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B125 『ウェブ進化論 -本当の大変化はこれから始まる』

梅田 望夫 (著)

筑摩書房 (2006/2/7)

遅ればせながらもやっと読みました。

もう2年近く前の本ですがさすがに面白かった。読み進めるごとに目の前がクリアになってその先に拡がっている可能性にワクワクと興奮しました。

ここで書かれているような事を、僕はちょうどこの2年のあいだにリアルに体験したような感じだったので「あー、この可能性を享受してるんだな」とその体験の復習という意味合いも強かった気がします。

著者の楽観主義に対する批判はあるようですが、その楽観主義も「あえて」のものだし、一つの大変化の節目となる著作であることは間違いない一冊です。もし未読の方がいましたら一読しておいて損はないでしょう。

ところで、この変化と変化に対して理解を深めることは僕自身にとってどういう意味をもつのでしょうか。

google等の提供する検索や「あちら側」のさまざまなサービスが生活そのものに大きく関わっているのは間違いないし、すでにこれらのサービスがない生活を想像するのが難しくなっています。

また、本書内で小泉圧勝についての項で書かれているように、大きな流れを生み出す力が開かれたこともそれがどういう方向に向くかは別として大きな意味を持つでしょうし、個人が何かをしようとしたときに大きな可能性が開かれたことは喜んでいいと思います。

まぁ、単純に便利、楽しくなったとも言えるでしょう。

では、建築の設計という仕事を考えたときにどういう意味があるかと問うと、まだ明確なイメージはありませんが、建築の一回性や設計の個別性を考えたときに案外ネットとの相性はいいんじゃないだろうかという気がしています。

ちょっとうだうだと書いてしまいますが、まず、自分の建築に対する考えをプレゼンテーションするツールとなります。分厚いポートフォリオを常に持ち歩いていなくとも、URLを書いた名刺がその代わりになりますし、名刺を渡さずとも知らない誰かがみてくれる可能性が広がっています。(実際はリアルベースのポートフォリオの方が説得力がありますが)

また、ロングテールで考えた場合、例えばハウスメーカーなどは明らかに恐竜の首でしょうし、小さい事務所は尻尾の方の存在でしかないでしょう。同じく顧客候補者の層も恐竜に例えた場合、ハウスメーカーでいいや、という層が首や胴体の方に存在し、生活にこだわりや信念のある多様な人が尻尾の方に存在します。

アマゾンなどのロングテールとは規模や意味合いが違うかもしれませんが、尻尾同士のマッチングが成立する可能性は大きくなったのではないでしょうか。

ただ、そのマッチングシステムはほとんど整備されていない気がします。ハウスコンペの類もありますが、ウェブの特性を特別活用しているものではないし、 設計者の負担を強いることで成立しているシステムでもあります。

設計事務所にとって相性の良いお客さんにめぐり合うことが最も重要なポイントなのですが、ウェブを特効薬的に利用するのはまだ難しいかもしれません。

とりあえず、ブログなどでのプレゼンテーションをし続けることしかない気がします。リンクを貼ってもらったりとネットワークが広がっていけばいずれ効果が出るかもしれません。(今はまだネット上の孤島のような存在ですが・・・)

ただ、営業営業したのはネットにそぐわない気がするし、最終的には設計というコンテンツが命です。

こつこつと楽しんでいきましょう。




If architects had to work like programmers…

僕も泣いた。

>惰訳 – 建築士がプログラマーのごとく働かねばならぬとしたら(404 Blog Not Found)

でも、笑えない・・・・・。

(ローカライズの変更はやっぱりねって感じ。)




サツマティック

先日、新聞やニュースでも取り上げられたので知ってる方も多いと思いますが、鹿児島を本拠地にして全国で活躍する3人のアーティスト(ohtematicさん、chinatsuさん、たけいしょういちろうさん)がNYで「サツマティック」という展覧会を行います。

ちょうど今オープニングレセプションで焼酎飲んでるころでしょうか。

企画したブレストの丸野は高校からの付き合いなのですが、(最近全然会ってません。連絡もなかなかつかないっす。)ずっと前からこういう発想をもっていて話をきいていましたが、着実にそれを実現していっている、という感じです。

単なる空想ではなく「田苑酒造」をスポンサーにつけてくるあたりが流石。

ローカルゆえに持てる強みというのをどう活かして勝負するのか。

その一つのヒントになると思います。

また、ここには3つの目線があると思います。

(A)ローカルな内向きの目線

(B)ローカルをしっかり見ることによって生まれる、外(世界)への目線

(C)外(世界)に目線を向けることによって生まれる外(世界)からローカルをみる目線

それによってさらに(A)の目線が磨かれる。

この3つの目線がぐるぐるとスパイラル状に登っていくイメージが浮かびますが、そのベースとなるスタート地点にはやはり(A)の目線の追求が不可欠な気がします。

(実際は外ばかり見ているか、内側しか見ていないかのどちらかが多いように思いますが)




いよいよ

ykh2.jpg
今日鹿児島で屋久島のお施主さんと打ち合わせをしました。

外壁材等若干変更になったのでイメージを組みなおしますが、おおむね方向が決まりました。
いよいよ実施設計に入ります。
32歳、建築男、最高の図面をばちィ~っと納めてみせるバイ!(※)
ここ参照




竣工パーティ

nkkk.jpg
土曜日に、担当していたK高校の百周年記念会館の竣工パーティがあったので行ってきました。

改めて多くの方の協力の下で完成したんだと実感。

当然、それゆえの難しさもありましたし、多くの人が設計に関わるときの進め方など個人的な課題も多々見えました。

話はそれますが、そんな竣工パーティで一番気になったのは実は新会館で行った生徒の発表。

「高校生母国を語る~過去・現在・未来をふまえた国際貢献の可能性」というテーマの高校生フォーラムで発表したものだそうです。

全体の流れとしては

過去:「郷中教育」 の紹介

現在:アメリカ的な個人主義(利己主義)、利益優先主義が広まり、いろいろな問題が起こっている。「公」より「個」のウエイトが大きくなってしまった。

未来:「公」を取り戻さないといけない。

提案:新しい武士道を実践する必要がある。郷中教育を見習い武士道を教育し、人を育て、その精神を示すことで国際貢献する。

というような感じだったと思いますが、最終的に道徳論のようなところにいきついてそこで終わってしまっているのが少し気になりました。

武士道が大事というのはそれでも良いと思いますが、ではなぜそれが失われたのか、それを取り戻すにはどういう壁があってどういうことをしないといけないか。そこから先にむしろ問題や提案があると思うのですが、抽象論や精神論で終わってしまって具体的な有効性を 突き詰めないところが日本的だなぁと。

例え稚拙であっても具体的な提案にまで踏み込んで欲しかったし、「じゃあどうすんの」とか「ほんとにできるの」とかの突込みを大人は入れても良かったんじゃないかと思いました。

実際には(僕にとっても)難しいことだと思いますし、高校生につっこんでも仕方がないのですが、前に読んだ本とのギャップをすごく感じたので。

すみません、つっこみすぎでした・・・。




B124 『「個」を見つめるダイアローグ』


村上 龍 (著), 伊藤 穰一 (著)

ダイヤモンド社 (2006/5/26)



JMMは6,7年前から購読しているのだけど(といっても、この頃はざっと拾い読みぐらいしかしてない・・・・)、そのころから村上龍が一貫して気を使っているのは、主語や目的語を曖昧にせず、言葉の定義や対象に意識的であることだと思う。

「日本は」とか「市民は」とかいう曖昧な言葉にイメージをのせてなんとなくそれらを共有して分かった気になる。

分かった気になるだけで、実は「1万時間話しても、問題すら見えてこない」はずなのに、ぼんやりしたイメージで満足してしまう。

そういうなんとなくで済ませて先送りにしてきたことがいろいろな問題となって噴出してきているのではないだろうか。

それぞれの立場や議論の前提を明確にする。そういう基本的なところから始めないといけない。

キーワードは「個」。

曖昧な全体のイメージの中に自分を溶け込ませてごまかすような事をやめ、個々が個々として、意志をもって考え行動する。そんな積み重ねがまちを動かすようになればきっと楽しい。




B123 『ウェブ人間論』

梅田 望夫 (著), 平野 啓一郎 (著)

新潮社 (2006/12/14)



先日川内でかえる文庫した本。
実は梅田氏の『ウェブ進化論』は読みそびれてしまったのと、各所で言及されているのでなんとなく読んだ気になってたのとで未読。近々”前提”としては読んでおこうと思っているところ。

本書は1960年生まれの梅田氏と、僕と同じ1975年生まれの平野氏との対談なのだが、梅田氏の方がウェブ世界の変化を不可避なものと受け入れてそこでサヴァイブしながら楽しもうと吹っ切れているのに対し、平野氏の方がウェブとリアルの世界の変化に慎重な態度をとっていたのが印象的だった。

新しい技術などによって生活習慣や価値観などが変化し、それがやがてスタンダードとなっていくのは人類が繰り返し経験してきたことだし、梅田氏にはおそらくそういう歴史を踏まえたうえでの人間に対する最終的な信頼のようなものをもっているのを感じた。逆に平野氏の方がその変化を若いころに生々しく経験したのと、職業柄、個の人間のより深くまで入り込んでしまうため、より危機感のようなものを感じてしまうのかもしれない。

あとがきで梅田氏が

平野さんは、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である。(中略)私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるがゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える。

と書いているがこの違いはどちらが正しいということではないにしても本質的な違いがある気がする。

僕がどちらの感覚に近いかというとリアルなものに対する危機感という点では平野氏に共感する。しかし、ネットの可能性という点に限ればどちらかというと楽観的かもしれない。

平野氏が

実は僕たちが公私の別を言うとき、そこで言う「公」というのは、僕たちがどんな人間であるかというのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会的領域に過ぎないのではないか、ということです。そうした時に、「ウェブ」という言葉でアレントが表現したような、人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないかということ僕はちょっと感じているんです。(平野氏)

というようにアレントを引用していたが、アレントの言うような”奪われてしまった公的 なもの”をウェブが取り戻す可能性は大いにあるように感じた。

また、僕はウェブの世界にはわりと楽観的だけれども、単純にリアルな世界からリアルさが奪われていくのがやっぱり心配だ。(例えば町並みや触れる素材や温度や匂いや・・・・職業柄そんなことが気になる。)

ウェブをサバイブするにしたって、リアルな世界での土台のようなものは必要だろう。リアルな世界ですでにウェブをサバイブするための土台のできている人・世代はいいかもしれない。だけども、これから育つ子供たちがそういう土台を獲得できるかというとだんだん心配になってくる。(そんな土台は新しい世代には不要だ、とはちょっと思えないし。)

ウェブの進化によってリアルが不要になるのではなく(子供たちにとって特に)より重要になるのではないだろうか。

ただし、もしかしたら逆にウェブによってリアルに対する興味や接点が増すのではないかとも思っている 。

そう願いたいし、 そういう接点をウェブに編み込んでいくのが僕たちの世代の使命の一つかもしれない。




B122 『博士の本棚』


博士の本棚

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/国内純文学


久しぶりの本が好き!から。

『博士の愛した数式』の著者のものでどういう世界観に触れられるだろうかと思って読んでみた。

しかし、読んでみてよく分かったのは僕が「本が好き!」 というのが恥ずかしいぐらい本を読んでいないということ。

この本で最初に出てくる書名が『ファーブル昆虫記』なのだが、これは小学生2・3年のころに読んだ記憶がある。なかなかの出だしだと思ったら、そこから先読んだことのある本が全く出てこない。一冊も。(いや、これと並行して読んだ『ファインマンさん最後の授業』が唯一引っかかった)

何を隠そう、僕は小学校高学年から高校卒業まで本を読むことがどちらかというと嫌いだった、というより自分が影響されるのが怖くて避けていた。 (この期間で自発的に読んだのはマンガとミヒャエル・エンデの『モモ』ぐらいしか記憶にない)読書に関しては、まさしく大学デビューなのです。(それでも小説等はあんまり読んでませんが・・・)

そういうわけで、知らない本ばかりでなかなかチューニングが合わずに本書に没入できませんでした。

ですからここに収められた文章は皆、何の手がかりもない暗がりの中で、どうにかこうにか搾り出したものたちです。<あとがきより>

もし、同じ本を読んでいたらその搾り出したものに『そうそう!それを言ってほしかった』と共感することもあったのでしょうが、同じ本を読んでいない僕としてはその”搾り出した感”ばかりが目に付いてしまってうまくノレなかったと言うのが正直な感想です。

(個人的には『 何の手がかりもない暗がりの中で、どうにかこうにか搾り出した』というのは書いちゃいけないような気がします。そういうことを気付かれないように、というより逆に書くことの喜びに溢れているように書いて欲しかった。)

ノレれば凝縮された時間のようなものが浮かび上がって来そうな予感があっただけに、残念。波長が合う人には(波長が合う時期には)著者の目指しを共有できて気持ちの良い本なのかもしれません。(実際、他の評者の方は多くがそういう感じの好評価でした。)

うーん、とりあえず村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』でも読んでから再読してみようかなぁ。




問題。。

薩摩之風さんからの問題

【問題】

赤い帽子が4つ、白い帽子が3つの計7つから5つ選んで、A~Eの5人にかぶせた。

彼らは他の4人の帽子の色は見えるが、自分の帽子の色はわからない。

いま、5人に対して自分の帽子の色がわかる人は手を挙げろと言ったら、誰も手を上げなかった。

しかし、しばらくしてもう一度同じ質問をすると、何人かが手を上げた。

このとき手を上げたのは何人か?

そんなにパターンがないのでそれぞれ考えてみる。

1)赤0白5

白3までなので×

2)赤1白4

白3までなので×

3)赤2白3

赤かぶっている人から見えてる状況(以下(赤状)):赤1白3

>自分が赤だと分かるので1回目で挙手なので×

4)赤3白2

(赤状):赤2白2

(白状):赤3白1

5)赤4白1

(赤状):赤3白1

(白状):赤4白0

>自分が白だと分かるので1回目で挙手なので×

6)赤5白0

赤4までなので×

よって4)についてのみ考えればよい。

あれっ、いくつか可能性が残って、その中で白か赤どちらかのみが最終的な判断ができる。という流れかと思ったら一つしか残らなかった。

1回目挙手0人だとすると4)が確定。すると他の人をみると自分の帽子が 確定できるから、答えは全員挙手(5人)。(うーん、なんかすっきりしないから違うかも・・・)

赤白帽で有名どころを2題思い出しました。

【問題:4人の死刑囚】
4人の死刑囚がここにいます、その死刑囚達は幸運で
看守達のゲームに答えられれば死刑を無しにしてやろう、と言われました。
そのゲームとは自分の被っている帽子の色を当てるゲーム。

囚人A、B、C、Dの4人はある1つの部屋に入れられ
Aは図でいう左、その後ろ(図でいう右)に壁、そしてB・C・Dの順番で階段の用に右にいけば行くほど
高い位置に立つようになっています。さらに囚人達にはある5つのルールが課せられました。
※画像を見てください。

ルール1:帽子の色は赤か白のどちらかであり、数は2つずつの計4つである。
ルール2:全員は必ず前方(図で言うと青)の方向を向かなければならない。(画像だと矢印の方向。赤い方向は見れない。
ルール3:自分の帽子の色を『確信』した場合、必ず『合図』を出しなさい。
ルール4:『合図』以外の言葉は(「Bは何色だぜ」など)は決して発してはならない。
ルール5:『合図』は4人全員が聞こえるようになっている。

つまり、ルール2の決まりで、囚人CはBの帽子を、囚人DはBとCの帽子の色を見ることができる。
Aは何も見れない、Bは壁のみを見ることができる。

必ず死刑を免れることができるのはABCDのうち誰か?

※『合図』は「俺は○色だ!」などではなくただ単に「分かった!!」。

syuuzin.jpg

【問題:うそつき村】
旅人が分かれ道にやってきた。片方は正直村に、片方はうそつき村へと続いている。旅人は正直村に行きたいのだが、どっちが正直村なのかがわからない。そこに村人がやってきた。旅人はこの村人に一回だけ質問をして正直村に行く道を見つけだすにはなんと聞けばいいか?ただし、村人は正直村、うそつき村、どちらかの住人ではあるが、どちらの住人かわからない。また、正直村の住人は必ず正直な答えをし、うそつき村の住人はかならず嘘の答えをする。

答えは忘れましたが検索すればネット上にあります。
・・・となんだかネタの切れたさえない合コンみたいになってきました。(というか、その昔さえない合コンとやらで出されたネタですが。)別に解かなくていいですよー。

あーーーーー、また貴重な昼寝の時間が・・・




メタボザウルスは死んじゃいない(はぁ~~とかいってたら駄目やなぁ。)

9/27に解体予算が市議会を通過した都城市民会館。

その保存運動で走り回っているヒラカワさんの最新記事を読んで”はぁ~~とかいってたら駄目やねなぁ”と思いました。

この間のシンポジウムで彦坂氏の言葉に心を打たれたのも確かなのですが、実はそれよりもヒラカワさんの姿が印象的でした。

非常に厳しい現状の中、ヒラカワさんは絶えず笑顔で訴えかけていました。少し会場が重いムードになりかけていた中の最後のシメもとびきりの笑顔でした。

そんなヒラカワさんの姿を見ると、不思議と市民会館は残せるんじゃないだろうか、いや残そう!といった気持ちが沸いて来るのです。

それに比べて僕のこの前の記事はいけませんでした。ここでああいう記事を書くのは解体を認めたようなものだし、諦めムードを助長するものでしかありませんでした。言霊ではないですが、ああいうことを口に出していてはいい結果が得られるわけもありません。

ただ、これまでの体験を通して、運動は楽しくやることが必要だと考えます。そして、組織のための運動にならないように、あくまでも会館の保存が目的であり、みんなで楽しくやる運動が長続きするし、結果的によい結果をうむだろうとおもっています。

上意下達的な組織体も望みません。各人が自発的にアイデアを出し、それぞれが多彩に波状的にやる運動がベストです。そして、それぞれに協力できることをして楽しむ。ただ、好きなようにといっても、最低限のル-ルはあります。第一に、保存運動を体制批判に結び付けないということでしょう。わたしたちは市と市民の将来のために会館を保存したいと考えているわけであり、人とケンカすることが目的ではありません。第二に、人をあてにしないということです。やれることを考えて自分でやる。組織ができて、役員や幹部が決まると、なんとなく彼らがうまくリ-ドしてくれて、うまくやるだろうとまかせてしまいがちですが、そうすると、うまくいかないときに、そのことの不満を、彼らに抱くことになります。ひとの協力を求めることは重要ですが、あてにして、くだらない不満を抱くことは不幸なことです。そうなる前に、積極的に自分で動くことがいちばんです。(都城から建築をこめて『まだまだ続く市民会館』より)

ここから学べることはたくさんある気がします。

市民会館はまだ解体されていません。
最後の最後に都城はすばらしい決断をしてくれるはずです。
まだまだ市民会館は続きます。




B121 『ファインマンさん 最後の授業』

レナード ムロディナウ (著)

メディアファクトリー (2003/11)


チャビンさんのNoseGlassでかえる文庫したもの。

物理学の最前線という想像力の最も要求される場所の様子が垣間見れて面白かった。

ファインマンさんは著者との会話の中で「それで君は?」というように 自分自身がどう感じたかのかを何度も聞き返す。

そこにファインマンの自由さと創造性が垣間見える。

想像力(創造力)を要求される場では 、小さな雑音にもすぐにかき消されそうな内なる声を聞き取ることが求められる。ファインマンはそれを何事にも好奇心を持って楽しむスタイルとして確立している。(おそらく他の学者もそれぞれのスタイルがあるのだろう)

・・・これは全て自己満足だ。ファインマンの焦点は内側に向き、その内なる焦点のおかげで、自由になれたのだ。

ファインマンさんの何事も自由に楽しむスタンスを見て、『子どものための哲学対話』の『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』っていう一節を思い出した。

一方でファインマンさんは

個人的なレベルで自分自身を理解するなんて、どういう意味かも分からないね。よく、みんな、「自分がどういう人間か知るべきだ」なんて話してるのを聞くけど、何の話かさっぱりだ。

とも言う。

ファインマンさんの『内なる焦点』と今時のいわゆる『自分探し』、違いの決め手はどこにあるんだろう。

やっぱり内と外との違いだろうか、それともただ、結果を出せたかどうかの違いなのか。

あと、何より気になるのは、この本の途中のページにべったりとキスマークが付いてることと、裏表紙と背表紙にどうも図書館のバーコードを隠すような形で『リサイクル本』といういかにも手作りの紙が貼り付けられていること。こいつは僕の手元に来るまでどういう道をたどってきたんだろうか。




はぁ~~~~

・「現代建築の傑作」解体へ(2007/09/28付 西日本新聞朝刊)

・都城市民会館来年1月にも解体(asahi.comマイタウン宮崎)

・市側は淡々、反対市民は落胆都城市民会館解体決まる(2007/09/28付 西日本新聞朝刊)

はぁ~~~~
やるせないです。

ハガキを出すときには一抹の期待を抱いていたのですが・・・・。

壊すのは簡単(といっても2億5千万もの費用がかかります)ですが、もう二度と取り返せません。この作品を生んだ時代の空気も二度と繰り返すことはありません。

これが都城が選んだ未来なのだとすれば、僕は二度と都城には行きたくない。

はぁ~~~~建築なんて無力だな・・・

追記)

都城市議会で、同市民会館のアスベスト除去費を含む解体費(約2億5000万円)が盛り込まれた補正予算案が賛成25、反対14の賛成多数で可決された27日、保存を訴えていた市民団体などには落胆が広がった。一方、市民アンケートなどを実施し「十分な議論を行い、費用面も考慮して最善の結論を出した」としていた市側は淡々とした表情で議場を見つめた。(2007/09/28付 西日本新聞朝刊)

賛成25、反対14ということはおよそ36%の人(といっても議員が必ずしも市民の声を代弁しているとは限りませんが)が反対をしているということだし、たった6人の人が反対に回るだけで否決されたということ。それに市民アンケートの手法自体もかなりあやしい。(詳しく知らない人はおそらく解体と答えるとような誘導的な質問内容。また、なぜそんなに解体を急ぐのだろう。)

シンポジウムに来られていた現代美術家の彦坂尚嘉氏が(ほとんど涙ながらに)都城市民会館をダビンチと同格の超一流のものであるとし、日本では<一流>のものは残されても<超一流>のものは残らない、と嘆いていらっしゃいましたが、ダビンチに匹敵するようなものの存続を議員の多数決で決めてよいのでしょうか。

(同じくシンポジウムに来られていた、DOCOMOMOJapan幹事長の兼松氏のブログでも同じようなことを言われていますが、本当に彦坂氏の言葉には心を動かされたのです。あの場に解体派の議員が一人でもいたのでしょうか・・・。まったく。)

しかし彦坂尚嘉さんの論考を聞いていて、そういう想いや思索がふっとんでしまうほど心が動かされた。
もしかしたら人類の遺産「都城」にあるダビンチを、失ってしまうのではないかという焦燥感に襲われたのだ。
彦坂さんは言う。
都城市民会館は異形という言葉では言い顕せない「超一流」。
そして若くしてなくなったロッククイーンといわれた、類型の無い、不世出のジャニス・ジョプリンに触れながら述べる彦坂さんの、涙している心をも垣間見てしまったからだ。
天才のつくった超一流を、多数決で壊していいのだろうか!

はぁ~~~~




Wine.B.Cellarの定理

winecellar.gif
上の図をご存知だろうか。Wine.B.Cellarのパラドックスといわれる図である。
同じ図形を使っているのに面積に違いが生まれているのがお分かりだろう。
この図形を発見したCellar氏は研究を重ね「幾何学において得られる結果は、さまざまなありようの中の一つの可能性に過ぎない」というWine.B.Cellarの定理を発表しこれによって2006年にノーベル幾何学賞を受賞している。
この後さまざまな人がWine.B.Cellarのパラドックス図形を発見し、今では幾何学の計算などによって求められる結果には最大5%程度の誤差が生まれる可能性がある、というのが数学者においての常識となりつつある。
しかし、ここからが問題なのだが、中学や高校の数学にこの定理を適用するかどうかが問題となっており今の段階で見送られている状況。数学教師の中にはこの定理を知らないものもいるようで、数学好きの生徒に詰め寄られて困惑するということも頻発しているようだ。

というのはもちろん嘘で(完全にでっちあげです)、上の図はこの記事からの転載。この絵をみて一瞬ありえないと思ったのですが、ありえないことがあるはずがないと思ってしばらく考えてしまいました。そんな中ありえないことがありえたんだったら面白いなぁと思う自分もいたり。
例えば学校の幾何学のテストで微妙な数字の違いで間違えたときに、この記事の上の部分だけプリントして「先生、これってWine.B.Cellarの定理による誤差の範囲内だから正解じゃないっすかぁ?」と数学教師に突きつけてみたらどういう反応が返ってくるだろうか。
その反応でその教師が数学をどれだけ愛しているのか、どのように愛しているのかが分かるかもしれません。(鼻で笑われるかもしれませんが・・・)




B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

倉方 俊輔

王国社 (2005/09)
都城のシンポジウムにも来られていた倉方さんの著書。

この時の倉方さんの発言が 理路整然としていて分かり易く、頭のいい人だなぁ、と思ったのと、コルと吉阪の両者は最近僕の中のキーマンとして再浮上してきていることもあって図書館で借りてきた。

コルビュジェという「個性」に出会い、吉阪隆正という「個性」が誕生する様子がよく分かる。

コルビュジェは多面的な要素を内包しつつもそれをうまく調整しながら 対外的に立ち回ってきたように思うが、吉阪はその多面性を引き継ぎつつそれを拡張し続けたように思う。それが、吉阪のつかみ所のなさと魅力になっているのだが、倉方さんの”つかみ所のなさに苦労しつつもその魅力をなんとか伝えたい”という思いが伝わってきた。

さて、吉阪はコルからなにを学び、私たちは彼らから何を学ぶべきだろうか。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。

彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。

吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。

多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。
しかし、コルは多面性を引き受けつつも魅力的な解釈を生み出し、決定していく強さを持っていた。
それこそがコルの一番の魅力であろうが、吉阪はそこに惚れ込みコルの持つ強さを引き継いだ。とすると、まさにその強さによってその後の「対照的なものを併存させる」ような思想を展開することが可能となったように思う。

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(括弧内追記・強調引用者)

多様性や格差が言われる今の時代に多面性を引き受けずに単純な結論を出すことはおそらく不可能だと思う。(誰のための必然・結論か、という問題が必ず現れる)

そんな中にあっても、多面性を引き受けその中に意志を見出し決定する勇気は、今こそ必要であろう。

そういう勇気と決断力を持ち、形にしていく(イメージ化し実践する)能力があり、またそれを「あそび」へと 転化できるような才能が待たれているのかも知れない。




B119 『海馬 脳は疲れない』

池谷 裕二 (著), 糸井 重里 (著)

新潮文庫 (2002/6)


たこ阪さんのところでかえる文庫した一冊。

いやぁ面白かった。対談形式(しかも糸井メソッド)なので読みやすいのはもちろんのこと、目から鱗な話がもりだくさん。

ちょっと前半部分の目から鱗をメモ代わりに挙げてみると

・年をとると物忘れがひどくなるというのはうそで、引き出しが多くなるので探すのに時間がかかるのと記憶の方法が暗記メモリー法から経験メモリー法に 変わるため。

・ストッパーをはずせ。

・つながりの発見が大事。つながりの可能性はべき乗で増える。

・脳は疲れない。

・頭は歳をとってもよくなる。

・ヤル気はやる前には起きない。やり始めてからヤル気が起きる(作業興奮)

などなど。

こういう話と日常のふとした感覚をつなぎ合わせていくところが糸井さんのうまいところなので、本当の面白さは本著を読んでみないと分からないけれど。 (そういう意味では各章の最後についているまとめはちょっと余計かな。ここが面白かったというところがまとめに挙げられてなかったりしたし。)

池谷さんが受験勉強で数式も覚えず経験メモリーを駆使していたというのは、あっやっぱりっていう感じ。僕も暗記はめちゃくちゃ苦手だったので いつもどうすれば覚えることを少なくできるかを考えていた。

この本を読んで一番思ったのは、『俺は馬鹿だから』とか その手の言葉を使うことが、どれだけ可能性をなくしてしまうもったいないことかということ。

その言葉を使うことで 『俺は馬鹿』な状態を固定してしまうし、脳が生き生きと活動する機会も失ってしまう。(自分の子供にも この手の言葉は使ってもらいたくない。)

うーん、『進化しすぎた脳』も読みたくなりました。(思えばdan氏の書評が『本が好き!』を知るきっかけで、その結果たこ阪さんを知って、その結果同じ池谷さんの本を読んでたりしてる。面白いなぁ)




勝ったどぉ~~~

明日以降、天気が大きく崩れるということで、今日はドライブに行きました。

出発前には唐船狭でそうめん流しを食べて指宿のなのはな館あたりでゆっくりしようか、と言っていたのですが、急に、串木野のまちの雰囲気(港やパラゴンとか)と阿久根の海を味わいたくなって北薩方面へ予定変更。

あいにく天気は崩れてあまり味わえなかったのですが、そういえば途中に川内がある、ということで慌ててカバンに本を詰め込んで、阿久根の帰りに川内のたこ阪さんに寄ってきました。(ごちそうさまでした~)

たこ焼きは久しぶりでしたが、生地の味が生きてておいしかったです(塩との相性が良かった)。そして少しお話させていただいてかえる文庫で4冊の本をゲットしてきました。本を読むペースを落としているのでいつになるかは分かりませんがいずれこれらの本も記事に書こうと思います。

夜、家に帰ってブログをチェックしてみると 薩摩之風さんが僕のこないだのエントリーとたこ阪さんのエントリーを受けて地方についての記事を書かれていました。(たこ阪さんへのコメントで暗に参加要請したのが届いたのか・・・)

はじめに、僕の記事を受けてのたこ阪さんの記事についてですが、その前の僕の記事が少しまずったなぁ、という印象でした。

何をまずったかというと、 あの記事は僕の個人的な思い入れやライフスタイルの問題をそのまままちづくりに直結させた書き方をしてしまったので、それは無理だわなぁと当然なってしまいます。そしてそこを鋭くつっこまれてしまいました。あいたたた。

そして、その後の薩摩之風さんの記事を読むと、あっ、結構言いたかたこと言ってくれてるやん、という感じでした。(実は他のエントリーを読んで、なんか援護射撃してくれそう、ってことでコメントで暗黙の参加要請をしたのでありました。他力本願ですが・・・)

僕が言いたかったのは、まさしく『モノサシの逆転』だし、その結果『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なれれば良い、ということだったのです。(再び、他力本願)

まぁ、それだけで全てが好転するとは思えませんが長期的な視点で見たときの一つの可能性であると思うし、そういう可能性を受け入れる懐の深さを地方は持って欲しいという希望でもあります。

また、この記事を読んで僕が考えたのは、『エコカッコイイ』を一般化し 『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なるためには、思想をリードする”カリスマエコカッコイイナー”が必要だということ。(薩摩之風さんの記事では”ナイキとか”)

僕が前の記事で書いた”イメージ化”とつながりますが、” カリスマエコカッコイイナー”はそういうライフスタイルを体現しつつ活動を行っている(または行おうとしている)アーティストやデザイナーが向いているんじゃないかと思います。(実際そういう方もいらっしゃいますし)

そこで、僕の提案は” カリスマエコカッコイイナー支援プロジェクト”。

そういう活動をしている人(したい人)にある程度の支援を行い、我が地域を” カリスマエコカッコイイナー”が集う聖地とすること。それによって、地域のブランド化および地域住民の意識の転換を目論む、というもの。

空いている民家や施設の部屋を貸し出したり、一定の活動費を援助するのは地方財政の全体から見るととその効果に比してそんなに大きなウェイトにはならないんじゃないでしょうか。

なんてことを考えました。(もう一度書きますが、これらは一つの可能性でしかありませんし、これだけで地方が変わるとは思えません。ただ、やれる範囲でひとつひとつ実践して全体を押し上げるしかないと思います。)

え~、前置きはこれぐらいにして、今日のタイトルについてですが、今日、川内から帰る車の中で妻が『ビリーのDVD、最近見ないと思わない?・・・・友達に貸した。』と告白しました。そう、妻があの戦いの敗北宣言をしたのです!
やりました、ついに勝ちました!
まぁ、妻にしてはよく頑張った方だと思います。(とは言っても最初の数日以外はやってるところを見たことがないのでいつまで続いたのかは・・・)
これで、日本の将来は安泰です。おまけにこれはまさに”エコカッコイイ”を推進するためのウォーミングアップのようなものでもありました。これで、地域の未来も明るいと言えるでしょう。僕が必死にチャリンコをこいでる姿は今の価値観では決してカッコイイものではありませんが、いずれこれがカッコイイの最先端になり、皆が「そういえばお前は昔からエコカッコ良かった」などと言ってくれるようになるはずです。どうしよう。




地方はどこへ向かうのか。(草稿)

またまたですが、たこはんさんのエントリーを読んで。

この本は未読なので読んだらまた別にエントリーを書きますが、とりあえず今漠然と考えていることについて。

反論の余地のある未熟な考えであることは分かっていますが、(草稿)ってことでおおめにみて下さい。また、自分が実践できているわけではないので自戒の意味もこめて書きます。

たこはんさんの意見にだいたいにおいて共感するのですが、まだ僕の中で整理のついていないのは以下の部分。

前々から感じているのですが、地方というのはもう都会へ供給できる商品がないようなのです。グローバリズムっていうのには抗えないのです。

グローバリズムには一定の価値を強要し、同じステージに乗りなさい、という強制力や暴力性があると思うのですが、これと同じ方を向いているときっと上記引用の通りだと思う。

もともとグローバリズム自体が搾取する構造をもっているのだから、これに乗ってはやっぱり絶望的になる。

だからといってどうすれば良いかはよく分からないけれど、ベクトルを都市に向けるんじゃなくて今生活している地域そのものへ向けないといけないんじゃないだろうか。

そして、グローバリズムの価値観をずらして地域へと向くためにはグローバリズムに着せられている鎧を一つずつ脱いでいかないといけないように思う。

都市化とは外部への依存化を進める過程ともいえるけど、そこから自由になるにはそういった鎧(外部依存)を一つ一つ脱ぎ捨ててそれを生活への楽しみへと変えていき、それによって求心力を得るしかないのではないだろうか。(都市化の進んだ場所では鎧を脱ぎ捨てることはかなり困難でしょう。また、それが楽しみとなって求心力を得られるのが理想。そのためにイメージ化と実践が必要)

今一度、足元にある生活を見つめなおすこと。都会がどう転んでもできないことを楽しむこと。そして、幸せのイメージを育てていくこと。(幸せという言葉は使いにくいですががんばって使ってみた。)

そのためには『イチロー? 誰それ?』という強さ・感受性を育てることも重要になる。(ですが、知識による武装は必要です)

ただ、そういうイメージを育てていくことが難しいことは理解しています。

少し前にラジオで食育の話をしていて、『 今の大人世代にむしろ食育が必要だが飽食の時代で育ってきた大人を教育するのはかなり困難といわれている。だからこそ子供たち・次の世代の教育が重要になってくる。』というようなことを言っていました。

高度経済成長期 を経験してきた大人たちが、個人ならともかく地域としての価値観を変える(持つ)ことはかなり困難でしょう。

だからこそ、次の世代にイメージを引き継ぐことに目を向けなければいけないのだと思うのです。

そのためにはイメージを描き続けること。そして、少しでも実践していくこと。

それしかないのではないでしょうか。

キーワードは『生活』と『教育』。だと思います。

まぁ、あまっちょろい意見かもしれませんが、少しは楽しいイメージを描けなければ誰もついてこないのではないでしょうか。(それが難しいっちゅうねん!)

最後にm.mさんの記事から再度孫引き。

「自分の身体により近い足下にこそいろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。
今の社会は全員がよそのものでよそのことをやっているという感じがするんです。
私の理想は、人間が一日で歩ける半径40キロくらいの範囲で野菜や水など
必要なものが手に入り、その地域の中で暮らしが循環できることですね。
足下の衣食住のような小さな紡ぎあげこそが文化だと思うんです、
足下から生活をつくり上げる力がとても重要なんだと思います」(SOTOKOTO環境移動教室28よりSTARNETのオーナー馬場浩史さんの言葉)

雑誌の記事はまだ読んでいませんが、こういうことも関係があるでしょう。だって、僕たちが子供のころに”まちをどうしたいか”、とか生活そのものと直結するような教育を受けた記憶があんまり ないですもん。それとも、記憶がないだけで実際にはいろいろあったのかな。本当は小さいころからひとりひとりが真剣に考えていかないといけない問題だと思います。
(今日は早く寝るぞ)




問題

たこはんさんからこんな問題が出ました。

あなたは同じサイズのボールを12個もっています。そのうち11個は同じ重さですが、1つはほかのものよりもわずかに重いか軽いかです(つまり同じではないということ)。秤を3回だけ使ってこの違うボールを見つけるにはどうすればいい?

みなさんも考えてみてください。
昨夜はうまくいかないと思ったけれど、朝通勤中に考えてみるとうまくいってそう。(昨日はなんでうまくいかないと思ったのか)

ということで昼休みに作成した僕の回答はこちら(WORDPRESSが勝手にレイアウトを修正してしまうので外部ファイルにしています)

こんな感じです。これでいいのかなぁ。
他の方の回答をみてみたらもっと解説が親切でした。重さが違うのを犯人扱いしているのが同じだったのが面白い。




B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

佐々木 正人 (編さん)

岩波書店 (2007/02)

日本におけるアフォーダンスの第1人者、佐々木正人に関連する書評はこれで4冊目であるがぐっとイメージの広がる著作であった。(ゲストは作業療法士の野村寿子、心理言語学者の古山宣洋、生態心理学者の三嶋博之、哲学者の染谷昌義、齊藤暢人、写真家のホンマタカシ、映画監督の青山真治、小説家の保坂和志)

佐々木正人を初め様々な分野の先端を走る人達が『環境』をテーマに語るのだが、そこには共通のある認識が見て取れる。それは、偶然というよりも時代の流れを感じるものである。

以下、備忘録がわりにいくつかメモってみる。

メモ

●野村寿子(作業療法士)
脳性麻痺の方などのリハビリ用の椅子を作っている方。
これまでは姿勢を矯正するようなつくりであったが、矯正するのではなくサポートをするような作り方で、その処方は全く逆の方向に向くことも。
人間が環境と関わりあえることを信頼しているような作り方。
なるほどの連続。患者さんは環境と関わるサポートを受けることで生き生きと環境との関わりを生み出していく。

● 染谷昌義、齊藤暢人(哲学者)
哲学のことはあまり理解できたとは思えないが、少しだけイメージはつかめた気がする。(イメージだけで言葉が正確ではないと思いますが)
デカルトの認識論(二元論)によって物質と精神の2つに区別され、それが今の世界の認識の仕方の主流になっている。
環境と自己が区別された上でそれらが別個に考察されている。
そこには俯瞰された世界があり(例えば宇宙)その中のある座標に物質としての身体があり、それとは別に自己の意識が存在している。
という見方。
そうではなくてそういう俯瞰する視点を取っ払って、自己と環境の、というとまた二元論になってしまうけれど、自己を含む環境から考察をスタートするやり方があるのでは。

スミスとヴァルツィの環境形而上学(有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論)はまさに空間としての環境を扱っている。

●ホンマタカシ(写真家)
カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比

何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。

おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。

建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。

建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。

● 青山真治(映画監督)
《像》ではなく《身振り》に。

同じように 《像》として、または物語としてはっきりと焦点を結ぶことを嫌う。自己と物語の分裂のもと、俯瞰的な視点を持つのではなく、『対象の 《像》への結晶化を 《環境》とともに回避』させる。

『結晶化』によって環境との微妙で豊かな関係性が分断され、物語に回収されてしまうことを恐れるのでは。

おそらくゴダールだけが、人間を信じていない、心理を信じていない

という言葉が印象的。

● 保坂和志(小説家)
同じような対比としてダンテの『神曲』とカフカを挙げている。
カフカも具体的なイメージが焦点を結んだり全体像が掴まれることを回避している。
不思議な部分の積み重ねによって全体像が現れることなく、何かしらのものが(著者は『カフカの現実』と言っている)が立ち現れている。
こういうカフカの表現は空間の一つのあり方。奥行きの表現の仕方を示しているようにも思う。

「一瞬の中に永遠がある」「一にして多なるもの」「朝露の一滴が世界を映す」これらの言葉を私は「わかった」とはいえないけれど、「シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるか」という問いのように難解だとも思っていない。それどころか、世界の真理とは結局のところこのような言葉でしか語らえないとも感じている。

著者は宗教者の言葉に興味を抱いているが、そう言われると禅問答のようだし、禅問答は言葉を拡張して世界の真理を掴もうとする一つの手段とも思える。

関係性によって全体を獲得する?

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。
水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。
それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。
自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。
その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。
そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。ぼんやりとしたイメージでうまく表現できたか分からないし、本著はもっと奥行きがあると思います。気になった方は御一読を。




W029 『魅惑の長田町をあるく』

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予定が合わなかったり雨で中止になったりとなかなか参加できてなかったのですが、久しぶりにかごしま探検の会のウォークラリーに参加しました。

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今回は県民交流センターからスタートし近くにありながらなかなか足を伸ばすことのなかった長田町を散策。

1. 横山安武森有礼生育の地。

横山安武は役人の腐敗を憂いて集議院に十条の意見書を掲げ切腹をした人だそう。いつのときも役人の腐敗はあるものだ。今はこういう気概のある人はいるのだろうか。

2-4. 椋鳩十邸宅跡・椋鳩十の部屋から見えていたであろう桜島。

東川さんにつづいて”みたけさん”からも解説がありました。(僕は存じ上げていなかったのですが、NPO法人かごしま文化研究所の三嶽公子さんだったのでしょうか?)

椋鳩十は1947年に市立図書館の館長になったそう(このころ作家が館長になるのが流行ったそうです。)

このころは全国でも鹿児島・宮崎は最も図書館に対する予算が豊富な県だったそうで、椋鳩十の働きも大きかったよう。(戦後の生活に図書を通じて潤いを与えたいという思いが強かったそうです。)

5-11. 長田神社

もともとは福ヶ迫諏訪神社という名だったそうだけど、明治時代に神戸の長田町にある神社と同じ祭神 ということで長田神社と改名されたそう。つまりこの長田町という名の由来は神戸から来てるそう。へぇ~。

12-15. 興国寺墓地

染河彦兵衛、徳田太兵衛伊地知季安、汾陽理心の墓などをまわる。他にもいろいろ見所があるそうだけどタイムオーバー。

年配の参加者が多いのですが、かなり坂の多いコースをなんとか歩ききっていました。いつも思うのですがこういう年配方が歩きながら話しているのをこっそり聞いてると、生活に根付いた面白い話がいろいろ聞けて感心してしまいます。

なぜ参加するか。

僕は学生のころは完全に理系だったのでかなりの歴史音痴です。
なのでイベントの面白さの100分の1ぐらいしか伝えられていないと思います。
マティックさんの御友人の日記のように書ければどんなにいいだろうか、と思いますが急には無理ですね。もっと含蓄のある方が聞けばもっともっと楽しめると思うと少し残念でもあります。

では、歴史の苦手な僕がなんで参加しているか。

それは、講師の東川さんの魅力というのもありますが、僕自身、いずれは地域性や歴史性といったものを感覚として身体化したいと思っているからです。

今の建築、特に家づくりというものを考えた場合、地域性や歴史性といったものを切り捨てることによって成立している部分というのが多分にあると思います。
そういうものを建築に取り入れるのはかなり困難なシステムになってきてしまっているし、僕も含め今の人達はそういう切り捨てたものを扱うのが苦手になってしまっていると思います。

実際、そういうことを考えず全国的に流通している工業製品だけで建物を作るのが一番楽で、机上だけでかなりの部分ができてしまいます。
しかし、地域性や歴史性というものを扱おうとしても、机上でいきなりできるものではありません。
おそらく自分の感覚として身体化していなければうまくは扱えないと思います。

そのために、2年や3年と言うスパンではなくて長い目で見て少しずつ、少しずつ、そういうものが身体化されればいいなぁと思って無理をしない範囲で参加させていただいているのです。

(イベント、イベントがその都度一回性の ものですので、毎回参加しないともったいないという思いもあります。

ただ、続けていくことが肝心だと思うので無理をしない範囲で、ということにしています。)

その後

そのあと、フリーペーパーのunder’s highを発行されているチャビンさんの店に寄らせていただきました。
地味な格好だったので店に入るのはかなり勇気が要りましたが、思っていたとおり気さくな方でした。ほっ。(あと、チャビンさんのブログにあるライブ映像に写っているサモアの怪人というゲストが友人のM野氏に似ていたので気になっていたのですがどうやら別人だったようです。ちなみに、 サモアの怪人マーク・ハントがK1で優勝したときはあまりにM野氏に似ていたので人ごとの気がしませんでした。)
応援していますので under’s high頑張ってください。(僕もいずれ広告を載せたいなぁ)

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