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ムシについて B285『昆虫の惑星 虫たちは今日も地球を回す』(アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン)

アンヌ・スヴェルトルップ・ティーゲソン (著)
辰巳出版 (2022/3/30)

初心に帰る旅のついでに。

何度か書いた気がするけど、子供の頃はいわゆるムシキチでいろいろ捕まえては家で飼っていて、その中でも特に水棲昆虫が好きだった。
田んぼでゲンゴロウやミズスマシ、マツオムシ、ミズカマキリやタイコウチなどを捕まえてきて水槽で飼うのだけれども、そこに一つの世界が現れているようでゾクゾクした。(この小さな世界を好む性格は今の仕事にも繋がっていると思う)
水槽に産卵用のレンガを据えて、そこからタイコウチの幼虫がわらわらと泳ぎだしたときの興奮は今でもよく覚えている。

それが、高校以来、蚊や蟻、蝶などのよく見かけるものを除けば昆虫の気配をほとんど感じることなく過ごすようになった。
大人になってからは子供を連れて水場などによく行っていたけれども、鹿児島でタイコウチやミズカマキリを見かけたことはない。

そして最近、ひょんなことから事務所の近くで田んぼをすることになった。
全く想像もつかない世界で分からないことだらけなのでやってみよう、というくらいで、特に理由はない。
あえていうなら、そこの風景が好きなので田んぼのある風景を引き継ぎたい、という気持ちがあったかもしれない。更に言えば、昆虫のいる田んぼを子供にも見せてあげたい、という気持ちもあっただろう。
とはいえ、隣接する田んぼのことを考えると農薬をどうするか、という葛藤もある。(昔、北の国からで農薬の利用問題が発端となって岩城滉一が死んだシーンが頭に残っている)
米作りに関しては右も左も分からず機械も持っていないため、近所の人に協力してもらいながら、まずは周りと同じやり方をやってみようと思う。そして、ある程度勝手が分かってきて近所の人の理解が得られそうであれば、昆虫を呼び戻せるようなこともやってみたい。(果たして戻ってきてくれるのかは分からないが・・・)

さて、本書は、22カ国以上で出版されているようだ。
予想よりたくさんのエピソードが載っていて、とてもおもしろく読めた。
当然のごとく、終盤は昆虫の置かれている状況が語られるが、昆虫に触れ合う機会の少ない人達にどのくらい届くだろうか。(今ではムシキチ(昆虫少年)も絶滅危惧種なのかもしれない。)

昆虫学の大家、エドワード・O・ウィルソンの有名な言葉がある。

「人間は無脊椎動物を必要とするが、向こうは人間を必要としない。人間がもし明日消滅したとしても、地球はほぼ変わりなく回りつづけるだろう……だが無脊椎動物がいなくなってしまったら、人間は数ヶ月生きのびるのが精いっぱいのはずだ」(p.236)

私自身このことに対する感性がかなり劣化している。


左の5冊は自分が子供の頃から持っているもので写真昆虫記がお気に入り。一番右は息子用に買ったもの。

『里山・雑木林の昆虫図鑑』は図鑑だけれども、写真に勢いが合って子供の頃の虫好きな感覚を刺激してくれる。

今井 初太郎 (著)
メイツ出版 (2018/4/20)

『ビジュアル 世界一の昆虫 コンパクト版』は興味本位で買ったものでこちらも勢いがある。(テキストは翻訳に工夫が欲しかった部分が若干あった。)

リチャード・ジョーンズ (著), 伊藤 研 (監修)
日経ナショナル ジオグラフィック (2020/4/9)

追伸)下記の記事を読み返したらほとんど同じこと書いてました・・・
オノケン│太田則宏建築事務所 » 戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)




里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

鷲谷 いづみ (著)
岩波書店 (2011/6/22)

結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
勉誠出版 (2017/6/30)

今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

生態学的な里山

最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

人文学的な里山

次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
(その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

その時、例えば、

・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

里山なき生態系

ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。




宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)

藻谷 浩介 (著), NHK広島取材班 (著)
KADOKAWA/角川書店 (2013/7/10)

10年近くも前の本であるが、これまでの流れからようやく手にとって読んでみた。
あまりじっくり書く時間がないけど、先に進みたいので簡単にでも書いておきたい。

スイッチを入れる

里山資本主義に関する部分を引用すると、

里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。(p.102)

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決定するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。(中略)森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。(p.121)

とある。
この、「マネー資本主義」に対するサブシステム的な距離感が共感を得やすかったのかもしれない。

さまざまなアイデアで、地域の課題をつなぎ合わせて解決するような仕組みをつくる「熊原さん」を紹介する際、この仕組みを「装置」と表現した場所があったが、その時、頭の中で、ピタゴラスイッチのフィニッシュの時の音楽が流れた。
この本で紹介される事例は、地域の中に眠っている人や自然などをつなぎ合わせる回路を発明することで、もともとあった価値を顕在化するようなものが多く、それはスイッチを入れるようなこと近いように感じた。
停まっていた時間を、常識を少しずらしてつなぎ合わせることで再び動き出させる〇〇スイッチ。
そんなイメージが頭に浮かんだけれども、まだぼんやりしたものなのでとりあえずメモ的に残しておこうと思う。

見渡せば宝の山に見えてくるが

もう一回生活を見直してみる、そういう時代なんじゃないかと思います。すごく今みんな不安に生きている。もっと恵まれた自然を活用というか、目を向けていけば、もっともっと資源がある、宝があるんじゃないかと思います。(p.53)

この本で紹介されているオーストリアの林業や、岡山県の製材所の事例、前回の里山の暮らしを読んだあとに、鹿児島市から離れて山に囲まれた地域を移動すると、周りの景色が宝の山のように見えてくる。ここにどれだけの資源・可能性があるんだろうか。

しかし、実際には自分にはそれを活かす知恵も技術もつながりも、見定める目も持ち合わせていないことにすぐに気づく。
田舎で育ち、多少はそういうことに触れながら育ったとはいえ、今はそこから切り離されて手元に何も残していないような生活にどっぷり浸かっているし、ものをつくる仕事でありながら、モニターの前で過ごしている時間のほうが多い。

これでは、宝の山に見える絵をただ眺めているようなもので、そこからリアルな宝を見つけ出す解像度は得られない。

さてさて。続編も買っているので読んでみたいけれども、リアルさを手元に引き寄せることも考えないといけないのかもなぁ。
そのためにはもう少し時間に余裕を持たなければ。




物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

高野 雅夫 (著)
ヘウレーカ (2021/8/20)

「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

「自然(じねん)」について

著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

(ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

子どもたちへ

先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

そう考えると少し心もとない。

森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。