1

「政府への信頼」と「市民相互の信頼」を確立していくために B233『コロナが変えた世界』(ele-king編集部)

ele-king編集部 (編集)
Pヴァイン (2020/6/24)

ウイズコロナの時代をどういった思想を拠り所としていけばよいか。もしくは、拠り所としてはいけないか。
自分の中でもそういうところが今もぼんやりとしています。

コロナに関連したものを次の業態はこうなる的なもの以外で何か読もうと思って探していたところ、宮台真司や篠原雅武と言った名前(他にも内田樹や上野千鶴子など)を見てこれを読んでみることに。

だいぶ前に読み終えてましたが、流石に賞味期限が切れるので、今のうちに何か書いておこうと思います。

こういう複数の人が寄稿したようなタイプの本はなかなか感想を書きにくいので、理路整然とした宮台真司の寄稿文を下敷きに書いてみます。
(例のごとく、宮台真司の文章は無駄がなく組み立てられていて、ほとんど要約の余地がない密度なので関心のある人は本書を読んでみてください。)

感情の劣化と加速主義

こういう国または社会で乗り越えなければならない危機においては、「政府への信頼」と「市民相互の信頼」が必要と言います。
しかし、残念ながら日本ではそのどちらもない。

また、民主政の前提となる「他者の生き方や価値観に目を向け耳を傾ける」ような能力が劣化している(感情の劣化)と言います。
オカミに抗って市民社会を勝ち取ったという歴史がないため、自分たちの社会を自分たちで守りメンテナンスするという発想がなく、オカミに思考停止で依存し、同調圧力に屈することを他人にも要求するような安全厨ばかりになる。

不確実な状況では、動的に認識を変更しつつ行動を変えていく必要があるのに、思考停止ゆえに安全よりも安心が優先される

そういう状況を変えていくには、個人が自立し、オカミをスルーして仲間で助け合い、最終的には知らない人同士が助け合い、知らない人に向けて税金を払う「公民的規範をベースにした普遍主義」を確立していく以外に道はない。
そのためには、一度絶望へと落ちるような加速主義の発想をすべきと言います。国への絶望が自治体の自立の出発点(希望)となり、自治他への絶望が仲間集団の自立の出発点(希望)となり、仲間集団への絶望が個人の自立の出発点(希望)となる。それを逆回しするように、個人が自立し、仲間集団が自立し、自治体が自立し、国が自立する。それ以外の経路はない。「任せられない」という絶望こそが希望であると。

思考停止を避けること

僕は、こういう加速主義自体が正解かどうかは分かりません。実際、周りを見渡すと、既に、個人の自立→仲間集団の自立(一部では→自治体の自立も)のようなことは少しづつ起こりつつあるように思います。(自分自身は個人の自立を目指すだけで精一杯だったりしますが・・・)
また、絶望へと落ちきるところまで猶予のない人もたくさんいるでしょう。

ではそのような中、どういった思想を拠り所としていけばよいだろうか。もしくは、拠り所としてはいけないだろうか。

「安心」するのではなく、他人への想像力を持ち、とにかく思考停止となることをさけ続けること。これはコロナ禍において大切なことと言い切って良いように思います。
だとすると、何か一つの思想を拠り所とすることもまた危ういことかもしれませんし、常に変化し続けられるような構えこそが必要なのかもしれません。(このブログでも最近は似たことばかり書いていますのでそこは深堀りしません。)

政府に期待すること

最初に書いた「市民相互の信頼」を確立するためには上に書いたような、他人への想像力を持ち思考停止を避け続けることを積み重ねて行くしかないのかもしれません。

では「政府への信頼」を確立するにはどうすればいいのでしょうか。(最終的には「市民相互の信頼」の先に確立されるものなのかもしれませんが。)

どこかで、こういう不確実性の高い非常時の政府は、危機を乗り越えた暁には政権を降りる覚悟で、状況が刻々と変わる、その時々に決断を下し続けなければいけない、というような文章を読んだ記憶があります。

しかし、今の政府は(もしかしたら今の日本の政治の宿命なのかもしれませんが)一度決めたことは矛盾が明らかになってもなかなか変えられないように見えますし、それ故、責任を背負いながら決断をくだすことが難しくなっているようにも思います。
また、出された政策がどういう根拠に基づいて何を目的としているのか、いったいどのようなロードマップのどこに位置づけられているのか、政府として何を考えているのか、ということがほとんど見えてきません。前にも書きましたが、政策に政府のメッセージが見えてこない。(故に、解釈によって分断も起きる。)

前回読んだ本で、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであるとかいてありました。(なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方。)

半年前ならまだしも、コロナについてかなりのことが分かってきていると思いますし、国をあげて疫学的調査をしたって良いと思います。

(タイムラグもある上、調査対象をどうするかで意味が変わり、検査陽性者と感染者も区別しないような)日々の感染者数を、ただ機械的に発表し、無駄に不安だけを煽るのではなく、EBMのように、きちんとした統計的なデータによる解析結果と、それを根拠としつつ、コストや経済などの他の要因を考慮した道筋を示し、説明しながら国民の信頼を得る、ということをやって欲しいと強く思います。(Evidence Based Policyのようなことがあるはずと思ったらウィキペデイアにありましたね。)

それでも不確実性は排除できなくて、間違うこともあると思いますし、道筋を日々調整していくことこそ必要だと思います。信頼を獲得するのが先か、信頼することが先か、というのはあるかもしれませんが、責任と根拠を持って決断をしたことに対しては、ある程度の失敗は許容するような市民が信頼する態度も必要かもしれません。

とにかく情報の公開とメッセージを

各市民が自立した判断をし「市民相互の信頼」を獲得していくためにも、もしくは、「政府への信頼」を獲得していくためにも、国でなければまとめられないような、人々の行動や国の方針のエビデンスとなりうる情報の公開と政府の描く道筋に基づいたメッセージを是非、発信していって欲しいですし、(ほとんどテレビを見ることはなくなりましたが)メディアもただ不安を煽るだけではなく、エビデンスとメッセージを正確に伝えるような番組作りが当たり前になればと思います。

もちろん、僕らもそれに頼り切ることなく、他人への想像力を持ち思考停止を避ける努力を続けなければいけないわけですが。




現場の物語と施主自身の物語への想像力を保ち続ける B232『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』(稲垣諭)

稲垣諭(著)
青土社 (2018/7/23)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928-)&ヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。 氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也))

という経緯で買ってみたもの。
本書は哲学的視点を通して、臨床の現場の可能性を語るようなものであったが、内容や文体はかなり『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本英夫)に近いように感じた。(と、調べてみると、著者と河本英夫はいくつも共著を書いている。)

そういう点では新鮮さはなかったのだけど、『損傷したシステムは~』を補完しあうものと捉えると面白く読めた。(河本英夫やオートポイエーシスに馴染みのない方にとっては、新鮮に感じられるものだと思う。もしくは、意図することを掴みにくいか。)

本書では「哲学を臨床解剖する」として「働き」「個体」「体験」「意識」「身体」が、「臨床の経験を哲学する」として「操作」「ナラティブ」「プロセス」「技」「臨床空間」が章立てられている。

その中で、比較的新鮮に感じた「ナラティブ」の章について記しておきたい。

設計は臨床に似ている?

神経系を巻き込んだ人間の複雑な動作や認知機能の再形成には、解剖的、生理的、神経的要因だけではなく、年齢、性別、性格、職業、社会環境、家族構成と行った多くの変数のネットワークが介在してしまう。そのため、リハビリの臨床における治療の取り組みは自ずと、多数の仮設因子を考慮した上での「調整課題」もしくは「調整プロセス」とならざるをえないのである。調整課題とは、線形関数のような一意的対応で解が出るような問いではなく、多因子、あるいは他システムの連動関係を見極め、効果的なポイントに介入し、調整することで、そのつどの最適解を見出すような実践的、継続的アプローチである。(p.154)

建築士はときどき医者に例えられることがある。施主の思いや悩みを聞き、それに対してこうすれば良くなるというような回答を提出する。というように。

病気には何か明確な原因があり、科学的な因果関係を特定し、それを取り除くことで治療を行う、というのが医療行為の一般的なイメージだと思うけれども、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであると言う。なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方だ。

しかし、目の前の患者の個別的な状況に対応せざるを得ないようなリハビリの臨床のような現場では、EBMの確率が難しく、個別の問題にどう対応するかという課題がある。

ここで、医療のタイプに対応した建築士の3つのタイプを想定してみると、

(A)旧来の医療タイプ:明確な課題を設定し、それに対して分かりやすい解答を与えるような設計を行うタイプ。旧来の建築家像。
(B)EBMタイプ:データを用いて、統計的な判断により設計を行うタイプ。今後AIの進展により盛んになる?
(C)臨床タイプ:できるだけ多様な因子を取り込んだ上で調整的・継続的に設計をすすめるタイプ。このブログで考えてきた建築家像。

という感じだろうか。

明確にどれかに当てはまる人もいるかも知れないけれども、実際は状況に応じてこれらを組み合わせながら設計を行っているのが一般的かもしれない。
その中で、(C)のようなタイプの設計は臨床に似ている、と言えるように思うし、ここではその可能性を考えてきた。

それに関連して、『第7章「ナラティブ」-物語は経験をどう変容させるか?』について書いてみたい。

ここでは、物語を河本英夫が書いているような複合システムのサイクル(ハイパーサイクル)の間で駆動する媒介変数のように捉えているように思うが、2つの方向での遂行的物語について語られているようだ。

語りかけとしての遂行的物語

ここでの物語はその意味でも、単に教訓や寓話として読み聞かされるようなものではなく、経験と行為を再組織化するきっかけとしての「遂行的物語」とでも呼ぶべきものとなる。医療従事者として、「患者の経験に寄り添うこと」、「患者の経験を動かすこと」、「患者の経験に巻き込まれること」といった全てが、物語を媒介しつつ、治療プロセスに非線形的に関与する。そこには、表出される言動の背後で作動している、「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」といった多くの非意識的な変数が関連している。(p.160)

例えば、外科手術の前に、術後の痛みの状況や対応などについてのメッセージを伝えた人と、伝えなかった人とでは、前者のほうが術後に使用する鎮痛剤の量が半分に減ったそうだ。

これはいわゆるプラシーボ効果のようなものだと思うが、そこでは「生体システム」に加えて「心的システム」や「社会システム」といった複数のシステムが先のメッセージの物語をきっかけとして何らかのカップリングが起きたと想定される。

例えば、施主に満足してもらうことを一つのゴールだとした場合、施主の希望を叶えるために分かりやすい解答を与えるというのは、一つの方法であると思う。しかし、実際には、そういった対応をしたにも関わらず、最終的に満足してもらえない、ということもありうるのがこの仕事(どんな仕事も)の難しいところかもしれない。

引用分のようなコミュニケーションにおける「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」だけでなく、他の些細な希望の見逃しや誤解・説明不足、職人さんの挨拶や、現場の整理整頓・養生の方法、さまざまなことが一つの物語となって積み重なっていく。その結果、全く同じ建築をつくったとしても、喜んでもらえることもあれば、不満を与えてしまうといった両極端な状況のどちらもが起こりうる

なので、全てのことを完ぺきにこなすことは簡単ではないけれども、現場の方には、とにかく最後は施主の方を見て仕事をして欲しい、とお願いしている。

その時、その現場の空気をつくる物語(それは与えるだけではなく、ともに作り上げていくものとしての物語)がある、ということを強く意識してその物語を組立てていくというのは大切なことかもしれない。

自己語りとしての遂行的物語

システムの連動を貫くように体験される物語が、遂行的物語である。それは、当人が意識的、意図的であることとは関係なく、併存する複数のシステムへと新しい変数を提供し、間接影響を与えることが条件となる。それは同時に、その意味的文脈とは独立に当人の体験世界の変化につながるものである必要がある。病の経験を、遂行的物語として実行することは、それを体験するものが、みずからを別様な経験へと開いていくきっかけを手にすることを意味する。ナラティブ・アプローチにおける語りとその物語は、患者が語ることを他者が傾聴し、新たな物語として語り直すというプロセスを何度も潜り抜けさせる中で、当人の経験に新しい変数を出現させ、体験世界の再組織化へと届かせようとするものである。(p.163)

本書においての遂行的物語としては、こちらのナラティブ・アプローチが本筋かもしれない。

住宅系のイベントなどで、「私たちとともに 新しい生活のカタチを みつけませんか」というキャッチコピーを使うことがある。

例えば家を建てるとしても、ただ家を建てるという経験だけが残るのではなく、施主自身の新しい体験の扉が開いていくことへとつながるような仕事がしたいと思っている。
家を建てたという実感だけではなく、日々の気持ちの持ちようや張り合い、家族や社会との関係性や自然の感じ方など、さまざまなことが新しく感じられるようなものをつくることに、この仕事の意味があるように思う。

そのためには、こちらが語り、与えるだけではなく、施主自身が関わることによって、その語りや物語が変わってくるようなあり方を考え整えていくことが大切なのではないだろうか。

そういった2つの物語に対する想像力を日々保ち続けないといけないな。