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道理と装置 B275『エクセルギーハウスをつくろう: エネルギーを使わない暮らし方』(黒岩 哲彦)

黒岩 哲彦 (著)
コモンズ (2014/5/3)

前回読んだ本と関連して購入。『エクセルギーと環境の理論』でも著者の実践例が紹介されていた。

著者は、1198年に『エクセルギーと環境の理論』の著者の宿谷氏の研究室を訪ね、その後宿谷氏や当時大学院生だった高橋氏と協力しながら本書で紹介されている建築の構成を開発するようになったようだ。
(宿谷氏と高橋氏を含むメンバーは、2000年頃に『スレート葺き屋根の二重化と散水が日射遮蔽効果に与える影響に関するエクセルギー解析』という論文を発表している。)

エクセルギーハウスの二重屋根採冷システム

主要なシステムの概要としては、タンクに貯めた雨水の持つエクセルギーを太陽熱温水器なども活用しながら夏冬ともに活用するとともに、夏は二重屋根の間での散水による蒸発冷却によって天井の温度を下げるというもの。(その他にもいろいろ工夫があり、各地で実践もされていて面白いのだけど、ここでは二重屋根についてのみ触れたいと思う。)

二重屋根に関しては、二重屋根彩冷システムと言うよりは、小屋裏彩冷システムと言った方がしっくりくる。

まず、ある程度の断熱性能を備えた屋根により日射を遮蔽する。
その上で、天井の小屋裏側に貼ったガラスクロスの保水層に散水することで、持続的に蒸発冷却が行われるようにする。
また、天井材を熱抵抗・熱容積の小さいガルバリウム鋼板とすることで蒸発による影響をストレートに伝え温度変化を大きくする。
この小屋裏空間には風量調整の可能な窓(蓋)が設けられており、夏季に十分に換気が可能となっている。

実測研究の結果を見ると、室内温度は最高35℃程度まで上がったようだが、天井温度は24.5~28℃の間で推移し、室温より最大で8℃近く下がったという。(『雨水の蒸発を利用した二重屋根採冷システムの室内熱環境に関する実測と解析(2003 黒岩哲彦 高橋達)』)

人は室内気温より周囲の物体の温度が低い方が快適性を感じやすいそうだ。室内気温は一般的な常識で考えるとそれなりに高温だが、上の論文では入居者は概ね涼しさ・快適さを感じているようだった。

道理と装置

実際に屋根散水をやってみて(そして失敗に終わって)痛感したことだが、何かを工夫をするとしても、その理屈にそぐわないことをしても当然結果は出ない。
そういう意味では、研究者と協力しながら開発したこのシステムはやはり理に適っている。(どう理にかなっているかだいぶ分かるようになったのは、失敗してその原因を考えられたおかげだ)

しかし、理に適い過ぎているような気もする。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。 そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。 しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

これは、全く個人的な感覚だし、図や写真のみを見て「気がする」という程度のごく僅かな引っ掛かりに過ぎないのだが、その引っかかりの原因はなんだろうか。

一つは、大きな天井面が一つの機能と一対一で対応しているという、機能の現れ方とスケール感によるものだろうか。何か天井が人に対して背を向けているような感じをほんの少し感じ取ってしまう。

また、もう一つは、ガルバリウム鋼板という素材の持つ工業性と平坦さ、厚みのなさによるものだろうか。例えば、上からキメ・質感のある材料を塗ることで緩和することは可能だろうか。

あるいは、自動化されたシステムが目に見えないところに隠れていることによるものだろうか。何らかの方法でシステムを見えるようにしたり、関わる余地を取り入れることで引っかかりが楽しさに変わることはあるだろうか。

ぼんやりしているけれども、これらが何か装置ということばを頭に浮かび上がらせ、家との間に距離を感じさせるのかもしれない。

システムとしてよく考えられていて、とても参考になるし、批判するような意図は全く無いのだが、ごくごく個人的に何か重要なことがこの引っ掛かりに隠れている気がする。




電子工作で屋上散水を自動制御した結末の話

断熱はそれなりの施したので夏を乗り切れると思ってたけれども、今年の夏はなかなか厳しい。

少し前にテンダーさんのラボにお邪魔した時に、屋上散水を試してみようかと思っている、という話を聞いていた。
あわせて、手頃な価格でarduinoというマイコンがあって、プログラムが扱えるならいろいろ制御できるかも、という情報も頂いていた。

これは屋上散水、いっちょやってみるか。

と、いろいろと勉強しながらも行き当たりばったりでやってみたので、その結末を含めて書き残してみる。

つくってみたシステム概要

つくってみたシステムは下図の感じ。(画像はクリックで拡大)

簡単にいうと、井水を電磁弁で制御し、屋根及び東面の大窓の前に垂らした簾に散水する。

電子回路を組んで作成した制御システムでは、屋内の室温と天井温度、屋外の照度と気圧、温度をセンサリングする。
それをarduinoにデータを取り込み、その数値に応じて散水間隔を変化させてリレースイッチで電磁弁のオン・オフを切り替えた。

合わせて、取得したデータはSDカードに記録して、PCで管理、CADソフトでデータ処理して可視化する。
可視化したデータを分析して、プログラムを修正するというサイクルを回して、最適化を目論んだ。

簾への散水ははじめは計画していなかったんだけど、もともとあった井戸ポンプの性能上、屋根上までの水圧がかかっているとポンプが稼働しないことが判明したためとりいれた。(中間の加圧ポンプを導入する前)
これが、簾への散水と、電磁弁が閉の時に水圧を下げるための水抜き機能を兼ねる。(散水はどちらもホースにカッターで適宜穴あけ)

それで、ある程度は稼働したけれども、最初設置していた屋根上スプリンクラーの圧が足りず、途中で加圧ポンプを追加した。
それでもまんべんなく散水が出来なかったので、屋根上のスプリンクラーを穴あきホースに切り替えた。

外から見たらこんな感じ。

簾への散水。効果の程は分からないけど見ているだけで涼しげ。

そして、屋根散水。穴開きホースの穴を調整してある程度はカバーできるようになった。

回路を組む

なにしろ初めての事だらけで、配管も電子回路の組み立て、プログラムも失敗しながら試行錯誤を繰り返した。回路のハンダ付けなんて小学生以来。

最終的に制御システムの回路図は下記の感じ。


気圧温度センサーがなぜ2つあるかというと、センサーにペットボトルをカットしたものを被せて雨がかかりにくいようにして、外からはしごで設置したんだけど、カバーのせいか外気温が過大な数字になる傾向があったため。
もう一度はしごで取り外して修正するのは怖くて嫌だったので、温度センサーとしての目的で同じものを室内に穴から外に棒で突き出して追加することにした。(品番HW-611をarduinoのフォーラムで検索して、SDOに電源をつなぐとI2Cのアドレスを0x77から0x76に変えられることが分かった。これで0x77と0x76の2つを制御できます。)

arduinoのコードは投稿の最後に付けておきます。

結果は・・・

届いた順にセンサーを追加しながらログはうまく取れるようにできた。

天候やエアコンのオンオフが反映されてます。(無料のBルートサービス申し込んだので、電気使用量も今から反映させる予定)
可視化はVectorworksのマリオネットでCSVを取り込んだものを図形として書き出しています。以前やったLadybug toolの移植で格闘した経験をフル発揮。

サーモカメラで瓦屋根の表面温度をしらべてみる。

表面温度は30度近く下がっている。
これは、かなり期待できそうだ。

晴れた日に散水せずにとったデータと重ね合わせてみると、
▼8/26 散水あり。青が外気温、緑が室内気温、赤が天井の表面温度。薄いのは事前にとった散水なしのデータ。

うん、夜は冷気をとりいれるため窓を開けるように切り替えたので比較のグラフより温度下がっているけれども、昼間は完全一致。

完全一致!?
うーん、散水量が足りないかな。

▼8/28 散水あり。スプリンクラーから穴開きホースに切り替えまんべんなく散水。加圧ポンプも追加。こんどこそ、

うん、完全一致!

▼8/29 散水あり。いやいやいや、気を取り直して

ほら、完全一致・・・
あきらめて冷房入れたよ。まったく。

うーん、うまくいけば自宅や今後の計画に活かそうと思ってたんだけど、ほとんど違いが見えない。
東側の窓は少し涼しく感じるようになったけど、これでは屋根散水の意味ないんでね。

なんでかなーー。
センサリングの問題か、ほんとに効果がないか、わかんないな―

検証

テンダーさんのラボも屋根散水してみたところ、屋根の表面温度は下がるけどほとんど効果が実感できないとのこと。
条件はかなり異なるけれども、これは何かあるはずだ。

なんとか納得できるものを得ようと、建築学会で屋根散水やエクセルギーに関する論文を検索して、概要を片っ端から読んでみる。

そのうちに、こんな論文を発見。

論文の内容を簡単に書くと、「無断熱の屋根散水の効果を実証する論文は結構あるけど、断熱されたものは検証されてないので実測してみたらほとんど効果なかったよ」というもの。

先の論文は、その原因を工学的に分析するところまで行ってなくて、ほんとそうなの?ともやっとする。

うーん、結論としてはスッキリしない。

いろいろ考えた挙げ句、前回のエクセルギー本に日射によるエネルギー・エクセルギーの収支を計算する例が載っていたので、それを参考に、気化熱を反映した計算にトライしてみた。

各種条件から気化熱による値を計算するのはかなり難しそうだったので、気化熱で奪われる熱量を変数として指定する方針で検討。ある程度独立した数字として扱えそうだったのでやってみた。

ついでに、いろいろなパラメーターから日射が室内にどう影響するかをこちらもマリオネットでグラフ化。
そうやって出来たのがこれ。(クリックでPDFが開きます。なかなかの資料だと思う。間違ってるかもだけど。)
→日射エクセルギー
これからかなりのことが読み取れるけれども、断熱性能(熱抵抗値)と蒸散で奪われる熱量との関係を図化した部分がこれ。

気化熱の扱いはもしかしたら間違ってるかもしれないけれども、あってるとすれば、
蒸散によって奪われる熱量と内部に向かうエネルギー、屋根の表面温度の増減は比例するっぽい。
屋根の表面温度は断熱性能とそれほど大きくは相関しない(熱抵抗値が上がると内に向かう熱量が減る分、むしろ表面温度は上がる)。
しかし、内に向かう熱エネルギーとエクセルギーは断熱性能が上がるほど目に見えて減少し、熱抵抗値4.0だと絶対値として気化熱の影響はほとんどうけなくなった。

断熱性能が上がると、内へ向かう熱量ももちろん減るが、伝熱のスピードもかなり減速し、昼夜のリズムの中では他の要因によってほとんどかき消されるものと思われる。

うちの事務所の屋根は熱抵抗値4.3以上あるはずなので、それは効果が実感できないはずだ。暑くなるのは他の要因が大きいのだろう。

ちなみに、テンダーさんのラボは屋根の断熱性能はほとんどなさそうだけど、天井があり、ほとんど換気されない小屋裏空間がかなりの容積で存在する。
その小屋裏空間の熱容量はかなりのもので、そこが熱溜まりとなって屋根散水の効果の多くをかき消していると想像される。

結論(仮)

結論としては、高い断熱性能の屋根では屋根散水はほとんど効果がないため、他の部分で対策を考えたほうが良い。
また、小屋裏空間を設けて、夏はそこを十分に換気するというのも大きな意味がありそう。
断熱性能が低く屋根裏が剥き出しのような建物の場合は、屋根散水の効果がある程度は見込めそうだし、費用対効果は高いと思う。(水道代は未検証。雨水とポンプで考えれば割りと安くできるはず)

ここで学んだのは、例えば蒸散によって冷エクセルギーを得ようとした場合、どこでそれを得るかの考えが重要、ということだ。

私はエアコンが苦手なので、エアコン無しで夏の大部分を乗り切ろうとした場合、どこでどうやって冷エクセルギーを得るか、夜間に蓄冷をどうするか、ということが重要かもしれない。その際、植物の振る舞いはとても参考になりそうな気がしている。

窓の向きや大きさは大きな要素だけど、断熱性能だけに頼って、窓をとにかく小さくするようなのも、何か楽しくない。

夏冬の相反する条件をうまく対処して、それが楽しさへとつながるような家ができないものだろうか。

こんなに効果ありました―!というブログを書くつもりが、こんな結果になりました。
おかげで、かなり突っ込んで考えられて感覚も掴めてきたので結果オーライということで。

arduinoコード

ボタンスイッチとシリアルモニタからある程度制御できるようにしてます。内容はコード内のコメント見てください。
(メモリの96%を使用。このタイプのarduinoではあまり複雑なプログラムはできなさそう。)
→onoken1.txt
いろいろ購入したもののリストは気が向いたら作成します。(失敗もあり)
主だった購入リストをamazonの欲しい物リストにまとめました。

Amazon 欲しい物リスト

・arduinoは互換品だったけど、今のところ問題なさそう。
・気圧温度センサーは、湿度測れるって書いてたのでこれにしたけど、測れないっぽい。3.3Vではなく5Vのものにしたほうが良かった。湿度測るなら、BMP280ではなくすこ少し高いけどBME280にするべきかと。
・原因は分からないけど、このSDカードリーダーはaruduinoの電源をアダプタから取ったときにうまく作動しなかった。次買うとすれば、もっと定評のあるものにするか、原因を突き止めるか。(追記)アダプタを9V2Aのものから12V1.25Aのものに変えるとちゃんと作動しました。
・接触式のリレーはカチカチなるので、気になる場合は非接触式がいいかも。耐久性も高いそう。
・ポンプなんかはもっと適したものがありそう。井水使わないなら、雨水溜めて、もう少し性能の高いものにしたかな。

あと、買ったものはほとんどが、説明書等が全く無くてものだけだったので、説明書なりメモがついてるものか、ネット上に情報が載ってるものを使ったほうが良いと思った。例えば、LCDやSDカードリーダーも接続等迷って動かすのにそれなりに試行錯誤が必要だった。I2CとSPI通信はだいたい分かったかな。




はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則)

宿谷 昌則 (著)
井上書院; 改訂版 (2010/9/25)

別のエコハウス関連の書籍で本書に掲載されている表が載っていたので気になって購入。

エクセルギーとは

エクセルギーは聞き慣れない言葉である。

例えば、「エネルギー消費」「省エネ」「創エネ」などと言ったりするが、厳密にはエネルギーは増えたり減ったり、創ったり、消費したりしない。ありかたを変えるのみである。これは熱力学第一法則「エネルギー保存の法則」であり、この世界の大原則だ。
では、先程の言い回しがどうなるかと言うと、実は消費されたり、生成されるのはエネルギーではなく、エクセルギーである。

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。
例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。
これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。

エクセルギーは資源性をあらわし、エントロピーは廃棄されるべきゴミである。

また、20℃の物体は、30℃の空気中では空気を冷やす能力を持つ(冷エクセルギー)が、同じ物体が、0℃の空気中では空気を温める能力を持つ。(温エクセルギー)、というようにエクセルギーは環境によってその能力が変わる。

エネルギーの全体量は変わらずとも、そこに偏りがあれば、資源性を持つ。それがエクセルギーである。

エクセルギーは今までのイメージを塗り替える

そのエクセルギーには実際どんな意味があるか。

まず、エクセルギー・エントロピーの概念を導入すれば、例えば何℃のお湯が冷めるまでどれくらいの時間をかけてどういう経過を経るか、というような、さまざまな現象を数値として扱い計算によって導き、その資源性を数字として把握したり比較することが可能となる。また、様々な形態をとる資源としてのエネルギーがどう循環しているか、というのを並列に捉えることが容易くなる。

例えば、「体感温度≒(室温+周壁の表面温度)÷2」みたいなことが言われたりするけれども、もっと厳密に、室温と周壁の表面温度その他の条件によって、人体が消費するエクセルギー、言い換えると人体に対する負荷/心地よさがどう変化するか、といったことを根拠をもって理解することができる。
▲p.79 この図を他の本で見かけて本書を購入した。
それは、熱力学の成果であるが、ある現象に対する今までのイメージをひっくり返したり、新たなイメージを得る、というような経験を与えてくれる。
これは今、環境について考えようとした場合に必須の経験かもしれない。

▲p.25
例えばこの図。20℃ 20Lの水を40度に温めたものと、20℃ 5Lの水を100度に温めたものでは資源性が異なる、と言われてピンと来るだろうか。
私は、同じエネルギー量なのに、そんなわけはない、と思ったが、実際にエクセルギーを計算するとこうなるし、平衡状態へ至るのに要する時間が大きく異なる。

エネルギーの持つ資源性を考えるには、そこにエクセルギーという概念のイメージを新たに付け加える必要がある。

地球という閉鎖環境と流れ・循環

本書の内容はヘビーな大学の講義2コマ分はゆうにありそうなので、すべてを説明はできないが、本書では、日照から、光、温度、人体、植物、有機物、熱機関といった多岐にわたる物事の流れと循環がエクセルギーという概念で説明されている。

そこには著者の通底する思想がある。

地球は、太陽から受け取った日射エクセルギーによって、上記のようなざまざまなシステムの流れと循環が生み出され、そこで生成されたエントロピーを宇宙へと排出することによって平衡を保っている、という「エクセルギー・エントロピー過程」を含んだ閉鎖系である。

▲p.50

その閉鎖環境の中で、これまで営まれてきた流れ・循環を、強引な操作によって乱れさせているのが環境問題であるとするなば、その流れ・循環を整え直すための理論を提示することが著者の思いかもしれない。

例えば、照明計画に関しては、

昼光照明とは、日射エクセルギーが消費され尽くすまでの道筋(過程)を照明という目的に合うように「流れ」を変えることだといえよう。昼光照明は「流れのデザイン」の一つなのである。(p.74)

と〆られている。
注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。
その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。
それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。

はたらきのデザイン

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。

「流れ」と「循環」は、ものやものの集まりではなく、それらの働きである。働きとは機能である。機能に対置する熟語は構造だ。もののかたちづくる構造の振る舞いが機能だからである。構造は<かたち>、機能は<かた>と言ってもよい。構造は写真に撮れる。機能は写真に撮れない。だから、構造は見て取れるが、機能は読み取らなくてはならない。(中略)「デザイン」といえば<かたち>――そう連想するのが常識だろう。<かたち>がデザインの一側面であることは間違いないが、「デザイン」にはもう一つの側面<かた>があることを見落とし(読み落とし)てはならないと思う、本書の副題を「流れ・循環のデザインとは何か」とした所以である。(p.339)

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。
しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。

その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。
そんなことに今、可能性を感じつつある。

メモ

・太陽の日射エネルギーの約半分が地表に吸収されるが、そのうち半分ほど(47%)は水の蒸発によって運び去られる。残りは対流によってが14%、放射が39%で、この収支が成り立つことで地表の平均温度が保たれる。水の循環による役割は大きい。と考えると気化熱を利用するのは自然の仕組みにかなっていそうな気がする。
・日射に対してエネルギー、エントロピー、エクセルギーがどのように割り振られるかの計算をエクセルで再現したところ、コントロール可能なパラメーターは入射角・吸収率・断熱性が考えられる。断熱性能を上げても、伝熱にかかる時間が長くなるだけで、トータルの室内に入るエネルギーは変わらないイメージだったけど、比較してみると外に逃げたり消費されたりする割合が変わり、断熱性を高めると室内へ向かうエネルギー及びエクセルギーもそれなりに減少する。また、吸収率の影響はかなり大きい。
・物体が電磁波によって放出するエネルギーは物体の絶対温度の4乗に比例。
・地球には日射を動力源、水を冷媒とした巨大なヒートポンプと呼べる循環がある。また、地球は植物の光合成を起点とした養分循環による熱化学機関とも言える。
・これからはパッシブシステムをよりよく働かせるようなアクティブシステム・アクティブ型技術・それに伴う哲学や思想、科学が必要。
・空間に放たれた光は最終的にはすべて熱に形態変化する。
・人体の温冷感覚は、人体を貫いてエネルギーや物質がどのように拡散していくか、身体エクセルギーの消費の仕方や大きさで決まる。
・冷房病は人体エクセルギーが過度に消費され続けて「だるさ」を感じさせることかもしれない。
・ある条件で、人体エクセルギー消費量が最も小さくなるのは、冬で室内空気温18℃・周壁平均温25℃の場合(2.5W/m2)、夏で室内空気温30℃・周壁平均温28℃・気流速0.2m/s程度の場合(2.0W/m2)となる。人体が快適と感じる状態を生み出すためには、室内空気温そのものよりも、室内空気温に対して周壁平均温を冬は上げ、夏は下げる方が効果が高いケースがある。
・湿度にも同様に資源性がある。
・冷暖房時には外皮から出入りするわずかな熱エネルギーの差が重要。何かの目的を達成するために発電所に投入されるエクセルギーはその20倍以上となることが多い。
・暖房において建築外皮の断熱性・気密性向上は、ボイラー効率の向上よりも、エクセルギー消費を減らすのにはるかに効果がある。
・冷房時には日射に起因する室内での発熱量を屋外日除け等によって減らし、照明等の発熱を抑えることが重要。
・夏季に、蒸発冷却や夜間放射冷却を利用し、対流によって涼しさを得るのを「彩涼」、放射によるものを「彩冷」という。その際躯体蓄冷が有効。
・植物は光合成によってグルコースを生産し酸素を廃棄するとともに、蒸散によって冷エクセルギーを生み出す。それが最も大きくなるのは日射量50W/m2,風速0.5-2.0m/s程度のときであり、蒸散による冷エクセルギーの生成には程よい日射遮蔽が必要。
・建物の長寿命化とは、生産過程の大量なエクセルギー消費と引き換えに、建材中に固定したエクセルギーを、工夫によってできるだけゆっくり消費が進むようにすること。
・エクセルギー消費量は当然住まい手の行動意識に大きく左右される。パッシブ型の冷暖房が十分に機能し「快」の知覚が得られるようにすることで、住まい手の行動を変えていくことも重要。
・実行(冷)放射エクセルギー(放射冷却)は、外気相対湿度が低いほど、外気温が低いほど大きくなる。外気温0℃湿度40%のとき5.5W/m2、外気温32℃湿度60%のとき1W/m2となり、夏に比べて冬のほうがかなり大きい。
・夏の1W/m2も人が涼しさを得るには必ずしも小さくはないが、地物の温度が高いと温エクセルギーになることもある。
・蓄熱は(外気側)断熱によってエクセルギーの蓄積量・定常状態までの時間がかなり大きくなる。
・物質は濃度の高い方から低い方へ拡散するため、ひしめきあって存在する液体水は、大気が水蒸気で飽和していなければ、温度の高低にかかわらず水蒸気になろうとする。
・いわゆる冷房病は人体が対流によって冷エクセルギーを受け取るような場合に起きる。
・大きな温エクセルギーを人体に与えることが暖房ではなく、大きな冷エクセルギーを人体に与えることが冷房でもない。冷暖房は、人体から周囲空間へのエントロピー排出がうまく行えるように、人体からほどよい温エクセルギーが出力されるようにすることである。




永遠のオルタナティブ B273『方丈記 現代語訳付き』(鴨長明 )

鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)

前回読んだ本で何度か出てきたので、たまには趣を変えてみようと思い、100分で名著と合わせて読んでみた。
小林 一彦 (著)
NHK出版 (2013/6/21)

方丈記が文学的にどれほど素晴らしいかは私には分からない。ただ、和歌に励んでいた長明が文学的な様々な手法を凝らして書いたもので噛めば噛むほど味がでるのだろうな、とは感じた。
また、長明がどのような思いで書いたのかも本当のところは分からない。ただ、そこから滲み出る人間味が人を惹きつけるであろうことも感じた。

驚くべきは、本書が800年ほど前に書かれたもので、今も読み継がれているということである。私もすっと読めたし、最後の終わり方に心を動かされもした。

本書はなぜ時代を超えて読み続けられているのだろうか。

それは、本書が本流の側になく、いつの時代もオルタナティブであり続けられたからではないだろうか。いわば、永遠のオルタナティブ。
本書に記された具体的な内容そのものよりも、オルタナティブとして今も残り続けているその事実自体が最大のメッセージとなっているように思う。

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ということをさらっと書いて終わりにするつもりだったけど、もう少しだけ。

最近、事務所のご近所さんになったテンダーさんと時々話をする機会があるのだけど、その中でオルタナティブという言葉が何度か出てきて気になっている。

そこで、国際文化フォーラムがテンダーさんの講座を開き、レポートを上げてくれていたの思い出した。

そして僕たちは、「主流こそ正しい」と考えがちな脳を持っている。これは群れで生きてきた人間が、群れで生き残るために獲得した本能といえる部分なのだけど、現代では広告やメディア、教育の力を合わせることで主流を誰かの意向に沿うものに変えることができてしまうので、もはやリスクを伴う本能となってしまった。
だから意識的に、オルタナティブに触れる / オルタナティブで在る必要があると僕は思う。(テンダーさんの「その辺のもので生きる」オンライン講座、はじまるよ! | お知らせ | 公益財団法人国際文化フォーラム)

この講座全体を通して、もしくはテンダーさんの生き方そのものを通してオルタナティブとは何かを考え続けることが示されていると感じるけれども、自分にとってのオルタナティブとはなんだろうか。
最近、そういうことを考えることが多くなってきた。
それは、事務所を移転した動機そのものだと思うけれども、その動機を含めて自分ではまだ分かっていないことだらけだし、本流であることは考えることを免除される、もしくは奪われることなので、少しでも逸れようとすると知りたいこと、考えたいこと、やりたいことが爆発的に増えていく。

一番は労働と時間(これも本流であることによって奪われているものだろう)の考え方がネックになると思うけれども、急がず、焦らず、しかしできるだけ早く、じっくりと気長に向き合っていきたいと思う。

(講座のレポートがすごく丁寧なので、プリントして綴じていつでも読めるようにしてみた。
 ただ、システム思考と交渉の回は一度読んでみたものの、手を動かすワーク系の回は、先に全部読むのは貴重な機会を捨てることになりそうなので、一旦読むのをやめた。実際に手を動かしながら、必要に応じて読んでみようと思う。まずは、火を起こせるようにやってみよう。)




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




世界にとどまる境界線に再び向き合う B271『体の知性を取り戻す』(尹 雄大)

尹 雄大 (著)
講談社 (2014/9/18)

サクッと読めたのでサクッと。

著者は柔道・空手・キックボクシングなどを経験した後、何かの違和感をもとに甲野善紀に師事し、韓氏意拳に入門した。その経験をもとに身体の知性とは何かを語る。

だが、ふと思うと、幼子は大人がおののく世界で無邪気に遊ぶ。遊ぶとは、この世界と全身で戯れつつ関係を結ぶということだ。(p.169)

幼い頃は誰もが好奇心のまま、身体の赴くままに世界と戯れる。それが、小学校に上がる頃から大人になるに連れ、頭で考え、他人の視線を気にするようになり、ルールから逸脱しない正しいことをせよ、と刷り込まれる。そして、自らの身体を通して世界と会話する方法を忘れていく。
大きく言うと、このことがいろいろな問題の根っこにあるのでは、というのが最近のテーマである。
いや、大きく言わずとも、ごく個人の問題としてもう少し自分の感性を取り戻したい、というのがある。

冒頭で、子供の頃に「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」に対して違和感を感じたことが語られるが、ちょうどこの部分をパラパラと読んだ次の日にとあるワークショップがあった。

私は関心があって参加させて頂いただけの立場にすぎないけれども、このワークショップを「子どもたちが身体を使って世界との関係を切り結ぶ技術を学ぶきっかけ」と(個人的に)解釈していた。
そのワークショップの冒頭で、付き添いの大人たちが子どもたちを学年順に整列させたのが少し気になったのだけど、これは本書によると、「命令するものに注目せよ」というメッセージであり、身体に緊張を与え、受け身の姿勢を強要したことになる。それはこのワークショップの主旨に対して全く反対の効果を与えたことになる。

とは言っても、相手に対し失礼のないようにしよう、と言うのも分かるし、私も同じようなことをした可能性はおおいにある。
この時考えないといけないのは、この「相手に対し失礼のないようにしよう」というのも結局は「よく考えてからものを言いなさい」と同じメンタリティであって、子どもたちの体験そのものよりも、相手の視線、もしくは自分の体裁を気にしただけではないか、ということであって、子どもたち以前に自分たちの問題であるということだ。

また、このワークショップ中でも、あの子にはもっと身体を自由に試行錯誤させるような話しかけ方をすればよかったな、というような反省点が無数にあったのだが、比較的うまく道具を扱えている子はどの子もリラックスして自分なりの身体の使い方を模索できてるように感じた。

この本を読んで、また、この体験を通じて感じたのは、自分も「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」の呪縛から全く逃れられていない、ということであり、間違ってもいいので、肩の力を抜いて、もっと身体と世界の声に耳を傾けないといけないな、ということであった。(染み付いてしまっているので、簡単ではないけれども)

オノケン│太田則宏建築事務所 » B011 『自分の頭と身体で考える』

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。 それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。

若い頃には少しこだわっていたこの境界線、歳をとり家族が増えるにつれ、それを言い訳に見ないふりをしてきたこの境界線に、再び向き合ってみようと思う。他の誰にでもなく自分の身体に聞きながら。




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




触覚と倫理、周辺視とリアリティ B269『建築と触覚: 空間と五感をめぐる哲学』(ユハニ・パッラスマー)

ユハニ・パッラスマー (著), 百合田 香織 (翻訳)
草思社 (2022/12/13)

初版が1996年の著書の邦訳。

パッラスマーはa+u別冊で、学生の頃貪り読んだ「日本建築における光と影(1995.6)」とともに大きな影響の受けた「知覚の問題 建築の現象学(1994.7)」の著者の一人でもある。(めちゃ懐かしい)

視覚偏重の弊害とそれに対する触覚的要素の重要性はいまさら言うべくもないが、出版当時と比べても視覚の偏重っぷりは加速しているし、だからこそ視覚以外の体験的要素の重要性は増している。
また、それらは求められるようになってきてもいるだろう。

触覚と倫理

では、なぜ今本書か。

それに特別の理由がある訳ではないが、5感を持ってして世界と関わる経験を取り戻してみたい、というのが最近のテーマであるし、別に書いたようにそこには次世代に対する倫理的な責任があると思う。

そう、触覚を含め、体験に関してどう向き合うかははもはや倫理的な命題なのではないか。
最近そのように考え始めている。

それで、改めて、「つくることと」と「つかうこと」、「建てること」と「住まうこと」について改めて関連書籍を読んでみたいと思っているところである。(引用文では馴染みがあるけれども、引用元の原著をちゃんと読んだことがなかったので)

周辺視覚とリアリティ

また、本書の中で特に気になったのは、周辺視覚とリアリティの部分。

私はまた、私たちの住まう空間における内部性の経験だけでなく、この世界の「生きられた経験(体験)」における周辺的で焦点の絞られていない視覚の役割にも興味をかき立てられてきた。(中略)しかし、生きられた経験の本質は、意図していない触覚的なイメージと焦点の絞られていない周辺視覚にある。焦点の絞られた視覚は私たちを世界と対峙させるが、周辺視は生き生きとした世界で私たちを包み込む。(中略)しかし、建築のリアリティが根本的に依存しているのはどうやら周辺視のほうであって、その周辺視が建築のリアリティという主題を空間に包み込んでいるように思える。(p.21)

周辺視は私たちを空間に結びつけるが、焦点の絞られた視覚は私たちを空間の外へと押し出して単なる傍観者にしてしまうのだ。(p.22)

ここでも何度か書いている隈研吾のオノマトペの感覚は、触覚性と周辺視に関わっているのではないか、という気がしたし、リアリティに関する一つの手がかりを得られたような気がする。




建築を遊ぶために B268『意味がない無意味』(千葉雅也)

千葉雅也 (著)
河出書房新社 (2018/10/26)

オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。 オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

前回読んだ『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』に関連して購入したものだけれども、読み始めてから読み終わるまでだいぶ時間が経ってしまった。
読みはじめの頃は何かを掴みかけていたけれども、それがぼんやりとしか思い出せないので、書きながら思い出していきたい。

まず、下記の部分は撤回が必要かもしれない。
オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。

『意味がない無意味』の「はじめに」で著者が書いているように、私にとっての著者の魅力は抽象的な概念と具体的なものの間を行き来することの大切さ・面白さを体現してくれているその姿勢にある。

世界をどのように捉えるかの存在論は抽象的な言葉遊びというよりは、どのような姿勢で世界に存在し、どのように思考し行為するか、という根本的なあり方そのものを問うていて、具体的なものとは切り離せないのではないか。というようなことを著者は感じさせてくれる。

そういう意味では、先の文章は抽象的な思考に対するイメージが先行しすぎていたかもしれない。

「意味がない無意味」に何を掴みかけていたか

さて、「意味がない無意味」は無限に多義的な「意味のある無意味」、ブラックホールのような穴に対して、穴を塞ぎ有限性を身にまとうための石である。(表現として的確ではない言葉があるかもしれないけれども、断定的には書いていきます。)
「意味がない無意味」、穴を塞ぐ石としての身体が、意味を有限化し行為を実現する。

その「意味がない無意味」に何を掴みかけていたのか。

今年の指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」とし、山間の中古住宅を購入し、馬屋を改装し、事務所を移転したが、そのことと関係がありそうだ、と感じたのは間違いない。

遊ぶということは、ある部分での解像度を高めつつ、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを回していくことである。
それは、目の前の有限的で具体的なものとまさに遊ぶように向き合うことで、解像度を高めつつ染み出してくる有限性もしくは偶然性そのものを楽しむことであり、そこにはある種の快楽がある。
そして、それは無限の穴にハマルことなく世界と向き合うことを可能としてくれる。

自分の子供たちもそうだが、今は、そういう風に世界と向き合うことの経験が圧倒的に足りていない、と感じる。
あらゆるものがお膳立てされ、低解像度のまま生きていくことのできる世界で生かされ、唐突に世界へと放り出されても、穴に落ちずに生きるすべを知らずに、場合によっては一つの解釈xにしがみつくしかなくなる。

そういった生き方もありかもしれないけれども、そこでは想像力はむしろ穴へと続くものになり、おそらく生きていく足かせとなるだろうし、具体的なものとの接点を持たない想像力はおそらく世界を好転させず、世界の豊かさにふれる機会も貧しくする。

「意味がない無意味」の権利を認めること。
それは、今を生きる人の一つの作法となりうるように思うし、そうでなければ酷くつまらない世界、もしくは空気になってしまいそうだ。
(著者は、そういう空気に対して敏感で、かつ向き合うすべを開拓しているように思う)

「意味がない無意味」と「決定する勇気」

建築について。

自分は、関係性を開き、多様で多義的であることを受け入れるような建築を目指そうとしていると思っていたが、少しぼんやりしていたかもしれない。

関係性や多様なものに開くと行っても、無限に多義的なブラックホールに向かうのではなく、むしろ、いかにそれらを切り取り、有限化していくか、ということが重要だろう。

もちろん、ファルス的な単一のオブジェクトを目指しているのではないし、無限に関係性に溶けていくようなものを目指しているのでもない。

ここで『吉阪隆正とル・コルビュジエ』を読んだときの感覚を思い出す。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。
『彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。』
『吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。』
多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。 彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。 吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。 多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。

自分がコルや吉阪に惹かれるのは、こういう遊びを決定へとつなげる勇気に対してだと思うが、それが簡単ではないことも分かる。

<必然>や<使命>に還元せずに、建築を建築足らしめるには、おそらく本気で遊び、解像度と密度を高めていくこと以外にないし、失敗すれば単なる趣味の世界のおままごとに終わる。

自分はまだ本気では遊べていないし、解像度も決して高くはない。

果たして自分にできるだろうか・・・ もっと学び遊ぶしかないな。




カッティングプロッタ(Graphtech FC3100-120)が新事務所にやってきた。

カッティングプロッターをいただけることになった

吹上町与倉の新事務所の近くに(集落的には)若い人が引っ越してきて住んでいる、という話を聞いていて、話から面白そうな人そうなので、密かにお会いするのを楽しみにしていました。

その方が、先日訪ねてこられてダイナミックラボのテンダーさんだと判明(お会いするのは初めてで、別のところに住んでると思いこんでいたので最初気づきませんでした)。
1階に飾っている折り紙や建築模型を見ながらいろいろと話をしているうちに、なんとカッティングプロッターを譲っていただけることに!

ダイナミックラボって? | ダイナミックラボ〜廃校を利用した環境問題特化型の市民工房(ファブラボ)

もう、楽しみすぎて新しい折り紙の本なんかをかって、さっそくイメトレと試作をば。

オノケン│太田則宏建築事務所 » grasshopperのプラグイン”crane”で曲面折り紙をシミュレーションしてみる

そうこうしているうちに、ついにプロッターがうちにやってきました!

プロッターとPCを接続する

3月いっぱいは仕事が切羽詰まっていたので、4月になるまで我慢していたのですが、早速接続にチャレンジ。

テンダーさんの記事を参考に、アプリを入れて、テストを送信してみるも、ポート送信エラーが出て送れない様子。

FC3100-120

たぶん、時間が経ってサイトからアクセスできなくなったと思うのですが、記事にある、シリアル-USB変換アダプタの型番「20210」にジャストのドライバがどうしても見つからず、windowsの自動インストールされたドライバで試したのですが、相性が悪いよう。(ネット上でいくつか似てそうなドライバを見つけましたがうまくインストールできず)

パラレルのポートを試すか、シリアルポート付きの中古PC買うしかないかな、と思いながら電気量販店にいくと、変換アダプタが自分を待っていたかのように、不自然な感じでポツンとおいてあるのを発見。
少々値段がしましたが、ダメ元で買って繋いでみたら、無事に送信できました!

マニュアルを翻訳

マニュアルはネット上で発見。
GRAPHTEC FC3100-120 USER MANUAL Pdf Download | ManualsLib

英語なので日本語に翻訳をかけようとしたのですが、OCRでテキスト化しようとしたところ、PDFに埋め込んであるサイトへのリンクテキストのみが抽出されうまくいかず。

どうしたもんかと考えながら、結局、PDFから画像抽出ツール(リンクテキストを除外するため)→画像からテキスト抽出(グーグルドキュメントでOCR)→抽出テキストをワードで開いて日本語翻訳→そのままでは改行が多すぎて読みづらいので、改行を「  ▼」に置換、という流れで、その辺にあるツールをいくつも使ってなんとか読めるものに変換。便利になったもんです。

もとのマニュアルと見合わせながら読むとだいたい理解できました。

稼働!

テンダーさんからいくつか注意点を聞いていたので、それとマニュアルを合わせて設定を調整し、早速稼働。

あっという間に一つできました。

当然、精度も手で作るよりも高いです。
早速、カッティングシートも貼ってみることに。

模型やら折り紙やら、いろいろやれることが拡がりそうです。
細かい精度がどのくらい出るか分かりませんが、寺田模型店みたいな添景パーツも作ってみよう。

何かが動き出し始めた

テンダーさんは、私が吹上に来ていろいろと考えてみたいと思っていたことの、ずっと先を歩いている人で、そういう人が近くに住んでいたというのは、全くもって幸運です。

スツールとベンチをお願いしていた、roamの松田さんと話をしていた時も感じたのですが、実際に動ける場所ができたことで、何かがゆっくりと動き出し始めたかもしれません。

ここに移ったことでどういう変化が起きるかは未知だったのですが、これまで、ぼんやりとリアリティを伴わないまま考えてきたことが、新しい回路ができて少しづつ身体と頭がリンクしていきそう。

思っていたより早く動き出しそうですが、焦らずじっくり楽しんでいきたいと思います。




近代と遊びとエコロジー ~解像度についてのメモ

・近代は分断によってブラックボックス化とアウトソーシング化を進めることで、さまざまなものごとに対する解像度が低いままでも生きていける状態を必死で作り上げてきたと言える。あらゆるものごとが便利になった。

・遊びとは、ある特定のものごとに対する解像度を高めていくことだと定義してみる。そうすると、近代はあらゆる場所から遊ぶ機会を排除してきたと言えそうだ。

・エコロジーは近代によって不要とされてきた解像度を再び高めていくことからスタートする。まずは目・感度を養うことが重要。

・そうすると、エコロジーと遊ぶことはかなり近いところにありそう。

・昔から便利さにある種の危うさを感じていたこととも関係があるだろう。

・住まうこと(使うこと)の半分は建てること(つくること)の中にあり、そこに人間であることの本質がある、というようなことも、解像度を高めることと関連して考えられそうだ。

・エコロジカルに遊ぶことが人間にとって本質的なものだとすると、このままそれらが置き去りにされたままで果たしてよいのだろうか。

・自分たちは別に良いとしても、子供たちに渡すべきものを半分置き去りにしてしまっているとしたらどうだろうか。

・今年掲げた「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」ということが少しだけ見えてきた気がする。




grasshopperのプラグイン”crane”で曲面折り紙をシミュレーションしてみる

趣味の折り紙は、あまり範囲を拡げず仕事から距離があるものを、と思い生物をメインに折っていたのですが、とあるきっかけがあって、今まであえて踏み込まないでいた、三谷純の曲線折り紙に手を出すことにしました。(このことについては進展があったら書く予定)

それで早速三谷氏の本を三冊購入。

grasshopperに折り紙のシミュレーションができるプラグインがあると聞いたので、早速インストールして試してみました。

Crane | Food4Rhino

まずは、いい感じだったうねり六角注の再現をしてみることに。

パラメーターを変えて形状をいろいろと試すことができます。(今後もう少し自由度を持たせる予定)

続いて短冊状のタイプと放射状のタイプも組んでみました。

n角形の短冊タイプの端部がきれいにまとまる条件はなんだろうと思って実際に折って絵にしてみたらθ≒180/nで良さそうです。PCの複雑な解析が必要かと思ってたけど図形で考えると単純だった。なるほど。

試しにプラスチック系の障子紙を買ってきて照明にしてみたら想像以上に良い感じ。
形状もほぼシミュレーションどおりになりました。(右側は三谷氏の作品そのままです。)

まだ試作段階で改善点もありましたが、いろいろ試してみて新事務所の照明で使ってみようかと思います。




関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

グレアム ハーマン (著)
人文書院 (2017/9/26)

現代の一般教養の一つとして一度ハーマンを読んでおこうとだいぶ前に購入。
まだ感想がぼんやりしているが、今頭に浮かぶことを書いておきたい。

いいとこどりの見取り図

実在論もしくは形而上学的な、一つの理論によって世界を還元しつくすということに対して根本的な部分での欲求を持ち合わせていないため、また、知識不足もあって読み進めるのが少し難しかった。
けれども、著者のやろうとしていることは、人間、生物、非生物から概念や想像上のものまで、あらゆるものを一つの見取り図の上に並べて捉えられるようにすることではないか、というのはぼんやりと感じた。(ようするにいいとこどり?)

なぜ、私は還元に対する欲求に共感できないのだろうか。

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。
ただ、

四方対象の哲学がもつ明らかな価値の一つは、様々な知識を相対的に民主化することである。(p.222)

と著者がいうように、ハーマンの提示する見取り図は、その上にあらゆるものを載せて扱うことを可能にするのではという期待を抱かせる。

思えば、学生のころからアフォーダンスやオートポイエーシスに関心を抱き続けられているも、これらが、システムや知覚といったはたらきによって、人間からまちやコミュニケーション、意識といったあらゆる対象を扱えることを可能にするような懐の深さがあり、今なお新しい扉が開かれ続けているからかもしれない。(そういう意味ではハーマンの見取り図によって、これらを整理することも可能かもしれない)

建築のイメージを更新できるか

さて、本書によって建築に対するイメージはどんな風に更新できるだろうか。
(本書を読んだ目的は、ハーマンの影響のある建築を多少なりとも理解するための、最低限の教養を得るためだった)

それについては、内容をあまり理解できたとは言えないため、10+1の記事を参考にしてみたい。

10+1 website|オブジェクトと建築 ──千葉雅也『意味がない無意味』、Graham Harman『Object-Oriented Ontology: A New Theory of Everything』|テンプラスワン・ウェブサイト

ハーマンのすべてのオブジェクトが互いに退隠しており自立的である、という主張の重要性をあまり理解できていないので、ここではとりあえず、ラトゥール的な関係性、すべてはアクターであるとした際のネットワーク、もしくはドゥルーズ的な変化する関係性に注目した建築と、ハーマン的な自立性に注目した建築とでは、空間の質が異なってくる、という仮定のもと考えてみたい。

だが千葉にしたがえば、ハーマンが語る対象は、複数化されているとは言え、依然としてファルス的なもの、つまり〈意味がある無意味〉である。(10+1 website|オブジェクトと建築 ──千葉雅也『意味がない無意味』、Graham Harman『Object-Oriented Ontology: A New Theory of Everything』|テンプラスワン・ウェブサイト)

建築におけるハーマン的な自立性を考えた場合、それぞれの要素の自立性と建築総体としての自立性が考えられるが、前者はおそらく、モートン的あるいは門脇邸的な建築のイメージになるだろうし、後者はファルス的・シンボル的な建築のイメージになるだろう。また、そうした入れ子がそれぞれ自立したオブジェクトとしてある、ということにもなるだろう。

個人的な実感としては、関係性というものはある意味自立した存在の間に成立するものだと思うので、関係性を感じさせることと、自立性を感じさせることは実はあまり違わないのではないか、という気がする。

または、前回の『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』での議論のように2項対立的な思考のうち一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考として、関係性と自立性の重なりによるグラデーションとして捉えるということも可能だろうし、空間としてはおそらくどちらかのみ、ということはありえず、互いにもう一方を必要としているように思う。

(ただし、本書を何度も読み返すことで理解が深まった結果、より豊かなイメージを得られる可能性はおおいにあると思う。)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。
オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

もしかしたら、関係性と自立性の重なりは、「意味の深さ」のような度合いとして捉えられたりしないだろうか。

自分にとっての本書のポジションは『意味がない無意味』を読んだ後に定まるのかもしれない。




畑日記 2023.02.12


次男は用事があったので来れなかったけど、長男と三男と一緒に念願の畑作り。
防草シートを剥がすのが一番大変だったけど、畝作って肥料混ぜて緑肥の種まくとこまで、予定通りいけた。
初心者なのでうまくいくかどうか。とにかくやってみよう。

子供たちとこういう時間をあまり取れていなかったので、よい経験になった。




それでも建築をつくるために B266『空間の名づけ――Aと非Aの重なり』(塩崎太伸)

塩崎太伸 (著)
NTT出版 (2022/9/28)

ツイッターで見かけて面白そうだと思い購入。建築・都市レビュー叢書は意外にも初めて。(他のも面白そうなので読んでみよう)

それでも建築をつくるために

本書の序盤では、例えば、差異から類推へ、外在性から内在性へ、要素論から構成論へ、というようなキーワードが出てくる。
それは、近代的な分断の思考から距離をとるための態度だと思うけれども、一旦距離を取ったその先で、それでもなお建築であることは可能か、というのは自分にとって重要なテーマである。

分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。
ぼんやりとしたイメージやアプローチするきっかけはあるものの、具体的に設計を進める上での拠り所が何か欠けている。
そんな風に感じている。

それに対し、著者はそれでもなお建築であるための可能性を、名づけという独特の言葉を使って探っていく。
著者は私と同年代でもあり、ある程度問題意識は重なっていると思うが、本書はその「それでもなお建築をつくる」ための探究の書と言ってよいかと思う。

以下、本書を読んで考えたことを書いておきたい。

所有から保有 名付けによって所有の概念に隙間を与える

名づけは3者間の重なりがあるところに生まれるが、他者が介在せず、所有と使用が一致する時には名づけは必要とされない。

これまで何度か書いてきたけれども、例えば土地や建物が所有の概念に縛られ、それが表出している街並みには何か息苦しさを感じる。
そんな中、(流行りの面もあると思うけれども)それまで所有(property)されていたところに、名づけをすることで他者が保有(possesion)できるような状況が生まれつつある。

所有権を放棄するわけではないが、他者と保有しあえるような名づけをすることで、所有の概念に隙間を与え、息苦しさを緩和しているようにも感じる。

まずは、名づけは、所有の概念から離れ、他者と何かを共有するための作法と言えるかもしれない。

名づけとは何なのか

いや、そもそも名づけとは何なのか。そのあたりが若干掴みにくけれども、具体的な名づけという行為そのもの、というよりは、名づけという行いの周りで起こる概念や関係性の変化のようなものをふわっとひっくるめて名づけと呼び扱おうとしているように感じた。
それは、おそらく名づけなくてもいいし、他の何かでも良いのだろう。とりあえず、そんな感じのものを名づけと呼んでいる、ということにしたい。

名付けには3者が必要である。例えば、私とあなたがいて、何かを共有しようとした際に名づけが生じる。
それは、以前書いた、間合いに少し似ている。

また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也))

間合いにおける2者の間にも3つ目の何かがある。それは、剣であったり、役であったり、空間であったり、リズムであったり。

とすると、名づけにも固定化しない距離の作法としてのリズムのようなものがあるかもしれない。

名づけてしまうことは距離の仮固定とも言えそうであるが、距離が定まってしまえば名づけの必要はなくなってしまうだろう。
もしかしたら、名づけが名づけであるためには距離を固定化しない名づけであることが必要なのではないだろうか。もし、名づけによって新たな一極が生まれてしまうのであれば、単なるイス取りゲームになってしまうだけである。

また、名づけは重なりに生まれる。
空間と言葉、建築と設計者、都市と社会、私とあなた、Aと非A――そして、未来の記憶との重なり。

切断された何かと何かの一方を選択する思考ではなく、重なりを目指す思考。
それは、今年の目標である、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、越境者として遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということとも重なりそうである。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。
そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる)

名づけはおそらく遊びのようなものになるのだろう。

みつめ方のリフレーミング 未来の記憶へ

さて、前置きが長くなったけれども、分断的な思考を経ずして、どうすれば建築的な強度を獲得することができるか。そのヒントを考えてみたい。

本書では、建築に関わる既存のフレーミング、空間・かたち・尺度について、モダニズム的な建築教育で身についてしまった思考から自由になるような、名づけを通した見つめ方を検討している。

・空間の名づけ 空間と場所を重ねる
建築家のよく使う言葉として、空間というものがあり、対する言葉として場所という言葉がある。
場所に対して空間はより建築的であると感じるが、リノベーションブームを通じて場所の持つある種の豊かさが注目されたりもした。
空間は建築、場所は建物である、と言ってもよい。
建物が建築になる瞬間に立ち会いたいと思いつつ、場所の持つ豊かさも見逃せないと思う。

この2つの言葉に対し、著者は、空間を「ところ」と「ところ」の関係性、場所を「ところ」と「非ところ」の関係性と整理し、「ところ」と「ところ」の関係性がおおい「ところ」は「空間み」が大きく、「ところ」と「非ところ」の関係性が少ないところは「空間み」が小さいとする。(スペーシングというみつめ方)

たしかに、純粋に「ところ」同士の関係性でつくられ混じりっけのないものは、強く空間を感じより建築的だと感じやすいし、既存の雑多な関係性を引き継いだリノベーションのように「ところ」以外のものとの関係性が豊かなものは、場所性を感じ、建築というよりは建物というように感じる。

空間か場所か、建築か建物か、という2項対立的な思考を、空間みという程度の問題、重なりの思考にスライドさせることである種の呪縛から少し自由になれる。

・かたちの名付け 思考を示す言葉と形態を示す言葉を重ねる
形態が恣意的であるかどうか、というのもこびりついてしまったトピックで、建築が自律性を確保するために、恣意性を排除しなくてはならない、というのも呪縛の一つであろう。
恣意性を排除するために、何かかたちを決定する理由が必要を求め、いわば他律的に形態を決定するが、ここには自律性の確保のために他律的であろうとし、逆に建築の形態を建築の形態そのものとして扱うことは恣意的にみえる、という混乱がある。

それに対し、著者は、恣意的であると感じるのは「かたち」が「かたち」との関係で位置づくときであり、「かたち」が「非かたち」との関係で位置づくときに恣意的と感じにくいと整理し、恣意性を「かたち」が何との関係で位置づいているか、という程度の問題、重なりの思考にスライドさせ、恣意性とはその程度に対する一つの名づけでしかないとする。(シェイピングというみつめ方)

・尺度の名づけ 対象のスケール(サイズ)と関係のスケール(プロポーション)を重ねる
尺度・スケールに関しては、2項対立的なイメージがあまりないのでそれほどしっくりきていないけれども、とりあえずメモしておく。

スケールに対しては、「対象」と「慣習」との関係によるものを「対象」のスケール(サイズ)、「対象」と「対象」との関係によるものを「関係」のスケール(プロポーション)と整理し、これも「おおきさ」の度合いとして重ね合わせる。(スケーリングというみつめ方)

空間・かたち・尺度について、それぞれのみつめ方、名づけが検討されるが、そこにあるのは様々な関係性である。
著者は、関係性に名づけを行うには、それをものとして扱う必要があり、我々はそういう扱いの訓練をしてきていないという。
著者が実際の設計の場面でどのような名づけを行っているかわからないが、関係性を言葉としてどのように発見するか。そういう訓練が必要なのかもしれない。

コンセプトから形式へ 類推論的転換

コンセプトとは何なのか。実のところよく分かっていない。

設計主旨と呼ばれるものは、整理した要件に対する応答でしかなく特別なものではないように思うし、個人の「やりたいこと」はコンセプトと呼ぶに値するものとは思えない。
コンセプトを書け、というような教育を受けてきたような気もするし、(少なくとも私のいた大学では)それすら求められてなかったような気もする。
それでも、何かしらコンセプトというようなものを主体的に設定し、それを形に投影せねばならない、というような空気は確かに存在したような気がする。

著者はコンセプトの投影により、条件から形を導く流れに対し、形式の類推・引用によって、形から条件を導くような流れを推奨する。

この、「ちがう」と思われているものが「おなじ」であるような世界の重なりを想像していくアナロジカルな転換は、帰納的思考、演繹的思考の対立、

ア. 部分から全体へ 連結 帰納(induction)
イ. 全体から部分へ 分割 演繹(deduction)

に続く第三の思考

ウ. 集まりから重なりへ 類推 仮説(abduction)

として捉えられている。

ここで、ある種の価値観や優劣を含んだ言葉を重ね合わせ、類推と仮説によって関係性に新たに名づけを行う効能とは何だろうか。

形から重なりの豊かさを見つけ出しながら、それを再び形へとフィードバックしていくようなサイクルをくりかえすことによって、いくつもの重なりを浮かび上がらせる。
それは、ある種の価値判断が染み込んでしまったものを解きほぐしながら、フラットに、そして自由にふるまうための作法のようにも思える。

そこでは名づけによって価値を与えるというよりは、名づけること自体に意味があるのだろう。
そう考えると、本書で挙げられている建築家による名付けの例も、著者が

いつか、「やりたいこと」よりも、物そのものを建築と呼べる瞬間に立ち会いたい。(p.291)

というように、そうい瞬間に立ち会うための言葉のように思える。
いつの時代の建築家も、最後は物そのものと向き合うためにこそ、言葉を紡いで来たのだと思うし、時代によってその表れ方が変わってきているだけのようにも感じる。

なので、もしコンセプトというものがあるのだとすれば「物そのものと向き合うこと」というようなものになるかもしれない。
そのために様々なアプローチ・手法が存在する。

また、これまでの議論にならえば、コンセプトから形式への話も、「条件」から「形」が導かれるものを「コンセプトの投影」、「形」から「条件」が導かれるものを「形式の類推・引用」と整理し、例えば「コンセプトみ」や拘束度のような程度の問題、重なりの思考にスライドさせることもできそうな気がした。(ガイディング?)

これまでの思考との重なり

さて、それはさておき、本書の内容に対し、これまで考えてきたこととの重なりがいくつか見えてきたのでメモしておきたい。

・オノマトペという名づけ

モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

隈研吾のオノマトペは名づけの一例ではないだろうか。ここでの「物質を経験的に扱う」という捉え方が名づけにおいても参考になるかもしれない。あるいは経験(関係)を物質的に扱う、となるだろうか。

・「複合」というコンセプト

以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここでは、生態学的な視点からコンセプトを「複合」あるいは「不変更」として、発見的、類推的に捉えている。

そうするとコンセプトから形式へ、というよりはコンセプト自体を投影的なものから類推的なものへのグラデーションと考えたほうが個人的にはしっくりくるかもしれない。

・名付けによるネットワーク

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro))

「複合」もしくは「不変更」あるいは「類推」による名づけは、ネットワーク内のある要素間を糸もしくは道路でつなぐようなことなのかもしれない。
その際の名づけ方・つなぎ方を「つなぎかえ」「近道」あるいは「成長」「優先的選択」として整理した上で目指す空間をイメージできるようになれば面白そうだ。

・寺田寅彦のアナロジー

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

このあたりにもヒントがありそうだ。
分かったことにしない「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持し、見る眼を形成する。
名づけはおそらく眼の問題なのだろう。

・レトリックという名づけ

レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。
設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明))

レトリックも名づけの一例として考えられそうである。
名づけが眼の問題とすれば、探索し発見する技術としてのレトリックは相性が良さそうに思う。

・ニューカラーとブレッソン

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)(オノケン│太田則宏建築事務所 » そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

この頃、ブレッソン的/ニューカラー的という視点とその重なりを整理したいと思っていたけれども、本書はまさにその部分に切り込んでいる。

・内在化と逸脱

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

投影的手法と類推的手法は内在化と逸脱と重ね合わせて考えてみると面白いかもしれない。
4象限マトリクスで捉えることで手法的に展開することはできないだろうか。

他にも、「出会う建築」で考えたことと重なりそうなものはたくさんありそうだ。

「出会う建築」で目指す姿勢と建築の方向性についてはある程度考えることができたと思うけれども、では、それをどうやって建築にするか、という手法的な部分のピースはまだ欠けているように感じている。

本書はそのピースを埋めるための一つのヒントになりそうな気がする。

名づけは設計プロセスにおける設計者自身の「からまりしろ」のようなものではないか、という気がしているのだけど、とりあえず設計の際に名づけを行う練習をしてみよう。
形が現れた後に名づけを捨て去っても、そこに何か「未来の記憶」のようなものが残ったとしたらうまくいったと言えるかもしれない。

(著者自身の設計プロセスに対してはあまり触れられていなかったけれども、それが知れるものがあればみてみたい。)




鹿屋の家 完成見学会を開催します。

2月4日(土)5日(日)の2日間、鹿屋の家のオープンハウスを開催いたします。

リビンクから開聞岳と桜島を望む、海沿いの家です。(ユクサおおすみ海の学校近くです。)

ご来場おまちしております。

※駐車場の調整等ありますので、メールやメッセージ等で一報いただけるとありがたいです。




SYGT 写真アップ


城山の家の写真を実績ページにアップしました。




都市新世の原理 B265『スケール 上・下:生命、都市、経済をめぐる普遍的法則』(ジョフリー・ウェスト)

ジョフリー・ウェスト (著), 山形 浩生 (翻訳), 森本 正史 (翻訳)
早川書房 (2020/10/15)

ジョフリー・ウェスト (著), 山形 浩生 (翻訳), 森本 正史 (翻訳)
早川書房 (2020/10/15)

ネット上で何度か見かけたので読んでみました。

流れの法則

本書の基本的な視点はペジャン&ゼインの提唱するコンストラクタル法則と一致する。

コンストラクタル法則によると、すべての流れるものは
・より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化する。
・それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる。
・上記の構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » それぞれのスケールにとって適切な流れの大きさや速さ、それに伴うデザインがある B189『流れとかたち――万物のデザインを決める新たな物理法則』(エイドリアン・ベジャン))

つまり、流れが最適化されることで様々なものに共通する法則が生まれる、ということである。

本書ではさらに、その法則に中に隠れた1/4のスケーリング則があり、その根拠が探ることで、下記のような疑問に見事に応えるようなものになっている。

なぜ人間は120年までは生きられても、1000年、100万年は生きられないのか?

なぜ生涯心拍数は、ゾウ、ネズミなどあらゆる哺乳類で、15億回とほぼ同じなのか?

細胞やクジラから、森に至る様々な生態系は、なぜ非常に普遍的、系統的、予測可能なかたちで、サイズに応じてスケールするのか?成長から死まで、それらの整理と生活史の大半を支配しているように見えるは方の数字4はどこからきているのだろうか?

なぜヒトの成長は止まるのか?なぜヒトは毎日8時間寝なければいけないのか?

なぜほとんどの企業は比較的短期間しか続かないのに、都市は成長を続け、最も強力で不死にみえる企業にさえ起こる破滅を回避できるのか?

都市や企業の科学は作れるだろうか?

都市の規模に上限はあるのか?あるいは最適規模は?動物や植物に大きさの上限はあるのか?

なぜ人生はますます加速し、なぜ社会経済生活維持のためにイノベーション速度は加速し続けなければならないのか?

人間の作り出した、たった一万年で発達したシステムが、何十億年もかけて進化した生前生物界と今後も確実に共存し続けるようにするにはどうしたらよいのか?アイデアと富の創造による活気ある革新的な社会は維持できるのか?それとも紛争と荒廃のスラム惑星になるしかないのか?

1/4のスケーリング則

様々なフラクタルなスケーリング則には1/4というマジックナンバーが隠れているという。
例えば、あらゆる生命の代謝率は体重が2倍になるごとに、約1.68倍になる(※注)(対数表示した際の傾きが3/4)が、同様に成長率の指数は3/4,大動脈長やゲノム長は1/4,大動脈と木の幹の断面積は3/4,心拍数は-1/4(体重が2倍になると、心拍数は2^-0.25=約0.84倍になる)・・・・というように、このマジックナンバーは生命に限らず、企業や都市の成長などの非生物にも現れる。
(※注 本書では、対数の傾きが3/4を言い換えると、2倍になるごとに75%増し、と書いているけれども2^0.75=1.6817…が正しい)

これは、(1)空間充填(2)端末ユニットの不変性(3)最適化(必要なエネルギーの最小化)のネットワーク原則によるそうで、例えば血管は(1)体を血管が充填し、(2)端末の毛細血管のユニットはトガリネズミもクジラもほぼ同じ(さらには血圧も同じ)であり、(3)血流を送り出すのに最小のエネルギーとなる形態をしている(血管が枝分かれをする際はエネルギー的に不利になるなる鼓動(波運動)の反射が起こらないように、前後で同じ断面積、つまり、枝分かれ後の管の径は枝分かれ前の径の√2となるようになっている)そうである。
さらに、空間充填をする際に、次元が一つ上がるようにみえる(例えば、1次元の線が面を充填していけば、面の2次元に限りなく近づくように)ことが1/4のマジックナンバーのもとであるようだ。(本書を読んで実際に検算してみると面白いと思う。と思ったけど、先程の0.75のような表記はナシかな・・・)

都市新世の原理

本書は生命だけでなく、企業や都市などにも生命のようなスケーリング則が当てはまることを突き止めていくのが特徴だが、その流れで、著者は人新生を都市新生と言い換えることを提唱する。

生命の代謝率、エネルギーの供給は3/4のべき乗、線形未満でスケールするのに対し、エネルギーの需要はおおむね線形で増える。
これによって、小さいうちは(エネルギー供給量)-(維持に必要な需要量)が成長に使われるが、やがて需要と供給が拮抗し、成長が止まり、やがて死をもたらす。
企業もこれと同様に成長のペースを落としながらやがて死に至る。

一方、都市においては、都市が拡大するに連れ、生み出す代謝エネルギーの供給は、その維持に必要な要求量よりも速く増大する。これが、都市がほとんど死に至ることなく、指数関数的に成長し続ける原理である。

生命の進化における最大の発明とも言える、死の原理を覆して増殖を続けるのが都市であるならば、新人生を都市新生と呼びたくなるのも納得できるし、がん細胞を想起してしまう。

指数関数的に成長し続けるということは、必要なエネルギーも指数関数的に増大しやがて破綻するため、その前にパラダイムシフトを起こすようなイノベーションが必要である。人類は、実際にこれまでも何度か、そのようなイノベーションを起こしてきており、これからもイノベーションを起こし続ければ良い、というのが楽天的な(これまでも何度も論争のあった)視点であるが、同時にイノベーションの必要なサイクルも加速しており、理論的には0へと近づくような間隔で世界をリセットするようなイノベーションを起こし続けるというのは不可能であるし、イノベーションに必要な資源も有限である。

著者は、それに対してスケーリング則の目でもって世界を捉えることの必要性を解くが、楽観的な解決法をあげることはない。
しかし、死の原理を覆した存在に対して、死とはいわずとも、減速のための大きな発明が必要なのは間違い無いように思う。
(とは言え、都市が拡大するほどエネルギー効率が良くなるので、みんな田舎に行け、というのもまた違う)

さて、本書で描かれたスケーリング則を建築の視点から考えるとどうなるだろうか。

最適化されたものの美

ありきたりな結論ではあるけれども、「人間は(1)空間充填(2)端末ユニットの不変性(3)最適化といったネットワークの原則、スケーリング則によって最適化されたものに美もしくは安心感を感じる」と仮定すると、それを感じさせるような形態を追求するとともに、『流れとかたち』で考えたような都市や建築のスケールに対する感度を高めることだろう。(例えば、黄金比も空間充填の原理を持つ)

都市に関しては、減速都市のようなコンセプトができればよいけど、資本主義の物語自体を書き換えない限り難しいだろうな。




2022年まとめと2023年の指針 遊ぶように生き、遊ぶようにつくる


2022年は環境という問題に対しての自分なりの指針を作ることが目標だったのですが、今年はじめに昨年、本を読み考えたことを1枚の紙にまとめてみました。
2022matome.pdf
それを今年の指針としたいと思います。

遊ぶように生き、遊ぶようにつくる

人新世を『「それ以外の世界」と生活世界を分断する近代的世界観による時代』として捉えた時、2つの世界の間の矛盾を生き、脆さを受け入れるような態度が必要になってきます。

そのためには、これまでの世界観を疑いながら、自分の感性を開き、解像度を高め、越境者となることが必要だと考え、昨年末にまずは生活に変化を与えようと、鹿児島市に家族との生活の拠点を置きながら、日置市の与倉に事務所を移しました。

そこで、エコロジカルな言葉と思考を手に入れつつ、遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、ということを今年の指針にしたいと思います。

遊ぶように、ということ

遊ぶように、と言っても悠々自適に好きなことをやりたいようにやる、ということとは全く違うように考えています。
遊ぶとは、目の前の未知なる状態を受け入れ、それと向き合いながら、自己と環境を自在に変化させていくことであり、そのためには、自分の思考とルーティンを疑い変化させて行くことが必要です。
そのために生活に変化を与えようとしているのですが、この先どうなっていくかというのは明確には見えていません。むしろ先が見えていないことそのものに価値があるということが重要です。

まだ、これまでの生活に引きづられて自分の思考とルーティンを大きく変えるようなところまでは行けていませんが、今年は遊ぶように生き、遊ぶようにつくる、を指針として変化を楽しんでいきたいと思います。




新しい景色がみたい B264 『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』(川島 範久)

川島 範久
彰国社 (2022/5/24)

一定期間ごと何かしらテーマを決めて自分を少しづつアップデートするように心がけているのですが、昨年末ぐらいからのテーマは「環境」でした。
近年、環境の問題と向き合うことは必須になったと思うのですが、自分の中でぼんやりとしている分野でもあったためまず前半は思想的な部分を重点的に取り組むことに。(ここで書いた読書記録では下記あたりが該当するかと思います。)

  • リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
  • 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)
  • 里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)
  • 近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)
  • ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)
  • 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
  • 2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)
  • 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
  • 自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)
  • 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)
  • 本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)
  • 宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)
  • 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)
  • 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)
  • システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)
  • 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)
  • 後半は実践的な問題として環境とどう向き合うか、というテーマで本をいくつも買い漁ってたのですが、奇しくも今年の春頃に環境シミュレーションに関する本が立て続けに出版されました。
    本書は、その中の一冊になります。

    環境シミュレーションというターニングポイント

    このブログでは実務的な書籍をとりあげることは殆どなかったのですが、この本は私にとっての一つのターニングポイントになりそうなので書いてみることに。

    本書は、建築の設計に環境シミュレーションを取り入れるためのガイドブックとして、実際の住宅事例をもとに、どのようなタイミングで、どのソフトでどのようなシミュレーションを行ったか、そのプロセスや結果の解釈、その理論的背景に至るまで、コンパクトかつ丁寧にまとめられています。


    上記は建築情報学会Meet Upの環境の回ですが、著者がどのような視点で本書をまとめられたのかが語られていますので是非見てみてください。

    いざ、環境に対して実践的に取り組もうとした時に、いろいろなアプローチが可能だと思いますが、自分にとっては環境シミュレーションというアプローチは合っていたように思います。
    例えば断熱仕様であったり、建物の形状であったり、設備の仕様であったり、これまでは、これまでの経験や、その場所の環境や予算、いろいろな資料などをもとに、ある程度の当たりをつけて、最後はいってしまえば「何となく」で、このあたりが落としどころだろうと決めていました。
    もちろん、できるだけ勉強して考えはするものの、今回のプロジェクトにとって最適な選択だったか、という最後のところはどうにもすっきりしない感じがしていました。

    昔からこの「何となく」「感覚で」という判断がものすごく苦手で、環境に対しても苦手意識があったのですが、環境シミュレーションを取り入れることで、その苦手意識はだいぶ薄れてくれそうな気がします。
    (もちろん、シミュレーションを行ってもモデル化の方法や条件設定によって結果が異なるため、現実とぴったり一致するということはないのですが、いくつかの可能性を比較することで、こうすればこれに比べてこの程度の効果がある、という相対的な判断ができるようになります。)

    実際にやってみることの重要性

    とは言え、この本を読んだからといって、環境シミュレーションのことが分かるようになるかというと、それだけでは難しいように思います。

    私も、ざっとは読んではみたものの、こんなことができるのか、という何となくのイメージを掴めただけで、実際に環境シミュレーションを実践に取り入れるのは知識と技術と環境を備えた人に限られるのでは、という印象でした。いずれチャレンジはしたいものの、そう簡単にはいかないだろうな、と。
    (実際、よく取り上げられているCFD解析ソフトの価格を問い合わせたところ、個人事務所では手が出しづらい金額でした。)

    そんな時、古巣の事務所からとあるプロポーザルに参加しないか、とお誘いがあり、要項を見てみると、環境をテーマとするのがよさそうでした。
    提出まで1ヶ月程度しか時間がなく、忙しい時期とも重なっていたため、かなり迷ったのですが、次にプロポーザルに出すとすれば、環境シミュレーションを取り入れることが必須だと思っていたこともあり、勝てるかどうかは分からないけれども、やれるだけやってみようと参加することにしました。

    その時にいろいろ調べたところ、Rhino+grasshopperのプラグインとして公開されているLadybugシリーズを使えば、ある程度のことが(rhinoの購入費用を除けば)無料でできそうだと言うことが分かり、rhinoはもともと興味があったこともあって導入することに。

    (そのあたりのことはnoteにまとめているところですのでこちらを見てください。)

    Vectorworksでモデリングを行い、簡単にrhinoにデータを渡して解析できるようにする、というのが目標だったのですが、ある程度のところまではできるようになりました。
    子供のころからプログラムになじんでいたり、ここ数年、自分に合わせたVectorworksのツールをつくるためにマリオネットやpythonを勉強していたのも幸運だったと思います。

    grasshopperと本書の間を何度も行き来しながらgrasshopperのコンポーネントを組んでいったのですが、本書がなければおそらくここまではできなかったと思います。
    また、完成されたソフトを使うのではなく、コンポーネントを組んでいく必要があったため、入力するデータとコンポーネントが行う処理をある程度理解する必要があったおかげで本書の理解がかなり進んだと思います。

    最初はできるかどうか自信がなかったのですが、必要に迫られ実際に手を動かしてみると、分からなかったことの意味が一つ一つ理解できるようになり、とにかくやってみることの重要性をこの年になって再確認した次第です。

    設計が変わるのか

    環境シミュレーションを取り入れることによって、果たして設計は変わるのか、という問いに関しては、確実に変わるように思います。
    建築の形態や仕様によって、光や風や熱がどのように変わるのかが視覚化できるようになったことで当然プロセスが変わりますし、曖昧なまま決めていたストレスも解消されます。というか楽しいです。

    数年前にBIMを取り入れてみて、もう以前のような作業には戻れないと感じているのですが、おそらく、環境シミュレーションも同じように取り入れる前には戻れなくなる気がします。

    もしかしたら手法が変わることによって取りこぼすような要素、見えづらくなるような要素もあるかもしれませんが、それはどういう変化に対してもあることで、その要素を意識的に取り上げるような方法を工夫するしていけば良いと思います。

    高断熱・高気密といった具体策だけを盲目的にみてしまうと、かえって環境と断絶させてしまうのでは、という不安を持っていましたが、シミュレーションという手駒を手に入れたことで、著者のいう「自然とつながる建築」に近づけそうな予感がします。

    最近、ようやくぷち二拠点生活を始めることができました。まだ、バタバタとしていて何もできていませんが、生活に変化を与えたことと、新たな手駒を手に入れたことで、新しい景色が見えてくるのではと、ワクワクしています。(ニッポンガンバレ)