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新たにシステムを始動させる B254 『メタアーキテクト──次世代のための建築』(秋吉浩気)

秋吉浩気 (著)
スペルプラーツ (2022/2/28)

『建築家の解体 Reinventing Architects』を読んで興味を持ったので購入。

『建築家の解体』は著者が肥やしとしたであろう先駆者へのインタビューであったが、本書はその肥やしをもとに、著者が日本において展開してきたことの理論と実践の記録である。

理論からビジョンと実践へ

それぞれの理論は、それをとことん深掘りすることよりは、広範な興味を関連付け、一つのビジョンへと取りまとめたことに価値があるように感じた。
そのビジョンを具体的な実践へと結びつけていくことで、それら関係性を絶えず磨き、変化させていっていること、現在進行系のはたらきの中においていることに、著者の起業家としての本領が発揮されている。

それぞれの論については多くの人が感じていたり議論されていることがベースとなっており、ここ最近このブログで取り上げた問題意識と重なる部分も多い。
それが、かたち・意匠の問題だけでなく、実践の問題としてひとつの流れに位置づけられていることに本書の意義があると思うけれども、ここでは本書でも言及されているオートポイエーシスという視点から考えてみたい。

3つのオートポイエーシスシステム

オートポイエーシスは、組織(かたち)ではなく、システム(はたらき)に関する論である。

”この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)”
物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。
”簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)”(オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

視点によっていくつも抜き出すことは可能かとおもうけれども、本書の中から3つのオートポイエーシス的なシステムを取り上げてみる。

1.建築物に組み込まれたオートポイエーシスシステム
この本の最後で、「自己増殖する、オートポイエーシスとしての建築(p.185)」が紹介されているが、(藤村氏がツイッターで軽く触れていたけれども)そういう構想自体は著者でなくてもできるもので真新しい思想ではない。
しかし、これまでの自己増殖的な建築のイメージにはあまりなかった、自らを増殖させる生産システムが建築に組み込まれているところや、生産とともにデータベース化されることで生産システムの発展に追随して建築も発展できるかもしれないところに可能性を感じる。

建築という装飾的な物語を物理的に構築することで、それを体験した次の世代に意思が託され、プロジェクトが継続していく。次の世代の人間は、そこまでに蓄積されたシステムを継承し、次なる反復(イテレーション)を起こし、そのまた次の世代にバトンは渡される。建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館であり、建築とはそれを次世代に受け渡すためのアーキテクチャ(システム)なのだ。(p.188)

この建築を通じて意思が世代を超えて引き渡されるということ、「建築物は時代の意思を反映した物語(ナラティブ)の博物館」である、ということは、建築が時代を超えて共有可能なメディアであり、さまざまな出会いを支える特性を持つということと重なる。

建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 一 出会いについて)

建築がものとしてそこにあることと、それを取り巻くはたらきが生き続けること、建築が生き続けるにはこのどちらもが必要だけれども、ビルドデザインの思想はこれを支えるものになるかもしれない。

2.分散化した生産ネットワークとしてのオートポイエーシスシステム
まれびとの家は半径10kn圏内で、木材の伐採から製材・加工、組立までが完結しているという。

工業化時代におけるプレファブリケーションは、物の移動が地球規模で行われる中央集権型の工業化を背景にしていた。一方、情報化を背景とする分散型のデジタルファブリケーションでは物質の輸送が不要となり、データの輸送だけで生産が完結する。つまり、デジタルヴァナキュラーの時代においては、グローバルに展開したデータを活用しつつ、身近で調達できる地域固有の素材を用いて建築をつくるようになる。(p.80)

日本の森林は険しい立地が多く、山主の多くが小規模に分散している状況であり、大規模化によるスケールメリットを追いすぎないフットワークの軽い事業形態や、伐採から利用・商品化へのコンパクトな流れをつくることも必要だろう。分散化した小さな圏域で完結し、自走するような生産ネットワークシステムを駆動するために、デジタルファブリケーションは大きな可能性を秘めているのかもしれない。

3.ビルドデザインシステムとしてのオートポイエーシスシステム
本書におけるオートポイエーシスシステムのはたらきを考えた時、おそらくこれが本命だと思う。

建築あるいは設計という行為は、建築(建築単体ではなく、建築という分野そのもの)というオートポイエーシス・システムのはたらきを駆動させるための一つの構成素であると言えるかもしれない。建築というシステムを駆動することで、それ以外の施主や社会といったものとカップリングによる相互影響関係をもつことができる。そこでは、建築はあくまで自律的システムであり、閉じたものである。

その建築システム自体は、価値あるもので停止すべきではないと思うけれども、そこに著者も感じているような閉鎖性があるのも確かであろうし、そこに何かしら無力感のようなものを感じる人も多いのではないだろうか。(といっても建築システムに意味がないとは思わない。建築をオートポイエーシス、一つの生命のように考えると、オートポイエーシスである以上、入力も出力もない閉じた自律的システムであり、それ以外のシステムはあくまで環境でしかないといえる。しかし、その他の(動植物に限らず学問や美術・文化なども含めた)あらゆるシステムと同様に存在そのもの、もしくはそれによって多様性が担保されることに意味があるように思う。)

それに対し、著者はアーキテクトとアントレプレナーシップを掛け合わせることで、日本においてビルドデザインの新しいシステムを始動させ、それによって、著者が民主化というような、建築家以外の人に創作の可能性を開き、システムの構成素となる、つまり、この新しいシステムを駆動させ前進させる主体となる道を開いた。

メタアーキテクトとして(建築物ではなく)新たなるシステムを始動させ、それが、様々な人の手によって駆動され続けることで、社会・産業・経済・流通などと新しいカップリングの関係を生み出す、つまり、既存のシステムでは起こり得なかったかたちで相互に影響を与え合うような関係が生まれ、新しい可能性が開かれる。それができるとすれば、それはエキサイティングなことに違いない。

藤本さんは原初的な建築(Building)を提示していたが、僕がこの本で提示したかったのは原初的な建設(Build)の方だ。建てるという古代の行為に回帰することで、建築の新たな可能性を見出し、建築と社会の再接続を行いたい。このビジョンを動かしているのは、社会を変えるのは作品ではなく行動であるという、確固たる信念だ。(p.190)

オートポイエーシスシステムであることの真髄は、建築ではなく建設、作品ではなく行動である、という、この部分にあるように思うし、それを実践によって示していることに本書の意義があるように思う。

自分は何ができるか

さて、ここで自分のことに引き寄せてみたい。

前著でも書いたけれども、自分にはそんなにだいそれたことはできないように思う。そんな中、自分は何ができるだろうか。
言い換えると、自分には何か新しいシステムを始動させることができるだろうか。

これまでこのブログで考えてきたのは、どんな建築物をつくるか、というよりはどうつくるか、もしくはどういうシステムを駆動させれば良いものができるか、ということだった。
そういう意味では、ひどくこじんまりとしたものであるけれども、何か新しいシステムを始動させたいと考えつづけてきたと言えなくもないし、それなりに掴めてきている部分もある。そこは可能性を信じて進んでいきたい。

著者が「おわりに」で、社会や業界を変えたいと思う理由は、自分が「生きる」ためだと書いている。
同様に、自分には自分にしかできないやりかたで「生きる」道があるはずである。

ただ、なんとなくではあるけれども、自分が新しいシステムの始動させるために今必要としているのは、建築とは直接関係ないところでのちょっとした生活の変化じゃないだろうか、と感じているところである。

そのためには、やはり何かしらの行動は必要になってくるのかもしれない。




新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にするかもしれない B253『大栗先生の超弦理論入門』(大栗 博司)

大栗 博司 (著)
講談社 (2013/8/21)

『点・線・面(隈 研吾)』で量子力学や超弦理論が引き合いに出されていたので、おおまかなイメージだけでも掴めたらと思い読んでみた。
(図書館で関連図書を探して借りたけれども、10年ほど前の著書なので、理論としてはもっと進んでるかもしれない。)

理論物理学と数学のダイナミックな関係

本書の表紙は、書名がブルーバックス創刊50年にして初めての「縦書き」になっています。原稿の完成後、「超弦理論のような物理学の最先端でも、日本語の力で、ここまで深く解説できるということを象徴したい」という編集部の意向でこうなりました。(p.276)

読み始めるまでは、理解力や前提知識の問題で、まったく意味が分からないまま読み終わることも想定していた。
だけど、具体的な中身はさっぱり理解できないとしても、どういうふうに理論が生まれ改善されてきたか、という流れがダイナミックに描かれていて、読み物としてとてもおもしろく読めたし、伝えたいという著者の意気込みを強く感じた。

いくつもの先行理論、実験結果などから、理論的な弱点が見つかると、やがて、それを補う仮説が考え出され、それにともなって様々な可能性が発見される。
そういうことの積み重ねで新しい領域と可能性が開かれていくと同時に、それまでバラバラだった理論が一つの理論につながっていく流れはとてもエキサイティングである。そして、それを強力に押し進めるのは数学の力のようである。
いったい、この人たちの想像力はいったいどうなってるんだろう、と思えるような世界が数学的に記述される。そのことには驚かされるし、哲学と同様、私たちが普段見ている世界が、どれだけ認識のフレームに規定されているか、ということを強く感じさせられる。

空間は幻想である?

ある次元が、異なる次元に変化する現象があったり、ある次元で起きていることが、見方によって異なる次元で起きているように見えたりするのでは、空間という概念がはたして本質的なものなのかどうか、疑わしくなってきます。温度が分子の運動から現れるものにすぎないように、空間というものも何かより根源的なものから現れる二次的な概念、つまりは幻想に過ぎないのではないか。超弦理論はそういっているのです。(p.7)

超弦理論は様々な物理理論(重力や量子力学)を統一的に結びつける、現在唯一の理論であるが、検証によって自然法則として確立しているわけではないそうだ。その超弦理論によると、空間というものは幻想にすぎないようだ。

統一化が進んだ理論では、例えば、重力を含む9次元空間の超弦理論と、重力を含まない3次元空間の場の量子論とが、同じ計算結果を導き出すそうだし、9次元が10次元になったり、32次元が矛盾を解決する鍵になったり、ある次元が小さな次元にコンパクト化されたりする。

どうやら、次元というものはより根源的な「何か」の現れ方にすぎないらしい。3次元空間という絶対的なものがある、というよりは、根源的な「何か」が3次元的に現れているものを私たちが認識している、もしくは私たちは3次元的にしか認識することができない、ということなのだろうか。

アインシュタインの相対性理論も理解できていないけれども、高校物理の範囲の知識でなんとなくイメージしたのは、

ある移動している点があるとする。その点の位置を時間で微分すると速度というものが現れる。さらに微分するとそこに加速度、つまり力が現れる。
逆に移動する点は積分すると線になり、さらに積分すると、面、立体、、、となる。
立体、面、線、点、位置、速度、加速度・力などは、同じ世界の現れ方の違いにすぎず、同じものでも、速度までの現れしかない次元に住んでいる住民は、私たちとは全く違う世界を認識しているだろうし、同様に、5次元の現れの世界の住人も全く違う世界を認識するに違いない。

みたいなイメージだ。(そういえば、昔『2次元より平らな世界 ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』というのを読んだのを思い出した。)

「時間も幻想か」「なぜ時間に向きがあるのか」という話もでてきたけれども、もしかしたら、時間も次元の一つとして考えた時、切り取り方によっては、時間の向きは何か力や場のようなものとして現れるのかもしれない。と思ったりもした。

建築の見方がどう変わるか

分かったような分からないような読後感だけども、とりあえずは上出来なのかもしれない。というかほとんど理解できないだろうと思っていたので期待以上だった。

さて、ではそれによって建築の見方がどう変わるか、というのが一番の関心事である。

今見ている世界が、ある面で切り取られた一つの現われにすぎないとするならば、もとの「根源的な何か」はもっと多様で豊かなものを含んでいるに違いない。
時間軸も含めたその多様さ・豊かさを、何らかの形で少しでも感じられるように建築に表現できたとするならば、ニュートン的な絶対空間・絶対時間の認識から生まれるものとは異なるイメージを描けるようになるかもしれない。
そう考えると、隈研吾が点・線・面という言葉から考えようとしていることが少し理解できそうな気がするし、ヴォリュームであっても、絶対空間・絶対時間的なものから生まれるものとは少し違って見える。

例えば、よく整理された幾何学的なヴォリュームあったとする。それは、3次元的に見ると、単に整理されたものにすぎないが、もっと複雑な3次元を超えた根本的な何かから、3次元で微分的に切り出された現れとしてのヴォリュームだと考えると、それはもっと何か奇跡的な秩序のように思えてくる。(それが、力強い幾何学的な建築に感じる魅力の源泉だ、というのはありえない話だろうか。)

その秘密はやはり、その点が、線でもあり面でもありうる、という可能性の中に生きていることの方にあるのではないか。
その背後にある重層的な世界の危うさ・不安定さが豊かさの源泉としてあるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 重層的な世界観が描く豊かさ B250 『点・線・面』(隈 研吾))

とはいえ、こんなことを考えることに実際なんの意味があるのか。単に理屈をこねくり回しているだけで、現実にはろくな影響はないんじゃないか。

そういう疑問が浮かぶかもしれない。

もしかしたらそのとおりかもしれない。
だけど、新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にする、ということを信じて積み重ねた先に、自由な建築のようなものがひょこっと顔を出すことを私は期待したいのである。(そして、なかなか顔を出してはくれないんだけども・・・)




全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
講談社 (2022/3/16)

デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

薄く重ね塗りするように

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

秩序と逸脱と解像度

おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
(特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

今後の目標

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

と、前から関心のあった、

『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)

緒方正人 (著), 辻信一 (著, 編集)
素敬 SOKEIパブリッシング (2020/3/31)

あるきっかけで水俣の仕事に関わったのと、以前読んだ本で著者に興味をもったので読んでみた。

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

父親を水俣病で亡くし、その後チッソや行政に対する補償運動にも関わってきた緒方正人の語りを、辻信一がまとめたもの。
一度1996年に出版されたが、2020年に増補、熟成版として再刊行された。

緒方氏はやがて『チッソは私であった』と運動から身を引き、制度に組み込まれた解決を拒む。
漁師であった父親の話から、運動から身を引くようになるまでの話と、その後考え続けてきたこと。様々なことが語られるが、その中心には父親の残した言葉や行動の記憶があり、漁師として自然とともに生き、体感してきたことがある。
環境やサスティナブルという言葉ではこぼれ落ちてしまうような、自然とともに生きることの力強さと覚悟、知恵があり、それらを私たちが失いつつあることを突き付けられる。

それを最も強く感じたのは、

俺は最近思うんですが、水俣病事件には三つの特徴がある。この三つを指摘するだけで十分。他にはもう何も言う必要はないんじゃないか、という気がしています。
ひとつは、いわゆる「奇病騒ぎ」が起き、世間にパニックが起きてイヲが売れんようになっても、我々漁民たちはイヲを食い続けた、ということ。ふたつめに、最初の子や二番目の子が胎児性水俣病であっても、三番目、四番目を産み続け、育て続けたこと。授かるいのちはすべて受け続けたということ。そして三つ目に、毒を食わされ、傷つけられ、殺され続けたけれども、こちらからは誰ひとり殺さなかった、ということ。水俣病事件について俺が自信を持って、誇りをもって言えることはこの三つだけです。
この三つはすべて、いのちに関わることです。猫が次々と死に、鳥が死に、人が死んでいき、その原因として魚が疑われても、漁村の人々は魚を食べることをやめなかった。(中略)俺は思うんですよ。人間以外の生きものを疑う気持ちが漁師にはなかったんじゃないか。いのちというものを疑うということがなかったち思う。だからこそ、そのいのちをいただくことへの感謝もまたゆるぎなくあった。エビスさんに、海の神さんにもらったという感謝の気持ち。(p.225)

という部分。
今なら、自己責任として逆に批判を浴びかねない(実際そう感じる人も多いだろう)ことを「誇り」をもって語っている。
その背後にある壮絶な苦悩は想像もできないけれども、自然とともに生きることの覚悟、人間以外の生きものを、社会の問題・損得勘定の問題と切り分けて考えてしまうことへの怖れ、というものが自分含めてほとんど失われてしまっているのだと突き付けられる。

そういうものは、今まで自然とともに生きてきた人間たちが、持続可能という言葉を使わずとも築いてきた知恵だと思うけれども、そういうものは僅かな時間で資本と科学の物語に塗り替えられてしまっている。

個人的には、資本と科学の物語に乗らないものが力を持つことが難しくなっているので、こういうことばかりを言ってても、とは思う。(間違っても緒方さんが、という意味ではない。)
しかし、環境問題を突き詰めると、根本的な思想や世界の認識の問題に突き当たることは間違いない。

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

そろそろモートンもちゃんと読んでみよう。

▲エコパークみなまたの埋立地の先端には、恋路島に向かって緒方さんたちが彫った野仏が無言の祈りを捧げている




建築が築く新しい関係性の芽 B249 『建築家の解体 Reinventing Architects』(秋吉浩気)

秋吉浩気(著)
VUILD BOOKS(2022/02/16)

興味はあったのだけど、twitterで予約受付開始のアナウンスがあってから、あっという間に限定1000部が完売となった。
購入を逃したと思っていたところ、たまたまtwitterを開いた時に1件キャンセルが出たとの情報を受け、慌てて購入した。
なので、おそらく滑り込みでの1000人目の購入者になったんじゃないだろうか。(残念ながら巻末のナンバリングは1000ではなかった。)

建築が築く新しい関係性の芽

たとえば、初期のデジタル建築家たちは、最終的なゴールとして、連続した複雑な形状にこだわっていました。(中略)そこにはなぜ曲面や複雑な形状を必要としているのか、その理由がなかったのです。私たちは、デジタル技術をつかって何ができるのか、これまでと何が異なるのかを問いたかった。(Giils Restin p.27)

何年か前までは、人びとはまだ、美しいファサードや建物の空間体験にしか注目してきませんでした。しかしいま、そうした建築の表現と本質的な部分との間に、より意味のある関係が築かれています。(Philip Yuan p.221)

コンピューターデザイン/デジタル建築と聞くと、うねうねとした複雑な形状のものをイメージしていたけれども、デジタルが生産とアントレプレナーシップとつながることで、新たな状況が生まれている。

この本は、そういう新しい状況を切り開いている30代若手建築家にインタビューしたものであるが、そこでは例えば、民主化、エコロジー、労働、ポスト資本主義、ローカリティと文化、技術、美学、経営など、さまざまなテーマとの接点、建築と社会との新しい関係性が築かれつつあることが分かる。

著者が、「おわりに」で

ぼくが影響を受けた人たちを紹介することで、さらに彼ら/彼女らに影響を受ける人が増えると、日本の建築業界も変わるのではないか-こうした最先端の文脈がどう共有できるかを考えたかった。(p.226)

と書いているが、まずは著者自身がここで紹介されている人たちのやろうとしていることを、日本で率先して実践していることに敬意を払いたい。

建築家の解体

磯崎新の『建築の解体』になぞらえて『建築家の解体』というタイトルであるが、建築家が解体されることによって私たちは何から開放されるだろうか。
個人的には建築家の解体というよりは、建築家の拡張というイメージを持ったけれども、解体という言葉で著者は何を伝えようとしているのだろうか。

建築の解体以降、建築家という主体による表現としての建築を解体し、表現を主体から開放することが試みられたように思うが、それはあくまで表現のレベルの話であり、建築家が設計を行い、施工者がそれを実現するという形式は崩れていない。
しかし、デジタルが生産の分野にも喰い込んでいくことによって、その形式が崩れつつあるというのが大きな流れかと思う。

設計という行為を民主化する、というのが一つの流れであり、著者の目指している方向のように感じたけれども、その一方で、建築家が解体された後に、どのように建築が可能か、という問いが生まれる。

しかし重要なのは、建築そのものをあきらめないことです。建築を考えずに技術や製品を開発することには危険が伴います。技術を開発しながらも、展覧会をおこない、自分の作品について書き、スペキュレートする-つまりは、建築家でありつづけることが大切なのです。(Giils Restin p.56)

例えば、レツィンは建築家でありつづけることが大切であるといい、ディスクリート(離散的)建築の美学のようなものの可能性をみているけれども、おそらく、各々の実践と並行して解体された建築家像を新たに組み直す必要があるのだろうし、例えばシステムが一般の人々を建築家とするような、建築家なしの建築家、とでも言えるというような方向性も進んでいくように思う。
そういう新しい建築家像を切り開いていけるという意味では、とてもエキサイティングな時代だ。

私自身は、今から起業して、デジタルと生産を結びつけるようなアクションをとれるか、と言われれば、正直そういう熱量を持つことは難しいように思う。

ただ、デジタルが、建築の解体以降続けられてきた建築家という主体から建築を開放する試みをより促進させるものだとすると、その可能性を享受できるようなアンテナは張っておきたいし、一プレイヤーとしてそういう流れを後押ししながら活用することは模索していきたい。

日和った結論ではあるけれども、著者や若い人にはその道をどんどん切り開いていってくれることを期待したい。

実践編と呼べそうな『メタアーキテクト』も読んでみよう。

(建築情報学会も入会しながらほとんど追えていないので、今年度はもう少し時間的余裕を確保したいです・・・)




父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

森田真生 (著)
集英社 (2021/9/24)

前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

エコロジーについて

エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

(タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

生活と言葉と思考

それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
(中略)
モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
そんな気がしてきた。
それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

父から子に贈るエコロジー

彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。




知覚のよろこびと、場所への信頼 B247 『あらゆるところに同時にいる:アフォーダンスの幾何学』(佐々木正人)

佐々木 正人 (著)
学芸みらい社 (2020/3/24)

ここのところ、移動時間などに何冊も読みためていたのだけど、忙しすぎてなかなかこちらに書く余裕がなかった。
ようやく、少し落ち着いてきたので順番に書いていきたいと思う。

あらゆるところに同時にいる

久々に佐々木正人の著作を読んだ。

本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once,Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の後半に二度書いたフレーズである。
何を意味しているかわからなくて、気になり、この本を繰り返し読んだ。かなりして、この一文は、彼がたどり着いた思想を、いっきょに示していることが分かった。 (p.6)

著者はこのフレーズが示しているであろうことを、本書を通じてじっくりと浮かび上がらせようとする。

この「二度書いた」とはおそらく下記の2つのことであろう。(『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る(THE ECOLOGICAL APPROACH TO VISUAL PERCEPTION)』より)

十分に広がった経路群で十分に長い時間にわたって、移動する観察点で外界を見ることによって初めて、あらゆる場所に同時にいられるかのように、すべての観察点で外界を知覚していることになる。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.211)

個体は環境に定位する。それは、地形の鳥瞰図をもつというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということである。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.214)

この部分は私も気になり、以前、考えをまとめる際に引用している。

また、探索的移動によって動物は環境に定位できるという。それは、地形の鳥瞰図を意識の中に獲得するというよりは、環境内の不変項の抽出を通じて「あらゆる場所に同時にいる」ような知覚を得ることである。(その中で、現時点で見えるものは自己を特定する。)(おいしい移動 ~あらゆる場所に同時にいる|オノケン(太田則宏)|note)

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。 この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-五 移動―私のいる空間が私である)

「あらゆるところに同時にいる」

これは、ギブソンの思想を表すとともに、自分が建築を考える上での原点とも言えそうである。

自分が20代の頃に書いたメモのようなものを見ると、「私のいる空間が私である」「廻遊性」「敷地」「想像力」など、「あらゆるところに同時にいる」ような感覚に対する意識が強かったことが分かる。

知覚のよろこびと、場所への信頼

あらゆるところに同時にいること、言い換えると環境への定位には、知覚することのよろこびと、場所に対する信頼がある。

このことと、私がスキップフロアを多用することや、私自身が極度の方向音痴であることとはおそらく関係がある。

思えば私の建築への入口は、知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感から始まっている。

その違和感から抜け出そうとした先で、ギブソンの「あらゆるところに同時にいる」ことを示す理論に偶然出会ったのだ。

知覚はタイムレス

この本の中で一つ、ピンとこないところがあった。

視覚は、一つの種類の持続ではない。見ることは、見ることがある限り、見ているあいだ続いている。視覚には時間がない。タイムレスである。(p.34)

ここでいうタイムレスとはどういうことだろうか。

古典的な視覚論は、目で捉えた光の刺激を脳が一つの像として処理する、というもので、一瞬の像の連続と考える。そこには過去・現在・未来と流れる時間がある。

しかし、定位の感覚はこの一瞬の像のみによってその都度生まれるものではなく、移動を伴う絶え間ない探索と並走する形で生じる。
目の前に過去・現在・未来と流れる時間のうちから切り取られた一瞬の像があるというよりは、時間を超え、場所・空間そのものと結びついた感覚として環境への定位があるのではないだろうか。

そして、時間を超え、場所・空間そのものと結びついている、まさにそのことによって、場所に対する信頼と、それをベースとした知覚することのよろこびが生まれるのではないか。

そうだとすると、「知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感」から抜け出すためのヒントは、「あらゆるところに同時にいる」こと、すなわち環境への定位にある。

そして、そのために、環境の一つである建築を意味や価値との出会い、アフォーダンスに満ちた場にしよう、言い換えると定位するためのとっかかりとなる情報に満ちた場にしようというのは、私の建築への入口から考えると、たどり着くべくしてたどり着いたように思う。それは簡単に言うと、近代化・工業化を目指す社会がそういうとっかかりを、やっきになって消し去ろうとしてきたことへの反省もしくは抵抗なのである。




本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)

田中 淳夫 (著)
新泉社 (2019/8/6)

日本の森林面積は日本の国土の67%、約3分の2が森林である。(H29年)
林業の持つ可能性は計り知れないものがあるに違いない。と思うけれども、どうやら問題は山積みらしい。
建築の業界にいながらも、林業のことはあまり分からない。ということで読んでみた。

絶望の林業と希望の林業

補助金漬けで進むべき道が見えない業界、危険な労働環境、持続可能な思想とシステムの不在、木を知らない山主と険しい地形、価格を下げ続ける木材利用。
噛み合わない林業の状況を描いているが、『絶望の林業』というタイトルとは裏腹に最後の章は「希望の林業」で締められる。
著者が描きたいのはおそらく希望の方なのだろうと思う。

ここまで現代の日本林業が絶望的な状況にあることを記してきた。それは目の前の森が荒れているとか、人手が足りていないから作業が行えないとか・・・・・そういった次元ではない。もっと、根本的に・構造的に産業としての体制が整っておらず、自然の摂理にも従わず、政策が誤った方向に進んでいるのではないか、という危惧から感じた状況である(p.250)

著者の描く「理想の林業」は現在の「絶望の林業」の裏返しである。目指すべきは「利益を生み、それが森に再投資されるような持続性をどう手に入れるか」につきると思うが、それのベースとなるビジョンや信念の不在こそが一番の問題だと感じた。それは、持続性そのものに対する感性を失ってきた結果であり、何かもっと本質的なところまで遡って再確認していく必要があるのではないだろうか。

(ちなみに、『森林で日本は蘇る~林業の瓦解を食い止めよ』も合わせて読んでみたが、こちらは「日本は蘇る」というタイトルとは逆に、絶望成分がやや多めに感じた。
 どちらの本も林業に対する強い思いを感じたけれども、それゆえに無念さも感じる。)

白井 裕子 (著)
新潮社 (2021/6/17)

身近に感じることの必要性

といっても、林業のことがよく分かったかというと、ますます分からなくなった気がする。

自然が相手であり、問題は、日常生活・日々の経済活動より長いスパンでの思考を必要とする根本的な世界観に関わるものである。
経験に基づかない数冊の読書だけではやはり理解に限界がある。

仕事の中でももっと関わる機会をつくる必要があるように思ったし、国レベルでの先行きを考えるよりはまず、自分が関われるような小さな持続性を考えることから始める必要があるように思った。

国レベルで持続的なビジョンとそれに基づく政策を示すことは間違いなく重要だと思う。けれどもその前に、林業という枠から外れても、小さな変化の積み重ねの中から森(自然)の可能性を再発見しながら、本質的なところへ遡っていく感性を築いていくことが必要ではないだろうか。

数学者が生活の変化を楽しむように




宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)

藻谷 浩介 (著), NHK広島取材班 (著)
KADOKAWA/角川書店 (2013/7/10)

10年近くも前の本であるが、これまでの流れからようやく手にとって読んでみた。
あまりじっくり書く時間がないけど、先に進みたいので簡単にでも書いておきたい。

スイッチを入れる

里山資本主義に関する部分を引用すると、

里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。(p.102)

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決定するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。(中略)森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。(p.121)

とある。
この、「マネー資本主義」に対するサブシステム的な距離感が共感を得やすかったのかもしれない。

さまざまなアイデアで、地域の課題をつなぎ合わせて解決するような仕組みをつくる「熊原さん」を紹介する際、この仕組みを「装置」と表現した場所があったが、その時、頭の中で、ピタゴラスイッチのフィニッシュの時の音楽が流れた。
この本で紹介される事例は、地域の中に眠っている人や自然などをつなぎ合わせる回路を発明することで、もともとあった価値を顕在化するようなものが多く、それはスイッチを入れるようなこと近いように感じた。
停まっていた時間を、常識を少しずらしてつなぎ合わせることで再び動き出させる〇〇スイッチ。
そんなイメージが頭に浮かんだけれども、まだぼんやりしたものなのでとりあえずメモ的に残しておこうと思う。

見渡せば宝の山に見えてくるが

もう一回生活を見直してみる、そういう時代なんじゃないかと思います。すごく今みんな不安に生きている。もっと恵まれた自然を活用というか、目を向けていけば、もっともっと資源がある、宝があるんじゃないかと思います。(p.53)

この本で紹介されているオーストリアの林業や、岡山県の製材所の事例、前回の里山の暮らしを読んだあとに、鹿児島市から離れて山に囲まれた地域を移動すると、周りの景色が宝の山のように見えてくる。ここにどれだけの資源・可能性があるんだろうか。

しかし、実際には自分にはそれを活かす知恵も技術もつながりも、見定める目も持ち合わせていないことにすぐに気づく。
田舎で育ち、多少はそういうことに触れながら育ったとはいえ、今はそこから切り離されて手元に何も残していないような生活にどっぷり浸かっているし、ものをつくる仕事でありながら、モニターの前で過ごしている時間のほうが多い。

これでは、宝の山に見える絵をただ眺めているようなもので、そこからリアルな宝を見つけ出す解像度は得られない。

さてさて。続編も買っているので読んでみたいけれども、リアルさを手元に引き寄せることも考えないといけないのかもなぁ。
そのためにはもう少し時間に余裕を持たなければ。




物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)

高野 雅夫 (著)
ヘウレーカ (2021/8/20)

「人新世の資本論」を三分の一ほど読んだ頃、これは里山資本主義的な話につながるのでは?という気がした。
と言っても、藻谷浩介の「里山資本主義」は「流行ってるな」と横目で見ていただけで未読だったので、これは読むタイミングかなと思い購入することにした。
その際、関連書で比較的新しいものも合わせて読んでみようと思い里山で検索して引っかかったこちらも購入。

ただ、タイトルの「じねん」という音のイメージから、求めているような内容とは違うんじゃ、と少し迷った末の、一つの掛けとしての購入だった。

結果として購入した価値があったと思うので、思ったところを書いておきたい。

「自然(じねん)」について

著者は大学で持続可能な中山間地域づくりをテーマに研究しながら、自らも岐阜県の里山に移り住んだ方で、本書は、里山の成り立ちから始まる。

著者の定義では、里山は「人間が草を刈ったり木を伐ったりして自然に介入することによって成立した生態系とその景観」のことを指す。

自然(しぜん)はnatureの訳語として当てられたものだが、もともとはじねんと読み、「自ら然るべきようになる」世界を表す言葉だったそうだ。
里山には昔の人がそうしてきたように、自ら然るべきようになるような生き方の可能性が残されている、ということだろう。

この本を通して感じたことだけど、「自ら然るべきようになる」世界観における「今」は世代・時間を超えた連綿と続くつながりの中での今であり、「私」は個を超えたつながりの中での私である。
翻って、現代の私たちの「今」や「私」は、分断された点としてのそれらのみが視野を覆っている。
そこから大きな歪みが生じてしまっているように感じた。

(ただ、購入する時に躊躇してしまったように、じねんの音は、ぼうぼうと髭をはやした特別な人がやってるような匂いを感じてしまったので、個人的には使い方の難しい言葉のように思っている。理念を伝えつつも、特別なこと、という匂いはできるだけ消すような迂回、もしくはそれを相殺するようなカウンターがどこかで必要な気がする。これは難しいところで単なる個人の印象の問題かもしれないけれども。)

「生国」「村」「日本国」3つのレイヤー

私たちが生きているのは、3つのレイヤー、上から「日本国」(国家社会)、「村」(地域コミュニティ)、「生国(しょうごく)」にまたがっている。私たちが当面する課題は「日本国」の中だけで生きる暮らしから抜け出て、「村」を経由して「生国」に還るということだ。(p.201)

生国という言葉は水俣病に関する運動をされていた緒方正人氏が苦悩の末にたどり着いた言葉で命のつながりの中で生きる、というようなことだと思う。(これについては別の機会に書きたい)

先のじねんの話と同様に、都市部では「日本国」のレイヤーに覆い尽くされてしまっていて、「生国」を感じながら生きることが難しくなっている。

私は子供時代を奈良の田舎と屋久島で過ごしたけれども、あの時に感じていた自然とのつながりやそれが失われていくことに対する感情が、今はかなり鈍くなってしまっていることを感じる。
引っ越しを繰り返してきたことや子供時代をここで過ごしていないことも関係あると思うけれども、自分が住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっていることと、その場所がどういうレイヤーにあるかということは関連しているように思う。

父は、奈良で電子部品をつくる会社でサラリーマンをしていたけれども、私が中1の時に突然会社を辞め、家族で屋久島に移住して農業を始めた。
思えばこれも、生きるレイヤーを変えたかったのかもしれない。(そして、今、自分がその時の父の年齢に近い。)

子どもたちへ

先程、住んでいるところに対する愛着を感じにくくなってしまっている、と書いたけれども、子どもたちはどうだろうか。
3つのレイヤーとそれぞれ関わりが持てているだろうか。一つの価値観での振る舞いばかりを押し付けてしまっていないだろうか。
彼らは将来ここを故郷と感じられるだろうか。(屋久島を故郷のように感じて欲しいとも思いながら、コロナの関係で長く連れて帰ってあげられていない。)

そう考えると少し心もとない。

森のようちえんを例に出した後に、著者は次のように書いている。

そのようにして育った子どもが中学、高校になると受験競争に巻き込まれていくのが私はなんとももったいないと思う。森のようちえんの中学・高校版を作りたい。自分が興味のあることについて地域の大人たちから専門的なことを学び、スキルを身につけ、地域の中で一人前として働き暮らすことができるようになるための学びの場だ。学問に目覚めれば大学に行けばよいが、そうでなければ、一度は外に出て世界を旅してくる。そのうえで地域の中で働き暮らし、地域を支える人になる。私はそういうライフコースが、田舎で生まれ育った子どもたちの普通の姿になる日を夢みている。(p.178)

この部分に著者の思いが凝縮されているように感じた。

以前も書いたけれども、屋久島に引っ越して印象的だったのが、同級生たちが何でも自主的に動く姿で、自分がひどく子供じみて思えて情けなかった記憶がある。
彼らがあんなに逞しくみえたのは、おそらく、島の生活の中で子どもたちも大人と同じように扱われることが多かったからだろう。
私がその後生きていく上で力になったことの多くは、屋久島で父の農業を手伝う中で学んだように思う。(移住してまず手伝ったのが、使われなくなったビニールハウスを解体してきて、家の農地に組み立て直すところからだった。移住するまでは、父は週末たまに家にいる人、という感じの関わりだったので、かなり大きな変化である。)

自分は子どもたちにそういう機会を与えられているだろうか。

物語を書き換える→渡り歩く ポストモダンの作法

統制が可能になるのはなぜか。ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー、『サピエンス全史』(2016年)の中心的な議論の一つが、人間は想像力によって目の前にいない大勢の人間と共同・協力ができるということだ。共通の物語を信じることができ、これによって大規模な共同・協力ができる。これが他の動物にないホモサピエンスの特質であり、人間が文明を作り上げてきた要因だというのがハラリの主張だ。(p.57)

この想像力は「生国」「村」「日本国」それぞれのレイヤーで人を結びつけてきたが、現在は「日本国」レイヤーの資本(おカネ)と科学の2つの物語が主流で、私たちの繁栄を生み出すとともに、私たちを強力に縛っている。

著者は、これらが私たちの心の中にある物語に過ぎないのであれば、物語を書き換えてしまえば良いと言う。

環境や経済の問題を考える時、それが理論的に正しいか正しくないか、ということについ囚われてしまう。それが全て悪いとは思わないが、そこに囚われている限りは、その物語の中でしか思考したり感じることはできなくなってしまう。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。
その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。
物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。

オノケン│太田則宏建築事務所 » 歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する B215『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(東 浩紀)

歴史も物語も別様でありえるということを知りつつ肯定とともに選択する、という能動的な態度を通じて世界と向き合ってみる。その態度によって初めて接続可能なリアリティというものがあるように思うし、その先では妄想を物語へ転換するための知識や技術、言葉が、新鮮で豊かな色彩を帯びたものに見えてくるのではないだろうか。

それは、モートンの姿勢に通ずるものがあるような気がする。(モートンは紹介本でしか読めてないけれども)
オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。
それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。

そのためには、やはりいろいろなレイヤーに身を置いてみることも必要だと思うし、ここでは深堀りしないが、著者は里山にその可能性を見たのだろう。

それでも田舎にやってくれば「いのち」の物語を体感できるチャンスは豊富にある。そのような経験を通して、「おカネ」と「何でもできる自分」の物語を薄め、自然(じねん)と「ご縁」の「いのち」の物語に書き換えていくことができる。そこに田舎の美しさがあるのだと思う。(p.229)

じねん、ご縁、いのち・・・それらは「村」と「生国」のレイヤーの言葉であり、そこでの実感がなければ本当に伝えることは難しい。(なので、この記事では「この本に書かれている「村」と「生国」に関することを伝える」ことを目指さなかった。)

その壁を乗り越えて伝わるものにするには、やはり物語を自在に操り、いろいろな物語を行き来するような越境者、自在な者であることが必要なのかもしれない、という気がしている。




システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。




高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
講談社 (2020/8/11)

「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

人間以後の哲学

著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

私はそれを、

  • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
  • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

である、というように受け取った。

今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
本書はそういう問題を提起しているように思う。

高断熱化に対する違和感

誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
それはどこから来るのだろうか。

消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

人新世の世界を生きること

SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

これは勝手な意見、というか余談。

僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

メモ

同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
(失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

ざっと気になったものをあげると

  • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
  • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
  • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
  • ノンヒューマンであること。
  • エコロジーと触覚に向かう言語
  • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
  • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になる B241『建築家・永田昌民の軌跡 居心地のよさを追い求めて』(益子義弘他)

益子義弘他
新建新聞社/新建ハウジング (2020/6/2)

永田昌民のこれまでの代表作をとりあげ、クライアントや益子義弘、堀部安嗣、趙海光、倉方俊輔、三澤文子、横内敏人、田瀬理夫といったメンバーがコメントをよせながら永田昌民の建築の本質を浮かび上がらせる。

物が織りなされた場

その点で言えば彼の設計上の主眼はものの構成の側になく、物が織りなされて「一つの空気に昇華する場や空気の状態」を求めていたのだと思う。軸組や骨格を顕にする真壁構造でなく、あえてそれらを隠す大壁の構成に徹した空間造りの志向はその表れであろうし、そうした物の構成の側に枠取られるような建築的なテーマ性を彼は好まなかった。(p.3)

ある意味では、前回私が書いた「くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。」というようなことと反対のものを求めていたようにも受け取れる。

しかし、氏の建築には明らかに構築の意志があるように思われるし、「物が織りなされ」た状態に昇華させようとすることは、私の目指したいと思うところと重なる部分も多い。
この辺りが建築の難しいところであり、面白いところだと思うのだけれども、言葉尻では相反するようなことでも、目指すところは案外同じようなものだということは多い。
最終的に、その建築がどのようなあり方をしているか、というところが重要だとすると、学ぶことはたくさんある。

まちに溶け込むちょうどよい塩梅

また、氏の建築には押し付けがましさや、過剰な凡庸さのようなものはほとんど感じなかったが、それはなぜだろうか。

外観の素朴さや、絶妙な配置、内部の納まりの自然なあり方、など、その理由はいくつも考えられるけれども、一番の理由は形態や仕様だけでなく、凡庸さという点においても、氏が過剰であることを嫌ってそこから抜け出すまで徹底的に検討したからではないかというような気がする。

前回書いた、「あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。」というようなことを実現しつつ、過剰さを注意深く避けることで、まちに溶け込むちょうどよい塩梅となっているように思う。

それを目指すためには、「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になるような気がしたし、もしかして、そういうことに縛られないように、自らの建築をあまり語らなかったのかもしれない。

おそらく、建築は区別を前提とした「普通さ」や「凡庸さ」と言った言葉の側ではなく、その物、その場所そのものの存在のあり方の側にある。




自分が追い求めてきた「新しい凡庸さ」とは何か B240『建築の難問――新しい凡庸さのために』(内藤廣)

内藤廣 (著)
みすず書房 (2021/7/20)

字も小さめだし、読了までしばらくかかる、と覚悟してたけど、スラスラと、出張期間中で読み切れた。
理論書というよりは個人的な覚悟の話(と受け取った)ので予想していたほど難しくはなかったけれども、考えを促してくれる良い本だった。

問いが難問であるために

本書は真壁智治が問いを投げかけ、それに著者が答える、という形式で進んでいくが、それらの問い自体は向き合い方によってはありふれた問いと言えなくもないし、単に言葉として答えるだけであればそれほど難しくはないのかもしれない。
ただ、自分の問題意識や実践とを結びつけた上で、これらの問いに”誠実に”答えようとすると、とたんに難しくなる。

これらの問いはややもすると、大きな力のようなものに流され思考停止に陥ってしまいがちになるところを、足を止めて、本当にそれで良いのかと問いかけるような力を持っている。
その問いに誠実に向き合おうとすれば「資本主義に染まる今の社会の中で、あなたには如何にして建築が可能か?」というような「難問」を突きつけられる。

反面、これらの問いは、誠実に向き合う覚悟がなければ、先に書いたようにありふれた問いとしてしか現れず、ありふれたどこかで聞いたようなことをつい答えてしまいそうなもので、実際、本書を読む前にこれらの問いを投げかけられれば、自分もありふれた答えを返していたかもしれない。

そういう意味では、実践とそれに結びついた思考を誠実に積み重ねてきた著者だからこそ、これらの問いが難問たり得ていると言えるし、まずはそこに敬意を払いたいと思う。

これまで、このブログでは、割と抽象的な話で終わってしまうことが多かったけれども、自分に対して適切な問いかけをし、それに対して具体的な実践によって答えていくことの重要性を改めて感じたし、自分のリソースをもっとそちらに割いていかなければと思った。

ここでは、本書全体が投げかける問いかけに対し、考えたことを書いておきたい。

モダニティや資本主義にどう向き合うか。新しいスタンダード

資本主義に対する姿勢は今、自分が建築を考える上で非常に重要な問題だと思う。
それは、いかにして建築に「つくること」を取り戻すか、ということのように思うが、前回書いたように、建築費が高騰する中で、(特に私が関わることの多いローコストな住宅では)「つくること」を得ることはさらに難しくなっているし、この先、それを成立させること自体が厳しくなるかもしれない、という危機感を持っている。

いや、逆に否応なく「生産プロセスやコストに介入」せざるを得ない状況に追い込まれるとすれば、「つくること」に向き合うチャンスとも言えなくはない。
贅肉を削ぎ落として、コストを抑えつつ「つくること」を内包しているような新しいスタンダードのようなものを考えていく必要がある。

建築を構築する意志だとすると、それをどうかたちに残すか。断熱の問題

限られた条件の中で「つくること」を取り戻すこと、と直接的に関連すると思うが、著者が書いている、上棟の瞬間に現れる構築する意志(「かた」、意志と希望の「か」、「素形」)を最終的な「かたち」にどうすれば残せるか、ということも非常に重要である。

その際、断熱もしくは省エネの問題をどう考えるかというのが一つのポイントになってくるように思う。
今後、断熱の問題を避けて通ることはできないが、断熱性能を高めるためには外周を隙間なくくるむ必要があり、それが構築する意志を隠してしまう。
このことが、建築家が断熱等の問題に消極的になりがちな理由だと思うけれども、今後ここをクリアすることは必須となるはずだ。(鹿児島はまだ制約としては緩いかもしれないけれども。)

くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。まだ、答えは分からないけれども、そのための方法を考えていく必要がある。

新しい凡庸さを追い求めるためには何をすればよいか

「新しい凡庸さ」とは何か。
凡庸さとは、その存在を、「他との差異」とは異なる方法で確かなにするもの、なのではないか。
あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。

ただし、凡庸さという言葉には少し警戒もしている。
個人的な嗜好の問題かもしれないけれども、いわゆる住宅作家の作品(作品そのものというよりは、作品のメディア上での扱われ方)に凡庸さの押しつけのようなものを感じることがある。
過剰な凡庸さ、もしくは非凡な凡庸さと言ってよいのか分からないけれども、行儀良さを迫られるような息苦しさを感じることがあるのだ。
(といっても、好きな作品も多いし、実際そこに住めば全く違うかもしれない、という気もするし、ちょっとした嫉妬のようなものかもしれない。)

もう少し、肩肘を張らずに、どこにでもありそうなものでありながら、存在の確かさも兼ね備えている。過剰になるすれすれの凡庸さ。
そんなあり方が、もしかしたら自分なりに求めている「新しい凡庸さ」なのかもしれない。

今はまだ全然できていないし、ぼんやりとしたイメージにすぎないけれども、例えば、外部・まち・都市とのつながり、自然とのつながり、世界とのつながり、そんなさまざまな「つながり」「出会い」を考えることが大切なような気がしている。
他とのつながりによって、逆説的に生まれてくる存在の確かさのようなもの。そういう「新しい凡庸さ」を追い求めていきたい。

自分はどんな仮説に生きてきたか

わたし自身は建築家として立とうと決意したその日から、その時立てた仮説を生きているにすぎません。建築は語るに足るものであるはずだ、愛するに足るものであるはずだ、という仮説です。(p.278)

誰でも、少なからずは、若い頃に立てた仮説を生きつづけているものなのかもしれません。

では、自分はどんな仮説に生きてきたんだろうか。

考えてみると、建築そのものが語るに足る、愛するに足るものかどうか、というのはあまり考えたことがないように思います。
それよりも、今の時代を生きる人、もしくは自分のつくる建築に関わった人が、この世界は生きるに足るものだ、と感じられるかどうか。
その、一つのきっかけ、気持ちの受け皿に建築はなりうるはずだ、というのが私の生きてきた仮説のように思います。

自分なりの「新しい凡庸さ」とは何か。
答えは、この仮説の先にあるのかもしれません。




情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




認知心理学的な視点から建築を設計することの意義を問う B237『Mind in Motion:身体動作と空間が思考をつくる』(バーバラ・トヴェルスキー)

バーバラ・トヴェルスキー (著)
森北出版 (2020/11/6)

9つの認知の法則

本書は豊富な実験事例をもとに、認知心理学の視点から身体・空間・思考のダイナミックな関係を描き出す。

著者の挙げる認知の法則は以下のようなもの。(原文より英文を併記)

認知の法則
一. コストなくして利益なし。 There are no benefits without costs.
二. 動作が知覚を形成する。 Action moulds perception.
三. 感覚が最初に来る。 Feeling comes first.
四. 心は知覚の上を行く。 The mind can override perception.
五. 認知は知覚を反映する。 Spatial thinking mirrors perception.
六. 空間適思考は抽象的思考の基盤である。 Spatial thinking is the foundation of abstract thought,
七. 心は欠けている情報を補う。 The mind fills in missing information.
八. 思考が心からあふれると、心はそれを外の世界に移す。 When thought overflows the mind, the mind puts it into the world.
九. 私たちは心の中にあるものを整理するように、まわりの世界にあるものを整理する。 We organise stuff in the world the way we organise the stuff in the mind.

英文の直訳っぽいので、文脈に合わせて理解するのに少しとまどったけれども、自分なりに、

一. 何かを知覚する際、情報は状況に合わせて削ぎ落とされたり補われたりして、知覚のコストと利益の効率的なバランスが選択されている。(よって、効率的ではあるが、知覚されるものは完璧ではなく誤りや偏りを含む)

二. 知覚は動作と分け難く結びついており、動作によって形成される。これは、自分の身体だけに限らず、他人の動作や拡張された身体性によっても形成される。

三. 人はまず、表情や動きなどから感じられる情動に影響を受ける。情動は特別なものとして扱われている。

四. 知覚されたものそのものは、(知覚コストを抑えるであろう)推測やバイアスによって容易に上書きされる。知覚されたまま受け取られるとは限らない。

五. 知覚されたものは心の中で空間的(Spatial)に認知される。そこでは配置や階層、基準点、距離などが空間的に感じ取られるが、心的な空間として、その他の認知の法則にあるような偏りも併せ持つ。

六. 抽象的思考は、空間的思考・認知空間の基盤の上で展開される。例えば空間の中でものを移動させたり加工したりするように、抽象的思考の要素(表象・アイデア)を操作する。

七. 四と重複する部分もあるが、認知されているものは、階層やカテゴリーなどによる推測などによって適宜補われた上で空間的に配置されている。

八. 思考は心の中の空間の中のみで完結するものではなく、身体動作・表出・知覚を通じて外の空間ともダイナミックにつながっている。(建築家は曖昧な思考・イメージを曖昧なままスケッチとして外に表出し、それを思考の外部リソースとして再利用する。)

九. 人は思考を行う際に心の中を(空間的思考も駆使しながら)整理するように、まわりの世界を整理されたものにしようとする。それは、外部空間も思考するための基盤の一部であるからである。

というように受け取った。
著者はそれらを通じて「思考する空間を整えさらなる思考へ向かうこと」が、人が「生きる」ということの一つの本質である、ということを描き出している。

認知心理学的な視点から考えるとは何か、また、建築を設計することの意義は何か、を問う

これらのことから、何が浮かび上がるだろうか。

一つは、人が考える、ということは空間的かつ身体的なことだ、ということである。

少し前に読んだ森田真生の著書でも同じように数学という行為が空間的かつ身体的な行為であることが描かれていたが、考えるということは心の中で完結するものではなく、身体やまわりの世界とつながったダイナミックな行為である。

世界の豊かさは豊かな思考につながり、豊かな思考が世界を豊かにする。考えることが、人が「生きる」ということの一つの本質であるが故に、思考に導かれた世界に豊かさを感じる、と言い換えても良い。

そして、そのスパイラル(本書ではspraction (actions in space design our world and create abstractions in the mind)と名付けている)は正負を問わず、世代を超えて受け継がれていく。

そう考えると、建築を設計することの意義も見えてくる。
それは、世界を豊かにするための一つの営みなのだ。(ただし、そのためには密度高く思考することが前提条件である。)

もちろん、それは建築家だけの特権ではない。

この本でも全体を通して「生活への眼差し」が貫かれているが、世界を豊かにしていくのは「生活する人たち」なのである。建築家はそういう人(施主)の存在がなければ何もつくれない。

もし、まちの中から「生活する人たち」の顔(思考)が見えなくなったとしたら、そのまちはどうなるのだろう。そこから数学者は生まれるのだろうか。それはどれくらい重要なことなんだろうか。そういうことを本書は突きつけてくる。

(一つだけ補足すると、人工的にデザインされきった世界だけでなく、自然発生的に思考が埋め込まれた風景や、自然そのものも、同様に、もしくはそれ以上に豊かな思考の基盤になると思います。)

空間認知能力

空間認知能力は高められる。のみならず、かの全米科学アカデミーのある委員会でも提言によれば、高めなければならない。空間認知能力は、数多くの職業、仕事、活動の基盤をなす。(p.109)

ここからは全くの余談(自分のこと)。

空間認知能力が必要とされる建築の仕事をしているわけだけども、自己分析をしてみると、ある面ではある程度の能力があると思うけれども、ある面ではかなり能力が低いように思う。

この本で、心の中で像を回転させたり、立体を組み立てたりといったメンタルローテーション・メンタルコンストラクションという能力が取り上げられていた。
自分が子どもの頃を思い出すと、(今でもやっているけれども)折り紙やペーパークラフトといった作ることが好きだった。折り紙の折り図やペーパークラフトの展開図(型紙)を見たことがあれば分かると思うけれども、これらがまさしくメンタルローテーション・メンタルコンストラクションの訓練になっていたことは間違いない。
おかげで、頭の中で立体を組み立ててイメージすること、建築を立体物として手で組み立てるように捉えることはかなり得意になったと思うし、模型をつくるのも好きだ。

一方、本書でもよく出てくるような、頭の中で俯瞰的に地図のようなものを描いて要素をマッピングするようなことはめっぽう苦手である。
何十回と通った道も間違えてしまうし、ここで曲がる、というピンポイントの僅かな建物を除いて、道路沿いの店舗などが正確に頭の中にマッピングされることは皆無(マッピングされていたとしても順序はめちゃくちゃ)なのである。
空間認知能力が発揮されるのは、手のひらの中で作り上げられる範囲、又は、どこか一点に視点を設定したときのみ限られるようだ。(もともと興味のあるなしが極端だったので興味のある範囲以外の能力は全く育たなかったのかもしれない・・・)

こんな偏った状態でよく務まっているな、とも思うけれども、スキップフロアを多用したり、構成的な手法に頼りがちなのはこの偏りのせいかもしれない。
極端な方向音痴だ、というのは、常に自分がどこにいるか分からないことの不安から逃れたいという欲求を抱えている。それが、建築の場所性・固有性を求めることへとつながっていて、空間を考える原動力になっているようにも思うのでマイナスばかりではないようには思う。(その不安を克服しないとできないようなタイプの空間があるようにも思うけれども。)

また、抽象的思考を心の中で空間的に行っているというのは、新しい発見であると同時に、実感としては昔からもっていたものでもあるし、思考を一旦外部化して再度取り込むというのはデザイン関係の人は多かれ少なかれみんなやっていることだと思う。
この辺をもっと意識的に扱えるようになりたい、というのが最近の関心でもある。

(先日、VRゴーグルを買ったんだけど、空間的な思考を拡張するツールとして計り知れない可能性があるように思う。すでに、空間の中にスケッチしたり、アイデアを自在に動かしたり、というツールがあると思うんだけど・・・。)




計算を繰り返す中から新しい意味を見出す B236『計算する生命』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2021/4/15)

計算は、規則通りに記号を操るだけの退屈な手続きではない。計算によって人はしばしば、新たな概念の形成へと導かれてきた。そうして、既知の意味の世界は、何度も更新されてきた。(p.195)

本書では、計算が新たに概念を生み出してきた歴史を辿りながら、計算と生命、それに言語の間の関係が語られる。

これを建築の設計に重ねることで何が見えてくるだろうか。

設計における論理や言語は何か

計算を論理的に組み立てられた記号・言語を手続きに従い操ることで、必然的に結果へと導く行為だとすると、建築の設計において、その論理や言語に該当するものはなんだろうか。

構造や環境など、高度に構造化された、計算との相性の良い分野もあるが、いわゆる計画を行う際に、「1+1=2」というように必然的に答えが導かれるようなものはあまり見当たらない。

情報工学的な手法によって、よりベターな解を探索するヒューリスティクス・デザインや、言語学をデザインに応用し独自の造形言語を探る倉田康夫のような態度はこれに近いかもしれないが、計画学全般に、数学における論理や言語に該当するものが歴史的に積み上げられていて、建築に関わる人が皆それを操っている、とはいえない状況に見える。

では、設計における論理や言語は存在するのか。それは何か。というのが大きな問いである。

「分かる」から「操る」へ

設計という行為は、指折り数える、筆算をする、方程式を解く、コンピューターでシミュレーションする、というような、記号を操り計算する行為に近い。

設計を多様で複雑に絡み合った要件を解きほぐして一つの解を与えることだとすると、それは、頭で考えるという行為のみで完結できるものではない。

スケッチを描く、図面を引く、3Dモデルを確認する、性能をシミュレーションする、というように、様々な手法によって、思考を一旦外部に記号として定着させながらそれを操る、ということを繰り返すことで、徐々にその解が定まっていく、というように、何かしら考える道具を使いながら計画を進めることが一般的だろう。

なので、どのような道具で、どのような記号をどう操り、何を引き出していくのか、というようにどのような手法をとるかが重要となってくるが、それは数学における計算することに近くはないだろうか。

仮に、ある手法でもって計画を前にすすめる行為を、設計における「計算」と位置づけてみる。

この記号を操り計算をするという行為には、考え「分かる」という行為が埋め込まれていて、考えることの一定の過程をスキップさせる機能がある。と同時にそれ故に、人の認知能力を超えた結果を導き出す可能性を持つ。(この点で、情報工学的な手法は、文字通り、強力な計算手法であり、可能性に満ちている。)

その予期せぬ結果には最初から意味があるわけではないが、人にはそこから意味を汲み取るという能力がある。結果は人間によって汲み出されることによって初めて意味を持つ。
設計とは、認識できるものを記号としていったんていちゃくさせ、それを操りながら新たな意味を見出し、再び記号へと定着させる、というプロセスを繰り返すことであり、そのプロセスの精度と回転数が設計の密度へとつながる。

これは大げさに言えば、数学が計算によって新たな概念を生み出してきた歴史をその都度辿るようなものではないだろうか。

方法論

ただし、毎回異なる要件のなかから新たな解を導かなければならないことは、設計の持つ運命のようなものだとしても、毎回、数学が辿ってきたような繰り返すことは不可能だろう。

数学における計算手法がある概念を内包しながら、それを歴史的に積み重ねてきたように、設計の方法論が、それまで積み重ねてきたものを内包し、「計算」のように操れるものであるとすれば、設計においても方法論を使うことで、歴史的な叡智・成果を利用することができるし、毎回、新しい手法を発明する必要はないだろう。

そして、そのような膨大な「計算」の総体の中で、既存の方法論の中から新しい概念のようなものを見つけ出し、新しい方法論として定着させることができた人が建築家と呼ばれ、建築の歴史を一歩前に進めるのかもしれない。

ただ、ほとんどの人は、何かしらの方法論のようなものを模倣し、それを操り「計算」することで一定の成果を得ている、というのが現状のような気がする。
その方法論の中に埋め込まれている概念の歴史を理解し、新たな概念への想像力を持つことで、ぐっと世界は深みを増すように思うけれども、それが体系的に整備され共有されておらず、個々の建築家に秘匿された部分が多い(ように見える)のが建築の難しさかもしれない。(多様な解・手法がありうる特殊性や、概念が重層的・個別的で難解になりがち、というのもあるだろう)

計算する生命

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。(p.219)

生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

ブルックス(ルンバの生みの親)はAI・ロボットを研究・開発する上で、世界をコンピューターの中で描写・再現し、計算する、という手法から、外界のモデルを構築することを破棄し、一旦手放した身体を取り戻すことで、環境と絶えず相互作用しながら行為を生成していく、という方向へ舵を切った。

建築の方法論を積み上げていく歴史的なサイクルも重要ではあるが、同様に、個々の設計行為におけるサイクルも重要で、環境と相互作用しながら計算を繰り返すことで小さな新しい意味を見出していくような態度、いわば「計算する生命になること」、が建築に命を吹き込むことにつながるのだろう。

ここで、個別のサイクルにおける方法論・スタディの方法で重要なのは、
・人間の認識の限界をどう拡張し、予期せぬ結果へと導けるか。
・結果から新たな意味をみいだせるようなきっかけが、どのように現れるか。
の2つのような気がする。自分はそのようなスタディを行っているだろうか。

このあたりのことは、ここで考えてきたことに大きく重なるし、一つ一つの計算(設計の方法論やスタディの方法)についてももっと意識的である必要がある、ということを強く感じさせられた。




分かることへの衝動にもっと素直に従うこと B235 『数学する身体』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2018/4/27)

前回読書記録を書いたのが昨年の10月ごろなので1年近くぶりの投稿になる。

追いつかない仕事を、後ろから走りながら追いかけ続けるような状況がずっと続いていて、読書も折り紙もほとんどできていなかった。
それでも積ん読は順調に進めていて、この本もその一つとして先日買ったもの。

数学と身体、一見無関係に思える言葉が結びついたタイトルが興味を引く。
間違いなく面白いに違いないと思いながら、読むにはそれなりの時間と集中力が必要だろうと、しばらく欲しい物リストに入れていたものを、先日ようやく積ん読に昇格させた。

それで、読む時間はないだろうけど、さわりだけでも読んでおこうと手にとったところ、意外にもスラスラ読める。自分の関心とぴったり重なっていたこともあって、一気に読み切ってしまった。

数学を建築し、そこに住まう

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(p.44)

著者は、数学を行為として捉えるとともに空間的に捉える。その数学という空間は自らの数学という行為を可能とする足場であると同時に「建築」する対象でもある。

そこには、数学という空間と、数学する人とが混然となった世界がある。

おそらくその世界には、自らの身体を通じてしかアクセスできない。その世界の住人となるためには一定の条件があるのだ。

数学といえば客観的・普遍的なもので自分とは直接関係がないように思ってしまうけれども、そうやって眺めている限りはそれは景色に過ぎない。
数学という景色が、経験を通じたその人独自の「風景」となって立ち現れた時に初めてその世界の扉が開くのではないだろか。
というより、人はみな、その人それそれの関わり合いの中でその人なりに扉を開いているのだろう。
(自分の扉が開いていたのは高校の数学くらいまでかな。大学の途中から、解き方は覚えられても、身体的に分かる感じが得られなくて、ここまでか、と感じたのを鮮明に覚えている。逆に言えば、身体的に分かる感じが得られれば数学はとても身近なものだった。)

その数学の空間に住まう人の中にチューリング、そして岡潔がいた。

「わかる」ということと身体

岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。(中略)自他の別も、時空の枠すらも超えて大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。(p.120)

「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同時に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(p.130)

「分かる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。(p.138)

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。(p.174)

岡潔の言葉を借りて数学を語ることに躊躇いもあった。岡の言葉は、彼自身が生み出した数学があってこそ響く。(p.179)

関心のある部分を抜き出してみたけれども、このブログで書いてきたことと重なる部分がかなりある。(読みながら河本英夫の著書が何度も頭に浮かんだ)

数学と身体の関わりについて直接考えたことはないけれども、「わかる」ということと身体との関わりは多少考えたことがある、というより感じていたことがないわけではない。(「脳内ポジショニングの技法」
いや、むしろ、「考える」ということを身体的に捉えるということは最近の主要な関心でもある。

それでも、数学と身体の関わりを探る本書のテーマは新鮮であった。と同時に、自分も少なからず身体的にわかる、ということの衝動のようなものに突き動かされてきたことを知った気がするし、認知科学的なアプローチで数学と合流したのは意外な出会いだった。

建築を建築する

さて、建築である。

概念としての建築を考えると、数学と同様に、建築という空間に住まい、その空間を建築し続けてきた数多の先人たちいて、彼らが積み上げてきた空間がある。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分もその建築という空間を足場としていて(足場としたいと望んでいて)少なからず恩恵を受けている。

思えば、このブログは建築という空間の住人になりたい一心で書き続けてきたもので、それは学生の頃に「まずは建築の住人にならないと何もはじまらない」と少しの焦りとともに感じた直感から始まっている。
その行為に対して不安になることは何度もあったけれども、この本は、その直感は間違っていなかったのでは、と少し明るい気持ちにさせてくれ、初心に還らせてくれるものだった。

ブログを書き続けることは、感じたことを身体化していくための作業だったのだけど、続けることで、何とかこの空間の村人くらいにはなれたように思うし、自分なりの「風景」も見えるようになってきたように思う。

地道ではあるけれども、方向としては間違っていない。むしろ、必要なのは、分かることへの衝動にもっと素直に従うことと、同時に感度をもっと高めることだろう。その先にしか到達できないものがきっとあるはずだ。

(同じ著者の『計算する生命』も買ってるけれども、岡潔も読みたくなってきた。)




コロナ禍においてどのような思想を持つことができるかが問われている B234『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(熊代 亨)

熊代 亨 (著)
イースト・プレス (2020/6/17)

以前、千葉雅也氏のツイートで

というのを見かけ、気になったので購入しました。

始まりは違和感から

小学生の頃、近所の団地に住んでいた友達が、少し遠くの小綺麗な新興住宅地の小綺麗な家に引っ越したのですが、そこに初めて遊びに言った時に、自分の居場所がないような何とも言えない違和感を感じました
また、大学生の頃、神戸で自分を透明な存在と呼ぶ少年が連続殺人事件を起こした時に、その違和感を思い出しました

僕が建築について考えることはこの違和感からはじまっています

それは、本書で繰り返し描かれる、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の違和感と同類のものだったように思います。

しかし、本書を読んで、大学で建築を学び始めてから20年余りの間に、その違和感について次第に鈍感になり、いろいろな場面で規律と習慣に絡め取られてしまっている自分がいることにも気づかされました。そのことが全て間違っているとは思わないけれども、少なくとも自分の中の違和感には敏感であり続けたい

違和感を語るだけでも始まらない

本書は終章を覗いては、ほとんどがその違和感について、どのように「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」と自由を獲得してきたか、および、それによって課せられることになった不自由とは何かを描くことに充てられています。

それに対して、同じような違和感からスタートしている自分としては、(見てみると著者は僕と同い年でした)、その違和感については自分も感じているけれども、知りたいのその先、その違和感に対する処方箋もしくは処世術のようなものだったので、少しもどかしく感じたのも確かです。

逆に、生まれながら「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が成立しており、その規律と習慣が深く内面化されているような世代、その違和感のもととなるような時代を経験をしていないような世代にとっては、「あの頃は良かった」的な昔話に聞こえるかもしれない、とも感じました。

一人の精神科医が描ける社会のラフスケッチには限界があり、本書もまさにラフと言う他ない。(中略)・・・について書き続けてきた私が、間違いを恐れず、社会の全体像をラフスケッチするしかあるまい。(p.6)

と、著者自身が書いているように、本書はあくまでラフスケッチであり、それを承知の上で全体をスケッチしようと試みた著者の勇気には敬意を表したいと思います。
しかし、それが著者の役割ではないのは知りつつあえて言うならば、やはり、多くの人にこの問題提起を届けるためには、問題を一度抽象化して描き切るような作業が必要なように思います。

(そういう点で、千葉雅也氏をフォローしているのは問題を鋭く抽象化して見せるような力強さを感じるツイートが多いからだったりしますし、氏が紹介していたからこそ本書を購入した、というのもあります。氏の発言などを思い浮かべながら本書を読めたことは良かったと思います。)

コロナ禍においてはこの違和感に向き合わざるを得なくなる

千葉氏が紹介していたから、という理由の他に、本書を買ってみようと思ったもう一つの理由がありました。

それは、コロナ禍において、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はますます要請されるようになっていますが、それに対して我々はどのような思想を持つことができるか、を考えたかったからです。

資本主義・個人主義・社会契約が「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」を当たり前なものとして規範化していく中で、我々は別の不自由さを与えられますが、コロナは、その規範化をますます進展させていくでしょう。しかし、そのことが、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」でなければならないという不自由さを鮮明に浮かび上がらせながら、大本にある資本主義自体に深刻なダメージを与え続けることになります。

そんな中で、我々が行きていくためには、資本主義・個人主義・社会契約による「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」とそれがもたらす不自由さの間にある矛盾と向き合わざるを得ません。もし、その不自由さをそのままにしていてはそれこそ経済が成り立たなくなってしまいます。

そのために、その矛盾を抱えたままそれを乗り越えるような新たな思想が求められるように思いますし、多くの人が知恵を絞った結果として新たな思想が生まれるようにも思います。

その思想は蓄積されてきたある種の生き難さを吹き飛ばすような、爽快なものになるような気がしますし、そうあって欲しいと願います。

新たな公共空間の成立に向けて

本書では空間設計(アーキテクチャ)に関する議論が取り上げられていますが、建築の根源的な問題だと思います。

先の、「その矛盾を抱えたままそれを乗り越えるような新たな思想」を考えるための抽象的な議論の一つとして、『公共空間の政治理論』「公共空間の成立条件とは何か?」という問いはヒントになるかもしれません。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。 そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

公共空間の持つ中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していきますが、それに伴い、秩序・安全を手に入れながら、不確かなもの、脆弱性を手放していきます。今回のコロナは不確かなものを手放してきたことによる非常時の脆さ、レジリエンスの低下を顕にしたと言えるかもしれません

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。 脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。 相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされている。そこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が公共空間たり得なくなっているのだとすると、不確かなもの、脆弱性を受け入れつつ、秩序ある社会の均質化の及ばない隙間を見つけ変容を促すような行為を模索し続けることが、今必要なのかもしれません

それは、我々が不確かな生をどう生きるか、という抽象的な問題であると同時に、このコロナ禍の中でどうsurviveしていくかという具体的な問題に関わることだと思いますし、それを実践し始めている人もたくさんいるように思います。




「政府への信頼」と「市民相互の信頼」を確立していくために B233『コロナが変えた世界』(ele-king編集部)

ele-king編集部 (編集)
Pヴァイン (2020/6/24)

ウイズコロナの時代をどういった思想を拠り所としていけばよいか。もしくは、拠り所としてはいけないか。
自分の中でもそういうところが今もぼんやりとしています。

コロナに関連したものを次の業態はこうなる的なもの以外で何か読もうと思って探していたところ、宮台真司や篠原雅武と言った名前(他にも内田樹や上野千鶴子など)を見てこれを読んでみることに。

だいぶ前に読み終えてましたが、流石に賞味期限が切れるので、今のうちに何か書いておこうと思います。

こういう複数の人が寄稿したようなタイプの本はなかなか感想を書きにくいので、理路整然とした宮台真司の寄稿文を下敷きに書いてみます。
(例のごとく、宮台真司の文章は無駄がなく組み立てられていて、ほとんど要約の余地がない密度なので関心のある人は本書を読んでみてください。)

感情の劣化と加速主義

こういう国または社会で乗り越えなければならない危機においては、「政府への信頼」と「市民相互の信頼」が必要と言います。
しかし、残念ながら日本ではそのどちらもない。

また、民主政の前提となる「他者の生き方や価値観に目を向け耳を傾ける」ような能力が劣化している(感情の劣化)と言います。
オカミに抗って市民社会を勝ち取ったという歴史がないため、自分たちの社会を自分たちで守りメンテナンスするという発想がなく、オカミに思考停止で依存し、同調圧力に屈することを他人にも要求するような安全厨ばかりになる。

不確実な状況では、動的に認識を変更しつつ行動を変えていく必要があるのに、思考停止ゆえに安全よりも安心が優先される

そういう状況を変えていくには、個人が自立し、オカミをスルーして仲間で助け合い、最終的には知らない人同士が助け合い、知らない人に向けて税金を払う「公民的規範をベースにした普遍主義」を確立していく以外に道はない。
そのためには、一度絶望へと落ちるような加速主義の発想をすべきと言います。国への絶望が自治体の自立の出発点(希望)となり、自治他への絶望が仲間集団の自立の出発点(希望)となり、仲間集団への絶望が個人の自立の出発点(希望)となる。それを逆回しするように、個人が自立し、仲間集団が自立し、自治体が自立し、国が自立する。それ以外の経路はない。「任せられない」という絶望こそが希望であると。

思考停止を避けること

僕は、こういう加速主義自体が正解かどうかは分かりません。実際、周りを見渡すと、既に、個人の自立→仲間集団の自立(一部では→自治体の自立も)のようなことは少しづつ起こりつつあるように思います。(自分自身は個人の自立を目指すだけで精一杯だったりしますが・・・)
また、絶望へと落ちきるところまで猶予のない人もたくさんいるでしょう。

ではそのような中、どういった思想を拠り所としていけばよいだろうか。もしくは、拠り所としてはいけないだろうか。

「安心」するのではなく、他人への想像力を持ち、とにかく思考停止となることをさけ続けること。これはコロナ禍において大切なことと言い切って良いように思います。
だとすると、何か一つの思想を拠り所とすることもまた危ういことかもしれませんし、常に変化し続けられるような構えこそが必要なのかもしれません。(このブログでも最近は似たことばかり書いていますのでそこは深堀りしません。)

政府に期待すること

最初に書いた「市民相互の信頼」を確立するためには上に書いたような、他人への想像力を持ち思考停止を避け続けることを積み重ねて行くしかないのかもしれません。

では「政府への信頼」を確立するにはどうすればいいのでしょうか。(最終的には「市民相互の信頼」の先に確立されるものなのかもしれませんが。)

どこかで、こういう不確実性の高い非常時の政府は、危機を乗り越えた暁には政権を降りる覚悟で、状況が刻々と変わる、その時々に決断を下し続けなければいけない、というような文章を読んだ記憶があります。

しかし、今の政府は(もしかしたら今の日本の政治の宿命なのかもしれませんが)一度決めたことは矛盾が明らかになってもなかなか変えられないように見えますし、それ故、責任を背負いながら決断をくだすことが難しくなっているようにも思います。
また、出された政策がどういう根拠に基づいて何を目的としているのか、いったいどのようなロードマップのどこに位置づけられているのか、政府として何を考えているのか、ということがほとんど見えてきません。前にも書きましたが、政策に政府のメッセージが見えてこない。(故に、解釈によって分断も起きる。)

前回読んだ本で、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであるとかいてありました。(なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方。)

半年前ならまだしも、コロナについてかなりのことが分かってきていると思いますし、国をあげて疫学的調査をしたって良いと思います。

(タイムラグもある上、調査対象をどうするかで意味が変わり、検査陽性者と感染者も区別しないような)日々の感染者数を、ただ機械的に発表し、無駄に不安だけを煽るのではなく、EBMのように、きちんとした統計的なデータによる解析結果と、それを根拠としつつ、コストや経済などの他の要因を考慮した道筋を示し、説明しながら国民の信頼を得る、ということをやって欲しいと強く思います。(Evidence Based Policyのようなことがあるはずと思ったらウィキペデイアにありましたね。)

それでも不確実性は排除できなくて、間違うこともあると思いますし、道筋を日々調整していくことこそ必要だと思います。信頼を獲得するのが先か、信頼することが先か、というのはあるかもしれませんが、責任と根拠を持って決断をしたことに対しては、ある程度の失敗は許容するような市民が信頼する態度も必要かもしれません。

とにかく情報の公開とメッセージを

各市民が自立した判断をし「市民相互の信頼」を獲得していくためにも、もしくは、「政府への信頼」を獲得していくためにも、国でなければまとめられないような、人々の行動や国の方針のエビデンスとなりうる情報の公開と政府の描く道筋に基づいたメッセージを是非、発信していって欲しいですし、(ほとんどテレビを見ることはなくなりましたが)メディアもただ不安を煽るだけではなく、エビデンスとメッセージを正確に伝えるような番組作りが当たり前になればと思います。

もちろん、僕らもそれに頼り切ることなく、他人への想像力を持ち思考停止を避ける努力を続けなければいけないわけですが。