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B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




B132 『職業は建築家―君たちが知っておくべきこと』

ローランド ハーゲンバーグ (著)

柏書房 (2004/11)

図書館にて。

全体の感想としてはあまりお勧めではありません。

その理由は

  • 値段(2100円)に対して内容がほとんどない。専門書としては安めの部類だけどテキストの分量がかなり少ない。遅読の僕が1時間もかかりませんでした。
  • テーマが良く分からない。本のタイトルと各インタビューの内容のつながりがほとんど感じられませんでした。初心者向けの本かと思わせるタイトルですが、個々の建築家の作品や思想に親しんでいないと、多分この内容では意味が分からないと思います。
  • 内容そのものもブツ切れで中途半端。個々の建築家にも迫りきれてない。

なんでこのタイトルにしたんだろう。

タイトルに見合うのはとってつけたような五十嵐太郎と村瀬良太による100冊のブックガイドだけ。

もともとは映像 だったみたいですが、こっちもそんなに評判はよろしくない。

あまりその建築家ならではの思想を浮き彫りにしてるとは言い難いけどとりあえず何点かメモ。

シェルターについても同じで、ロビンソン・クルーソーのように、海辺に暮らし、気候が良ければ、外で釣りをします。暑くなったり、嵐がきたら、しばし身を守る建物を造るのです。そのように自然環境に適応し、快適な暮らしをするということです。(原広司:もし自分のシェルターを創るとしたら、どのようなものになりますか?に対する返答の一部)

私が考える安全な空間とは、竪穴式住居のようなものです。半分が地面に埋まっていて、土に触れることができ、その上には丸太がかかっていて、丸太に触れることもでき、全体が、土と丸太、そして周りの森に守られているという、安心感を与えるものです。安全性とは安心感だと思います。したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。(隈研吾:建築における安全な空間とは、どのようなものだと思いますか?に対する返答の一部)

考え方が違うと思います。箱を作り内部空間をコントロールしようとするのは、いわゆる西洋的な近代建築の考えで、そこで空調や暖房器具、二重窓ガラスを用いれば、確かにエネルギーの節約になりますが、エコロジカルとは呼べません。真にエコロジカルな建築というのは、外部空間に向けて開かれているべきものだと思います。21世紀に向かって発展する新しいスタイルは、この考え方に基づくものだと思います。(中略)日本人は、伝統的に内部空間と外部空間の関係がとても大事で、場合によっては、庭などの外部空間の方が大事だと考えてきたのだと思います。(内藤廣:ヨーロッパではエネルギー節約のために窓ガラスを二重ガラスにしていますが、自分の事務所に二重ガラスを使用していない点は、気になりませんか?に対する返答の一部)




生活によって意識を超える


生活を見直すことでそこから意識を超えた豊かさを生み出す、とイメージしてみる。

ここでいう生活とは関係性をデザインすることである。(と言ってみる)

意識から飛び出したものとの関係性。そういうものがきちんと見えているか。


オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。

そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。




リアルとフィジカルに関するメモ

随分とのんびりとしたReactionになってしまいましたが。

『先端の音楽の告げる予言』さつませんだい徒然草

機械的に造られた環境を「ヴァーチャル」というのなら、その反語はもう「リアル」ではなくなってる。今やそこに位置するのは「フィジカル」。で、リアル はその両方を抱合してる。mixiでの出会いは当人にとっては立派な「リアル」だ。でもそこにはまだ熱い血は通ってない。フィジカルな経験、体験を通じて 血は熱を帯びていく。

になるほど。「リアル」を「ヴァーチャル」に対置することにずっと違和感があったけど、これでスッキリしました。

建築に関して言えば「フィジカル」がより重要、というか「フィジカル」を浮き彫りにするような「 ヴァーチャル」のあり方が求められてる気がする。

ヴァーチャルがある種の抽象の役割を担ってるような。

それと、もひとつ。

『その影は装飾か?』404 Blog Not Found

それは何か?物理である。こうした装飾を施すことで、本来はただのデータに過ぎない、ディスプレイに表示されるさまざまなものに物理的質感が与えられるの だ。そしてその物理的質感が、ユーザーの使用感をより自然なものとする。ものをつかめるのなら、ウィンドウだってつかめるはずというわけである。

確かに、いわゆる『Web2.0風』のデザインは影がついたりと奥行き感があって親しみやすくなってることがポイントなのは確か。

でも、それはデザインの手法やレベルの問題であって、装飾が善か否かという問題ではないと思う。具象的な装飾でなくても抽象化などによって自然の秩序を浮き彫りにすることはできるし、それこそモダニズムが手に入れようとしたものじゃないだろうか。

”装飾”といった場合、人によって捉え方が全く違うのは注意が必要。少なくとも、Dan氏とhigepon氏が同じ装飾について語っているようには思えないし、『「仮想の現実化」というのは必要だし、それが現実に近いほど使用感は「自然」に感じられる。』というDan氏の認識を除けば両者がそれほど違う方向を向いているようには思えない。

higepon氏の『建築に無駄な装飾をとりのぞくモダンアーキテクチャという流派があるが』 というのもモダニズムをスタイルの問題に矮小化してるようで気になるし。

B037 『装飾の復権-空間に人間性を』オノケンノート

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

僕的には、影をつけたり金属を真似たりというのはそういう秩序に近づこうとする一つの方法でしかないし、モニター上のデザインが独自の表現方法をいまだ見出せていない過渡期の状態である証拠なのだと思う。

モニターでの制約をひっくり返すぐらいの表現手法が見つかれば面白いことになるんじゃないでしょうか。

何が言いたかったか分からなくなってしまいましたが、リアルとフィジカルについてちょっと考えてみましょうというメモでした。

 




B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

Amazonで購入
書評/国内純文学


『本が好き!』経由でこの記事を読んでどうしても読みたくなってしまいました。

図書館にも著者のものはたくさんあったのですが、あえて1985年初版の本書を書評にしているところに興味があったので取り寄せて読むことに。(AmazonではなくOPSIAのHPで取り寄せ買いに行きました。)

いろいろと心に残るエピソードが載っているのですが、その中に、『ヨーロッパに負けないホルンを作ろうとして99.99%同質な真鍮を作ってホルンを作ったがよい音が得られなかった。研究した結果その差は99.99%の真鍮にあるのではなくて残りの0.01%の不純物にあることが分かった』、というものがありました。

塩やブランデーの味の違いも0.何パーセントかの不純物にあるそう。

そのエピソードを話してくれたという機械メーカーの社長さんはこう続けます。

「今の世の中はね、99.9パーセントばかりに眼がいってしまっている。ほんとうのモノづくりというのは、実は残りの0.1パーセントをどう作るかにあるんだということに気がついていないんですねぇ」 (p.40)

あぁ、こういうことなんだろうなと思いました。

パレートの法則ではないけれども、”豊かさの99%は1%の制御できない部分に含まれている”とか言ってみたくなります。(99%というのは大げさかもしれませんが)

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。

それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

その99%に目を向ける方が分かりやすく簡単なのは分かります。しかし、あまりにも皆がそちらの方ばかり向きすぎではないでしょうか。

”1%の何かが決定的にたりないもの”ばかりに囲まれた生活環境ってやっぱり何か哀しくはないでしょうか。

(僕はこればっかり書いてるけど)そうやって、リアリティーが身の周りから失われていってハリボテ化していくのは僕は嫌ですね。

30%は面倒なことが残るけど、決定的な1%は失われていない、っていう方を 選びたいし、実はその30%が決定的な1%をより活き活きとさせることだってあるのです。

寿司ロボットの出現で、安価な寿司が気軽に食べられるようになったと喜んでばかりはいけない。あれは、寿司のようなもの、寿司もどきにすぎない。こわいのは、寿司のようなものばかり食べさせられているうちに、人間は本当の寿司の味を忘れて、のようなものを寿司だと思い込む、ということにある。(p.188)

こんな風に、20年以上も前から危惧されてたことではありますが。

偶然にもunder’s highの『職人』っていうテーマとシンクロした本書、個人的に興味のある部分をクローズアップしましたが、働くってどういうこと、っていうのをとても考えさせられる本です。(あえて引用等はしませんので自分で読んで感じてみてください。)

かえる文庫の『高校生に読ませたい本』にぴったりだと思うのですが、こういう感じをいいなぁ、と感じる感受性が今の高校生の中にもまだ生きてるのでしょうか。

おじさんとしては『昔話じゃん。』で済まされないか、 ちょっと不安。。。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




地方はどこへ向かうのか。(草稿)

またまたですが、たこはんさんのエントリーを読んで。

この本は未読なので読んだらまた別にエントリーを書きますが、とりあえず今漠然と考えていることについて。

反論の余地のある未熟な考えであることは分かっていますが、(草稿)ってことでおおめにみて下さい。また、自分が実践できているわけではないので自戒の意味もこめて書きます。

たこはんさんの意見にだいたいにおいて共感するのですが、まだ僕の中で整理のついていないのは以下の部分。

前々から感じているのですが、地方というのはもう都会へ供給できる商品がないようなのです。グローバリズムっていうのには抗えないのです。

グローバリズムには一定の価値を強要し、同じステージに乗りなさい、という強制力や暴力性があると思うのですが、これと同じ方を向いているときっと上記引用の通りだと思う。

もともとグローバリズム自体が搾取する構造をもっているのだから、これに乗ってはやっぱり絶望的になる。

だからといってどうすれば良いかはよく分からないけれど、ベクトルを都市に向けるんじゃなくて今生活している地域そのものへ向けないといけないんじゃないだろうか。

そして、グローバリズムの価値観をずらして地域へと向くためにはグローバリズムに着せられている鎧を一つずつ脱いでいかないといけないように思う。

都市化とは外部への依存化を進める過程ともいえるけど、そこから自由になるにはそういった鎧(外部依存)を一つ一つ脱ぎ捨ててそれを生活への楽しみへと変えていき、それによって求心力を得るしかないのではないだろうか。(都市化の進んだ場所では鎧を脱ぎ捨てることはかなり困難でしょう。また、それが楽しみとなって求心力を得られるのが理想。そのためにイメージ化と実践が必要)

今一度、足元にある生活を見つめなおすこと。都会がどう転んでもできないことを楽しむこと。そして、幸せのイメージを育てていくこと。(幸せという言葉は使いにくいですががんばって使ってみた。)

そのためには『イチロー? 誰それ?』という強さ・感受性を育てることも重要になる。(ですが、知識による武装は必要です)

ただ、そういうイメージを育てていくことが難しいことは理解しています。

少し前にラジオで食育の話をしていて、『 今の大人世代にむしろ食育が必要だが飽食の時代で育ってきた大人を教育するのはかなり困難といわれている。だからこそ子供たち・次の世代の教育が重要になってくる。』というようなことを言っていました。

高度経済成長期 を経験してきた大人たちが、個人ならともかく地域としての価値観を変える(持つ)ことはかなり困難でしょう。

だからこそ、次の世代にイメージを引き継ぐことに目を向けなければいけないのだと思うのです。

そのためにはイメージを描き続けること。そして、少しでも実践していくこと。

それしかないのではないでしょうか。

キーワードは『生活』と『教育』。だと思います。

まぁ、あまっちょろい意見かもしれませんが、少しは楽しいイメージを描けなければ誰もついてこないのではないでしょうか。(それが難しいっちゅうねん!)

最後にm.mさんの記事から再度孫引き。

「自分の身体により近い足下にこそいろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。
今の社会は全員がよそのものでよそのことをやっているという感じがするんです。
私の理想は、人間が一日で歩ける半径40キロくらいの範囲で野菜や水など
必要なものが手に入り、その地域の中で暮らしが循環できることですね。
足下の衣食住のような小さな紡ぎあげこそが文化だと思うんです、
足下から生活をつくり上げる力がとても重要なんだと思います」(SOTOKOTO環境移動教室28よりSTARNETのオーナー馬場浩史さんの言葉)

雑誌の記事はまだ読んでいませんが、こういうことも関係があるでしょう。だって、僕たちが子供のころに”まちをどうしたいか”、とか生活そのものと直結するような教育を受けた記憶があんまり ないですもん。それとも、記憶がないだけで実際にはいろいろあったのかな。本当は小さいころからひとりひとりが真剣に考えていかないといけない問題だと思います。
(今日は早く寝るぞ)




ハガキ作戦参加望む

都城市民会館の保存に奔走されているヒラカワさんから下記のようなメールを頂きました。

9月議会に都城市民会館の解体を含む議案が上程されました。情勢はひじょうに厳しいと言わざる得ません。

つきましては、全国のみなさんから、市会議員へ保存を訴えるハガキを出そうという運動をすることにしました。

恐縮ですが、下記のリストの議員へ(できれば複数のたくさんの議員へ)、ハガキ(又は封書)を出してくださるよう希望します。

全国の市民会館関係者からの、たくさんの手紙によって、会館が残ることを念じています。

できましたら、このメ-ルを賛同いただける知り合いの方に広めていただきますと幸いです。

よろしくお願いいたします

僕なりの意見を添えてハガキを出そうかと考えていますが、賛同される方はコメントもしくはメールを下さい。

都城市民会館解体に対するそれぞれの議員の姿勢(保存派・解体派など)を記した、都城市会議員住所録をメールにてお送りいたします。(コメント時にメールアドレスを入力していただけるとそこに返信します。メールアドレスはブログ上には現れませんのでご安心を。また、9月27,28日に採決のようなので遅くとも25日までに投函お願いします。)

ヒラカワさんのブログに議員リストと議会事務局の住所が書いてありますのでそちらでも良いかと思います。

以下に、今思いつく僕なりの意見を簡単にまとめます。賛同される方、賛同されずとも市民会館保存には賛成の方は一手間をお願いいたします。

なぜ、保存を願うか。・まず単純にこの建物が僕の好みだから。・単純に簡単に壊しすぎじゃないかと思うから。(これでは文化の育つ隙がない。)・この建物がこのまちの一つの風景になっていると思うし、これからも風景であり続けられると 思うから。・まちの中から固有性だとか、場所性だとかが急速に失われていく中でこれだけの個性のものは貴重だから。(固有性がまちの最大の資源になっていくであろう中で、これを壊すのはあまりにもったいない。

このままいくとこのまちはどこにでもあるまちになってしまうし、後で後悔しても遅い。例えば宮崎県が東国原知事を 有効に使っているように(知事が自らしていることだが結果的にはそう)、有効に使えば計り知れない可能性があるし、その可能性はきっと時が経つにつれどんどん増すはず。

解体の危機から一転全国でも”先進的な事例”といえるような 方策を見つけて実行できれば、全国的に希有なポジションを獲得できるような気がするし、そういうチャンスはめったにない。)

・これから先、建築を志す多くの人に勇気や希望、感動を与え続ける事のできる貴重な資源だと思うから。

・ 子供たちの育つ環境として、こういうものも必要だと思うから。(これだけのものが身近にある子供は幸せ。逆にこういうものを目先のことだけでどんどん壊してしまうような社会で子供が育つのが怖い)

・ 目先のことだけ追い求めてきたやり方を転換し、長期的な視点を獲得するよいチャンスだと思うから。

より端的に言うと、この建物を簡単に壊すという選択をするのかどうかで、 都城が世代を超えてよい環境をつくっていくというビジョン・思想をこの先持てるかどうかが決まってしまうと思うのです。
最後にdanさんの記事から引用しておきます。

地方はやればできるし、やっていればできたはずなのである。それをやらなかったのは誰なのか。新幹線と高速道路をおらがムラに引くことばかり訴えてきたのは誰なのか。

実際はもう少し文章として練ってからハガキを送ろうかと思いますが、単純な思いで構いませんので皆さんなりの言葉でぶつけていただければと思います。

※これまでこのブログで都城市民会館にふれた記事はこちら




都城へ

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都城で『DOCOMOMOフォーラム都城』があったので妻と息子をつれて言ってきました。
内部見学を楽しみにしていたのですが、午前中に見学したようで見れずに残念。市民会館は今、工事中のような扱いでおおっぴらには公開できなかったようです。
それでも、充実の講師陣でこれほど貴重な話が聞けるとは思っていませんでした。

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講師陣は右より
■兼松紘一郎氏(建築家・東京・DOCOMOMOJapan幹事長)
■田島正陽氏(建築家・福岡・元JIA九州支部長・DOCOMOMOJapan会員)
■彦坂尚嘉氏(現代美術作家・アートスタディズディレクター)
■倉方俊輔氏(建築史家・東京理科大学、明星大学講師)
■磯達雄氏(建築ジャーナリスト・『昭和モダン建築巡礼』著者・「BankARTスクール」講師)
■五十嵐太郎氏(東北大学准教授・建築史家)

あと忘れてはならないのがこの会を主催して下さった宮崎のヒラカワさん。実は講師陣の多くは依頼があったのではなく自腹を切って自主的に来られたそう。(磯さんは僕と同じくヒラカワさんのブログを見てこられたそうです。ブログの力も侮れません。)

本当は妻にも聞いてもらいたかったのですが息子がはしゃぎ出したのですぐに外に出て子守になってしまいました。(会は盛り上がって1:30から5:00まで。すんません。子守ご苦労様でした。)

それにしてもここだけではもったいないぐらい面白く、かつ胸に届く話が聞けました。
都城市民会館が日本の高度成長時代という特異な時代に生まれたかけがえのない存在であることが良く分かったし、そうでなくても風景や記憶を形づくっているものを目先のことだけで簡単に壊してはいけないと改めて感じました。

話の内容を細かく説明はできませんが、各話で出てきたキメラ・怪獣、キャラ、乱暴な建築、41流性・超一流といった言葉のうちに共通して僕が感じ取ったのは、この建築には人間の中の野生だとか、どちらかというと自然の側に属するものが体現されているということ。

僕は1歳になった息子を連れて行ったのですが、こういう貴重な建物が壊され、街中から歴史だとか、人間の中の自然に属するものだとかが消え去り、つるっとした平和なものばかりになってしまったとしたら(かなりそうなってしまっているけど)、そういう環境の中で育つ子供たちはいったいどんな感受性を持つのだろうかと、大きな不安を感じます。

(そういった不安の裏返しが逆に実存的建築家に若い人なんかが魅力を感じる要因になっているのかもしれない。倉方さんの吉阪隆正とル・コルビュジエも読みたいと思っていたところ。何かヒントがあるかも)

今ではこの建物のような性質のもの(環境)は、特にこれからの世代にとってかなり貴重な存在であると思う。

それを壊すということは子供たちから風景や歴史や自然を奪うということになるのではないか。

この建物だけの問題ならよいが、今でも十分に様々なものを奪っている。せめてこのような建物ぐらいは残しておくという選択を大人はすべきではないだろうか。

最初の画像は磯さんのスライドよりアノ人と都城市民会館のコラージュ(?)。けっこうこの建物の重要性をあらわしているように思います。また、この講演をテープお越ししたものができれば下さいとお願いしてきました。もし、公開しても良いという返事が貰えたらここでも紹介したいと思います。やっぱり多くの人に聴いてもらわないともったいないし、そうでないとこのイベントの意義が薄れてしまいます。あと、その後の懇親会にいけなかったのが残念。その後の予定をいれてました・・・。




HS-04 四辺形からの家

敷地にめいいっぱい建てられる平行四辺形の形状をまず立上げ、それを前提として受入れた上で操作を加えています。それは動物や昆虫が環境に手を加えて自らの棲家をつくりだすようなイメージです。 “棲み家にしてやる”というスタンスから棲むことのリアリティーが生まれると思うのです。

2007年 住宅
敷地面積72.10㎡(21.81坪)
延床面積74.39㎡(22.50坪)






B111 『生きさせろ! 難民化する若者たち』

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livedoor BOOKS
書評/社会・政治


「本が好き!」より。
若者の不安定な労働環境を伝えながら『生きさせろ!』というのが如何にリアルで深刻な問題であるかを訴える。
日本が目指してきた社会の歪がすでに『生きさせろ!』という生存権を主張しなくてはならないところにまで来ている。

著者と同じ歳で、東京と鹿児島で派遣のバイトもしていた僕としてはかなりリアルに感じられる内容である。知っている人は知っているが、一歩間違っていれば僕だって負の連鎖に巻き込まれて這い上がれなくなるかもしれないという割とギリギリの位置にいたのだ。
だから、本著で紹介されている気付けば全く身動きの取れないところに落ちてしまっていた、というような事例は、その過程がかなりリアルに想像できてしまう。

いくら働いても生存ギリギリの収入しか得られず、風邪などのちょっとしたきっかけでホームレスに転落してしまうようなフリーター、過労死をいつするかわからない程働かされても何も言えないような正社員。
彼らは根性がないわけでも、怠けているわけでもない。
ただ、たまたま社会や企業の都合の良いところにはめられてしまっただけなのだが、それらが『甘い』とか『自己責任』といった言葉でかたずけられてしまうのがこの問題の一番厄介なところである。(本当に『甘く』なれないからこそ、過酷な条件に耐えてでも働いてしまう。『自己責任』という言葉はフリーター批判者の自己肯定の道具にもなるし、フリーター自信が問題を内面化し、自らをさらに追い込んでしまう原因ともなる。)

具体的なことは本著や類似書をあたって欲しいが、これらの問題は個人的な問題ではなく社会の構造の問題だということをはっきりしなくてはならない。
”派遣”という労働形態が”解禁”になったのはつい最近のことであるし、95年の日経連では労働者を①正社員②契約社員③フリーターに分類してそれらをうまく使いなさいというようなことを提言している。また、最近のホワイトカラーエグゼプションの議論は記憶に新しい。
ようはグローバル化した社会を勝ち抜くために、若い労働力を安く使い捨てにするというのは国をあげての政策であり、3割とも4割とも言われている非正規で使い捨てにされる労働者には、根性があろうがなかろうが、あなたの変わりに誰かがなってしまうということである。

『戦後最大の利益』なんてのは単に若者を使い捨てにした結果であって、”利益”を喜んだり、グローバル経済の恩恵を受けながらフリーターを批判するのは矛盾以外の何ものでもない。

それでは、僕らに何が出来るのだろうか。

月並みではあるがやはり、現状を知ることからはじめるしかないのではないだろうか。
前回読んだ本で宮台真司が日本人は”ゲーム盤”(自分が所属する社会のたとえば環境やルールなど)を意識するのが苦手、と指摘していたが”ゲーム盤”が今どのようなものであるかを知り、ゲームのルールを自分たちで変えていくんだ、という意識を持つことが大切である。
本著で”プレカリアート(不安定を強いられた人々)”という言葉が紹介されている。生きていくのに絶えず不安に曝され続けなくてはならないゲーム盤がすばらしいとはとても思えない。

皆がおかしいと思い少しずつでも声を上げれば少しずつでも変わっていくだろうし、現に民主党などはそういう雰囲気を感じ取って(小泉政権からの)ネオリベ的な自民党に対抗するような軸を設定し始めたようにも見える。

もう一度いう。これらの問題は『自己責任』といった個人レベルの問題ではなく、グローバリズムを背景とした社会の構造的な問題である。
『自己責任』という安易な言葉に逃げずに自分が、もしくは自分の子供が同じ状況に追い込まれたらという想像力のもと、一度彼らの現状に向き合ってみて欲しい。そして、自分たちの問題としてどのようなゲーム盤であって欲しいのか考えてみて欲しい。

また、本著は子供を持つ親や、今まさにフリーターであるという方たちにも読んで頂きたい。いざと言う時に自分を守ってくれる法律や方法、そして「もやい」や「フリーター全般労働組合」といった一緒に行動してくれるところも紹介されていて、それらを知っているだけでも不安は軽減されるだろうから。

新自由主義(ネオリベラリズム)とか現代の自由主義(ニューリベラリズム)とかややこしいですね。

wikipediaより
□新自由主義(ネオリベラリズム)
□現代の自由主義(ニューリベラリズム)
□コーポラティズム

よって、リベラリズムは自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題など様々な弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の意図に反して人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。

というようにネオリベを修正した現代の自由主義というのもあるようですね。(ますます混乱。)
ちなみに、宮台氏は『ネオリベ的な市場万能主義は誤りで、市場を(透明な)コーポラティズム(協調的談合主義)的に制約すべき』としています。

こういうのが一般教養としてもっと広まって、例えば『前回はネオリベ的小泉に期待したけど、どうもうまくないみたいだからどこかもっとコーポラティズムよりの政策を打ち出すところがあればそこに入れよう!』とかいう会話が普通に聞かれるようになってもいいのかもしれない。(それが民度が高いってことか。)

6/28追伸
おたこはんさんが言われるように身近な範囲でコミュニケーションの機会をつくって他の世界へのリンクの可能性を担保するのは必要かもしれない。




B108 『間取りがよい小住宅を作りたい―小さな家のアイディア集』

間取りがよい小住宅を作りたい―小さな家のアイディア集 (2004/02)
世界文化社


ちょっと一般向けの本でも読んでみようと別冊家庭画報の本著を図書館で借りてみた。
そんなには期待していなかったのだけど、どっこいなかなか良くまとまった良書だった。

住宅作家による小住宅の紹介・解説だけでなく、吉村順三、東孝光、清家清、増沢洵、菊竹清訓、篠原一男、安藤忠雄、丹下健三、藤木忠義、宮脇檀と小住宅の傑作が紹介されていり、かなり本格的。
住宅設計のプロセスの紹介や、設計の26のセオリーもおさえるべきことをおさえた内容でこういうことなら一般の人にも知ってもらいたいし、プロも割と使えるものになっていた。(ただし、セオリーで到達できることには限界がある)

これなら、住宅を設計すると言う仕事が等身大で伝わるのではないだろうか。

別冊家庭画報の他の住宅シリーズを読んでみたくなった。

昨日なんとなく見ていた『金スマ』に風水建築デザイナーなる人物が出ていてどこかで見たことあるなーと思ったら、この本に載っていた。この人だけ全体の趣と違って浮いてるなーと思ったので印象に残っていたのだが、今人気の人のようだ。編集部のウケ狙いが垣間見えた見えた気がして本著ではここだけが残念。ちょっと本の方向性がブレたんじゃないだろうか。
家相や風水を否定はしない。環境を読んだり、気の流れを空間の性格や人の感じ方の表現と考えると、なるほどなと思うことも多々ある。ただ、個々の部分だけを挙げて、これは吉、これは凶というのは正直困り者。
ただでさえ、情報過多の部分的な知識の積み重ねで、全体を見失う傾向があるのにそれに拍車をかけることになりかねない。
例えばこの本でも家相の知識として『2階が1階より大きいのは凶』と挙げられている。
一方、同じ本書で挙げられている名作小住宅のベストワンは吉村順三の森の中の家だが、これなどは2階が大きいことにが最大のポイントであり、家相の部分的な知識を盲信してしまえばこの名作は生まれなかったはずである。家相や風水はひとつの知恵として参考にするぐらいがいいのではないだろうか。(風水に徹底的にこだわるのもそれはそれでエキサイティングだが)




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




B103 『YES、YOU CAN Ver.2.0 (2)』

livedoor BOOKS
書誌データ / 書評を書く


本が好き!プロジェクト6冊目。

「元祖・カリスマ美容師」山野愛子の長男であり山野美容専門学校の理事長である著者がアメリカで過ごした波乱万丈の青春時代を振り返りながら若い人へ向けてエールを贈る。

18歳の時に単身アメリカへ渡り、様々な苦労を経て成功を掴むのだが、正直スタートラインから恵まれた環境であったことは間違いない。誰もが同じ時代に同じようなことができたか、というとそうではないだろう。経済的にというよりはむしろ、目標となる人間や肝心なところで先を示してくれる人間が身近にいたという点で。

しかし、同じような環境であれば誰でも同じような結果が得られたかというと、それも否である。
最初は読みながら、「自慢かいっ!」と突っ込みたくなることもしばしばだったけれども、読み進めていくうちにまっすぐな著者の思いに惹きこまれていく。著者のようなまっすぐさがあったからこそ成功できたのだろうし、自慢話のようなことも著者のまっすぐな思いの表れだと思うと違和感はなくなった。

本著のタイトルの元になったのだろうが、単身アメリカへ渡って最初のつらい時期に「YES,I CAN.(俺ならできる)」と自分に言い聞かせたそうだ。未来を切り開けるかどうかは最終的には自分をどこまで信じることができるかで決まると思う。
著者は、いつも「思えば叶う」と言いそれを実際に自分の身で示してきた山野愛子の姿を見てきたからこそ自分を信じ前に向かって突き進むことができたのだろう。そういう意味では、そういう親の元に生まれてきたのはやはり幸運なことだ。

本書で村上龍の「親になったとき、子どもにしてやれる最大の贈り物は、自分が好きなことをやって生活している姿を見せることである」という言葉を引用していたが、僕もそれが将来子どもにとって何にも変えがたい力になると信じている。にも書いたが、自分の親はまさにそういう姿を僕に示してくれた。今度は自分の番である。少し勇気をもらった。

僕はアメリカ的な成功というのを単純には信じることができない。(その裏側も忘れてはならないと思うから。)だけども、本著で書かれたさまざまなアドバイスは著者の実感や信念から出ているもので素直に受け入れられるものであったと思う。そして僕に不足している点もいくつか気付かせてくれた。今、まさに社会に出ようとしている人、そして身の周りに本当に尊敬できる人がいないという人は是非本著を素直な気持ちで読んでみて欲しい。そうすれば、きっと「YES,YOU CAN.」というメッセージが理屈ではなく勇気をもらえるというかたちで届くと思うから。著者は自分が受けた恩・幸運を返すつもりで、若い人の将来と真剣に向き合いながら教育に携わり、学生に対して万全のサポート体制を敷いている。
本著を読みながら、彼の学校から、将来への希望と勇気という何にも変えがたいものを胸に社会へ出はばたいていく若者の姿が思い浮かぶようであった。その姿は「どうせ生きるからには、明るく楽しく美しく生きたいんです。暗い顔をしてしょぼしょぼ生きているより、胸を張って堂々とね。そしてみんなから喜ばれ、感謝され、好意を持って迎えられるとしたら、思っただけで楽しいし、そうあるべきなんです。」という山野愛子そのものである。(少しそういう子どもが羨ましかったりして)山野愛子について書かれたものを読んでみたくなりました。
(ところで、表紙の写真とタイトルのver2.0の意味が分からなかったです)




B097 『前川國男 現代との対話』

松隈 洋他
六耀社(2006/09/26)

「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。

中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。

『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。

■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)

しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)

また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。

思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に

一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。




W019『ゆうかり保育園+デイサービスセンター』


□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:竹原義二/無有建築工房
□用途:保育園+ディサービスセンター
□竣工年:2007年
[gmaps:31.527043924837933/130.50812602043152/17/460/300](comment)[/gmaps]
竹原義二さん設計の保育園の見学会があるということで行って来ました。
デイケアの方は施工中でしたが保育園の中を一通り見せていただきました。

竹原さんのお話を伺っていると、どうも”混ぜる”というのがキーワードのようです。

園児と高齢者・・・異なる世代を混ぜる。
木・土・石・コンクリート・・・様々な素材を混ぜる。
暑い・寒い・心地よい・・・様々な温度環境を混ぜる。
様々な視線の抜けなどが用意されている・・・内外や部屋同士の関係を混ぜる。

といったように様々な工夫が見られます。

私たちの環境は、大人のエゴによって知らず知らずのうちに偏ったものとなってしまっていると思います。
それは子供たちが多様なものに触れながら逞しく育つために適した環境とは言えません。

建物内だけにとどまらず、街としても
遊ぶと住むを混ぜる。
働くと住むを混ぜる。
植物と建物を混ぜる。
昔と今を混ぜる。
大人も老人も子供も、人間も動物も、好きも嫌いも混ぜる。
・・・・
今までは”分離・排除”が良しとされてきたところがあると思います。
しかし、これからはいろんな”混ぜる”ということが大切になってくるのではないでしょうか。(出来れば車と歩くは分けたいですが)




B094 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

C.ダグラス ラミス (2000/09)
平凡社

東京にいる頃に本屋で見つけ題名に魅かれてつい買ったもの。
読んだ印象があまり記憶に残っていないので、そのときはそれほどリアリティを感じなかったのかもしれない。

今読んでみるとまた印象が変わるのかな、と思い再読してみた。
(さっき気づいたのだけど『世界がもし100人の村だったら』の再話・翻訳もダグラス ラミスだった)

内容はタイトルの枠に収まらず戦争や環境問題、政治についてなど幅広い問題を扱っている。
最初はタイトルを『21世紀へのコモンセンス』にするつもりだったそうだが、共通しているのは今流通している『常識』が私たちにとって正しいのか、誰のための常識か、と問うところにある。『常識』は、それは”常識だから仕方がない”というように、人々から思考の機会・選択の機会を奪う。
その機能ゆえに一部の目的のために『常識』が捏造され利用されてきた。
その代表が”経済成長・発展”が当然とする常識である。この本では、そういう『常識』を歴史を遡ったり、冷静に分析することでそれが如何に非現実的で、私たちの思考や選択の機会を奪っているかを解りやすく暴いていく。著者は今の経済主導の社会を氷山に向かって突っ走るタイタニックに例えている。(僕はまだ観ていないけれども)『不都合な真実』が話題になっているように、舵をきらなくてはいけないことは明白だ。

舵をきるためには『常識』によって奪われている”思考すること・選択すること”を取り戻さなくてはいけない。
道は自分たちで描けると言うことを思い出そう。

今の『常識』を都合よく感じている者はそれを維持するために必死で人々の恐怖を煽る。
それから自由になることは簡単なことではないかもしれないけれど、それに打ち勝つ勇気と想像力を育てよう。
まずは『常識』の示すものとは異なる可能性があることをイメージすることから始めよう。

一番必要なのは、道を楽しく描いてくれる人なのかもしれない。

幾分昔の本だけれども今でも全く古びていないし、とても読みやすい本なので是非一度読んで見てください。それにしても、なぜ前に読んだときにそれほど印象に残らなかったのか。それが不思議です。
(あたり前のことといえばあたり前のことしか書いていないのもあるが、前は今ほど危機感を感じていなかったのかもしれない。また、鹿児島だからこそリアリティを感じられた部分もあると思う。)




鹿児島のかたち・地域のかたち

鹿児島、生活地域建築塾主催のシンポジウムがあったので行って来ました。

JIAの案内を見て知ったのですが講師はなんと象設計集団の富田玲子さん、U研出身の齊藤祐子さん(僕はU研と象とがごっちゃになっていましたが・・・)、そして進行が一つ前の記事で加世田で活動されていると書いた菊野憲一郎さんでした。びっくり。
また鹿児島サイドからは創建築計画研究所の溝口さん、かごしま探検の会の東川隆太郎さんが講演を行ったのですが、この東川さんという方が鹿児島のプロともよべる人で話がとてもおもしろく、そして熱い思いをもっていらっしゃる方でした。

東川さんは建築が専門ではないのですが、建築を含めた環境に対する視点や思いは設計者が反省を込めて見習わなければいけない、と強く感じました。

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

スライドでも笠原小学校などが紹介されましたが、吉阪隆正氏や象設計集団の建物、それから小松義夫さんの写真などをみると、自然と楽しくなってきますし、生命の力が湧いてくるような感じさえ受けます。
”これが建築なのだ”と思えます。
多くの人はこの楽しさを忘れてしまっているのではないでしょうか。
忘れているのならまだよいのですが、僕はこの楽しさを知らないというまま子供が育ち、それが世間の大半を占めてしまうということが非常に怖いのです。
現にそれはかなり現実のものになりつつあるように思います。

それをくいとめるには”楽しい、気持ちよい”こと、東川さんの言葉だと”なつかしい”と感じられること、これっていいでしょ、ってことをあきらめずに言い続ける以外にないのかもしれません。

今日の話は一般の人を含めたもっと沢山のひとに是非とも聞いてもらいたかったです。
みながこの”楽しさ・気持ちよさ”を知ったら街はずっといいものになるのにな。

懇親会では(最初お腹がすき過ぎて言葉が出なかったのですが)、齊藤さんや東川さんと楽しく話させて頂いてとても実りの多い時間でした。




B092 『コート・ハウス論―その親密なる空間』

西澤 文隆
相模書房(1974/07)

僕が生まれる前の年の本。
コートハウスについて論じられているのだが、図版つきで具体的に書かれているので解りやすく今でも十分に参考になる。

著者によるとコートハウスに期待するところのものは

敷地全体を、庭と室内を含めて、あますところなく住居空間として企画し、屋外にも残部空間を残さない住居であり、囲われた敷地の中に自然と人、室内と室外の緊密な関係を造り出す

ことにある。
このことは、僕が住宅に期待する大きな要素でもあるのだが、それは近代建築の作法や伝統的な日本建築の知恵などと重なる部分も多い。

しかし、周りを見渡すととてもコートハウスやコートハウス的思想が定着しているとは思えない。

住宅を快適にするにはかなり有効な方法に違いないのになぜだろうか、と考えるといくつか理由が考えられる。

一つは、日本の敷地の取り扱い方がコートハウスを困難にしている事にある。(民法では近隣の合意が得られない限りは隣地境界線から50cmは建物を離さなくてはいけない)

もう一つは、コートハウスは敷地の形状や特性に合わせていろいろな工夫をする必要があり、メーカー住宅などの規格化に向かない事にあるように思う。
規格化するためには、内外の緊密な関係などに興味を持たずに住宅というパッケージの中身だけで満足してもらっているほうが都合が良いのだ。(規格化というのは特別な工夫が要らず誰でもつくれる、ということでもある)

さらには、現代の近視眼的な傾向もコートハウスが目を向けられない要因の一つであると思う。というか、近視眼的な住宅・生活環境が人々を近視眼的にしているという側面もあると思うのだ。

建築を学んでいてコートハウスに魅かれない人はなかなかいないと思うのだが、それがなかなか一般の人に共有されていかないのはやっぱり少し寂しい気がする。

MEMO

■住宅はどこまでも外界から隔絶された絶対個人の空間でなければならない。そして敷地が広くない場合、自然を100パーセント楽しむためには敷地全体が庭であり、同時にまた住居空間でなければならない。
■住宅は劇場でも教会でも料理屋でもないから、そのような驚きを住む人にあたえることは禁物である。住む人はなんの心の抵抗もなく住めなければならない。しかしこのことは住宅が無性格であったり、無気力なものであることに通じるのではない。住宅は住む人びとに快い安らぎを与え、未来の飛躍に向かって前進すべき人柄のなかへと、ちょうど太陽が生きとし生けるものの身にしみわたっていくように浸透していくべき性質のものであらねばならない。
■サーキュレーション・チャンネルとして使われる廊下はできるだけ少なく、またその部分でも変化が楽しまれ、これにぶらさがる個人のプライバシィをその必要度に応じて保ちながら廊下から居間へ、居間から個室へと移りゆくに従って変化ある庭がもてるようにというのが私が住宅を設計する場合の願いである。

住宅が外部に対してオープンであるべきかどうかという事を悩んだりもするが、それは実は通りに対してもさして重要でないのかもしれない。
散歩をしていてなんとなくいい感じの家だなと思うのは、塀などで囲われていても、その中の庭や家の中での豊かな時間の流れが想像できるものが多い気がする。
そういう家は、住宅そのものがその敷地に対して安心して座り、満足しているような感じを受ける。それが、敷地の上に無造作に置かれ、さらし者にされているような家ではやっぱりあまりよい印象を受けない。敷地の上で住宅それ自信が安心し、楽しんでいるか。そのような見方も建物の良否を見分ける基準になるかもしれない。




コスプレ

cospla.jpg
整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。