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建築の自立について

twiiterで知り合って以前から一度お会いしたいと思っていた高知の建築士の方が鹿児島に来られるということで週末に鹿児島を案内させて頂いた。その時にブログを再開したと聞いたのでそれを読んだり、本人とお話させていただいた中で考えたことを書いておきたい。

以前、氏のブログを読んで

とりあえず、「建築、お前自立しろ。社会性なんてそこからしか生まれないぜ」と言ってみる。とりあえず。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「建築の社会性」ってなんだろう)

と書いたように建築が自立しているとはどういうことか考えてみたいと思っていたのだが、、氏のブログの続きを読んでみると自立ということがテーマになっているようで参考になった。

建築の自立と矛盾

建築について:丹下健三について03「丹下健三は瀬戸内に何を残したのか」

自律した秩序や形式を持ちながら、その場所に根付き、そして静かに「誇り」をみんなに植え付けていく。そういう相反したものを結びつける丹下建築だからこそ、このように芳醇な空間と時間をつくり得ることができたのだろう。
だから僕は「丹下健三は瀬戸内に何を残したのか」という問いに対しては、このように答えたい。 その場に根ざすことによって静かに醸成された「誇り」と、自律し超越性と矛盾を孕み、いつまでも定点を与えない秩序だ、と。

詳しくは引用元の本文を読んでいただくとして、建築が自立することにはそれ自体だけではない何かが必要な気がした。
では、建築が自立している、と言えるためには何が必要なのだろうか。

ここで出てきた「矛盾」は、坂本一成が「人間に活気をもたらす」ために「象徴」を成立させようとし、そのために定着と違反を同時に用いることにも通じるように思う。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B170 『建築に内在する言葉』
丹下健三が残したものがそうであるためには矛盾のようなものが不可欠であったのではないか。さらに言えば、矛盾のようなものは自立と並走すると言うより、目指すべき自立の成立には不可欠なもの、自立の一条件と捉えたほうがしっくり来るような気がする。

また、鹿児島を案内する際、氏とともに廻った建築のうち稲盛会館となのはな館で感じたこともヒントになるような気がした。

建築の自立と他者

稲盛会館はその執念ともいえる仕事を見ると「誇り」を根付かせるのに十分なもののように思えるが、私個人の感覚ではそのような存在になっているように感じない。
なぜそうなのかと考えてみると、一つの原因はこの建築の建ち方にあるのではという気がした。この建物は交通量の多い通りの角に面していながら、鹿児島大学が管理する敷地内に囲われるように建っており、利用されていない多くの時間は周りに人気がない。近くを通っても心的な距離をどうしても感じてしまいそこから何かを感じ取ることを遮られているように感じる。
これは周りから切れているということで自立に近づいているようにも思えるが、そこで感じるのは「自立」ではなく「孤立」に近い。
これが仮に(用途上建物内部は難しいとしても)会館の周りだけでも周辺に対してオープンになっており、そこに何らかの人の気配やそれを見るものと同時に流れている時間や空気を感じられたとしたら人々にとってまた違った存在になれたのではないか、という気がする。
庁舎と違い管理上の問題があるのは分かるが「誇り」の素養を持っているがためどうしてももったいないと感じてしまった。
「孤立」ではなく「自立」しているということは他者から切り離されることではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つものであるのではないだろうか。とすると、建築の自立を考える際にも他者との関係性を考えることは必須であるように思う。

建築の自立と時間

なのはな館は初めて実際に訪れた時に何か自分の身体にフィットするような居心地の良さを感じ(雑誌で見た第一印象とは逆に)個人的には好きな建物であったが、管理費の問題等で一部を残し運営がストップしていた。(さらに、今後本館と体育館以外が解体され県から市へと譲渡されるようである。)
これは他者との関係を継続できなかったため自立することができなくなったとも言えそうだが、運営がストップした後に訪れると、周囲の草木が生い茂る中静かに佇む建物と、そこで遊ぶ子供たちやゲートボールをしている老人たち、散歩している人々が妙にしっくり来て、皮肉にも廃墟のような存在になることで人々の生活の中の風景になっているように感じた。(ただ、当日は残念ながら国文祭の会場になっていたからか草木が綺麗に刈り取られていてただ寂しい風景になっていた)
もちろん巨額のお金を注ぎこんで維持できない建物を建ててしまった責任はあると思うのだが、このまま何十年と時間を経ることできっとさらに風景として人々の生活や記憶になじみ、自立した存在となれるのではという気がする。それは機能という意味とは異なった視点でこの建築が力を持っているからだと思う。(なので、個人的には耐久性がなく管理の必要な部分のみ解体し、コンクリートなどの部分は残し風景として生かしてくれれば軍艦島のように価値が後からついてくるのではと思っている。)

再び氏のブログより

僕は建築というのは本来、時間を超える普遍性、あるいは超越性のようなものを持っていると思っていて、そこで建築は単純に発注者の要望であるとか、経済性や構造的な整合性だけから導かれるものではないもので成立していて、だからこその普遍性・超越性なんだと思うんだけど、まさにこの建築からはそれらを感じるのである。そしてこれは建築家の恣意性からは一番遠い建築の現れである。誰に媚びるのでもなく、ただ自立した建築。時間を超える建築にはそういう特徴があるのかもしれない。(建築について:「津山文化センター」時間を超える普遍性、あるいは超越性)

最近よく思うことがある。形の珍しさや端正さというのはインパクトはあるけれど、美しさの耐久性というのもは薄いのかもしれない。端正さや洗練された形態も究極的なところまでいけば充分時間を超える強度を持ちえるのだろうけど、中途半端なものはあっという間に消費されてしまう。しかしその中でもこの建築をはじめとして、菊竹氏の建築には消費されない建築の力強さがあるように思う。この違いは何なのだろう。(建築について:強度のある建築のかたちについて)

名建築とされる建築が次々と解体されている現状を見るとどうしても、建築の時間、というものを考えざるを得ない。そのことと他者との関係性を含めた自立ということは深く関わっているように思う。
そう考えると、当たり前のようだが物理的・経済的・機能的な耐久性、さらには愛着のような心理的な耐久性というものも建築が自立するために必要なのかもしれない

住宅の自立

翻って、自分が多く直面している住宅について考えてみる。
今のような核家族が一代で建てるような住宅では、予算にも限りがあるし、数十年後誰がどのように使っているかは分からない。100年後の姿はリアリティを持ってイメージすることはなかなか難しい。氏は住宅の重要な条件として「死を見送れること」と言われたが、現状ではそこですらイメージが困難である、と言うのが正直なところである。(だから、公共建築のように大きなスケールで時間を考えられるのが羨ましくもある。)

そのような住宅のスケールにおいて、自立・他者・時間のようなものはどう考えられるだろうか。

5年前に行った模型展でのトークイベントの音声を聞き返してみたのだが、その時も「家がそこに住む人に従属するものではなく並列の関係になれたらいい」というようなことを言っていた。今回の言葉で言えばこの時から自立ということについて考えてきたように思う。
住宅の100年後をイメージすることは難しい。だけど、住宅スケールの時間であってもその時間が公共的な時間の質を持ち、そこに住む人や周囲の人に対して生活とその背景となる風景、そして記憶のようなものを提供できるとすればその役割を果たせたと言えるのではないかと考えている。
そうであれば、たとえ住む人や建物の用途が変わったとしても永く使われるかもしれないし、多くの建物がそのように存在していればきっとその場所は豊かな場所になるように思う。

そのためにも、建築もしくは住宅が自立するためにはどうすればいいかを考え続ける必要があるように思う。




物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾)

隈 研吾 (著)
エクスナレッジ (2015/9/19)

隈さんの本やアフォーダンスの本は時々読んでいる。
けれども、アフォーダンスで環境を読み込み設計を行うプロセスに関するものは何度か目にしているが、環境となる建築そのものの現れに関する具体的な事例はあまり見たことがないように思う。

足がかりとしてのオノマトペ

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。
そこにアフォーダンス的な知覚、身体、体験といったものの感覚を載せることでモノと人との関係を調整しているように思われるが、その感覚を載せられる(体験を共有・拡張できる)という点にこそオノマトペの利点があるように感じた。

出来上がった作品や手法を見ると一見モダニズム以降の定番のもののようにも思えるが、そういった視点で眺めるとオブジェクト・形態を設計するのではなく体験を設計しているという点で根本的な違いがあるように思えてくる。
いや、モダニズムでも体験は重要な要素であったかもしれない。では、違いはどこにあるのだろうか

物質を経験的に扱う

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。
モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。

人と物質との関係を表す圧力

本書では圧力という言葉が何度も出てきているが、オブジェクトとそれぞれのオノマトペから受ける印象を、人と物質との関係(圧力)という視点で漫画にするとこんな感じだろうか。

onomatope

翻って、自分がよく直面する予算の厳しい小さな住宅ではこれをどのように活かせるだろうか
ここにある多くの手法は予算的に難しいように思うが、反面、身体的なスケールに近いため注意深くオブジェクトになることを避けることで関係性を築きやすいような気もする。
そのためには自分なりのスケールに適合したオノマトペのようなものを見つける必要があるのかもしれない。

心地よさと恐怖感

また、写真を眺めていると、建築が自然のような環境としてではなく、ガイア的な生命をまとっているもののように見えてくる瞬間があった。そこでは何か、野生の生存競争に投げ込まれたような恐怖を感じた。
それは、写真を見ただけで実際に体験していないからかもしれないし、建築をオブジェクトとして捉えることが染み付いているからかもしれないし、アフォーダンス的な何かが生存に関わるなまった感覚を刺激したからかもしれない。(見る時で感じる時とそうでない時があるので体調にもよるかもしれない)
大きなスケールの場合、もっと環境そのものと同化するような工夫がいるような気もするし、なまった感覚の方に問題があるような気もする。この辺のことはよく分からなくなってしまったので一度体験して見る必要がありそうだ。




ケンペケ03「建築の領域」中田製作所

6/6に中田製作所のお二人を招いてのケンペケがあったので参加してきました。
今回はレクチャー1時間前から飲み始めてOKというプログラムで、なおかつ公式レビューは学生さんたちの担当だったので気楽な気持ちで飲みながら参加。
(体調不良もあったのですが、雰囲気が良くて飲み過ぎてしまい早々にダウン気味に。いろいろお聞きしたかったのにちょっともったいないことをした・・・)

公式レビューは近々学生さんたちからアップされると思います。なので、あまり被らないようにイベントの感想というよりは自分の興味の範囲で考えたことを簡単に書いておきたいと思います。(と書きながらめっちゃ長くなった・・・)

「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。そして、その視点から中田製作所、HandiHouse Projectの取り組みには以前から興味を持っていました。

このブログやフェイスブックで何度か書いているので重複する部分も多いですが再び整理してみようと思います。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が分断されている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものとして成立していて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている。また、その分断化には「所有すること」の意識が強くなったことも寄与していると思います。

先の引用のように、建てることと分断された住まうことは、住まうことの本質の一部しか生きられないのだとすれば、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるか、と言うのが命題になると思います。
ただ、私の場合はあくまでそこに住まう人にとっての本来的な「住まうこと」、言い換えればリアリティのようなものを取り戻したい、というのが根本にあります。ただ「建てること」を取り戻したい、のではなく「住まうこと」を取り戻したい。よって、そのために「建てること」を「住まうこと」の中に取り戻したい。という順序であるということには意識的である必要があると思っています。

では、どのようにすれば「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができるでしょうか。

これまで考えたり今回のイベントを通して考えた限りでは3つのアプローチが思い浮かびます。

1.直接的に「建てること(つくること)」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「建てること(つくること)」に巻き込むことによって「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す方法があるかと思います。中田製作所のアプローチはこれに近いかもしれません。
これはそのまんま建てることを経験するので効果は高いと思うし、その後の効果の持続も期待できるように思います。
原因となる分業化のタテの構造そのものを並列に転換するようなアプローチですが、建てることの中にいろいろな住む人と並列した存在が入り乱れるような状態が生まれ、それによって「所有すること」の意識も解きほぐれるような気もします。(たぶん、それによって違う展開が可能な気もしますがとりあえず置いておきます。)

2.「建てること(つくること)」の技術に光を当てる

住まう人が直接つくることに関わらない限り、この分断は乗り越えられないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば建てる(つくる)行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置する、という行為になってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこではまだつかうこととつくることの間の連続性は保たれていたのだと思いますし、その連続性の中に職人の存在する意義があった(つかう人に「つくること」を届けることが出来た)のだと思うのです。

ですが、工業化された商品を配置するという行為だけではつかう人のつくるという行為を職人が代弁することは困難ですし、それではつかうこととつくることの連続性における職人の存在意義は失われてしまいます。職人が職人でいられなくなると言ってもいいかもしれません。

ここで、1のセルフリノベのようなことが職人の居場所を奪わないか、また技術をどう継承するか、といった疑問が浮かんできますが、私は必ずしも相反するものではないと思っています。
セルフリノベ自体は「つかうこと」と「つくること」の連続性とそこで生まれる喜びを人々の中に取り戻すことができる一つの方法だと思います。
だとすれば、セルフリノベのようなことによって先ほど書いたような職人の存在意義が浮かび上がってくる可能性があるように思いますし、対立ではなく同じ方向を向くことでお互いの価値を高め合うことができる気がします。
セルフリノベによって浮いた予算を職人の技術にまわすような共存の仕方もあるかもしれない。

ここで、どのような技術がつかう人のつくるという行為を代弁しうるか、というのはなかなか捉えにくいように思いますが、その技術に内在する手の跡や思考の跡、技術そのものの歴史などがおそらくつかう人のつくるという行為を代弁するのではという気がします。
そういう代弁しうる技術があるのだとすれば、そういう「建てること(つくること)」の技術に光を当てることが、「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことにつながるように思います。

3.「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く

もう一つは設計という行為に関わることです。(この場合設計という行為は図面を書く、ということに限らない)
先ほど職人の存在意義のようなことを書きましたが、これはおそらく設計者の存在意義に関わることです。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。 (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

簡単に説明することは難しいので、引用元のページを読んで頂きたいのですが、例えば、『建築に内在する言葉(坂本一成)』で書いているような象徴に関わるような操作や、先の引用元の設計コンセプトなどによって「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く共通の概念のようなものを生み出すことによって、住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができる可能性があるように思います。

設計という行為の中にもそういう可能性があると信じられることが大切で、設計者はそれが実現する一瞬のために皆もがき続けているように思いますし、その探求の中にこそ設計者の存在意義があるのでは、という気がしています。

つくりかたを試行錯誤する

とりあえずは、上記の3つが思い浮かびます。これらは新築とかリノベとかの別はなく、おそらくプロジェクトに応じて適切なバランスのようなものがあるように思いますし、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っていると思うのでそのあたりのバランスには敏感でありたいと思っています。

自分自身は新築住宅の設計の仕事が多いのですが、お客さんと一緒につくるようなこともしますし、予算が許せば色気のある技術を使いたいと思います。当然設計そのものが持つ力も信じて取り組みたいと思っています。そうしながら、最初に挙げた生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるかというテーマに応えられるようなつくりかたを、さらに試行錯誤して考えていきたいと思っています。

途中「設計はなるべくクオリティを高めたい、施工はなるべく簡略化して利益を出したい、その相反することをどう乗り越えるのか」というような感じの質問が出ました。それに対して「相反するものではないような気がする」というような応答があったのですが、自分のこれからにも関連しそうなので少し考えてみます。

私も、予算を抑えることが主な理由で一部自分で日曜大工的につくったり、お客さんと一緒に塗装をしたりしています。
最初はその作業をボランティアのように位置づけていたので「設計料は貰っているけれども、無料でそれ以外の仕事をするのはプロとしては好ましいことではないのではないか。なにより本職のプロに失礼ではないか」と悩む時期がありました。しかし、ある時に「名目としては設計監理料だけれども、これは「建築を建てることでお客さんが最終的に満足する」ということをサポートする行為に対する対価として頂いている」と位置づけることでその悩みは解消することが出来ました。その目的のために手を動かすのはおかしいことではないし、その対価も含まれていると考えれば納得できる。

考えてみれば、設計も利益を出そうとすればクオリティなど言わずになるべく考える時間を減らし簡単に済ませたほうが効率的なはずです。しかし、なぜ設計者の多くがそうではなくクオリティのために自分の時間を捧げるようなことをするかというと、やはりお客さんに一番近い位置にいるからで、お客さんの満足度を高めることが最終的には一番自らの利益につながると考えるからだと思います。また、なぜ施工が簡略化して利益を出したいと思うかといえばお客さんからの距離が遠くなってしまっていて利益を出す構造がそこにしかないからだと思います。(多くの公共工事の設計はお客さんの顔が見えないので効率を求めるような思考が強い気がします。また、お客さんの満足度をしっかり考える施工者が多いのも知っているので、意識の問題というより構造の問題かと思います。)

そうだとすると、中田製作所のように設計も施工もお客さんと横並びの状態に変えられた段階で先に上げた相反する構造は解消されるような気がします。皆がお客さんに近い場所で同じ方向を向くことができる。

自分のことに置き換えると、最近、つくりかたを変えていこうとする場合に、「お客さんの満足度を高める」ということを見失わずに、なおかつ利益を出すようなつくりかたをどうすれば実現できるのか、と考えることが多くなってきました。
今は設計監理料(という名目)の枠組みの中でできることを模索している段階ですが、もう少し大胆な方法もあるのでは、という気がしています。

時々ちょっとやり過ぎて自分の首を絞めたり、周りに負担をかけてしまうことがあるので何とか探り当てないといけないと思うところです。




四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

河本 英夫 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014/5/23)

前回の記事で紹介した動画の音源をスマホに落として繰り返し聴いたのだが、まだ上手く飲み込めないでいた。
その動画の中で「理解・応用しようとしても本人の経験は一歩も前に進まない。経験を開かないとダメ」というようなことが言われていて、それがどういうことなのか自分なりに掴んでおきたかった。
また、動画の内容を文字起こししたものが欲しいと思っていたところ、どうもそういう内容の本がありそうだということで買ってみた。

オートポイエーシスの経験 少年のモード

あとがきに

オートポイエーシスの入門版を、オートポイエーシスに関連するキータームをほとんど用いないでやってみている。そこではオートポイエーシスの構想を知るのではなく、オートポイエーシスという経験を感じ取ってもらうための数々の工夫を組み込んだつもりである。

とあるように、第一章から第三章までは寺田寅彦・マティス・坂口安吾といった具体的な人物を取り上げ、経験を開くというようなことがどのように実現されているかが示される。
ここまでほとんどオートポイエーシスという語は現れず、ようやく終章でオートポイエーシスについて語られる。この終章はかなりの部分が動画の後半と重なっており、まさしく期待していたような内容だった。

しかし、やはり終章は論のまとめのような感じなのでどうしても理解・応用のサイクルに落ち込みそうになる。
その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章の方が自らの経験を開くための「原型」として作用しそうな予感が持てた。なのでそこで感じたことを書き留めておきたい。

さて、はじめにの部分で「少年老い易く学成り難し・・・・」を引用し、「少年」とは時間区分ではなく経験のモードだと捉える。
少年の時期が過ぎ去ってしまうから学成り難しではなく、少年のような柔軟な経験のモードがまたたくまに老いてしまうので学成り難しなのである。

その柔軟な少年の経験モードを維持し続けられたとして取り上げられたのが先の三人であるが、私もあと一月を待たずして40代に突入する。この時期に来て「少年老いやすく」ということを急に強く感じるようになった。
少年だと思っていたモードがなんだか急激に老いてきているのでないか。
やっぱり瑞々しい気持ちで仕事でも何でもやり続けたい。そういう分かれ目という意味でわりと重要な一年な気がしているので何とかヒントだけでも掴んでおきたい。

まずは、寺田寅彦、マティス、坂口安吾、それぞれの章について簡単に(現時点で感じた範囲で)まとめておきたい。

不思議さのさなかを生きる 寺田寅彦

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。
寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。

焦点化しない注意を活用するには、どうすればよいのか。意識に力を込めず、感覚を目一杯開いて、感じられるものを宙吊りにしたり謎のまま維持してみる。「何が起きているのだろうか」という感触を維持するのである。

アナロジーは、なにか類似したものを手掛かりに思考していくやり方であり、最終的なものを求めず、また行く先が決まっているものでもない。言語的に見れば、比喩能力に近い。(中略)アナロジーはそうした経験の試行錯誤の場所なのである。

寺田寅彦の科学的思考は、現象を原理に帰着して分かったことにするのではなく、むしろ隣接するアナロジーをずらしながら考察するようなものであった。またそのことを活用して、多くの現象を見る眼を形成したのである。

像的思考とは、直接現象を思い浮かべるような経験の仕方であり、像の連鎖で物事を考察するような経験の仕方である。語を学び、概念を学ぶと、どうしても意味や内容で、語を理解してしまいたい誘惑にかられ、またそれで分かったように考えてしまう。ところが像的思考は、くっきりと像になるものをベースに考えていくのである。

こうした態度の中から生まれたのがまさにオートポイエーシスであり、アフォーダンスだと思うし、ホンマタカシのブレッソン-ニューカラーの議論も頭に浮かんだ。(ニューカラーは問いを宙吊りにし開かれている感じがする)

また、建築の分野ですぐに頭に浮かんだのは谷尻誠の「初めて考えるときのように」と藤本壮介のちょうど今開催されている個展である。

「最近僕が見つけたやり方は、“名前をなくす”ことです。たとえば“コップ“は液体を入れて飲むことに使う道具ですが、それ以上のものではありません。でもその名前を取ってしまえば、花瓶やペン立てに使おうとか、金魚を飼おうとか、積み上げて建物を作っちゃおうとか、自由な発想が出てくる。すると結構いろんな使い方が想像できて面白いんですよ。レールが引かれている今の世の中ではすべてのものに名前が付いていて、それが使い方を規定しています。だから、いったん名前を外して『これって何をするものだろう?』と向き合うことにしたんです」(初めて考えるときのように | 谷尻誠 | TheFutureTimes)

「こっちですよ、と指し示されているものからどうやって逸脱するか。それを一生懸命に考えています。たとえば『カフェを作ってください』と注文されると、途端に“カフェ”という名前が僕を支配するんですよ。カフェは普段から知っている場所だし、ある程度のものは誰でも作れちゃうんですよね」

「名前がないと何をやっているかわからないし、どこへ行ったらいいかもわからないから、本当はすごく難しいんですよ。逆に、新しく名前を付けると『それになる』という面白さもあります。家ができあがってポストをどうしようかとなったときに、ただのワイン箱に『POST』と書いて置けば、きっと郵便物が入るはず。名前には、物事を変換できる強さもあるんです。“取ること”と“付けること”、どっちにも面白さはあるんじゃないでしょうか」

言葉をとることによって問いを宙吊りにし、言葉を付けることによってアナロジーをずらしながら新しい経験のモードへと導いていく。それは、直感的に編み出した少年を維持するための方法とも言えるだろう。

こうして批評してくれるのはありがたい。一方で、この展覧会は、あるいは、建築というものの総体は、このような分析的な記述では、重要な部分がするすると抜け落ちてしまうということに気付かされ、反語的に、建築の本質をあぶり出してくれた形だ。これも言語かされたゆえに見えてくるもの(Sou Fujimoto Twitter 11:29 – 2015年4月28日)

この展覧会を見たわけではないが、挙がってくる情報を見る限り、アナロジー・原型的直感の種となるようなものが大量に羅列されているようである。おそらくそこには寺田寅彦のような少年のモードを維持するための留保への意志が強く現れている。

これに対し、

藤本さんが何か発表するととりあえず何か書いて、「言葉にするとこぼれ落ちるものを追い求めたい」と返されて、というサイクルを10年くらい続けており、もはやパターンw 藤本さんの創作には役に立たなそうだけど、藤本さんの奔放さに惑わされそうになっている人(=自分)にはたぶん役に立つw(Ryuji Fujimura Twitter 13:12 – 2015年4月28日)

というような返しもあったが、そこには方法論に対するスタンスの違いがあるのかもしれない。
藤本氏はおそらく個人的な創造という行為に関わる経験のモードを直接的に方法論として提示しているように思う。それは、あくまで経験のモードの提示であって、安易にかたちだけを真似をしようとすれば個人の経験が開かれるどころか帰って狭い領域に閉じ込められる危険性をもつように思う。
一方、藤村氏は直接的に経験のモードを提示したり、強調することはしないが、具体的なプロセスを記述し、それをなぞることによって間接的に新しい経験のモードが開かれるような方法論となっているように思う。経験のモードを方法論に埋め込むことによって、真似による再現可能性が目指されているのかもしれない。このプロセスによって経験のモードが開かれる度合いはおそらく経験する側の感度や意識による部分が大きいように思われるが、そこに意識的になれずに小さな振り幅にとまり誤解を受ける、といった危険性もあるように思う。

両者は

方法論という言葉、難しいですよね。いまだにニュアンスつかめません。近くに方法論を語る友人が居て、彼は自分が考えやすくするためのものだ、というようなことを言います。僕は他人が実践できるものだと言います。平行線です。笑@onokennote(山口陽登 Twitter10:01 – 2015年4月28日)

とコメントいただいたようなスタンスの違いによるもので経験のモードを開くという一点では同じ方向を向いているように思う。ただし、藤村氏が後でつぶやいていたように、そのスタンスに意識的であるかどうかは重要な点であろう。

例えば、藤本さんが「立原道造」なら自分はやはり「丹下健三」を目指そうと考える。そんなことどうでもいい、という人もいるけれど、創作の方向に自覚的になると成果物の精度も変わって来るし、さらには依頼される仕事も変わって来る。創作の方向が曖昧だと、作るものも曖昧になる気がする。(Ryuji Fujimura Twitter 13:44 – 2015年4月28日)

身の丈を一歩超え続ける アンリ・マティス

マティスの画法は、つねに方法の一歩先にどのようにして届かせるかにある。そしてそのことが新たな快の感覚を生じさせるように、色の配置を組み立てていくことを課題にしている。(中略)経験の境界を拡げていく作業は、境界をぐるぐる回りながら、気がついた時には境界そのものが変容し、拡張しているということに近い。マティスは、繰り返しこうした課題に踏み込んだのである。

ここでは「想起 再組織化」「佇む」「快 装飾」「強度」「存在の現実性」「経験の拡張」といったものがキーワードになるように思われる。

個人的には創作の現場として具体的にイメージがしやすく最も入り込みやすい章であった。引用しておきたいヶ所は膨大になるがなるべく絞って引用しておきたい。

反復は、反復のさなかで過去を想起することであり、想起する経験の中で、過去を何度も再組織化することである。想起は、単なる呼び出しではなく、そのつど再組織化が働く。

そのため自分自身で新たな局面や新たな経験の仕方が見つかるまで、その場で「佇む」ことが必要となる。そしてそこから一歩踏み出せるまでの「こだわり」も必要となる。「こだわる」ことは、もちろん固執することではない。

つまり「影響」というのは、不適切なカテゴリーなのである。むしろ学んだものを、みずからの制作へと組織化し、そこに固有のプロセスが出現するように経験が進んでいくのだから、そうした自己組織化のプロセスこそ問われるべきものとなる。

身体そのものも、まさに存在することの喜びにあふれている。(中略)この喜びが見る者にとっての快につながるように作画することができる。こうした喜びにあふれた顔を描こうとすると、細かな技術による丁寧さが、むしろ邪魔になってしまう。あることの自然性に向かい、このおのずと自然性であることの喜びに到達するためには、落とすことのできるものはすべて徹底的に落としていくことが必要であり、さらには在ることの「強さ」に向かうことが必要である。(中略)こうした効果を、マティスは「装飾」と呼んだ。装飾とは、こうした存在の喜びにふさわしい色と色の配置を見出すことである。

こうした経験の形成される場所を見出してしまうと、絵画はもはや鑑賞の対象でもなければ、立場や観点の問題でもなく、技法の現実化という方法の問題でもない。経験の形成の場所という課題を見出したことによって、彼らはともかく前に進み続けたのである。このとき、作家はすでに少年であり続けることの条件を手にしたのである。

こうした場面での感性の品格にかかわるような解があるに違いない。マティスの作り出そうとした快は、この感性の品格に届かせるようなものだったのである。

触覚から出現する事象を、視覚的な場所に写し取ることこそ、マティスが終生企てたことであり、すでにして終わりのない少年を生きることになった。

一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されるだけであれば、作品の現実は貧困になる。

キュビズムの圧倒的な広がりのなかで、マティスの行った選択が何であるかが今日少しずつはっきりしてきている。作品を作ることがかたちのヴァリエーションではなく、つねに一つの発見であるような、色とかたちの釣り合いを求め、幾何学的な比率と色彩の比率が釣り合う地点を、色の側から求め続けたのである。

飽きは、おのずと出現する選択のための積極的なチャンスである。ここでは無理に別のやり方に変えても、ただちに頭打ちになる。というのもその場合には、観点や視点で別のことをやろうとしているからである。このときいまだ経験が動いていない。次の回路が見えてくるまで、しばらくは宙吊りにされた時間や時期を過ごさなければならない。

何か刺激的で面白いと感じられたとき、それは多くの人にとってたんに刺激的である。そこから更に進めて、何か固有の経験の拡張がなければ、実はまだ何も見ていないことになる。

制作プロセスと作られた作品は、異なる次元にあり、二重の現実として成立している。制作行為で考えると、制作する行為と作品の間で、埋めることの出来ないギャップを含みながら、作品は固有の現実性として成立することになる。ここに制作行為での創発(出現)がある。ある意味で、作品は制作プロセスの副産物であり、このプロセスから手が届かなくなった時に、作品は出現する。あるいはある構想やアイディアを抱いた時、それを直接制作しようとするのではなく、ひとときそれらを括弧入れして、まったく別様のプロセスを進んでみる。そのプロセスの副産物が、当初の構想やアイディアの現実のかたちであるように、プロセスを進んでみるのである。

マティスが行ったのは、そのつどプロセスで経験が拡張するように進むことであった。そのプロセスの副産物が、出来上がった絵画である。ところがこうした制作プロセスのうち、変形のプロセスは、極めて特殊なものであることが分かる。つまり方法的制御のもとで、行く先はほぼ決まっており、作品が完結するのはテクニカルな改変の終了である。

多くの場合、課題を変形して、ただちに対応できるものにして、用済みにしてしまう。つまりさっさと終わったことにしてしまうのである。しかしこうした課題をペンディングにしたままにしておくと、何か最初に受け取ったこととはまったく別様のものが見えてくることがある。

マティスは一貫して、どのような技法に対しても、そこに含まれる可能性を拡張していけばさらにどのような経験の拡張が可能になるかを考えていた。

ピカソは、由来が不明になるほど変形をかけて、変形のプロセスが停止する場所を探すことの名人芸に達している。これに対して、マティスはそれぞれの技法に含まれる可能性を、最大限に発揮できる場所にまで進めていく名人芸に達している。その意味でピカソは終生子供であり、マティスは何度もみずからをリセットする少年であり続けたのである。

こうして挙げてみて、これらは二つに分けれられるように思った。
「快 装飾」「強度」「存在の現実性」などの部分はマティスが目指したもので直接経験のモードに関わらないもの、「想起 再組織化」「佇む」「経験の拡張」などの部分は少年の経験モードに直接関わるものである。
そして、この両者において非常に勇気づけられた。

前者は、個人的に建築を考える上で共感する部分が多く、それらはこのブログでしつこく何度も書こうとしてきたことと重なる。そういう意味では自分は少年であり続けるための条件を手にしているのかもしれない。それはとても幸運なことのように思う。

後者では、今まさに40を迎えようとする、若干の飽きと迷いの中にある自分に一つのあり方を示してもらえたような気がする。今の状態を決して悲観的に捉える必要はなく、次の回路が見えてくるチャンスとして捉えればよい。固執することなく経験のモードを開きながらこだわり佇んでよいのだと勇気がもらえた。重要なのは経験を拡張していくための構えのようなものであろう。

また、建築に関して思い浮かんだのはコルビュジェであった。
コルビュジェは方法に関していろいろと言ったり、古いものを見て(今的に言うと)つぶやいたりしている。しかし、そこでは常に経験の拡張のようなものが目指されていて、まさに「身の丈を一歩超え続ける」少年のようであったように思われる。

成熟しないシステム 坂口安吾

坂口安吾は、人間の自然性をある種の「どうしようもなさ」に置いた。そこから救われようとするのでもなく、またその状態を変えようとするのでもない。達観することも、宿命や運命に委ねることも、余分なことだと感じられるような場所がある。そこには引き受けたり、引き受けなかったりするような選択性が、一切効かない「どうしようもなさ」がある。それは生きていることの別名であるような、生の局面にかかわっている。(中略)そしてこの「どうしようもなさ」に見いだされる美観から日本文化の特質を取り出した。安吾はおよそ本人に面白いと感じられるものは、何でも実行したのである。

ここでは安吾の作品の資質として「無きに如かざる精神の逆転」「人為を限りなく超えた、さらに一歩先」「成熟もなく老いることもない」「あっけらかんとした情感」といったものを挙げている。
しかし、この章は創作そのものというより安吾の生き方そのものようなものを浮かび上がらせており、まだうまくつかめないでいる。

ところが成熟とは無縁で、熟練することが一つの後退であるかのように、経験の履歴を進み続ける者がいる。まるで老いることが他人ごとであるかのように、もはや老いることができなくなってしまった一生を当初より進み続ける者がいる。見かけ上は停止や堂々巡りに思える。だがそれでも延々と進み続けるのである。これは異なる経験の仕方であり、別様に経験の蓄積を生きることである。たんにその都度不連続に作品を作り続けるのではない。不連続に作品を作り続けても、対象の種類が拡がるだけで、いわば様々な領域で食いつぶしを行っているようなものである。
だがそれにもかかわらずなお前に進み続ける者がいる。(中略)それらを総称して「一生、束の間の少年」と呼んでおく。

坂口安吾は、多くの領域で延々と書き続けた作家である。だが作品の技術が向上している様子はない。場合によっては、下手になっていると感じられる場面もある。しかし安吾自身は、上達することをどこか嘘だと感じている。

作為の意匠や工夫をどこかよそよそしく感じ、そうしたものとは別様に出現する現実が、紛れも無い本物だと感じられる場所である。個々の意味の深さではなく、ある種の直接経験の強さが出現する場所こそが、こうした「ふるさと」になぞらえられる経験の局面である。それは安吾の経験の出現する場所であり、生きていることがそれとして別様になりようもない場所である。そしてそこでは意匠の美ではなく、経験の強さこそが問われる。ここでは、美とは一種の経験の強さの度合いのことである。

強さの度合いを感じ分けながら、そこに出現する自己を生きている存在が、安吾の「束の間の少年」である。

それは感性を拡張しようと目指すことではない。むしろおのずと拡張になるように、経験のモードを変えていくことである。

安吾の美観は「どこか違う」ということを感じ取る感性にあるように思われる。それは成熟に向かうことを拒むことによって経験の強度を維持しようとする意志のようにも思われた。

普通は生きていく上で、いろいろな余分な考えが浮かび、その誘惑によって行動してしまうことが多いように思う。個人的にも、例えば作ったものを同業者に良く思われたいと言ったその手の誘惑は多いし、それによる不自由さのようなことを考えることも多い。
そういった局面において「どこか違う」ということを感じ取る感性を発揮し経験の強度を維持できるかが分かれ目にもなるのだろうし、それは建築としても現れてくるものだと思う。

これに関して思い浮かんだのは内藤廣の有名になる前のエピソードであり、自分の感性を信じる強さのようなものであるが、この章に関してはもっと自己と感度良く向き合わなければ見えてこない部分も多いのかもしれない。

方法論について

今、私たちの世界に対する認識の方法はこれまでの歴史の中で形成されてきたものであり、可能性の一つとしてたまたまこうなった、という類のものだと思う。それが私たちのものの見方、経験の仕方を相当に狭めていることは間違いないだろう。
なぜ私がオートポイエーシスやアフォーダンスといったことに可能性を感じるかというと、通常世界を認識しているのとは少し違う(違う歴史を経ていればあたり前であったかもしれない)別の見方を垣間見せてくれるからで、それによって多少なりとも自由に振る舞えるようになると思えるからだ。(たとえば西欧文化にどっぷり浸かった人が東洋の文化にはじめて触れた時に感じる可能性と自由のようなものだろうか。)

その振る舞い方というのはおそらく設計の場面においても根幹の部分で強く影響があるように思う。
それに関連して、何か方法論のようなものを持ちたいとこのブログでも何度も書いている。

方法論とは何なのだろうか。
うまくつかめないでいるし、そのスタンスもいろいろなものがあるように思う。
その中で、自分にとっての方法論とはおそらくそれを世に問うといっただいそれたものではなく、自らの経験を前に進めより良い建築を生み出せるもの、といった範囲にあるものではないかと思う。

それは、世に問うことを否定しているのではなく、自分というシステムを起動し有効に働かせることのできる半径がおよそこれくらいという感覚からくるものである。その辺りの規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまうのではという感覚がある。

その上で、方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。
むしろ、そういう具体性を際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。という気がしていてこの本を手にした。

例えば、方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えてみる。

要望を聞き条件を整理し形を探る。それは当たり前のことだけどその中から具体性が浮かび上がってくるように思うし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。
だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

そう考えると少し気持ちが楽になった。
今取り組んでいることに、当たり前に取り組んでいく。それは、当たり前のことを単に繰り返すのとは違い、少年のように試行錯誤を繰り返すことで経験が前に進んでいくようなものであるはずだ。

「四十にして惑わず」とある。これを河本氏的に解釈するとすれば、四十になって成熟の域に達し迷わなくなる、ということではないだろう。三十代までの紆余曲折を経て、取り組むべき課題に確信を持ったことで堂々と少年のモードに再び戻る準備ができたと言うことではないだろうか。そのための実践の場もこのころにはある程度準備ができているだろう。

自分も確信を持って四十の少年モードに突入していければと思う。

終章 オートポイエーシス少年

最後に終章で気になったところをいくつか抜き出してメモとして残しておく。

ドゥルーズの哲学とオートポイエーシスに共通の課題は、世界の現実的な多様性を出現させ、その多様性の出現が各人の経験の固有性の出現に連動するような仕組みを考案することである。

実際には、プロセスと産物を区分しておいた方が経験を拡げていくためにははるかに重要である。たとえば芸術的制作を行うさいには、プロセスの継続の副産物として作品が生み出されるのであって、作品に向かってそれを作ろうとした、という事態はほとんどの場合成立していない。

このおのずとシステムになるという感触がオートポイエーシスの構想にとってはとても大切なところである。

こうした自在さは、配慮や熟慮とはあまり関係がなく、ましてや視点や観点を切り替えることとはまったく関係がない。必要なのは経験の弾力であり、経験の動きである。このときこうした経験の弾力を備えた現実の姿を、具体的個物で表そうとすると、それが「少年」となる。少年は、発達の一段階ではなく、ある経験のモードの「原型」なのである。

どうしても踏み出せない場合には、こうした作業の手本となるものが存在している。だがそれを読んでしまうと言葉の迫力と現実感に圧倒されて、自分で前に進むことなどできなくなる。(中略)これらを真似ようとすると、間違いなく二番煎じ以下になる。そのため一度忘れて、その後それを思い起こすようにして、自分自身の言葉を作り出していく。想起とは、過去からの選択的な創作である。

ここに必要とされるのが経験の弾力である。というのもあらかじめ方法的にどうするのかが決まっているわけではなく、経験にとって最も有効な仕方を試行錯誤して探しださなければならないからである。

理解したから応用できると思って、やってみると何ひとつ前に進んでいない、ということが起きるのである。こうして気がつけば、理解から応用に進んでしまっている場合は、一度理解したものをすべて捨てたほうが良い。捨てることは、積極的な試みであり、捨てたものが再度経験の中から出現してきたとき、想起されたものはすでに選択され内化している。それがみずからオートポイエーシスを内面化することである。

持続的に息長く仕事をできている場合にも、多くのモードがある。それを真似て同じようなやり方をしても、二番煎じ以下になるが、それは作り出された表現のかたちを真似ようとするからである。むしろある経験の動かし方の特徴を取り出せれば、それを活用できる場面で選択することはできる。




「環境」についてのメモ

昨日運転中に山口陽登氏の講演の音声を聞いて自分なりに環境という言葉を整理したくなったのでメモ。

以前とあるシンポジウムで何人かのデザイナーの話を聞いた時に、その一人がアフォーダンスという言葉を使われていた。
それで懇親会の時に色々と聞いてみたのだけど、昔流行った言葉で、”椅子は座れる”のようなことを難しく言っているだけだよね、という感じだったのですごくもやっとした。

環境とは何かということとつながるように思うけれども、そういった機能と形態が一対一で固定化しているということとは全く違うのではないか。

環境そのものに情報が埋め込まれている、と言ってもそれは受け手との関係性の中から発見的に浮かび上がるものであって、その関係は無限にあるはずである。それを一対一で固定化するのでは、その通り機能主義を難しい言葉に言い換えただけで何の発展性もないだろう。

それでは一種の制度として振る舞ってしまうようになった機能主義に対して、新しい地平を開くチャンスを与えてくれる概念を再び制度の内に閉じ込めてしまうようなものだ。

先の講演の感想でも書いたように、固定化・陳腐化した環境という言葉を受け手の活き活きとした経験に開くことで再び実践状態に戻すことが重要であって、どうすれば関係性の鮮度を維持できるかがデザインの課題になるのだと思う。

そういう意味では「環境」とは常に開かれた可能性の海のようなものであるべきだと思う。

では、そのために具体的にどのような方法が考えられるだろうか。

一つは、機能と形態を一対一で対応させて考えるのではなく、状況をつくるという態度に留めることで機能が具体的な像を結ぶことを注意深く避ける事だろう。それによって、機能が単体でフォーカスされずにぼんやりとした全体の空間・時間の中に溶け込ませることができるかもしれない。(ホンマタカシ氏が言うブレッソン的なものではなくニューカラー的なもののように)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

もう一つは島田陽氏の建築と家具の扱いが思い浮かんだ。
建築の機能を引き剥がして家具的なものに置き換えることで「環境」や「機能」のあり方に変化を与えている。
この時、建築を家具に置き換えることは普通に考えると機能と形態が一対一でより強く結びつきそうな気がするがどうしてそうならないのだろうか。(一般的に家具は機能に対して補助的に与えられるもののように思う。)
よく見てみると、建築の機能を家具に置き換えると言っても、例えば階段が棚や箱になったり、トイレが収納になったりともともとの機能からずらして弱めることで一対一に固定化することを注意深く避けているように思う。
そこにはやはり環境との出会いが状況として用意されている。

このエッセンスを自分なりに展開したいところだが、すぐに思い浮かぶものでもないので実践の中で発見できればベストだと思う。

最後に、先ほどのシンポジウムで最後に話をされた某デザイナーが思い浮かんだ。
徹底した客目線を実践し、目立つデザインではないが繁盛店を次々と産み出しているという方なのだが、話の途中で突然マイクで話すのをやめ地声で語りかけるように話をされた。
なんともないことだけどこれは結構心に響いた。
こういうシンポジウムで話すときにはいい話をしようと思ってしまうものだと思うが、どういう人が集まっているか分からない小さなシンポジウムであってもきちんと伝える、ということに手を抜いていないのが伝わってきたし、いや、この人はお客さんにモテるだろう、と思わされた。
徹底した客目線で考えたものを何でもないデザインとしてまるでデザインされてないかのように施している。それは、おそらく受け手の経験に対して心地よく開かれているだろうし、そこには気づかぬうちに環境との出会いが生まれているだろう。
アフォーダンスのようなものを体験的・実践的に獲得しているように思ったのだが、その態度の現れとしての場を感じることができたのは非常に貴重な経験であった。(後日、著作を読んでみたけれども、テキストからでは感じ取れなかったので尚更貴重だったと思う。)

やっぱり、まずは態度のイメージからだな。そのイメージの鮮度を保ち続けるための技術もおそらくあるはず。




ケンペケ02「建築の旅」光嶋裕介

kenpeke02

2月末にケンペケの2回目があり参加してきました。
今回のゲストは光嶋さん。

ケンペケとしてレビューを書いて蓄積していくということになったようで、今回のレビューにご指名頂きました。
(レビューアーは毎回変わるようです。)

感想等はケンペケホームページの方に書いていますのでご笑覧頂ければと思います。

レビュー02「建築の旅」光嶋裕介 | ケンペケカゴシマ

ブログで個人的に書きなぐることはありますが、こういう立ち位置で書くのは初めてなので結構大変でした。
ですが、いい経験でした。ブログもこれくらい読み返しながら書けばいいのでしょうが・・・。




新しい経験を開くー意識の自由さよりも行為としての自在さを B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』

河本 英夫 (著)
東京書籍 (2002/7/1)

十年以上も前の本であるが気になったので読んでみた。
オートポイエーシスの第一人者である著者と様々な分野の第一人者との対談集であるが、まずは著者の知識の広さと深さに驚かされる。(対談中、著者が対談者にかわって他分野の詳細に対する解説や意見を長々とする場面が何度もある。)

一部前記事と重複するけど、とりあえず断片的なメモをもとに感じたことをいくつか書いておきたい。

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか
その不自由さの中からあえて自由さを突き抜けるという建築の可能性ももちろんあるだろう。
しかし、設計を行為だと捉え、そこでの自在さを獲得する自在な建築といったものの方にこそ可能性は開かれている気もする。

例えば僕がアフォーダンスやオートポイエーシスのようなものをなぜ読むのか。
何か方法論のようなものを身につけたいという気持ちがあったのは確かだが、それよりもむしろこのような(自由であるか自在であるか、世界をどのように捉えそれに応えるかと言った)態度のようなもののイメージを獲得する方が重要かもしれない、とだんだん思うようになってきた。

オートポイエーシスもさんざん道具・理論として扱われることが多かったが、著者はそれを否定する。

一般理論というのは、しょせんは一種の知的遊びに終わってしまう場合が多い。そうではなく、オートポイエーシスがある新しい認識の世界を開くのではないかということに私は期待しているんです。(中略)記述のための道具として使おうというのは、これを道具として使って、何かを主張したい場合です。主張することが問題なのではなく、経験を動かしていって何かを新たに作り出すことが問われている。だから第三世代システム論ではなく、第三世代システムと言い続けている。そのためのオートポイエーシスが何をやっているかというと、結局、ある種の経験の層をもう一度つかみあげてみようということです。そして、それが行為に関わっています。そこが論ではなく、行為なのです。

他にも「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てくるが、これができるようになるのはなかなか大変そうである。
藤村さんの方法論を自分なりに取り入れようとして、なかなかうまく設計に結びつかないのは、方法論に囚われすぎて、経験を開く、というようなことができていないからではないか。方法論を否定しているわけではなく、むしろ現状と方法論がマッチしていないため方法に入り込んで経験を開くというところまで行けてないからではないだろうか。
なんだか、怪しい話のようになりそうだけれども、もう少し経験を開くというような「状態」に意識を持って行って、そのために補助的に方法論を見つけていく、というような流れがいい気がする。

また、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたり

対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
もしかしたら経験を開く「状態」のイメージに時間軸・速度のようなものを加えたほうが良いかもしれない。

展覧会の関連企画での対談があり、その中での鋭い考察が印象に残った。

作品の経験においても同様のことが言えます。意味の方法的な分析の中に解消され得ない作品には、その経験の中に必ず「剰余」の部分が出てきます。その「剰余」というのは、作品に触れている時にずっと動いてしまっている身体や近くの記憶として残っていきます。つかりテクニカルな工夫・操作だけが表面に表れている場合には、既存の意味の枠を延長しているだけですので、そのプラスアルファの「剰余」がない。しかもこの剰余を意味の延長上に意味的な分からなさとして作り出すと、途端に見え透いてしまう。この剰余を作り出すには、身体の動きを活用するのが有効です。内化してしまっている身体の動きを同時に使うと、意味の延長からの想起とか逸脱とは全く違う、作品の経験に触れることができます。

この辺の領域をふんだんに活用したのがゴッホでした。かれは通常の人間の色彩感覚を超えた人です。ゴッホの黄は非常に収まりが悪い。ゴッホの絵を五分くらい見ていただくと分かりますが、どうもこの黄を見るために目の神経を形成しているところがあります。こういう絵によって形成運動が起こってしまうのです。すると、気づくと気づかないにかかわらず確実に強い記憶になります。(中略)つまり、作品に触れることがその経験を形成するところにかかわってしまっている。

大した経験が何一つないのに、テクニカルに人と違うものを作ろうとすれば、すべて意図は見え透きます。したがって、やはり経験が形成される回路を何とかして自分で踏み出してみるということが重要だろうと思います。そこの踏み込み方と、その継続の仕方を機構として表しているのがオートポイエーシスという構想です。この構想は前に進みながら、同時に自分自身を作り上げていくというところを機構化しているわけです。

佐々木正人氏がアート等を語るのも面白かったが、これらの言葉もすごい。前に書いた「既知の中の未知」とも重なりそうな気がする。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

おそらく新しい経験を開くというようなことと共に新しい空間が生まれるのであろう

あと、著者について調べていて下の動画を見つけた。
音源をスマホに入れて移動中に何度か聞いたけど、かなりぶっ飛んでいて面白い。意味は少ししか分からないけど。

1:57:40あたりから経験を開くというような話が出てきます。




ケンペケ01「建築のすすめ」山口陽登

kenpeke

12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。

ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。

アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html

SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。

SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou

食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
フェイスブックのイベントページより>

「環境」を面白がる

山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると

・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。

と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。

「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。

建築の不自由さ?

また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。

これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。

onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。

この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。

ケンペケに期待すること

鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。

こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。

とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。

そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。

とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。

なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。

最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。

あっ、レクチャーの動画貼っておきます。




個人設計事務所の課題と対応する設計プロセスを考える B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』

藤村 龍至 (著)エヌティティ出版 (2014/9/24)

早速『プロトタイピング-模型とつぶやき』と合わせて読んでみた。
これまでの取り組みをまとまった形で読んでみたいとずっと思っていたので待望の単著である。

氏の理論、手法、そして建築を取り巻く環境に対する態度のようなものをどうにかして自分の中の生きたものとして消化してみたいと思っていたし、このブログ(オノケンノート)で考えてきたことを実践に役立つよう具体的に落としこむための道筋を作らねばともずっと思っていた。
なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。

大きな問いとカスタマイズの前提

自分の中の大きな問題意識の一つは、自明性の喪失自体が自明となったポストモダンをどう生き抜くか、ということにある。
藤村氏流に言い換えると、全てが別様で有りうるポストモダンを、単純に受け入れ何でもありをよしとするのでもなく、単純に否定し意味や実存の世界に逃げこむのでもなく、それを原理として受け入れ、分析的・戦略的に再構成する第三の道としてどう提示するか、となるだろうか。

ポストモダンを受け入れた上でどうすればこれを乗り越えられるか。

それは批判的工学主義の持つ問題意識とも重なると思うし、新しい権力・アーキテクチャのもと茫漠とした郊外的風景をどう変えうるかという点で、私自身の問題意識の原点ともぴったり重なる。

超線形設計プロセスは私自身にとって大いに参考になると思われるのだが、ここで私自身の状況に応じたカスタマイズを試みたい。
具体的には小規模な建築物に対して個人事務所として設計にあたるという今直面しているケースを想定して考えてみることとする。

ここで最も影響が大きいのは組織形態が単独の個人事務所である、ということである。
「批判的工学主義の建築」では「その主体はアトリエ化した組織か、組織化したアトリエ」のような組織像とあるが、そのどちらにも該当しなさそうだ。
当然、組織化を目指すという選択肢もあるがそれは可能性としておいておき、あくまで個人事務所として先に上げたケースでの場合を考えてみる。

個人事務所のメリットとデメリット、その課題

まずは、カスタマイズに先立って個人事務所のメリットとデメリットを上げてみる。

メリット1:組織の維持コストが抑えられるので、それをクライアントに還元することができる。建築事務所があまり認知されておらず、低予算の案件の割合が大きい地方においては、うまくすれば生き抜くための一つの形態と成りうると考えられる。
メリット2:プロジェクト全体に目を行き届かせることができるし、組織内のコミュニケーションコストを抑えられる。

デメリット1:分業が出来ず、一度に掛けられるマンパワーが限られる。
デメリット2:複数の視点を得ることが難しく、視点の固定化・マンネリ化の危険性が高い。

個人による超線形設計プロセスの利用を考えた場合、経験的に言うとマンパワーと保管場所の点でプロセスごとに模型を作成し保管することは設計のリズムを維持する上でも負担が大きく難しい。

もし、手法の肝と思われるプロセスごとの模型の作成と保管を放棄すると考えた際、デメリットとして

1:コミュニケーションツールが失われるため、プロセスの共有が難しくなる。
2:立体的・視覚的に見ることによる課題自体を探索する機能が失われ、進化の精度・スピードが低下する。

の2点が考えられる。

1については組織内のコミュニケーションの必要性が小さいという本ケースのメリットによってある程度は緩和されると思われるが、少なくともクライアントとのコミュニケーションは必要である。
2については図面や3DCADによるパースやウォークスルー、また必要に応じて模型を作成することで、常に模型を制作せずともある程度は補えると思われる。

以上から、個人事務所がさらなる効率化のために超線形設計プロセスのプロセスごとの模型作成を省略し、これの利用を試みた場合に考えられる課題は

課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)

また、それらに加えて

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。

の4点が考えられる。

プロセスプランニングシート案

ここで模型のかわりとしてプロセスプランニングシートのようなものが利用できないか考えてみる。

A3用紙の左側に縮小図面やスケッチ・パース等を進捗に合わせてレイアウトし、右側にプロセスに関わるパラメータを記述する。
その際、右側のパラメーターは例えば、横軸にクライアント、環境、意匠・メタ、構造、設備を、縦軸に解決済み、検討中、新規、消失などとした表の中にプロットしていく(できればパラメータ間の構造も表現)。

これによって、左側は例えばディテールやインテリアなども表現でき総体としての比較精度は落ちるがプロセスをより詳細に記述できるようになり、右側はパラメーターの変遷もプロセスごとに一望・比較しやすくなる。

このシートをプロセスごとに作成しながら設計を進めていく。

また、設計作業を探索過程と応答過程に区分し、実際の作業も明確に分けて行う。

探索過程では、シートの内容を現在の環境として捉え、そこから新たなパラメーターを発見したりパラメーターの構造化などを行う。
『知の生態学的転回2 』における関博紀氏の考察を使わせていただくと、パラメーターの出現・消失・復帰・分岐、連結・複合などの操作を行うことになる。

応答過程では、シートの内容をもとにパラメーターと図面の不整合を取り除くべく設計作業を進めていく。

これらは『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』によるところの知覚・技術・環境に当てはめることができるだろう。

このように対応させることにより、生態学的な(知覚-技術-環境)の構造による循環に載せることが出来そうだ。

課題の整理

これは、先に上げた課題に対して

課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
→ プレゼン・打ち合わせ時等にクライアントとともにプロセスプランニングシートを順になぞることで、かなりのプロセスを共有できる。これによってプレゼンの精度を高められるとともに資料作成の手間を省略し効率性も高められる。また、思考プロセスを共有していないことによる無駄な手戻りも防ぐ効果も生まれる。

課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
→ 多くの事務所ではおおまかにはボスが探索過程を担当し、スタッフが応答過程を担当するといった形がとられているように思うが、それを視覚化しつつ一連の流れの中に意識的に配置することで単独でも効率的にこのサイクルを回せるようになり、探索機能を個別に確保できるようになる。また、協力事務所等に作業を依頼する際にもスムーズな連携がとれる。

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
→ このプロセスの生態学的な循環によって、建築を含めた環境は常に構造的変化を伴い固有性が高められると考えられる。

というように一定の効果があると思われる。

残る課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
であるが、これは課題A-2,3,4に対しても影響が大きいと思われる。

これまでブログで考えてきたことや経験してきたことはデーターベースの強化に役立てられると思うのだが、これを成果につなげるべくプロセスに組み込むにはどうすればいいだろうか。
また、どうのようにすれば探索過程によって発見したパラメーター間の構造を視覚化し、効率性と固有性を高められるだろうか。

ここで残された課題を、先の知覚・技術・環境に当てはめてみると

課題B-1:知覚・・・探索過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-2:技術・・・応答過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-3:環境・・・上記2つで見出された環境をどうすれば構造的に視覚化でき、循環の精度を高めることができるか。

の3つに整理できるように思う。

データベースの強化

個人的なメモのように位置づけているブログ(オノケンノート)は属人的課題のようなものを何とか言葉にしようとしてきたものである。
それを成果につなげるためには、これまで考えてきたことや経験してきたことを社会的課題や個別的課題を含めて探索過程と応答過程に分類し整理することが必要と思われる。

ブログでは「何を」考えなければいけないか、つまり探索過程を重点的に考えてきて、「どう」建築につなげるか、つまり応答過程については今後の課題として余り考えられていないと思う。

なので、まずはブログで考えてきたこと探索過程のデータベースとして整理し、次にこれまで経験したことをもとに応答過程のデータベースとして整理することを考えてみたい。

ここで整理する際に枠組みとして例えば以前考えた「地形のような建築」が利用できそうな気がする。

ここでは地形のような建築の特質として自立的関係性とプロセス的重層性の2つを挙げているのだが、

自立的関係性:これを高めるためには青木淳氏の決定のルールのようなものが有用かと思われる。こういった性質を持ったパラメータをデータベースとして整理する。

プロセス的重層性:プロセスを織り込むことは手法自体に組み込まれているので、ここでは重層化することができるパラメーターを並列的にデータベースとして整理する。

といったように整理する枠組みとして利用できないだろうか。これによって応答過程においてもパラメーターを成果に結びつけやすくなりそうな気がする。

ただ、プロセスを共有するためには相手になぜこの枠組を用いたのかを説明し理解して貰う必要が出てくるかもしれない。なるべく簡潔に説明できるようにしておく必要があるだろう。

これは一つの例で他にも統合してみたいモデルがいくつかあるので、枠組み自体は今後変化していくものと思われる。

終わりに

ということで、まずはシートのフォーマットを作成し実践に組み込むことから始め、平行してB-1,2,3の課題解決に向けて手を動かしてみようと思う。
また、この過程を通じてシステム自体の汎用性と固有性のバランスを調整し、徐々に固有のシステムへと変化させていければと思っているし、それには実践を通じて自分の環境自体にも同様の循環を重ねて発見とフィードバックを重ねる必要がある。まだまだ先は長い。

藤村氏の論の構造と流れについてはある程度は理解できたような気もするが、氏がデータベースの構築と運用をどのように行っているのか?多くは氏の頭の中にのみ存在するのか、それとも何らかの方法で共有がはかられているのか?興味のあるところである。




「発見される」状況をセッティングする B179 『小さな風景からの学び』

乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 (著)
TOTO出版 (2014/4/17)

前回の「デザインの生態学」の最後にも少し触れましたが、本屋でたまたま目にして購入したもの。

発見と創造をどうつなぐか

それらに魅力的な物が多い理由は、その場で提供される空間的サービスが、時間をかけて吟味され尽くしているからだと考えられる。その場で受け取ることのできる地理的、気候的、生態的、人為的サービスを何年にもわたって発見し享受する方法を見出し続けることで、その場における空間的サービスの最大化がなされたと考えれば、あのように包み込まれるような魅力や、あたかも世界の中心であるかのような密度感や充実感も納得できるのだ。

本書は「発見されたもの」を集積したものと言える。
(「発見されたもの」とは、著者により発見されたものであると同時に、その光景が生み出されれる過程において誰かに「発見されたもの」でもある。)
また、「どうつくるのか」という問題は本書では開かれたままになっている。

では、その「発見されたもの」と「どうつくるか」、発見と創造をどうすれば結びつけることができるだろうか。
ここでも「デザインの生態学」での深澤直人氏の発言が参考になりそうだ。

感動にはプロセスがあり、場があり、状況がある。(中略)デザインされたものやアートもそのもの単体ではなく状況の作りこみである。埋め尽くされたジクソーパズルの最後のピースがデザインの結果であるが、そのすべてのピースがその最後の穴を形成していることを忘れてはならない。

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。

それは発見する側の者が関われる余白状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。
(ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。)

そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。

例えば佐藤可士和のセブンカフェのデザインはある文脈では批判もされたが、そういった視点で見ると発見(リアリティ)を創造と結びつける可能性の一端を指し示す事例のように思えるし、おそらくこうしたことをかなり意識してデザインされたもののように思う。(当然クライアントの目指す方向性を前提とした判断であるでしょうが)

本書の活かし方?

本書を活かすために、挙げられた膨大な写真を簡単にスケッチに写していってこういった光景を手に覚えさせようかと考えていたのだが、

・この光景がどのような状況のもと生まれたのかを想像する。
・この光景が生まれる前の「状況」のいくつかの段階を想像してスケッチし、並置してみる。
・この光景と状況の関係をセットとして捉えた上で記憶に留める。
・この光景が生まれた状況をどのようにすればつくることができるかを考える。

といったことを合わせて行えば、本書を使った「どうつくるのか」の良い訓練になるような気がする。
一度やってみよう。

その際、

観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

といったことは念頭に置いておいたほうがいいかもしれない。
結果そのものではなく、それが生まれた状況もしくは余白の質をとりだしてみること。

設計者が自ら発見して直接形に置き換えたもの(観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしたもの)はここで挙げられたような魅力を持ち得ないのか、という問いもありますが、そこでの状況とその形の関係性が必然性と発見に付随する感情の質のようなものを伴って体験者に体感されることが必須なのかもしれません。
この辺りはもう少し考えてみます。




アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉える B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』

後藤 武 (著), 佐々木 正人 (著), 深澤 直人 (著)
東京書籍 (2004/04)

ちょうど10年前の本ですが、これまでの流れから興味があったので読んでみました。

アートとリアリティと建築

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。

つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)

これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」をの最後の一文、

この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。(Now – JParchitects)

が重なって妙に印象に残りました。(輪郭についての考察もたまたま見た俵屋宗達の番組と重なってアフォーダンス的だなー、と思ったのですがそれはとりあえず置いときます。)

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。

アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体がえる情報と脳が蓄える知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスはわれわれ自信に内在していた「リアリティ」を突きつけた。(p.142 深澤)

坂本一成さんが

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

と書いているけれども、「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」とかなり一致するものがあるのではないか。

むしろ建築はアートであってはいけない、に近いくらいの感覚を持っていたけれども、そういう意味ではむしろ建築にこそアート的な何かしらが必要なんじゃないか。という気がしてきました。
先のアートに関する定義は深澤氏の言葉を借りて繋ぎあわせただけですが、少なくともこの言葉ではじめて建築の立場からアートという言葉に出会えた気がしていますし、これまでなかなか掴まえられなかった何かを見つけた感じがしています。(遅すぎるといえば遅すぎる出会いですが)

体験者と建築

この本で、深澤氏は環境の捉え方から話をはじめていて、自己と環境を分けるのではなく自己も他人も含めた入れ子状のものを環境として捉えられるようになってから、デザインの源泉を客観的な視点で見つけられるようになった、というようなことを書いています。また、会田誠氏が別のところで次のようなことも書いています。

「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない――表現すべきものは自分を含む“我々”、あるいは“他者”であるべきだ」(会田誠 色ざんげが書けなくて(その八)- 幻冬舎plus)

では、主観的なものも含めたうえでどうすればそういう視点を維持しつつ建築のデザインを行うことができるのか。
ここにアフォーダンスの捉え方が生きてくる気がしています。

一般的に知覚とは脳が刺激を受け処理する、というように受動的なものと捉えられているかもしれませんが、アフォーダンスの考え方では知覚とは体験者が能動的に環境を探索することによってピックアップする行為です。

建築が設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係の中でアフォーダンス的に知覚されるものだとすれば、建築にアート的なものを持ち込むとしても決して設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係のあり方として持ち込みたいと思っています。
建築そのものにアフォードさせることが肝要で、いうなれば建築は環境そのものとなるべきかと思います。

そして、そこで生まれた体験者の能動的・探索的な態度こそがアフォーダンス的(身体的)リアリティなのではという気がしていますし、そこでは、体験者と建築が渾然一体となった生きられた場が生まれるのではないでしょうか。
これは、僕が「棲み家」という言葉に感じていた能動性とリアリティにもつながる気がします。

また、そうした場をつくりたい、というのは多くの人に共有された意識ではないか、とも思うのですが、それはそういった場が失われていっていることの裏返しのような気がします。

では「どうつくるのか」

では「どうつくるのか」という問いが当然出てきます。

今日ふらっと立ち寄った本屋でたまたま目に入った『小さな風景からの学び』という本を買ったのですが、今回書いたことにかなり近いものを感じました。(冒頭で出てきたサービスというキーワードもアフォードを擬人化したものと近い言葉に感じました。)
小さな風景がなぜ人を惹きつけるのか、という問いに対してたくさんの事例を集めたものですが、安易に「どうつくるか」で終わらせないように慎重に”辛抱”しています。

生きられた場所が誰かのための密実で調和のとれたコスモスだとするならば、その中から「どうつくるか」を学ぶというよりは、そもそも「何をつくるのか」「なぜつくるのか」と言った根源的な問い、つまり、人はどういう「場所」を求めているのかを見つめなおすきっかけを求めるべきかもしれないと感じるようになったのだ。(『小さな風景からの学び』)

「何をつくるのか」「なぜつくるのか」という問いに対しては、今回の流れで言えば「既知の中の未知を顕在化しアフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出せるもの」「建築が人間に活気をもたらす場とするために」とできるかもしれませんが、「どうつくるのか」のためにはおそらく観察が必要で、このような成果は有益だと思います。
しかし、深澤・乾両氏がそれぞれ似たことを書いているように、観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。
ですので、「どうつくるか」という部分には”辛抱”も必要だと思いますし、こういった作り方にはかなりの粘り強さが必要になるんだろうな、という予感がします。(それを克服するために方法論のようなものも求められるんだろうとも。)

こういった問題に対し、アートの分野では様々な蓄積があると思いますので、(今回の文脈上の)アートについてもいろいろと知りたくなってきました。




その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』

小嶋 一浩 (著)
TOTO出版 (2013/11/20)

onokennote:隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。
例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。
隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。
四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。
実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。
また、これらの場がどのような居心地と関連しているか。例えば住宅などですべての場所で常に探索モードが活性化しているのはどうなのか。
国分の家では内部は活性化レベルをある程度抑え、外に向かっての探索モードをどうやってコントロールするかを考えていた気がする。
今やってる住宅も同じようなテーマが合いそうなので、探索モードの場、レイアウトのようなものをちょっと意識してみよう。風水の気の流れとみたいなのも似たようなことなのかなー。 [10/20]


他の本を読んでいて考えたことと、『小さな矢印の群れ』というタイトルがリンクしたので興味が出て買ったもの。

アフォーダンス的な事は前回のようなプロセスに関わるレベルと、今回考えたように知覚のあり方そのものに関わるレベルとでイメージを育てるのに有用だと思います。

著者が書いているように建築の最小目標をモノ(物質)の方に置くのではなく『<小さな矢印>が、自在に流れる場』の獲得、もしくはどのような「空気」の変化を生み出すか、に置いた場合、ツイートしたような「探索モードの場」のようなものも「小さな矢印の群れ」の一種足りえるのではないでしょうか。

僕が学生の頃に著者の<黒の空間>と<白の空間>という考え方に出会った気がしますが、この本の終盤で黒と白にはっきりと分けられない部分を<グレー>ではなく<白の濃淡>という呼び方をしています。それは、「空気」が流動性をもった活き活きとしたアクティビティを内包したものであってほしいという気持ちの現れなのかもしれません。
同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。 それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』)

ここに来て、学生の頃から悶々と考えている<収束>と<発散>の問題に何らかの道筋が与えられそうな気がしています。




B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』

村田 純一 (編集)
東京大学出版会 (2013/7/31)

『たのしい写真―よい子のための写真教室』の流れからアフォーダンス関連をもう少し突き詰めようと読んでいたもの。
なかなか読書時間がとれなかったのですが、最近移動時間が多かったのでそれを利用してなんとか読み終えられました。

記憶の補完としてブログにまとめようと思うのですが、読み応えのある本でとても長くなったので3つに分けてみたいと思います。

序章

まずは序章の部分から。個人的なメモとしての意味合いが強いので引用と感想のようなものを並べることになると思うので分かりにくいとは思います。興味のある方は是非原本を読まれて下さい。

このシリーズの目指すところと建築設計

本シリーズは、生態心理学を理論的中核としながら、それを人間環境についての総合科学へと発展させるための理論的な基盤づくりを目的としている。(p ix)

人間環境の構成要素、すなわち、人工物、人間関係、社会制度は単なる意味や価値として存在しているばかりではなく、それぞれが人や物を動かす実効的効力(広い意味での因果的効果)を持っている。それゆえに、人間環境は、社会的・文化的な存在であると同時に、物理的な存在でもある。

本シリーズで追求したいのは集団的に形成された人間環境のあり方を記述し、人間個々人がその人間環境とどのような関係性を取り結んでいるかを明らかにし、最終的に、どのような人間環境を構築・再構築すべきかという規範的な問題である。

どんな生物もそれぞれが属する環境から切り離されては生きていけない。私達人間も同様である。これが「知の生態学的展開」と題された本シリーズの基本テーゼである。

建築に関わる人の多くはそうであると思うし、建築に限られた話ではないと思いますが、僕は建築をつくことは環境をつくることだという意識が強い。
ここでいう人間環境は何かというのは本書に譲りますが、このシリーズはまさに環境を扱っており、建築設計におけるメインとなるテーマに切り込むものだと思います。

知覚・技術・環境と建築設計

人間の環境内存在はつねに「技術的環境内存在」であったし、現在もそうである。本巻の主題は、この技術によって媒介された環境内存在のあり方を日常生活の中で出会う具体例に則して明らかにすることである。

「環境」に続き、この巻でテーマとしてあげられているのが「技術」。
続き、というよりは知覚・技術・環境といった一連の関係性が「生態学的転回」の視点を導くもののように思います。

例えば、私たちがそれまで危険で近寄れなかった火をうまく扱うことができるようになったり、あるいは、それまで何げなく見ていた木の枝を箸として使える道具とみなすことができるようになったりする過程は、新たなアフォーダンスの発見過程であると同時に、新たなアフォーダンスの製作過程と考えることもできる。このように知覚と技術に共通に見られる環境とのかかわり方に着目することによって、技術論の生態学的アプローチへの道筋が垣間見られる。

ギブソンの言葉を使うと、ここで知覚-行為連関は、特定の目的の実現に奉仕する「遂行的活動(performatory action)」から区別された「探索的活動(exploratpry action)」というあり方を獲得するといえるだろう。
このような仕方での知覚と行為の新たな連環の獲得、新たな仕方での環境との関わり方の「技術」の獲得が、先に述べた学習を通しての環境の構造変換の内実をなしている。

子供が技術を獲得したから、環境が変化するのではなく、また、環境が変化したから子供が技術を獲得したわけでもない。知覚の技術と知覚に導かれた運動制御の技術を獲得することはすなわち、新たなアフォーダンスが発見され環境に備わるアフォーダンスのあり方に変換が生じることに他ならないのである。

一部の引用だけではなかなか上手く伝えられないですが、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が見て取れます。

このブログでも藤森照信さんの書籍等を通じて技術とはなんだろうか、というのに興味を持ち始めているのですが
(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 技術
では、このような知覚・技術・環境の構造が建築の設計においてどのような視点を与えてくれるでしょうか。
僕は少なくとも次の2つの場面において何らかのヒントを与えてくるように思いました。

一つは、建築を設計する作業そのものが環境との対話のようなものだとすると、設計するという行為において、いかにして環境を読み込み設計に反映させることができるか、またその技術はいかにして発見できるかを考える場面において。

もう一つは、建築が環境をつくることだとすると、そこで過ごす人々と建築との間にどのような関係を結べるか、を考える場面において。

これら二つは切り離せるものではないと思いますし、後の章でこれらの接続する試みもなされているのですが、ここではとりあえずこれら二つの場面について引用しながら少しだけ考えてみたいと思います。

設計行為における知覚・技術・環境

ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうると解されるのである。

「どこに」ではなく「いかに」
環境という概念が絶対的な存在としてあるものではなく、関わりあいの中から発見・製作されるものだとすると、建築の設計は環境の中から「いかに」を発見・製作する作業だとも言えます。

そういう点で見れば、リノベーションはその定義から言っても「(例えば古くなることで)実践状態から外れたもののなかから、ふるまいに関わる要素を抽出・活性化して再び実践状態に戻すこと」が宿命付けられており、多くのリノベーションに生き生きとした豊かさを感じるのも当然のことかもしれません。 ただ、この時に「ふるまいに関わる要素を抽出・活性化」しようというような目線はリノベーションに限られるものではないので、新築の場合にも同じような目線・構造を持ち込むことはできるかもしれません。 例えば青木淳さんの「原っぱ」「決定のルール」、「地形のような建築」で考えたようなこと、「地形のように自律した存在の場所に、能動的に棲み込んでいく」ようなことは、リノベーションと同様の「ふるまいや実践状態への目線」を浮かび上がらせ、空間を生き生きとしたものにするための構造と言えそうな気がします。 (結局、棲み家、というところに戻ってきた。)(■(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』) )

この引用部で考えたことに近いかもしれませんが、上手くいったリノベーション事例に感じる魅力の一端はリノベーションが必然的に「いかに」を内包する行為であるからかもしれませんし、それは新築の設計においても活かせるものだと思います。(個人的にはリノベと新築を区別せずに一元化した視点を持ちたいと思っているのですがそれはまた改めて考えます)

出発点は、脳ではなく環境であり、環境に適合して生きる「環境内存在」というあり方である。知覚は環境に適合して生きる機能として成立したのであり・・・(中略)こうして見ると、伝統的知覚論は、知覚を成立させる可能性の条件である「環境内存在」のあり方を逆に困難の発生源と見なし、他の動物との共存を示すはずの知覚現象を主観的な脳内現象とみなすという根本的な逆転を起こしていることになる。それに対して、このような逆転を再逆転することが「生態学的転回」の最も基本的な課題である。
それでは、同じことが技術に関してもいいうるだろうか。技術に関しても、その可能性の条件を環境に求めるような「環境内存在」という観点を確保しうるだろうか。

建築を設計する行為はさまざまな環境を余条件として受け止めそれに対して回答を得ようとするものというイメージがあるかも知れません。
これを先の引用の伝統的知覚論、いわば受動的な知覚論と重ねあわせると、別のイメージが浮かび上がってきます。
環境を主観的な設計行為に対する制約として受け止めるのではなく、環境それ自体を可能性の海、能動的に探索する対象として捉え、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性の中に置くともっと豊かな設計のイメージが浮かんで来ないでしょうか。
こういう視点はいろいろな方が実践されてるので特に目新しいものではないかもしれませんが、それらを理解したり自ら実践するための一つの道具になりそうな気がします。
また、ギブソンは環境の基本的な要素として、物質と媒質、そしてそれらの境界を示す面をあげています。これらは建築の基本要素とも言えるのでアフォーダンス論的に建築空間を捉えて設計に活かすことも考えられますがここでは置いておきます。(隈さんの本の佐々木正人さんとの対談でこの辺りに触れてました。)

建築という環境と知覚・技術・環境

(チンパパンジーがバナナを取る際に置いてあった箱を利用すること発見したことに触れて)このように、環境内に新たなアフォーダンスが発見され、それまでのアフォーダンスが変換を受けることが、すなわち箱を使って技術の獲得を意味しているのである。

技術の獲得・アフォーダンスの変換が生じることはそこで過ごす人々にどう関わるだろうか。
これはまだ個人的な見解にすぎませんが、そのようにして知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が築かれることは、人間が環境と切り離せない存在だとすると、それは人の生活を豊かにすることにつながらないでしょうか。
ここで、技術の獲得をふるまいの発見と重ねあわせると塚本さんの「ふるまい」という言葉の持つ意味が少し見えてきそうな気がします。
再引用

なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(■(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape窓のふるまい学』) )

「WindowScape」で取り上げられている様々な事例に感じる豊かさは、そこに住まう人と環境との間に豊かな関係が築かれているからだと思いますし、そのような関係性をどのように生み出すかは建築の設計においても大きなテーマになりうると思います。
その際にもギブソン的な視点は有効な道具になりそうな気がします。

また、一つのもの・要素がいくつもの機能を内包しているようなデザインに何とも言えない魅力を感じることがあります。
その理由を考えた時、それがいくつもの「技術のあり方」「環境とのかかわり方」を暗示しているため、そこに可能性のようなものや自由さを感じ取るからかもしれないと思いました。先の塚本さんの言葉を使うと「閉じ込められて」いないというか。

「つくる」と「つかう」を超えて(関博紀)

今回は『第3章「つくる」と「つかう」を超えて(関博紀)』の部分。

なぜ設計と利用とを一元的に捉える必要があるか

建物をめぐって、わたしたちは、日々多くを営んでいる。なかでも、設計すること(つくること)と住むこと(つかうこと)は、その代表的なものだといえるだろう。(中略)本章では、こうした背景を踏まえた上で、いま一度設計と利用の関係について検討してみたい。そして、設計と利用とを一元的に捉える、もうひとつの展開について検討してみたいと思う。それは、設計という営みに生態学的な特性を見出すことを通して、設計と生活のいずれもが環境に根ざした営みであることを確認しようとするものである。

この(つくること)と(つかうこと)は奇しくも前回の(知覚-技術-環境)の構造が有効と思われる二つの場面と一致しそうに思いますし、とすればその思考の流れからそれらは(知覚-技術-環境)の視点から一元的に眺めることが出来ると言えそうな気もする。
では、そのような一元化した視点はなぜ必要なのか。
実はそれに関してはまだ上手く整理できていないのですが、例えば「参加型」の計画手法について

計画者と生活者が共同する「参加型」のデザイン手法は、設計と利用との距離をかぎりなく近づけるという点で、dwelling perspectiveの具体的展開と位置づけられる。しかしこの手法は、設計行為と環境の関わりを関わりを必ずしも前提とするものではない。したがって、dwelling perspectiveの具体化にはさらなる可能性があるといえるだろう。

と書かれています。
「参加型」では十分でないもの、もしくは一元的理解によって得られるものとはなんだろうか。
ここで出てきた(dwelling perspective(住む視点)はティム・インゴルドによって提示された視点で、ハイデッガーの「建てる・住まう・考える」を引き合いに出して次のように書かれています。

一方で「建てることは、つまり、住まうことのの単なる手法や方途などではない。建てることは、それ自体すでに、住まうことである(ハイデッガー)」と主張し、環境との結びつき、すなわち「住」んでいることをわたしたちの生活の基盤として認めることによってはじめて、「建てる」ことの本性が理解されると指摘する。

と、ここまで書きながら、確か『建築に内在する言葉(坂本一成)』にこの辺の事が書いてあったと思い紐解いて考えてみることにします。

当然のことながら、人の生活が始まったその場と、竣工時のからの状態とのあいだに、そこに現象する空間の質の違いを感じた。そこでは私が計画して建てた空間は消失し、別の空間が現象している。(中略)人が住むそのことが、生活を始めるそのことが、別の空間を現象させることを意味する。すなわち、住むこと(住むという行為である生活)はひとつの空間をつくることになると言ってよい。(中略)<住むこと>と<建てること>(ハイデッガー)が分離してしまった現在において、建てる者、建築家に可能なことは、ただ人の住まう場を発生させる座標を提出、設定することに過ぎない。それゆえその住まう場の座標に、建築としての文化の水準、つまり<住むこと>の別の意味の水準が成り立たざるをえないことになる。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

生活が始まることで建築は設計者の手を離れて新しい空間となる。だとすると、その断絶を超えてなお、建築が住むことに対してできることはあるのだろうか。
これに対して、坂本氏は象徴の力を通して、人間に活気をもたらすための様々な手法を模索されているように思います。

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

同じような視点からいくと、環境という同じ視点を持つことによって(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えてつかう者にとっての(つくること)の一端を建築が担う可能性が開かれるのかもしれません。(かなり強引につなげると鹿児島の人にとっても桜島のような存在といえるかもしれません)
例えば「象徴」はその視点を定着させ断絶を超えるためのツールとも読めないでしょうか。
また、そのような断絶を超えられるかどうかが、建物が建築になれるかどうかに関わっているのかもしれません。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。
(つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。

「複合」による乗り越え

今回はさらっと終わるつもりが長くなってしましました。後半はなるべく簡潔にまとめてみたいです。

本章では実際に住宅を設計するプロセスを分析しながら(つくること)と(つかうこと)を一元化する可能性が模索されています。

その分析の中で様々な要素に対して「出現」「消失」「復帰」「分岐」といった操作が抽出されています。
また、『操作同士が関係を結び始め、自ら新たな操作を生み出すというような自律的な変動』、操作の「連動」が抽出されます。
さらに、『変化を伴いながら連続するという変動は、その背後で複数の動きが関係し、一方の動きが他の動きを含みこむような複合的な過程』、操作の「複合」が抽出されます。
図式化すると(出現・消失・復帰・分岐)⊂(連結)⊂(複合)といった感じになるのかもしれません。
また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。

もともと設計という行為はギブソン的な構造を持っていると思うのですが、「複合」はそれ以前の操作による環境の探索によって得られた「技術」のようなものとして現れたと言えそうです。それは、設計者がもともと持っていたものというよりは環境との関わりの中から発見されたもので、その「技術」には環境が内包されているため、(つくること)を超えて(つかうこと)においても新たな(つかうこと)を生み出す可能性を持っているように思います。
また、それは(うまくいけば)利用者が設計者がたどった過程をなぞることができるかもしれませんし、そこには設計者→利用者の一方的な押し付けではなく、同じ環境・景色を眺めているような共有関係が生まれるかもしれません。

以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。

このような探索と定着のプロセスを通じて建築を目指すことを考えると、どうしても藤村さんの様々な取り組みが頭に浮かぶのですが、それらの手法がいかにエコロジカル(ギブソン的・生態学的)なものであるか改めて思い知らされます。

だいぶイメージはつかめてきた気がしますが、僕も実際に実践を通じて設計に落とし込めるよう考えていきたいと思っています。(今年度はバタバタと過ごしてしまったので、そのための時間を確保するのが来年度の目標です)

依存先の分散としての自立(熊谷晋一郎)

onokennote:『知の生態学的転回2』で今まで読んだ部分だと熊谷晋一郎氏の話が一番ヒットした。障害者の自立に関するリアルな問題が捉え方の転換で見事に理論と道筋が与えられていたし、固有の単語を設計を取り巻くものに変えてもかなりの部分で同じような捉え方ができそうな気がした。 [10/20]


onokennote:「予定的自己決定」と「後付的自己決定」。予測誤差の役割転換と分散化の有効性など、既出の設計に関する議論にそのまま援用できそうだ。 [10/20]


『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』「第4章依存先の分散としての自立(熊谷晋一郎氏)」について。一応今回で締める予定です。

依存先の分散としての自立

この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。
建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。

障害のあるなしに関係なく、子供たちにとっての大きな課題の一つに「自立」というテーマがあるだろう。(中略)私は、「自立の反対語ってなんだろう」という問いかけを行った。(中略)これらの意見のうちで、私が「やはり」という思いとともに、興味深いと感じたのは、「依存していない状態」というイメージで、自立という概念がとらえられているということだった。

自立がそのようにイメージされるのは容易に想像できるし、自分がそのようなイメージから自由であるか、と問われると心許ない。
著者は『何にも依存せずに生きている人など、存在しない』『「依存-支え」の関係がうまく動作し続けている”平時”においては、私たちは、自分の日常がどのような支えに依存しているかに無自覚でいられる」『「依存-支え」の関係が不可視であり続けている状況こそが、日常性をもたらしている』としたうえで次のように述べている。

障害者とは、「多くの人々の身体に合うようにデザインされた物理的・人的環境」への依存が、多くの人とは異なった身体的特性を持つことによって妨げられている人々のことである、と解釈することができるだろう。このように考えると、通常考えられているのとは逆に、障害者とはいつまでも何かに依存している人々ではなく、未だ十分に依存できない人々だと捉えることができるのである。環境との間に「依存-支え」の環境を十分に取り持てないために、障害者は日常性を享受しにくく、慢性的に”有事”を生きることになる。

そして、それが鮮明に可視化された震災での自らの体験を例に出して『私の考えでは、多くの人が「自立」と読んでいる状況というのは、何者にも依存していない状況ではなく、「依存先を増やすことで、一つ一つの依存先への依存度が極小となり、あたかも何者にも依存していないかのような幻想を持てている状況」なのである。』と述べる。

自立とは最初にあげたイメージとは逆に、無自覚に依存できている状態だというのはなるほどと思わされた。そして、共依存(「ケアの与え手が、受け手のケア調達ルートを独占することによって、受け手を支配すること」)という言葉を出しながら「依存先の分散としての自立」はどのように成立しうるかが問われていく。

痛みと予測誤差-可塑性

自立が『依存先を増やし、一つ一つの依存先への依存度の深さを軽減することで「依存-支え」関係の冗長性と頑強性を高めていくプロセス』だとすると、それを邪魔するものとして「痛み」があげられている。

著者は幼いころのリハビリ体験を振り返り、経験のない健常者と同じような動きを強要され、それが出来ないと心の問題にされてしまい、『目標のイメージと実際の動きが乖離してしまい、その予測誤差を焦りやこわばり、痛みとして甘受してしまう。その結果、ますますイメージと運動の乖離が拡がってしまうというふうな悪循環に陥って』しまう体験をあげながら、『(痛みによる)学習性不使用の悪循環から抜け出し、仕様依存先に可塑性を誘導するには、痛みとか失敗といったネガティブな予期を、必ずしもネガティブではないものへと書き換えるような、新しい文脈が必要になるだろう』と転回をはかる。

ここから先はとてもダイナミックな展開で面白いものだったので是非本著を読んで頂きたいのですが、続いて次のような問いが発せられる。

しかし他方でこの予測誤差は、「現在の予期構造は、現実と符合していない可能性がある」というシグンルでもある。そして、予期構造を可塑的に更新させるための動因として、必要不可欠なものだ。そう考えると、自分の予期構造を裏切るような予測誤差の経験を、どのような意味連関の一部に配置するかということが、可塑性誘導の成否を決める可能性があるだろう。予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。
では、予測誤差の意味がある種の快楽に変換されるような文脈とはどのようなものか、というのが次の問いだ。

少し設計の話に戻すと、設計という作業も決して予定調和的なものではなく、さまざまな環境のもと予測誤差を含むものです。そして、それらは必ずしもそれまでの設計作業の流れから行くと歓迎されるものばかりとは言えません。では、どのようにそれらを「快楽を伴う創造性の契機に変換」し、前回までに書いたような可能性の海として捉えることができるのだろうか、いうなれば可塑性を獲得できるのかというのは興味深い問題です。

モノ・他者とのかかわり

さらに著者が一人暮らしをはじめ、トイレとの「遊びにおける失敗」といえるようなものを繰り返しながらの格闘を通じた経験をもとに論考が進められる。
試行錯誤の中で自らの行為のパターンが「自由度の開放→再凍結」という形で進みながら、便座のデザインも同じような「自由度の開放→再凍結」というプロセスを経ながら、お互い歩み寄る形で「依存-支え」の関係を取り結んでいく。
そして

この、自由度の開放→再凍結というプロセスは、完成品としての行為パターンや道具のデザインをうみおとすだけでなく、その過程で同時に、冗長性や頑強性という副産物をもうみおとす。なぜなら、あらかじめ一つの正解が与えられて、それに向かって訓練するのではなく、「どういう方法でもよいから、排泄行為をする」という漠然とした目的に向かって、断片的な素材を制作したり組み合わせたり、無駄をはらみつつ試行錯誤するため、否が応でも一つの目的にいたる手段が複線化するからである。結果、私のアパートのトイレには、一つの方法がうまくいかない場合の代替手段を可能にするようなアイテムが、いくつも常備されることになるのである。
そして、私の身体と便座双方の可塑的な変化を突き動かすものは、常に予測誤差という「うまくいかなさである。
リハビリにおける監視と裁きの文脈の中では痛みとして感じ取られていた予測誤差は、一人暮らしの「遊び」のような文脈に置かれるや否や、痛みというよりも、むしろ新しい予期構造への更新を突き動かす期待に満ちた動因として感じ取られ、私の探索的な動きを促したのである。その結果、私の身体と便座をつなぐ、新しい行為のレパートリーや道具のデザインがうみおとされ、徐々に自分の体のイメージとか、世界のイメージというものが、オリジナルに立ち上がっていった。

というような手応えを得る。

また、著者の一人暮らしは不特定多数の介助者という他者との関わりも必要とし、その経験も語られる。
他者との関わりは、著者のように密接に関わらざるをえない場合は特に、予測誤差の発生が不可避である。その予測誤差を減らすために、著者は相手を支配するのではなく、『触れられる前に、次の行為や知覚についての予期を、共同で制作し、共有する』という方法を重要視している。

介護を受け他者と密接に関わる場面でも、相手になったつもりで頭の中を再構成し追体験することで、相手の次の行為への予期が読めてきて、まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚になれ、能動性を維持しうるという。

予測誤差を減らすために、あらかじめ固定化させた予期による支配を貫徹させようとする状況から、予期の共同生成・共有によって予測誤差を減らしつつ予期構造を更新させる状況へ移行すること。ものとの関わりにおいても、他者との関わりにおいても、「依存-支え」の冗長な関係を増やしていくためには、それが重要だといえる。そして、そのことを可能にするのは、予測誤差、言い換えれば他者性を楽しめるような、「遊び」の文脈なのだろう。

続いて、薬物依存症などの例を通じて「依存してはいけない」という規範的な方向ではなく、依存先を分散させていくことの重要性が語られる。
最後には、依存先の分散と孤独に触れながら、依存先の分散が万能ではなく、『依存先の分散は、孤独をなくさせるわけではない。そうではなく、孤独の振幅を小さくさせることで、「ちょっと寂しいくらい」の平凡な日常をもたらすのである。』と本章は締められる。

「予定的自己決定」的設計と「後付け的自己決定」的設計

では、先の『どうすれば設計における予測誤差を快楽を伴う創造性の契機に変換し、環境を可能性の海として捉えることができるようになれるか』という問いにはどう答えられるだろうか。
一つは、予測誤差を「遊び」の文脈に置くことでしょうか。それは、予測誤差をうむ他者を制約の発生源として見るのではなく、探索の共同者とみる視点を持つことだと思いますが、実践の現場でそれを行うには、設計のプロセスや他者との関わり方を見直し、新たにデザインすることが必要になってきそうです。それが今の自分の課題だと思っています。

そういえば、倉方さんの著作で決定に関わる「遊び」について触れられてました。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。(ここまで記:太田)
『吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(括弧内追記・強調引用者)「吉阪隆正とル・コルビュジエ(倉方 俊輔)」』

最後の部分などまさに、という感じですが、コルビュジェや吉阪隆正に感じる自由さ・魅力のようなものはここから来るのかもしれません。

最後に、実は本章の注記の部分も密度が濃く示唆に富むものだったため、長くなりますが一部抜き出して考えてみたいと思います。

私は、自己決定や意思決定と呼ばれるものには、二種類のものがあるのではないかと考えている。一つ目は、行為を行う「前」に、どのような行為を行うかについての予測を立て、その予定に沿った形で自己監視しながら行為を遂行するというものである。これを、「予定的自己決定」と呼ぶことにしよう。リハビリをしていたころの一挙手一投足は、予定的自己決定だったといえるだろう。
二つ目は、さまざまな他者や、モノや、自己身体の複雑な相互作用に依存して先に行為が生成され、その「後」に、行為の原因の帰属先をどこにも求められず、消去法によって「私の自由意志」というものを仮構してそこに帰責させるというものである。これを「後付け的自己決定」と呼ぶことにする。一人暮らしの一挙手一投足の多くは、後付け的自己決定だった。
予定的自己決定だけで上手くいくには、「こうすればこうなる」という予期構造の学習が必要である。しかし、現実を完全に予測し尽くす予期構造を学習することは不可能であるし、もしも完全に予測できているなら、自己決定なしの習慣化された行為だけで事足りるだろう。予定的自己決定は、ある程度予期構造はあるが、不確実性も残されている状況下で決断主義的になされるものであり、否応なしにある確率で予測誤差が生じる。この時、予測的自己決定は断念せざるを得ず、後付け的自己決定に切り替えて探索的な行為を生成させることで、予期構造を更新させる必要がある。
後付け的自己決定が自由な探索を可能にする前提には、「行為の原因を帰属させられるような、突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」という条件がある。痛みなどの強い身体感覚や、顕著なモノや人からの知覚といった、目立った依存先からの予測誤差がある場合、自分の行為がその依存先によって、「仕向けられたもの」と原因帰属されるため、後付け的自己決定は失敗しやすい。たとえば、学習性不使用のように、痛みという目立った身体感覚によって行為が支配されている時には、後付け的自己決定による自由な探索は失敗し、その結果予期構造の可塑的更新がストップする。
「予期構造→予定的自己決定→予測誤差→後付け的自己決定→予期構造の更新→・・・」という循環が回り続けるためには、「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられるが、突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」ということが前提条件となる。そして、依存先の集中は、限定された依存先へと知覚を集中させ、その依存先を目立たせる可能性が高まるので、この循環を阻害しうる。むろん、依存先を分散させなくても、限られた依存先がひっそりと目立たず行為を支えることで、後付的自己決定が可能になることはあるが、それは予測誤差の知覚そのものを低減させることで予期構造の更新をストップさせる。しかも目立たない依存先への集中による見かけの安定性は、非常に脆弱な基盤の上に立った状況と言わざるを得ず、震災のような突発的な外乱によって、容易に依存先の(不十分さの)存在を目立って知覚させる。依存先の分散は、二つ目の自己決定の循環を可能にする法法の中でも最も頑強で公正なものだと考えられる。

ここで出てきた「予定的自己決定」「後付け的自己決定」というのは「予定的自己決定」的設計と「後付け的自己決定」的設計というように設計の場面でも適応できるように思います。
(これは『たのしい写真―よい子のための写真教室』で書いたブレッソン的建築、ニューカラー的建築とも対応しそうですし、dot architectsなんかの方法も分散化の手法と言えそうです。)

また、「後付け的自己決定」的設計を成功させるための鍵は、「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられる」ことと「突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」ことにありそうです。
(そういえば、『空間から状況へ(2001)』あたりでみかんぐみがパラメーターを豊富に集めて等価的に扱う、というようなことを書いていたような気がしますが(該当の文章が見つからない)、まさにこういうことを実践されていたのかもしれません)
では、「突出した依存先からの目立った予測誤差が知覚」される場合、例えば行政の仕事の場合に多いかもしれませんが、権力者であったり、前例主義であったり、好みであったりなどとの予測誤差が大きい場合はどうすればいいでしょうか
非常に難しい問題だと思いますが、ひとつ考えられるのは、他の依存先を増やしたり重要度をあげることで相対的に目立った依存先の占める割合を下げることがありそうです。もしくは信頼を積み重ねることで目立った依存先の絶対的な知覚量を減らし共同関係に持ち込むように力を注ぐか。
いずれにせよ、何らかの戦略を持つことが必要だと思いますが、本著で書かれているようなことはそのための礎になりうる気がします。


ここまで、本著の内容の一部をまとめて思ったことを書くという形で進めてきました。誤解が含まれているかもしれませんがある程度イメージはつかめてきたような気がします。

建築設計の場面で生物学的転回を目指すには
・環境を主観的な設計行為に対する制約として受け止めるのではなく、環境それ自体を可能性の海、能動的に探索する対象として捉え、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性の中に置く。
・(つくること)と(つかうこと)のそれぞれの場面で上記のような関係性を考える。
・(つくること)と(つかうこと)の間の断絶を乗り越え、(つかうこと)の一端を建築が担う可能性を開く。環境はそれらをつなぐ可能性がある。また「複合」もしくはコンセプトはそれをより高次で維持するための武器となりうる。
・予測誤差を「遊び」の文脈に置き、予測誤差をうむ他者を制約の発生源として見るのではなく、探索の共働者とみる視点を持つ。
・「後付け的自己決定」的設計を成功させるために「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられる」ようにし「突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」状態を保つ。

ということがとりあえずはあげられそうです。(他の章も丹念に読みこめばヒントがありそうですが・・・)

そして、ではどのようにすれば、実際の現場でそれを実践することができるか。成功率をあげるためには具体的にどのような工夫ができるか。という宿題に対してはしっかり時間をとって考える必要がありそうです。




そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』

ホンマ タカシ (著)
平凡社 (2009/05)

図書館で借りてパラパラと読んでいた『時間のデザイン: 16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化』にホンマタカシ氏が出ていたのですが、似た内容が別の視点から掘り下げられている本を読んだことがあったのを思い出しました。

●ホンマタカシ(写真家) カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。 建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

それで原典にあたろうと思い買ったもの。

写真についてはド素人なのですが、ホンマ氏の視点から氏の言葉で簡潔に書かれた写真史がとても分かりやすく、大まかなイメージを掴むのにとても良い本でした。
(時代背景などもっと掘っていけばイメージがクリアになっていろいろな関係性も見えてくるのでしょうが)

アフォーダンスという生態心理学的視覚論の概念に触れてから、ボクには「決定的瞬間」と「ニューカラー」という、写真をめぐる2つの大きな山が見えてきました。(あとがき)

とあるようにブレッソンとニューカラーが写真史の山として描かれているのですが、先に引用したように『建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。』のではないかということをもう少し詰めてみたくなってきました。

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。

設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。

ここで書くブレッソン的、ニューカラー的というのは『包まれる人』で紹介された事例に通底する下記のような印象・可能性を代表させて使っているものです。

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。 水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。 それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。 自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

また、別の場で議論に出た、
某氏『「ブレッソン的な建築はニューカラー的な建築を導き出すことはできないが、ニューカラー的な建築はブレッソン的な建築を必要性に応じて表出させることができる(理論的には)」と言えると思います。逆に「依頼者の要望に対して、誠実に”ブレッソン的な”ふるまいを見せる建築を提供することによって”ニューカラー的”な効能(?)を持った建築に変換されて行く可能性がある」みたいなこともイメージしました。ただ後者は”ニューカラー的”な建築をイメージできる人しか取り扱えないんじゃないかと思います。』『ニューカラー的な建築はオブジェクト指向のプログラミングと構造がよく似ている。ニューカラー的建築家が”設計”するメインフレームに対して、対象や環境がすでに固有で持っているファンクションやビヘイビアなどのブレッソン的な要素に成りうる素材をメインフレームに接続する感じ。』
というのもヒントになりそうな気がしています。

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)

例えば「ニュカラー的な空間を現出させたい」のだとすると、そのための手法としてニューカラー的な方法論が適しているのかそうでないのか。
もしくは、今の社会において「ニューカラー的な方法論が適している」のだとして、その結果ニューカラー的な建築が生まれるのかそうでないのか。
といった事を整理する必要があるのかもしれません。(もしくは統合できるのか)

このブレッソン的/ニューカラー的という見方はこのブログでも出てくる、ふるまい・オートポイエーシス・ポストモダン・身体・関係性というキーワードやドゥルーズ・リノベーション的・社会性・アノニマス・超線形設計プロセス論・・・(あとなんだろう)といったことと接続できそうな気がしますし、そのあたりに自分の関心があることがだいぶ分かってきたので、一度自分の言葉として整理して、具体的な設計に活かせるものとしてまとめたいと思っています。(いや、これずっと前から言ってるのですが・・・)

この本と同時に『 リアル・アノニマスデザイン』と『 知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』の2冊を買ったのですが、前者は先に書いたことの補完として、後者はガッツリ理論書として具体的に整理をするために役に立つのでは、と期待しているのですがいかに。

(『知の生態学的転回』はかなり面白そう。でも3部作なんだよなー。1と3はいつ買える/読めるだろうか・・・)




実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』

小池 昌代 (著), 塚本 由晴 (著)
河出書房新社 (2012/6/9)

久しぶりの読書記録。
ちょこちょこ本は読んでましたがなかなかブログに書けないでいました。でもやっぱりその時々に感じたことを記録しておきたいのと、何か書くつもりで読んだ方が得るものが多いかと思い再開してみます。

この本はアトリエワンの塚本氏と詩人・小説家の小池氏の対話を収めたもの。

物理的に重量がない言葉を、重い建物に吹きかけることによって、その重さが必ずしも凝固したかちかちのものでないような、軟らかで変形可能なものにしておく。(塚本氏 p9)

これがどういう事を差すのか。氏の「ふるまい」という言葉には前から興味を持っていてなんとなく分かるような分からないような感じだったのだけど、本書に出てくる「実践状態」という言葉でかなりイメージしやすくなった気がします。

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略)
詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。(塚本氏 p169)

この文に出会えただけで読んで良かったなと思うのですが、氏の「ふるまい」という言葉を含めいろいろな言葉がすっと入ってくる感じがしました。

例えば精巧な造花、祭壇の電球ロウソクなどは、おそらく管理の問題から実践状態を放棄しており、そこには生き生きとした関係性は失われているように思います。
同様に、パッケージ化された住宅を始めとした多くの建築の作られ方は、生き生きとした実践状態を放棄して一定の言葉や価値観の中に閉じこもっているように思えます。

建築・空間を「実践状態に戻す」といっても機能的なことばかりでなく抽象的なレベルまで含めて様々な手法が考えられるかと思いますが、様々なレベルでそれを意識することは空間を生き生きとしたものにさせる上で有益だと思います。

そういう点で見れば、リノベーションはその定義から言っても「(例えば古くなることで)実践状態から外れたもののなかから、ふるまいに関わる要素を抽出・活性化して再び実践状態に戻すこと」が宿命付けられており、多くのリノベーションに生き生きとした豊かさを感じるのも当然のことかもしれません。

ただ、この時に「ふるまいに関わる要素を抽出・活性化」しようというような目線はリノベーションに限られるものではないので、新築の場合にも同じような目線・構造を持ち込むことはできるかもしれません。
例えば青木淳さんの「原っぱ」「決定のルール」、「地形のような建築」で考えたようなこと、「地形のように自律した存在の場所に、能動的に棲み込んでいく」ようなことは、リノベーションと同様の「ふるまいや実践状態への目線」を浮かび上がらせ、空間を生き生きとしたものにするための構造と言えそうな気がします。
(結局、棲み家、というところに戻ってきた。)

あと、実践状態というと、まちづくりやリノベの事例での生活に根ざした人々の笑顔や、象設計集団なんかが頭に浮かびます。
建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(TV『福祉ネットワーク“あそび”を生みだす学校』)

人もものも生き生きとしているもの、つくりたいです。




「建築の社会性」ってなんだろう

しかし建築が社会と全く関わり合いを持たずに自立した存在として成立することは難しい。そこで僕は「シャカイ」から離れて建築をどのようにつくっていくのかをテーマとしてじっくり考えたい。もちろん、うっすらとではあるけど、自分なりに方向性のようなものはあるのだけれど、まだことばにしてまとめることはできそうにない。でも次の方向性としてははっきりしている。建築は一度「シャカイ」から離れなければ、きっと本当に信頼され、祝福される社会には戻って来られないだろう。(建築について:社会的な建築を再考する)

を読んでちょっと考えだしたのですが、大きなテーマなので反射的なメモにとどめます。(反射的な文章がFacebookとかに移ってしまってブログが流れなくなったので試験的なものも兼ねて)

僕はよく、建築に人格のようなものを当てはめて自立した存在であって欲しい、というようなことを書いているのですが、建築と社会の関わりについても人間のそれと重ねあわせて考えられそうだと、思いました。
例えば、人間が自立すると言ったとき、社会との関係を捨て去ることでは当然無く、むしろ社会との関係がより強まりつつ従属や依存とは違ったものへ移行することをイメージしますが、同様に建築が自立するということは、より社会との関係が強まるのではないか、というのが一つの仮説。

で先のブログの最後を読んで頭に浮かんだのが以下の引用群。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B003『子どものための哲学対話』

『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』

『きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。』

『自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけない・・・』

『いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほどそれにひたりたくなるんだよ。忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまうような気がするのさ。』

『人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、なりたたないものなんじゃないかな?』

上手く言えないけれども、「建築の社会性」と言った時に感じるちょっとした違和感と重なる部分がありそうな気がしました。「自分探し」とかに感じるものともちょっと似てる。

とりあえず、「建築、お前自立しろ。社会性なんてそこからしか生まれないぜ」と言ってみる。とりあえず。

ところで、自立ってどういうことなんだろう。




リノベーションと棲み家

このごろ、家の近くの住宅が数件立て続けに解体されました。
そのうちひとつはRCの集合住宅として工事が始まっています。
写真の家は内部の壁と天井及び瓦がきれいに撤去され、窓から覗くがらんどうがとても心地よさそうに見えたので、もしかしたらどこか設計事務所が入ってリノベーションされるのかな、と思っていたらあえなく解体されてしまいました。単なる解体の分別だったようです。

リノベーションスクール以降、リノベーションについていろいろと考えたり勉強したりしています。(サイドバーにリノベの項目を増やしたり。)
空き家を見ると、ここにどうやって棲み着こうかと考えたり、どんな人が入ればぴったり来るだろうかと考えたり、明らかに見え方が変わりました。
それは、動物が環境を読み取って巣にしようというのに似ているし、いろんな昆虫がさまざまな環境に棲み着いているのを観察することにも似ています。

ずっと、棲み家という言葉を一つのテーマにしているのですが、そういう点ではリノベーションという方法は「棲み家度」をかなり高く出来る可能性を秘めていて、「地形」的要素をある程度担保されているように思います。
これは既存部分の持っている懐の深さや、既存部分と新規部分の関係の築き方にもよりそうですが、

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。 そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

この【自立的関係性】と【プロセス性】という(地形)の特質を新旧それぞれのレイヤーを意識しながらどこまで高められるか、という所にポイントがありそうです。

そんなことを考えながら、せっかく顕になった(地形)が重機によって壊されていくのを見るのは、自分たちの棲み家を重機で破壊されていくのを指を加えて眺めるしかない動物のようだなー、と思ったり、僕らにはそれを止める知恵、技術と論理を持つことができる、と思ったり。

虹はどちらにかかってるんだろう。




「わかろうとすること」と「わかってしまうこと」の間の距離感 B173 『考えること、建築すること、生きること』


長谷川豪 (著)
INAX出版 (2011/12/30)

ARCH(K)INDYでお話を伺ってから気になってて、だいぶ前に買って読んでいた本。

一番印象に残ったのは、都市の問題が身体性という言葉を絡めて語られたこと。とかく、都市の問題というと実感を伴わないことが多く、無力感を多少なりとも感じてしまうことが多かったのだけど、身体性と言う言葉で、おそらく人の視点から語られたことに、何か実感を持ったとっかかりを得られたような気がした。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ARCH(K)INDY vol.8 他メモ)

内容についてはいろいろと共感する部分が多かったにもかかわらず、なんとなくまとめてしまうことにためらいがあってなかなか書きだせなかったのだけど、あらためて本書を手にとって序文を読んでみてその理由が分かったような気がした。

たとえば、明快なキーワード一言で言ってしまったらどうかと。でも僕は、15本のテキストを読んでもらってはじめてわかるようなものを目指していた。

でもそのコンセプトなるものをここで「表現」しようとはどうしても思えなかった。だから冒頭に書いたように、いま僕はようやくこの本の全貌を俯瞰できる視点をもつに至ってもなお、ここで全体を包括して分かりやすくするようなことを書きたくはない。

他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。

そう言われると、この本の中で書かれているそれぞれについて、その思考の対象にすぐにぴったり寄りそってしまうのではなく、常に対象と一定の距離感を保ち続けることで、その対象と自分の思考・感覚との間から何かを発見していっているように見える。

ARCH(K)INDYの時、お話を伺って感じたのは、ひとつひとつのことに対して積み重ねられた(僕からすると)圧倒的な思考のあとだったのだけれども、それは常に「わかろうとすること」と「わかってしまうこと」の間の距離感を保ち続ける姿勢の中から来ているのかも知れない。

先日行われたイベントで、「これからのつくってゆきたい理想の暮らし方のイメージ」というテーマに対して蒲牟田さんが「僕たちは理想の暮らし方を提案しては行けないし、イメージしてもいけない」と言うようなことを言われてすごく心に残ったのだけど、これも同じように建築家として距離感を保つ姿勢の一つだったのかも。(文脈を省いてるので誤解されそうだけど)

日々の設計や監理の過程の中で、常にいろいろな「わかろう」や「わかった」に出会っているわけだけども、僕はそんな距離感を保ち続けられているだろうか。




B171 『アーキテクト2.0 2011年以後の建築家像』


藤村 龍至 (著), TEAM ROUNDABOUT (著)
彰国社 (2011/11)

サブタイトルに「2011年以後の建築家像」とありますが、建築家像は果たして更新されるべきなのか、更新されるとすればどういったものになるのか、自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきか、という問いについて何らかのヒントになればと思い買って来ました。

アーキテクト2.0とは何か?

本書の狙いは以下のとおりである。まず、「情報化」と「郊外化」を1995年以後の建築・都市領域起きたもっとも重要な変化の代表例として位置づけること。そのうえで、そこで起きた建築家の役割の変化を見極め、問題意識を広く共有し、2011年以後の建築家の可能性を討議することである。

table3
上の引用文・表のように序文で本著の狙いとその前提が明確にまとめられており、その後の対談からありうる次の建築家像を読者が共に発見していくというような構成になっています。
表の2011年建築の動きの部分が空欄になっていますが、ここにはおそらく著者達の活動や本書に収められていることが入るのでしょう。

さらに本書のタイトルの説明としてこの表の2011年以後の部分に当たる部分を引用すると

2011年以後の「アーキテクチャの時代」に求められるのは縮小/エコロジー/新しい公共/パートナーシップ/コミュニティといった社会のニーズを汲み取りつつ、ボトムアップ/地域主義/シュミレーション/アルゴリズムといった方法論を駆使して人々のコミュニケーションの深層を設計する「アーキテクトとしての建築家」である。本書ではさしあたりこれを既存の「建築家」と区別し「アーキテクト2.0」と名付けておく。

とあります。
「アーキテクトとしての建築家」というと語義重複のようにも感じますが、”アーキテクト”は『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』などのそれまでのアーキテクチャに関する議論を受けてのもので、アーキテクチャを何らかのかたちで引き受けようとする人、という意味が込められているのだと思います。(引き受けるという表現は完全にはしっくり来てませんが)

アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか

僕は藤村さんと同年代で1995年ごろの、特に「郊外化」に対する問題意識から建築をスタートしているので、『そういう郊外的な希薄さが都市の全体を覆ってしまった現代において、どうやったら濃密さを取り戻すことができるのだろうか』という問題意識には完全に共感できるし、その問題に向き合うには『思想地図〈vol.3〉』のところでも少し書いたように、一種の権力でもあり地方においてより切実であろうアーキテクチャの問題をなんらかのかたちで引き受ける必要がありそうだと感じます。

対談の内容については本書を読んでいただくとして、では自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきかと考えた時に、アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか、という問いがありそうです。

少し考えてみると

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

というようなことが思いつきます。(アーキテクチャという言葉を少し強引に使ってるところもありますが)
①と②は建築士としての直接的な設計活動として、③と④は直接的な設計活動を離れた別の活動としてとりあえずは分けられるように思います。

次に、それぞれについて少し詳しく書いてみます。

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

個別の設計活動において、他者をどう取りこみ、どう濃密さを取り戻すかというのは、身体の時代の方法においても考えられてきたことだと思います。
超線形設計プロセスやアルゴリズムなどをイメージとして頭に浮かべていますが、設計方法、設計プロセスなどの部分で設計活動の及ぶ範囲の小さなアーキテクチャーに変化を与えることでより他者を取り込むことが可能になるように思います。

また、読書中に

onokennote: 例えばtwitterは独立した個のつぶやきのTLが偶然性による干渉によって一種の創造が起こることがある。それには個自身の多面性とTLの多様性、クラスタや地域といった規模感が重要そう。そして、その規模感が独立した個々の集まりの中にぼんやりとした輪郭を与えると共に、(いわゆる)地方において独特なアドバンテージを生み出す大きな要因になっているように思う。これを建築の設計に置き換えてに、例えば超線形のパラメーターのようなものがTL状に独立して流れる中、偶然性による干渉によって一種の創造が起こる、といったイメージが重ね合わせられないだろうか。さらに、ここに規模感のようなものを重ねることで、同様に(いわゆる)地方において独特のアドバンテージを生むようなイメージは描けないだろうか。このアドバンテージ(と感じるもの)をもっと追求することで地方ならではの設計のイメージってありえないだろうか。 こう考えたら、dotの超並列ってTL的だなと思ったのですが、こういうアドバンテージを考えた時にtwitterやFBで他に重要なポイントって何だろうか。リアル(フィジカル)なものとの接続の仕方とか、他のツールとの親和性とかもヒントになりそうだけど。以上思いつきメモ。まー、今は一人事務所だから共同設計的なイメージよりTLに書き込みつつ全体のTLを眺めるような感じかなー。


とツイートしたようにWEBの知見・感覚を活かす方法はありそうです。(他を知らないので比較できませんが鹿児島県はわりとソーシャルメディアを面白く使ってる地域だと思うのでそうした教材はたくさんあるような気がします)

自分の現状としては、今まで本を読んだりブログを書いてきたことの多くは①に関することなのである程度の積み重ねはあると思いますが、実物に結びつけるところがまだ弱いと思っています。
これは今後もこつこつと考え実践していくことはできると思います。

ただ、個別の建物に限られるので射程距離が短いことをどう捉えるかという問題は残りそうです。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

これは批判的工学主義のアプローチをぼんやりイメージしてますが、現在の主要なアーキテクチャに関わりやすいところへ設計活動のステージをシフトすることで①に比べ射程距離が長くなりそうな気がします。
具体的には商業施設や規格・商品化住宅、リノベーションと言った分野でしょうか。

現状としてはリノベシンポ鹿児島を受けてかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)で爪の先をなんとか引っ掛けた、という程度で、ほとんど手を付けられていないというところです。
踏み込むにはそれなりの戦略が必要でしょうし、勇気が要ります。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

ぽこぽこシステム_建築メタverで書いたようにアーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行うことで例えば建築文化のようなものを定着させて①の射程距離を伸ばすような考え方がありそうです。
例えば個別の設計、イベントなどの活動、SNSの活用などが考えられそうです。
藤村さんが汎用性の高い方法論を説いたり教育を行ったりして射程距離を伸ばされてるのもここに入りそうです。

自分の現状としては、かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)かごしま建築/まちなみマップ『「棲み家」をめぐる28の住宅模型展』などがあたりそうです。

nowheretenbiz鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはじめ、鹿児島でもこの部分の活動母体になりそうな動きはたくさんありますが、僕自身はWEBでの発信程度(それも滞りがちですが)しか出来ていないのが現状です。
それなりに腰を据えてやらないといけませんが、今のところウェイトをそれほど移すことが出来ていません。
デザインマーケットin鹿屋は素晴らしいと思います。簡単には真似できないです。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

地方の問題の多くは交通と土地の問題に帰着しそうな気がするのですが、そういった構造や制度的なアーキテクチャに直接的にアプローチする方法がありそうです。
岡部さんが少し言われてるようにもっとも直接的には行政や大学などの研究機関、もしくは関連企業などが担うべきことだと思いますが、イメージやアイデアを提出したり、そういったことが議論される場を設ける等できることはあると思います。
また、新しい公共のようにそれを担う人がシフトしていくべき分野もありそうです。

鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはここにも入れられそうですが、自分の現状としてはしっかりと関わるところまでは行っていません。

今、土地の分野から建築までを一体的に提案するようなとあるプロジェクトに関わらさせていただいていますが、これには①とともに④の部分でもアプローチができそうで大きな可能性を感じています。

じゃあどうすんべ

じゃあどうすんべ、というところですが、現状は①についてそれなりに考え始めている、というだけで、②③④についてはあまり力を入れられていません。

難波さんの「コントロールできる範囲を見極める」というところは、最近ローカルでよく聞く規模感という言葉ともかぶることもあり印象に残っていますが、それぞれに対してどれだけのウェイトをかけるかというのをきちんと設定しないといけないと感じています。

今、事務所としては1年目を終えたところですが、そのためにもまずは経営をある程度軌道に載せ、必要に応じて①以外の部分にも堂々と一定のウェイトを割けるようにならないといけないし、そのための体制作りがここ2年ほどの課題になりそうです。

なんだか現状をまとめる所で終わってしまいましたが、きちんと戦略をもたないとなかなかアーキテクチャには踏み込めなさそうです。ゆっくりきちんと考えよう。

——————————-
追記
基本的には①(もしくは②)を中心としてそこに③、④を明確に位置づける必要がある。明確に位置づけられないものは事務所としての役割とは別にきちんと切り分けるべきだろうな。その部分は他の役割を担うべき人に任せるか、一市民としての立場で動くか、もしくは別名又はリノベ研等の別枠で動くべきなんだろう。
ここの切り分けが明確でないとどこまでいっても曖昧になってしまいそう。藤村さんがTEAM ROUNDABOUTを切り分けてるのが参考になるかな。もう一度整理してみよう。




B170 『建築に内在する言葉』


坂本一成 (著), 長島明夫 (編集)
TOTO出版; 1版 (2011/1/20)

マルヤのジュンク堂に寄った時にお目当てがなくて、ふと目に入って買った本。
たまにはがっつりした建築論を読みたいと思ってたのと、坂本さんの文章をもっと読んでみたいと思っていたので買ってみました。

全体を通して、例えば形式のようなものを定着させると同時にそこからの『違反』を試みることによって『人間に活気をもたらす象徴を成立させる』というようなことが書かれていて、とても参考になりました。
これに似たことがいろいろな言葉で置き換えながら何度も出てきます。

定着と違反は反転可能なもの、もしくは並列的なものかもしれませんが、本書を振り返りながらざーっと挙げてみると

定着・・・現実との連続、コンセプト(概念的なこと・理念的なこと・テーマ的なこと)、非日常、概念の形式、構成、統合、都市的スケール、固有性(根源的とも言える建築のトポス、客観的形式、集団としての記憶を形成するエクリチュール)、記憶の家、永遠性、アイデンティティ、対象としての建築、全体的な統合に依拠した配列・・・

違反・・・現実との対立、現実の日常的なもののあり方、構成・形式自体を変形・ずらす・相対化・弱める、曖昧なスケール、曖昧さや両面性による素材の使用、構成要素の配列の組み換え、バランスの変更、統合への違反、建築のスケール、反固有性(あくまで固有性を前提としその結果も固有性を保有しうる固有性の格調の範囲にある違反)、今日を刻む家、現在性、活性化、環境としての建築、他律的な要因による並列、併存的な構成・・・

作用・・・ニュートラルな自由な空間、場所的空間、押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせるもの、付帯していた意味を中性化し宙吊りにする、生き生きしたもう一つの日常を復活、矛盾・曖昧・二重性・宙吊り・対立・意味の消去・表現の消去、自由度の高い建築の空間、現実の中で汎用化し紋切型化した構成形式の変容を促す、類型的意味を曖昧にする、象徴作用、建築が<建築>として象徴力を持ちうる、<生きて住まうこと>の感動と安堵に対する喜びと活気、建築をより大きな広い世界へとつなぐ・・・

これらのもとにあるのは

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。

という思いであり、さらに、そのもとには戦後橋の下に住んでいたある家族の家という個人的な情景があるように感じました。
こういう情景と比較した一種の喪失感のようなものは時代的に多くの人と共有できるように思いますし、そのための方法を多くの人が探っているんだと思います。

ここでいう象徴力という言葉は前回書いた固有名と社会性の関係に繋がるように思いますが、そのへんをもう少し自分の中ではっきりとした言葉にすると同時に具体的に方法論として積み重ねていかないといけないと感じています。

具体的なヒントとなる良著でしたが、それだけにしっかりと自分のものに置き換えないとですね。

また、読みながらふと、パタン・ランゲージやアルゴリズムと言ったものにも違反のシステムが組み込まれているべきだと思ったのですが、もしかしたら複数のレイヤーやパラメーターを重ね合わせることで、関係性の中からそれぞれに一種の違反が生まれることがすでに組み込まれているのかも知れないと思いなおしました。

『違反』の部分はおそらく個性と言うか個人の持っている情景・イメージや問題意識に左右されざるを得ない、又はそうあるべきものだと(現時点では)思うのですが、その前に違反するとすればその違反を誰がどのように起こすのかということをイメージしておく必要がありそうです。

簡単に書きましたがこの本は近年でも1,2を争うヒットで何度もじっくり読みたいと思っています。