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均質化と懐の深さ

長いこと探検の会いけてないなぁ。

何度か参加してみて、少しずつ鹿児島ってすごいなぁと感じ始めたところなので、また機会を見て長男と参加してみたい。

表面的に見てみれば、鹿児島は”全国どこでも同じ風景”の均質化が比較的進んでいる地域だと思うけど、少し奥に入ったり注意してみてみるとまだまだ独特で素敵な風景の残っている懐の深いところなのだと感じられるようになってきた。

まだまだ建築の設計には結びついていないんだけど、焦らず少しずつ身体化できればと思う。

そういう点で面識はないですが、このブログも結構おすすめ。(って前にも書いたか・・・)




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house-study17。

単純にヴォリュームのかみ合わせと、スッキプした床と内・外の組合せの検討からスタート。
それでも何かしらの発見はありました。

もう少し時間をかけて検討する際の”ジャンプの仕方”をちょっと意識してスタディした方がいいかな。

オノケンノート ≫ HS-17 黒白の家




『仲良くせざるをえない家』に関するメモ

前にお題を募集した時にたこ阪さんから頂いた『仲良くせざるをえない家』に関するメモ。
更新が滞り気味なのもあって、ちょっとだけ考えてみます。

この”せざるをえない家”ってあたりがさすがいいとこつくなぁ、と思わせます。

セオリー通りに考えると、昔の日本の住宅、襖で仕切られているだけの田の字型プラン、音も筒抜け、プライベートもなにもあったもんじゃない。だけど、その不自由さによって日本人ならではの作法があったし、家族のつながりもあった。その辺を現代風に解釈して・・・
もしくは、自由と責任についての考えが未成熟なまま形だけ輸入されたプライバシーの概念と個室。そのあたりを再考しつつ日本・現代に適応させながら展開して・・・
という感じになるような気がしますし、それでそれなりの案にまで広げられそうな気もします。

だけども、まぁ、勝手にやってるだけなので、もう少し、勝手に解釈を広げて・・・

仲良くせざるをえないのは家族同士だとはどこにも書いていません。(いや、半分書いてるかな。)
仲良くせざるをえないのは、もしかしたら、近所のおばあさんや頑固おやじかもしれないし、たこ焼き屋の常連さんかもしれないし、野良猫かもしれないし、町並みかもしれないし、庭の木や空や地面や雨や暑さや寒さかもしれないし、食材かもしれないし、地球かもしれないし、地域経済かもしれないし、過去の歴史や知恵かもしれないし、未来の人たちかもしれません。いや、当然家そのものと仲良くせざるをえないのかも。

こうして考えると、ちょっと面倒でも多様で豊かな関係性を(ほどほどに)もてるのがいい家じゃないだろうか、という僕が長い間考えてきてたどりついてきたこと、そのまんまになってしまいます。

さすが、たこ阪さん。そこまで考えていたとは・・・・・まいりました。

このお題は奥が深そうです。

たぶん、つづく。




B148 『原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ』

青木 淳 (著)
王国社 (2008/04)


前著は比較的分かりやすく誰にでも”利用”できる内容だったように思うが、今回は打って変わって私的な部分が表面に出てきたように思う。

建築的自由を求めるその先には公共的な価値があると思うが、その動機は思っていたよりもずっと私的なもののように感じた。(『くうねるところにすむところ』で描かれていたクロとシロの世界は著者の根っこのところにあるものののようだ)

思えば著者の師匠筋にあたる磯崎新も自著でこう書いている。

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。(磯崎新)

当たり前のことのようだけども、公共性と私的価値観を意識的に結びつけ成り立たせることはそんなに簡単なことじゃないと思う。

おそらく青木淳が開いた建築的自由というものは、最後のところでは青木淳のものであって、自分にとっての自由は自分で作り出すほかない。




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house-study16。

外周の柱と内部のプランや構造とのズレを主題にスタート。
ものを置かない部屋と、置く部屋と、あとロフト。
ちょっとした手がかりはつかめたかも。

オノケンノート ≫ HS-16 外柱の家




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house-study15のパース。
しばらくの間妻の実家(加世田)から通っているので模型は少しおあずけ。
ということで案をいくつか作ろうかと思っています。

まだタイトルは考えていませんが、ひとつめ。
house-studyはほとんどの場合、簡単な1スケッチを書いたらいきなりパースにしていってるのですが、今回は単純な屋内ヴォリュームと内外を一まとまりにする別の要素とを絡める構成を試してみようかと。
最初、屋内ヴォリュームは曲面で考えていたのですが、これぐらいのスケールだといやらしくなってしまいそうだったので、平面的な壁を少し角度を振りながら配置するように変えました。

壁を少し直角から振る、というのがなんとなくここちよさそうですが、そのためのルールを決めればそれをタイトルに出来たかもしれません。(今回はそこまではしない予定)
タイトルどうしようか。

オノケンノート ≫ HS-15 外部デッキと空の家




オートポイエーシスの応用可能性についてのメモ

機能主義からの脱却。
プログラム論→アクティビティ論の延長でとらえる。

オートポイエーシスの特徴や用語を建築的な視点で仮定しなおす。
自律的システム理論の各世代、第一世代「動的平衡システム」、第二世代「動的非平衡システム」、第三世代「オートポイエーシス・システム」の図式化や、建築手法・作品との対応を考える。(どれが正解というのではなく)

といった作業をすれば何か見えてこないだろうか。

さまざまな次元の閉鎖系システムが自律性を保ちながらも共存?しているところに可能性があるように思う。

そもそも生命システムから得たいのは、真実ではなくて関係性をどうやったら扱うことができるかといったヒントである。

オートポイエーシス・システムを例えば個々の人や、複数の人、アクティビティ、部屋やゾーニングや都市計画、また価値観や、機能、構成原理、といったものに置き換えたときにどんな展開が見えてくるのか。

さまざまな次元のいくつもの軸が豊かに関係性を結ぶような、そんなイメージは浮かび上がってこないだろうか。
それによって自然に身を任せるような心地よい自由なイメージは浮かび上がってこないだろうか。

昔考えたことを少しだけ前にすすめられないだろうか。




B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

山下 和也 (著)
近代文芸社 (2004/12)


著者の方からコメント頂いたので読んでみました。

読んでみた感想は、『やられたっ!』です。いい意味で。

本書は2部構成になっていて前半がオートポイエーシス・システムの定義や性質などの説明、後半が「生命」「意識」「社会」といった具体例を基にしたオートポイエーシスの世界の解説となっています。

しかし、本書を読み進めていっても前半では具体例が全く出てこず、著者は見慣れないシステムの定義の説明に終始しています。
具体例が出てこないのでイメージが沸かず、延々と説明をされても著者の一人相撲を観ているようです。
だんだんと腹が立ってきて、何度が読むのをやめようかと思いましたが、第1部の終盤にくるとようやく、その不親切さが著者の意図したことであったことが分かります。

ずっと読んできて気づかれたとおもいますが、ここまで、議論が抽象的になるのも省みず、オートポイエーシス・システムの具体例を全く挙げずに論じてきました。また、具体的なシステムを連想させる述語もできるだけ避けてきました。若干理解しにくくなるのを覚悟でこうした論述方法をとったのは、オートポイエーシスの意味を適切に理解していただくためです。具体例を挙げますと、どうしてもそのイメージにとらわれて、オートポイエーシスの本質が見えにくくなりますので。(p98)

それから後は、それまでの欲求不満もバネになって、なるほどー、の連続です。

オートポイエーシスは普段私たちが見慣れている世界の見方を根本から変えることを要求してくる感じなので、おそらくこういう並びでなければよく分からない印象のまま誤解をして終わっていたかもしれません。

まさに構成の勝利、という感じです。
今から読もうという方も、著者の意図されているように第2部を我慢して第1部から読むべきですし、意味が分からずともなんとか第1部を読み切って下さい。

まだ、ここで説明できるほど理解できているとも言いがたいのですが、何度か繰り返し読むことで理解は深まりそうな予感はあります。

そんな中、最初にオートポイエーシスの本質に触れられた気がしたのは「オーガニゼーション(有機構成)」に関する以下の記述。

この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。

簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)

いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか?

観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。

倉本さんのブログでも書かれている非線形の話や、伊東豊雄さんのスタンス、山本理顕さんの邑楽町役場庁舎との関連を見つけることも可能な気がするし、それとは少し違う話のようにも思う。

このへんはゆっくり考えてみたい。
建築そのものにはまだ還元できていないけれども、アフォーダンス理論では佐々木さんの著書等を通じてものの見方がぐっと拡がったのは確か。オートポイエーシスではどんな扉が開くだろうか。

ドゥルーズなんかとの関連なんかも興味があるなぁ。




やっちまったー

11日に行く予定が仕事でどうしても行けなかったohtematicさんの展覧会。ラッキー(?)にも期間延長になったようなので、いってきました。

と、レポートをする予定だったのですが、行ってみるとなんか人気がない・・・。・・・・やっちまったー。定休日でした・・・。(今見てみると定休日は2/15と2/25と書いてました・・・)

あー、どうしようと思いながら息子と窓にへばりついて中を見ていると、妻が中に人影を見つけて頼み込んでギャラリーを空けてもらってました。(すごい行動力、というか店の方すみません・・・)

帰るところを呼び止めてしまったのであんまりじっくり見る訳にも行かなかったのですが、なんとかざっと見れたので妻には感謝です。

その後、川内の運動公園で子供と遊んでからたこ阪さんのところでたこ焼きを食べて帰りました。

帰りに気になっていたCrate Furniture Serviceにも寄ろうと思ってたのですが遅くなってしまったので又の機会に。とりあえず店の場所は分かりました。

うーん、中途半端な内容になってしまいましたが、明日は4時ごろには起きて仕事に行かないとやばいんで今日はネマース。
展覧会、2/28までのようなので行けそうな方はいかがでしょうか(レポートよろしく)

あー、「定休日」の失敗は何度繰り返してもなおりません・・・。




メタボ完成

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インフルエンザと仕事のピーク中で『metabo-baby』の模型が途中になってたのですが、忙しいと言ってたらずるずるといってしまいそうなので一気に残りを作ってしまいました。
このスケールなのでワイヤーは省略。

模型を覗き込んでみると、1階を奥の芝生の丘まで見通せるガラス張りのオフィス(パブリックスペース)にし、プライベートな空間を上部と丘の下に配した構成は割りとうまくいった感じです。

metabomodel2
模型撮影は後でまとめて。

しばらくは今の仕事に集中しよう。




メタボ

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今晩から『metabo-baby』の模型に入っています。

構成がシンプルなのでRC(鉄筋コンクリート)部分までは出来ました。

オリジナルの都城市民会館メタボリズム の思想で設計され、しっかりとしたRCの上に新陳代謝の可能な鉄骨が載せられています。

オリジナルとは違いますがこうして模型を作ってみるとその辺がよくわかりますね。

都城市民会館についてはもっと詳しく書きたいところですが、明日に備えて今日はこれまで。




模型の精度


ようやく一つ目の模型が出来上がりそうです。


模型は作っているうちにだんだん精度もスピードも上がってくるのですが、精度が上がればそれでいいというものでもない気がします。

あまりカチっと作ってしまうと表情が硬くなりすぎてしまうのですが、実際にホンモノを作る際は今の工業製品の組み合わせによる作り方だとその硬い表情の方が容易で、表情を崩す方が手間もコストもかかります。

模型を作るときの手仕事によるムラのようなものを実際に作るとなると藤森さんのように技術に踏み込む方法か、ムラそのものを抽象的に捕らえなおして工業製品の高精度でそれを再現する方法(伊藤さん、藤本さんがそうでしょうか)があるように思います。

模型のムラからも発見できることがあるのですが、1/100模型だと、実際に模型を見て感じる精度と写真にしたときに感じる精度が違うのは困ったものです。

一番厄介なのをやっつけたので、明日からは『metabo-baby』の模型にはいってばんばんつくるぞー。




2次元と3次元による検討

CGパース(2次元)は細部まで詰めたものだと、実物もほぼ同じように見えるように立ち上がる。

見え方(写真の写り方と言っても良いかもしれない)は2次元の検討でかなりの部分まで”確認”できるのだけども、空間のありようのようなものは2次元では”確認”出来ないように思う。

経験と想像力である程度の検討は出来ても、それは”確認”とはちょっと違う。

逆に模型(3次元)の検討だと、空間の”確認”は出来るのだけども、細部の作りこみには限度があるので、見え方は経験と想像力に頼らざるを得ない。

この違いはどこから生まれるのだろうかと考えてみると、人間の空間の認識の仕方によるのかもしれないと思った。
オノケンノート ≫ B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

VRの技術を駆使してインタラクティブな関係を生み出せれば別かもしれないけど、”想像力”の次元を無視すれば2次元の画像がこちらの呼びかけにリアルに反応することはない。

だけども、模型だと、視点を変えたり模型を動かしたりして空間に探りを入れることが出来る。(実際に模型を見るときはそうすると思います)

その違いが2次元と3次元で確認できることの違いを生み出しているのかもしれないし、それを最大限生かした検討方法って言うのもありそう。

そんなことを考えたら
オノケンノート ≫ む展

そのときふと、佐々木 正人の肌理の話を思い出して、少しずつ遠ざかってみてみた。 すると、ある距離になると、絵の具のかたまりだったものが光やモノの肌理となって奥行きや世界観をつくりだす。

って言うのを思い出した。

ああいう絵っていうのは一種のバーチャルリアリティ技術なのかもしれない。




模型製作中

『affo-rest』の模型から作り始めているのですが、こいつが手ごわいです。

この住宅のコンセプトを表現しようとすると他の模型の数倍は時間がかかりそうです。
もっと簡易につくる方法もあるのですが、それだとうまく伝わりそうにありません。

昨年はなかなかこの模型に取り掛かれずにずるずると来てしまったのですが、今年は最初にやっつけてやる!

まぁ、あせらずじっくり。




謹賀新年2009&今年の抱負

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

去年の抱負に対してあまり良い点をつけられない気がしますが、今年は採点し易いようにもう少し具体的に。

去年のアウトプットとしてのHouse-Studyは上の画像の9案。
9案というのはだいたいイメージしてた程度なのですが、模型まで作成できませんでした。

今年は書斎が出来たので子供をいいわけには出来ません。

ということで、一つ目の抱負。

1.House-Studyの6~14の模型を作成しながら、House-Study15~22の案を模型まで作成する。

ひとつひとつに掛ける時間をもう少し増やしたい気持ちもありますが、それよりも形にすることを優先します。(完成度を優先するのはもう少し後にします。)

また、だらだらとテレビをみるようにインターネットを見たりWORDPRESSをいじるのを控え、考えて言語化する方に時間を割く。というのも、意識したいです。
それで、ブログの記事数を目標に挙げようかと思ったのですが、そのまま外に出せる事柄ばかりではないので、サイト上にはあまり現れないかもしれませんが、

2.毎日必ず小さなノート1枚に何かを書く。(スケッチを含めるが、文章は必ず一言は入れる)

というのを、抱負の一つにしたいと思います。

あと、毎年、”身体性を取り戻そう!”と思うのですが、
オノケンノート -B011 『自分の頭と身体で考える』

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。
それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。

オノケンノート -再・々・宣言!

僕のイメージとしては”自然の中で生き抜く民が自然に身につけた自然な健康体”、しなやかで謙虚な身体(まさに自然体)が理想なのだ。
しかし、現実は”不自然な都市生活の中での不自然な不健康体”で”ぶよぶよの尊大な肉体”。
やばい。なんとかせねば。

妻には『毎年正月に同じこと言ってるじゃない』とたしなめられてしまいました。

なので、今年は具体的に。

3.体重を3キロ落とす。

夕食を馬鹿食いしなくなってから、現状維持は出来るようになってきたのですが、ここから減りません。
今の体力じゃまずいな、というのもあるので、チャリ通を再再々々復活します。
子供が生まれたら2,3ヶ月はゆっくりチャリ通もできないでしょうから、正月明けから開始です。

さて、具体的に書いてしまうと出来なかった時の冷たい視線が恐いのですが、もう書いちゃいました。

やらねば。