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B168 『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』

柄谷 行人 (著)
岩波書店 (2004/1/28)

鹿児島大学の井原先生より全3回の読書会にお誘い頂いたので参加してきました。(2回目は日程を勘違いして不参加という失態を犯してしまいましたが・・・)

学生の頃に磯崎さん周辺の本を読んでからこの手の本には苦手意識があって、あまりまともに読んでこなかったのですが、なおさらこれはいい機会だと思い、今の自分の問題意識の先につながればいいなと読んでみました。

読書会での議論をまとめようとすると収集がつかなくなりそうなので、読書会前にメモしたことを多少読書会での議論を加味しながら書いておこうと思います。
いつものごとく個人的なフローの記録という位置づけですのでお暇な方はどうぞ、という感じで。

「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」

私が本書でやろうとしたことは、ディコンストラクションをコンストラクションから、すなわち建築から考えてみる事だといえる。(p.3)

本書には「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」という大きく3つの流れがあり、「制作」「生成」と「世俗的な建築(教えることと売ること)」の間にはダイナミックな「転回」があるような構成なのですが、まずは、特に序文を参考にモダニズム以降の建築の流れをこの3つの流れに大まかにプロットして見ることからとっかかりを探すことにしました。
プロット自体はかなり大雑把で強引なものであり、個人的な解釈や印象に基づくものです。メモにすぎないのですが、おかしな点はご指摘頂けると嬉しいです。
プロットの先に探したいのは著者の「転回」の先にあるであろう今の建築に対するヒントです。
また、定義が曖昧なまま書いてますが、「主体」とは何かということもテーマとして重なるように思いました。

「制作」

モダニズム・機能主義や、例えば幾何学の応用等がこれにあたるかも知れません。

建築家がある思想のもと全てをコントロールし「建築」を制作できるという信頼がベース。
個人的には建築単体としては豊かで魅力的なものが多い気がする。
その魅力・豊かさの源泉は「主体」としての建築家の豊かさが建築に織り込まれていて、建築そのものが「主体」と成り得てることではないだろうか。ただ、都市のスケールでの「制作」になると一転して退屈で息苦しいものに感じる。
また、「主体」としての個人の建築家を離れ、機能主義のみが独り歩きした建物は、どちらかというと、主体不在で「生成」された、ポストモダン的なものになっているように思う。(そしてそれにはあまり魅力を感じない)

「生成」

狭義のスタイルとしてのポストモダニズム・ディコン等は機能主義の「外部」に出ようとしたが、結果として、その操作を行う「主体」としての建築家の「外部」に出られず、どちらかと言えば「制作」の範囲にとどまっている、という印象。

コンピューターの発達により非線形的な方法を導入して、「別様であり得る」可能性の中からあえて一つを選んだ、というような方法は「主体」が曖昧にされつつ、建築としての質を建築家が担保するという点で「生成」的でありながら「制作」的でもあり、現実的にはバランスがよさそうに感じる。

純粋な「生成」というのは難しそうだけれども、建築家不在の建築がそれにあたるのか?
「生成」に主体の不在を求めると、なんとなく貧しいイメージしか浮かばない気がする。(実際には生成=主体の不在というのは正確ではないと思いますが上手くつかめてません)

「世俗的批評」

これは「世俗的な建築」と言って良いかも知れないけれども、超線形設計プロセスや超並列設計プロセスは「世俗的な他者」をコミュニケーションに組み込みつつ社会性の中に豊かさを織り込んでいくという点で「世俗的な建築」の可能性を示すもののように思う。

「制作」から「生成」へと移るさいに「主体」が忘れられ、その先でまた、別の形での「主体」のあり方が求められている。と言うような印象。

転回の先に何を求めたのか

この本を読むにあたって一番知りたかったのは、著者はなぜ「外部」を求めたのか?「転回」の先に何を求めたのか?ということだったのですが、強引にプロットしてみてなんとなく自分の問題に引き寄せられたような気がします。

「制作」での「外部」への欲求は建築と言うより都市のスケールでの不自由さ・貧しさ・息苦しさから。
「生成」での「外部」への欲求は主体の不在による不気味さ・貧しさから。
とすると、「転回」の先に求めるのは都市における建築と主体の新たなあり方のようなものかもしれない、と思いました。

読書会でも「ポストモダンの社会でいかにして、あえて主体たりうるか」と言ったことが話題に登ったのですが、建築や都市の語を例えば個人や社会といった言葉に読み替えることもできそうです。(適切な言葉を当てはめれば著者の欲求にも当て嵌まりそうな気が。)

第3部「教えることと売ること」で出てきて気になった「教える-学ぶ」「社会的/共同体的」「固有名」「社会性」については合わせて読んだ「ウィトゲンシュタインの建築」の所で書きます。つづく。

—-うーん、まだまとめるほど頭が整理できてないのでほんとのメモ書きみたいになってしまいました。期間を開けて何周か読んでみないと・・・。




B167 『自然な建築』

隈 研吾 (著)
岩波書店 (2008/11/20)

図書館でなんとなく手にとった本なのですがこのタイミングで出会えて良かったなと思えました。
僕の不勉強もありますが、隈さんの印象が少し変わったように思います。何というか隈さんの身体性に初めて触れられた気がしました。(テーマのせいもあってこれまでのキレてる印象が少し和らいだ分、僕的には”届いた”本でした)

今まで全く意識したことなかったけど、技術に対する意識という点で隈さんと藤森さんって似ている所があるかもしれません。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B117 『藤森流 自然素材の使い方』

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

こういう風にして引き寄せられる何かに対してすごく興味があるのですが、もっと外に飛び出して足と手を動かさないといけないなという反省と共に、ほんの少しずつでも前に進んで行きたいと勇気をもらえました。

P.S
いっちーに隈さんの出演しているこの本を話題にしたラジオを教えて頂きました。
ラジオ版学問ノススメSpecial Edition隈研吾(建築家)[2009/02/01放送]




B166 『WindowScape 窓のふるまい学』

東京工業大学 塚本由晴研究室 (著, 編集)
フィルムアート社 (2010/10/29)

塚本さんの”ふるまい”という言葉について興味があったところ図書館で目にしたので借りてきた本。

冒頭の文章が良かったので一部引用。

なぜふるまいなのか
20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。
(中略)
窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。

「人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている」「窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまう」「隣り合うことに価値を見出す経験の論理」

ちょうど、昨日の飲み会で主にコストとの折り合いの関係から、「名作と呼ばれる建築の仕上げなどがクロスやアルミサッシなどの工業製品に置き換えられたら、その空間の質は残るか」みたいな話が出たけれども、それほど影響が出ないタイプの建物と決定的に影響が出る建物があるのだろうと思います。

では、工業製品と付き合って行かざるをえない中でどうすれば「世界を感じ取るためには不可欠なもの」をとりもどせるか。

いわゆるモダニズムの正攻法かも知れないけれど、一つは空間の質を素材の持つ力に頼らず、例えば構成などで担保するような方向があると思う。
工業製品が「それ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物」だとすると、それを前提として受け入れてしまい、枯山水じゃないけれども抽象の力を借りて「人間が世界を感じ取るためには不可欠なもの」を引き寄せるような方向。(抽象もコストがかかりがちだけど)

もうひとつはそれ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物を再び開こうとする方向があるのかも知れません。一つ目の方向との違いは分かりにくいかも知れないけれど、抽象よりももっと具体的・身体的な部分でリアルに迫るようなイメージ。
それをどうやって開くかというのはまだよく分からないけれど、例えば
・構成を身体的なところまで細分化?していって、閉じたモノを絡み合った関係性の束の中に落としこむことで完結させないようにする。
・もっと具体的にものの使い方や意味をずらしてしまうことによって閉じた輪郭を関係性の中に浮かび上がらせる。
というようなことがようなことがイメージされます。
あと、工業化の過程でブラックボックス化した技術をどう可視化して手元に引き寄せるか、というのも一つのテーマになるのかな。

この辺は実践を通して手応えを掴んでいくしかないなぁと最近良く感じます。




エイリアンから生活を取り戻せ(とか)

昨日久しぶりにMさんと話をして、個々の設計についてもいろいろ刺激になったのですが、トランジットモールなどの話をしながらふと、昔書いた記事を思い出しました。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » 自動車エイリアン説。

もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。 車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。

※車社会の善悪の話ではなく、生活風景のデザインの話だと思って読んでください。僕も少なからず車社会の恩恵を受けていますから。

天文館のトランジットモールも魅力的なのですが、毎日暮らしているこの場所はもっとどうにかならなかったんだろうかと、一生活者として思うことがよくあります。
毎日、保育園まで歩いて子供たちを迎えに行っているのですが、その帰りに二人の子供と道路を歩くのは緊張を強いられとてつもないストレスを感じます。

さっきの話の続きで、エイリアンに侵略されてる妄想をしながら、例えばいくつかのエリアの地図を【ヒトのための空間】と【車のための空間】とに塗り分けて面積比を出したらどんな結果が出るでしょうか?
例えば5階建ての1階のピロティが駐車場のところは4:1で按分する方法があるかもしれませんが、いっそのこと、その平面的なエリアがヒトのための空間として活き活きしてるか、車のための空間として活き活きしているかで、えいやとどちらかに塗り分けた方が面白いかも知れません。

そうして、出てきた結果が仮にヒト:車=4:6だったとして、それを7:3にするにはどうすればいいだろうか、と考えてみるのは面白そうです。

通過交通用の道路以外の一分を歩行者専用にしたり、それが現実的でなければ、ヒトの生活よりのコミュニティ道路にしたり、はたまたソフト的な部分でOSOTO的に活用し、特定の日だけヒト:車率を変えたり、または、人の生活空間をより活き活きとしたものにして車よりも人の空間と感じられるようにしたり、と方法はいろいろありそうです。

自分の住んでいる街を一度、エイリアンに侵略されている街として想像しながらヒト:車率はいくらぐらいだろうか、それを変えたらどんな生活ができるだろうか、と想像しながら歩いてみると面白いかも知れません。

※再度書きますが車社会の善悪の話ではなく、生活風景のデザインの話です。車好きの方ごめんなさい。




B164 『建築家の読書術』

平田晃久 , 藤本壮介, 中村拓志, 吉村靖孝, 中山英之, 倉方俊輔 (著) )
TOTO出版 (2010/10/25)

本当に久しぶりの読書記録です。気持ちを新たに、ということでこのタイトルから。

この本は5人の建築家がそれぞれ20冊を紹介しながらレクチャーを行った記録なのですが、それぞれの建築への取り組み方と紹介された本が密接に関係していて面白く読めました。
紹介されている本はこちら(※PDF)にまとめられています。

僕もこのブログはもともと読書記録からスタートしていて、

気がついたらなんとなく過ごす日々が多くなっていた。
本棚の本も読み流したままで自分の言葉にする作業を怠っていた。
脳みそも錆付きかけている。
そんな日常から抜け出すために溜まった本を読み返し、そこから自分の言葉を見つける作業を始めよう。
そうして、見つけた言葉の断片を寄せ集めて、もう一度自分の地図を描こう。(『読書記録』カテゴリー冒頭文)

と書いているように自分なりの地図、もっと言えば建築に向き合う際の羅針盤となるようなものをつくりたいという思いから始めたもので、読書記録を文字に起こすのはこれで164冊目になります。

建築に関して自分がどこに関心があって、どういう事を大切にしたいか、というのはこれまででぼんやりと浮かび上がってきているので、これからは実践を通してそれを建築に落としこむ方法をつくっていこうと思っています。

さて、この本に関してですが、登場する建築家が同年代ということもあり感覚的な部分で共感できるものが多かったのですが、その中でも中村拓志さんの「微視的設計」のところが参考になりました。(佐々木正人さんの本が紹介されてたり、自分と重なる部分も多かったように思います。)

こういう視点はいろいろな方がいろいろなところで語られていると思いますが、最近ネットをいじってることが多いこともあって、例えば下記のように直接建築とは関係の無いところから現在の身体感覚のようなものを感じました。

こうした、身体の行動、挙動に着目した、微視的なアプローチというのは、ネットの空間でも行われていると思うんですね。たとえばツイターのように、誰かがちょっとつぶやいたものがみんなに広がって、それがリアクションになって積み重なっていく。SNSでもアクセスが足跡履歴となって、反応が残る。足跡とかつぶやきというのはまさに小さなふるまいですね。そういうものが積み重なり、共振することで、公共的なるものがなんとなく現れる、というのがいまの社会だと思います。
それは、マスコミュニケーションの時代、マスメディアの時代とは全然違うと思うんです。マスメディアというのはやっぱり巨視なんですよ。(p139)

ツイッターがそのまま建築の形になるということではないわけですが、アプローチの仕方を変えることで建築の持つ質は変えうると思いますし、自分なりのアプローチを見つけなければ設計をしていてもどこかで行き詰ってしまいます。

この視点は藤村さんの超線形設計プロセスやdot architectsのアプローチにもつながる気がするのですが、小さなスタディを数が全体の輪郭をぼんやり出現させるところまで繰り返し、それによって生まれる豊かな関係性の可能性というのは確かにあるんだろうなという気がします。

また、手数がそのままコストに反映してしまうとするならば、施工の方法にアプローチしたり、思考・スタディの繰り返しによる密度・手数を、生まれた豊かさを損なわなずに再度シンプルなものに還元するような方法がテーマとしてありうるかも知れません。(その一つが寸法に還元するということでしょうか)

そういう事を考えながら、本を読むということは僕にとって自分のペースを維持するのに必要なんだなと感じました。
どんなに忙しくても、読書の時間ぐらいは確保できるように環境を整えていかなければ。




B162 『オートポイエーシス論入門 』

山下 和也 (著)
ミネルヴァ書房 (2009/12)

今考えてることと直接的に関係があると思い、オートポイエーシス論をちゃんと理解しようと思い読み始めました。
『使えるオートポイエーシス論』を目指しているだけあって難解なオートポイエーシス論がみごとに整理されています。これで10年前に買って何度も挫折している河本氏の『オートポイエーシス―第三世代システム』がすっと読めそうです。
ただし、整理されていると言っても感覚的なコツをつかまないとなかなか理解が難しいのでオートポイエーシスを掴みたい方は先に 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』を読まれることをおすすめします。

ぽこぽこシステム論

ちょうどこの本を読み始めたときにマルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談があり、どういう見方でイベントに臨むかを考えているときに「ぽこぽこシステム論」というのを思いつきました。

オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
もう少し読み進めていくと、オートポイエーシスの社会システム論で言うところの構成素はコミュ二ーケーションである、というのを置き換えたに過ぎないと分かったのですが、考えた結果がオートポイエーシス論と重なったのは嬉しかったです。(その後@rectuwarkyさんが面白い論を展開して下さっています。)

オノケンノートとリノベ研

リノベシンポ鹿児島の後、なんの確信もないままかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)というサイトを立ち上げたのですが、ここに来てようやくサイトの立ち位置のようなものが見えてきたように思います。

オノケンノートとリノベ研、2つのサイトの立ち位置の違いを書いてみると、オノケンノートはあくまで僕個人の建築に対する考え方などを書いているサイトですが、リノベ研は建築分野の内外を問わず、いろいろな方の”産出物”、作品であったりテキストであったり姿勢であったり、が織り成す場、個々の活動をメタで見て考える場になればと思っています。(この論で言うところの1階言及システムもしくはn階言及システムにあたると思います)

リノベと関係ないようですが、今思えばリノベシンポ鹿児島で感じたもやもやは、具体的なリノベに関してではなくおそらく、個々の活動の繋がりの場や仕組みについてだったのだと思えるので方向性としては間違っていないように思います。(そもそも個人でリノベを考えるならサイトを立ち上げる必要はなかったはず)

なので、オノケンノートには自分が建築と向き合うときにどう考えるかという、どちらかというと自分に向けて書きます。
対して、リノベ研に書くことは当然自分の思考の整理と言う意味合いもありますが、どちらかというと個々の活動のメタな部分、例えば”リノベ研というシステム”に対して”ぽこぽこ”を期待して投げるような気持ちで書きます。社会外部へと言っても良いかも知れません。
(※社会と行った途端に対象がぼやけてしまいますのでとりあえずは外部へとしときます)

どちらも内部・外部両方に向けて書いてる部分はありますがウェイトとしてはそんな感じです。

オノケンノート的オートポイエーシス論

オートポイエーシス論はリノベ研的には社会システムとしての動きを記述・理解するのに助けになりそうに思うのですが、オノケンノート的にはどういう意味があるでしょうか。
もともとオートポイエーシスは個人的に(オノケンノート的に)追っていたものですが、

onokennote: オートポイエーシスにもう一つ期待しているのは設計プロセスについて。理論化まではしないと思うけどなんとなくのイメージはある。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: 超線形のような感じでパラメーターを扱うけれど、設計プロセスのなかでパラメーター自体が生まれたり消えたり変化しながら全体の構造自体が動的に推移していくことで複雑性を得るようなイメージ。ただし超線形のような共有可能性は失われる。 Dot のやり方に近いかも。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: と言っても設計論のようなものを実際の設計に活かす機会は今までつくれてない。それが出来るかできないか、必要か必要でないかも今後の課題ではある。 [07/06 13:42[org]]


というように書いているように設計プロセスについてヒントがありそうな気がします。
設計行為は施主や敷地や社会や経済や図面や模型や・・・、諸々とのコミュニケーションであり、継続的なコミュニケーションの中で例えば図面や実際の建物や関係者の満足感などを産出する一連の流れと考えられると思います。それは小さな社会システムとしてオートポイエーシス的に十分記述・分析できる可能性があると思うのです。
これは、個人の中でも言えると思いますし、dot architectsのような超並列?的な設計作業にも言えそうです。

それに、どんなものづくりであっても、さまざまなレベルで言えることだと思うので、リノベ研で考えたことがこちらにフィードバックもできるんじゃないかと思います。

またオートポイエーシスの環境、相互浸透、撹乱、コード、構造的ドリフト、構造的カップリング、言及システム、共鳴と言った概念を自分の目の前のことに置き換えることでその構造が見えてきて計画・対処できる可能性があるかもしれません。

そうでなくても、産出物のメタの部分でシステムが作動しているイメージを描けることは見方を拡げてくれそうです。




「地形のような建築」考【メモ】

今までブログに書いてきたなかで棲み家考の流れから『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』を経て、地形のような建築というのが僕の中で一つのキーワードになっています。

では、仮に「地形のような建築をつくりたい」と言った時どういう論を展開できるのか。取りこぼすものまたは建築になるキモは何かというような事をメモ的に考えてみます。

(地形)の特質とは何か

ここで「地形のような建築」と言うときの地形を括弧付きで(地形)と書くことにして、(地形)の特質は何かを考えてみます。

オノケンノート » 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。

(私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。
この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。

また、敷地と言うものも地形かといえば十分に地形です。
ですが、一般的な造成された敷地に対して(地形)をあまり感じません。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれています。

ですが、平らに造成されてしまった敷地では、すくなくともあるスケールに於いてはそのプロセスが一度リセットされた少数の意思による短期間の結果のみが残ります。

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。

そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

以上の二つを(地形)の自立的関係性・プロセス的重層性と仮に呼ぶことにします。(しっくり来てないのでいいのが思いついたら書き換えます)

地形と(地形)

また、一つの地形である敷地に対して(地形)をつくりたいと言うのはどういう事でしょうか。

例えば(地形)の特質を備えた敷地に対してはわざわざ(地形)としての建築を建てる必要はないような気もします。(それはまだよく分かりません)

ですが、敷地・建物・モノその他私たちのまわりの環境から(地形)の特質は薄くなってきているのが現実としてあり、それに対する欲求は無意識のうちに高まってきているのではないか、という気がしています。

そんななかで地形ではなく(地形)を求めることに建築としての可能性があるのではないかと思います。

地形のような建築とは

これはゆっくり考えていきたいですが、(地形)の特質、自立的関係性とプロセス的重層性を備えたものと言えそうです。(特質についてはもっと考える余地あり)

必ずしも形状として地形のようである必要はなく、概念的なレベルで(地形)的であってもいいし、形状から離れた方がもしかしたら面白い発見があるかもしれません。

また、地形ではなくあくまで建築であるためのキモはどこにあるかも考えて行きたいです。
おそらく地形ではなく(地形)の特質をもった”建築”になるボーダーのようなものがあるはずです。

地形のような建築をつくるには

では地形のような建築をつくるにはどうすればいいか。

まず、地形のような建築と言ったときにいくつか頭に浮かんだものを上げてみます。

(A)伊東豊雄氏・藤本壮介氏等の一連の作品
(B)青木淳氏の決定ルール
(C)藤村龍至氏の超線形設計プロセス論やアルゴリズム
(D)マルヤガーデンズの試み

(地形)への憧れはこれらの方の影響が大きいので当たり前ですが、伊東氏・藤本氏・青木氏らの作品は自立的関係性が非常に高いように思いますし、藤村氏の手法はプロセスを圧縮し、恣意性を排除していくように思うのでプロセス的重層性も自立的関係性も高く(地形)を生み出すための手法ではないかという気もします。
また、人の活動と建築の関係を見た場合、ガーデンとしてのあり方を担保しているのは場の自立的関係性だと思いますし、活動という要素は未来に向けてプロセス的重層性が開かれているとも言えそうです。

では、他にどのような手法が考えられるか、についてはおいおい考えていきます。
アフォーダンスやオートポイエーシスのイメージといった自然のかけらとして集めてきたものがヒントになりそうな気がしますが、狙いを定めて建築に落とし込めるまでもう少し掘り下げる必要があります。

「地形のような建築」がとりこぼすもの

おそらく「地形のような建築」と言った場合とりこぼしそうなもの、というのが出てきそうです。

そういうものをすくい上げることで(地形)の特質を備えつつより飛躍するためのヒントが見つかるかもしれません。

そもそも、生活の場が(地形)であるべきなのか、と言うところからじっくり考えてみないといけません。
これについてもおいおい考えていきます。

以上、twitterのブログ版的な感じで、とりあえずをメモ的に書いてみました。

今後もう少し考えて見たいと思います。何かヒントがあれば教えて下さい。




B161 『今こそアーレントを読み直す』

仲正 昌樹 (著)
講談社 (2009/5/19)

オノケンノート » B002 『住み家殺人事件建築論ノート』

そこでキーとなるのがハンナ・アレントのいう「私的」「公的」という概念である。
『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994
『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)
『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)

オノケンノート » B123 『ウェブ人間論』

平野氏が
実は僕たちが公私の別を言うとき、そこで言う「公」というのは、僕たちがどんな人間であるかというのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会的領域に過ぎないのではないか、ということです。そうした時に、「ウェブ」という言葉でアレントが表現したような、人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないかということ僕はちょっと感じているんです。(平野氏)
というようにアレントを引用していたが、アレントの言うような”奪われてしまった公的 なもの”をウェブが取り戻す可能性は大いにあるように感じた。

今ままで何度かハンナ・アーレントの名を目にしていて、一冊読んでみたいなーと思っていたのをようやく読みきることができました。

アーレントは「人間性」「活動」「複数性」「公的領域/私的領域」「自由」といった言葉を僕たちが普段使っている意味とはちょっと違う感じに再定義しているのだけども、それが結構新鮮でした。

哲学に関するような本を読んでると、概念をひねくり回して単なる言葉遊びをしてるんじゃないかという気になることがよくあるのですが、実際、人間は言葉によって思考の枠組みを固定化させられてしまう事の方が多く、逆に言葉に弄ばれてるような気がします。言葉を自分の手のひらにのせ直そうとするだけでも言葉遊びにも意味があるのかもしれません。

アーレントの核は多様な考え方が共存できるような状態を維持し、例えば全体主義に陥らないように注意深く思考や言葉を吟味していくことにあるのだと思うのですが、最近の政治や報道に対する単純な反応(って単純に思ってしまうことも含め)に対してカウンターになりそうな感じで、なおかつ簡単に捕まえられなさそうなところがいいです。

そういう意味でのアーレントは本書を読んで頂くとして、本書で書かれている人間性を空間性に置き換える事で建築について考えられそうな気がしたので少し書いてみます。

onokennote: メモ アーレントの活動・複数性・自由の定義は自由な空間・多様な関係性にそのまま接続できそう。アーレントの意義が説明可能ならそこから多様な関係性の意義に持っていけるのでは。 [04/24 17:38[org]]


例えば強引に

【人間としての最も重要なのは、複数性・多様な価値観の担保された公的な領域において、意見を交し合う活動であって、私的領域は公的領域を補完するためにある。また、複数性を保持し活発な活動がなされるには活動する各人の「間」に適切な距離を設定する「自由な空間」が必要である。また、自由は解放によって得られるのではなく構成によって生み出すべきものである。「自由な空間」において「活動」に従事することで「複数性」の余地が広がり「人間らしさ」を身につける】

と言うようなことを空間におきかえて

【空間として最も重要なのは、多様なものとの関わりあいを担保された公的な領域において、多様なものとの関係性を築くことであって、私的領域は公的領域を補完するためにある。また、多様なものとの関係性を築くためにはそれらに関わるための余地・隙間を適切に設定する「自由な空間」が必要である。また、自由は解放によって得られるのではなく構成によって生み出すべきものである。「自由な空間」において多様なものとの関係性を築くことによってリアリティを獲得するのである。】

と仮定してみると、このブログで考えてきたことに綺麗におさまりそうです。

公的領域/私的領域についてはちょっとニュアンスが違う気がしますし、例えば住宅を公的領域を主に考えることに対していろいろ議論の余地はありそうですが、考える方向性・可能性としては十分あると思いますし、実際にそういう議論も行われていると思います。

もう少し突っ込んでアーレントの「活動」「複数性」の性質を学んでみれば、新たな建築に対する視点・ヒントが得られそうな気がしますが、それはまた時間のあるときに。「人間の条件」ぐらいは読んでみたい。

ちなみに、以前、いろいろなものから開放・解放された自由な空間をつくりたい、という意味もこめて架空の事務所名を「A-RELEASE BUILDING WORKSHOP」としてたころもあったのですが、解放ということばに政治的な匂いとおこがましさを感じたので、あまり意味を含まない「オノケン」に変えたことがあります。

また、

onokennote: メモ:理解できたとは言えないけど、ツイッターは現代社会の中ではアーレントのいう”活動”における”複数性”を比較的確保できる可能性を持った場所なのかも知れない、と思った。”複数性”と空間の心地よさについても少し思いをめぐらせてみたい。 [04/20 23:31[org]]


ウェブ、特にツイッターについてアーレントの公の概念から考えられそうな気もしますが、それも気が向いたら。




B158 『animated (発想の視点) 』

平田 晃久 (著)
グラフィック社 (2009/02)

だいぶ前から気になっていた本。ようやく読めた。

人は森を拓き、住みかをつくり、畑を耕し、都市をつくり、地球の大部分を覆いつくすにいたった。そして人間活動の際限ない増殖と地球環境の有限性の間にある根本的な矛盾は、今日かつてなく明白になっている。
しかし、建築をつくり都市をつくる人の営みそのものが悪なのだろうか。だとしたら、たとえば都市の夜景の放つあの生命のような輝きは何なのだろうか。僕にはエントロピーの法則に逆らうようにして人々が集まり、様々な交換をくりかえす都市的活動の持つバイタリティーが、本質的悪だとはどうしても思えない。そうした輝きを否定したところには、ある種の静けさがあるかもしれないが、それは生命のない静けさなのではないか。(冒頭より・強調は引用者による。)

冒頭のこの文章を読んで、ふっ、と著者のこれから書かんとすることがなんだかわかった気がした。

自然と人工を切り分ける前の言うなればガイア的な視点。「animated=生命を与えられた」に込められた人間・建築に対する本質的な愛情。
視点をぐっとフィードバックすることによって生まれるイメージ。

それから、手がかりとされる10のキーワード。

内発性
A,A’,A”…
開かれた原理
対角線
360°
ひだ
同時存在の秩序
動物的本能
脱[床本位制]
人工と言う自然

メインテーマとキーワード、そこから導かれるイメージというフォーマットは自分の考えをまとめるのにはすごく参考になりそう。
年内にこういったまとめができればいいけど。
パネル化することを目標にしてみようかな。




B157 『藤森照信 21世紀建築魂 ― はじまりを予兆する、6の対話 (建築のちから) 』

藤森照信 (著), 藤塚光政 (著), 伊東豊雄 (著), 山本理顕 (著), アトリエ・ワン (著), 阿部仁史 (著), 五十嵐淳 (著), 岡啓輔 (著), 三分一博志 (著), 手塚貴晴+手塚由比 (著), 大西正紀+田中元子/mosaki (編集)
INAX出版 (2009/6/30)

3つの「建築のちから」シリーズの第1弾。

藤森氏特有の眼力といつも通りの力技を駆使してこの先の建築のあり方を探る。

今まではなんとなくしっくりこない感じがしてたのだけど、アトリエ・ワンや(今回は出番はなかったけれど)坂本一成なんかに少しずつ共感できるようになってきています。

最後に収録されている対談の伊東さんの発言

僕が興味を持っている若い建築家たちは、ゼロ点へ向かっていくのではなく、20世紀的論理とは別の論理をつくろうとしている人たちです。そこにすごく期待をしています。彼らはとても微妙な関係性で建築をつくろうとしている。20世紀的な建築は、何か一つのルールがあって、それによって全体が構成されるものでした。しかし今、モノとモノとがある関係で結ばれていることから全体を組み上げていこうとするような手法が現れてきている。そして、そこにどのようなルールを発見できるのかが重要だと思っています。

というところに建築の一つの方向が表れているように思います。

たぶん、もうひとつの方向は身体性。(阿部仁史の傾斜、岡啓輔のセルフビルト他)

別エントリでのコメントの続きになるかもしれませんが、20世紀的な機能主義・純粋幾何学の論理を関係性や身体性を軸にどう超えられるか
そのための方法論、もしくは攻めどころをきちんと言語化することを今年の目標に加えたいです。

その先が、モダニズムであるかポストモダニズムであるかは、定義の仕方によるかもしれませんし、どれだけ重要かはわかりません。ですが、あえて両者の違いをあげるとすれば、モダニズムが合理性等のある種の言い訳のもと一つの最適な解が導かれるという思想だったのに対し、ポストモダニズムでは”全てが別様でありうる”ということが前提となっているように思います。

全てが別様でありうる中での一つの振る舞い、もしくはデザインと言う行為そのもでしかありえないという前提のもと、意味や価値に囚われない(もしくはあえて囚われてみせる)自由な建築のあり方に近づきたいです。(この自由って言葉もかなりデリケートです)

あと、まだ読んでいませんが、伊東豊雄さん, 藤本壮介さん, 平田晃久さん, 佐藤淳さんのシリーズ第2弾および、この春出版予定の山本理顕さん、中村拓志さん、藤村龍至さん、長谷川豪さんの第3弾も楽しみです。




B156 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』

東 浩紀 (編集), 北田 暁大 (編集)
日本放送出版協会 (2009/05)

興味を持った経緯

藤村龍至氏による「批判的工学主義」「超線形設計プロセス論」をまとめた論が載っているというので今後の建築の議論の前提として読んでおいた方が良いのかな、と思っていたところにtwiiterで

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。/動物化せよ!!というアジテーションに乗っかれないニンゲン=学生が印象論的に嫌悪感を抱いているという印象。設計うまい奴ほど動物なのにね。 RT @saitama_ya もしかして超線形プロセスって設計行為を動物的な方向に持っていくものとして、学生に見られがちなのかしらん。。。


というのを発見。
実は結構自分の興味と重なるのではという気がしてきました。

onokennote: 学生のころ(10年ほど前)妹島さんにポストモダンを突き抜けた先の自由のようなものを感じたんだけど、藤村さんの理論はそれを方法論として突き詰めた、ということなのだろうか。だとすれば大いに興味がある。早く思想地図3号をゲットして東さんの動物化との関連を知りたい。 [12/02 09:21]


オノケンノート ≫ B008『妹島和世読本-1998』

今考えると、妹島の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。 もちろん、妹島の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。

妹島さんにポストモダンを感じて以降、ポストモダンを生きる作法、意味を突き抜けた先にある自由のようなものに対する感心はずっと持っていて東 浩紀の動物化にも結構影響を受けたので、自分の興味とうまく繋がるんじゃないかという気がして早速図書館で借りてきて読んでみました。

まずは先に読んだ序章と藤村氏の部分について考えたことを書いておきます。
(twitter経由で本人が見られる可能性もあり多少尻込みしますが、不勉強な現時点での考えということで)

アーキテクチャの問題

まずはじめに前提となるアーキテクチャの問題について序章と冒頭及び共同討議の導入部を引用しておきます。

「アーキテクチャ」には、建築、社会設計、そしてコンピューター・システムの三つの意味がある。

この言葉は近年、批評的な言説の焦点として急速に前景化している。わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのは、イデオロギー批判ではなくアーキテクチャ批判である。だとすれば、わたしたちはアーキテクチャの権力にどのような態度を取るべきなのか。よりよきアーキテクチャなるものがあるとすれば、その「よさ」の基準はなんなのか。そもそも社会を設計するとはなにを意味しているのか。イデオロギーが失効し、批評の足場が揺らいでいるいま、それらの問いはあらゆる書き手/作り手に喫緊のものとして突きつけられている。(東浩紀)

しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。(中略)しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりした話になってしまい、誰が悪いとは簡単には指差せない。(東浩紀)

僕がブログに感想を書いた本でいうと
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

というのが近いかもしれません。

コントロールする主体がつかめず訳がわからないまま何かに支配されている、そういう感覚が広がる中そういう問題にどうやったらアプローチできるのか、という事だと思います。

地方における問題

onokennote: 工学主義をどう乗り越えるかは、ここ鹿児島でもというより地方でこそ本質的で重大な問題。鹿児島で感じるもやもやを明確に示して貰った感じがする。 [18:08]


工学主義の定義は後で紹介するとして、例えば、街並みがハウスメーカーの住宅やコンビニ、大型商業施設といったどこに行っても同じようなもので急速に埋め尽くされつつある、と感じたことは特に地方都市で生活する方なら誰でもあるんじゃないでしょうか。

個々にとっては例えば地元の顔のみえる商店街も大切だと思ったり、潤いのある街並みのほうが好きだという気持ちがあっても、なぜか先に書いたような画一化の波は突き進んで行くばかりで止められないし、どうすればよいか分からない。

東京などの大都市においては規模があるのである程度の多様性は担保されるように思いますが、地方においては、その人口・経済規模の小ささ、情報伝播量の少なさから画一的な手法に頼りがちでこういった状況がより加速しやすい。と、鹿児島に帰ってきたとき最初に感じました。

皆があるイメージを共有し自らの判断の積み重ねでこの問題をクリアしていくのが理想だと思いますが、実際にはこのアーキテクチャの権力は強力でなかなかそれを許してくれないように思いますし、アーキテクチャの問題は地方でこそより切実だと感じます。

批判的工学主義

onokennote: 思想地図の藤村氏の論を読む。工業化→批判的機能主義(コルビュジェ) 情報化→批判的工学主義 の比較は非常に明確で食わず嫌いでいる必要は全くない [12/02 18:05]


こういう問題に対して藤村氏の提唱する「批判的工学主義」は思考の枠組みを与えてくれます。

本著を読むまではヒハンテキコウガクシュギと聞いて既存の単語のイメージを当てはめても何のことかよくわかりませんでした。
しかし、読んでみれば難しい話でなく、おそらく機能主義とコルビュジェの成果を知っている人であれば誰でも理解できるものでした。

工学主義の定義の部分を引用すると

東浩紀は、社会的インフラの整備による技術依存が進む私たちの社会環境の変化を「工学科」と呼び、整備された環境のもとで演出された多様性と戯れる消費者像の変化を「動物化」と読んでいる。(中略)ふたつの変化が同時進行する状況をひとまず「工学主義」と名付け、「建築形態との関係から、以下のように定義したい。

1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術条件)に従う
2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる
3.ゆえに、建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる

まだよくわからないかもしれません。本著に載っている下の表がわかりやすいです。

[社会の変化と建築家の動き]
table1

「工業化」による機能主義に対してコルビュジェらは単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「機能主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、20世紀の新しい建築運動として提示』しました。その後コルビュジェらの建築は世界中に伝播し風景をガラリと変えました。(その広がりの裾野に行くに従い「批判的」の部分は徐々に失われてただの機能主義になっていったように思いますが)

「工業化」に対し「情報化」を当てはめ同じように考えた場合、”単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示』”する第3の道の立場がありうることは誰にでも理解できると思います。

超線形設計プロセス論は風景を変えうるか

その第3の道の立場を実践するための方法論として藤村氏は「超線形設計プロセス論」を提唱しています。

詳細は本著を読んでいただくとして、この方法論の特徴の一つとして著者は「スピードと複雑さの両立」をあげていますが、これらによって例えば今の風景を変えることは可能でしょうか。

これに対してはよくわからなかったというか、あまたある設計手法の一つであって他の手法とそれほど大きな違いはないんじゃないか。というように感じていました。

だけど、今日、なんとなくどこの誰が設計しかも分からないような変哲もないマンションの前にたって、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみると、何か可能性のような物が見えた気がしました。
誰もがこの風景を少し変える方法論を身につけたとしたら、少し変わるのかな。と

onokennote: 何でもない羊羹形のマンションの前に立ち、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみた。確かに街の風景を変えうる可能性がある。風景を変えるには、誰でも(例えば地方の組織系ともアトリエ系とも言えない設計事務所でも)使える汎用性のあるツールでなければならないと思う。そのためには組織系、アトリエ系それぞれに対応するパラメータの抽出と、それらを統合するノウハウの集積が必要。(前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める。どうせなら、WEB上でノウハウと事例を集積・公開し、集合知を形成するようなシステムと教育システムの構築までいって欲しい。そこまでいって初めて風景を変える力を持ちうるのだと思う。超線形設計プロセス理論に反感を覚える人は、これがアトリエ系とはまったく別のアプローチで汎用性を目指し長期的視点を持ったものであることを理解すべき。


誤解が含まれているかもしれませんが、重要だと感じたのは

・誰でも利用できること。
・組織型・アトリエ系それぞれの長所を結びつける手法であること。

だと思いました。
(アレグザンダーとの決定的な違いは何かということについてはまだ理解が足りない)

最初は「スピードと複雑さの両立」だけで何が変わるのか、と思いましたが、それらはパラメータの一組に過ぎず重要なのは、組織型・アトリエ系の再統合にあるのだと思いました。(例えば前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める)

特に前例のコルビュジェは伝播力という点では天才だったと思いますし、彼は機能主義を「乗り越えた」というよりは自分のやりたい事のために「利用(戦略的に再構成)した」のだと思います。

藤村氏もメディアの利用や啓蒙するスタイルはコルビュジェに似ていると思いますが、コンテンツにおくウェィトは少し違いがあるように思います。学生たちの反応をみると、初期導入の部分ではコンテンツのウェイトを増した方がうけが良いようにも思いますが、そこは汎用性のあるプロセスを鍛えるためにあえて抑えているのかもしれません。
(こんな発言も)

ryuji_fujimura: と、強気な主張をしつつも、オリジナルのスタイルを確立してファンとだけ仕事をするサッカがうらやましく思えたりもする。「厨房には立ち入らないで下さい」とか言ってみたい。よほど自信が無いと言えないからそれが言えるだけでもすごいとは思う。


超線形設計プロセス論は風景を変えうるか、ということについてはまだ分かりませんが可能性のひとつのとしてはあるように思います。

批判的工学主義の立場を取る際の方法論は他にもあるかもしれませんし、アーキテクチャへのアプローチは今後意識するようにしようと思います。

ポストモダンを生き抜く作法となりうるか

僕の個人的な興味である、建築が”ポストモダンを生き抜く作法”を体現できるか、という意味での「動物化」との関連はよくわからなかったのですが、もしこのプロセスの応用によって、意味に頼らずとも魅力的なものができるのであれば可能性はあるのかもしれません。

最初の引用を繰り返すと

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。 [02:06]


ここに挙げられている方たちの建築は共通して”ポストモダンを生き抜く作法”を体現しているように見えます。

僕自身はそれに対して方法論を持ち合わせていないので、もう少し方法論に対して意識的である必要があるかもしれません。




B154 『構造デザイン講義 』

内藤 廣 (著)
王国社 (2008/08)

東大の土木学科への講義をまとめたもの。

内藤氏の建築や言葉には大切な根っこの部分に対する深い哲学が詰まっていて、いつもちょっと待てよと立ち止まらせてくれます。

まずは備忘録も兼ね気になったところをいくつか抜き出してみます。(原文のままではなくはしょったり強調したりしています。)

デザインとは翻訳すること
・一つ目は「技術の翻訳」技術が生み出す価値を一般の人が理解できるようにすることによって、技術は初めて社会に対して開かれたモノになる。
・二つ目は「場所の翻訳」構築物が存在する場所の持っている特性を理解し、誰にでも分かるような姿形としてデザインに活かす。その場所に存在する必然性。
・三つ目は「時間の翻訳」その場所に流れている時間を理解し、想像する感性が必要。歴史について学び、敬意を払い、その上でそれを受け継ぎ、未来に対して提言する。

スチールとコンクリートは人間の思考が持つ根源的な二つの性質が内在している対照的な素材。
スチールは父性的。整合性を欠くことを嫌い、「意志的」。構築的であるが故に禁止事項も多くストイック。
コンクリートは母性的。受容的、受動的で、人間の様々な要求を受け入れてくれる。
・また、コンクリートは「時を刻む素材」。コンクリートは化学材料であり、鋳物のように流し込んでつくられる材料であり、不純物であり、不均質であり、そして大地を呼吸し、エイジングしていく材料

本当のエンジニアとは何か
コンクリートを打設しようとしている時に小雨が降ってきた場合、その人の経験と見識でその現場をとめるかどうかの判断ができる人。
要領よくできることではなく、予想外のことが起きた時に適切な判断ができる、経験と見識と倫理が備わった人間が本当のエンジニア。

「木」があまりにわれわれの文化の基層を形成しているために、たとえ問題があるにせよ許してしまう心理がわれわれの中にある。これが「木」に対して思考停止を招いている。設計の中に何かを求めようとする人は、自らと社会の中にあるこの思考停止と意識的に戦わなければならない

構造計画全般にも言えるが、特に木造の場合は「部分の系と全体の系をどれだけ往復できるか」が重要になってくる。

これからは経済性も考えながら構築物に「リダンダンシー」をどうしたら持たせられるかが課題になる。

情け容赦ない非情な技術というものを人間の感情やモラルにどう繋げられるか、これがデザイン。技術を繋ぎ合わせて新しいビジョンを打ち出し、いかに人間生活や人間社会に対して構築するか、つまり文化として租借し得るか。

新しい構造、それは建築的な価値とは無関係。本当の意味での建築的な価値とは、「技術と芸術が結び合ったその時代の精神の現れ」

本著の中でも自分の頭で考え、感じることの大切さについて再三書かれています。

オノケンノート ≫ B020 『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』

今、頭と身体、感覚をすべてこんなにうまく使える人は珍しい。 仕事が「頭でする仕事」と「身体でする仕事」に分けられてしまったため、一人の人間の中から引きはがされてしまったように思う。 (中略) どうしたら、「建築」にこういう仕事の仕方を引き寄せられるだろうか。 それは、僕が建築を続ける上で重要な問題だ。

今はパソコンがあれば机上の上で何でもできてしまうような錯覚に陥りがちですが、モノの振る舞いを身体的に理解することは危険を察知するという意味でも、空間の質を決定するという意味でもとても大切です。
おそらく内藤氏の空間が独特の空気感、時間の流れやモノの存在を感じさせる空気感を獲得できているのはこういう感覚に対する誠実さのためだと思いますし、それは僕の中のちょっとしたコンプレックスでもあります。

オノケンノート ≫ 技術

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。
(中略) 専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。

モノを身体的に理解し、技術の問題から建築を引き寄せること。

そのために具体的に何ができるか。真剣に考えていかないと。




B153 『建築史的モンダイ』

藤森 照信 (著)
筑摩書房 (2008/09)

藤森氏の著書らしく、すらすら読めていくつも目から鱗が落ちる一冊。

著者の書く文章の分かりやすさは、建築史家としての視点につくる側の視点、建築家としての視点がうまくまざって、つくる上での「具体的な勘所の指摘」がなされている点にあるように思います。

こういう勘所はたぶん一般の人には必要ないし、むしろそうと気付かれずに決定的な違いを生み出して「なぜか分からないけど、ナニナニと感じた!」と感じさられたほうがいい。(勘所を知っていれば知っているで鑑賞の楽しみができますが)

だけど、つくる側にとっては

・・・具体的なデザイン上のポイントはどこにあるのか。そのことがはっきりしない限り、建築を物として、形として造るしか能のない建築家はまことに困るのである。

と著者が書いているように、その勘所こそが重要で、そういう勘所を自ら発見してこっそりと建築に忍び込ませることができるか、それによって決定的な何かを生み出せるかどうかが、建物を建築たらしめられるかどうかを決めるのだと思うのです。

そういう意味で、藤森氏の文章を読むといつもいくつかの鱗が落ちるのとともに初心に帰ることができます。

例えば古い建物からでも現代に通ずるような勘所を拾い上げられるような観察眼を鍛えることが僕の課題の一つですね。




B148 『原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ』

青木 淳 (著)
王国社 (2008/04)


前著は比較的分かりやすく誰にでも”利用”できる内容だったように思うが、今回は打って変わって私的な部分が表面に出てきたように思う。

建築的自由を求めるその先には公共的な価値があると思うが、その動機は思っていたよりもずっと私的なもののように感じた。(『くうねるところにすむところ』で描かれていたクロとシロの世界は著者の根っこのところにあるものののようだ)

思えば著者の師匠筋にあたる磯崎新も自著でこう書いている。

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。(磯崎新)

当たり前のことのようだけども、公共性と私的価値観を意識的に結びつけ成り立たせることはそんなに簡単なことじゃないと思う。

おそらく青木淳が開いた建築的自由というものは、最後のところでは青木淳のものであって、自分にとっての自由は自分で作り出すほかない。




B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

山下 和也 (著)
近代文芸社 (2004/12)


著者の方からコメント頂いたので読んでみました。

読んでみた感想は、『やられたっ!』です。いい意味で。

本書は2部構成になっていて前半がオートポイエーシス・システムの定義や性質などの説明、後半が「生命」「意識」「社会」といった具体例を基にしたオートポイエーシスの世界の解説となっています。

しかし、本書を読み進めていっても前半では具体例が全く出てこず、著者は見慣れないシステムの定義の説明に終始しています。
具体例が出てこないのでイメージが沸かず、延々と説明をされても著者の一人相撲を観ているようです。
だんだんと腹が立ってきて、何度が読むのをやめようかと思いましたが、第1部の終盤にくるとようやく、その不親切さが著者の意図したことであったことが分かります。

ずっと読んできて気づかれたとおもいますが、ここまで、議論が抽象的になるのも省みず、オートポイエーシス・システムの具体例を全く挙げずに論じてきました。また、具体的なシステムを連想させる述語もできるだけ避けてきました。若干理解しにくくなるのを覚悟でこうした論述方法をとったのは、オートポイエーシスの意味を適切に理解していただくためです。具体例を挙げますと、どうしてもそのイメージにとらわれて、オートポイエーシスの本質が見えにくくなりますので。(p98)

それから後は、それまでの欲求不満もバネになって、なるほどー、の連続です。

オートポイエーシスは普段私たちが見慣れている世界の見方を根本から変えることを要求してくる感じなので、おそらくこういう並びでなければよく分からない印象のまま誤解をして終わっていたかもしれません。

まさに構成の勝利、という感じです。
今から読もうという方も、著者の意図されているように第2部を我慢して第1部から読むべきですし、意味が分からずともなんとか第1部を読み切って下さい。

まだ、ここで説明できるほど理解できているとも言いがたいのですが、何度か繰り返し読むことで理解は深まりそうな予感はあります。

そんな中、最初にオートポイエーシスの本質に触れられた気がしたのは「オーガニゼーション(有機構成)」に関する以下の記述。

この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。

簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)

いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか?

観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。

倉本さんのブログでも書かれている非線形の話や、伊東豊雄さんのスタンス、山本理顕さんの邑楽町役場庁舎との関連を見つけることも可能な気がするし、それとは少し違う話のようにも思う。

このへんはゆっくり考えてみたい。
建築そのものにはまだ還元できていないけれども、アフォーダンス理論では佐々木さんの著書等を通じてものの見方がぐっと拡がったのは確か。オートポイエーシスではどんな扉が開くだろうか。

ドゥルーズなんかとの関連なんかも興味があるなぁ。




B146 『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』

宮台 真司(著)
世界文化社 (2008/11/11)

昔ほど突き放した感じがしなくなってきた著者が14歳(から)という年齢に対してどういう風に書くのか興味があったのと、もしかしたら『チャート式宮台真司』的な読み方もできるのかなと思い早速読んでみました。

【 目次 】
● まえがき これからの社会を生きる君に

1. 【自分】と【他人】 …「みんな仲よし」じゃ生きられない
2. 【社会】と【ルール】 …「決まりごと」ってなんであるんだ?
3. 【こころ】と【からだ】 …「恋愛」と「性」について考えよう
4. 【理想】と【現実】 …君が将来就く「仕事」と「生活」について
5. 【本物】と【ニセ物】 …「本物」と「ニセ物」を見わける力をつける
6. 【生】と【死】 …「死」ってどういうこと?「生きる」って?
7. 【自由】への挑戦 …本当の「自由」は手に入るか?
8. BOOK&MOVIEガイド …SF作品を「社会学」する
●あとがき いま【世界】にたたずんでいるかもしれない君に

途中、やっぱり突き放すのねと思いながらも、読み進めていくうちにちゃんと理解できるようになっています。

納得するかどうかは人それぞれかもしれません。でも、この本は宮台真司はちょっと苦手って言う人でも比較的受け入れやすいように懐深く書かれているように思いますし、社会学者・宮台真司ではなく宮台真司・個人として語りかけてくるような書き方なので自分との距離を計りながら一個人の意見として読めると思います。

<社会>や<世界>から考えてみる、という考え方があることを知ること

少なくとも僕は、子供の頃にこういうことを大人から言われたことはありませんし(本を全く読まなかった、っていうこともあるけど)、<社会>や<世界>、<歴史>との関わり方をきちんと意識して考えたこともありません。

それでも、思春期を過ごす中で自然と<社会>や<世界>との距離を計りながら育つことができたように思いますが、それは時代や環境に恵まれていた、という面が大きかったように思います。

しかし、今の子供たちは「<社会>や<世界>との距離感をはかる」ことがずっと難しくなっているように思います。

・この本でも書かれているように<共通の前提>が通用しなくなってしまったので、各々が判断・選択せざるを得ない。
・しかし、いろいろな情報・結論が簡単に手に入ってしまうために、また、いろいろな種類の人と接する機会が減っているために、「考える」チャンス・「試行錯誤」のチャンスを逃しやすい。

というような状況の中で<社会>や<世界>から考える、という考え方があることに気付かずに<私>という狭い視界の中をさまようことは苦しいことだと思います。

僕は最終的には<私>に還らざるを得ないと思いますし、『すべてがデザイン』という姿勢が今の社会では生きやすいんじゃないかなと思うのですが、<社会>や<世界>を一度通してから<私>を考えた方が楽だったり『デザイン』しやすかったりすることも多いように思います。

そのためにも、『<社会>や<世界>から考えてみる、という考え方があることを知ること』も必要だと思います。

「試行錯誤」「承認」「尊厳」の循環と「感染」

「試行錯誤」「承認」「尊厳」の循環のメカニズムのところはすごく重要だと思いました。
この循環を理解することによって、他者や社会というものが理解しやすくなると思いますし、それは社会に生きるものにとって基本的な事柄のような気がします。

また、親としても「承認」の意味と役割をじっくり考えてみることは、子供の「試行錯誤」と「尊厳」を支える上で有益でしょうし、(自分の親がそうであるように)子供にとって少しでもよいので「感染」できるような対象でありたいと思いました。

あまり詳しくは書きませんので、詳しくは本書を読んで下さいまし。

その他考えたこと

個人的には「卓越主義的リベラリズム」と「エリートが尊敬される社会」というところはどうなんだろう、と思いました。

個々がある程度の「選ぶ能力」を身につけなければ、誰がより良いルールを作ってくれる人なのか判断がつかないし、そこが今でも一番のネックのような気がします。任せるべき人が分かれば任せますよ、と。
また、エリートが尊敬される社会になるためには、エリートに代わる言葉が必要な気がします。
「エリート」と言う言葉には期待されている意味合いとはあまりにもギャップのあるイメージがつきすぎている気がしますし、もし、そのギャップが埋まるぐらいに大衆の意識が変るとすれば、その時には選ぶ能力も身についているんじゃないかと。

この部分を読んだ僕の感想としては、卓越した専門家が必要なのは当然だとしても、その人を選べるような、一定の判断力を備えた人が多く育つことの方が重要じゃないだろうかという気がします。
インターネットを通して、そうした「判断力を備えているであろう人」の意見に接する機会は増えていますが、もっと身近なコミュニティの中、例えば友達だったり、職場の人だったり、行きつけの散髪屋やもちろんたこ焼きやだったりの、顔を知っていて信頼できる範囲の中で10人に1人が高い意識を持ち、その中の何人かが一定の「選ぶ能力」を持った人になれば、波及効果でかなりの効果が得られるように思います。
(これについては「どこか」に書こうかな。。)

その、身近な人が必ずしも正確な判断を下すとは限りませんが、そういうばらつきも含めて良いのではないかと。そんな事を考えました。




B144 『虫眼とアニ眼』

養老 孟司 (著), 宮崎 駿 (著)
新潮社 (2008/1/29)


マティックさんのところで紹介されていて面白そうだったので即買いしました。
2002年に出版されていたものの文庫版のようです。
これが460円で手に入るのですからありがたや。

宮崎駿が

養老さんとは、ぶつかりようがありません。相違はあるにはありますが、それはそれでよかろうという範囲でしかありません。

と書いているように、内容についてはこれまで読んだ養老孟司の本からそれほどはみ出るものはなかったのですが、巻頭の宮崎駿によるスケッチだけでも十分にもとがとれました。

この夢の町、かなりの部分で共感できたのですが『建増禁止、景観変更禁止』というのはちょっと反対。
それじゃ、マチが死んでしまいそうだし、誰かが考えたものから変えちゃいけないって言うんじゃテーマパークと変りません。

文字通り”脳化社会”を”絵に描いた”ようなマチになってしまうような気がしますがどうでしょう。

関連していうと、(体験していないので実際は違う可能性もありますが)荒川修作の作品が机上の理論を越えられてない印象をうけるのは技術の問題に踏み込めてないからのような気がします。そういう意味では藤森照信のほうが技術から何かを引き込んでいます

いろいろと制約があるなかで、実際に身体性のようなものを引き寄せるのは容易じゃありません。ではそういう制約の中でどうしたらよいかというのは難しいけれども面白い問題ではあります。

それはそうと、こういう保育園だれかつくらせてくれないかなぁ。




B143 『藤本壮介|原初的な未来の建築』

藤本 壮介 (著)
INAX出版 (2008/4/15)


影響されるのが怖くて我慢してたのですが、結局買ってしまいました。

藤本氏は1971年生まれで、ほぼ同年代。違和感なく、すっと入ってきました。

当たり前でいて新しい

書いてることややってることは、一見、当たり前のようでいて、実はすごく新鮮で説得力があります。
こういう、『原初的』な説得力を持ちながら『未来の建築』を発見しているところが才能なんだろうなぁ、と思います。

ところで、僕も学生の頃『棲み家』の魅力というものを考え始めて、
オノケンノート ≫ 棲み家

僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。

今でも、それを追っているようなところがあるのですが、こういう欲求は藤本氏はじめ、僕らの年代にある程度は共通しているような気がします。

それではそういう欲求はどこから生まれているのでしょうか?

集団的無意識への欲求

藤本氏はいろいろな関係性をその『成り立ち』のところまで遡って、その関係が生まれる前の未分化な状態に思いを馳せることで発想を得ているようです。

最後の藤森照信との対談では(若干、噛みあっていない気もしましたが)藤森氏が述べた『集団的無意識』というのがキーワードになったと思うのですが、それで藤本氏の目指すイメージが少し浮かび上がったような気がします。

民家の魅力は、集団の無意識を満たしていることにあります。ああいう形が練り上げられ、成立するために、ものすごい時間をかけているからなんです。その長い時間の中で、自然化が行われるんですね。(中略)その秘密は時間なんです。時間は個人を越えた、集団的無意識のような感覚に働きかける力がある。それを人為的に出来るのかということですよ。(藤森照信)

近代化は時間や集団性といったものとの断絶を前提として進められたと思うのですが、そんな中で育った僕たちには時間の生み出す集団的無意識に包まれたいという欲求がたまっているのかもしれません。

そういう欲求が建築を、自然の生み出すような自分たちの手の内を越えたような存在であって欲しいという願いになっているのかもしれません。

藤森氏はその可能性を「材料」の持つ時間に見出していますが、藤本氏はあえてそれに頼らず、建築の「成り立ち」だけで実現しようと考えているようです。

工業製品である建築材料のみを使ってその「成り立ち」だけを実現する、庭のような建築を生み出せないかと考えています。(藤本壮介)

藤森氏が「藤本さんは時間を偽造したいと言ってるのではないでしょうか?」と言っていますが、藤本氏は原初的な関係性にまで遡ってそれを未来に接続することで時間(自然)を建築に取り込もうとしているように思います。

ルイス・カーンはじめ、建築の原初に遡ろうとする考えはこれまでもあったと思います。
それと、集団的無意識に包まれたいというような強い欲求がつながったところが新鮮さの秘密なのかもしれません。




B142 『犯罪不安社会 ~誰もが「不審者」?』

著 浜井 浩一 (著), 芹沢 一也 (著)
光文社 (2006/12/13)


引き続き芹沢氏関連の本を読みました。

凶悪犯罪は増えていないし、低年齢化もしていない。っていうのはよく聞きますが、こういうことを他の人に話した時に「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応が何度か返ってきたことがあります。

それで、一冊は関連の本を読んでみようと思っていたところにこの本にぶつかったので読んでみました。

凶悪犯罪は増えていない

第1章で浜井氏がやさしく解説してくれているので、詳細は本書にあたっていただきたいですが、犯罪統計を読むと凶悪犯罪は増えていませんし低年齢化もしていません。

反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
少年犯罪データベース少年による殺人統計
等のサイトを見ても分かりますし、少年犯罪データベースのほかのページには昔の凶悪犯罪が列挙されていて、現在が犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないことが分かります。(あまり気持ちのいいものではないのですが)

それでは何が変ったのかというと犯罪の語られ方が変ったということです。
それまでもあった個々の犯罪が「時代の象徴」として語られるようになり、その次には「恐怖の対象」として語られるようになった。
それによって、「犯罪」が増えたのではなくて「犯罪不安」が増えた。

では、それの何が問題なのでしょうか。

ヒステリックな社会はごめんだ

子供たちを人が信じられない子に育てたくはないが、事件が起こる度、やはり私も子供たちに「知らない人がお菓子をあげるといっても、ついていっても、ついていっちゃダメよ」と話をしてしまう。
先日、散歩に出かけた時に、手をポケットに入れたまま、子供たちを乗せた乳母車に近づいてくるおじさんとであった。
おじさんは手を出し「かわいいねぇ」となでようとしただけだったが、その頃、刃物をポケットに隠し持ち、いきなり子供を切りつけるという事件を聞いた直後だったので、血の気が引いた。(『朝日新聞』名古屋版2006.3.18)

上の文は芹沢氏が引用した文ですが、実は僕も「血の気が引いた」ことが何度かあります。

普通のコミュニケーションの機会が恐怖の瞬間になる。
冷静に考えて、目の前のおじさんが通り魔である確立はどれぐらいでしょうか。その確立は車に乗って、あるいは道を歩いていて交通事故にあう確立に比べたらどうなんでしょうか。

もし根拠のない単なるイメージによって、ヒステリックな息苦しい社会で不審者に怯えながら生活をしなければいけないとすれば、それはちょっとごめんだと僕は思います。

また、そのヒステリックな社会から締め出され追い詰められるのは例のごとく、高齢者や障害者等の弱者です。(刑務所に入所しているのはこういった人たちばかりで、それは治安悪化の結果でなく、治安悪化「神話」の帰結だそうです)

そういう、他人へのイマジネーションを欠いた社会も、単なるイメージに世論と政治が振り回される社会もやっぱりごめんだと思います。

考える一つの基盤として一読してても良いかもです。

メモ

・犯罪の語られ方についての芹沢氏の「醒めない夢」から「醒めない悪夢」へという例えは秀逸。

「醒めない夢」:1988年に起きた宮崎勤の事件をきっかけに、「醒めない夢」という解釈ゲームに引きずり込まれた。不可解な事件の時代性が語られる。いくら解釈を試みても決して実態のつかめない「醒めない夢」
「醒めない悪夢」:2001年の池田小の事件をきっかけに、犯罪は解釈ゲームの対象から恐怖の対象へと変る。犯人は解釈不能な怪物となり、その怪物の影に怯える社会。「不安」という実体のないものによる恐怖は決して消えることのない「醒めない悪夢」

芹沢氏の分析には流れというかストーリーがあって分かりやすいのですが、このインタビューの第2回、第3回で語られているようにそのベースには「フーコー的なものの見方」があるようです。

・「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応から読みはじめた本ですが、こういう問題で一番大切なのは、人間は偏見を持ちイメージに流されるもので、自分も例外ではない、というところからスタートすることかもしれません。
どこまで疑ってもきりがないかもしれませんが、その自覚は絶えずなくさないようにしたい。自戒を込めて。

・「ヒステリックな社会」も「他人への配慮」も方向はまったく逆ですが同じイマジネーションがベースになっています。
その違いはどこから生まれるのでしょうか。
・自分は偏見を持つという自覚の有無
・それによる「知る」責任の自覚の有無
・イマジネーションの射程距離。自分の直近だけしか想像しないか、自分を離れたもっと多様なものへイマジネーションを広げられるか。

・とかそんな感じか?ほかには?




B140 『アート/表現する身体―アフォーダンスの現場』

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2006/09)


以前から、佐々木氏はどうしてアートやデザインにこうも肉迫できるのだろう、と思っていたのですが、この本の冒頭で理解できたように思います。

佐々木氏は若い頃に文楽(人形浄瑠璃)に魅せられて、その道を志して修行をしたことがあったそう。
文楽は途中腰を傷めて挫折したそうですが、その間に自ら修行をしながら超一流の人の身体から生み出されるものを目の当たりにした経験があったからこそ、理論をアートやデザインに結びつけることが可能になったのでしょう。

さて、この本は様々な研究者がさまざまなアートの第1人者について科学的に分析するパートと、アーティストへのインタビューのパートで構成されています。

ゲストとなるアーティストは

・劇作家/演出家:平田オリザ
・落語家:柳田花緑
・指揮者:井上道義
・ヴァイオリン奏者:マルグリット・フランス
・アニメーター:高坂希太郎
・舞踏家:岩名雅記
・写真家:新正卓
・文楽:吉田勘弥

分析のパートは少し読みづらかったですが、それを受けてのインタビューのパートはそれぞれのアートに対する姿勢、身体性とアートの関係を感じられて面白かったです。

建築における身体性、というものには昔から興味がありましたが、どうやって身体性を建築に結び付けられるからはこれからのテーマでもあります。

設計者の顔がみえる建物に魅力を感じるのですが、このテーマに関するヒントがここにあると思っています。