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ハガキ作戦参加望む

都城市民会館の保存に奔走されているヒラカワさんから下記のようなメールを頂きました。

9月議会に都城市民会館の解体を含む議案が上程されました。情勢はひじょうに厳しいと言わざる得ません。

つきましては、全国のみなさんから、市会議員へ保存を訴えるハガキを出そうという運動をすることにしました。

恐縮ですが、下記のリストの議員へ(できれば複数のたくさんの議員へ)、ハガキ(又は封書)を出してくださるよう希望します。

全国の市民会館関係者からの、たくさんの手紙によって、会館が残ることを念じています。

できましたら、このメ-ルを賛同いただける知り合いの方に広めていただきますと幸いです。

よろしくお願いいたします

僕なりの意見を添えてハガキを出そうかと考えていますが、賛同される方はコメントもしくはメールを下さい。

都城市民会館解体に対するそれぞれの議員の姿勢(保存派・解体派など)を記した、都城市会議員住所録をメールにてお送りいたします。(コメント時にメールアドレスを入力していただけるとそこに返信します。メールアドレスはブログ上には現れませんのでご安心を。また、9月27,28日に採決のようなので遅くとも25日までに投函お願いします。)

ヒラカワさんのブログに議員リストと議会事務局の住所が書いてありますのでそちらでも良いかと思います。

以下に、今思いつく僕なりの意見を簡単にまとめます。賛同される方、賛同されずとも市民会館保存には賛成の方は一手間をお願いいたします。

なぜ、保存を願うか。・まず単純にこの建物が僕の好みだから。・単純に簡単に壊しすぎじゃないかと思うから。(これでは文化の育つ隙がない。)・この建物がこのまちの一つの風景になっていると思うし、これからも風景であり続けられると 思うから。・まちの中から固有性だとか、場所性だとかが急速に失われていく中でこれだけの個性のものは貴重だから。(固有性がまちの最大の資源になっていくであろう中で、これを壊すのはあまりにもったいない。

このままいくとこのまちはどこにでもあるまちになってしまうし、後で後悔しても遅い。例えば宮崎県が東国原知事を 有効に使っているように(知事が自らしていることだが結果的にはそう)、有効に使えば計り知れない可能性があるし、その可能性はきっと時が経つにつれどんどん増すはず。

解体の危機から一転全国でも”先進的な事例”といえるような 方策を見つけて実行できれば、全国的に希有なポジションを獲得できるような気がするし、そういうチャンスはめったにない。)

・これから先、建築を志す多くの人に勇気や希望、感動を与え続ける事のできる貴重な資源だと思うから。

・ 子供たちの育つ環境として、こういうものも必要だと思うから。(これだけのものが身近にある子供は幸せ。逆にこういうものを目先のことだけでどんどん壊してしまうような社会で子供が育つのが怖い)

・ 目先のことだけ追い求めてきたやり方を転換し、長期的な視点を獲得するよいチャンスだと思うから。

より端的に言うと、この建物を簡単に壊すという選択をするのかどうかで、 都城が世代を超えてよい環境をつくっていくというビジョン・思想をこの先持てるかどうかが決まってしまうと思うのです。
最後にdanさんの記事から引用しておきます。

地方はやればできるし、やっていればできたはずなのである。それをやらなかったのは誰なのか。新幹線と高速道路をおらがムラに引くことばかり訴えてきたのは誰なのか。

実際はもう少し文章として練ってからハガキを送ろうかと思いますが、単純な思いで構いませんので皆さんなりの言葉でぶつけていただければと思います。

※これまでこのブログで都城市民会館にふれた記事はこちら




何の恨みが・・・

下請け仕事で確認申請の準備をしてるんだけど、単純な平屋のS造で構造計算書が約1000枚。それを正副2部プリントアウトしなくてはいけない。(これまでは100枚程度だった。)

構造事務所に聞いたところまだましなほうで、 多いところでは万を超えるそう。そこまでいくと怒りを通り越して笑ってしまいます。

今回の建築基準法改正で増えた認定書なんかの書類ももそうとうな枚数になるけれども、今の時代にこれだけ無駄な紙を使わせるなんて・・・。

構造計算書はほとんど文字情報なんでPDFなどの電子データだと数MBで納まる。

認定書にしたって、役所の側でデータベースをきちんと構築していれば認定番号リストですむはずだ。

法改正に携わった人は建築士によっぽどの 恨みがあるかよっぽどの馬鹿だとしか思えない。

今回の改正で本気で設計やめようかと思っている人が結構いるみたいだけど、役所の言い訳のために膨大な作業とコストを押し付けられたんじゃほんとやってられません。

みんな怒ってますが、いつまでこのやり方を続けるつもりでしょうか・・・。




B117 『藤森流 自然素材の使い方』

藤森 照信 (著), 大嶋 信道 (著), 柴田 真秀 (著), 内田 祥士 (著), 入江 雅昭 (著)

彰国社 (2005/09)

技術とは何だろうか。と考えさせられる。
藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。
だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。
それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

藤森さんは自分のことを建築家というよりは職人だと位置づけているようだ。
専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。
今の建築は気を抜けばすぐにカタログから選んだ工業製品の寄せ集めになってしまう。(その原因に技術に対する恐れが多分にあると思う)
工業製品を一つの素材と捉えて、そこに命を吹き込むこともできるだろうが、それを意識的に行うのは相当な腕がなければ難しい。

なんというか藤森さんにはコルビュジェと似た匂いを感じる。(きっと本人も自覚していると思う。)
コルビュジェが庭園を語りながら、建築が植物に飲み込まれるのを恐れて植物から距離をとった、というような分析があったが、 なんとなくそれに対するリベンジのような感覚じゃないだろうか。だけど、藤森さんのやってることはかなりギリギリのところだと思う。
自然と人工の関係を扱うには藤森さんのような濃さとバランス感覚がないと、あっという間に胡散臭いエセ自然になってしまう。
藤森さんの建物でさえ、そのまま屋久島なんかに持っていったら自然に飲み込まれて胡散臭いシロモノになってしまうのではないか。藤森VS屋久島是非対決を見てみたい




色気や愛着について

img_0670.JPG
縁があって屋久島の住宅を計画しています。

個人的にお手伝いをさせて頂くので現場監理がほとんどできません(離島&今はサラリーマンですので・・・)
その分、設計段階でどこまで検討し、どこまで図面化できるかが非常に重要になります。

今、平面が少しずつまとまりつつあるのですが、ここからどうやって飛躍するか。そこが問題。

色気・愛嬌・親しみやすさ・・・何といっても良いでしょうが、そういったある種性格のようなものを建物が獲得できるかどうか。それが、良い建築になれるかどうかの分かれ目だと最近強く思うようになりました。(それはデザインの強度と密接に関っていると思います。)
その色気のようなものが建物を単なる箱ではないものにし、ひいてはその建物に対する愛着・思い入れになり、その雰囲気が建物の佇まいとなり、潤いのある街並みをつくります。

では、どうすればそういった性格を獲得できるか。

何か一つ突出する欲求があり、そのためにそのほかの部分を引き算してでもその欲求を満たしたい、というような衝動を内包したもの。その結果、いびつなバランスとでも言うようなものを獲得したものはその可能性があるように思います。

しかし、そういったケースはまれで、むしろそういった欲求を持たないのが大半ではないでしょうか。(そういう欲求が必ず必要だとは思いません)
そうではない場合はどうやって獲得するか。

全体をまとめあげる一つのアイデアが浮かべば、それが獲得のきっかけにもなるでしょうし、光や素材の扱いを含めた各々の要素を全体を見ながら注意深くデザインしていくことでも獲得できるように思います。

さて、今回の計画。
派手ではありませんが獲得のための種を平面の中に仕込んであります。
決められたコストの範囲でそれをどうやって成長させるか。
(今回は現場監理ができないという制約もあります。)
断面や素材の扱い等いくつかのぼんやりとしたアイデアは浮かんでいますがそれをまとめあげるには検討の時間が必要。

じっくり取り組もうと思います。




under’s high

undershigh.JPG
少し前にMBCのどんかごで、たまたま見かけて気になっていたフリーペーパー『under’s high』
ひょんなきっかけから再び意識にのぼったのでもらってきました。

ちょうど打ち合わせ先の近くのTSUTAYAにあるようなので帰りに探してみるとなかなか見つからない。
本を買うわけでもなく、ただフリーペーパーをもらうだけなので忙しそうなレジの人にもなかなか聞けず、しばらくうろうろ探してもやっぱり見つからない。
もう品切れなのかなぁ、と思いつつレジがすいた時に意を決してレジのお姉さんに「すみません、フリーペーパーの・・」と言い掛けた瞬間、目の前のカウンターの上に見つかりました。

ちっちゃー。

ハンディサイズとは知らず、見逃してました。「すみませんフリーペーパーの・・・・これもらっても良いですか。」ときょどりながらごまかしてしまいました・・・。

さて、それは良いとして今回の特集はランドスケープ。

最近、建築はモニュメントではなくランドスケープに向かおうとしているように思います。

それは、建築の焦点が人間のアクティビティや関係性に向いてきたからで、まちを歩いているときにさまざまな活動や関係が立ち現れてくるような楽しさに目覚めたからのように思う。

単体の建築の中でもランドスケープ的な視点が注目されているのですが、そうでなくても個々の建築(外溝なんかも含めて)が豊かになればまちは活気付くと思います。

翻って、自分達の周りを見渡してみると、人の思いの見えない(人々の息遣いや関係性の豊かさも見えない)建物が増えつつあるように思いますがいかがでしょうか。

今の生活の多くはさまざまな関係性を無視することで成立している側面が強いですが、それによってつまらなくなっていることも多いと思います。

関係性を捨てるのが都市化の原動力だったかも知れないけれど、それに反するのではなく、関係性をデザインによって楽しさに結びつけることができれば、まちはきっと面白くなるだろうと思います。(SA・KURA・JIMAプロジェクトなんかそういう意味でもほんと面白かった)

そうそう、ちょっと恥ずかしい思いもしたハンディサイズですが、個人的にはこのちっちゃい感がけっこう好み。

模型も今は1:100でつくっているけど。同じ密度で1:200でつくりたいな、とか思ってしまいました。

とにかく、鹿児島を考える熱いフリーペーパーですので一度てにとってみてください。




探すよりは作り出す

たこ阪さんの記事『「やりたいことを見つける」ってどうよ?』を読んで。
やっぱり、何かに向かって突っ走って、才能もあってやりとげる、って人はなかにはいると思う。
でも、その人にしたって「やりたいこと」を探して見つけた、というのとはちょっと違う気がする。
どこかにやりたい「こと」ってしうシロモノがあって、それを見つけだせば幸せになれるというのは、チルチルミチル的な幻想ではないだろうか。

僕は「こと」はあくまで手段であって、代替可能なものだと思う。
こういう風に生きたい、というような目的があれば、「こと」はそれに適したものを選べばいいのであって、目的に適うのであればなんだっていい。
それを「こと」を見つければ結果もセットになってついてくると逆から考えるとおかしくなる。どんな手段を手にしても目的がいい加減だと結果の出しようがない。

最初に書いた突っ走る人っていうのは、本能的に目的を掴んでいて、それが人よりも突出していて、たまたま近くにあることを手段にしてしまっただけではないだろうか。他のことが近くにあったって何らかの結果を出したはずだ。

僕の今がやりたいことかと聞かれるとそんな気もするが、他にやりたいことはいくらでもあるし、探して見つけた訳でもない。
たまたま関わり始めたのが今の仕事で、それを手段として今まで続けてきた、と言うだけの話である。(といってもいい加減にやってるわけでは全くありませんから!)
「探していたものと違う」と言って捨てるような機会はいくらでもあったし、今だっていつ捨てたっておかしくない。だけども、手段にしてやろうと思っている。

うまく言えないけれど、どこかにあるものを「探して見つける」、と言うよりは手段を「つくりだす」という感じ。

そういえば前にも似たことを考えたことがあった。
ポストモダンの時代、目的そのものも絶対的なものを探すよりは仮説であっても自らデザインして生み出す(ようは、なんだっていい!)というような態度の方がうまく生きていける気がします。(誤解されそうな表現だけど)

P.S やっぱり誤解を受けてそう・・・。僕は建築が好きだし出会えたことは幸運だったと思います。
ただ、どんなことでもそうだろうけど、そう思えるまでに、「こんなはずじゃなかった。他の仕事のほうがいいんじゃないか。」ということは一度や二度ならずあるはずです。(建築なんて結構いぢめられます)
その度に、それは建築と言う「こと」が違ったからという判断をして違う「こと」を探していたらきっといつまでたっても何も得られないままだったと思う。
何かをモノにするには継続する意志が必要、て言うようなことを書きたいだけでした・・・。




SA・KURA・JIMAプロジェクト

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土曜日、都城に行った後岩川の知人宅に泊めてもらい(こうちゃんありがとう!!!)今日は桜島のアートプロジェクトを見に行ってきました。

いやぁ、楽しかった。
楽しかった以上に言葉が浮かばないのですが、ほんとわくわくしましたね。
ついてそうそうデジカメのバッテリーがまたもや切れてしまったのですが、この雰囲気を記録できないのが残念で、あつかましくも受付をされてたお姉さんにデジカメを借りてマイSDカードに記録させてもらいました・・・あわてて撮ったので手ぶれしまくりですが(無理を言いましたが本当にありがとうございました。)
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この雰囲気はきっと現場でなくては伝わりません。
29日までの予定が8月5日まで延期になったそうなので是非直接体験してください。
SA・KURA・JIMAプロジェクトHPはこちら

こういう活動と都城市民会館を残したいという思いはなんとなくつながる気がします。

(ふと、地方に一定規模以上の大型店を出店する企業はバランスをとるため、こういう活動や都城市民会館などの保存に関わるコストを負担するような制度があってもいいのでは、と思いました。ふとですが。)

あと、今日は選挙にも行きましたが、なんとなく風が吹きそうな感じがありますね。
都城にも風が吹かないだろうか・・・




都城へ

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都城で『DOCOMOMOフォーラム都城』があったので妻と息子をつれて言ってきました。
内部見学を楽しみにしていたのですが、午前中に見学したようで見れずに残念。市民会館は今、工事中のような扱いでおおっぴらには公開できなかったようです。
それでも、充実の講師陣でこれほど貴重な話が聞けるとは思っていませんでした。

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講師陣は右より
■兼松紘一郎氏(建築家・東京・DOCOMOMOJapan幹事長)
■田島正陽氏(建築家・福岡・元JIA九州支部長・DOCOMOMOJapan会員)
■彦坂尚嘉氏(現代美術作家・アートスタディズディレクター)
■倉方俊輔氏(建築史家・東京理科大学、明星大学講師)
■磯達雄氏(建築ジャーナリスト・『昭和モダン建築巡礼』著者・「BankARTスクール」講師)
■五十嵐太郎氏(東北大学准教授・建築史家)

あと忘れてはならないのがこの会を主催して下さった宮崎のヒラカワさん。実は講師陣の多くは依頼があったのではなく自腹を切って自主的に来られたそう。(磯さんは僕と同じくヒラカワさんのブログを見てこられたそうです。ブログの力も侮れません。)

本当は妻にも聞いてもらいたかったのですが息子がはしゃぎ出したのですぐに外に出て子守になってしまいました。(会は盛り上がって1:30から5:00まで。すんません。子守ご苦労様でした。)

それにしてもここだけではもったいないぐらい面白く、かつ胸に届く話が聞けました。
都城市民会館が日本の高度成長時代という特異な時代に生まれたかけがえのない存在であることが良く分かったし、そうでなくても風景や記憶を形づくっているものを目先のことだけで簡単に壊してはいけないと改めて感じました。

話の内容を細かく説明はできませんが、各話で出てきたキメラ・怪獣、キャラ、乱暴な建築、41流性・超一流といった言葉のうちに共通して僕が感じ取ったのは、この建築には人間の中の野生だとか、どちらかというと自然の側に属するものが体現されているということ。

僕は1歳になった息子を連れて行ったのですが、こういう貴重な建物が壊され、街中から歴史だとか、人間の中の自然に属するものだとかが消え去り、つるっとした平和なものばかりになってしまったとしたら(かなりそうなってしまっているけど)、そういう環境の中で育つ子供たちはいったいどんな感受性を持つのだろうかと、大きな不安を感じます。

(そういった不安の裏返しが逆に実存的建築家に若い人なんかが魅力を感じる要因になっているのかもしれない。倉方さんの吉阪隆正とル・コルビュジエも読みたいと思っていたところ。何かヒントがあるかも)

今ではこの建物のような性質のもの(環境)は、特にこれからの世代にとってかなり貴重な存在であると思う。

それを壊すということは子供たちから風景や歴史や自然を奪うということになるのではないか。

この建物だけの問題ならよいが、今でも十分に様々なものを奪っている。せめてこのような建物ぐらいは残しておくという選択を大人はすべきではないだろうか。

最初の画像は磯さんのスライドよりアノ人と都城市民会館のコラージュ(?)。けっこうこの建物の重要性をあらわしているように思います。また、この講演をテープお越ししたものができれば下さいとお願いしてきました。もし、公開しても良いという返事が貰えたらここでも紹介したいと思います。やっぱり多くの人に聴いてもらわないともったいないし、そうでないとこのイベントの意義が薄れてしまいます。あと、その後の懇親会にいけなかったのが残念。その後の予定をいれてました・・・。




B116 『WordPress 2.2でつくる!最強のブログサイト』

乙彼 三太郎; 田中 広将 (著)

ソーテック社 (2007/6/18)

なんとかブログの引越しもかたちになってきました。(ブログ内リンクはほとんどFC2ブログにリンクされたままですが。ぼちぼちやります)

そして、今日本屋に行ったときについこの本を買ってしまいました・・・。

前はHTMLだとかCSSだとかFLASHだとかこの手の本は気が済むように買っていたのですが、家庭を持ってからはそういうわけにもいきません。だけど、やっぱり一冊はないと訳が分からん。

訳が分からないなりにネットの情報などでここまではやりましたが、ここらが限界です。ということで、とっておきの図書カードを使ってしまいました・・・。そのうちサイトデザインなんかで小遣い分でも稼げないだろうか・・・。

とりあえず、WordPress なかなか良いです。

プラグインなんかも豊富だし(Amazonへのリンク作成も楽ちん!)、ブログ記事とは別に”ページ”というものを作れて、それがホームページ+ブログみたいなサイト構築に向いていていろいろと可能性が広がります。

なんか、他のCADからVECTOR WORKSに乗り換えたときに、レイヤーとは別にクラスという階層構造をつくれたのと似ているなぁ。

あぁ、いろいろとイメージが・・・。




BLOG引越し中

FC2ブログで行こうかと思っていたのだけれど、ドメイン内でどうしても完結したくなって週末に引越しに挑戦することにしました。
MOVABLE TYPEは商用になるとライセンス料がかかるのでサーバーが対応しているWORD PRESSでブログを構築することに。

PHPだとかいまいちよく分かっていないんだけど試行錯誤でどうにか表示スタイルも編集できた。(ナビゲーションをもっと強化したいけど、それは今後の課題に)

最初は手作業で移動していたのだけれども、FC2のバックアップファイルをMOVABLETYPE形式に変換するフリーソフトを見つけたので一気に記事は引っ越せました。

あと、画像やリンクがほとんど切れてるので過去記事はぼちぼち修正していきます。

かなりの手間だけどせっかくドメイン取ったんでがんばろう。




模型


前は模型は土日にまとめてつくっていたけど、今回は平日息子が寝てからの時間に挑戦。
毎日少しずつ、1週間ほどで出来ました。3つほど模型をつくりためてるので今週末にでも加世田で撮影しよう。




B115 『デザインの輪郭』

深澤 直人
TOTO出版(2005/11)

「01デザインの輪郭」から「40自分を決めない」までの小さなエッセイや言葉の断片、対談などを集めたものだけど、飾った言葉ではなく、鋭いセンサーで捉えた実感による生の言葉が並んでいて非常に身にしみる。

個人的には「15灰汁(アク)」のところに共感した、というか僕はこのあたりでうろうろしている。

アンジェロ・マンジャロッティみたいな人は、あくが出てしまう。それが個性かもしれない。ジャン・プルーヴェもそうですね。どうみたっておかしい。なのに、すごく魅力がある。だから悔しいです。
僕にはあくが出せない。洗練されすぎていると思います。・・・中略・・・でも、今はあまり迷いはないですね。僕はこれから自然に無理なく変わるだろう。無理なく変わっていくことが、僕に課せられたプロセスだろうと思っていますね。今までは、自分の目指したところに到達しようとして、いろいろ余計な筋肉を使い、余計な力を加えてきた。その力を抜くことによって、最後のバランスをとったというのがいまだと思います。

けっこうあくのあるものが好きだったりするけど、僕はまだ自分の中から自然に出てくるあくというものを持てていない。自分の奥底には存在していると信じ、早く顔を出して欲しいと願ってきた。だけど、それはちょっと筋肉の使い方を間違ってたのかなと思うと少し楽になった。
もしかしたら、少し力を抜いて自然体で建築に向き合ったときに、初めてじわぁーと自分の中からあくのようなものが滲み出てくるのかもしれないな。
(100冊書き終えて最近ようやくそんな風に思えるようになってきました。)

密度の濃い言葉が詰まっていて、なかなか選びにくいけどメモ代わりに気になったところを少し抜き出しておく。

・輪郭には、相互にさまざまな関係の力が加わっている。そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力を「選択圧」という。
・壁の表面の光が人間に何らかの圧力を加えているとも考えられる。
・「張り合い」という言葉があるように、生きるための目的、あるいは「生きがい」ともいわれるものがその人間に加わる力であって、それを押し返す力によってバランスされている状態が張りであり、それによって表に現れる力の徴憑が、張りを視覚化しているのではないかと思った。
・ものがアイデアを語ってはいけない。デザインとは概念を見せるものではなく、まず道具に徹することである。徹することで浮かび上がる共感のもとは、人々の日常の記憶の断片なのである。
・気づいた人はちょっと微笑み、気づかなかった人は行為が止まらず流れていくということでいい。
・誰でも得ようとすれば得られる感覚が失われているんです。これは普通のよさの感触を忘れてしまったからなんです。忘れたのは、感触なんです。あるいは、若者は特に、その感触を味わったことがないということかもしれない。
・自己が汚れなく謙虚に道具に徹するという意気、技能の卓越さをもって自己の存在を消す努力の跡、完璧を試みて達成できなかった悲哀のような思いの痕跡が消えてしまったのだ。
・ものをたくさんもっていることはかっこわるい。
・デザインは、常にそこにある状況をよくしているだけであって、歴史的に、時系列的にどんどんよくなっていると思ったら大間違いです。・・・人間は、他人のためにやっているという感情をもってやると、汚れてしまいますよ。
・でもこのだらだらは、アイデアを熟させるためには大切なんです。だらだらしているときに冷めてしまうアイデアだったらやってもしょうがないし。
・デザインを勉強しているときは、デザインとはこうあるべきだみたいなものが存在していて、そこに導かれていくものなのかと思っていたけど、そんなものは何もなくて、確固たる美なんてものはどこにもないと思ったときにポーンと抜けて、それからは無理なくアイデアがどんどん出るようになりました。
・誰かがつくり育ててきた豊かさがいいからといって、そちらに移り住んでしまうのは身勝手な気がした。日本という生まれ育った土地で、そこのために仕事をするということ。自らがその条件の下で豊かになっていくことを考えるべきだと思っていた。
・「これだけあればいい」という思いは、生きる上での強さを与えてくれる。「欲しい」という感情は自分を不安にさせる。




DOCOMOMOフォーラム都城

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何度かお伝えした事のある都城市民会館ですがDOCOMOMOに選定されたのを機にシンポジウムが開かれるようです。

基調講話をDOCOMOMO幹事長の兼松さんが、特別ゲストとして、田島さん(建築家・前JIA九州支部長)、磯達雄さん(建築ジャ-ナリスト・「昭和モダン建築巡礼」著者)、五十嵐太郎さん(東北大学准教授・気鋭の論客である建築史家)、倉方俊輔さん(新進気鋭の建築史家・東京理科大学、明星大学講師)などが参加してくれる予定です。((都城から建築をこめて)より)

会館の見学会も予定されているようです。(そうならないことを祈りますが場合によっては内部が見られる最後の機会になるかもしれません。)
感心のある方は参加してみては。

追記.内部見学については市側と交渉中のようです。




B114 『クチコミのチカラ』

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書評/IT・Web


本が好き!より。

『マスメディアを使って大量の広告を投下する垂直型の』マーケティングから、ブログ記事の連鎖などのクチコミによるマーケティングへの変革を説く。

僕ら(例えば設計事務所)がマスメディアを使って大々的に広告を打つ企業などに対抗するには、限られた選択肢の中でうまく情報を伝える工夫をする意外にない。
方法は地域情報誌や専門誌、DMやブログを利用したりといろいろあるだろうが、決定的な力を持つのはやはりクチコミであるし、クチコミの連鎖をどうつくるかが生命線であるといっても良いかと思う。
そういうわけで飛びついたのが本書。

内容は良くまとまっていて、さまざまな例を基にクチコミマーケティングの勘所を説明していく。
その勘所は、一読してなるほど、その通りと思うものばかりだが、それらは逆に言うとマーケティングの素人でも、ネット上などでそういう事例に接している人であれば、じっくりと考えてまとめれば思い浮かぶものばかりで特別な驚きがないとも言える。

しかし、それはまさしくマーケティングの視点が企業から市民(消費者)へとシフトした結果なのかもしれない。(市民(消費者)がこれまでのマーケターの役割も果たすわけであるから、マーケティングそれ自体に一定の分かり安さが必要なのであろう。)

自分のこととして考えると、結局、一番は情報価値を高めることであり、正直・誠実であるということ。あとはエンタメ価値や世論の形成価値を付加していく。ということに行き着くのかなぁ。

『クチコミ・マーケティングの18の法則』なども載っているけれども、新しいマーケティングを単なるテクニックとして捉えないように注意する必要があるのではないだろうか。
その舞台がインターネットという変化の激しい場所であるし、クチコミを支えるインフルエンサーは情報感覚の鋭い人達に違いないから何度も同じテクニックは通用しないし飽きも早いと思われる。
おそらくマーケティング手法そのものが消費の対象となるだろうからかなりのクリエイティビティが必要だろう。
これは面白いけど大変だ。

さて本著。現時点でのクチコミ・マーケティングの概要に触れるには良著だと思います。本著で要点を掴んでそれをどういかすかはあなたの創造力しだい、と言ったところでしょうか。

気になるのはあのTUGBOATが手がけてる”DOCOMO2.0″のCM。
反発を買いそうなCMの出だしと言い、”DOCOMO2.0″ => “ドコモニイテンゼロ” => “ドコモに移転ゼロ”という自虐ネタと言い、ネタ度数がかなり高いのですが、それが偶然ではなく < ネット上のクチコミ・マーケティング> と < これでもかと言う王道のマスメディア利用> のコンビネーションによって最終的には最大の効果を出すというシナリオがあり、もしそれを実現させるとなればさすがと言うほかありません。
ほんとのところどうなんでしょう?




引き算的なるもの

引き算的なるものを思いつくまま挙げてみた。

– 原付を自転車に
– ルームランナーを万歩計に
– 自動車をバス・電車に
– マイカーをレンタカーに
– マイカーをシェアカーに
– エレベーター・エスカレーターを階段に
– レジ袋をマイバックに
– 外食を自炊に
– 炊飯器を圧力釜に
– 漬物を自家製に
– 扇風機を通り抜ける風に
– エアコンをパッシブソーラーに
– 3LDKをワンルームに
– 洋服をセルフリフォームに
– 治療医学を予防医学に
– バーバーをマイソーサーに

又、CheckPadでリストを共有してmeddo氏にも挙げてもらった。(勝手に使ったよ。)

– テレビを見ない。
– タバコを吸わない。
– 会社に行かない。
– 休みに何もしない。
– デザイナーズチェアーを空気イスに。
– エレキギターをエアーギターに。

”会社に行かない”なんてっ、と思ったあなた、ちょっと待って頂きたい。meddo氏に言葉を借りるなら”深読み革命”をするつもりでこの言葉に向き合うならば、この奥に隠されたさまざまな可能性が見えるでしょう。
他の項目についてもしかり。さすが深いなぁ~。

じっくり考えたらまだまだ出てくるでしょうが、とりあえずこんなところで。

P.S
他にはどんなのが思い浮かぶでしょう?




引き算の成果

例の勝負は今のところ決着つかず、というところです。
このままでは、夏が終わるころには筋肉ムキムキ夫婦になってるかもしれません。

足し算的な考え方、引き算的な考え方というのがあると思います。

例えば運動不足の上に偏った食事で体調がすぐれないときに、ジムに通い、薬やサプリメントを摂り、DVDを買うのは足し算的な考え方。

それに比べて、僕の挑戦(?)は引き算的だと思います。

原付を自転車に変えるだけで、健康を手に入れられる上、ガソリン代が毎日の野菜ジュースに変わり(1日のガソリン代がおよそ120円)、気力・体力、おまけに毎日80分のボーっとする時間ができるので知力もつきます。
足し算的な解決策に比べると、ジムに通ったりDVDに向かう費用や時間も節約できます。

対処療法的に足し算をしていくとどこまでも際限がありませんが、根本の原因を見直し引き算的に対処することで、足し算的な対処よりもより多くのものを得られるということは多々あると思います。
引き算の過程には知恵や工夫の入る余地もふんだんにあるので、考え方を変えることで多くの楽しみも得られます。(何よりも、引き算のほうがエレガント!)

ただ、資本主義の社会は消費を促そうと対処療法的、足し算的なものを、あたかもそうしなければ怠惰だといわんがばかりにしつこく、狡猾に勧めてきますが。

同じようなことが住まいにも言えると思います。
資本主義社会の囁きに少しの間耳をふさぎ、じっくりと引き算的に住まいを見つめてみた方が、自然とのつながりや安らぎといった、より多くのもの、当初の目的であったはずのものが得られるのではないでしょうか。

足し算をする前に、そもそも「何が目的」で「何が原因」かを少し立ち止まって見つめなおし、増やすのではなく減らすことはできないかを考えてみるのも楽しいものです。

(ちなみに体重はまだ引き算されてないようです・・・)




本を読もうぜ、ベイベー

薩摩川内市にある知性派たこ焼やさん(すばらしい!)からTB返しを頂いたのでさらにコメントしてみました。

短時間でさすがっ、ていう記事がアップされてました。
なにがさすがかって言うと、すかさず自分の言葉で意見が言えるところがさすが。(何が自分の意見かというのも難しいですが)レバレッジの記事がなるほどと思えます。
僕なんかはときどき人の言葉でごまかしてしまうところがあるので見習わなければ。

市場を透明な協調的談合主義化する、というのは理想としてはアリとは思うけど、じゃあだれがそれまでの既得権益を手放す? というところに現実感がないのも事実。特に鹿児島みたいなアンバランスなところに住んでるとどうしても・・・、ねぇ? 実際のところ、まだまだ人はビジョンよりも経済的利害(それも短期の)で動くのが大半ですから。

まさに”透明な協調的談合主義化”というあたりが僕の借り物のごまかしであったりするんだけど、上記引用はかなり実感として分かります。
ただ、”ビジョンよりも経済的利害”の中の”経済的利害”の意味合いだとかあり方をずらして”ビジョン≒個人的(共同体的)利害”という状態に近づけられる余地が鹿児島などの方が残されている気もするのです。(というか期待ですが・・・)

主流にはなれないかもしれないけれど、”なんかいいじゃん”というスタイルができるんじゃないかと。
さらに、そういうあり方のほうがグローバリズムの中では強度があるんではないかとも思います。(その強度を増すには『イチロー? 誰それ?』という価値観や感受性が必要でしょう)

せんだいの田舎で知性派のたこ焼屋というのはまさにこういう可能性に期待してるんじゃないかと密かに思ってますが、いかがでしょう。

『狭義の自己責任』っていうのは当然あると思います。
でも”自由が欲しくてフリーターになってみた”つもりが、”あれっ、別に自由なんかいらなかったぞ”って気づく事も往々にしてあると思う。そして、それが命取りになることも。
『自己責任』があるってことを知らずに『自己責任』に関わる選択をしてしまってることが問題なんだろうなぁ。

だから、借り物の言葉を声を大にして言います。
本を読もうぜ、ベイベー

個人的には『イチロー? 誰それ?』っていうのにすごい憧れるんですが、相方に”しっかりしてよ”と突っ込まれるのが怖くて僕にはなれないかも。弱いなぁ。




ドメイン取得!

屋号も変えて、しばらくはオノケンでいこうかという気になったので思い切ってドメインを取得しました。
取得したドメインはonoken-web.com です。

onoken.comのドメインが空いてなかったのでonoken-web.comとしました。
いくつかの候補の中で、これが語呂合わせが良いように思ったのは”OK Wave“に音が似てたからだと今気づきました。
ブックマーク・リンクされてる方はお手数ですがアドレス変更お願いします。
(ブログをFC2から移転するかどうかはあまりにも手間がかかるためどうしようか思案中です。)




B113 『天才をプロデュース?』

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書評/ルポルタージュ


「本がすき!」より。
オフィス北野の社長であり、長年、北野武(ビートたけし)と歩いてきた著者によるプロデュース論。いわゆるHOWTO本というよりは著者自身の体験をもとに仕事に関する考えを書いたもので、それをどう読んで生かすかは読者次第といった内容。

僕が中学生のころだったと思うが、たしか1代目そのまんま東が「たけしさんはどんなに酔っ払った時でも、周りのみんなが寝てしまった後、毎日欠かさず一人で机に向かって勉強をしていた。それを見てこの人は本当にすごい人だ。かなわないと思った。」というような話をしているのを聞いたことがある。
この本でも同じようなエピソードが紹介されていて思い出したのだが、この話は結構僕の心に残り続けていて、何かをなそうとしたとき苦労とかそういうことじゃなくて、当たり前のこととしての努力があるということを知ったのはそのときだし、漠然と”プロフェッショナル”という言葉に憧れを持つようになったのは今思えばこの話がきっかけだったのかもしれない。
それ以降、僕の中では今で言うとビートたけしよりも北野武という見方が強くなった気がする。

そんな北野武の近くでプロとしての姿勢を学んだ著者の話は示唆に富むものばかりだが、大切なのはつまるところ自分自身をプロデュースできるか、という点に尽きるのではないだろうか。

「天才とは99%の努力が問題ではなく、1%の才能のことを言うのだ」というたけしさんの言葉と同じで、やれば出来る、なんていう嘘をついちゃいけません。-中略ー本当にやっている人は、やれば出来るなんて思っていません。やっても出来ないことがこれだけあるということを知った上で、限られた時間の中で自分がやるべきこととは何かを知っています。それが客観性というものであり、それを分かっている人が天才と呼ばれるのでしょう。(あとがきにかえて~「やればできる」の嘘より)

北野武にしてもイチローにしても天才と呼ばれる人はプロに徹し、やるべきことを淡々とやる。自らをプロデュースする能力が人並みはずれているのだ。ナカタにしても自分の人生をプロデュースすることに徹し、あれほど才能に恵まれたサッカーを一つの手段でしかないと捉えられるのがすごい。

プロフェッショナルでありたい。そう思える良著でした。
(当然、北野武の最新作のプロモーションも兼ねてのこのタイミング、というのがしたたか。著者の狙い通り観たくなりました。)




建築基準法 改正

6月20日に改正建築基準法が施行されました。
耐震偽装問題の影響で立場が性善説から性悪説に変わった改正と言われ、建築士には相当の負荷がかかる厳しいものです。(以下愚痴です)

構造に関しては基準の見直し、中間検査の実施、ピアチェック(他の構造設計者が行政から委託を受けチェックを行う)の導入というのが大まかな変更で、ある意味仕方ないのかなというところもあります。
しかし、中間検査やピアチェックの手数料は上乗せされるので施主にはウン十万円の出費増になり、その分設計料などが圧迫されるのは必至。

また、確認申請の途中で図面の差し替えは認めない、不整合があるものは再度申請しなおさなければならない(当然手数料が新たに必要)ため、申請前に相当のチェック期間が必要。申請書類の内容が増え手間も増える。確認にかかる期間が長くなったのでその分設計期間が圧迫される。
といったことは、全て設計者(及び施主)に負荷がかかることです。現場を知らない人が作ってるとしか思えません。

改正に伴い、無駄と思われる大量の書類や法律を整理してくれればまだ納得もいったのですが、そういったことはありません。ただお役所が責任がとりたくはないためにひたすらに無駄な書類がふえるばかり。

雑用に忙殺され、本当に必要な検討の時間や費用が奪われるとすれば本末転倒ではないでしょうか。姉歯事件では設計サイドの悲惨な現状が事件の原因の一つとして浮き彫りになったんじゃなかったんですかね。

いやぁ今日は単なる愚痴です・・・建築基準法には納得のいかないものが他にもたくさんありますが・・・。

こんな横暴な法律がほんとうに施行されるのかちょっと信じられなかったのですが、どうも本当に施行されたようです。それにしても6月20日施行の法律の最終内容が公表されたのが6月19日の官報というのはめちゃくちゃ過ぎませんかねぇ。

とにかく、施行されたからにはそれに対応するしかありません。大量の資料に目を通すしか完全に理解することはできそうにないなぁ。『建築知識』ではやく特集してくれ~。

(ちなみに国土交通省の関連ページはここ。ここにたどり着くのも大変で、行政のサイトはどこも、どれが重要で何が最新の情報なのかがさっぱり分かりません。相応のコストをかけて作ってるだろうに)