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下竜尾町の家 建方

下竜尾町の家の建方でした。

リビングや屋上からの景色は申し分なし。

スキップフロアーの密度感もいい感じになりそうです。




姶良の家 建方&上棟式

3/25に建方、4/4に上棟式を行いました、

餅まきの準備もしていたのですが、コロナの影響もあるので大々的に行うのは諦めて、屋内の限られた人数に高窓から餅投げするスタイルに変更。
これはこれで思い出になりそうです。




桜ヶ丘の家 オープンハウス

お施主様のご好意により4/4(土)5(日)の2日間オープンハウスを開催させていただきます。
時間は10:00~16:00予約不要です。
こんな時期ですのでたくさんの方に来てくださいとは言いにくいですが、いつものようにひっそりとやってますので気が向いた方はいらして下さい。
できる限りの予防対策をしてお待ちしております。




つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ)


3つの願いで書いた「つくる楽しみをデザインしたい」について、これまで何度か書いてきているのですが、今一度まとめてみたいと思います。

「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

最初に『建築に内在する言葉』にある文章を少し長いですが引用してみます。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』(強調はオノケン)

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が離れてしまっている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものになっていて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている

先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか

それには、3つのアプローチがあるように思います。

1.直接的に「つくること」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「つくること」に巻き込むことによって「つくること」を取り戻す方法があるかと思います。
これはそのまんまつくることを経験するので効果は高いと思いますし、つかう人がつくる技術を身につけることもできます。

2.職人さんの「つくる技術」によって「つくること」を届ける。

住まう人が直接つくることに関わらない限り、「つくること」を取り戻せないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば今のつくる行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置するだけ、というものになってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこにこそ職人の存在する意義があったと思いますし、職人のつくるものが、つかう人に「つくること」を届けられていたと思うのです。

職人がつかう人の「手」の代わりを担っていたとも言えますが、今一度、職人の技術に光を当てることで、「つかうこと」の中に「つくること」を取り戻せるのでは、と思います。

3.設計によって「つくること」を埋め込む

もう一つは設計という行為に関わることです。

少し分かりづらいかもしれませんが、つくるという行為はただ手を動かすだけでなくて、どういうものを、どうやってつくるかを考える、ということもつくることの醍醐味です。
ですので、つくることをとことん考えながら設計すれば、設計したものにつくる醍醐味のようなものが埋め込まれることがあるのでは、と思うのです。

つくることにおいて、職人さんが「手」の代わりを担うとすると、設計者は「頭」の代わりを担うと言えそうです。

施主・施工・設計の三者が「つくること」と向き合う

この3つのアプローチは、それぞれ、建築に関わる施主・施工・設計の三者によるアプローチです。

施主・施工・設計のどれもが、つくる楽しみから遠ざかってきたと思うのですが、つくる楽しみを取り戻すには、施主・施工・設計がそれぞれが、あらためて「つくること」と向き合うことが大切です。

「つくる楽しみをデザインする」とは、施主・施工・設計それぞれが「つくること」どう向き合うかをデザインすることなのだと思います。

(ちなみにオノケンのロゴの三角形は施主・施工・設計の三者の関わり合いを表していたりします。)




おおくちたからばこ保育園で考えたこと。

おおくちたからばこ保育園は、伊佐市にある既存倉庫の一角を企業主導型保育園として改装したものです。

この時に考えたことを、保育園等の計画で大切にしたいことと合わせてメモしておきます。

生まれて最初に多くの時間を過ごす場所

0~2才児の限られた期間を過ごす場所ですが、生まれて最初に多くの時間を過ごすこの場所が豊かな経験の場となることが望ましいと考え計画しました。

豊かな場であるべき保育園ですが、実際は単調なスケールで濃淡のない箱型のスペースが、まるで小さな学校のようにつくられることも多いように思います。この園では、それに対してどういうものをつくることができるか、を考えました。

多様なスケールを用意すること。

子どもたちが生まれてきたこの世界は、広大で多様な場所です。
その広大で多様な世界に、単に放り出されるでもなく、また、世界を小さく切り取って限定してしまうでもなく、徐々に関係性を築いていけるような場とするには、一つの単調なスケールのではなく、例えば、建築物としての大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケールと入れ子状に多様なスケールが用意され、段階的に拡がってくるようなものが望ましいように思います。
そういう意味では、鉄骨造の大きな建物の一角ととして保育園があることは良かったと思いますし、園内もできるだけ多様なスケールの空間が存在するように配慮しました。
→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B206 『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』

子どもの育ちを支える濃淡のある空間を作ること。

関東学院大学子ども発達学科専任講師の久保健太氏は育ちの場には濃淡のある空間が必要だと説いています。

学校の教室のような均質な空間では、どこで遊びこめばいいのか、どこでくつろげばいいのか、それがよく分からない場所になってしまいます。
一方、濃淡のある空間では、いろいろなスペースがあり、一人になることも出来るし、ダイナミックに遊ぶことも出来ます。そこでは、場所と気分が一対一で対応しており、移ろう気分にしたがって、濃淡を行き来しながら自由に過ごすことができます。そして、そこに学びが潜んでいると言います。

多様なスケールと重なりますが、この園でも気分によって様々に過ごせるような場を用意しました。それによって、子どもたちは強制されることなく自分たちのペースでゆったりとした気分で過ごすことができるのではと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』

「子どもが育つ」状況に満たされた場をつくること。

保育の場での子ども感は『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』へと変化しています。
子どもを育てるというよりは、子どもが自ら育つ環境を用意するというように変わってきており、それは保育所保育指針でも『育所は、その目的を達成するために、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携の下に、子どもの状況や発達過程を踏まえ、保育所における環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。』と明記されています。

そのような子どもが自ら育つ環境をどうすればつくることができるか。
具体的な環境づくりは保育士さんに求められる部分が多いかと思いますが、建築はそのきっかけとなるように多様であり、かつ行動を強制してしまわないようなおおらかな場所であるべきだと考え計画を行いました。
保育が始まってからも、例えばふじようちえんのように、どんどん「子どもが育つ」状況に満たされた場として進化していって欲しいと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B195 『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B202 『平成29年告示 幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領 原本』

「小さな学校」ではなく「大きな家族」として考えること。

歴史的に保育施設は、日常的な生活では学べない抽象的な知識を学ぶ場、「小さな学校」として誕生し、計画的かつ合理的な教育実践の場としてつくられた学校空間―無機質で四角く、管理しやすい空間―と同様の保育空間が良しとされ、定着してきました。

しかし、もともと、日常的な生活の場での育ちの場であった大きな家族としての地域コミュニティは縮小し、子どもたちは日常の育ちの場を失いつつあります
そんな中、保育園は、小さな学校(抽象的な知識を学ぶ場)ではなく、大きな家族(日常の生活の中での育ちの場)へと役割を転換することが求められます。

この園でも、日常的で家庭的なスケールと有機的な素材と空間の扱いに配慮をしました。(家庭でも有機的な素材と空間は失われつつあり、なおさらその意義は大きくなってきていると思います。)
また、オーナーであるクライアントの地域コミュニティへの姿勢から、子どもたちが大きな家族(地域の多様な人々)の中で育つことができるような環境も期待できるように思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』


以上のように、子どもたちの豊かな育ちの場であって欲しいと考え計画を行いました。

今回、クライアントの理解と場所の特性(もともと倉庫の搬出入用のため入り口が高い位置があったため、内部の構成に変化を与えることに合理性があった)のおかげもあり、豊かな場作りに貢献できたのではと思います。また、今後もより豊かな場へと育っていって欲しいと思います。




珪藻土DIY塗り

桜ヶ丘の家の壁珪藻土DIY塗りをしました。


娘さんも参加して一日がかり。

下地に塗装用クロスを採用してみたのですが、1回塗り+タッチアップで十分そう。珪藻土の材料も想定の半分で済んだ感じです。

経過が良さそうだったら次からの標準仕様にしたいと思います。




姶良の家 型枠

姶良の家、基礎立ち上がりと杉板型枠のコンクリート壁の型枠確認。
久しぶりの平屋は広く感じますね。打ち上がりが楽しみです。




下竜尾町の家 基礎配筋


下竜尾町の基礎配筋を確認してきました。
がけの関係で深基礎になっているのですが、加えて擁壁の一部補強も施工したので安心です。
これから型枠を起こしていよいよ打設です。




何に対して報酬を頂くのか(設計監理料の話)

何に対して報酬を頂くのか

お施主さんに頂く報酬を、慣習に倣って設計監理料と読んでいますが、実際は何に対して報酬を頂いているのでしょうか。

設計図を描くのはもちろんのこと、土地や建築物に関わる規制や現況の調査、検査機関との折衝や確認申請などの各種申請、施工者との打ち合わせや指示書の作成など、関わる業務は多岐にわたります

独立する前はこれらの業務に対して報酬を頂いていると考えていたのですが、いざ独立して仕事を始めてみると、業務の種類が多すぎて、またDIYなどの設計外のことを考える時に、その考え方ではお施主さんに対しても自分に対してもうまく説明ができないと感じるようになりました。

目的はお客様の期待に応えて満足してもらうこと

当たり前ですが、お施主さんは何らかの期待を抱いて設計事務所の門をたたくのだと思います。お施主さんにとって建築士のさまざまな業務は2次的なもので、別に図面を書いてほしくて、又は、書類を代理で申請してほしくて設計事務所を訪れるわけではないと思うのです。

そんなことを考えているある時、設計監理料という名の報酬は、「お客様の期待に応えて満足してもらうこと」に対する報酬だ、と自分の中で定義してしまおう、と思い立ちました。そうすることでだいぶ気持ちがスッキリしたのを覚えています。

なので、模型を作ったり、CGを作成したり、近隣や監督さん・職人さんと良好な関係を作ろうと努めたり、日々の勉強や積み重ねも含めて、目的に必要なことであれば何でもやるべきだと考えるようになりました。

時には、余った材料やホームセンターで購入した材料で、簡単な棚やハシゴなどをつくったりもしますし、ペンキまみれになってDIYの補助をしたりすることもあります。それらは通常の設計監理の範疇ではないと思いますが、それが目的に必要なことであればやろうと思っています。
実際、〇〇万円の減額案を考えるために数日間、頭を悩ませるより、一日お施主さんと体を動かしたほうが目的に適した結果が得られることも多いのです。
 
 

※ ただし、これはあくまでも、自分の仕事と報酬の定義によるので、一般論として建築士がこうやるべきだ、というつもりは全くありません。また、お施主さんによっても必要なことは変わってくると思いますし、報酬の中でやれる範囲は自分の中で定めています。
※ 「お客様の期待に応えて満足してもらうこと」の裏には、3つの願いも含まれていたりするのですが、それはこちら側の問題なので、目的と報酬の考え方にはできるだけ持ち込まないようにしています。(と書きつつ、「3つの願い」タグを付けてますが・・・)
※ 「お客様の期待に応えて満足してもらう」ためには、実際にはお客様の期待を超えることが必要だと思いますし、そうできるように努力したいです。




DIYを採用する5つの理由

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自宅でペンキと珪藻土塗りを試してから、定番の珪藻土塗りや簡単な棚作りなどのDIYを採用することが多くなりました。
おそらく、住宅の6割以上で何かしらのDIYをしていると思います。

今回、なぜDIYを採用するのか、その理由を書いてみたいと思います。

1.コスト削減になる

DIYは、見積もりのあと予算調整のために採用することが多いです。

例えば、壁や天井の仕上げは石膏ボードにビニールクロスが断然安かったりするのですが、ビニールクロスは普段過ごす部屋の仕上げとしてはやっぱり物足りない気がします。(なんとなく住む人の気持ちを受け止めるような懐の深さがないというか。)

なので、予算の関係で仕上げの単価を下げる必要があるけど、メインの空間は安易にクロスに逃げたくないな、という時に珪藻土塗りなどのDIYを採用することが多いです。

あとは余った材料で簡単な棚をつくったりとか。

2.お施主さんの思い出とか愛着づくりになる

これはそのままですね。やっぱり、自分で手を動かすことでより愛着がわくことがあると思います。

3.自分でメンテナンスができるようになる

一度自分で経験しておくと、自分でメンテナンスができるようになることがあります。

なので、DIYで使う材料はなるべくホームセンターなど身近な場所で揃うものを使うことが多いです。

DIYに目覚めて、いろんなものを自作するようになったお施主さんもたくさんいます。新築の建物に自分で手を入れるのは怖い、という方も多いと思いますが、DIYの経験でその怖さがとれて、楽しさのスイッチが入るのかもしれません。
 それはとても素晴らしいことだと思います。

4.建物は人の手でつくられている、ということを理解できる

もう一つは、お施主さんに建築が単なる商品の寄せ集めではなくて一つ一つ人が作っているものだということを体験的に理解してもらうためでもあります。
 自分が直接体験することで、分かることがあると思うのです。また、お施主さんと職人さんの間の心理的距離が縮まり、現場に一体感が出ることもあるように思います。

また、住宅なんかは緊張感ばかりではなくある程度の緩さを許容するようなものであっていいのかな、と思いますが、お施主さんの好みにもよるので、その辺の加減を掴むのはなかなか難しいです。
 お施主さんに手づくりの感覚を掴んで頂くことで、その辺の緩さの感覚のすり合わせもしやすくなるように思います。

5.住まうことへつくることを届けたい

設計者としての理由は、そういういろいろなものをひっくるめて、住まうことにつくることを届けたいからです。
これは3つの願いでも書いたように、設計者としての願いのようなものです。

ただ、商品としての住宅を買うだけではなくて、つくることのよろこびも一緒に届けたいのです。
 
 
もし、デメリットを上げるとすれば、忙しい時に重なると自分の首を締めることになるということですね・・・




大切にしたいいくつかのこと

普段設計を行う上で大切にしたいと思っていることを書いてみます。

棲み家という言葉

「住宅」や「家」ではなく「棲み家」という言葉に何か魅力のようなものを感じます。
学生の頃からその魅力の正体をずっと探し続けています。

この言葉には単なる「商品」としての住宅にはない「意志」のようなものを感じます。
そこに棲みつくという意志、そこで生活をしていくという意志。

僕はその意志の中からこそ「生活の豊かさ」や「生きる実感」といったものが生まれてくると思います。
そしてそれらは人が生きていく上でとても大切なものだと思っています。
設計をしていく上で、その大切なものをどうやったら大切に扱えるか。
どうやったら楽しく扱えるか。
そんなことをずっと考えながらこの仕事を続けています。


 

空間

単なる間取りではなく空間を扱うこと。

それによって、例え小さくても拡がりのある開放的な空間、気持ちよく流れる豊かな時間を得ることができます。

そのための工夫は日本人が得意としてきたこと。
だけど、それは日本人が忘れてしまっていることでもあります。

 

素材

身の周りの素材を見渡してみてください。

それはあなたの気持ちを受け止めてくれる素材ですか。
時間の流れを受け止めてくれる素材ですか。

人間の感覚は自分達が思っている以上に素材のありかたを敏感に感じ取っています。

素材の持つ力を見直し、それをどうやって引き出すかが豊かな空間への第一歩だと思います

 

リアリティ

生活の中からリアリティを感じる機会が失われつつあると感じます。

そんな中、リアリティを見つけるには自ら環境に関わっていくという小さな意志が必要です。

受身ではなくで自発的に環境と関わることからリアリティは生まれます。

その関わり合いの余地をほんの少し残しておくことは、建物にとって、とても大切なことだと思います。

 

関係性

ヒトとヒト、ヒトとモノ、ヒトと自然。
ウチとソト、建物とマチとの関係性。

さまざまな関係性が豊かさを生み出します。

20世紀は関係性を断ちながら、便利さ・快適さを追い求めてきました。
しかし、これからは関係性をつむぎながら豊かさを生み出していく時代だと思います。

家は時に母親のように、時に父親や、友達のように、と、そこに住まう人といろんな関係を築ける存在であって欲しいです。

 

自然

ヒトのDNAの中には自然にあるものを”美しい・心地よい”と感じるかけらが埋まっています。

それを私たちは「自然のかけら」と呼びたいと思います。
「自然のかけら」が共鳴し、ちりんとなった時に美しさや心地よさを感じるのです。

建築は、そんな「自然のかけら」を響かせる楽器のようなものであって欲しい。
そのための術を磨いていきたいと思っています。

 

生活

空間・素材・リアリティ・関係性・自然のかけら・・・・

それらを取り入れるにはどうしたら良いでしょうか。

それには「生活とは何か」をもう一度ゆっくり考えて見ることが一番だと思います。

忙しくて忘れがちな「生活」を自分なりに見つめなおし、ふたたび生活へ戻ることが豊かさを生み出すのではないでしょうか。

建築がそのための助けになるとすれば、それほど嬉しいことはありません。

私たちとともに新しい生活のカタチを見つけませんか?


独立開業時に開催した「棲み家」をめぐる28の住宅模型展の最後にトークイベントを開催しましたが、ここでも大切にしたいことをお話させて頂きました。




「Encounters 出会う建築」をまとめてアップしました

ブログ記事として少しづつアップしようと思っていましたが、普段のブログとは色合いが異なるので別カテゴリーをつくり一つにまとめました。

オノケン│太田則宏建築事務所 » Encounters 出会う建築

これまで考えてきたことを極力難しい言葉を使わずにまとめたものです。ご笑覧ください。




四 棲み家

学生時代からの道のり

ここまで書いてきて改めて思うのは、学生の頃に考え始めた「棲み家」という言葉をずっと追い求めていた、ということである。

ずっと前にブログに書いた「棲み家」についての記事を読むと、これまで書いてきた出会いに関するいろいろが、この中に散りばめられていたように思う。

それを出会いという視点から捉え直し、建築の意味と価値とは何か、という問題に答えようとしたのが本論である。

この道のりの最後に、その出発点となった記事を過去のブログから抜き出して転載しておこうと思う。

棲みか (2002 onoken ブログより)

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。

それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。

そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。」(太田)

deliciousness おいしい知覚

『出会う建築』の基になった、「deliciousness おいしい知覚」はnoteに少しづつアップしていきます。
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三 出会いと設計

「何か?」から「どう?」へ

これまで、建築における出会いとは何か、何とどう出会うのか、ということを書いてきたけれども、それらは建築の専門家であるかどうかに関わらず、自らの体験として捉えることが可能なものだったのではないか思う。

しかし、設計者の立場としては、そのような建築がどのようにつくられるのか、どのようにすれば設計可能なのか、という点に興味がある。

そこで、ここからはどうやってつくるのか、について出会いとはたらきの点から考えてみたい。

はたらきとしての設計

出会う建築と言った場合、同様に出会う設計というものがあるように思う。
それは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、何かに出会うことによって調整する、というこのと循環による自律的なはたらきとしての設計である。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

概念のところで書いたように、思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。
同様に設計も、自己と環境との、出会いと行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルが動き続けるとというはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、建築がその形や境界を調整しながら形成されていく、といったような動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながり、ひいてはつくられた建築での出会いを豊かなものにするように思う。

遊びと分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬものに出会う。ここでいう予期せぬものは物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには、その時点の図面や模型、パースなどのように設計者によって投入される事柄も含む。

その予期せぬものは、主観的な設計意志に対する制約(痛み)ではなく、遊びの文脈に乗った探索可能な出会いの可能性であり、設計行為を出会いと行為のダイナミックなはたらきへと導くものである。

また、それらの予期せぬものは、多様であればあるほど出会いの可能性を高めるが、あまりに突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまうため、適度に分散されていることが望ましい。

そうやって、出会いを多様に分散することは、設計による調整行為にある種の自在さのようなものを与えるように思うし、その自在さが、出会いと行為のはたらきを持続可能なものにするように思う。

出会いの投入

ところで、建築の設計過程で、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他これまで考えて来たようなものとの出会いが発見されたとすると、それれは設計のはたらきにどのように関わりうるだろうか。

先の遊びと分散で書いたことを思い出すと、設計の過程で発見されたこれらの出会いは、設計の原理というように強いものではなく、可能性としての予期せぬものとして、再び設計環境に投入されることが好ましいように思われる。

そうすることで、設計のサイクルにおける出会いの可能性をより多様なものできるはずだ。

少年のモード

また、設計の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」というように置き換えられる。それはシステムの問題であるが、設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が必要である。

経験を閉じて、一定の範囲の価値基準や手法の中で設計を行うのでは、そこに出会いは生まれないしはたらきは維持できない。絶えず目の前の予期せぬものを、遊びの文脈で可能性としてキャッチするような態度こそが求められるように思う。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築とを前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、出会う設計とは、理論的手法から実践的態度への転回のことなのである。




 二-二十三 建築―出会いの瞬間

建築と出会う

ここまで、建築の出会いについていくつか書いてみたが、そういった出会いの可能性を豊かに持つものを、「建物」ではなく「建築」と呼びたいと思う。

そこにはさまざまな出会いがあるけれども、それらをひっくるめて、まさに建築と出会った、としか言えないような出会いの瞬間がある。それは、生きていることのリアリティをまざまざと感じさせてくれる瞬間であり、そのような建築との出会いそのものが、まさしく建築の意味と価値なのである。

人は建築で、まさに建築と出会う。




 二-二十二 地形―関係性とプロセス

「地形」のような建築

ここで、「地形」のような建築ということを考えてみたい。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志があり、出会いと行為、意味と価値に溢れている。

「地形」の二つの特質

「地形」が、そういった意味と価値に溢れたものであるとすると、そこには二つの特質があるように思う。

一つは先に書いたように、人と建築それぞれが自立し、並列の関係性を保てているということ。

もう一つは、プロセスが重層的に織り込まれている、ということ。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれている。もし、それが平らに造成されてしまったとしたら、すくなくともあるスケールに於いては織り込まれたプロセスがリセットされてしまい、出会いの可能性は限られたものになってしまうように思う。そう考えると重層的なプロセスの存在が「地形」の出会いをより豊かにしていると言えそうだ。

必ずしも地形のような形態である必要はないが、このような二つの特質をもった建築が「地形」のような建築だとすると、そのような建築も、とても貴重なものだといえるだろう。

人は建築で、地形と出会う。




 二-二十一 距離感―自立と自律

出会うための距離感

建築を出会いの対象と考えた時、建築はあくまで環境であり他者である、というようなあり方が重要となる。

人が何かと出会うためには、人が能動的に関わる必要があるし、そのためには、建築がその人の内面に回収されてしまうようなものではなく、人と建築の間にある程度の距離感が必要である。それは、人と建築とが一方が一方に従うような縦の関係ではなく、並列の関係としてそれぞれ自立しているような状態である。これは、関係性を持たない、ということではなく、むしろ横の関係であることによってお互いの関係性を担保しあっているような状態である。

これは、社会性のところでも書いたけれども、商品化されたような建物は主従の関係性を軸にしてきたため、こういう距離感はなかなか保てないし、出会いは限られたものになってしまうように思う。そんな中、人との距離感を保ち、自立しているような建築は、商品化された建物と比較して「不便なもの」としてネガティブに捉えられやすい。しかし、その「不便なもの」と捉えられるものは、「出会いを可能とする隙間、可能性の海」としてポジティブなものに転回可能であることが多いように思うし、現代社会においては、むしろ出会いの機会として貴重なものかもしれない。

自立と距離感

また、建築が自立しているためには、私との距離感の他にも他者・耐久性・矛盾といった要件があるように思われる。

まず、他者から切り離されたものは出会いの環境とはなれない。それでは孤立である。建築が孤立ではなく自立するためには、他者と切り離されるのではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような相互関係の距離感を保つ必要がある。

また、建築が存続しなければそこで出会うことは出来ない。建築が自立し続けるためには当たり前のようだが、物理的・経済的・機能的な耐久性、さらには愛着といった心理的・社会的耐久性が不可欠である。それによってはじめて持続的に出会いの環境となれる。

さらに、建築が意味や価値を持つには自立しているだけでなく、矛盾のように、人との距離を固定化せず、出会いのはたらきの動力となるようなものが必要かもしれない。

自律と他律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。
分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。

では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。
何と出会うのか、と同様に、出会う建築はどうつくられるか、というつくり方・つくられ方の問題も重要であるだろう。これに関しては後で書いてみたいけれども、自律的につくられるか、他律的につくられるかで、そこに生まれる出会いにも違いが出てくるように思う。

人は建築で、ある距離感のもと出会う。




 二-一九 はたらき―出会いの連鎖

出会いの連鎖と「生きている」こと

私たちの生活は、出会いと行為の絶え間ない連鎖であり、そこにははたらきがある。

一人ひとりの中に出会いの連鎖のはたらきがあり、また、集団としての社会的・文化的・歴史的はたらきがある。そのはたらきのことを「生きている」と言ったりする。時々、生物が「生きている」と言うのと同じように、社会や都市が「生きている」と言うこともあるけれども、そこには出会いの連鎖のはたらきを見ているのである。

このはたらきそのものは、直接見ることができないが、はたらきとの出会いはどのようなものが考えられるだろうか。

例えば、技術の項で書いた「保留されたものとの出会い」がそうかもしれない。出会いが積み重ねられた一つの状態には、それまでのはたらきが現れているし、今が、静止した状態ではなく、はたらきの最中にあることを感じさせてくれる。

また、はたらきとの出会いを考えた時、、流動、更新、変転、生成といったようなはたらきが含まれている言葉との出会いを考えてみても良いと思う。私たちの環境が、静止したモノではなく、変わり続けるコトとして感じられた時、はたらきとの出会いが生まれるのかもしれない。

建築について考えてみると、このようなはたらきの存在を自然と感じさせてくれるような建築というものがあるように思うし、そのような建築はやはり貴重な存在だと言えるだろう。

人は建築で、はたらき、すなわち「生きている」ことと出会う。




 二-一八 まとまり―他人と力

まとまりと認識

まとまりとはなんだろうか。

まとまりは認識に似ている。まとまりの感覚、認識はそれを他人と共有可能なものにし、自己と周囲との接触を維持する能力である。
 
まとまりによって、いくつもの要素と同時に、かつ持続的に出会うことが出来るようになるし、「あれ」とか「あの感じ」のように他人と共有できる可能性が開かれる。まとまりとの出会いは他人との出会いのはじまりでもある。

不足と関係性に向かう力

また、まとまりは、他のまとまりや、その上位のまとまり、ひいては全体との関係性の中ではじめて成り立つもので、それら他のまとまりや全体を捉えようとする動機と一体のものである。

実際には、全体を捉え尽くすことはできない。であるから、まとまりには、絶えず不足があり、それを補い新たに出会おうとする力、関係性へと向かう力を内に秘めている。逆に言うと、そのような関係性に向かう力の感じられないないところは、まとまりに欠け、他人との共有可能性に乏しい、という孤独な場所なのかもしれない。

まとまりとの出会いの豊富な建築は、いろいろな力を内に秘め、他者とつながる可能性を豊かに含んだ貴重なものだといえるかもしれない。

人は建築で、まとまりと出会う。それは他人との出会いであり、関係性へと向かう力との出会いでもある。




 二-一七 建てること―住まうことを補完する

建てることと住まうこと

現代社会は工業化・分業化などによって「建てること」と「住まうこと」が分断されている状況だと言っても良いだろう。

「住まうこと」が「建てること」と分断された状態では、人間は住まうことことの本質の一部しか生きられない。つまり、「建てること」と出会うことによって、はじめて本来の「住まうこと」と出会うことができる。

建てる人の「手」と「頭」

では、現代社会における「建てること」との出会いはどんなものがあるだろうか。

一つは、自ら「建てること」に関わることによって「建てること」と出会う。これは「建てること」と「住まうこと」の分断を直接的に関わることによって乗り越えるものである。DIYブームなどは、この分断を乗り越えようとする欲求の現れなのかもしれない。

または、技術と出会うことによって「建てること」と出会う。ある種の職人の技術は、手の跡やその技術の歴史など、「建てること」に関わる情報を埋め込むことができる。人は、その埋め込まれた技術と出会うことによって「建てること」と出会うことができる。これは、建てる人の「手」との出会いとも言える。

また、どのような場合でも、どうつくるのか、を考えるはずだが、その思考のプロセス自体が隠蔽されず、出会いに満ちて固有性を持ち、見た人によってトレース可能なものであれば、、結果としてその場に埋め込まれる。人は、その思考の痕跡と出会うことによって「建てること」と出会うことができる。これは、建てる人の「頭」との出会いとも言える。

これら3つは、それぞれ現代の施主・施工・設計に当てはまる。それらが3つに分断されており、さらに、それぞれがそれぞれの「建てること」を失いつつあるのことが「建てること」と「住まうこと」の分断を助長している。そのような中では、「建てること」と出会える建築は貴重な存在だと言えるのかもしれない。

人は建築で、「建てること」と出会い、本来の「住むこと」と出会う。