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生きることとリズム B311『センスの哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
文藝春秋 (2024/4/5)

あの人はセンスが良いとか悪いとか言う場合のセンスとは何か。

著者は、多くの人が囚われていたり、なんとなくしか捉えられていない引っかかりをすくい上げ、分かりやすく提示することで、何かからほんの少し自由にしてくれるように感じている。
今回は、センスという言葉を通じてそれをやってくれていると感じた。

センスと価値

センスとは、ものごとをリズムとして捉えることだという。

ではなぜ、うまくリズムを捉えられたり、リズムを生み出せることが、センスが良い、すなわち価値がある、とされるのだろうか。芸術におけるリズムはなぜこれほど価値を認められているのか。

それは、リズムが生きていることと、そのまま重なるからだろう。

著者は、リズム化することを、予測誤差を丸め込み、世界がどうなるかわからないという不確定性を手懐けるものだという。
生物は、安定状態を求め、ストレス・刺激があるとそこから戻ろうとするが、世界は刺激に溢れている。
そんな中で、自らの主体としての足場を確保し、生き続けるためには、刺激もしくは予測誤差に耐えられるようになることが必須であり、意識的であろうと、無意識であろうと、リズム化はそのための基本スキルだと言える。

人間もしくは生物が、世界を反復と差異のリズムとして捉え、つきあっていくことは、私が想像するよりはるかに重要なことであり、生きることと直結するような問題なのだろう。そして、それゆえに、そこに何かしら価値を感じてしまうのではないか。私はそんな風に理解した。

そのリズムはいわば世界そのものであり、一筋縄ではいかない。
安定していれば良い、というものではなく、そこからの逸脱がなければ不足を感じてしまうし、そのような反復と差異のリズムですら、人は自らの主体性を確立するために壊さざるを得ないことがある。
自分の中のどうしようもなさといった、自身に内在するリズムと世界のリズムとのすり合わせ・葛藤にも絶えずさらされている。
リズムが生成変化であるならば、生物がエントロピーの増大に抗うために流れ続けなければいけない宿命を引き受けたように、リズムは絶えず変化しなければいけない、という宿命を持つ、すなわち一筋縄ではいかないことこそがリズムの本質なのではないか。むしろ、この生命としての変化の宿命が、リズムを必要としたのかもしれない。

このリズム化のスキルや、そこに価値のようなものを感じてしまうというセンスは、もともとは生存戦略によるネガティブなものだったかもしれない。しかし、人間に内在化されたそれは、(それがネガティブなものの裏返しだとしても)いまや楽しさや価値として存在している。それならば、それとよりよく付き合っていける方が良いように思うし、そのための取っ掛かりを本書は与えてくれる。

建築とセンス

本書はセンス=リズムを感じる側と制作する側、双方に向けて書かれているけれども、当然建築の設計とも関係があるだろう。

形態を音楽的なリズムで捉えようとする理論はもちろん昔からあったし、反復と差異のようなこともテーマとしてある。

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

上記投稿では、内在化と逸脱を主題としたけれども、これは本書の反復と差異と重なる。
その根本に近づけた、という点で読んだ価値があった。

しかし、より頭に浮かんだのは、モートンの自然に対するスタンスとリズムについてである。

自然とリズム

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数性のエコロジー』p.44)

前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは『自然なきエコロジー』ということで、自然を自然と呼ぶことで、自然に対する距離を固定化してしまう=自然との間の遠い/近いを平坦にし、リズムを消し去ってしまうことを警告している。

本書では、物質は、作用・反作用が物理法則に従い即時に起こるものであり、それに対して生物(特に人間)は動きに予測誤差と遅延があり、作用・反作用のカップリングがゆるんだもの、と捉えている。つまり、自然の中にはうねりとビートのリズムが豊富にある、ということだが、それゆえに、人間はそのリズムを消し去ろうとするようにも思える。
しかし、モートンが言うように人間性の条件がリズムにあるとするならば、また、本書が描いているようにリズムが生きていることと重なるものであるならば、自然のリズムをどう扱うかは重要なテーマとなりうるのではないだろうか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。 このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。 ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。 アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

この時見たように、自己と環境との関わり合いがリズムとして捉えようとする見方は、インゴルドのメッシュワークの中の一本の線としての自己のあり方としてもイメージできる。

さて、私は何が言いたいか。

実は私自身が、それを知りたいと思っているのだけれども、二拠点生活の中での思考や実践を通じて、環境との関わりのイメージをクリアにしていこうとする中で、リズムに対する実感を掴むことが必要なのでは、という予感がある。

またしても、予感である。

こればかりは、予感が実感に変わる瞬間を待つしかないようにも思うけれども、生命の躍動感を建築に与えるというテーマには外せない実感かもしれない。

建築におけるリズムはこれまで、多くは建築の形態のリズムが主役でしかなかったように思う。
しかし、それだけでは不十分で、自然のリズムと自らのリズム、さらには建築のリズムがうまく共鳴した時に、初めて建築のリズムがいきいきとしだすのではないだろうか。

またしても、そんな予感だけがある。

追記:
今、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読み始めたのだけど、本書との関連が深そうな気がする。
なぜ、人間はリズムを必要とするのか、ということに対して、暇と退屈という視点からより近づけそるのではないか。
それに関しては次回。




我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣)

竹田 青嗣 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/5/25)

この本は昨年の5月にいろいろな哲学者に関する本を読もうと思いたち、まとめて購入した本の一冊であるが、まだヘーゲル自体に関しての興味が湧いていなかったため積読になっていたものである。

しばらくは手を付けることはないだろうと思っていたけれども、急遽、資本主義をテーマにすることにしたため手に取ってみた。その結果、本書はまさしく今読むべきものだったと思う。

我々は希望の物語を描くことができるか

われわれはいまや、現在ある資本主義を、”持続可能かつ正当化されうる”資本主義にかえられるか、それともそれを放置するほかないのか、という選択肢の前に立たされているのだ。
そして、この課題に応えるためには、現代のさまざまな批判的思想ではなく、まず近代哲学に立ち戻らねばならないとわたしは考える。なぜか。近代哲学が「近代社会」の理念的本質を形成したからであり、さらに、現代の批判的思想がその本質を捉えそこねているからである。資本主義は近代社会の本質から現れたものであり、資本主義を捉えるには、まず近代社会の本質を把握しなくてはならないのだ。(p.11)

著者の本は明晰で分かりやすいことに定評があるようだ。
読んでみると、まさにその通りで、哲学者の言説の中から重要な原理を取り出しあるストーリーのもとに並べて見せる手腕は見事であり、哲学とはこういうものかと唸らされた。
それがあまりに明晰であるため、逆に捨てるものが多すぎるのではないかと危険性さえ感じながら読んだのだが、それでもなお(だからこそ)一読すべき本だと思う。

はじめに断っておくが、本書は近代社会の権力や資本主義の存在を否定するものではない。それどころか、権力や資本主義を廃絶することの「不可能性」を示すことを使命として書かれたものである。

こう書くと、資本主義を肯定するための言い訳のようなものだと思われるかも知れないが、資本主義の暴力性を肯定するものでもない。そうではなく、近代社会と資本主義が必要とされる原理を哲学的に描き切ることで、その廃絶の不可能性を示しつつ、それでもなお希望の物語を描くことが可能か、そのための原理はどこにあるかを明確にしようとするものである。

私は、ここ数年での環境に対する考察などを通じて、資本主義の持つ限界性は否定されようがないと感じていた。
だからこそ、近代社会や資本主義の暴力性と限界性が明確になりつつある現代においてそれでもなお資本主義を続けざるを得ない理由は何なのか、ということが知りたかったし、資本主義をテーマにしようとした動機の大部分はここにある。

それに対して、本書は多くの視点を与えてくれた。
途中、いくつかの疑問も浮かびながら読み続けていたけれども、著者が同じ問題意識のうちにあることが理解できたし、ここで描かれた一本の筋を一度飲み込んでみることは意義があると思えた。

まずは、備忘録的な意味で自分なりにまとめた上で、感じたことを書いておきたい。
(ただ、最初に書いたように、本書自体がかなり凝縮された内容なので要約の劣化版要約のようなものになると思う。まとめ部分はあくまで備忘録として捉えて欲しい。内容に関しては大変読みやすい本なので一読を強くお勧めする。)

哲学と原理

しかし一方で、むしろこの深い絶望が新しい可能性をもたらしたのだ。カントの「原理」は人々に「真の信仰」を見出そうとする欲望を断念させ、そのことが、「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道を初めて押し開くことになったからである。(p.31)

問題の中にある「原理」を重視すること。これが本書における著者のスタンスであり、これが明快な一本の筋を生み出している。
この徹底に対して他の哲学者からの批判があることが想像できるが、本書を読む上で重要な部分である。

多数の人が参加する「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」があるとする。
宗教のテーブルは何らかの「真理」を探し求める言語ゲームであり、哲学は「普遍性」「原理」を探し求める言語ゲームである。
ここで、「真理」と「原理」の違いは何か。
「真理」は絶対的な(とされる)ものであるが、これが確かなものだと証明することのできない「答えのない問い」である。それ故に異なる「真理」の間の争いを調停するすべを持たない。
一方、「原理」は真理が答えのない問いであることを認めた上で探し求められた、誰もが認めざるを得ない共通了解である。(共通了解であるから後で変化する可能性は消しされない)

「真理」が答えのない問いであるという「原理」を明確にしたのがカントであるが、先の引用文のように、このことが人々を”「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道”を切り開いた。つまり、真理の探求としての宗教的テーブルに座ることしかできず、一定の自由の範囲から抜け出せなかった社会から開放される可能性が開かれた。
(本書ではこのことを、人類の長年の夢であった錬金術の可能性を、元素に関する「原理」が終焉させ、そのことが科学的な新しい可能性へと向かわせたことと重ねて例えている。これは後で書くように本書の意義とも重ねられている。)

つまり、「社会」の問題を個人の内面の問題から、複数の人間の構造の問題として現実的に扱えるものへと変えたのが「原理」と言えるし、このことの探求が近代社会の出現を可能とした
自然科学が原理の探求を通じて自然を解明してきたように、社会構造を解明するための原理を探求することが哲学の一つの役割・方法である、というところから出発するのが本書の特徴であるだろう。

近代社会の原理

しかし、私の考えでは、「財の蓄積」は、人類にとってむしろ決定的な不幸と悲劇の開始点となった。まさしくここから人間同士の普遍闘争状態がはじまったからである。(p.40)

人類の歴史を振り返ってみると、そのほとんどが闘争の歴史で塗りつぶされている。
私はそれが昔から不思議でならなかった。人間の本性はそれほど変わるはずがないだろうに、過去の人達は本当にそれほど愚かだったのだろうか。
戦後の一応平和な日本に暮らしている自分としては、それを人間の内面の愚かさに求めるようなイメージしか持てなかったが、本当の原因はどこにあるのか。

これに対して前もって書くと、人類の歴史上、近代社会と資本主義こそが社会から暴力を排除し、かつ人々に自由を与える可能性を持つ唯一の原理によるものであり、財の蓄積が可能になってから近代社会の実現までは自由の獲得と暴力の排除を同時に満たせる原理を人類は持っていなかった、というのが本書の主張である。(近代社会の実現以降も戦争の歴史ではないか、という指摘もあるが、それは”一旦”置いておく)

その近代社会を成立させる原理を確立したとして本書が取り上げるのがホッブス、ルソー、ヘーゲルである。

・ホッブス 普遍闘争原理
「財の蓄積」以降、人間社会は、強力な統治権力を欠けば必ず普遍的な暴力状態に陥るというのが最初の原理である(『リヴァイアサン』「万人の万人に対する戦争」)。これを著者は「普遍闘争原理」と呼ぶ。
まず、人あるいは共同体は、自分の生命と財産を維持するために暴力を使って身を守る権利がある(自然権)。
動物は体力などの自然の決めた差異によって自然と秩序が生まれるが、人間共同体はその知恵によって絶えずその差異をひっくり返す可能性をもつため、相互不信を増大させ、必ず弱肉強食の戦争状態に置かれざるを得ない(自然状態)。生命の危険のない状態が確定していれば別かもしれないが、生命の危機にあるような貧しさの中では、生き延びる道が略奪や侵略以外になくなる。そこで、そのような事態が何度か起こると、その可能性に対しあらゆる共同体が強力な戦争共同体を目指さざるを得なくなり、潜在的な戦争状態に突入する(不信の構造)。
そのような中、戦争状態を抑止する原理は、各人が自然権を放棄し、全員が従うべき強力な超越権力を作り出してそこに委ねる以外には存在しない(自然法)、と説いたのがホッブスである。

しかし、実際には相互不信がある状態ではどの勢力も自ら自然権を放棄することができないため、結局のところ、より強い勢力が弱い勢力を制圧していく以外には普遍闘争を抑制する原理がなかった覇権の原理)。歴史の天下統一のストーリーは、彼らが野蛮だったからではなく、人類がそれ以外に戦争状態を終わらせる原理を持たなかったという構造的な理由によるものだと言える。

ここから言えるのは、「国家」の第一の機能は支配ではなく「暴力の縮減」だということであり、それが国家の存在理由である。

では、人類は覇権の原理、つまり強者が弱者を制圧していく以外に普遍闘争状態を終わらせることはできないのだろうか。
これに対して、ホッブスは人々がある合議体に自発的に服従することに同意するという「設立された」統治権力の可能性を示唆しているが、これをより哲学的に展開したのがルソーである

・ルソー 一般意志契約
ひとまずは「覇権の原理」によって普遍闘争状態を終わらせられたとしても、その先には決定的な問題が残る。つまり、その結果として”専制支配体制”に行き着き、そこでは支配者以外の人間の「自由」は存在しない、という問題である。(ここから先は「自由」が重要なキーワードになる。)

それに対してルソーが示した「原理」は下記のようなものである。

普遍的闘争状態を制御し、しかもその上で各人の「自由」を確保する「原理」が、一つだけある。戦いが「覇権王」を作り出す前に、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上でその権限を集めて「人民主権」に基づく統治権力を創出すること、これである(わたしはこれを「一般意志契約」と呼びたい)。これ以外には、普遍暴力を制御しつつ各人の「自由」を確保する原理は、一つもない。(p.51)

しかし、ここで頭に浮かぶのは先の「不信の構造」である。これがあるために覇権の原理に進まざるを得なかったのであるが、この不信を乗り越える原理とはどのようなものだろうか(歴史的には専制支配体制が先にあったのだろうが、原理を更新するための疑問として)。それに対する明確な記述は本書にはなさそうだが、思うに、不信に対する心理と、「自由」の確保可能性に対する心理の天秤のようなものだろうか。専制支配体制の不自由さを目にしながら、自由の可能性が目の前にあるとすれば、不信を乗り越えそこに賭ける原動力になったのは分かる気がする。また、その原理の根が信頼にあるところに「一般意志」の重要性があるだろうし、「自由」に対する信頼が揺らげばこのような社会に批判的になるのも当然であろう。

ここで、本書にある重要な指摘は、「社会契約説」の捉え方に含まれる理想と原理の違いである。
つまり、ルソーが示したのは、近代社会は誰もが自由で対等であるべきという理想ではなく、誰もが自由であるために必要な原理である、ということである。これは本書を貫通する主張であるが、この捉え方の違いが転倒したルソー批判の原因であるという指摘は頭に入れておく必要がある。

ところで、「一般意志」とは何だろうか。これは「自らの自由を獲得するために、自然権を統治権力に委ね、代わりに、成員すべての「自由」を認め合うことに同意するという意志」と捉えると理解しやすいように思う。この意志が尊重されなければ市民社会の存続もできないだろう。また、そうである以上、政府は必ず「一般意志」を代表するものであらねばならないし、この限りにおいて政府は正しいと言える。(一般意志に関しては東浩紀の『訂正可能性の哲学』を通じて後日改めて考えてみたい)

ここで、社会には政府が一般意志を代表するのを阻害する大きな要因があるという。それは、統治権力の下部にも諸団体が存在し、それぞれの団体の一般意志が社会全体の中での「特殊意志」となって対立することである。ここでもそれぞれの特殊意志は上位の一般意志に従う、すなわち団体間の相互自由を認め合う必要がある。これが数による覇権ゲームに陥らず一般意志契約の原理を維持するにはどうすればよいだろうか。

・ヘーゲル 自由の相互承認
ヘーゲルはホッブスとルソーの社会原理を包括しながら展開させたが、その核心は次のようなものだ。

①伝統社会から近代社会へという歴史の推移は、民衆の「自由」への欲望という根本原因によって展開してゆく。
②それは、「自由」の相互承認の社会的表現である「法・権利」の展開として進み、ついに自覚的な「自由の相互承認」を基礎とする「市民社会」にまでいたる。
③しかし、市民社会は、必然的に、放埒な自由の欲望競争ゲーム(「放埒な欲求の体系」)となる。市民社会は、この矛盾を克服する原理をそれ自体としてはもたず、もし放置するならあらゆる社会生活の基盤である社会的倫理の分裂と崩壊にゆきつく。
④ここに市民社会の本質的矛盾がある。しかし、自由な欲望ゲームを廃棄し、もとの自然な社会にもどることでこの矛盾を克服することはできない。それは「自由」そのものを不可能にするからである。この問題の解決は市民社会の欲望のゲームをつねに「人倫」の原理によって調停する以外にない。そしてこの役割を果たすのが「人倫国家」である(世俗的市民社会ではなく、理性国家)。(p.119)

ここで、ルソーとヘーゲルの違いは何だろうか。
本書によるとルソーの市民国家の自由は絶対自由の一般承認に過ぎず、「一挙になされる契約(=革命)によってしか成し遂げられないものである」という。そこには放埒な自由の欲望競争ゲームを克服する原理はまだない
それに対して、ヘーゲルは「人倫」の原理もしくは互酬的原理によってつねに調停し続けるという”時間的成熟”の契機を導入したという。つまり、近代社会を維持するには、絶えず一般意志の内容をすり合わせ「法・権利」をアップデートしつづけるような仕組みが必要だと言うことだろう。ここに、「自由」の本質が社会的に発現していくプロセスがあるが、「自由」の本質とは何だろうか。

私の理解では、「自由」の本質そのものを絶えず探求するような「自由」が確保されていることそのものが、「自由」の本質であり、それは近代社会によって初めて可能となるものであるということだ。(これに関しては一つの章が与えられているので本書を参照して欲しい)

以上、簡単にまとめたが、このようにホッブス、ルソー、ヘーゲルのリレーによって近代社会成立のための原理が整えられていった。

近代社会と資本主義

ところで、近代社会と資本主義の関係はどのようなものだろうか。
近代の政治システムの基本構想は哲学者によって与えられたが、資本主義は近代社会との関係の中で自然発生的に現れたもので、それは社会的な財の生産を持続的に増大させるはじめての経済システムであったという。

資本主義の成立は「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」の3つが揃った事による。
それまでは、普遍闘争の原理から、どんな国家も収益の殆どを国の強化に当てざるを得ないため、人民は自らの労働を再生産できる最低限を残して収奪されなければならないという構造を持っていた。

そんな中、分業による効率化だけが、爆発的な生産性の増加を可能とし、人民の生活を向上させる可能性を持つものであった
著者の憶測的仮説によると、海洋交通の発展が交易ネットワークを拡大させ、「普遍交換」のシステムを形成させた。そこで生まれた需要は生産性を高めることを促し「普遍分業」を進展させた。さらに、生産性の向上は近代国家の成立を支えるとともに、近代国家によって人々が開放されたことによって「普遍消費」の局面が開かれ、交換と分業の相互促進を支え、持続的な拡大的循環を可能とした。

このようにして、資本主義システムが財の希少性を解消し、人民の「自由」の開放の前提条件となるとともに、人民の「自由」の開放が資本主義の維持のための前提となっていく。人々の自由への欲望が根本動機となって、近代社会と資本主義とが互いを必要としながら成立していったのである。

近代社会の本質

ここで、近代社会の本質的特質として「ルール社会原則」「一般福祉」「普遍資産」の3つが挙げられている。簡単に触れておくと、

・ルール社会原則
基礎原則は「ルールの基の権限の対等」「ルール決定と変更についての権限の完全な対等」「ルール遵守が成員資格の原則であること」であるが、この原則により、その政府が「一般意志」をより表現する方向に進んでいるか否かが、市民国家としての「正当性」をもつかどうかの指標となる。

・一般福祉
近代国家においては「諸個人の幸福」と「普遍的なもの」が調和的に統一される必要がある。
個別的な「自由」の追求が、社会の総体としての「善」の実現につながるような状態の実現こそが「近代国家」の最終目標である。

・普遍資産
社会全体の生産の増大を、成員全員による成果として考える。このために、その妥当な配分の原理を見出す必要がある。

というもので、「一般意志」を代表する統治権力が、「自由の相互承認」に基づく成員のフェアなゲームを担保することが求められる。つまり、ゲームそのものが「一般意志」とカップリングしている状態を維持することが近代国家の本質であると言えるだろう。

また、例えば大きな格差などに理不尽さを感じる感覚は、我々がこれらの特質に対する感度を獲得し当たり前と感じていることを示しているのかもしれない。

矛盾と批判

ここまで、近代社会と資本主義の原理と本質をまとめてきたが、これらは承知の通り理想的な道筋を進んだわけではなく、新しい大きな矛盾を生み出すことになった
そして、それに対する多くの批判を生むことになる。

近代国家は、表象として高度な階層支配システムであるかのようにして現れたがその大きな理由は、
近代国家の間に相互承認が存在せず、より厳しい普遍闘争状態がはじまったこと
資本主義システム事態が富の配分の偏在を生む「格差原理」を持っていたこと
である。

それに対し、マルクス主義やポストモダン思想等の批判が生まれたが、その多くは、事態の本質と属性を取り違えているために、現状に対する批判や理想の相対化としての意義はあっても、それだけでは決して本質的な克服のための原理を取り出すことができない、というのが著者の主張である。(著者はマルクスの”現状”の本質を見抜く力は高く評価している。)

そのため、国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成(資本主義システムは自然発生的であったため、政治システムほどの原理を獲得できていない)、といった課題を克服するためには「反国家、反資本主義、反ヨーロッパ、反近代といった表象を捨てねばならない」と言う。

これは、著者の決意表明のようなものかもしれない。

哲学を「形而上学」だと考え、国家と権力と資本主義を諸悪の根源と考えてきたような世代にとっては、このような主張は、まったく異国の言語のように聞こえるかもしれない。その感度をわたしはかなりよく理解できる。わたしもまたこの世代の感度を共有していたからだ。(p.287)

それでもこのような結論に至らせたのは、おそらく現代が大きな分岐点にあるからだろう。

希望の原理はあるか

ともあれ、わたしが示そうとしたのは、現代社会が進むべき道についての一つの根本仮説である。「自由」が人間的欲望の本質契機として存在するかぎり、人間社会は、長いスパンで見て、「自由の相互承認」を原則とする普遍的な「市民社会」の形成へと進んでいくほかない。(p.254)

ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」に基づく普遍ルール社会へと成熟させる道を取る以外には、人間的「自由」の本質を養護する道は存在しないこと。(p.287)

南北格差の拡大、過大な大量消費と大量廃棄のサイクル、市場原理主義・金融資本主義による世界のマネーゲーム化と資本による労働の奴隷化・・・世界は、「自由の相互承認」の原則を外れて、格差を拡大しながら地球環境の時間的限界へ向けて突き進んでいる。正当性を欠いたシステムは、自制を失い覇権の原理に従うのみで、やがて新たな希少性と闘争の時代に行き着くほかなくなるだろう。

しかし、選択の余地のないような危機的状況にあるということは、人類はこの危機をむしろ好機と捉えて変革へと進むほかない、ということでもある。

やるべききことははっきりしている。
国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。

ポストモダン思想は大きな物語を終わらせた。
しかし、人類はもう一度大きな物語を描かなくてはならない場面に立っている。
それは、ポストモダンが批判したような「理想理念」・イデオロギーとしての物語ではなく、人々を「人類」という連帯の輪に結びつける物語、合意による新たな「正当性」確立の物語である。

新たな物語を描くために何が可能か

しかし、わたしはこの著作を書いて、自分のうちに新しい可能性が現れかけていると感じる。なぜなら、権力や資本主義の廃絶をめがけた思想と、それを批判するわたしの考えの中心点は、本来、けっして対立的なものではないからだ。(p.294)

ここまで、簡単に本書の内容をまとめてきた。

その結果浮かんできたものは、前回読んだものとかなりの部分で共通する。(前回の本で挙げられている処方箋や事例のようなものは、今回の本で指し示された道の上に乗るもののように思える。)

また、本書を読んでも、いやむしろ読んだからこそ、二元論的な思想を転換することの重要性は高まったように思うし、資本主義の「正当性」に対しては、今なお成長が必要かという視点と人為的希少性の問題を考慮する必要がある、と思う。

さて、ここで、自分の問題として考えた時に、自分に何が可能か、というのが問題となる。

近代社会の原則にならえば、まずは、多くの人に明確な自覚と同意が必要であるから、これを促す行動をとること阻害要因(本書によると「既得権と実力のある勢力の抵抗」「可能性の原理を認めない反動思想」を解除する合理的な「原理」も必要)に安易に加担しないこと、などがさしあたり可能なことだろう。
例えば、前者に対しては、最近考えてきたように建築環境に対してどういうスタンスをとるか、というのが一つの行動の指標になるかもしれない。

とはいえ、「可能性の原理を認めない反動思想」とは何か、は現時点では私には確定できないし、まだこの問題に対する自分の言葉は少なすぎる。しばらくはこのテーマを追ってみたい。




アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル)

ジェイソン・ヒッケル (著), 野中 香方子 (翻訳)
東洋経済新報社 (2023/4/21)

帯にある「「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き」という文が気になり読んでみた。

全体的な論調としては『人新世の「資本論」』と重なるが、成長を運命づけられた資本主義がどのように世界を支配するようになったのか、という経緯と、脱成長に対する反論に対する反論としてどのような成果があるか、という点で収穫があった。
また、問題の根本には帯にあるような「アニミズム対二元論」といった存在論(オントロジー)の問題が横たわっている、というのが本書の主張である。

デカルト的二元論とアニミズム

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。

アニミズムを漢字で書くと精霊信仰となり、現在では遅れた未開文明の思想というイメージで捉えられるかもしれない。しかし、人間は生物コミュニティの一員であり、その循環の中で生きている、というのは「あたりまえ」のことであるし、人類の長い歴史の中で培われてきた持続可能な社会を維持するための最大の知恵であったと言ってよい。

その、知恵を放棄し資本主義に適合するように根本から書き換えたのがデカルトであるが、その経緯は全く自然なものではなく、権力と結びつく形で略奪と強制により導入されたものである。

これは、現在多くの人がそう信じているデカルト的心身二元論(例えば身体と脳を分け、感覚器官から受け取った刺激を脳が再構成、処理して身体に司令を送る、というような機械論)から脱却することによって新しい視点を提供するものである。(はじめに|オノケン(太田則宏))

デカルト的心身二元論に関しては、アフォーダンスの文脈で根本的な問題に関わるものでなじみがあったが、実のところその問題の大きさにピンと来ていなかった。
しかし、本書によって私にとってのデカルトのイメージが大きく更新されたように思う。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。
デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。

その変化は、資本や権力に都合の良いように人類を洗脳するという類のもので、囲い込みによる略奪/人為的希少化により資本家以外を植民地化する、というプロジェクトを成功に導いた。

哲学者は聖人であり、最善の思想を考えた人である、というイメージはいささかピュアに過ぎるのかもしれない。最善を目指したかもしれないが、それはその時代においてのものであり、その都度見直されるべきものであるはずだ。しかし、この時生まれた植民地化的資本主義の構造と思想は時代を超え今も人々の意識に強固に根付いている。(二元論がたまたま利用されたのか、資本家の権利を守る意図が含まれていたのかは分からない。デカルトが本質として何を残したのかはもう少し調べてみる必要がありそうだ。)

誰のための成長か

大企業が収益を維持するためには世界のGDPは毎年2~3%ずつ成長し続けなければならないという。2~3%というのはわずかに思えるかも知れないが、3%の成長とは23年ごとにGDPを2倍にしなければならないということで、GDPとエネルギー・資源の消費量と連動していることを考えるとこの成長を無限に続けることが夢物語に過ぎないことは明らかだろう。
(テクノロジーの進歩によってそれを乗り越えるというのも無理がある。実際のところ、増えた分を補うことすらできていない。また、未来の世代が解決してくれるだろう、という思考そのものが搾取的だ)

さらに、無謀な経済成長を続けても多くの人が豊かになることすらない。

社会的目標を達成するためにこれ以上の成長が必要でないのは、多くの証拠から明らかだ。それにもかかわらず、成長主義のシナリオは驚異的なまでに力を保ち続けている。なぜだろうか。それは、成長がわたしたちの社会の最富裕層と最大派閥に利益をもたらしているからだ。アメリカを例にとってみよう。アメリカの国民1人当たりの実質GDPは1970年代の2倍になった。そのような驚異的成長は、人々の生活に明白な向上をもたらしそうなものだが、実際はその逆だ。40年前に比べて、貧困率は高くなり、実質賃金は低くなった。半世紀の間、成長し続けたにもかかわらず、[豊かな生活に関する]これらの重要な指数に関してアメリカは退行しており、その一方で、事実上、利益のすべてが富裕層に流れている。世界の上位1%の富裕層の年収は、この期間で3倍以上になり、一人あたり平均140万ドルに急増した。
これらのデータを見れば、成長主義がイデオロギーに過ぎないのは明らかだ。それも、社会全体の未来を犠牲にして、少数に利益をもたらすイデオロギーだ。わたしたちは皆、成長のアクセルを踏むことを強要され、その先には地球という生命体にとって致命的な結果が待ち受けている。すべては裕福なエリートをさらに金持ちにするためなのだ。(中略)しかし、エコロジーの観点から見れば、状況はいっそうに深刻で、まるで狂気の沙汰だ。(p.192)


この搾取の構造はアメリカでさえそうなのであるから、グローバルノースとサウスの間の同様な構造を考えるとサウスの状況がどれほど悲劇的かは想像に難くない。
一部の人間のために、多くの人は意味のない希少性と貧しさを押し付けられ、労働力を安価で提供し続けるしかない状況で環境を破壊しながら破滅へと突き進む。まさに狂気の沙汰だが、なぜこれを止められないのだろうか。

一つは、多くの人が現状を維持するしかないように大胆かつ巧妙に人質を取られているからだろうし、一つは人間の思考の奥深く、存在論の部分で意識を握られていることもあるだろう。
環境に対して、なぜ止められないのかという問題意識を欠いた単なる「省エネ」では成長の穴を部分的に埋めることしかならないし、環境工学を目的化する思考は、地球規模の問題を地球工学によるテクノロジーで解決しようとすることと同じく、二元論による自然制御というロジックを温存する。
そういう意味で、環境問題は存在論と想像力の問題であるというのは間違いではなかった気がする。
また、どうすれば人質を開放できるか、というのも大きな問題である。住宅ローンも人質の一つであることを考えると私もその構造に加担している1人に違いないし、3人の父親としては教育というのも大きな人質だと感じている。

資本主義とは何なのか

詳細な議論は是非本書を読んでいただきたいが、成長主義をやめるだけでも、環境問題を含めた多くの問題は解決の難易度が大きく下がるという。

そう言われても簡単にはことが進まないのは、人間がそれほどかしこくない、ということもあるだろうし、多くの人が資本主義というものが何なのかよく分からないまま参加しているということもあるだろう。

資本主義と言っても経済活動そのものに問題がある訳では無いように思う。問題は成長主義であり、その根本に潜むデカルト的二元論である、というのが本書の主張であるが、本当に一部の富裕層のためだけに盲目的に成長を崇拝するほど人間は愚かなのだろうか。
もしくは、成長を崇拝せざるを得ないシステムが富裕層を含めた人々の意志を超えたところで暴走しているだけなのだろうか。(おそらく、富裕層を悪人として斬り捨てるだけでは問題の解決に向かわないだろう。)
資本主義にとって成長は本質的なものなのだろうか。

私も本当のところ、資本主義とは何なのかがほとんど分かっていない。

”環境”の次のテーマを探していたのだけど、考えていけば資本主義というテーマは避けられそうにない。
うーん、厄介な問題に手を付けることになりそうだ・・・




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




建築を遊ぶために B268『意味がない無意味』(千葉雅也)

千葉雅也 (著)
河出書房新社 (2018/10/26)

オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。 オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

前回読んだ『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』に関連して購入したものだけれども、読み始めてから読み終わるまでだいぶ時間が経ってしまった。
読みはじめの頃は何かを掴みかけていたけれども、それがぼんやりとしか思い出せないので、書きながら思い出していきたい。

まず、下記の部分は撤回が必要かもしれない。
オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。

『意味がない無意味』の「はじめに」で著者が書いているように、私にとっての著者の魅力は抽象的な概念と具体的なものの間を行き来することの大切さ・面白さを体現してくれているその姿勢にある。

世界をどのように捉えるかの存在論は抽象的な言葉遊びというよりは、どのような姿勢で世界に存在し、どのように思考し行為するか、という根本的なあり方そのものを問うていて、具体的なものとは切り離せないのではないか。というようなことを著者は感じさせてくれる。

そういう意味では、先の文章は抽象的な思考に対するイメージが先行しすぎていたかもしれない。

「意味がない無意味」に何を掴みかけていたか

さて、「意味がない無意味」は無限に多義的な「意味のある無意味」、ブラックホールのような穴に対して、穴を塞ぎ有限性を身にまとうための石である。(表現として的確ではない言葉があるかもしれないけれども、断定的には書いていきます。)
「意味がない無意味」、穴を塞ぐ石としての身体が、意味を有限化し行為を実現する。

その「意味がない無意味」に何を掴みかけていたのか。

今年の指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」とし、山間の中古住宅を購入し、馬屋を改装し、事務所を移転したが、そのことと関係がありそうだ、と感じたのは間違いない。

遊ぶということは、ある部分での解像度を高めつつ、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを回していくことである。
それは、目の前の有限的で具体的なものとまさに遊ぶように向き合うことで、解像度を高めつつ染み出してくる有限性もしくは偶然性そのものを楽しむことであり、そこにはある種の快楽がある。
そして、それは無限の穴にハマルことなく世界と向き合うことを可能としてくれる。

自分の子供たちもそうだが、今は、そういう風に世界と向き合うことの経験が圧倒的に足りていない、と感じる。
あらゆるものがお膳立てされ、低解像度のまま生きていくことのできる世界で生かされ、唐突に世界へと放り出されても、穴に落ちずに生きるすべを知らずに、場合によっては一つの解釈xにしがみつくしかなくなる。

そういった生き方もありかもしれないけれども、そこでは想像力はむしろ穴へと続くものになり、おそらく生きていく足かせとなるだろうし、具体的なものとの接点を持たない想像力はおそらく世界を好転させず、世界の豊かさにふれる機会も貧しくする。

「意味がない無意味」の権利を認めること。
それは、今を生きる人の一つの作法となりうるように思うし、そうでなければ酷くつまらない世界、もしくは空気になってしまいそうだ。
(著者は、そういう空気に対して敏感で、かつ向き合うすべを開拓しているように思う)

「意味がない無意味」と「決定する勇気」

建築について。

自分は、関係性を開き、多様で多義的であることを受け入れるような建築を目指そうとしていると思っていたが、少しぼんやりしていたかもしれない。

関係性や多様なものに開くと行っても、無限に多義的なブラックホールに向かうのではなく、むしろ、いかにそれらを切り取り、有限化していくか、ということが重要だろう。

もちろん、ファルス的な単一のオブジェクトを目指しているのではないし、無限に関係性に溶けていくようなものを目指しているのでもない。

ここで『吉阪隆正とル・コルビュジエ』を読んだときの感覚を思い出す。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。
『彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。』
『吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。』
多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。 彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。 吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。 多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。

自分がコルや吉阪に惹かれるのは、こういう遊びを決定へとつなげる勇気に対してだと思うが、それが簡単ではないことも分かる。

<必然>や<使命>に還元せずに、建築を建築足らしめるには、おそらく本気で遊び、解像度と密度を高めていくこと以外にないし、失敗すれば単なる趣味の世界のおままごとに終わる。

自分はまだ本気では遊べていないし、解像度も決して高くはない。

果たして自分にできるだろうか・・・ もっと学び遊ぶしかないな。




関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

グレアム ハーマン (著)
人文書院 (2017/9/26)

現代の一般教養の一つとして一度ハーマンを読んでおこうとだいぶ前に購入。
まだ感想がぼんやりしているが、今頭に浮かぶことを書いておきたい。

いいとこどりの見取り図

実在論もしくは形而上学的な、一つの理論によって世界を還元しつくすということに対して根本的な部分での欲求を持ち合わせていないため、また、知識不足もあって読み進めるのが少し難しかった。
けれども、著者のやろうとしていることは、人間、生物、非生物から概念や想像上のものまで、あらゆるものを一つの見取り図の上に並べて捉えられるようにすることではないか、というのはぼんやりと感じた。(ようするにいいとこどり?)

なぜ、私は還元に対する欲求に共感できないのだろうか。

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。
ただ、

四方対象の哲学がもつ明らかな価値の一つは、様々な知識を相対的に民主化することである。(p.222)

と著者がいうように、ハーマンの提示する見取り図は、その上にあらゆるものを載せて扱うことを可能にするのではという期待を抱かせる。

思えば、学生のころからアフォーダンスやオートポイエーシスに関心を抱き続けられているも、これらが、システムや知覚といったはたらきによって、人間からまちやコミュニケーション、意識といったあらゆる対象を扱えることを可能にするような懐の深さがあり、今なお新しい扉が開かれ続けているからかもしれない。(そういう意味ではハーマンの見取り図によって、これらを整理することも可能かもしれない)

建築のイメージを更新できるか

さて、本書によって建築に対するイメージはどんな風に更新できるだろうか。
(本書を読んだ目的は、ハーマンの影響のある建築を多少なりとも理解するための、最低限の教養を得るためだった)

それについては、内容をあまり理解できたとは言えないため、10+1の記事を参考にしてみたい。

10+1 website|オブジェクトと建築 ──千葉雅也『意味がない無意味』、Graham Harman『Object-Oriented Ontology: A New Theory of Everything』|テンプラスワン・ウェブサイト

ハーマンのすべてのオブジェクトが互いに退隠しており自立的である、という主張の重要性をあまり理解できていないので、ここではとりあえず、ラトゥール的な関係性、すべてはアクターであるとした際のネットワーク、もしくはドゥルーズ的な変化する関係性に注目した建築と、ハーマン的な自立性に注目した建築とでは、空間の質が異なってくる、という仮定のもと考えてみたい。

だが千葉にしたがえば、ハーマンが語る対象は、複数化されているとは言え、依然としてファルス的なもの、つまり〈意味がある無意味〉である。(10+1 website|オブジェクトと建築 ──千葉雅也『意味がない無意味』、Graham Harman『Object-Oriented Ontology: A New Theory of Everything』|テンプラスワン・ウェブサイト)

建築におけるハーマン的な自立性を考えた場合、それぞれの要素の自立性と建築総体としての自立性が考えられるが、前者はおそらく、モートン的あるいは門脇邸的な建築のイメージになるだろうし、後者はファルス的・シンボル的な建築のイメージになるだろう。また、そうした入れ子がそれぞれ自立したオブジェクトとしてある、ということにもなるだろう。

個人的な実感としては、関係性というものはある意味自立した存在の間に成立するものだと思うので、関係性を感じさせることと、自立性を感じさせることは実はあまり違わないのではないか、という気がする。

または、前回の『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』での議論のように2項対立的な思考のうち一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考として、関係性と自立性の重なりによるグラデーションとして捉えるということも可能だろうし、空間としてはおそらくどちらかのみ、ということはありえず、互いにもう一方を必要としているように思う。

(ただし、本書を何度も読み返すことで理解が深まった結果、より豊かなイメージを得られる可能性はおおいにあると思う。)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。
オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

もしかしたら、関係性と自立性の重なりは、「意味の深さ」のような度合いとして捉えられたりしないだろうか。

自分にとっての本書のポジションは『意味がない無意味』を読んだ後に定まるのかもしれない。




それでも建築をつくるために B266『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』(塩崎太伸)

塩崎太伸 (著)
NTT出版 (2022/9/28)

ツイッターで見かけて面白そうだと思い購入。建築・都市レビュー叢書は意外にも初めて。(他のも面白そうなので読んでみよう)

それでも建築をつくるために

本書の序盤では、例えば、差異から類推へ、外在性から内在性へ、要素論から構成論へ、というようなキーワードが出てくる。
それは、近代的な分断の思考から距離をとるための態度だと思うけれども、一旦距離を取ったその先で、それでもなお建築であることは可能か、というのは自分にとって重要なテーマである。

分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。
ぼんやりとしたイメージやアプローチするきっかけはあるものの、具体的に設計を進める上での拠り所が何か欠けている。
そんな風に感じている。

それに対し、著者はそれでもなお建築であるための可能性を、名づけという独特の言葉を使って探っていく。
著者は私と同年代でもあり、ある程度問題意識は重なっていると思うが、本書はその「それでもなお建築をつくる」ための探究の書と言ってよいかと思う。

以下、本書を読んで考えたことを書いておきたい。

所有から保有 名付けによって所有の概念に隙間を与える

名づけは3者間の重なりがあるところに生まれるが、他者が介在せず、所有と使用が一致する時には名づけは必要とされない。

これまで何度か書いてきたけれども、例えば土地や建物が所有の概念に縛られ、それが表出している街並みには何か息苦しさを感じる。
そんな中、(流行りの面もあると思うけれども)それまで所有(property)されていたところに、名づけをすることで他者が保有(possesion)できるような状況が生まれつつある。

所有権を放棄するわけではないが、他者と保有しあえるような名づけをすることで、所有の概念に隙間を与え、息苦しさを緩和しているようにも感じる。

まずは、名づけは、所有の概念から離れ、他者と何かを共有するための作法と言えるかもしれない。

名づけとは何なのか

いや、そもそも名づけとは何なのか。そのあたりが若干掴みにくけれども、具体的な名づけという行為そのもの、というよりは、名づけという行いの周りで起こる概念や関係性の変化のようなものをふわっとひっくるめて名づけと呼び扱おうとしているように感じた。
それは、おそらく名づけなくてもいいし、他の何かでも良いのだろう。とりあえず、そんな感じのものを名づけと呼んでいる、ということにしたい。

名付けには3者が必要である。例えば、私とあなたがいて、何かを共有しようとした際に名づけが生じる。
それは、以前書いた、間合いに少し似ている。

また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

間合いにおける2者の間にも3つ目の何かがある。それは、剣であったり、役であったり、空間であったり、リズムであったり。

とすると、名づけにも固定化しない距離の作法としてのリズムのようなものがあるかもしれない。

名づけてしまうことは距離の仮固定とも言えそうであるが、距離が定まってしまえば名づけの必要はなくなってしまうだろう。
もしかしたら、名づけが名づけであるためには距離を固定化しない名づけであることが必要なのではないだろうか。もし、名づけによって新たな一極が生まれてしまうのであれば、単なるイス取りゲームになってしまうだけである。

また、名づけは重なりに生まれる。
空間と言葉、建築と設計者、都市と社会、私とあなた、Aと非A――そして、未来の記憶との重なり。

切断された何かと何かの一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考。
それは、今年の目標である、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、越境者として遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということとも重なりそうである。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。
そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる)

名づけはおそらく遊びのようなものになるのだろう。

みつめ方のリフレーミング 未来の記憶へ

さて、前置きが長くなったけれども、分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。そのヒントを考えてみたい。

本書では、建築に関わる既存のフレーミング、空間・かたち・尺度について、モダニズム的な建築教育で身についてしまった思考から自由になるような、名づけを通した見つめ方を検討している。

・空間の名づけ 空間と場所を重ねる
建築家のよく使う言葉として、空間というものがあり、対する言葉として場所という言葉がある。
場所に対して空間はより建築的であると感じるが、リノベーションブームを通じて場所の持つある種の豊かさが注目されたりもした。
空間は建築、場所は建物である、と言ってもよい。
建物が建築になる瞬間に立ち会いたいと思いつつ、場所の持つ豊かさも見逃せないと思う。

この2つの言葉に対し、著者は、空間を「ところ」と「ところ」の関係性、場所を「ところ」と「非ところ」の関係性と整理し、「ところ」と「ところ」の関係性がおおい「ところ」は「空間み」が大きく、「ところ」と「非ところ」の関係性が少ないところは「空間み」が小さいとする。(スペーシングというみつめ方)

たしかに、純粋に「ところ」同士の関係性でつくられ混じりっけのないものは、強く空間を感じより建築的だと感じやすいし、既存の雑多な関係性を引き継いだリノベーションのように「ところ」以外のものとの関係性が豊かなものは、場所性を感じ、建築というよりは建物というように感じる。

空間か場所か、建築か建物か、という2項対立的な思考を、空間みという程度の問題、重なりの思考にスライドさせることである種の呪縛から少し自由になれる。

・かたちの名付け 思考を示す言葉と形態を示す言葉を重ねる
形態が恣意的であるかどうか、というのもこびりついてしまったトピックで、建築が自律性を確保するために、恣意性を排除しなくてはならない、というのも呪縛の一つであろう。
恣意性を排除するために、何かかたちを決定する理由が必要を求め、いわば他律的に形態を決定するが、ここには自律性の確保のために他律的であろうとし、逆に建築の形態を建築の形態そのものとして扱うことは恣意的にみえる、という混乱がある。

それに対し、著者は、恣意的であると感じるのは「かたち」が「かたち」との関係で位置づくときであり、「かたち」が「非かたち」との関係で位置づくときに恣意的と感じにくいと整理し、恣意性を「かたち」が何との関係で位置づいているか、という程度の問題、重なりの思考にスライドさせ、恣意性とはその程度に対する一つの名づけでしかないとする。(シェイピングというみつめ方)

・尺度の名づけ 対象のスケール(サイズ)と関係のスケール(プロポーション)を重ねる
尺度・スケールに関しては、2項対立的なイメージがあまりないのでそれほどしっくりきていないけれども、とりあえずメモしておく。

スケールに対しては、「対象」と「慣習」との関係によるものを「対象」のスケール(サイズ)、「対象」と「対象」との関係によるものを「関係」のスケール(プロポーション)と整理し、これも「おおきさ」の度合いとして重ね合わせる。(スケーリングというみつめ方)

空間・かたち・尺度について、それぞれのみつめ方、名づけが検討されるが、そこにあるのは様々な関係性である。
著者は、関係性に名づけを行うには、それをものとして扱う必要があり、我々はそういう扱いの訓練をしてきていないという。
著者が実際の設計の場面でどのような名づけを行っているかわからないが、関係性を言葉としてどのように発見するか。そういう訓練が必要なのかもしれない。

コンセプトから形式へ 類推論的転換

コンセプトとは何なのか。実のところよく分かっていない。

設計主旨と呼ばれるものは、整理した要件に対する応答でしかなく特別なものではないように思うし、個人の「やりたいこと」はコンセプトと呼ぶに値するものとは思えない。
コンセプトを書け、というような教育を受けてきたような気もするし、(少なくとも私のいた大学では)それすら求められてなかったような気もする。
それでも、何かしらコンセプトというようなものを主体的に設定し、それを形に投影せねばならない、というような空気は確かに存在したような気がする。

著者はコンセプトの投影により、条件から形を導く流れに対し、形式の類推・引用によって、形から条件を導くような流れを推奨する。

この、「ちがう」と思われているものが「おなじ」であるような世界の重なりを想像していくアナロジカルな転換は、帰納的思考、演繹的思考の対立、

ア. 部分から全体へ 連結 帰納(induction)
イ. 全体から部分へ 分割 演繹(deduction)

に続く第三の思考

ウ. 集まりから重なりへ 類推 仮説(abduction)

として捉えられている。

ここで、ある種の価値観や優劣を含んだ言葉を重ね合わせ、類推と仮説によって関係性に新たに名づけを行う効能とは何だろうか。

形から重なりの豊かさを見つけ出しながら、それを再び形へとフィードバックしていくようなサイクルをくりかえすことによって、いくつもの重なりを浮かび上がらせる。
それは、ある種の価値判断が染み込んでしまったものを解きほぐしながら、フラットに、そして自由にふるまうための作法のようにも思える。

そこでは名づけによって価値を与えるというよりは、名づけること自体に意味があるのだろう。
そう考えると、本書で挙げられている建築家による名付けの例も、著者が

いつか、「やりたいこと」よりも、物そのものを建築と呼べる瞬間に立ち会いたい。(p.291)

というように、そうい瞬間に立ち会うための言葉のように思える。
いつの時代の建築家も、最後は物そのものと向き合うためにこそ、言葉を紡いで来たのだと思うし、時代によってその表れ方が変わってきているだけのようにも感じる。

なので、もしコンセプトというものがあるのだとすれば「物そのものと向き合うこと」というようなものになるかもしれない。
そのために様々なアプローチ・手法が存在する。

また、これまでの議論にならえば、コンセプトから形式への話も、「条件」から「形」が導かれるものを「コンセプトの投影」、「形」から「条件」が導かれるものを「形式の類推・引用」と整理し、例えば「コンセプトみ」や拘束度のような程度の問題、重なりの思考にスライドさせることもできそうな気がした。(ガイディング?)

これまでの思考との重なり

さて、それはさておき、本書の内容に対し、これまで考えてきたこととの重なりがいくつか見えてきたのでメモしておきたい。

・オノマトペという名づけ

モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

隈研吾のオノマトペは名づけの一例ではないだろうか。ここでの「物質を経験的に扱う」という捉え方が名づけにおいても参考になるかもしれない。あるいは経験(関係)を物質的に扱う、となるだろうか。

・「複合」というコンセプト

以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここでは、生態学的な視点からコンセプトを「複合」あるいは「不変更」として、発見的、類推的に捉えている。

そうするとコンセプトから形式へ、というよりはコンセプト自体を投影的なものから類推的なものへのグラデーションと考えたほうが個人的にはしっくりくるかもしれない。

・名付けによるネットワーク

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro))

「複合」もしくは「不変更」あるいは「類推」による名づけは、ネットワーク内のある要素間を糸もしくは道路でつなぐようなことなのかもしれない。
その際の名づけ方・つなぎ方を「つなぎかえ」「近道」あるいは「成長」「優先的選択」として整理した上で目指す空間をイメージできるようになれば面白そうだ。

・寺田寅彦のアナロジー

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

このあたりにもヒントがありそうだ。
分かったことにしない「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持し、見る眼を形成する。
名づけはおそらく眼の問題なのだろう。

・レトリックという名づけ

レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。
設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明))

レトリックも名づけの一例として考えられそうである。
名づけが眼の問題とすれば、探索し発見する技術としてのレトリックは相性が良さそうに思う。

・ニューカラーとブレッソン

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

この頃、ブレッソン的/ニューカラー的という視点とその重なりを整理したいと思っていたけれども、本書はまさにその部分に切り込んでいる。

・内在化と逸脱

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

投影的手法と類推的手法は内在化と逸脱と重ね合わせて考えてみると面白いかもしれない。
4象限マトリクスで捉えることで手法的に展開することはできないだろうか。

他にも、「出会う建築」で考えたことと重なりそうなものはたくさんありそうだ。

「出会う建築」で目指す姿勢と建築の方向性についてはある程度考えることができたと思うけれども、では、それをどうやって建築にするか、という手法的な部分のピースはまだ欠けているように感じている。

本書はそのピースを埋めるための一つのヒントになりそうな気がする。

名づけは設計プロセスにおける設計者自身の「からまりしろ」のようなものではないか、という気がしているのだけど、とりあえず設計の際に名づけを行う練習をしてみよう。
形が現れた後に名づけを捨て去っても、そこに何か「未来の記憶」のようなものが残ったとしたらうまくいったと言えるかもしれない。

(著者自身の設計プロセスに対してはあまり触れられていなかったけれども、それが知れるものがあればみてみたい。)




ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)

久保明教 (著)
月曜社 (2019/8/9)

ラトゥールは1947年生まれのフランスの哲学者・人類学者で、アクターネットワーク理論(Actor-Network-Theory ANT)で知られる。
本書は著者が「極めて難解ではないが、極めて誤解しやすい」というラトゥールの思想を、「入門書や解説書ではなく、その言語運用を広範に活用できる道筋を精査する「取り扱い説明書」として」まとめたもの。

では、ラトゥールの思想においてどのような道筋を見出すことが可能だろうか。少し考えてみたい。

5つの問いに対して

その道筋は「テクノロジーとは何か」、「科学とは何か」、「社会とは何か」、「近代とは何か」、「私たちとは何か」という五つの問いを通じて描かれるが、まずは、重要な概念及びそれらの問いに対する部分を抜き出しておきたい。

アクターネットワーク論

アクター(行為者)は人間に限定されない。差異を生みだす事によって他の事象の状態に変化を与えうるものはすべてアクターであり、それらは相互に独立したものでもない。各アクターの形態や性質は他のアクターとの関係の効果として生みだされる。アクターの働きによって異種混交的なネットワークが生みだされ、アクターはネットワークの働きによって定義され変化させられる。(p.49)

「知る」こと

より良く「知る」ことが問われる場は、世界と表象の対応ではなく、世界の内側にある諸要素の関係性に移ることになる。「知る」とは様々な要素を関係づけることであり、その良し悪しもまた関係づけの只中において生じる。(p.18)

翻訳

「翻訳」とは、あるアクターを起点にして種々のアクターが結び付けられ共に変化していく過程である。(p.49)

非還元の原理

いかなるものも、それ自体において、なにか他のものに還元可能であることも、還元不可能であることもない。(p.56)

仲介と媒介

それらは、入力に対して一義的に出力を返す仲介項(Intermediary)として把握されている。(p.61)

二つのエージェントが互いに互いの行為を変容される媒介項(Mediation)として働くとき、それぞれがもともと持っていた目的が変化する(p.62)

技術決定論と社会構成主義は、諸要素間の関係を主に仲介として捉えることで「(自然の事実に基づく)技術」や「社会」への還元を行う。ANTはそれらの関係を主に媒介として捉えることで還元主義を回避する。(p.63)

こうした「ブラックボックス化」(Black Boxing)と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される。(p.65)

構築

ラトゥールの議論における科学的事実の「構築」とは、諸アクターが関係し合いながら、「循環する指示」を形成することである。「構築する」のは人間や社会ではなく、人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関である。翻訳を通じて隊列が整えられ多数の媒介項が少数の仲介項に変換されると、対象を観察し解釈する「主体」としての人間を、観察され解釈される「客体」としての物質に対置することが暫定的に可能になる。(p.140)

「テクノロジーとは何か」

「テクノロジー」と呼ばれる実態や独立した領域など存在しない。むしろテクノロジーとは、自然と社会、非人間と人間、科学と文化といった領域間の近代的区別が表面上のものに過ぎないことを常に突き付けてくる初関係の動態である。(p.73)

「科学とは何か」

科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。だが、外在は内在の効果にすぎない。(p.123)

「社会とは何か」

社会とは、近代的な人間たちの関係性に還元されるものではなく、人間と人間以外の存在者を含む異種混交的な関係性が絶えず新たに生みだされるプロセスである。社会を研究する者もまた、そうした関係性に内在するアクターに他ならない。(中略)「連関の社会学」の最終的な目的は、諸アクターと共に社会=集合体を組み直すことに置かれる。(p.159)

「近代とはなにか」

近代とは私たちが内在する異種混交的なアソシエーションを「自然」と「社会」に還元する純化の実践を表向きは固辞しながら、両者に仕分けされるはずの諸要素を暗黙裡に結びつける翻訳のプロセスを爆発的に拡張してきた機制である。近代を非近代と峻別する根拠とされてきた純化の水面下に膨大な翻訳と媒介の働きがあることを認めれば、額面通りの近代的世界は一度たりとも実現されなかったというノンモダニズムの視座が得られる。(p.219)

「私たちとは何か」

近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするものであり、分析するものとしての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける道筋を探るべきものである。(p.254)

これらはもちろん、著者がラトゥールの思想を取説化する上でまとめたものの一部を抜き出したものに過ぎないので、詳細は本書もしくはラトゥールの著書を読んで頂きたいが、大まかな主旨はこれらの中に含まれているように思う。

ノンモダニズム アクター及びネットワークとして捉えること

ラトゥールはあらゆるものを自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定し、近代という前提を放棄して世界を捉える「ノンモダニズム」を提唱する。

私たちが普段常識的に考えている近代的な思考形式、OSを否定することがラトゥールの言説を取り扱い注意なものとしているのかもしれないが、これまでこのブログにおいては、近代的な枠組みからいかにして自由になるか、というのが一つの大きなテーマであったため、それほどとっつきにくい印象は受けなかったし、これまで考えてきたことと重ねられる部分も多かった。(それこそが誤解である可能性は多分にある)

人間ならざるものも含めたあらゆるものをアクターとして捉え、その関係性を近代的なフィルターを通さずに見ようとする姿勢はモートンに通ずるし、「前もって完全に理解することも制御することもできない」関係性の動態をこそ扱おうとする姿勢はオートポイエーシスに通ずるように思う。

ノンモダニズムの作法 汎デザイン主義から内在的な汎構築主義へ

これまで、このブログでは、すべてが別様でありうるポストモダニズムの作法として、「すべてはデザインである」という姿勢を肯定してきた。
本書ではこの主張を、外在的な汎構築主義→「汎デザイン主義」と呼び、すべてが構築されたものであり、再構築可能であるとするラトゥールの議論がある意味この発想を基礎づけるという。

しかし、ここでは、デザインするのは世界に外在する主体であるという、近代的な枠組みからは逃れられていない。

では、ラトゥールの議論の先にある、内在的な汎構築主義にはどのような可能性があるだろうか。言い換えると、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、ノンモダニズムにおいてどのような作法にアップデートできるだろうか。

それに対し、これまで考えてきたことを振り返りながら、とっかかりになりそうなこととして、「遊びの文脈」「ハイパーサイクル」「ネットワーク理論」「全体に従ってきたもの」の4つを挙げてみたい。

遊びの文脈
人間という主体を一旦放棄し、関係性の中に身を置くことは、自己の不確実性や受動性が増大していくことになる。
それを「どのように引き受けながら初関係を組み直していけるのか」というのが一つテーマとなる。

それに対しては、熊谷晋一郎が否応なしに生じる予測誤差を「痛み」ではなく「遊び」の文脈に置くことで、環境を制御するのではなく、環境(アクター)との相互作用の中でお互いに変化してく(翻訳)契機としていく姿勢が参考になるだろう。

B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』
二-十一 遊び―出会いの作法

ハイパーサイクル
近代的な「自然」や「社会」への還元を否定した上で、世界を変えようとすれば、自らアクターとなり、関係性の中に入り込むことで、異種混交的なネットワークを組み直すことを目指すことになる。ラトゥールは研究、分析、社会といったものへのアプローチを異種混交的なネットワークの組み直しと捉えるが、自らは無数にあるアクターの中の一つに過ぎず、前記のような不確実性や受動性と向き合わざるをえない。
その時、どのように世界と関わりうるか。

それに対しては、予測も制御もできないとされるオートポイエーシス・システムにおける関係性の扱い方がヒントになるように思う。
河本英夫は臨床の現場での介入の仕方を例に、どのように他のシステムに関与可能か、もしくは創発や再編がどのように起こりうるかを考察している。
ラトゥールのアクターネットワークを、河本の複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)として捉えると、世界との関わり方のヒントが見えてくるかもしれない。

子育てをしていると、まったくままならないことばかりであるが、ままならないものを引き受けつつ、どう関わることが可能か、という問いと日々向き合わざるをえない。

実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

以上2つは、建築においては設計に対する姿勢のようなものとして現れると思われる。
設計する場面では無数のアクターとの関係を整えていく必要に迫られるが、還元可能な概念にアクターを押し込めるのではなく、それらを引き受けつつどうやって創発や再編へとつなげていけるか、というのは重要なテーマである。
また、建築を構成する各要素をアクターとして捉えた際に、そこを利用する人(アクター)とどのような関係性を結ぶことになるのか、という視線もまた重要である。

ネットワーク理論
ラトゥールはANTの発想を拡張することで、ネットワークでのアクターの関係の仕方を捉える存在様態論を探究しているようで、非常に興味深いのだが(検索した感じでは)残念ながら『存在様態探究』はまだ邦訳は出ていないようである。

世界をアクターのネットワークと捉えた場合、ネットワークそのものの性質を探究するネットワーク理論にもヒントが含まれているように思われる。
アクターの関係性や立ち位置に注目し、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった操作を意識して配置することで、ある種の空間の質が実現できるのではという気がしている。
それは還元や構成に頼らない、ノンモダニズムな空間の質の探究につながりはしないだろうか。

設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

全体に従ってきたもの
ラトゥールは近代的な枠組みからこぼれ落ちてあいまいなままであるものを「プラズマ」と呼ぶが、ANTの捉え方においては、それらも一つのアクターとして捉えられる。つまり、内在的な構築主義の中では取り扱いの対象となりうる。

近代的な建築の考え方では、各要素や部分は、全体の理論に従うものとして取り扱うべきものであった。
しかし、ラトゥールやモートンはそれらを、近代的な色眼鏡を外して、それそのものとして扱うことを推奨する。
それによって、全体に奉仕すべき部分に過ぎなかったものを、一つのアクターとしていわば直接的に扱う道筋が見出される。

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』p.212)

こうした全体に従ってきたものを開放する視線に、ノンモダニズムの建築の可能性があるかもしれない。
同様に、塚本由晴のものや人間のふるまいに対する捉え方にも、全体に従ってきたものを開放する視線を感じる。
また、自然を人間と自然とを切り分ける近代的な枠組みを外して、フラットに解像度高く捉える視線も同様である。

あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)
実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』
生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)
距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

すべてはアクター

さて、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、非還元主義のノンモダニズムにおいては「すべてはアクターである」と置き換えられる。
そこでは、不確実性や受動性を引き受け、アクターとして世界に内在したままサイクルをまわし、アクターに新たな光を与える関係性を探りながら新しい空間の質を追い求める、そんな建築家像がイメージされる。

(「すべてはアクターである」はさすがにそのまま過ぎるが他に思い浮かばない・・・関係性や構築も良さそうだけど分かりにくいし。いいのが思いついたら書き換えます。)




全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
講談社 (2022/3/16)

デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

薄く重ね塗りするように

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

秩序と逸脱と解像度

おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
(特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

今後の目標

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

と、前から関心のあった、

『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
講談社 (2020/8/11)

「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

人間以後の哲学

著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

私はそれを、

  • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
  • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

である、というように受け取った。

今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
本書はそういう問題を提起しているように思う。

高断熱化に対する違和感

誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
それはどこから来るのだろうか。

消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

人新世の世界を生きること

SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

これは勝手な意見、というか余談。

僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

メモ

同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
(失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

ざっと気になったものをあげると

  • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
  • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
  • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
  • ノンヒューマンであること。
  • エコロジーと触覚に向かう言語
  • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
  • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
以文社 (2016/12/12)

『公共空間の政治理論』を読んでから気になっている著者が気になっているというティモシー・モートンの思想を紹介するような内容。たぶん、自分も何かしら感じるものがあるだろうと思い読んでみた。

あらゆるものが、ただそこにあってよい

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(p.212)

この本を読みながら、最近SNSでよく見かける門脇邸のことが絶えず頭に浮かんでいた
と言っても、門脇邸を実際に体験したわけでもなく、SNS等でいくつかの感想や写真を目にした程度である。
どうやら、様々なエレメントがそれぞれがそれぞれとして振る舞い、そこにいても良いと感じさせる何かを生じさせている。らしい。

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある

あらゆるものが概念とは関係なくただただ、そこにある。そこにあってよい。

著者はそういう姿勢や空間に自分の居場所の感覚を重ね合わせているように感じたけれども、そこで生じた見逃しそうな小さな感覚を、しつこく、丁寧に言葉にしていこうという姿勢にはとても共感する。

また、建築という概念がフレームになるとすればそれ自体がブラインドになってしまうのだろう。そうならずに建築を追い求めるというのはどうすれば可能になるのだろう
この問いは、エコロジーという概念とモートンが目指すエコロジーとの関係にも重なる気がする。

とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。