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物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

高野 雅夫 (著)
ヘウレーカ (2021/8/20)

「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

「自然(じねん)」について

著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

(ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

子どもたちへ

先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

そう考えると少し心もとない。

森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。




進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)

ギヨーム・ピトロン (著), 児玉 しおり (翻訳)
原書房 (2020/2/29)

前回の記事に関連してレアメタルについて興味を持ったので読んでみた。
訳書は相性が悪いと読みづらく感じることも多いけれども、この本はテンポの良い文章でとても読みやすかった。

著者はフランスの地質地政学を専門とするジャーナリストで、レアメタルを巡る世界の情勢(特に中国)と各国の置かれた立場(特にフランスとアメリカ)を様々なデータや証言をもとに描き出す。

ある程度は知られてきている内容かもしれないけれども、私には新鮮な内容も多く(こう言ってよいか分からないけれども)とても面白かった。
今後、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換が必須であるが、その負の側面や不安定さを認識する上でも必読の書だと思う。

レアメタルに依存する世界と負の側面

エネルギー転換とデジタル転換に必要な技術は、様々なレアメタルなしでは成り立たない。

埋蔵量がレアというよりは、鉱石に含まれる量がほんの僅かで、精錬するのに大量の廃棄物を出す。(この本では丸型のパンから、パンを作るのに加えた塩ひとつまみを混じり合った状態から取り出すようなもの、というように比喩している。)
前回書いたように、その生産には大量の水やエネルギーを必要とし、重金属を垂れ流し、労働者に劣悪な労働を強い、生態系を破壊する。
さらに、今後、エネルギー転換とデジタル転換を果たしていくためには、30年間で、人間が7万年来採掘してきた量(過去2500世代分)以上の鉱物を採掘しなければならないという。(そんなことが可能なのだろうか)

我々が欲しているクリーンなエネルギーは、思っているほどクリーンではないし、その生産のために見えないところでかなりのCO2を排出している。

エネルギー転換とデジタル転換は単なる理想郷ではなく、犠牲を伴うものであり、多くの問題を転嫁し不可視化しているということは理解する必要がある。
そこを見失えば、期待した成果は得られず、新たな危機に直面するだけ、ということになりかねない。

中国が握る世界

また、この資源が全人類に平等に配分されるとは限らない。

レアメタルの多くは中国が押さえており、他の開発途上の資源保有諸国も中国に習い資源ナショナリズムが浸透しつつある。

さらに、中国は資源だけではなく、それにまつわる技術や製品の製造まで押さえつつある。
そのシナリオは、
・中国が環境規制の緩さや安い人件費などをもとに、レアメタルの価格を下げていく。
・各国が自国の資源ではなく、安い中国産の資源を買うようになると、先進国にもともとあった鉱山は採算が合わなくなり、閉山へと追い込まれ、自国で資源を確保できなくなる。ダーティなレアメタルが価格を下げ、(比較的)クリーンなレアメタルを駆逐する。
・中国は、安い資源の確保や人件費、広大な土地などを餌にして、採掘のできなくなった先進国の工場を誘致し、資源の採掘だけでなく、製品の生産まで行う技術を手に入れ、バリューチェーンのすべてを手中に入れる。
・先進国は、それによって資源の生産方法とそれにまつわる技術、そして多くの雇用機会を失う。
というものだ。

今や、中国は資源や部品だけでなく、多くの製品を製造できるようになっている。アメリカの軍隊でさえ、中国の部品に頼らざるを得なくなってしまっている。
そして、中国は資源の流通量や価格をコントロールできる立場にある。(「フランス人はブドウは売らないが、ワインは売りますよね?中国人はレアアースをフランス人のブドウ畑のように思っているのではないでしょうか。」つまり、資源は売らずに高付加価値な製品を売りつける!?)

2010年、尖閣諸島の問題で、中国から日本へのレアアースの輸出が滞った時のパニックを覚えている人も多いだろうし、まさに今、(中国に限らず多様な要因があるにせよ)建築分野でも、給湯器や便座、照明その他様々なものが入荷未定、もしくは生産中止の状態になっていることで、いとも簡単に足元が揺らぐ地盤の不安定さを実感している最中である。

矛盾した世界を生きる

今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
進むも退くも、どちらも茨の道だ。

矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。

しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。

一旦変革が始まり、常識が塗り替えられれば案外早い気もするけれども、そのために、何を捨てなければならないか。それを見極め決断・共有することは避けられないのではないか。
いや、捨てるということを、前向きで嬉々として取り組めるようなものへと変換する、魔法のようなメッセージの発明が必要なのかもしれない。

メモ

第1章

この「グリーンテクノロジー」は人類を第三のエネルギー革命・産業革命に導き、世界を変えようとしている。(中略)その資源は、21世紀の石油、「ザ・ネクスト・オイル(次の石油)」とすら呼ばれている。(p.10)

エネルギー転換を進めれば、15年ごとにレアメタルの生産を倍にしなければならない。人間が7万年来採掘してきた量以上の鉱物を今後30年間で採掘しなければならない理由のひとつがそれだ。(p.18)

化石燃料から開放されて、古い制度から新制度に転換することは、結局は以前より強い新たな依存を生み出しているのである。(中略)しかし、未来の世界を前代未聞の別の欠乏や対立や危機に置き換えようとしているだけなのだ。(p.19)

1tのレアメタルを精錬するには少なくとも200立方メートルの水が必要な上、使用後の水には酸や重金属が多く含まれる。その水は川や土壌や地下水に放出される前に浄化施設を通るのだろうか?それはまれだ。(p.33)

第2章

1枚のソーラーパネルを製造するのに、とくに材料のケイ素(シリコン)のために、70キログラムの二酸化炭素を排出するという。将来、年間23%増加するソーラーパネルの数からすると、ソーラーパネルの生産能力は年間10メガワット増加する。つまり、その増加分だけでも27億トンの二酸化炭素が大気中に排出されることになり、それは60万台近い自動車が1年間に出す排ガスに相当する。(p.44)

たとえば、2016年に公表されたフランス環境エネルギー管理庁(ADEME)の報告書では、「ライフサイクル全体を考慮すると、電気自動車のエネルギー消費はディーゼル車にほぼ近い。環境負荷については、電気自動車もディーゼル車も同等」と結論づけた。電気自動車が消費する電気の大部分が石炭火力発電所で生産されるならーオーストラリア、インド、台湾、南アフリカ、中国などー二酸化炭素の排出量はさらに多くなるだろう。(p.47)

アメリカの研究によると、一般的には情報通信技術(ICT)分野は世界の電力消費の10%を占め、たとえば航空輸送よりも50パーセント多い温室効果ガスを排出する。(p.51)

ともかく、どんなエネルギー転換、デジタル転換でも、地面にあけた穴から始まるのだ。土地に新たな犠牲を求めつつ、われわれは石油への依存を、レアメタルという別の依存にすり替えているだけだ。(中略)つまり、生態系への人間の活動の影響という問題を何も解決していない。(p.53)

「クリーン」と言われるエネルギーは、採掘がまったく「クリーン」とは言えないレアメタルを必要とする。むしろ、環境保護面から言うと、重金属の排気、酸性雨、水汚染などと紙一重なのだ。(p.61)

この観点からすると、エネルギー転換とデジタル転換は最も裕福な社会階層のためのものである。(p.62)

第3章

さらに有権者として、規則を強化するべきだと為政者に圧力を加えることもできるだろう。だが、多くの消費者はきれいな地球よりは「接続された世界」の方を好むため、そういうことはしなかった。(p.80)

偽善的なのか、認識不足なのか?ともかく、トヨタ生産方式は産業界の「メタルリスク」に対する責任回避を助長することになったのだ。(p.84)

供給網のグローバル化は消費財を与えてくれる代わりに、それらの出どころへの興味を私たちから奪った。(p.89)

われわれはレアメタル生産をよそに移転することで、”21世紀の石油”の重みをグローバル化の苦力に任せただけでなく、独占的地位を潜在的なライバルー中国に委ねたのだ。(p.89)

第5章

欧米が盲目に陥る発端には、ある「魔法のような思想」の出現があった。西洋で長い間支配的な考えだった永遠なる科学の進歩という幻想だ。(p.114)

「中国人は[1985年から2004年まで]タングステンの価格を下げ始めた。原料を安く買おうとする欧米諸国が欧米内で原料を買わなくなり、競合する鉱山が閉山するのを期待した」次の段階は想像できるだろう。タングステン生産の支配権を握った中国は、資源問題でドイツを脅し、彼らの製造業が資源の近くに来ざるを得ないようにする。そして、カット機械産業のドイツのリードを無に帰し、ミッテルシュタンドの柱である工作機械部門を獲得する・・・。(中略)しかし、それを予測したドイツ人たちは中国に競合するタングステン生産国(ロシア、オーストリア、ポルトガルなど)と合意を交わした。「ドイツ人は中国に依存しないよう、他国の鉱山を維持させるためにより高い価格を払う方を選んだ。)」(p.120)

第6章

「これらの企業はもちろん、中国の人件費の安さにつられたのだが、レアアースへのアクセスも工場移転の理由の一つだった。合計すると、何百万もの雇用が吸い取られたのだ。」(p.138)

しかも、化石燃料に変わるレアメタル資源を中国が独占し、その資源に依存するクリーンテクノロジー産業を吸収する戦略は、欧米の経済、社会、政治の危機を増幅した。(p.)

第8章

エネルギー転換の実際の環境負荷を評価するには、資源ライフサイクルのより包括的なアプローチが必要だ。たとえば、工業が消費する膨大な量の水、エネルギーの使用、貯蔵及び運送によって排出される二酸化炭素、まだよく知られていないクリーンテクノロジーのリサイクルの影響、こうした活動全体から生じるエコシステムによる汚染などだ。生物多様性への悪影響もある。(p.)

エネルギー転換を養護する人たちは、クリーンテクノロジーを機能させるための潮汐、風、太陽エネルギーなどのエネルギー源は無限にあるという。他方では、レアメタル業界の人たちはかなり多種類の資源がいつかは不足する可能性があると言う。(p.167)

現時点でのデータから見ると、「グリーン革命」は期待されたより時間がかなりかかりそうだ。なぜなら、この革命は適切な供給戦略を有する数少ない国のひとつである中国に先導されるだろうからだ。中国政府は世界の需要を満たすためにレアメタルの生産を急激に増やすことはしないだろう。(中略)そのために、中国では自国で生産したものを自国のために保持しようとしている。中国は現在、自国で採掘したレアアースの4分の3を国内で消費しているがーレアアースを供給できるのは中国だけだーその消費の推移を考えると、2025~30年にはすべてを国内消費するようになるかもしれない。(p.169)

このシナリオの蓋然性は次の3つの要因によってより強化される。
・まず、資源の希少さの否定。(中略)こうした警告から何十年経っても、現在の人々は変わらないばかりか、消費は増え続けるばかりだ。(中略)
・つぎに、鉱業インフラの不足がある。(中略)「将来の需要に答えられるだけの金属が十分に生産されていないというのが私の意見です。数字が合わないんですよ」とアフリカ人専門家は断言した。
・最後に、エネルギー収支比への挑戦。(中略)われわれの生産システムの限界は今日ではより明確になっている。つまり、(エネルギー生産のために)消費するエネルギーが生産するエネルギーを上回る日がやってくる。(p.170)

市場を不安定にする中国がいるために、それ以外の国の工業部門は、長期的に採算のとれる経済モデルを構築することが非常に難しい。(中略)鉱山再建を金儲け主義で促進する考え方では、中国のやり方には抵抗できないだろう。レアアースは資本主義の活力の鍵のひとつであるのに、その開発は資本主義の論理への挑戦を必要とする。(p.178)

第9章

しかしながら、環境保護団体の論理には矛盾点がある。持続可能な世界を望みながら、それが引き起こす影響を批判しているからだ。エネルギー転換とデジタル転換は油田からレアメタル鉱山への転換を意味し、地球温暖化との闘いは鉱山を必要とする。当然、その責任は引き受けるべきだと認めないわけには行かないはずだ。(p.184)

フランスでみんなが合意するのを待っていると、フランスの鉱山文化は消滅するだろう。(p.184)

汚染を引き起こす鉱業を外国に移転することは二重の悪影響がある。ひとつは、われわれのライフスタイルの芯の環境負荷を知らずに、これまでの消費生活を維持することに貢献すること、もうひとつは、環境破壊のやましさがまったくない国に、欧米で生産するよりずっと劣悪な環境で採掘・精錬することを許してしまうことだ。
反対に、フランスなど欧米に鉱山を戻すことは二つのポジティブな効果がある。まず、現代人の生活、「接続性」とエコロジーが高く付くことを、われわれに気づかせてくれることだ。(中略)別の言い方をすれば、汚染を食い止めることに熱心になれば、環境保護対策が進歩し、大量消費の生活様式が大幅に見直されるかもしれない。
このシナリオが実現すれば、中国の鉱業活動は欧米の鉱業の競争力に苦しめられるかもしれない。(中略)こうして、欧米に強制されたエコロジーの競争に中国のエコロジーは勝てるようになるかもしれない(p.185)

エピローグ

われわれが一緒になって目指すこうしたテクノロジー発展の意味はなんだろうか?やり遂げる前に既に重金属でわれわれを蝕むエコロジー移行を推し進めるのはばかげているのではないだろうか?新たな健康被害や環境破壊が生じるとしたら、物質的幸福によって儒教的調和を称えることが本当にできるのだろうか?あるいは、その反対だろうか?(中略)産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。(p.199)

最良のエネルギーとはわれわれが消費しないエネルギーだ。(p.200)




システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。