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W031『広島市西消防署』


□所在地:広島市西区都町43-10
□設計:山本理顕設計工場
□用途:消防署
□竣工年:2000年

市民への開放をテーマにした消防署。

受付で見学を申し込むとすんなりOK。
開放ゾーンと非開放ゾーンがきっちり分けられているので自由にどうぞという感じでした。
開放ゾーンはガラスのルーバーで囲まれているだけでほとんどが半外部空間。

動線が絡み合い、見学者(市民)と職員の互いの様子を感じることが出来るというものですが、あいにくこの日は訓練風景を見ることはできませんでした。

開放は必要か

この建築によって議論が起こるのは、何かしらの機能性やコストを犠牲にしてまで市民への開放が必要かということ。

消防活動に必要な最低限の機能を押し込んだ箱でいいじゃないか、と。

単純な空間のヴォリュームで言えば単純に消防署の機能のみを押し込めば現状の4割以下で済みそうな気がします。

ただ、それ以上は無駄なコストじゃないかという感じ方そのものがある見方が染み込んでしまっている結果のような気もしました。

もし、こういう(物質的にではなく機能的に)透明性の高い建築が街にあふれているのがデフォルトで当たり前の光景だったとすれば、今の普通の閉鎖的な建物はもしかしたらすごく貧しく異様に見えるかもしれません。(それがアヴァンギャルドになってる可能性もありますが)

おそらく設計者は一つの建物だけじゃなくてそういう仮想の当たり前の光景を見ているに違いありません。

この建物も一部、音楽などの文化活動などにスペースを開放しているようでしたが、何も一つの建物が消防のための機能で完結していなければならないということはないはずですし、道路と建物内が心理的に完全に分けられている街よりも、街を歩いていてもいろいろな人の息遣いが聞こえる街の方が楽しいに違いありません。


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テーマ

テンプレートを結構いじってたので既製のWORDPRESSのテーマはそのまま使えないんだけど、ちょっと雰囲気を変えようと思って既存テーマを転用してみました。

旅行の記事を書くのになかなか取り掛かる気力がなかったというのもあるけれど。

画像をとりあえずFlickrにアップしたので明日ぐらいからぼちぼち書き始めようかな。

追伸

って、Flickrの無料アカウントで200枚制限ってどういう意味かと思ったら、昔アップロードした写真のタグなんか全部無効になってるじゃん。
だめじゃん。

どーしよう。

フォト蔵けっこう使えそう。
スライドショーはフォト蔵。
記事内写真はFlickrで使い分けようかな。




W030『石垣郡の里 大当』


昨日は加世田の実家に帰っていたのですが、天気もいいしちょっとドライブにでも行こうか、ということで前から気になっていた笠沙町の大当(うと・おおと)に行ってきました。

石垣郡の里

天然石(野間岳産鉄平石)を積み上げた石垣郡が特徴の集落で、迷路のような、立体的に構成された路地にとてもそそられます :ぽ:

生活の風景のある街

坂の町なので歳をとると大変だと思いますし、そこに住み続けるということがどういうことかは気安くいえませんが、風景としては新しい街に比べると圧倒的に豊かです。
逆に、今の街がいかに車のために作られているか、というのを強く感じました。
殺風景な街並みと、こういう街並みの間のようなあり方が求められてもいいように思うのですが。

新しく道路を作るんじゃなくて、むしろ主要なものを選んで半分に減らす。そしてそれによって空いた土地と費用を格安駐車場と緑地やヒューマンスケールな路地、子供の遊び場などの整備にあてる。

そうやってできたような街並みを一度想像してみて下さい。
車に奪われた生活の風景を取り戻し、今よりずっと瑞々しい街が頭に浮かばないでしょうか?
建築基準法等の法律も絡んでいて簡単にはいかないかもしれませんが、”間”であればやりようがありそうです。
また、まずはこういう町並み特区があってもいいかもしれません。

追記

途中スーパーの袋をいくつも抱えてる人を見かけたのですが、日常品の配達システムがあるのかなと思いました。


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隙間によって関係性を生み出す。



ぴったりではなく、すこし隙間を残すことで能動的に環境と関われる余地を残しておくこと。
それによって生まれた関係性が生活=豊かさとなる。

オノケンノート – 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。
洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。 何もなければいいというものでもないのである。

『決定ルール=自然環境』によって地形を生み出すという手法も有効そう。関係を受け止める強度を建築が持てる。

オノケンノート – 『棲み家』

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。
なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。
それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。




affo-rest


別の空想案。
テーマはアフォーダンスの森。affordance+ forest

このテーマ自体はもっと追求する余地がありますが、その一つのスタディとして。

グリッドおよび屋内を先行施工し外部はDIYで臨機応変に作っていっても可。
メンテもいるので手が動く人向き。

模型つくるのは大変そう。
前回のに比べて垢抜けてない感じがするのは、検討不足か。
もうひとつ考えたらまとめて模型つくろう。

オノケンノート ≫ HS-06 アフォーダンスの森の家




素材に対して誠実である。




視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。

オノケンノート – 偽物の氾濫

しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。

藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)

素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。

それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。

また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。

オノケンノート – モノの力

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




メタボベイビー



メタボザウルスが子供を産んだら。

今、4つほど空想案を考えているんですが、そうのうちの一つ。

案というより、単なるパクリ。良く?言って二次創作。

危うく殺されかけて生きながらえたメタボザウルスから子供が生まれたら。という設定です。
大きくなったら公共建築になりたいと夢見るSOHO住宅くん。

都城市民会館が出来た当時は世界中の建築学生がまねをしてそこら中に市民会館もどきの案が林立したそうですが、建築のDNAが伝播してどんどん繁殖していったっていいような気がします。

昆虫は幼虫のころはたいていグロテクスないびつさをもっているので、もっといびつにしようかとも思いましたが、なるだけ素直にパクリました。

著作権うんぬんと言われると削除せざるを得ないかもしれませんが、市民会館継続のお祝いと菊竹さんへの敬意をこめて。
個人的スタディの一つと思って暖かい目で見て頂けると嬉しいです。

それにしても、僕が簡単に作っただけでも思ってたよりサマになるんだから、もとの思想の骨格は半端じゃないレベル。
やっぱりすごいなぁと痛感しました。
これはオリジナルでは出来そうにない。

いろいろとデフォルメされた個性的なメタボザウルスがそこら中に建っているのを想像するのもいいかもしれません。

せっかくなので模型までつくってまとめるつもり。いずれPROJECTにアップします。

オノケンノート ≫ HS-07 メタボベイビーの家




秩序を回復させる。




時には装飾のタブーも恐れず。

オノケンノート – B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。

■人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。

また、秩序は幾何学によらなければいけないというわけではない。

オノケンノート – B058 『informal -インフォーマル-』

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。

むしろこっちの方に突き抜ける可能性がある。

もう少し古典的というか基本的な言説としては
オノケンノート – B025 『建築意匠講義』

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

造型論を追い求めた倉田 康男も建築を次のように捉えている
オノケンノート – B040 『建築造型論ノート』

■自らの生きざまを見つめ続けること。そして目の前の畑を耕し続けること。いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。それが建築を学ぶことのすべてなのである。

倉田の造型論は造型論によって捉えようというよりは、むしろ捉えられない不可能性に対する確信から造型論を求めているように思う。

決して宇宙の秩序に到達できないという認識の謙虚さを持った上でそれでもなお秩序を求めること。




傲慢?

昨日は天気がよかったので家族3人でチャリンコに乗って永田川の上流の方まで行っておにぎりを食べました。
谷山も産業道路側は交通量が多くて落ち着かない感じがありますが、少し山の方にいくとすごいのんびりしてて良い感じ。
いい気分転換になりました。
チャリンコサイコー :にこ:

廃墟?

だけど、帰りに新しい住宅地の方を通ったのですが、この辺の風景を見ると気が滅入ります。

工業製品だけでつくられた建物が整然と並んでいる住宅地。

それにしても、何でこんなに気が滅入るのかと思ったら、建物ばかりでなく、外構含め、植栽などの緑が全くないのです。
建物たてたらそれで終わり。道路もアスファルトで固められてるし、どこにも人の気持が入り込む隙間がない。これじゃ廃墟としかいいようがありません。

それでも、こういう景色が次々と作られている現実を思うと、僕の感覚の方ががおかしいんじゃないかと不安になってしまいます。(育った奈良の五條というところも結構田舎だったし、屋久島は言わずもがなだし)

まぁ、僕の感覚じゃなくて、こういう景色の方がいびつなんだと信じることにして、やっぱりこれって「想像力が欠如した風景」なんじゃないかと思う。

これには「坪いくら」っていう考え方が結構影響していると思います。本当は外構や町並みなども含めての住宅なのに、坪いくらでは、広さとグレードが大事。外構その他はオプション、余計な出費。家の中は自分のもので大事だけど、それ以外は知らない。
それって逆に貧しい空間しか得られないのに。

傲慢?


「未来」を真正面から宣言した本
を読んで、今はみんなちょっと傲慢になりすぎてるのかなって思った。

いい時代を経験して、自分たちはなにもかも手に入れたと勘違いしてるんじゃないだろうか。
「未来」なんか想像しなくても自分たちは何もかも手に入れる権利があると勘違いしているんじゃないだろうか。
誰かが未来を持ってきてくれると勘違いしてるんじゃないだろうか。
失ったものだっていっぱいあるのに目をつぶってたほうが得策だと思ってるんじゃないだろうか。

説教くさいかもしれないけど、「想像もしない」未来なんてやってくるわけない。と思う。




B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




サツマティック展 鹿児島

satumatic

加治屋町のRAIRAIでサツマティック展のオープニングがあったので行ってきました。

satsumatic7

satsumatic3
たくさんの人が来ていて大盛況でした。
オリジナル焼酎もゲットしようと思っていたのですが焼酎の販売はアミュの地下1階「焼酎維新館」もしくは田苑酒造のみだそうです。

いろいろと感じるところがあり、自分も頑張ろう!という気になれました。(今の自分と比較して軽く凹んだというのも無きにしも非ず :あー: 。)

ということで、スタディの方に力を入れようと思います。
時間は限られているので、しばらくは

  • 何かひらめいてもサイトのテンプレートをいじらない。(いじりだすと時間がすぐにたってしまいます。いくつか試したいのはあるのですが)
  • 今読んでいる1冊を書いたらしばらくBOOKSは休業する。(とりあえずぼんやりとアイデアがある4案をかたちにするまでは我慢します)

と決めて、ブログにかける時間をスタディに割り振ろうかと思っています。(たねを集めるのは気が向いた時に続けますが、ペースをつかむまでは更新がさらに経ると思います)

サツマティック展は4月20日まであるようなので機会のある方は是非!
(3月30日はギャラリートークもあるようです。)
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模型

mokeiwk02
やっと出来た。
子供が寝ている隙になんとか完成。ってもう朝やん。




頭のビジュアル化ーrandomimage[WordPress]

このサイトも少しずつイメージに近づいてきました。

レンタルブログのときには画像によるアーカイブを手動でつくってたりもしましたが、それだと手間がかかる分、機動力が落ちます。
でもWordPressのだとプラグインとPHPなどの多少の知識があればたいていのことは自動化できます。

ということで、下記のプラグインに少し手をいれてトップページをいじってみました。(画像が多くなったので通信速度の遅い方はすみません)
404 ≫ 【WP】記事中の画像をランダム表示する。randomimage

『randomimage』はその名の通り、画像をランダム表示してくれるプラグインです。 画像を表示するだけでなく、該当記事にリンクも張ってくれる優れもの。

僕のブログの目的の一つに自分の頭の中の構造化・視覚化、もしくは雑多な考えや知識をぐちゃまぜのまま使えるようにする、っていうのがあるのですが、そのためにビジュアル化してまとめたいとずっと思ってました。
(下手なスケッチを書いてるのも、ナビゲーションをしょっちゅういじってるのもそのため)

まぁ、頭の中をさらけ出して恥ずかしくないの、っていう声もあるでしょうが、恥ずかしくてもさらけ出すのがこの仕事ですし、WEBだと割と自分の頭と他人の頭の境界を曖昧・混ぜこぜにしてくれるんでその分気楽っていうのもあります。

もっと言えば、その混ぜこぜ感、出力が自分でも予想できないようなところに意味があるというか、発見があるように思います。
オノケンノート – B128 『カーニヴァル化する社会』

特にネット上では「知性」の外部化を割り切り、他人の知性・感性を共に巻き込む形でこのループを繰り返して残される自らの「感性」を磨いていくような作法が流行っているように思う。

脳内メーカーなんかの複雑版とでも言ったらいいでしょうか。

その分、感じる力を養わないといけません。
あと、オリジナルコンテンツと・・・




主客の分離、言語体系の網をこえる。



ちょっと悟ったつもりになってみる。
感じることを邪魔しているいろいろなものを取り払ってありのままに感じられる時間をつくること。
例えばモノそのものと向き合うこと。

オノケンノート – B026 『はじめての禅』

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。 あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

『私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。』

どんどん抽象的になってきますがこれ以上に抽象的になることはないんじゃないでしょうか。(ランダムに記事をよんでも抽象論ばかりというのはこれまでこのブログで抽象的なことしか書いてないってことかも・・・)




スケールの橋渡し役となる。


建築が生活とミクロやマクロなスケールをつなぐ橋渡し役となること。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。
そんな時、空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。
時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。
自然の雄大さに比べたら建築なんて無力だなぁと思ってしまうこともあるが、日々の生活のスケールとマクロな又はミクロなスケールの橋渡しの役を建築ができればステキだろうな。

(オノケンノート – スケール)

時にはフラクタルという楽器も使って。

”建築が橋渡し役”っていうのはいいかも。人と人との橋渡し、時間・歴史の橋渡しとか。




遊んで感じ、そして決定する。


考えることと平行して、楽しんで遊び感じること。

最後の決定では自分のセンサーを信じること。

藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』

物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。(藤森照信)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

オノケンノート – B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(倉方 俊輔)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

遊ぶ-感じる-決断というのは一繋がりのものかもしれない。




妖怪の居場所を思う。


はい、すみません。こなきじじぃのつもりです。はい。

マウスで書いてるんで許してくだせい。

妖怪の入り込む隙間、言い換えれば想像力を働かせる余地を残しておくこと。


オノケンノート – B056 『屋久島の民話第二集』

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。 景色ん中に想像の入る余地はなか。 そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。

オノケンノート – B061 『水木しげるの妖怪談義』

神は政治、妖怪は生活。。。妖怪は音。。。妖怪は雰囲気。。。妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

オノケンノート – W006 『杖立橋+Pホール』

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。 こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。




B132 『職業は建築家―君たちが知っておくべきこと』

ローランド ハーゲンバーグ (著)

柏書房 (2004/11)

図書館にて。

全体の感想としてはあまりお勧めではありません。

その理由は

  • 値段(2100円)に対して内容がほとんどない。専門書としては安めの部類だけどテキストの分量がかなり少ない。遅読の僕が1時間もかかりませんでした。
  • テーマが良く分からない。本のタイトルと各インタビューの内容のつながりがほとんど感じられませんでした。初心者向けの本かと思わせるタイトルですが、個々の建築家の作品や思想に親しんでいないと、多分この内容では意味が分からないと思います。
  • 内容そのものもブツ切れで中途半端。個々の建築家にも迫りきれてない。

なんでこのタイトルにしたんだろう。

タイトルに見合うのはとってつけたような五十嵐太郎と村瀬良太による100冊のブックガイドだけ。

もともとは映像 だったみたいですが、こっちもそんなに評判はよろしくない。

あまりその建築家ならではの思想を浮き彫りにしてるとは言い難いけどとりあえず何点かメモ。

シェルターについても同じで、ロビンソン・クルーソーのように、海辺に暮らし、気候が良ければ、外で釣りをします。暑くなったり、嵐がきたら、しばし身を守る建物を造るのです。そのように自然環境に適応し、快適な暮らしをするということです。(原広司:もし自分のシェルターを創るとしたら、どのようなものになりますか?に対する返答の一部)

私が考える安全な空間とは、竪穴式住居のようなものです。半分が地面に埋まっていて、土に触れることができ、その上には丸太がかかっていて、丸太に触れることもでき、全体が、土と丸太、そして周りの森に守られているという、安心感を与えるものです。安全性とは安心感だと思います。したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。(隈研吾:建築における安全な空間とは、どのようなものだと思いますか?に対する返答の一部)

考え方が違うと思います。箱を作り内部空間をコントロールしようとするのは、いわゆる西洋的な近代建築の考えで、そこで空調や暖房器具、二重窓ガラスを用いれば、確かにエネルギーの節約になりますが、エコロジカルとは呼べません。真にエコロジカルな建築というのは、外部空間に向けて開かれているべきものだと思います。21世紀に向かって発展する新しいスタイルは、この考え方に基づくものだと思います。(中略)日本人は、伝統的に内部空間と外部空間の関係がとても大事で、場合によっては、庭などの外部空間の方が大事だと考えてきたのだと思います。(内藤廣:ヨーロッパではエネルギー節約のために窓ガラスを二重ガラスにしていますが、自分の事務所に二重ガラスを使用していない点は、気になりませんか?に対する返答の一部)




人を思い浮かべる


そこで、人がいきいきとしているのを思い浮かべる。

建築も一緒になっていきいきとしているか。関係性は紡げているか。
オノケンノート – TV『福祉ネットワーク“あそび”を生みだす学校』

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

象の建物とそこにいる人がいつもいきいきとしてるように見えるのはなんでだろうか。

方法論じゃなくって単なるまとめになってたり、絵がいいかげんだったりしますが構わず続けますです。




大切な1%を見つける。


決定的でかけがえのない大切な1%を見つけること。

そして、それを残りの99%と同等かそれ以上に愛しむこと。


オノケンノート – B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。 それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

『モモ』風に言えば”99%の豊かさと引き換えに大切な1%を奪っていく1%ドロボー。その奪われた1%はやがて気付かぬうちに心の<スキマ>となっていく。そして、その<スキマ>を埋めようとすればするほどさらに・・・・”というような感じ。

気にしなければ済むことかもしれないけど、建築なんてやってるような人は多分その1%を諦められきれないんだと思う。

”そこに現れた一人の建築家・・・・”なんて物語を夢想しているわけじゃないだろうけど、もしかしたらその1%を少しは守れるんじゃないかと信じたい人たちなんだろう。
(ああ、こんなスケッチ描いてて続くんだろうか・・・)