その生態や能力、可能性などがさまざまな角度から描かれていて、内容は驚くことばかりだ。

菌類は、私達が持つ生命についてのイメージを書き換えることを迫る。

進化生物学者のリチャード・レウォンティンは、隠喩を使わずに「科学の仕事」をすることは不可能であって、それは「現代科学全体が人間によって直接に経験することはできない減少を探求の対象にしているからだ」と指摘した。その結果、隠喩とアナロジーに人間が語る物語や価値観が織り交ぜられる。科学のアイデア ― このアイデアも含めて ― の議論は文化のバイアスから逃れられないのだ。(p.258)

「植物が隣の植物に反応するのを観察したからと言って」とジョンソンは私に言った。「それが何らかの利他的なネットワークが働いていることの証にはなりません」。樹木が互いに話をしていて、襲撃があると互いに警告し合うというアイデアは擬人化の幻想だ。「つい、そう考えたくなりますが」と彼は認めた。所詮は「無意味なのです」。(p.203)

キアーズが指摘したように、「私たちが語る物語を考え直す必要があるのです。私は言語の枠を超えて現象を理解したいと思います」。もう一度、この行動がそもそもなぜ進化したかを問うのがいいのかもしれない。誰が利益を被るのかが問題なのだ。(中略)またしても、利他主義の問題に突き当たるのだ。やはり、迷路を抜け出すいちばんの手っ取り早い方法は視点を変えることだ。寄生する複数の植物に警告をすることが菌類にとってなぜ有利なのか。(p.203)

つい先日、とある雑談で『マザーツリー』が話題に出て、「マザーツリーの著者は西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」という話があった(ニュアンスは多少違ったかもしれない)。
マザーツリーの著者シマードは、皆伐を主とした短絡的な森林政策を変えたいという強い動機があり、それに対する強い反発もあるため、西欧的なわかりやすいストーリーで伝える必要があっただろうし、シマード自身が西欧的なものの見方に対する違和感を書いており、自身がそこから抜け出すことの困難さを自覚もしている。
しかし、自然を利他的に擬人化して捉える傾向があることは確かだろう。

先程の問いかけ、「西欧的な世界観からものごとを捉えすぎていないか」は、直感的には自分自身に何か関係がありそうな気がするのだが、まだぼんやりとしていてうまく掴めない。
この直感はどこから来るのだろうか。

本書で取り上げられている地衣類は単独の生命ではなく、菌類と藻類が一体となって共生している不思議な生き物だ。地衣類は岩を土壌へと変え、植物が地上に進出することを可能にし、宇宙の過酷な被爆環境の中で生きられるほぼ唯一の生物だという。その生態は、それまでの生物の常識では捉えられないことばかりである。
地衣類の研究者は、その常識外の生態が投げかけるものを「地衣類の閃き効果」と呼び、地衣類のアイデンティティは、前もって分かっている答えではなく、問いだという。そして、地衣類を他の何物でもない地衣類として見ることを強調する。

また、シマードの論文をきっかけに生まれた「ウッド・ワイド・ウェブ(www)」という言葉は、私たちに馴染みの深い植物をノード、それらをつなぐ菌根菌をハイパーリンクに過ぎないと暗示し、植物中心の捉え方を助長するという。実際には菌根菌は菌根菌としての戦略のもと生きており、水や養分の流通の采配権を握ってさえいる。菌類の視点からみれば、ユクスキュル的な菌類の世界があり、彼らはそこで自らの利益を基準として生きているだけかもしれない。
もちろん、生物が自己の利益を求めて行動し、そのことが生き残る確率を高めるはずだ、というダーウィン的な捉え方も一つの視点にすぎないだろう。ネットワークは、インゴルドが言うように、植物が植物し、菌根菌が菌根菌する、はたらきのラインが複雑に絡まり合ったメッシュワークの一つの現われに過ぎないのかもしれないし、それをありのままに見ようとする姿勢が必要なのだろう。

私たちは、予測や想像のできることしか考えることができないし、隠喩なしには見えないものを想像できない。
設計においても、私自身の想像の範囲や世界観を超えたものが設計されることは、決してない。

私が求めているのは、世界を救う方法ではなく、どちらかというと、世界を確かなものとして捉え生きていくための方法と想像力なのである。

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンの主張を正確に読み取れている自信はないけれども、自然と対峙する際、自然を何かしらの枠に入れ込んで距離を固定してしまう(分かった気になってしまう)のではなく、距離においてとどまりリズムを立ち上げる、ということがおそらくは重要で、それがエコロジカルな態度なのだ。
それでもなお、色鮮やかな想像力を手に入れることは可能なのだろうか?もしくは、むしろ、それによってしか手に入れられないのだろうか?いずれにせよ、想像力を再構成してみる必要はありそうだ。

本書の邦題は『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』である。
またしても、という気がするが、現代は『Entangled Life: How Fungi Make Our Worlds, Change Our Minds & Shape Our Futures』でgoogleで直訳すると『絡み合った生命: 菌類がどのように私たちの世界を作り、私たちの心を変え、私たちの未来を形作るのか』である。
邦題のほうが本が売れるという判断なのだろうが、個人的には原題の方が興味がそそられるし、放題にはハズレ本の匂いを感じさえする。(そして、偶然にも本書と並行してい読んでいる本が『絡まり合う生命 Life entangled』だった!)

本書を読む限り、著者のメッセージは、「菌類はこんなにすごいぜ、世界を救うぜ!」ではなく、「こんなにも知らない世界があり、私たちの世界の捉え方を変えてくれる。そのためにも、あるがままに世界を捉えるにはどうすればいいのだろう?」ということにあるように思う。その点でも原題のほうが魅力的だ。まーよくある話だけれども。

それはともかく、本書を通じて、これまで固まりつつあったイメージに穴があいて少しモヤッとしてしまった。
ある意味後退したとも言えるけれども、新たなイメージが生まれるための余白が生まれたと捉えよう。
菌類に関しても、もう少し学び、少しだけ付き合ってみたいと思っている。




開かれているということ B301『生きていること』(ティム インゴルド)

ティム インゴルド (著), 柳澤 田実 柴田 崇, 野中 哲士, 佐古 仁志, 原島 大輔, 青山 慶 (翻訳)
左右社 (2021/11/5)

コーヒーイノベートでのbooks selvaさんとのコラボ企画にて購入したもの。

インゴルドはこの時はまだ読んだことがなく、ちょうど読みたいと思っていたところだった。
パラパラとめくってみたところ、インゴルドがギブソンの生態学をベースとしているのがすぐに分かった。
この時は、自分がこれまで読んでこなかった分野のものを買おうと思っていたので、少し自分の関心に近すぎるかもしれないと迷いながらの、一種の賭けとしての購入だった。

結果的には、本書はまさにこの時探していたもので、賭けに勝ったと言って良いかもしれない。

この時の関心は、デカルト的二元論に対比する形でのアニミズムを、ぼんやりとしたスピリチュアル的な言葉ではなく、存在論や認識論として説明できるような言葉を探していたのだ。

ここからは、本書を読んで私なりに掴めたであろうことを書いておきたい。(スケッチは本書の押絵を参考に、自分の解釈も交えて書いたもの。)

ネットワークからメッシュワークへ

本書を読んだ印象では、インゴルドは線の思想家である。

この線は本書のタイトルである「生きていること」のメタファーであるが、これまで私が考えてきたことの中では、オートポイエーシス的な”はたらき”、という考え方が近い。

A. 生命はオートポイエーシスな視点から「ぐるぐるとサイクルをまわしながらはたらき続け、そのはたらきによって自分と自分以外の境界を作り出すシステム」と捉えられると思う。左の図では、円環をなすはたらきによって、生物の境界が生まれている。

B. しかし、Aでは境界が明確なため、内と外という構造的な印象が強すぎるかもしれない。それよりは、はたらきの周りに要素が絡み合って、一時的にはたらきがまとまりを生み出しているというイメージの方が適切だろう。オートポイエーシスはシステムであって、構造ではないし、内側を他者が通り抜けながらその時時に構造が生成し続けるイメージはトポロジー的にも良さそうだ。

私は有機体(動物や人間)を、環境に取り囲まれる境界づけられた存在者としてではなく、流動空間における境界のない線の絡み合いであると結論付けたい。(p.163)

C. ここで、線の思想家であるインゴルドは、この円環を”開く”。開かれた線は、オートポイエーシス的なはたらきがより鮮明になり、そこにはもはや、明確な境界はなく、生命は世界の中に泳ぎだしている。しかし、その遊泳は決して孤独な旅ではない。それどころか、他の線と密接に絡み合いながら、躍動感に満ちた世界をなす存在となる

D. このいくつもの線が絡みあった世界がメッシュワークである。ここでは、生命は、境界に囲われた”対象”ではなく、はたらきとしての線そのものである。

E. 一方、メッシュワーク的な世界観と比較されている、ネットワーク的な世界観では、線は点と点を結ぶもの、すなわち関係性・構造を示すものであり、はたらきを示すものではない。ここでは、結ばれる点はそれぞれ独立した”対象”、境界に囲われた存在として描かれる。本書には、アリ(ANT:Actor-Network-Theory を想起させる)とスパイダー(網:インゴルド自身を想起させる)の寓話が載っているけれども、アクターネットワーク理論オブジェクト指向存在論に感じた、静止した印象はアクターやオブジェクトが境界づけられた”対象”として捉えられていることによるものなのかもしれない。(といっても、この印象には誤解が含まれているであろうことも承知している)

メッシュワークとアニミズム

このメッシュワークの世界観においては、”開かれている”ことが決定的に重要である。

先程、円環のイメージが開かれて流れる線になったように、”開かれている”ということは、対象化されていない、すなわち境界によって世界から分離されていない、ということだ。

一般的に、動物は意識を持たず、本能によって生きているとされる。一方、人間はデカルトが身体と精神を分けたように、意識をもち、世界を捉えることができるようになったとされる。
これは、人間が世界および自らを対象化することで世界から分離したといえる。このことによって、人間は世界をはたらきのメッシュワークとしてではなく、構造としてのネットワークとして捉えることになった。
人間は世界を対象化し、眺めることで”開いた”ようにみえて、逆に境界に閉じこもるようになってしまったが、動物は世界から分離されていない、すなわち”開かれた”まま、世界を生きている

ここでなにも、人間が動物に劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、ネットワーク的な世界観(この世界観を持っている期間は、人類の長い歴史の中では一瞬のことである。)では見落としてしまうこと、感じられないことがたくさんあり、そのような静止した世界観に生きるのは単純にもったいないような気がするのだ。

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

ここで、本書を購入する当初の関心であったアニミズムについて考えてみよう。

アニミズム的な世界観では、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物がまるで生きているように語られることがある。私たちは、このことを未開文明の無理解だと切り捨てがちであるし、このイメージが私自身、アニミズムという言葉を使うことをためらわせもする。
しかし、本当にただの無理解だと切り捨てて良いものだろうか。もしくは、私たちには理解できないものなのだろうか。

インゴルドはアニミズムに対する捉え方は二つの誤解を招いているという。

第一に、私たちがアニミズムという考え方で扱っているのは世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件である。(p.168)

つまり、アニミズムとは世界の構造を理解する方法ではなく、世界に生きるための方法である
ここに、根本的な食い違いがある。デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。しかし、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。むしろ、ここには世界の構造について知ることだけに腐心し、世界のなかで生きる方法を置き忘れてしまった私たちにとって大切な何かがある。(と、書くとスピリチュアルな印象を持たれるかもしれないと、ためらってしまうけれども、おそらくこれは、客観的なファクトである。)

第二の要点は、むしろアニマシーとは、人のようなものであれ物のようなものであれ、あらゆる種類の存在が連続的かつ相互的に違いを存在せしめる関係の全体からなる、ダイナミックで変化する力のある潜在性であるというものである。要するに、生活世界のアニマシーは魂をサブスタンスに注入した結果でも、エージェンシーを物質性(materiality)に注入した結果でもなく、むしろ存在論的にそれらの差異化に先立つものである。(p.168)

ここで再び先程の、D.メッシュワークのイメージを見ていただきたい。
この中の1本の線が私が生きているというはたらきである。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中をそれらに応答しながら通り過ぎることである。世界をなすそれらの線は、時には自己という境界の中と思っている領域を影響し合いながら通り抜けさえする。

この時、これらの線は生命であるとは限らないし、その必要もない。むしろ、アニミストがそうするように、すべてを生きているように捉えた方がイメージしやすいかもしれない。

本書では、〇〇している、というような表現が何度も現れる。
風が風している。雷が雷している。石が石している、大地が大地しているなど、その存在そのものとはたらきに注目し、名刺を自動詞のように捉えることで、これまでの存在論的な捉え方を反転させる。(よくよく考えると、これはアニミストのやり方とあまり変わらない。)

このように、生物、無生物を問わず、それらさまざまなはたらきが、線として複雑に絡み合いながら、世界(メッシュ)をなしているのがメッシュワークであり、それらは私の線の流れと不可分な存在として相互浸透している。
(これについては後で少しだけ触れるけれども、さらに、知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる。)

このイメージを頭に描けた時、これまで学んできた生態学やシステム論、その他もろもろと、事務所移転してからここ一年での経験が、一挙に結びついて確信のようなものに変わった気がする。
もはやアニミズムという言葉を使わなくても良さそうだけれど、アニミズムは、現代人にとって、分断の思想をつながりの思想へ、知るための方法を生きるための方法へ、静を動へと反転するヒントなのだ。(もちろん、アニミストの解像度や知恵には遠く及ばないだろうが。)

また、この確信のようなものは、建築のイメージにもを何らかの確信を与えてくれそうな気がしている。

土と風 ~陸を海する

建築そのものが、境界もしくは対象としてではなく、一本の線としてメッシュワークの中を生きる。そんな、生きていることとつながっているような建築のイメージが湧く。
それは、建築を、本書の意味で”開いていく”ことにならないだろか。つまり、建築を世界の中のはたらきに溶け込ませていくのである。

それをうまく実現できるかどうかは置いておいて、そのイメージにはこれまでにはなかったような手応えを感じるけれども、この手応えはおそらく、机上の蓄積からだけでは決して得られなかったように思う。
ここ1年、生活に変化を与えてみた実感として(それこそ、世界のなかで生きる方法として)、直接的に感じたものが支えになっているのは間違いない。

その中でも、最近少しだけ触れることができた、大地の再生のアプローチの影響は大きいかもしれない。

大地の再生や、建築でも最近話題になっている土中環境。どちらも、地上、上空、地下、それらの領域をまたいで、そこに本来備わっていた、水や空気、生物などによる循環を再生しようとする実践である。
この実践に触れて感じられたのは、さまざまなものが相互に影響を与えあいながら生きている(成立している、と言っても良いけれども、ここはアニミズム的な意味で生きている、と言ってみる)という、自然の壮大かつ緻密で不可思議なシステムである。
それは、私がこれまで感じとれていなかったものだけれども、いざ触れてみると、想像を遥かに超えたつながりがあることが少しづつ見えてきた。

ここ最近、単体の生命のイメージは少し掴めてきたところだ。次は、それらの壮大なつながりを大局的なイメージとして手繰り寄せるような概念がないだろうか、と生命科学や物理学などの分野で探していたのだけど、たまたま読んだインゴルドのメッシュワークのイメージは求めていたものにかなり近かった。

といっても、大地の再生や土中環境がみている風と土の関係が、最初からしっくり来ていたわけではない。
そもそも、風にしても土にしても、それを見るための目を持ち合わせていなかったし、風は地上の話で、土は地下の話と切り分けて考えることから抜け出せず、それらの間の関係にはどちらかというと半信半疑だったのだ。

ここで、本書に戻る。

本書では、大地と天空についての考察にかなりのページが割かれている。
それは、私がそうであるように、それらに対する見る目を多くの人が失っているからかもしれない。

F. 多くの人にとって、大地は自分たちを支える、固まった台のようなもの、単なる固形物で、天空は私たちの上部を覆う空虚なもの、というイメージだろう。そこでは、人は大地や天空と切り分けられた存在であり、大地や天空は、その”対象”としての存在を支える背景でしかない。

ここでインゴルドは”陸を海する”ことを提案する。
陸上で生活する私たちは、例えば陸から海を見た時に、陸の視点から海を理解しようとする(海を陸する)。
では、逆に海の視点から陸を理解しようとする(陸を海する)と何が起こるだろうか。

G. この視点によって、大地は単なる個体としての台ではなく、そこにはたくさんの生命があり、水や空気が循環し、不断の運動と変化の中にある、たくさんの線として世界を形づくっていることが見えてくる。同様に、天空は単なる空虚ではなく、風が吹き、鳥が飛び、さまざまな音が満ちている世界の一部であるとともに、大地と天空とはたくさんの線によって結びついている。(ここで空気や水、土などは、メッシュワークの線の流れを保証する、地の部分、メディウムでもある。)

このようなイメージのもとに世界を眺める時、今まで静止していた世界がとたんに動き出すように感じるけれども、大地の再生などで感じるのはまさしくこの感覚なのだ。

これまで、大地の再生や土中環境といった時に、なぜそれをやるのか、ということに明確に答えられる言葉を持っていなかった。
土中環境とかって、流行っているからやっているのだろ、と言われると返答に困っていたかもしれない。

では、今ならなんと答えられるだろうか。
これらの実践は、風が風するため、土が土するためであり、静止していた世界を再び動き出させるために行うのだ
それは、世界(メッシュ)を形づくっているいくつもの線を感じ取れるものに変え、私たちの生を再び動き出させることでもある

建築することが、ささやかであってもそれらの再始動に関わることができたとしたら、そこに住む人の住まうことがより満たされたものになると思うのである。

物語と技術

最後に余談というかメモとして。

先に、「知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる」と書いたけれども、これはどういうことだろうか。

インゴルドは知識や技術、物語といったものは、複製物として人から人に伝達されるようなものではないという。
人は、世界の中に線として編み込まれた知識や技術、物語に出会うことで、それらを実践的なプロセスを通じてその都度、再産出するのである。
(これは、ギブソンの理論を人間を取り巻く社会的な環境へと拡張したリードの理論に近いし、私が以前書いた『出会う建築』の考え方にも近い。)

このことは、技術の伝承の問題や教育の問題とも関わりがありそうだ。

技術が失われることは、複製物としての知識や道具が失われるというよりも、それを獲得するための一回性の形成の機会が失われる、ということだろう。それどころか、形成の体験そのものの機会が失われているともいえる。
『出会う建築』に関連付けて言えば、その出会いと形成そのものに喜びがあり、その機会を生み出すことも一つのテーマとなりうると思うのだ。




探索者であること B300『トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題』(ローズ ジョージ)

ローズ ジョージ (著), 大沢 章子 (翻訳)
NHK出版 (2009/9/26)

環境を意識しだしてから、なかなか読む勇気が持てなかった最後の砦、トイレ問題。
いつかは目を向けなければいけないと、重い腰を上げて読んでみた。

本書は装丁からは想像もしなかったほどのボリュームでヘビーな問題がぎっしりと、そして軽快な文章で詰め込まれている。

世界65億人が抱える大問題

まず、トイレ、つまり排泄物の問題について自分は何も知らなかったことが分かる。

そこから病気にかかる率はおそろしく高い。1グラムの便は、1千万個のウイルス、百万個のバクテリア、千の寄生虫、そして百の寄生虫の卵を含有している。(中略)ある衛星の専門化が試算したところ、不適切な衛生環境に住む人は、毎日10グラムの便を摂取していることになるという。不十分な下水設備、衛生状態の悪さ、そして糞便の粒子が混入した危険な水が、世界の疾病原因の10分の1を占めている。(p.15)

世界の人々の4人に1人はトイレを持たず、野原や道端で排泄し、それが様々な感染症などの原因になっている
途上国では下痢が原因で15秒に一人の子どもが死亡していて、その9割は糞便によって汚染された飲食物によって引き起こされている

また、人間は平均で1年に35kgの便と500Lの尿を排出し、それに水洗トイレの水が加わると総量は1万5140Lにもなると言われているが、都市でひしめき合って住んでいる人たちの排泄物の処理は様々な問題を残したままだ。

トイレがこれほど奥が深いとは思いもしなかった。
「社会が人の排泄物をどう処理するかは、その社会が人をどう扱っているかを示すバロメーター(p.22)」「トイレを見れば、あなたがどんな人間かわかります(p.128)」
トイレは、衛生、経済、人口、政治、文化・慣習、さまざまな問題と根深くつながっているけれども、それらの問題はタブー視されて表に出てくることはほとんどない

下水設備が整った日本において、建築を考える際にトイレについて考えることと言えば、そこでの振る舞いや、音や匂い、設備や快適性など、その閉じられた狭い空間についてがせいぜいで、その先のことは「なかったこと」になっている。下水が最終的にどう処理されているのか、そこではどんな人がどんな仕事をしていて、どれくらいの費用がかかり、果たしてそれが一番の解決策といえるのか、について想像を巡らすことはまずない。

本書でも、さまざまな問題に対するさまざまなアプローチが紹介されているけれども、トイレ問題があまりにさまざまな要因とつながっているため、そのアプローチも多様で、完全な正解というものはなさそうだ。
それぞれの地域、それぞれの環境、それぞれの生活、の中で、あるべきトイレについてまずは目をそらさずに考えてみる。本書はこの最初の第一歩の重要性を鋭く突きつけてくる。

今の日本で、自分が何を考えるべきなのか。それすらもぼんやりとしか見えていないけれども、まずはこれに関わる技術のこと(例えば下水処理や浄化槽、または排泄物の分解や活用に関する科学的な根拠など)をゆっくりとでも学んでみたいと思う。

トイレ問題と闘う人たち

トイレは人間の寿命を伸ばす唯一最大の可能性である(p.16)

本書は、とても重要であるが、人々が目をそらしている(そして、とても刃が立たなさそうな)巨大な問題に立ち向かう人々のドラマでもある。

例えば、インドの人口4000万人を超えるある州では、彫り込み式のトイレを持っているのは4%に過ぎない。
ほとんどの人が屋外のそこら辺で排便し、さまざまな感染症が蔓延し多くの人が死んでいる。
あなたは、そのことに心を痛め、彫り込み式のトイレを普及させることで少しでも改善しようと行動を起こしたとしよう。
しかし、彫り込み式の便所を設置したことろで、適切な維持はされずすぐに廃れ、人々はこれまで通り屋外で排泄したほうがマシだと行動を変えず病気は蔓延したままだ。
たとえうまくいったとしても、ほんの僅かな人数がやっとで、全体が改善される日など想像もできない。

こんな状況で奮闘し続けることはできるだろうか。

そんな中、住民に自ら考える機会を与えることで、外部からの押しつけでない「地域主導型プロジェクト」というものを進めている人たちがいる。

彼らが変わる唯一の道は、彼ら自身が自分を変えることだ、とカーは考えた。とはいえ、とカーはガイドラインに書いている。「開発援助のプロたちの、凝り固まった習慣を打ち破るのは難しく、全知の外部者として村に入り、教えと無料の彫り込み便所を広めたいという思いに打ち勝つのは困難だ。しかしここが重要なのだ。住民たちのどのような気づきも、教えられた結果ではなく、天啓でなくてはならない。内から出たものであるべきで、上から押し付けられたものであってはならない」(p.286)

カーは、このトイレを住民たちが維持し、改善していくことを信じている。なぜなら、自立的な動機づけこそが、なににもまして持続可能性を秘めているからだ。(p.291)

地域主導型プロジェクトは、人の感情を操作することによって成り立っている。まず嫌悪感。つぎに恥の意識と誇りである。(p.293)

最初から答えを与えるのではなく、動機そのものにアプローチする。

本書に挙げられている例は、成功ばかりではなく、どちらかというと困難や挫折に直面しているものが多い。しかし、だからこそ困難に立ち向かおうとする人にとっても有意義な本になっている。

経済学者のウィリアム・イースタリーは、『白人の責任』(邦題『傲慢な援助』)という本の中で、援助の世界を計画者調査者の二つに分けたそうだ。
計画者はトップダウン式にものごとを与えようとする人たちで、調査者は本書で取り上げられている人たちのように、実態に光を当て、人々の声を聞き、需要を探し出して、うまくいくやり方を見つけ出す。そんな人たちのことだ。

計画者と調査者、私なら、計画者探索者と言い換えるが、現代においてこの二つの姿勢の違いは決定的に重要だと思われる。

これまでたくさん書いてきたので深くは立ち入らないけれども、計画という姿勢、つまり、ある前提条件及びそれに付随する答えをあらかじめ持った上での判断、だけでは見落としてしまうことがある。この見落としによるマイナス面があまりに大きくなっていないだろうか。

事務所を移転し生活を営む中で、探索者であること、もしくは遊ぶ人であることの重要性は日に日に大きくなっているように感じる。




流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一)

福岡 伸一 (著)
講談社 (2007/5/18)

てっきり読んだものと思い込んでいたけれども、未読だった。(読んだ内容を忘れてるのかとも考えたけれど、前回のシュレーディンガーについても本書に詳しく書かれていたのでやはり読んでいなかったようだ。)

そして、さすがに面白かった。

生命とは何か?

本書は、著者が大学の時に出会った問いに対する著者なりの返答なのだろう。

そんなとき、私はふと大学に入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?(p.3)

著者は、いくつもエピソードを交えながら、生命とは何かを描いていく。

生命とは自己複製するもの」とよく言われる。
遺伝子の複製によって、ミクロにもマクロにも、生物は自己複製を繰り返していく。そのことが生命を生命たらしめている。

それはそうに違いない。しかし、例えばウイルスは細胞に寄生することで自己複製を繰り返すが、その形態は無機質で、栄養を摂取することもなければ呼吸をすることもない。生命と呼ぶには何かが足りていない。

自己複製が生命を定義づける鍵概念であることは確かであるが、私たちの生命感には別の支えがある。鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである。(p.165)

シェーンハイマーは私たちの身体の構成要素が絶えず入れ替わっていることを見つけ出した。
それぞれの構成要素がエントロピー増大の法則によって特質の維持が困難になる前に、先回りして分解し再構築を行う。
さらに、身体要素は「柔らかな相補性」と呼ぶような動きを伴った柔軟な結合によって構成されている。
この耐えざる分解と再構築という流れを伴いながら生命を維持している柔らかな状態を著者は動的平衡と呼ぶ

エントロピー増大の法則に抗う方法には、システムの耐久性と強度を強化する方法と、システムそのものを流れの中に置き絶えず更新し続けることの2つがある。

私たちの感覚で工学的に考えた場合、前者の方が耐久性が高く、維持コストも低いように思われる。
だが、生命は後者の道をえらんだ。
つまり、生命は流れとして動き続けなければならないという宿命を引き受けたのだ。しかし、それと引き換えに、生命は環境に適応する柔軟性と、結果的により高い持続可能性を獲得することに成功する

この宿命を引き受けた、という事実こそが、私たちの生命感を支えているのかもしれない。

建築について

しつこいようだが、ここで建築についてである。

設計の場面ではよく、メンテナンスフリーが求められる。
しかし、エントロピー増大の法則に反して、真にメンテナンスフリーなどというものがあるはずもない。
一定の耐久性を期待して選択したピカピカの材料が、時を減るに連れてこの法則に破れていく様を顕にする。それが関の山だ。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
それはそれで仕方のないことなのだろう。エントロピーの法則に破れていく様も見方によっては、時間の流れを感じさせる味である。

ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。

エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない
(このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)

しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる
それが可能な条件が出揃えば、「建築に生命の躍動感を与える」ことはうまくいくだろうし、願ったり叶ったりである。

そうでなければ、それぞれの条件で可能な範囲、かつ楽しめる範囲で引き受けることができるのはどこまでか、その効果を高めるにはどのような方法があるか、を見極める必要があるのだろう。

希望があるとすれば、そのような宿命を楽しめる人、というよりむしろ餓えている人が増えているように思えることかもしれない。




建築において遺伝子に相当するものは何か B298『生命とは何か: 物理的にみた生細胞』(シュレーディンガー)

シュレーディンガー (著), 岡 小天 (翻訳), 鎮目 恭夫 (翻訳)
岩波書店 (2008/5/16)

本書は1943年にダブリンの高級学術研究で行われた講演をもとに出版されたもの。日本語の翻訳版は1951年、1975年、2008年と三度出版されている。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

上記の本で、エントロピーと生命の関係を知れたことは大きな前進だったのだが、本書を読んだのは、その発端となったシュレーディンガーの「生物体は「負エントロピー」を食べて生きている」という記述を追っておきたい、という軽い気持ちからであった。しかし、本書はそれにとどまらない。

他領域をまたぐ入門書的名著

物理学者であるシュレーディンガーが、専門外である生物学の分野をまたぎながら「生命とは何か」を丁寧に説明する本書は、熱力学、量子力学、遺伝学などを理解する上でもとても良い本だった。

といっても、80年前の話なので、その後の学問的な進展は当然反映されていない。
ワトソンとクリックにより遺伝子の二重螺旋モデルが提出されたのは1953年、講演から10年後である。シュレーディンガーのこの講演が分子生物学の扉を開いたわけだが、本書にはこれこそ学問的想像力だ、と感じさせる面白さがあった。

また、この講演と現在の最新の知見との間のギャップを私は理解していない。(これから、少し学んでみるつもり)
しかし、それでも、というかだからこそ、本書の丁寧な説明はとても今の自分には有益だったように思う。

生命の秩序と物理法則、エントロピー

私の誤解や、現代の知見との相違があるかもしれないけれども、備忘録として大まかな内容をまとめておきたい。
(断定的に書くけれども理解のおかしいところがあるかもしれないので、そのつもりで読んでいただければ)

本書における議論は「生きている生物体の空間的境界の内部でおこる時間空間的な現象は、物理学と化学によってどのように説明されるか?(p.12)」という疑問から始まる。

・なぜ生物は原子に比べてそれほど大きいか

次に投げかけられる疑問は「われわれの身体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないか(p.21)」である。
これには「統計物理学」の考えが関連する。

私たちは、さまざまな物理的・科学的現象を古典的な物理学で理解することができるわけだが、それは、対象としている物質が十分に大きいからである。
ミクロで見たそれぞれの分子は、ブラウン運動のように、全くランダムな動きをしており、それらの性質を一意的に捉えることはできない。
(この、ミクロなランダム性がエントロピー増大の法則のもとになるように思われるが、それは一旦置いておく)

それらの運動をマクロに見て統計的に平均したものが物質の性質として現れ、物理学や化学の法則として扱うことを可能にするが、そこでは対象となる分子の数nに対し√nの確率誤差が生まれるという(√n法則。率として√n/n=1/√nの誤差がある)。
つまり、分子数nが小さい場合は、分子のランダム性の影響が大きすぎてはなはだ不安定なものとなり、ごく僅かな分子の揺らぎから多大な影響を受けることになる。これが「われわれの身体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないか」という疑問に対する答えを導く。生物が安定的な存在であるには大きくなければならないのだ。

・なぜ遺伝子は極めて規則的な法則性と奇跡的な耐久性を持てるのか

しかし、遺伝における突然変異をX線の照射によって調べると、それが起こるのは原子間距離の約10倍の立方体の範囲において、つまり原子数が多くても10の3乗=1000個程度の範囲であるという。
ここから、遺伝子の構造はかなり少数の原子からなることが分かるわけだが、先程の√n法則を考えた時に3%以上の誤差があることになってしまう。これでは遺伝子の法則性と、生命の歴史をこえるような耐久性を古典物理学では説明できなくなる
なぜ、遺伝子はこれほどまで小さくあれるのか。

この疑問に突破口を与えたのが量子力学のうち1920年代にハイトラーとロンドンによって明らかにした化学結合の量子理論である。
かなり小さい体系、マクロな領域では、エネルギーや運動特性は連続的に変化するのではなく、不連続な飛び飛びの値を取るという。さらに、ある粒子の配列状態は、より大きなエネルギーを持つ別の配列状態に遷移する(量子飛躍)にはそのエネルギー差に応ずるエネルギーが加える必要がある。
この遷移が起こる期待時間はt=τe^(W/kT) [τ,k:定数 W:必要なエネルギー差 T:絶対温度]で表せるが、遺伝子を分子構造と仮定すると、かなり長い期待時間と、極稀に起こる突然変異が説明できる。
つまり、生物の遺伝情報といった複雑な暗号のようなものが一つの分子として成立していると考えられる。そう考えると、量子力学によってミクロな遺伝子が耐久性を持つことを説明できるのである。

・生物体は「負エントロピー」を食べて生きている

生物体は「負エントロピー」を食べて生きている、といった時、生命が光合成や糖によりエクセルギーを取得し、増大したエントロピーを廃棄しながら動き続けている、ということを指すのだろうと思っていた。
実際、そのことが書かれているのだが、本書の主題として多くのページが割かれているのは、遺伝情報の保持の仕方であった。

ものごとは、物理学の統計的なふるまいにより放っておけば無秩序な状態へと変わっていく、という傾向(エントロピー増大の法則)に対し、「量子論の魔法の杖」によって持久性と小ささ、複雑さを合わせ持つことを可能とした遺伝子。ここにもエントロピー増大の法則に抗う生命の謎があったのだ。

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

後者については、この時あまりピンときていなかったのだけれども、少しイメージがクリアになったかもしれない。

建築において遺伝子に相当するものは何か、に関する仮説

見方によっては、建築は「常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする生命のようなもの」と言えるかもしれない。
また、建築に生命のような躍動感を与えるにはただ不均一な状態を生み出すだけでなく、「太陽を発端とする循環の中で奇跡的に成立している」生物のあり方を手本にする必要があるのではないか。

最近、そんな風なことを考えているのだが、では、本書で得た知見は建築においてどのようなイメージにつながるだろうか。
言い換えると、建築において遺伝子に相当するものは何と考えるとイメージを広げられるだろうか

これに対する答えはまだ持てていないし、じっくり考えてみても良いと思うのだが、例えば、それを人間のふるまい、もしくはそれを成立させている生活文化としてみてはどうだろうか。

建築はつくって終わりではないし、ただエネルギーを投入し続けて維持すれば良いというものでもないだろう。
そこに、生活文化(例えば循環の中で住み続けるための技術)を持った人間が関わり続けることで、建築のはたらきが続いていく。
そして、その文化は世代を超えて変化しつつも遺伝子のように引き継がれていく。
そして、これによってはじめて建築に生命の躍動感を与えることが可能になりはしないだろうか。

このイメージ、なかなか良いきがするけどどうだろうか。




農的暮らしという未来 B296『地球再生型生活記 ー土を作り、いのちを巡らす、パーマカルチャーライフデザイン』(四井真治)

四井真治 (著)
アノニマ・スタジオ (2023/10/6)

前回の本で著者のことが紹介されていて、以前から興味もあったので購入してみた。

気持ちとしては技術書のようなものを期待していたけれども、どちらかというと思想に関わるものだった。しかし、いろいろと得るものがあったように思う。

エコロジーの原理

著者はパーマカルチャーに触れつつも、その原理が何か分からず長い期間をかけて考えたようだ。
実践の期間は比べ物にならないけれども、原理的なことを理解したいという意識には共感する。

私は幼い子どもたちに、エコロジーという言葉の意味を「地球に優しく暮らすこと」と教えたくはありませんでした。(中略)人の暮らしが環境を壊すのではなく、生物多様性を増やしより豊かにできることに気付き、子どもたちと一緒に実現することができました。その気付き以来、「エコロジーやパーマカルチャーとは、地球における人間の存在意義を生むための学問や方法論である」と考えるようになったのです。(p.26)

これは、言葉は違えど、ここ数年で私が辿り着いた感覚に近い。
いや、私が、その存在意義をマイナスからせめてゼロに向けて変えるべきでは、と考えていたのに対し、著者の考えはより前向きかもしれない。

エコロジーやパーマカルチャーと聞くと何か特別なものと感じて身構えてしまう人もいるかもしれないし、私がそうであるように、ハウツーだけではその特別感はなかなか払拭できないこともあるだろう。

しかし、自分の中でそこに含まれている原理を一度掴みさえすれば、それは特別なものではなくなるし、信頼とともに共感も得やすくなるように思う。(ただ、見え方に注意を払わなければ、それは他の人にとっては特別な身構える対象のままになってしまうだろう。これは自分にとっても課題である。)

いのちは集め、蓄えるもの

「いのちとは何か?」
この問いに対しても、私が辿り着いたものに近かった。

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹))

この、「常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営み」を著者は「いのちは集め、蓄えるもの」と表現する。

著者はその表現へと至る過程で、エントロピーやプリゴジンの散逸構造、福岡伸一の動的平衡などを経るわけだが、その結果、「生物多様性は単位空間あたりの生物量を最大にし、それにより集め蓄えられる物質やエネルギーなどの資源は最大となり、持続可能性がより安定する」という理論に至る。

生命の「集め蓄える」はたらきを集合的に捉えることで、そこで生まれるダイナミックな関係性が、生命のつながりと持続性とをより高めることが見えてくる。そして、著者はさらに、人間をその集合的なはたらきを高められる存在だと捉えようとする。

この前向きな姿勢は、私にはなかったものなのだが、今は、なるほどと理解できる気がする。
(この生命のはたらきをより大きな視点でみることは、少し突っ込んで勉強してみたい)

地球再生型のくらし

ここから、タイトルの「地球再生型生活記」へとつながっていくわけだが、地球再生と聞くと少し大げさな物言いのように感じるかもしれない。

しかし、著者の提唱するものは、そんなに大げさなものではなさそうだ。

環境問題、もしくは、私たちの暮らしが生命の連鎖から外れ持続可能性を失いつつあることに対し、著者は農業人口の増加ではなく「農的暮らし」を営む人の数を増やすことを提唱する。

軸となる仕事を持ちつつ、生活の中に食糧生産を組み込むことで、身の回りの小さな範囲の「生命の集め蓄えるはたらき」を高めること。
これによって、耕作放棄地が活用され、生きるための技術が習得でき、人間の営みを環境から奪うことから、環境をより豊かにするものへと変えることができる。

数年前なら、イメージは湧くけれども実践はそれほど簡単ではないと感じたかもしれない。
しかし、実践へと片足を突っ込んでみた今なら、やってみれば別に難しいことではない、と言える。

鹿児島であれば、農的暮らしの可能な土地は都市部からそれほど離れていないところにいくらでも見つかるし、農的暮らしと言っても、簡単な自給であれば、隙間時間で十分に事足りる。

少しの意識と、時間さえ確保できれば、あとはえいやとやってみれば誰でもできることだし、それで得られることは驚くほど多いのだ。
興味があればやってみればいいのに、と思う。

吹上で小さな畑をやっていて、今年からは田んぼもする予定だ。
だけど、その意味は「やってみなければ分からない」と未だによく掴めていなかった。

それが、最近の生命とエントロピーの話、そして、今回の著者の話でかなり明確にイメージできるようになってきた。
そして、それと建築との関係も分かり始めてきた気がするし、田舎に限らず都市部でできることもあるのでは、と思えてきた。

それを、どう建築のイメージへと高めていけるか。

面白くなってきたかもしれない。




遠回りも無駄ではなかった B295『線(せん)と管(かん)をつながない 好文×全作の小屋づくり』(中村 好文,吉田 全作)

中村 好文 (著), 吉田 全作 (著)
PHP研究所 (2022/6/20)

この本は発売してすぐに購入していたけれども、まだ読むタイミングではない気がして、ずっとそのままにしていたもの。

そろそろ、読んでも良いタイミングかと思い手に取ってみた。

タイトル通り、線つまり電気と、管つまり公共的な給水管と排水管とをつながない、いわゆるオフグリッドな小屋についてお二方が交互に語るような内容。
線と管をつながないとは、すなわちエネルギーや水、栄養素などの循環について自ら考えるということである。

この中で、パーマカルチャーデザイナーの四井真司氏の言葉を引いた部分がある。

四井さんは、「多くの人は環境問題と言えば≪省エネルギー≫≪省資源≫という言葉をお題目のように言うけれども、本当に大切なことはそれだけではなく、資源を得る仕組みについて考え、それを生み出すことに知恵を絞り工夫を凝らすことだ」と言います。「一般的には、人が暮らすことによって自然環境は悪化し、資源は消費されて目減りし、地球環境に負荷を与えることになると考えられているけれど、そうしたマイナス面ばかりではなく、人が暮らすことで、資源を生み出し、その場所の自然環境を豊かにすることだってできる・・・」というのが四井さんが実践を通じて会得したことです。(p.82)

これは、これまで私が環境について考えてきた中で辿り着いた考えとかなり近いけれども、おそらくここに辿り着く前に本書を読んでいたら、何となくわかった気になって終わっていたかもしれない。
そういう意味でも、遠回りしたことに意味があったし、本書を読むタイミングもやはり今だったのだろう。

本書では、どのような工夫をしているか、どのような技術や製品を使っているか、コストも含めて具体的に挙げられていてとても参考になった。
とはいえ、これらがすべてではなく、状況に応じたさまざまな選択肢があるはずだし、それに対する自分なりの指針も必要だろう。

環境に対する思想という点ではだいぶ自分の言葉を持てるようになってきたように思う。
これからは、より具体的な手法や技術について実践も含めて学んでいきたい。

また、環境という言葉に対する価値観や距離感は人それぞれでかなりの幅がある。
これに対して、オノケンとは別にアプローチするための枠組みを今準備しているところなので、準備が整い次第公開したい。




生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹)

佐藤 直樹 (著)
裳華房 (2012/5/20)

循環をエントロピーの視点から捉えたかったのと、生物の循環に対するシステムに大きなヒントがあるはずと考えていたため、本屋で関連がありそうな本を探して見つけたもの。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。 しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう) この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳))

循環のイメージをよりクリアにしたい、とのことで本書を読み始めたけれども、前半はエントロピーという言葉はほとんど出てこず、生物学的な基本的な構造の説明が主だったため、門外漢の私にはなかなか入り込めなかった。
これは買う本を間違えたかな、と少し思いつつも読み進めると、後半、前半で読んだことが一気につながって、最後には大きなヒントが得られたように思う。もしかしたら、これまで生命をオートポイエーシスシステムとして捉えていた中で、足りていなかったもう一つの重要なパーツを埋めることができたかもしれない。

めぐり、めぐむ わきあがる生命とオートポイエーシス

本書のサブタイトルは「めぐり、めぐむ わきあがる生命」である。
「めぐる」とは、さまざまなものが循環するサイクルを、「めぐむ」とはそれらの多様なサイクルが互いに関係しあい、何かを渡しあっていること(共役)を、そして「わきあがる」とはそれらのめぐりめぐむ多数のサイクルが、全体としてもう一つ上の階層のサイクルとしてめぐりはじめることを示している。

本書では、分子レベルから、細胞や生物個体、生態系や地球環境など、さまざまなスケールのサイクルを示す図が多数取り上げられている。

例えば

▲光合成を行う植物と、呼吸を行う動物の間の循環がイメージできる図。
植物の光合成では、太陽からエネルギーを得ることで二酸化炭素を糖(炭水化物)に変える。そのための還元剤は水が酸化し酸素を生じさせるもう一つのサイクルによって機能する。
一方、動物の呼吸では、糖が酸化し、二酸化炭素へと変わる。そのための還元剤は酸素が水へと還元されるもう一つのサイクルによって機能し、その際にATPにエネルギーが蓄えられ、動物の様々な活動に使われる。
二酸化炭素と糖、水と酸素の2つの循環が、太陽からのエネルギーを形を変えて受け渡す。



▲炭素と窒素なども循環している。窒素固定を行える生物は根粒菌やシアノバクテリアなどに限られ、窒素固定のシステムは地球の生命の歴史の中でただ一度しか発生しなかったのではと言われているそう。


▲太陽から始まる地球のエネルギー収支はおなじみ。

本書はこれらの、めぐり、めぐむ、わきあがるサイクルから生命とは何かに迫ろうとするのだが、これらは、はたらきが駆動しつづけることで境界をつくりだすオートポイエーシス・システムと、それらのカップリングにより、より上の階層のオートポイエーシス・システムが駆動すること、と考えられるな、と思いながら読んでいた。(本書ではオートポイエーシスについては触れられていない)

しかし、本題はここからで、そのイメージに足りていなかったパーツが埋められることになる。

不均一性と生命

生命をオートポイエーシス・システム、もしくははたらきと捉えることで、生命の独自性をイメージすることができるようになる。
自走するはたらきを内にもつことそのものが生命を生命たらしめているのである。

しかし、それがなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということは、欠けたパーツとしてイメージを持てておらず、そういうものだと思うしかなかった。

そこで不均一性、エントロピーが登場する。

不均一性とは、エントロピー差のことで、秩序だっていることである。
秩序は一見、均一性を持ちそうなイメージがあるけれどもそうではない。世界は必ず、不均一な状態から均一な状態へと移行しようとするが、それに抗って、不均一な状態を維持すること、いわば不自然な状態を維持することが秩序である。
そして、秩序は不均一な状態から均一な状態へと移行する能力を持っている。エントロピーが小さく、エクセルギーを持つ、とも言い換えることができる。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。
(本書では、情報そのものが不均一性である、と書いているが、そこは明確には理解できなかった。おそらくここが重要なポイントだと思うので今後の課題にしたい)

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)

さらに、生命の進化もこの不均一性を生み出す営みの中で説明される
秩序を持った遺伝情報は、秩序を失い、多数の変異多様性へと向かう。その大量の多様性の中から選択されたものが新たな種へと固定する際に、情報のエントロピーは減少する(秩序が生まれる・不均一性が増す)。
進化とは、一見多様性が増し、エントロピーが拡大するように思えるが、全体を見ると、生命が不均一な状態を生み出そうとする営みの一つとすることができる

また、著者が、エントロピー差もしくはエクセルギーのことを「不均一性」と呼ぶことには意図があるように思われる。
エントロピーもしくはエクセルギーと言った場合、何かしら機械論的・直線的に全てが決まる印象があるけれども、(これも物理的には説明ができると思うが)世界には確率論的な揺らぎがあり、階層的なシステムは複雑系としての単純化できない何かがある。その何か不思議さのようなものに対するニュアンスを、生命に対する敬意も含めて「不均一性」という言葉に込めているのではないだろうか。

いずれにせよ、生命がなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということに新たなイメージを得られたことは大きな収穫だった。結局のところ、地球というシステムはすべて太陽からの恵みを循環させることによって成り立っていて、それに対する敬意はやはり失くしてはならないのだろう。そして、そのイメージをクリアにするためにエントロピーという概念は有効に違いない。

余談 資本主義について

本書では、生命の原理に迫ることにとどまらず、最後は、そこから「不均一性の哲学」と呼べるものを描き出そうとしている。(それはまだ体系的なところまでは行っていないが、それを素描することが本書の本当の目的だろう)

その中で、一部、経済格差についても触れられている。

本来、放っておけば、お金はみんなに均等に分配されそうなものだが、こうしたエントロピー的な均一化する力に対して、経済を活性化しようとする力は富を不均一化し、大きな富をもつ者を少数生み出す。これは「温度」が高いことに相当する。これでわかるのは、経済が活発で好景気のときには、全員が豊かになるのではなく、貧富の格差が拡大するのである。(p.194)

こうしてみると、格差を拡大しようとする資本主義は、エントロピー増大の法則に抗い不均一性を維持しようとする生命の本性に従うものなのかもしれない。

資本主義が、どこかで循環を可能とする持続可能性を獲得するものなのか、それともがん細胞のように循環の原理を無視した一種のバグだったとなるのかは分からないが、生命とエントロピーの視点の中に位置づけられたことは一つ視点を上げられたかも知れない。自分がどう向き合うかは別にして、繁栄も破滅もおそらく地球の営みの中の一つに過ぎないのだろう。

著者の言う「不均一性の哲学」とも呼べる視点を獲得することには大きな可能性を感じるので、引き続き関心を持っていたいと思う。(エントロピー経済学に関するものも一度は読んでみよう)


一生のうちに一度は、こういうものを結晶化させたものをつくりたいけれども、そればかりは機会を待つしかないな・・・




あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人)

藤田 祐幸 (著), 槌田 敦 (著), 村上 寛人 (イラスト)
現代書館 (1985/2/1)

こちらも少し前にテンダーさんにお借りしたもの。

若い頃に読んだ同シリーズの本がうまく読めなかったことと、なんとなくエントロピーという概念の射程距離を掴みそこねていたこと(エクセルギーの本を読んで分かっていたはずなのに!)もあって、しばらく手をつけていなかったのだけど、読んでみたらまぎれもない名著だった。

昨日、大きめの本屋に行って、エントロピー関連の本を一通り開いてみたけれども、これを超える本は見当たらなかった(それでも2冊ほど購入)。
ある部分において理解の深まる本だったり、全体を俯瞰できるものはそこら中に溢れているけれども、それらの多くはボンヤリした印象を受けるにとどまり、何かしらの像を結んで心に響くところまではなかなかいかない。
これほど、思想とユーモア、過去と未来が高密度でバランスよく構成されている本には稀にしかお目にかかれないように思う。
前回まとめたようなここ数年かけてようやく見えてきた景色のほとんどが、この一冊の中に凝縮されていること、それもこの本が40年ほど前に書かれたことに驚くが、もしこの本に5年前に出会っていたとしても、ボンヤリした印象で終わっていた可能性が高いので、これも今、出会うべくして出会う本だったのかもしれない。(テンダーさんありがとうございます!)

デカルトからの卒業する時

本書の第3章で、科学の歴史的背景に少し触れられるが、これは人類のターニングポイントであり重要な部分だろう。

あまり詳しくは書けないが、デカルトは、世界を機械として捉え、物事を要素に分解して考えることでそこにある法則を見出し、還元的に世界を捉えようとしたが、この還元主義が近代科学と現代へと続く人類の発展の礎となった。

また、デカルトの二元論は資本主義の発展の基盤でもある。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。 デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

デカルトの還元主義と二元論、これが、近代科学と資本主義の発展を支え、今の私たちが豊かさと自由を享受することを可能とした、ということは間違いない。
しかし、そのことが人類を盲目的にし、現代の様々な問題を引き起こしていることもまた、事実である。

科学をある種盲目的なものに押し込めたことは、デカルトの真意ではなかったかもしれない(そうしなければ宗教的弾圧によって処刑されていたかもしれない)し、私がその恩恵に預かってきたことには違いないので、デカルトを悪者扱いしても仕方がない。
しかし、さまざまな問題が明らかになった今、人類はデカルトを卒業する時に来ている。
それは、機械論と生気論、還元論と全体論といった二項対立的な思考を統合するような視線であり、一度切り捨てた生命とその循環へと敬意を払うことであろう。

これは、怪しげな神秘主義に立ち返り、現代とは異なる盲目性に退避せよ、ということではない。そうではなく、神秘主義的あるいはアニミズム的な、理解できないもの、分解できないものにも敬意を払いつつ、全体をみつめる大きな視線を獲得し、それを人類の叡智をもって乗り越えるという明るい態度が必要だということであって、おそらくそれなくしては、地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界という今の難局を人類は乗り越えられない。

エントロピー あらゆる循環を司るもの

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。 例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。 これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

エクセルギーとエントロピーはいわば表裏一体の概念であるが、エクセルギーはどの程度拡散できるか、という資源性のことで、エントロピーはその資源性を利用した際に出されるゴミである。

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。

先程の地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界といった限界性の問題はエントロピーと循環の問題であり、この全体・循環への視線を欠いているところがデカルト的近代社会の限界なのである。

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

以前、テンダーさんがエントロピー学会の会員だということを聞いたときには正直ピンと来なかったのだけど、本書を読んでエクセルギーとエントロピーはアフォーダンスとオートポイエーシスに続く、個人的重要概念になると思えた。
(アフォーダンスとオートポイエーシスも生命と循環に深く関わる概念であり、エクセルギー・エントロピーは同じ系譜として自分の中でリンクする確信がある。)

まだぜんぜん到達できてはいないけれども、これらの概念が建築に明るさをもたせるはずだという確信は少しづつ深まりつつある。




システムから選択肢を考える B289『地球のなおし方』(デニス・メドウズ ,ドネラ・H.メドウズ ,枝廣 淳子)

デニス・メドウズ (著), ドネラ・H.メドウズ (著), 枝廣 淳子 (著)
ダイヤモンド社 (2005/7/15)

少し前にテンダーさんにお借りした本です。

地球環境に対してどのような選択をするべきか、システム思考をベースに易しく語りかけてくるような本。

システム思考

システム思考とは何か。
それをこの本を読んだだけで理解できたと言えないけれども、目の前の認識可能な事象だけではなく、全体をシステムと捉えた上でシステムの挙動を考えながら判断するべきで、その挙動に効率的に働きかけられるような行動をとるべき、という感じだろうか。

上の図で言えば、多くの人は出来事やそこに見える行動パターンをもとに判断をすることが多いが、その裏に潜む構造・システムやさらにその裏にある無意識や前提のようなものこそが変革には重要となる。

本書にある、その変革に向けたアプローチのツールは「ビジョンを描くこと」「ネットワークをつくること」「真実を語ること」「学ぶこと」「慈しむこと」の5つで一見地味な言葉ばかりだが、一番奥にあるものを変えない限りは変革は起こり得ないことを考えると、これらのことが一番力を持つのかもしれない。

前回見た市民革命などを考えても、ビジョンさえ浸透すれば希望はある、と思わせてくれる本だった。

どのような選択をするべきか

『資本主義の次に来る世界』などでもたくさん紹介されていたけれども、本書でもコンピューター・モデルを用いたシミュレーションによるシナリオが紹介されている。
本書が20年前のものであるという点も含めて参考になったので、比較しやすいようにシナリオごとに並べた上でいくつかをピックアップしてみた。
また、2005年(出版当時)、2023年(現在)、2050年(例えば2010年に生まれた子どもが40歳の年)、2080年(その子ども(孫)が40歳の年)を参考に追記している。

例えば、汚染除去や農業関連の技術が導入されるが、省資源化や人口抑制、工業生産抑制を行わなかった場合のシナリオ5では、孫が大人になる頃には環境は崩壊をはじめてしまう。
これは、1950年頃の状況に強制的に戻らざるを得ない、というだけでは済まないだろう。資源は底をつきはじめているし、それまでの経済成長を前提とした社会が急激に変化する中で、失業や食糧不足、社会不安やそれに伴う紛争など想像もできないような不安定な社会が待ち受けているかもしれない。
自分の子どもや孫がそれに直面するかもしれない、というイメージはまだ多くの人には共有されていないかもしれないが、その可能性をまず受け入れる必要がある。

このシミュレーションは、シナリオ5を回避し、シナリオ9の持続可能な社会とするためには、省資源化に加え、人口抑制と工業生産抑制の必要があることを示しているが、それは成長主義的な資本主義のシステムを変革することが必須であるということだ。

そういう選択を我々はすることができるだろうか。

このシミュレーションが20年前のものであり、シナリオの前提となる技術の進歩が不確定であり、さらに南北格差の問題や社会的変革の難しさを考えると、乗り越えるべきものは多いし、消費財やサービスが本当にこれほど必要か、という議論もあるだろう。
現在でも多くの人は「経済成長より持続可能な社会を望む」という風に考えている、というような調査結果もあるようだけれども、それを実行に移すには社会・システムに対する新しい知恵を身につけることは必須である。
とするならば、システム思考はそのヒントになるだろうか。

環境の変化を想定しておく

建築の立場として、一人の人間の立場としてできることは何があるだろうか。

一つは、望ましいシナリオへと舵を切るべく、できることを考え実行するしかない。

しかし、程度の差は別にして最善のシナリオを進まなかった、という可能性も考えておかざるを得ないだろう。
(それほど遠くない)将来、今当たり前に考えている生活が急激に崩れていくことはこれらのシナリオからも十分に想定されるが、その時になって対応しようとしてもかなり厳しいように思う。
今のうちから、環境の変化に対応可能な生活へと少しづつスタイルを変化させていく、ということも必要ではないだろうか。(その事自体がシステムの改善にもつながるだろう。また、著者の枝廣氏はその後、レジリエンスや地域経済に関する本を書いているようだけども、それが著者の一つの答えなのかは興味がある。)

建築は何十年も残るものであることを考えると、将来的な変化への想像力を持って仕事に取り組むことは職業倫理として必要に思うし、建築という仕事そのものが経済状況に大きく影響されるものであるため、ビジネスのあり方も考えないといけないかもしれない。(二拠点居住や来年からやってみようと思っている稲作(自己消費用)はそのための想像力を少しでも引き寄せるための経験だと思っている。)

課題

学ぶべき課題は何か。
今回頭に浮かんだのは、
・システム思考とは何かをもう少し詳しく。
・資本主義経済の本質は何か。成長せねばならないという前提がどこから来ているか。
・レジリエンスを高めるにはどうすればいいか。(個人経済や地域経済のスケールで考える?)
・建築そのものとビジネスをどう変化させる必要があるか。
などである。
うーん、田舎生活も分からないことばかりだし、やることが増えていくばっかりだ・・・




環境とは何かを問い続ける B286『環境建築私論 近代建築の先へ』(小泉雅生)

小泉雅生 (著)
建築技術 (2021/4/16)

以前読んだ本の中で気になる言葉に著者のものが多かったので読んでみた。

内部構造から外部環境へ

著者は、現代主流になりつつある環境建築の多くが、建築という箱をどうつくるかという外部と分断した内部の論理・近代的思考に囚われたままであること、また、実証のための理論であった環境工学が目的にすり替わってしまっていることに警笛を鳴らしつつ、〇〇から〇〇へというように発想の転換をはかるような思考を試みている。

それは、本書の目次によく表れている。

01 プロローグ
02 内部構造から外部環境へ
03 精密機械からルーズソックスへ―機能主義とフィット感
04 ハイエネルギーからローエネルギーへ―均質空間とローカリティ
05 シャープエッジから滲んだ境界へ―サステナビリティと耐久性
06 メガからコンパクトへ
07 パッシブからレスポンシブへ
08 隔離・断絶からオーバーレイへ
09 細分化からインテグレーションへ
10 ウイルスからワクチンへ
11 エピローグ

これらは、エピローグで「矛盾に満ちた、建築家の私論として、理解いただければと思う。」と書いているように、建築家に内在する矛盾に対する抵抗の記録と読める。

この抵抗は、私がここ2年ほど考えようとしてきたことの動機とも重なりおおいに共感するところではあるが、その矛盾とは何だったのだろうか。

環境とは何か

それは、環境とは何か、という問いに集約されるように思う。

環境あるいは環境工学について、『最新建築環境工学』の最初にこうある。

環境とは、人間または生物個体を取り巻き、相互作用を及ぼしあう、すべての外界を意味するもので、大きく自然環境と社会環境に分けられる。われわれがここで取り扱うのは、主として前者の自然環境と人間の関係である。(p.13)

この快適な室内環境を最小のエネルギー利用で達成するのが、環境工学の重要な使命である。ただ、それは建築全体からみれば、あくまでも結果であって目的ではないことを忘れてはならない。(p.18)

ここではっきりと書かれているように、環境工学の扱う分野は建築の部分に過ぎない。
しかし、それが目的化・矮小化されてしまっているところが建築家の内に矛盾を生んでしまっている。
建築家もしくは設計者には、環境という言葉を狭い意味から開放し、総合化-インテグレートする役割があるはずだが、ややもすると「建築家はすぐに言い訳をして、環境問題から目を逸らし続けている」と言われかねないし、この矛盾の解消は簡単ではなくなってきている。

だからこそ、建築家は自らの信念を見つめ、環境に対する新しいイメージと可能性、実現のための技術を磨きながら、環境とは何かを問い続けなければいけないのだろう。
その点で、本書はやはり一人の建築家による抵抗の記録である。

私もようやく、その抵抗の糸口が掴めてきたような気がするが、実践に関してはこれからだ。楽しんでやっていけたらと思う。




ムシについて B285『昆虫の惑星 虫たちは今日も地球を回す』(アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン)

アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン (著)
辰巳出版 (2022/3/30)

初心に帰る旅のついでに。

何度か書いた気がするけど、子供の頃はいわゆるムシキチでいろいろ捕まえては家で飼っていて、その中でも特に水棲昆虫が好きだった。
田んぼでゲンゴロウやミズスマシ、マツオムシ、ミズカマキリやタイコウチなどを捕まえてきて水槽で飼うのだけれども、そこに一つの世界が現れているようでゾクゾクした。(この小さな世界を好む性格は今の仕事にも繋がっていると思う)
水槽に産卵用のレンガを据えて、そこからタイコウチの幼虫がわらわらと泳ぎだしたときの興奮は今でもよく覚えている。

それが、高校以来、蚊や蟻、蝶などのよく見かけるものを除けば昆虫の気配をほとんど感じることなく過ごすようになった。
大人になってからは子供を連れて水場などによく行っていたけれども、鹿児島でタイコウチやミズカマキリを見かけたことはない。

そして最近、ひょんなことから事務所の近くで田んぼをすることになった。
全く想像もつかない世界で分からないことだらけなのでやってみよう、というくらいで、特に理由はない。
あえていうなら、そこの風景が好きなので田んぼのある風景を引き継ぎたい、という気持ちがあったかもしれない。更に言えば、昆虫のいる田んぼを子供にも見せてあげたい、という気持ちもあっただろう。
とはいえ、隣接する田んぼのことを考えると農薬をどうするか、という葛藤もある。(昔、北の国からで農薬の利用問題が発端となって岩城滉一が死んだシーンが頭に残っている)
米作りに関しては右も左も分からず機械も持っていないため、近所の人に協力してもらいながら、まずは周りと同じやり方をやってみようと思う。そして、ある程度勝手が分かってきて近所の人の理解が得られそうであれば、昆虫を呼び戻せるようなこともやってみたい。(果たして戻ってきてくれるのかは分からないが・・・)

さて、本書は、22カ国以上で出版されているようだ。
予想よりたくさんのエピソードが載っていて、とてもおもしろく読めた。
当然のごとく、終盤は昆虫の置かれている状況が語られるが、昆虫に触れ合う機会の少ない人達にどのくらい届くだろうか。(今ではムシキチ(昆虫少年)も絶滅危惧種なのかもしれない。)

昆虫学の大家、エドワード・O・ウィルソンの有名な言葉がある。

「人間は無脊椎動物を必要とするが、向こうは人間を必要としない。人間がもし明日消滅したとしても、地球はほぼ変わりなく回りつづけるだろう……だが無脊椎動物がいなくなってしまったら、人間は数ヶ月生きのびるのが精いっぱいのはずだ」(p.236)

私自身このことに対する感性がかなり劣化している。


左の5冊は自分が子供の頃から持っているもので写真昆虫記がお気に入り。一番右は息子用に買ったもの。

『里山・雑木林の昆虫図鑑』は図鑑だけれども、写真に勢いが合って子供の頃の虫好きな感覚を刺激してくれる。

今井 初太郎 (著)
メイツ出版 (2018/4/20)

『ビジュアル 世界一の昆虫 コンパクト版』は興味本位で買ったものでこちらも勢いがある。(テキストは翻訳に工夫が欲しかった部分が若干あった。)

リチャード・ジョーンズ (著), 伊藤 研 (監修)
日経ナショナル ジオグラフィック (2020/4/9)

追伸)下記の記事を読み返したらほとんど同じこと書いてました・・・
オノケン│太田則宏建築事務所 » 戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)




スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他)

脇坂圭一 中川純 谷口景一朗 盧炫佑 小泉雅生 冨樫英介 重村珠穂 秋元孝之 川島範久 清野新(著)
建築技術; B5版 (2022/5/25)

前回同様、昨年春に出版された建築環境本の一つ。

「静岡建築茶会2018│建築環境デザインを科学する!」として開催されたシンポジウムの登壇者による講演内容と対談および作品を紹介したもので、環境シミュレーションにまつわる思想的な背景や具体例を知るのにバランスのとれた良書。

「快適」性に対するスタンスをどうするか

環境について考える際に、快適性をどのように捉えるか、というのは根本的な問題で、どういうものをつくるのかを大きく左右する。
冨樫氏は「快適」の2文字のうち、「適」は温熱環境が一定の範囲に収まっていることを言い、それに対して「快」は不適な状態から適な状態へ移行する際のギャップから生まれるものだという。いわば静と動である。
また、中川氏は「快適」とは「快」い状態に「適」する行動を伴った概念とし、微細な環境の差異から導かれた「動的な熱的快適性」を考える必要がある。という。

「快」は意匠分野が好む傾向があり、「適」は環境分野が好む傾向があるようだが、おそらくそれのどちらが正解という話ではないだろう。
基本性能としての「適」はもちろん重要だが、人間のふるまいや感情というファクターを考えると動的な「快」にも役割があるはずだ。(例えば自然の風の心地よさに1/fゆらぎが隠れているように、適と快の揺らぎがあるようなイメージ。それらの揺らぎを含めて快適となるのではないだろうか。)


上図は中川氏が紹介していた建築における美学と技術の2つを楕円の焦点にあてはめた楕円モデルであるが、楕円状の点Pである建築と2つの焦点との距離はどちらもゼロになることはない。そして、総合という視点において美学や技術に対する偏愛が必要だという。
このことは、先の「適」と「快」にも当てはまるように思うが、楕円のどこに建築を置くかというスタンスがその後の方向性を決めるし、「最適化」というものはこのスタンスの表明でしかないように思われる。

また、ここにおいて、シミュレーションの役割は絶対値の提供にあるわけではないだろう。
結果はどのようなモデルを設定しどのようなパラメーターを扱うかで大きく変わるし、モデル化そのものに先のスタンスや思想が表れる。
重要なのは、相対的な比較によって方向性を定めることだと思うし、そのためにはモデル化の手法、結果から読み取る目、そしてそれを活かすための反射神経が重要である。
自ら環境と関わる意志と経験値が必要だし、環境工学的な基礎を学ぶことによって見えてくるものも変わってくる。また、今はまだ理解していないがコミッショニングという分野も人と環境との関わりを考える上で様々な学びがありそうだ。

スケール横断的な想像力を獲得する

では、自分はどのようなスタンスをとるか。

それはこれまで考えてきた大きなテーマであるが、ここで川島氏の一文を引いてみたい。

このコミッショニングの目的はこれまで主に「省エネルギー」でしたが、「自然とのエコロジカルな関係性」をデザインすることにも活用できる。むしろ、そのような目的にこそ活用されるべき、と東日本大震災以降、特に考えるようになりました。(中略)だからこそ、地球との繋がりを実感できる建築が求められるのではないか。太陽をはじめとする自然の変化を美しく感じることができること。その歓びを通して、身の回りと惑星規模のスケールを横断する想像力を獲得し、自らの価値観やふるまいを見直しつづけていくことができるような建築が求められているのではないか。(p.68)

これまで何度か書いたように、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題なのだと思うし、シミュレーションはそれを補佐する役割があるといえる。
「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(もちろん、先の楕円モデルを前提として。)

『カタルタ』の開発者である福元氏は高校時代からの友人なのだが、彼によると、若い頃私はよく「地球上のあらゆる問題は想像力の問題だ」と言っていたらしい。

その発言はあまり覚えていないけれども、確かに、私は建築を想像力の問題として捉えることからスタートしている。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。 「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 私と空間と想像力)

「私のいる空間が私である」というのは好きな言葉の一つなのだが、この言葉は子供時代を過ごした奈良や屋久島での記憶へとつながっている。
その言葉と現代社会とのギャップから、建築を想像力の問題と考えるようになったように思うが、ここにきてまたこの言葉に戻ってきた。

環境やエコロジーという言葉に対していかなる思想や言葉を持つことが可能か。
ここ数年は、このテーマのもと読書を続けてきたけれども、ようやく抱いていた違和感を解消しつつ自分の言葉へと消化できそうな気がしてきた。

関係する読書は続けるとしても、集中的に読むのはここで一区切りとし、また次のテーマに取り組みたいと思う。




答えをあらかじめ用意しない B282『開放系の建築環境デザイン: 自然を受け入れる設計手法』(末光弘和+末光陽子/SUEP.)

末光弘和+末光陽子/SUEP. (著), 九州大学大学院末光研究室 (著)
学芸出版社 (2022/6/10)

昨年、春頃に『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』、『光・熱・気流環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』、そして本書及び『SUEP. 10 Stories of Architecture on Earth』と立て続けに環境系の本が出版されたのでまとめて購入していたもののうちの一つ。

開放系モデルの意義

現在の多くの建築環境は、高気密・高断熱と機械制御による空間が主流となっており、これは、建物を外界から遮断することで、室内環境を整え、発電所でつくられたエネルギーをいかに使わずに暮らすのかという思想に基づいている。これを仮に閉鎖系モデルと名付けてみる。地球温暖化防止のため、高い環境性能が求められる時代において、寒冷地を中心にこの閉鎖系モデルの有効性を疑う余地はないが、生活や住文化を重要視してきた建築家として、性能の追求が数値ゲームとなっていることに対する懸念や、何かが欠落している違和感を持っている人は少なくないだろう。そして、世界は広く、画一的な考え方でものを見ることのに対して疑問も浮かんでくる。(中略)ここで問題提起したいのは、果たしてこの閉鎖系モデルだけで本当に地球環境の問題は解決できるのだろうか、ということである。この問題に対して示唆的なのが、南日本や東南アジアの国々で古くから存在する通風や日射遮蔽を重視した建築である。それらは外部に開き、自然エネルギーを受け入れることで以下に豊かに暮らすかという思想に基づいている。これを開放系モデルと名付けてみる。(p.2)

これは、「はじめに」の一文であるが、大きく共感する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 風を考える上での2つの言葉 B279『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三))

何度も書くように、閉鎖系モデルの技術そのものを否定するものではない。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまうことで、結果的に思考停止に陥り、分断の思考形式を温存することになってしまうことには問題があるように思われる。

結果的に閉鎖系モデルに行き着くとしても、一旦はそういう思考形式を離れて開放の可能性を考えてみる。そうすると、最近の私がそうであったようにいやがおうにも自己と環境との関係性を考えざるを得なくなる。「良さ発見型の技術」はそのことをよく表している言葉であった。(そして、この言葉は北海道で生まれている)

答えをあらかじめ用意しない

本書各章のタイトルを列記すると以下の通り。

  • 01 半屋外をデザインする
  • 02 太陽エネルギーを取り込む
  • 03 地中のエネルギーを利用する
  • 04 風を受け入れる
  • 05 自然光を取り込む
  • 06 半地下をデザインする
  • 07 樹木と共存する
  • 08 生態系をネットワークする
  • 09 都市を冷やす
  • 10 水の循環と接続する
  • 11 森林資源循環をデザインする
  • 12 エネルギーをつくる

私とほぼ同世代でこれだけの質と量の実践をされていることに驚愕するが、何がこれほど幅広い実践を可能としているのだろうか。

これは推測に過ぎないけれども、その鍵は答えをあらかじめ用意しないことにあるのではないだろうか。

外部環境も規模や用途もクライアントの意向も異なる中で、模範的な答えをあらかじめ決めてしまわないことで多様な解が現れる。
それこそが建築設計の醍醐味でもある。
それは、ある意味では設計者の自己満足かもしれないが、それでも、多様な解が現れることそのものに、人間もしくは生物に必要なより広い意味での開放性が潜んでいるように思う。

本書の中の対談で

半屋外空間について、早稲田大学の研究があり、それは駅やアトリウムなどあまり空調されていない空間でなぜ人間はそこまで不満に思わないかという研究なのですが(中略)僕はそれを読んで、「自然の中に近い」という感覚を持つと、人間の許容度は大きくなるというふうに解釈しました。(小堀哲夫)(p.74)

というのがあった。(論文はこれとかこれあたりかと。テンダーさんも以前にたような推測をされてた。)

数値ゲームも重要だけども、それだけに囚われないことによってたどり着くことのできる解は無数に存在するはずであるし、そのための方法を追求してみたい。




循環のイメージを高めたい B281『活かして究める 雨の建築道』(日本建築学会編)

日本建築学会 (編集)
技報堂出版 (2011/7/6)

エクセルギーハウスをつくろう』の著者がHPで紹介していたので購入。

この前にシリーズとして『雨の建築学(2000年)』『雨の建築術(2005年)』があるが、とりあえず新しいものを選んでみた。

感想としては、総覧的な意味合いが強く少し詰め込み過ぎている感じがした。多数の執筆陣による共著によるせいかもしれないが焦点が定まらない印象を受けた。(個人的に買った本では共著はあまり響かない本であることが多い気がする。)
もっと具体的な内容を知るには『雨水活用建築ガイドライン―日本建築学会環境基準』を買うべきかも知れないが迷うところである。

ここ数冊の読書から、月並みではあるけれども循環のイメージが環境を考える上でも、建築にはたらきの要素を加える意味でも重要な気がしている。

しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B275『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

その中で、水の循環は地球の、もしくは生命の循環を考える上で特別な意味を持っている。
あわよくば、その水の循環のイメージをより洗練させられればと思ったのだけれども、間違いなく本書の中心問題でありつつ若干物足りなく感じた。(もしかしたら『雨の建築学』もしくは『雨の建築術』の方が目的には適っていたのかもしれない。)

水の循環に関しては、『エクセルギーと環境の理論』『エクセルギーハウスをつくろう』『「大地の再生」実践マニュアル』『よくわかる土中環境』で多少はイメージが掴めてきた。

環境を考える際、都市部におけるとっかかりは地方に比べてかなり限定的になってしまうと思うのだけど、その際、水の循環と小さな生態系を考えることが重要なとっかかりになりそうな気がしている。

外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。 そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン))

雨水だけをみていては大切なものを取りこぼしてしまうのかもしれないな。




水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳)

矢野 智徳 (著), 大内 正伸 (著), 大地の再生技術研究所 (編集)
農山漁村文化協会 (2023/1/18)

『よくわかる土中環境 イラスト&写真でやさしく解説』と合わせて読了。

高田宏臣 (著)
PARCO出版 (2022/8/1)

確か、小学校の中学年くらいの頃だったと思う。
屋久島に移住する前は奈良の田んぼが広がる田舎に住んでいて、山や川、田んぼや空き地が主な遊び場だったのだけど、ある時、ザリガニやいろんな生き物が住んでいた石積みの用水路があっという間にU字溝に置き換えられた。
当然、そこにいた生き物の姿はなくなり、遊び場の一つが失われ、その時そういう決断を下した大人たちをたいそう恨んだことを鮮明に覚えている。

またちょうど一年前、二拠点生活と称して日置市の山間で仕事を始めた。
職場であれば町内会には入らなくても良いと言われたけれども、ここの風景が気に入って入ってきたのでフリーライドはしたくなかったのと、何よりこの地での経験をすることが二拠点居住の目的だったので町内会に入ることにした。
定期的に道際や川の草刈りなど手入れがあるけれども、昔であれば、「どうせまた生えてくるのに草刈りに何の意味があるのだろう。むしろ自然のままに任せるという考えもあるのでは。」と思ったかもしれない。今は、そこに経験的に培われてきた知恵があるはずだと考えている。

そこでこの2冊を読んでみたのだけれども、いままでまるで見えていなかったものが見えてくる、風景の意味ががらっと変わってしまうような体験だった。

どちらも、同じような問題意識のもと書かれていて共通点はかなり多い。
あえて違いを書くと、大地の再生の方は、より実践的な内容で、自然環境が水と空気の循環によって保たれていることに加え、風の流れ(それが土中の水と空気の流れともつながっている)に重きを置いている。
土中環境は、実践より理屈を分かりやすく伝えることに重きを置いているようで、菌糸の働きへの言及も多い。

読後に日置の集落の風景を見てみると、ここでさえ、昔の知恵を置き去りにしてしまったことがたくさんありそうだし、集落の奉仕作業からも忘れられてしまった理屈がいくつもあるだろう。このままでは、人が減るに連れ知恵や技術の喪失がさらに加速度的に進むのは避けられそうにないし、都市部においては言うまでもない。
(と言っても、何度も書くように初心者の私には集落の先輩たちは先生である。)

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう)

この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。

「土中環境」では特に自然災害に対する現在の土木技術の矛盾が浮き彫りになっているが、アカデミズムの世界ではどう扱われているのだろう。
ここで書かれているような原理が大学などで研究され、技術の置き換えが起こるような大きな流れが生まれて然るべきだと思うけれども、現状はどうなのだろうか。

それは当然建築においても言えるが、田舎はさておき都市部で何ができるのか、というイメージを育てるにはもう少し経験と実感が必要だ。

今朝、雨が降る前に、少しだけ庭の手入れをしてみた。
風の流れや空気感が少し変わった。
自分がほんの少し、この地に馴染めた気がして、気持ちが良い。