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世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




千年の家 地鎮祭


千年の家の地鎮祭を執り行いました。

最初にお問い合わせを頂いてから、土地探しからじっくり検討しながら、2年以上、ようやく地鎮祭にまでこぎつけることができました。

これからの進行が楽しみです。




色彩の世界へ踏み出そう B226『色彩の手帳 建築・都市の色を考える100のヒント』(加藤 幸枝)

加藤 幸枝 (著)
学芸出版社 (2019/9/15)

『色彩の手帳』は「色が苦手」「色は難しい」「色は結局好き嫌いだから」「自分には色選びのセンスがない」と一度でも感じたり、考えたことのある”全ての”人のために制作したものです。(p.1)

この本の基になった『色彩の手帳・50のヒント』が3年ほど前にtwitterのTLで評判が良くて、ずっと気になってたのだけど、遅ればせながらバージョンアップ?した本書を購入しました。

内容が具体的で納得する部分が多かったので紹介的な文章になってしまいますが、簡単に感想を書いておきたいと思います。

多くの人に手にとってもらいたい一冊

色に関する本は数冊持っているのですが、建築の分野でここまで実用的な本は自分の知っている中では初めてで、かなりおすすめの一冊です。

間違いなく多くの人に手にとってもらいたい一冊なのですが、

仕事をともにする方々の「何を根拠に色を選べば・決めれば良いのか」というあまりにも多くの問いに対し、自身が何か決めて終わりではなく「色選びの手がかり」や「色の選び方のヒント」をお伝えし、その成果や効果を共有する方が、もしかすると「色彩計画家」としての機能はもっと広く、そして永く活かされるのではないかと考えるようになったのです(p.1)

というように、多くの人が色に対してどう向き合ってよいか分からない(故に、無根拠に個人的な思いつきで色が決められていく)という現実がこの本が書かれることになった背景にあるようです。
そのことを考えると、個人や公共を問わず発注者となる立場の方、もしくはまちづくり等に関わる方に、より多く読んでもらいたいと思いました。
色に対する向き合い方をまずは知ることで、変えられることがたくさんあるように思います。

色彩を計画する

内容も色彩に関する基本的な理論から、具体的な事例や色彩計画へのアプローチの方法、著者自信の色彩または建築や都市に対する考え方と経験を基にした思想的な部分、その思考プロセスなど、およそ建築の色彩に興味を持った人が知りたいと思うようなことがすべて、と思えるくらいばっちり描かれています。
最初に目次に目を通すだけで早く読み進めたいとワクワクしましたし、著者自身が、色彩に関して誠実に、そして秩序立てて考えているのが伺えました。

世の中、何もかもが秩序を保つ必要はありませんが、こと色においては、何らかのルールに基づくものは心地よく感じやすい、という性質があることに、私自身は信頼を置いています。
この秩序はある程度までは理詰めで導き出すことが出来ますから、色彩的な調和の感じられる配色を考えるのにセンス云々ということはあまり関係ないのでは、と思っています。(90 集めた色を並び替える p.207)

色彩計画の流れとは、色を選ぶ・決めるためのシステム設計だと考えています。(94 色彩計画の流れ p.217)

本書のヒントから、あるいはいくつかのヒントを組み合わせてぜひ「色彩を計画」してみて下さい。(100 色彩を計画する p.229)

これらの言葉には「色彩を計画」することに対する信頼が感じられますし、「色彩計画の流れとは~」の一文は「建築計画の流れとは~」と置き換えてイメージすると、その信頼の強さとより良く選びたいという誠実さが伝わります。
(この辺になんとなく建築家に似たような性分を感じますが、本文に時々出てくる、おそらく抽象化を計りたいのであろう建築家の一言vs著者の一言も、どちらも分かるだけに興味深いです。)

色彩の世界へ踏み出そう

自分自身、今まで無難な色使いをすることが多かったですが、もっと色を使えるようになりたい、感覚的にも使えるようになりたいし、なおかつ根拠を持って使えるようになりたい、という気持ちはだんだんと大きくなりつつあります。

なので、まずはこの本と色見本帳を片手にもっと色彩の世界へ踏み込んでいければと思います。

その際、ごく当たり前のことかもしれませんが、

最終的には個々の色を選ぶというよりも「それぞれの色(・素材)が組み合わさった時に生み出される全体の印象や効果」を選択する、ということを意識しています。(99 単色での判断ではなく、比較して関係性を見る p.227)

という部分のイメージ、どのようなものを目指すのかをより確かなものにしていくことが重要なんだろうなと思います。




学習と教育について

引き続き『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』の続き。

学習について

先日、協力案件の現調で木曽まで行ってきた際、帰りに大阪時代に大変お世話になった方に会いに行った。その後、その方の息子で当時家庭教師で数学を教えていた人と飲みに行った。

彼は今、塾を経営していて、自ら数学も教えているのだが、当時の話や今、彼がやっていることなどを聞いてまさしくこの本で学習について書かれていることと重なったので書いておきたい。

その彼については以前、ここでも取り上げたことがある。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B149 『大久保進一朗の 数学II・B計算トレーニング (数学が面白いほどわかるシリーズ)』

その彼ですが、家庭教師のバイトをたくさんした中で、唯一『こいつはもう大丈夫』と思った生徒でした。
決して成績が劇的にあがったわけでもないし、実際大学受験ではそうとう苦労をしたみたいだけど、それでも「大丈夫」と思ったのは間違いなかったと思います。

教えてその部分が分かるようになる生徒はたくさんいたのですが、「こいつは自分がいなくても受験勉強を自分で進められるし、問題を解く肝を自分で見つけていける」という確実な手ごたえがあったのは多分彼だけだったと思います。
また、彼は家庭教師を自分から親に頼んでつけてもらい、家庭教師代の(たしか)半分を自分で払っていた唯一の生徒でもありました。

「問題を解く肝」なんてものは問題の回答や解説の中にころころ転がっているのですが、たぶん受身の勉強では言われるまでそこに気づきません。 今の彼を見てこういうことを言っていいのか分かりませんが、彼にもともとあふれる数学の才能があったというわけではないと思います。ただ、彼の能動的な姿勢がそういう肝をみつける目を育てたのだと思いますし、その後のすばらしい出会いを生み、自らの道を切り開いていってるのだと思います。

それに、その時の僕の手ごたえは、僕の中である種の確信になっていますし、今後子供を育てていく上での一つの助けにもなってくれると思います。

高校時代から大学以降の家庭教師等でいろいろな人に勉強を教えるということはそれなりにやったが、自分でやっていけるようになる、というプロセスを横から見る経験はこの時が始めてだったように思う。まさに教えるという経験と並行して、自分でやっていける能力が形成されていくのを実感として感じていたのだけど、彼も同じくその経験を強く感じ取っていたらしい。

彼の経営する塾は「自信塾」というのだけど、少し熱苦しいくらい熱い彼らしい名前だと思う。
なぜ”自信塾”なのか、というのが塾のHPに書いてあった。
自信塾:なぜ“自信”塾なのか

さて、ここでこの本で学習能力について書かれた部分を引用してみる。

自己組織化には相転移(全体的局面変化)が起きる分岐点があり、分岐点の近くまでどのように誘導するか、その分岐点でどの方向に誘導するようなエクササイズが有効かを問うのが、学習理論である。この場合、学習とは能力の形成であって、知識の増大や観点や視点の獲得ではない。知識の増大は学習の部分的成果である。だが能力の形成は、学習には含まれているが、知育とは異なる回路で成立していると予想される。(p.116)

学生時代に私と彼が経験したのが自己組織化、相転移、能力の形成のプロセスだったように思うし、教育者のなすべきことはこの自己組織化を後押しすることであって、知識の増大そのものではない。

それが、塾の方針にも表れている。
なぜ“自信”塾なのか

私は、若者にこの「自信」を手に入れて欲しいのです。 この受験勉強で得てほしいことなのです。

大学に合格することは決して簡単なことではありません。それは、偏差値の高い大学に入ることが難しいと言っているわけではありません。(もっと言えば、偏差値の高い大学に入ることだけが尊いとも思いません。こんなことを塾の先生が口にすると「なんてことを言うんだ」と叱られそうですが、もう学歴がモノをいう時代ではありません。偏差値の問題ではなく、自らが望む大学を目指すこと、その大学に入学することが最も尊いのです。)

自らが設定した目標に向かって歩くことはけして簡単なことではないということです。人生の目標に向かって努力することは、極めて単純なことではありますがけして簡単なことではありません。

このことは経験してしまえば当たり前のことだけど、塾を経営する立場でこう言える人はもしかしたらそんなに多くはないのかもしれません。

教育について

本人にとって全く意図せず、予想もしないことでも、親や教員の手助けがあればできるものである。そしてこの手助けがなければ、もう二度とやろうとしないという事態も起こりうる。最近接領域で親や教員の助けを得てできるようになったことは、その後一人でもできるようになる、というのが暗黙の大前提である。本人が志向し実行可能な自分自身の予期をもち、ひととき親や教員の助けを得ながら形成される能力の領域というのが、最近接領域という語で意図された内容だろうと思われる。(p.117)

これは、ヴィゴツキーの能力形成論の最近接領域について書かれた部分だが、同じ親や教員の助けを借りる場面でもその後の能力形成に違いがでると言うことである。

これは頭では分かってもなかなかできないことでもある。自分の子どもにも”自分でやっていけるようになる”という経験をさせたい、と思ってあれこれ手を焼いても、つい直接的で指示的な物言いになってしまい、その時はやってもそれ以降の能力形成にはつながらない。我が子は特に難しく感じるのは自分だけだろうか。(ちなみに、小6の時に教育のプロに任せれば、と思い塾に通わせてみたけれども、自律的な力が身についたようには見えないので、塾の先生といえどもこれができる人は限られるのだろう。)

そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。(p.137-138)(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B225 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』)

リハビリの場面での上記引用のような関わりと同様、先生に限らず親の立場でも教育の場面を考えた時には、このように、到達目標を一旦括弧入れし、異なる回路で「目標」がおのずと達成されるように関わることが大事なのだと思う。

その意味で、知識の獲得ではなく、”自分でやっていけるようになる”こと事態が目標だとした場合であっても、自信がつくところまで時には厳しく徹底的に勉強(知識の獲得)をやらせるのも理にかなっているのかもしれない。その結果、できるようになる、という体験を生徒自らが経験することで自身をつけ”自分でやっていけるようになる”のであれば。

能力の形成に2つ場面を想像すると、これは逆上がり習得型に近いかもしれない。

・逆上がり習得型

鉄棒の逆上がりの練習に典型的なように、小さな試行錯誤を繰り返している場合でも、ひとたび一つながりの動作が形成されれば、それらの試行錯誤はまるでなかったかのように、一まとまりの動作の中に組み込まれて組織化されてしまう(p.239)

・別回路指示型

例えばスキーのジャンプを行うとき、重心が後ろに残って飛距離が出ないことがある。コーチは観察しているのだから、踏切のタイミングが少し遅く、重心が後ろに残っている事実はただちにわかる。そこで重心を少し前に出すようにと指示したとする。ところが行為者は、時速90キロもの速度で踏み切るのだから、「重心を少し前に出す」という指示が、どうすることか分からないのである。観察で理解できていることが、どうすることなのかの指示になっていない。そこで行為者本人にとって、プロセスのさなかで選択肢のある動作についての指示が必要になる。かつて名ジャンパーだった八木宏和コーチは、踏み切る瞬間に見ている視線の位置を10センチ先を見るようにと言う指示を出している。ジャンパーは、踏み切る瞬間に自分の着地する位置、すなわち100メートルほど先を見ているはずだが、その視線の位置を10センチ前に出すようにというのである。これによって踏み切るタイミングが少し早くなる。観察者は、一般の動作のさなかでの選択を指示していない。ところが身体行為者は、そのつどプロセスのさなかでの選択をつうじて、行為を形成していく以外にないのである。(中略)介入者に形成しようとする能力を直接支持するのではなく、別のより簡便な課題を実行させながら、能力形成を同時進行課題とするのである。(p.139-140)

ただ、親の場合は距離が近すぎて、やらせる、という方法は本人の反発(煩わしく感じる)と甘え(親がやらせてくれる・最後は守ってくれるという安心感に基づく誤解)を同時に引き起こすので難しいことが多いと思う。まずは、ああしなさい、こうしなさい、という指示的な言葉はいったん飲み込んで(括弧入れして)、他の言い方・他のやり方を工夫するべきなんだろう。(ただ、これは別回路指示型に近いが、少し高度すぎるかもしれない・・・。これに関しては『池上さんのことば辞典』が良書。)

でもまー、もしかしたら親のできることなんて限られていて、自分の背中を見せることと、良い出会いがあることを願うことしかできないのかもしれないなー。




なぜオートポイエーシスやアフォーダンスの本を読んだりブログを書いたりするのか。

前回の『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』の続き。

なぜ、そんなに時間をかけて、オートポイエーシスやアフォーダンスの本を読んだりするのか。また、なぜそれをブログに書き残すのか。

それは、まー面白いからに違いないのだけど、それほどの時間を割く価値はあるのか。他にやるべきことがあるのではないか。ちっとは行動に移せよこの野郎。
そんな自問自答はもう飽きるほどやった気がするけど、実際は自問ではなく仮想の他人が発する問い、いわば他問への応答なので適当な言い訳をでっちあげて終わることになる。

しかし、この本を読んで多少はつかめた気がするので書いておきたい。

基礎能力

建築・空間なんて言ってもやっていることは基本的には物を配置することである。何と何をどういう寸法で組み合わせるか。
それを人にとって有意義であろう何かしらにするなんてことは簡単にはできる気がしない。
でも、その建築もしくは図面にどれだけの思考が費やされたか、どんな意志が介在しているか、その密度や深さは容易に伝わると思うし、実際にすぐ分かる。
では、その密度や深度をどうやったら増すことができるだろうか。そんなことを考えてる時に出会ったのが例えばオートポイエーシスでありアフォーダンスだった。

それを学び、触れるうちに、視点や観点が変えられたというよりは、もっと体験的な感触、自分のイメージ能力が拡張されたような確かな手応えがあった。

例えば、スポーツで繰り返し練習したり試行錯誤しているうちに何かを掴めたような瞬間がくることがある。それが試合のある場面で無意識に身体が動いて創発的な対応が生まれるというようなことへとつながる。そこでは何かしらの能力が獲得されている。そういう感じの手応えがあった。

実務における設計行為はスポーツの試合みたいなもんじゃないだろうか。その都度その都度「ここは哲学的に考えると・・・」などといちいち考えられるわけではない。与えられた条件やその時々の状況に応答しているうちに密度が高まっていくが、その一手一手にその人の持っている能力が現れる。その能力を鍛えるための基礎練習として、いろいろな考えに触れ、その感触をブログに書くことで拾い上げるという作業を繰り返してるんだと思う。

河本氏は「本は忘れるために読む」という。これは知識を蓄え配置するような読み方ではなく、感触を拾い上げ自らの経験に組み込むような読み方をせよ、ということだろう。しかし、私は忘れないためにブログに書き残す。それは知識として忘れないように、ということではない。その時に自分の中にみつかった感触と再度出会えるようにするためのフックとして書き残しているのだ(読書で得た知識もそのような感触もまたたく間に忘れていまう)。その感触は後で別の感触と出会い、新たな経験へとつながるかもしれない。いや、実際つながっていく。(ただし、自分の中の感触を書き残しているだけなので、それが他の人に伝わるかどうかは分からない。どちらかというと少し先の自分に伝えるために書いているのでそれで構わないと思っている。)

語ることは、経験の別用の再編であり、それは「知る」というような事態ではなく、遂行的経験であり、行為である。多くの場合には、強烈な断片となった心的印象を脈絡の中に置き、エピソード化し、さらには物語的なつながりを形成させて、記憶されているもののネットワークを再編する。(p.216)

ブログを書く時、ぼんやりとした感触のイメージはあっても、何を書くかというのはほとんど決まってないことが多い。書きながら自分の感触が言葉へとかわり、かたちが徐々に形成されていく。書くというのはそういう作業で、これを経ないと、書くことで初めて分かったということに出会う可能性を捨ててしまうことになる。つまりもったいないから書く、という部分が大きいかもしれない。

今の自分が試合に活かせるだけの能力をどれだけ身につけられてるかは置いといて、そういう地道な作業が最後には効いてくると思うし、そういう一見遠回りな(カップリング的な)システムの作動方式というものに対するイメージをこの本で掴めた気がする。

また、おそらく哲学的又は倫理的な態度はこの基礎能力に埋め込まれるべきなんだろうと思う。そうでなければ発揮する場面がかなり限られてしまう。

遂行的イメージ

上に書いたことに重なる部分もあるが、オートポイエーシスやアフォーダンスを学ぶことの意味は建築に対する姿勢を更新することである。
設計という行為に対する「遂行的イメージ」を書き換えることとと言ってもよい。

自分で見た自分の動作ではなくても、どこか紛れもなく自分の動作をイメージできる。こうしたイメージは、動作と密接に関連しており、次の動作の手がかりとなるものである。こうしたイメージを「遂行的イメージ」と呼んでおく。これは眼前にくっきりと浮かぶ視覚イメージとはずいぶんと異なる。このイメージと直接関連しているのは、動作とともに感じ取っている動作の感触である。(p.13)

私たちはほとんどが近代的な認識イメージで満たされた世界で生活しており、建築に関してもそれを基準とした教育を受けてきた。しかし、それではこぼれ落ちてしまうことや、自らの経験を行き詰まらせてしまうような領域がある。こういうことに関しては今までいろいろと書いてきたのでここでは述べないが、それに対して経験を開いていくような感触をオートポイエーシスやアフォーダンスは与えてくれる。それは、今まで当たり前として行っていた、世界に対する認識のパターンを置き換えるようなことで、それによって設計行為に対する姿勢も大きく変わってくるように思う。今、当たり前と受け取っている世界に対する認識のパターンもこれまでの人類の歴史の中でたまたまそうなった、というだけに過ぎないし、設計という行為に対する「遂行的イメージ」が設計の内容を規定している度合いというのはかなり大きいと思われる。

このとことについて、おいしい知覚(後に出会う建築も追加)としてまとめた際、403architectureの辻さんにtwitterでいろいろ助言を頂いた中に「近代を直接知覚で乗り越える意志は大変共感しました。」という言葉があった。
これを励みに今後も自分をアップデートしていきたいと思う。




実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

河本 英夫 (著)
新曜社 (2014/3/7)

だいぶ前に本屋で見かけてぱらぱらっとめくってみたことがあったが、ページ数も金額もそこそこだったのもあり、その時は「読むべきタイミングが来たら購入しよう」と思い保留にしていた本。

だけど、最近少し読み応えのあるものを読みたくなったので丁度よいタイミングかと思い購入してみた。

認識の知から、実践の知へ

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか? 観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

オートポイエーシスのシステムを実感として掴むには、上記の『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方(山下 和也)』が最適だと思うけれども、そこではオートポイエーシスシステムは観察も予測もコントロールもできない、とあり、それを個別の実践に結びつけるのはなかなか難しい。(正確にはオートポイエーシスとの付き合い方が描かれているが、この時はそこまで理解が及んでいなかった。)

しかし、著者(河本氏)はあくまで実践的な知としてオートポイエーシスを扱うことにこだわりその可能性を探る。その姿勢は他の著書講演でもたびたび語られているものだが、今回はさらに具体的に踏み込みその輪郭を描き出そうとしている。

ここでの、実践的な知へと踏み込むために採用された記述の仕方は、山下氏がブログで本著について指摘するように、オートポイエーシスシステムそのものを描き出すというよりは、そこに関わる人の行為を起点として体験や構造を描き出そうとするようなもので、オートポイエーシスそのものを理解するにはけっこう「わかりにくい」文章になっていると思う。

では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。それはおそらく本書自体がその答えとなっている

オートポイエーシスの第五領域と感触

カップリングは、それぞれ独立の作動を行うものが、相互に決定関係のない媒介変数を提供しあっている作動様式である。ところが現実のシステムの作動では、一方が顕在化し、他方が潜在化するかたちでの作動のほうがよりうまく作動が形成される領域が広範にある。(中略)システムの定式化から見て、構成素の設定が新たなかたちをとるので、このタイプのシステムを「第五領域」と呼んでおくことにしたい。(p.23)

氏はオートポイエーシスシステムを直接制御しようとするのではなく、この複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)の連動の仕組みに触れることで実践へとつなげる。

このとき、仕組みに触れるために耳を傾けているのが、「感触」である。
感触は未だ量化されていないような度合い・強度であり、行為とともにある
また、感触は認知能力の一つ(触覚性感覚)でありながら知ることよりも、むしろ行為に関連する

本書ではこの「感触」に加え「気づき」「踏み出し」を基調として考察が進められるが、その際、関連の深い領域として取り上げられているのが「触覚性感覚」「発達」「記憶」「動作」「能力の形成」の5つである。(それらは、それぞれ一つの章を与えられている。最初は順次論が進んでいくものと思い込んでいたけれども、それぞれ独自の領域として並列に描かれているようだ。)

ここでイメージされるのは、次のようなサイクルである。

まずある場面で、何らかの行為を選択し「踏み出す」。ここで経験が起動するが、その踏み出しは経験の可動域を拡げるようなもの、また行為持続可能性の予期を感じさせるものが候補となる。
「踏み出す」ことによって、行為とともに何らかの「感触」が起こる。これは「踏み出す」ことによって初めて得られるものである。
この「感触」は連動する顕在システムや潜在システムとの媒介変数となり、複合システムの中を揺れ動く。そしてその中で次の行為の起動を調整するような「気づき」を得る
その「気づき」は次の「踏み出し」の選択のための手がかりとなる

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける

このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。

臨床の実践と括弧入れ

それでは、臨床の現場では、どのような介入の仕方が可能か。
例えば発達障害などのリハビリ治療の場面では、目指されるのは能力の形成である。
これに関して少し長めになるが凝縮された部分を引用してみる。(ここで第一のプログラムとは、設計図がありそれをもとに家を建てるような目的合理的なもので、対して第二のプログラムは設計図はなく相互の関係性だけで家を建ててしまうようなシステム的・形成運動的なものである。)

 発達障害の治療では、観察者から見て、定常発達から外れた能力や機能の分析が行われる。そしてそうした能力や機能を付け足すように治療的介入が行われるのが一般的である。ただし、中枢神経の障害では、神経系は付け足しプログラムのような生成プロセスを経ることはないので、欠けている能力を付け足すような仕方は、まったく筋違いである。ただし治療である以上、治療目標を持たなければならない。
このような場合、直接能力を形成させようとしてもうまくいかない。この治療の目標の設定は、第一のプログラムに相当する。ところが第一のプログラムに沿うように治療設定したのでは、形成プロセスを誘導することはできない。そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。
 観察から導かれた発達の図式は、システムそのもの、個体そのものの行為を通じて実行されたことではない。それは結果として到達された事態を、時系列に配置したに過ぎない。だがそれは、現実の自己形成に疎遠な外的図式として、括弧入れされ、別の回路で形成されるべき「目安」として必要とされるのである。発達の図式は、観察者から見たとき、図式で示され、配置されてしまう否応のなさとして、治療設定の手がかりになるのである。実際に、治療目標が第一のプログラムに従って設定された場合でも、個々の能力形成のプロセスは、一つ一つ本人の行為的な選択肢が獲得される曲面をつなぐようにしてしかなされようがない。(p.137-138)

こうした括弧入れを本書では「システム的還元」と呼んでいるが、実際の世界では認識的な第一のプログラムがベースとなっていることがほとんどのため、形成プロセスのようなものを有効に作動させようと思えば、この「括弧入れ」が重要なスキルになってくるように思う。

では、「形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てる」とはどういうことだろう。先の感触の話とはどうつながるだろうか。

対象の形成プロセスに直接介入することはできない。とすると、できるのは、リハビリ治療に関わる複合システムの中の一つのシステムとして、「感触」「気づき」「踏み出し」を駆使しながら継続的に自らサイクルを廻し続けることだろう。うまく行けば、その結果として「目標」がおのずと達成される

その介入イメージを描くとすれば下図のような感じだろうか。

そうなると、本書のタイトルは『損傷したシステムをいかに創発・再生させるか』でも良さそうに思うが、創発・再生するのはやはりそのシステム自らである、ということなのだろう。

感触を受け取る

他に興味深いポイントは無数にあったのだが、この本を読むという行為を通じて自分の中で何か掴めそうだ、という感触を得たものをまとめるとこんな感じだと思う。

さて、「では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。」
おそらく、同じ内容をシステム的に記述することは可能だと思うしもっとクリアでシャープに描くことは可能だったように思う。しかし、それでは切り捨てられてしまう何かの感触があるような気がする。つまり、著者はこの本を読むという行為を通じて、経験に付随する理解し得ないような感触のようなものを受け取ってもらいたかったのではないだろうか
実際のところ、上にまとめたものよりも、他の無数の興味深いポイントの方から、理解しきれていないけれども自らの経験につながりそうな感触をたくさん得ている気がする、

要約してしまいたいという誘惑は、一般的にこれらが経験としては受け取ることはできず、意味としてしか取れないことに由来している。だがこれらを意味として理解したのでは、いっさいの経験の動きを追跡することなく、外から配置するだけになる。(p.386)

散文的に描けば、なにか別のことを描いてしまい、論理的に語ったのでは傍らを通り過ぎてしまうような経験がある。このときそれじたいで詩的であることは、言語の生にとって一種の運命である。(p.392)

人間の場合、論理的に一般化したり、特殊化したりするが、いずれもことがらの固有性からはずれてしまう。(p.393)

システム的な経験は、どのような哲学的な配置やシステムの機構での説明があたえられたとしても、まさにそれを括弧入れすることによって、一歩踏み出すことが必要となる。(中略)このとき哲学の図式やシステムの機構にしたがって、それに合わせて踏み出しが行われるのではない。そのときあらかじめ目標とされたことがあるにしても、それが結果として到達されるように踏み出すのである。だがそのときまさに結果として目標が達成されるだけではない。目標に到達するとはどのようなことなのかの理解をも手にしている。その理解は、目標に到達するには多くの回路があること。そのことはプロセスの継続の予期を含んで、行為的な選択を通じて実行されること。まさにそのことによって到達された目標は、つねに次のステップとなることである(p.395-396)

本書から得た感触はできることなら自分のサイクルの中に取りれて、新たな局面へと踏み出したいところだが、それを描こうとすればまだまだ長くなりそうなので、別に改めて取り組んでみたいと思う。

今、書こうと思っているのは、

・なぜ、このような本を読み、ブログを書くのか。
・学習と教育について。

そして、

実際の設計の場面で、どのような感触と選択の可能性が存在するか自らの経験の可動域を拡げていくにはどうすれば良いか。本書を参考にしながら、自分の経験をもとに描き出すとどうなるか。

である。どんな内容になるか全く想像できていないし、どれくらい時間がかかるかも分からないけれどもやって見る価値はあると思う。