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boolean-1


ヴォリュームを直接的に扱ったものを与条件としてみる。

直方体を大地も含めて別の直方体が貫く。
そういう明確な操作が建物と人との関係性を浮き上がらせることはないだろうか。

その内部を貫きえぐられた断面を主要な開口としそれ以外の開口を最低限に抑えることで、割と面白い関係が生まれそう。

ヴォリュームの操作は他にも試してみたいのでboolean-1としとこう。

えっと、まとめて模型つくらないとなぁ。

オノケンノート ≫ HS-09 貫通した家




B140 『アート/表現する身体―アフォーダンスの現場』

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2006/09)


以前から、佐々木氏はどうしてアートやデザインにこうも肉迫できるのだろう、と思っていたのですが、この本の冒頭で理解できたように思います。

佐々木氏は若い頃に文楽(人形浄瑠璃)に魅せられて、その道を志して修行をしたことがあったそう。
文楽は途中腰を傷めて挫折したそうですが、その間に自ら修行をしながら超一流の人の身体から生み出されるものを目の当たりにした経験があったからこそ、理論をアートやデザインに結びつけることが可能になったのでしょう。

さて、この本は様々な研究者がさまざまなアートの第1人者について科学的に分析するパートと、アーティストへのインタビューのパートで構成されています。

ゲストとなるアーティストは

・劇作家/演出家:平田オリザ
・落語家:柳田花緑
・指揮者:井上道義
・ヴァイオリン奏者:マルグリット・フランス
・アニメーター:高坂希太郎
・舞踏家:岩名雅記
・写真家:新正卓
・文楽:吉田勘弥

分析のパートは少し読みづらかったですが、それを受けてのインタビューのパートはそれぞれのアートに対する姿勢、身体性とアートの関係を感じられて面白かったです。

建築における身体性、というものには昔から興味がありましたが、どうやって身体性を建築に結び付けられるからはこれからのテーマでもあります。

設計者の顔がみえる建物に魅力を感じるのですが、このテーマに関するヒントがここにあると思っています。




自動車エイリアン説。


まち歩きのときに東川さんが谷山の路地がいずれ区画整理でなくなると言われていましたが、ずっと先のことだろうと思っていました。いまどきそんな無駄な事をしないだろうとも。
だけど、妻から「本当に区画整理されるそうだよ」と聞かされて調べてみると本当のようです。

鹿児島市ホームページ |谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画決定

先般、縦覧いたしました谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画につきましては、このたび鹿児島県知事の認可を受け、土地区画整理法(昭和29年法律第119号)第55条第9項の規定により、下記のとおり平成20年3月21日付け鹿児島市告示第239号で事業計画決定の告示をいたしましたのでお知らせします。

PDFの計画図を見てみると、はぁーというような区画整理です。本当に必要なのだろうか。
道路が完全に直線でないところが救いですが、先に谷山の別地域(開陽高校周辺)で行われている区画整理のようにまた砂漠のような景色が広がるのかと思うと憂鬱です。
また、このまちの魅力が失われて、どこにでもあり、どこでもないようなまちになってしまうのでしょう・・・。
住んでもいいなと思える風景はどんどん消えていってしまいます。

そんなこんなで、今朝、自転車をこぎながら景色を見ていたら、いつもの景色が妙な風に見えてきました。

自動車エイリアン説

ネタバレになってしまいますが、こないだ読んだSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、地球の支配者は実はネズミで、人間はあることのために利用されていると言うオチでした。

同じように、もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。

車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。
そのために人間は必死で働き、自分たちの居場所をあけわたし、全てにおいて車を優先させます。

道路を拡張し駐車場を最適化するために区画整理を実行し、高速道路を作り、また、(車にとっての)集会場を各地に設置するために(人間用の)商業の場所を一箇所に集約して車のために尽くします。

人間には自分たちが支配者だと思わせるために、ちょっとしたスペースと時間、あと運転という作業を残しておいているのも計算ずくのことでしょう。

建築の計画でも、車の通路や駐車スペースが最優先の条件になって、そのために建物の自由度が大いに奪われる、ということが多いのですが、それも実は自動車に操られていたのですね。

そう思いながら、自転車をこいでると、道を走っている車、駐車場にとまっている車、みんなふてぶてしい顔に見えてきました。人間に気づかれてないつもりだろうが、俺は気づいてんぞと。

こんな妄想もあんまりぴったりしすぎでちょっと怖いですが。
もし明日交通事故にあったりしたら、それはエイリアンの陰謀に気づいたせいでしょう。

エイリアンとの共存を

ただ、僕はエイリアン(車)を地球から追い出せ、と言ってるのではありません。

僕も車のお世話になってるし(車にそう思わされているだけか?)、人間と良好な関係を築いている車も少なくないでしょう。

ただ、もうちょっと、車最優先にしてきた事を人間の側に取り返してもいいんじゃない、と思うだけです。

その時、区画整理は本当に必要か、もっと小規模なことやソフトで解決できることってあるんじゃない、と思うだけです。

是非とも、エイリアン(車)との共存を。

『住宅エイリアン説。』に続きます。(続きません)




小児医療が無料と言われれば

みんなの意見で社会が滅ぶ – レジデント初期研修用資料

黒幕はいない。
(中略)
こんな流れの真犯人は、そんなに困ってない大多数が「ちょっとお得」なやりかたを志向する空気であって、 あとから犯人扱いされる人達は、たしかに破綻の特異点に立ってはいたけれど、 誰にもたぶん、そんな流れを止めるだけの力はなかった。

なんか、良くわかる気がします。
自分にとっての「ちょっとお得」を求めるだけで全体を俯瞰することが出来なくなってしまう。

と言っても、自分だって判断材料がなければ「小児医療が無料」と言われればつい肯定してしまっていたかもしれません。

「みんなにとっての「ちょっとお得」ではないけれど、こっちの方が正解じゃないの」と言っても選ばれる、という民意に対する信頼が必要でしょうが、そのためにはかなりの底上げが必要でしょうね。

ただ、社会的プラットフォームそのものに対する意識の希薄な日本ではなかなか難しいかもしれませんが。

オノケンノート ≫ B110 『M2:ナショナリズムの作法』

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。(宮台)

どうすればいいんでしょうかね。
個々が意識をもって勉強するより仕方がない気がしますが、『社会的プラットフォームそのものに対する意識』は教育である程度意識付けが出来るようにも思います。




B139 『銀河ヒッチハイク・ガイド』

ダグラス・アダムス (著), 安原 和見 (翻訳)
河出書房新社 (2005/9/3)


仮説テント 銀河ヒッチハイク・ガイド・ガイド

ダグラス・アダムスという人は天才ですね。 いわゆる「その発想はなかたった」って、何度言わされたことか。

ということで読んでみました。

ガイドは先の引用先に任せるとして、
うーん、痛快です。ここまであれだと心地よいですね。

感激するしかない発想のレベルと軽快なテンポにやられてしまいます。

深遠さを詰め込んだ袋をべろんと裏返したら、深遠さは宇宙に離散し、袋の中にはちょっとした笑いだけが残った。というような励ましが得られるかもしれません。
もしかしたらですが。

ちなみに、訳者は鹿児島出身の方のようです。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展

先日サツマッティ展が終了したRAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展があるそうですが、なかなか興味深そうな本です。(サツマッティには僕も12日に行ってきました。Tシャツはオンラインで注文できるようになるようです。多分)



ベンヤミンのパサージュ論は建築の本でもちょくちょくでてきてたのですが、残念ながらあまりまじめに勉強してないのでニュアンスが少し分かる程度ですが、パサージュをはじめとした「移動性をもった仮想の視線」をめぐる視覚文化史をポストモダンの視座から読み解く、という内容のようです。
目次をみると建築にも触れられていて俯瞰的に建築を捉えたり、今の鹿児島を考えるヒントもありそう。

訳者の井原さんのサイトを見てみると
Keiichiro Ihara’s Home Page-エッセイ-井原慶一郎-

シミュラークル(現実感の希薄なイメージ)に取り囲まれて、私たちは何が現実かをほとんど見失いかけています。だからこそ、われわれは、もう一度、ポストモダニズムが放棄した現実の再現representationの問題について考える必要があるのです。

とあり、僕自身の問題意識に関係がありそうですし、「移動性をもった仮想の視線」と「現実の再現」の関係にも興味が湧きます。

井原さんと大寺さんのコラボレーションにも大いに興味がありますし、これは読むべきかも(3675円かぁ、専門書だからなぁ・・・)

ところで、先のエッセイを読んで少し考えたのですが、建築はどうしてもリアルなものと立ち現われてしまうものです。
ですが、逆説的にというか、だからこそと言うか、かえってそれがリアリティを失わせてしまっているということがあるような気がしました。
情報のノイズやイメージの渦に埋もれてしまうことを避けるための”一つの手段”として、抽象化なりなんなり、アートやデザインといったフィルターを通すことの重要性が増しているのかもしれません。




自然のかけらを鳴らす


自由な秩序によって。また音楽のように流れるように。

そのための楽器をいくつかこのブログでも集めてきた。

古典的には黄金比から始まり、フラクタルまで。
オノケンノート ≫ B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。 “美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

アフォーダンスを皮切りにもっと流れるような「関係性へ」と移っていく。
オノケンノート ≫ B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。 それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。 (例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。
そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

ほかにも、佐々木氏の著作はヒントにあふれている。
オノケンノート ≫ B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。

オノケンノート ≫ B049 『レイアウトの法則-アートとアフォーダンス』

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。 幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。 建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

また、そのための具体的な道具として構造の可能性を追求することは必須に近いが個人的には踏み込めていない。

オノケンノート ≫ B058 『informal -インフォーマル-』

構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。

こういう流れは、つぎのような感覚の裏返しかもしれない。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

ある種の不自由さ、堅苦しさから、軽々と抜け出してみたい、というのが今の空気じゃないだろうか。

オノケンノート ≫ B019 『建築的思考のゆくえ』

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。 一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。 たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

『自由な秩序や関係性によって、音楽のように流れるように、軽々と抜け出してみたい』というのは今の時代や僕らの世代にある程度共通する欲求なんじゃないかと思うんだけども、ほんとのところみなさんどう感じているんでしょう。




B138『くうねるところにすむところ01,02,03』

01 家ってなんだろう
益子 義弘 (著)
インデックスコミュニケーションズ (2004/12)

図書館の児童書コーナーより。
まずは01から。

この本では木のことばかり書いてきたような気がします。
でも家をつくることを考えるとき、どうやらそれは気が育つこと、木を育てることと同じようだなぁともおもいます。

育つ、育てる存在として家を捉えると、家に単なる商品ではない豊かさが生まれる気がします。
また木そのものとともに家が育っていく様子が素敵でした。

02 家のきおく
みかんぐみ (著)
インデックスコミュニケーションズ (2004/12)

僕の家の記憶といったら何だろう。外で遊ぶのが好きだったので記憶の中の家の割合は結構少ない気がします。
覚えていることといったら、母の内職用のミシンスペース、2段ベッドで間近にみた天井のプリント木目、外部を埋め尽くす五月の鉢植え、夏の日にキンキンに冷房の効いた部屋に相撲番組、と言った変哲もないパーツばかり。
どちらかと言うと奈良や屋久島の自然の中で感じた事の方がベースになっている気がします。

03 オキナワの家
伊礼 智 (著)
インデックスコミュニケーションズ (2004/12)

はじめ、沖縄の住環境には、「ヒンプン」「スージー」「アマハジ」「フクギ」などなど特徴的な方言があっていいなぁ、などとと思ったのですが、それは外部から見たから「特徴的な方言」なのであって地元の人には当たり前の言葉なんだという、当たり前の事を思い出しました。
鹿児島にも当たり前だけれども見過ごしてる大切なことがあるだろうし、僕が知らなさ過ぎなのかもしれません。

ところで、著者の言うテーゲー(適当、だいたい)に暮らすというのは同じ南国ですから共通のものだと思います。(鹿児島ではテゲテゲ?)

ときどき感じることですが、日本人は潔癖で神経質になりすぎているように思います。
それが悪いかたちで町並みにでてしまっているのでしょうか。
沖縄のように、ちょっとテーゲーな感覚で、街に開いた暮らしかたを取り戻したほうが楽しいでしょう。
(中略)沖縄のような暑い地域の人たちが、ちょっといい加減(テーゲー)なのは、涼しく楽しく暮らすための知恵なのだと思います。

現代の鹿児島にも良い意味でのテゲテゲ文化はいき続けているのでしょうか?




B137 『小さな建築』

富田 玲子 (著)
みすず書房 (2007/12/11)


前回の大竹康市に続いて、象設計集団の富田さん。
あるシンポジウムでスライドを見ながら、高層ビルは中が見えず墓標のようと言うような事を言われてたのが心に残っていました。

富田さんの生い立ちも含め、笠原小学校や住宅などいろいろな作品にも触れられていて象にぐっと近づける一冊です。

「負ける建築」とか「弱い建築」が注目されていますが、「小さな建築」は若干違う気もします。
ここで書かれているような弱さを反転した強さというものをあまり感じません。
強さはあるのですが、強さのための弱さではないという感じです。

富田さんのいう「小さな建築」とは

寸法が小さい建築ということではありません。私達が持って生まれた5感が、その中でのびのびと働く建築、あるいは私たちの心身にフィットする建築、それとも人間が小さな点になってしまったような孤立感や不安感を感じさせない建築のことだと言えばいいでしょうか。

というように、人間を小さな点として扱っていないという意味において相対的に「小さい」と言う事でしょう。

ですが、象の建築を考えてみると、建築が小さくなったというよりも、人間の感覚の方を広げてくれて建築の大きさに近づけてくれたという方がしっくり来ます。

ですから「小さな建築」というだけでは少し誤解があるかもしれません。人間と建築がお互い手を差し伸べ延べあい、距離を縮めあっているイメージでしょうか。

だけども、実際にまわりを見回してみると、人間と建築との距離は宇宙が膨張しているような感じで離れていって、人間が点になってしまって来ているようにも思えますし、この「人間が小さな点になってしまったような孤立感や不安感を感じさせない」という感覚はとても重要になってきているのではないでしょうか。

また、笠原小学校については以前テレビの感想を書きましたがこの本でも、学校の安全性に触れて

やわらかいもの、自分よりも弱いものが身近にある環境をつくってあげるほうが、犯罪を防げると思っています。笠原小学校では柱を見れば「いぬもあるけばぼうにあたる」、階段の途中には焼き物のタヌキやカエルがこちらをじっと見つめていて、気がそれてしまうのではないかしら。暴力に対して力ではなく、やわらかさで対応していく知恵を働かせないと、際限がなくなっていくと思います。

と書かれています。

防犯に対しては、実際に防げるかどうかよりも、犯罪が起こってしまった時に「最善を尽くしていた」と言えることの方が勝ってしまうのかもしれませんが、そこを踏ん張ってこういう視点をどこまで保てるかも大切だと思います。(セキュリティを強化してやれることはやったんだと思えるほうが楽だからそっちに流れがちだと思います。)

論理的で鋭い刃物のような文章ではありませんが、象の富田さんらしく、いろいろと感じることの多い本でした。

象はなんというか、等身大でありながら夢がある、というか等身大からスタートして建築が何かを語り始めるところまでの幅をぐーーっと引き伸ばしていく感じが魅力的ですね。




box-culvert

housestudy8
ボックスカルバート状のものを積み上げたような形態。

地上が通常の居住スペース、地下にセミパブリックなアミューズメントスペースがある住宅。
それぞれの空間に応じたボックスを地下から2階部分まで積み上げ、その隙間も利用する。

うーん、サーバーの引越しをして容量をあまり気にしなくて良くなったのでFlickrではなくサーバーに画像をアップできます。
WORDPRESS2.5のメディア機能使いやすくなってますね。

なぜか毎年5,6月は体調が優れなくなるのですが、それも抜け出しそうなのであと1案考えたらまとめて模型をつくろうっと。

オノケンノート ≫ HS-08 積み重ねの家




LOLIPOP => XREA PLUS

7月5日にレンタルサーバーの契約が切れるので前から検討していたサーバーの引越しをしました。

このサイトはWORDPRESSというブログソフトで運営しているのですが、WORDPRESSはアクセスがあるごとに動的にHTMLを生成するというサーバーの能力に依存するシステムです。
で、どうやらロリポップはサーバーが重いようなので、WORDPRESSでも快適に動きそうなXREA PLUSへと引越しに踏み切った次第です。

うまく移行できるか不安だったのですが、いろいろ躓きながらもなんとか引越し成功。

単純に引越し前(ロリポップ)と引越し後(XREA PLUS)を比較すると

ロリポップ:XREA PLUS
年間利用料 3150円:2400円
ディスク容量200MB:3000MB
PHPバージョン4.4.6:5.2.5

と明らかにお買い得。

おまけにサーバーの反応は期待以上に速かったです!
体感できるほど違いはでるのかな、と思っていたのですが明らかに速くなりました。
ロリポップの時は、半静的システムにするためWP-CACHEというプラグインを利用していたのですが、これを使わずとも同程度以上の速さに感じます。

去年は、WORDPRESSの動的システムも良くわかっていなかったし、サーバーを借りると決めてから勢いで借りてしまったのですが、(今回も勢いで)引越しをして正解でした!
こういうときにドメイン取ってて良かったなと実感します。

まだ何点かは正常に動いていない部分もあり原因が掴めてませんが、そのうち解決できるでしょう。