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自動車エイリアン説。


まち歩きのときに東川さんが谷山の路地がいずれ区画整理でなくなると言われていましたが、ずっと先のことだろうと思っていました。いまどきそんな無駄な事をしないだろうとも。
だけど、妻から「本当に区画整理されるそうだよ」と聞かされて調べてみると本当のようです。

鹿児島市ホームページ |谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画決定

先般、縦覧いたしました谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画につきましては、このたび鹿児島県知事の認可を受け、土地区画整理法(昭和29年法律第119号)第55条第9項の規定により、下記のとおり平成20年3月21日付け鹿児島市告示第239号で事業計画決定の告示をいたしましたのでお知らせします。

PDFの計画図を見てみると、はぁーというような区画整理です。本当に必要なのだろうか。
道路が完全に直線でないところが救いですが、先に谷山の別地域(開陽高校周辺)で行われている区画整理のようにまた砂漠のような景色が広がるのかと思うと憂鬱です。
また、このまちの魅力が失われて、どこにでもあり、どこでもないようなまちになってしまうのでしょう・・・。
住んでもいいなと思える風景はどんどん消えていってしまいます。

そんなこんなで、今朝、自転車をこぎながら景色を見ていたら、いつもの景色が妙な風に見えてきました。

自動車エイリアン説

ネタバレになってしまいますが、こないだ読んだSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、地球の支配者は実はネズミで、人間はあることのために利用されていると言うオチでした。

同じように、もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。

車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。
そのために人間は必死で働き、自分たちの居場所をあけわたし、全てにおいて車を優先させます。

道路を拡張し駐車場を最適化するために区画整理を実行し、高速道路を作り、また、(車にとっての)集会場を各地に設置するために(人間用の)商業の場所を一箇所に集約して車のために尽くします。

人間には自分たちが支配者だと思わせるために、ちょっとしたスペースと時間、あと運転という作業を残しておいているのも計算ずくのことでしょう。

建築の計画でも、車の通路や駐車スペースが最優先の条件になって、そのために建物の自由度が大いに奪われる、ということが多いのですが、それも実は自動車に操られていたのですね。

そう思いながら、自転車をこいでると、道を走っている車、駐車場にとまっている車、みんなふてぶてしい顔に見えてきました。人間に気づかれてないつもりだろうが、俺は気づいてんぞと。

こんな妄想もあんまりぴったりしすぎでちょっと怖いですが。
もし明日交通事故にあったりしたら、それはエイリアンの陰謀に気づいたせいでしょう。

エイリアンとの共存を

ただ、僕はエイリアン(車)を地球から追い出せ、と言ってるのではありません。

僕も車のお世話になってるし(車にそう思わされているだけか?)、人間と良好な関係を築いている車も少なくないでしょう。

ただ、もうちょっと、車最優先にしてきた事を人間の側に取り返してもいいんじゃない、と思うだけです。

その時、区画整理は本当に必要か、もっと小規模なことやソフトで解決できることってあるんじゃない、と思うだけです。

是非とも、エイリアン(車)との共存を。

『住宅エイリアン説。』に続きます。(続きません)




B137 『小さな建築』

富田 玲子 (著)
みすず書房 (2007/12/11)


前回の大竹康市に続いて、象設計集団の富田さん。
あるシンポジウムでスライドを見ながら、高層ビルは中が見えず墓標のようと言うような事を言われてたのが心に残っていました。

富田さんの生い立ちも含め、笠原小学校や住宅などいろいろな作品にも触れられていて象にぐっと近づける一冊です。

「負ける建築」とか「弱い建築」が注目されていますが、「小さな建築」は若干違う気もします。
ここで書かれているような弱さを反転した強さというものをあまり感じません。
強さはあるのですが、強さのための弱さではないという感じです。

富田さんのいう「小さな建築」とは

寸法が小さい建築ということではありません。私達が持って生まれた5感が、その中でのびのびと働く建築、あるいは私たちの心身にフィットする建築、それとも人間が小さな点になってしまったような孤立感や不安感を感じさせない建築のことだと言えばいいでしょうか。

というように、人間を小さな点として扱っていないという意味において相対的に「小さい」と言う事でしょう。

ですが、象の建築を考えてみると、建築が小さくなったというよりも、人間の感覚の方を広げてくれて建築の大きさに近づけてくれたという方がしっくり来ます。

ですから「小さな建築」というだけでは少し誤解があるかもしれません。人間と建築がお互い手を差し伸べ延べあい、距離を縮めあっているイメージでしょうか。

だけども、実際にまわりを見回してみると、人間と建築との距離は宇宙が膨張しているような感じで離れていって、人間が点になってしまって来ているようにも思えますし、この「人間が小さな点になってしまったような孤立感や不安感を感じさせない」という感覚はとても重要になってきているのではないでしょうか。

また、笠原小学校については以前テレビの感想を書きましたがこの本でも、学校の安全性に触れて

やわらかいもの、自分よりも弱いものが身近にある環境をつくってあげるほうが、犯罪を防げると思っています。笠原小学校では柱を見れば「いぬもあるけばぼうにあたる」、階段の途中には焼き物のタヌキやカエルがこちらをじっと見つめていて、気がそれてしまうのではないかしら。暴力に対して力ではなく、やわらかさで対応していく知恵を働かせないと、際限がなくなっていくと思います。

と書かれています。

防犯に対しては、実際に防げるかどうかよりも、犯罪が起こってしまった時に「最善を尽くしていた」と言えることの方が勝ってしまうのかもしれませんが、そこを踏ん張ってこういう視点をどこまで保てるかも大切だと思います。(セキュリティを強化してやれることはやったんだと思えるほうが楽だからそっちに流れがちだと思います。)

論理的で鋭い刃物のような文章ではありませんが、象の富田さんらしく、いろいろと感じることの多い本でした。

象はなんというか、等身大でありながら夢がある、というか等身大からスタートして建築が何かを語り始めるところまでの幅をぐーーっと引き伸ばしていく感じが魅力的ですね。




B136 『これが建築なのだ―大竹康市番外地講座 』

OJ会 (編集)
TOTO出版 (1995/09)


前から読みたいなーと思ってたところ、本屋で出会ったので買ってしまいました。

象設計集団の中心的なメンバーだった大竹康市が1983年にサッカーの試合中に倒れ帰らぬ人となりましたが、それから10年以上が経った後に彼の言葉やスケッチをもとに考え方をまとめたものです。

名護市庁舎はいろいろな意味で奇跡のような(それでいてあたりまえの)建物だと思っていて是非見てみたいと思っているのですが、そこへ到る過程なんかも記されていてとても面白かったです。

目次

第1部「地域・建築・集団設計」
第2部 11の講座(穴
露地の素
環境構造線
精神を開放する
風の道
呼吸する外皮
地域に飛び込む
形姿の魔力
集団設計
我々に「切り札」はあるか
幻の風景)

特に、『地域』というものに真剣に向き合っていて、そこでの考え方は今でもとても参考になるものでした。
同じ象設計集団の富田玲子さんも参加されていたシンポジウムで
オノケンノート ≫ 鹿児島のかたち・地域のかたち

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

という感覚があったのですが、その先が少し見えたような気がします。

その中でも吉阪隆正の提唱していた『発見的方法』というものはもっと注目されても良いと思うのですが、それに実際に取り組む様子が垣間見えてすごく参考になりました。

その中で『新堀川イメージ・トレーニング|発見的方法の実践|課題大竹康市』というものがありました。(学生に出した課題でしょう)
それがこの『発見的方法』をイメージするのに良さそうなので、少し長いですが途中省略しながら引用します。

・我々をとりまく環境はマチやムラなどの集落にしろ、山林、田畑などの自然系にしろ人類の創造の集積である。
・モノをつくることはこれらの集積の中に仲間入りすることである。新たに仲間入りするのだから、当然におたがいに影響しあう。ある期間を経て、集積の中に埋没し、次の仲間を待つ。
・仲間入りするにあたって、現在あるモノの姿を見て、その環境がどのような経過を経て形成されてきたのか、また、どのような方向に進んでいこうとしているのかを読みとらねばならない。
・さらに一歩進んで望ましい未来を読みとりたい。これが建築家の役割である。
(略)

■第1段階の作業方法
最低10ヶ所のスケッチをする。(略)そのポイントは作業の第2段階の主旨を考えながら行うこと。

■第2段階の作業方法
新堀川沿いの風景の変遷を段階ごとにスケッチにまとめる。重要なことは歴史の授業ではない。現存するものを見て、イマジネーションを豊かにして描き出すことだ。(略)
今考えうる段階としては以下の通り。しかし全くこれを無視しても構わない。
A・人類以前の風景・人類が定着しだした頃の風景(勇気を持って描きぬく)
B・ある安定した、よき時代の新堀川沿いの風景。(土地の人々からのヒヤリングが必要かもしれない)(新堀川沿いだけでなく、市内のアチコチにヒントがあるかもしれない)
C・時の流れの中で、暮らしや生業の変化、建材の変化などで個人の手でゆっくりと変ってゆく。(造・改築の方法などに表れる。)この段階での変化をみきわめることは重要。
D・近代的な経済の渦の中で変化した現在。マンション、大型駐車場など。

■第3段階の作業方法
新堀川沿いの風景がこれからどう動いていくだろうか。
E・A~Dまでの動きから、こうなってゆくだろうと思う近い将来の姿(これはあまり望ましい姿ではないようである)
F・A~Eの作業を通して、自分で望ましい将来の風景を描く(幻の風景として)

■第4段階の作業方法
今、マンションの一戸分程度の土地を与えられた。
幻の風景に向けて、いま何をすべきか。

提出要項/A1ケント紙に第1~第4段階までまとめる。
(略)
第4段階はきわめて高度の作業である。
ギブアップしても減点としない。
むしろ、第2段階、Cを発見することが重要である。
すべてフリーハンド。彩色、コピー、貼り付けなど表現は一切自由。

と、こういうものです。
観察し、想像し、幻の風景を描き、それに向けて何をすべきかを考える。

また、この幻の風景は単なる現状認識の延長にはとどまらないようです。

このような発見的な方法によって新しく構築された風景を基盤にして創造へと飛躍してゆきます。それには、さらに想像力を豊かにしてゆくことです。四季や気象、太陽や宇宙の変化による鮮烈な断片のイメージをこの風景の上に刻み込みます。
過去や予測され得る将来をはるかに通り抜けて、その地がジャングルだった世界、氷で覆われてマンモスが走っていた世界、遠いSFの世界などのイメージをオーバーラップしても良いのです。(略)
このように現実の風景から出発し、次第に姿を変え、さらに時空やスケールを超えたイマジネーションのキレギレの断片を寄せ集めて構築した風景を「幻の風景」と名付けました。(略)
私達は建築の設計を通してこのような幻の風景を追いかけているのかもしれません。

今、こういう事を声高に言う人はなかなかいないんじゃないでしょうか。
恥を恐れず勇気を持って描きぬく、そういう強さを感じます。

建築の現場においてこういう発想が入り込む余地、というか余裕のようなものがますます忘れられていくように感じてしまいますが、まずは幻の風景を描くことから始めていく必要があるように思います。

ということで、よろしければ『かごしまのじゅうぶんのいち』の方にも何か書き込んでくださいな。(もしも、共感できるようでしたら宣伝もしてくださいな。)




B134『くうねるところにすむところ06,08,14,16,21』

06物語のある家妹島 和世
08 みちの家伊東 豊雄
14 家の?青木 淳
16もうひとつの家高松 伸
21ドラゴン・リリーさんの家の調査山本 理顕
インデックスコミュニケーションズ(2005/04-2006/11)

今回は自分の本を借りずにこどもの絵本だけにすると決めて、図書館に本を返しに行ったのですが、その絵本のコーナーにこのシリーズがずらりと並んでいるのを発見。
どうりで専門書のコーナーになかったはずです。

結局、子供の絵本は妻のカードで借りて、自分のカードではこのシリーズから5冊を借りてしまいました。

その中で、最後に書かれているこのシリーズの発刊のことばに共感する部分が多かったので引用します。

環境が人を育みます。家が人を成長させます。家は父でもあり、母でもありました。家は固有な地域文化とともに、人々の暮らしを支えてきました。かつて、家族の絆や暮らしの技術が家を通して形成され、家文化が確かなものとして水脈のように流れていました。
いま、家文化はすっかり枯れかかり、家自体の存在感も小さくなり、人々の家に対する信頼感も薄らぎ、急速に家は力を失いつつあります。家に守られる、家を守る、家とともに生きるという一体となった感覚が、極端に衰退しています。
(中略)家の確かさと豊かさと力強さを取り戻すため、建築家が家の再生に取り組む必要があります。
その第一歩として大切なことは、まず建築家が、子どもの目線で家について伝えることです。本書は、子どもたちが家に向き合うための建築家、そしてアーティスト、作家などによる家のシリーズです。(『発刊のことば』より)

このシリーズは子ども目線で書かれているそうですが、大人の目で見るとパッとみた感じ、”はたして子どもに理解できるんだろうか”と思ってしまいました。
だけども、これが”理解”できるかな?と考えるところからして、大人の固定概念に凝り固まった見方のような気もしますし、子どもの感受性で純粋にこの絵本?に接したら普通に何かを感じ取ってくれるのかも知れません。

子どもに家の絵を描いてもらったら、昔はいろいろな家の描き方があったけれども、最近は同じような”家型”の絵を描く子どもが多くなった、というような調査結果を何かで見た記憶があります。
それは、画一的な家のイメージが浸透して、家というのが生活の場としてよりも家というパッケージとしての在り方が強くなってしまっている結果なのかも知れません。こういう本に触れることで、家はもっと自由で楽しい可能性に開かれているということを感じ取って記憶の片隅にでも残しておいてもらえるといいですね。

このシリーズはおそらく建築家の今現在もっとも大切にしている事の核の部分が描かれているでしょうから、僕個人的にも興味深いです。

以下、それぞれから引用。

メモ

それぞれの人たちの生活に合わせながら、一方でひとりひとりがその家族のかたちから、少しだけ自由になれるような家を作りたいとおもっています。(妹島和世)

ぼくは長い長い、先の見えないみちのような家が好きです。見えない先にはワクワクすることがいっぱいありそうだもの。でもこれはぼくがヘビ年だからかなあ。あなたがウサギ年だったらどんな家を考えるのでしょう。もしかしてトラ年だったら・・・。(伊東豊雄)

だれにも見つからない静かな静かな隙間。なんだかホッとする。寝ている間に、シロが少しずつクロになる。(中略)
道を通う足音が聞こえる。なんだかホッとする。寝ている間に、クロが少しずつシロになる。(青木淳)

その身動きならない一点で息を止めながら、僕は解ったのです。そう、僕は、これから先ずっと、この静けさの一点に釘付けになるのだと。(高松伸)

でも、どんなところに行っても、そこに住んでいる子どもたちは、なんであんなに生き生きしていたんだろう。みんな一緒に暮らしていたからだと思う。自分の家の中だけじゃなくて、隣の家も、そのまた隣の家も、畑も道も村も森も川も湖も草原も砂漠も雑木林もみんな子どもたちの場所だったからだと思う。(山本理顕)

最後の山本理顕の言葉。
原広司の研究室で世界中の集落調査に行った時に感じたことだけども、これが山本理顕の原動力だと思いました。
他の建築家にも言えることだけれども、建築に夢をもてるかどうかは、こういう一点を心の中に持てる出会いがあったかどうかなのかもしれません。




B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




B130 『愛と哀しみのル・コルビュジェ』

aitokanasimi.jpg市川 智子 (著)

彰国社 (2007/09)


モチベーションをあげるにはコルに限る!っということで、今年の初めの気合入れに本屋で買ってきました。

aitokanasimi2.JPGあのコルビュジェに『おそよう』と言わせるあたり、著者のコルに対する並々ならぬ愛を感じます。
さて、この本から感じたこと。

(この本を買うきっかけにもなった)倉方さんの著作『吉阪隆正とル・コルビュジエ』のところで”多面的なものを引き受け決定する勇気と強さ”ということを書きましたが、まさにそれが『愛と哀しみ』だなぁと思いました。

決定するには建築や人間に対する愛が必要ですが、 決定してしまうことにはその愛の大きさに比例する哀しみがついてまわるんじゃないでしょうか。

そして、その愛と哀しみを引き受けるだけの勇気や強さを兼ね備えた人だけが価値のある決定を下すことができるし、それを体現したのがコルではないかと。

だから、著者がコルの言葉の表面だけが一人歩きしている「哀しみ」を語っているのもよく分かりますし、(著者を含め)多くの人に勇気や強さを分け与え続けているのもまた事実でしょう。

僕もまたコルに勇気を分けてもらいました。

(遅いですが)今年もがんばりましょー!

追伸
(この本を買うきっかけにもなった)と書きましたが、倉方さんのブログのコメント欄の著者のやり取りが興味深かったので読みたいなぁと思っていたところでした。




B126 『無有』

竹原 義二 (著), 絹巻 豊 (写真)

学芸出版社 (2007/03)
竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。

文章と図面と写真を行ったりきたりしながら頭の中で歩き廻ると、様々なシーンが浮かび上がりその奥行きの深さにどんどんと引き込まれる。

この歩き廻る作業を何度も繰り返せば相当な力がつくんじゃないだろうか。建築を学び始めた人には是非ともおすすめしたいし、何年か後に読み込む目が育ってから歩き廻ると全然違った新たな発見があると思う。

ところで、ズレやスキマ、余白といったものが光や素材や人の動きを通して、奥行きや豊かさに変わっていくのだけど、そういうものは無駄として捨てられてきたものでもある。安さと機能性を求めるだけではなかなか辿り着けないものだし、実物なしには説明のしにくいものでもある。

坪単価という指標だけで見れば決して安くないものも多いと思うけれど、それを説得して実際の空間に仕立て上げられるのがやっぱり実力なのだろうなぁ。

ちなみに、各章の見出しは以下のとおり。

序章建築の原点
1章手仕事の痕跡
2章素材の力
3章木の可能性
4章内へといざなう
5章ズレと間合い
6章つなぎの間
7章余白と廻遊
8章「101番目の家」へ

僕の中での別の永久保存版に通ずるものがあります。(日本建築というものの奥の深さには計り知れないものがある。)

あと、メモ代わりに2箇所ほど引用しておきます。

いわゆる一室空間は、人つながりの壁と天井、床で囲まれ、おおらかな空気をもつが、空間がその内側だけで完結しようとする。それが一室空間の弱さでもある。これまで述べてきた素材の力、区間の連続性や内と外の曖昧な関係といった試みは、一室空間というよりは、ひとつながりとなった空間の中で、様々な要素が様々な密度でずれ、その中で意識的に「間合い」をはかり、無数の関係性を結ぶために仕掛けられたものである。このような空間は、一室空間に比べて寸法は緊密になるが、心理的な奥行きや拡がりをもたらすのである。

こうして「間」を保ちながらつながっていくという微妙な関係が形成される。それは物理的には限られた空間に、いかに拡がりを与えられるかという工夫であり、極めて日本的な感覚である。住まいを分節し、その間を外部空間で結んでいった時、自由度のある住まいが住まい手の意識を鮮烈にし、想像力を掻き立てる。そして人が訪れるたびに異なる出会いが生まれることで、空間に対する奥行きも変化するのである。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

倉方 俊輔

王国社 (2005/09)
都城のシンポジウムにも来られていた倉方さんの著書。

この時の倉方さんの発言が 理路整然としていて分かり易く、頭のいい人だなぁ、と思ったのと、コルと吉阪の両者は最近僕の中のキーマンとして再浮上してきていることもあって図書館で借りてきた。

コルビュジェという「個性」に出会い、吉阪隆正という「個性」が誕生する様子がよく分かる。

コルビュジェは多面的な要素を内包しつつもそれをうまく調整しながら 対外的に立ち回ってきたように思うが、吉阪はその多面性を引き継ぎつつそれを拡張し続けたように思う。それが、吉阪のつかみ所のなさと魅力になっているのだが、倉方さんの”つかみ所のなさに苦労しつつもその魅力をなんとか伝えたい”という思いが伝わってきた。

さて、吉阪はコルからなにを学び、私たちは彼らから何を学ぶべきだろうか。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。

彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。

吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。

多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。
しかし、コルは多面性を引き受けつつも魅力的な解釈を生み出し、決定していく強さを持っていた。
それこそがコルの一番の魅力であろうが、吉阪はそこに惚れ込みコルの持つ強さを引き継いだ。とすると、まさにその強さによってその後の「対照的なものを併存させる」ような思想を展開することが可能となったように思う。

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(括弧内追記・強調引用者)

多様性や格差が言われる今の時代に多面性を引き受けずに単純な結論を出すことはおそらく不可能だと思う。(誰のための必然・結論か、という問題が必ず現れる)

そんな中にあっても、多面性を引き受けその中に意志を見出し決定する勇気は、今こそ必要であろう。

そういう勇気と決断力を持ち、形にしていく(イメージ化し実践する)能力があり、またそれを「あそび」へと 転化できるような才能が待たれているのかも知れない。




B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

佐々木 正人 (編さん)

岩波書店 (2007/02)

日本におけるアフォーダンスの第1人者、佐々木正人に関連する書評はこれで4冊目であるがぐっとイメージの広がる著作であった。(ゲストは作業療法士の野村寿子、心理言語学者の古山宣洋、生態心理学者の三嶋博之、哲学者の染谷昌義、齊藤暢人、写真家のホンマタカシ、映画監督の青山真治、小説家の保坂和志)

佐々木正人を初め様々な分野の先端を走る人達が『環境』をテーマに語るのだが、そこには共通のある認識が見て取れる。それは、偶然というよりも時代の流れを感じるものである。

以下、備忘録がわりにいくつかメモってみる。

メモ

●野村寿子(作業療法士)
脳性麻痺の方などのリハビリ用の椅子を作っている方。
これまでは姿勢を矯正するようなつくりであったが、矯正するのではなくサポートをするような作り方で、その処方は全く逆の方向に向くことも。
人間が環境と関わりあえることを信頼しているような作り方。
なるほどの連続。患者さんは環境と関わるサポートを受けることで生き生きと環境との関わりを生み出していく。

● 染谷昌義、齊藤暢人(哲学者)
哲学のことはあまり理解できたとは思えないが、少しだけイメージはつかめた気がする。(イメージだけで言葉が正確ではないと思いますが)
デカルトの認識論(二元論)によって物質と精神の2つに区別され、それが今の世界の認識の仕方の主流になっている。
環境と自己が区別された上でそれらが別個に考察されている。
そこには俯瞰された世界があり(例えば宇宙)その中のある座標に物質としての身体があり、それとは別に自己の意識が存在している。
という見方。
そうではなくてそういう俯瞰する視点を取っ払って、自己と環境の、というとまた二元論になってしまうけれど、自己を含む環境から考察をスタートするやり方があるのでは。

スミスとヴァルツィの環境形而上学(有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論)はまさに空間としての環境を扱っている。

●ホンマタカシ(写真家)
カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比

何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。

おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。

建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。

建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。

● 青山真治(映画監督)
《像》ではなく《身振り》に。

同じように 《像》として、または物語としてはっきりと焦点を結ぶことを嫌う。自己と物語の分裂のもと、俯瞰的な視点を持つのではなく、『対象の 《像》への結晶化を 《環境》とともに回避』させる。

『結晶化』によって環境との微妙で豊かな関係性が分断され、物語に回収されてしまうことを恐れるのでは。

おそらくゴダールだけが、人間を信じていない、心理を信じていない

という言葉が印象的。

● 保坂和志(小説家)
同じような対比としてダンテの『神曲』とカフカを挙げている。
カフカも具体的なイメージが焦点を結んだり全体像が掴まれることを回避している。
不思議な部分の積み重ねによって全体像が現れることなく、何かしらのものが(著者は『カフカの現実』と言っている)が立ち現れている。
こういうカフカの表現は空間の一つのあり方。奥行きの表現の仕方を示しているようにも思う。

「一瞬の中に永遠がある」「一にして多なるもの」「朝露の一滴が世界を映す」これらの言葉を私は「わかった」とはいえないけれど、「シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるか」という問いのように難解だとも思っていない。それどころか、世界の真理とは結局のところこのような言葉でしか語らえないとも感じている。

著者は宗教者の言葉に興味を抱いているが、そう言われると禅問答のようだし、禅問答は言葉を拡張して世界の真理を掴もうとする一つの手段とも思える。

関係性によって全体を獲得する?

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。
水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。
それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。
自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。
その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。
そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。ぼんやりとしたイメージでうまく表現できたか分からないし、本著はもっと奥行きがあると思います。気になった方は御一読を。




B117 『藤森流 自然素材の使い方』

藤森 照信 (著), 大嶋 信道 (著), 柴田 真秀 (著), 内田 祥士 (著), 入江 雅昭 (著)

彰国社 (2005/09)

技術とは何だろうか。と考えさせられる。
藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。
だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。
それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

藤森さんは自分のことを建築家というよりは職人だと位置づけているようだ。
専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。
今の建築は気を抜けばすぐにカタログから選んだ工業製品の寄せ集めになってしまう。(その原因に技術に対する恐れが多分にあると思う)
工業製品を一つの素材と捉えて、そこに命を吹き込むこともできるだろうが、それを意識的に行うのは相当な腕がなければ難しい。

なんというか藤森さんにはコルビュジェと似た匂いを感じる。(きっと本人も自覚していると思う。)
コルビュジェが庭園を語りながら、建築が植物に飲み込まれるのを恐れて植物から距離をとった、というような分析があったが、 なんとなくそれに対するリベンジのような感覚じゃないだろうか。だけど、藤森さんのやってることはかなりギリギリのところだと思う。
自然と人工の関係を扱うには藤森さんのような濃さとバランス感覚がないと、あっという間に胡散臭いエセ自然になってしまう。
藤森さんの建物でさえ、そのまま屋久島なんかに持っていったら自然に飲み込まれて胡散臭いシロモノになってしまうのではないか。藤森VS屋久島是非対決を見てみたい




B115 『デザインの輪郭』

深澤 直人
TOTO出版(2005/11)

「01デザインの輪郭」から「40自分を決めない」までの小さなエッセイや言葉の断片、対談などを集めたものだけど、飾った言葉ではなく、鋭いセンサーで捉えた実感による生の言葉が並んでいて非常に身にしみる。

個人的には「15灰汁(アク)」のところに共感した、というか僕はこのあたりでうろうろしている。

アンジェロ・マンジャロッティみたいな人は、あくが出てしまう。それが個性かもしれない。ジャン・プルーヴェもそうですね。どうみたっておかしい。なのに、すごく魅力がある。だから悔しいです。
僕にはあくが出せない。洗練されすぎていると思います。・・・中略・・・でも、今はあまり迷いはないですね。僕はこれから自然に無理なく変わるだろう。無理なく変わっていくことが、僕に課せられたプロセスだろうと思っていますね。今までは、自分の目指したところに到達しようとして、いろいろ余計な筋肉を使い、余計な力を加えてきた。その力を抜くことによって、最後のバランスをとったというのがいまだと思います。

けっこうあくのあるものが好きだったりするけど、僕はまだ自分の中から自然に出てくるあくというものを持てていない。自分の奥底には存在していると信じ、早く顔を出して欲しいと願ってきた。だけど、それはちょっと筋肉の使い方を間違ってたのかなと思うと少し楽になった。
もしかしたら、少し力を抜いて自然体で建築に向き合ったときに、初めてじわぁーと自分の中からあくのようなものが滲み出てくるのかもしれないな。
(100冊書き終えて最近ようやくそんな風に思えるようになってきました。)

密度の濃い言葉が詰まっていて、なかなか選びにくいけどメモ代わりに気になったところを少し抜き出しておく。

・輪郭には、相互にさまざまな関係の力が加わっている。そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力を「選択圧」という。
・壁の表面の光が人間に何らかの圧力を加えているとも考えられる。
・「張り合い」という言葉があるように、生きるための目的、あるいは「生きがい」ともいわれるものがその人間に加わる力であって、それを押し返す力によってバランスされている状態が張りであり、それによって表に現れる力の徴憑が、張りを視覚化しているのではないかと思った。
・ものがアイデアを語ってはいけない。デザインとは概念を見せるものではなく、まず道具に徹することである。徹することで浮かび上がる共感のもとは、人々の日常の記憶の断片なのである。
・気づいた人はちょっと微笑み、気づかなかった人は行為が止まらず流れていくということでいい。
・誰でも得ようとすれば得られる感覚が失われているんです。これは普通のよさの感触を忘れてしまったからなんです。忘れたのは、感触なんです。あるいは、若者は特に、その感触を味わったことがないということかもしれない。
・自己が汚れなく謙虚に道具に徹するという意気、技能の卓越さをもって自己の存在を消す努力の跡、完璧を試みて達成できなかった悲哀のような思いの痕跡が消えてしまったのだ。
・ものをたくさんもっていることはかっこわるい。
・デザインは、常にそこにある状況をよくしているだけであって、歴史的に、時系列的にどんどんよくなっていると思ったら大間違いです。・・・人間は、他人のためにやっているという感情をもってやると、汚れてしまいますよ。
・でもこのだらだらは、アイデアを熟させるためには大切なんです。だらだらしているときに冷めてしまうアイデアだったらやってもしょうがないし。
・デザインを勉強しているときは、デザインとはこうあるべきだみたいなものが存在していて、そこに導かれていくものなのかと思っていたけど、そんなものは何もなくて、確固たる美なんてものはどこにもないと思ったときにポーンと抜けて、それからは無理なくアイデアがどんどん出るようになりました。
・誰かがつくり育ててきた豊かさがいいからといって、そちらに移り住んでしまうのは身勝手な気がした。日本という生まれ育った土地で、そこのために仕事をするということ。自らがその条件の下で豊かになっていくことを考えるべきだと思っていた。
・「これだけあればいい」という思いは、生きる上での強さを与えてくれる。「欲しい」という感情は自分を不安にさせる。




B112 『ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成』

富永 譲
鹿島出版会(2003/06)

またまたコルビュジェ。
またまた溜息が出ます。
あ゛ーとかう゛ーとか言いながら読んでいたので妻はさぞかし気味が悪かっただろう。
象設計集団のときも同じように溜息が出たけど、あー豊かだなぁと感じるわけです。
コルビュジェ、吉阪隆正、象設計集団
という溜息の連鎖に、藤森照信が紹介する住宅を加えて、なぜそれらを見ると溜息が出るのかを考えてみると、そこには関わった人の顔が見える気がします。

鹿児島市などの地方都市で特に顕著だと思うのですが、街を歩きながら建物を見ても、そこに見えるのはメーカーやディベロッパーの顔だったり、工場のラインや収支計算書の数字だけしか見えてこない、つまりはその奥に”金”しか見えてこない建物ばかりになりつつあります。
それに関わっている人間の顔が見えてこないのですね。
こんな建物だけで埋め尽くされた街で子供が育つと考えただけでぞっとします。

だけど、先に挙げた溜息建築には使う人の生き生きとした顔だけでなく、設計者がアイデアを思いついたときの少年のように喜ぶ顔まで思い浮かびます。
そんな生き生きとした建物があふれる街のほうが楽しそうだと思いませんか?

あとがきで著者が

具体的な物のキラメキに出会えるような批評、読み込んでいくと、すぐに新たな設計の筆をとりたくなるような研究。本書がそんな類のものになっているかどうかは分からない。

と書いているけど、そんな心配は無用。コルビュジェの作品そのものにそんな建築少年の心を呼び戻す力がある。
ある意味、そんな建築少年、建築オジサンを生み出しているという意味ではコルビュジェは罪な人ですが。

本書を読んで浮かび上がってくるのは、多様な軸、多様な要素、多様な欲求・・・多様なものを重ね合わせ、関連付け、秩序付ける力とそこから飛び出そうとする力が均衡するコルビュジェの建築であり、そこには一つの視点からでは捉えきれない奥行き・多様性がある。
それは、コルビュジェ自身の持つ奥行き・多様性であるし、それがそのまま建築に表れているから、そこにコルビュジェの魅力を感じ取り僕は思春期の少年のように溜息が出てしまうのだ。
あー、こんなにもわくわくしたんだろうなぁ、と。




B110 『M2:ナショナリズムの作法』

宮台 真司 (著), 宮崎 哲弥 (著)
インフォバーン (2007/3/1)


こちらも本が好き!より。
honsumiさんの書評に『これだけ読者を置き去りにする対談も珍しい。』と書かれていたが、読んでみてなるほど、と感じた。

宮台真司の著作は何冊も読んでいるし、Podcastも聴いた。だけれど、今まで触れた宮台と本著では宮台らの向いている方向が少し違う。本著にはこれまで僕が触れたものに見られた、”一般の読者に対して説明すると言う意識”がほとんど見られないのだ。
専門的な内容に対して読者が予備知識をもっている前提で、それこそ読者お構い無しでどんどんすっ飛ばしていく。

それでもめげずについていくと、読んでいるその瞬間はなんとなく分かったような気にはなる。しかし、1時間もたてばもうどういう論の展開だったか思い出せないことが多い。

これは、これまでもそうだが宮台の言説は、”○○は○○だから○○でその対処は○○である”と言うように、論理的な流れが明確で、まるで数学の証明問題の解説を読んでいるような感じがする。
きっと、あらゆる命題や反論に対してそういう流れを用意しているのだと思う。

しかし、一度読んだだけではその流れが頭に入らない。
受験生時代に化学反応の流れ(ベンゼン環がどうのと言うやつ)を1枚に自分でまとめたのがすごく有効だった覚えがある。同じようにノートにフローチャート式にまとめてみれば頭に入るだろうと思うが、なかなかそんな時間は取れない。ましてや一般の人がそんな労力をかけるはずがない。

そこで提案。

受験参考書のノウハウを取り入れた『チャート式宮台真司2007』とか『M2の使い方社会学は暗記だ!』というような感じの要点のみを簡潔にまとめた参考書を、彼らのいろんな著作を横断・対応させるような形で誰か作ってくれないだろうか。
あくまで補助的な書物ということで内容が絞られていれば絞られているほど良い。
一般の需要があるかはともかく僕は手元に置いておきたいし、こういうものがあれば、もしかしたら多くの人が読みっぱなしで終わることも減るかも知れない。

反復復習は”お勉強”の基本であるし、ある程度基本の流れが頭に入ってこそ応用ができるというものだ。(もしかしたらそういう本がすでに出てるかもしれないが)

なぜ(対談が)続いたのか。理由は明白だ。宮崎氏も私(宮台)も<社会>に関心を示さなかったからだ。<社会>に関心を抱かない二人が<社会>について話すのは気楽だ。全ての対立を単なるゲームとして再帰的に観察してやり過ごせるからだ。・・(中略)・・でも、不真面目というのではない。むしろこうした再帰的態度がラディカルな(徹底した)思考を可能にした。・・(中略)・・<社会>に関心のない二人が・・(中略)・・いつの間にか<社会>について思考しなければいけない場に押し出された。<社会>に多大な関心を抱く物が大勢いる中での二人の共通の道程は何かを意味していよう。

時に突き放したような冷たい印象を受ける二人だが、それは徹底した思考をするために必要なポジションなのだろう。
また彼らの論は普段の感覚ではちょっと戸惑うような選択を促すことも多い。しかし、それに感情的に反発せずに一度冷静に考えてみる価値はきっとある。それで、なるほど自分が安直だったと納得させられることも多いのだ。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

最近宮台は欧州的な生き方を参照することが多いような気がする。日本も、自分たちはどのような未来を目指し、どのような選択をしていくのかというのを個々が真剣に考えなければいけない時が来ているのではないだろうか。
(日本人は”とりあえず自分たちにはおいしいところを”というだけで、何かを”選択する”という思考も苦手ではないだろうか)
誰かが社会を変えてくれるのを待つしかない、自分たちは考えても無駄だ、というのをそろそろ卒業しないといい加減やばい。
そういう意味で、それぞれの仕事や生活のスタイル、また例えばNPOの活動などで別の在り方を模索し実際にそれを描こうとしている人たちがいるが、その先にはかなり開かれた可能性があるのではないだろうか、という気がしている。




B106 『脳と仮想』




こちらも「本が好き!プロジェクト」より献本して頂いたもの。
「クオリア」という概念は別の本で少し触れられているのを読んだことがあるが、「クオリア」という問題意識を「仮想」という言葉で展開したのをまとめたのが本書。
本著の中で考察されていることは、おそらく今まで哲学の分野などでさんざん語られてきたことで、それほど目新しいことではないと思う。
しかし、著者の功績は今まで科学の名の元に切り捨てられてきた扱いにくいものを、あえて科学という世界に正面からぶつけた上で、一般の人の科学に対する視界を広げようとした点にある。(それは本著で重要な位置を占める小林秀雄の姿勢でもあると思う。)

もともとある程度の期待を抱いて読み始めたのだが、やはり「仮想」という言葉の射程にあるものは、僕が建築に求めるものとかなりの部分が重なる気がした。

もう10年ぐらい前から、建築において「イマジネーション」が重要であると考えている。それと今、「仮想」を再評価すべきだと言う姿勢とは同じ問題意識によるものだと思う。

IT(情報技術)が全ての情報を顕在化しつつあるように見える今日において、仮想というものの成り立ちについて真摯に考えることは、重大な意味を持つのではないか。目に見えないものの存在を見据え、生命力を吹き込み続けることは、それこそ人間の魂の生死にかかわることではないか。

現実と仮想を考えた場合、科学的思考の中では扱いにくい仮想は価値のないものとして切り捨てられ、現実と呼ばれるもののみが重要視されてきた。そして、それが私たちの思考の大部分を「常識」という形で支配してしまっているように見える。
しかし、私たちの生きていく上での豊かさは仮想というものの中にこそあるのではないだろうか。おそらく、現実と仮想というように分けてしまっているうち、重要であるとされている「現実」というものも「仮想」という大海原の中に浮かぶ氷山の一角でしかない。

建築の空間について考えた場合、建築というものは単なる現実に存在する物質でしかないし、実際、多くの人には建築はそのようにしか捉えられていない。住宅は「何坪の広さのある、建材という名の物質のかたまり」であって、それ以上でも以下でもない。と思われている。
しかし、その物質の配置によって空間が生まれると建築家は考える。
その考え方自体が仮想以外のなにものでもないのだが、空間はまさに仮想であることによって豊かさへの可能性を開くのである。
建築によって仮想と接続されると言っても良い。
単なる物質が永遠の時間や無限の広がりといった仮想を引き寄せることもあるのだ。

著者は空間を『自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想である』と言う。私たちの心は「志向性」によって脳という容器の中から飛び出すのだが、この概念は建築を考える上でも示唆に富んでいる。この志向する先を広げることによって心を、無限の仮想空間へ解き放つことができる。
建築を学んだ人であればこの『志向性の束』というのは納得のいく考えではないだろうか。

人類にとって、「現実」こそ全てと思い込まされている今ほど空間の限定された時代はないのではないように思う。それは非常にもったいないことではないか。
仮想のもつ豊穣さを取り戻すことは建築の役割の一つでもあると思う。しかし、「志向性」と言うものが能動的なものであるとすれば、仮想というものの存在や価値を多くの人が認めるようにならなければその役割を果たすことも難しい。

本書では「仮想」の豊穣さがいろいろな角度で語られているが、多くの人が本著に触れ仮想への扉を開いてくれることを望む。




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




B097 『前川國男 現代との対話』

松隈 洋他
六耀社(2006/09/26)

「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。

中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。

『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。

■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)

しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)

また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。

思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に

一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。




B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

藤森 照信、下村 純一 他
TOTO出版 (2006/09)

もう出てたんだ、ということで〈1〉〈2〉に引き続き〈3〉を図書館で借りてきた。

ついに現代に追いつき妹島和世の「梅林の家」、藤本荘介の「T house」、西沢立衛の「森山邸」まで紹介されている。
ということで後半はこれまでの巻とは若干趣が違う感じがした。
「梅林の家」は鉄板構造で外壁、内壁ともに厚さ16ミリほどの鉄板で出来ているが、そこにあけられた開口によるシュールレアリズムのような光景は全くオリジナルな空間の関係性を生み出している。その感性には脱帽というほかない。

藤森氏はこれらの作品に歴史の原点、本質的なにおいを見出しているように、こういった新しい感性によって空間のあり方というものが”純粋”といえるレベルまで引き寄せられているのかもしれない。

このシリーズで一貫している、「戦後住宅の”開放から自閉へ”」という見方。伊東豊雄はじめ、自閉的・内向的建築家が時代を開いてきたという見方が面白い。
僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか?
藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。
それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。

深みに支えられた拡がり、というような感じか。




B095 『ル・コルビュジエのインド』

北田 英治 写真
彰国社(2005/06)

先日のシンポジウム「鹿児島のかたち・地域のかたち」で”1950年以降・インド以降のコルビュジェ”と言うのが話で出たので、そういえばそういう本があったなぁと図書館で借りてきた。

そのときに案出するベースになったのは、スケッチブックに見られるように、観察ですね。チャンディーガルを歩いたり、インドの風物を観察を描き留めながら、民族の普遍的な知恵がどこにあるのかを探っていく。でもそれにベタッと寄り添ったものをつくるのではなく、それを一度、建築と人間の関係に置き換えて、新しいものをつくる。そうやってタイプを変形、変容させてゆく能力が、後期の彼を支えていたのだろうなと思います。(富永譲)

シンポジウムで言われたのはまさにこういうことだったと思う。
今までなんとなく自分の中で何かが足りないと感じていたのだけれども、このシンポジウムで画竜点睛というか、空いたところのピースを見つけた感じがしたのだ。(全く感覚的なレベルでしかないが)

読書感想ももうすぐ100冊だ。なんやかんや言ってコルに帰ってきそうな気がしてきた。

コルと吉阪隆正の自然に対するアプローチを「海の人」「山の人」と対比している所や、インドでの仕事のアプローチをカーンとコルで「誰でも理解できるシンプルで厳格なルールをつくるか、あるいはアクシデントを全部受け入れるか」と対比しているところが面白かった。モデュロールが厳密な幾何図形を前提とせずとも美しさを担保したから、コルは形の自由と有機的な野生を獲得できた、という分析もあってなるほどと思ったのだが、全てを受け入れる懐の深さとそれを全体としてまとめあげる力量が、これほどおおらかな建築を可能にしたのだろう。




B094 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

C.ダグラス ラミス (2000/09)
平凡社

東京にいる頃に本屋で見つけ題名に魅かれてつい買ったもの。
読んだ印象があまり記憶に残っていないので、そのときはそれほどリアリティを感じなかったのかもしれない。

今読んでみるとまた印象が変わるのかな、と思い再読してみた。
(さっき気づいたのだけど『世界がもし100人の村だったら』の再話・翻訳もダグラス ラミスだった)

内容はタイトルの枠に収まらず戦争や環境問題、政治についてなど幅広い問題を扱っている。
最初はタイトルを『21世紀へのコモンセンス』にするつもりだったそうだが、共通しているのは今流通している『常識』が私たちにとって正しいのか、誰のための常識か、と問うところにある。『常識』は、それは”常識だから仕方がない”というように、人々から思考の機会・選択の機会を奪う。
その機能ゆえに一部の目的のために『常識』が捏造され利用されてきた。
その代表が”経済成長・発展”が当然とする常識である。この本では、そういう『常識』を歴史を遡ったり、冷静に分析することでそれが如何に非現実的で、私たちの思考や選択の機会を奪っているかを解りやすく暴いていく。著者は今の経済主導の社会を氷山に向かって突っ走るタイタニックに例えている。(僕はまだ観ていないけれども)『不都合な真実』が話題になっているように、舵をきらなくてはいけないことは明白だ。

舵をきるためには『常識』によって奪われている”思考すること・選択すること”を取り戻さなくてはいけない。
道は自分たちで描けると言うことを思い出そう。

今の『常識』を都合よく感じている者はそれを維持するために必死で人々の恐怖を煽る。
それから自由になることは簡単なことではないかもしれないけれど、それに打ち勝つ勇気と想像力を育てよう。
まずは『常識』の示すものとは異なる可能性があることをイメージすることから始めよう。

一番必要なのは、道を楽しく描いてくれる人なのかもしれない。

幾分昔の本だけれども今でも全く古びていないし、とても読みやすい本なので是非一度読んで見てください。それにしても、なぜ前に読んだときにそれほど印象に残らなかったのか。それが不思議です。
(あたり前のことといえばあたり前のことしか書いていないのもあるが、前は今ほど危機感を感じていなかったのかもしれない。また、鹿児島だからこそリアリティを感じられた部分もあると思う。)