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ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ」カメアトリエ 亀崎 義仁

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先日のケンペケについて。
長期間テキストを書けてないのでリハビリも兼ねて簡単に。
(イベント後半、例のごとくダウン気味だったので、償いも兼ね・・・)

カメアトリエの亀崎さん(以後カメさん)はコラムを書いていたり、造形美確認検査センターという活動?をしていたりと、独特なセンスで書くことを続けられてますが、一見おちゃらけたような言葉の中に建築に対する誠実さと、建築を(専門家だけの)特別なものにしないという可能性を感じて、このイベントを楽しみにしていました。

デフレッペチーノ

デフレッペチーノとは、カメさんが考えるデフレ世代の可能性みたいなものと、イベントのタイトルを決めるときにたまたまスタバにいたことが、たまたま(ノリで)結びついて名付けられた言葉で、まだ特に定義はしていないよう。

「デフレマインドの脱却」という時にはデフレマインドは否定的に扱われています。
ですが、カメさんはそこに可能性、もしくは現実にある何かを見出そうとしているようで、このイベントを通じて参加者それぞれの「デフレッペチーノ」とは何か、が浮かび上がることが期待されました。

では、自分にとってのデフレッペチーノとは何か。

端的に言えば、僕にとってのそれは「生活」。もう少し言葉を足せば「能動的に生活を楽しむ態度」のようなものじゃないかという気がします。
それは棲み家という言葉や「Deliciousness / Encounters」など、このブログでさんざん考えてきたことに重なるし、それで共感と期待があったのかもしれません。

いわゆる高度経済成長期を経て、生活が消費でしかなくなってしまった後、その反動として芽生えたデフレ世代による積極的デフレマインド。
藤村さん風に言えば、デフレに対して単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、デフレを新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示する、批判的デフレ主義みたいな。

この時、単に受け入れてしまう、又は(デフレマインドの脱却というように)単に抵抗するのではない、新しい可能性に向かって逆手に取るような態度に「建築のデフレッペチーノ」の意味があるのかもしれません。
(個人的にはデフレマインド≒「能動的に生活を楽しむ態度」自体は、こっちがデフォルトで、「生活≒消費的」なものが一時的・イレギュラーなものだった、という気がするので、そのイレギュラーな事件とどう接続するか、がポイントになる気がします。)

トラストブロックの挑戦

カメさんは沖縄で培われたコンクリートブロックと木造トラスの小屋組を結びつけたトラストブロックを、わかりやすい家づくりとして進めています。

それは、独自のアンケートから導き出した、フルオーダーと建売・分譲の間のセミオーダーで、一定の規格のもとデフレに対応するローコストと、多くの人が求めるわかりやすさを兼ね備えた長屋状の住宅です。(詳しくは■YouTube参照)

質疑の時間でも出ましたが、ここで単純な疑問が浮かびます。

論理的に導き出されたように見えるセミオーダーの建築には、ホームページに謳われるような愛嬌は生まれるのか?造形美確認検査センターの活動に見られるような、曖昧で事後発生的な魅力へのカメさん自身の嗜好や建築の持つ責任とはどう結びつくのか?この住宅の未来にどんな風景を見ているのか?

そんなことを考えながら質疑の時間を過ごしていたのですが、セパ跡に手を入れるための仕掛けをしていたりと、事後の関与を誘発する工夫をしていたり、土地の使われ方にも「能動的に生活を楽しむ態度」への明確なイメージを持っているようでした。(スケルトン・インフィルの考え自体がそういう性質をもってますし)

乾久美子さんの「小さな風景からの学び」や「おいしい技術」で書いた「保留」の所が頭に浮かんだのですが、この建築は竣工した時点で完成するのではなく、いろいろな事件を発生させながら数十年後も豊かな風景・生活を生み出しながら変わり続けている。そんな光景が目に浮かぶ気がしました。

デフレの原理を受け入れてみることで生まれる豊かな光景。
そう考えると、トラストブロックの挑戦は「建築のデフレッペチーノ(批判的デフレ主義?)」の一つの可能性なのかもしれません。

カメさんは「施主に対する提案と、社会に対する提案を分けている」というようなことを言われたと思いますが、自分も何かチャレンジしてみたいと感じさせるイベントでした。

うーん、まだ文章書くようにうまく頭が動いてくれないなー。
ちぐはぐだけど、今日はこんなところで。

(ケンペケ05も調子がでないまま、なかなか書けずにいるので復習して近いうちに・・・)

20160827ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ 第一部」 カメアトリエ亀崎 義仁 – YouTube
20160827ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ 第二部」 カメアトリエ亀崎 義仁 – YouTube




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スケトレメモ おいしい自然

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モデュロールと自在さ

スケッチ載せるのやめとけば良かったと若干後悔しつつ、スケトレなのでこのまま続けます。続けてるうちにうまくなるかもしれないし。

「おいしい自然」は自然に含まれる意味をどう知覚させるか、と自然の中にある情報・不変項をどう抽出し再構成するか、ということが課題となる。

担当したクセナキスが波動ガラス面と名付けたラ・トゥーレットの回廊のガラス面は、モデュロールを利用したものだが、モデュロールも自然の中の不変項を抽出したものと言えるように思う。

コルビュジェは基準線(レギュラトゥール)による構成から、寸法(モデュロール)による関係性の構築へと移行したことにより、より自由に振る舞えるようになったが、そこにはより自然に近い秩序が生まれており、そこにより大きな知覚の悦びが発生しているように思う。

実績より

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ここでは建物の最上部にトップライトと東向きの窓を設けるとともに、間仕切り上部をガラスで構成することによって、太陽の進行に沿って室内に光が回り込むことを考えた。

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これは、雑木林に囲まれた生活、というコンセプトの敷地に対して、シンプルにいろいろな方向に緑が見えるようにすることで応えた住宅である。(撮影時はまだ植栽が完了していなかったので緑はあまり見えていないが)

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ここでは限られた予算の中で、宿泊施設にどのような象徴性を与えるかを考えた。モッチョム岳を背後に控える宿泊棟は垂直性をベースにした構成に、海側の母屋は軒を抑えた控えめな表現とした。
屋久島という自然のなかの構成に何かしら反応するものにしたかった。

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ここでは、途中壁を白にしたいという要望もあったが、海に向かった時に建物は背後に退くようなものにしないとその場所の特性を活かせないと考え、海に向かう時に目に入る壁面を黒に、反対側を白にし、屋根と床が水平に外へと伸びていくような構成とした。

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これまでは、自然をどう知覚させるか、ということが主題であったが、自然の不変項をどう取り込めるかを考えるための実験として、CADのスクリプトでランダムと擬似1/fゆらぎによるものの比較をしてみた。

ランダムなものは当然規則性はなく、それぞれの要素に重みや固有性は生まれないが、それにゆらぎを与えることでそれぞれの重みに変化が生まれ、固有性もしくは意味の萌芽のようなものが見られる気がする。
自然界のものは、全くランダムというものは考えにくく、その環境の違いによるゆらぎはどこかに現れているはずだ。

コストや手間を考えると、住宅などでどこまで出来るかは分からないけれども、寸法の扱いの中にそういうゆらぎやリズムを与えることはできるはずで、そういったことにもっと意識的に設計を行ってみたい。




スケトレメモ おいしい姿勢・音・手触り・味と匂い・見え

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共変による固有の場

「おいしい姿勢・音・手触り・味と匂い・見え」はギブソンによる5つの知覚システムに対応するおいしい知覚であり、複数の知覚システムが同時に共変することによって一つの意味のありかを特定する。

学生の頃にロンシャンの礼拝堂を訪れたことがあるが、その時、感じのよい老夫婦が賛美歌を歌い出し、とても荘厳な雰囲気を味わった。

マッシブな屋根が壁と縁を切られて宙に浮くような表現、エコーする歌声、手触りを感じさせる仕上げ、味や匂いは記憶に無いが、その壁を這いながら差し込む光。
それらの共変によって、ここにしかない固有の場が確かに生まれていた。

クチュリエ神父がコルにロンシャンの設計を依頼した際、最初、カトリックではないコルは頑なに断っていたそうだが、神父は、カトリックでないことは問題ではない、信心深い人々を受け止める芸術と霊性こそが必要だとコルを口説き落としたそうである。それは、さまざまな知覚の共変によって達成されたと言って良いかもしれない。

実作より

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トップライトから光が落ちる土間の壁を、凹凸のあるものにし、そこに等間隔で棒を設置した。
これは、光を砕くことによって壁の手触りを視覚へと変換し、同時に感じられるようにした共変の試みの一つと言えそうな気がする。

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物理的な音の質は置いておいて、洞窟の中のような守られた場所に響く音、を感じさせるような、形状、素材の選択、光の取り入れ方、を行った。
これも、音の感じを基準として、いろいろな要素で一つの意味を浮かびあがらせるような、共変の試みと言えそうな気がする。

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これは、スラブを片持ちとして宙に持ち出すこと、柱と縦樋を混在させた鋼管、屋根・天井や建具・ガラスの扱い等によって、建築そのものの姿勢(構造・重力の感じ)に対する、一般的な経験からのずらし、意味の発生を狙った。

これらの例は、これまでに、実物を見て回ったり、本で建築を見たりした時に「おいしい」と感じた体験を、実作において、その時の種々の条件のもとで再構成する試みであって、そういう体験と不変項の抽出・ストックは、今も昔も大切なんだな、と思う。




スケトレメモ おいしい素材

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時々、プラスディー設計室の主催しているスケトレにスカイプ又はハングアウトで参加させていただいているのだけど、テーマを決めて、その時考えたことなどを簡単にメモして行ってみよう、とふと思い立ったのでやってみる。(過去の分から順に気が向いた時にまとめる予定)

設定したのは、
・前に書いた『Deliciousness / Encounters』の「何を」の各項目を順にテーマとする。
・スケッチの題材はコルビュジェ縛り。
・自分の実績の中からも、何かしら関連しそうなものを見つける。
の3つ。
コルビュジェ縛りにしたのは、単にコルビュジェが好きなのもあるけど、コルが本来持っていたはずの「現代の矮小化されたモダニズムからこぼれ落ちたもの」を『Deliciousness / Encounters』の文脈から考えてみたい、と思ったからで、気楽にやってみようかと思う。

おいしい素材 ブルータリズムと固有性

最初の項目、「おいしい素材」の要点は、それがそれであること、いうなれば物の固有性が知覚の喜びや社会性の基盤となりうるのでは、ということ。

これに関し、コルビュジェで思い浮かぶのは、例えば型枠の材料一つ一つに固有性を与えるような、荒々しく、ラフなコンクリートの仕上げ。

O.F.D.A.:Taku Sakaushi | Text

後期コルビュジエの打放しコンクリートはコルビュジエ自らが「べトン・ブルートB?ton brut (生のコンクリート)」と呼び(図1)、1954年イギリスでブルータルリズムと称されることとなる。モダニズムの運動とは形や思想、すなわちアリストテレスの言葉で言えばその形相を尊重するイズムであり一方の極である質料を見放した。ところがその運動の終了寸前においてこの見放された質料を再考させるような批評の言葉が生まれた。それが「ブルータリズム」である。その意味でこの言葉の意味するところは大きい。 そしてコルビュジエは自らこの質料性の意味に自覚的であり、その点をアレグザンダー・ツォニスはこう述べている。
『ル・コルビュジエは木製型枠の痕跡を「しわや出産斑」とよび、美しい効果—「コントラスト」をもたらすために用いた。その「荒々しさ」、「強さ」、「自然さ」は近代的建設テクノロジーが可能にした精度、ディテール、完成度とは対極にある。表面の粗さ—「しわや出産斑」は美学上の問題をこえて、テクノロジーを応用する「人間」というクリエイティブな存在の手、思考へと回帰しようという姿勢の表明のように思える。』

コルは「質量」を再度建築に持ち込んだわけだが、「形相」を、それ自体から自由になるほど確かなものにできたからこそ、それが批評性を持ち得たように思う。あるいは、「質量」を持ち込むがために、「形相」を極めようとしたのかもしれない。

コルは、施工の不備、偶然から秩序を壊したり構成をかき乱すような不測の事態を好んだそうだが(『ル・コルビュジェの手』アンドレ・ヴォジャンスキー)、ここにもそういう性向が見てとれる。それを満たすためには、不測の事態を許容するような「形相」の強度が必要だったのだろう。

そういったせめぎあいの中から、コルの建築の固有性が生まれたように思うし、そこには固有性を知覚する悦び、さらには「コルの建築と向き合う」ことによる固有性との対話・社会性が生まれている。

実作より

実作でどこまで出来てるかは分からないけれども、各項目で何かしら関係することがないか探してみる。
ここは前に進むステップと考えて、恥を忍んで無理矢理にでも。

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素材に関して一番わかり易いのはこの写真の部分かもしれない。
自宅兼事務所なので実験的に使った部分もあるけれども(木製建具なんかは雨掛かりなので傷んでるけど、自宅なので手を入れればOK)、この写真ではモルタル壁・ガルバ壁・木製建具・コールテン鋼・コンクリート基礎、あと砂利と芝、というように素材そのものとして感じやすいものが集まっている。(モルタル・金属・木はわかりやすい材料だと思う)
木造の基礎の立ち上がりは一般的にはモルタルでしごいて綺麗に仕上げることが多いと思うが、物件の方向性によっては、そのままにして仕上げないことが多い。
地面との接点の部分を綺麗にし過ぎると、建築そのものの「質量」が失われる気がするし、せっかく型枠と手作業で生まれた固有性を消し去るのはもったいないと思う。
工業製品でラッピンッグされた住宅に対する、ささやかな抵抗。

工業製品は悪か?

スケトレの中で「工業製品は悪か?」という話も出た。
ささやかな抵抗はしているものの、工業製品の持つ役割や意味も理解できるし、大勢を占めている工業製品を全て悪、と決めつけるのもそれはそれで可能性を狭めてしまう。

他の人がみかんぐみの五本木の家をスケッチしていた。この建築は、一見チープな素材を貼り付けているだけに見えながら、何かしら固有性のようなものを感じさせる気がする。
後でやり取りしたコメントを転載すると、

さっきのみかん組の角の部分、みかんぐみがああいうことやるなら面と面の角で処理しないはずだと、どうしても気になって探したらディテールが載ってました。(建築知識2011.12)
アルミサッシの紹介ページに載ってたんですが、やっぱり角をアルミかなんかで見切ってますね。角のL型っぽいやつ。
意図としては、
・工業製品である固有性を持たないアルミサッシと対を為すように見切り材も(たぶん)アルミを使い、ともに、記号のレイアウトとして扱っている。
・木材もたぶんそれほど「木らしさ」を主張しないはずだと思ったら、やっぱり木製サイディングを使っていて、木でありながら出来る限り工業製品的な固有名をもたない記号として扱おうという意志が見えます。アルミサッシと並列に扱おうと言う意志。
というようなところがポイントかも。
前回の素材の固有性に反する気がしますが、あくまで記号の配列として素材をフラットに扱うことで、工業製品らしい素材の扱いをしつつ、そこに何らかの知覚的な効果、意味のずらしによる意味の発生のようなものを狙っているかと思われます。そこの割り切りに対する潔さがあります。

そのもの単体では固有性を持ち難い工業製品に、固有性を与えるためには、「その特質を一旦受け入れた上で、それが、あたかも固有性を持っているかのようなごまかしが生じないように配慮しながら、一種の記号のように取り扱いつつ、その構成・レイアウトによって、他からの逸脱が生まれるような操作を与える」というのが一つの方法と言えるかもしれない。
これは、弱さが反転したような、強度を持たないことによる強度。「質量」にも「形相」にも頼り過ぎない、微妙なバランスによるもう一つの質と言えないだろうか。

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これは何の変哲もない普通の化粧サイディングだけども、左右の微妙な非対称性と、庇の扱い(微妙なカットと、軒の出がある面とない面の並用)によって、微かに固有性のようなものを与えられたように思うし、その加減が、いろいろな表情の建物が混在している密集地域では、一つのあり方としてはアリだった気もする。

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これは、全体的に生活感を配した無機質な空間を指向している住宅の現場写真。
無機質さを指向しつつ、あまりに「形相」に傾倒するのは体験の質としてチープになりかねない、という中でのギリギリのバランスを探したもの。(ちなみにこれはカラー写真です)
天井に「質量」を感じさせる、材料ムラのある板材を貼った後、潰さない程度に白く塗ってそれを弱めることで、他とのバランスを取ることが出来たように思うし、今後什器等が入って来た時に、そのバランスを調整する役割を担ってくれるのでは、と期待している。(と言っても基本的にはクライアントの感覚に頼っている部分が多いわけですが。)
これなどは、おそらくその場の微妙な質としてしか表れないものだと思うけれども、その微妙な違いが知覚の質に案外大きな影響を与えると思うのです。

と、こんな感じでまとめながら、これまでまとめてきた言葉を、なんとかかんとか具体的な技術に結びつけていけたらな、と思ってます。




ATGO写真アップ

ATGO03
ATGOの写真アップしました。
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noona 写真アップ

家具が届いた、とのことで改装した美容室の撮影に行ってきました。(sakuさんの花とも初対面)
当初新築で、とのことでしたが予算の都合で車庫を改装することに。
亡くなられたお父様のつくられた車庫や倉庫に置かれていた材料などを出来る限り有効に使うようにしました。
思い出を残そう、というよりは、予算をどう抑えるか、というのが主な理由でしたが、結果的には、予算の面でも、空間を柔らかくする面でもお父様に助けていただいた気がします。

写真をアップしましたので実績のページより御覧下さい。




SDGO 足場解体

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5月は雨が多く、外周りがなかなかできなかったのですが、ようやく足場が外れました。
色味は時間帯の影響もあるかもしれませんが、いい感じのしっとりとした白で満足できる仕上げになったと思います。

内部はこれから無機質な方向でかつ空疎にならないように追い込んで行きます。
こういう方向性の空間はなかなか実現の機会がなかったので、どうなるか非常に楽しみです。
(経験的な感覚で言うと、今イメージできているものより実物は数段良くなるんじゃないかと思っています。)




生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)

アトリエ・ワン (著)
LIXIL出版 (2014/4/25)

コモナリティの意図するところ

出版された当時はまだピンと来ずに購入を見合わせていたが、「おいしい知覚/出会いの建築」(以下[知覚])をまとめる過程で関心を持った知覚の公共性と関連があるように思ったので購入した。
序盤で本書の意図について書かれているが、これ以上要約のしようがないほど密度の高い文章なので、途中省略しながらそのまま引用したい。

20世紀後半の日本の奇跡的なGDPの伸びを駆り立てたものとして、さまざまな領域での産業化があった。だがこの過程によって思わぬ副産物が生まれた。それは、自分が生きる自然とどんな折り合いをつければよいか、自分の街にどんな家を建てたらよいか、パブリック・スペースを自分たちでどう実践したらよいか、といったことを知らない人々である。知らないと言うことは、連帯することができないということである。すると人々は「個」へとばらばらにされ、「公」やマーケットが認めるシステムに依存することになる。人々が自分で判断して自律的にふるまう余地と機会が、徐々に奪われてきたのである。[・・・]でも残念なことに、それでは個が個であることを越えることができない。そんな個は貧しい。この風景に欠けているのは、世代の違いを越えて受け継がれ、主体の違いを越えてその場所で共有される建築の形式や人々のふるまいであり、それが反復されることにより成立するいきいきとした街並みや卓越した都市空間である。そうしたものの成立のためには、私たちは優れた建築を設計する偉大な個人にだけでなく、時代や主体の違いを越えた偉大な人々にならなければならない。偉大な人々の一部であると感じることができれば、自信と誇りが湧いてくるだろう。それがないから「幸せかどうかわからない」のではないだろうか。[・・・]その仕組みは人びとというまとまりを、純粋な「個」と純粋な「公」に分離生成していく傾向をもっている。[・・・]「個」と「公」に重きを置きすぎた20世紀の建築が「共」を取りこぼしてきたのなら、「共」に軸足をシフトした建築実践の冒険を始めよう。
そして、そこに広がる「共」の領域を、建築のコモナリティと呼ぼうというのが本書の意図するところである。(強調引用者)

アトリエ・ワンはコモナリティを軸にし、個体の違いを越えて共通するタイポロジーや、「公」が求める「空っぽの身体」に対する「スキルをもった身体」といったことを手掛かりに、「住宅の系譜学」「窓のふるまい学」「マイクロパブリックスペース」「広場・公園の設計」の4つの領域でデザインを展開している。
本書ではそれらをベースに理論や観察、実践例等幅広い視点を横断しながら「コモナリティ」という言葉を描き出している。

コモナリティの生態学的解釈

塚本氏はおそらく生態学を理論のベースとしていると思われるが、本書では(おそらく意図的に)生態学には触れていない
ここで自分の言葉に引き寄せるために[知覚]で書いたこととの関連をまとめておきたい。
[知覚]では知覚の性質の一つとして知覚の公共性を挙げたが、コモナリティでは「公」と「共」を明確に分けており「共有性」という言葉を用いている。その違いはなんだろうか。
[知覚]で公共性という言葉を用いたのは、人間の集合的存在としてのあり方をより良く表していると判断したからであるが、個々の知覚・ふるまいの場面においては共有性という言葉の方がより直接的で相応しいようにも思う。これについては「公」「共」「個」とは何か、「公共性」とは何か、を含めて今後考えていきたい。

ここから、先の引用文を[知覚]の言葉で捉えなおしてみる。

ふるまい方を知らない人々は、「公」やマーケットが認めるシステムに依存して、生態学的な能動的態度を忘れてしまった人々であり、そこに内在する悦びを忘れた人々と言えるだろう。
ここで「公」とは制度として人々のふるまいの能動性を奪うもの(本書でいうところのフーコーの「生権力」)、[知覚]でいえば、囲い込むことで受動的態度に人々のふるまいをとどめるものである。ここでは「はたらき」は有効に作動せず、「予定的自己決定」から出ることはできない。そこには遊びの余地はなく、予測誤差は痛みとしてのみ現れる

知覚の公共性によって初めて、個人や時間、空間などを越える、言い換えると(私、今、ここ)を越えることが出来るようになるが、それが制限されることによって、同時に、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、といったいわば人間が人間であることを奪われるように思う。

本書でいう偉大な人々というのは、そういう人間の集団的存在としてのあり方に能動的に参加しうる人々と言えるだろう。
また、タイポロジーは集団的存在としての人間の文化・技術・歴史に内在する不変項であり、「スキルをもった身体」とは生態学的な能動的態度に優れており、個人として相互行為にか関わる技術(アフォーダンスの探索・利用スキル)を持った人々である。また、そういったスキルの発動可能性を多様に担保することが生態学的な倫理であり、それに対して建築は大きな責任を負っているように思う。
このようにコモナリティは知覚の公共性に重なる概念であるといえる。

これまで建築と都市や社会との関係性がいまひとつ捉えられないでいたが、ようやくぼんやりとではあるがイメージできるようになってきた。
この本でも多くの書籍が紹介されているが、それらも参考にしながら、そのイメージの解像度を上げ、建築の実践につなげられるようにしていきたいと思う。




それぞれのスケールにとって適切な流れの大きさや速さ、それに伴うデザインがある B189『流れとかたち――万物のデザインを決める新たな物理法則』(エイドリアン・ベジャン)

エイドリアン・ベジャン (著)
紀伊國屋書店; 46版 (2013/8/22)

本屋でふと目について買ったもの。

流れの法則

この本の主張は至ってシンプルである。

有限大の流動系が時の流れの中で存続する(生きる)ためには、その系の配置は、中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない。

コンストラクタル法則は、単にこう言っているにすぎない。すなわち、動くものはすべて、時がたつにつれて進化する流動系であり、デザインの生成と進化は普遍的な現象であるということだ。

コンストラクタル法則によると、すべての流れるものは
より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化する
・それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる
・上記の構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる。

著者はコンストラクタル法則を物理法則の第一原理に位置づけているがそれが適切かどうかは分からない。
しかし、これまで見てきた生態学やオートポイエーシスなどと同様に、一つの視点から多様な世界を眺める視点を与えてくれる。(その際に染み付いた常識を取り払ってみる必要があるのも同様。)
その範囲は、河川領域、気管支樹、雪の結晶や動物の動きなどから、生きていることの定義、生命の起源、知識や情報の流れや社会制度、空港や都市のデザインから黄金比や歴史まで、生物・無生物、物・現象を問わずあらゆる流れに適用される。

それは観察の結果導かれるもの、ではなく、単純な法則によって現象や未来を予測できるものである。それは例えば空港や都市をデザインするという行為において、確かに有効な視点であると感じられた。

ここで、デザインという行為(本書ではデザインは普遍的な現象として必然的に現れるもの、と捉えられている。)に活かすことを考えた時に、重要になるのは「何が流れるか」を認識すること、もしくはそれを問うことである。

建築を何が流れるか

コンストラクタル法則ではそれぞれのスケールにとって適切な流れの大きさや速さ、それに伴うデザインがあるとされる。
であれば、都市的なスケールで考えることと、建築的なスケールで考えることでは、扱う流れの大きさや速さ、それに伴うデザインは当然異なってくることになる。

都市的なスケールで人やモノ、情報や文化の流れはイメージしやすい。
では建築的スケールでは「何が、どのように流れる」とイメージできるだろうか。

ここで今考えている『おいしい知覚/出会う建築』と接続してみると、知覚もしくは出会いのさまざまが流れている、と言えそうである。

例えば生活や文化、歴史や思考、といったものの知覚が流れていると想像してみる。
都市のスケールではそれらはより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れている
それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールにおいてふさわしいかたちをとる。

このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできるような気がするし、それはここ最近ようやく掴めてきた感覚である。

しばらくはこのイメージをより鮮明にすることを考えてみたいと思っている。




建築論 Deliciousness / Encounters おいしい知覚 – 出会う建築 アップしました。

最近まとめて読んだ生態学関連の本から発想を得て、これまでこのブログで考えてきた建築に関することを一つにまとめました。
ご笑覧頂けると幸いです。

こちらのページからPDFファイルをダウンロードできます。
Deliciousness / Encounters おいしい知覚 – 出会う建築 

(合わせて、草稿案のブログ記事は削除しました。




経験には喜びや希望、生きることのリアリティが内在している B188『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2010/3/31)

前回と同じ著者で、生態心理学の流れで倫理的な視点に対して信頼を持てるようになることを期待して手にとったもの。

原題は『The Necessity of Experience(情報の必要性)』だが、最終章のタイトルよりとった『経験のための戦い』が邦題である。
最初に感想を述べると、哲学的な枠組みからか、教育や労働環境等とその背景となる哲学や心理学に対する批判が8割以上を占めている感じで少し読むのが辛かった。
主旨から考えると、『経験のための戦い』として批判にページを割くのではなく、『経験の悦び』や『経験の希望』というような内容に力を入れて欲しかった、というのが率直な感想である。

哲学的枠組みに乗って現在あるものを否定することで正当性を求めるのは、本書で批判している枠組みそのものをなぞり、経験的な意味を損なうことになると思うし、その枠組では結局のところどういう立場からものをいうかの観念的問題でしかなくなるような気がする。それよりは経験に内在するという悦びや希望、可能性を丹念に描き出すことに力を注いで欲しかった。(そういう意味では前回の本は面白く読めた。)

とは言え、その批判的な部分は現在のものづくりにもそのまま当てはまるし、デューイの哲学はこれまで見てきた生態学的な倫理の基盤とも言えるものであった。

確かに現在のものづくりは不確実性に対する恐怖が支配的で機械的になものになっているし、一時的経験が剥奪されたものの集合体である都市は技術や経験の蓄積としての集合的記憶を見失いつつある

それに対し設計に関わることでできることは、不確実性に対する恐怖に贖い生きられた経験を取り戻すべく努力することと、設計を新たな集合的記憶への道を示すような”技術”として捉え直し風景へと埋め込むような可能性を模索することだろう。

では、知覚・経験がもつ根源的な意味については何が言えるだろうか。

確信を得るためのものが見つかったとは言えないが関連しそうな部分を抜き出しておきたい。(強調は引用者による)

(行動の動機となるような)行動に付随しておこる積極的あるいは消極的な感じは、孤立した内的状態ではなく世界を経験することの一部なのである。

日常経験にかかわるエロスつまり生きられた経験の喜びは、端的にいって生活への愛、[事物や他者との]出会いや効用の快感である。エロスは対象や情況とのわれわれの出会いに内在している

ごく普通に何かをすること-料理、庭いじり、裁縫、建築、音楽、スポーツ(中略)これらの活動は(フロイトによる)妨げられた性交などではなくて、環境と触れ合うありふれた方法であり、そのままで楽しみなのである。

彼(モリス)がゴシック様式を愛好したのは、石工その他肉体労働者が建物を設計したという事実に拠っていた。かれらは建築家の設計図をただ実行に移しただけではなかったのだ。(中略)モリスにとって有用な仕事は、とりわけ誇りと希望を人に植え付ける仕事だった。ここで、誇りとは自己と生産物に対する誇りであり、希望とは自己改善と十分な「休息」に対する希望である。

すべての人間の経験には、ごく単純なそぞろ歩きから複雑極まりない技術的熟練に至るまで、限りない可能性がある。したがって経験のもっとも重要な面である希望は、主観的感情ではなく、世界とわれわれの出会いの客観的特性なのだ。

希望は主観的でも私的でもない。希望は公共的な経験と行動の一面なのである。希望に必要なのは、個人が行為の主体として自らの成功と能力の両方を知覚することであり、目標への進路が「開かれている」(すなわち、自分のエージェンシーにとって実現可能である)ことである。

われわれの生活の意味は、自分でそれを捜す努力を払うときにのみ見いだされるだろう。

この本でも経験が喜びや希望とつながる、と言えるような確実な根拠はなかったように思う。(それを求めるのも不確実性に対する恐怖に囚われているのかもしれないが。)
それでも、経験(知覚と行為)が意味と価値を内包し、生物が生きていく上で不可欠なものであるのであれば、そこに喜びや希望、生きることのリアリティが内在しているとしても不思議ではないし、特に子供の頃を思い返せば実感としては納得できる気がする。

いや、もしかしたら、そこに確実性を求めるのではなく、リアリティとつながる体験とは何か、を考える実践的努力とそれを信じる勇気こそが必要なのかもしれない。
これまで見てきた佐々木正人他さまざまな人たちがそれを体現してくれているように思う。

(”少年のモード”と”つくることとつかうこと”がそのヒントになるだろうか。)




ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2000/11)

これまで読んだ本でも何度も引用されており、生態学を社会性のようなもとつなげられそうな予感がして読んでみた。

世界/環境との切り結び

進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/環境との切り結び>という考えが中心ににありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった

まず、重要と思われるいくつかの用語を挙げながら”自分なりに”まとめておきたい。

<環境との切り結び>・・・環境の情報/アフォーダンスをピックアップし利用したり改変したりすること。生態学のベースとなる考えで能動的に行われる。受動的に刺激を受け取り反応するといった考えとは反する。この能動性がおそらく決定的で、「環境から」入力があるのではなく「環境を」探索する。入力されたものを組織化するために脳があるのではなく、切り結びを協調させるための一つの機能として脳が進化したと考えられる。司令主義的原理ではなく選択主義的原理

<情報>・・・個体をその環境と一体に結びつけることを助けるもの。外部特定的な情報自己特定的な情報がある。アフォーダンスとほぼ同義であると思われる。それは行為の調整を通じて環境から価値を得るための<資源>となり、また行動や進化の選択圧ともなる。このような選択圧は行動の時間のスケールから、個体発生の時間スケール、系統発生の時間のスケールまであらゆるスケールで生じ、一つの行動の選択から進化にまで関わる。

<行動/行為>・・・アフォーダンスを利用するために環境と特定の関係を結ぶこと。行動は能動的で<調整>するものであって機械的・受動的に<構成>されるのではない。また、遂行的活動探索的活動がある。<行動>は自己と周囲との関係を変える動物個体の能力と定義されている。

<行為システム群>・・・多種多様な環境があるためそれを利用する多様な行為システム群が分化するような選択圧がかかる。大きくは「基礎定位システム」「知覚システム(探索的)」「行為システム(遂行的・非動物的環境)」「相互行為システム(遂行的・動物的環境)」に分けることができる。その中にさらに「移動システム」「欲求システム」「操作システム」「有性生殖システム」「養育・グルーミングシステム」「表出システム」「意味システム」「遊びシステム」などが挙げられている。

<意識>・・・生態学的な<知覚>とほぼ同義。動物は自己の周囲のアフォーダンス群をその場で利用するかしないかにかかわらず意識する。情報のピックアップ・探索的活動そのものが能動的な行動であり、意識はその成果であると言えるかもしれない。それは自覚的であったり信念を持つといった機械論的神経機構による反応のことではない。

<心理学/動機づけ>・・・<心理学>は心身二元論における刺激-反応過程の心を探る研究ではなく、<運動するもの>の研究、すなわち動物がいかに周囲と切り結び、その切り結びをいかに調整するかについての研究だと定義される。そこには行為と意識の両方が分離されずに含まれる。同様に<動機付け>は正の心的状態を求める快楽主義ではなく、動物がその生息環境のアフォーダンス群とそれぞれ独自の道において関係するように進化してきた選択圧への調整の過程だと考えられる。感情との結合が仮に生じたとしても副次的なことでしかない。

<意味/価値>・・・<意味><価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。

ここで書いたことは全て<個体と世界/環境との切り結び>の考え方と整合する。すなわち、この視点から総合的な心理学を研究する道を切り開いたと言えるが、建築を考える上でこれらはどういう意味を持つだろうか。
建築が環境の一部であることを考えると、この事によって建築が生態学的に<生きること>に対して大きく関連していることに対する信頼を得られる、という点で意味があるように思う。言い換えると、建築を考える際に<個体と世界/環境との切り結び>の視点、すなわち建築がどのような知覚と行為の可能性を担保できるかという視点を持つことによって様々なことにアプローチする可能性が開かれたと言っても良いかもしれない。
当然この考え方が100%正しいという保証はどこにもなく、将来には全く違った視点に書き換えられるかもしれない。しかし、生態学的な視点が建築に対しても新たな視点を提供しており、それは私がそれとは知らずこれまで考え・感じてきたことにかなりの部分で重なっていることは確かである。(だからこそ興味を持ったわけだが。)今の時代を生き、建築に関わっている一人としては信頼してみる価値はあるように思う。

人間への拡張

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)

人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的な対面的フレームの中での二項的な相互行為。単純な反応や真似など。(これは声や行為を挟んだ三項的な相互行為とも考えられそう)。自己と他者を理解し始める。表現や簡単なゲームもできるようなる。

[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為。同じ物を挟んでの相互行為で環境のアフォーダンスを共有できるようになる。物を交互に動かしあったり他者と遊びや活動を共有できるようになる。文化のなかに入り始める。

[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。すなわち<認識>を共有できるようになる。<認識>は人-物-人の三項関係の物の部分に認識を当てはめた相互行為とも考えられる。生きたプロセスであり、自己と周囲との接触を維持する(持続性を獲得する)能力でもある。また、その課題に含まれるアフォーダンス群のまとまりをまとまりとして知覚できるようになる。さらに、その技能を時刻や場所と関連づけた日常のルーチンとしても認識できる。また、人間は<満たされざる意味>、意味への予感のようなものを動機として先立って行為に携わる傾向性があるという。分からないけれどもやってみるというのが認識の発達をリードする。

[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>は人-物-人の三項関係の物の部分に言語を当てはめた相互行為とも考えられる。言事は、観念あるいは表象の手段ではなく、情報を他者に利用可能にするための手段であり、それによって自身および集団の活動調整に寄与するものである。また、言語がこれほど強力な調整者である理由の一つは、人々に現在の環境状態だけでなく、過去や未来の環境状態を意識させるからであり、これは変容され集団化された一種の予期的制御である。このことはひょっとするとヒトのもっとも根本的な変化であるかもしれない。また、言語はあるものを共有するために選択する「指し言葉」から、指し示すだけでなくコメントする「語り言葉」へと発達する。

[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>は上記の人-言語-人の三項関係の相手の部分に自分を当てはめた相互行為とも考えられる。すなわち自分が生成(行為)した言語を環境として受け取り自分で知覚し、さらに生成(行為)するサイクルが思考なのではないだろうか。実際の場面では三項関係の相手は自分・相手・書物などと入れ替わったり、環境から知覚の一種として言語を抽出するような行為もあるかもしれない。本書では思考は、世界の諸側面を自分自身に向けて表象する自律的能力と定義している。思考はより複雑な予期的制御を可能とするだろう。

三項関係への当てはめは個人的な解釈によるところもあるので誤解が含まれているかもしれないが、これらも全て<個体と世界/環境との切り結び>が基本にある。それは逆に、人間が世界/環境とよりうまく切り結ぶことを動機として進化してきたこととともに、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことで発達可能性を担保し続けてきた文化的・歴史的存在であることを示している。

これは建築が長期間に渡って切り結びを担保できる存在、すなわち文化的メディア(媒体)であることの可能性と責任をつきつけるものではないだろうか。そして、その可能性は<個体と世界/環境との切り結び>に対する信頼の先に開かれているように思う。

また、<思考>の三項関係の[言語]の部分に設計(案)を配置することでそのまま設計論になる。さらに、この設計プロセスや、意識-行為システム、思考システム、文化的発達保障システムなどはオートポイエーシスシステムとそのカップリングのイメージを重ねることでより働きとしてのダイナミズムと強度を持てるようになるように思う。
(アフォーダンスについて一番の疑問はなぜオートポイエーシスと融合したような理論が見当たらないか、である。私の知る限りではいくつかの対談で見ただけで融合はしなかった。何かそれを困難にする理論的壁が存在するのだろうか・・・)

400ページほどの文章を自分の関心に従って簡単にまとめたので、これを読んだだけでは良く分からないかも知れないが、個人的な記録としてはそれなりにまとめられたと思う。あと一冊同じリードの本を読んだ後、知覚をベースに建築に対する考えをまとめてみたいと思っているがうまくいくだろうか・・・。




建築の倫理とアフォーダンスの肯定的世界観 B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

河野 哲也 (編集)
東京大学出版会 (2013/8/26)

シリーズ最終巻のタイトルは倫理。
生態学と倫理がどう結びつくのだろうか。巻頭の「はじめに」にはこうある。

本巻の寄稿者たちは、それぞれの分野において、社会や文化の領域にエコロジカル・アプローチを適用することに関心を持ってきた。そこでは次のような問題意識が共有されている。すなわち、人間の相互行為を、アフォーダンスに満ちた環境を共同で形成してゆく行為として理解し、人同士、人と人工的システムとの相互作用の生成・発達過程を明らかにすること。コミュニケーションを、状況に埋め込まれた身体的な循環過程としてとらえ、規約的なコミュニケーション活動を、身体的相互作用から延長された新しいアフォーダンスの生成、あるいは、身体的アフォーダンスの再配置として理解しようとすること。本巻は、これまで萌芽的・散発的にとどまっていた社会的アフォーダンスに関する研究を総合し、生態学的アプローチに立った人間関係論、コミュニケーション論、記号論、社会学、文化論を構築しようとするものである

ここで前回の記事で使った社会的アフォーダンスという言葉が出てくる。この言葉にどこまで社会性を埋め込むことができるだろうか、というのが今の関心だが、まずは生態学的に捉えた倫理とはどういうものかまとめながら考えてみたい。

可能性としての倫理

序章で河野哲也氏は倫理学に基づく道徳的実践を他者に対しレジリエンス(回復力)を与える活動だとする。

河野氏はまず、世界を変転し続ける「ウェザー・ワールド」だと捉える。そのような世界では固定化した規範は人間を一般生の秩序の中に閉じ込めてしまい、うまく対応できなくなる。

次に、ケイパビリティという概念を持ちだす。ケイパビリティはある人にとって選択可能な「機能」の集合、言い換えると機能を可能にする潜在性であり、生き方の幅を意味する。(ここで言う機能とはその人が「どのようなことができるのか』「どのような人になれるのか」を意味する。)
ウェザー・ワールドにおいての道徳的行為とは、ケイパビリティを増大させるために、人を動的にして、創造的運動を促す実践である、とされる。

次に、レジリエンスという概念が持ちだされる。レジリエンスとは「錯乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続けるシステムの能力」すなわち「回復力」を意味する。

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。

ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。

要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

社会的アフォーダンスと倫理

これは2巻でダイナミックに描かれた熊谷晋一郎氏の「依存先の分散としての自立」に通ずるものがある。
熊谷氏は主に個人の技術としての視点から可能性を描いており、河野氏は社会の道徳・倫理としての視点から可能性を描いているように思うが、両者の間にはアフォーダンスのダイナミズムが介在しており、それらは共にアフォーダンスの配置に関連している。(第2章では知覚を探索的活動(環境中の情報の抽出)と遂行的行為(環境の改変)に分けているが、これは後者のウェイトが大きい。)

つまり社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置というものがあるということだろう。
社会的アフォーダンスはパースやリードの言う三項関係を成立させ、(場合によっては世代を超えた)ある集団と社会的なコミュニケーションを媒介し、倫理的アフォーダンスは自己維持のためのケイパビリティを開発し、生きていくいくつもの道をつくる。そして、両者を満たすことが道徳的実践となる。
(河野氏は社会的アフォーダンスとして①対人(動物)関係的アフォーダンス②社会制度アフォーダンス③社会環境アフォーダンスの三種類に分けており、それぞれについてアプローチが可能である。)

また、社会的アフォーダンスの前提には「知覚の公共性」がある。

生態心理学に基づくコミュニケーション理論の骨格をなす概念として、「知覚の公共性」がある。これは、知覚対象を特定する情報(不変項)は環境の中に実在するものであり、個別の知覚者の頭の中にあるものではないため、任意の知覚者がこの情報を探索・検知できるということである。(中略)そこでは複数の知覚車の間で知覚経験の共有が成立する条件として、「知覚者が自身の状態に関して他の知覚者と有意な差が差がないと信じることができる」ということそを想定している。(本多啓)第3章 言語とアフォーダンス

巻末の対談でバリアフリーやユニバーサルデザインについて「知覚者の状態の差」が問題になったが、それに対しては多様な可能性を確保することで対応するしかないように思うが、場合によってはそれが状態の異なる知覚車の間の媒介となる可能性もあるだろう。

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。
それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。

実践の鍵

これらは実践にどう活かすことができるだろうか。
一つは前回書いたように、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などの中に存在する社会的アフォーダンスを抽出・再構成し、共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができると思うし、より直接的に様々な人のケイパビリティを保証するような建築をテーマにすることもできると思う。
その鍵は建築をアフォーダンスを埋め込むことのできる器、メディアとして捉えることにあるのかもしれない。

もう一つは、まちづくりのようなものに”可能性としての倫理”にようなものが適用できる気がする。
一般的にまちづくりのようなものが要請されるのは、硬直化した(ウェザー・ワールドに対応できない)場所であると思うが、その中に新たに規範や常識を持ち込むよりも、”可能性としての倫理”のようなダイナミズムを持つものを導入した方がうまくいくケースもあるのではないだろうか。
社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置は所謂コミュニティの形成や個々のリアリティ(生きがい)獲得に繋がるかもしれない。(そのためには相互にケイパビリティを開発しあうのが良いとうような倫理観が形成され自走的しだすことが目標になるような気がする。)
それは大きな物語に乗るまちづくりではなく、主体的・創造的・動的な身の丈サイズのまちづくりになるのではないだろうか。
その鍵として何がメディアとなりうるかはいろいろな可能性がありそうだし、いろいろな課題や反論も考えられるが、まちづくりに関してはここまでとする。

快楽としての知覚とリアリティ、および建築の自立性

次に快楽としての知覚について書いておきたい。

ジェームズ・ギブソンが創始した生態心理学が、その理論的正当性を超えて多くの人に歓待されたことは、人や物質が自らの傾向性を現実化する様を見る快楽と無関係ではないと考えている。(柳沢田実)終章 可能性を尽くす楽しみ、可能性が広がる喜び

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

ここに、科学者ではない私が生態心理学に興味をもつ理由がある気がする。私にとってはあくまでより良き建築を考えることが重要であり、ギブソンの理論はそれに応えてくれる予感があったのだ。

そして、何度か書いているように快楽としての知覚は生きることのリアリティと言い換えても良いもののように思う。

筆者が提示する「行為の可能性の増大」はリードが言う意味での経験=学習となる。リードに従い「生きること」そのものを学習のプロセスとみなすならば、「行為可能性の拡大」を望ましいとする規範性は、まさに「生きる」ということそのものに内在しているといえるだろう。(柳沢)終章

柳沢氏は最後を「生活への愛」という言葉で締めているが、以前書いたように「生活」という言葉には何か意識を超えた豊かさにつながるイメージがある。生活とはまさに可能性と向き合い味わうことであろう。

さらに、建築を知覚の対象として考えるならば、建築の自立性というものが重要になるだろう。

彼(リード)が現代社会における間接経験の過剰を嘆いたのは、他社によって制限された情報をただ受け取る受動的な間接経験に慣らされることで、人は、能動的に情報を探索する習慣や能力を容易く失ってしまうからだ。以上の議論を、先ほどの倫理的行為の分析に応用するならば、単なる共感に終わる人と、実際に身体が動く人の差異は、行動への能動的な構えの有無による事になる。(柳沢)終章

私は不便であることは大変重要だと思います。一般に人間が巧みに行っていることについて、そこにはアフォーダンスの適切な発見ということが論じられていることが多いですが、実は不便であることや、うまくできないことのほうにこそ、いろいろな重要なモメントがあります。(池上高志)(中略)便利だということは、うまく道具や環境を使いこなし、極端に言えば、それらを自分の身体の延長のように取り込み、自分とモノとの境界線がなくなってしまうことです。不便さには、どこかで抵抗する外界があって、自分が抵抗を受けている感じがしていて、そこで自己の境界が生まれています。(河野)(座談会)エコロジカルターンへの/からの

知覚を導くために能動性が重要だとすると、知覚者と一定の距離を確保することが有効であり、その鍵は建築の自立性にある気がしている。(不便という言葉はデリケートな言葉だと思うが、中村隆司氏の発達保障理論が建設的で好感が持てる。)

そうであるならば、建築が自立性を持つことやある種の不便さは生きることのリアリティを支えるような倫理的価値を持つと言えるだろう。この考えは建築を考える上での支えとなるし勇気をもらえる気がする。

最後に座談会終盤での染谷昌義の言葉を引用して終わりとしたい。

倫理については、「知覚と倫理」というテーマでかつて考えたことがあります。その時にイメージした倫理は、世界の中を動き周り探索することで知覚と行為が洗練され成長し、ギブソンの言葉を借りれば「あらゆるところに同時にいる」ように、今いる場所から行きたい場所に自由に行くことができ、そうした自在感を獲得して巧みに生きられるようになるという意味での成長の倫理でした。これは、何か原理に則して物事の正しさや善さを判定していくやり方ではなく、いかにうまく生きていけるようになるか、よく生きる技術をいかに身につけるかというところに焦点を当てる倫理です。もちろん、これだけで倫理的な問題や政治的問題が解決できるとは思っていません。けれども少なくとも倫理の根幹には、個体がそれぞれ自分の生の可能性を発揮できるように周囲を探索して生活し幸福を目指す営みがあるという点は、変わらないポイントかなと思っています。(染谷)座談会




社会的なものも含めたリアリティの密度への手がかり B185『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』(J.J.ギブソン)

J.J.ギブソン (著)
サイエンス社 (1986/03)

この本の原文は1979年、私が4歳の頃に出版されたものである。
このブログでもアフォーダンスについてはいろいろと書いてきているが、そのベースとなる本書は専門的すぎて難解なのでは、という思い込みをあってこれまで読んでいなかった。

しかし、そろそろきちんと自分の中に落とし込まなければと思い読むことにしたのであるが、想像よりずっと読みやすかったのでもっと早く読むべきだったと思う。

生態学転回と建築及び概念的なものとの関係

ギブソンはまず、動物における知覚と人間の観念・概念的なものを明確に分ける

これまでは哲学や物理学の影響から、物理学的空間観をベースに私と環境が二分された世界観の上に知覚が考えられていた。
しかし、ギブソンはプラグティズムの流れから、動物や人が生きていくための視線より徹底して環境を描き出していく。
そこから、導き出される環境は知覚するものと相互依存的な関係で互いに切り離せないもので、物理学的空間とは大きく異るものであった。

その根本的変化をある本では生態学転回と呼んでいる

そこで頭に浮かぶ問いは、

(1)そこから導かれる建築像はどのようなもので、それは望ましいものであるか。
(2)ギブソンの理論において概念的なものは一旦棄却されるが、それは建築においてどのように考えればよいか。
(3)設計の方法はどう変わるか。

の3つである。
(1)についてはこれまでに考えたことをもとに前回まとめてみたが、今回ギブソンを読んだことをもとに新たに考えてみたい。
また、(2)についてもいくつかヒントをつかめた気がするので考えをまとめてみたいと思う。
(3)に関してはこれまで何度か触れている。設計に対する態度のようなものの転回は多くの可能性を秘めていると思うし具体的に実践していく上で重要だと思うが、主眼を(1)(2)に置くために今回は省略する。

生態学的情報とリアリティ

先日、実家である屋久島に帰り、この本を読みながら時間を見てはあたりを歩きまわって知覚について考えていた。
そこでは都市部の風景に比べ明らかに環境の情報が多様で複層的であり、それはミクロなスケールからマクロなスケールに渡って密実なものであった。

情報量が多いということは一見煩わしいことに思える。
しかし屋久島で受けた印象ではそれは煩わしいどころかとても心地よく感じるものであった。
それはおそらく情報の質によるものだろう。

ギブソンは眼が刺激として受け取った入力情報が脳に送られ処理されることで知覚が生じるという一般的なイメージを明確に否定し、環境にある情報を直接的に抽出し知覚するという。
都市部における情報の多くは概念的産物であったり認識の必要な記号的なものが多く、知覚の情報のもととなるものは画一的で単純、貧しいものであるが、屋久島での散策時の情報はその殆どが直接知覚できる、いわば生態学的情報と言えるものであった。

情報の質が生きることのリアリティの質に何かしら関わっていることは間違いないと思う。

これは私の感覚的な推測でしかないが、屋久島で感じたような直接的に知覚できる情報が生きることのリアリティのある領域での密度を高め、逆に概念的情報はそれを阻害するノイズになると仮定できないだろうか
そうだとすると、直接的に知覚できる情報の質、この本で言われるところの不変項もしくはアフォーダンスの質は、私が建築に求めるものとしてこれまでイメージしてきたものの源泉の一つと言えるかも知れない。

不変更の表現者としての建築家

本書の終盤で絵画や映画と視覚的経験に関することが論じられているが、その中で、画家は目の前の景色だけでなくそれまでの自身の経験の中で抽出した不変更を用いて表現することができる、といったことが述べられていた。
同様に設計者が自らの経験の中で捉えた不変項(アフォーダンス)を再構成するというようなことが可能かもしれない。

建築は環境の多くの部分を占め(リアリティの質を担うと考えられる)直接的に知覚できる情報の多くを負っている。
しかし、現代の環境を見渡してみるとその多くは概念的なものに囚われ、便利さや安全性を満たしてはいても情報の質としては貧しい物がほとんどのように思う

ここで建築家の役割の一つを「その場所や状況から抽出したり、建築家自身の経験の中で捉えた不変更を用いることによって、生きることのリアリティの密度を高めるように環境を再構成すること」と定義できないだろうか
そうすることで、ギブソン的知覚論を建築に結びつけることが可能になると思うし、それは(少なくとも私の経験では)望ましいことのように思える。
また、再構成によってその質を「既知の中の未知との出会い」のように新鮮で豊穣さを持ったものに高めることができるかもしれない。

概念的なものの相対化

先ほど、概念的なものをノイズと表現したが、それは直接的知覚に限って考えた場合である。
しかし、人間は社会的な存在であり、例えば社会性や歴史、文化と言ったものも生きていく上で重要なものであると思う。(なので先程は「生きることのリアリティのある領域」という書き方をした。)

それは知覚の理論とは別の位相の問題だと考えられるが両者の間に接点はないのだろうか。

この本では「定位」「公共的認識」といった言葉が出てきた。その感覚もとい知覚は基本的には知覚者のものであるが、社会的に共有可能なものと言えないだろうか。
そうだとすると、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などにおいてそれらの中に存在する不変項もしくはアフォーダンスを抽出・再構成することによって、それらを共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができる気がする。

それは例えばフィールドワークによってなされるかもしれないし、「素材の流動」によってなされるかもしれない。
そこでは概念的な思考の手続きを踏むかもしれない。しかし、もしそのことが可能だとすると、直接的知覚経験から導かれた建築に、さらに建築的な遠投力のようなものを重ねることができるかもしれないし、「都市と接続する」といったことが可能になるかもしれない。

その際、純粋な知覚的アフォーダンスに、社会的アフォーダンスとでも呼べるものを加えて相対化することによって、それらを同列・同時に扱いながら建築を考えることができるようになると思う

それが出来た時、建築はおそらくさまざまな複層的なリアリティを同時にかつ”直接的に”知覚できるものになるように思う。
それはおそらく建築であるからこその可能性であろうし、建築の責任でもあると思う。




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018
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