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知覚のよろこびと、場所への信頼 B247 『あらゆるところに同時にいる:アフォーダンスの幾何学』(佐々木正人)

佐々木 正人 (著)
学芸みらい社 (2020/3/24)

ここのところ、移動時間などに何冊も読みためていたのだけど、忙しすぎてなかなかこちらに書く余裕がなかった。
ようやく、少し落ち着いてきたので順番に書いていきたいと思う。

あらゆるところに同時にいる

久々に佐々木正人の著作を読んだ。

本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once,Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の後半に二度書いたフレーズである。
何を意味しているかわからなくて、気になり、この本を繰り返し読んだ。かなりして、この一文は、彼がたどり着いた思想を、いっきょに示していることが分かった。 (p.6)

著者はこのフレーズが示しているであろうことを、本書を通じてじっくりと浮かび上がらせようとする。

この「二度書いた」とはおそらく下記の2つのことであろう。(『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る(THE ECOLOGICAL APPROACH TO VISUAL PERCEPTION)』より)

十分に広がった経路群で十分に長い時間にわたって、移動する観察点で外界を見ることによって初めて、あらゆる場所に同時にいられるかのように、すべての観察点で外界を知覚していることになる。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.211)

個体は環境に定位する。それは、地形の鳥瞰図をもつというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということである。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.214)

この部分は私も気になり、以前、考えをまとめる際に引用している。

また、探索的移動によって動物は環境に定位できるという。それは、地形の鳥瞰図を意識の中に獲得するというよりは、環境内の不変項の抽出を通じて「あらゆる場所に同時にいる」ような知覚を得ることである。(その中で、現時点で見えるものは自己を特定する。)(おいしい移動 ~あらゆる場所に同時にいる|オノケン(太田則宏)|note)

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。 この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-五 移動―私のいる空間が私である)

「あらゆるところに同時にいる」

これは、ギブソンの思想を表すとともに、自分が建築を考える上での原点とも言えそうである。

自分が20代の頃に書いたメモのようなものを見ると、「私のいる空間が私である」「廻遊性」「敷地」「想像力」など、「あらゆるところに同時にいる」ような感覚に対する意識が強かったことが分かる。

知覚のよろこびと、場所への信頼

あらゆるところに同時にいること、言い換えると環境への定位には、知覚することのよろこびと、場所に対する信頼がある。

このことと、私がスキップフロアを多用することや、私自身が極度の方向音痴であることとはおそらく関係がある。

思えば私の建築への入口は、知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感から始まっている。

その違和感から抜け出そうとした先で、ギブソンの「あらゆるところに同時にいる」ことを示す理論に偶然出会ったのだ。

知覚はタイムレス

この本の中で一つ、ピンとこないところがあった。

視覚は、一つの種類の持続ではない。見ることは、見ることがある限り、見ているあいだ続いている。視覚には時間がない。タイムレスである。(p.34)

ここでいうタイムレスとはどういうことだろうか。

古典的な視覚論は、目で捉えた光の刺激を脳が一つの像として処理する、というもので、一瞬の像の連続と考える。そこには過去・現在・未来と流れる時間がある。

しかし、定位の感覚はこの一瞬の像のみによってその都度生まれるものではなく、移動を伴う絶え間ない探索と並走する形で生じる。
目の前に過去・現在・未来と流れる時間のうちから切り取られた一瞬の像があるというよりは、時間を超え、場所・空間そのものと結びついた感覚として環境への定位があるのではないだろうか。

そして、時間を超え、場所・空間そのものと結びついている、まさにそのことによって、場所に対する信頼と、それをベースとした知覚することのよろこびが生まれるのではないか。

そうだとすると、「知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感」から抜け出すためのヒントは、「あらゆるところに同時にいる」こと、すなわち環境への定位にある。

そして、そのために、環境の一つである建築を意味や価値との出会い、アフォーダンスに満ちた場にしよう、言い換えると定位するためのとっかかりとなる情報に満ちた場にしようというのは、私の建築への入口から考えると、たどり着くべくしてたどり着いたように思う。それは簡単に言うと、近代化・工業化を目指す社会がそういうとっかかりを、やっきになって消し去ろうとしてきたことへの反省もしくは抵抗なのである。




本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)

田中 淳夫 (著)
新泉社 (2019/8/6)

日本の森林面積は日本の国土の67%、約3分の2が森林である。(H29年)
林業の持つ可能性は計り知れないものがあるに違いない。と思うけれども、どうやら問題は山積みらしい。
建築の業界にいながらも、林業のことはあまり分からない。ということで読んでみた。

絶望の林業と希望の林業

補助金漬けで進むべき道が見えない業界、危険な労働環境、持続可能な思想とシステムの不在、木を知らない山主と険しい地形、価格を下げ続ける木材利用。
噛み合わない林業の状況を描いているが、『絶望の林業』というタイトルとは裏腹に最後の章は「希望の林業」で締められる。
著者が描きたいのはおそらく希望の方なのだろうと思う。

ここまで現代の日本林業が絶望的な状況にあることを記してきた。それは目の前の森が荒れているとか、人手が足りていないから作業が行えないとか・・・・・そういった次元ではない。もっと、根本的に・構造的に産業としての体制が整っておらず、自然の摂理にも従わず、政策が誤った方向に進んでいるのではないか、という危惧から感じた状況である(p.250)

著者の描く「理想の林業」は現在の「絶望の林業」の裏返しである。目指すべきは「利益を生み、それが森に再投資されるような持続性をどう手に入れるか」につきると思うが、それのベースとなるビジョンや信念の不在こそが一番の問題だと感じた。それは、持続性そのものに対する感性を失ってきた結果であり、何かもっと本質的なところまで遡って再確認していく必要があるのではないだろうか。

(ちなみに、『森林で日本は蘇る~林業の瓦解を食い止めよ』も合わせて読んでみたが、こちらは「日本は蘇る」というタイトルとは逆に、絶望成分がやや多めに感じた。
 どちらの本も林業に対する強い思いを感じたけれども、それゆえに無念さも感じる。)

白井 裕子 (著)
新潮社 (2021/6/17)

身近に感じることの必要性

といっても、林業のことがよく分かったかというと、ますます分からなくなった気がする。

自然が相手であり、問題は、日常生活・日々の経済活動より長いスパンでの思考を必要とする根本的な世界観に関わるものである。
経験に基づかない数冊の読書だけではやはり理解に限界がある。

仕事の中でももっと関わる機会をつくる必要があるように思ったし、国レベルでの先行きを考えるよりはまず、自分が関われるような小さな持続性を考えることから始める必要があるように思った。

国レベルで持続的なビジョンとそれに基づく政策を示すことは間違いなく重要だと思う。けれどもその前に、林業という枠から外れても、小さな変化の積み重ねの中から森(自然)の可能性を再発見しながら、本質的なところへ遡っていく感性を築いていくことが必要ではないだろうか。

数学者が生活の変化を楽しむように




宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)

藻谷 浩介 (著), NHK広島取材班 (著)
KADOKAWA/角川書店 (2013/7/10)

10年近くも前の本であるが、これまでの流れからようやく手にとって読んでみた。
あまりじっくり書く時間がないけど、先に進みたいので簡単にでも書いておきたい。

スイッチを入れる

里山資本主義に関する部分を引用すると、

里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。(p.102)

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決定するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。(中略)森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。(p.121)

とある。
この、「マネー資本主義」に対するサブシステム的な距離感が共感を得やすかったのかもしれない。

さまざまなアイデアで、地域の課題をつなぎ合わせて解決するような仕組みをつくる「熊原さん」を紹介する際、この仕組みを「装置」と表現した場所があったが、その時、頭の中で、ピタゴラスイッチのフィニッシュの時の音楽が流れた。
この本で紹介される事例は、地域の中に眠っている人や自然などをつなぎ合わせる回路を発明することで、もともとあった価値を顕在化するようなものが多く、それはスイッチを入れるようなこと近いように感じた。
停まっていた時間を、常識を少しずらしてつなぎ合わせることで再び動き出させる〇〇スイッチ。
そんなイメージが頭に浮かんだけれども、まだぼんやりしたものなのでとりあえずメモ的に残しておこうと思う。

見渡せば宝の山に見えてくるが

もう一回生活を見直してみる、そういう時代なんじゃないかと思います。すごく今みんな不安に生きている。もっと恵まれた自然を活用というか、目を向けていけば、もっともっと資源がある、宝があるんじゃないかと思います。(p.53)

この本で紹介されているオーストリアの林業や、岡山県の製材所の事例、前回の里山の暮らしを読んだあとに、鹿児島市から離れて山に囲まれた地域を移動すると、周りの景色が宝の山のように見えてくる。ここにどれだけの資源・可能性があるんだろうか。

しかし、実際には自分にはそれを活かす知恵も技術もつながりも、見定める目も持ち合わせていないことにすぐに気づく。
田舎で育ち、多少はそういうことに触れながら育ったとはいえ、今はそこから切り離されて手元に何も残していないような生活にどっぷり浸かっているし、ものをつくる仕事でありながら、モニターの前で過ごしている時間のほうが多い。

これでは、宝の山に見える絵をただ眺めているようなもので、そこからリアルな宝を見つけ出す解像度は得られない。

さてさて。続編も買っているので読んでみたいけれども、リアルさを手元に引き寄せることも考えないといけないのかもなぁ。
そのためにはもう少し時間に余裕を持たなければ。




物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

高野 雅夫 (著)
ヘウレーカ (2021/8/20)

「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

「自然(じねん)」について

著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

(ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

子どもたちへ

先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

そう考えると少し心もとない。

森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。




進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)

ギヨーム・ピトロン (著), 児玉 しおり (翻訳)
原書房 (2020/2/29)

前回の記事に関連してレアメタルについて興味を持ったので読んでみた。
訳書は相性が悪いと読みづらく感じることも多いけれども、この本はテンポの良い文章でとても読みやすかった。

著者はフランスの地質地政学を専門とするジャーナリストで、レアメタルを巡る世界の情勢(特に中国)と各国の置かれた立場(特にフランスとアメリカ)を様々なデータや証言をもとに描き出す。

ある程度は知られてきている内容かもしれないけれども、私には新鮮な内容も多く(こう言ってよいか分からないけれども)とても面白かった。
今後、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換が必須であるが、その負の側面や不安定さを認識する上でも必読の書だと思う。

レアメタルに依存する世界と負の側面

エネルギー転換とデジタル転換に必要な技術は、様々なレアメタルなしでは成り立たない。

埋蔵量がレアというよりは、鉱石に含まれる量がほんの僅かで、精錬するのに大量の廃棄物を出す。(この本では丸型のパンから、パンを作るのに加えた塩ひとつまみを混じり合った状態から取り出すようなもの、というように比喩している。)
前回書いたように、その生産には大量の水やエネルギーを必要とし、重金属を垂れ流し、労働者に劣悪な労働を強い、生態系を破壊する。
さらに、今後、エネルギー転換とデジタル転換を果たしていくためには、30年間で、人間が7万年来採掘してきた量(過去2500世代分)以上の鉱物を採掘しなければならないという。(そんなことが可能なのだろうか)

我々が欲しているクリーンなエネルギーは、思っているほどクリーンではないし、その生産のために見えないところでかなりのCO2を排出している。

エネルギー転換とデジタル転換は単なる理想郷ではなく、犠牲を伴うものであり、多くの問題を転嫁し不可視化しているということは理解する必要がある。
そこを見失えば、期待した成果は得られず、新たな危機に直面するだけ、ということになりかねない。

中国が握る世界

また、この資源が全人類に平等に配分されるとは限らない。

レアメタルの多くは中国が押さえており、他の開発途上の資源保有諸国も中国に習い資源ナショナリズムが浸透しつつある。

さらに、中国は資源だけではなく、それにまつわる技術や製品の製造まで押さえつつある。
そのシナリオは、
・中国が環境規制の緩さや安い人件費などをもとに、レアメタルの価格を下げていく。
・各国が自国の資源ではなく、安い中国産の資源を買うようになると、先進国にもともとあった鉱山は採算が合わなくなり、閉山へと追い込まれ、自国で資源を確保できなくなる。ダーティなレアメタルが価格を下げ、(比較的)クリーンなレアメタルを駆逐する。
・中国は、安い資源の確保や人件費、広大な土地などを餌にして、採掘のできなくなった先進国の工場を誘致し、資源の採掘だけでなく、製品の生産まで行う技術を手に入れ、バリューチェーンのすべてを手中に入れる。
・先進国は、それによって資源の生産方法とそれにまつわる技術、そして多くの雇用機会を失う。
というものだ。

今や、中国は資源や部品だけでなく、多くの製品を製造できるようになっている。アメリカの軍隊でさえ、中国の部品に頼らざるを得なくなってしまっている。
そして、中国は資源の流通量や価格をコントロールできる立場にある。(「フランス人はブドウは売らないが、ワインは売りますよね?中国人はレアアースをフランス人のブドウ畑のように思っているのではないでしょうか。」つまり、資源は売らずに高付加価値な製品を売りつける!?)

2010年、尖閣諸島の問題で、中国から日本へのレアアースの輸出が滞った時のパニックを覚えている人も多いだろうし、まさに今、(中国に限らず多様な要因があるにせよ)建築分野でも、給湯器や便座、照明その他様々なものが入荷未定、もしくは生産中止の状態になっていることで、いとも簡単に足元が揺らぐ地盤の不安定さを実感している最中である。

矛盾した世界を生きる

今、脱炭素化をはかるためにエネルギー転換とデジタル転換は必須である。しかし、そこにはたくさんの矛盾があり、不安定な足場を歩かざるを得ない。
進むも退くも、どちらも茨の道だ。

矛盾のいくらかは新たな技術の開発によってクリアされるだろうし、そこは期待するしかない。

しかし、今の生活様式を改めることなしにはこの問題はどこまでいってもイタチごっこで、いずれは破綻を迎えるのではないだろうか。
エピローグの「産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。」という言葉に凝縮されているように、われわれの認識を変革する以外に道はないように思うが、それはいったいどのようにすれば可能だろうか。

一旦変革が始まり、常識が塗り替えられれば案外早い気もするけれども、そのために、何を捨てなければならないか。それを見極め決断・共有することは避けられないのではないか。
いや、捨てるということを、前向きで嬉々として取り組めるようなものへと変換する、魔法のようなメッセージの発明が必要なのかもしれない。

メモ

第1章

この「グリーンテクノロジー」は人類を第三のエネルギー革命・産業革命に導き、世界を変えようとしている。(中略)その資源は、21世紀の石油、「ザ・ネクスト・オイル(次の石油)」とすら呼ばれている。(p.10)

エネルギー転換を進めれば、15年ごとにレアメタルの生産を倍にしなければならない。人間が7万年来採掘してきた量以上の鉱物を今後30年間で採掘しなければならない理由のひとつがそれだ。(p.18)

化石燃料から開放されて、古い制度から新制度に転換することは、結局は以前より強い新たな依存を生み出しているのである。(中略)しかし、未来の世界を前代未聞の別の欠乏や対立や危機に置き換えようとしているだけなのだ。(p.19)

1tのレアメタルを精錬するには少なくとも200立方メートルの水が必要な上、使用後の水には酸や重金属が多く含まれる。その水は川や土壌や地下水に放出される前に浄化施設を通るのだろうか?それはまれだ。(p.33)

第2章

1枚のソーラーパネルを製造するのに、とくに材料のケイ素(シリコン)のために、70キログラムの二酸化炭素を排出するという。将来、年間23%増加するソーラーパネルの数からすると、ソーラーパネルの生産能力は年間10メガワット増加する。つまり、その増加分だけでも27億トンの二酸化炭素が大気中に排出されることになり、それは60万台近い自動車が1年間に出す排ガスに相当する。(p.44)

たとえば、2016年に公表されたフランス環境エネルギー管理庁(ADEME)の報告書では、「ライフサイクル全体を考慮すると、電気自動車のエネルギー消費はディーゼル車にほぼ近い。環境負荷については、電気自動車もディーゼル車も同等」と結論づけた。電気自動車が消費する電気の大部分が石炭火力発電所で生産されるならーオーストラリア、インド、台湾、南アフリカ、中国などー二酸化炭素の排出量はさらに多くなるだろう。(p.47)

アメリカの研究によると、一般的には情報通信技術(ICT)分野は世界の電力消費の10%を占め、たとえば航空輸送よりも50パーセント多い温室効果ガスを排出する。(p.51)

ともかく、どんなエネルギー転換、デジタル転換でも、地面にあけた穴から始まるのだ。土地に新たな犠牲を求めつつ、われわれは石油への依存を、レアメタルという別の依存にすり替えているだけだ。(中略)つまり、生態系への人間の活動の影響という問題を何も解決していない。(p.53)

「クリーン」と言われるエネルギーは、採掘がまったく「クリーン」とは言えないレアメタルを必要とする。むしろ、環境保護面から言うと、重金属の排気、酸性雨、水汚染などと紙一重なのだ。(p.61)

この観点からすると、エネルギー転換とデジタル転換は最も裕福な社会階層のためのものである。(p.62)

第3章

さらに有権者として、規則を強化するべきだと為政者に圧力を加えることもできるだろう。だが、多くの消費者はきれいな地球よりは「接続された世界」の方を好むため、そういうことはしなかった。(p.80)

偽善的なのか、認識不足なのか?ともかく、トヨタ生産方式は産業界の「メタルリスク」に対する責任回避を助長することになったのだ。(p.84)

供給網のグローバル化は消費財を与えてくれる代わりに、それらの出どころへの興味を私たちから奪った。(p.89)

われわれはレアメタル生産をよそに移転することで、”21世紀の石油”の重みをグローバル化の苦力に任せただけでなく、独占的地位を潜在的なライバルー中国に委ねたのだ。(p.89)

第5章

欧米が盲目に陥る発端には、ある「魔法のような思想」の出現があった。西洋で長い間支配的な考えだった永遠なる科学の進歩という幻想だ。(p.114)

「中国人は[1985年から2004年まで]タングステンの価格を下げ始めた。原料を安く買おうとする欧米諸国が欧米内で原料を買わなくなり、競合する鉱山が閉山するのを期待した」次の段階は想像できるだろう。タングステン生産の支配権を握った中国は、資源問題でドイツを脅し、彼らの製造業が資源の近くに来ざるを得ないようにする。そして、カット機械産業のドイツのリードを無に帰し、ミッテルシュタンドの柱である工作機械部門を獲得する・・・。(中略)しかし、それを予測したドイツ人たちは中国に競合するタングステン生産国(ロシア、オーストリア、ポルトガルなど)と合意を交わした。「ドイツ人は中国に依存しないよう、他国の鉱山を維持させるためにより高い価格を払う方を選んだ。)」(p.120)

第6章

「これらの企業はもちろん、中国の人件費の安さにつられたのだが、レアアースへのアクセスも工場移転の理由の一つだった。合計すると、何百万もの雇用が吸い取られたのだ。」(p.138)

しかも、化石燃料に変わるレアメタル資源を中国が独占し、その資源に依存するクリーンテクノロジー産業を吸収する戦略は、欧米の経済、社会、政治の危機を増幅した。(p.)

第8章

エネルギー転換の実際の環境負荷を評価するには、資源ライフサイクルのより包括的なアプローチが必要だ。たとえば、工業が消費する膨大な量の水、エネルギーの使用、貯蔵及び運送によって排出される二酸化炭素、まだよく知られていないクリーンテクノロジーのリサイクルの影響、こうした活動全体から生じるエコシステムによる汚染などだ。生物多様性への悪影響もある。(p.)

エネルギー転換を養護する人たちは、クリーンテクノロジーを機能させるための潮汐、風、太陽エネルギーなどのエネルギー源は無限にあるという。他方では、レアメタル業界の人たちはかなり多種類の資源がいつかは不足する可能性があると言う。(p.167)

現時点でのデータから見ると、「グリーン革命」は期待されたより時間がかなりかかりそうだ。なぜなら、この革命は適切な供給戦略を有する数少ない国のひとつである中国に先導されるだろうからだ。中国政府は世界の需要を満たすためにレアメタルの生産を急激に増やすことはしないだろう。(中略)そのために、中国では自国で生産したものを自国のために保持しようとしている。中国は現在、自国で採掘したレアアースの4分の3を国内で消費しているがーレアアースを供給できるのは中国だけだーその消費の推移を考えると、2025~30年にはすべてを国内消費するようになるかもしれない。(p.169)

このシナリオの蓋然性は次の3つの要因によってより強化される。
・まず、資源の希少さの否定。(中略)こうした警告から何十年経っても、現在の人々は変わらないばかりか、消費は増え続けるばかりだ。(中略)
・つぎに、鉱業インフラの不足がある。(中略)「将来の需要に答えられるだけの金属が十分に生産されていないというのが私の意見です。数字が合わないんですよ」とアフリカ人専門家は断言した。
・最後に、エネルギー収支比への挑戦。(中略)われわれの生産システムの限界は今日ではより明確になっている。つまり、(エネルギー生産のために)消費するエネルギーが生産するエネルギーを上回る日がやってくる。(p.170)

市場を不安定にする中国がいるために、それ以外の国の工業部門は、長期的に採算のとれる経済モデルを構築することが非常に難しい。(中略)鉱山再建を金儲け主義で促進する考え方では、中国のやり方には抵抗できないだろう。レアアースは資本主義の活力の鍵のひとつであるのに、その開発は資本主義の論理への挑戦を必要とする。(p.178)

第9章

しかしながら、環境保護団体の論理には矛盾点がある。持続可能な世界を望みながら、それが引き起こす影響を批判しているからだ。エネルギー転換とデジタル転換は油田からレアメタル鉱山への転換を意味し、地球温暖化との闘いは鉱山を必要とする。当然、その責任は引き受けるべきだと認めないわけには行かないはずだ。(p.184)

フランスでみんなが合意するのを待っていると、フランスの鉱山文化は消滅するだろう。(p.184)

汚染を引き起こす鉱業を外国に移転することは二重の悪影響がある。ひとつは、われわれのライフスタイルの芯の環境負荷を知らずに、これまでの消費生活を維持することに貢献すること、もうひとつは、環境破壊のやましさがまったくない国に、欧米で生産するよりずっと劣悪な環境で採掘・精錬することを許してしまうことだ。
反対に、フランスなど欧米に鉱山を戻すことは二つのポジティブな効果がある。まず、現代人の生活、「接続性」とエコロジーが高く付くことを、われわれに気づかせてくれることだ。(中略)別の言い方をすれば、汚染を食い止めることに熱心になれば、環境保護対策が進歩し、大量消費の生活様式が大幅に見直されるかもしれない。
このシナリオが実現すれば、中国の鉱業活動は欧米の鉱業の競争力に苦しめられるかもしれない。(中略)こうして、欧米に強制されたエコロジーの競争に中国のエコロジーは勝てるようになるかもしれない(p.185)

エピローグ

われわれが一緒になって目指すこうしたテクノロジー発展の意味はなんだろうか?やり遂げる前に既に重金属でわれわれを蝕むエコロジー移行を推し進めるのはばかげているのではないだろうか?新たな健康被害や環境破壊が生じるとしたら、物質的幸福によって儒教的調和を称えることが本当にできるのだろうか?あるいは、その反対だろうか?(中略)産業と技術と社会の革命は、認識の革命を伴わなければ意味をなさないのだ。(p.199)

最良のエネルギーとはわれわれが消費しないエネルギーだ。(p.200)




システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。




高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
講談社 (2020/8/11)

「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

人間以後の哲学

著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

私はそれを、

  • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
  • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

である、というように受け取った。

今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
本書はそういう問題を提起しているように思う。

高断熱化に対する違和感

誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
それはどこから来るのだろうか。

消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

人新世の世界を生きること

SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

これは勝手な意見、というか余談。

僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

メモ

同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
(失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

ざっと気になったものをあげると

  • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
  • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
  • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
  • ノンヒューマンであること。
  • エコロジーと触覚に向かう言語
  • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
  • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になる B241『建築家・永田昌民の軌跡 居心地のよさを追い求めて』(益子義弘他)

益子義弘他
新建新聞社/新建ハウジング (2020/6/2)

永田昌民のこれまでの代表作をとりあげ、クライアントや益子義弘、堀部安嗣、趙海光、倉方俊輔、三澤文子、横内敏人、田瀬理夫といったメンバーがコメントをよせながら永田昌民の建築の本質を浮かび上がらせる。

物が織りなされた場

その点で言えば彼の設計上の主眼はものの構成の側になく、物が織りなされて「一つの空気に昇華する場や空気の状態」を求めていたのだと思う。軸組や骨格を顕にする真壁構造でなく、あえてそれらを隠す大壁の構成に徹した空間造りの志向はその表れであろうし、そうした物の構成の側に枠取られるような建築的なテーマ性を彼は好まなかった。(p.3)

ある意味では、前回私が書いた「くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。」というようなことと反対のものを求めていたようにも受け取れる。

しかし、氏の建築には明らかに構築の意志があるように思われるし、「物が織りなされ」た状態に昇華させようとすることは、私の目指したいと思うところと重なる部分も多い。
この辺りが建築の難しいところであり、面白いところだと思うのだけれども、言葉尻では相反するようなことでも、目指すところは案外同じようなものだということは多い。
最終的に、その建築がどのようなあり方をしているか、というところが重要だとすると、学ぶことはたくさんある。

まちに溶け込むちょうどよい塩梅

また、氏の建築には押し付けがましさや、過剰な凡庸さのようなものはほとんど感じなかったが、それはなぜだろうか。

外観の素朴さや、絶妙な配置、内部の納まりの自然なあり方、など、その理由はいくつも考えられるけれども、一番の理由は形態や仕様だけでなく、凡庸さという点においても、氏が過剰であることを嫌ってそこから抜け出すまで徹底的に検討したからではないかというような気がする。

前回書いた、「あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。」というようなことを実現しつつ、過剰さを注意深く避けることで、まちに溶け込むちょうどよい塩梅となっているように思う。

それを目指すためには、「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になるような気がしたし、もしかして、そういうことに縛られないように、自らの建築をあまり語らなかったのかもしれない。

おそらく、建築は区別を前提とした「普通さ」や「凡庸さ」と言った言葉の側ではなく、その物、その場所そのものの存在のあり方の側にある。




自分が追い求めてきた「新しい凡庸さ」とは何か B240『建築の難問――新しい凡庸さのために』(内藤廣)

内藤廣 (著)
みすず書房 (2021/7/20)

字も小さめだし、読了までしばらくかかる、と覚悟してたけど、スラスラと、出張期間中で読み切れた。
理論書というよりは個人的な覚悟の話(と受け取った)ので予想していたほど難しくはなかったけれども、考えを促してくれる良い本だった。

問いが難問であるために

本書は真壁智治が問いを投げかけ、それに著者が答える、という形式で進んでいくが、それらの問い自体は向き合い方によってはありふれた問いと言えなくもないし、単に言葉として答えるだけであればそれほど難しくはないのかもしれない。
ただ、自分の問題意識や実践とを結びつけた上で、これらの問いに”誠実に”答えようとすると、とたんに難しくなる。

これらの問いはややもすると、大きな力のようなものに流され思考停止に陥ってしまいがちになるところを、足を止めて、本当にそれで良いのかと問いかけるような力を持っている。
その問いに誠実に向き合おうとすれば「資本主義に染まる今の社会の中で、あなたには如何にして建築が可能か?」というような「難問」を突きつけられる。

反面、これらの問いは、誠実に向き合う覚悟がなければ、先に書いたようにありふれた問いとしてしか現れず、ありふれたどこかで聞いたようなことをつい答えてしまいそうなもので、実際、本書を読む前にこれらの問いを投げかけられれば、自分もありふれた答えを返していたかもしれない。

そういう意味では、実践とそれに結びついた思考を誠実に積み重ねてきた著者だからこそ、これらの問いが難問たり得ていると言えるし、まずはそこに敬意を払いたいと思う。

これまで、このブログでは、割と抽象的な話で終わってしまうことが多かったけれども、自分に対して適切な問いかけをし、それに対して具体的な実践によって答えていくことの重要性を改めて感じたし、自分のリソースをもっとそちらに割いていかなければと思った。

ここでは、本書全体が投げかける問いかけに対し、考えたことを書いておきたい。

モダニティや資本主義にどう向き合うか。新しいスタンダード

資本主義に対する姿勢は今、自分が建築を考える上で非常に重要な問題だと思う。
それは、いかにして建築に「つくること」を取り戻すか、ということのように思うが、前回書いたように、建築費が高騰する中で、(特に私が関わることの多いローコストな住宅では)「つくること」を得ることはさらに難しくなっているし、この先、それを成立させること自体が厳しくなるかもしれない、という危機感を持っている。

いや、逆に否応なく「生産プロセスやコストに介入」せざるを得ない状況に追い込まれるとすれば、「つくること」に向き合うチャンスとも言えなくはない。
贅肉を削ぎ落として、コストを抑えつつ「つくること」を内包しているような新しいスタンダードのようなものを考えていく必要がある。

建築を構築する意志だとすると、それをどうかたちに残すか。断熱の問題

限られた条件の中で「つくること」を取り戻すこと、と直接的に関連すると思うが、著者が書いている、上棟の瞬間に現れる構築する意志(「かた」、意志と希望の「か」、「素形」)を最終的な「かたち」にどうすれば残せるか、ということも非常に重要である。

その際、断熱もしくは省エネの問題をどう考えるかというのが一つのポイントになってくるように思う。
今後、断熱の問題を避けて通ることはできないが、断熱性能を高めるためには外周を隙間なくくるむ必要があり、それが構築する意志を隠してしまう。
このことが、建築家が断熱等の問題に消極的になりがちな理由だと思うけれども、今後ここをクリアすることは必須となるはずだ。(鹿児島はまだ制約としては緩いかもしれないけれども。)

くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。まだ、答えは分からないけれども、そのための方法を考えていく必要がある。

新しい凡庸さを追い求めるためには何をすればよいか

「新しい凡庸さ」とは何か。
凡庸さとは、その存在を、「他との差異」とは異なる方法で確かなにするもの、なのではないか。
あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。

ただし、凡庸さという言葉には少し警戒もしている。
個人的な嗜好の問題かもしれないけれども、いわゆる住宅作家の作品(作品そのものというよりは、作品のメディア上での扱われ方)に凡庸さの押しつけのようなものを感じることがある。
過剰な凡庸さ、もしくは非凡な凡庸さと言ってよいのか分からないけれども、行儀良さを迫られるような息苦しさを感じることがあるのだ。
(といっても、好きな作品も多いし、実際そこに住めば全く違うかもしれない、という気もするし、ちょっとした嫉妬のようなものかもしれない。)

もう少し、肩肘を張らずに、どこにでもありそうなものでありながら、存在の確かさも兼ね備えている。過剰になるすれすれの凡庸さ。
そんなあり方が、もしかしたら自分なりに求めている「新しい凡庸さ」なのかもしれない。

今はまだ全然できていないし、ぼんやりとしたイメージにすぎないけれども、例えば、外部・まち・都市とのつながり、自然とのつながり、世界とのつながり、そんなさまざまな「つながり」「出会い」を考えることが大切なような気がしている。
他とのつながりによって、逆説的に生まれてくる存在の確かさのようなもの。そういう「新しい凡庸さ」を追い求めていきたい。

自分はどんな仮説に生きてきたか

わたし自身は建築家として立とうと決意したその日から、その時立てた仮説を生きているにすぎません。建築は語るに足るものであるはずだ、愛するに足るものであるはずだ、という仮説です。(p.278)

誰でも、少なからずは、若い頃に立てた仮説を生きつづけているものなのかもしれません。

では、自分はどんな仮説に生きてきたんだろうか。

考えてみると、建築そのものが語るに足る、愛するに足るものかどうか、というのはあまり考えたことがないように思います。
それよりも、今の時代を生きる人、もしくは自分のつくる建築に関わった人が、この世界は生きるに足るものだ、と感じられるかどうか。
その、一つのきっかけ、気持ちの受け皿に建築はなりうるはずだ、というのが私の生きてきた仮説のように思います。

自分なりの「新しい凡庸さ」とは何か。
答えは、この仮説の先にあるのかもしれません。




鎚絵さんに頼めるようになりたい


先日、モノのつくり手として尊敬する、鎚絵の大野さんのnoteにフェイスブックに投稿していた模型の写真を使っていただきました。

モノ屋より、建築学生に贈る。|kowske ohno|note

鎚絵さんのななつ星製作秘話はこちら
鎚絵製品特設ページ「ななつ星in九州」

何かを得るきっかけを頂いた際は、なるべくテキストにして残すようにしているので、少し書いてみます。

固有性を得るための闘い

僕は、建築をつくることは固有性を得るための闘いのようなものだと考えているところがあります。

固有性と言っても奇抜なものであればよい、ということではなくて、確かにそれがそこにあるという、もののあり方を獲得しているかどうか。
存在として人間を受け止めるような包容力を兼ね備えることが、建築というスケールのモノに課せられた使命のような気がします。

今の時代、少し油断をすると、簡単に固有性は霧のように消えてしまいます。そんな中でどこまで踏みとどまれるかの闘い。

僕は普段、割とローコストな住宅を設計することが多いのですが、複雑な形状も、高価な素材もなかなか採用できない中で何とか工夫をしながら固有性を死守しようと藻掻いている感じです。
そして、それは建築費がどんどんと高騰していくにつれてますます厳しい闘いを強いられるようになってきています。

それでもやっぱり工夫して闘うしかないし、その中から生まれる可能性もあるのでは、という気がします。(とはいえ、もっと余裕があれば・・・と常に切実に思うわけですが・・・)

構成と素材

その固有性を獲得するために建築が扱えるものとして、例えば「構成」と「素材」があるかと思います。
「構成」はモノとモノとを組み合わせる文法のようなもので関係性による力、「素材」はモノそのものの力。
それらをどう扱うか、そこにどんな密度をもたせることができるか、によって建築のあり方が変わってくる。

そして、それらはどちらの密度が不足しても十分な力を発揮できない。

学生たちが何を考えて、どんな模型をつくっていたか、実際に見ていないので想像しかできませんが、白模型で構成に走るのも気持ちは分かります。
構成の力を信じてそこに憧れを持たなくなっては設計はできないと思うし、素材の力に想像力が追いつかないのも分かります。
(僕が学生の頃なんて、何をどう考えれば全く分からなくて、ほとんど空っぽの案を出してました。)

だけど、やっぱりそっちだけだと、固有性を獲得することはかなり厳しい。可能性がゼロとは言いませんが、構成だけで成立しているようなものも、それを支えているのは素材だったりします。

実際は僕も人のことは言えず、今の自分の目の前の課題でもあります。
今は、模型よりもベクターワークスで3Dで検討することがメインになっていて設計時にはPCの前にいることがほとんど。忙しさにかまけて、素材そのものと実際に向き合うことがなかなかできないでいます。
コストが限られている中で、金額、というよりは、素材のあり方として、最低限これだけは、というラインを死守しながら、僅かな構成の力によって何とか乗り越えようとしていますが、新しい、素材との向き合い方(それは構成による向き合い方も含みます。)を開拓していかないと頭打ちになる、という危機感は常に感じています。

ベクターワークスとマテリアル

少し余談になりますが、3DCADで検討する、というのは一定の想像力を携えながら使うのであれば、悪くはないと思います。
CADはあくまでツールなので、使い方次第。
とは言え、ツールによって思考そのものが変わりうるというのも真実で、だいぶ前に議論されたように、テキスチャマッピングの作法が、「建築の中でで素材は表層ではないという当り前のことが、ほんとにわかっているのかと不安になります。」という状況を助長してきたのは確かにあるかと思います。

そんなとき、vectorworks 2021から新たに導入された「マテリアル」という概念が頭に浮かびました。
忙しすぎて、マテリアルの機能をまだ設計に導入できていないですし、もともとあったテクスチャという概念との違いもあまり理解できていないのですが、マテリアルは構造特性や物理特性を定義でき、その体積や面積を簡単に集計できるようになります。(たぶん)

マテリアルごとに、体積ベースで集計するか、面積ベースで集計するかを設定するようになっているようなのですが、これが少し面白いと思っていて、どちらで設定するかで、素材を表層として扱うかどうかの感じ方が変わってくるように思いました。実際の使い勝手は別にして、体積ベースに設定するだけでも取り扱うオブジェクトのデータの概念がモノに少しだけ近づく気がします。

BIM化の流れによって、3D内のオブジェクトが様々な属性を持つようになり、かつ、検討やプレゼンのための3Dデータだったものが、施工するための設計図としての3Dデータへと意味合いが変わりつつあります。
ツールの中で表層として扱われていた素材のあり方が変わっていくことで、取り入れるのが早い学生の素材に対する感じ方も少し変わってくるかもしれないな、と思いました。

いずれ鎚絵さんに頼んでみたい

コストが厳しい現場ばかりでなかなか頼むことができないでいるのですが、いずれは鎚絵さんに素材の力を十分にひきだしたものをつくってもらいたい、と思っています。

いや、ちょっと嘘ですね。
本当のことをいうと、頼めていないのはコストばかりではなく、まだ鎚絵さんに頼める自信がないというのが正直なところです。

鎚絵さんに依頼すれば「モノ屋」として、職人さんの「手」でもって期待以上に応えてくれると思います。

だけど、素材・モノの力だけが突出してしまっても、建築に素材の居場所がないですし、ただただ素材があるだけになってしまいます。

せっかく依頼するなら、「設計屋」としては「頭」でもって鎚絵さんのモノ・素材に見合うような構成をつくりあげて、ここしかないという居場所、存在のための余白を整えたい。
そうでなければ、どういうものを作って欲しいという依頼をすることもできない。

モノとの向き合い方も、構成としての力量も、まだまだ依頼のスタートラインに立つことができないでいる、というのが本当のところ。(なので、取り上げていただいたnoteの記事は恐縮するばかり・・・)

でもやっぱり、堂々と依頼できるようなものをつくれるようになりたいですね。




内外の行き来を支えるつながりの場 B239 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎)

綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎 (著)
NHK出版 (2010/12/8)

以前読んだ、著者のお二方の話がとても面白くて、だいぶ前に購入していたもの。気が向いたので読んでみた。

この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。 建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。 それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』)

人それぞれの困難さ

今、3人の息子の子育て中なのだけど、面白いくらい3人とも性格が違う。
彼らはそれぞれ彼らなりの壁にぶつかっている・ぶつかっていくのだろうけれども、その彼らなりの困難さを理解することの難しさを日々感じている。
「自分だったらこうするのに」「こうすればもっと楽に生きられるのに」と思ってしまうけれども、その「こうすれば」が彼らの困難さを和らげるものなのかどうかは自分には分からない。
自分とは違う人間だから、と、これまで生きていた自分の哲学(とまではいえないような自分なりのやり方)に反するような方法で手を差し伸べてみたら、かえって困難さを深めてしまった、というようなこともあった。

そんな中、どこで見たかは忘れてしまったけれども、ADHDの人が自分のことを描いたある漫画を見て、こういう視点もあるのか、と思ったのだけど、本書の内容はその時感じたことにとても近かった。

研究の論理

そしてこの「構成的体制と日常的実践の相互循環」の重要性を前提としたとき、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである。」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミュニティの中に持ち込むことの意義が見えてくる。(p.124)

先の漫画を見て感じたのはまさにこういうことだった。
ADHDというある種の困難を抱えた人が必要としているのは、(その困難さがゆえに)本人ができること、というよりは、治療や援助のように外部から手を差し伸べることのほうだろう。と漠然とイメージしていた。
だけど、その漫画の主人公(著者)は自分の特性を把握し、それをできるだけコントロールしようと試行錯誤しながら、その人なりのやりかたで、困難さを和らげようとしていて、そこの大きな可能性のようなものが見えた気がした。
もちろん、うまくいくこともいかないこともあるんだろうけれども、自分を知るということが大きな力になりうるんだな、と感じた。

それは、いろいろな試行錯誤を繰り返し、自分の外(自分のいる社会や環境がどういうところか)と自分の内(自分はどういうひとか)の輪郭と接点を描き出しながら、自分自身のマニュアルをつくっていくようなことかもしれない。
(自分も何となく自分自身のマニュアルをつくりながら生きてきた、という実感がある。)

適度なつながり

また、その試行錯誤を繰り返すには、差異を認め合いつつ何かを共有し会えるような適度なつながり、もしくは、つながれる場が必要なんだろう。(たぶん、それは直接的な人とのつながりに限らず、社会やモノとのつながりも含むと思う。)

適度なつながりの場がなくては自分の外に出たり、内に入ったりといったことは難しくなる。そして、外に投げ出されたままでも、内にこもったままでも、試行錯誤のサイクルは回らないし、自身のマニュアルはなかなか更新されない。

子どもたちのことを考えると「自分とは違う彼らの困難さを理解すること」はやはり難しい。それでも、自分ができることは何かを問うとき、残るのは「外に出たり、内に入ったり」を支えるつながりの場の一つになることくらいしかないのかもしれないな。

(「自分のマニュアルをつくってみるといいよ」と言ったら、「それ、あんたのマニュアルにのってんの?」って聞き返されそう。
 うーん、のってないな。マニュアルつくろうと思いながら生きてきた訳でもないからちょっと違うかもしれない。試行錯誤が楽しいものだといいけどね。)




情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




認知心理学的な視点から建築を設計することの意義を問う B237『Mind in Motion:身体動作と空間が思考をつくる』(バーバラ・トヴェルスキー)

バーバラ・トヴェルスキー (著)
森北出版 (2020/11/6)

9つの認知の法則

本書は豊富な実験事例をもとに、認知心理学の視点から身体・空間・思考のダイナミックな関係を描き出す。

著者の挙げる認知の法則は以下のようなもの。(原文より英文を併記)

認知の法則
一. コストなくして利益なし。 There are no benefits without costs.
二. 動作が知覚を形成する。 Action moulds perception.
三. 感覚が最初に来る。 Feeling comes first.
四. 心は知覚の上を行く。 The mind can override perception.
五. 認知は知覚を反映する。 Spatial thinking mirrors perception.
六. 空間適思考は抽象的思考の基盤である。 Spatial thinking is the foundation of abstract thought,
七. 心は欠けている情報を補う。 The mind fills in missing information.
八. 思考が心からあふれると、心はそれを外の世界に移す。 When thought overflows the mind, the mind puts it into the world.
九. 私たちは心の中にあるものを整理するように、まわりの世界にあるものを整理する。 We organise stuff in the world the way we organise the stuff in the mind.

英文の直訳っぽいので、文脈に合わせて理解するのに少しとまどったけれども、自分なりに、

一. 何かを知覚する際、情報は状況に合わせて削ぎ落とされたり補われたりして、知覚のコストと利益の効率的なバランスが選択されている。(よって、効率的ではあるが、知覚されるものは完璧ではなく誤りや偏りを含む)

二. 知覚は動作と分け難く結びついており、動作によって形成される。これは、自分の身体だけに限らず、他人の動作や拡張された身体性によっても形成される。

三. 人はまず、表情や動きなどから感じられる情動に影響を受ける。情動は特別なものとして扱われている。

四. 知覚されたものそのものは、(知覚コストを抑えるであろう)推測やバイアスによって容易に上書きされる。知覚されたまま受け取られるとは限らない。

五. 知覚されたものは心の中で空間的(Spatial)に認知される。そこでは配置や階層、基準点、距離などが空間的に感じ取られるが、心的な空間として、その他の認知の法則にあるような偏りも併せ持つ。

六. 抽象的思考は、空間的思考・認知空間の基盤の上で展開される。例えば空間の中でものを移動させたり加工したりするように、抽象的思考の要素(表象・アイデア)を操作する。

七. 四と重複する部分もあるが、認知されているものは、階層やカテゴリーなどによる推測などによって適宜補われた上で空間的に配置されている。

八. 思考は心の中の空間の中のみで完結するものではなく、身体動作・表出・知覚を通じて外の空間ともダイナミックにつながっている。(建築家は曖昧な思考・イメージを曖昧なままスケッチとして外に表出し、それを思考の外部リソースとして再利用する。)

九. 人は思考を行う際に心の中を(空間的思考も駆使しながら)整理するように、まわりの世界を整理されたものにしようとする。それは、外部空間も思考するための基盤の一部であるからである。

というように受け取った。
著者はそれらを通じて「思考する空間を整えさらなる思考へ向かうこと」が、人が「生きる」ということの一つの本質である、ということを描き出している。

認知心理学的な視点から考えるとは何か、また、建築を設計することの意義は何か、を問う

これらのことから、何が浮かび上がるだろうか。

一つは、人が考える、ということは空間的かつ身体的なことだ、ということである。

少し前に読んだ森田真生の著書でも同じように数学という行為が空間的かつ身体的な行為であることが描かれていたが、考えるということは心の中で完結するものではなく、身体やまわりの世界とつながったダイナミックな行為である。

世界の豊かさは豊かな思考につながり、豊かな思考が世界を豊かにする。考えることが、人が「生きる」ということの一つの本質であるが故に、思考に導かれた世界に豊かさを感じる、と言い換えても良い。

そして、そのスパイラル(本書ではspraction (actions in space design our world and create abstractions in the mind)と名付けている)は正負を問わず、世代を超えて受け継がれていく。

そう考えると、建築を設計することの意義も見えてくる。
それは、世界を豊かにするための一つの営みなのだ。(ただし、そのためには密度高く思考することが前提条件である。)

もちろん、それは建築家だけの特権ではない。

この本でも全体を通して「生活への眼差し」が貫かれているが、世界を豊かにしていくのは「生活する人たち」なのである。建築家はそういう人(施主)の存在がなければ何もつくれない。

もし、まちの中から「生活する人たち」の顔(思考)が見えなくなったとしたら、そのまちはどうなるのだろう。そこから数学者は生まれるのだろうか。それはどれくらい重要なことなんだろうか。そういうことを本書は突きつけてくる。

(一つだけ補足すると、人工的にデザインされきった世界だけでなく、自然発生的に思考が埋め込まれた風景や、自然そのものも、同様に、もしくはそれ以上に豊かな思考の基盤になると思います。)

空間認知能力

空間認知能力は高められる。のみならず、かの全米科学アカデミーのある委員会でも提言によれば、高めなければならない。空間認知能力は、数多くの職業、仕事、活動の基盤をなす。(p.109)

ここからは全くの余談(自分のこと)。

空間認知能力が必要とされる建築の仕事をしているわけだけども、自己分析をしてみると、ある面ではある程度の能力があると思うけれども、ある面ではかなり能力が低いように思う。

この本で、心の中で像を回転させたり、立体を組み立てたりといったメンタルローテーション・メンタルコンストラクションという能力が取り上げられていた。
自分が子どもの頃を思い出すと、(今でもやっているけれども)折り紙やペーパークラフトといった作ることが好きだった。折り紙の折り図やペーパークラフトの展開図(型紙)を見たことがあれば分かると思うけれども、これらがまさしくメンタルローテーション・メンタルコンストラクションの訓練になっていたことは間違いない。
おかげで、頭の中で立体を組み立ててイメージすること、建築を立体物として手で組み立てるように捉えることはかなり得意になったと思うし、模型をつくるのも好きだ。

一方、本書でもよく出てくるような、頭の中で俯瞰的に地図のようなものを描いて要素をマッピングするようなことはめっぽう苦手である。
何十回と通った道も間違えてしまうし、ここで曲がる、というピンポイントの僅かな建物を除いて、道路沿いの店舗などが正確に頭の中にマッピングされることは皆無(マッピングされていたとしても順序はめちゃくちゃ)なのである。
空間認知能力が発揮されるのは、手のひらの中で作り上げられる範囲、又は、どこか一点に視点を設定したときのみ限られるようだ。(もともと興味のあるなしが極端だったので興味のある範囲以外の能力は全く育たなかったのかもしれない・・・)

こんな偏った状態でよく務まっているな、とも思うけれども、スキップフロアを多用したり、構成的な手法に頼りがちなのはこの偏りのせいかもしれない。
極端な方向音痴だ、というのは、常に自分がどこにいるか分からないことの不安から逃れたいという欲求を抱えている。それが、建築の場所性・固有性を求めることへとつながっていて、空間を考える原動力になっているようにも思うのでマイナスばかりではないようには思う。(その不安を克服しないとできないようなタイプの空間があるようにも思うけれども。)

また、抽象的思考を心の中で空間的に行っているというのは、新しい発見であると同時に、実感としては昔からもっていたものでもあるし、思考を一旦外部化して再度取り込むというのはデザイン関係の人は多かれ少なかれみんなやっていることだと思う。
この辺をもっと意識的に扱えるようになりたい、というのが最近の関心でもある。

(先日、VRゴーグルを買ったんだけど、空間的な思考を拡張するツールとして計り知れない可能性があるように思う。すでに、空間の中にスケッチしたり、アイデアを自在に動かしたり、というツールがあると思うんだけど・・・。)




MBGN 写真アップ


紫原の家の写真を実績のページにアップしましたので御覧下さい。
お引渡しは3年前ですが、ようやく写真撮影ができました。
とてもきれいに住んでいただいてありがたいです。




計算を繰り返す中から新しい意味を見出す B236『計算する生命』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2021/4/15)

計算は、規則通りに記号を操るだけの退屈な手続きではない。計算によって人はしばしば、新たな概念の形成へと導かれてきた。そうして、既知の意味の世界は、何度も更新されてきた。(p.195)

本書では、計算が新たに概念を生み出してきた歴史を辿りながら、計算と生命、それに言語の間の関係が語られる。

これを建築の設計に重ねることで何が見えてくるだろうか。

設計における論理や言語は何か

計算を論理的に組み立てられた記号・言語を手続きに従い操ることで、必然的に結果へと導く行為だとすると、建築の設計において、その論理や言語に該当するものはなんだろうか。

構造や環境など、高度に構造化された、計算との相性の良い分野もあるが、いわゆる計画を行う際に、「1+1=2」というように必然的に答えが導かれるようなものはあまり見当たらない。

情報工学的な手法によって、よりベターな解を探索するヒューリスティクス・デザインや、言語学をデザインに応用し独自の造形言語を探る倉田康夫のような態度はこれに近いかもしれないが、計画学全般に、数学における論理や言語に該当するものが歴史的に積み上げられていて、建築に関わる人が皆それを操っている、とはいえない状況に見える。

では、設計における論理や言語は存在するのか。それは何か。というのが大きな問いである。

「分かる」から「操る」へ

設計という行為は、指折り数える、筆算をする、方程式を解く、コンピューターでシミュレーションする、というような、記号を操り計算する行為に近い。

設計を多様で複雑に絡み合った要件を解きほぐして一つの解を与えることだとすると、それは、頭で考えるという行為のみで完結できるものではない。

スケッチを描く、図面を引く、3Dモデルを確認する、性能をシミュレーションする、というように、様々な手法によって、思考を一旦外部に記号として定着させながらそれを操る、ということを繰り返すことで、徐々にその解が定まっていく、というように、何かしら考える道具を使いながら計画を進めることが一般的だろう。

なので、どのような道具で、どのような記号をどう操り、何を引き出していくのか、というようにどのような手法をとるかが重要となってくるが、それは数学における計算することに近くはないだろうか。

仮に、ある手法でもって計画を前にすすめる行為を、設計における「計算」と位置づけてみる。

この記号を操り計算をするという行為には、考え「分かる」という行為が埋め込まれていて、考えることの一定の過程をスキップさせる機能がある。と同時にそれ故に、人の認知能力を超えた結果を導き出す可能性を持つ。(この点で、情報工学的な手法は、文字通り、強力な計算手法であり、可能性に満ちている。)

その予期せぬ結果には最初から意味があるわけではないが、人にはそこから意味を汲み取るという能力がある。結果は人間によって汲み出されることによって初めて意味を持つ。
設計とは、認識できるものを記号としていったんていちゃくさせ、それを操りながら新たな意味を見出し、再び記号へと定着させる、というプロセスを繰り返すことであり、そのプロセスの精度と回転数が設計の密度へとつながる。

これは大げさに言えば、数学が計算によって新たな概念を生み出してきた歴史をその都度辿るようなものではないだろうか。

方法論

ただし、毎回異なる要件のなかから新たな解を導かなければならないことは、設計の持つ運命のようなものだとしても、毎回、数学が辿ってきたような繰り返すことは不可能だろう。

数学における計算手法がある概念を内包しながら、それを歴史的に積み重ねてきたように、設計の方法論が、それまで積み重ねてきたものを内包し、「計算」のように操れるものであるとすれば、設計においても方法論を使うことで、歴史的な叡智・成果を利用することができるし、毎回、新しい手法を発明する必要はないだろう。

そして、そのような膨大な「計算」の総体の中で、既存の方法論の中から新しい概念のようなものを見つけ出し、新しい方法論として定着させることができた人が建築家と呼ばれ、建築の歴史を一歩前に進めるのかもしれない。

ただ、ほとんどの人は、何かしらの方法論のようなものを模倣し、それを操り「計算」することで一定の成果を得ている、というのが現状のような気がする。
その方法論の中に埋め込まれている概念の歴史を理解し、新たな概念への想像力を持つことで、ぐっと世界は深みを増すように思うけれども、それが体系的に整備され共有されておらず、個々の建築家に秘匿された部分が多い(ように見える)のが建築の難しさかもしれない。(多様な解・手法がありうる特殊性や、概念が重層的・個別的で難解になりがち、というのもあるだろう)

計算する生命

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。(p.219)

生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

ブルックス(ルンバの生みの親)はAI・ロボットを研究・開発する上で、世界をコンピューターの中で描写・再現し、計算する、という手法から、外界のモデルを構築することを破棄し、一旦手放した身体を取り戻すことで、環境と絶えず相互作用しながら行為を生成していく、という方向へ舵を切った。

建築の方法論を積み上げていく歴史的なサイクルも重要ではあるが、同様に、個々の設計行為におけるサイクルも重要で、環境と相互作用しながら計算を繰り返すことで小さな新しい意味を見出していくような態度、いわば「計算する生命になること」、が建築に命を吹き込むことにつながるのだろう。

ここで、個別のサイクルにおける方法論・スタディの方法で重要なのは、
・人間の認識の限界をどう拡張し、予期せぬ結果へと導けるか。
・結果から新たな意味をみいだせるようなきっかけが、どのように現れるか。
の2つのような気がする。自分はそのようなスタディを行っているだろうか。

このあたりのことは、ここで考えてきたことに大きく重なるし、一つ一つの計算(設計の方法論やスタディの方法)についてももっと意識的である必要がある、ということを強く感じさせられた。




分かることへの衝動にもっと素直に従うこと B235 『数学する身体』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2018/4/27)

前回読書記録を書いたのが昨年の10月ごろなので1年近くぶりの投稿になる。

追いつかない仕事を、後ろから走りながら追いかけ続けるような状況がずっと続いていて、読書も折り紙もほとんどできていなかった。
それでも積ん読は順調に進めていて、この本もその一つとして先日買ったもの。

数学と身体、一見無関係に思える言葉が結びついたタイトルが興味を引く。
間違いなく面白いに違いないと思いながら、読むにはそれなりの時間と集中力が必要だろうと、しばらく欲しい物リストに入れていたものを、先日ようやく積ん読に昇格させた。

それで、読む時間はないだろうけど、さわりだけでも読んでおこうと手にとったところ、意外にもスラスラ読める。自分の関心とぴったり重なっていたこともあって、一気に読み切ってしまった。

数学を建築し、そこに住まう

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(p.44)

著者は、数学を行為として捉えるとともに空間的に捉える。その数学という空間は自らの数学という行為を可能とする足場であると同時に「建築」する対象でもある。

そこには、数学という空間と、数学する人とが混然となった世界がある。

おそらくその世界には、自らの身体を通じてしかアクセスできない。その世界の住人となるためには一定の条件があるのだ。

数学といえば客観的・普遍的なもので自分とは直接関係がないように思ってしまうけれども、そうやって眺めている限りはそれは景色に過ぎない。
数学という景色が、経験を通じたその人独自の「風景」となって立ち現れた時に初めてその世界の扉が開くのではないだろか。
というより、人はみな、その人それそれの関わり合いの中でその人なりに扉を開いているのだろう。
(自分の扉が開いていたのは高校の数学くらいまでかな。大学の途中から、解き方は覚えられても、身体的に分かる感じが得られなくて、ここまでか、と感じたのを鮮明に覚えている。逆に言えば、身体的に分かる感じが得られれば数学はとても身近なものだった。)

その数学の空間に住まう人の中にチューリング、そして岡潔がいた。

「わかる」ということと身体

岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。(中略)自他の別も、時空の枠すらも超えて大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。(p.120)

「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同時に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(p.130)

「分かる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。(p.138)

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。(p.174)

岡潔の言葉を借りて数学を語ることに躊躇いもあった。岡の言葉は、彼自身が生み出した数学があってこそ響く。(p.179)

関心のある部分を抜き出してみたけれども、このブログで書いてきたことと重なる部分がかなりある。(読みながら河本英夫の著書が何度も頭に浮かんだ)

数学と身体の関わりについて直接考えたことはないけれども、「わかる」ということと身体との関わりは多少考えたことがある、というより感じていたことがないわけではない。(「脳内ポジショニングの技法」
いや、むしろ、「考える」ということを身体的に捉えるということは最近の主要な関心でもある。

それでも、数学と身体の関わりを探る本書のテーマは新鮮であった。と同時に、自分も少なからず身体的にわかる、ということの衝動のようなものに突き動かされてきたことを知った気がするし、認知科学的なアプローチで数学と合流したのは意外な出会いだった。

建築を建築する

さて、建築である。

概念としての建築を考えると、数学と同様に、建築という空間に住まい、その空間を建築し続けてきた数多の先人たちいて、彼らが積み上げてきた空間がある。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分もその建築という空間を足場としていて(足場としたいと望んでいて)少なからず恩恵を受けている。

思えば、このブログは建築という空間の住人になりたい一心で書き続けてきたもので、それは学生の頃に「まずは建築の住人にならないと何もはじまらない」と少しの焦りとともに感じた直感から始まっている。
その行為に対して不安になることは何度もあったけれども、この本は、その直感は間違っていなかったのでは、と少し明るい気持ちにさせてくれ、初心に還らせてくれるものだった。

ブログを書き続けることは、感じたことを身体化していくための作業だったのだけど、続けることで、何とかこの空間の村人くらいにはなれたように思うし、自分なりの「風景」も見えるようになってきたように思う。

地道ではあるけれども、方向としては間違っていない。むしろ、必要なのは、分かることへの衝動にもっと素直に従うことと、同時に感度をもっと高めることだろう。その先にしか到達できないものがきっとあるはずだ。

(同じ著者の『計算する生命』も買ってるけれども、岡潔も読みたくなってきた。)




YNGHn 写真等アップ


吉野の家の写真等を実績のページにアップしましたので御覧下さい。




吉野の家 珪藻土塗りDIY

吉野の家の今年最後の珪藻土塗りを行いました。
人数的に、遅い時間までかかるかな、と思っていたのですが、お子様たちが活躍してくれて、案外早く完了。

自分で塗った壁、愛着を持ってもらえるんじゃないかなと思います。




下竜尾町の家 オープンハウスを開催します。

STGI

お施主様のご厚意により、今週末、下竜尾町の家のオープンハウスを開催させていただきます。ご入居後のオープンハウスとなりますので、空間と生活を感じられる貴重な機会になるかと思います。関心のある方は是非いらして下さい。

場所はこちら

屋上は絶景です。




現場進行中の物件をwallstatでシミュレーションしてみた。

vectorworksからwallstatへcsv経由で移行させるツールは、結局プラグインオブジェクトにしたのですが、けっこういいところまで出来てきました。

試しに現場進行中の住宅の軸組で試してみました。(すでに図面があるので1,2時間で入力は終わります。)

かなりコンパクトで平面が正方形、という地震に対して有利な形状というのもありますが、神戸地震のデータでシミュレーションしても外周部がほとんど黄色になったくらいで大きな揺れもなく済みました。

黄色は変形角が0.008から0.033ラジアンなのでだいたい、0.5から1.9度の変形角におさまった感じでかなり良い結果でした。

今回は地震に対する偏りがないプランだったので良かったですが、もう少し偏りがあるようなプランでも、実際にシミュレーションをしてみて、弱いところを補強して、再度シミュレーションしてみる、というサイクルを回せばコストを抑えつつもかなり安全性を高められそうです。

いくつかシミュレーションしてみて、金物はかなり大事な要素ということも改めて実感した次第です。