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YNGH 足場撤去

ようやく足場がはずれて外部の全体が見えるようになりました。
アプローチ部分は白く塗装する予定ですのでメリハリがつくと思います。

大工さんが苦労していた内部の壁・天井も終りが見えてきました。
来年は減額のためにDIY工事にまわした棚等をいろいろつくらないといけません。ということで、念願だった丸ノコとパイプカッターなんかの工具を購入!がんばりまっす




B172 『アルゴリズミック・アーキテクチュア』


コスタス・テルジディス(著),田中浩也,荒岡紀子,重村珠穂,松川昌平(翻訳)
彰国社 (2010/02)

おそらく他の本と勘違いしてコードばかりの内容だと思ってたのですが、不意に見た下記の冒頭文(推薦文)で興味を持ったので手にとってみました。

おそらく実際に手に取るまで、コスタス・テルジディスのこの本は誤解されたままだろう。あるいは読み終えて理解はした上でも、何かすぐには受け止めきれない気持ちがあるかもしれない。私自身がそうであったように。それほど、この本の内容は読者の予測を超えた深淵で哲学的な領域に我々を誘い込み、揺さぶるものだ。

内容はまだざっと流しただけで読み込めてないのですが、(我慢できなかったので結局今使ってるCADのスクリプトをいじり始めてしまいました・・・。)今後の可能性を考える時にベースとなりそうな気がします。


アルゴリズミック・デザイン―建築・都市の新しい設計手法
日本建築学会 (編集)
鹿島出版会 (2009/03)

こちらの本も実例が豊富でざっと俯瞰的にイメージを掴むのに良さそうですし、スクリプトをいじるのに真似できるアイデアが無いかと思い買ってしまいました。(こちらのほうがライトな感じなのでテンポよく読みやすいと思います)

VectorScriptをいじってみた

中学生くらいの頃にMSXというパソコンとファミコンの間のような機器を買ってもらって、BASIC(たまに機械語)という言語でせっせとゲームを作って雑誌に送ったりしてたのでプログラミング自体には抵抗がなかった、というのもあり、今使ってるVectorWorksというCADについてるスクリプトをいじってみました。

△ランダム(右)と1/fゆらぎ(左)によるルーバー生成


△30×30のパネル角度をランダムや1/fゆらぎをつかったいくつかのパターンで変化させたもの


△本棚を自動生成(本のサイズや傾き等を1/fゆらぎで

1/fゆらぎと言っても間欠カオスという下記の式によるものを試してます。

X(t)<0.5の時
X(t+1) = X(t) + 2 * X(t) * X(t)
X(t)≧0.5の時
X(t+1) = X(t) – 2 * (1-X(t)) * (1-X(t))
(0<X(t)<1)

これを乱数の代わりに使ってるだけですが、こういう単純なパラメーターを制御してループ系はもう少し複雑なものもできそうです。

住宅等への応用

アルゴリズムはざっくりというと関係性を扱う(もっというと寸法を扱う)ものだと思うので、非人間的どころかむしろこのブログでもいくつか紹介してきた自然のかけらを建築に組み込むようなことだと思うのですが、僕が今手がけているようなハイコストではない小規模な住宅のようなものを考えると2つの壁があるように思います。
①アルゴリズムを試行錯誤しコード化する労力が小規模な設計に見合わないこと(同程度の労力を注げば手作業でもある程度の検討はできそう)。
②複雑なものはコストに直結すること。

アルゴリズム=プログラミングというわけではないですが、①については手作業とプログラムのできることのバランスをとったり、継続的に利用できるものを考える等の対処が考えられそうです。(その前に実用レベルの技術を身につけるまでかなりの試行錯誤が必要そう)

②については技術的なところまでイメージしながら考えること、(多くは)直線的でシンプルな構造とすること、複雑さに頼らないで関係性の密度をつくること、などが考えられそうです。

ルーバーや開口部、柱などのリズムのようなものはすぐにできそうですが、インタラクティブなシステムや評価アルゴリズムを組み込んだり、複雑な曲面による構成などは可能性はありますがハードルが高そうです。

プログラムに頼らずとも、関係性・寸法決定のアルゴリズムのようなことに意識的になるだけでも大きな違いが生まれると思いますし、その部分が重要なんだと思います。意識的になれば自然やものの出来る仕組みや隠れた関係性への観察力も付きそうです。寸法を自在に操れるようになりたい。

根底の所ではそれほどぶれてるとは思ってませんが、ここのところ興味が散漫になっている気がします。どこかで一度ギュッと具体的な形に凝縮させないといけないかな。

この2冊で何度か出てきたprosessing、ぐぐってみたらめっちゃ面白そうだなー。ハマると時間をめちゃくちゃ使うんだろうなー。なんかぴったりのプロジェクト始まらないかなー。




B171 『アーキテクト2.0 2011年以後の建築家像』


藤村 龍至 (著), TEAM ROUNDABOUT (著)
彰国社 (2011/11)

サブタイトルに「2011年以後の建築家像」とありますが、建築家像は果たして更新されるべきなのか、更新されるとすればどういったものになるのか、自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきか、という問いについて何らかのヒントになればと思い買って来ました。

アーキテクト2.0とは何か?

本書の狙いは以下のとおりである。まず、「情報化」と「郊外化」を1995年以後の建築・都市領域起きたもっとも重要な変化の代表例として位置づけること。そのうえで、そこで起きた建築家の役割の変化を見極め、問題意識を広く共有し、2011年以後の建築家の可能性を討議することである。

table3
上の引用文・表のように序文で本著の狙いとその前提が明確にまとめられており、その後の対談からありうる次の建築家像を読者が共に発見していくというような構成になっています。
表の2011年建築の動きの部分が空欄になっていますが、ここにはおそらく著者達の活動や本書に収められていることが入るのでしょう。

さらに本書のタイトルの説明としてこの表の2011年以後の部分に当たる部分を引用すると

2011年以後の「アーキテクチャの時代」に求められるのは縮小/エコロジー/新しい公共/パートナーシップ/コミュニティといった社会のニーズを汲み取りつつ、ボトムアップ/地域主義/シュミレーション/アルゴリズムといった方法論を駆使して人々のコミュニケーションの深層を設計する「アーキテクトとしての建築家」である。本書ではさしあたりこれを既存の「建築家」と区別し「アーキテクト2.0」と名付けておく。

とあります。
「アーキテクトとしての建築家」というと語義重複のようにも感じますが、”アーキテクト”は『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』などのそれまでのアーキテクチャに関する議論を受けてのもので、アーキテクチャを何らかのかたちで引き受けようとする人、という意味が込められているのだと思います。(引き受けるという表現は完全にはしっくり来てませんが)

アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか

僕は藤村さんと同年代で1995年ごろの、特に「郊外化」に対する問題意識から建築をスタートしているので、『そういう郊外的な希薄さが都市の全体を覆ってしまった現代において、どうやったら濃密さを取り戻すことができるのだろうか』という問題意識には完全に共感できるし、その問題に向き合うには『思想地図〈vol.3〉』のところでも少し書いたように、一種の権力でもあり地方においてより切実であろうアーキテクチャの問題をなんらかのかたちで引き受ける必要がありそうだと感じます。

対談の内容については本書を読んでいただくとして、では自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきかと考えた時に、アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか、という問いがありそうです。

少し考えてみると

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

というようなことが思いつきます。(アーキテクチャという言葉を少し強引に使ってるところもありますが)
①と②は建築士としての直接的な設計活動として、③と④は直接的な設計活動を離れた別の活動としてとりあえずは分けられるように思います。

次に、それぞれについて少し詳しく書いてみます。

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

個別の設計活動において、他者をどう取りこみ、どう濃密さを取り戻すかというのは、身体の時代の方法においても考えられてきたことだと思います。
超線形設計プロセスやアルゴリズムなどをイメージとして頭に浮かべていますが、設計方法、設計プロセスなどの部分で設計活動の及ぶ範囲の小さなアーキテクチャーに変化を与えることでより他者を取り込むことが可能になるように思います。

また、読書中に

onokennote: 例えばtwitterは独立した個のつぶやきのTLが偶然性による干渉によって一種の創造が起こることがある。それには個自身の多面性とTLの多様性、クラスタや地域といった規模感が重要そう。そして、その規模感が独立した個々の集まりの中にぼんやりとした輪郭を与えると共に、(いわゆる)地方において独特なアドバンテージを生み出す大きな要因になっているように思う。これを建築の設計に置き換えてに、例えば超線形のパラメーターのようなものがTL状に独立して流れる中、偶然性による干渉によって一種の創造が起こる、といったイメージが重ね合わせられないだろうか。さらに、ここに規模感のようなものを重ねることで、同様に(いわゆる)地方において独特のアドバンテージを生むようなイメージは描けないだろうか。このアドバンテージ(と感じるもの)をもっと追求することで地方ならではの設計のイメージってありえないだろうか。 こう考えたら、dotの超並列ってTL的だなと思ったのですが、こういうアドバンテージを考えた時にtwitterやFBで他に重要なポイントって何だろうか。リアル(フィジカル)なものとの接続の仕方とか、他のツールとの親和性とかもヒントになりそうだけど。以上思いつきメモ。まー、今は一人事務所だから共同設計的なイメージよりTLに書き込みつつ全体のTLを眺めるような感じかなー。


とツイートしたようにWEBの知見・感覚を活かす方法はありそうです。(他を知らないので比較できませんが鹿児島県はわりとソーシャルメディアを面白く使ってる地域だと思うのでそうした教材はたくさんあるような気がします)

自分の現状としては、今まで本を読んだりブログを書いてきたことの多くは①に関することなのである程度の積み重ねはあると思いますが、実物に結びつけるところがまだ弱いと思っています。
これは今後もこつこつと考え実践していくことはできると思います。

ただ、個別の建物に限られるので射程距離が短いことをどう捉えるかという問題は残りそうです。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

これは批判的工学主義のアプローチをぼんやりイメージしてますが、現在の主要なアーキテクチャに関わりやすいところへ設計活動のステージをシフトすることで①に比べ射程距離が長くなりそうな気がします。
具体的には商業施設や規格・商品化住宅、リノベーションと言った分野でしょうか。

現状としてはリノベシンポ鹿児島を受けてかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)で爪の先をなんとか引っ掛けた、という程度で、ほとんど手を付けられていないというところです。
踏み込むにはそれなりの戦略が必要でしょうし、勇気が要ります。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

ぽこぽこシステム_建築メタverで書いたようにアーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行うことで例えば建築文化のようなものを定着させて①の射程距離を伸ばすような考え方がありそうです。
例えば個別の設計、イベントなどの活動、SNSの活用などが考えられそうです。
藤村さんが汎用性の高い方法論を説いたり教育を行ったりして射程距離を伸ばされてるのもここに入りそうです。

自分の現状としては、かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)かごしま建築/まちなみマップ『「棲み家」をめぐる28の住宅模型展』などがあたりそうです。

nowheretenbiz鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはじめ、鹿児島でもこの部分の活動母体になりそうな動きはたくさんありますが、僕自身はWEBでの発信程度(それも滞りがちですが)しか出来ていないのが現状です。
それなりに腰を据えてやらないといけませんが、今のところウェイトをそれほど移すことが出来ていません。
デザインマーケットin鹿屋は素晴らしいと思います。簡単には真似できないです。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

地方の問題の多くは交通と土地の問題に帰着しそうな気がするのですが、そういった構造や制度的なアーキテクチャに直接的にアプローチする方法がありそうです。
岡部さんが少し言われてるようにもっとも直接的には行政や大学などの研究機関、もしくは関連企業などが担うべきことだと思いますが、イメージやアイデアを提出したり、そういったことが議論される場を設ける等できることはあると思います。
また、新しい公共のようにそれを担う人がシフトしていくべき分野もありそうです。

鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはここにも入れられそうですが、自分の現状としてはしっかりと関わるところまでは行っていません。

今、土地の分野から建築までを一体的に提案するようなとあるプロジェクトに関わらさせていただいていますが、これには①とともに④の部分でもアプローチができそうで大きな可能性を感じています。

じゃあどうすんべ

じゃあどうすんべ、というところですが、現状は①についてそれなりに考え始めている、というだけで、②③④についてはあまり力を入れられていません。

難波さんの「コントロールできる範囲を見極める」というところは、最近ローカルでよく聞く規模感という言葉ともかぶることもあり印象に残っていますが、それぞれに対してどれだけのウェイトをかけるかというのをきちんと設定しないといけないと感じています。

今、事務所としては1年目を終えたところですが、そのためにもまずは経営をある程度軌道に載せ、必要に応じて①以外の部分にも堂々と一定のウェイトを割けるようにならないといけないし、そのための体制作りがここ2年ほどの課題になりそうです。

なんだか現状をまとめる所で終わってしまいましたが、きちんと戦略をもたないとなかなかアーキテクチャには踏み込めなさそうです。ゆっくりきちんと考えよう。

——————————-
追記
基本的には①(もしくは②)を中心としてそこに③、④を明確に位置づける必要がある。明確に位置づけられないものは事務所としての役割とは別にきちんと切り分けるべきだろうな。その部分は他の役割を担うべき人に任せるか、一市民としての立場で動くか、もしくは別名又はリノベ研等の別枠で動くべきなんだろう。
ここの切り分けが明確でないとどこまでいっても曖昧になってしまいそう。藤村さんがTEAM ROUNDABOUTを切り分けてるのが参考になるかな。もう一度整理してみよう。




KBGN 配筋検査


配筋検査に行って来ました。
大きな指摘もなく良い感じです。

ヴォリュームとして見えはじめたのでだいぶスケール・イメージが掴めてきました。
やっぱり現場を見るとテンション上がって来ますね。

(模型つくらねば・・・)




B170 『建築に内在する言葉』


坂本一成 (著), 長島明夫 (編集)
TOTO出版; 1版 (2011/1/20)

マルヤのジュンク堂に寄った時にお目当てがなくて、ふと目に入って買った本。
たまにはがっつりした建築論を読みたいと思ってたのと、坂本さんの文章をもっと読んでみたいと思っていたので買ってみました。

全体を通して、例えば形式のようなものを定着させると同時にそこからの『違反』を試みることによって『人間に活気をもたらす象徴を成立させる』というようなことが書かれていて、とても参考になりました。
これに似たことがいろいろな言葉で置き換えながら何度も出てきます。

定着と違反は反転可能なもの、もしくは並列的なものかもしれませんが、本書を振り返りながらざーっと挙げてみると

定着・・・現実との連続、コンセプト(概念的なこと・理念的なこと・テーマ的なこと)、非日常、概念の形式、構成、統合、都市的スケール、固有性(根源的とも言える建築のトポス、客観的形式、集団としての記憶を形成するエクリチュール)、記憶の家、永遠性、アイデンティティ、対象としての建築、全体的な統合に依拠した配列・・・

違反・・・現実との対立、現実の日常的なもののあり方、構成・形式自体を変形・ずらす・相対化・弱める、曖昧なスケール、曖昧さや両面性による素材の使用、構成要素の配列の組み換え、バランスの変更、統合への違反、建築のスケール、反固有性(あくまで固有性を前提としその結果も固有性を保有しうる固有性の格調の範囲にある違反)、今日を刻む家、現在性、活性化、環境としての建築、他律的な要因による並列、併存的な構成・・・

作用・・・ニュートラルな自由な空間、場所的空間、押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせるもの、付帯していた意味を中性化し宙吊りにする、生き生きしたもう一つの日常を復活、矛盾・曖昧・二重性・宙吊り・対立・意味の消去・表現の消去、自由度の高い建築の空間、現実の中で汎用化し紋切型化した構成形式の変容を促す、類型的意味を曖昧にする、象徴作用、建築が<建築>として象徴力を持ちうる、<生きて住まうこと>の感動と安堵に対する喜びと活気、建築をより大きな広い世界へとつなぐ・・・

これらのもとにあるのは

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。

という思いであり、さらに、そのもとには戦後橋の下に住んでいたある家族の家という個人的な情景があるように感じました。
こういう情景と比較した一種の喪失感のようなものは時代的に多くの人と共有できるように思いますし、そのための方法を多くの人が探っているんだと思います。

ここでいう象徴力という言葉は前回書いた固有名と社会性の関係に繋がるように思いますが、そのへんをもう少し自分の中ではっきりとした言葉にすると同時に具体的に方法論として積み重ねていかないといけないと感じています。

具体的なヒントとなる良著でしたが、それだけにしっかりと自分のものに置き換えないとですね。

また、読みながらふと、パタン・ランゲージやアルゴリズムと言ったものにも違反のシステムが組み込まれているべきだと思ったのですが、もしかしたら複数のレイヤーやパラメーターを重ね合わせることで、関係性の中からそれぞれに一種の違反が生まれることがすでに組み込まれているのかも知れないと思いなおしました。

『違反』の部分はおそらく個性と言うか個人の持っている情景・イメージや問題意識に左右されざるを得ない、又はそうあるべきものだと(現時点では)思うのですが、その前に違反するとすればその違反を誰がどのように起こすのかということをイメージしておく必要がありそうです。

簡単に書きましたがこの本は近年でも1,2を争うヒットで何度もじっくり読みたいと思っています。




YNGH 内部下地


内部の壁・天井下地が進んで空間がだいぶ見えてきました。
2階個室レベルの2m弱の壁より上部はガラスでぐるっと視線が通るようになっていて、いろんなところからトップライトを通して空が見えるようになってるのですが、良い感じにまとまりを与えてくれそう。

ここまで、スケールやら素材やら視線の通りやら本当にイメージ通りになるか胃が痛くなりそうなくらいドキドキしてたのですが、やっと確信が持ててきました。油断は禁物ですがいい家になると思います。

完成が待ち遠しいなー。毎日でも現場通いたいなー。




KBGN 地鎮祭


心配していた天候も回復し無事地鎮祭をとり行うことが出来ました。
気持ちを新たにぐっと感度を高めていこう。がんばろー




B169 『ウィトゲンシュタインの建築』

バーナード・レイトナー (著), 磯崎 新 (翻訳)
青土社; 新版 (2008/6/20)

読書会の3回目に井原先生にウィトゲンシュタインについてちょっとした解説を頼まれたので、読んでみました。
それをもとに、『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』とウィトゲンシュタインの建築をどう絡めるかをメモしたので多少手を入れて載せてみます。

ウィトゲンシュタインの建築について【メモ】

ウィトゲンシュタインは全てをコントロール出来なかったにもかかわらず、なぜ「私の建築」と呼んだのか。
p.166を読んで浮かぶ問はこうである。しかし、建築のプロセスやできたものを見るかぎり、また一般的な建築家の仕事を考える限り、彼はこの建物を「建築」とするために「私の建築」と呼ぶにふさわしいほどコントロールしたという印象が結局拭えなかった。細部の構成も幾何学的に熟慮されていて、『ウィトゲンシュタインの建築』巻末で多木浩二が前期ウィトゲンシュタインの哲学との並行性に触れているように「建築への意志」を十分に持っていたと見れる。

なので、先の問を「ウィトゲンシュタインはこの建築を通じて何をなしたのか。また、教師の経験を通じて「教える・他者性」ということに重要性を見出していたと思われるのに、なぜ重要な部分で「建築への意志」を貫いたのか」と置き換えてみる。

特徴
(1) ストロンボウという施主は非常に個性・主張の強い人物であった。
(2) 共同設計者(エンゲルマン)の案をほぼ踏襲しており、エンゲルマンは最後まで関わっている。
(3) 天井を後で数センチあげたり、技術的に困難なスチールワークのディテールを技術者の意見を聞かずに貫いたり、ミリ単位で細部に異常なほど固執した。

考察
(1)については建築の設計においてよくあることである。
(2)についても実際は一人の建築家が全てを決めることはほとんどなく、スタッフや共同設計者が多くのことを担い、それでも重要な役割を担った人が「私の建築」と呼ぶことは一般的である。(実際にはエンゲルマンはある程度身を引き多くをヴィトゲンシュタインの個性に委ねたよう)
(3)についても同時代の近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが「神は細部(ディテール)」に宿る」と言ったように、建物が「建築」足りうるためにディテールにこだわることはよくあり、エンゲルマンが行った基本設計とは施主の要望とは異なるレベルで「私の建築」とするためディテールに「建築への意志」を込めることは十分考えられる。

以上から、建築家のあり方として特別だったとは言えないように思う。
これは流れで言うとウィトゲンシュタインが「世俗的な建築」を「隠喩としての建築」から開放したと言えるかも知れないが、ではなぜ、同じ世俗的な他者である職人の意見を無視してまでディテールに拘る必要があったのか。

仮説
これには(1)のストロンボウ婦人の個性が強かったというのがひとつの大きな理由のように思える。
施主とウィトゲンシュタインと同一の規則を有しない他者であったと仮定した時に、そこで両者の、又はウィトゲンシュタインの建築と施主のコミュニケーションを成立させるため、建築に「固有名」を与えることを望んだのではないか。
『ウィトゲンシュタインの建築』に「しかしその内部は二十世紀の建築史においてもユニークなものだ。全てが熟慮されている。慣用されていたものからも、職業的なアバンギャルドからも、何ひとつ直接的に移植されたものはない。」とあるように、建築が施主に内面化されてしまわない固有性を持ったものにするためには徹底的にディテールに拘る必要があったのではないか。

これは、例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てが施主が内面化できる中にコントロールされるように構造化されてきたことと全く逆である。
このような住宅は誰でも設計・施工でき、たいていの客が理解でき、クレームを最小限に抑える必要性から、そこで用意されるものや価値観は施主に内面化されるもの(またはそう錯覚されるもの)が厳選され、そこから外れないように徹底的にコントロールされてきた。
そのような建物は「モノローグを超えたコミュにーケーション」を拒絶するもの=施主に完全に内面化された「社会性」のないものになってしまっている。そして、それが今の建築・都市景観の貧しさにつながるのでは、という今日的な課題とも関連しそうである。
そして今ではモノローグを超えた「世俗的な建築」そのものが非常に困難になっている。

「世俗的な建築」の困難(補足)

ここでのモノローグとは自己対話というだけでなく、内面化された他者との対話も自己対話に帰結するとし、モノローグ、または独我論の内にある。また、社会性とは内面化されない他者との対話の間に生まれるものである。

大量生産による工業製品は現代を生きる殆どの人に内面化されたもので、工業化という技術の外部に出ること(=社会性を得ること)は困難である。また、そこで多様性を装って予め準備されている価値観も内面化されていることを前提に厳選されたモノローグを助長するものでしかなく、その外部と出会う機会はかなり奪われてしまっている。
そのような中で純粋に「世俗的な建築」であること、または出来事であることは今となっては困難を伴うものになってしまった。

この本を読んで一番の収穫は、得体のしれない言葉だった「社会性」というものを多少掴むことができ、それに対して「固有名」を与えたり関係性を築くことが有効だと思えたことでした。
事務所のロゴに込めた、建築が施主や設計者に内面化されない独立した存在(固有名を持った存在)であって欲しいという思いと「社会性」という言葉が繋がったのには大きな勇気をもらえました。




B168 『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』

柄谷 行人 (著)
岩波書店 (2004/1/28)

鹿児島大学の井原先生より全3回の読書会にお誘い頂いたので参加してきました。(2回目は日程を勘違いして不参加という失態を犯してしまいましたが・・・)

学生の頃に磯崎さん周辺の本を読んでからこの手の本には苦手意識があって、あまりまともに読んでこなかったのですが、なおさらこれはいい機会だと思い、今の自分の問題意識の先につながればいいなと読んでみました。

読書会での議論をまとめようとすると収集がつかなくなりそうなので、読書会前にメモしたことを多少読書会での議論を加味しながら書いておこうと思います。
いつものごとく個人的なフローの記録という位置づけですのでお暇な方はどうぞ、という感じで。

「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」

私が本書でやろうとしたことは、ディコンストラクションをコンストラクションから、すなわち建築から考えてみる事だといえる。(p.3)

本書には「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」という大きく3つの流れがあり、「制作」「生成」と「世俗的な建築(教えることと売ること)」の間にはダイナミックな「転回」があるような構成なのですが、まずは、特に序文を参考にモダニズム以降の建築の流れをこの3つの流れに大まかにプロットして見ることからとっかかりを探すことにしました。
プロット自体はかなり大雑把で強引なものであり、個人的な解釈や印象に基づくものです。メモにすぎないのですが、おかしな点はご指摘頂けると嬉しいです。
プロットの先に探したいのは著者の「転回」の先にあるであろう今の建築に対するヒントです。
また、定義が曖昧なまま書いてますが、「主体」とは何かということもテーマとして重なるように思いました。

「制作」

モダニズム・機能主義や、例えば幾何学の応用等がこれにあたるかも知れません。

建築家がある思想のもと全てをコントロールし「建築」を制作できるという信頼がベース。
個人的には建築単体としては豊かで魅力的なものが多い気がする。
その魅力・豊かさの源泉は「主体」としての建築家の豊かさが建築に織り込まれていて、建築そのものが「主体」と成り得てることではないだろうか。ただ、都市のスケールでの「制作」になると一転して退屈で息苦しいものに感じる。
また、「主体」としての個人の建築家を離れ、機能主義のみが独り歩きした建物は、どちらかというと、主体不在で「生成」された、ポストモダン的なものになっているように思う。(そしてそれにはあまり魅力を感じない)

「生成」

狭義のスタイルとしてのポストモダニズム・ディコン等は機能主義の「外部」に出ようとしたが、結果として、その操作を行う「主体」としての建築家の「外部」に出られず、どちらかと言えば「制作」の範囲にとどまっている、という印象。

コンピューターの発達により非線形的な方法を導入して、「別様であり得る」可能性の中からあえて一つを選んだ、というような方法は「主体」が曖昧にされつつ、建築としての質を建築家が担保するという点で「生成」的でありながら「制作」的でもあり、現実的にはバランスがよさそうに感じる。

純粋な「生成」というのは難しそうだけれども、建築家不在の建築がそれにあたるのか?
「生成」に主体の不在を求めると、なんとなく貧しいイメージしか浮かばない気がする。(実際には生成=主体の不在というのは正確ではないと思いますが上手くつかめてません)

「世俗的批評」

これは「世俗的な建築」と言って良いかも知れないけれども、超線形設計プロセスや超並列設計プロセスは「世俗的な他者」をコミュニケーションに組み込みつつ社会性の中に豊かさを織り込んでいくという点で「世俗的な建築」の可能性を示すもののように思う。

「制作」から「生成」へと移るさいに「主体」が忘れられ、その先でまた、別の形での「主体」のあり方が求められている。と言うような印象。

転回の先に何を求めたのか

この本を読むにあたって一番知りたかったのは、著者はなぜ「外部」を求めたのか?「転回」の先に何を求めたのか?ということだったのですが、強引にプロットしてみてなんとなく自分の問題に引き寄せられたような気がします。

「制作」での「外部」への欲求は建築と言うより都市のスケールでの不自由さ・貧しさ・息苦しさから。
「生成」での「外部」への欲求は主体の不在による不気味さ・貧しさから。
とすると、「転回」の先に求めるのは都市における建築と主体の新たなあり方のようなものかもしれない、と思いました。

読書会でも「ポストモダンの社会でいかにして、あえて主体たりうるか」と言ったことが話題に登ったのですが、建築や都市の語を例えば個人や社会といった言葉に読み替えることもできそうです。(適切な言葉を当てはめれば著者の欲求にも当て嵌まりそうな気が。)

第3部「教えることと売ること」で出てきて気になった「教える-学ぶ」「社会的/共同体的」「固有名」「社会性」については合わせて読んだ「ウィトゲンシュタインの建築」の所で書きます。つづく。

—-うーん、まだまとめるほど頭が整理できてないのでほんとのメモ書きみたいになってしまいました。期間を開けて何周か読んでみないと・・・。




YNGH 上棟式


天候にも恵まれ、子供たちもたくさん集まり、とてもいい上棟式でした。
これから仕上げ関連。気を引き締めて行きましょう。

(子供たちは別の餅まきからはしごしてきた様子。彼らの情報網、侮れません。)




YNGH 軸組建方


現在、軸組建方中。
今週雨が降ったので少し遅れがありましたが、人出の入る今日が晴れてくれて良かったです。
内部は複雑な構造のため、組んでいくのが大変だったようですが、軸組がすごく密実に見えました。
床がスキップしてるため地震力の流れには注意して筋交いを入れたのですが、筋交いと根太レスの合板で固めればかなり丈夫な構造になると思います。


内外のスケール感も今のところイメージしてた通りでほっとしてます。


各ポイントからも桜島がバッチリ見えそうです。

やっぱり現場はいいですねー。急速に形になっていくのを見るとワクワクしてきました。




YNGH 配筋検査


今朝雨の中、設計事務所と住宅瑕疵担保責任保険の検査機関の配筋検査を行いました。
大きな指摘事項もなく順調に進んでいます。予定していたコンクリート打設は雨のため明日以降に延期。
この段階ではもっと狭く感じるかと思っていましたが、思ってたより広く感じました。




YNGH 実施模型




少し時間ができたので1/100の実施模型を作成しました。

なぜこのタイミングで模型をつくるかというと

  • 全体のプロポーションや光の入り方の最終的なチェックのため。
  • 施主や施行者等関係者に全体像を正確に伝えると共に、テンションを少しでも上げてもらうため。
  • 募金プラスプランにご賛同いただいたお施主さんへのプレゼントとして。

    建物は最後は人がつくるものなのでテンション上げてもらうのは結構大事です。
    どのスケールでつくるか悩みましたが、手のひらサイズで眺めやすくて凝縮した感じにしたかったので1/100で製作。模型というよりもドールハウスをつくる感覚で作ってみました。写真には写ってませんが内部もそれなりにつくりこんであります。

    一度お施主さんにお渡しして眺めてもらってからは、現場に置いて職人さんたちに見てもらい、竣工の際にはお施主さんにさし上げようかと思っています。
    (現場で壊れないように簡単なケース作らねば・・・)


    フロアレベルが7つもあるので模型つくるのも結構大変でした。
    上棟すれば躯体がガイドになるからいいけど、プレカット屋さんは頭が痛いかもです。




B167 『自然な建築』

隈 研吾 (著)
岩波書店 (2008/11/20)

図書館でなんとなく手にとった本なのですがこのタイミングで出会えて良かったなと思えました。
僕の不勉強もありますが、隈さんの印象が少し変わったように思います。何というか隈さんの身体性に初めて触れられた気がしました。(テーマのせいもあってこれまでのキレてる印象が少し和らいだ分、僕的には”届いた”本でした)

今まで全く意識したことなかったけど、技術に対する意識という点で隈さんと藤森さんって似ている所があるかもしれません。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B117 『藤森流 自然素材の使い方』

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

こういう風にして引き寄せられる何かに対してすごく興味があるのですが、もっと外に飛び出して足と手を動かさないといけないなという反省と共に、ほんの少しずつでも前に進んで行きたいと勇気をもらえました。

P.S
いっちーに隈さんの出演しているこの本を話題にしたラジオを教えて頂きました。
ラジオ版学問ノススメSpecial Edition隈研吾(建築家)[2009/02/01放送]




YNGH 地鎮祭


確認も近々下りる予定。いよいよ工事が始まります。




YNGH 5th


まだ確定ではないですが、厳しかった予算調整も何とか方向が見えてきました。
いろいろと申請関係を同時並行で進めないといけないのでかなりぎりぎりのスケジュールですが、7月内着工を目指してスパートです。




B166 『WindowScape 窓のふるまい学』

東京工業大学 塚本由晴研究室 (著, 編集)
フィルムアート社 (2010/10/29)

塚本さんの”ふるまい”という言葉について興味があったところ図書館で目にしたので借りてきた本。

冒頭の文章が良かったので一部引用。

なぜふるまいなのか
20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。
(中略)
窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。

「人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている」「窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまう」「隣り合うことに価値を見出す経験の論理」

ちょうど、昨日の飲み会で主にコストとの折り合いの関係から、「名作と呼ばれる建築の仕上げなどがクロスやアルミサッシなどの工業製品に置き換えられたら、その空間の質は残るか」みたいな話が出たけれども、それほど影響が出ないタイプの建物と決定的に影響が出る建物があるのだろうと思います。

では、工業製品と付き合って行かざるをえない中でどうすれば「世界を感じ取るためには不可欠なもの」をとりもどせるか。

いわゆるモダニズムの正攻法かも知れないけれど、一つは空間の質を素材の持つ力に頼らず、例えば構成などで担保するような方向があると思う。
工業製品が「それ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物」だとすると、それを前提として受け入れてしまい、枯山水じゃないけれども抽象の力を借りて「人間が世界を感じ取るためには不可欠なもの」を引き寄せるような方向。(抽象もコストがかかりがちだけど)

もうひとつはそれ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物を再び開こうとする方向があるのかも知れません。一つ目の方向との違いは分かりにくいかも知れないけれど、抽象よりももっと具体的・身体的な部分でリアルに迫るようなイメージ。
それをどうやって開くかというのはまだよく分からないけれど、例えば
・構成を身体的なところまで細分化?していって、閉じたモノを絡み合った関係性の束の中に落としこむことで完結させないようにする。
・もっと具体的にものの使い方や意味をずらしてしまうことによって閉じた輪郭を関係性の中に浮かび上がらせる。
というようなことがようなことがイメージされます。
あと、工業化の過程でブラックボックス化した技術をどう可視化して手元に引き寄せるか、というのも一つのテーマになるのかな。

この辺は実践を通して手応えを掴んでいくしかないなぁと最近良く感じます。




KBGN 2nd



こちらも納まりを意識しながらパースを作成。
これから図面化しながら詰めていきます。




YNGH 4th



図面もとりあえず一通り書いたので、確認のため内部パースを作成しながら何点か修正。
構成が複雑な分、出来る部分でローコストに配慮したけれどもさてどうなるか。




かごまちシンポのミーティング

昨日マルヤガーデンズで「第2回かごしままちづくりシンポジューム」の会議があるということでふらっと行ってきました。

その中で清水さんの「移動と滞留」の話が印象的でした。
自分の中でうまく整理は出来ていないのですが、なんとなく掴みどころがなくなりそうな議論の中で何か軸を決めるとっかかりになりそうな、そんな予感のする話でした。
そのあたりについて清水さんがブログを書かれていたのでリンクを貼っておきます。

清水哲男の「鹿児島・天文館徒然草」 : 第千四百十段「移動と滞留」考え中…

この話を聞きながら、「かごまちシンポっていったい何なの?」「かごまちシンポって結局何をしたいの?」というような批判めいた言葉がこれから先もずっと付いて回るんだろうなー、というようなことを考えました。
最近自分の周りのことを振り返ってみても、この疑問・批判に対して、これでもかってくらいシンプルに、明確に、分かりやすく答える言葉を見つけていく作業がきっと大事になってくるんじゃないかと思いました。(必ずしも結論である必要はないかも知れませんが)

その言語は主催者側が活動を続けていく上での指針にもなると思いますが、自分たちが理解しているだけでなく、なんとなく遠目で眺めている第3者にも届くようなものであった方がいいように思いますし、学内や部外者に協力を求める上でも必要になってくるのだと思います。

近々、ブログのようなものを起こしてくれると思いますので(サイトがあれば、この記事からでもリンクを貼れたんだけど・・・)、その時には上の疑問に対して簡潔な言葉で答える記事を書くことに是非チャレンジして欲しいなと思ったりします。

また、「概念の範囲」という言葉もすごくとっかかりのある魅力的な言葉だと思うのですが、まだ自分の中では整理できていません。うーん、何かが整理できそうな匂いがぷんぷんするんだけど。。。

僕は一つ前の記事で、生活風景のデザインというような言葉を使いました。
都市交通を「移動と滞留の手段」とする捉え方がまずあるとして、一つ視点を変えて、その手段の結果としてどのような生活の風景が現れるのか、という視点もあるように思います。

車を便利だとして優先させて言った結果、生活風景が貧しくなってないかな、というのが一つ前の記事だったわけですが、こういう視点と「移動と滞留の手段」という視点の関係がどうなのか、まちづくり・活性化、概念の範囲・平面の範囲、というような言葉の中、これがどう整理できるか、いまいち分からなくなってるわけですが・・・。
ちょっとゆっくり考えてみたい気がします。