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資本主義を使いこなすことは可能か B290『資本主義の中心で、資本主義を変える』(清水 大吾)

清水 大吾 (著)
NewsPicksパブリッシング (2023/9/6)

資本主義を知るためには、資本主義の中心にいる人の考えも知る必要があると思い、本屋でタイトル買いしたもの。

著者は外資系証券会社であるゴールドマン・サックスで16年間勤め、その内部で資本主義を変えることに奔走した方で、資本主義の現在地を知るためにはうってつけの著書かもしれない。

結論を先に書くと、ある部分での解像度は上がったと思うが、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」「資本主義を使いこなすことは可能か」という問いに関してはもやもやとしたものが残ってしまった。

私個人としては「資本主義を使いこなすことは可能か」という可能性の問題の前に、「成長せねばならないという前提がどこから来ているか」という原理の方にまず関心がある。というのも、まず前提の根拠が分からないことには成長ありきの前提のもとで考えるか、現実に目を塞いたまま前提を否定するかの選択になり、どちらにしても霧がかかった視界不良の中を進むことになる気がするからだ。

資本主義と投資家

まず、著者は資本主義の根本原理を
資本主義=所有の自由×自由経済(競争の増幅装置)
として定義し、「成長の目的化」「会社の神聖化」「時間軸の短期化」といった問題はラーメンのトッピングのように副次的に発生したものにすぎないとする。

この中で、特に根本的な問題であると思われるのは、「時間軸の短期化」のように思われる。
企業の活動にはそれにふさわしい「固有の時間軸」があるが、1年または4半期の情報開示や短期目線の投機家の活動により、その固有の時間軸よりも短期の成長のみが優先化される傾向がある。

これがひいては「成長の目的化」「(バーター取引を含む)会社の神聖化」につながるため、企業はその企業文化と企業の固有の時間軸を理解した、長期目線の有能な投資家とつながることが重要である。

その上でESG(Environment:環境 Society:社会 Governance:企業統治)またはROE(Return on Equity:資本利益率)に加えて、著者の提案するROE(Return on Earth:地球資源利益率)などを投資の基準・価値観として浸透させていくことで、資本主義を使いこなし「資本主義を世界の持続可能性に貢献するものに変える」。これが、本書の主旨、著者の願いであろう。

資本主義を使いこなすことは可能か

著者の活動は資本主義を改善していくための尊い活動であることに異論はない。

その上で、私個人としてはまだモヤモヤとしたものが残っている。
これは私の勉強不足もあって幼稚なものかもしれないとも思うが、今後の課題としてそのモヤモヤを書いておきたい。

・「成長至上主義」的な手段の目的化は免れたとしても、資本主義の原理は依然、競争と成長にあるのではないか。本書の中でもその前提は確たるものとして存在しているように思う。仮に、地球資源の使用の絶対量を増加させない、もしくは減少させるような成長が可能だったとしても、指数関数的に必要となる成長に反比例して資源利用の絶対量を抑えるような技術革新を続けることは不可能ではないのか。
・投資が慈善事業ではないとすれば、成長を強要するプレッシャーは避けられないのではないか。それとも、成長を抑えた上での共存の可能性があるのか。
・投資家が、資本主義において企業にガソリンを提供するような重要な役割を担うことは分かったが、地球上の大部分の富を専有する数%の投資家が地球の将来を決定するような構造に無理はないのか。彼らの選択が最善を目指すということを担保するようなものは何か存在しているのか(そうであるなら南北格差はとうに是正されていてもおかしくないと思うが・・・)。対抗する現実的手段はあるのか。(投資家とは誰か、ということの解像度も高めたい)
・企業活動による利益は基本的に投資家(株主)のものである、という原理は分かるが、そこにゲームとしての不平等はないのか。多くの人ががそれに納得して前提として疑っていないようにみえるが、なぜなのか。その前提の絶対性はどこからきているのか。
・投資家と比べて投機家と呼ばれる人たちの社会的役割は何か。メリットとデメリット、それらの重みはどの程度か。
・本書内で環境原理主義と斬り捨てるように”見える”場面があったが、それは著者の目指す世界に向けてのプロセスとして正しかったのか。その後の「絶対的な正義はない」という話や独自のストーリーの話は共感できたが、声に出すことそのものを当たり前にすることの重要性を考えるならば少し違った書き方があったのではないか。(ここは難しいところで自分の課題でもある)

要するに、
・資本主義の原理と基本的なルールを変更せずとも持続可能な社会とすることは可能か。変更が必要であるとするならばどのような可能性があるか。また、その上で著者の活動はどのように位置づけられるか。
ということはまだ良く分からなかった。

繰り返すが、著者の思いや活動は尊いものだと思うし異論はない。
しかし、だからこそその意味をもう少し理解できるようになりたいし、もし続編が出たら読んでみたい。




システムから選択肢を考える B289『地球のなおし方』(デニス・メドウズ ,ドネラ・H.メドウズ ,枝廣 淳子)

デニス・メドウズ (著), ドネラ・H.メドウズ (著), 枝廣 淳子 (著)
ダイヤモンド社 (2005/7/15)

少し前にテンダーさんにお借りした本です。

地球環境に対してどのような選択をするべきか、システム思考をベースに易しく語りかけてくるような本。

システム思考

システム思考とは何か。
それをこの本を読んだだけで理解できたと言えないけれども、目の前の認識可能な事象だけではなく、全体をシステムと捉えた上でシステムの挙動を考えながら判断するべきで、その挙動に効率的に働きかけられるような行動をとるべき、という感じだろうか。

上の図で言えば、多くの人は出来事やそこに見える行動パターンをもとに判断をすることが多いが、その裏に潜む構造・システムやさらにその裏にある無意識や前提のようなものこそが変革には重要となる。

本書にある、その変革に向けたアプローチのツールは「ビジョンを描くこと」「ネットワークをつくること」「真実を語ること」「学ぶこと」「慈しむこと」の5つで一見地味な言葉ばかりだが、一番奥にあるものを変えない限りは変革は起こり得ないことを考えると、これらのことが一番力を持つのかもしれない。

前回見た市民革命などを考えても、ビジョンさえ浸透すれば希望はある、と思わせてくれる本だった。

どのような選択をするべきか

『資本主義の次に来る世界』などでもたくさん紹介されていたけれども、本書でもコンピューター・モデルを用いたシミュレーションによるシナリオが紹介されている。
本書が20年前のものであるという点も含めて参考になったので、比較しやすいようにシナリオごとに並べた上でいくつかをピックアップしてみた。
また、2005年(出版当時)、2023年(現在)、2050年(例えば2010年に生まれた子どもが40歳の年)、2080年(その子ども(孫)が40歳の年)を参考に追記している。

例えば、汚染除去や農業関連の技術が導入されるが、省資源化や人口抑制、工業生産抑制を行わなかった場合のシナリオ5では、孫が大人になる頃には環境は崩壊をはじめてしまう。
これは、1950年頃の状況に強制的に戻らざるを得ない、というだけでは済まないだろう。資源は底をつきはじめているし、それまでの経済成長を前提とした社会が急激に変化する中で、失業や食糧不足、社会不安やそれに伴う紛争など想像もできないような不安定な社会が待ち受けているかもしれない。
自分の子どもや孫がそれに直面するかもしれない、というイメージはまだ多くの人には共有されていないかもしれないが、その可能性をまず受け入れる必要がある。

このシミュレーションは、シナリオ5を回避し、シナリオ9の持続可能な社会とするためには、省資源化に加え、人口抑制と工業生産抑制の必要があることを示しているが、それは成長主義的な資本主義のシステムを変革することが必須であるということだ。

そういう選択を我々はすることができるだろうか。

このシミュレーションが20年前のものであり、シナリオの前提となる技術の進歩が不確定であり、さらに南北格差の問題や社会的変革の難しさを考えると、乗り越えるべきものは多いし、消費財やサービスが本当にこれほど必要か、という議論もあるだろう。
現在でも多くの人は「経済成長より持続可能な社会を望む」という風に考えている、というような調査結果もあるようだけれども、それを実行に移すには社会・システムに対する新しい知恵を身につけることは必須である。
とするならば、システム思考はそのヒントになるだろうか。

環境の変化を想定しておく

建築の立場として、一人の人間の立場としてできることは何があるだろうか。

一つは、望ましいシナリオへと舵を切るべく、できることを考え実行するしかない。

しかし、程度の差は別にして最善のシナリオを進まなかった、という可能性も考えておかざるを得ないだろう。
(それほど遠くない)将来、今当たり前に考えている生活が急激に崩れていくことはこれらのシナリオからも十分に想定されるが、その時になって対応しようとしてもかなり厳しいように思う。
今のうちから、環境の変化に対応可能な生活へと少しづつスタイルを変化させていく、ということも必要ではないだろうか。(その事自体がシステムの改善にもつながるだろう。また、著者の枝廣氏はその後、レジリエンスや地域経済に関する本を書いているようだけども、それが著者の一つの答えなのかは興味がある。)

建築は何十年も残るものであることを考えると、将来的な変化への想像力を持って仕事に取り組むことは職業倫理として必要に思うし、建築という仕事そのものが経済状況に大きく影響されるものであるため、ビジネスのあり方も考えないといけないかもしれない。(二拠点居住や来年からやってみようと思っている稲作(自己消費用)はそのための想像力を少しでも引き寄せるための経験だと思っている。)

課題

学ぶべき課題は何か。
今回頭に浮かんだのは、
・システム思考とは何かをもう少し詳しく。
・資本主義経済の本質は何か。成長せねばならないという前提がどこから来ているか。
・レジリエンスを高めるにはどうすればいいか。(個人経済や地域経済のスケールで考える?)
・建築そのものとビジネスをどう変化させる必要があるか。
などである。
うーん、田舎生活も分からないことばかりだし、やることが増えていくばっかりだ・・・




我々は希望の物語を描くことができるか B289『哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考』(竹田 青嗣)

竹田 青嗣 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/5/25)

この本は昨年の5月にいろいろな哲学者に関する本を読もうと思いたち、まとめて購入した本の一冊であるが、まだヘーゲル自体に関しての興味が湧いていなかったため積読になっていたものである。

しばらくは手を付けることはないだろうと思っていたけれども、急遽、資本主義をテーマにすることにしたため手に取ってみた。その結果、本書はまさしく今読むべきものだったと思う。

我々は希望の物語を描くことができるか

われわれはいまや、現在ある資本主義を、”持続可能かつ正当化されうる”資本主義にかえられるか、それともそれを放置するほかないのか、という選択肢の前に立たされているのだ。
そして、この課題に応えるためには、現代のさまざまな批判的思想ではなく、まず近代哲学に立ち戻らねばならないとわたしは考える。なぜか。近代哲学が「近代社会」の理念的本質を形成したからであり、さらに、現代の批判的思想がその本質を捉えそこねているからである。資本主義は近代社会の本質から現れたものであり、資本主義を捉えるには、まず近代社会の本質を把握しなくてはならないのだ。(p.11)

著者の本は明晰で分かりやすいことに定評があるようだ。
読んでみると、まさにその通りで、哲学者の言説の中から重要な原理を取り出しあるストーリーのもとに並べて見せる手腕は見事であり、哲学とはこういうものかと唸らされた。
それがあまりに明晰であるため、逆に捨てるものが多すぎるのではないかと危険性さえ感じながら読んだのだが、それでもなお(だからこそ)一読すべき本だと思う。

はじめに断っておくが、本書は近代社会の権力や資本主義の存在を否定するものではない。それどころか、権力や資本主義を廃絶することの「不可能性」を示すことを使命として書かれたものである。

こう書くと、資本主義を肯定するための言い訳のようなものだと思われるかも知れないが、資本主義の暴力性を肯定するものでもない。そうではなく、近代社会と資本主義が必要とされる原理を哲学的に描き切ることで、その廃絶の不可能性を示しつつ、それでもなお希望の物語を描くことが可能か、そのための原理はどこにあるかを明確にしようとするものである。

私は、ここ数年での環境に対する考察などを通じて、資本主義の持つ限界性は否定されようがないと感じていた。
だからこそ、近代社会や資本主義の暴力性と限界性が明確になりつつある現代においてそれでもなお資本主義を続けざるを得ない理由は何なのか、ということが知りたかったし、資本主義をテーマにしようとした動機の大部分はここにある。

それに対して、本書は多くの視点を与えてくれた。
途中、いくつかの疑問も浮かびながら読み続けていたけれども、著者が同じ問題意識のうちにあることが理解できたし、ここで描かれた一本の筋を一度飲み込んでみることは意義があると思えた。

まずは、備忘録的な意味で自分なりにまとめた上で、感じたことを書いておきたい。
(ただ、最初に書いたように、本書自体がかなり凝縮された内容なので要約の劣化版要約のようなものになると思う。まとめ部分はあくまで備忘録として捉えて欲しい。内容に関しては大変読みやすい本なので一読を強くお勧めする。)

哲学と原理

しかし一方で、むしろこの深い絶望が新しい可能性をもたらしたのだ。カントの「原理」は人々に「真の信仰」を見出そうとする欲望を断念させ、そのことが、「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道を初めて押し開くことになったからである。(p.31)

問題の中にある「原理」を重視すること。これが本書における著者のスタンスであり、これが明快な一本の筋を生み出している。
この徹底に対して他の哲学者からの批判があることが想像できるが、本書を読む上で重要な部分である。

多数の人が参加する「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」があるとする。
宗教のテーブルは何らかの「真理」を探し求める言語ゲームであり、哲学は「普遍性」「原理」を探し求める言語ゲームである。
ここで、「真理」と「原理」の違いは何か。
「真理」は絶対的な(とされる)ものであるが、これが確かなものだと証明することのできない「答えのない問い」である。それ故に異なる「真理」の間の争いを調停するすべを持たない。
一方、「原理」は真理が答えのない問いであることを認めた上で探し求められた、誰もが認めざるを得ない共通了解である。(共通了解であるから後で変化する可能性は消しされない)

「真理」が答えのない問いであるという「原理」を明確にしたのがカントであるが、先の引用文のように、このことが人々を”「社会」の構造の解明とその変革という新しい可能性の道”を切り開いた。つまり、真理の探求としての宗教的テーブルに座ることしかできず、一定の自由の範囲から抜け出せなかった社会から開放される可能性が開かれた。
(本書ではこのことを、人類の長年の夢であった錬金術の可能性を、元素に関する「原理」が終焉させ、そのことが科学的な新しい可能性へと向かわせたことと重ねて例えている。これは後で書くように本書の意義とも重ねられている。)

つまり、「社会」の問題を個人の内面の問題から、複数の人間の構造の問題として現実的に扱えるものへと変えたのが「原理」と言えるし、このことの探求が近代社会の出現を可能とした
自然科学が原理の探求を通じて自然を解明してきたように、社会構造を解明するための原理を探求することが哲学の一つの役割・方法である、というところから出発するのが本書の特徴であるだろう。

近代社会の原理

しかし、私の考えでは、「財の蓄積」は、人類にとってむしろ決定的な不幸と悲劇の開始点となった。まさしくここから人間同士の普遍闘争状態がはじまったからである。(p.40)

人類の歴史を振り返ってみると、そのほとんどが闘争の歴史で塗りつぶされている。
私はそれが昔から不思議でならなかった。人間の本性はそれほど変わるはずがないだろうに、過去の人達は本当にそれほど愚かだったのだろうか。
戦後の一応平和な日本に暮らしている自分としては、それを人間の内面の愚かさに求めるようなイメージしか持てなかったが、本当の原因はどこにあるのか。

これに対して前もって書くと、人類の歴史上、近代社会と資本主義こそが社会から暴力を排除し、かつ人々に自由を与える可能性を持つ唯一の原理によるものであり、財の蓄積が可能になってから近代社会の実現までは自由の獲得と暴力の排除を同時に満たせる原理を人類は持っていなかった、というのが本書の主張である。(近代社会の実現以降も戦争の歴史ではないか、という指摘もあるが、それは”一旦”置いておく)

その近代社会を成立させる原理を確立したとして本書が取り上げるのがホッブス、ルソー、ヘーゲルである。

・ホッブス 普遍闘争原理
「財の蓄積」以降、人間社会は、強力な統治権力を欠けば必ず普遍的な暴力状態に陥るというのが最初の原理である(『リヴァイアサン』「万人の万人に対する戦争」)。これを著者は「普遍闘争原理」と呼ぶ。
まず、人あるいは共同体は、自分の生命と財産を維持するために暴力を使って身を守る権利がある(自然権)。
動物は体力などの自然の決めた差異によって自然と秩序が生まれるが、人間共同体はその知恵によって絶えずその差異をひっくり返す可能性をもつため、相互不信を増大させ、必ず弱肉強食の戦争状態に置かれざるを得ない(自然状態)。生命の危険のない状態が確定していれば別かもしれないが、生命の危機にあるような貧しさの中では、生き延びる道が略奪や侵略以外になくなる。そこで、そのような事態が何度か起こると、その可能性に対しあらゆる共同体が強力な戦争共同体を目指さざるを得なくなり、潜在的な戦争状態に突入する(不信の構造)。
そのような中、戦争状態を抑止する原理は、各人が自然権を放棄し、全員が従うべき強力な超越権力を作り出してそこに委ねる以外には存在しない(自然法)、と説いたのがホッブスである。

しかし、実際には相互不信がある状態ではどの勢力も自ら自然権を放棄することができないため、結局のところ、より強い勢力が弱い勢力を制圧していく以外には普遍闘争を抑制する原理がなかった覇権の原理)。歴史の天下統一のストーリーは、彼らが野蛮だったからではなく、人類がそれ以外に戦争状態を終わらせる原理を持たなかったという構造的な理由によるものだと言える。

ここから言えるのは、「国家」の第一の機能は支配ではなく「暴力の縮減」だということであり、それが国家の存在理由である。

では、人類は覇権の原理、つまり強者が弱者を制圧していく以外に普遍闘争状態を終わらせることはできないのだろうか。
これに対して、ホッブスは人々がある合議体に自発的に服従することに同意するという「設立された」統治権力の可能性を示唆しているが、これをより哲学的に展開したのがルソーである

・ルソー 一般意志契約
ひとまずは「覇権の原理」によって普遍闘争状態を終わらせられたとしても、その先には決定的な問題が残る。つまり、その結果として”専制支配体制”に行き着き、そこでは支配者以外の人間の「自由」は存在しない、という問題である。(ここから先は「自由」が重要なキーワードになる。)

それに対してルソーが示した「原理」は下記のようなものである。

普遍的闘争状態を制御し、しかもその上で各人の「自由」を確保する「原理」が、一つだけある。戦いが「覇権王」を作り出す前に、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上でその権限を集めて「人民主権」に基づく統治権力を創出すること、これである(わたしはこれを「一般意志契約」と呼びたい)。これ以外には、普遍暴力を制御しつつ各人の「自由」を確保する原理は、一つもない。(p.51)

しかし、ここで頭に浮かぶのは先の「不信の構造」である。これがあるために覇権の原理に進まざるを得なかったのであるが、この不信を乗り越える原理とはどのようなものだろうか(歴史的には専制支配体制が先にあったのだろうが、原理を更新するための疑問として)。それに対する明確な記述は本書にはなさそうだが、思うに、不信に対する心理と、「自由」の確保可能性に対する心理の天秤のようなものだろうか。専制支配体制の不自由さを目にしながら、自由の可能性が目の前にあるとすれば、不信を乗り越えそこに賭ける原動力になったのは分かる気がする。また、その原理の根が信頼にあるところに「一般意志」の重要性があるだろうし、「自由」に対する信頼が揺らげばこのような社会に批判的になるのも当然であろう。

ここで、本書にある重要な指摘は、「社会契約説」の捉え方に含まれる理想と原理の違いである。
つまり、ルソーが示したのは、近代社会は誰もが自由で対等であるべきという理想ではなく、誰もが自由であるために必要な原理である、ということである。これは本書を貫通する主張であるが、この捉え方の違いが転倒したルソー批判の原因であるという指摘は頭に入れておく必要がある。

ところで、「一般意志」とは何だろうか。これは「自らの自由を獲得するために、自然権を統治権力に委ね、代わりに、成員すべての「自由」を認め合うことに同意するという意志」と捉えると理解しやすいように思う。この意志が尊重されなければ市民社会の存続もできないだろう。また、そうである以上、政府は必ず「一般意志」を代表するものであらねばならないし、この限りにおいて政府は正しいと言える。(一般意志に関しては東浩紀の『訂正可能性の哲学』を通じて後日改めて考えてみたい)

ここで、社会には政府が一般意志を代表するのを阻害する大きな要因があるという。それは、統治権力の下部にも諸団体が存在し、それぞれの団体の一般意志が社会全体の中での「特殊意志」となって対立することである。ここでもそれぞれの特殊意志は上位の一般意志に従う、すなわち団体間の相互自由を認め合う必要がある。これが数による覇権ゲームに陥らず一般意志契約の原理を維持するにはどうすればよいだろうか。

・ヘーゲル 自由の相互承認
ヘーゲルはホッブスとルソーの社会原理を包括しながら展開させたが、その核心は次のようなものだ。

①伝統社会から近代社会へという歴史の推移は、民衆の「自由」への欲望という根本原因によって展開してゆく。
②それは、「自由」の相互承認の社会的表現である「法・権利」の展開として進み、ついに自覚的な「自由の相互承認」を基礎とする「市民社会」にまでいたる。
③しかし、市民社会は、必然的に、放埒な自由の欲望競争ゲーム(「放埒な欲求の体系」)となる。市民社会は、この矛盾を克服する原理をそれ自体としてはもたず、もし放置するならあらゆる社会生活の基盤である社会的倫理の分裂と崩壊にゆきつく。
④ここに市民社会の本質的矛盾がある。しかし、自由な欲望ゲームを廃棄し、もとの自然な社会にもどることでこの矛盾を克服することはできない。それは「自由」そのものを不可能にするからである。この問題の解決は市民社会の欲望のゲームをつねに「人倫」の原理によって調停する以外にない。そしてこの役割を果たすのが「人倫国家」である(世俗的市民社会ではなく、理性国家)。(p.119)

ここで、ルソーとヘーゲルの違いは何だろうか。
本書によるとルソーの市民国家の自由は絶対自由の一般承認に過ぎず、「一挙になされる契約(=革命)によってしか成し遂げられないものである」という。そこには放埒な自由の欲望競争ゲームを克服する原理はまだない
それに対して、ヘーゲルは「人倫」の原理もしくは互酬的原理によってつねに調停し続けるという”時間的成熟”の契機を導入したという。つまり、近代社会を維持するには、絶えず一般意志の内容をすり合わせ「法・権利」をアップデートしつづけるような仕組みが必要だと言うことだろう。ここに、「自由」の本質が社会的に発現していくプロセスがあるが、「自由」の本質とは何だろうか。

私の理解では、「自由」の本質そのものを絶えず探求するような「自由」が確保されていることそのものが、「自由」の本質であり、それは近代社会によって初めて可能となるものであるということだ。(これに関しては一つの章が与えられているので本書を参照して欲しい)

以上、簡単にまとめたが、このようにホッブス、ルソー、ヘーゲルのリレーによって近代社会成立のための原理が整えられていった。

近代社会と資本主義

ところで、近代社会と資本主義の関係はどのようなものだろうか。
近代の政治システムの基本構想は哲学者によって与えられたが、資本主義は近代社会との関係の中で自然発生的に現れたもので、それは社会的な財の生産を持続的に増大させるはじめての経済システムであったという。

資本主義の成立は「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」の3つが揃った事による。
それまでは、普遍闘争の原理から、どんな国家も収益の殆どを国の強化に当てざるを得ないため、人民は自らの労働を再生産できる最低限を残して収奪されなければならないという構造を持っていた。

そんな中、分業による効率化だけが、爆発的な生産性の増加を可能とし、人民の生活を向上させる可能性を持つものであった
著者の憶測的仮説によると、海洋交通の発展が交易ネットワークを拡大させ、「普遍交換」のシステムを形成させた。そこで生まれた需要は生産性を高めることを促し「普遍分業」を進展させた。さらに、生産性の向上は近代国家の成立を支えるとともに、近代国家によって人々が開放されたことによって「普遍消費」の局面が開かれ、交換と分業の相互促進を支え、持続的な拡大的循環を可能とした。

このようにして、資本主義システムが財の希少性を解消し、人民の「自由」の開放の前提条件となるとともに、人民の「自由」の開放が資本主義の維持のための前提となっていく。人々の自由への欲望が根本動機となって、近代社会と資本主義とが互いを必要としながら成立していったのである。

近代社会の本質

ここで、近代社会の本質的特質として「ルール社会原則」「一般福祉」「普遍資産」の3つが挙げられている。簡単に触れておくと、

・ルール社会原則
基礎原則は「ルールの基の権限の対等」「ルール決定と変更についての権限の完全な対等」「ルール遵守が成員資格の原則であること」であるが、この原則により、その政府が「一般意志」をより表現する方向に進んでいるか否かが、市民国家としての「正当性」をもつかどうかの指標となる。

・一般福祉
近代国家においては「諸個人の幸福」と「普遍的なもの」が調和的に統一される必要がある。
個別的な「自由」の追求が、社会の総体としての「善」の実現につながるような状態の実現こそが「近代国家」の最終目標である。

・普遍資産
社会全体の生産の増大を、成員全員による成果として考える。このために、その妥当な配分の原理を見出す必要がある。

というもので、「一般意志」を代表する統治権力が、「自由の相互承認」に基づく成員のフェアなゲームを担保することが求められる。つまり、ゲームそのものが「一般意志」とカップリングしている状態を維持することが近代国家の本質であると言えるだろう。

また、例えば大きな格差などに理不尽さを感じる感覚は、我々がこれらの特質に対する感度を獲得し当たり前と感じていることを示しているのかもしれない。

矛盾と批判

ここまで、近代社会と資本主義の原理と本質をまとめてきたが、これらは承知の通り理想的な道筋を進んだわけではなく、新しい大きな矛盾を生み出すことになった
そして、それに対する多くの批判を生むことになる。

近代国家は、表象として高度な階層支配システムであるかのようにして現れたがその大きな理由は、
近代国家の間に相互承認が存在せず、より厳しい普遍闘争状態がはじまったこと
資本主義システム事態が富の配分の偏在を生む「格差原理」を持っていたこと
である。

それに対し、マルクス主義やポストモダン思想等の批判が生まれたが、その多くは、事態の本質と属性を取り違えているために、現状に対する批判や理想の相対化としての意義はあっても、それだけでは決して本質的な克服のための原理を取り出すことができない、というのが著者の主張である。(著者はマルクスの”現状”の本質を見抜く力は高く評価している。)

そのため、国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成(資本主義システムは自然発生的であったため、政治システムほどの原理を獲得できていない)、といった課題を克服するためには「反国家、反資本主義、反ヨーロッパ、反近代といった表象を捨てねばならない」と言う。

これは、著者の決意表明のようなものかもしれない。

哲学を「形而上学」だと考え、国家と権力と資本主義を諸悪の根源と考えてきたような世代にとっては、このような主張は、まったく異国の言語のように聞こえるかもしれない。その感度をわたしはかなりよく理解できる。わたしもまたこの世代の感度を共有していたからだ。(p.287)

それでもこのような結論に至らせたのは、おそらく現代が大きな分岐点にあるからだろう。

希望の原理はあるか

ともあれ、わたしが示そうとしたのは、現代社会が進むべき道についての一つの根本仮説である。「自由」が人間的欲望の本質契機として存在するかぎり、人間社会は、長いスパンで見て、「自由の相互承認」を原則とする普遍的な「市民社会」の形成へと進んでいくほかない。(p.254)

ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」に基づく普遍ルール社会へと成熟させる道を取る以外には、人間的「自由」の本質を養護する道は存在しないこと。(p.287)

南北格差の拡大、過大な大量消費と大量廃棄のサイクル、市場原理主義・金融資本主義による世界のマネーゲーム化と資本による労働の奴隷化・・・世界は、「自由の相互承認」の原則を外れて、格差を拡大しながら地球環境の時間的限界へ向けて突き進んでいる。正当性を欠いたシステムは、自制を失い覇権の原理に従うのみで、やがて新たな希少性と闘争の時代に行き着くほかなくなるだろう。

しかし、選択の余地のないような危機的状況にあるということは、人類はこの危機をむしろ好機と捉えて変革へと進むほかない、ということでもある。

やるべききことははっきりしている。
国家間での「一般意志」による相互承認のルールの形成と、資本主義の「正当性」の概念を打ち立てる原理とルールの形成、これを近代社会の原則に立ち返って成し遂げるしか道はない。

ポストモダン思想は大きな物語を終わらせた。
しかし、人類はもう一度大きな物語を描かなくてはならない場面に立っている。
それは、ポストモダンが批判したような「理想理念」・イデオロギーとしての物語ではなく、人々を「人類」という連帯の輪に結びつける物語、合意による新たな「正当性」確立の物語である。

新たな物語を描くために何が可能か

しかし、わたしはこの著作を書いて、自分のうちに新しい可能性が現れかけていると感じる。なぜなら、権力や資本主義の廃絶をめがけた思想と、それを批判するわたしの考えの中心点は、本来、けっして対立的なものではないからだ。(p.294)

ここまで、簡単に本書の内容をまとめてきた。

その結果浮かんできたものは、前回読んだものとかなりの部分で共通する。(前回の本で挙げられている処方箋や事例のようなものは、今回の本で指し示された道の上に乗るもののように思える。)

また、本書を読んでも、いやむしろ読んだからこそ、二元論的な思想を転換することの重要性は高まったように思うし、資本主義の「正当性」に対しては、今なお成長が必要かという視点と人為的希少性の問題を考慮する必要がある、と思う。

さて、ここで、自分の問題として考えた時に、自分に何が可能か、というのが問題となる。

近代社会の原則にならえば、まずは、多くの人に明確な自覚と同意が必要であるから、これを促す行動をとること阻害要因(本書によると「既得権と実力のある勢力の抵抗」「可能性の原理を認めない反動思想」を解除する合理的な「原理」も必要)に安易に加担しないこと、などがさしあたり可能なことだろう。
例えば、前者に対しては、最近考えてきたように建築環境に対してどういうスタンスをとるか、というのが一つの行動の指標になるかもしれない。

とはいえ、「可能性の原理を認めない反動思想」とは何か、は現時点では私には確定できないし、まだこの問題に対する自分の言葉は少なすぎる。しばらくはこのテーマを追ってみたい。




アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル)

ジェイソン・ヒッケル (著), 野中 香方子 (翻訳)
東洋経済新報社 (2023/4/21)

帯にある「「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き」という文が気になり読んでみた。

全体的な論調としては『人新世の「資本論」』と重なるが、成長を運命づけられた資本主義がどのように世界を支配するようになったのか、という経緯と、脱成長に対する反論に対する反論としてどのような成果があるか、という点で収穫があった。
また、問題の根本には帯にあるような「アニミズム対二元論」といった存在論(オントロジー)の問題が横たわっている、というのが本書の主張である。

デカルト的二元論とアニミズム

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。

アニミズムを漢字で書くと精霊信仰となり、現在では遅れた未開文明の思想というイメージで捉えられるかもしれない。しかし、人間は生物コミュニティの一員であり、その循環の中で生きている、というのは「あたりまえ」のことであるし、人類の長い歴史の中で培われてきた持続可能な社会を維持するための最大の知恵であったと言ってよい。

その、知恵を放棄し資本主義に適合するように根本から書き換えたのがデカルトであるが、その経緯は全く自然なものではなく、権力と結びつく形で略奪と強制により導入されたものである。

これは、現在多くの人がそう信じているデカルト的心身二元論(例えば身体と脳を分け、感覚器官から受け取った刺激を脳が再構成、処理して身体に司令を送る、というような機械論)から脱却することによって新しい視点を提供するものである。(はじめに|オノケン(太田則宏))

デカルト的心身二元論に関しては、アフォーダンスの文脈で根本的な問題に関わるものでなじみがあったが、実のところその問題の大きさにピンと来ていなかった。
しかし、本書によって私にとってのデカルトのイメージが大きく更新されたように思う。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。
デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を締めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。

その変化は、資本や権力に都合の良いように人類を洗脳するという類のもので、囲い込みによる略奪/人為的希少化により資本家以外を植民地化する、というプロジェクトを成功に導いた。

哲学者は聖人であり、最善の思想を考えた人である、というイメージはいささかピュアに過ぎるのかもしれない。最善を目指したかもしれないが、それはその時代においてのものであり、その都度見直されるべきものであるはずだ。しかし、この時生まれた植民地化的資本主義の構造と思想は時代を超え今も人々の意識に強固に根付いている。(二元論がたまたま利用されたのか、資本家の権利を守る意図が含まれていたのかは分からない。デカルトが本質として何を残したのかはもう少し調べてみる必要がありそうだ。)

誰のための成長か

大企業が収益を維持するためには世界のGDPは毎年2~3%ずつ成長し続けなければならないという。2~3%というのはわずかに思えるかも知れないが、3%の成長とは23年ごとにGDPを2倍にしなければならないということで、GDPとエネルギー・資源の消費量と連動していることを考えるとこの成長を無限に続けることが夢物語に過ぎないことは明らかだろう。
(テクノロジーの進歩によってそれを乗り越えるというのも無理がある。実際のところ、増えた分を補うことすらできていない。また、未来の世代が解決してくれるだろう、という思考そのものが搾取的だ)

さらに、無謀な経済成長を続けても多くの人が豊かになることすらない。

社会的目標を達成するためにこれ以上の成長が必要でないのは、多くの証拠から明らかだ。それにもかかわらず、成長主義のシナリオは驚異的なまでに力を保ち続けている。なぜだろうか。それは、成長がわたしたちの社会の最富裕層と最大派閥に利益をもたらしているからだ。アメリカを例にとってみよう。アメリカの国民1人当たりの実質GDPは1970年代の2倍になった。そのような驚異的成長は、人々の生活に明白な向上をもたらしそうなものだが、実際はその逆だ。40年前に比べて、貧困率は高くなり、実質賃金は低くなった。半世紀の間、成長し続けたにもかかわらず、[豊かな生活に関する]これらの重要な指数に関してアメリカは退行しており、その一方で、事実上、利益のすべてが富裕層に流れている。世界の上位1%の富裕層の年収は、この期間で3倍以上になり、一人あたり平均140万ドルに急増した。
これらのデータを見れば、成長主義がイデオロギーに過ぎないのは明らかだ。それも、社会全体の未来を犠牲にして、少数に利益をもたらすイデオロギーだ。わたしたちは皆、成長のアクセルを踏むことを強要され、その先には地球という生命体にとって致命的な結果が待ち受けている。すべては裕福なエリートをさらに金持ちにするためなのだ。(中略)しかし、エコロジーの観点から見れば、状況はいっそうに深刻で、まるで狂気の沙汰だ。(p.192)


この搾取の構造はアメリカでさえそうなのであるから、グローバルノースとサウスの間の同様な構造を考えるとサウスの状況がどれほど悲劇的かは想像に難くない。
一部の人間のために、多くの人は意味のない希少性と貧しさを押し付けられ、労働力を安価で提供し続けるしかない状況で環境を破壊しながら破滅へと突き進む。まさに狂気の沙汰だが、なぜこれを止められないのだろうか。

一つは、多くの人が現状を維持するしかないように大胆かつ巧妙に人質を取られているからだろうし、一つは人間の思考の奥深く、存在論の部分で意識を握られていることもあるだろう。
環境に対して、なぜ止められないのかという問題意識を欠いた単なる「省エネ」では成長の穴を部分的に埋めることしかならないし、環境工学を目的化する思考は、地球規模の問題を地球工学によるテクノロジーで解決しようとすることと同じく、二元論による自然制御というロジックを温存する。
そういう意味で、環境問題は存在論と想像力の問題であるというのは間違いではなかった気がする。
また、どうすれば人質を開放できるか、というのも大きな問題である。住宅ローンも人質の一つであることを考えると私もその構造に加担している1人に違いないし、3人の父親としては教育というのも大きな人質だと感じている。

資本主義とは何なのか

詳細な議論は是非本書を読んでいただきたいが、成長主義をやめるだけでも、環境問題を含めた多くの問題は解決の難易度が大きく下がるという。

そう言われても簡単にはことが進まないのは、人間がそれほどかしこくない、ということもあるだろうし、多くの人が資本主義というものが何なのかよく分からないまま参加しているということもあるだろう。

資本主義と言っても経済活動そのものに問題がある訳では無いように思う。問題は成長主義であり、その根本に潜むデカルト的二元論である、というのが本書の主張であるが、本当に一部の富裕層のためだけに盲目的に成長を崇拝するほど人間は愚かなのだろうか。
もしくは、成長を崇拝せざるを得ないシステムが富裕層を含めた人々の意志を超えたところで暴走しているだけなのだろうか。(おそらく、富裕層を悪人として斬り捨てるだけでは問題の解決に向かわないだろう。)
資本主義にとって成長は本質的なものなのだろうか。

私も本当のところ、資本主義とは何なのかがほとんど分かっていない。

”環境”の次のテーマを探していたのだけど、考えていけば資本主義というテーマは避けられそうにない。
うーん、厄介な問題に手を付けることになりそうだ・・・




システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)

斎藤 幸平 (著)
集英社 (2020/9/17)

売れてる本なので少し敬遠していたのですが、前回の流れから一度読んでみようと購入。

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。(p.4)

序文からアオリ気味で始まる本書は、ざっくりいうと、環境危機を乗り越えるためには、資本主義から脱成長コミュニズムへと舵を切らなければならない、と説くもの。
Amazonのレビューでも当然のように賛否が分かれており、環境問題に対しても、マルクスに対しても素人同然の私には最終的な判断をしかねるが、今思うところを書いておきたい。

本書は、前半は環境問題を軸とした(主に資本主義に対する)現状課題の分析、後半は(マルクスの新解釈をもとにした)それに対する処方箋という構成。

まずは前半の現状課題について。

3つの問題

大きな問題意識は、環境危機は既に待ったなしの状況であり、このまま資本主義を続けていては乗り越えられない、というものである。
それに対する批判として、環境危機は起こっていない、もしくは温暖化の主要因はCO2ではない、というような批判も見られる。
研究者でもない自分としては、何を信ずるべきか、という確信を持ち得ていないが、仮に環境危機は起こっていないのであれば、結論は大きく変わってしまい、本書は無意味なものとなってしまう可能性がある。

しかし、本書を読むと、環境危機を軸としながらも、そのことだけを問題としているわけではないように思うし、むしろ著者の信念を後押しする材料であるから環境問題を軸としているにすぎない、という気もする。

そこで、著者の取り上げる現状課題を私なりに分けてみると、

  • 環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題
  • 構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題
  • 労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

の3つになるように思う。

これらは単独の問題ではなく、それぞれ密接に関係しているという前提のもと、それぞれについて書いてみたい。

環境の問題・・・このままだと地球やばくね?問題

このままCO2の排出が止まらず、温暖化が進むと、人間の力では以前の状態に戻れない地点(ポイント・オブ・ノーリターン)に達してしまい、気候変動は止められなくなるという。その地点はもうすぐそこに迫っている。

グリーン・ニューディール政策もしくはSDGsはSustainable Development Goalsというように、さらに開発を進め、技術を進歩させていくことでサスティナブルな状態を獲得できる、というもので、さらなる経済成長を前提としたものである。
資本主義を当然として生きてきた私たちからすると、当然の態度のように感じるし、経済も活性化するし、なんなら、技術によって困難な問題を乗り越えるというロマンすら感じるスタンスだと思う。

それに対し、著者は、経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのは空想物語だという。
その根拠をいくつかまとめると、

  • 経済成長の罠・・・技術を進歩させるために資本主義に従い、経済成長を押し進めると、経済規模・消費規模が増え、CO2排出量が増加する。そうなるとさらなる進歩のために経済成長が必要になる。
  • 生産性の罠・・・生産性を上げることで、経済成長は促されるが同時にそれによって仕事を失う人が生まれるが、失業者を出さないために、経済規模を拡張しなければならない、という圧力がかかる。
  • ジェヴォンズのパラドクス・・・効率化が進むと、需要が増大し、環境負荷を増やす。余裕が生まれるとその分消費してしまう。
  • 起きているのはリカップリング・・・たとえ先進国で、環境負荷を削減できたとしても、外部に転嫁されただけで、世界規模で見ると、目標に全く追いつけていない。(後述)

というようなことが書かれている。

世界のエネルギー消費量と人口の推移(1.1.1 人類の歩みとエネルギー │ 資源エネルギー庁)より

世界のエネルギー消費量の推移(地域別、一次エネルギー)(第2部 第2章 第1節 エネルギー需給の概要等 │ 平成30年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2019) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

私が子供の頃にはオイルショックの影響もあって、省エネという言葉が盛んに使われるようになっていた記憶があるけれども、その後もエネルギー消費量は増え続けている。(その伸びはアジア大平州の新興国の割合が大きい)
日本はいったい何をしていたんだろうと思うと、

部門別電力最終消費の推移(第2部 第1章 第4節 二次エネルギーの動向 │ 平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書2018) HTML版 │ 資源エネルギー庁)より

(エネルギー消費量とGDPの関係をさぐる(2020年公開版)(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース)より

産業部門では省エネが進みつつも、他の分野で増加したことが分かる。

これが、今後どう推移するか。「経済成長を続けながら、環境問題を乗り越えるのことは可能か否か」ということを今、結論づけることはできないけれども、資本主義が経済成長し続けることを宿命としているのであれば楽観視はできない、という印象を持った。
(数日前に、たまたまラジオでSDGs関連の話題が流れていて、(言い回しは違ってるかもだけど)電気自動車を推進しましょう、という話の後に、ドライブをどんどん楽しめますね、みたいなことを言っていて、そうなるよね、と思った。)

ただ、

事実、鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量は、1970年には267億tだったのが、2017年にはついに1000億tを超えた。2050年には、およそ1800億tになるという。(中略)この事実を踏まえれば、脱物質化などまったく生じていないことがわかる。(p.87)

こういうことを考えると、経済成長を追い求めることにはいずれ破綻することは目に見えていると思うし、何らかの転換は必要なのは間違いない。

構造と倫理の問題・・・問題を押し付けてるだけじゃね?問題

環境の問題と表裏一体だけれども、個人的には構造と倫理の問題が重大だと思う。

前回、『「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であった』と書いたけれども、それ以外の世界は自然だけではない。

本書では、犠牲を不可視化する3つの「転嫁」として「技術的な転嫁」「空間的な転嫁」「時間的な転嫁」を挙げている。
技術によって何かを乗り越えたと思っても、それによって別の犠牲が生まれているに過ぎなかったり、グローバルサウスという外部から資源を掠奪する代わりに様々な犠牲(過酷な労働、貧困、生活な必要なものの生産機会の奪取、環境破壊・・・)を押し付けていたり、将来世代の生活が現代世代の生活のために犠牲にされていたり、と「転嫁」によって犠牲を外部化し問題が見えないことにしている

例えば先にも挙げた電気自動車は環境問題の救世主のような扱いを受けているけれども、バッテリーのためのリチウムやコバルトを生産するために、現地の人に劣悪な労働環境と大規模な環境破壊を押し付けているし、生産や原料の輸送のためにも電力を供給するためにも多大なエネルギーを必要としており、先進国における見かけの環境対策のために、問題を見みえないところに転嫁しているだけとも言えそうである。

建築の分野でも、今まさに、コロナ禍で工場がとまったり輸送が滞ることで、必要としているものが手に入らなくなっており、外部化社会を実感している人も多いと思うけれども、身近な社会のレジリエンスは低下しているように思う。

仮に「環境危機は起きていない」としても、犠牲を外部へと転嫁し続けている構造に対する倫理的な問題が解決されているわけではないし、倫理的な問題を無視したとしても、そもそも転嫁する外部は底をつきつつある

また、所得の上位10%がCO2の50%を排出しているが、下位50%の人々は10%しか排出していないことが、外部化社会の構造を端的に表しているように思う。そして、はじめに犠牲となるのは下位50%の人々である。
倫理的にこの構造を解消する必要があるとして、今のシステムのもと、それが可能なのかどうか

労働の問題・・・このまま行っても豊かになれないんじゃね?問題

もう一つが労働の問題。
資本主義が発展することで、私たちは豊かになっていくはずだけれども、本当に私たちは豊かになっているか

資本主義は価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である
また、資本主義は価値を生むために恒常的な欠乏と希少性を生み出すシステムであり、希少性を本質とする以上、全員が豊かになることは不可能だという。

何をもって豊かとするか、という問題になるので、断定するのが難しいけれども、資本主義のもと絶えず競争にさらされながら、手に入れられるものでもって豊かと言えるかどうか。

高度経済成長時代であれば、だんだんと豊かになっていくことを実感できたと思うけれども、一定の成長の後に生まれた世代にとっては、変化こそあれ、漸進的に豊かになっていくことを実感することはあまりないのではないのだろうか。
だからこそ、この本が売れたのだと思うし、資本主義社会によって豊かになっていく夢を見ている人よりは、他に選択肢がなく、現状が維持できて、それなりの変化が楽しめればそれでいいか、という人の方が圧倒的に多いような気がする。
もちろん、資本主義を利用して、何かをなし、人々を幸せにしたいという人もたくさんいると思うけれども、資本主義は手段であって、(一部の資本家を除いて)その維持が目的ではない。だけども、システムの常として、資本主義にとってはその維持が目的となるし、そのために様々な矛盾を抱えつつも動き続けなければいけない。気がつけば労働が資本主義の維持のためのもの、となってしまっていないだろうか。

果たしてこのままでよいのか。

労働に関して、個人的には今の仕事が嫌いではないし、長時間労働もあまり苦ではない。だけども、だからこそ手放してしまっているものもたくさんあるし、いろいろな矛盾を考えると、よいよいシステムがあるならそれに越したことはないと思う。
社会に対する理想のイメージとは裏腹に、個人の生活としてはだいぶ資本主義に飼いならされてしまっている。

現状課題に対する個人的なまとめ

現状課題に対するありがちな批判を頭に浮かべながらまとめると、環境危機が本当にすぐそこに迫っているかどうかは別にしても、今の資本主義の流れをそのまま続けられるとは考えづらい。何らかの転換は必要だし、価値観を塗り替えていくことも必要だと思う。(本当に危機がすぐそこに迫っているとしたら、とても楽観的にはなれないし、集団としての人類はイメージよりもずっと愚かに振る舞ってしまう生き物だと思うので、どうなるかは分からない。その中でやれることをやるしかないと思う。)

構造的な問題にはできる限り加担はしたくないが、今の生活を続ける以上加担はさけられない。できる限り加担を避ける、もしくは、加担しながらエコやってます、みたいな顔をしないためにも、まずは知る努力が必要だと思う。

労働に関しては、理想的な労働を考えたいと思いつつも、ワーカホリックに馴染んでしまっている自分がいる。ただ、長時間労働そのものが問題の本質ではないと思うし、システムに飼いならされるのはシャクだと言う気持ちは強いので、なるべくそこからは自由でいたい。

というところでしょうか。

後半の処方箋については、長くなりすぎるし、力量もないのでまとめることは諦める、もしくは今後の課題として、断片的に思ったところだけを書いておきたい。

ラディカルな潤沢さについて

資本主義はその発端から現代に至るまで、身近なところに持っていた<コモン>の潤沢さを解体し、人工的な希少性に置き換えていくことによって、つまり、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたという。
そのコモンを手元に取り戻し、<ラディカルな潤沢さ>を再建せよ、というのが本書の主張である。

それは、このブログでも再三書いてきた、生活を自分の手元に取り戻す、ということとも重なる。

人工的希少性を必要とする資本主義にとって潤沢さは天敵であるが、資本主義をそのままひっくり返せるかどうか、ひっくり返すべきかどうかはまだ良く分からない。
資本主義の転覆を目論まなくても、資本主義から少しだけ自由になるために、また、生活をより豊かに彩りのあるものにするために、潤沢さを手元に取り戻すということを目指しても良いように思う

それは小さなことから始めれば良いのではないだろうか。

技術と想像力について

技術が何かの問題を解決してくれるのではないか。そういう夢をやっぱりみてしまうし、環境危機を乗り越えるために必要な側面だとも思う。
本書でも、技術そのものを否定しているわけではなく、技術を過信してイデオロギー化してしまうことで想像力が奪われることを問題としている。

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くことものできない(p.221)

潤沢さを取り戻すためにも、技術を手元に取り戻すことは必要、というより、それこそが潤沢さの要のように思う。
一定の成果を出すためには、資本の力を借りて効率化と専門化を押し進めることは必要かもしれない。その時、それでもなお、技術をイデオロギー化する(資本に差し出す)ことなしに、技術と共存し、手元に取り戻すことは可能だろうか。
それに対しては、イメージに過ぎないけれども希望が生まれつつあるように思う。
例えば、最近、〇〇テックについての話を聞くことが何度かあったけれども、最新のテクノロジーの掛け合わせによって、技術を手元に取り戻しつつブレイクスルーを起こすようなことは可能になりつつあるのではないか
それでは資本との結びつきは切れない、と言われるかもしれないが、そういうところにこそ技術の力が必要で、想像力を喚起し未来のビジョンを描くことがコモンの拡張には必要ではないだろうか

資本主義から退避する

資本主義の本質を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって脱成長へと移行することは、資本主義システムが自己維持することに反するため実現はできない、という。(資本主義に許容されない。できればもうできている。)

脱成長をするには、資本主義に立ち向かいコミュニズムを成立させるしかない、というのが本書の結論だと思うが、(著者もおそらく自覚していると思うけれども)いきなり、それが実現するとは思えない

資本主義を乗り越えることを目指すかどうかは一旦横に置いておいて、資本主義から退避する、もしくはずれるというような姿勢はありはしないだろうか

もしかしたら、本書で旧世代の脱成長論として批判していることに過ぎないのかもしれないけれども、資本主義かコミュニズムか、と大きく考えると、可能か不可能か、という話になってしまうと思う。
資本主義では、絶えず価値を増幅し、さらに成長し続けることが課せられている、というのはそうだろう。
ただ、個人として考えたとき資本主義社会を生きているとしても、誰にどのように、成長が強制されているのだろうか、と疑問に思うのだが、よく分からない。
大企業は逃れられないとしても、個人としてそういう成長のストーリーからずれたところで生きていく、ということは不可能ではないように思うし、反動としてそういう生き方や経済のあり方も増えてきているのではないだろうか。

そういう、資本主義的成長のストーリーから退避しながらサバイブしていくようなノウハウだってあるように思う。

そういう風に考えると、結局は労働のあり方に行き着くように思った。その時、潤沢さと技術と想像力とが生きていく武器になるのかもしれない。

巻き簾理論

ちょうど、本書を3分の1ほど読んだ頃に、とあるイベントで恵方巻きの巻き簾の話が出た。
話の筋を説明できる自信がないので、登壇者のFBから引用すると、

人の行動は
やらなければならない(義務的行動)
やりたい(衝動的行動)
これまでやってきた(慣習的行動)
のように分けられると思っていて、本質的に重視すべきは衝動的行動なのではないか
ただ、合成の誤謬の法則に従うと、大きなプロジェクトほど個が大きい規模感にまとまるための規範が何らか必要になる。宗教とか会社がその役割を果たしてきた時代もあったけれど、多様性のインストールされた社会ではそれぞれの個性=衝動をそのままに包み込みつつも一本にする、恵方巻きの「巻き簀」のようなものが求められているのでは
会社における社訓とか、仏教における念仏のような儀式的行為は無意識に浸透する巻き簀的な役割もあるよね
合理性とか効率などで測れない効用を持った儀式的行為というのがあるし、いまそういうものの重要性が増している

というようなこと。(これでも、よくわからないと思うので、ポッドキャストが公開されたらそちらを聞いてみてください。)

ちょうど、労働のあり方が問題になるのでは、と感じていたのと、同時に個人を超えた大きなプロジェクトも成立しないといけないのでは、と思っていたところだったので、ピッタリはまった感じ。(分野は少しずれていても似たような問題設定が頭にあったのでは、という気もする。)

本書関連でみたマル激でも、まずは「自立した個人によるアソシエーション」からというような話がでていて、そういうところから価値観は変わっていくのかもしれない、と頭に残ったんだけれども、そういう自立した個人をまとめる「巻き簾」はどういうものがありえるだろうか。

とりあえず、さっき出てきたワードを無理やりつなげて、巻き簾=潤沢さ+技術+想像力と言ってみる。
コモンとしての共有可能な潤沢さは協働のための基盤となるし、技術とはそれまでに発見されてきた意味や培ってきた価値を共有可能なものとして埋め込んだものであるから、技術そのものが人を媒介する。そして想像力はベクトルを固定化せずに方向づけする。
(巻き簾=潤沢さ+技術+想像力、案外悪くないかも)

結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(課題図書がかなり増えた)

あと、ムラみたいなのをつくりたくなったな。