B168 『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』

柄谷 行人 (著)
岩波書店 (2004/1/28)

鹿児島大学の井原先生より全3回の読書会にお誘い頂いたので参加してきました。(2回目は日程を勘違いして不参加という失態を犯してしまいましたが・・・)

学生の頃に磯崎さん周辺の本を読んでからこの手の本には苦手意識があって、あまりまともに読んでこなかったのですが、なおさらこれはいい機会だと思い、今の自分の問題意識の先につながればいいなと読んでみました。

読書会での議論をまとめようとすると収集がつかなくなりそうなので、読書会前にメモしたことを多少読書会での議論を加味しながら書いておこうと思います。
いつものごとく個人的なフローの記録という位置づけですのでお暇な方はどうぞ、という感じで。

「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」

私が本書でやろうとしたことは、ディコンストラクションをコンストラクションから、すなわち建築から考えてみる事だといえる。(p.3)

本書には「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」という大きく3つの流れがあり、「制作」「生成」と「世俗的な建築(教えることと売ること)」の間にはダイナミックな「転回」があるような構成なのですが、まずは、特に序文を参考にモダニズム以降の建築の流れをこの3つの流れに大まかにプロットして見ることからとっかかりを探すことにしました。
プロット自体はかなり大雑把で強引なものであり、個人的な解釈や印象に基づくものです。メモにすぎないのですが、おかしな点はご指摘頂けると嬉しいです。
プロットの先に探したいのは著者の「転回」の先にあるであろう今の建築に対するヒントです。
また、定義が曖昧なまま書いてますが、「主体」とは何かということもテーマとして重なるように思いました。

「制作」

モダニズム・機能主義や、例えば幾何学の応用等がこれにあたるかも知れません。

建築家がある思想のもと全てをコントロールし「建築」を制作できるという信頼がベース。
個人的には建築単体としては豊かで魅力的なものが多い気がする。
その魅力・豊かさの源泉は「主体」としての建築家の豊かさが建築に織り込まれていて、建築そのものが「主体」と成り得てることではないだろうか。ただ、都市のスケールでの「制作」になると一転して退屈で息苦しいものに感じる。
また、「主体」としての個人の建築家を離れ、機能主義のみが独り歩きした建物は、どちらかというと、主体不在で「生成」された、ポストモダン的なものになっているように思う。(そしてそれにはあまり魅力を感じない)

「生成」

狭義のスタイルとしてのポストモダニズム・ディコン等は機能主義の「外部」に出ようとしたが、結果として、その操作を行う「主体」としての建築家の「外部」に出られず、どちらかと言えば「制作」の範囲にとどまっている、という印象。

コンピューターの発達により非線形的な方法を導入して、「別様であり得る」可能性の中からあえて一つを選んだ、というような方法は「主体」が曖昧にされつつ、建築としての質を建築家が担保するという点で「生成」的でありながら「制作」的でもあり、現実的にはバランスがよさそうに感じる。

純粋な「生成」というのは難しそうだけれども、建築家不在の建築がそれにあたるのか?
「生成」に主体の不在を求めると、なんとなく貧しいイメージしか浮かばない気がする。(実際には生成=主体の不在というのは正確ではないと思いますが上手くつかめてません)

「世俗的批評」

これは「世俗的な建築」と言って良いかも知れないけれども、超線形設計プロセスや超並列設計プロセスは「世俗的な他者」をコミュニケーションに組み込みつつ社会性の中に豊かさを織り込んでいくという点で「世俗的な建築」の可能性を示すもののように思う。

「制作」から「生成」へと移るさいに「主体」が忘れられ、その先でまた、別の形での「主体」のあり方が求められている。と言うような印象。

転回の先に何を求めたのか

この本を読むにあたって一番知りたかったのは、著者はなぜ「外部」を求めたのか?「転回」の先に何を求めたのか?ということだったのですが、強引にプロットしてみてなんとなく自分の問題に引き寄せられたような気がします。

「制作」での「外部」への欲求は建築と言うより都市のスケールでの不自由さ・貧しさ・息苦しさから。
「生成」での「外部」への欲求は主体の不在による不気味さ・貧しさから。
とすると、「転回」の先に求めるのは都市における建築と主体の新たなあり方のようなものかもしれない、と思いました。

読書会でも「ポストモダンの社会でいかにして、あえて主体たりうるか」と言ったことが話題に登ったのですが、建築や都市の語を例えば個人や社会といった言葉に読み替えることもできそうです。(適切な言葉を当てはめれば著者の欲求にも当て嵌まりそうな気が。)

第3部「教えることと売ること」で出てきて気になった「教える-学ぶ」「社会的/共同体的」「固有名」「社会性」については合わせて読んだ「ウィトゲンシュタインの建築」の所で書きます。つづく。

—-うーん、まだまとめるほど頭が整理できてないのでほんとのメモ書きみたいになってしまいました。期間を開けて何周か読んでみないと・・・。

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