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現場の物語と施主自身の物語への想像力を保ち続ける B232『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』(稲垣諭)

稲垣諭(著)
青土社 (2018/7/23)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928-)&ヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。 氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也))

という経緯で買ってみたもの。
本書は哲学的視点を通して、臨床の現場の可能性を語るようなものであったが、内容や文体はかなり『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本英夫)に近いように感じた。(と、調べてみると、著者と河本英夫はいくつも共著を書いている。)

そういう点では新鮮さはなかったのだけど、『損傷したシステムは~』を補完しあうものと捉えると面白く読めた。(河本英夫やオートポイエーシスに馴染みのない方にとっては、新鮮に感じられるものだと思う。もしくは、意図することを掴みにくいか。)

本書では「哲学を臨床解剖する」として「働き」「個体」「体験」「意識」「身体」が、「臨床の経験を哲学する」として「操作」「ナラティブ」「プロセス」「技」「臨床空間」が章立てられている。

その中で、比較的新鮮に感じた「ナラティブ」の章について記しておきたい。

設計は臨床に似ている?

神経系を巻き込んだ人間の複雑な動作や認知機能の再形成には、解剖的、生理的、神経的要因だけではなく、年齢、性別、性格、職業、社会環境、家族構成と行った多くの変数のネットワークが介在してしまう。そのため、リハビリの臨床における治療の取り組みは自ずと、多数の仮設因子を考慮した上での「調整課題」もしくは「調整プロセス」とならざるをえないのである。調整課題とは、線形関数のような一意的対応で解が出るような問いではなく、多因子、あるいは他システムの連動関係を見極め、効果的なポイントに介入し、調整することで、そのつどの最適解を見出すような実践的、継続的アプローチである。(p.154)

建築士はときどき医者に例えられることがある。施主の思いや悩みを聞き、それに対してこうすれば良くなるというような回答を提出する。というように。

病気には何か明確な原因があり、科学的な因果関係を特定し、それを取り除くことで治療を行う、というのが医療行為の一般的なイメージだと思うけれども、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであると言う。なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方だ。

しかし、目の前の患者の個別的な状況に対応せざるを得ないようなリハビリの臨床のような現場では、EBMの確率が難しく、個別の問題にどう対応するかという課題がある。

ここで、医療のタイプに対応した建築士の3つのタイプを想定してみると、

(A)旧来の医療タイプ:明確な課題を設定し、それに対して分かりやすい解答を与えるような設計を行うタイプ。旧来の建築家像。
(B)EBMタイプ:データを用いて、統計的な判断により設計を行うタイプ。今後AIの進展により盛んになる?
(C)臨床タイプ:できるだけ多様な因子を取り込んだ上で調整的・継続的に設計をすすめるタイプ。このブログで考えてきた建築家像。

という感じだろうか。

明確にどれかに当てはまる人もいるかも知れないけれども、実際は状況に応じてこれらを組み合わせながら設計を行っているのが一般的かもしれない。
その中で、(C)のようなタイプの設計は臨床に似ている、と言えるように思うし、ここではその可能性を考えてきた。

それに関連して、『第7章「ナラティブ」-物語は経験をどう変容させるか?』について書いてみたい。

ここでは、物語を河本英夫が書いているような複合システムのサイクル(ハイパーサイクル)の間で駆動する媒介変数のように捉えているように思うが、2つの方向での遂行的物語について語られているようだ。

語りかけとしての遂行的物語

ここでの物語はその意味でも、単に教訓や寓話として読み聞かされるようなものではなく、経験と行為を再組織化するきっかけとしての「遂行的物語」とでも呼ぶべきものとなる。医療従事者として、「患者の経験に寄り添うこと」、「患者の経験を動かすこと」、「患者の経験に巻き込まれること」といった全てが、物語を媒介しつつ、治療プロセスに非線形的に関与する。そこには、表出される言動の背後で作動している、「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」といった多くの非意識的な変数が関連している。(p.160)

例えば、外科手術の前に、術後の痛みの状況や対応などについてのメッセージを伝えた人と、伝えなかった人とでは、前者のほうが術後に使用する鎮痛剤の量が半分に減ったそうだ。

これはいわゆるプラシーボ効果のようなものだと思うが、そこでは「生体システム」に加えて「心的システム」や「社会システム」といった複数のシステムが先のメッセージの物語をきっかけとして何らかのカップリングが起きたと想定される。

例えば、施主に満足してもらうことを一つのゴールだとした場合、施主の希望を叶えるために分かりやすい解答を与えるというのは、一つの方法であると思う。しかし、実際には、そういった対応をしたにも関わらず、最終的に満足してもらえない、ということもありうるのがこの仕事(どんな仕事も)の難しいところかもしれない。

引用分のようなコミュニケーションにおける「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」だけでなく、他の些細な希望の見逃しや誤解・説明不足、職人さんの挨拶や、現場の整理整頓・養生の方法、さまざまなことが一つの物語となって積み重なっていく。その結果、全く同じ建築をつくったとしても、喜んでもらえることもあれば、不満を与えてしまうといった両極端な状況のどちらもが起こりうる

なので、全てのことを完ぺきにこなすことは簡単ではないけれども、現場の方には、とにかく最後は施主の方を見て仕事をして欲しい、とお願いしている。

その時、その現場の空気をつくる物語(それは与えるだけではなく、ともに作り上げていくものとしての物語)がある、ということを強く意識してその物語を組立てていくというのは大切なことかもしれない。

自己語りとしての遂行的物語

システムの連動を貫くように体験される物語が、遂行的物語である。それは、当人が意識的、意図的であることとは関係なく、併存する複数のシステムへと新しい変数を提供し、間接影響を与えることが条件となる。それは同時に、その意味的文脈とは独立に当人の体験世界の変化につながるものである必要がある。病の経験を、遂行的物語として実行することは、それを体験するものが、みずからを別様な経験へと開いていくきっかけを手にすることを意味する。ナラティブ・アプローチにおける語りとその物語は、患者が語ることを他者が傾聴し、新たな物語として語り直すというプロセスを何度も潜り抜けさせる中で、当人の経験に新しい変数を出現させ、体験世界の再組織化へと届かせようとするものである。(p.163)

本書においての遂行的物語としては、こちらのナラティブ・アプローチが本筋かもしれない。

住宅系のイベントなどで、「私たちとともに 新しい生活のカタチを みつけませんか」というキャッチコピーを使うことがある。

例えば家を建てるとしても、ただ家を建てるという経験だけが残るのではなく、施主自身の新しい体験の扉が開いていくことへとつながるような仕事がしたいと思っている。
家を建てたという実感だけではなく、日々の気持ちの持ちようや張り合い、家族や社会との関係性や自然の感じ方など、さまざまなことが新しく感じられるようなものをつくることに、この仕事の意味があるように思う。

そのためには、こちらが語り、与えるだけではなく、施主自身が関わることによって、その語りや物語が変わってくるようなあり方を考え整えていくことが大切なのではないだろうか。

そういった2つの物語に対する想像力を日々保ち続けないといけないな。




ダイアローグによって建築をつくりたい B229『見たことのない普通のたてものを求めて』(宇野 友明)

宇野 友明 (著)
幻冬舎 (2019/11/26)

twitterで知り合った友人が、この本を読んだ感想として「何となくオノケンさんと話をしている、あるいは話を聞かせて貰ってるような、そんな感じだった。」と書かれていたのを見て興味を持った。

最初は、自分と同じようなものであればむしろ買って読むまでもないかな、と思ったのだけど、その友人は、と同時に何かしら反発心のようなものもあったそうなので、なおさら読まねばいけない気がした。

モノローグとダイアローグ

著者は、設計者として独立した後、設計と施工が分離した状態に疑問と限界を感じ、自ら施工も請け負う決断をしながら、何よりもつくるということそれ自体を大切をしている。

建築の精度も経験の深さも全く敵わないけれども、求めているものはやはり自分と近いものを感じた

それを実践されていることに羨望の念を抱くことはあっても、大きな反発心を感じることはなかったように思う(反発心を感じられなかった自分には少し残念な気持ちもある)。

しかし、同時に自分と異なる部分も感じる

どこに、その違いを感じるのだろうかと考えて気づいたのは、著者の文章は断定的な物言いが多いけれども、自分はどうしても「~と思う。」「~ではないだろうか。」といった曖昧な表現で終ることが多い、ということだ。

それは、自分の文章、というより自分の行動に対する覚悟の違いであることは間違いない。自分はそれほどの強さを持てていない。
だけども、それだけではないような気がする。

思えば、自分も学生時代、当時の関西の建築学生の例にもれず、安藤忠雄に傾倒している時期があった。その覚悟に満ちた凛とした姿勢の建築に大きな魅力を感じた。
しかし、大学を出てからは、それとは違う、もしくは対局にあるような建築の魅力というものもあるのではないか、という気持ちが芽生えつつ、安藤忠雄の建築のような魅力も捨てられないという迷いの中を彷徨うことになる。
それは、現在に至るまで続いており、このブログは、その迷いの先にあるものを探し続けてきた記録でもある。

今のところ、そのどちらでもあり、どちらでもないような、建築の在り方を求め続けるプロセスの中にその答えがるのではないか、と思い至っており、それが曖昧な表現につながっているように思う。

言い換えると、おそらくモノローグではなくダイアローグによって建築をつくりたいのだ。

著者は、自分の中の声に、職人の手の声に、素材の声に耳を澄ませ、偶然もしくは天の声に身を委ねており、決して独りでつくっているわけではない。しかし、その声を限定し削ぎ落としていくことによって強さを獲得している、という点でモノローグ的であると思う。
しかし、そうではなく、なるべく多くの声との対話を繰り返すことで建築に強さを与えるようなダイアローグ的なつくりかたもあるのでは、と思っている。

それは、著者や安藤忠雄の建築を否定しているのでは決してない。
そうではなく、彼らがそういう風にしかつくれないように、自分にもこうしかできない、というつくりかたがあるのだと思うし、今、さんざん迷いながらもたどり着いているものは、それが今の自分の姿なのだと思うのだ。(それを受け入れてよいのでは、もしくは受け入れるしかないのでは、と思えるようになったのは最近のことだけれども。)

プロと出会い、仕事の舞台を整える

さて、最初に書いた友人の抱いた反発心について、自分は同じようなものを直接的には感じることは出来なかったけれども、設計者の仕事の意義や役割について人一倍責任感の強い(と思う)氏のことなので、思うことは分かる気がする。

著者が信頼できる職人と出会い、その職人が良い仕事ができるように準備することをその職務としているように、設計者も信頼できる施工者と出会い、彼らが良い仕事ができることをその職務とすることはできると思うし、設計と施工を統合することに意義や可能性があるのと同様に、設計者であることに専念することの意義や可能性もまた存在すると思う。

いずれにせよ、良い建築をつくるためにやるべきは、自分の仕事に責任と誇りを持っているプロと出会い、彼らが良い仕事ができるような舞台を整えることである。
そして、そのどちらも困難で大変な大仕事には違いないと思う。




世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




色彩の世界へ踏み出そう B226『色彩の手帳 建築・都市の色を考える100のヒント』(加藤 幸枝)

加藤 幸枝 (著)
学芸出版社 (2019/9/15)

『色彩の手帳』は「色が苦手」「色は難しい」「色は結局好き嫌いだから」「自分には色選びのセンスがない」と一度でも感じたり、考えたことのある”全ての”人のために制作したものです。(p.1)

この本の基になった『色彩の手帳・50のヒント』が3年ほど前にtwitterのTLで評判が良くて、ずっと気になってたのだけど、遅ればせながらバージョンアップ?した本書を購入しました。

内容が具体的で納得する部分が多かったので紹介的な文章になってしまいますが、簡単に感想を書いておきたいと思います。

多くの人に手にとってもらいたい一冊

色に関する本は数冊持っているのですが、建築の分野でここまで実用的な本は自分の知っている中では初めてで、かなりおすすめの一冊です。

間違いなく多くの人に手にとってもらいたい一冊なのですが、

仕事をともにする方々の「何を根拠に色を選べば・決めれば良いのか」というあまりにも多くの問いに対し、自身が何か決めて終わりではなく「色選びの手がかり」や「色の選び方のヒント」をお伝えし、その成果や効果を共有する方が、もしかすると「色彩計画家」としての機能はもっと広く、そして永く活かされるのではないかと考えるようになったのです(p.1)

というように、多くの人が色に対してどう向き合ってよいか分からない(故に、無根拠に個人的な思いつきで色が決められていく)という現実がこの本が書かれることになった背景にあるようです。
そのことを考えると、個人や公共を問わず発注者となる立場の方、もしくはまちづくり等に関わる方に、より多く読んでもらいたいと思いました。
色に対する向き合い方をまずは知ることで、変えられることがたくさんあるように思います。

色彩を計画する

内容も色彩に関する基本的な理論から、具体的な事例や色彩計画へのアプローチの方法、著者自信の色彩または建築や都市に対する考え方と経験を基にした思想的な部分、その思考プロセスなど、およそ建築の色彩に興味を持った人が知りたいと思うようなことがすべて、と思えるくらいばっちり描かれています。
最初に目次に目を通すだけで早く読み進めたいとワクワクしましたし、著者自身が、色彩に関して誠実に、そして秩序立てて考えているのが伺えました。

世の中、何もかもが秩序を保つ必要はありませんが、こと色においては、何らかのルールに基づくものは心地よく感じやすい、という性質があることに、私自身は信頼を置いています。
この秩序はある程度までは理詰めで導き出すことが出来ますから、色彩的な調和の感じられる配色を考えるのにセンス云々ということはあまり関係ないのでは、と思っています。(90 集めた色を並び替える p.207)

色彩計画の流れとは、色を選ぶ・決めるためのシステム設計だと考えています。(94 色彩計画の流れ p.217)

本書のヒントから、あるいはいくつかのヒントを組み合わせてぜひ「色彩を計画」してみて下さい。(100 色彩を計画する p.229)

これらの言葉には「色彩を計画」することに対する信頼が感じられますし、「色彩計画の流れとは~」の一文は「建築計画の流れとは~」と置き換えてイメージすると、その信頼の強さとより良く選びたいという誠実さが伝わります。
(この辺になんとなく建築家に似たような性分を感じますが、本文に時々出てくる、おそらく抽象化を計りたいのであろう建築家の一言vs著者の一言も、どちらも分かるだけに興味深いです。)

色彩の世界へ踏み出そう

自分自身、今まで無難な色使いをすることが多かったですが、もっと色を使えるようになりたい、感覚的にも使えるようになりたいし、なおかつ根拠を持って使えるようになりたい、という気持ちはだんだんと大きくなりつつあります。

なので、まずはこの本と色見本帳を片手にもっと色彩の世界へ踏み込んでいければと思います。

その際、ごく当たり前のことかもしれませんが、

最終的には個々の色を選ぶというよりも「それぞれの色(・素材)が組み合わさった時に生み出される全体の印象や効果」を選択する、ということを意識しています。(99 単色での判断ではなく、比較して関係性を見る p.227)

という部分のイメージ、どのようなものを目指すのかをより確かなものにしていくことが重要なんだろうなと思います。




実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

河本 英夫 (著)
新曜社 (2014/3/7)

だいぶ前に本屋で見かけてぱらぱらっとめくってみたことがあったが、ページ数も金額もそこそこだったのもあり、その時は「読むべきタイミングが来たら購入しよう」と思い保留にしていた本。

だけど、最近少し読み応えのあるものを読みたくなったので丁度よいタイミングかと思い購入してみた。

認識の知から、実践の知へ

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか? 観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

オートポイエーシスのシステムを実感として掴むには、上記の『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方(山下 和也)』が最適だと思うけれども、そこではオートポイエーシスシステムは観察も予測もコントロールもできない、とあり、それを個別の実践に結びつけるのはなかなか難しい。(正確にはオートポイエーシスとの付き合い方が描かれているが、この時はそこまで理解が及んでいなかった。)

しかし、著者(河本氏)はあくまで実践的な知としてオートポイエーシスを扱うことにこだわりその可能性を探る。その姿勢は他の著書講演でもたびたび語られているものだが、今回はさらに具体的に踏み込みその輪郭を描き出そうとしている。

ここでの、実践的な知へと踏み込むために採用された記述の仕方は、山下氏がブログで本著について指摘するように、オートポイエーシスシステムそのものを描き出すというよりは、そこに関わる人の行為を起点として体験や構造を描き出そうとするようなもので、オートポイエーシスそのものを理解するにはけっこう「わかりにくい」文章になっていると思う。

では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。それはおそらく本書自体がその答えとなっている

オートポイエーシスの第五領域と感触

カップリングは、それぞれ独立の作動を行うものが、相互に決定関係のない媒介変数を提供しあっている作動様式である。ところが現実のシステムの作動では、一方が顕在化し、他方が潜在化するかたちでの作動のほうがよりうまく作動が形成される領域が広範にある。(中略)システムの定式化から見て、構成素の設定が新たなかたちをとるので、このタイプのシステムを「第五領域」と呼んでおくことにしたい。(p.23)

氏はオートポイエーシスシステムを直接制御しようとするのではなく、この複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)の連動の仕組みに触れることで実践へとつなげる。

このとき、仕組みに触れるために耳を傾けているのが、「感触」である。
感触は未だ量化されていないような度合い・強度であり、行為とともにある
また、感触は認知能力の一つ(触覚性感覚)でありながら知ることよりも、むしろ行為に関連する

本書ではこの「感触」に加え「気づき」「踏み出し」を基調として考察が進められるが、その際、関連の深い領域として取り上げられているのが「触覚性感覚」「発達」「記憶」「動作」「能力の形成」の5つである。(それらは、それぞれ一つの章を与えられている。最初は順次論が進んでいくものと思い込んでいたけれども、それぞれ独自の領域として並列に描かれているようだ。)

ここでイメージされるのは、次のようなサイクルである。

まずある場面で、何らかの行為を選択し「踏み出す」。ここで経験が起動するが、その踏み出しは経験の可動域を拡げるようなもの、また行為持続可能性の予期を感じさせるものが候補となる。
「踏み出す」ことによって、行為とともに何らかの「感触」が起こる。これは「踏み出す」ことによって初めて得られるものである。
この「感触」は連動する顕在システムや潜在システムとの媒介変数となり、複合システムの中を揺れ動く。そしてその中で次の行為の起動を調整するような「気づき」を得る
その「気づき」は次の「踏み出し」の選択のための手がかりとなる

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける

このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。

臨床の実践と括弧入れ

それでは、臨床の現場では、どのような介入の仕方が可能か。
例えば発達障害などのリハビリ治療の場面では、目指されるのは能力の形成である。
これに関して少し長めになるが凝縮された部分を引用してみる。(ここで第一のプログラムとは、設計図がありそれをもとに家を建てるような目的合理的なもので、対して第二のプログラムは設計図はなく相互の関係性だけで家を建ててしまうようなシステム的・形成運動的なものである。)

 発達障害の治療では、観察者から見て、定常発達から外れた能力や機能の分析が行われる。そしてそうした能力や機能を付け足すように治療的介入が行われるのが一般的である。ただし、中枢神経の障害では、神経系は付け足しプログラムのような生成プロセスを経ることはないので、欠けている能力を付け足すような仕方は、まったく筋違いである。ただし治療である以上、治療目標を持たなければならない。
このような場合、直接能力を形成させようとしてもうまくいかない。この治療の目標の設定は、第一のプログラムに相当する。ところが第一のプログラムに沿うように治療設定したのでは、形成プロセスを誘導することはできない。そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。
 観察から導かれた発達の図式は、システムそのもの、個体そのものの行為を通じて実行されたことではない。それは結果として到達された事態を、時系列に配置したに過ぎない。だがそれは、現実の自己形成に疎遠な外的図式として、括弧入れされ、別の回路で形成されるべき「目安」として必要とされるのである。発達の図式は、観察者から見たとき、図式で示され、配置されてしまう否応のなさとして、治療設定の手がかりになるのである。実際に、治療目標が第一のプログラムに従って設定された場合でも、個々の能力形成のプロセスは、一つ一つ本人の行為的な選択肢が獲得される曲面をつなぐようにしてしかなされようがない。(p.137-138)

こうした括弧入れを本書では「システム的還元」と呼んでいるが、実際の世界では認識的な第一のプログラムがベースとなっていることがほとんどのため、形成プロセスのようなものを有効に作動させようと思えば、この「括弧入れ」が重要なスキルになってくるように思う。

では、「形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てる」とはどういうことだろう。先の感触の話とはどうつながるだろうか。

対象の形成プロセスに直接介入することはできない。とすると、できるのは、リハビリ治療に関わる複合システムの中の一つのシステムとして、「感触」「気づき」「踏み出し」を駆使しながら継続的に自らサイクルを廻し続けることだろう。うまく行けば、その結果として「目標」がおのずと達成される

その介入イメージを描くとすれば下図のような感じだろうか。

そうなると、本書のタイトルは『損傷したシステムをいかに創発・再生させるか』でも良さそうに思うが、創発・再生するのはやはりそのシステム自らである、ということなのだろう。

感触を受け取る

他に興味深いポイントは無数にあったのだが、この本を読むという行為を通じて自分の中で何か掴めそうだ、という感触を得たものをまとめるとこんな感じだと思う。

さて、「では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。」
おそらく、同じ内容をシステム的に記述することは可能だと思うしもっとクリアでシャープに描くことは可能だったように思う。しかし、それでは切り捨てられてしまう何かの感触があるような気がする。つまり、著者はこの本を読むという行為を通じて、経験に付随する理解し得ないような感触のようなものを受け取ってもらいたかったのではないだろうか
実際のところ、上にまとめたものよりも、他の無数の興味深いポイントの方から、理解しきれていないけれども自らの経験につながりそうな感触をたくさん得ている気がする、

要約してしまいたいという誘惑は、一般的にこれらが経験としては受け取ることはできず、意味としてしか取れないことに由来している。だがこれらを意味として理解したのでは、いっさいの経験の動きを追跡することなく、外から配置するだけになる。(p.386)

散文的に描けば、なにか別のことを描いてしまい、論理的に語ったのでは傍らを通り過ぎてしまうような経験がある。このときそれじたいで詩的であることは、言語の生にとって一種の運命である。(p.392)

人間の場合、論理的に一般化したり、特殊化したりするが、いずれもことがらの固有性からはずれてしまう。(p.393)

システム的な経験は、どのような哲学的な配置やシステムの機構での説明があたえられたとしても、まさにそれを括弧入れすることによって、一歩踏み出すことが必要となる。(中略)このとき哲学の図式やシステムの機構にしたがって、それに合わせて踏み出しが行われるのではない。そのときあらかじめ目標とされたことがあるにしても、それが結果として到達されるように踏み出すのである。だがそのときまさに結果として目標が達成されるだけではない。目標に到達するとはどのようなことなのかの理解をも手にしている。その理解は、目標に到達するには多くの回路があること。そのことはプロセスの継続の予期を含んで、行為的な選択を通じて実行されること。まさにそのことによって到達された目標は、つねに次のステップとなることである(p.395-396)

本書から得た感触はできることなら自分のサイクルの中に取りれて、新たな局面へと踏み出したいところだが、それを描こうとすればまだまだ長くなりそうなので、別に改めて取り組んでみたいと思う。

今、書こうと思っているのは、

・なぜ、このような本を読み、ブログを書くのか。
・学習と教育について。

そして、

実際の設計の場面で、どのような感触と選択の可能性が存在するか自らの経験の可動域を拡げていくにはどうすれば良いか。本書を参考にしながら、自分の経験をもとに描き出すとどうなるか。

である。どんな内容になるか全く想像できていないし、どれくらい時間がかかるかも分からないけれどもやって見る価値はあると思う。




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。




気持ちで考えることと考えないことの両義性 B223『堀部安嗣 建築を気持ちで考える』(堀部 安嗣)

堀部 安嗣 (著)
TOTO出版 (2017/1/19)

建築を気持ちで考える。
なぜ、今、このタイトルなのか。それを確かめたくて買って読んでみることに。
まだ、うまく整理がついてないですが、書きながら考えてみたいと思います。

建築を気持ちで考える

気持ちで考える。この仕事を続けていると、このことの難しさや大切さが、時に見失いながらも身にしみて分かってくるように思います。

建築は自分の個人的な”気持ち”だけでつくることは難しい。
当然クライアントの気持ちもあるし、法規や周辺環境、予算や工期と行った壁も立ちはだかります。
そんな中で、それを超えて気持ちを大切にしながらつくり続けるためには、その気持ちを十分に信じられるだけの強さが必要になる気がします。

私は建築をつくる一番の目的は、人間の原初的な身体感覚にシンプルに応えることだと思っています。(p.171)

なんのために記憶を継承できる建物をつくるのか。最終的には、人がその人らしくいられる建物にするためです。

私は建築が背負う重荷を少しずつ取り除いて、本来のシンプルな姿に戻してあげたいと思っています。

これらの言葉には著者の建築に対するシンプルな姿勢が現れていて、その気持ちの強さや普遍性のようなものを感じます。
”気持ち”が個人の思いを超えて、普遍性を獲得しようとしてるとも言えそうです。
しかし、普遍的でありながらその”気持ち”は著者の体験を軸にした著者自身のものでもあるように思います。

建築はそれを設計した人そのものだ、と信じて疑いません。(p.006)

その”気持ち”が個人的なものでありながら、なお普遍性を帯びているところに著者の建築の魅力があるのかもしれません。

建築を気持ちで考えない

しかし、一方でその”気持ち”というものに多少の重たいものを感じる自分がいることも確かです。

自分は、ある意味では大人の気持ち(欲望)がそのまま現れたようなまちに対して喪失感や危機感を感じたところから建築をスタートしています。
そのせいか、気持ちそのものから自由になれるような建築とはどのようなものだろうか、という問題意識が根底にあって、気持ちそのものをストレートに扱うことには若干の抵抗があります。(世代的な面もあるかもしれません。また、自分がたまたま出会えたような世界の豊かさに、たまたま出会えなかったような人に対する想像力も必要だと思うのですが、もしかしたら”気持ち”はそういう想像力を鈍らせるかもしれない、と怖れてる面もあります。)

建築理論についてのパラグラフ|takahiro ohmura|note

同時にこうした状況においては、重要な判断はしばしば設計者の感性的な価値基準によって下されてしまう(そしてその判断が決定的に使い手を束縛する、ということも少なくない)。われわれは“理論”を酷使することによって、こうした場から、消費の欲望も、政治的な抑圧も、感性も、すべて放逐せねばならない。

これは、本書を読んでいる時にたまたまtwitterで見かけたものです。あくまで建築の理論に対する論考なので同列に扱えるかどうか分かりませんが、ここでは感性的な価値基準も放逐されねばならない、とされています

これに対して共感する自分もいて、なぜ建築に関わるのかという部分においては気持ちは必要だけれども、建築を組み立てる過程においてはそれとは一旦離れなければならないようにも思っています。
建築を気持ちで考えない、ということも大切なことのように思うのです。

建築を気持ちで考えながら、気持ちで考えない?

さらに一方で、前回書いたように、ワクワクするような気持ちを大事にしたい、という思いや、その時々の判断の際に自分の気持ちの小さな揺れに気付くような感度がなければ設計はできない、という思いもあります。

建築を気持ちで考えたい、という思いと、気持ちで考えたくない、という思い、両方あるのです。

それはどちらかが間違っているかというと、そうでは無いように思います。

建築には相反するものを同時に包み込むような強さを持つものであり、そのことが建築の豊かさにつながっていると思うのです。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

それは学生の頃からの悩みのようなもので、このブログでもいろいろと考えてきました。例えば、ぼんやりとしたイメージですが、

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

もし、気持ちで考えたような建築も、気持ちで考えないような建築も、いろいろと混ざり合ってどこへでも行けるような建築ができるとすればそういうものをつくりたいと思いますし、そのためには気持ちで考えることも、気持ちで考えないこともどちらも必要な気がします。

そうした視点で見ると、おそらく堀部さんの建築も”気持ちで考えた”ような一枚板の建物ではなく、そのような”気持ち”から建築自体が自由になるようなところにまで届いているのだと思います。そうでなければ、これだけの共感を得られないように思いますし、そのことを目指しているようにも感じました。

 
 
気持ちで考える、ってどういうこと?と分からなくなって、書いてみましたが、何か今まで書いてきたことを再確認する感じになった気がします。
たぶん、これが自分の”気持ち”なんだろうな。

それにしても、やっぱり、自分の気持ちで考えて、それを建築にするのって難しい
まだまだそこまで届かないっす。




仕掛けは選択肢の一つとしてさりげなく B222『仕掛学―人を動かすアイデアのつくり方』(松村 真宏)

松村 真宏 (著)
東洋経済新報社 (2016/9/22)

知人に紹介してもらって買った本。
まだ考えがうまくまとまっていないけれども、メモ的につらつらと書きながら考えてみたい。

仕掛け

著者は仕掛を定義する要件として次の3つを挙げている。
公平性(Fairness):誰も不利益を被らない。
誘引性(Attractiveness):行動が誘われる。
目的の二重性(Duality of Purpose):仕掛ける側と仕掛られる側の目的が異なる。
仕掛けを面白く感じるのは目的の二重性によって異なるものが不意に結びつくことにあるように思う。

ここを読んで、事務所のキックオフイベントとして行った模型展を思い出した。
投票によって人型を並べてもらったのは、投票行為であるのと同時に、町並みに見立てた会場の賑わいを生み出すことでもあったし、模型を持ち上げないと展示の一部が見えないようにしたのは、模型に手を触れることを遠慮することを避けることでもあった。
うまくいったと感じた仕掛けは確かにこの定義を満たしていたように思う。

また、便宜的に仕掛けの原理を分類体系としてまとめられていたが、これは原理を理解する手助けになる。
仕掛学研究会ホームページ論文より引用

心理的トリガは物理的トリガによって引き起こされ、互いが自然に結びつく関係にあるとき、その仕掛けはうまく機能する。

建築と仕掛け

さて、建築と仕掛けについて。
東京での修行時代、その時の所長に「お前は建築を装置として考えすぎている。」と指摘を受けたことがある。
そこでなされる行為や、そこから受け取る印象・感情等と建築とを直接的に結びつけすぎているということだと思う。これには言われて確かにそうかもしれない、と思ったのを覚えているが、その時はだからどうすれば良いというのはよく分からなかった。

仕掛けは定義にある通り、目的を予め想定するものである。
建築が人の行為を規定してしまうことの不自由さの是非を問うような議論は昔からあるが、果たして、仕掛けの目的性は建築にふさわしいものなのだろうか
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。

それに対して本書では「仕掛けは行動の選択肢を増やすもの」としている。

仕掛けの良いところは、あくまで行動の選択肢を増やすだけで行動を強要しないところにある。もともと何もなかったところに新たな行動の選択肢を追加しているだけなので、最初の期待から下がることはない。どの行動を選んでも自ら選んだ行動なので、騙されたと思って不快に思うこともない。(Amazonページより)

行動を誘引はするけれども強要はしない。

ギブソンはアフォーダンスという概念で、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したが、そういう視点で仕掛けを見た時、仕掛けはあくまで選択肢の一つとして立ち現れるもので、能動性は担保されうるように思えなくもない。
そして、その能動性が先の3つの要件、公平性・誘引性・目的の二重性によって守られるのだと考えると、この定義の重要性も見えてくる
うまくすれば仕掛けも出会いの一つ足りうるのかもしれないな。(ただし、その効果はこの本でも書かれているように減衰するものであって、減衰後のあり方にも配慮が必要だろう。)

うーん、やっぱり油断すると建築を(出会いのための)装置として考えてしまいそうになる。
そこから距離を取るためにギブソン的な視点の転回を必要としてるんだけど、忙しさにかまけてしばらく思考をサボるとその辺の感覚を見失ってしまうし、その視点と設計という行為とのジレンマに負けそうになってしまう。

結局、修行時代に受けた指摘に応えるためにまだ藻掻いてる感じで、修行はいつまでも続きそうだな。




もっとおおらかに、もっとわくわくしながら B221『家づくりのつぼノート』(西久保 毅人)

西久保 毅人 (著), ニコ設計室 (著)
エクスナレッジ (2019/8/3)

建物探訪でぐっときたお二方

『渡辺篤史の建もの探訪』は気が向いた時に時々見るくらいなんだけど、見ながら「ぐっとくるなー。めっちゃ上手いなー。」と思って初めて興味を持った方が二人います。

一人はタトアーキテクツ(島田陽)で、もう一人がニコ設計室。

当時から有名だったのか、まだ無名の頃だったのかは分からないけど、その時初めて知って、すぐにファンになりました。
そのニコ設計室が本を出したと知って急いで買いました。

豊かさとおおらかさと自分の原点

一つひとつの言葉がすごく共感できて、自分の目指すところを言葉と形にして見せてくれたような感じがします。
例えば、学生の時に考えていた敷地の捉え方をはじめ、デザインのたねとして考えていたようなことが、具体性をもって表現されていて、とても豊かなものがそこにあるように感じましたし、『施主力8割』のところなんかそのまんま自分の言葉じゃないかと思えるくらい。

そのワクワクする、ため息が出るような豊かさ、人間臭さはどこか象設計集団に感じるものに似てると思ったら。略歴のところに象設計集団の文字が。
やっぱりなー。

さて、その豊かさの根っこにはある種のおおらかさが見て取れます
それは、プランにも如実に現れてるし、街とのつながりかたにも現れています。おおらかであることによって初めて獲得できるような、どこか懐かしい豊かさ

さらに、そのおおらかさのもとには子どもたちに対する愛情や責任が、もっといえば、著者自身が子どもの頃のわくわくする気持ちを保ち続けていることがあるように思いました。(それは決して簡単なことではないと思います。)

自分はどういうものをつくっていくべきか。それは設計者の永遠のテーマとも言えますが、その原点を思い出させてくれたように思います。

自分も初心に帰って、もっともっとおおらかに、もっともっとワクワクしながら設計を続けられたらなー
 
 

追記(twitterより)

言葉遊びではない、生活の延長としての街への開き方が豊かな印象を与えているように感じたけれども、案外東京の密集した地域だからこそ、というのはあるかもしれない

道路があまりにも車の交通としての色合いが強いとこういう開き方も難しい、というか開くというのが言葉だけになりがち。例えば裏路地のように道路自体がおおらかさを持っていることが大切なような気がする。

もともと道路自体がおおらかさをもっていればいいけど、そうでない時はどうするか。目の前の道路に新しいおおらかさを見出したり、生み出したりするような見立てる力、顕在化させる力が求められる気がする。

一つ前に書いたマイパブリックの話も、おおらかさを顕在化するための手法なのかもしれないなー。そこに懐かしさのようなものを感じてほっとするのかも。ほっとしたい。

後は、そのおおらかさを実現するためにはある程度予算的なおおらかさも求められる。予算の話はきりがないのでそれを与えられた条件の中でどうやってクリアするか




趣味的な何かをつなぎとめておくために B220『マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり』(田中元子)

田中元子 (著)
晶文社 (2017/12/6)

田中元子さんの言葉は、当たり前なんだけどなぜか言葉になっていなかったことに言葉を与えるような、ふいに芯をつく強さがあって気になっていた。

自分はまちに対して積極的に関われているとは言い難いけれど、共感することも多かったのでメモ。

3%の趣味

いつから実行したかは思い出せないけれども、頂いた設計監理料の扱いについて自分の中であるルールを決めている。

それは、設計監理料のうちの3%程度は何らかの形でお施主さんに還元するということだ。
竣工祝として植栽やポストなどを送ることもあれば、現場の進行をスムーズに進めるために密かに使うこともある。

中でも、壁の塗装や簡単な家具などの一部をDIYなどでやってしまう時の材料代等に当てることが一番多いように思う。

それに対して、「設計料は、図面に対する対価ではなく、お客さんに対するサービス全体の対価であるから。」等々、いろいろな理由をつけることはできるけれども、この本の序盤を読んでいて、それはもしかしたら趣味的なものかもしれないと思った。

最初の要望をお聞きしてからお引渡しまでの間、お金のコントロールに一番神経を使う。絶えず、これをこうしたらいくら増額で、こうしたらいくら減額になる、というような算段をしながら物事を決めていかなければならない。
それが自分の仕事なのだけれども、建築の中にお金のやり取りだけでは生まれないような何かを埋め込みたい(それは職人さんの人間味等で付加されることもある)し、自分自身がお金のやり取りから開放された状態で関わりたい、という気持ちもある。

それはおそらく趣味的な何かを手放したくないと言うことなんだろう

建築にはお金を頂いて関わる以上は、趣味ではなく仕事として誠実に向き合わなければならない、というのは一番基本的な心構えだと思う。
だけども、そのうえで、さらに最後の数%、建築の質を押し上げるためには、趣味の要素を取り入れることもまた、仕事のうちだと思う。
そのために3%の趣味を残している。のかもしれないな、と思った。

マイ「マイパブリックとグランドレベル」

マイパブリックとグランドレベル。
これも、自分がまちを見る時に漠然と、顔がなくて寂しい、とか、人間味があって好きだ、と感じていたことに言葉を与えるような言葉

自分の場合、仕事とは切り離せないことがほとんどだけど、読みながら頭に浮かんだ(プチ)マイ「マイパブリックとグランドレベル」をメモしておきたい。

■先程のDIYなんかは、ごくごく限られた人たちの中でのことだけれども、それをやること自体、には何かしらパブリックな要素も含まれてるように思う。

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » 「棲み家」をめぐる28の住宅模型展
事務所のキックオフイベントで行った模型展。当時のマルヤガーデンズで出来たことがすごく良かった。
主な目的は営業的なものだけども、ふらっと見ていってくれる第三者との関わりは結構趣味的な感じだった。

マルヤガーデンズのガーデンは、店舗のフロアーを本書でいうところのグランドレベルに見立てるような取り組みだったのかもしれない。

■模型展のPR用に公園に模型撮影に行った時に、子どもたちが集まってきたんだけど、こっちの方がマイパブリック感あったかも。


その時についでに撮ってもらってたこの写真が好きで、たまには公園でゲリラ模型展しよう!と思っていたけど、やってないなー。

■事務所の正面のコンセプトは生活の匂いのない通りのグランドレベルに何かしら生活を表出させることだった。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » KMGO ~小松原の家+事務所
KMBO3
(夜仕事している明かりが漏れることを狙っていたけど、実際はSOHOで家族が寝てるので締めてしまうことが多い。)


訳あって、シンボルツリーを伐ってしまったので、昔作った白いベンチを置いた。たまに信号待ちの人が座ってる。でも切り株からまた木が育ってきて座りづらくなってる。(何か愛しく感じて伐れない)


通り沿いには棚を置いていて、昔は模型をずらっと並べてたんだけど、折り紙たちにとって変わられた。よく通りがかりの子どもたちが見ている。

近所の公民館

公民館もDIYで愛着づくり。


公民館が通りから閉じた印象だったので、DIYで浮かせたお金で、植栽とベンチづくりDIYでなるべくオープンな表情に。


月1くらいで、カフェ(なんとなく集まってコーヒー飲みながらダベる)も自主開催されるようになったりして嬉しい。
 
 
 
ちょっとした種はいろいろあるんだけどなー。(育てるのが苦手)




何が建築を規定しているかを知ることを足がかりに考え続ける B219『 建築の条件(「建築」なきあとの建築)』(坂牛卓)

坂牛卓 (著)
LIXIL出版 (2017/6/22)

自由になるための道具

だいぶ前に一度読んでいたのだけど、何かピンと来てなくてなかなか書き出せなかった本。

なぜピンと来なかったのか。まずはそこから考えてみたいと思う。

はじめに、『建築の条件』というタイトルを見て、建築であるための条件は何か、を期待して購入したのだけれども、そうではなく、書かれていたのは建築を規定しているものは何か、であった
どちらかと言うと、建築を規定しているものから少しでも自由になりたい、という思いが強かったので、建築を規定しているものそのものにはさほど惹きつけられなかった。

そんな感じで読んだので前に読んだときには書きだせなかった。しかし「作品の分析には使えても果たしてつくる側の論理になるのだろうか。」「無意識に規定してしまっているものを意識の俎上に載せることの意味は何だろうか。」そんなことを考えているうちにようやくこの本の意味に気づいた気がする、

おそらく「建築を規定しているものから少しでも自由になりたい」というのは間違いではない。むしろそこから自由になるためにこそ建築を規定しているものが何かを知るべきである。
この本は自分を無意識に規定しているものに気づき自己批判をするためのもの、いわば自由になるための道具なのだ。ここに直接的な答えが書いているわけではない

そう考えると終章の言葉がやっと頭に入ってきた。

しかし異なるのは、メタ建築が重奏する思考の上に成立し、「条件」を捨象するための戦いを通して生み出されていたのに対し、現在のスペクタクルはグローバリゼーションやネオリベラリズムの求めるものとして現れている点である。(p.297)

状況が要請する、あるいは与えるものを無批判に受け取るところに次へのステップはない。教科書通りの答えが明日をつくることはありえない。(p.298)

なるほど、もしかしたら購入前に期待していた「建築(であるため)の条件」の一つは「建築(を規定しているところ)の条件」に対する批判的眼差しの存在なのかも知れない。

「建築」なきあとの建築?

ただ、再度序章と終章をつまみ読みした今の時点で、まだ疑問に思うことが一つある。

そして失われた「建築」を再度つくり直すことが、われわれに求められている。(p.300)

求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか

それは以前感じた、まだ答えのない疑問でもある。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B213 『人の集まり方をデザインする』)

もしかしたら、その問いに対するヒントは本書の中に隠されているのかも知れないけれども、それは今分からない。

兎にも角にも、この本を自己批判のための道具として使うべく、ここに書かれている9つのテーマについて、再度読みすすめてみたい。

前置きが長くなったが、以後、各項目について、個人的に感じたことを思いつきも含めて簡単に書いていきたい。
 


 

・人間に内在する問題

1.男女性

この章では性が生物学的に、また社会学的に建築に影響を及ぼしてきた経緯が語られるが、自分自身は表現として性別を意識したことは殆どないと思う。
しかし、計画の際に与件として受け取ったり影響を受けていることは無数にある。
例えば、異性同士のお子さんがいるかどうかでプライバシーの配慮の程度が違うし、小さなお子さんの性別で耐久性などの程度も変わってくる場合がある。
キッチンに男性が立つかどうか、や皆で料理をすることがあるかどうかでキッチンのスペースも変わってくるし、共働きの場合は家事のリズムや必要なスペースも当然変わってくる。
そういった条件の変化にはジェンダーに対する考え方の変化などが大きく影響するが、もっと意識的にその先のイメージを考え、提案していってもよいのかもしれない。

性差については

『キレる女懲りない男―男と女の脳科学』
黒川 伊保子 (著)
筑摩書房 (2012/12/1)

を読んでつぶやいた時のツイートを思い出す。

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » tweet 11/23-05/16

最近プライベート的必要に駆られて男と女の脳科学な本を読んだ。生物学的な役割から脳の機能が異なるのは理解できるし、普段はこの手の本は毛嫌いしてるんだけど、まーわりと面白かった。

男性脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細くなってしまってるので理論化しないと感覚と言葉を結び付けられないし、目の前のことに疎い。でもその分、遠くが見える。

女性脳は脳梁が太く感覚と言葉が直結してて、ややこしいことは考えずにひたすらおしゃべりを繰り返して感覚をキーとしたデータベースを強化し続けてる。それは子育てという観察をベースとした瞬間的な判断を絶えず強いられるから。

もともと機能・特性が違うのでお互いになかなか理解できない。それを前提とすれば、理解できないお互いの言動も愛で合うことができるのでは。みたいな話。早速、実践してみるべ、と思ってもまー簡単じゃないよね。

で、身の周りでも女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なものがリアリティや動かす力を持ちだしてる気がするし、その脇で建築が変わってきた、むしろ建築みたいな概念邪魔じゃね。みたいな流れもある気がする。

そのベースに女性脳的な直感がある気がするんだけど、そこからは「僕(われわれ)のリアリティ(byM氏)」から遠くへはなかなか行けない。行けないというかそもそもそこを目指していない。(遠くへ行くヒントは満載かもしれないけど。)

でも、時間的・空間的・概念的に遠くへ行くことこそが建築という言葉に込められていたのだと思うし、建築の役割・可能性であったと思う。そうであるなら、そこへの意志のないものは建築ではなく建物でいいんじゃね。と思う。否定的な意味でなく。

『建築の条件』のこの章でも日本的かわいいについての言及があったが、そのコミュニケーション的側面、『女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なもの』のが強くなっているのはすごく感じる。
SNS的な共感の集め方や、共感のノリでものごとが進んだり、例えばインスタでの共感が計画イメージのもとになったりすることが身の回りでも多くなってきている。(共感されるものはポジティブなものとネガティブなものとが、ともに増えている感覚がある。)

そう考えると女性性優位の時代、もしくは建物の時代、のように思うけれども、それに対してバランスをとるためのカウンターとして、男性性・建築性がより重要になってくるのでは、と思うあたり、おそらく自分は男性側に寄ってしまっているんだろうなと思う。(自分にこそカウンターバランスが必要かもしれない)
もしくは、価値観共有的なノリの社会に享楽的こだわりを持って向かうような、千葉雅也的な戦略を持つべきかもしれない。

2.視覚性

ここでは、ゲシュタルトが瞬時に把握されるようなモダニズムの視覚性が、時間軸を持った視覚性へ、視覚への不信が空間の消去へ、形象から表面物質へ、といった変化が語られる。

自分を振り返るとコルビュジェの映画的な視覚性から、ヘルツォーク&ド・ムーロンの物質性を憧れとしては通過しているけれども、形象や物質そのものというよりは体験として、もしくは生態学的な探索行為の対象として捉えたいという気持ちが強いかも知れない。それは、探索行為の結果、豊かな空間の中に自らをポジショニングするようなイメージである。
形象を求めてエレベーションをひたすらスケッチしたり、素材・物質を全面に出すような粘り強い検討よりも、PC上に3Dを立ち上げて、変更を加えてはウォークスルーで見え方を動的に検討するということをひたすら繰り返すような検討のウェイトが大きいように思う。コルビュジェ的な視覚性を求めているとも言えるが、むしろ、様々なものが様々な座標に分散しつつバランスが取れているような(アアルト的?)視覚性により興味がある
それは形象も物質性もどちらもあるが、どれか一点に集中するのではなく、それらがネットワーク的な複雑さの中に配置されるようなイメージが強い。
と、同時にそのためには形象や物質性を扱う技量がより必要になってくると思うけれども、全然足りていない、と日々痛感するところである。

3.主体性

つまり主体はその力も地位も失い、挙句に退場したのではない。そうではなく、主体はむしろ他者を包含することでより豊かで可能性のある「幅のある主体」に変容した。(p.83)

ここでは作家的とも言える主体性がやがて勢力を弱めつつも、コンピューターも含めた他者性を招来していく変化が語られる。

自分は設計において他者性を呼び込むことはとても重要だと考えつつも、コルビュジェのような作家的主体性に、未だ人間臭さを伴う固有性を生みだす可能性を感じている

どういうことか。

主体と他者の関係を考えたときに、他者から与えられたものを主体が受け取るという受動的な関係もあるが、そうではなく、他者を意味や価値が見出される環境として捉え、主体はその環境(他者)を探索し、取り込むという能動的な関係が重要だと考えるが、そこには生態学的な態度と意味や価値との出会いがある。

建築に関して他者と出会う主体は、設計者と利用者の2つが考えられる。
主体としての設計者は様々な他者を探索し、意味と価値を取り出して設計を調整する、というサイクルを繰り返す。そこではどんな他者と出会うかによって設計の密度が変わってくるし、密度を上げるためにどういった他者をどうやって招来するか、というのが設計行為における重要な命題となる。コンピューターの例や集合知の試み、観察や出来事といったことはその命題に対する応答とも言える。

主体としての利用者は建築を通して様々な他者・意味と価値に出会う。ここで利用者が設計者の作家的な主体性に出会ったとすると、それは利用者にとっては他者との出会いの一つである。であるならば、設計者も自らの作家的主体性を設計行為における環境・他者の一つとして扱ってしまえば良いのではないだろうか。
そうすれば、作家的主体性か他者か、というような二項対立はなくなり、さまざまな他者からどれをどの程度設計に反映させるかという程度・配分の問題とすることができる

それを突き詰めていけば何でもあり(全てが他者・環境)、になってしまうようにも思うが、何でもありを一旦受け入れることが、ポストモダンでの常套手段である。それを受け入れてなお、かたちへ導く方法を模索しなければならない。

4.倫理性

ここでいう倫理性は設計の側に内在する規範性のようなもので時代や受けた教育などで変わってくることも多い。

そういう規範を解体することが次の世代の規範になったりするけれども、何か規範というものに踊らされている気がしないでもない。 従うにしろ、解体するにせよ、人は何かしら規範のようなガイドになるものを求めてしまうのかもしれない。(規範。|オノケン(太田則宏)|note)

先に書いたように『設計という行為は、つねにハビトゥスの見直しを自らに問いながら行う行為である。』というものもハビトゥスの一つであり、見直しを問うべき姿勢は必要なように思う。(このハビトゥスに縛られているがゆえに、いろいろなものが見捨てられていて建築として成立していないのでは、というのもよくある。それもハビトゥスの違いと言われればそうなので難しいところだけれども。)

ところで、自分は倫理をどのように捉えているだろうか。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。
これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。
ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。 要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

さらに、知覚の公共性は人と人や社会とのつながりを基礎とする自己感、自己のリアリティのようなものを醸成する基盤でもある。これに対し建築は継続的に存在しうるものであるため、知覚を媒介する大きな役割を担っているといえる。それは建築が倫理的でありうる存在であり、大きな責任を負っている事を示している。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » Deliciousness / Encounters)

なぜ、知覚なのか。それは、知覚の基礎性、直接性、公共性が、人間の悦びや生きることのリアリティ、社会や文化といったものに建築がアプローチするための足がかりを与えるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築することに対する肯定的意味が見出だせるからである。

『そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、がその建築の意味と価値である』とした時に、建築が多様な出会いの可能性を保証することが建築における倫理だと捉えている。これは新築に限らず既にそこにある建物にも言える。
これはその時代、その人によって変わってくる規範意識よりはもう少し大きな枠組みでの話かもしれない。例え、ハビトゥスを更新するような小さな行為に見えても、そこに新たな出会いの質が生まれず、むしろ出会いの可能性を破壊しているようであれば倫理的行為だとはみなせない。(そうであれば、ハビトゥスの更新も失敗に終わっているということかもしれない。)


 

・人間に外在する問題

5.消費性

大衆消費社会が建築に与えた影響は、商品化された大量生産住宅の増加、およびデザインの消費という二点に絞られ、後者は一品生産のオートクチュール建築に置いてもその影響を及ぼした。(p.160)

消費についてモノの消費とイメージの消費があるとすると、モノの消費に関してはそれほど意識しているわけではない。プロジェクトやクライアントごとの性格や予算によってある程度の方向性は決まってくるように思うし、その部分にアプローチをするとすれば設計の段階より源流にアプローチする必要があるだろう。固有性という点では大量生産大量消費では限界があると思っているが、与えられた条件の中でどのような可能性を見出していくか、というのは設計者に与えられた役割だと思っている。もちろん、設計者の役割を拡張して、消費性の源流にアプローチすることができれば好ましいし、そのような動きは随所で見られる。今はできる範囲で対応することしか出来ていないが、その先は今後の課題である。

より危機感を持っているのはイメージの消費の方である
正直、モノにしろイメージにしろ、消費そのものはネガティブなイメージだけではなく、サイクルをまわして活力を与えるようなポジティブなイメージも持つようになってきた。先のハビトゥスの更新なども、倫理を消費していると言えなくもないが、それが社会に活力を与えてきたとも言える。

なので、イメージの消費にポジティブなイメージがないわけではない。ただ、その消費のサイクルにただ巻き込まれるだけでは消耗するだけで、自分の存在価値が損なわれてしまうし、新たな出会いを生むことも難しい。そうならないためにはイメージの消費とどう距離をとるか、という戦略がおそらく必要になってくるように思う
そうやって、イメージの消費からある程度自立できて初めて、新たな出会いの可能性に向き合うことができると思うし、モノの消費の源流にアプローチすることにも連続性が生まれてくるように思う。

やはり、消費性から自由になるにはどうすれば良いか。具体的な戦略が必要だ。

6.階級性

格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会。

鹿児島市は平地が少なく、利便性の高いエリアは鹿児島市電が走る線状の地域に集中しているため、収入に対する土地の価格は高く、

(1)利便性の高いエリアにそれなりの土地を買って建物をかなりローコストにするか、
(2)利便性の高いエリアに小さな土地を買って狭小住宅を工夫して建てるか、
(3)利便性の高いエリアから離れ、安い土地を買ってそれなりの建物をたてるか、

というような選択を迫られることが多い。
(1)でローコストで建てるには限界があるため、予算が限られている場合は必然的に(2)か(3)という選択肢の可能性が高くなる。
そのような中、自邸兼事務所は(2)の可能性を提示するために計画したもので、約20坪の土地に約20坪(+ロフト+床下収納)の建物を建てた。土地・建物ともに1100万円前後であるので、立地を考えるとコストをかなり抑えたほうだと思う。(建物は自主施工あり)
その後、14坪弱の敷地での計画も経験したが、いわゆる富裕層ではないところでの建築の可能性を考えると、かなり思い切った優先順位の付け方をしないと成立が難しいし、その思い切りが良い家をつくるための条件のようにも思う。
建築費は年々上がっているため、なおさら思い切りが求められるようになってきているが、その中でなんとか成立するためのバランスを見極めることが我々の仕事とも言える。(その難易度も年々上がっている。)また、そのために奮闘することが生活の場から固有性、出会いの可能性を守ることに繋がると願いたいし、そのような場から建築がたちあがる可能性に対して誠実に向き合っていければと思う

達成型社会は個を孤立させ、よって社会も疲弊する。そこから抜け出る可能性の一つは、社会の無意識のなかで駆動する生産性を克服するために、何かをしない見ない能力を向上させることではないかとハンは主張する。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』)

屋外を含めあらゆる場所に機能が割り当てられた街は息が詰まる。
先日閉店していた店舗をマルヤガーデンズとして再建した玉川さんが亡くなった。そのマルヤガーデンズはまちなかの百貨店でありながら、一息付ける場所になっていることをある方は「無目的でも行ける場っていうのが良いんでしょうね。」とつぶやいていた。自分もそう思うし、天文館に行くとつい本屋によって屋上に行ってしまう。
そういう隙間をつくることに建築設計はアプローチできる可能性を持っている

例えば、長谷川豪が家の中に都市的もしくは非日常的なスケールを持ち込むことで、どこにも属さないような不思議な場を生み出しているように、空間的な操作で、機能を押し付けてきたり、達成を押し付けてくるような場から逃れてそれとはぜんぜん違うものと出会うことをサポートするような質を備えることができるのではと思う。

階級性(格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会)から自由になるにはどうすればいいか。
階級性が強要してくるような価値の軸自体を異なる価値の軸へと転換するようなずらしの作法が必要なのかもしれない。

7.グローバリゼーション

いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へと言う普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。(p.154)(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀は否定神学的マルチチュードの弱点(戦略性のなさ)を克服するものとして郵便的マルチチュード(としての観光客)を提出するが、それはグローバリズムとナショナリズムの中間というよりは、その両者を「ふまじめに」見物してまわるような存在(のよう)である。

グローバリゼーションから自由になるにはどうすればいいか
それはこの「ふまじめ」さの中にヒントがあるような気がしているけれども、まだうまく消化できていない。
学生の頃に表層の戯れとしか見れなかった、狭義の建築的ポストモダニズムとどう違うのか。おそらくパッチワーク的な引用のイメージではなく、オーバーラップによる共存のイメージの先に何かがありそうな気がしている
例えば、東浩紀が引き合いに出したネットーワーク理論の生成過程と設計プロセスを重ね合わせることによって、そのイメージに近づくことはできないだろうか。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。 また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』)

ここで、先にオーバーラップによる共存のイメージと書いたことに対して『公共空間の政治理論』での議論を思い出した。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B207 『公共空間の政治理論』

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

先のゲンロンの観光客を重ねるならば、観光客が分離されたものを重合(オーバーラップ)するとみるのではなく、取り残された余地に他なる空間を生じさせる動的な存在として捉えた方が良いのかもしれない。プロセス・はたらきこそが重要であるというのは先の設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える考え方と相性が良いように思う。プロセス・はたらきを形の問題へとどうつなげていくか。その先に新しい建築の可能性が開かれている。

8.アート

ここではアートと建築の関係、接近による功罪などが語られる。

自分ではアートをタイムリーに追いかけて建築との関係性を考える、という作業をあまりしてきていない(たまに気になることがあれば雑誌などを読む程度)けれども、同じように現代に向き合っている存在であると捉えれば、お互いに影響を与え合うということは当然ありそうである。
単純に並走しているというよりは、建築は具体的な目的や機能のためにつくられる分、アートの方が純粋に現代に向き合い問題を抽出しやすい反面、建築の方が具体的に人々と関わる機会が多く影響を与えやすい、というようなお互いに補い合うような関係と考えても良いのかもしれない。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

アートを既知の中の未知を顕在化すること、とするなら、アートの分野で顕在化されたものに目を向けることは悪いことではないと思うし、建築そのものにも作用としてのアートを備えさせるというように能動的にアートを取り入れることは、おそらく、アートから自由になるための一つの姿勢のように思う

9.ソーシャル

つまり、ソーシャルの概念が登場するのはだいたいにおいて資本主義が問題を起こす時であり、資本主義が社会の問題を解決できないときに求められる避難場所に思える。(p.263)

ソーシャルについて、資本主義に対するものとして語られる。

資本主義によって解決されることもたくさんあるので、資本主義が社会問題に対して向き合っていないということではない。むしろ解決するものとしての資本主義が本来の姿ではないだろうか。問題は問題の解決に対して、資本の力に頼るか、連帯のようなソーシャルな力に頼るかのウェイトの違いであり、適否はあるだろうが、これらは善悪の問題とは切り離した方が良いように思う
ただ、資本主義が暴走したり、行き詰まって問題の原因となっていることは否めない。それに対して、ソーシャルが避難場所になりつつある。というより、これらも対立すると言うよりは補い合うものなのだろう。これまでは、資本の力とソーシャルな力は適度なバランスで補い合っていたものが、資本で何でも解決できると誤解した結果、資本に傾きすぎてソーシャルな力が失われてしまっただけなのかもしれない。

おそらく、宮台真司の言うコモンズのようなものが日本的資本主義には欠けているのだろう。そこで、コモンズのような意識や作法をインストールするための有効な手段として、ソーシャルな活動が求められるようになってきたのだろう。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B110 『M2:ナショナリズムの作法』)

自分の今の仕事は基本的に資本の力に基づく契約をベースとしており、依頼に対する請負という形がほとんどである。中には地元公民館の改修のような契約の形はとってもほとんどソーシャルな仕事もあるけれども、多くの仕事はソーシャルな力にほとんど頼ってはいない。
それは、コモンズのインストールに対する寄与が小さい、ということを表しているのかもしれない。

仕事の中にソーシャルな側面、コモンズのインストールに対する寄与をどうやって取り込むか。それはプレイヤーによってバランスは変わっても良い(バランスの多様性があったほうが良い)と思うのだが、その自分なりのバランスを見つけられたとき、ようやくソーシャルから自由になれるのかもしれない。

「建築」なきあとの建築(再)

さて、ここまで、各章についてざっと思うことを書いてみた。

「求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか。

再びこれについて考えたいところだが、何か一つの『「建築」なきあとの建築』という正解がある、というのではないように思う。

乗り越えるというハビトゥスに対して、乗り越える以外に取りうる戦略はポストモダンの作法とでも言うべきものになるのではないか。”とりあえず”受け入れた何かを活かすことによって空間の密度、もしくは出会いの密度を高めていく。そうやって、これらの建築(を規定しているところ)の条件の上に足場をかけていきながらとりあえず考え続ける。
もしかしたら、その動的な営みの集合の中に『「建築」なきあとの建築』がぼんやり浮かびあがるだけなのかもしれない




設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

Guido Caldarelli,Michele Catanzaro著,増田 直紀 (監修, 翻訳), 高口 太朗 (翻訳)
丸善出版 (2014/4/25)

ネットワーク的設計プロセス論試論?

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

この思いつきを少し先に進めるため、ネットワーク理論についてのイメージを補強しようと思いざっと読んでみた。

この本はネットワークの普遍性とネットワークの多重性を示すことに重点が置かれていて、多様な分野の多様な例が挙げられていた。
読んでいく中で、現れと過程、2つの側面から、建築設計のイメージを膨らませることができそうに思った。まだ論とは呼べるものではなく、ぼやっとしたイメージの域を出ないけれども、思いつきのストックとして書いておきたい。

収束と発散の重ね合わせのイメージ

「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

ひとつは、収束の空間と発散の空間の重ね合わせのイメージ

ある種のネットワークはスモールワールド性とスケールフリー性の2つの性質を併せ持つ。というより、どの2頂点間の距離も非常に小さいというスモールワールド性を持つネットワークのうち、均一性をを失ったものがスケールフリー性を持つ。と言った方が正しいように思う。
このスケールフリー性を備えたスモールワールドの近さが、視点の持ち方(均一性を感じる範囲に目線を限定し、スケールフリーなハブの存在に盲目的になるかどうか)によって、国民国家的にも帝国的にも見えるのではないか。

例えば、スピーカーから出る音は一つなのに、いくつもの音が聞こえるのはなぜだろう、と疑問に思ったことはないだろうか。音楽が、いくつもの音が重なり合成された一つの波形として記録される。再生時はそれが一つの波形としてスピーカーから出力されるはずだが、人間の耳はもとの複数の音に分解して認識できるという。
同じように、人間の国民国家的ふるまいや、帝国的ふるまいが重なり合ったかたちとして、世界・社会が不均一なスモールワールドのかたちをとる。同じひとつのかたちだけれども、人に感じ取られる際に2つの性質として分解され、視点によって国民国家的にも帝国的にも現れうる、とは言えないだろうか。

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。

ネットワークを自己組織化するようなプロセスのイメージ

これらすべての場合において、ネットワーク全体の秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである。多くのネットワークは、全体の設計図がないにもかかわらず不均一性のような秩序だった驚くべき特徴を見せる。自己組織化の過程を用いることで、その理由を説明できるかも知れない。(p.106)

不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序はトップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。

設計はつまるところモノの配置と寸法の決定の集積である。一方ネットワークは頂点と枝という単純な要素の集積である。どちらも、単純なものの集積が秩序を持った複雑なかたちを生みうる。
そこで、設計行為とネットワーク化のプロセスを重ね合わせるイメージが浮かぶが、それについて考えてみたいと思う。これは特に、自己組織化的な過程を重視するような設計手法との相性が良いように思われる。

そこで、(いつものように)藤村氏の超線形設計プロセス論を引き合いに出してみる。

▲藤村龍至『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』より(p.079)

上の図は有名なBILDING Kのプロセスを示す表で、横軸が模型の世代、縦軸が発見されたルールである。
模型・案の中に時間軸に沿って次々と様々な条件が編み込まれていくのが分かるが、これを、設計に関わる様々な条件(ルール)の間にネットワークを築くプロセスだとイメージしてみる。そのネットワークのかたちが建築として出力される。

このネットワークの頂点と仮定する設計に関わる要素は物理的な要素でも概念的な要素でも、なんであっても構わない。施主の要望、法的規制、間取り、構造、規模、設備、周辺環境、予算、使われる素材、床や壁といった構成要素、施工性や技術、歴史や文化、その他いろいろ考えられる。
これらの要素はそれぞれがグループをなし、そのグループ内での頂点の接続はたやすく距離も小さい。それぞれのグループについて検討している間に、お互いに関連する部分が生じ、そこにつながりが生まれる場合もあるが、あえて距離の遠いものとの間につながりを生むように意識もする。これは「つなぎかえ」と「近道」に相当するイメージである。それほど近道の頻度を高めずともいくつかの枝によってスモールワールド性を獲得できるが、スモールワールド性のもう一つの要件、大きいクラスター係数(三角形をなす頂点と枝の多寡)、つまり近い場所でのネットワークの密度も意識されるべきである。

▲本書より(p.83)

また、こうして検討していくうちにネットワークは複雑なものとなり、中には例えば、先のBILDING Kの表における●を縦に串刺すような、他の頂点との枝の多い(次数の高い)頂点、ハブが生まれる。これも自然に生まれる場合もあろうが、プロセスの中でハブとなるような要素を探すことと、その要素への接続とが並行して意識的に試みられる。これは「成長」と「優先的選択」に相当するイメージである。これによってネットワークが不均一なものとなり、スケールフリー性を獲得できる

▲本書より(p.99)

また、先のハブの存在は設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものとも考えられる。(下に引用した記事は考え方が近いかも知れない)
ここではハブは一つでなくてもよく、スケールフリーな存在として、様々なスケールにおいていくつもあっても良い。むしろそちらのほうが好ましいと思われる。

また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここで、設計において、これらの性質の獲得を阻害するものは何か、少しだけ考えてみる。

例えば、前者に関しては、天井懐が考えられる。天井懐は構造や設備などの要件をクリアするために、余裕を持って設定されることが多い。ふところに余裕があれば、構造や設備その他諸々の要素間の干渉をそれほど厳密に考えずとも良くなり、要素間のネットワーク生成プロセスがスキップされる。その内部はブラックボックスとなってしまうため、ネットワークの表現にもあまり貢献しない。冗長性を取り除いていくことによるデメリットもあるが、冗長である、ということはネットワークの生成を阻害する可能性があるとも言えそうである。もしかしたら、RCラーメン構造や在来軸組工法のような、一般化された冗長性の高い工法も同様の阻害要因となりそうな気もする(実感としてネットワーク生成プロセスをスキップしている様な感触を拭えない)が、それに関してはもう少し慎重に考えてみたい。

また、後者に関しては、行き当たりばったりの設計態度が考えられる。次々と現れる条件に成り行きで対応していっても、何らかのネットワーク状のかたちを生むかも知れないが、それはランダム・グラフのような均一なもの(フリースケール性を持たない)である可能性が高く、そこに不均一なネットワークが持つような複雑な秩序は生まれがたい。ハブを生成するプロセスが欠かせないのだ。

以上のように、設計プロセスをネットワークの生成過程に重ね合わせてイメージすることはできそうな気がするし、人の耳が音の重なりを認識できるように、それから生まれた形・建築から、そのネットワークの性質をさまざまに感じ取る、ということも起こりうるのでは、というように思う。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。
また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。

さらにはこれまでブログで収集してきたこと、(出会う建築に書いたことや、例えばレトリックの応用など)を、このイメージに重ね合わせることによって、より具体的な方法論とすることができそうな予感がある。が、それはまたこれから。




分裂を単純な数学的操作によって乗り越える B216『ゲンロン0 観光客の哲学』(東 浩紀)

東 浩紀 (著)
株式会社ゲンロン (2017/4/8)

onokennote: ゲンロン0読了。前も思ったけど、哲学的な基礎知識がなくとも一冊の本として面白く読ませるのがすごいなー。伏線がきれいに回収されてゾクゾクするような瞬間が何度かあった。 [2019/04/16]


この本も面白く読ませていただきました。

観光客の哲学に向けて

とりわけ、二一世紀のこのネットとテロとヘイトに覆われた世界において、本当に必要とされる哲学はどのようなものかを考えてきた。本書にはその現時点での結論が書き込まれている。(p.007)

本当に必要とされる哲学はどのようなものか。本書ではこの問いに対する哲学的な思考が順を追ってトレースできるような形で描かれる。
誤解があるかも知れないけれど自分なりに追ってみたい。

第一章で観光客の哲学を考えることの狙いを、
 ・グローバリズムについての新たな思考の枠組みをつくる
 ・必要性からではなく不必要性から、必然性からではなく偶然性から考える枠組みを提示する
 ・「まじめ」と「ふまじめ」の境界を超えたところに、新たな知的言説を立ち上げる
こととする。
また、第二章でも、同様に人文思想から外れた存在、「シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした」存在として観光客を持ち出している。

いわば、今までの枠組みを書き換えるために、枠組みからこぼれ落ちているであろう観光客に着目する

さらに第三章では世界が2つの原理(国家と市民社会・政治と経済・思考と欲望・人間と動物・ナショナリズムとグローバリズム・コミュニタリズムとリバタリズム・国民国家と帝国)に分裂し、「このままではどこにも普遍も他者も現れない」ような二層構造が示される。
そして、それを乗り越えるため、観光客の哲学へ生まれ変わりうる存在として「マルチチュード」が持ち出されるが、「ネグリたちのマルチチュードは否定神学的な存在」であるから「『帝国』の最後は信仰告白で終わらざるをえない」とされる。

ここまでが、観光客の哲学に向けての下準備である。
丁寧に思考を積み重ねながらじっくりと描かれているので、実際に本書を読めば流れがつかめると思うし、自分自身が社会で感じていることに対する背景・構造が見えたように思うので自分も何度か読み返してみたい。

また、今までの枠組みを乗り越えようとすることは、モートンが近代の枠組みから脱出しようと試みているのとも重なるように思う。やはり乗り越えるべき何かが近代から現代へと残されているのだ。

郵便的マルチチュードと数学的操作

さて、いよいよ第四章で否定神学的マルチチュードの弱点(戦略性のなさ)を克服するものとして郵便的マルチチュード(としての観光客)が提案される。

詳細は本書を読んでいただくとして、個人的にエキサイティングに感じたのが、弱点を補うものとして導入された数学的モデル・ネットワーク理論の部分である。

ここで、「つなぎかえ」と「近道」の数学的操作によるスモールワールド性(大きなクラスター係数・小さな平均距離のつながりのかたち)を国民国家(先に挙げた2つの原理の前者)に、「成長」と「優先的選択」の数学的操作によるスケール・フリー性(べき乗分布)を帝国(先に挙げた2つの原理の後者)に対応して捉えているのだが、面白いのはそれが一つのモデルで2つの世界を同時に表現できる、ということだ。(前者は誤配の量、後者は誤配の質によるものとも言えそうである。)

しかし、だとすれば、それは、僕たち人間が、同じ社会を前にしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。

そういった解釈は、このモデルなしにはなかなか捉えることが難しかったに違いない。

そして、さらにエキサイティングなのが、この複雑な表現・解釈が「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった単純な数学的操作によって生み出されるということである。

正直に言えば、ナショナリズムとグローバリズムを横断するような枠組みの提示とその実践可能性にも関心はある(実生活・実世界と無縁ではないと思う)けれども、2つの相反するような世界を、単純な操作によって同時に表現できる、というその可能性の方により関心がある。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。 それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。 どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。) そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』)

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。
「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。

メモ

本書ではさらに、観光客の哲学として連帯と憐れみ、続く第二部で観光客のアイデンティティとして、家族、不気味なもの、子どもの概念についての素描が提示されているが、今回はここで終わりにして、後は本文の中から印象的な部分をメモしておきたい。(強調引用者)

シュミットとコジェーブとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。(p.109)

いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へと言う普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。(p.154)

ぼくたちはつねに、同じ社会=ネットワークを前にして、スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を同時に経験している。しかし、だとすれば、こんどは、そのふたつの経験から、ふたつの秩序、ふたつの権力の体制が生まれるとは考えられないだろうか。(p.184)

観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。僕たちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない。(p.198)

政治を動かすのは、お祭りではなく日常である。言い換えれば、動員ではなくアイデンティティである。連帯の理想はアイデンティティの欠如に敗れた。(p.206)

つまりは、僕がここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。(p.214)

しかしほんとうは、観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピューターのインターフェイスのように捉える視線なのではないだろうか?(p.259)

子として思考するかぎり、チェルヌイシェフスキーと地下室人とスタヴローギンの三択から逃れることができない。ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことに会った。子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。(p.300)




歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

東 浩紀 (著)
講談社 (2007/3/16)

読んだつもりになっていたけど未読だったので読んでみた。

その時与えられた課題は「ポストモダンの文学」だったが、当時の筆者には、その課題のもとではどうしても肯定的な議論が立てられず、「ポストモダンでは文学は求められなくなる」としか考えられなかったのである。(中略)筒井氏より託された重い宿題をようやく終わらせることができたと感じている。本書は筒井氏に捧げたい。(p.333)

さすがに内容は面白かったのだけど、ポストモダンと向き合う著者の物語がそこにあることを知ってより面白く読めた

物語とリアリティの行方

さて、自分としての関心はポストモダンのさなかにあるリアリティとは何か、また、そこで物語というものがあり得るとしたらそれはどのようなものか、という点にある。

yuwagaki: 平成振り返りモノの1つと思って読んだら、とんでもなく重みのある文章だった。最後の物語化の話は特に。 吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB[2019/03/15]


というツイートを見かけて読んだ記事、
吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB

それこそ、連続幼女誘拐殺害事件から障害者施設殺傷事件とか、今に至るまでの事件の加害者に聞いてみたらですね。日本、世界、人間がどんな愚かなことをしてきたか、戦争についてほとんど知らないですよ。びっくりするほど知らないです。

――平成の次の時代はどうなっていくでしょうか、またどうなってほしいでしょうか。

「妄想から物語へ」です。平成の時代の事件というのは、みんなそれぞれに加害者の側が頭の中でいろんなグロテスクなキャラクターを思い浮かべたりとか、自分の力を誇大に考えてみたりとか、妄想を起こすんですよね。それが現実化した時に事件が起きる。でもそれをどうやって物語にしていくか。物語っていうのは妄想ではなくてやはり起承転結がなくちゃいけないし、起承転結を追って、読者と他者が共有できる。自分の中にあるいろんな妄想を、きちんと他者に語れるような、他者と了解可能のようなそういう物語にしていく。それはとても大事なことだしちょっとした、それは芸術の世界に入ってくる。
我々の多くは、攻撃性が自分の中にあったとしてもすぐに事件を起こすようなことはしないんですけれども、事件を起こす加害者たちは犯行に及んでいる。それをなんとか物語にできるようにする。そのためには知識が必要ですし、他者に語る言葉が必要ですし、効果的に伝えるためには技術も必要ですし、そういう技能というものを身につけていく。そういうことが可能になれば、多分、次の時代というのは、嫌な事件がいっぱいあったこの時代を越えていけるかもしれないというふうに思っている。

ここで吉岡氏は「歴史の蒸発」と「妄想から物語へ」という2つのフレーズを提出しているが、ポストモダンな社会では歴史の蒸発は必然的帰結とも言えるし、物語の共有も困難になるはずである。

氏の言うように物語のための知識や技術、豊かな言葉を持とう、というのはよく分かるし、多くの人にとって有効な処方箋足りうるのだと思う。しかし、歴史や物語を享受する事が困難になった社会では、多くの人がイメージする歴史や物語に馴染めなかったり、そこにあるはずのレールから外れてしまう人、そういう状態で子供時代を過ごしてしまう人も多数生まれてしまう。また、そういう人の一部が加害者になってしまったとも言えるように思う。

だからこそ、氏の言う「妄想から物語へ」がより重要になってくると思うのだけれども、その間には大きな溝がある。その溝を埋めるためには、まず、そういう外れてしまった人が接続できるような物語やリアリティとはどのようなものか、その行方を示そうとする本書のような試みが必要になってくるのだと思う。

受動と能動 肯定と選択

 
今まで、歴史と物語は教育されるもの、そこにあるものを受け取るもの、であったのかも知れないが、それをそのまま受け取ることが難しくなっているのがポストモダンの世界である。
だとすれば、まずはそこの認識を変える必要があるのではないか。

彼らの作品は、このゲーム的でメタ物語的な想像力に満ちたポストモダンの世界において、特定の物語を選ぶことはどのような意味を持っているのか、という共通の問いへの回答を抱えている。(p.282)

そこで三人目は、選択の根拠づけを断念し、とりあえずは目の前の世界を肯定することを選ぶ。(中略)一人目や二人目と異なり、あるいは「ゲームのような小説」を否定した大塚と異なり、世界の多数性の認識がこの世界の肯定を妨げるとは考えない。(p.285)

私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている、そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そして他の物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読む限りでの、「九十九十九」の一つの結論である。(p.287)

この引用分もまた、ポストモダンにおける在り方の一つを暗示しているに過ぎないのだと思う。
だけれども、歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

そして、そういった態度を肯定するような建築の在り方というものもきっとあるはずだと思うのである。




建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他)

坂本 一成,岩岡 竜夫,小川 次郎,中井 邦夫,塚本 由晴(著)
実教出版 (2012/3/1)

別のところで書いたけれども、読書記録には上げてなかったので再度簡単にまとめてみる。

内在化と逸脱

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる

読み取る人によって程度の差はあれど、この内在化の度合い、逸脱の度合い、サイクルの回転数は図面や実際の建築物にはっきりと現れ、感じ取られるもので、その建築の出来に大きく関わるものだと思う。

エスキス

ただ、実際にはこのサイクルを回すのは結構難しいと感じている。特に観察/分析の部分。

内在化・分析・逸脱のうち、内在化は普通に条件を整理して、それに対してアイデアを練っていけばある程度達成できると思うし、逸脱のために、例えば、レトリックを用いたり予め逸脱のためのルールをインストールしておく、といった手法をとることもイメージしやすい。

だけど、逸脱の前の観察/分析の部分はかなり意識的に行わないと、なかなか発見的な分析というものはできないし、そのための時間を確保することも難しいように思う。単純につくること(内在化と逸脱)とは頭の使い方が違う気がするし、技術や知識、経験も問われるし、時間を省略しても一応の建物は建ってしまう。

この辺が課題なんだろうな。自分でエスキスチェックする能力が不足してるのだ。だけど、どうやったらいいんだろうか。

たぶん、他の人のものや、だいぶ前にやった仕事を観察/分析して意見を述べよ、と言われたらある程度はできる気がする。なので、自分の中で違う人格を用意するといいのかな。もしくは、複数の人でエスキスしあうか。
そう言えば、これまで、自分の仕事を先生や上司、その他他人に見てもらって構造化や批判をしてもらう、っていう経験が圧倒的に不足したままここまで来てる気がするなー。

メモ

このような建築の内在的な構造は、比喩的にいうならば樹木が重力や太陽との関係をその成長の原動力としていることと似ている。[…]したがって、樹木の構成にも重力や太陽を媒介した構造―そのために重力や太陽に対して常に実践的でありうるような―が内在化されているのである。これと同様、建築の構成における重力や動線を媒介にした構造は、それを無視してしまえば建築空間が成り立たなくなるがゆえに本質的であり、内在的なのである。(p016)

したがって、タイプの有効性が建築を分析することに限られてしまう。これに対して、ある構成形式の範囲で繰り返し用いられるものとして説明される建築のタイプは、逆にまだあまり試されていない構成形式の可能性を、形式的な想像力によって開くことができるので、分析のみならず創作的な思考にとっても有効である。また、タイプにおける要素の選択と配列の関係を定形として、要素を変え、配列を変えることで、慣用的な関係を強調、逸脱、あるいは違反し、その階層での構成形式を新たな文脈に位置づけ直すこともできる。これにより全体と部分の関係を不安定にしつつ、新たな均衡状態や緊張関係を見出すことによって、建築の意味作用を活性化することが、構成による修辞である。(p.019)




建築ならざるものからはじめてみよう B213『人の集まり方をデザインする』(千葉 学)

千葉 学 (著)
王国社 (2015/8/1)

基本的にはこれまでの論考を集めたもの。本のタイトルは書き下ろしのタイトルと同じ『人の集まり方をデザインする』となっている。

最後のピース

タイトルから抽象的な内容が多いのでは、と思っていたけど、具体的な作品をベースとした論考(もしくは解説文)が中心で、建築的思考の王道を見てるようで安心して読めた。

最近は、雑誌の作品解説文を読んでも、抽象的な問題設定からいきなり具体的なものに跳んでしまっている印象を受けることが多いけれども、それらをつなぐ、ちょうどその間が丁寧に語られている

安心して読めることが良いことだとは限らないけれども、抽象的な問題設定と具体的なものの間を埋めることがおそらく建築なのである
そして、自分は最後、ものへと結びつけるような思考が弱いと感じている。
問題設定からものの近くまでは寄れるけれども、最後、ものへとつながるピースがなかなか埋まっていかない。

そういう点で久しぶりに建築を強く感じた本だったけれども、結局の所は、最後のピースはその時その時に必死に藻掻き、試しながら探し続けるしかない、というのを再確認することになったように思う。

人の集まり方 他者性 開かれた自由

間が語られていると言っても、まず共有もしくは考えるべきは、この本のより上流のメッセージのはずなので、それについて、少し考えてみたい。

だから建築が、そこに期待されるコミュニティや社会にとって最も相応しい人の集まり方のデザインとして構想されていくことは、建築の普遍的なテーマであると思うのである。(p.12)

だからこそ、この「他者性」を計画する、という難問を克服するしか方法はないのではないかと思うのだ。極めて動物的な臭覚を頼りにした上で見えてくる人の集まり方に対する観察を深め、それを「他者性」を前提に計画する建築との相関の中に見出していく。そうすれば、単に丸いとか四角いとか、幾何学的とか有機的であると言った短絡的な類型を超えた新しい建築のあり方が、流動化する世界に便乗することのない新しい建築の形式として見えてくるのではないかと思うのだ。そうすればきっと、この動かしがたい建築が、まるでテーブルと椅子を自由に並べ替えるかのように、本当の意味で開かれた自由を獲得することになるのだろうと思っている。(p.22)

出てくるキーワードをつなげると、人の集まり方の自由が、本当の意味で開かれた自由へとつながる。そして、それは他者性を前提として見出されていくもの。となるだろうか。

人の集まり方を主要なテーマとすることによって自由と向き合う道筋をつくる、という点が自分にとっては新鮮で少し目の前が開けた感じがする。建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。

建築は人の集まり方を含めた様々な自由に対して、それらをどうしても規定してしまうものだが、それを避けるにはできる限り他者であろうとすることが重要である。
それは、建築の自立性や地形性として『deliciousness おいしい知覚』の「おいしい距離感~建築の自立性と自律性」「おいしい地形~原っぱから洞窟へ」のところで考えてきたことでもある。(詳細はリンク先を)

ゲームのような建築について 近代からの脱出

この時参照した、青木淳氏の「原っぱと遊園地」に関して、建築討論に浅子佳英氏の『「ゲームのような建築」序説 ─── 青木淳論』という興味深い記事がアップされた。
まだ序論のβ版なので、論の続きがあると理解した上で、自分自身がうまく消化できていないので少し考えてみたい。

onokennote: 個人的には青木淳はゲームとしての建築をつくろうとしてるんじゃなくて、ゲームをするように建築をつくろうとしてるんじゃないか。ゲームは目的ではなく手段。という気がしている。 [2019/03/09]


onokennote: プレイヤーは青木淳であって、利用者はそのゲームからも自由になれることが目指されているんじゃないか(そこで遊ぶかどうかは勝手)。ルールは作り手の側に要請されるものであって、本来利用者にはその存在を意識されるべきものではないのではないか。 [2019/03/09]


onokennote: と、今は感じているけれども、もしかしたら僕の主体像の更新が遅れているだけで、利用者もゲームもしくは遊びからは逃れられないのかもしれない。 [2019/03/09]


onokennote: ただ別様でもありえた、という状況を生み出すために、(別様でもあり得る)ルールが要請されると思うのだけども、その別様でもあり得るというところにゲーム性を見るのであれば、利用者はそれを「理解した上で、なおその世界に没頭して遊ぶ」ことがポストモダンの作法なんだろうな。 [2019/03/09]


onokennote: あっ、ちょっとつながってきたかも。主体像の更新というのはそういうことか。な。[2019/03/09]


少し前にツイートしたように、ざっと読んだだけでは青木淳氏とゲームのような建築の結びつきをうまく消化できなかったのだけど、この論が青木淳氏の建築論とともに主体像の更新を図るものである、と考えると自分の中で少しつながった気がした。

それでも、まだ少しすっきりしないものが残る。
単純にこれまでのゲームを素材とした議論にあまり触れてきていないせい、ということもあると思うけれども、それはおいおい追ってみるとして、今考えられる範囲で何がすっきりしないかをもう少し考えておきたい。

ゲームのような建築は他者足りうるか。それは建築が主体の側に主体としての在り方・作法の更新を強いることになりはしないか。
また、果たしてそのような作法を持ちうるか、もしくはそのような主体としての振る舞いを導くような建築というものがありうるか。
それは時代を超えた普遍性をもちうるか、もしくはそういう普遍性は必要ない、ないしは普遍性の概念を更新すべきなのか。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。

前回読んだ本、

モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。 エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B212 『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』)

(理解に乏しいのでおそらくだけど)モートンは「モダニティからの脱出」は可能といい、リアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当てる。そこではあらゆるものがフラットに捉えられる。

先の疑問には、外部に主体に働きかける環境があり、その環境を改変すれば主体の側を変えることができる。そこには何らかの構造が存在し、概念のフレームを用いて解き明かすことができる。そんな思考の枠組みがあるのではないか。人間中心主義ならぬ建築中心主義とでも言えるような枠組みに囚われているのではないか

つい、物事を構造的に捉えて建築の側からみてしまう、という枠組みから逃れるよう、(モートンの「人間ならざる存在」「自然なきエコロジー」になぞらえて)「建築ならざる存在」「建築なき建築論」とでも言えるような所からはじめて見てもよいのかも知れない

そうすると、先に「建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。」と書いたように「人の集まり方をデザインする」に戻ってくる。

建築そのものよりも、まずは主体の在り方をフラットな視点で捉えることが先決なのだ。

そう思いながら、自分の子供達の現況や未来を考えると、原っぱはますます希少になっていき、遊園地ばかりの状況を生きていくことは容易に想像できるし、かなりの部分はすでに遊園地である。
そうであるなら、原っぱを経験することも大切だけども、遊園地ばかりの状況を楽しくサーフィン(古い?)するような作法を身につける必要がある。というよりは、もはや遊園地なんて僕らにとっての原っぱくらいの存在へと脱色していきながら、そこでそこそこ楽しく過ごしていく作法を当たり前に身につけていくのかも知れない。

消化してみたいといろいろ考えてみたけれども、結局、浅子氏の主張は

自身の常識を疑い、学び続けること。 個人としても集団としても複数の世界を生きること。そしてそれを楽しみながらできる状態をつくること。(「ゲームのような建築」序説 ── 青木淳論 – 建築討論 – Medium)

この文と文の並びに凝縮されているように思う。

最後のピースがなかなか見つからないのは、まだ建築に意識が向きすぎているからかもしれないな。

 
(余談だけど、「人の集まり方をデザインする」が「モダニティからの脱出」に(たぶん)つながったように、現代の建築について真剣に交わされる議論のほとんどは、ポストモダンな今に真摯に向き合って生まれたものだ、というのは割と信用しています。)

メモ

以下忘備録的メモ

つまり常に特異点でしかあり得ない建築の個別性を考えながら、同時にその建築がどこにあっても成立しそうな形式性を備えていること。あるいはどんなプログラムに対しても柔軟に対応できそうな冗長性を備えているという事象を強引に結びつけることに、これからの建築の可能性を見ようとしたのである。(p.69)

つまり建築に置いても、4つ目のsite determinedはあり得ると思ったし、それは、僕が「そこにしかない形式」という言葉に託して伝えようとしていたこととほぼイコールだと了解したのである。(p.72)

常に新しいツールを発見しながら、都市や自然に対する解像度を高め、そこから得られる情報を身体化するという基本的な「技術」の研鑽が、今あらためて必要なのではないかと思うのだ。(p.146)

このような都市への構え、つまり自らのプライベートな居場所を守りつつ、その場所に住んでいるという実感を獲得するという相矛盾した欲望を両立するような住宅は、実は僕にとっての理想的な住宅のあり方に近いのではないかと思っている。(p.155)

人間の身体を尺度に地形のような建築をつくる。このようなスタンスは、実は居住環境に限った話ではなく、近代合理主義的建築、ビルディングタイプ的思考に縛られた建築を脱する新たな方法にもなるのではないかと思っている。(p.162)




あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
以文社 (2016/12/12)

『公共空間の政治理論』を読んでから気になっている著者が気になっているというティモシー・モートンの思想を紹介するような内容。たぶん、自分も何かしら感じるものがあるだろうと思い読んでみた。

あらゆるものが、ただそこにあってよい

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(p.212)

この本を読みながら、最近SNSでよく見かける門脇邸のことが絶えず頭に浮かんでいた
と言っても、門脇邸を実際に体験したわけでもなく、SNS等でいくつかの感想や写真を目にした程度である。
どうやら、様々なエレメントがそれぞれがそれぞれとして振る舞い、そこにいても良いと感じさせる何かを生じさせている。らしい。

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある

あらゆるものが概念とは関係なくただただ、そこにある。そこにあってよい。

著者はそういう姿勢や空間に自分の居場所の感覚を重ね合わせているように感じたけれども、そこで生じた見逃しそうな小さな感覚を、しつこく、丁寧に言葉にしていこうという姿勢にはとても共感する。

また、建築という概念がフレームになるとすればそれ自体がブラインドになってしまうのだろう。そうならずに建築を追い求めるというのはどうすれば可能になるのだろう
この問いは、エコロジーという概念とモートンが目指すエコロジーとの関係にも重なる気がする。

とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。




ルールをアップデートしながらインストールし続けよう B210『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』(藤村 龍至)

藤村龍至 (著)
TOTO出版 (2018/8/22)

ギャラ間の展覧会に合わせて出版されたもの。

表紙から始まる序文もしくは宣言文は、全文を暗唱したくなるほどの密度に凝縮されている。

現代的課題の知識化とかたちの提出

序文では、

コンテクストが流動的で読めない状況が訪れた時に、それと形とのミスフィットを取り除くにはどうすればよいか
建築が民主主義と大衆主義のあいだで揺れている中、世論や市場の暴力に抗い、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか

というような課題が挙げられている。
今は新国立競技場や豊洲市場のごたごたに象徴されるような暴力的な状況に、いつ、どのような形でさらされるか分からないような時代である。
そのような中で公共的な仕事をする際は、これらの課題はもはや前提として考えなければいけないものになっているように思う。

しかし、自分は頭では「もはや前提として考えなければいけない」とは思いつつも、それに対応する展開可能な言葉を見つけられていなかった。

本書は、そんな現代的課題に言葉を与えて知識化し、それに対して方法論のかたちで応答する。
序文での

多様性を認め、寛容な社会の実現を信じて、より多くの知識が集まれば集まるほどより良いものができる、と言い切ることに挑戦するべきではないだろうか。(強調引用者)

その作業をより多くの人で行い(中略)集合的な知をかたちづくる方法論へと展開し、建築を社会のさまざまな課題解決に向けた、創造的な知のツールとして再定義したい。(強調引用者)

という宣言的な文章はとても力強く感じたのだが、おそらく、本書全体(もしくは氏の試み全体)が、社会がより良くなろうとするサイクルの一つのプロトタイピングなのであり、読者はそれに対して、自分なりのフィードバックとプロトタイピングによって、大きなサイクルへと参加することを求められているように思う。

ルールのインストール

ここで、問題を少し手元に引き寄せてみる。(毎度、スケールの小さな話になってしまうわけだけど。。。)

先に挙げた状況・課題はおそらく公共的な仕事に限らず、例えば個人住宅のようなものにも忍び寄っている。
テレビや雑誌だけでなく、インスタグラムなどのメディアから大量に、そして個人の嗜好と強く結びついた形で流れてくる情報は、流動的かつ暴力的な形でコンテクストの一部を形成しつつあるし、それに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか、というのはますます大きな課題になっていくように思う。

では、どうするか。

建築にどのような意味と価値があるか、もしくはどのような意味と価値を持って欲しいか、というのはDeliciousness / Encounters おいしい知覚/出会う建築としてまとめてみた。
しかし、カードをつくったり評価シートをつくったりしてみたものの、それらの多くはどうすれば実装できるかがまだ分かっていない、というのが現状である。

さて、本書では、0.00の序文から10.0のあとがきまで、ステップを踏みながら手法がアップデートされているのがよく分かる構成になっているけれども、それは単線的に変化していると言うよりは、複線的なもので、過去のルールに調整を加えながらも新しい要素を扱うためのルールを次々にインストールしていっているように見える。(それは、超線形的で、あたかもBuilding Kの世代とルールの表のように。)

さらに、そのルールは最終的なかたちを直接操作するためのもの、というよりは、そのルールによって自ずと建築に新たな意味や価値が加えられていくようなルールである。

河本英夫が『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』で、自ずと形成されていくようなシステムの生成プロセスについて幾つもの例を出して説明している。
例えば、時速90kmほどで飛び出すスキージャンパーが飛距離を伸ばすために「踏み切りを少し早く」しなければ行けない場面で、

数々のオリンピックメダリストを育てた八木弘和コーチは、飛び出すとき、たとえば100メートル先を見ている選手に対して、「100メートルの10センチ先をみるように」という指示を出すと言っている。「早く踏み切れ」と言われても、どうすることなのかがわからず、むしろ緊張が出て逆効果になるような場面では、本人自身の中にある選択肢を活用する以外にはない。

というようなことを書いているが、藤村氏が導入するルールも、選択肢を制限すると言うよりは、制御可能な選択肢の幅を広げ、結果として自ずとあらたな「かたち」へと向かうようなルールであるように思う。それは、多くの人の知恵を、というところから求められたものであると同時に、このようなルールの採用が、多くの人の知恵を、という思想を導いたのではないだろうか。


建築に「このような意味と価値を持ってほしい」と願うだけではだめで、それが自ずと実現するようなルールを考えて、設計手法の中に一つ一つインストールしていかなければならないのだろう。
そのようなルールを具体的に考え出し、実装できた人がいわゆる建築家と呼ばれるのかもしれないけれども、自分に足りないのはこの具体性なんだろうな。
ようやくスタート地点に立った感じ。

「流動的かつ暴力的な形で形成されるコンテクストに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか。」という問いに対してはどうだろう。
例えば、それを一つの要件として、選択肢の幅を拡げてくれるようなルール・設計手法の中に取り込んでしまい、新たなかたちへと形成されるようにしむける、というようなことが考えられる。

やっぱり、ルールのインストールを急がないと飲み込まれてしまいそうだ。




探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明)

中村 明 (著)
東京堂出版 (2007/9/1)

10+1ウェブサイトの寄稿文、
10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト
を読んで気になったので勢いで購入。

onokennote: 文体・レトリック辞典、勢いでポチっちゃったよね。工学部だった、というのもあるけれども、意匠に関わるこの手の話が大学教育で全く触れられなかったのは今でも不思議。当時は雲をつかむ様だった(今は違うのかもしれないし、大学生なら自分で学べ、ということだったようにも思う。) [2018/04/10]


onokennote: 実感としては妹島さんくらいからレトリックによる微細な違いを競うことが主流になってる気がする。当たり前に、それこそが建築であるための入口、みたいな気になっているけれども、それが思考を限定していないか、という気もする。 [2018/04/10]


onokennote: 一定の振れ幅の中に納まる予定調和的なものが建物で、それからはみ出して、何らかの意味・とっかかりを生み出し、人に働きかけるものが建築だとしたら、レトリックの違いに建築としての魅力を感じるのも当然なのかも知れない。(思考の順序が逆かもだけど) [2018/04/10]


そして辞典が届く。

onokennote: 辞典届いた。ほんとに辞典だった。体系に添って並んでいた方が分かりやすかった気がするけれども、このボリュームを順に読み通すのは先が長いので、50音順の方がランダムに気ままに読むくらいで良いのかも知れない。 [2018/04/16]


味わいの型・探索の型としてのレトリック

その際、建築家が設計において意識していた思想や手法、発言などは、ここで一度括弧に入れる必要がある。私たちが目を向けるべきなのは、建築の物としての側面である。なにより、レトリックはつねに事後的に発見されるからだ。(10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト)

 

onokennote: レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。 [2018/04/16]


onokennote: 設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。 [2018/04/16]


onokennote:
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。 [2018/04/16]


onokennote: ある方向で設計が上手い人って、やっぱり目の前のものから何かを発見する力に優れているんだと思う。一人事務所だと、目の前のもの(例えば図面)の多くが自分が関わったものだったりするから、新たに発見して設計サイクルを回すのが難しい。 [2018/04/16]


onokennote: だから、技術・手法にすがりたくなっちゃうのかなー。僕は今の三倍くらいは同じ密度でサイクル回せないといけないんじゃないか、という気がしてる。(ということはワンサイクルあたりのスピードを上げないといけないし、密度を落とさないための発見する技術がいる。) [2018/04/16]


レトリックを創作のための直接的な技術ではなく、探索の精度を上げるための型、だとした場合、サイクル型(超線形?)の設計態度において効力が発揮されるように思う。
では、直接的な創作の技術としてはどうだろうか。

おいしい技術

レトリックを「新しい仕方で環境と関わりあう技術」とした場合、例えば次のようなことが考えられそうである。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ここでいう技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。(それが集団的・歴史的に蓄積されて共有される技術となる。)
人間は環境との関わりの中から技術を獲得していく点で他の動物に比べて突出している。技術そのものが意味と価値の獲得であるから、おいしい技術というよりは技術はおいしい、と言ったほうが良いかもしれない。
(中略)
では、建築においておいしい技術の知覚はどのように考えられるだろうか。いくつか列挙したい。
一つは意味や価値の重ねあわせである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。
あるいは保留。意味や価値がそのまま発見されるような環境を計画するのではなく、意味や価値を内包する環境が生まれる状況そのものをセッティングするという態度に留める。建築は全てを計画し切ることは難しいし、生活の中で不意に訪れる意味や価値の発見は、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多い。
例えば、ある状況のもと何らかの知覚と行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな意味や価値を内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば積み重ねられた技術を知覚する悦びである。
もう一つはずらし。意味や価値とその現れをずらしたり、曖昧さを残すことで、その意味や価値に焦点が絞られ固定化することを回避する。固定化してしまえば意味や価値との出会いの悦びは低減する。ずれや曖昧さはその悦びを継続的なものにしないだろうか。

ここで言う重ね合わせ、保留、ずらしを303の修辞技法の一つで表すとすれば、重技法、沈黙法、換喩、であろうか。
人間にとって、知覚そのものに意味や価値があるという立場をとった場合、レトリックはその意味や価値を際立たせる手法として有効に違いない
これは、坂本一成がの「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」と重なる気がする。

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

おそらく、この象徴へ到達するには、それが浮かび上がってくるまで、探索・調整のサイクルを回すことが有効だと思うのだけれども、もっと直接的・演繹的な設計技術に連なる、建築の修辞学としての建築構成学というものもありそうだけれども、これについては次回改めて。

自分もたまにこの辞典をぱらぱらとめくってレトリックと建築の間で空想してみたいと思うけれども、(先人がいるので)303の修辞技法を網羅するまでのモチベーションは持てそうにないし、そこまでの引出しはなさそう。

立石氏が303をコンプリートした暁には、建築の修辞学として是非書籍化して頂きたいところです。
(氏がキン肉マンを読んだことがあるのか。というのもちょっと気になる。)




あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)