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脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
出版社: 人文書院 (2007/8/1)

だいぶ前に『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』で紹介されていた本から数冊購入したのですが、これはそのうちの一冊。

本書で考えてみたいのは、共通世界としての公共空間とは何かということであり、また同時に、これがなくなりつつあるのではないか、そうであるならどうしたら良いのかということである。(p.4)

帯には「公共空間の成立条件とは何か?」「アーレント、ルフェーブルの思想をたどり、公共性への問いを「空間」から捉え返す、現代都市論・社会理論の刺激的試み。」とあります。

公共空間が失われつつあるのではないか、という問いかけ自体は目新しいものではないと思いますが、「空間」から捉え返すとはどういうことか、アーレントからどう展開されるか、また、古びた問いをどう展開するのか、にも興味がありました。

一度目は細切れでしか読めず、ぼんやりとしか掴めなかったので、二度目を読みながら並行して、自分なりにまとめていきたいと思います。

序章

まずは序章から。
 
 
 
序章では、公共空間を考えるためのいくつかの視点・問いが提示されます。

公共空間とは何か。

公共空間とは何か。

ここではアーレントの公共空間に関する議論とジンメルの空間の捉え方を参照しているのですが、公共空間とは、空虚でしかなかった空間が、隣人との相互行為によって「あいだ」が満たされることで意味ある何かとして現れた空間のことである、と言えそうです。

この相互行為によって「あいだ」満たされた状態をどうしたら維持できるのか、を考えることが公共空間を問うこと、すなわちこの本の中心的な問いかけだと思います。

公共空間と私的空間の境界

また、公共空間は私的空間との関係でも語られ、その2つの関係が適切に維持されるような境界のあり方が問われます。

この境界の区別する働きが強くなると、私的空間は分断され、相互行為によってみたされる「あいだ」、すなわち公共空間が失われます。この状態の私的空間をアーレントは「真に人間的な生活にとって本質的な事柄が奪われる事を意味する。」と言います。

逆に、連結する働きが優勢になり、公共空間と私的空間との差異が消え去ると、資産化された私的空間が、いまだ資産化されていない空間を公私問わず併合しながら膨張し、やがて公共空間を食いつぶすことになります。

公共空間と私的空間の境界の区別する働きと連結する働きのバランスが、どちらに崩れても公共空間は維持できなくなるので、この境界をどうバランスよく維持できるか、が問われることになります。

疎遠化と一体化、開けた閉域へ

アーレントの問いかけをもとに論が進むわけですが、アーレントの時代と現在(2007年)とでは公共空間は異なる問題に直面していると言います。

平等の名のもと、管理行政機構によって画一化が進められた時代では、それによって自然発生的な相互行為が排除されることが問題とされ、画一化に抵抗するのが公共空間維持への実践とみなされました。
そこでは平等から自由への価値の転換が求められ、多様性・差異・民主主義と言ったことが唱われることになります。
しかし、この民主主義を求めた「自由」は、やがて資本主義的・経済的な「自由」を求めるネオリベラリズムへと横滑りし、公的なもの、すなわち国家や民主主義的な公共空間の解体を求めるようになります。

公共空間を取り戻すために平等からの転換を目指した自由が、いつしか公共空間を脅かす自由へ変容し、こうして、公共空間は新たな危機に直面することになったのです。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。
そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。

また、テレビやインターネットなどのメディアは、公共空間が存在するならばそれを補完する武器になりえます。しかし、公共空間を欠いた状態では、気分や感情といった水準の公共的情動とも呼べるものによって、疎遠化と一体化を増幅するように作用します。
そこでの一体化は、単なる閉域においてではなく、メディアによって生まれた開けた閉域とでも呼べる領域において進行するのです。

こうして、資本主義が要請する自由が、政治的な討議を行なう公共空間を奪い、人々は代りに出来た閉域へと引きこもるのです。

現代のポピュリズム(極右的な排外主義、スポーツ選手やテレビタレントへの熱狂)、ないしは偏狭なナショナリズムの勃興は、この公共的情動を土台とする。その限りでは、全盛期の総動員型全体主義の土台となった世論の規格化=思想統制と区別しておく必要がある。拘束の内部において画一化し、逸脱を許さないのが全体主義だが、現代の情動の一致状態は、むしろ、画一性とは対極の、差異性、多様性が、どういうわけか不和のない均質的な一なるものへと収斂していく過程にあるものと考えられるのではないか。そしてこの一体化にともなって公共空間が解体していくのではないか。
疎遠化と一体化。公共空間の解体を論じる際には、相反する二つの過程の同時進行を問題化せねばならない。(p.34-35)

序章を読んで

以上、自分なりに序章の概要をまとめてみましたが、そこで頭に浮かんだことも記しておきます。

相互行為に満たされた空間をイメージ出来るかどうかが一つの肝になるように思いますが、この「あいだ」を満たすものはリアリティや密度感・充足感というようなイメージでしょうか。

これは、私が建築・空間に求めるイメージとも近い気がします。
建築に対しては、相互行為の相手は人でもモノでもよく、文化や歴史といった無形のものも含めて考えています。その相互行為のことを出会うという言葉に変えてまとめたのが出会う建築です。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ギブソンの生態学に相互行為を適用することで人間を取り巻く特殊な環境まで拡張したのがリードの生態心理学だと理解しているのですが、ここでの公共空間の議論と生態心理学とは重なる部分が多いかも知れません。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』
そう考えると、相互行為に満たされるというのは、生態学的な知覚の欲求、生きていくための欲求が満たされることで、リアリティや密度感・充足感と結びつくのは自然なことのように思われます。

また、境界のバランスの問題も建築の自立性(建築がそれを体験する人と一体化せずに関係を結べること)との重なりを感じました。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 建築の自立について

こういう重なりは、この本での議論が一般的な「何かが失われつつあるのではないか」という関心とは別に、建築に対する視点も拡げてくれるのではないか、という期待を抱かせてくれます。

また、公共的情動に関しては炎上や社会的リンチ、新国立競技場のザハ外し事件や豊洲市場の茶番等々、思い当たるものはいくらでも挙げられそうですが、この本が書かれたのが2007年8月、twitterの日本語版スタートが2008年4月なので、この本が書かれた後にメディア、特にSNSによって公共空間のあり方がさらに変容している可能性は考えておいた方が良いかも知れません。

個人的な感覚としては、twitterでは個人が複数のクラスタ・分人的に振る舞えた時期があり、公共空間として相互行為に満たされた瞬間があったように感じますが、Facebookでは分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働き、公共空間としての機能は弱まっているように思います。なので、どうすればFacebookの公共空間的機能を強められるか、と言った問いの立て方はあり得るかと思います。

さて、まだ序章。問いかけがあっただけなので、これからどう展開されるのか。


第一章 境界と分離

序章では「公共空間とは何か。」「公共空間と私的空間の境界」「疎遠化と一体化、開けた閉域へ」という視点の投げかけがありました。

そこから第一章では「境界と分離」について。

ジンメルからセネット、個人から共同体へ

ジンメルは都市における分離の問題に対し、個が個を保ちながら孤立に陥ることなく生活するには、個人と群衆との間に距離を設けること(もしくは投げやり)が必要とした。
一方、セネットは都市の問題を、構成要素である共同体の問題とし、共同体の間に交渉のための場が必要とした。

セネットにおいて、都市の問題が、個人の距離の問題ではなく、共同体の空間の問題だと捉えられるが、それらの境界が、共同体が純化(境界からの撤退。疎遠化と一体化。拒絶と否定)に向かう傾向に対抗するような公共空間となるには、どの様な条件があるか、が問われる。

アレグザンダーとルフェーブル、分断と隙間

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、アレグザンダーとルフェーブルが比較される。

アレグザンダーはあいだを有限な集合の中の部分の分断として捉える(静態的)。そこで、あいだが部分相互の交渉のために空間となるには、重合(オーバーラップ)、共通項を重ね合わせることが有効とする。

それに対し、ルフェーブルは、分離した集合の間には、交流欠如の問題だけではなく、政治的な問題があるとする。集団がそもそも他の集団と分離することによって成立しているとすれば重合の有効性は限られる。
分離は政治経済的な作用の帰結であり、心的なものというより資本主義体制下での生活空間に特有の客観的性質である。
資本主義のもと、空間の商品化(工業化された空間論理、交換の論理、商品世界の論理)が進み、等価交換の領域に包括されることによる特殊性・地域性の消去すなわち「場所の均等化」の作用と、空間を剰余価値の源泉とみなし富や階級、民族や宗教の違いに応じた序列を生み出す「階層序列化=不均等化」の作用という、相反する二つの作用によって分離が生み出されるのである。(例えば、郊外は、同質性を求めて集まるところというよりは、集まりと出会いの空間から引き離し、参加の機会を奪っておくために作り出された隔離のための居住地と言える。)
さらには、分断は交流を不平等なものにし、参加者を限定していく

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

境界は、重なり合いのための余白ではなく、それ自体で集め、出会わせていく作用を備えた空間が生成していくための隙間である。分離は現に支配的な形態でもあるかもしれないが、これに対抗していくためには、隙間としての境界的な空間が、中心性としての空間へと生成していくことを要するだろう。それもただ一つだけでなく、無数の隙間が。(p.79)

この生成の過程は支配的な秩序に対し劣勢であるが、ルフェーブルは分離とは別の空間の出現拠点はここ以外ないと確信する。その確信がどこから来るのかは次章以降で。

第一章を読んで

ようやく第一章。(一度読んだにもかかわらず、全く先が読めない(笑)
ここまで読んで、前回書いた「分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働」いている状況が再度頭に浮かびました
SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。
それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか

実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。


第二章 政治空間論ー均質化と差異化

前章の内容と重なりながら、ルフェーブルの政治空間論について掘り下げられます。

均質空間と差異空間 中心性と運動性

ルフェーブルは政治について、権力などの外在的なものではなく、空間そのものがどのように政治的であるか、を問う。

空間は、差異的なもの及びそのための隙間が除去されて均質的になることによって政治的になるが、それらの空間は固定的な枠ではなく、流動的で運動性を有するものとして捉えられる。

この均質化に対する実践は現実の空間が分離され、均質化されていく過程に即しながら、その中の隙間を捉えることで可能となる。その実践は新たな差異空間の生産へと繋がりうるものである。

差異空間と均質空間の間の運動と同じく、中心性の概念も変容する。中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していくが、またその空間の中から集まりと出会いの作用へと中心性を変容するような隙間が見出される、というように揺れ動く。

この中心性のあり方こそが空間の質を決定する。ゆえに、均質化に対抗するには中心性の全体化作用に対抗する必要があるが、それらは現実の空間の変容過程に即してみいだされるものである。(ルフェーブルはその実践のアイデアとして脱中心化と転用を挙げている。)(逆に空間の質が中心性のあり方に関与するというような相互関係でもあるように思う。)

空間の均質化が中心性が全体化へと変容した結果だとすると、均質化に対する実践はその変容にあらがい、差異空間を現させるような集まりと出会いの中心性へと導くことで可能となる

第二章を読んで

めちゃめちゃざっくりまとめましたが、前回

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

と書いたように、ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。

「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。
それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。

僕自身は、まだこの本における「政治」とは何を指すのか、をうまくイメージできていないように思います。自分なりのまとめを最後まで書いて繰り返し読み返すことでイメージできるようになればいいけど。


第三章 公共空間の政治

公共空間は脆弱な空間であるから、その喪失の過程に即した現状認識と実践が必要である。

公共空間の境界

アーレントの帝国主義時代と現代のグローバリゼーションの時代は異なるが、多くの示唆を与えてくれる。

 ・現れの空間…人々がともに集まるところには潜在的に存在し、相互行為によって形成され、それが途絶えると消えてしまうもの。
 ・境界の開放と制限
 ・共通世界…相互行為の土台となる具体的な場所。
 ・世界疎外…手の届く身近なところへの関与、および気遣いのすべてから離れたところへ退避すること。
公共空間が過度に拡張すれば、共通世界を失い、世界疎外がもたらされる。

「全体主義の起源」…国民国家が資本主義経済システムの要請に応じて外部と関わる際に、帝国主義的な膨張政策を採用した。
その膨張の暴力はやがて本国の政治体をも解体し境界を消去していく。アーレントはこの暴力の拡張を制御し、破壊から公共空間を守るために、公共空間に境界を要請した
また、国民国家は膨張の暴力に無力で不完全な排除の政治体であるが、同時に行為者に相互行為の条件・人権を与える。
例えば、難民や亡命者のように属する政治的共同体を喪失した者には、抽象的な人権ではなく具体的な政治体を必要とする

公共空間はあらゆる人間に、政治的行為を営む余地を与えるために開かれていなければならない。が、同時に、相互行為のための共通世界を確保するための制限、また、膨張の暴力から公共空間を守るための境界を必要とする。

境界の消去と排除壁

公共空間は観念ではなく、実質的な帰属を許容し、行為を意味あるものにする空間的な領域である。
それを暴力から守るのに必要なのが囲いとしての境界であるが、帝国主義は<帝国>へと変容し(Hardt&Negri)、内外の区別及び境界は消去されていく
境界の消去の過程にあることを一旦受け入れた上でそれでもなお、公共空間の存立する余地は考えられるか、が問われる。

<帝国>体制下では二項対立が終焉に向かい、支配のやり方が変化し、公的なものの領域を、私有化していくと同時に、政府による監視とコントロールへと開いていく。
さらに、公共空間を確保する境界が消去された後、私有化された空間を保護するための排除壁としての境界が新たに構築されていく。

危険の排除と未来の放棄

ゲーテッドコミュニティなどの私有化された空間は、異物を除去したいという動機のもとで排除壁としての境界を具現化していくように見えるが、実のところは逆に、境界によって外から切り離されることによって恐怖と排除の動機が生み出されていく
その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する
ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。)

この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。

脆弱性(ヴァルネラビリティ)の政治

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。
脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。
相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。

バトラー「全ての他の人間への配慮と引き換えに自分自身を安全にしようとすることは、我々が自分たちの位置を定め、道をみいだしていくための重要な財産を抹消することである。

現れの不可視化と隙間

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされているそこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

第三章を読んで

ここでもいくつかのことが頭に浮かびました。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』)

見てみるとだいぶ前の本ですが、『公共空間の政治理論』の2年前でしたね。捉えどころのない時代をどう生きるか。時代による共通の問題意識が合ったのかもしれません。(今はもっと露骨な形に姿を変えているように思いますが。)

予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

熊谷氏の予測誤差を遊びの文脈で捉えることで可能性に変えていこうという姿勢は、本書での「この不可避的な力に対して、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す」姿勢に重なります。

そのようにして現実の中から何かをみいだしていこうというのが、本書の結論でもあったように思います。
個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません

(著者の最近のものも一度読んでみよう。)


結論

最後にメモ的に終章から。

公共空間の存立条件

・必要なのは公共空間の存立条件が何であるかを示すこと、それも現実の只中において示すこと。
・現実には主要な実践とは異なる潜在している対抗実践との抗争状態であること。
・支配的な実践は人間にとって不可欠の条件を拒否して存続しようとしているが、その条件は抹消できないものであること。
・それゆえ、目的に無理があり永続は困難である。公共空間を実在のものとしていく実践はあながち無理ではない

公共空間はどのようなものか

・ネオリベラリズムの均質空間と抗争的な関係にあるもの。
・耐え難いものの現れとしての行為とそれが隙間に創出するやりとりの空間をどれだけささいで脆弱的なものであっても支えていこうとすることが必要。来るべき公共空間の創出の試みはこれらのささいな空間の根底にある共有のものをみいだそうとするところからはじまる。




個人設計事務所の課題と対応する設計プロセスを考える B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』

藤村 龍至 (著)エヌティティ出版 (2014/9/24)

早速『プロトタイピング-模型とつぶやき』と合わせて読んでみた。
これまでの取り組みをまとまった形で読んでみたいとずっと思っていたので待望の単著である。

氏の理論、手法、そして建築を取り巻く環境に対する態度のようなものをどうにかして自分の中の生きたものとして消化してみたいと思っていたし、このブログ(オノケンノート)で考えてきたことを実践に役立つよう具体的に落としこむための道筋を作らねばともずっと思っていた。
なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。

大きな問いとカスタマイズの前提

自分の中の大きな問題意識の一つは、自明性の喪失自体が自明となったポストモダンをどう生き抜くか、ということにある。
藤村氏流に言い換えると、全てが別様で有りうるポストモダンを、単純に受け入れ何でもありをよしとするのでもなく、単純に否定し意味や実存の世界に逃げこむのでもなく、それを原理として受け入れ、分析的・戦略的に再構成する第三の道としてどう提示するか、となるだろうか。

ポストモダンを受け入れた上でどうすればこれを乗り越えられるか。

それは批判的工学主義の持つ問題意識とも重なると思うし、新しい権力・アーキテクチャのもと茫漠とした郊外的風景をどう変えうるかという点で、私自身の問題意識の原点ともぴったり重なる。

超線形設計プロセスは私自身にとって大いに参考になると思われるのだが、ここで私自身の状況に応じたカスタマイズを試みたい。
具体的には小規模な建築物に対して個人事務所として設計にあたるという今直面しているケースを想定して考えてみることとする。

ここで最も影響が大きいのは組織形態が単独の個人事務所である、ということである。
「批判的工学主義の建築」では「その主体はアトリエ化した組織か、組織化したアトリエ」のような組織像とあるが、そのどちらにも該当しなさそうだ。
当然、組織化を目指すという選択肢もあるがそれは可能性としておいておき、あくまで個人事務所として先に上げたケースでの場合を考えてみる。

個人事務所のメリットとデメリット、その課題

まずは、カスタマイズに先立って個人事務所のメリットとデメリットを上げてみる。

メリット1:組織の維持コストが抑えられるので、それをクライアントに還元することができる。建築事務所があまり認知されておらず、低予算の案件の割合が大きい地方においては、うまくすれば生き抜くための一つの形態と成りうると考えられる。
メリット2:プロジェクト全体に目を行き届かせることができるし、組織内のコミュニケーションコストを抑えられる。

デメリット1:分業が出来ず、一度に掛けられるマンパワーが限られる。
デメリット2:複数の視点を得ることが難しく、視点の固定化・マンネリ化の危険性が高い。

個人による超線形設計プロセスの利用を考えた場合、経験的に言うとマンパワーと保管場所の点でプロセスごとに模型を作成し保管することは設計のリズムを維持する上でも負担が大きく難しい。

もし、手法の肝と思われるプロセスごとの模型の作成と保管を放棄すると考えた際、デメリットとして

1:コミュニケーションツールが失われるため、プロセスの共有が難しくなる。
2:立体的・視覚的に見ることによる課題自体を探索する機能が失われ、進化の精度・スピードが低下する。

の2点が考えられる。

1については組織内のコミュニケーションの必要性が小さいという本ケースのメリットによってある程度は緩和されると思われるが、少なくともクライアントとのコミュニケーションは必要である。
2については図面や3DCADによるパースやウォークスルー、また必要に応じて模型を作成することで、常に模型を制作せずともある程度は補えると思われる。

以上から、個人事務所がさらなる効率化のために超線形設計プロセスのプロセスごとの模型作成を省略し、これの利用を試みた場合に考えられる課題は

課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)

また、それらに加えて

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。

の4点が考えられる。

プロセスプランニングシート案

ここで模型のかわりとしてプロセスプランニングシートのようなものが利用できないか考えてみる。

A3用紙の左側に縮小図面やスケッチ・パース等を進捗に合わせてレイアウトし、右側にプロセスに関わるパラメータを記述する。
その際、右側のパラメーターは例えば、横軸にクライアント、環境、意匠・メタ、構造、設備を、縦軸に解決済み、検討中、新規、消失などとした表の中にプロットしていく(できればパラメータ間の構造も表現)。

これによって、左側は例えばディテールやインテリアなども表現でき総体としての比較精度は落ちるがプロセスをより詳細に記述できるようになり、右側はパラメーターの変遷もプロセスごとに一望・比較しやすくなる。

このシートをプロセスごとに作成しながら設計を進めていく。

また、設計作業を探索過程と応答過程に区分し、実際の作業も明確に分けて行う。

探索過程では、シートの内容を現在の環境として捉え、そこから新たなパラメーターを発見したりパラメーターの構造化などを行う。
『知の生態学的転回2 』における関博紀氏の考察を使わせていただくと、パラメーターの出現・消失・復帰・分岐、連結・複合などの操作を行うことになる。

応答過程では、シートの内容をもとにパラメーターと図面の不整合を取り除くべく設計作業を進めていく。

これらは『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』によるところの知覚・技術・環境に当てはめることができるだろう。

このように対応させることにより、生態学的な(知覚-技術-環境)の構造による循環に載せることが出来そうだ。

課題の整理

これは、先に上げた課題に対して

課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
→ プレゼン・打ち合わせ時等にクライアントとともにプロセスプランニングシートを順になぞることで、かなりのプロセスを共有できる。これによってプレゼンの精度を高められるとともに資料作成の手間を省略し効率性も高められる。また、思考プロセスを共有していないことによる無駄な手戻りも防ぐ効果も生まれる。

課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
→ 多くの事務所ではおおまかにはボスが探索過程を担当し、スタッフが応答過程を担当するといった形がとられているように思うが、それを視覚化しつつ一連の流れの中に意識的に配置することで単独でも効率的にこのサイクルを回せるようになり、探索機能を個別に確保できるようになる。また、協力事務所等に作業を依頼する際にもスムーズな連携がとれる。

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
→ このプロセスの生態学的な循環によって、建築を含めた環境は常に構造的変化を伴い固有性が高められると考えられる。

というように一定の効果があると思われる。

残る課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
であるが、これは課題A-2,3,4に対しても影響が大きいと思われる。

これまでブログで考えてきたことや経験してきたことはデーターベースの強化に役立てられると思うのだが、これを成果につなげるべくプロセスに組み込むにはどうすればいいだろうか。
また、どうのようにすれば探索過程によって発見したパラメーター間の構造を視覚化し、効率性と固有性を高められるだろうか。

ここで残された課題を、先の知覚・技術・環境に当てはめてみると

課題B-1:知覚・・・探索過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-2:技術・・・応答過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-3:環境・・・上記2つで見出された環境をどうすれば構造的に視覚化でき、循環の精度を高めることができるか。

の3つに整理できるように思う。

データベースの強化

個人的なメモのように位置づけているブログ(オノケンノート)は属人的課題のようなものを何とか言葉にしようとしてきたものである。
それを成果につなげるためには、これまで考えてきたことや経験してきたことを社会的課題や個別的課題を含めて探索過程と応答過程に分類し整理することが必要と思われる。

ブログでは「何を」考えなければいけないか、つまり探索過程を重点的に考えてきて、「どう」建築につなげるか、つまり応答過程については今後の課題として余り考えられていないと思う。

なので、まずはブログで考えてきたこと探索過程のデータベースとして整理し、次にこれまで経験したことをもとに応答過程のデータベースとして整理することを考えてみたい。

ここで整理する際に枠組みとして例えば以前考えた「地形のような建築」が利用できそうな気がする。

ここでは地形のような建築の特質として自立的関係性とプロセス的重層性の2つを挙げているのだが、

自立的関係性:これを高めるためには青木淳氏の決定のルールのようなものが有用かと思われる。こういった性質を持ったパラメータをデータベースとして整理する。

プロセス的重層性:プロセスを織り込むことは手法自体に組み込まれているので、ここでは重層化することができるパラメーターを並列的にデータベースとして整理する。

といったように整理する枠組みとして利用できないだろうか。これによって応答過程においてもパラメーターを成果に結びつけやすくなりそうな気がする。

ただ、プロセスを共有するためには相手になぜこの枠組を用いたのかを説明し理解して貰う必要が出てくるかもしれない。なるべく簡潔に説明できるようにしておく必要があるだろう。

これは一つの例で他にも統合してみたいモデルがいくつかあるので、枠組み自体は今後変化していくものと思われる。

終わりに

ということで、まずはシートのフォーマットを作成し実践に組み込むことから始め、平行してB-1,2,3の課題解決に向けて手を動かしてみようと思う。
また、この過程を通じてシステム自体の汎用性と固有性のバランスを調整し、徐々に固有のシステムへと変化させていければと思っているし、それには実践を通じて自分の環境自体にも同様の循環を重ねて発見とフィードバックを重ねる必要がある。まだまだ先は長い。

藤村氏の論の構造と流れについてはある程度は理解できたような気もするが、氏がデータベースの構築と運用をどのように行っているのか?多くは氏の頭の中にのみ存在するのか、それとも何らかの方法で共有がはかられているのか?興味のあるところである。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




世界とのつながり

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屋久島で感じたこと

僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。

月並みな表現ですが、そこでは、何もかも忘れることができます。世界の広さを感じ、自分の存在の小ささを感じます。同時に、自分と世界との境界も曖昧に感じます。次の項でも述べますが、世界そのものが自分であるような感覚になります。そして、冷静に自分を見つめることができます。

抑制された想像力

少年犯罪や、自殺などのニュースを見ると胸が痛みます。僕の想像でしかありませんが、彼らは自分の周りのほんの小さな現実が、世界のすべてというように感じざるをえないような状況に追い込まれてしまったのではないでしょうか。

少し冷静に考えてみると、自分の周りの現実以外にも、想像もつかないほどの広大で多様な世界や可能性が存在していることに気づきます。彼らは逃げ出しても良かったのだと思います。ほんの小さな想像力ときっかけがあれば避けられた事件はたくさんあると思います。

しかし、日本はどんどん想像力を抑制する方向に進んできました。僕が建築と向きあいたいと思うきっかけになった97年の神戸の殺人事件でもいわゆるニュータウンと呼ばれる郊外のことが話題になりました。

同じような住宅が整然と立ち並ぶ砂漠のような状況の中、多様な世界に思いをはせることは困難に思います。さまざまな場面で想像の入り込む余地は切り捨てられ、抑圧されてきたように思います。

世界とつながる

そのような状況の中、想像力がはばたき、世界とつながりを持つことのできるような建築をつくりたいというのが僕の思いです。